J.M. ケインズ『雇用、利子及び貨幣の一般理論』の試訳 by K. Sasaki
Keynes, John Maynard, 1936, General Theory of Employment, Interest and Money
‘ ’ ・・・〈〉
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[] ・・・ []
Capital・・・太字
Italic・・・イタリック
〔〕・・・訳者による補足
著者脚注は節の最後に番号を付して並べる。
訳者の注は節の最後に * を付して並べる。
人名は英語で記す。
指示代名詞には極力指し示す語を挿入して訳出する。
関係代名詞等でつながる長い文は、複数の文に分ける。
I, We, Our, Usなどは、日本語の作法にしたがい、多くの場合訳出しない。
Ⅰ
貨幣賃金の変化の効果について以前の章で議論できたのであればよかった。というのも、古典派理論は、貨幣賃金が流動的だと想定することで自動調節的な経済体系の特徴に安住し、それが硬直的であるとき、この硬直性こそが適応障害だと非難するのに慣れてしまっているからである *。
しかし、私たち自身の理論を展開し終えるまでは、この問題について十全に議論することはできない。というのも、貨幣賃金の変化がもたらす結果は込み入っているからである。古典派理論が考えるように、特定の〔経済〕環境においては、貨幣賃金の引き下げが産出を刺激する余地は十分ありうる。この理論と私が異なるのは、私自身の方法を読者によく知っていただくまで明示しがたいが、主として分析の違いである。
一般に受け入れられている表現は単純明快であると私は理解している **。それは、下で議論するような迂回的な反響効果によるものではない。貨幣賃金の引き下げは、ほかの条件が同じならば、最終生産物の価格を引き下げることによって需要を刺激し、そしてしたがって産出と雇用は、労働者が同意した貨幣賃金の引き下げが、産出が増えるにしたがい(装備一定の下で)労働の限界効率が下がることによってちょうど相殺される点まで増える、という議論にほかならない。
最も荒削りな形式〔の議論〕だが、これは貨幣賃金の引き下げが需要に影響を及ぼさないと想定するのと同じくらいまずい。経済学者の中には、総需要は貨幣の所得速度を加味した貨幣量に左右され、貨幣賃金の引き下げが貨幣量またはその所得速度を減じると議論することによって、需要が影響される理由は何もないであろうという〔主張を〕維持する〔人がいる〕かもしれない ***。あるいは、賃金が引き下げられたのであれば、利益は上がるはずだと議論しさえするかもしれない。しかし、賃金の引き下げは一部の働き手の購買力を減らすことをつうじて総需要にいくぶん影響を及ぼすかもしれないが、貨幣所得が減らなかったほかの要素の実質需要は、物価の下落によって刺激されるであろう。そして、労働者たち自身の総需要は、雇用量が増えた結果として増える公算がとても高い。ただし、貨幣賃金の変化に反応する労働の需要弾力性が1を下回らない限りにおいて。したがって、実際上の現実味がまったくない、特定の常ならぬ極端な場合を除いて、新たな均衡においては、そうでなかったときと比べて、より多くの雇用があるだろう。
私が根本的に異なるのは、まさにこの型の分析、あるいは上記の見解の背後に横たわっていそうな分析においてである。というのも、多くの経済学者が話し、書くようなしかたで上記をおおよそ表現していると思うが、その底流をなす分析を細部にわたって記述することはめったになかったからである。
しかし、このように考えると、おそらくは次のようなところに行き着くようにみえる。何らか所与の産業において、表示売値で売れる量に関係した生産物の需要表がある。様々な費用に基礎づけられた、異なる量の販売を求める価格群を結びつける一連の供給表がある。そして、これらの表はさらなる表をもたらす ****。すなわちそれは、(産出の変化の結果を除いた)そのほかの費用が一定であると想定して、異なる賃金水準に対応する雇用量に関係する、産業内での労働需要表を与える。その曲線の形状の任意の点は、労働の需要弾力性を提供する。そうして、この概念は、大幅な修正をしないまま全産業に移し替えられる。そして、同じ論理によって、異なる賃金水準に対応する雇用量に結びつける全産業の労働需要表がある。貨幣賃金表示か実質賃金表示かは、この議論に重要な違いをもたらさないと考えられている *****。貨幣賃金表示で考えるのであれば、もちろん、貨幣価値の変化を調整しなければならない。しかし、貨幣賃金の変化と厳密に同じ比率で物価が変化しないのは確かなので、これは議論の大勢を変えない。
もしこれが議論の土台であるならば(もしそうでなければ何が議論の土台なのかわからないのだが)、それは疑いなく誤りである。というのも、特定の産業の需要表は、そのほかの産業の需要表と供給表の性質と、有効需要の総額に対する、ある固定的な想定にもとづくときにのみ構築しうるからである。したがって、有効需要の総額が固定されるという想定をも移し替えない限り、議論を全産業に移し替えることは正しくない。さらに、この想定は議論を論点のすり替えにしてしまう ******。というのも、有効需要の総額が以前と変わらないという状況下では、貨幣賃金の引き下げが雇用の増加をともなうという命題は否定しようがないが、この問題に対する厳密な問いは、貨幣賃金の引き下げが貨幣で測った有効需要の総額が変わらないこととともにあるかどうか、あるいは貨幣賃金の引き下げに完全に比例しては減らない(つまり、賃金単位で測って若干大きな)有効需要の総額とともにあるのか、ということである。しかし、ある特定の産業で得られた結論を全産業に相似拡張するのを、古典派理論が許さないのであれば、貨幣賃金の引き下げが雇用にどのような影響を及ぼすのかという問いに対する答えをまったく持ち得ないであろう。Pigou教授の『失業の理論』は、古典派から汲み上げうるものを汲み尽くしているように私には思える。結果としてこの本は次のようなことを〔示す〕衝撃的な証拠になる。すなわち、何が〔経済〕全体の雇用量を実際に決めるのかという問いに適用するとき、〔古典派〕理論が提供するものは何もないということである(1)。
脚注
(1)Pigou教授による『失業の理論』と題した本章の補論で、微に入り批判がなされる。
訳注
* fluidを「流動的」、rigidityを「硬直的」と訳出した。これは「粘着的」と訳出したstickyと関連する、賃金と物価の変化のようすを表す語である。
** 間宮版の訳注は、貨幣賃金の引き下げは、それを要素費用とする生産物の価格を引き下げるが、生産物の価格が貨幣賃金より下がらないと需要刺激効果はないが、そのようになれば実質賃金が高止まりすることになるので、産出と雇用が減ってしまうと指摘している。つまり古典派の立論は混乱しているということが述べられている。
*** 間宮版の訳注は、貨幣の所得速度という概念が第15章第Ⅰ節の第1段落で定義されていると指摘している。
**** 間宮版の訳注は、労働需要表は生産物の需要表と供給表の関係からではなく、供給表だけからもたらされるはずであると指摘している。
***** 間宮版の訳注は、第2章第Ⅰ節の「賃金は労働の限界生産物に等しい」という古典派の第1公準を所与とすると、貨幣賃金と実質賃金の相違が議論に違いをもたらさないというのは行き過ぎだと指摘している。
****** 塩野谷版は、論点のすり替え(ignoratio elenchi)とは「結論を導くのに不適切な前提を用いること誤謬」であるとしている。間宮版の訳注は、古典派のありようはむしろ論点先取りの虚偽(assumptio non probata)、あるいは循環論法と評すべきであると指摘している。
Ⅱ
さて、この問いに答えるべく私たちの方法を適用しよう。〔問い〕は2つの要素に分けられる。(1)貨幣賃金の引き下げは、ほかの条件が同じならば、社会全体の雇用を直接増やす傾向にあるだろうか? ここで〈ほかの条件が同じならば〉とは、消費の傾向、資産の限界効率表、利子率が以前と同じであることを意味するが。(2)貨幣賃金の引き下げは、〔消費の傾向、資産の限界効率表、利子率という〕これら3つの要因の確定的なもしくは高い蓋然性の反響効果によって、確定的にあるいは高い蓋然性で雇用に影響を及ぼす傾向にあるだろうか?
第1の問いについては、以前の諸章ですでに否定的な答えを与えたところである。というのも、雇用量は賃金単位で測った有効需要の量と特別なしかたで関係しているからであり、また消費と投資の期待される額の合計である有効需要は、消費の傾向、資産の限界効率表、利子率が変わらないのであれば、変わりようがないからである *。もしこれらの要素に何らの変化もないのに〔一国〕全体の雇用量を増やしてしまうと、企業家の収益は彼らが〔生産する財の〕供給価格を下回らざるを得ないであろう **。
おそらく、この見方にとって最も好ましい仮説にしたがい事の成り行きをたどると、貨幣賃金の引き下げは〈生産費を減らすので〉雇用を増やすということ、すなわち企業家は貨幣賃金の引き下げがこのような効果を持つと当初に期待するということは、こうした十分に練れていない結論に対する反論を促すであろう。確かに、企業家個人は自らの費用が減ることを視野に入れつつも、彼の生産物に対する需要への反響効果を当初から見過ごしており、以前より多くの産出を、利益を確保しつつ売ることができるだろうという想定の下で行動するだろう。そうであれば、もし企業家一般がこの期待にもとづいて行動するとき、彼らは実際、自らの利益を増やすことに成功するだろうか? 社会全体の限界的な消費の傾向が1であり、所得の増分と消費の増分のギャップがまったくないときにだけ、あるいは、利子率に対して資産の限界効率表が引き上げられるときにだけ起ることだが、所得の増分と消費の増分のギャップが投資の増分に等しいときだけ〔企業家は利益を増やすことに成功する〕。したがって、限界的な消費の傾向が1に等しいか貨幣賃金の引き下げが利子率に対する資産の限界効率表を引き上げる効果を持ったということがない限り、産出を増やすことで得られる粗利は企業家を失望させ、雇用も再び元の値に戻ってしまうであろう。というのも、もし、企業家が産出したものを期待された価格で売ることができれば、当期の投資量を超える貯蓄を、所得からすることを公衆に提供する規模で、企業家が雇用するのであれば、企業家は〔貯蓄と投資の〕差と同じだけ損失を蒙るに違いない。そして、これはまったく貨幣賃金の水準によらず正しい。増えた運転資金で彼ら自身が投資することでギャップを埋める間の期間だけ、失望する日を遅らせるだけで精一杯である。
したがって、貨幣賃金の引き下げは、社会全体にとっての消費の傾向、資産の限界効率表、利子率に対する反響効果という美徳によるものを除いて、雇用を長期的に増やす傾向をまったく持たない。これら3要素に生じうる影響をたどることによる場合を除いて、貨幣賃金の引き下げの効果を分析する方法はまったくない。実際、これらの要因に対する重要な反響効果は次のようなものであろう。:
(1)貨幣賃金を引き下げると物価もある程度下がる。したがって、それは実質所得を〔次のように〕ある程度再分配する。(a)賃金稼得者からそれへの報酬が減らされない限界主要費用のほかの要素へ、そして(b)企業家から貨幣表示で固定されたある程度の所得が保証されている金利生活者へ。
この再分配は、社会全体の消費の傾向にどのような影響を及ぼすことになるだろうか? 賃金稼得者からほかの要素への移転は、消費の傾向を引き下げそうである。企業家から金利生活者への移転の効果は、より多くの疑問の余地がある。しかし、金利生活者が社会の富裕層全体を表すのであれば、そして彼らの生活水準が最も柔軟でないのであれば、そのときこの影響も好ましくないであろう。正味の結果は比較考量しだいであるから、〔その結果がどうなるかは〕当て推量に頼るのみである。
(2)もし非閉鎖体系を取り扱い、貨幣賃金の引き下げが海外に対する貨幣賃金の引き下げであるならば、貿易収支を増やす傾向にあるから、両者〔国内外の貨幣賃金〕を共通の単位に落とし込んだとき、その変化は投資に好ましい〔影響を〕及ぼすであろうことは明らかである。もちろんこれは、優位性が関税や貿易割当などによって相殺されないと想定しているが。大英帝国において、雇用を増やす手段として貨幣賃金を引き下げることの効能に対する伝統的な信仰が米国に比べて強いのは、〔米国の経済システム〕がわが国より閉鎖的であることによる。
(3)非閉鎖体系の場合、貨幣賃金の引き下げは貿易収支を好転させるが、公益条件が悪化する可能性が高い。したがって、新たに雇用が生まれ、〔新たに雇用された働き手たちが〕消費の傾向を高める方向に作用すると思われる場合を除いて、実質所得を減らす。
(4)もし貨幣賃金の引き下げが未来の貨幣賃金を超える引き下げであると期待されるならば、この変化は投資にとって好ましいものになるだろう。なぜなら、上でみたように、それは資産の限界効率を引き上げるからである。他方、同じ理由で消費にとっても好ましいかもしれない。また他方、もし引き下げがさらなる賃金引き下げの見込みを引き起こすと期待される、あるいは非常に高い可能性としてさえ〔ありうる〕のであれば、厳密に反対の効果を持つであろう。というのも、それは資産の限界効率を押し下げ、消費と投資をともに控えさせる結果を導きそうだからである。
(5)ある種の物価と貨幣所得一般を引き下げることによって賃金支払額を減らすことは、所得と営業に必要とされる現金の必要を減らすであろう。そしてしたがって、社会全体の流動性選好表をある程度まで引き下げるであろう。ほかの条件が同じならば、利子率を引き下げるであろうから、投資にとって好ましいことが確かめられる。しかし、この場合、未来にまつわる期待の効果は、直前の(4)で考えられたことと反対の傾向にあるだろう。というのも、賃金と物価が後に再び上がると期待されると、短期ローンに比べて長期ローンの場合に、好ましい反応ははるかに顕著でないだろう ***。しかも、もし 賃金の引き下げが民間の不満を引き起こして政治的威信を損ねると、これが引き起こす流動性選好の高まりは、活動的な流通から解き放たれた現金を相殺して余りあるかもしれない。
(6)個別に貨幣賃金を引き下げるのは〔それを実施した〕企業や産業に有利なのが常であるから、過度に悲観的な資産の限界効率の悪循環を打ち破り、期待をより正常な基礎に乗せることで物事を再起動させられるかもしれないという企業家の胸中に楽観的な調子をも、〔経済〕全般の〔賃金〕引き下げが生み出すかもしれない(これは実際の効果とは異なるが)。他方、もし働き手が全般の引き下げの効果について雇い主と同様の誤りを犯すのであれば、労働争議はこの好ましい要因を相殺してしまう ****。ただし、全産業で貨幣賃金を一度に同じだけ引き下げることを保証する手段は何もないのがふつうであるから、すべての働き手は彼ら自身の特定の場合において賃金の引き下げに抵抗する場合を除いて。実際、貨幣賃金を下方に見直す交渉に対する雇い主の動きは、物価が騰ることによって生じる緩やかかつ自動的な実質賃金の引き下げよりはるかに強く抵抗される。
(7)他方、重みをます負債が企業家に及ぼす気が滅入るような影響は、賃金を引き下げることから生じる何らか勇気づけられる反応によって部分的に相殺される。確かに、賃金と物価が彼方まで下落すると、負債にまみれた企業家の困惑はほどなく債務不履行の点に至る。――これは投資に深刻な悪影響をもたらす。しかも、低い物価水準が国民の負債の実質的な負担に、そしてしたがって税に与える影響は、景況感にとても悪いと確かめられそうである。
これは、複雑な現実世界における、賃金引き下げに対する起こりうる反応を網羅した完全な目録ではない。しかし、上記は通常最も重要だとされる事項を含んでいると思う。
したがって、もし私たちの議論を〔海外との取引がない〕閉鎖体系に限り、実質所得の新たな分配側社会における支出の傾向に及ぼす反響効果から、反対のこと以外の何物も望み得ないと想定するのであれば、貨幣賃金の引き下げから雇用に対する好ましい結果を得るといういかなる望みも、(4)で示した資産の限界効率の引き上げによるか、(5)で示した利子率の引き下げによるか、いずれかに依拠せねばならないという結果になる。これら2つの可能性についてより詳しく考えてみよう。
資産の限界効率が引き上げられることに対する好ましい偶然が起きるのは、これ以降の変化は上方に向いたものであると期待されるような、貨幣賃金が底に接したときである。最も好ましくない偶然が起きるのは、貨幣賃金がゆっくり低下し、賃金が引き下げられるたびに賃金が維持される見込みに関する確信がしぼむときである。有効需要が弱まる時期に入ると、永遠に続くと誰も信じないほど低い水準にまで、貨幣賃金が突然引き下げられるが、このことは有効需要を強めるのに最も好ましい出来事である。しかしこれは、行政命令によってのみ達成しうるものであり、自由な賃金交渉のシステム下では政治としてほとんど現実的ではない。他方、賃金が硬直的に固定され、目に見える変化が生じ得ないとみなすことは、不況は貨幣賃金が緩やかに引き下げられる傾向によって達成され、さらなる控えめな貨幣賃金の引き下げが、失業者をたとえば1%増やすシグナルと期待されることよりもはるかによいであろう。たとえば、賃金が来たる年にたとえば2%沈下するという期待の効果は、同じ期間に支払われる利子の額が2%増える影響におおよそ等しいであろう。同様の所見はブームについても準用される。
現実の実務と現代世界の制度を鑑みるに、緩やかな雇い主の変化に応じて、柔軟な政策を目指すより、硬直的な貨幣賃金の政策を目指すほうが得策であるという結果になる。――つまり資産の限界効率に関する限り。しかし、利子率に目を転ずるとき、この結論は覆されないだろうか?
したがって、経済体系の自動調整はよく機能すると信ずる人たちが議論の重みをおくべきことは、賃金水準と物価水準の下落が貨幣需要に与える影響であるが、そのようになされているのをみたことがない。もし貨幣量それ自体が賃金水準と物価水準の関数なのであれば、確かにこの方向に進む望みはまったくない。しかし、もし貨幣量が事実上固定されているのであれば、賃金単位で表示された〔貨幣〕量は、貨幣賃金を十分に引き下げることで上限なく増やすことができ、所得全般に対する〔貨幣〕量も大幅に増やすことができる。この増加の限界は、限界主要費用に対する賃金費用の比率しだいであり、また賃金単位の引き下げに対する限界主要費用のほかの要素の反応しだいでもある *****。
したがって、少なくとも理論的には、貨幣量が一定のままで賃金を引き下げることによって、賃金水準が一定のままで貨幣量を増やすのと厳密に同じ影響を利子率に厳密に生成することができる。結果として、完全雇用を保証するための方策としての賃金引き下げも、貨幣量を増やす方策と同じ限界にさらされる。投資を最適な値まで増やす手段として貨幣量を増やすことの効能に上限を画す、上で述べた理由は、賃金引き下げに準用される。ちょうど貨幣量の控えめな増加は長期利子率に不十分な影響しか与えないであろうように、〔貨幣量の〕過度の増加も確信への混乱した影響によってほかの利点を相殺してしまうだろう。同様に、貨幣賃金の控えめな引き下げは不十分であり、過度の引き下げは、それができるとしても、確信を打ち砕いてしまうかもしれない。
したがって、柔軟な賃金政策が継続的な完全雇用の状態を維持することを可能にするという信仰には根拠がまったくない。――公開市場における貨幣政策が、助けなしに、この結果を達成する能力を持つという信仰〔に根拠がまったくないの〕と同様である。経済体系がこの線にそって自動調節されることはあり得ない。
確かに、完全雇用を下回るときはいつでも、完全雇用と適合する水準まで利子率が下がるほど十分に多くの、賃金単位に対する貨幣を作ることが要求される点がどのようなものであろうと、働き手は協調行動によって貨幣需要を減らす行動をとる立場にいつもある(そして、そのように行動すると仮定する)なら、銀行システムの代わりに、事実上労働組合による貨幣管理を持つべきである。
しかしながら、柔軟な賃金政策と柔軟な貨幣政策は、賃金単位表示の貨幣量を変える代替的な手段である限りにおいて、分析的には同じものである。他方、ほかの側面では、もちろんこれらの間には劇的な違いがある。読者の胸中に、手短に4つの特筆すべき考慮事項を思い起こさせよう ******。
(ⅰ)賃金政策が布告によって定められる社会主義化した社会を除いて、働き手すべての階級に一律の賃金引き下げをする方策はない。その結果は、社会正義や経済的便宜を正当化する基準を何も持たない、一連の段階的な、不定期の変化によってのみもたらされ、そしておそらくは、交渉力が最も弱い人たちがほかと比べて痛手を蒙るであろうような、浪費的かつ破滅的な格闘の後にやっと成就する。他方、貨幣量の変化は、公開市場操作等の方策によって、すでに大多数の政府の力のうちにある。人類の性質と現代の制度をみるに、後者〔柔軟な貨幣政策〕によっては獲得し得ない利点が前者〔柔軟な賃金政策〕にあると指摘し得ない限り、柔軟な貨幣政策より柔軟な賃金政策を好むのは愚かな人だけがなし得ることである。しかも、ほかの条件が同じならば、比較的容易に適用できる方策は、おそらくは非現実的としか言えないほど困難な方策より好まれるとみなすべきである。
(ⅱ)もし貨幣賃金に柔軟性がないのであれば、(限界費用ではない、ほかの考慮によって決定づけられる〈管理〉価格や独占価格を除いて、)そのような物価変動は、それが生じると、産出が増えるにしたがい〔その産出を生み出す〕今ある装備の限界生産性が低下することにおおむね対応するであろう。したがって、最も実現可能な公正が働き手とそのほかの要素の間で維持される。その〔ほかの要素への〕報酬、とりわけ金利生活者階級と、恒久的な礎に立つ企業、〔公共〕団体、国家で働いており固定給を受け取る人たちへの報酬は、契約によって貨幣表示で固定されている。もし〔社会で〕重きをなす階級がどのような場合においても貨幣表示の報酬を固定できるのであれば、すべての要素の報酬が貨幣単位である程度柔軟性のない状態にあるとき、社会の正義と便宜は最もよく提供される。貨幣表示で比較的柔軟性のない所得を得る大きな集団をみるに、後者から獲得し得ない利点が前者にあることを指摘できない限りにおいて、柔軟な貨幣政策より柔軟な賃金政策を好むであろうのは、理にかなっていない人だけである。
(ⅲ)賃金単位を引き下げることによって、賃金単位表示の貨幣量を増やすという方策は、債務の重荷を比例的に増やす。他方、賃金単位を一定のままにして貨幣量を増やすことによって同じ結果を生成する方策は、〔債務の重荷に〕反対の効果を持つ。様々な債務の抱え切れないほどの重荷をみるに、前者を好むであろう人は〔社会〕経験が足りない。
(ⅳ)賃金単位を低下させることによって利子率を低下させる必要があるのであれば、上で与えた理由により、資産の限界効率を重ね重ね引き下げ、投資を先延ばしにする幾重もの理由を与え、したがって回復を遅らせる。
訳注
* 間宮版の訳注は、賃金単位が下っても、それが消費者の購買力を減じれば物価も下がるので、有効需要は増えないと指摘している。
** 消費の傾向、資産の限界効率表、利子率が変わらないとき、雇用が増えると企業家は損失を蒙ることを意味している。間宮版の訳注にも言及がある。
*** 賃金と物価が上がるという期待は、イールドカーブがスティープ化させるので、短期ローンより長期ローンが不利になるということである。間宮版の訳注にも言及がある。
**** 文意はおおよそ次のようであろうと思われる。貨幣賃金が全般的に切り下がるとき働き手が切り下げに抵抗するのは、第2章でみたように、相対賃金を高める意味で合理性がある。しかし、雇い主と同様に全般的な貨幣賃金の引き下げをよしとしてしまうと、さらなる不況を免れない。この点間宮版の訳注にも言及がある。
***** 賃金単位が下がると所得に対する貨幣量が増えたようにみえるということである。この点間宮版の訳注にも言及がある。
****** 全集版では「3つ」が「4つ」に修正された。この点間宮版の訳注も指摘している。
Ⅲ
したがって、もし働き手が貨幣賃金を段階的に引き下げて労働力を提供することによって、段階的な雇用の引き下げの条件に対応すべきなのであれば、これは実質賃金を引き下げる効果を持たず、むしろ産出量に悪影響を与えることをとおして、〔実質賃金〕を引き上げる効果さえ持つかもしれない。この政策の主要な結果は物価がひどく不安定化することであり、私たちが営む方式にのっとって機能する経済社会においては、事業予測が役に立たなくなるほど〔不安定性は〕苛烈なものになるかもしれない。おおよそ、柔軟な賃金政策が正しく、また体系を適切に補助するというのが、おおよそ自由放任の体系であるとする考えは、真実の反対である。柔軟な賃金政策が成功裡に機能しうるのは、突然激しく布告を全般的に変えうる、極度に権威主義的な社会だけである。イタリア、ドイツ、ロシアではそれが実施され、フランス、米国、大英帝国では〔実施〕されていないことを想起できよう。
もしオーストラリアのように、法令で実質賃金を固定しようと試みるのであれば、そのときにはある水準の実質賃金に対応するある水準の雇用があるだろう。そして、閉鎖体系における実際の雇用水準は、その水準に適合する率を下回るか下回らない投資率に対応して、〔固定した実質賃金に対応する〕水準になるかまったくない状態になるか、この2つの間を暴力的に循環するであろう *。他方、投資が臨界値にあるとき、投資がそれを下回るや否や物価はゼロに向かって疾走し、それを上回るや否や無限に向かって疾走するような不安定均衡になる。投資を臨界値に維持する利子率と資産の限界効率との関係を打ち立てるような貨幣量で、貨幣賃金がいつも特定の水準にあるように、決定される貨幣量を制御する要素の中に、もしそれがあるのなら、安定性の要素を見い出さねばならない。このとき雇用は(法定実質賃金に対応する水準で)一定であり、貨幣賃金と物価は、投資率を適切な値に維持するのにちょうど必要なだけ急速に変動する。オーストラリアの実例では、逃げ道は、部分的にはその目的を達成する法令の避けがたい無効力性に見出され、また部分的にはオーストラリアが閉鎖体系ではなく、貨幣賃金の水準はそれ自身対外投資の水準を決め、そしてしたがって総投資の水準をも決める一方で、交易条件が実質賃金に重要な影響を与えることに見出された **。
これらの考えに照らして、貨幣賃金の一般水準を安定させるというのが、考慮の結果、閉鎖体系の政策として最も賢明であるという見解を現時点では持っている。他方、世界の残りの部分の均衡は為替が変動することで保証されるのであれば、同じ結論は解放体系にもよく維持される。縮小しつつある産業から拡大しつつある産業への移転が進むように、特定の産業の賃金にある程度の柔軟性があることには利点がある。しかし、〔一国〕全体の貨幣賃金の水準は、少なくとも短期においてはできる限り安定させたままにすべきである。
この政策は物価水準にかなりの程度の安定をもたらす結果になるだろう。――少なくとも柔軟な賃金政策よりも安定をもたらすであろう。〈管理〉価格や独占価格の場合を除いて、物価は雇用量が限界主要費用に影響する程度に応じて短期に変動するだけであろう。他方、長期において〔物価は、〕新技術や新装備、または装備の増強による生産費の変化に応じて変化するだけであろう。
しかしながら、雇用に大きな変動が生じれば、物価もそれにともない相当変動するというのは事実である。しかし、上で述べたように、その変動は柔軟な賃金政策よりも穏やかである。
したがって、硬直的な賃金政策を採用すると、物価の安定は、短期においては雇用の変動を避けることに関連する。他方、長期においては、安定した賃金を維持しつつ技術と装備の進歩によって物価が緩やかに下落することを認める政策と、安定した物価を維持しつつ賃金が緩やかに上がることを認める政策との間に、選択の余地が残されている。私はおおよそ後の選択肢〔物価安定の下での賃金上昇〕を好むが、それは、完全雇用の与えられた範囲内に実際の雇用水準を維持することは、賃金が未来に下がるという期待より、賃金が未来に上がるという期待があればたやすいという事実によって説明され、また債務の重荷が段階的に軽くなり、朽ちゆく産業から成長途上の産業への調整を格段に楽にし、そして貨幣賃金が増えるという穏やかな傾向から心理的な励ましを感じやすいという社会的な利点によっても説明される。しかし、原理の要点は1つも入っていないし、いずれの側に議論を詳細に詰めるのも、ここでの目的の射程を超えてしまうであろう。
訳注
* 間宮版の訳注は、投資が所定の実質賃金を維持する水準を下回ると、物価が下落して実質賃金に低下圧力がかかり、実質賃金を維持すべく名目賃金も下がると指摘している。
** 塩野谷版の訳注に、公正な賃金を判断する機関として、1904年にオーストラリアに仲裁・斡旋連邦裁判所(Court of Conciliation and Arbitration)が設立されたと記されている。また、次の文献も紹介している。Ward, R., 1978, The History of Australia: The Twentieth Century 1901-1975, Heineman, London, 1978, pp.45-50。間宮版の訳注は、第19章第Ⅱ節の項目(2)と(3)を参照するよう促している。
Pigou教授による『失業の理論』* は、雇用量が2つの本質的な要因に左右されるとしている。すなわち、(1)働き手が契約締結の条件とする実質賃金と(2)労働の実質需要関数の形状に〔左右されるとしている〕。彼の本の中心をなす部分は、後者の〔労働の実質需要〕関数の形状を決めることに関心を寄せている。実際、実質賃金ではなく貨幣賃金を働き手が契約締結の条件にするという事実は無視していない。しかし、事実上、賃金財の価格で除した実際の貨幣賃金率を実質需要率の尺度として取りうることを想定している。
〈探究の起点を形成する〉と彼が言う労働の実質需要関数を形成する式は『失業の理論』のp.90で与えられる。彼の分析の適用を支配する暗黙の想定は、彼の議論のはじめに挿入されているので、彼の取り扱いを重要な点に至るまでまとめることにしたい。
Pigou教授は、産業を〈国内で賃金財の製造に従事するものと、その販売が海外の賃金財に対する権利を生み出す輸出品の製造に従事するもの〉と〈その他〉の産業に分けている。: これらは順に賃金財産業と非-賃金財産業と呼ぶのがふさわしい。彼はx人が前者〔賃金財産業〕に雇われ、y人が後者〔非-賃金財産業〕に〔雇われる〕と考える。x人によって産出される賃金財の価値をF(x)とおき、全般の賃金率をF'(x)とおく。彼は言及するのを止めないが、これは限界賃金費用が限界主要費用と等しいと想定するに等しい(1)。さらに、彼はx+y=φ(x)、つまり、賃金財産業に雇われている働き手の数は総雇用の関数であると想定する。それから彼は、集計した労働力の実質需要の弾力性(これが需要、すなわち労働の実質需要関数の形状を与える)は次のように書き表される **
E_r=φ'(x)/φ(x)・F'(x)/F''(x)
表記法に関する限り、これと私自身の表現法の間に目立った違いはまったくない。Pigou教授の賃金財と私の消費財を、そして彼の〈その他の財〉と私の投資財を同一とみることができる限りにおいて、彼のF(x)/F'(x)は賃金単位で表示された賃金財産業の産出の価値は、私の〔表記法の〕Cwと同じである。さらに、彼の関数φは(賃金財と消費財が同一であるという条件下で、)私が上で雇用乗数k'と呼んだものの関数である。というのも
Δx=k'Δy
であるから ***
φ'(x)=1+1/k'
Pigou教授の〈集計した労働力の実質需要の弾力性〉は、私自身のものとある程度似通った混合物であり、これは部分的には(関数Fで与えられるような)産業の物的、技術的な条件しだいであり、また部分的には(関数φで与えられるような ****)賃金財を消費する傾向に左右される。これは、限界労働費用が限界主要費用に等しい特別な場合にいつも限定することを条件とするが。
雇用量を決めるとき、Pigou教授は彼による〈労働の実質需要〉と労働の供給関数を結びつける。彼はこれこそが実質賃金の関数であり、それ以外の何物でもないと想定している。しかし、実質賃金は賃金財産業に雇われているx 人という人数の関数だとも想定しているので、これは今の実質賃金での労働の総供給がx の関数であり、それ以外の何物でもないと想定しているのと同じ効果を持つ。つまり、n=χ(x)である。ここでn は実質賃金F'(x)で雇用可能な労働供給である。
したがって、すべての複雑さを取り除くと、のPigou教授の分析は、次式から実際の雇用量を見つける試みと同じ効果を持つ。
x+y=φ(x)
そして
n=χ(x)
しかし、ここには3つの未知数〔x, y, n〕に対して2本の方程式しかない。彼はこの困難をn=x+yとすることによって回避しようとしているのは明らかと思われる。もちろんこれは厳密な意味で非自発的失業者が1人もいない、つまり今の実質賃金で雇用可能な働き手はすべて実際に雇われていると想定するに等しい。この場合には、x は次式を満たす値をとる。
φ(x)=χ(x)
そして、x の値が(たとえば)n1に等しいことが仮に見出されたのであれば、y はχ(n1)-n1と等しくあらねばならず、総雇用n はχ(n1)と等しくなる。
しばらく立ち止まり、これにまつわることを考えることには価値がある。労働の供給関数が変化して、所与の実質賃金でより多くの働き手を雇用できる(ここでn1+dn1は、φ(x)=χ(x)を満たすxの値となる *****)のであれば、非-賃金財産業が産出するものの需要は〔非-賃金財〕産業の雇用がφ(n1+dn1)とχ(n1+dn1)の均衡を維持するであろう、ちょうどそのような量だけ増えることになる。総雇用が変化しうる、ほかのただひとつの方法は、x がより激しく減少することでy の増加を達成するように賃金財と非-賃金財を購入する傾向を修正することをつうじてである。
もちろん、n=x+y という想定は、働き手が自らの実質賃金を決められる立場にいつもあるということである。したがって、働き手が自らの実質賃金を決められる立場にあるという想定は、非-賃金財産業が産出するものの需要が、上の法則にしたがうことを意味する。言い換えると、それは、完全雇用を維持するように、利子率がいつでも資産の限界効率表に自らを順応させると想定することである。この想定がなければPigou教授の分析は崩壊してしまうし、雇用量がどれほどのものになりそうか決める手がかりを何ひとつ提供できない。労働の供給関数ではなく、利子率または確信の状態のいずれかによる投資率の変化(すなわち、非-賃金財産業における雇用の変化)にまったく言及せずに、失業の理論を構築できるとPigou教授は考えたに違いないが、これは確かに奇妙ではある。
したがって、彼の『失業の理論』という書名はいささか不似合いである。彼の本はこの主題〔失業〕にあまり関心がない。それは、完全雇用の条件が満たされているとき、所与の労働供給関数の下で雇用がどれほどになるかを議論している。集計した労働の実質需要の弾力性という概念は、与えられた労働供給関数の移動に応じて、完全雇用の水準がどれほど上下するかを示すためのものである。あるいは――代わりに、そしておそらくより適切に――彼の本を、与えられた任意の雇用水準に応じて実質賃金の水準がどれほどになりそうかを決める関数関係の非-因果分析だと捉えられるかもしれない。しかし、それは何が実際の雇用水準を決めるのかについては語ることができない。そして、非自発的失業の問題に、それは直接関与しない。
もしPigou教授が、上で私が定義した意味の非自発的失業が生じる可能性を否定するのであれば、そしておそらく彼はそうするであろうが、彼の分析がどのように適用しうるのか理解するのはそれでも難しい。というのも、x とy 、すなわち順に賃金財産業と非-賃金財産業の雇用、の関係を決めるものに関する議論を彼が省略していることは、それでも致命的であり続ける。
しかも、彼はある限度内において、働き手は実際に実質賃金ではなく名目賃金を契約締結の条件としがちであることに賛同する。しかしこの場合には、労働の供給関数は単にF'(x)の関数のみならず、賃金財の貨幣価格の関数でもある。――以前の分析は崩壊し、追加の要素を導入しなければならない結果になるが、新たに加えられるこの未知数〔賃金財の貨幣価格〕に対して加えられる方程式はない。すべてを1つの変数の関数にして、すべての偏微分〔の値〕がゼロになると想定しないことには一歩も前へ進めない擬似数学的方法の落とし穴を、これ以上うまく描写しえないだろう。というのも、後に実際にはほかの変数があることを認めることはうまくないし、そこまで書かれたものすべてを書き直さずに進めることもうまくないからである。したがって、もし(ある限度内で、)働き手が契約締結のために求めるものが貨幣賃金であるなら、たとえn=x+y であると想定しても、何が賃金財の貨幣価格であるのか決めるものを知らない限りにおいて、なお不十分な情報しか持ち得ない。というのも、賃金財の貨幣価格は総雇用量に左右されるであろうから。したがって、賃金財の貨幣価格を知らずに、総雇用がどれほどになりそうか言うことはできない。そして、総雇用量を知らずに、賃金財の貨幣価格を知り得ない。すでに言ったように、1本の方程式が足りない。ただし、実質賃金よりむしろ貨幣賃金の硬直性という暫定的な想定は、私たちの理論を現実に最も近づける。たとえば、混乱、不確実性、大幅な物価変動に彩られた10年だとされる1924年-1934年の大英帝国における貨幣賃金は、実質賃金が20%以上も変動したのに対して、6%の範囲内〔の変動〕に収まっていた。そのほかのあらゆる場合とちょうど同じくらい、貨幣賃金が固定されている(あるいはある範囲内にある)場合適用できないのであれば、その理論を一般理論であると主張することはできない。貨幣賃金がすぐれて柔軟であるべきだという不平を言う権利は政治家にはあるが、いやしくも理論家であれば、いずれの状況も取り扱えるよう備えておかねばならない。科学的な理論は、それ自身の想定と調和する事実を求めてはいけない。
Pigou教授が貨幣賃金引き下げの効果を明示的に取り扱うところに至ると、再び何か明確な答えを得るにはあまりに少なすぎる情報を導入するのは、(私にとって)明白である。限界主要費用が限界賃金費用に等しいのであれば、貨幣賃金が引き下げられるとき、非-賃金稼得者の所得が賃金稼得者と同じ比率で変わるであろうという議論(前掲書, p.101)から彼ははじめる。もし雇用量が変わらないのであれば、そのときにだけこのことは正しいという理由で。――まさにこの点が議論の対象なのだが。しかし、次のページ(前掲書, p.102)に進むや、〈非-賃金稼得者の所得にははじめから何も起きない〉という想定をとり、彼自身同じ間違いをしている ******。彼自身が示したように、それはもし雇用量が変化せずに止まらないのであれば、そのときにだけ正しい。――これがまさに議論されている点なのだが。確かに、そのほかの要因が私たちの情報に加えられない限り答えようがない。
働き手が契約締結のために求めるのは実質賃金ではなく貨幣賃金であるということを(実質賃金がある最低点を下回って下落することがないという条件下で)認めるのは分析に影響を及ぼす。そのしかたは、この場合、より高い実質賃金を提供しない限り雇用可能なより多くの働き手はいないという想定、その想定は議論の大部分を覆う根本的なものだが、が崩壊することを指摘することによっても示されうる。たとえば、Pigou教授は、実質賃金率が与えられたと想定することで、すなわち、すでに完全雇用の状態にあるので、実質賃金が下がらない限り新たな働き手はやってこないと想定することで、乗数理論を否定している(前掲書, p.75)。この想定の下では、もちろんこの議論は正しい。しかし、この文節において、Pigou教授は現実的な政策に関係する提案を批判している。そして、大英帝国における統計学上の失業者が2,000,000人を超えている(つまり、今の貨幣賃金で喜んで働きたいと思う人が2,000,000人いる)まさにそのときに、貨幣賃金に対する生活費が控えめであってもわずかでも上がると、この2,000,000人すべてと同等より多い人が労働市場から退出すると想定するのは、事実から空想的なほどかけ離れている。
Pigou教授の本は全編とおして、貨幣賃金に対する生活費が控えめであってもわずかでも上がるとき、今いる失業者すべてより多くの人が労働市場から退出するであろうという想定にもとづいて書かれていることを強調するのは重要なことである。
しかも、Pigou教授は公共事業による〈副次〉雇用に向かって議論するとき(前掲書, p.75)、同じ想定の下で同じ政策によって増えた〈主要〉雇用についても同様に致命的であるということに気づいていない。というのも、もし賃金産業に支配的な実質賃金率が与えらえると、どれほどの雇用増加もまったく実現できない。――非-賃金稼得者が賃金財の消費を減らすことによる場合を除いて。というのも、新たに主要雇用に従事する人たちは実質賃金を引き下げ、そしてしたがって(彼の想定の下では)以前ほかのどこかで雇われていた働き手は退出するからである *******。ただし、Pigou教授は主要雇用が増える可能性を受け入れているのは明らかである。主要雇用と副次雇用を分ける線は、彼の良識が彼の悪論を押しつぶすのを止める心理的な臨界点にあるようである。
上記の想定と分析の相違点が導く異なる結論は、以下の重要な分析によって示しうる。そこでPigou教授は、彼の見方をまとめている。:〈働き手の間に完全な自由競争があり、働き手が完全に移動可能であれば、(人々が契約締結の際に求める実質賃金と労働の需要関数との間の)関係の性質は極めて単純である。賃金率が、すべての人が雇われるような需要に関連づけられる強い傾向がいつも働くであろう。したがって、安定条件はすべての人が実際に雇われることになるであろう。需要条件の変化は連続的に起こり、摩擦抵抗は瞬時になされる適切な賃金調整を妨げるという事実すべてによって、いつでもそのような失業者は存在するという示唆が得られる〉(2)。
彼は、失業は労働の実質需要関数の変化に対して、主として賃金政策それ自体が十分に調整できていないことによると結論づけている(前掲書, p.253)。
したがって、結局のところ失業は賃金調整によって治せるとPigou教授は信じている(3)。他方、(雇用の限界負効用によって設定された下限のみを条件とした)実質賃金は、〈賃金調整〉によっては本来決定されず(これらには反響効果があるが)、〔経済〕体系の他の力〔によって決定される〕と私は主張する。Pigou教授はそのうちのいくつか(とりわけ、資産の限界効率と利子率の関係)を、彼の本格的な体系に含め損ねている。最後に、Pigou教授は〈失業の因果〉に至ると、私が言及するのと同じだけ需要の状態が変動することに言及するのは確かである。しかし、彼は需要の状態を労働の実質需要関数と同じものとみなしており、彼の定義による後者〔労働の実質需要関数〕がどれほど狭い意味しか持たないかを忘れがちである。というのも、労働の実質需要関数は、定義により(上でみた)2つの要素、すなわち(1)いかなる所与の環境下においても、雇われる人の総数と彼らが消費するものを彼らに提供するために賃金財産業で雇われるべき人の数との関係と、(2)賃金財産業の限界生産性の状態、の2つの要素以外に左右される何物もないからである。ただし、彼の『失業の理論』の第5部は、〈労働の実質需要〉の状態の変動に重要な地位を与えている。〈労働の実質需要〉は、大幅な短期変動に影響されやすい要素とみなされ(前掲書, 第5部, 第ⅵ-ⅶ章)、〈労働の実質需要〉のゆらぎは、そのような変化に敏感に反応する賃金政策の失敗との組み合わせで、その責任をおおよそ景気循環に帰す。読者にとってこのすべては一見合理的で馴染み深いかもしれない。というのも、彼は定義に立ち返らない限り、〈労働の実質需要の変動〉は、私が〈総需要の状態の変動〉という語で伝えようとしたことと同様の示唆を〔読者〕の胸中に伝えることはないからである。しかし、〈労働の実質需要〉の定義に立ち返るのであれば、このすべてはもっともらしさを失う。というのも、この要因ほど短期に鋭いゆらぎに晒されそうなものはないことを見出すからである。
Pigou教授の〈労働の実質需要〉は、定義により、賃金財産業の生産の物的条件を表すF(x)と賃金財産業の雇用と所与の後者の任意の水準に対応する総雇用の関係を表すφ(x)の2つ以外の何物にも左右されない。これらの関数のいずれかが変化する理由は、長期にわたる緩やかな〔変化〕を除くと、みるのが難しい。確かに、景気循環の中でこれらが変動しそうだと思う理由は何もないようである。というのも、F(x)はゆっくりとしか変化しないし、技術が進歩する社会においては前に向かってのみ変化する。他方、φ(x)は労働者階級に生じる突然の倹約、あるいはより一般的に消費の傾向の突然の変化でもなければ、安定的なままであろう。したがって、労働の実質需要は、景気循環をつうじて事実上一定のままだと期待されるべきである。Pigou教授は不安定要素の分析を丸ごとすべて除外してしまったということを繰り返しておきたい。つまり、雇用が変動する現象の根底をなすことがもっとも多い投資規模の変動〔を除外してしまった〕。
Pigou教授の失業の理論を長々と批判してきたのは、ほかの古典派経済学者より批判に対して受け入れる度量があると思われたからではなく、失業の古典派理論を厳密に書き留めたものとして私が知り得た唯一の試みだからである。したがって、この理論について、これまで提起されたもののうちもっとも優れた叙述を批判するのは、私に課せられた義務であった。
脚注
(1)限界賃金費用を限界主要費用に対して等しくするという誤った行いの源は、おそらく限界賃金費用という語のあいまいさに見出されるであろう。〔限界賃金費用〕によって、追加の賃金費用のほか何らの追加費用もかからないのであれば、産出を1単位追加する費用を意味するか、あるいは今ある装備とそのほかの未利用要素の助けを得て最も経済的な方法で産出を1単位追加で生産するのにかかる追加の賃金費用を意味するかもしれない。前者の場合、何らかの追加の企業心を持つ追加の働き手、運転資金、働き手以外で費用を計上するありとあらゆるものを結合することから除外される。そしてより少ない労働力がなすより早く追加の働き手が装備を摩耗させることを認めることからも除外される。前者の場合において、限界主要費用に入り込む労働費用以外の費用のあらゆる要素を禁じているので、限界賃金費用と限界主要費用は同じになる。しかし、この前提の下に実施された分析の結果は、それが依拠する想定が現実にはほとんど滅多に現れないので、ほとんど適用しようがない。というのも、追加の働き手とともに、それが利用可能である限り、ほかの要素も追加して投入するのを拒むほど現実には愚かではないからである。そしてしたがって、この想定は働き手を除くすべての要素がすでに上限まで用いられていると想定するときにのみ適用されるであろう。
(2)前掲書, p.252 ****。
(3)利子率に対する反応からこれが生じるという暗示も示唆もまったくない。
訳注
* 『一般理論』第2章第Ⅰ節の脚注(1)に、『失業の理論』が第19章の補論で検討される旨の記述がある。Pigou教授は1927年に失業に関する論文を発表している。https://www.jstor.org/stable/2223549 1933年に刊行された『失業の理論』の書評は、Harrodによるもの、Hawtreyによるもの、高田保馬によるものなどがある。Pigou研究者による解説は、白井による一連の研究、小島(2006)、本郷(2006)、吉原による一連の研究、大場(2018)等無数の研究を参照。近年のマクロ経済学研究にリアル・ビジネスサイクル、ニュー・ケインジアン、動学的一般均衡などがあるが、これらはケインズからの派生というよりPigou教授からの派生だと整理するとすっきりする。その意味で、ニュー・ケインジアンはニュー・ピグービアンとすべきであろう。
** Pigou, A.C., 1937, The Theory of Unemploymentの第9章§4から取られた式と思われる。
*** 塩野谷版の訳注では、φ'(x)=1+1/k' ではなくφ'(x)=1+1/(k'-1)が正しいとしているが、Pigouは強い仮定をおいて議論していることから、この解釈が正しいか判別できない。
**** 間宮版の訳注は、労働の需要関数φは消費の傾向そのものを表す関数ではないと指摘している。
***** 間宮版の訳注は、χで表される労働の供給関数は変化後のものであると指摘している。
****** 間宮版の訳注は、Pigou教授は著書のp.101で非-賃金稼得者と賃金稼得者の賃金がともに変わるとしながら、p.102では非-賃金稼得者の賃金が変わらないとしており、矛盾していると指摘している。
******* Pigou教授は次のように考えているようである。すなわち、消費が増えると物価が上がり、貨幣賃金の上昇がそれに追いつかなければ実質賃金は下落する。これが労働供給を減らす。反対に消費が減ると物価が下がり、貨幣賃金の低下がそれに追いつかなければ実質賃金は上昇する。これが労働供給を増やす。もちろんKeynesはこうした考えを持たない。間宮版の訳注にも同様の言及がある。
**** ここで前掲書とは、Pigou, A.C., 1937, The Theory of Unemploymentである。
(1)
Ⅰ
第3章(p.23)で、雇用量と〔その雇用量を用いた〕産出に総供給価格を関係づける総供給関数Z=φ(N)を定義した。雇用関数が総供給関数と異なるのは、それが事実上の逆関数になっていることと賃金単位表示で定義されていることだけである。雇用関数の目的は、企業、産業、あるいは全産業に向けられる賃金単位で測った有効需要の量を、それによって産出されるものの供給価格と有効需要の量を比較対照するところの雇用量に関係づけることにある。したがって、企業や産業に向けられる賃金単位で測る有効需要の量Drwが、その企業や産業に雇用量Nrを呼び起こすのであれば、雇用関数はNr=Fr(Drw)によって与えられる。あるいはより一般的に、DwrがDwの一意の関数であると想定する権利を与えられるのであれば、雇用関数はNr=Fr(Dw)によって与えられる。つまり、有効需要がDrであるとき、Nr人が産業rに雇われることになる。
本章では、雇用関数のいくつかの特徴を展開することにしよう。しかし、それら〔の特徴〕に寄せられるであろう関心のほかに、通常の供給関数を雇用関数に置き換えることが本書の方法と目的に調和する2つの理由がある。第1に、〔雇用関数〕は、関連する事実を、心もとない量的特徴を持つ単位を1つも導入しないと自らを制限して定めた単位で表している。第2に、所与の環境下で、ある1つの産業または企業の問題とは切り離された、〔一国〕全体の産業と産出の問題に対して、通常の供給関数より容易に適合する。――次のような理由で。
特定の商品のための通常の供給関数は、公衆を構成する人たちの所得にある種の想定を置いて描かれるので、所得が変化すると描き直さなければならない。同じように、特定の商品のための通常の供給関数は、全産業の産出にある種の想定を置いて描かれるので、産業の総産出が変化すると変化する傾向にある。したがって、総雇用の変化に対する個々の産業の反応について分析するとき、1つの供給曲線に重ね合わされるそれぞれの産業の1つの供給曲線にではなく、総雇用の異なる想定に対応する〔需要曲線と供給曲線〕という2族の曲線群に関心を寄せなければならない。しかし、雇用関数を用いれば、総雇用の変化を反映する全産業の関数にたどり着く課題はより現実的になる。
というのも、(まず)上の第18章で所与としたほかの要因のみならず消費の傾向も所与と想定し、投資率の変化に対する雇用の変化について考えていると想定しよう。この想定の下では、賃金単位表示の有効需要のあらゆる水準に、それに対応する総雇用があり、この有効需要は、消費と投資を定めた比率に分割されるであろう。しかも、有効需要のそれぞれの水準は所与の所得分配に対応するであろう。したがって、与えられた有効需要総額の水準に対応して、異なる産業にそれを分配するただ1つの〔分配法〕がある。
このことは、所与の総雇用水準に対応するそれぞれの産業の雇用量を決めることを可能にする。つまりそれは、第2の形式で与えられた任意の産業の雇用関数、すなわちNr=Fr(Dw)、のための条件が満たされるように、賃金単位ではかられた有効需要総額のそれぞれの水準に対応する、任意の産業それぞれの雇用量を与える。したがって、これらの条件下で、個別の雇用関数は、所与の有効需要水準に対応する全産業の雇用関数が別々の産業それぞれのための雇用関数を集計したものに等しいという意味で、加法的であるという利点を持つ。すなわち *
F(Dw)=N=ΣNr=ΣFr(Dw)
次に、雇用弾力性を定義しよう。所与の産業の雇用の弾力性は
e_er=dNr/dDwr・Dwr/Nr
となる。なぜなら、それは産出されたものを買うのに支出されると期待される賃金単位の数の変化に対する、その産業に雇われる労働単位の数の反応を測るものだからである。全産業の雇用弾力性を次のように書くこととしよう。
e_e=dN/dDw・Dw/N
産出を測る十分満足のゆくある種の方法を見つけられるとすると、産出弾力性あるいは生産弾力性と呼ぶのがふさわしいものを定義するのも便利である。〔この弾力性は、〕賃金単位表示の有効需要がそれに向けられるとき、任意の産業の産出が増える率を測る。すなわち
e_or=dOr/dDwr・Dwr/Or
価格が限界主要費用に等しいと想定できれば、そのときには次式を得る。
ΔDwr=1/(1-e_or)ΔP r
ここでPrは期待利益である(2)。ここから、もしe_or=0、すなわち産業の産出が完全に非弾力的であるなら、(賃金単位で測った)有効需要の増分のすべては、利益として企業家が回収する。つまりΔDwr=ΔPrである。他方、もしe_or=1、すなわち産出の弾力性が1であれば、有効需要の増分のうち利益として回収されれると期待される部分はまったくなく、そのすべては限界主要費用に組み入れられる要素によって吸収される。
さらに、産業の産出がその〔産業で〕雇われる働き手の関数φ(Nr)であるなら、次式を得る(3)。
(1-e_or)/e_er=-Nrφ''(Nr)/(p_wr{φ'(Nr)}^2)
ここでp_wrは賃金単位で表示した産出1単位の期待価格である。したがって、e_or=1という条件はφ''(Nr)=0を意味する。つまり、雇用の増分に対応する利益は一定である〔ことを意味する〕。
さて、実質賃金がいつも労働の負効用〔を埋め合わせるの〕に等しく、雇用が増えるとき後者〔労働の限界負効用〕も〔その絶対値は〕増えるので労働の供給が減ると古典派理論が想定している限りにおいて、ほかの条件が同じであれば、もし実質賃金が引き下げられると賃金単位表示の支出を増やすことは実際不可能であると想定している **。もしこれが真実であれば、雇用弾力性という概念は、適用する場面がまったくない。しかも、この場合には貨幣表示の支出を増やすことによって雇用を増やすのは不可能であろう。というのも、貨幣賃金は、賃金単位表示の支出がまったく増えないように、そしてその結果雇用がまったく増えないように、貨幣支出の増分に比例して上がるからである。しかし、もし古典派の想定がよく保持されないのであれば、実質賃金が労働の限界負効用と等しくなるところ、すなわち定義により完全雇用が達成される点、まで下落するところまで貨幣表示の支出を増やすことで雇用を増やすことができる可能性があるだろう。
普通はもちろん、e_orは0と1の間の値をとるであろう。貨幣支出が増えるとき、(賃金単位で測る)物価が騰るであろう程度、すなわち実質賃金が下がるであろう程度は、したがって、賃金単位表示の支出に反応する産出弾力性しだいである。
有効需要Dwrの変化に対する期待価格の弾力性p_wr、すなわちdp_wr/dDwr・Dwr/pwrをe'_prとおくことにしよう。
Or・p_wr=D wrであるから、次式を得る。
dOr/dDwr・Dwr/Or+dp_wr/dDwr・Dwr/pwr=1
e'_pr+e_or =1
つまり、(賃金単位で測る)有効需要の変化に対する価格と産出の弾力性の合計は、1に等しい。有効需要それ自体はこの法則にしたがい、部分的には産出に、部分的には物価に影響を及ぼす。
もし全産業を取り扱っており、〔一国〕全体の産出を計測できる単位があると想定する用意があるのであれば、e'_p+e_or=1となるように同じ線の議論を適用できる。この式で下添字rを除いているのは、全産業に適用〔していることを表す〕。
ここで、賃金単位の代わりに貨幣価値を測ることにしよう。そして全産業について得られる結論をここに拡張しよう。
もし、Wが労働1単位の貨幣賃金を意味し、pが貨幣表示の全産出1単位の期待価格を意味するなら、貨幣で測った有効需要の変化に反応する貨幣物価の弾力性をe_p(=Ddp/pdD)と書ける。そして、貨幣では買った有効需要の変化に反応する貨幣賃金の弾力性をe_w(=DdW/WdD)と書ける。そうであれば、次式は容易に示せる。
e_p=1=e_o(1-e_w) (4)
次章でみることになるが、この式は一般化された貨幣数量説の第1歩である。もし、e_o=0あるいはe_w=1であるなら、産出は変わらず、物価は貨幣で測った有効需要と同じ比率で騰る。これらの条件が満たされなければ、これら〔産出と物価〕は、小さな比率だけ上がる ***。
脚注
(1)代数を(正当にも)好まない人は、本章の第Ⅰ節を読みとばしても失うものはほとんどないであろう。
(2)というのも、p_wrを賃金単位で表示された産出1単位の価格とおくと
ΔDwr=Δ(p_wr・Or)=p_wr・ΔOr+Or・Δp_wr
=(Dwr/Or)・ΔOr+Or・Δp_wr
すると
Or・Δp_wr=ΔDwr(1-e_or)
すなわち
ΔDwr=Or・Δp_wr/(1-e_or)
しかし
Or・Δp_wr=ΔDwr-p_wr・ΔOr
=ΔDwr-(限界費用)ΔO
=ΔP
よって
ΔDwr=1/(1-e_or)・ΔP
(3)というのも、Dwr=p_wrOrであることから、次式を得るからである ****。
1=p_wr(dOr/dDwr)+Or(dp_wr/dDwr)
=e_or-Nrφ''(Nr)/{φ'(Nr)}^2・e_er/p_wr
(4)というのも、p=p_・wにより、D=D_w・Wだからである。そして以下を得る。
Δp=WΔp_w+p/W・ΔW
=W・e'_p・p_w/Dw・ΔDw+p/W・ΔW
=e'_p・p/D(ΔD-D/W・ΔW)+p/W・ΔW
=e'_p・p/D・ΔD+ΔW・p/W・(1-e'_p)
それで
e_p=DΔp/pΔD=e'_p+D/pΔD・ΔD+ΔW・p/W・(1-e'_p)
=e'_p+e_w(1-e'_p)
=1-e_o(1-e_w)
訳注
* 間宮版の訳注は、この式の因果系列を「Dw→Dwr→Nr→N」としている。つまり有効需要の総額が各産業に分割され、それが各産業の雇用量を決め、各産業の雇用量を合計したものが総雇用量だと指摘している。
** 間宮版の訳注は、古典派は、支出が増えると金利が上がり支出の増加は直ちに相殺されると考えていると指摘している。ただし、本文の文意は、実質賃金が下がると労働供給が減るので、生産と支出とも増えないということだと思われる。
*** 塩野谷版の訳注は、ケインズの示唆によりフランス語訳の脚注に数式の展開過程に数行の追加があると指摘している。それを日本語訳して訳注で紹介している。
**** 塩野谷版の訳注は、ここで示された多くの弾力性について、相関図を含むかなり詳細な検討をしている。
Ⅱ
雇用関数に立ち戻ろう。これまで、有効需要総額のあらゆる水準に対応する、個別産業それぞれの生産に有効需要を分配する唯一の方法があると想定してきた。ここで、一般には、総支出の変化にともなう個別の産業の生産物への支出は、同じ比率で変化しないであろう。――部分的には、所得が増えるにしたがい、個人はそれぞれ別の産業の生産物への支出を同率で増やさないだろうからであり、部分的には、異なる商品の価格群は、それらに対する支出の増分に異なる程度で反応するであろうからである。
このことから、雇用の変化はひとえに(賃金単位で測る)有効需要総額の変化による、というこれまでの分析に置いてきた想定は、所得の増分を支出しうる方法が1とおりでなければ、1次近似を超えるものではないという結論を得る。というのも、総需要の増分を異なる商品に分配すると、雇用量に多大な影響を及ぼすかもしれないからである。たとえば、もし需要の増分のほとんどが高い雇用弾力性を持つ生産物に向けられるとすると、総雇用の増分は、ほとんどが低い雇用弾力性を持つ生産物に向けられる場合より多いであろう。
同じように、総需要に何らの変化がなくても、低い雇用弾力性を持つ生産物にとって好ましい方向に需要が向けられるのであれば、雇用は減るかもしれない。
これらの考慮は、前もって予期しない量と方向に需要が変化するという意味で短期の現象に関心を向けるなら、とりわけ重要である。ある種の生産物は生産に時間がかかるので、それらの供給を急に増やすことはとりわけ不可能である。したがって、追加の需要がそれらに何の前触れなく向けられると、低い雇用弾力性を示すであろう。ただし、十分な前触れがあれば、雇用弾力性は1に近づくかもしれないが。
生産期間という概念について私がことさらの重要性を見出すのは、この関係についてである。最大の雇用弾力性を提供するためには、それに対する需要の変化の前触れをn時間単位前に与えられる必要があるのであれば、生産物はnの生産期間を持つ、私はこのように言うべきだと思う(1)。明らかに、消費財は全体として、この意味における最長の生産期間を持つ。それは、あらゆる生産過程の最終段階に位置しているためである。したがって、はじめの刺激が消費の増加から有効需要の増加に向かうのであれば、刺激が投資の増加からもたらされる場合に比べて、当初の雇用弾力性は終局的な均衡水準をはるかに下回る。しかも、もし需要の増分が比較的低い雇用弾力性を持つ生産物に向けられるのであれば、〔需要の〕より高い比率が企業家の所得を増やすほうへ行き、より低い比率が賃金稼得者の所得とそのほかの主要費用の要素を増やすほうへ行く。結果として、企業家は賃金稼得者よりも所得の増分からより多く貯蓄しそうなため、この反響効果は好ましくないものになるかもしれない。しかしながら、反応の大部分が両者でほぼ同じであろうから、2つの場合を区別することを誇張してはならない(2)。
需要の変化の見込みを企業家に与える前触れがどれほど前もってなされたとしても、生産のすべての段階に超過在庫と超過余力がない限り、投資の所与の増加に反応する当初の雇用弾力性が終局的な均衡値と等しい可能性はない。他方、超過在庫の枯渇は、投資が増えるその量に相殺効果を持つであろう。もし、当初すべての〔生産〕段階にある程度の超過があると考えるのであれば、当初の雇用弾力性はほぼ1であるかもしれない。それから、在庫が吸収された後であるが、供給の増分が生産のより上流段階から適切な比率で流れくる前に、弾力性は落ち込む。そして、新たな均衡点に近づくにつれて再び1に向かって上昇する。しかし、これは雇用が増えるにしたがい、あるいは利子率が高まるにしたがい、より多くの支出を吸収する賃料の要素がある限り、ある種の留保条件に晒される。これらの理由によって、変化に晒される経済の中で物価の完全な安定性〔を達成するの〕は不可能である。――確かに消費の傾向にちょうど正しいだけの変動を保証する、ある種奇妙なメカニズムが確かに働かない限りにおいて。しかし、このように現れる物価の不安定性は、超過余力にもたらしがちである種類の利益に対する刺激を導かない。というのも以外の利得は、生産の比較的進んだ段階の生産物をたまたま保有していた企業家によって完全に回収されるであろう。そして、正しい種類の特別な資源を企業家に彼自身がこの利得を引きつけるようにすることは何もない。したがって、変化による避けがたい物価の不安定性は企業家の行動に影響を与えることはできないが、幸運な人の膝の上に事実上の意外の富が単に向けられる(考えられていた変化はほかの方向であるときには、適宜修正を加えて)。この事実は、物価安定を目的とする現実の政策に関するいくつかの現代的な議論では見過ごされてきたと思う。変化しがちな社会において、そのような政策は完全には成功しないというのは事実である。しかし、物価の安定からのわずかな一時的な乖離のすべてが、累積的な不均衡を引き起こすということはない。
脚注
(1)これは通常の定義と同じでないが、アイデアの中で重要なものを具体化するように思える。
(2)上の話題に関するより進んだ議論は『貨幣論』[ケインズ全集第5巻]の第6篇に見出される。
Ⅲ
有効需要が不足しているとき、今の実質賃金より少ない賃金で喜んで働くであろう、雇われていない人がいるという意味で、不完全雇用があることを示したところである *。結果として、有効需要が増えるにしたがい、実質賃金は今と比べて同じか少なくなるが、雇用は増える。〔雇用が増えるのは、〕今の実質賃金で雇用可能な働き手の余りが1人もいなくなる点、つまり貨幣賃金が物価より速く(この点から)上昇しない限り、雇用可能な人は1人もいなくなる(あるいは1労働時間も雇用できなくなる)点までである。次の問題は、この点に達してもなお支出が増え続けた場合に、何が起きそうかということである。
この点に至るまでは、所与の資産装備により多くの働き手をあてがうことから得られる利益の減少は、働き手がより少ない実質賃金に甘んじることによって相殺されてきた。しかし、この点〔に至った〕後、労働単位は生産量の増分と同等の誘因を求めるかもしれない。他方、さらに〔労働〕単位をあてがうことから得られるのは逓減した量の生産物かもしれない。したがって、厳密な均衡の条件は、賃金と物価、そしてその結果である利益のすべてが支出と同率で上昇することを要求する。ただし、産出量と雇用量を含む〈実質〉の量は、あらゆる点で変わらないままに、である。すなわち、(〈速度〉を〈所得速度〉の意味にとる)荒削りな貨幣数量説が完全に満たされる状態に至る。というのも、産出は変わらず物価はMVに対して厳密な比率で上がるからである。
しかしながら、それを現実に適用するとき留意しなければならない、この結論に対するいくつかの現実的な留保条件がある。:
(1)少なくともしばらくの間、物価の上昇が企業家を錯覚させ、生産物で測った彼ら個々の利益が最大になる水準を超えて〔企業家は〕雇用を増やすかもしれない。というのも、彼らは貨幣表示の売上収益が増えることを生産拡張のシグナルにすることにあまりに慣れているので、この政策が現実には彼らにとっての最善の利点であることを止めた後も、それをし続けてしまうかもしれないからである。つまり、彼らは新たな価格環境における限界使用費用を過小評価している。
(2)彼の利益のうち、金利生活者に受け渡される部分は貨幣表示で固定されているので、たとえ産出の何らの変化とも調和しないとしても、物価の上昇は企業家にとって有利になり、金利生活者にとって不利になるように所得を再分配するであろう。これに対して消費の傾向が反応するかもしれない。しかし、これは完全雇用が達成されたときからだけ始まるだろう過程ではない。――支出が増えるときはいつも着実に進行するであろう。もし金利生活者は企業家より支出を控えめにしがちであれば、反対の仮定が成り立つ場合よりも、段階的に前者〔金利生活者〕から実質所得を取り上げることによって、よりわずかな貨幣量の増加、そしてよりわずかな利子率の引き下げで、完全雇用に至るであろうことを意味する。もし第1の仮定が成り立つのであれば、完全雇用に到達した後にみられる物価のさらなる上昇は、物価が上限なく騰貴するのを防ぐために利子率がある程度上がる必要があること、そして貨幣量の増加は支出の増加率より低いことを意味している *。他方、第2の仮定が成り立つのであれば、反対のことを意味するであろう。金利生活者の実質所得が逓減するにしたがい、相対的に貧困になることによって、第1の仮定から第2の仮定に変わるであろう点が来るであろう。この点には、完全雇用が達成される前あるいは後に到達するかもしれない。
訳注
* under-employmentを、full-employmentに達していない雇用水準という意味で「不完全雇用」と訳出した。間宮版の訳注は、物価騰貴を抑制するには投資を抑制する必要があり、そのために金利が上がり、貨幣量はそれほど増えなくなると指摘している。物価騰貴を抑制するために金融引き締めを実施すべきだ、というのが文意だと思われる。
Ⅳ
おそらく、インフレーションとデフレーションの間にある明らか非対称性に関して、わずかばかり混乱させる何かがある *。というのも、完全雇用のために要求される水準を下回る有効需要の収縮は雇用と物価をともに引き下げるのに対して、この水準を上回る〔有効需要〕の膨張はひとえに物価に影響するだけだからである。しかし、この非対称性は、その雇用量における労働の限界負効用を埋め合わせるに至らない実質賃金で、働き手はその規模での仕事を拒める立場にいつもあるのに対して、その雇用量における労働の限界負効用を埋め合わせるほど多くない実質賃金で、働き手はその規模での仕事を〔企業に〕提供せよと強要する立場にない、という事実の反映に過ぎないであろう **。
訳注
* 間宮版の訳注は、有効需要が完全雇用を達成する水準を超えると、労働の限界負効用が実質賃金を超えるように物価が騰るが、働き手が労働市場から退出することで再び限界負効用と実質賃金が等しくなる。そしてこの状態が続くように有効需要総額、物価、賃金が調和しながら上がると説明している。
** 働き手は、実質賃金+労働の限界負効用<0のとき働くのを拒めるが、実質賃金+労働の限界負効用>0のときに企業に働く場を提供せよと強要できないというのが文意である。塩野谷版の訳注はこの点を詳説している。間宮版の訳注はnot greater than the marginal disutilityをgreater than the marginal disutilityと解釈すべきだと主張しているが、これには疑問が残る。
Ⅰ
経済学者は、価値の理論と呼ばれるものに関わるとき、供給と需要の条件によって価格が支配されると教えてきた。そして、とりわけ限界費用の変化と短期供給の弾力性が特筆すべき役割を演じてきた。しかし、彼らが貨幣と物価の理論〔を取り扱う〕第2巻、あるいは別の論考であることがより多いが、そこに進むと、こうした理解しうるが地味〔な概念を〕耳にすることはもはやない、ある種独特な世界に入り込む。そこで物価を支配するのは貨幣量であり、その所得速度であり、取引量に対する流通速度であり、保蔵であり、強制貯蓄であり、インフレーションとデフレーションであり、あるいはこれらに類するあらゆることである。そしてこうしたよりあいまいな語句を供給と需要の弾力性という以前〔価値の理論で〕取り扱った概念に関係づける試みはほとんどあるいはまったくなされない。もし教えられることを吟味して正当化しようとするのであれば、より簡素な議論では、供給の弾力性はゼロになっていなければならず、需要は貨幣量に比例していなければならない、ということになる。他方、より洗練された〔議論では、〕何ひとつ明らかではない、あらゆることが可能な靄に没入する。私たちはみな、覚醒しているときと夢見ているときとの明らかな〔暗喩としての表現であるが、〕時として月のこちら側にまた時としてあちら側に自らを見出すのに慣れてしまっており、両側をつなぐ道筋や旅路を知らずにいる。
これまでの諸章のねらいのひとつは、この二重生活から逃れ、〔一国〕全体の物価の理論を、価値の理論と密接に連絡させられるように引き戻すことであった。一方に価値と分配の理論、他方に貨幣の理論と経済学を分割するのは誤った分割だと思う。私が提案する正しい分割法は、一方に個別の産業または企業の理論ならびにその所与の資源量を異なる使用先への分配とその報酬の理論、他方に〔一国〕全体の産出と雇用の理論とに〔分ける方法である〕。用いられる資源の総量が一定であり、暫定的に他の産業や企業の諸条件に変化がないという想定にもとづいて、個別の産業や企業の研究に自らを限定する限りにおいて、貨幣の特筆すべき特徴に関わらないというのは事実である。しかし、〔一国〕全体の産出と雇用を決めるものは何かという問題に至るや否や、貨幣経済の完全な理論が必要になる。
あるいはおそらく、定常均衡の理論と移行均衡の理論との間に分割線を引けるかもしれない *。――後者〔移行均衡〕によって、未来に対する見方が現在の状態に影響しうる〔経済〕体系の理論を意味する。というのも、貨幣の重要性は、本質的には、それが現在と未来をつないでいることから生じるからである。異なる使用先に資源を分配することは、未来に対する私たちの見解があらゆる点で固定されており信頼できる世界では、通常の経済的な動機の影響下にある均衡と矛盾しない。――経済は、変化しないものと変化するがその変化のすべては当初から完全に予見されているものにさらに分割できるかもしれない。あるいは、この簡素化された準備段階の研究を、以前の期待が失望に変わりがちであり、未来に関する期待が今日行うことに影響を及ぼすような実世界の問題に適用しうるかもしれない。現在と未来の間を結ぶものという貨幣が持つ独特の性質が私たちの熟考に入り込むのは、まさにこの移行をなしたときである。しかし、移行均衡の理論は、貨幣経済に関するものとして追求されねばならないが、価値と分配の理論に留まり、それとは切り離された〈貨幣の理論〉ではない。とりわけ、特筆すべき性質を持つ貨幣は、現在と未来をつなぐ巧みな装置である。貨幣の語法によらずば、期待の変化が当期の活動に与える影響を議論しはじめることすらできない。GoldやSilver、さらには法貨の役割を担うものを禁じたとしても貨幣を取り除くことはできない。何らかの耐久資産がある限り、それが貨幣の性質を持ちえ、そしてしたがって貨幣経済に特有な問題を惹起しうるのである(1)。
脚注
(1)上記第17章を参照。
訳注
* shifting equilibriumを「移行均衡」と訳出した。『一般理論』では現在と未来をつなぐものが貨幣であるから、貨幣にその役割がない現代経済学の動学的均衡と同じ意味を持たないように、この訳とした。
Ⅱ
単一の産業では、〔その産業が生産する〕特定の〔生産物の〕価格水準は、部分的にはその限界費用に入り込む生産要素への報酬率に、部分的には産出の規模に左右される。全産業に視点を移すとき、この結論を修正する理由は何もない。一般物価水準は、部分的には限界費用に入り込む生産要素への報酬率に、部分的には〔一国〕全体の産出規模、すなわち(装備と技術を所与とした)雇用量に左右される。全体の産出に視点を移すとき、任意の産業の生産費は部分的にほかの産業の産出に左右されるのは事実である。しかし、考慮に入れるべきより重要な変化は、需要の変化が費用と量に与える影響である。全体の需要が変わらないと想定して単一の生産物を隔離して取り上げたときの需要ではもはやなく、全体の需要を取り扱うとき、まったく新しいアイデアを導入する必要があるのは、需要の側である。
Ⅲ
もし、限界費用に入り込む異なる生産要素の報酬率がすべて同率、すなわち賃金単位と同じ比率、で変化すると想定して自らを単純化するのが許されるのであれば、(装備と技術を所与としたときの)一般物価水準は部分的に賃金単位に、部分的には雇用量に左右されるという結果になる。したがって、貨幣量の変化が賃金単位に与える影響は、賃金単位に与える効果と雇用に与える効果が混じり合ったものだと考えられる。
これに関するアイデアを明瞭にするために、想定をさらにもっと単純化して次のように想定しよう。すなわち、(1)求められるものを生産する効率に関して未利用の資源は同質で相互に入れ替え可能であり、(2)限界費用に入り込む生産要素は未利用の超過分がある限りにおいて同じ賃金で満足する、と想定する。この場合、わずかでも未利用分がある限りにおいて、利益は一定であるし賃金は硬直的である。その結果、貨幣量が増えても、わずかでも未利用分がある限りにおいて、物価に何らの影響も与えず、貨幣量の増加によって導かれる有効需要の増加のいかなる増加とも厳密に同じ比率で雇用が増えるであろう。他方、完全雇用に到達するや否や、それ以降は、有効需要の増加と厳密に同じ比率で賃金単位と物価が上昇するであろう。したがって、もし未利用分がある限りにおいて供給は完全に弾力的であり、完全雇用に到達している限りにおいて〔供給は〕完全に非弾力的なのであれば、そしてもし有効需要が貨幣量と同率で変化するのであれば、貨幣数量説は次のようであると宣言できる。:〈未利用分がある限り、貨幣量と同率で雇用は変化するであろう。そして、完全雇用の状態にあるとき、貨幣量と同率で物価は変化するであろう〉と。
しかし、貨幣数量説を宣言することができるように、十分な数の単純化のための想定を導入することによって伝統を満たしたので、ここでは、実際に事柄に影響を及ぼすであろう生じる混乱について考えよう。
(1)有効需要は貨幣量の増加と厳密に同じ比率で変化しないであろう。
(2)資源は同質ではないので、利用が増えるにしたがい利益は逓減し、一定ではないであろう。
(3)資源は取り替え可能ではないので、そのほかの商品を生産するために利用可能な未利用資源がまだあるのに、いくつかの商品は非弾力的な供給条件に至ることがあるだろう。
(4)賃金単位は、完全雇用に達する前に上昇する傾向にある。
(5)限界費用に入り込む要素の報酬はすべて同率で変化することはないであろう。
したがって、貨幣量の変化が有効需要の量に与える影響をまず考えねばならない。そして、有効需要の増加は、一般的に言って、それ自体部分的には雇用量を増やし、部分的には物価水準を上げる力となる。したがって、未利用状態において物価が一定である代わりに、そして完全雇用状態において物価が貨幣量に比例して騰る代わりに、実際には、雇用が増えるにしたがい、段階的に物価が騰る条件を持つのである。つまり、貨幣量の変化に反応する物価弾力性を決定づけることを目指す、貨幣量の変化と物価水準の変化の関係の分析であるところの物価の理論は、したがって、上記の5つの撹乱要因に、それ自体を向けなければならないのである。
〔撹乱要因〕それぞれを順に考えてみる。ただし、これらが厳密に独立であると思うように誘導することは、このプロセスに許されてはならない。たとえば、有効需要が増えることの効果を産出の増加と物価の上昇に分ける比率は、貨幣量が有効需要に関係するその形式に影響を及ぼすかもしれない。あるいはまた、異なる要素の報酬が変化するときその比率が異なることは、貨幣量と有効需要の量との関係に影響を及ぼすかもしれない。分析のねらいは、機械〔的思考法〕や完全無欠の答えを出すブラックボックス化した操作法を提供することにはなく、熟考して特定の問題に答えを出す、整備され秩序だった思考法を私たちに提供することにある *。そして、込み入った要因それぞれを分離して暫定的な結論を得たら、虚心坦懐にそれら要素どうしの相互作用をできる限り考慮に入れなければならない。これが経済学的思考の性質である **。(しかしそれなしでは森で道に迷うであろう)形式的な思考原理を適用するいかなるほかの方法も、誤りに導く。本章の第Ⅵ節で書き留めるような、経済体系の分析を形作る記号を用いた擬似数学の方法には、それは明示的に関連する要素がそれぞれ厳密に独立していると想定しているが、この仮説が許されないとき説得力と権威をすべて失う、という大きな欠点がある。ブラックボックス化された操作がなく、いつでもしていることと言葉が意味するものがわかる、通常の〔言葉をつかった〕議論の中では、必要とされる留保と条件、さらにはのちになされるべき修正を〈頭の後ろに〉残しておくことができる。これは、すべてがゼロになると想定される複雑な偏微分を何ページか〈後ろの〉代数に残せないという〔擬似数学的手法〕にはなし得ない芸当である。近年の〈数理〉経済学の大半は、それが拠って立つ想定と同様の空言であり、著者に自意識過剰かつ助けとならない記号の迷宮の中で、現実世界の複雑さと相互依存関係を見失わせるがままにしている ***。
訳注
* machineを「機械的思考法」と訳出し、method of blind manipulationを以下の文脈から「ブラックボックス化した操作法」と訳出した。blindを議論の詳細が外から見通せないという意味にとった。
** Schmoller著, 田村訳『国民経済、国民経済学および方法』pp.149-150の脚注に同様の章句がある。
*** この段落は、数式が多く登場するPigouのTheory of Unemploymentを念頭に置いて書かれたようである。
Ⅳ
(1)貨幣量の変化が有効需要の量に与える主要な影響は、利子率の影響をつうじたものである。もしこれだけが反応なのであれば、量的な効果は次の3つの要素から引き出しうる。――つまり、(a)それを保有したいという人によって新たな貨幣が吸収されるために、利子率はどれほど下がる必要があるかを伝える流動性選好表、(b)利子率の下落が与えられたとき投資はどれほど増えるかを伝える限界効率表、そして(c)投資の増加が与えられたとき〔一国〕全体の有効需要はどれほど増えるかを伝える投資乗数〔の3つの要素から〕。
しかし、この分析は、私たちの探究に秩序と方法を導入する点で価値があるが、もし(a)、(b)、(c)の3要素自体が部分的にはまだ考慮に入れていない複雑な要素(2)、(3)、(4)、(5)に左右されることを忘れると、人の目を欺くような単純さを表に晒すことになる。というのも、流動性選好表それ自体が、新たな貨幣が所得と産業の流通にどれほど吸収されるかによって左右され、さらにそれはどれほど有効需要が増えて、そしてその増分がどのように物価上昇、賃金上昇、産出と雇用の量に分割されるかによって左右される。しかも、〔資産の〕限界効率は、部分的には、貨幣量の増加に付随する諸環境が未来における貨幣〔政策〕の見込みに対する期待に及ぼす影響しだいであろう。そして最後に、〔投資〕乗数は、有効需要の増加から生じる新たな所得が異なる階層の消費者に分配される方法によっても影響を受けるであろう *。生じうる相互作用のこの一覧が完全でないのは言うまでもない。しかしながら、私たちの目の前にある事実すべてを持つのであれば、確定的な結果を与えるのに十分な同時方程式群を手にすることになる。あらゆることを考慮した上で、貨幣量の増加に対応する、均衡状態にある、有効需要の増分という確たる量がある。しかも、貨幣量の増加が有効需要の量の減少をともなうのはすぐれて例外的な環境下だけである。
有効需要の量と貨幣量との比率は、〈所得の流通速度〉と呼ばれることが多いものと密接な対応関係にある。――有効需要は実際に実現した所得ではなくその期待値であり、純額表示ではなく総額表示であることを除いて。しかし、〈所得の流通速度〉それ自体は何も説明しない名ばかりのものである。それが一定であると期待する理由は何もない。というのも、これまでの議論が示したように、〔所得の流通速度は、〕多くの複雑で変化しうる要因によって左右されるからである。この語を用いると、因果の実際の性質を覆い隠し、混乱以外の何物ももたらさないと思う。
(2)上(p.42〔 第4章第Ⅲ節第3段落〕)で示したように、収穫逓減と収穫一定の区別は、部分的には働き手が彼らの効率に厳密に比例した報酬を得ているかに左右される。もしそうなら、雇用が増えるとき(賃金単位表示の)労働費用は一定である。しかし、所与の等級の工夫(ルビ:こうふ)の賃金がそれぞれの効率によらず一定であれば、装備の効率によらず労働費用は上がるであろう。しかも、もし装備が不均一であり、その一部は産出1単位の主要費用がより多くかかるのであれば、労働費用が上がるために、限界主要費用はそれに加えて上がる。
したがって、一般に、所与の装備からの産出が増えるにしたがい、供給価格は上がる。したがって、産出の増加は、賃金単位のいかなる変化をも除くと、物価の上昇とともにあるだろう。
(3)(2)の状況下で、供給が完全には弾力的でない可能性についてじっくり考えてきた。もし、専門的な未利用資源の量に完全なバランスがあるのであれば、〔未利用資源の〕すべてが同時に完全雇用の点に至るであろう。しかし、一般には、いくつかのサービスや商品の需要は、しばらくの間、それらの供給が完全に非弾力的になるところを超える水準に達するであろう。他方、ほかの方面〔サービスや商品〕には、未利用資源の大幅な超過分があり続けるであろう。したがって、産出が増えるにしたがい、特定の商品群の供給が弾力的ではなくなり、ほかの方面へ需要を振り向けざるを得なくなるような水準にそれらの価格群が上がるような、一連の隘路(ルビ:あいろ)に次々と至る。
しかし、項目(2)と同様にこの項目〔(3)〕の下で、供給の弾力性は部分的には時間の経過に左右される。もし装備の量それ自体が変わりうるのに十分な期間を想定すれば、供給の弾力性はついには大きくなるのは確実である。したがって、失業が広範に広がっているときにもたらされる有効需要の控えめな変化は、そのごくわずかが物価を押し上げ、大半が雇用を増やす力となる。他方、予期せぬ大きな変化は、いくつかの一時的な〈隘路〉に至らしめ、当初よりその後により大きく、雇用と区別される物価を押し上げる力となる。
(4)賃金単位は完全雇用に至る前に上がる傾向にあるかもしれないということは、ほとんど説明を要しない。働き手のそれぞれのグループは、ほかの条件が同じならば、自身の賃金が上がることで利得を得るであろうから、あらゆるグループがこの方向の圧力を持つのは自然である。企業家は事業が好転しているとき、それに応えるためによりよく準備するであろう。このために、有効需要の任意の上昇の一定の比率は、賃金単位の上昇傾向を満たすように吸収されやすい。
したがって、貨幣表示の有効需要が増えるのに反応して、貨幣賃金が上がらざるを得ない完全雇用の最後の臨界点に加えて、賃金財の価格上昇に完全には比例しないが、有効需要の増加が貨幣賃金を押し上げる傾向を持つ、一連の前段階的な半-臨界点がある。有効需要が減る場合も同様である。実際の経験では、貨幣表示の賃金単位は有効需要のわずかな変化すべてに反応して連続的に変化することはなく、不連続に変化する。こうした不連続点は働き手の心理と、雇用者と労働組合の政策によって決まる。外国の賃金単位に対する〔自国の賃金単位の〕相対的な変化を意味する解放〔経済〕体系において、そして未来に期待される賃金費用の〔現在の賃金単位〕の相対的な変化を意味するであろう閉鎖〔経済〕体系に生じる景気循環にあっても、それら〔不連続に訪れる賃金単位の変化〕は無視できない現実上の重要性を持ちうる。貨幣表示の有効需要がそれ以上増えると賃金単位の不連続な上昇を引き起こしそうな点は、見方によっては、完全雇用状況下で有効需要が増えることによって引き起こる絶対-インフレーション(以下p.303〔本章第Ⅴ節〕参照 )に対する(極めて不完全な)ある種の類推であるところの半-インフレーションが生じる位置とみなせるかもしれない。さらに、それらは歴史的重要性も大いに持つ。しかし、それら自体を理論的に一般化するのは容易でない。
(5)第1の単純化は、限界費用に入り込む多様な要素に対する報酬は、すべて同率で変化すると想定することによる。しかし、実際には、貨幣表示の異なる要素への報酬率は異なる程度の硬直性を示すであろうし、提示される貨幣報酬の変化に反応する供給の弾力性も異なるかもしれない。もしこうでなければ、物価水準は賃金単位と雇用量の2つの要素が複合したものであると言えるかもしれないが。
おそらく、限界費用のうち最も重要な要素は、賃金単位とは異なる比率で変化しがちで、より幅広い限度内で変動する、限界使用費用である。というのも、有効需要の増加が、装備の取り替えが必要になる日について大勢を占める期待に急変をもたらすならば(おそらくこうなりそうだが)、雇用が改善しはじめると、限界使用費用は急増するかもしれないからである。
限界主要費用に入り込む要素すべての報酬は、賃金単位と同率で変化すると想定するのは、多くの目的のために、極めて便利な一次近似であるが、限界主要費用に入り込む諸要素の報酬の加重平均を取り、それを単位費用と名付けるのがよりよいかもしれない。したがって、単位費用、すなわち上記近似の条件下における賃金単位、は価値の本質的な基準とみなせる。そして、所与の技術と装備の下で、物価水準は部分的には単位費用に、部分的には産出規模によって左右され、費用単位の任意の増加率を上回って産出が増える局面では、短期における収穫逓減の原理にしたがって、〔物価水準は〕騰る。この産出を生産するのに十分な要素の量が利用可能な最低の値まで生産要素の代表的な1単位から得られる限界利益が減少するような水準まで産出が増えるとき、完全雇用になる。
訳注
* 所得分配と需要の関係についてはMarshall著, 永澤訳『経済学原理』の を参照。
Ⅴ
有効需要の量がより一層増えても、それ以上産出をまったく増やさず、それ自体が有効需要の増加と完全に比例する形で単位費用を増やす力として使い尽くされるとき、真のインフレーションと呼ぶにふさわしいと思われる状態に至ったことになる。この点に至るまでは、貨幣拡張の効果はまったくの程度問題である。インフレーションの状態がはじまる宣言ができるような、確定的な線を引ける点は、それ以前には存在しない。〔その点に至る〕前のいかなる貨幣量の増加それ自体は、それが有効需要を増やす限りにおいて、部分的には単位費用を引き上げ、部分的には産出を増やす力になる。
したがって、それを上回ると真のインフレーションがはじまる臨界水準の両側に、ある種の非対称性があるようである *。というのも、有効需要が臨界水準を下回って収縮すると、費用単位で測るその量が減るであろうし、有効需要がその水準を上回って拡大すると、一般には、費用単位表示の量が増える効果を持たないであろうから。この帰結は、生産要素とりわけ働き手は貨幣報酬を減らされるのに抗いがちである一方、〔貨幣報酬〕が増やされるのに抗うのに対応する動機はまったくないという想定から得られる。しかし、この想定は、変化、それは全般的な変化ではないが、はその変化が上方に向かうものであれば特定の要素の利益になるような影響をもたらし、下方に向かうものであれば悪影響をもたらす事実にしっかり根差しているのは明らかである。
反対に、もし完全雇用を下回る傾向にあるときはいつでも貨幣賃金が限りなく下がるとすれば、非対称性は消滅するのは確かである。しかし、この場合には、利子率がそれより下がり得ないところに至るか賃金がゼロになるかしない限り、〔均衡に〕落ち着く、完全雇用を下回る場はまったくなくなるであろう。実際、固定されていなくとも少なくとも粘着的であるような、貨幣〔経済の〕体系に何らか価値の安定を与えるような貨幣表示の価値の、ある種の要素を持たねばならない。
貨幣量のいかなる増加もインフレ的である(インフレ的によって、ひとえに物価の上昇を意味する限りにおいて)という見方は、生産要素の実質報酬を減らすと、それらの供給が縮減するであろう状態にいつもあるという古典派理論の想定を基礎付けるものと密接な関係にある **。
訳注
* 間宮版の訳注は、この点については第20章第Ⅳ節を参照すべきだと書いている。
** 間宮版の訳注は、不完全雇用状態においては貨幣量の増加が必ずしもインフレ的ではないというのがKeynesの理論だとしている。
Ⅵ
第20章で導入した表記法の助けを得て、お望みであれば、上記の文意を記号の形式で表現することができる。
MV=Dと書こう。ここでMは貨幣量、Vはその所得速度(この定義は、上記で示したような詳細において通常の定義とは異なる)、そしてDは有効需要である。それで、e_p(=Ddp/pdD)が1という条件の下で、もしVが一定であれば物価は貨幣量と同率で変化するであろう。この条件はもしe_o=0またはe_w=1のとき満たされる(上記p.286〔第20章第Ⅱ節〕を参照 )。e_w=1という条件は、e_w=DdW/WdDであるので、貨幣表示の賃金単位が有効需要と同率で上がることを意味する。そしてe_o=0という条件は、e_o=DdO/OdDであるので、有効需要がさらに増えてもそれに対する産出の反応はもはやまったくないことを意味する *。いずれの場合にも産出は変化しない。
次に、弾力性の概念をさらに導入することで、所得速度が一定でない場合を取り扱うことができる。すなわち、貨幣量の変化に反応する有効需要の弾力性〔を導入することで〕。
e_d=MdD/DdM
これは次式をもたらす **。
Mdp/pdM=e_p・e_d ここで、e_p=1-e_e・e_o(1-e_w)
それで
e=e_d-(1-e_w)e_d・e_e・e_o
=e_d(1-e_e・e_o+e_e・e_o・e_w)
ここで、下添字がない e(=Mdp/pdM)は、この〔弾力性の〕ピラミッドの頂点を表象し、貨幣量の変化に対応する貨幣物価の反応を計測する。
この最後の式は、貨幣量の変化に対する物価の変化の比率を与えるから、貨幣数量説の一般化された声明であるとみなすことができる。私自身はこの種の計算に大きな価値を見出してはいない。むしろ、上で与えた警告を〔次のように〕繰り返したい。〔すなわち、〕それら〔の数式をつかった議論〕は、通常の〔言葉をつかった〕議論とちょうど同じくらい、どの変数を独立であると取る(偏微分を終始無視する ***)かということについて暗黙の想定を置いているが、〔数式をつかった議論〕が通常の〔言葉をつかった〕議論よりわずかでも前へ進んでいるかは疑わしい。おそらく、それを本格的な〔数学の〕形式にしたがって表すことを試みるとき、〔数式〕を書き留めることで叶えられる最良の目的は、物価と貨幣量の関係が恐ろしく複雑であることを示すことである。しかし、貨幣量の変化が物価の変化に及ぼす影響を左右する4つの項 e_d、e_w、e_e、e_o のうち、e_dはそれぞれの状態で貨幣需要を決める流動性要因であり、e_wは雇用が増えるにしたがい貨幣賃金が上がる程度を決める働き手の要因(あるいは、より厳密には主要費用に入り込む要因)であり、e_eとe_oは今ある装備により多くの雇用があてがわれたときに減少する収穫率を決める物的要因である ****。
もし公衆が彼らの所得を貨幣で保有する比率を一定に保つのであれば、e_d=1である。もし貨幣賃金が固定されていれば、e_w=0である。もし限界収穫が平均収穫に等しいという意味で終始収穫が一定なのであれば、e_e・e_o=1である。そして、もし働き手または装備のいずれかが完全雇用の状態にあるならば、e_e・e_o=0である *****。
ここで、もしe_d=1かつe_w=1 であれば、あるいはe_d=1、e_w=0、かつe_e・e_o=0であれば、あるいはe_d=1かつe_o=0であれば、e=1である ******。そして、e=1になるそのほかの特定の場合も多くあるのは明らかである。しかし、一般には、eは1ではない。そしておそらく、現実世界に即し、e_dとe_wが大きくなる〈通貨からの逃避〉の場合を除いたもっともらしい想定の下では、eが1を下回るのがふつうである *******。
訳注
* 塩野谷版の訳注は、e_o=DdO/OdDではなくe_o=DwdO/OdDwだと指摘して原文の数式を書き換えている。間宮版にも同様の指摘がある。ここでは訳注での指摘にとどめる。
** 塩野谷版の訳注は、この辺りの弾力性を用いた式の展開に誤りがあると指摘し、原文の数式を書き換えている。間宮版でも同様の手当がなされている。ここでは訳注での指摘にとどめる。
*** 間宮版の訳注は、この注意書きを「ほかの条件が同じならば(ceteris paribus)」の意味に受け取っている。
**** 塩野谷版の訳注は、上で数式を修正したことを受けて、この段落にある複数の弾力性についても原文の表記を書き改めている。本訳書では判断を保留し訳注での指摘にとどめる。
***** 塩野谷版の訳注は、上で数式を修正したことを受けて、この段落にある複数の弾力性についても原文の表記を書き改めている。本訳書では判断を保留し訳注での指摘にとどめる。
****** 塩野谷版の訳注は、上で数式を修正したことを受けて、この段落にある複数の弾力性についても原文の表記を書き改めている。本訳書では判断を保留し訳注での指摘にとどめる。
******* 間宮版の訳注は、〈通貨からの逃避〉を、手にした貨幣を全額購入につかう状況だと捉えている。
Ⅶ
ここまで、短期において貨幣量の変化が物価に影響を及ぼすそのしかたについて主に関心を寄せてきた。しかし、長期において何らかのより単純な関係はないのであろうか?
これは純粋理論というよりむしろ歴史的な一般化の問題である。流動性選好の状態に長期的な均一性の尺度に対して何らかの傾向があるのであれば、悲観も楽観もある期間をまとめて平均を取ると、国民所得と貨幣量との間にある種の緩やかな関係があるかもしれない。たとえば、利子率がある心理的な下限を上回っているという条件下で、人々が長期にわたり快く遊休残高の形でより多くは保持しないであろう、国民所得のある種おおよそ安定した比率があるかもしれない。それで、もし活動的流通に要求される分を超える貨幣量が国民所得のこの比率を超えると、利子率がこの下限の近傍まで下がるのは時間の問題であろう。それから、利子率の下落は、ほかの条件が同じならば、有効需要を増やし、有効需要の増加は、それに対応する影響を物価に伴いながら、賃金単位が不連続に上がる傾向を示すであろう1つあるいはそれより多い半-臨界点に至らしめる。国民所得に対する貨幣の超過量がふつうではないほど低いとき、反対の傾向がその場を得るであろう。したがって、期間を通じた変動の純影響は、公衆の心理が早晩〔平均に〕回帰する傾向によって、国民所得と貨幣量との安定的な比率と調和する平均値を打ち立てるであろう。
おそらく、こうした傾向は〔景気の〕後退局面より拡張局面に、より少ない摩擦で働くであろう。しかし、もし長期にわたって貨幣量が極めて不足したままであれば、貨幣量を増やすために、賃金単位を強制的に引き下げ、それによって負債の重荷を増やすよりもむしろ、通常は貨幣標準か貨幣システムを変えるという回避策が見出されるであろう。したがって、超長期にわたる物価の足取りは、ほとんどいつも上昇に向かうものであった。というのも、貨幣が相対的に豊富であるとき賃金単位は上がり、貨幣が相対的に希少であるとき貨幣の有効量を増やす何らかの手段が見出されるからである。
19世紀の間、人口の成長と発明の増加、新天地の開拓、(たとえば)それぞれの10年における平均以上の確信の状態と戦争の頻度は、消費の傾向と相まって、富の所有者が心理的に受け入れるのに十分な高さの利子率と調和する、合理的に満足のいく雇用の平均的な水準を許すような資産の限界効率表を打ち立てたようにみえる。150年ほどの長きにわたり、主要な金融センター〔が提示する〕典型的な長期利子率は5%ほどであった。そして金箔で縁取られた英国債の利回りは3%から3.5%の間にあった。そしてこれらの利子率は、我慢できないほど低くはない平均的な雇用と矛盾しない投資率を勧めるのに控えめながら十分なものであった。賃金単位表示の貨幣量は、上で示唆された標準的な率をはるかに下回ることは滅多にない利子率で、通常の流動性選好を満たすに十分であることを保証するように調節されるのは、時として賃金単位であるが、しかしより多くの場合、貨幣標準あるいは貨幣システム(とりわけ銀行貨幣の開発をとおして)である。賃金単位は総じていつも着実に上昇傾向にあったが、働き手の効率も向上してきた。したがって、これらの力がバランスして、物価安定の程よい測定を許すようなものであった。――1820年から1914年のSauerbeckによる指数値の5年平均の最大値は下限から50%上にあるに過ぎなかった *。これは偶然ではなかった。雇い主の個々のグループは、生産効率をはるかに上回る速さで賃金単位が上がることを回避するに十分なほど強い立場にあった時代、そして時同じくして、貨幣システムが十分流動的であるが、また、流動性選好の影響下にある富の所有者によって快く受け入れられる平均的な利子率の下限が優勢になるのを許すような、賃金単位の平均的な貨幣供給を提供するに十分なほど保守的であった時代には、それは力がバランスすることによるものだと描写されるのは正しい。もちろん、平均的な雇用水準は完全雇用に遠く及ばなかったが、それでも革命的な変革が暴発するほどの〔水準〕を下回るような、我慢ならない〔水準に至る〕ほどではなかった。
今日、そしておそらくは未来に、資産の限界効率表は、様々な理由により19世紀にあった位置と比べてはるかに低い位置にある。したがって、雇用に合理的な平均水準を取ることを許すような平均的な利子率は、富の所有者が受け入れられないほどのものであり、単に貨幣量を操作するだけでは〔富の所有者が受け入れられる利子率の水準を〕容易に打ち立てることができないという可能性が立ち現れるのは、現代の私たちに課せられた問題が殊に重大でありまた独特であるためである。賃金単位表示の貨幣を適切に供給すると想定するだけで、我慢できる雇用水準を10年、20年、30年平均で達成できるということなら、19世紀においてもその方途を見出すことができた。もしこれだけが今日の問題なのであれば――もし必要なことのすべては十分な程度の減価なのであれば――今日においても方途を見出すことができるであろう。
しかし、現代経済において最も安定的で最も変わりにくい要素は、富の所有者一般が受け入れられる利子率の下限である。これまでそうであったし、未来においてもそうかもしれない(1)。もし我慢できる雇用水準が要求する利子率が、19世紀に支配的であった平均的な利子率よりはるかに低いのであれば、単に貨幣量を操作するだけで〔我慢できる雇用水準が要求する利子率〕を達成できるのか甚だ疑問である。資産の限界効率が借り手に獲得できると期待させることを許す率の利得から、次のようなものが差し引かれなければなければならない。すなわち、(1)借り手と貸し手をまとめる費用、(2)所得税と付加税、(3)リスクと不確実性を紛らわせるために貸し手が要求するプレミアム、である。これらは富の所有者が流動性を犠牲にする気にさせるために必要な純収益に至る前に〔差し引かれるべきものである〕。もし我慢ができる平均雇用の条件にまつわるこの純収益がほとんどないと判明するならば、古来〔より使われてきた〕方法は使えないことが確かめられるかもしれない。
目下の主題に立ち返ると、国民所得と貨幣量の長期的関係は流動性選好に左右されるであろう。そして、物価の長期的な安定性と不安定世は、生産システムの効率向上の率と比べたときの、賃金単位(あるいはより正確に、単位費用)の上昇傾向の強さに左右される。
脚注
(1)Bagehotによって引用された「大概のことに我慢できるジョン・ブルも、2%〔の利子率〕には我慢できない」という19世紀の言い習わしを参照 **。
訳注
* Sauerbeckの指数についてOECDの解説がある。https://stats.oecd.org/glossary/detail.asp?ID=5689 さらに次の論考も参照。https://www.jstor.org/stable/2276597 、https://archive.org/details/jstor-2276597/page/n3/mode/2up ケインズ全集ではこちらを参照。https://www.cambridge.org/core/books/collected-writings-of-john-maynard-keynes/diffusion-of-price-levels/6BAD245609AE8CEEA29EB07BAD2DF97B
** Bagehot, Walter著, 久保恵美子訳『ロンバード街』第6章, p.158からの引用である。塩野谷版は、1910年に出版された第12版の原文ではpp.140-141にあると指摘している。なお、Keynes『人物評伝』p.186によると、Bagehotはユニヴァーシティ・カレッジ・オブ・ロンドンの学外試験官を勤めたことがあるようである。また、von Böhm-Bawerk著, 塘訳『国民経済学 ―ボェーム・バヴェルク初期講義録―』p.147に「オランダ人は、2%の収益が見込まれさえすれば貯蓄を決意するが、他の国、特に文化程度の低い国民の場合、決してそうはしない」とある。典型的な英国人の代名詞「ジョン・ブル」は、John Arbuthnot(1667-1735)の風刺物語『ジョン・ブルの研究(History of John Bull)』(1712)から定着したようである。彼は『ガリバー旅行記』で有名なジョナサン・スイフトの友人である。この点については蓑谷千凰彦『推定と検定のはなし』東京図書, 1988年, p.7を参照。
https://www.historic-uk.com/CultureUK/John-Bull/