北極クラブは五月女次男、スチュアートヘンリ、村山雅美、植村直己、西堀栄三郎さん等、当時北極で活躍された方々により、1980年に設立、同年1月30日に会報「アークトス」が創刊となった。その創刊号によると、「北極に興味を持ち、北極を愛する人々が一堂に会し、お互いの体験を語り、知識を交換する」という基本的な考え方でスタートした。「アークトス」創刊号発刊当時の北極クラブの概要は以下のようであった。
会報アークトスの発行
当面年2回発行の予定。 内容は出来るだけ平易な表現で且つ興味のあるテーマを選んでいく。
集会(例会)
年に4回は開催する。それぞれの会はテーマを設け、講演または映画などの上映を行う。北極に行った方々には最新の報告をしていただく。講演者は会員の中から選んでいく。講演会は海外から北極に関係した科学者、探検家、 政府機関の方々の来日が多くなっていることもあり、それらの方々との國際交流も深めていきたい。また、当面、財政的援助はできないが、北極調査、遠征隊への後援を目指して、情報資料の提供なども行う。将来は北極クラブが主催する調査隊、遠征隊を派遣することも考えたい。ほかに、将来計画として北極アトラスの発刊を実現したい。北極に関する各分野の専門家がクラブにおられるので、それぞれが分担執筆し、クラブが編集することにしたい。
『北極クラブ』設立によせて
ここで、初代会長の村山雅美氏が創刊号に投稿された『北極クラブ』設立によせて、をお読みいただきたい。
『北極クラブ』設立によせて
村山雅美
南極の氷になじんで来た私は、同じ極地ながらその容相が一変する北極を垣間見てその魅力にとりつかれてしまった。それもそうだろう。世界の三大洋にとりかこまれた氷の大陸は酷寒の中に孤高を誇っているが、生きものが存在しない氷の大陸は味気のないものだ。有史人類が発見した地球上唯一の陸地とあれば、その歴史は僅かに前世紀に始まった。鯨とり、あざらしとりを引金として未知に満ち満ちていた南極探検が始り、領土主張ともなった。北極で何世紀もの開くりかえされた人の慾得に基く活動が南極では短期間に展開されたのである。そうして得られた知見から南極はこの四半世紀は科学調査の場としてきれいごとに徹して来た。背に腹はかえられない時世ともなれば、再び南極に経済活動の可能性を探しはじめている。南極は二つ目の曲り角に来ているのだ。
ひるがえって北極はどうだろう。ユーラシア大陸、北アメリカ州、グリーンランド等に屈まれた内海、北極海には人の自が有史以前から注がれた。南極大陸より稍大きい面積をもつ北極海の水深は平均2,000米といわれる。そうならば期せずして南極大陸をおおう氷の平均氷厚に等しい。半年の太陽のない季節は北極海は氷で閉される。しかしその下に尚2,000米に近い海氷が残る。海水である限り、-1.9℃より暖かいはずだ。半年の夏は周辺の陸地は勿論、北極海は太陽熱を、享受する。北極は年間を通じて結構暖かいわけだ。それが北極地方に思いがけない豊かな植生と生態が生れ、訪れる人をたのしませ、興味をそそる由源である。その反面冬の期間に生成した氷は春と共にとけるとはいえ、南極のように拡散されない。陸地にさえぎられて多年氷と化する。そこに南極には見られない激しい氷丘、氷脈が生れる。我々が乱氷と呼ぶ北極の姿だ。
乱氷に苦労した仲間が相つどい、北極を語ろうと乱氷会と名づける会合があった。あざらしの生肉を喰って乱氷帯にあった日をなつかしむのもよいが、ひろい視点から北極に関心をよせる者の交流と知識の交換を図ろうと北極クラブが発足したのである。愉しく叉実りある「アークトス」を機関誌とする北極クラブを、北極の氷のように強く、北極の生態のように豊かなものに育てたいものである。
(国立極地研究所次長)
アークトス 創刊号(1980年1月30日)より
北極クラブは、「アークトス」第1~44号に見られるように、様々な活動を行い、記録に留めてきました。しかし、第44号(2012年3月1日)が発行された後は、しばらく休刊になっていました。そこで、その2年後、スチュアート ヘンリ、渡邉興亜さんらの呼びかけから、新たな体制による「北極クラブ」の再開が提案されました。2014年5月24日の「北極クラブ」再開例会を経て、北極クラブはこれまでの趣旨を基本的には踏襲する形で、北極クラブを再開することになりました。 2014年10月25日には再開北極クラブの第1回例会が開催され、会報「アークトスARKTOS」第45号が発刊されました。