J.M. ケインズ『雇用、利子及び貨幣の一般理論』の試訳 by K. Sasaki
Keynes, John Maynard, 1936, General Theory of Employment, Interest and Money
‘ ’ ・・・〈〉
“” ・・・《》
()・・・()
[] ・・・ []
Capital・・・太字
Italic・・・イタリック
〔〕・・・訳者による補足
著者脚注は節の最後に番号を付して並べる。
訳者の注は節の最後に * を付して並べる。
人名は英語で記す。
指示代名詞には極力指し示す語を挿入して訳出する。
関係代名詞等でつながる長い文は、複数の文に分ける。
I, We, Our, Usなどは、日本語の作法にしたがい、多くの場合訳出しない。
Ⅰ
個人が貯蓄するという活動は――いわば――今晩外食しないという決断である。しかし、それは必ずしも1週間後、あるいは1年後に外食したり1組のブーツを買ったりしようという決断、あるいは特定のものを特定の日に買う決断を意味しない。したがって、消費というある未来の行動のために準備する事業を刺激することなしに、今晩の外食を準備する事業を沈滞させる。未来の消費需要は現在の消費需要の代わりにはならない。――これは、そのような〔消費〕需要の純減である。しかも、未来の消費に対する期待は現在の消費という今の経験に強く依拠しているので、後者〔現在の消費〕が減ると前者〔未来の需要〕は沈滞する可能性が高い。そして、貯蓄という行動は消費財の物価を単に押し下げるだけで今ある資産の限界効率が変わらないとも思われるが、実際には後者〔限界効率〕をも沈滞させる傾向にあるかもしれない。この場合、現在の消費需要のみならず現在の投資需要さえも減ってしまうかもしれない。
もし貯蓄が現在の消費を慎むことのみならず、同時に未来の消費のための注文提出にも帰着するのであれば、確かに効果は異なるかもしれない。というのもその場合、ある未来の投資収益の期待は改善され、現在の消費のために準備することから解放された資源は、未来の消費のために準備するのに転用しうるかもしれないからである。この場合においてさえ、それは、解放された資源量と同じ規模である必要はないであろう。なぜなら、望ましい遅延の間隔は、生産手段が、効率が当期の利子率をはるかに下回るほどに不便な〈迂回〉であることを要求するかもしれない。消費のための先約が雇用に与える好ましい影響は、直ちにではなく後日に現れるという結果になるであろう。貯蓄のその場の効果は、それでも雇用に反するものかもしれない。しかしいずれにせよ、貯蓄するという個人の決意は、いかなる特定の消費の先渡し注文を提出することとも関係せず、単に現在の注文を取り消すだけであるというのが実際の事実である。したがって、消費の期待はひとえに雇用の存立基盤であるから、ほかの条件が同じならば、消費の傾向が落ち込むことは雇用を沈滞させる効果を持つという結論は何ら逆説的なものではないはずである。
したがって、貯蓄という行動は、貯蓄された価値と等しい現在の消費によって要求されるはずであった今の経済活動とちょうど同じだけの準備を要求するある特定の追加の消費という現在の消費の代わりではなく、〈富〉のようなもの、つまりある不特定の品目を不特定のときに消費する潜在力を求める欲求を示唆するということから、困難が生じる。有効需要のために、個人の貯蓄という行動は個人の消費という行動と同じくらい望ましいという普遍的ではあるが愚かしい考えは、富を保有したいという欲求の高まりは投資物件を保有したいという欲求の高まりとほぼ同じものだが、投資需要を増やすことで〔投資物件〕の生産を刺激するから、当期の投資は個人の貯蓄によって現在の消費の減少分と同じだけ促進されるという誤謬によって育てられ、そこから引出される結論よりはるかに正しくみえる。
この誤謬こそは、人々の胸中から取り去るのが最も難しいものである。それは、富の所有者は固定資産を求めるようにみえるが、その実求めているのは見込収益であると信ずることによる。ここで、見込収益は、未来の供給条件に関係づけられた未来の有効需要への期待に左右される。したがって、貯蓄という行動が見込収益を何ら改善しないのであれば、投資を刺激するものは何もない。しかも、貯蓄する個人が富の所有権を得るというねらいを達成するために、その個人を満足させるような新しい固定資産を生産する必要はない。個人による貯蓄という単純な行動には、上で示したような二面性があるが、ほかの誰かから彼に古いまたは新しい富のある品目を移転させる強制力を持つ。いずれの貯蓄という行動も、貯蓄する人に対する〈強制的〉で抗しがたい富の移転をともなう。反対に、彼がほかの誰かの貯蓄のために悩まされるかもしれないが。こうした富の移転は、新たな富の創造を必要としない。――確かに、分析したように、〔富の移転〕は〔新たな富の創造〕に対して大いに有害である。新たな富の創造は、新たな富の見込収益が当期の利子率によって定められた基準に届いているか否かに完全に左右される。限界的な新規投資から得られる見込収益は、新規投資から得られる見込収益は特定の日に特定の品目に対する需要の期待しだいであり、誰かが富を増やそうと願うことによっては増えない。
富の所有者が求めているのは、所与の見込利益ではなく獲得しうる最善の見込利益であると議論することによっても、この結論を避けられない。それは、富を保有したいという欲求の高まりが新規投資物件の生産者が満たすべき見込利益を押し下げるからである。というのも、これは実物固定資産の所有権の代わり、すなわち貨幣と債券の所有権、がいつもあるからである。それで、新規投資物件の生産者が満たすべき見込利益は当期の利子率によって定められた基準を下回って下がり得ない。そして、当期の利子率は、すでにみたように、富を保有したいという欲求の強さではなく、〔非流動的な〕形式での富の供給に対する〔流動的な〕形式での富の供給の量と相まって、〔富を〕流動的な形式あるいは非流動的な形式で保有したいという欲求の強さに左右される。もし読者が自ら混乱しているのを見出すのであれば、貨幣量が変化しないのに新たな貯蓄という行動が、今の利子率において流動的な形式〔で富を〕保有することを求める合計が減るのはなぜか、自問自答していただきたい。
理由をさらにより深く掘り下げようとすると現れるであろう、ある種のより深い混乱については、次章で考えることにしたい。
Ⅱ
耐用期間をつうじて、導入費用を超える収益をもたらすものとしての資産について語るのは、その生産性について語るよりはるかに望ましい。というのも、耐用期間をつうじて、資産が初期の供給価格より多くの総価値を提供するサービスが収益をもたらすという見込みを提供する理由は、ひとえにそれが希少だからである。そして〔資産〕は、貨幣利子率と争わなければならないために希少であり続ける。資産の希少性が低下すると超過収益は減るであろう。〔超過収益〕は、生産性が低下することなく〔減る〕――少なくとも物的な意味では。
したがって、すべてが労働によって生産されるという古典派以前の学説に共感を覚える。〔生産は、〕かつて技芸と呼び慣らされ現在技術と呼ぶところのものによって、その多寡によって賃貸料が無料であったり有料であったりする天然資源によって、そしてこれも多寡に応じて価格が決まるところの資産に結実する過去の労働の結果によって助けを得ている。もちろん、企業家とその支援をする人たちの個人的な献身を含む労働を、所与の技術、天然資源、資産設備、そして有効需要で営まれる生産の、唯一の要素としてみなすのは望ましい。このことは、貨幣と時間の単位を除いて、経済体系が要求する唯一の実物単位として労働単位を取ることができた理由を部分的に説明する。
ある種の長い、迂回的な〔生産〕プロセスが物的な効率性を持つのは真実である。しかし、短いプロセスについてもそれは同様である。長いプロセスはそれが長いからといって物的な効率性を持つとは言えない。長いプロセスのいくつかは、おそらくその大部分は物的な効率性がとても低いであろう。というのも、〔それは〕時間の経過とともに痛んだり減耗したりするかであるからである(1)。所与の労働力で、迂回的プロセスに具現化される、有利に用いうる所与の労働力にははっきりとした上限がある。そのほかのことを考慮外としても、機械を製造するのに雇われるべき労働の量と、それを使うのに雇われるであろう労働の量の間に、適切な比率がなければならない。たとえ物的な効率性は高まり続けていても適用されるプロセスがより迂回的になるので、価値の究極的な量は雇われた労働量に比して無限に増えない。もし完全雇用の達成に資産の限界効率が負になるほど多くの量の投資が必要となる状態をもたらすほど消費を延期する欲求が強いのであれば、そのときに限り、プロセスは単に長いというだけで利点になる。そのような場合には、延期することによる利得が非効率を上回る十分な長さを持つ、物的に非効率なプロセスを用いるべきである。短いプロセスは物的な効率が生産物をより速やかに出荷できるという利点を上回るほど十分に希少であり続ける必要がある。したがって、正しい理論は正負の利子率いずれにも対応する資産の限界効率という場合を含めるような可逆性を持たねばならない。そして、これができるのは、上で概要を示した希少性の理論だけだと思われる。
しかも、多種多様なサービスや設備が希少であり、したがって必要とされる労働量と比べて費用が嵩むことには、ありとあらゆる理由がある。たとえば、鼻を突く臭いがするプロセスはより高い報酬を要求する。なぜなら、そうでなければ人々はそれを引き受けないからである。リスクのあるプロセスについても同様である。しかし、臭いやリスクのようなものをともなうプロセスに関する生産性の理論を考案することはない。端的に言って、すべての労働力が付帯状況に等しく賛同することはない。(臭いやリスク、時間の経過といった)より少ない賛同しか得られない付帯状況下で生産される品目は、より高い〔販売〕価格を要求できるように十分希少なままにしなければならない、ということが均衡条件として要求される。しかし、もし時間の経過が賛同できる付帯条件になるならば、これは極めて可能性がある場合であり、また多くの個人にとってはすでに持たれているが、もしそうであれば上で述べたように、短期プロセスこそ十分希少なままにしておかねばならない *。
最適な量の迂回が与えられると、要求される集計水準に至るまでに見出しうる、最も効率のよい迂回プロセスを選ぶことになるのはもちろんである **。しかし、最適な量それ自身は、延期したいと思われた消費者需要のその部分を適切な日に提供するようにすべきである。つまり、最適な条件下において、消費者需要が実現すると期待される日に届けるのに最適な方法で生産できるように、生産を組織しなければならないということである。物的な産出が届け日を変えることで増やせるのだとしても、これと異なる日に届けるために生産するのは無用である。――いわゆる食事の皿数がより多くなる見込みがある限り消費者が夕食の時間を前後にずらす場合を除いて。異なる時間に定めることによっていただくことができる食事の詳細すべてを聞いた後で、消費者が8時に夕食をとるのが好ましいと期待されているのであれば、最良の夕食を提供する料理人の仕事は、その時間に〔夕食〕を提供できるようにすることであって、〔料理人にとって〕最良の時間が7:30、8:00、8:30であろうと関係がない。もしいずれの時間をとっても関係がないのであれば、絶対的に最良の夕食を提供することだけが〔料理人の〕仕事になる。社会のある場面では、今より遅く食事をとることによって物理的によりよい夕食が得られるかもしれない。しかし、等しく考えうるほかの場面では、より早く食事をとることによって、よりよい夕食が得られるかもしれない。上で述べたように、私たちの理論はいずれの状況にも適応できる。
もし利子率がゼロであれば、いかなる所与の品目にも、労働費用が最小化されるような、平均的な投入日と消費日の間にある最適な期間がある。――〔最適期間〕より短い生産プロセスは技術効率の点で劣り、より長いプロセスも保管費用や劣化のために効率が劣る。しかし、利子率がゼロを超えていれば、プロセスの長さに応じて増える新たな費用の要素が導入される。そして、最適な期間は短くなり、その品目を最終的に届けるために提供する当期の投入は、増えた費用を十分まかなうように見込価格が上がるまで減らさなければならない。――この費用は利払いと、より短い形式の生産の効率が低下することの両方によって増えるであろう ***。他方、利子率がゼロを下回ると(それが技術的に可能だとして)、反対のこと〔投入が増えること〕が成り立つ。消費者需要の見込みが与えられると、今日実施される当期の投入は、いわば後日はじめる投入という選択肢と競わねばならない。そして結果として、当期の投入が価値を持つのは、より高い技術効率か価格変化の見込みによって、今生産するより後に生産するほうが安くできることが、負の利子率から得られるより少ない利益を相殺するのに不十分なときだけである。大多数の品目においては、見込消費〔の時期〕にわずかに先んじて投入しはじめることは、極端な技術的非効率となるであろう。したがって、たとえ利子率がゼロであっても、先んじて提供しはじめることが利益に叶う消費者需要の見込みの比率には厳密な限界がある。そして、利子率が上がるにしたがい、それに比例して、今日生産するために払う消費者需要の見込みの比率は低下する。
脚注
(1)『〔経済学〕原理』p.583にある、MarshallによるBöhm-Bawerkに関する覚書を参照 ****。
訳注
* 間宮版の訳注は、貯蓄を減らして当期の消費を増やす行為と生産過程を短くして生産を増やす行為を対比させていると指摘している。
** 間宮版は、find up to the required aggregate を「必要とされる集計水準に応じて見つけ出すことができる」と訳出し、訳注で産業分類の目の粗さ(大分類、小分類等)に応じてという意味だとしている。塩野谷版、山形版は異なる解釈をしているようである。この点については判断を保留し、原文にしたがい訳出した。
*** ここでの文意は、生産期間が短くなると生産効率が落ち、また利子率が上がると利払い費用も増えるということである。間宮版にも訳注がある。
**** この引用文は、Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第4分冊, pp.114-115にある。Marshallの解説によれば、「迂回的な」生産にはより多くの資源が投入されるので、資産の限界効率が十分に高くなければ実施されない。Böhm-Bawerkはこの現象の表層をみて「迂回的に」生産された投資物件の限界効率は高いと捉えてしまっている、とMarshallは批評している。「迂回」とは、分業によって生じる生産プロセスの多段階化と捉えられる。たとえば、自動車の製造を、自動車を作るための工作機械の製造と、工作機械を用いて自動車を製造する段階に分けることを意味する。
Ⅲ
資産はその耐用期間と等しい期間、少なくとも利子率と等しい限界効率を持ち続けるのに十分な期間だけ希少性を保つ必要があり、それは心理的、制度的条件によって決定づけられることをみてきた。このことは、その限界効率がゼロになるほど資産をよく備えられ、いかなる追加的投資によっても〔限界効率が〕負となることを悟った社会に何をもたらすであろうか? ただし、貨幣〔価値〕が〈保たれ〉、貨幣がごくわずかな保管費用で安全に保管されるので実際には利子が負になりえない貨幣システムがあり、そして完全雇用の状態で貯蓄する傾向がある社会に。
そのような状況下において、完全雇用の立場からはじめるのであれば、今ある資産の蓄積すべてを活用するような規模で雇用を提供しようとすると、企業家は損失を蒙らざるを得ないであろう。したがって、社会が貧しくなり、一部の個人や集団による正の貯蓄は、ほかの人たちの負の貯蓄によって相殺されて総貯蓄がゼロになるまで、資産の蓄積と雇用水準は減る必要があるであろう。したがって、私たちが考えているような社会のために、自由放任の条件下で得られる均衡点は、貯蓄がゼロになるように雇用水準が低く、かつ生活水準が十分惨めなものになろう。加えておそらく、この均衡点の周りを循環するであろう。というのも、もし未来に対する不確実性の余地があり続けるのであれば、資産の限界効率は時としてゼロを超えて上がり〈ブーム〉に達し、そしてそれに引き続く〈不況〉においては、結局資産の限界効率がゼロとなりそうな水準をしばし下回るために資産の蓄積が減るかもしれない。〔未来を〕正しく見通せると想定して、限界効率が厳密にゼロになる資産の均衡蓄積は、利用可能な労働力の完全雇用に対応する資産の蓄積より少なくなりそうなのはもちろんである。というのも、それが貯蓄がゼロであることを保証する失業率に対応する装備であろうから。
代わりの均衡点があるとすれば、それは限界効率がゼロになるほど資産の蓄積が進むということは、公衆の一部が未来に備える欲求の合計すべてを満足させるほど十分大きな富の量を表してもいる。完全雇用の状態にあってさえ、利子率の形でのボーナスは受け取れない。しかし、完全雇用の条件下での貯蓄の傾向は、限界効率がゼロである水準に資産の蓄積が到達する点でちょうど満たされるべきである。したがって、もしこのより好ましい可能性が助けに入るのであれば、利子率の消失点のみならず、利子率が緩やかに低下する間にある〔ゼロに至る〕前の点にあっても、それが効果を持つかもしれない。
これまで、利子率が負にならない制度的要因という想定を、持越費用がほとんどかからない貨幣という形態の中に見出してきた。しかし、利子率の実際に下がりうる下限がゼロをはるかに上回る制度的、心理的要因があるというのが実際である。とりわけ、借り手と貸し手を結びつける費用と、上で議論したような利子率の未来に対する不確実性は利子率の下限を定める。現況の長期〔利子率の下限〕は、おそらく2%あるいは2.5%の水準にあろう。もしこれが正しければ、自由放任の下で利子率がそれ以上下がりえないという条件で、富の蓄積が増えることの不都合な可能性は、実際の経験からすぐ理解されるであろう。しかも、利子率が到達しうる下限がゼロより十分に高いのであれば、富を蓄積したいという欲求の合計が、利子率が下限に達する前に満たされる可能性は低い *。
〔第1次〕大戦後の大英帝国と米国の経験は、限界効率が利子率より速やかに低下するほどの規模の富の蓄積は、大勢を占める制度的、心理的要因に直面して減り、主として自由放任の条件で、それほど多くない雇用をいかに妨げ、かつまた生産の技術的条件が与えうる生活水準をもいかに妨げうるかという実例であるのは確かである。
同じ技術を持つが異なる資産蓄積〔の段階にある〕2つの同等の社会において、資産蓄積が進んでいない社会は蓄積がより進んだ社会より高い生活水準をしばらくの間楽しむことができるかもしれない。ただし、より貧しい社会が豊かな社会に追いつくと――ご推察のとおり、ついには――ともにミダス王の運命に苛まれる **。この憂慮すべき結果はもちろん、消費の傾向と投資率が公共の福祉のために注意深く制御されておらず、主として自由放任の影響に委ねられるという想定によっている。
もし――どのような理由であろうと――完全雇用の条件下で、資産の限界効率に等しい利子率で社会が貯蓄を選ぶものに対応する率で蓄積が進むとき、利子率が資産の限界効率と同じ速さで下がることができなければ、実際には経済的成果のようなものは何ももたらさないであろう資産の形で富を保有する欲求への転用でさえも経済的福利を増進するであろう。富豪が、生前は自らが住む大豪邸を、死後においては遺体を安置するピラミッドを建設するのに満足を見出したり、あるいは贖罪のために伽藍を建立し、修道院や海外使節のために寄贈したりするのに満足を見出す限り、豊富な資産が豊富な産出を妨げる日は先伸ばされるかもしれない。〈地に穴を掘る〉ことが貯蓄によって賄われるとき、雇用のみならず有用な財貨とサービスという実質国民分配分が増える。しかし、有効需要が受ける影響を一度理解されれば、思慮深い社会が、思いもよらぬそしてしばしば浪費となる転用になすがまま甘んじる理由はない。
訳注
* 間宮版は、there is less likelihood of the aggregate desire to accumulate wealth を「富を蓄積しようとする欲求が飽和してしまう可能性はもっと高くなる」と訳出している。訳注に、less likelihood を文意にあうように more likelihoodとして訳したと記されている。塩野谷版、山形版は原文のまま訳出している。ここでも原文のまま訳出した。
** 塩野谷版の訳注は、貪欲な王ミダスが触れるものすべてをGoldに変える力を神から授かったことが記されている。ミダスは実の娘に触れGoldにしてしまった。触れるものみなGoldにしてしまうミダス王の富は古代から伝わる諺にもなっている。More著, 澤田訳『改版 ユートピア』p.16, pp.104-105、Milton著, 新井・野呂訳『イングランド国民のための第一弁護論および第二弁護論』p.33, p.148、Locke著, 加藤訳『統治二論』p.236、Galiani, Ferdinando著, 黒須純一郎訳『貨幣論』pp.284-285、Steuart, James著, 小林監訳『経済の原理』下, p.619等、古くから言及されてきた。間宮版の訳注は、ケインズがこの神話を「豊かさのただ中にある貧困」の喩えとして挙げたと指摘している。
Ⅳ
利子率は完全雇用に対応する投資率と矛盾しないことを確認する手順を踏んだと想定しよう。さらに、資産装備の成長が現世代の生活水準に不釣り合いな重荷を課すことがない率で飽和点に近づくように、国家の行動が調整要因として入り込むと想定しよう。
こうした想定をすると、現代の技術的資源をもって適切に運営される、人口が急増していない社会では、資産の限界効率の均衡値が一世代のうちにおおよそゼロにまで引き下げられるはずである。そうなれば、変化と成長は技術、好み、人口そして制度の変化によってのみ生じ、消費財の価格を支配するのと同じ原理が資本コストにも相当程度入り込み、労働力等と釣り合いの取れた価格で資産の生産物が売られるような準定常社会の条件を得る。
もし、資産の限界効率がゼロになるほど、資産財を豊富にするのは比較的易しいと考える点で私が正しいのであれば、これこそが資本主義の不都合な特徴の多くを徐々に取り除く最良の方法なのかもしれない。というのも、大きな社会変革は蓄積された富から得られる利益率が緩やかに消滅することで生じるであろうことは、少し考えることで示されるであろうから。そのような〔社会〕であっても、後日支出する目論見で得た所得から、人は自由に蓄積するであろう。しかし、その蓄積は増えない。その人は単にPopeの父の立場にある。〔Popeの父は、〕事業を引退したとき、ギニー貨を詰めた金庫をトゥイッケナムにある彼の実家に運び、そこから必要なだけ生活費を出した *。
貸し手は消え去るが、しかし事業の余地は残されるであろうし、見込利益の推定についての意見は異なりうる。というのも、上記のことは一義的には純粋利子率と結びついており、リスクあるいはそれに類するものにいかなるプレミアムをもみていないからである **。したがって、純粋利子率が負の値を取らない限り、見込収益に疑いが差し挟まれる個々の資産に対する上手な投資に対して、正の収益が存在し続けるかもしれない。リスクを引き受けるのに気乗りしないことがある程度観測されるのであれば、ある期間にわたってそのような資産の合計から正の純収益も存在するであろう。しかし、そのような状況下で、疑いが差し挟まれる投資から収益を得ようとする熱心さは、〔そのような熱心さを持つ〕人々を総じてみると負の純収益であるかもしれないということは、起こり得ないことではない。
訳注
* Bagehot, Walter著, 久保恵美子訳『ロンバード街』第6章,p.153にMacaulayの著作からの引用として英国の詩人Alexander Popeが紹介されている(Macaulayからの引用はpp.152-155)。原文はこちらhttps://www.econlib.org/library/Bagehot/bagLom.html 。この点間宮版の訳注に指摘がある。塩野谷版の訳注によれば、引用元はMacaulay, Thomas Babington, 1855, The History of England from the Accession of James Ⅱ, Copyright Edition, vol.Ⅶ, Leipzig, Bernhard Tauchnitz, pp.132-133である。Smith, Adam著, 村井章子・北川知子訳『道徳感情論』p.296、p.428、p.606に優れた詩人としてPopeが紹介されている。
** apart from any allowance for risk and the like を「リスクあるいはそれに類するものにいかなるプレミアムをもみていない」と訳出した。
Ⅰ
それから貨幣利子率は、新しく生産される固定資産が達成しなければならない限界効率の基準を定めるので、雇用水準の限界を定めるという独特な役割を演ずる。そうあるべきだということは、一見これ以上ない困惑である。ここで、ほかの資産と一線を画す貨幣の奇妙な独自性、利子率を持つのは貨幣だけかどうか、そして貨幣がない経済では何が起こるかについて問うのが自然である。これらの問いに応えるまで私たちの理論の重要性の全容は明らかにならないであろう。
貨幣利子率――読者に思い返していただきたいのだが――は、先渡し契約によってたとえば1年先に受け渡される貨幣の合計が、先渡し契約された〈スポット〉価格あるいは市場価格の合計を超える分を%表記したものにほかならない *。したがって、あらゆる種類の固定資産にとっての貨幣利子率のようなものがなければならない、ということになりそうである。というのも、(たとえば)〈スポット〉渡しをする100クォーターの小麦の本日の交換価値と等しい、1年先に渡される小麦の確定的な量があるからである。もし前者〔1年先に渡される小麦の量〕が105クォーターであれば、小麦-利子率は年利5%と言えるかもしれない。そしてもしこれが95クォーターであれば、それは年利マイナス5%になる。したがって、あらゆる耐久商品にとってのそれ自身に対する利子率――小麦-利子率、銅-利子率、住宅-利子率、そして鉄工所-利子率でさえも、がある。
相場で値がつく小麦のような商品の〈先物〉契約と〈スポット〉契約との違いは、小麦-利子率に対しては確定的な関係があるが、先物契約は先渡しを貨幣表示で値付けし、スポット渡しの小麦単位で値付けしないので、貨幣利子率をも招き入れているという点にある。厳密な関係は次のとおりである。:
小麦の100クォーター当たりスポット価格が100ポンド、1年先に渡される小麦の〈先物〉契約の100クォーター当たり価格が107ポンド、そして、貨幣利子率が5%だと考えよう。〔このとき、〕小麦-利子率はどれほどであろうか? 100ポンドの〔貨幣〕スポットは105ポンドの先渡しを買うことになる。そして先渡しされた105ポンドは、先渡しされる105/107・100(=98)クォーターの〔小麦を〕買うことになる。代わりに、100ポンドの〔貨幣〕スポットは、スポット渡しされる100クォーターの小麦を買うことになる。したがって、スポット渡しされる100クォーターの小麦は先渡しされる98クォーターの小麦を買うことになる。結果として、小麦-利子率は年利マイナス2%となる(1)。
このことから、商品が異なっても利子率は同じであるべきだという理由――小麦-利子率が銅-利子率と同じであるべきだという理由、が何もないといえる。というのも、相場で値付けされる〈先物〉契約と〈スポット〉契約との関係は、商品によって悪名轟くほど異なるからである。このことが私たちが追い求めている手がかりを与えることに気づくべきである。というのも、自己-利子率(と名付けてもよいもの)うちの最高のものこそが牛耳るかもしれないからである(なぜなら、それらの率のうち最高のものこそが、新たに生産される固定資産の限界効率が達成しなければならないものだから)。そして、貨幣-利子率こそがしばしばそれらのうちの最高のものである理由があるかもしれないからである(なぜなら、そのほかの自己-利子率を引き下げる働きをするある種の力は、貨幣-利子率には働かないことを見出せるから)。
いかなるときも異なる商品-利子率がちょうどそうであるように、取引所の仲買人にとってはなじみ深い事実だが、2つの異なる通貨、たとえばスターリング・ポンドとドルについてさえ、利子率は同じでないことも加えてよいかもしれない。というのも、ここでもスターリングで測った外貨の〈先物〉契約と〈スポット〉契約の違いは、一般的に、様々な外貨で同じでないからである。
さて、これら商品の基準それぞれは、資産の限界効率を計測する貨幣と同じ便宜を提供する。というのも、どのような商品も選びうるからである。小麦を例にとろう。任意の固定資産の見込収益を小麦の価値で計算して、小麦単位で測った資産の現在の供給価格に等しい、毎年受け取り続ける一連の小麦割引率は、小麦単位の資産の限界効率をもたらす。もし2種の代替的な基準の相対的価値がまったく変化しないと期待されるのであれば、そのとき固定資産の限界効率は2種の基準のいずれで測ろうとも同じであろう。なぜなら、限界効率を導く分数の分子と分母は、同率で変化するであろうから。しかし、もし代替的な基準の1つがもう1つの価値に対して変化すると期待されるのであれば、固定資産の限界効率も、いずれの基準で測るかに応じて同率だけ変化するであろう。このことを描写するために、代替的な基準の1つとしての小麦が、貨幣表示で年利 a%の率で価値を高めると期待されているという最も単純な場合をとろう。貨幣表示で年利 x%である資産の限界効率は、小麦単位で〔測ると〕すれば x-a%になる。すべての固定資産の限界効率は同じ量だけ変わるであろうから、重要性の順位は、選ばれた基準によらず同じであろう **。
厳密な意味での代表値とみなしうるある種の総合商品があるとすれば、この〔総合〕商品を単位とする利子率と資産の限界効率は、ある意味唯一のthe-利子率であり、またthe-資産の限界効率とみなすことができるかもしれない。しかし、この〔議論の〕道筋には、唯一の価値標準を定めるのと同じ障害が立ちはだかる。
したがって、ここまでで、貨幣-利子率はそのほかの利子率と比べて独自性はないが、厳密に同じ立脚点に立つ〔ことをみた〕。そうであるなら、これまでの諸章でそれに紐づけられる圧倒的な実際上の重要性を与えられた貨幣-利子率の奇妙な独自性はどこにあるのだろうか? 産出と雇用の量が、小麦-利子率や住宅-利子率より貨幣-利子率とより強く分かち難く結びついているのはなぜだろうか?
脚注
(1)この関係を最初に指摘したのはSraffa氏である。Economic Journalの1932年3月号, p.50 ***。
訳注
* forward deliveryを「先渡し」、'spot' or cash priceを「〈スポット〉価格あるいは市場価格」と訳出した。スポット価格とは、あらかじめ定めた未来の日に受け渡しをする先渡し契約ではなく、その場で約定しほどなく決済するスポット取引につく価格である。市場価格とは、先渡し契約で受け渡しを約束した実物資産を引き受けるとき、それを市場で売るときに直面する相場の価格である。これらは派生証券デリバティブスの取引にまつわる語である。Keynesは為替や商品の先物・先渡し相場によく通じていた。金融市場の分析は古くからみられる。為替についてはCournot, Augustin著, 中山伊知郎訳『富の理論の数学的原理に関する研究』第3章、 Walras, Marie Esprit Léon著, 久武雅夫訳『純粋経済学要論』第34章などを参照。
** ここでは、貨幣で測る小麦の利子率 a%がどのような値を取ろうと、すべての資産の限界効率から同率で差し引かれるので、様々な資産の限界効率がその相対的順位を変えることはないことを意味している。間宮版の訳注は、小麦で測った資産の限界効率がx-aになることを式を用いて説明している。
*** Sraffaの論文は次のリンクを参照。https://doi.org/10.2307/2223735 塩野谷版の訳注は、このアイデアはSraffaではなく、1896年に発表された以下のFisherの論考によるものだとしている。https://www.jstor.org/stable/2485877 最近の研究はhttps://www.jstor.org/stable/23290286 。間宮版の訳注は、イタリア人Sraffaは、イタリアの共産主義者Antonio Gramsciの親友であったと記している。さらに、間宮版の訳注は、この脚注が付された段落の「小麦利子率」について解説している。A-rate of of B-interest という表現が多く登場するが、これは「Bで表示したAの利子率」という意味であると指摘している。 加えてA-rate of of A-interestの場合には、「自己利子率」と解釈すべきだとも指摘している。また、2つの図を示して、貨幣表示の小麦利子率と小麦表示の貨幣利子率との相違についても説明している。 小麦を貨幣として用いる考え方は、古くはLocke, John著, 田中・竹本訳『利子・貨幣論』pp.71-72、Steuart, James著, 小林監訳『経済の原理 ―第3・第4・第5編―』p.16にみられる。
Ⅱ
異なる型の資産のための、(たとえば)期間1年の多様な商品-利子率はどのようなものか考えてみたい。商品それぞれを次々に基準としてとるので、この文脈ではそれぞれの商品の利益がそれ自身を単位として測られるものとみなされる。
異なる型の資産が異なる程度で持つ3つの特徴がある。すなわち次のようなものである。:
(ⅰ)ある種の生産プロセスを助けることによって、あるいは消費者にサービスを提供することによって、ある資産が収穫物あるいは産出 q を生産する。〔q 〕は、それ自身を単位に測った値である。
(ⅱ)貨幣を除く大多数の資産は、収穫物を生産するのに使われているか否かによらず、ある種の損耗に晒され、また単に時間が経過することによるある種の費用(相対価値のいかなる変化も除く)に関わる。つまり、〔資産は〕自身を単位に測った持越し費用に関わる。以下においてはもっぱら q-c に関心を寄せるので、qを計算する前に差し引く費用と c に含まれる費用との間に線を引く厳密な場所は、私たちの今の目的にとっては意味を持たない。
(ⅲ)最後に、期間中に資産を処分する力は、潜在的な利便性と安全性を提供する *。資産それぞれが当初同じ価値を持っているとしても、〔処分する力〕は異なる種類の資産で等しくないかもしれない。いわば、期間が終わる時点で産出の形をとる、これに対する対価は何もないが、人々がこれと引き換えに何かを手放す準備をする何かである。(資産に対する収穫またはそれに付随する持越費用を除く)この処分する力が与える潜在的な利便性と安全性のために喜んで手放す量(それ自身を単位として測る)を、流動性プレミアム l と呼ぶことにしよう。
期間をとおして資産を保有することから期待される総利益は、この収益から持越費用を差し引き、流動性プレミアムを加えたものに等しい。つまり、q-c+l に等しい。つまり、q-c+l は任意の商品の自己-利子率である。ここで、q、c、l はそれ自身を基準とした単位で測られる。
通常その収益が持越費用を超える一方で、流動性プレミアムはおそらく無視してよいほどだというのが、製造用資産(たとえば機械)あるいは消費用資産(たとえば住宅)の特徴である。〔これらのうちいずれかの資産は、〕流動材の蓄積、またはそれに対して相殺するいかなる収益もなしに、それ自身を単位とする持越費用を負担する保守整備中の生産用資産もしくは消費用資産を利用に供する。この場合の流動性プレミアムは、特殊な環境においては重要になりうるが、蓄積が控えめな水準を超えるや否や無視できるほどになることが多い。収益がなく持越費用が無視できるほどであり、流動性プレミアムが相当程度あるというのが貨幣〔の特徴である〕。確かに、異なる商品は、それらの中で異なる程度の流動性プレミアムを持つかもしれない。そして貨幣はある程度の持越費用を負担するかもしれない。たとえば安全な〔口座〕管理のために。しかし、貨幣においては流動性プレミアムが持越費用をはるかに上回り、そのほかの資産においては流動性プレミアムが持越費用をはるかに上回るということこそが、貨幣とそのほかすべて(あるいは大多数)の資産との重要な違いである。描写の目的のために〔次のような〕想定をしよう。〔すなわち、〕住宅の収益は q1であり持越費用と流動性プレミアムは無視できるほど小さく、小麦の持越費用は c2であり収益と流動性プレミアムは無視できるほど小さく、そして貨幣の流動性プレミアムは l3であり収益と持越費用は無視できるほど小さいと想定しよう。すなわち、q1は住宅-利子率であり、-c2は小麦-利子率であり、l3は貨幣-利子率である。
異なる種類の資産の期待利益の間の関係を均衡と矛盾しないように決定づけるには、1年の間に期待される相対価値の変化についても知らねばならない。測定の基準として貨幣をとり(この目的のために計算貨幣として用いられるに過ぎず、小麦をとっても差し支えない)、住宅と小麦の期待される上昇率(あるいは下落率)をそれぞれa1、a2とおく。住宅、小麦、貨幣のそれら自身の単位を価値基準とした自己-利子率をそれぞれq1、-c2、l3と名付けた。すなわち、q1は住宅を単位とする住宅-利子率であり、-c2は小麦を単位とする小麦-利子率であり、l3は貨幣を単位とする貨幣-利子率である。また、a1+q1、a2-c2、そしてl3も、価値基準としての貨幣に収められるのと同じ量を意味するものとして、貨幣利子の住宅率、貨幣利子の小麦率、そして貨幣利子の貨幣率と呼ぶのが便利であろう。この表記法を用いると、富の所有者の需要は住宅、小麦、貨幣のいずれに向かうかみるのが容易い。〔すなわち富は、〕a1+q1、a2-c2、l3のうち、最大のものから順に〔向かう〕。したがって、均衡において、貨幣表示の住宅と小麦の供給価格は、選択肢から優れたものを選びようがないように〔決まる〕。――つまり、a1+q1、a2-c2、l3がすべて等しくなる。価値基準の選択は、この結果に違いをまったくもたらさないだろう。なぜなら、ある基準から別の基準に変えると、すべての項が等しく変わるからである。つまり、古い基準に対する新しい基準の、期待される上昇(あるいは下落)率と等しい量だけ **。
さて、通常の供給価格が需要価格より低い資産は新たに生産されるであろう。そして、限界効率が利子率(いずれもそれが何であれ同じ価値基準で測られる)より高いであろう(通常の供給価格をもとにすれば)。限界効率が利子率以上であるものから資産の蓄積は進むにしたがい、限界効率は(すでに示した十分明らかな理由のために)下がる傾向にある。したがって、歩調を合わせて利子率が下がらない限り、〔資産を〕生産するのがもはや割りに合わなくなる点に至る。限界効率が利子率に届く資産が何もないとき、固定資産のさらなる生産は休止に追い込まれるであろう。
その利子率が固定されている(あるいは産出が増えるにしたがい、ほかのいずれの商品利子率より緩やかに下がる)資産(たとえば貨幣)があると(議論のこの段階では単なる仮定として)考えよう。ポジションはどのように調整されるのであろうか? a1+q1、a2-c2、l3は等しくあらねばならず、l3は仮定により a1+q1 と a2-c2より緩やかにしか下がらないのであるから、a1 と a2は上がらなければならない。言い換えると、貨幣を除く全ての商品の、現在の貨幣価格は期待される未来の価格に対して下がる傾向にある。したがって、もしq1 と -c2が下がりつづけるのであれば、いかなる商品を生産しても利益が得られない点に至る。未来のある日の生産費用が、より高い価格が見込める日まで今生産される資産の持越費用を埋め合わせるであろう量だけ、現在の費用を超えて上がると期待されない限り。
産出率に限界を設定するのは貨幣-利子率だという趣旨の以前の主張が、厳密には正しくないということは今や明らかである。言うべきであったことは、資産蓄積一般が進むにしたがい最も緩やかに下がる資産利子率は、そのほかそれぞれの利益が得られる生産を最終的には打ち負かす――直前に言及したような、生産にかかる現在と見込みの費用に特殊な関係がある場合を除いて。産出が増えるにしたがい、自己-利子率は資産が利益が得られる生産の基準を次々に下回る水準へ下がる。――それがなんであろうと、あらゆる資産の限界効率を上回る水準を維持する自己-利子率がついには若干残されるだけになるまで。
もし、貨幣によって価値基準を意味するのであれば、問題を引き起こすのは必ずしも貨幣-利子率ではないのは明らかである。(一部の人が考えるように、)単に小麦や住宅をGoldやスターリングの代わりに価値基準にしようと布告するだけでは、困難を克服し得ない ***。というのも、産出が増えても自己-利子率が下げ渋るなんらかの資産が存在しつづけるのであれば、同様の困難を避けられないのは今や明らかだからである。たとえば、不換紙幣の基準に移行した国では、Goldがこの役割を果たしつづけるであろう。
訳注
* 間宮版の訳注は、the power of disposal over an asset を of an asset と捉えて訳出している。塩野谷版、山形版にはその形跡がみられない。ここでも原文どおり訳出した。
** 塩野谷版の訳注は、貨幣で測る住宅と小麦の利子率を、小麦で測る住宅と貨幣の利子率に変換する手順を数式で示している。
*** 間宮版の訳注は、sterling とは英国の通貨ポンドであると指摘している。スターリング・ポンドと呼び習わされている。スターリングとは、925/1000の純度の銀を表す。残りは銅で造る合金の呼び名でもある。この比率は宝石で有名なティファニー社が定めたと言われる。
Ⅲ
したがって、貨幣-利子率に独特な重要性を付すとき、慣れ親しんだ種類の貨幣は、自らを単位とするあらゆるほかの資産の自己-利子率と比べて、資産全般の蓄積が進むにしたがい基準として自身を単位とする自己-利子率がより下げ渋る、というある種特殊な性質を持つと暗に想定していた。この想定は正当化されるだろうか? 考えるに、次のような貨幣に共通する周知の独特な特徴は〔想定〕を正当化すると思う。打ち立てられた価値基準がこれらの独特な特徴を持つ限りにおいて、貨幣-利子率こそが重要な利子率だとする要約文は有効であろう。
(ⅰ)上記の結論に向かう傾向がある第1の特徴は、貨幣当局の力を除いた民間企業の力の及ぶ範囲では、貨幣は長期、短期ともに生産の弾力性がゼロまたはそれがどれほどであれ大変小さい事実である。――この文脈において生産の弾力性(1)とは、〔貨幣〕1単位が集める労働量の増分に対する、〔貨幣〕を生産するのにあてがわれる労働量の反応を意味する。つまり、貨幣はたやすく創り出せないということである。賃金単位に対してその物価が上がるように量を増やすべく貨幣を製造する企業家によって、労働力を自在に刺激することはできない。管理通貨制度においてはこの条件が厳密に満たされる。しかし、金本位制通貨の場合には、金の採掘が主要産業である国を間違いなく除くと、潜在的に追加しうる、そしてしたがって雇われうる労働量の上限はごく低いという意味で、近似的に〔貨幣を増やすのが難しい〕。
さて、生産の弾力性がある資産の場合、より高い率で産出される結果その蓄積が進むと想定されることは、〔そうした資産の〕自己-利子率が下がると想定する理由になる。しかし、貨幣の場合――賃金単位を引き下げる効果や貨幣当局がその供給を慎重に増やす効果について考えるのをしばらく先延ばしにすると――その供給が固定されている。したがって、労働によってたやすく生産できないという貨幣の特徴は、その自己利子率がほかに比べて下げ渋るという見方のための、ある種自明の仮定を直ちに与える。他方、貨幣が穀物のように育てられ、あるいは自動車のように製造しうるのであれば、不況を避けるかあるいは和らげるであろう。なぜなら、貨幣表示でそのほかの資産の価格が下がる傾向にあるなら、より多くの労働力を貨幣の生産に振り向けられるであろうから。――金採掘が盛んな国々の場合にみられるように。ただし、この方法で振り向けられる労働量は、世界全体でみるとほとんど無視できるほど少ないが。
(ⅱ)しかし、上記の条件は貨幣のみならず、その生産が完全に非弾力的であるあらゆる賃貸の要素〔を持つもの〕によっても満たされるのは明らかである。したがって第2の条件は、貨幣とその他の賃貸の要素〔を持つもの〕とを区別することを求められる。
貨幣〔が持つ〕第2の特異性は代替の弾力性がほぼゼロ、あるいはゼロであることである。これは、貨幣の交換価値が高まるにしたがい、何らかほかの要素が〔貨幣〕に取って代わるという傾向がまったくないことを意味している。――おそらくは、〔Goldのような〕貨幣商品が工業製品の製造や芸術品に用いられるような、とるに足らない程度の例外を除いて。このことは、その効用がひとえに交換価値から導き出されるという貨幣の独自性を導く。それで、2者〔効用と交換価値〕*は比例して上下し、賃貸の要素〔を持つもの〕の場合のような、それがなんらかほかの要素にとって変わられるという動機も傾向もない貨幣の交換価値の上昇を生じる結果になる。
したがって、貨幣を生産するのにより多くの労働力を振り向けることはできないし、需要が増えるときでさえ、貨幣は購買力の底無し沼である。なぜなら、ほかの需要先にこぼれ落ちるような――ほかの賃貸要素〔を持つもの〕の場合にみられる――〔貨幣の〕代わりに需要が振り向けられる価値は何もないからである。
これに対する唯一の留保条件は、貨幣価値が上がることが、この上昇が未来にも続くことに対する不確実性をもたらすときに生じる。そのような場合、a1とa2は上昇し、貨幣-利子の商品-率を引き上げるも同然で、そしてしたがってそのほかの資産の産出を刺激する。
(ⅲ)第3に、それを生産するために労働力を振り向けることによって貨幣量を増やすことができないのだとしても、効力を持つ供給は硬く固定されているという想定は正しくないかもしれないという事実によって、これらの結論が覆されることがないか考えねばならない。とりわけ、賃金単位の引き下げは、そのほかの〔賃金を払うという〕用途から流動性選好を満たすために現金を解放するであろう。他方、これに加え、貨幣残高が社会の富の総額に占める比率は高まるであろう。
純理論の見地に立ち、この反応は貨幣-利子率の十分な引き下げを認めうるであろうと論じるのは不可能である。しかし、私たちが慣れ親しんでいる種類の経済では、貨幣-利子率はしばしば十分に引き下げられない蓋然性が極めて高くなることについて、組み合わせて用いれば説得力を持ついくつかの理由がある。:
(a)まず、賃金単位の引き下げが、貨幣表示のそのほかの資産の限界効率に反応することを許さねばならない。――というのも、気にすべきは、これらと貨幣-利子率の差だからである。もし、賃金単位の引き下げが、その後再び引き上げられるという期待を生成する効果を持つのであれば、結果はまったく好ましいものになる。反対に、もしさらなる〔賃金の〕引き下げの期待を生成する効果を持つのであれば、資産の限界効率に与える反応は利子率の引き下げを相殺するかもしれない(2)。
(b)貨幣表示の賃金は粘着的な傾向にあり、実質賃金より安定しているという事実は、貨幣表示の賃金単位が下落する余地は限られる傾向を示す。しかも、これがもしそうでなければ、状況はより良くなるどころか悪くなるかもしれない。なぜなら、貨幣賃金がたやすく引き下げられるのであれば、資産の限界効率に好ましくない反応をもたらす、さらなる下落の期待をしばしば生成する傾向にあるかもしれないからである。さらに、賃金が何らかほかの商品、たとえば小麦、表示で固定されていれば、〔賃金が〕粘着的であり続ける蓋然性はない。貨幣表示で固定されるとき、賃金は粘着的な傾向を示すということは、貨幣のそのほかの特徴による。――とりわけ、〔貨幣を〕流動的にする特徴による(3)。
(c) 第3に、この文脈において最も根本的な考えに行き着く。すなわち、流動性選好を満たす貨幣の特徴にである。というのも、しばしば生じるであろうような特定の環境下で、これら〔の特徴〕は利子率を鈍感にするであろうし、また、とりわけ〔利子率〕がある値を下回ると(4)、そのほかの富の形式に比した貨幣量を大幅に増やすかもしれない。言い換えると、ある点を超えると、貨幣の流動性から得られる収益は、その量が増えるのにともない減ることはない。〔貨幣〕のほかの種類の資産から得られる収益は、その量が相対的に増えると減るということと並べて考えることはできない。
これに関連して、貨幣の持越費用が安い(あるいは無視できるほどである)ということは重要な役割を演ずる。というのも、もし〔貨幣の〕持越費用が実現するのであれば、未来における貨幣価値の見込みに対する期待の効果を相殺するであろうから。比較的小さな刺激に反応して貨幣残高を増やす公衆の準備は、時の経過とともに持越費用が急増するその姿を満たすために相殺するものを何も持たない(現実のあるいは仮設的な)流動性の利点による。貨幣以外の商品の場合、その控えめな在庫はその商品の利用者に何らか利便性を提供するかもしれない。しかし、より多くの蓄積が、価値が安定した富の蓄積を代表するものとしてある種の魅力を持つかもしれないのだとしても、これは保管あるいは減耗等の形式をとる持越費用によって相殺されるであろう。したがって、特定の点に至った後は、より多くの在庫を保有することによる損失が生じざるを得ない **。
しかし、貨幣の場合には、既にみたように、これはそうではない。――そして、多様な理由によって、すなわち、貨幣そのものの性質を構成するのは、公衆による推定によれば、卓越した〈流動性〉である。したがって、貨幣の品質を保つために、法定費用を払って定期的に法貨に印紙を貼ることを求める措置を通じて、貨幣の持越費用を人為的に生み出すこと、あるいはそれと似た方法によって解決を目論む改革者たちは正しい筋道にいたことになる。彼らによる提案の現実的な価値は、考慮に値するものである ***。
〔原著にはここに1行の空白がある。〕
貨幣-利子率の重要性は、次のような特徴を組みあわせることから生じる。すなわち、流動性の動機の働きによって、貨幣量が貨幣で測ったそのほかの富の形式に対して保つ比率の変化に対して、この利子率はいくぶん反応が鈍いかもしれないという特徴と、貨幣は生産の弾力性と代替の弾力性がともにゼロ(あるいは無視できるほど小さい)である(あるいはそうかもしれない)という特徴を組み合わせることによって。第1の条件は、需要が圧倒的に貨幣に向かうかもしれないことを意味している。第2の条件は、これが起きるとより多くの貨幣を生み出しても労働力が雇われないことを意味している。第3の条件は、貨幣の役割を同様によく果たす能力を持つ、安価な何らかほかの要素をとおして、緩和する何物もないということを意味している ****。唯一の救済は――資産の限界効率の変化を除いた――(流動性に対する傾向が変わらない限りにおいて)貨幣量の増加から、あるいは――形式的には同じことだが――所与の量でより多くの貨幣の仕事をこなせるような貨幣価値の増加からもたらされうる *****。
したがって、貨幣-利子率の上昇は、貨幣の産出を刺激する能力なしに、生産を弾力的にするすべての対象の産出を減速させる(仮定により、〔貨幣〕の生産は完全に非弾力的である)。貨幣-利子率は、ほかのすべての商品-利子率のペースを定めることによって、これらそのほかの商品の生産への投資を抑制する。仮定により、生産し得ないものとされる貨幣を生産するための投資を刺激する能力なしに。しかも、債券に対する流動性現金を求める需要の弾力性のおかげで、この需要を司る条件のわずかな変化は、貨幣-利子率をそれほど大きく変えないかもしれない ******。他方、貨幣生産の非弾力性のおかげで、〔貨幣の〕供給側に働きかけることによって、自然の力が貨幣利子率を押し下げることも非現実的である(公的部門の行動を除いて *******)。通常の商品の場合、その流動在庫を求める需要の非弾力性が需要側のわずかな変化が利子率を急激に上下させうるのに対して、その供給の弾力性は先渡しを超えるスポットの高いプレミアムを妨げる傾向にもあろう。したがって、ほかの商品にとってはそれ自身〈自然の力〉のなすがままとなる。すなわち、完全雇用が現れるまで利子率を引き下げる傾向にある、市場に通常働くこの力は、貨幣の通常の特徴として仮定された供給の非弾力性を商品一般にもたらす。したがって貨幣がないとき、そして貨幣に想定される特徴を持ついかなるほかの商品もないとき――もちろんこれも考えなければならない――利子率は完全雇用が存在するときにだけ均衡に至る。
失業は、人々がいわば月を求めるために生ずる。――人は欲求の対象(つまり貨幣)が生産し得ない何かであり、その需要を自ら絞り得ないとき、人を雇えない。グリーン・チーズは実際上〔月と〕同じものであると公衆を説得し、グリーン・チーズの製造工房(つまり中央銀行)を公的管理のもとに置くほか、これを治す手立てがない ********。価値基準としてGoldを用いるのにとりわけ適したものだと長らく思われていた特徴、すなわち供給の非弾力性、は厳密な意味で問題の根本をなす特徴であることが判明することを指摘しておくのは興味深い。
〔原著にはここに1行の空白がある。〕
(消費の傾向を所与として、)結論をできる限り一般化して述べると次のようになる。あらゆる資産の自己-利子の自己-率のうち最高であるものが、自己-利子の自己-率が最高である資産表示で測ったあらゆる資産の限界効率のうち最高のものと等しいとき、投資率のいかなる増加も不可能になる。
完全雇用ではこの条件が満たされる必要がある。しかし、もし生産の弾力性も代替の弾力性もゼロ(あるいは比較的小さい)(5)である何らかの資産があり、その利子率は、それで測った固定資産の限界効率よりも、産出の増加により密接にしたがって下がるのであれば、この条件は完全雇用に至る前に満たされてしまうこともあるかもしれない。
脚注
(1)第20章を参照。
(2)これは、以下の第19章でより詳細に分析することになる問題である。
(3)もし賃金(そして契約)が小麦表示で固定されるなら、小麦は貨幣が持つ流動性プレミアムのいくばくかを獲得するかもしれない。――次節(Ⅳ)においてこの問題に立ち返る。
(4)上記p.172を参照 *********。
(5)弾力性がゼロであるというのは、必要に求められているものよりも厳しい条件である。
訳注
* 山形版は2者を効用と交換価値と捉えている。ここではそれに倣った。
** stockを文脈によって「蓄積」と「在庫」に訳出し分けた。
*** 『一般理論』第23章第Ⅵ節でSilvio Gesellの印紙付き貨幣が紹介される。
**** これら3点は、上記の(a)(b)(c)に対応すると思われる。
***** 間宮版の訳注は、文意を貨幣量を増やすかデフレにして実質貨幣残高を増やすかだと捉えている。
****** 間宮版の訳注は、owing to the elasticity of demand for liquidity cash in terms of debtを、貨幣の代替弾力性がゼロであるのは実物資産に対してであり、債券に対しては代替弾力性があり、利子率がゼロに近づくにしたがい弾力性が無限に近づくことを指摘している。
******* この公的部門の行動は、中央銀行による金融緩和を指すと思われる。
******** 塩野谷版の訳注は、"the moon is made of green cheese" というフレーズは、軽信を象徴する英国の古い言い習わしだと指摘している。参考文献としてTilly, M.P., 1950, A Dictionary of the Proverbs in England in the Sixteenth and Seventeenth Centuries, University of Michigan Press, Ann Arbor, p.472を挙げている。水面に映る月をチーズに誤認する道化が登場する物語上の場面を象徴するとも言われる。ここでは、Goldを月に、グリーン・チーズをコイン(中央銀行預け金)に見立てている。現代の視点でみると、中央政府と協調する中央銀行が、大量の国債を買い取り量的緩和をすることに比せられる。
********* 原著のp.172は第13章第Ⅱ節の終わりの2段落に対応する。
Ⅳ
上で示したのは、商品が価値基準になることは、その商品の利子率が重要な意味を持つ利子率であることの十分条件ではないということである。しかし、貨幣-利子率を重要な意味を持つ利子率にする、みなが知る貨幣のあのような特徴は、債券と賃金がたいてい固定されている場の基準とされる貨幣とどれほど密接な関係があるのか、考えるのは興味深い。この問題は2つの側面から考えることを要求する。
第1に、契約が結ばれ、貨幣賃金がたいていある程度安定的であるという事実は、貨幣にとても高い流動性プレミアムをつけるのに大きな役割を果たす。未来に満期を迎える負債と同じ基準で、そしてそれに対する未来の生活費が比較的安定している基準で、資産を保有する利便性は言うまでもない。同時に、未来における産出の貨幣費用が比較的安定しているという期待は、価値基準が生産の弾力性が高い商品であれば大きな自信を持って受け入れられないかもしれない。しかも、みなが知っている、貨幣の安い持越費用は、貨幣-利子率を重要な意味を持つ利子率にするのに、高い流動性プレミアムと同じくらいたいそう大きな役割を演じる。というのも、問題は、流動性プレミアムと持越費用の差だからである。そして、GoldやSilver、紙幣といった資産を除く大多数の商品の場合、契約と賃金が固定されている場の基準に、流動性プレミアム以上の持越費用がつくのが通例である。それで、現在(たとえば)スターリング貨幣についている流動性プレミアムが(たとえば)小麦に移転されたとしても、それでも小麦-利子率はゼロを超えて上がることはありそうにないであろう。したがって、契約と賃金が貨幣に対して固定されているという事実は、貨幣-利子率の重要性を大いに高める一方で、しかしながらこの環境は、観察される貨幣-利子率の特徴を生成するのに、それ自身不十分であるかもしれない。
考えるべき第2の事柄は、より繊細である。産出の価値はほかの何物で表示するより貨幣で表示するほうが安定しているという通常の期待は、賃金が貨幣表示で提供されることによってではなく、もちろん賃金が貨幣に対してある程度粘着的であることによっている。そうであるなら、貨幣以外の若干の商品が、貨幣そのものに対するより粘着的(つまりは安定的)であると期待されるのであれば、どのような立場になるだろうか? そのような期待は〔次のようなことを〕要求する。すなわち、問題とする商品の費用は、産出の多寡によらず期間の長短によらず賃金単位表示で比較的安定していると期待されるだけでなく、費用-価格での当期の需要のいかなる超過分も費用をかけずに在庫にできる、つまり流動性プレミアムがその持越費用を上回る(というのも、そうでなければより高い価格から利益を得る望みがまったくないので、在庫の持ち越しは損失をともなうのを避けがたい)。もしこれらの条件を満たす商品をみつけられるのであれば、そのときは、貨幣の対抗馬として、きっとそれが提示されるであろう。したがって、論理的には、産出の価値が貨幣表示よりも安定すると期待される商品は存在するというのは不可能ではない。しかし、何らかそのような商品が存在する蓋然性があるようにはみえない。
したがって、賃金がそれに対して最も粘着的な商品は、生産の弾力性が最低ではなく、また流動性プレミアムを超える持越費用が最少であるものではあり得ないと結論づけられる。言い換えると、貨幣に対する賃金のほかに比べた粘着性は、ほかのいかなる資産と比べても、貨幣の持越費用を超える流動性プレミアムの超過分が大きいということの系〔corollary〕である。
したがって、貨幣-利子率を重要なものにする多様な特徴は、累積的にお互いに影響を及ぼし合っているようにみえる。貨幣は生産と代替の弾力性が低く、持越費用も安いという事実は、貨幣-賃金が比較的安定しているであろうという期待を生み出す。そしてこの期待は、貨幣の流動性プレミアムを高め、貨幣-利子率とそのほかの資産の限界効率との間の例外的な相関を避ける。そしてもし〔相関〕があるなら、貨幣利子率からその刺を抜く。
Pigou教授(とそのほかの学者)は、貨幣-賃金より安定している実質賃金のほうが好ましいという推定を想定するのに慣れてきた。しかし、これは雇用の安定が好ましいという推定がある場合にのみ正しくなりうる。しかも、賃金財は高い持越費用を持つという困難もある。確かに、もし賃金財表示の賃金を固定することで実質賃金を安定させようという何らかの試みがなされるなら、貨幣物価の暴力的な波動を引き起こす効果しか得られないであろう。というのも、消費の傾向と投資の誘因に生じるいかなる微動も、貨幣物価がゼロと無限大の間を暴力的なまでに激しく上下することになるであろうから。貨幣賃金は実質賃金より安定的であるということは、体系に安定性が埋め込まれる条件である。
したがって、実質賃金の相対的な安定性という性質は、単なる事実と経験の誤認ではない。消費の傾向と投資の誘因がわずかに変化しても、物価に暴力的な影響がでないという意味で体系が安定していると思うのであれば、それは論理の誤りでもある。
Ⅴ
上記に対する脚注として、上ですでに述べたことを強調する価値があるかもしれない。つまり〈流動性〉と〈持越費用〉は比較の問題であるということ、そして〈貨幣〉の独自性は、後者〔持越費用〕に対して前者〔流動性〕がより高いということだけによるのだということを。
たとえば、流動性プレミアムがいつも持越費用を超える資産が1つもない経済を考えてほしい。これはいわゆる〈非-貨幣〉経済の与えうる最良の定義である。つまり、長い期間あるいは短い期間をつうじて、それらが明け渡すことができる、あるいは明け渡す手助けをすることができる消耗品の特徴に応じて、おおよそ分類されたある種の消耗品とある種の資産装備以外の何物でもない。現金と異なり、在庫として保管しようとすれば、それらすべては損耗し、それらに付随するいかなる流動性プレミアムをも超える価値だけの費用がかかる。そのような経済において、資産装備は次のような点で互いに異なる。(a)それらが手助けしうる生産に関連する多様な消耗品 *、(b)それらの産出の価値の安定性(パンの価値はトレンド商品の価値より時間をつうじて安定しているという意味の)、そして(c)それらに体現される富を〈流動化〉する素早さ、〔これは、〕産出を生産して得られるものを、まったく異なる形式にしたいと欲するのであれば再具体化しうる〔その素早さ〕という意味において **。
それで、富の所有者は、算出しうるリスク考慮後の見込み利益の保険数理的推定値のうち最良のものに対する、上記の意味における富の保有手段としての、異なる資産装備の〈流動性〉の欠如を比較検討するであろう。観察されるであろう流動性プレミアムは、リスク・プレミアムに似ている部分もあるが、異なる部分もある。――違いは、計算しうる確率のうち最良のものと、その計算に対する確信の度合いの間にある違いに対応する(1)。これまでの章で見込収益の推定について取り扱ったとき、推定がどのようになされるのか、その詳細には入り込まなかった。そして議論が混乱するのを避けるために、リスク固有の違いから流動性の違いを区別しなかった。しかし、自己-利子率を算出するとき、これらいずれも考慮しなければならない。
〈流動性〉の絶対的な基準がないのは明らかである。存在するのは流動性の等級のみである。――〔この等級とは、〕それを利用することから得る収益と持越費用に加え、富を異なる形式で保有することの相対的な魅力の推計値を考慮に入れた様々なプレミアムである。〈流動性〉に貢献するものという概念はかなり漠然としており、時として変化し、また社会の実情と制度に左右される。しかし、任意の時点で流動性に対する気分を表明する富の所有者の心中にある選好の順序は、定まったものであり、経済体系のふるまいを分析するために必要なことのすべてである。
富の所有者の心中にある高い流動性プレミアムによって、土地の所有が特徴付けられた、特定の歴史的状況があるかもしれない。生産と代替の弾力性は非常に低いという点で、土地は貨幣に似ているので(2)、土地を保有する欲求が、近年貨幣が演じている、利子率を高すぎる水準に保つのと同じ役割を演じていた、歴史上の場面があったのではないかと思われる。〔土地〕それ自体で測る土地の先渡し価格がないために、この影響を量的にたどるのは難しい。〔土地の先渡し価格とスポット価格との比率は、〕金銭債務の利子率と厳密に同義である ***。しかし、時として、抵当付きローンの高い利子率の形式でよく似た何かはある(3)。土地に抵当権を設定するローンにつく高い金利、これは土地の収穫物から獲得しうる純収益を超えることが多いが、多くの農業経済に馴染みのある特徴である ****。利息制限法はひとえに、この〔収穫物の収益より高い利子という〕特徴を持つ障害に対して定められたものである。そして、〔法を制定することは〕正しかった。というのも、現代的な意味における長期債が存在しない、初期の社会組織における抵当付きローンに課される高い利子率の競争は、新たに生産される固定資産という当期の投資から生じる富の成長を減速させる、というより最近の時代における長期債に課される高い利子率と同じ効果をよく持っていたのかもしれない。
各人が営々と貯蓄してきた数千年後の世界が、固定資産が蓄積されているにもかかわらずとても貧しいという事実は、宵越しの金を持たないという人類の傾向によるのでもなければ、戦争による破壊にさえよらない。昔は土地の所有に付随し、現代には貨幣に付随する高い流動性プレミアムによる、というのが私の見解である。この点、『経済学原理』p.581にMarshallが珍しく独断的な趣をもって表現した古い見解と私〔の見解〕は異なる。
〈富の蓄積が抑制され、利子率が維持されていることにみなが気づいている。これらは、人類の大多数が先延ばしにされた喜びより現在の喜びを好むことによる、あるいは言い換えれば、〈待つこと〉に消極的であることによる〉*****。
脚注
(1)上記p.148の脚注を参照 ******。
(2)〈流動性〉という性質はこれら2つの特徴と独立であることは言うまでもない。というのも、供給をたやすく増やすことができ、相対価格の変化によってたやすくほかへ流れる資産は、富の所有者の心中に〈流動性〉の特徴を持つだろうことはありそうになからである。もし未来の供給に急激な変化が生じると期待されるのであれば、貨幣それ自体も〈流動性〉の特徴を急速に失う。
(3)抵当付きローンとそれにかかる利子は、確かに貨幣表示で固定されている。しかし、債務返済の責任から逃れるために、借り手は土地それ自体を渡す権利を有している。――〔返済に〕必要な貨幣を見つけられないとき、そのようなときには〔土地を〕渡さねばならない――この事実は時として、抵当付きローンのシステムをスポット渡しに対する先物渡しの土地契約の近似にした。それらによって効力を得た抵当付きローンと引き換えに〔土地の〕借り手に土地を払い下げることは、実際、この特徴を持つ取引と非常に近いところまで来ていた。
訳注
* 間宮版の訳注は the consumablesを「消費財もしくは資本装備」と捉えるべきだと指摘している。塩野谷版、山形版は「消費財」と訳出している。ここでは資産装備との違いを説明する文脈であることから「消耗品」と訳出した。
** 間宮版の訳注は、資産装備の換金のしやすさであるのか資産装備を用いて生産された財の換金のしやすさなのか判然としないと指摘している(ここで「換金」とは、非貨幣経済において別の財に交換することを意味する)。
*** ここで、土地の先渡し価格をPf、土地の現在価格をP0とすれば、Pf/P0が土地の自己-利子率になる。これは貨幣表示の債務を貨幣で返済する契約であるところの金銭債務と相似形である。文意はこのようなことと思われる。間宮版の訳注は、土地で測った土地の先渡し価格は土地の自己利子率であると指摘している。より正確には現在の地価に対する先渡し地価の比率であろう。
**** 間宮版の訳注は、土地の流動性プレミアムが高いとき、土地抵当が付く貸出利子率は高くなると指摘している。本章の記述法を用いて、土地から得られる収益の率をq-c、土地の流動性プレミアムをlとおくと、土地抵当が付く貸出利子率はq-c+lとなる。つまり、流動性プレミアムlが高くなるにしたがい、貸出利子率は上がる。
***** これは、第12章第Ⅱ節の1つめの脚注である。『確率論』第6章、〈議論の重み〉の項を参照しつつ、〈極度の不確実性〉と〈極度に蓋然性が低い〉ことの違いに言及している。
****** この引用文は、Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第4分冊,p.112にある。
Ⅵ
『貨幣論』の中で、独特な利子率という意味を含んで、自然利子率と名付けたものを定義した。――すなわち、『〔貨幣〕論』の語法で、(そこで定義された)貯蓄率と投資率との均衡を維持する利子率である。この〔利子率〕は、Wicksellによる〈中立利子率〉、十分明確に規定されていないものの彼によればある種の物価の安定性を維持する率であるが、を展開し明確にしたものだと私は信じていた。
しかし、いかなる所与の社会であっても、この定義にしたがえば、仮説的な雇用水準それぞれに応じた異なる自然利子率があることを見過ごしていた。そして、同様に、その〔経済〕体系は、その利子率とその雇用水準で均衡状態にあるという意味で、その率は〈自然な〉率であるような、利子率それぞれに応じた雇用水準がある。したがって、唯一の自然利子率があるというのは誤りであるし、上記の定義が雇用水準の如何によらず、利子率はただ1つの値を取ると示唆することも誤りである。それで、ある条件の下では、〔経済〕体系は完全雇用を下回った均衡になり得ることを理解していなかった。
今現在においては、以前私にとって最も有力な考えに思えた〈自然〉利子率という概念は、私の分析に大変有益かつ重要な貢献をする何かを持っているという意見をもはや持っていない。それは単に現状を維持するであろう利子率であり、現状の中で圧倒的に優勢な利子といったものはない。
もし、唯一かつ重要な、何かそのような利子率があるとすれば、中立利子率(1)と名付けるべき率でなければならない。すなわち、〔経済〕体系のほかのパラメータを所与として、上記の意味で完全雇用と矛盾しない自然率である。おそらくは、この率を最適率として描写するのがよりよいかもしれないが。
中立利子率は、産出と雇用が〔経済〕全体の雇用の弾力性がゼロであるような値を取る均衡状態にみられる利子率として、より厳密に定義しうる(2)。
繰り返しになるが、利子率に関する古典派の理論を理解可能なものにするために、暗黙の想定が置かれているという問題に対する答えを、上の記述は与える。この理論は、直前に定義した意味で、実際の利子率がいつも中立利子率と等しいこと、あるいは代わりに、実際の利子率がいつも雇用をある定められた一定の水準に維持し続けるであろう利子率に等しいことを想定している。もし伝統的な理論をそのように解釈するならば、例外とする必要があるものは、現実的な結論にはほとんどないかあるいはまったくない。古典派理論は、貨幣当局または自然の力は市場利子率が上の条件のいずれかを満たすように仕向けると想定している。そしてそれは、この想定の下で、社会の生産的な資源の適用とそれに対する報酬の法則がどのようなものであるかを調べている。この限界が力を持つとき、産出量はひとえに、当期の装備と技術に連動する、想定される一定の雇用水準しだいとなる。そして私たちはRicardoの世界に安住する。
脚注
(1)この定義は、近年の書き手によって与えられた中立貨幣の多様な定義には対応しない。ただしおそらくは、これらの書き手が心に描いていた対象とは何らかの関係があるかもしれない。
(2)以下の第20章を参照。
Ⅰ
今まさに、議論の糸を1つにまとめられる地点にたどり着いた。まず、経済体系を構成するもののうち、与えられたものとするのが普通の要素が何であるのか、そして経済体系の独立変数と従属変数が何であるのかを明らかにするのが便利かもしれない。
所与とするのは、下に示す変数を除いて、国民所得の分配を決定づける力を含む社会構造のみならず、現況の技量、雇用できる労働量、利用できる装備の現況の質と量、現況の技術水準、競争の度合い、消費者の好みと気質、異なるストレス下で働いたり〔経営〕管理・組織〔運営〕をしたりすることによる負の効用である *。このことは、これらの要素を不変と想定することを意味せず、単に、この場の文脈ではこれらが変化することの効果や帰結考慮に入れないことを意味する。
独立変数は、まず消費の傾向、資産の限界効率、利子率である。ただし、すでにみたように、これらはより掘り下げて分析することができる。
従属変数は、雇用量と賃金単位で測った国民所得(あるいは国民分配分)である。
所与とした諸要素は独立変数に影響を及ぼすが、〔独立変数を〕完全に決めてしまうことはない。たとえば、資産の限界効率表は、所与の要素の1つである装備の現況の量に部分的に左右されるが、所与の諸要素から推測しえない長期期待の状態からも影響を受ける。しかし、それらから派生する要素それ自身を所与と扱えるほど完全に、所与の諸要素が決定づける特定のほかの要素がある。たとえば、所与の諸要素は、賃金単位表示で測った国民所得のどの水準が与えられた任意の雇用水準に対応するのかを教えてくれる。これは、所与とする経済の枠組みの中で、国民所得は雇用水準に左右されるためである。つまり、2つ〔国民所得と雇用の水準〕(1)の間にただ1つの相関があるという意味で、今期の生産に捧げられる努力の量に左右されるためである。しかも、それらは、異なる型の生産物のための物的な供給条件を具象化した総供給関数の形を教えてくれる。――つまり、賃金単位表示で測った任意の有効需要の所与の水準に応じた、生産に捧げられる雇用量〔を教えてくれる〕。最後に、それらは労働(あるいは努力)の供給関数を提供する。それらはとりわけ、〔経済〕全体の雇用関数(2)が弾力的でなくなる点がどこにあるのかを教えてくれる。
しかし、資産の限界効率表は、部分的には所与の諸要素に、そして部分的には異なる種類の固定資産の見込収益に左右される。他方、利子率は、部分的には流動性選好の状態(つまり、流動性関数)に、そして部分的には賃金単位表示で測った貨幣量に左右される。したがって、時として究極の独立変数が次の〔3つ〕から構成されているとみなしうる。すなわち、(1)消費の心理的傾向、流動性に対する心理的態度、そして固定資産から未来に得られそうな収益に対する心理的な期待という3種の基礎的な心理要素、(2)労使交渉の妥結によって決まった賃金単位、(3)中央銀行の活動によって決まる貨幣量、である。それで、上で規定した諸要素を与えられたものとすると、これらの変数が国民所得(あるいは国民分配分)と雇用量を決める。しかし、これらはより掘り下げた分析をしうるものであるから、これらは独立要素のいわば究極の原子ではない。
経済体系の決定因を所与の諸要素と独立変数の2つのグループに分割するのは、もちろん、いかなる絶対的な見地からみても極めて恣意的である。こうした分割は、完全に経験にもとづかねばならない。一方〔所与の諸要素〕は、変化が緩やかあるいは重要性に乏しいので、需要に与える影響は小さな影響や無視しうるほど短期の影響にとどまる要素に対応する。他方〔独立変数〕は、現実の需要に圧倒的な影響を及ぼすことが見出される変化の要素に対応する。所与の経済体系の国民所得、そして(ほぼ同じことであるが)その雇用量をいつでも決めるものを見つけることがここでの目的ではあるが、〔この決定因は、〕経済学ほど複雑で完全に正確な一般化を期しえない学問では、その変化が主に需要を決定づける要素を意味する。われわれの最後の試練は、われわれが実際に生活している類の〔社会〕システムに存在する、中央当局が狙いをもって操り、対処しうるような諸変数を選び出すことかもしれない。
脚注
(1)異なる生産物の雇用関数が、考慮に入れるべき雇用〔水準〕の範囲で、異なる曲率を持つとき生じるある種の複雑な状況については、この段階では考慮外とする。以下の第20章を参照。
(2)第20章で定義する。
訳注
* different intensities を、「異なるストレス下」と訳出した。
Ⅱ
ここで、これまでの諸章で展開した議論を、要素を導入したのと逆の順に取ってまとめてみたい。
新規の投資率をある点まで押し進める誘因がありそうである。〔その誘因は、〕その見込利益と相まって、それぞれの型の固定資産の供給価格を、資産一般の限界効率が利子率とおおよそ等しくなるような値にする。つまり、資産財産業における物的な供給条件、見込収益に対する確信の状態、流動性に対する心理的態度、そして(賃金単位で計算されることが望ましい)貨幣量が相まって、新規の投資率を決める。
しかし、投資率の上昇(低下)は、消費率の上昇(低下)をともなわねばならないであろう。なぜなら、一般に、所得が増える(減る)ときにだけ、所得と消費の差を喜んで広げる(狭める)という特徴を持つのが、公衆のふるまいだからである。すなわち、一般に、消費率の変化は所得率の変化と同じ方向にある(その量は少ないものの)。貯蓄の所与の増分とともにあらねばならない消費の増分との関係は限界的な消費の傾向によって与えられる。ともに賃金単位で測った投資の増分とそれに対応する総所得の増分の比率は投資乗数によって与えられ、そして決まる。
最後に、(一次近似として)雇用乗数が投資乗数に等しいと想定すると、はじめに描写した要因によってもたらされる投資率の増分(減分)に乗数を適用することで、雇用の増分を推測できる。
しかし、雇用の増分(減分)は流動性選好表を押し上げる(押し下げる)。産出の価値が上がるのにともない貨幣量を増やす傾向にある3つの方法がある。〔すなわち、〕賃金単位と(賃金単位で測った)物価が変化しなくても雇用が増えるとき。しかし加えて、賃金単位それ自体が雇用の改善にともない上がる傾向にもあるだろう。そして、産出の増加は短期的に費用が上がることによって(賃金単位で測った)物価が上がることによっても達成されるであろう。
したがって、均衡点はこれらの反響効果を受けるであろうし、そのほかの反響効果もある。しかも、上に掲げた要因の1つとして、警告なしに変化する傾向にはなく、また時として相当大きく〔変化する〕。したがって、実際の現象は想像を絶する複雑さの中を進む。そうであっても、これらは分離するのが有益で便利な要素のようである。上に掲げた構図の線をたどって何らかの現実問題を分析すれば、より管理しやすくなるのを見出せる。そして、(一般原理として取り扱えるものより、複雑な現実のより詳細まで考慮に入れることができる)現実的な直感を提供し、分析対象の扱いにくさを軽減するであろう。
Ⅲ
上記は一般理論の要約である。しかし、経済体系の実際の現象はまた、消費の傾向、資産の限界効率表、そして利子率のある特定の特徴によっても彩られる。経験から、それらについて困難なく一般化することはできるが、論理の組み立てにそれは必要ではない。
とりわけ、私たちが現に営んでいる経済体系の特筆すべき特徴は、産出と雇用が厳しい変動に晒されているものの、暴力的までに不安定ではないということである。確かに、回復にも完全な崩壊のいずれにもはっきりとは向かわずに、相当長い期間にわたって通常の活動水準を下回る慢性的な条件下で止まりうるようにみえる。しかも、完全雇用やそれに準ずる雇用水準は稀にしか達成されず、達成されたとしてもつかのまのものであるという証拠がある。〔経済〕変動は勢いよくはじまるものの、極端なところに至る前にそれ自体〔の勢い〕が絶えてしまうかもしれない。そして、絶望にも満足にも至らない中間的な状態が通常の運命なのである。〔経済〕変動はそれ自体〔の勢い〕は極端に至る前に絶え、そしてついには反転するという事実に立脚して、規則的な局面を持つ景気循環の理論が創設された。物価についても同様のことが真実である。すなわち、撹乱というはじめの原因に反応して、しばらく比較的安定したままになりうる水準を、物価が見出せるようである。
さて、これら経験上の事実は必ずしも論理にしたがわないので、現代世界の環境と心理的な傾向は、これらの結果を生成するような特徴を持つはずである。したがって、仮説としての心理的な傾向がどのようなものであれば体系が安定するのか考えるのは有益である。そしてそうであれば、これらの傾向が、生活が営まれている世界に帰せられるか否かを、現代的な人類の性質に関する一般的な知識にもとづいて〔考えるのも有益である〕。
これまでの分析が観察される結果を説明しうると示唆する安定性の条件は次のようなものである。:
(ⅰ)所与の社会の産出が増える(減る)とき、利用に供される資産装備が増える(減る)ので、これら2つ〔設備の利用と産出〕を結ぶ乗数は、それほど大きくないものの1を超える *。限界的な消費の傾向はそのようなものである。
(ⅱ)資産の見込利益、または利子率が変化するとき、資産の限界効率表は新規の投資の変化は、前者〔見込利益〕の変化に対して不釣り合いに大きいということはない。つまり、資産の見込利益または利子率が控えめに変化すると、それにともなって投資率がとても大きく変化するということはないであろう。
(ⅲ)雇用が変化するとき、貨幣賃金は雇用の変化と同じ方向に、しかし不釣り合いなまでに大きくはない程度に、変化する。つまり、雇用の控えめな変化は貨幣賃金のとても大きな変化をともなうことはない。これは、雇用の安定条件というよりむしろ物価の安定条件である。
(ⅳ)4つめの条件を加えられるかもしれない。〔その条件は、〕一方向への変動がやがて反転する傾向と同じ程度には体系の安定性を提供しない。つまり、以前一般的であった水準より高い(低い)投資率は、とても長いとは言えない年で測った期間だけ続くのであれば、資産の限界効率に好ましくない(好ましい)反応をもたらしはじめる *。
(ⅰ)乗数はそれほど大きくないが1を超えるという第1の安定性条件は、人類の性質という心理的特徴によく当てはまる。実質所得が増えるにしたがい、現在の必要に対する圧力は弱まり、打ち立てられた生活水準を超える部分は増進する。そして実質利子率が下がるにしたがい、これとは反対のことが生じる。したがって、雇用が増えるとき、当期の消費も拡大するが、実質所得の増分すべてほどではないというのは自然であるし、また、雇用が減るとき〔消費も同じように〕減るというのが――ともかく社会の平均をとれば――自然である。しかも、平均的な個人にとって真実であることは、政府にとっても真実でありそうである。とりわけ、失業が漸進的に進み国家が借入をした資金で〔不況の〕救済をを提供するよう強いられる時代においては。
しかし、この心理法則が先験的だと信ずるに値するものとして読者の心を打つかどうかは、もしこの法則が成り立たないのであれば、それ自体とはまったく異なる経験をするだろうことは確かである。というのも、投資がわずかでも増えると、完全雇用に至るまで有効需要が累積的に増える動きが生じるであろう。他方、投資が減ると、誰もまったく雇われなくなるところまで有効需要が累積的に減る動きが生じるであろう。ただし、経験が教えるところは、私たちは一般にこの〔両極端の〕間にいるということである。実際、不安定性が現れる範囲にいるのは不可能ということではない。しかし、そのような〔範囲がある〕としても狭い範囲のことであり、いずれの方向によらず、その範囲の外では心理法則は疑いなくよく成り立つ。しかも、乗数は1を超えるものの、通常の〔経済〕環境においてはとても大きな値を取らない。というのも、もし〔大きな値を取る〕のであれば、投資率の所与の変化は、(〔雇用水準が〕完全雇用とゼロ雇用という〔極端な〕場合に限られるような)消費率の大幅な変化をともなうことになるだろう。
(ⅱ)第1の条件は、投資率の控えめな変化が消費財の需要を無制限に大きく変化させることはないということである。他方、第2の条件は、固定資産の見込収益利子率の控えめな変化が投資率を無制限に大きく変化させることはないということである。今ある装備から、大幅に拡張した産出を生産する費用が増えることにより、このことは当てはまりそうである。確かに、もし固定資産を生産するための資源がとても多く余っているところからはじめるのであれば、ある範囲で、とても大きな不安定性があるかもしれない。しかしこれはあまりがほとんど使われるようになるや否や、よく成り立たなくなるであろう。しかも、この条件は、事業の心理が急変することにより、あるいは時代を画す発明がなされることにより、固定資産の見込収益が急変することから生じることによる不安定性に限界を定める。――おそらくは下方よりも上方への〔不安定性〕のほうが〔限界が〕厳しく〔定められる〕であろうが。
(ⅲ)第3の条件は、人類の性質にという経験に調和する。というのも、上で指摘したところであるが、貨幣賃金を求める争議は高い相対賃金を維持するための争議であるからであり、雇用が増えるにしたがい、働き手が交渉する立場は改善し、賃金から得られる限界効用は逓減し、金融的な余力が改善することでリスクを冒しやすくなることから、その争議は緊張の度を増す。ただしそれでも、これらの動機は限界を持って作用し、雇用が改善しているときには働き手がはるかに多くの貨幣賃金を求めることはなく、また、失業に痛手をわずかでも蒙るより大幅な賃金引き下げを受け入れるであろう。
しかし、ここで再び、この結論が先験的だと信ずるに値するか否かについて、経験はある種のそのような心理法則は実際に成り立たねばならないことを示している。というのも、失業している〔潜在的な〕働き手たちの競争が、大変大きな貨幣賃金の引き下げをもたらすのが常であれば、物価水準に暴力的なまでの不安定性があるはずだからである。しかも、完全雇用と矛盾しない条件を除いて、安定的な均衡点はどこにもないかもしれない。なぜなら、貨幣単位表示の貨幣の豊富さが利子率に与える影響が、完全雇用の水準を維持するのに十分な点に至るまで、際限なく貨幣単位が下がらなければならないからである ***。ほかのどこにも安息の地はあり得ないかもしれない(1)。
(ⅳ)第4の条件は、不況と回復の繰り返しというより安定性の条件であるが、固定資産には多様な年齢があり、時間とともに使い古され、すべてがとても長持ちするというわけではない、という仮定にひとえに依拠している。もし投資率がある最低水準を下回って落ち込むと、(ほかの要因に大幅な変動がなければ、)ほどなく資産の限界効率が十分に上がり、これがこの最低限の水準を超える投資の回復をもたらすのはひとえに時間の問題である。そしてもちろん、同様に、もし投資が以前より高い水準にまで増えると、資産の限界効率が十分に下がり、そのほかの要素の変化によって補償されないかぎり、不況をもたらす。
この理由のために、そのほかの安定条件によって設定される、ある限度の範囲内で生じうる回復と不況の程度でさえも、それが十分に長い期間続き、またそのほかの要素の変化によって妨げられないとしても、反対方向への動きを引き起こし、再び方向を反転させるまで以前と同じ力が〔働く〕。
したがって4つの条件を総合すれば、実際に経験する特筆すべき特徴を説明するに十分である。――つまり、雇用と物価の変動が両方向に向かって最悪の極地にまで至ることを回避しつつ、完全雇用よりずいぶん低いが、〔経済体系の〕生命を脅かすかもしれない最小の雇用よりずいぶん高い中間的な位置の周りを循環するという〔特徴を〕。
しかし、〈自然な〉傾向によって、すなわちそれらを正すように明示的にデザインされた方策がうまくいかないために続きそうな傾向によって、そのように決定づけられる平均的な位置は、したがって、必要の法則によって打ち立てられる。上で示した条件の避けがたい法則は、世界をありのまま、あるいはそうであったように観察した事実であり、この原理が変わり得ないとする必要はない。
脚注
(1)賃金単位の変化の効果は第19章で詳細にわたって考える。
訳注
* 塩野谷版の訳注は、フランス語訳には英語原文にはない生産の語が挿入されていると指摘している。本訳書では、「利用に供される資産装備が増える(減る)ので」の部分がフランス語版では「利用に供される資産装備の生産が増える(減る)ので」となっていると解される。本文の訳には反映させず、ここで指摘するにとどめる。また、この文で1より小さな正の値を取るとされる、いわゆる限界消費性向をcとおくと、投資乗数は1/(1-c)となり、この値は1を超える。
** 山形版の訳注は、この後に続く(ⅰ)から(ⅳ)の説明は、ここまでの項目(ⅰ)から(ⅳ)の説明だと指摘している。
*** 間宮版の訳注は、いわゆる賃金デフレのプロセスを説明している。すなわち、賃金単位が下落すると、実質貨幣残高が増える利点より資産の限界効率が低下する欠点が上回り、景気は悪化する。これがさらなる賃金単位の下落をもたらし、悪循環が際限なく続くと指摘している。