2016年第5回学術大会開催報告 

2016年9月17日、東洋大学白山キャンパス6号館6101教室にて、国際井上円了学会第5回学術大会が開催された。今大会では4名の個人研究発表と、アメリカ合衆国から招聘されたジェイソン・アーナンダ・ジョセフソン氏(ウィリアムズ大学)による特別講演が行われた。

一人目の個人研究発表、甲田烈氏(井上円了研究センター)による「「妖怪」とアナロジー:井上円了と南方熊楠の交錯」では、『哲学道中記』において井上円了が言及していたアナロジー論が後の妖怪学へと発展していくとして、南方熊楠の『燕石考』『神跡考』におけるアナロジー論と関連づけつつ論じている。アナロジーは神話や伝説を生み出す思惟構造と深く関わり、類似やつながりを感知する人間の不可欠な知的能力であるが、「XはYに似ている」という比喩にとどまる限りにおいて有効であって、「XはYである」と単純化された時は単なる誤謬となるのであり、それは「仮怪極まれば真怪に達する」という、誤謬でもあり真理への道でもあるとされる円了の妖怪概念の両義性と重なっている。

二人目の発表者、長谷川拓哉氏(親鸞仏教センター)による「井上円了の仏教改良について―その思想史的背景の考察―」は、円了の仏教改良の試みを、その背景にある欧米の思想的・宗教的思潮とその日本への移入に注目して、「近代化」というグローバルな過程において捉え直している。明治期初頭の西欧的学問の輸入は、英国のXクラブに代表されるような「科学的自然主義」を基調とし、反宗教的傾向が強かった。しかし、当時の西欧には近代科学と矛盾しない宗教として仏教に期待する向きもあり、円了の哲学の師であるフェノロサもその一人であった。円了の仏教観はフェノロサのそれと重なるところが多く、西欧近代が直面していた思想史的課題を踏まえた上で、テーラワーダ仏教ではなく大乗仏教を哲学的に再解釈し、ひとつの形而上学として提示した点に特色がある。

三人目の発表者である佐藤厚氏(専修大学)の「鈴木大拙の井上円了批判」では、鈴木大拙による井上円了『仏教活論』への批判を同時代の円了評価の一つとして紹介し、両者の仏教観(宗教観)の違いについて論じている。大拙による円了批判は西田幾多郎宛書簡において語られており、知・情・意のうちの知に偏った哲学的宗教論を批判するという文脈の中での言及であった。仏教を知的な宗派(聖道門)と情的な宗派(浄土門)に分け、西洋哲学に匹敵するものとして前者を中心に論じた円了に対し、「絶対依存の情」を以て宗教を定義する大拙は、逆に分別知を退ける禅宗や浄土宗を軸としたが、この関係は円了の後輩達の世代の宗教論においては内面的体験が重視されていったという、近代日本仏教全体の流れに位置づけることができる。

四人目の発表者である中島敬介氏(奈良県立大学ユーラシア研究センター)による「井上円了の―奇妙な―ナショナリズム」では、円了の『勅語玄義』の内容を詳細に分析し、それが他の著者達による『勅語』衍義書類のみならず、円了自身が著わした他の勅語解説からも隔絶した、特異な『勅語』論であることを指摘している。『勅語玄義』においては、「絶対的忠孝」という円了独自の概念をテコとして、神勅という天皇制の神秘的根拠をいわば妖怪学における「仮怪」として排し、『勅語』にいうところの「臣民」を従属者でありながら国体を成り立たせる主権者でもある者へと読み換えることで、個の主体的な自覚を要請する「臣民主権主義」と呼ぶべき「奇妙な」ナショナリズムが構想されていたという。

ジェイソン・アーナンダ・ジョセフソン氏による特別講演、「絶対的妖怪―井上円了、仏教哲学の課題、心霊の棲むポストカント思想の境界領域―」では、自身で仏教徒を名乗るほど仏教に親和的な哲学者として知られ、動物磁気や魔術についても積極的に論じていたショーペンハウアーを、西欧哲学による仏教改良を課題とした円了がなぜ用いなかったのか、という問いから始め、カント以後の西欧哲学やスピリチュアリズムの流れと関連づけて円了思想の位置を論じている。円了は仏教の再魔術化につながりかねないショーペンハウアーから距離をおいたが、ヘーゲルの弁証法による進歩を仏教の「転迷開悟」と同一視して、理性が国家の発展を通して自己展開していく過程を論じる点で、ヘーゲル右派の系譜にあるといえる。しかし、円了は最終的に到達すべき「絶対」を、カントのいう「物自体」のような理性の及ばぬ領域に位置するものとして論じ、それは物心の差別を超越する仏教によってこそ到達可能な「真如」=「真怪」であるとすることで仏教を特権化する。カントがキリスト教の神のために残した場所、それゆえにスピリチュアリズムなど再魔術化の温床ともなったその不可知の領域は、円了によって仏教がキリスト教や西欧哲学を乗り越えるために利用されたといえる。

今年度から質疑応答の時間が15分に延長されたが、いずれの発表・講演においても日英両言語により活発な議論が展開され、さらなる学問的発展を期待させる有意義な研究交流が行われた。