名言集
「私は、ユウェナリスのひそみに倣って、悪行の詰まった汚水溝をかき回すようなことは、絶えてしませんでした」(Erasmus著, 沓掛良彦訳『痴愚神礼讃』p.18)
「人がお互い同士、ときには幻想を抱き、ときにはへつらい、ときには賢明な態度で眼をつぶってやり、ときには愚かさという甘い蜜で尖った心をやわらげないかぎり、君主は民衆にとって、下僕は主人にとって、侍女は奥方にとって、生徒は教師にとって、友人は友人にとって、夫は妻にとって、借家人は家主にとって、同僚は同僚にとって、飲み仲間は飲み仲間にとって、長いこと我慢できる存在ではなくなることでしょう」(Erasmus著, 沓掛良彦訳『痴愚神礼讃』p.57)
「あらゆる人に全体として忠告したいと欲する。すなわち、知識の真の目的を考えること、知識を心の楽しみのためとか、争いのためとか、他人を見くだすためとか、利益のためとか、名声のためとか、権力のためとか、その他この種の低いことのためにではなく、人生の福祉と有用のために求めること、それを愛のうちに成しとげ支配することである」
(Bacon, Francis著, 桂寿一訳『ノヴム・オルガヌム』p.32)
「大衆が一致しかつ喝采するとき、人々は何の過ちをし罪を犯したかを、自ら吟味すべきなのだ」
(Bacon, Francis著, 桂寿一訳『ノヴム・オルガヌム』p.125、プルタロコス『プルターク英雄伝』フォーキオーン8から引用(河野訳, 第9巻, p.191)
「学問や技術についての人々の驚嘆は、それ自ら充分に単純で、ほとんど小児的なものなのだが、諸学を取り扱い伝えた人たちの、策と手くだによって増大せしめられた。というのは彼らは、あたかもそれがあらゆる部分で完成し、仕上げられたかのような自負と誇示とをもって、それらを提示し、またそのような仕方で化粧して、人々の眼に曝すからである」
(Bacon, Francis著, 桂寿一訳『ノヴム・オルガヌム』p.140)
「もしかりにわたくしがアレクサンドロスでないなら、ディオゲネスでありたいものだ」
(Bacon, Francis著, 服部英次郎・多田英次訳『学問の進歩』p.92、プルタルコス『アレクサンドロス伝』14の2)
「自由とは、サー・ロバート・フィルマーが、その『統治の諸形態に関するアリストテレスの政治学についての考察』の五五頁で述べているような「各人が、望むことをし、好むままに生き、いかなる法によっても拘束されない自由」などというものではない。統治の下における人間の自由とは、その社会におけるすべての人間に共通で、そこにおいて樹立された立法権力が制定した恒常的な規則に従って生きることであり、その規則が何も定められていない場合には、あらゆることがらにおいて自分自身の意志に従い、恒常性を欠き、不確かで、測り難い他人の恣意的な意志には従属しない自由のことである。それは、生来的な自由が、自然法以外のいかなる拘束の下にも立たないのと同じである」
(Locke, John著, 加藤節訳『統治二論』pp.320-321)
「人類の大多数の人々は、学問を修め、論理学を学び、スコラ学派の詳細な概念の区別を知る余暇を持たない。手が鋤と鍬とに用いられる場合に、頭脳が崇高な観念を理解したり、不可解な推論を行なったりする所まで高められることはめったにない」(Locke, John著, 加藤節訳『キリスト教の合理性』p.360)
「貧しい者たちが福音を自分たちに宣べ伝えてもらったのであれば、その福音は、間違いなく、貧しい者も理解することができるような平明で、わかりやすいものであった」(Locke, John著, 加藤節訳『キリスト教の合理性』p.362)
「われわれが尊敬すべきは、暴力で奴隷をつくる連中ではなく、真理の力でひとびとの心を支配するかたである。世界を壊す連中ではなく、世界をよく知るかたである」
(Voltaire著, 斉藤悦則訳『哲学書簡』pp.102-103)
「読者になすべき事をなにも残さないほど主題を究め尽くすことは必ずしも必要ではない。大事なことは、読んでもらうことではなくて考えてもらうことである」
(Baron de la Brède et de Montesquieu, Charles-Louis de Secondat著, 野田良之他訳『法の精神』(上), p.341)
「エコノミー ECONOMIE または OECONOMIE という言葉は、オイコス οἶκος ――家と、ノモス νόμος ―― 法から来たもので、元来は家族全體の共同利益のためにする・賢明にして、法にかなった家政を意味するものでしかない。この言葉の意味は、そののち國家という大家族の管理にまで、擴張されることとなった。これらの二つの語義を區別するために、後者の場合を一般經済または政治経済 economie gererale ou politique と呼び、他の場合を家庭經済または私經済 economie domestique ou particuliere と呼ぶ」
(Rousseau, Jean-Jacques著, 河野健二訳『政治経済論』, p.7)
「主として賢明な人びとおよび有徳な人びとといっしょになっている人は、かれ自身は賢明にあるいは有徳にならないかもしれないにしても、すくなくとも英知と徳にたいしては、一定の尊敬をいだかないではいられない。そして、主として放蕩な人びとおよびだらしのない人びとと、いっしょになっている人は、かれ自身が放蕩になったりだらしがなくなったりすることはないかもしれないにしても、まもなく、すくなくとも、放蕩と生活態度のだらしなさにたいして、かれが本来もっていたすべての忌避を失うにちがいない」
(Smith, Adam著, 水田洋訳『道徳感情論』(下), p.123)
「社会の錯綜した利害を研究するにあたっては、著者の才気煥発のためにかえって、状況の多様性に注意を払うことができなくなることがよくあり、そのために彼の推論から引き出すことができるあらゆる結論をほとんど不確かなものにしてしまう。そしてこれがもとになって、フランス人のいう体系なるものに陥る習癖が生ずるのである。こうした体系は、おそらくは深く考えずに採用したわずかばかりの基本原則から引き出された、不確かな結論の連鎖にすぎない。このような体系は単なる独断である。それは人知を惑わし、真理への道を見失わせる」(Steuart, James著, 小林昇監訳・竹本洋他訳『経済の原理 ―第1・第2編』p.xii)
「彼らの心のなかには、協調とか善意などという感情は存在しないのだから、共に了解に到達しようとするどころか、一般的な命題について、それぞれの理由で憎悪している者たちと意見を異にする場合を見つけては、悦に入っているのである」(Steuart, James著, 小林昇監訳・竹本洋他訳『経済の原理 ―第1・第2編』p.xv)
「すでに述べたように、私は自分の著作を私よりすぐれた力量を持った人が腕をふるうために供する画布にすぎないと考えている」(Steuart, James著, 小林昇監訳・竹本洋他訳『経済の原理 ―第1・第2編』p.xvi)
「雄大ではあっても、不可能や矛盾をかかえているような計画の遂行を為政者に期待することを教えられた国民は、どんな優れた国王の治世下にあっても不満を抱き続けるであろう」(Steuart, James著, 小林昇監訳・竹本洋他訳『経済の原理 ―第1・第2編』p.xvii)
「為政者(これは立法府と最高権力とを意味する一般的な用語であって、政治形態のいかんによってさまざまに呼ばれる)は、意のままに経済を樹立する主人でもなければ、また、その最高権力の講師にあたってすでに制定された経済の準則を思いのままにくつがえすような主人でもない。彼がこの世で最も専制的な君主であるにしてもである」(Steuart, James著, 小林昇監訳・竹本洋他訳『経済の原理 ―第1・第2編』p.3)
「私が理解している経済というものの適切な意味を伝えるために、私は、その技術が目的としているものを指摘して、この用語を説明しておいた。それは、社会の全員に食物を、その他の必需品を、そして仕事を用意することである」(Steuart, James著, 小林昇監訳・竹本洋他訳『経済の原理 ―第1・第2編』p.15)
「このパンフレットの筆者がだれであるかは、読者には知る必要が全くない。注目すべきは主張そのものであって、筆者ではないからだ。だが筆者がどんな党派とも関係がないこと、また理性や主義以外には公私を問わず、どんな勢力にも支配されていないということを言っておくのは、あながち不必要ではないであろう」
(Paine, Thomas著, 小松春雄訳『コモン・センス』p.15)
「自分は支配するために、他の者は支配されるために生まれたと考える者はまもなく高慢になる。また選ばれて他の者と区別されているので、その精神は早くからうぬぼれに毒されている。またその行動する世界は一般社会とはまるで違っているので、世間が本当になにを求めているかを知る機会はほとんどない。したがって統治の座につくときには、全領土内でしばしば最も無知で不適当な人間になっている」
(Paine, Thomas著, 小松春雄訳『コモン・センス』p.38)
「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもういうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ」
(Kant, Immanuel 著, 中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』p.10)
「第三身分とは何か。全てである。ただし、足枷をはめられ、抑圧された全てである。特権身分が存在しなければ、それは何になるであろうか。全てになる。しかも、自由で生き生きとした全てになる」
(Sieyès, Emmanuel-Joseph著, 稲本洋之助他訳『第三身分とは何か』p.15)
「国民の利益を守るに最適の資質が、節操を売り、偏見を守る側につくのを危惧せずにいられようか。貴族政擁護の急先鋒は、第三身分の内部にあって、生来頭はよいのに気概がなく、権勢者の富、権力や愛顧を得るのに汲々として、自由の価値が分からないような連中の中にいる」
(Sieyès, Emmanuel-Joseph著, 稲本洋之助他訳『第三身分とは何か』p.36)
「一方で、法律は一般意思の表現である、すなわち多数者の意思の表現であるとしながら、他方で、一〇人の意思が一〇〇〇人の意思と釣り合うなどと、どうして主張できようか。このようなことは、少数者による立法を許すという危険を犯すものではないか。それは明らかに事物の本性に反する」
(Sieyès, Emmanuel-Joseph著, 稲本洋之助他訳『第三身分とは何か』p.50)
→フランス人権宣言第6条に反映
「身分に分割された国民と、一つのものである国民との間には、決して共通点はない。これほどまでに異なる素材で、フランスにイギリスと同様の政治機構を、いかにして築こうとするのか」
(Sieyès, Emmanuel-Joseph著, 稲本洋之助他訳『第三身分とは何か』p.88)
「国民は憲法に拘束されていないのみならず、拘束されえず、また拘束されてはならないのである。ということは結局、国民は憲法に拘束されないということである」
(Sieyès, Emmanuel-Joseph著, 稲本洋之助他訳『第三身分とは何か』p.108)
「仮に可能であったとしても、国民は、実定的形式の束縛を受けてはならない。そのようなことになれば、自由を全く失い取り返しがつかなくなるおそれがある。というのも、暴政が一度成立してしまえば、憲法を口実として、人民がもはや自由にその意思を表明し、したがって専制の鎖を振りほどくことができないような形式に人民を縛りつけることになりかねないからである」
(Sieyès, Emmanuel-Joseph著, 稲本洋之助他訳『第三身分とは何か』p.109)
「議会において、こんなことをあえて言う非常識な議員がいるだろうか。「皆さんがここに集まられたのは、われわれ全員に関わることについて討議するためではなく、私個人に関わること、および皆さんのうちの何人かと私が作った小さな仲間に関わるものごとのためであります」と」
(Sieyès, Emmanuel-Joseph著, 稲本洋之助他訳『第三身分とは何か』p.143)
「教師は、自らの主要な任務が、知識を伝えることではないことを覚らなければならない。なぜなら、人間の頭脳に納めることのできる分量よりも多量の印刷された知識を、二、三シリングもあれば買うことができるからである。教師の主要な任務は、性格と才能と活動を教育することであり、そうすることを通じて、思慮深くなかった両親の子供たちでさえも、つぎの世代の思慮深い両親となり得るように訓練される、より良い機会を持つことができるようにすることである」
(Marshall, Alfred著, 永澤越郎訳『経済学原理』第4分冊, p.310)
「私がもっとも深く心に期しておりますことは、またそのためにもっとも大きな努力を払いたいと思っておりますことは、すぐれた人々の母でありますケンブリッジで学ぶ人々の間から、ますます多くの人々が、私たちの周りの社会的な苦難を打開するために、私たちの持ちます最良の力の少なくとも一部を喜んで提供し、さらにまた、洗練された高貴な生活に必要な物的手段をすべての人が利用できるようにすることがどこまで可能であるかを見出すために、私たちに出来ますことをなし終えるまでは安んずることをしないと決意して、冷静な頭脳をもって、しかし暖かい心情をもって、学窓を出て行きますように、私の才能は貧しく、力も限られてはおりますが、私にできるかぎりのことをしたいという願いに外なりません」
(Marshall, Alfred著, 永澤越郎訳『マーシャル 経済論文集』p.31)
"I may be quite wrong, maybe they do know all these things, but I don't think I'm wrong. You see, I have the advantage of having found out how hard it is to get to really know something, how careful you have to be about checking the experiments, how easy it is to make mistakes and fool yourself. I know what it means to know something, and therefore I see how they get their information and I can't believe that they know it, they haven't done the work necessary, haven't done the checks necessary, haven't done the care necessary. I have a great suspicion that they don't know, that this stuff is [wrong] and they're intimidating people. I think so. I don't know the world very well but that's what I think."
(Feynman, Richard P., 1999, The Pleasure of Finding Things Out――The Best Short Works of Richard P. Feynman, Edited by Jeffrey Robbins, Helix Books, pp.22-23)