J.M. ケインズ『雇用、利子及び貨幣の一般理論』の試訳 by K. Sasaki
Keynes, John Maynard, 1936, General Theory of Employment, Interest and Money
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Capital・・・太字
Italic・・・イタリック
〔〕・・・訳者による補足
著者脚注は節の最後に番号を付して並べる。
訳者の注は節の最後に * を付して並べる。
人名は英語で記す。
指示代名詞には極力指し示す語を挿入して訳出する。
関係代名詞等でつながる長い文は、複数の文に分ける。
I, We, Our, Usなどは、日本語の作法にしたがい、多くの場合訳出しない。
Ⅰ
古典派による利子率の理論はどのようなものであろうか。それは私たちのすべてがそれによって育まれ、最近までほとんど留保条件なしに受け入れられてきたものである。ただし、それを正確に述べることは難しいし、現代の古典派による優れた論考でそれを明示的に説明するものを見つけることも難しい(1)。
しかし、この伝統は、利子率を投資の需要と貯蓄の意欲を互いに均衡に導く要因とみなしてきたのはおおよそ明らかである。投資は投資可能な資源を表し、貯蓄はその供給を表す。他方、利子率はこれら2つが等しくなるような投資可能な資源の〈価格〉である。ちょうど商品価格が需要と供給が一致する点に定まる必要があるように、利子率も、その利子率に対応する投資量とその利子率に対応する貯蓄量が等しくなる点に、市場の力の働きによって落ち着く必要がある。
Marshallの『〔経済学〕原理』に、上で示したようなはっきりとした説明は見当たらない。ただ、彼の理論はこのようなものにみえるし、私自身このように教えられ、また長年にわたりみなにそう教えてきた。たとえば、『原理』から次のような文節を取り出してみよう。:〈いずれの市場でも、資本を用いることの対価である利子は、その利子率に対応するその市場の資本の総需要と、その利子率に対応する利用可能な総蓄積が等しくなる均衡水準に向かう傾向がある〉(2)。あるいは繰り返しになるが、Cassel教授の『利子の本質と必要性』には、投資は〈待つことの需要〉であり、貯蓄は〈待つことの供給〉である。他方、利子はこれら2つを等しくする〈価格〉であると示唆される、と説明されている。これについても引用に〔適した〕実際の言葉を見つけられなかったが *。Carver教授による『富の分配』の第6章は、待つことの負効用と資本の限界生産性を等しくする要因として利子率を明確に捉えている(3)。Alfred Flux卿(『経済原理』p.95)は、次のように書いている。:〈一般的な議論の主張について正当性があるとすれば、貯蓄と資本を有利に用いる機会とに自動的な調整が生じることを認めなければならない。…… 貯蓄は有用性を超えてしまうことはない…… 純利子率がゼロを超えている限りにおいて〉。Taussig教授は(『〔経済学の〕原理』第2巻, p.29)に、貯蓄の供給曲線と〈資本が順次その生産力を減らすこと〉を表す需要曲線を描き、(p.20で)すでに示したように、利子率は資本の限界生産性が限界段階の貯蓄を引き出すに十分な点に落ち着く(4)。Walrasは、『純粋経済学要論』の〈貯蓄と新資本との間の交換について〉と題した付録I(第Ⅲ章)において、生じうる利子率それぞれに対応して、個々人が貯蓄する〔額の〕合計と新規資産へ投資する〔額の〕合計とがあり、これら2つそれぞれの合計は互いに等しくなる傾向を持ち、利子率はそれが等しくなるように導く変数であると明示的に述べている **。それで、利子率は新規資本の供給を代表する貯蓄とそれに対する需要が等しくなる点に定まる。したがって、彼は厳密に古典派の伝統の中にいる。
確かに、伝統的な理論によって育まれてきたふつうの人――銀行家、官僚、あるいは政治家――そして鍛錬を積んだ経済学者も次のような考えに心を奪われている。〔すなわち、〕個人が貯蓄するときはいつでも利子率を引き下げる何事かをなし、これが自動的に資本の産出を活性化し、利子率の低下が貯蓄の増分に等しくなるような度合いで資本の産出をちょうど活性化する必要がある。そしてさらに、これは貨幣当局の何らの特別な介入やお節介をも必要とせずに適応する、自律的な過程である〔という考えにである〕。同様に――これはさらに今日においてさえ一般的な信念であるが――貯蓄に対する意欲が変化してそれを相殺しない限り、投資活動が追加されるたびに利子率は引き上げられねばならない。
さて、これまでの諸章の分析によって、この問題に対するこうした説明は誤りであることが明らかにされてきた。しかし、見解の相違の理由の源をたどる際に、一致点〔をみること〕からはじめよう。
貯蓄と投資は実際には等しくないこともあり得るとする新古典派とは異なり、本物の古典派はそれらが等しいという見方を受け入れてきた。たとえばMarshallは、明言はしなかったものの、総貯蓄と総投資は等しくあるべきだと確信していた。確かに、古典派の大多数はこの信念をはるか先まで運んだ。個人が貯蓄を増やすいかなる行動も、それに対応する投資を増やす活動の存在をもたらさねばならない。私による資産の限界効率表と、上で引用した古典派の書き手の一部によって考えられた投資の需要表ならびに資本の需要曲線の間に、この文脈に関係する重大な相違はまったくない。消費の傾向とその補題である貯蓄の傾向に話が至ると、彼らは利子率を貯蓄の傾向に影響を与えるものと位置付けてきたことを強調するために、見解の相違に近づく。しかし、おそらく彼らは所得水準も貯蓄の量に重大な影響を及ぼすことを否定することは望まないだろう。他方、私の立場では、おそらく私は利子率が所与の所得から貯蓄の量に影響を及ぼす(おそらく彼らが思い浮かべるような種類のものではないだろうが)ことを否定しない。これらすべての論点は、古典派が受け入れ、私が異議を唱えるべきでない命題にまとめあげることができる。すなわち、もし所得水準が所与と想定するのであれば、当期の利子率は、様々な利子率に対応する資本の需要曲線を様々な利子率に対応する所与の所得から貯蓄される額を表す曲線が切る点に位置しなければならない。
しかし、古典派理論に明らかな誤りが忍び込むのはまさにこの点である。資本の需要曲線を所与とし、利子率の変化が所与の所得から貯蓄する意欲に及ぼす影響を所与として、所得水準と利子率は特別な形で相関していなければならないということを、もし古典派が上記の命題から導き出すだけなのであれば、論難すべきことは何もない。しかも、この命題は重大な真実を具体化するもう一つの命題を自然に導く。すなわち、利子率のみならず、資本の需要曲線と所与の所得水準から貯蓄する意欲に利子率が与える影響を所与とすると、所得水準は貯蓄の量と投資の量を等しくする要素でなければならない ***。しかし、古典派理論は所得水準の変化の影響を無視しているのみならず、本格的な誤りに陥っているというのが実際である。
というのも、上記の引用にみられるように、古典派理論は、所与の所得の量から貯蓄されるものに対する想定を弱めたり修正したりすることなく、利子率が(たとえば)資本の需要曲線を動かす影響について考えを進めることができると想定している。古典派理論における独立変数である利子率は、資本の需要曲線と利子率が所与の所得から貯蓄する量である。そして、(たとえば)資本の需要曲線がシフトしたとき、この理論によれば、新しい利子率は、資本の新しい需要曲線と所与の所得から貯蓄される量に対する利子率の関係を表す曲線の交点によって与えられる。古典派による利子率の理論は、資本の需要曲線がシフトするか、所与の所得から貯蓄される量に対する利子率の関係を表す曲線がシフトするか、またはこれらの曲線の両方がシフトするかすると、新しい利子率は2つの曲線の新しい位置から導かれる交点によって与えられるであろう。しかし、これは馬鹿げた理論である。というのも、所得が不変であるという想定は、2つの曲線が互いに独立にシフトしうるという想定と矛盾するからである。もしこれらのいずれかがシフトするならば、所得は変化するであろう。とすれば、所得が所与であるという想定にもとづくこの図式すべてが崩壊する結果になる。産出が以前と同じ水準になるような、想定されるシフトをちょうど相殺するように利子率が打ち立てられるような影響をちょうど十分なだけ流動性選好に及ぼすように賃金単位が変化を提供するというような、何らかの複雑な想定によらずば、立場を守ることはできない。実際、上で紹介した書き手が何らかその種の想定が必要であるとするヒントすら見出せない。せいぜい適用できても長期均衡の関係だけであろうし、短期均衡については基礎すら形成することができない。そして、長期においてさえそれが成り立つと思われる根拠がまったくない。真実は、古典派理論は、所得水準の変化に関連することか、あるいは所得水準が実は投資率の関数であることに気付いていなかった。
上記の事柄は、次のような図(5)で描写することができる。
〔このあたりに図を挿入 類似の図がB. Mitchell氏のブログにある http://bilbo.economicoutlook.net/blog/?p=22492 〕
この図は縦軸に投資の量I(あるいは貯蓄)をとり、利子率rを横軸にとっている。X1X1'は投資需要表のはじめの位置であり、X2X2'は2番目の位置である。曲線Y1は、Y1と利子率が様々な値をとるときに所得水準Y1から貯蓄される量を関係づける。〔同様に、〕曲線Y2、Y3などは所得水準Y2、Y3に対応する。曲線Y1は、投資需要表X1X1'と利子率R1のいずれにも矛盾しないY-曲線であるとしよう。さて、もし投資の需要表がX1X1'からX2X2'へシフトするなら、所得もシフトするのがふつうであろう。しかし、上に掲げた図はその新しい価値がどれほどになるかを伝える情報を十分含んでいない。そしてしたがって、適切なY-曲線を知る術がなく、新しい投資需要表がどの点でそれを切るのかについても知る術がない。しかし、もし流動性選好と貨幣量の状態を導入し、両者相まって利子率がr2だと教えてくれれば、すべての〔曲線の〕位置が決まる。というのも、r2の真上の点でX2X2'と交わるY-曲線、すなわち曲線Y2が適切な曲線になるだろうからである。したがって、X-曲線とY-曲線は利子率について何も語らない。それらは所得がどれほどになるのかだけを語る。もし何らかほかの情報源があれば、利子率がどの水準にあるか言うこともできるが。もし、流動性選好と貨幣量の状態に何の変化も生じなければ、利子率は変化せず、シフト前の資本の需要曲線が曲線Y1と交わる点の直下で新しい投資需要曲線と交わる曲線Y2'は適切なY-曲線となり、Y2'が新しい所得水準となる。
したがって、古典派理論によって用いられる関数、すなわち利子率の変化に対する投資の反応と所与の所得から貯蓄される量の反応は、利子率の理論の材料を提供しない。しかしそれらは、(どこかほかの源から得た)利子率を所与として、所得水準がどれほどになりそうか私たちに伝え続けることができていた。そして、代わりに、所得水準が所与の値(たとえば完全雇用に対応する水準)に維持されているのであれば、利子率がどのようなものであるべきかを私たちに伝え続けることができていた。
利子を不保蔵の報酬とみなす代わりに待つことの報酬それ自体とみなすことに誤りの源がある。ちょうどそれは、貸付けやリスクの程度が異なる投資の利益率は待つことそれ自体の報酬ではなく、リスクを冒したことへの報酬であるように。実際、これらといわゆる〈純粋〉利子率の間に水際立った線はない。それらすべてはあれこれの種類の不確実性に対してリスクを冒すことの報酬である。貨幣が取引にのみつかわれ、価値の貯蔵には決してつかわれない場合にだけ、異なる理論が適用されるであろう(6)。
しかし、おそらくは古典派に何かが誤っていると警告する2つのなじみ深い点がある。第1に、Cassel教授が『利子の本質と必要性』を出版して以来、利子率が上がるとき、所与の所得から貯蓄される合計は増える必要があるか、確かではないということがともかくも賛同を得てきた。他方、利子率が上がるとき、投資の需要表は下がることに疑いはない。しかし、もし利子率が上がるときY-曲線とX-曲線がともに下がるのであれば、所与のY-曲線がX-曲線といずれの点においても交わる保証はない。これはY-曲線とX-曲線だけでは利子率を定めることができないことを示唆する。
第2に、貨幣量が増えると、その当初かつ短期においてはともかくも、利子率が下がる傾向にあると考えるのはふつうであるとされてきた。しかし、貨幣量の変化が投資の需要表あるいは所与の所得から貯蓄する意欲に影響を及ぼす理由は与えられてこなかった。したがって、古典派は、貨幣理論を扱った第2巻とはまったく異なる理論で、価値の理論を扱う第1巻で利子率の理論を展開してきた。〔古典派は、〕この齟齬によってかき乱されることなく、私が知る限りこれら2つの理論をつなぐ試みをまったくしていない。これこそ本物の古典派である。〔他方、〕新古典派の一部はつなぐ試みをして、まったくもって最悪な混乱に陥った。というのも、後者〔新古典派〕は、投資の需要表に見合う2つの供給源がなければならないと示唆されたからである。〔これらは〕すなわち、古典派によって取り扱われている本物の貯蓄と、貨幣量がいかほどか増えることによって利用可能になる総額(これは〈強制貯蓄〉のようなある種の税によって相殺される)を足し合わせたものである。これは、〈自然〉、〈中立〉(7)、あるいは〈均衡〉利子率が存在するという考えに通ずる。すなわち、〈強制貯蓄〉からまったく加えることなく、古典派による本物の貯蓄と投資を等しくする利子率である。そしてついに、〔新古典派は〕正しい道を歩んでいると想定して、貨幣量はあらゆる環境下で一定を維持することしかできないのであれば、本物の貯蓄を投資が超えるという想定から生じると思われる不幸が生じなくなるので、こうした混乱は生じる余地がない、というすべての中で最も明らかな解決策〔を得た〕。しかし、ここで私たちは大変な困難に陥る。〈野鴨が水底に向けて飛び込み――できる限り深く――海藻を強く噛み、水底に溜まったありとあらゆるごみを絡み込んだ。これは抜群に優秀な犬に飛び込ませて〔野鴨〕を引き上げねばならないであろう〉****。
したがって、体系の独立変数を正確に分離できていないという欠陥が伝統的な分析にはある。貯蓄と投資は体系が決めるものであり、〔体系の〕決定因ではない。〔貯蓄と投資〕は消費の傾向、資産の限界効率、そして利子率という決定因から導かれる双子の結果である。これらの決定因はそれら自身確かに込み入っており、それぞれ〔の決定因〕はほかの〔決定因が〕変化する見込みによって影響を受ける。しかし、それぞれ〔の決定因〕から値を推測できないという意味において、それら〔の決定因〕は独立であり続ける。伝統的な分析は、貯蓄が所得に左右されることには気付いていたが、投資が変化すると、貯蓄の変化が投資の変化と等しくなる必要がある、ちょうどその程度だけ所得は変化する必要があるというしかたで所得が投資に左右されることは見過ごしていた。
それらの理論は、利子率が〈資産の限界効率〉に依存せしめる試みにより成功したとも言えない。均衡において利子率は資産の限界効率に等しいというのは、両者が等しくなる点まで当期の投資規模を増やす(あるいは減らす)のが利益に叶うことから真実である。しかし、これを利子率の理論としたり、それから利子率を導こうとしたりすれば、この線にそって利子率の説明を試みる途上でMarshallに立ちはだかった循環論法に陥る(8)。というのも、〈資産の限界効率〉は一部当期の投資規模に左右されるが、また同時に〔投資の〕規模を算出する前に利子率をすでに知っていなければならないからである。新規投資の産出は、資産の限界効率が利子率に等しくなる点まで推し進められる。そして、資産の限界効率表が教えてくれるのは、利子率がどの水準にあるかではなく、利子率を所与として新規投資の産出がどこまで推し進められるかである、というのは意義深い結論である。
読者は、ここで議論の対象となった問題は、最も根源的かつ理論的な意義を持ち、また圧倒的に実際上の重要性を持つ事柄であることに容易に納得してもらえるであろう。というのも、経済学者が実際上の助言をするときほとんど不可避的に基礎としてきた経済原理は、要するにほかの条件が同じであれば、支出が減ると利子率は下がる傾向にあり、投資が増えると〔利子率〕が上がるということだからである。しかし、もし2つの量を決めるものが利子率ではなく雇用の総量だとしたら、経済体系の機構に対する私たちの見方を根本的に変えねばならない。ほかの条件が同じであれば投資を増やすであろう要因としてみる代わりに、ほかの条件が同じであれば雇用を減らす要因としてみるのであれば、支出に対する準備〔貯蓄〕が減ることは、まったく異なる観点から理解されることになろう *****。
脚注
(1)私が見つけられた〔論考〕の概要については本章の補論を参照。
(2)この文節に関するより進んだ議論については以下のp.186を参照 ******。
(3)Carver教授の利子率に関する議論を追うのは、(1)〈資本の限界生産性〉によって限界生産物の数量と限界生産物の価値のいずれを意味するのか一貫しておらず、また(2)資本量を定義するいかなる試みもなされていないことから、困難である *******。
(4)この諸問題に対するごく最近の議論(Economica, 1934年8月号掲載のF.H. Knight教授によるCapital, Time and the Interest Rate)は、資本の性質について多くの興味深く深遠な観察を含んでおり、Böhm-Barwerkの分析が無力であるのに対してMarshallの伝統が妥当であり、利子の理論は厳密に伝統的な古典派の形によって与えられることを確認している。Knight教授によれば、資本生産の分野における均衡は〈貯蓄が、その利用に対して貯蓄者に払われるものと同じ水準の純利益率を生産する投資の流れと、ちょうど同じ時間率あるいは速度で市場に流れ込む〉ような利子率を意味する ********。
(5)この図はR.F. Harrod氏が示唆したものである *********。参考までに、部分的に似た図式はD.H. Robertson氏によるEconomic Journal, 1934年12月号〔掲載の論文〕p.652にもみられる **********。
(6)以下の第17章を参照。
(7)現代の経済学者による〈中立〉利子率は、Böhm-Bawerkの〈自然〉率ともWicksellの〈自然〉率とも異なる。
(8)本章の補論を参照。
訳注
* Cassel教授の『利子の本質と必要性』は https://jscholarship.library.jhu.edu/handle/1774.2/34276
** Walras著, 久武訳『純粋経済学要論』付録Ⅰ第三章, pp.516-519を参照。
*** 間宮版の訳注は、I(r, Y)=S(r, Y)からr=r(Y)が得られ、これで利子率 rが決まると所得Yが決まる、これがこの文の文意であるとしているが、判然としない。間宮版の訳注が示したはKeynesの解釈ではなく、古典派の解釈にみえる。
**** 塩野谷版によれば、この引用はノルウェーの戯曲家イプセンの『野鴨』(1884年)第2幕からとったものである。原千代海訳『野鴨』がある。引用文中のtangle and all the rubbishは「ありとあらゆるごみを絡み込んだ」と訳出した。いわゆる学問の蛸壷に閉じこもり、その中で正しさを主張する誤謬に満ちた経済学者を引きずり出すという意味であろう。なお、ハロッド著, 塩野谷訳『ケインズ伝』上, p.113から、1904年3月24日付のケインズからスウィシンバンク宛の手紙の中に、ドイツ・ベルリンにて『野鴨』を観劇し、『野鴨』の本を2ペニーで購入したことが記されていることがわかる。
***** この章には第2節以降が存在しない。
****** この脚注が付された本文掲載の引用文は、Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第4分冊, p.46からのものと思われる。
******* Carver教授の『富の分配』は https://archive.org/details/distributionweal00carv
******** 塩野谷版の訳注は、この脚注が付された節にあるTaussigの著作の参照ページに誤りがあると指摘している。『経済学原理』の初版(1911年)と第2版(1915年)ではp.23とp.22であり、第3版(1921年)ではp.28とp.27ということである。間宮版はこの点指摘せずに訳出している。第3版を確認したところ、確かに若干参照ページ数に揺らぎがあるようである。いずれにしても第39章からの引用と思われる。ここでは原文どおりに訳出し、この訳注で注意を促す。Taussig教授の『原理』は https://archive.org/details/principlesecono00unkngoog/mode/2up 、Knightの論文は https://www.jstor.org/stable/2548804 。
********* 図はThe Collected Writings of JMK, XII, p.557の、KeynesからHarrodに宛てた手紙にある。この手紙はHarrodから受けた手紙に対する返信であるのでこのように表現されている。
********** Robertsonの論文は次のリンク先参照。https://www.jstor.org/stable/2224848
I
Marshall、Edgeworth、Pigou教授の論考には、利子率に関する一貫した議論がない。――わずかな付論のほかには。上記(p.139)*で既に引用した文節を除いて、Marshallの利子率に対する立場を得る重要な手がかりは、『経済学原理』(第6版)の第6部p.534とp.593にわずかに見出されるのみである 。その要旨は次の引用によって与えられる。:
〈いかなる市場においても資産を用いることの対価である利子は、その利子率、その市場における資産の総需要がその〔利子〕率が存在するとき提供される総蓄積(1)と等しくなるような均衡水準に向かう傾向がある。もし当該市場が小さいのであれば――ひとつの町、あるいは先進国におけるひとつの業種のように――〔その業種に関わる〕資産の需要の高まりは、近隣や隣接業種から供給が増えることによって即時に満たされるであろう。しかし、もし全世界、あるいは大きな国の全域をひとつの資産市場として捉えるのであれば、利子率の変化によって、その総供給が急速にそして相当な大きさで変化することはできない。というのも、資産の一般的な蓄えは労働と待つことによって生産されるからである。そして、利子率の上昇がインセンティブとして機能することによって〔生じる〕追加の仕事(2)と追加の待つことは、今ある資産蓄積の総計という結果をもたらす仕事と待つことに比べて、速やかに増えることはない(3)。したがって、利子率の上昇と比べて、資産一般の需要の大幅な増分は、しばらくの間その供給の増分によって十分に満たされることはない。このことは、限界効用が最低である資産の利用を部分的に控えることをもたらす。利子率の上昇はゆっくりと徐々にしか資産の総蓄積を増やさないであろう〉(p.534)**。
〈《利子率》という語が資産の古い投資に適用できるのは極めて限られた意味においてであることは、どれほど繰り返しても足りない(4)。たとえば、70億〔ポンド〕ほどの商業資本がその国の様々な業種に純利3%ほどで投じられると、あるいは推定されるかもしれない。しかし、このような言い方は、多くの目的のために便利かつ正当化できるかもしれないが、正確ではない。言われるべきことは、それらの業種それぞれにおいて、新規資産への投資[すなわち、限界投資]の純利の率がおおよそ3%だということである。すると、様々な業種に投じられた商業資本全体によって与えられる純所得の合計は、もし33年間の購入で割り引かれるのであれば(すなわち利子が3%であるという条件の下で)***、おおよそ70億ポンドになるということである。というのも、土地を改良したり建物を建てたり、あるいは鉄道を敷いたり機械を製造するのにすでに投じられた資本の価値は、それが〔生み出す〕推定された未来の所得[あるいは準地代]の割引価値の合計だからである。そしてもしそれが所得獲得力の見込みが減少するのであれば、それにともないその価値は減り、減価償却後のより少ない所得に対応する現在価値になるであろう〉(p.593) ****。
Pigou教授は『厚生経済学』(第3版)のp.163に、〈《待つこと》というサービスの性質はひどく誤解されてきた。それは時に貨幣の準備、また時に時間の準備と思われてきた。どちらの想定も、〔国民〕分配分にまったく貢献しないと主張されてきた *****。いずれの想定も正しくない。《待つこと》は、今すぐ楽しむこともできる消費を延期することを意味するのみである。したがって、〔消費されていれば〕その機会を失っていたであろう資源が生産装置の形をとることを意味する(5)。……したがって《待つこと》の単位は、所与の期間に所用の資源(6)――たとえば働き手と装置――の量の利用権である。より一般的な語で待つことの単位を言い表せば、年価値の単位、またはCassel博士のより簡素であるがより正確さを欠いた語では年ポンドとなる。……任意の年に集められた資本の量は、その年になされた《貯蓄》の量と等しくあらねばならないという常識的な見方に注意を加えてよいかもしれない。これは貯蓄を純貯蓄、すなわち誰かの貯蓄がほかの誰かの消費を増やすために貸し出される分を控除し、サービスのためにつかわれない権利を一時的に銀行預金の形で集めたものを無視した貯蓄、を意味すると解釈しても成り立たない。というのも、資本として用いられることを意図した貯蓄の多くは、使い道を誤り浪費され目的を果たさないというのが実際だからである(7)〉。
利子率を決めるものに関する、Pigou教授による重要な言及は『産業変動論』(第1版)のpp.251-3だけに見出されると思う。そこで彼は、利子率は実物資産の需要と供給の一般的な条件によって決まるので、中央銀行やその他の銀行の手の及ばないところにあると議論している。この見方に反対して彼は次のように議論する。「銀行家が事業家により多くの信用を創造すれば、第1部第8章(8)で説明した条件の下で、公衆から実物の財が強制的に徴収され、事業家が利用できる実物資産の流れが増し、長期と短期の貸付けにかかる実質利子率はともに下がる。端的にいって、銀行家の貨幣に対する〔利子〕率は長期貸付けのための実質利子率との機械的な結びつきによって限界を画すのは確かである。しかし、この実質〔利子〕率が銀行家のまったく手の及ばない条件によって決まるというのは真実ではない」。
上記の〔引用〕に対する私の一連のコメントは、脚注に付したところである。この問題に関するMarshallの説明の中に私が見つけた難点は、思うに、貨幣経済にまつわる概念である〈利子〉を、貨幣をまったく考慮しない論考の中に入れ込んでいることだ。Marshallの『経済学原理』に〈利子〉が現れる余地はまったくない。――それは、主題のもうひとつの部門に属する。Pigou教授は、彼の他の想定と一致するように、待つことの単位は当期の投資の単位と同じであり、待つことの報酬は準地代であるとして、利子には事実上まったく言及しなかったことを(『厚生経済学』の中で)私たちに示唆している。――〔確かにそれは言及〕すべきでないのだが。しかしながら、〔MarshallやPigouといった〕書き手たちは、非貨幣経済(もしそのようなものがあるなら)を取り扱っていない。彼らは貨幣はつかわれ、銀行システムが存在すると極めて明らかに仮定している。しかも、Pigou教授の(資産の限界効率の変動について主に論じた)『産業変動論』や(非自発的失業がないという想定の下で雇用量を決めるものに関して主に研究した)『失業の理論』で果たす利子率の役割は、『厚生経済学』のそれとほとんど変わらない。
脚注
(1)Marshallが〈貨幣〉ではなく〈資産〉、〈貸付け〉ではなく〈蓄積〉という語を用いているのに注意すべきである。ただし、利子は貨幣の借り入れに対する支払いであり、この文脈の〈資産に対する需要〉は〈資産財の蓄積を購入するために貸付けられる貨幣に対する需要〉を意味すべきである。しかし、提供される資産財の蓄積と蓄積の需要を等しくするのは資産財の価格であり、利子率ではない。利子率によってもたらされるのは、貸付けられる貨幣、すなわち債券、の需要と供給が等しくなることである。
(2)ここでは所得が一定ではないと想定している。しかし、利子率の上昇が〈追加の仕事〉をもたらす道筋は明らかではない。貯蓄するために働くことの魅力が高まるという理由によって、利子率の上昇は、生産要素により低い賃金で働かせるような実質賃金のある種の増加を導くものだと示唆しているのであろうか? D.H. Robertson氏の胸中にもこれと同様の文脈があると思う。確かに、これは〈速やかに、十分に満たされることはないであろう〉。そして、この要素によって投資量の実際の変動を説明しようという試みは、まったく信じがたく、確かに馬鹿げている。この文の後半を私が書き換えるのであれば次のようになる。〈資産の限界効率表が上昇することによって資産一般の需要が大幅に高まることは、利子率の上昇、追加の雇用、そして所得水準の上昇によってそれが相殺されず、固定資産の生産増の結果としての所得水準は、当期における固定資産の増分の貨幣で測った価値にちょうど等しくなるような固定資産の生産増の結果をもたらし、したがって、それを厳密に提供する〉。
(3)固定資産の供給価格が上がることによってではないのか? たとえば、利子率が下がって、〈資本一般の需要が大幅に増える〉ことを考えてみる。この文は次のように書き換えることを勧める。〈したがって、固定資産の需要が大幅に増えることに対して、総蓄積を増やすことで直ちに応ずることができない限り、投資規模のいずれの変化も実現しない利子率の下で、資本の限界効率表が均衡状態にあり続けるのに十分なだけ、固定資産の供給価格が上がることでしばらくそれを抑えなければならない。(いつものことであるが)その間に、固定資産を産出するのに適用できる生産要素は、新しい状況で最高の限界効率を持つ固定資産を生産するのに使われるであろう〉。
(4)実際、それを語ることはまったくできない。適切に語ることができるのは、新しいまたは古い投資資産を購入するために(あるいは何かほかの目的のために)借りた貨幣の利子率だけである。
(5)消費を延期することがこの影響を持つ必要があるということなのか、単に〔消費の延期によって〕解放された資源が使われないままになるのか、あるいはまた〔経済〕環境に応じた投資に使われるのか、ここでの語法は曖昧である。
(6)所得の受け取り分である貨幣量は〔すべて〕消費に使われるかもしれないが、実際はそうでないことに注意すべきである。よって待つことの報酬は利子ではなく、純地代である。この文節は、解放された資源が使われる必要があることを示唆しているようである。とすれば、解放された資源が使われないのであれば、それに対する報酬とは何であろうか?
(7)使い道を誤った投資を無視しても〈サービスのためにつかわれない権利を一時的に銀行預金の形で集めたもの〉を考慮に入れるのであれば、純貯蓄が資産の増分と等しいのか、この文節では語られていない。しかし、『産業変動論』(p.22)でPigou教授は、そのような集計量は彼が〈実質貯蓄〉と名付けたものにまったく影響を及ぼさないと明記している。
(8)この参照箇所(上掲〔『産業変動論』〕pp.129-134)には、銀行による新規の信用創造は企業家が利用できる実物資産の流れを増す、ということに対するPigou教授の見方が含まれている。要するに彼は、「信用創造をとおして事業家の手にわたる信用の流れから、銀行がそこになければほかの用途に貢献したであろう資本の流れを」差し引くことを試みている。こうした控除がなされた後、議論は深い靄に覆われる。まず、1500の所得がある大家は500を消費し1000を貯蓄する。信用創造の働きは、彼の所得を1300に減らし、彼はそのうちの500-x を消費し800+x を貯蓄する。そしてPigou教授は、xが信用創造の活動によってつかえるようになった資本の純増を表すと結論づける。企業家の所得は銀行から借りた量だけ嵩増しされるのであろうか(上記のような控除後に)? それとも、大家の所得が、たとえば200だけ、減ることによりその量が嵩増しされるのであろうか? いずれであるにせよ、それらすべてが貯蓄されるのであろうか? 投資の増分は信用創造〔された分〕から控除分を差し引いたものに等しいのだろうか? それともxと等しいのであろうか?議論は、それがはじまるべきところで止まっているようである。
訳注
* 第11章第Ⅱ節にあるMarshall『経済学原理』からの引用である。
** Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第4分冊, p.46を参照。永澤訳には原文のページが付されていて便利である。
*** 間宮版の訳注に、33年の購入とは1/33≒3%の割引率を意味するとある。直接還元型の収益還元法を用いると、毎年2.1212…億ポンドの収益が得られる固定資産を1/33で割り引くと、2.1212.../(1/33)=70億ポンドになる。
**** Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第4分冊, p.128を参照。
***** dividendを、Pigou教授の中心的な概念national dividendだと解釈する間宮版にしたがい、「〔国民〕分配分」と訳出した。
Ⅱ
Ricardoによる『経済学原理』*(p.511)から引用した下記は、彼の利子率の理論の内容を表している。:
〈貨幣利子はイングランド銀行 **の貸出し〔利子〕率が5%、3%、2%のいずれであるかによって調節されない ***。資本を用いて生み出される利益率によって調節される。これは貨幣の量とも価値ともまったく独立である。イングランド銀行が100万、1000万、あるいは1億〔ポンド〕を貸すかどうかは、市場利子率を恒久的に変化させることはないであろう。そのとき発行する貨幣の価値だけが変わりうるのである。ある場合においては、同じ事業を実施するのに要する貨幣量が、ほかの場合に比べて10倍、20倍になるかもしれない。そうであるなら、イングランド銀行に貨幣を求めることは、それを用いることで生み出される利益率と、求めに応じて〔イングランド銀行が〕貸付ける〔利子〕率との比較による。もし市場利子率より低い〔利子率を〕請求するのであれば、貸付けられる貨幣の量に上限はない。――もしその率より高い〔利子率を〕請求するのであれば、浪費家か放蕩者くらいしかそれを借りる者はなかろう〉****。
これは最近の書き手たちよりよい議論の出発点を与える明快さがある。最近の書き手たちはRicardoの学説の主要な点からほとんど離れていないものの、居心地がことに悪いために、あいまいさの中に避難所を求めている。もちろん、Ricardoの常であるが、上記は文節の中程にある〈恒久的に〉という語を強調して、長期の学説として解釈しなければならない。それが有効であるのに必要な想定を考えることは興味深い。
ここでも、必要とされる想定は古典派によくある想定である。すなわち、生産物表示の労働の供給曲線はまったく変化しないと想定すると *****、長期均衡において雇用水準が取りうるのはだたひとつの水準である、ということである。心理的な傾向がまったく変わらず、貨幣量の変化によって生じるものを除く期待もまったく変わらない、といういつものほかの条件が同じならばという想定の下で、Ricardoの理論は、これらの考えについて長期において完全雇用と調和するであろう唯一の利子率があるという意味で有効である。Ricardoとその継承者たちは、長期においてさえも雇用量は必ずしも完全〔雇用の水準〕に達せず、変化しうる。そしてそれぞれの〔イングランド〕銀行の政策に対応する雇用の長期的水準が様々あるという事実を見過ごしている。すなわち、貨幣当局による想像しうる限り様々な利子政策に対応する、数多くの長期均衡がある。
もしRicardoが貨幣当局によって創造された所与の貨幣量のいずれにもまったく適用できるように彼の議論を提示することに満足したのであれば、柔軟な貨幣賃金という想定は依然正しくあり続けたであろう。すなわち、もしRicardoが、貨幣当局によって貨幣量が1000万、あるいは1億〔ポンド〕に固定されるかどうかは、利子率を恒久的に変えないと議論したのであれば、彼の結論は保持されるかもしれない。しかし、もし貨幣当局の政策が、貨幣量を増減させる条件を意味しているのであれば、割り引く量を変えることによって、あるいは公開市場操作によって、〔イングランド銀行の〕資産を増減させる利子率を意味しているのであれば、――これは上記の引用文でRicardoが明確に意味していることであるが――貨幣当局の政策が無効であったり、ただ1つの政策だけが長期均衡と調和するということはない。雇われていない〔潜在的な〕働き手の間にある雇用を求める虚しい競争をとおして非自発的失業に直面して、貨幣賃金が際限なく下がると想定される極端な場合には、〔生じうる〕長期均衡はただ2つだけになるであろうことは確かである。――〔すなわち、〕完全雇用と、(これは完全雇用未満の出来事であるが、)流動性選好が絶対的になる利子率に対応する雇用水準である。貨幣賃金が柔軟だと想定すると、長期的には貨幣量それ自体は無効であるのは確かである。しかし、貨幣当局が貨幣量を変える条件は、真の決定因として経済体系に入り込む。
引用文の結論となる文は、資産の限界効率が投資される量に応じて変わりうることをRicardoが見過ごしていることを示唆することを、付け加える価値がある。しかしこれも、彼の継承者たちと比べて、彼のより優れた内部の一貫性を示すもうひとつの例として解釈しうる。というのも、雇用量と社会の心理的傾向を所与とするなら、ありうべき資産の蓄積率はただ1つであり、その結果、資産の限界効率が取りうる値もただ1つであるのは確かだからである。Ricardoは、経験から離れた仮想世界に雄飛しながら、あたかもそこが現実世界であるかのように首尾一貫ふるまうという、凡百の精神には到達しえない超越した理性の高みをみせてくれる。彼の継承者の大多数には否応なく常識が入り込む――〔ゆえに、〕論理的一貫性を損なう。
訳注
* Principles of Political Economyを、通例に準じて「『経済学原理』」と訳出した。
** the Bankを、塩野谷版、間宮版にならって「イングランド銀行」と訳出した。間宮版の訳注によれば、当時イングランド銀行は商業銀行の機能を兼ね備えていた。
*** 塩野谷版と間宮版の訳注は、引用文の「5%、3%、2%のいずれであるか」が、原文では「5%、4%、3%のいずれであるか」であることを指摘している。
**** 中央銀行が市場利子率より低く設定した利子率を公定歩合、より高く設定した利子率を補完貸付の利率と解釈すると理解しやすい。
***** 間宮版の訳注は、in terms of product を「実質賃金を変数とする」と解釈している。
Ⅲ
利子率の変化が消費財と資本財の相対的物価水準の変化によって特定されうるという利子率に関する奇妙な理論は、von Mises教授、彼によって援用されているHayek教授、そしてRobbins教授によっても提起されていると思う(1)。どのようにこの結論に達したのかは定かでない。しかし、議論は次のように進むようである。ある種大胆な単純化によって、資産の限界効率は新規の生産財の供給価格に対する新規の消費財の供給価格の比率によって計測されるとする(2)。そうであるなら、これは利子率と認識される。利子率が下がると投資環境は好転するという事実を思い起こすべきである。それゆえに、生産財の価格に対する消費財の価格の比率が低下すると投資環境は好転する。
これは、個人が貯蓄を増やすことと総投資が増えることが結びつくことを意味する。というのも、個人が貯蓄を増やすと消費財の価格は下がり、生産財の価格下落より大きく下落することがありうるからである。したがって、上記の推論により、それは投資を刺激する利子率の低下を意味する。しかし、特定の固定資産の限界効率を引き下げ、よって資産一般の限界効率表を引き下げることは、上記の議論が想定するものとは真逆の影響がある。というのも、投資は資産の限界効率表を引き上げるか、利子率を下げるかすることによって刺激されるからである。資産の限界効率と利子率を取り違えた結果、von Mises教授と彼の弟子たちは完全に間違った側の結論を得てしまった。この線にそった取り違えのよい例は、Alvin Hansen教授による次の文節によって与えられる(3)。〈次のことを示唆する経済学者もいる。すなわち、支出を減らすことの純効果は、ほかの結果をもたらすよりも消費財の価格水準を引き下げるであろう。そしてその結果、固定資産投資を刺激することはそれによって最小化されてしまうであろう。しかし、この見方は正しくないし、(1)消費財の価格の高低と(2)利子率の変化が資本形成に与える効果を取り違えることに依拠している。支出を減らし貯蓄を増やす結果、消費財の価格群は生産財の価格群に比べて低いであろうことは確かである。しかし、これはより低い利子率を意味し、より低い利子率はより高い率では利益を得られないであろう領域の資産投資の拡張を促す〉。
脚注
(1)〔von Mises教授による〕『貨幣と信用の理論』p.339以降の諸所、とりわけp.363。
(2)長期均衡にあれば、これが正当化されうる特殊な想定を考案できるかもしれない。しかし、問題としている〔供給〕価格が不況期に優勢であるとき、企業家が期待を形成するとき、これらの価格が恒久的なものだと想定するであろうと考える単純化は、間違いなく誤解を招く。しかも、もしこの〔単純化をするのであれば、〕今ある生産財の蓄積の価格群は消費財の価格群と同率で下がるであろう。
(3)『経済の再興』p.233。
I
ここにおいて、第13章で準備として導入された流動性選好に対する動機の分析について、より詳細に掘り下げねばならない。主題は時に貨幣需要という項目の下で議論されてきたものと大部分同じである。また、貨幣の所得速度と呼ばれるものとも密接な関係にある。――というのも、貨幣の所得速度は単に公衆が所得のうち現金で保有する比率を測るものであり、貨幣の所得速度が上がることはおそらく流動性選好が弱まる兆候だからである *。しかし、個人が流動性と非流動性の〔いずれに振り分けるか〕選ぶことができるのは、所得ではなく、集められた貯蓄という蓄積に関するものだから、同じものではない。そして、〈貨幣の所得速度〉という語は、所得に対してある比率でもしくはある定まった関係を持って貨幣全体の需要に合う仮定という誤解への導きがなぜかついてまわる。他方、この仮定は公衆による現金保有の一部にのみ適用すべきであることをみる。〔この誤解は、〕利子率が果たす役割を見過ごす結果になる。
私の『貨幣論』において、所得預金、営業預金、貯蓄預金という項目の下で貨幣需要全般について研究した。よって、その本の第3章で与えた分析をここで繰り返す必要はない。しかしながら、3とおりの目的それぞれのために保有される貨幣を防水壁に仕切られた3つの区画に分ける必要はなく、1つのプールを形成してよい。というのも、〔貨幣を保有する人〕自身の心の中で、はっきり分割する必要さえなく、同じ〔貨幣〕量が一義的にはある目的に、二義的にはもうひとつの目的に保有されうるからである。したがって、所与の〔経済〕環境下の個人による貨幣需要の合計を、多様な異なる動機の総合的な結果であるひとつの決定とするのが――同等によく、おそらくはよりよい――と考えられる。
しかし、動機を分析する際には、それをいくつかの項目に分けるのが便利であり続ける。〔項目のうち〕1つは以前〔『貨幣論』〕における所得預金と営業預金の分類におおよそ対応し、後の2つは貯蓄預金の分類に対応する。これらは取引動機、これはさらに所得動機と営業動機に分類できるが、と予備的動機および投機的動機であり、第13章においてこれらの項目の下で手短に紹介しておいた。
(ⅰ)所得動機。現金の受取りと支払いの時間差を埋めることが現金を保有する理由の1つである。所与の現金総額を意思決定を導くこの動機の強さは、所得量と、受取りと支払いの時間差の通常の長さによる。貨幣の所得速度という概念が厳密に適用されるのはこれに関連してである。
(ⅱ)営業動機。同様に、営業費用を払う時点と売上収益を受け取る時点の時間差を埋めるために現金が保有される。仕入れと販売の時間差を埋めるために商人によって保有される現金は、この項目に含まれる。この需要の強さは、主に当期の産出(そしてしたがって当期の所得)の価値次第であり、産出されたものの流通段階がどれほどあるかにもよる。
(ⅲ)予備的動機。突然の支出を余儀なくされる場面や有利に購入できる思いがけない機会に備える、そしてまた貨幣表示で固定された債務を後に返済すべく貨幣表示で固定された価値を持つ資産を保有する、これらは現金を保有する更なる動機である。
これら3種の動機をすべて〔あわせた需要〕の強さは、部分的には現金を獲得する方法が安く信頼を置けるものかどうかによる。〔現金を獲得する方法とは、〕必要が生じたときある形式、とりわけ当座貸越あるいはそれと同等の手段で借入れることである。というのも、実際必要になったとき直ちに困難なく獲得しうるのであれば、時間差を埋める遊休現金はまったく不要だからである。〔現金需要の〕強さは、現金保有の相対的費用と名付けてもよいものによっても左右されるであろう **。もし現金が利益をもたらす資産の購入をやめることによってのみ確保できるのであれば、これが費用を引き上げ、したがって所与の現金残高を保有する動機を弱める。もし預金に利子が付くか、あるいは現金を保有することで銀行手数料を避けられるのであれば、これは費用を引き下げ、動機を強める。しかしこれは現金の保有費用が大幅に変化することが問題にされる場合を除いて、副次的な要素に留まりそうである。
(ⅳ)残されているのは投機的動機である。これは十分よく理解されておらず、また貨幣量の変化の影響を伝達する際特に重要なので、ほかより詳細な検討を要する。
通常の〔経済〕環境下で、取引動機と予備的動機を満たすのに必要な貨幣量は、主に経済体系の一般的な活動と所得水準とが相まって得られる。しかし、貨幣管理(あるいは貨幣管理がない場合においては貨幣量が変化する機会)が経済体系に影響を及ぼすことは、投機的動機に刺激を与える。というのも、前者〔取引と予備〕の動機を満たすための貨幣需要は、経済体系一般の活動と所得水準の変化が実際に生じることを除いて、どのような影響とも一般的な関係がないからである。他方、経験が示すのは取引動機を満たすための貨幣の総需要は、利子率の緩やかな変化に連続的に応ずるのがふつうだということである。つまり、投機的動機を満たすための貨幣需要の変化を、多様な満期の債券や負債の価格変化によって与えられる利子率の変化に結びつける連続的な曲線がある。
確かに、これがそうでなければ、〈公開市場操作〉を実施しえない。経験は上で述べたような連続的な関係を示すと私が言うのは、通常の〔経済〕環境下、市場で銀行システムが債券価格をわずかにつり上げて(下げて)入札することで、現金と引き換えに債券を買う(売る)ことがいつでもできるというのが実際だからである。さらに、債券や負債を買う(売る)ことで生み出す(消滅させる)ことを目論む現金の量が増えるにしたがい、利子率はより顕著に下がる(上がる)。しかし、公開市場操作が満期にごく近い証券の購入に限られている(1933-1934年の米国のような)ところでは、その効果は主としてごく短期の利子率に限られ、はるかに重要な長期利子率にほとんど影響を及ぼさない。
しかし、投機的動機を取り扱う際に、流動性関数に何らの変化がない状態で投機的動機を満たすのに利用可能な貨幣供給の変化によって生じる利子率の変化と、流動性関数自体に影響を及ぼす期待の変化に主によるものとを区別するのは重要である。確かに、公開市場操作は両方の経路を通じて利子率に影響を及ぼす。なぜなら、〔公開市場操作は〕貨幣量を変えるのみならず、中央銀行または政府が未来に採用するであろう政策への期待をも変えるからである。期待の変化をもたらすニュースの変化によって生じる流動性関数それ自体の変化は、不連続であることが多いであろうし、これにより利子率を不連続に変えるであろう。確かに、ニュースの変化は多様な個人によって異なる解釈がなされ、また個人の利益に様々な影響を及ぼす限りにおいて、そのときのみ債券市場における取引の活動はより活発になる余地があるだろう。もしニュースの変化がすべての人の判断と欲求に厳密に同じしかたで影響するのであれば、利子率は、いかなる市場取引をも必要とせず、瞬時に新しい状態に適応するであろう。
したがって、すべての人が似通っており類似の〔状況に〕置かれているという最も単純な場合には、〔経済〕環境または期待の変化は、何らの貨幣の置き換えをももたらすことができない。――それは単に、従前の〔利子〕率で感じた、新しい環境や期待に反応して貨幣保有を変えたいという個々人の願望を相殺する必要に応えるように利子率を変化させる ***。そして、すべての人が同じ程度だけ貨幣保有を変えるように導く〔利子〕率に対してすべての人が考えを変えるので、取引は生じないという結果になるだろう。それぞれの環境と期待の組み合わせに対して、それに対応して適合する利子率があり、通常の貨幣保有を変更するという疑問は誰もまったく持たない。
しかし、一般に、環境または期待が変化すると、個人の貨幣保有はいくぶん再調整される。――なぜなら、変化は、部分的には〔経済〕環境の違いと貨幣が保有される理由の違いによって、また部分的には知識の違いと新しい状況の解釈の違いによって、多様な個人の考えに様々な影響を及ぼすのが実際のところと言えそうだから。したがって、新たな均衡利子率は貨幣保有の再分配をともなう。しかしながら、私たちが主に注目するのは現金の再分配よりむしろ利子率の変化である。後者〔現金の再分配〕は個人間の差異に対して付随的であるが、本質的な現象は最も単純な場合に生じる ****。しかも、一般的な場合においてさえ、利子率の変動はニュースの変化に反応する、最も顕著な部分であることが多い。債券価格の変動は、新聞が言い習わしているように、〈取引の活動にまったく釣り合いが取れない〉ほどのものである――個人の見方は、ニュースに対する反応が異なるよりむしろはるかに似通っているしそうあるべきである。
訳注
* 間宮版の訳注は、MV=POを満たすVが貨幣の所得速度だとしている。この式については本章第Ⅳ節を参照。流動性選好の原型はSteuart, James著, 小林監訳『経済の原理 ―第1・第2編―』p.346にみられる。
** 間宮版の訳注は、 「現金保有の相対的費用」を機会費用と捉えている。
*** 間宮版の訳注は、「相殺」の意味を、期待の状態がEからE'に変わるとき、利子率もr からr' に変わるので取引が生じないこと、すなわちL2(r, E)=L2(r', E')だと捉えている。
**** 後者が現金の再分配であるのは、英語と日本語訳の語順が入れ替わっているためである。
Ⅱ
取引動機と予備的動機を満たすために個人が保有すると決めた現金残高は、投機的動機を満たすために保有するものと完全に独立というわけではないが、これら2組の現金保有の量をおおよそ互いに独立したものとみなすことは、無難な一次近似である。したがって、より進んだ分析目的のために、問題をこのように分割しておこう。
取引動機と予備的動機を満たすために保有される現金残高をM1とおき、投機的動機を満たすために保有される量をM2とおくことにしよう。すると、私たちは貨幣のこれら2種の区画に対応する、2つの流動性関数L1とL2を持つことになる。L1は主に所得水準に依存し、L2は主に当期の利子率と期待の状態の関係に依存する。したがって
M=M1+M2=L1(Y)+L2(r)
ここで、L1はM1を決める所得Yに対応した流動性関数であり、L2はM2を決める利子率rの流動性関数である。すると、調査すべき次の3つの事柄があるということになる。:すなわち、(ⅰ)Yとr に対するMの変化の関係、(ⅱ)L1の形状を決めるもの、(ⅲ)L2の形状を決めるもの、である。
(ⅰ)まず、Yとr に対するMの変化の関係は、Mの変化が生じる道筋に左右される。金貨によってMが構成されており、Mの変化は分析対象となる経済体系の一員であるGoldの採掘者の活動から得られる利益が増えることからしか生じ得ないとしよう。この場合、Mの変化は新たなGoldが誰かの所得として集められるので、まず直接的にYの変化をともなう。当期の支出に見合うように政府が紙幣を印刷することによってMが変化するなら、厳密な意味でこれと同じ条件が成立する。――この場合においても、新しく〔印刷された〕紙幣は、誰かの所得として集められる。しかし、こうして到達する新しい所得水準は、M1を求める欲求がMの増加すべてを吸収するほど十分に高いままであり続けることはないであろう。そしていくばくかの貨幣は、M2の規模を拡大して利子率を下げるまで証券やその他の資産を購入することにはけ口を求めるであろう。そして同時に、利子率rの低下によってYが増えるのに対応して、新しい紙幣がM1またはM2の中に吸収される、そのような程度でYの増加を刺激する。したがって、この場合は、新しい紙幣は銀行システムによって信用条件が緩和され、それが銀行に対して負債または債券を売ることと引き換えに現金を得ることによってのみ発行されうるという代替的な場合と同じものである。
したがって、後者〔政府支出〕の場合を典型と受け取るのが無難であろう。Mの変化は、r を変化させることで操作すると想定しうる。そしてr の変化は、部分的にはM2を変えることにより、また部分的にはY、したがってM1を変えることにより新しい均衡に至るであろう。新しい均衡において、現金の増分のM1とM2への分割は、利子率の低下が投資にどれほど反応し、投資の増加が所得にどれほど反応するかによるであろう(1)。Yは部分的にrに左右されるので、Mの所与の変化は、M1とM2それぞれの変化の合計がMの変化になるのに十分なだけ、rの変化を引き起こす結果になる。
(ⅱ)貨幣の所得速度はMに対するYの比率であるのか、M1に対するYの比率であるのか明らかにされないのが常である。しかし私は、後者の意味に受け取ることをお勧めする。したがって、Vを貨幣の所得速度とすると、
L1(Y)=Y/V=M1
もちろん、Vが一定だとする理由はない。この値は、銀行組織と産業組織の特徴しだいであり、社会の慣習しだいであり、異なる〔社会〕階層の所得分布しだいであり、また有休現金を保有する実際上の費用しだいでもある。しかしながら、短期的な視野を持ちこれらの要因に具体的な変化がまったく生じないと無理なく想定できるのであれば、Vは一定に十分近いものとして取り扱うことができる。
(ⅲ)最後に、M2とrの関係という問題がある。第13章でみたように、利子率が未来にたどる経路に対する不確実性は、現金をM2だけ保有するように導く流動性関数L2の形の唯一の理解しうる説明である。所与のM2は、所与の利子率r と定まった量的関係をまったく持たない。――問題はr の絶対的な水準ではなく、こうした確率の計算が信頼できるものであるとして、おおよそ安全だと思われる水準r からの解離の程度である。しかしながら、所与の期待の状態がどのようなものであっても、r の低下はM2の増加をともなうと期待する2つの理由がある。第1に、もしrの安全な水準に対する一般的な見方が変わらなければ、r のどのような低下も〈安全〉率に対する市場〔利子〕率を引き下げ、そしてしたがって非流動性のリスクが高まる。第2に、r のどのような低下も非流動性から得られる当期の利益を減らす。これは、キャピタルロスのリスクを相殺するような保険プレミアムの一種として得られるものであり、〔このキャピタルロスは〕新旧の利子率の2乗の差に等しい量である。たとえば、長期債の利子率が4%であるなら、確率を比較考量して、長期利子率が年利でそれ自身の4%より速く、すなわち年利0.16%を超える量だけ、上がる恐れがない限り流動性を犠牲にすることが好ましくなる。しかし、利子率がすでに2%の低さにあるときには、直利は年利0.04%ほどのわずかな上昇を相殺するだけであろう *。確かにこれは、利子率が非常に低い水準まで下がる主要な妨げであろう。未来の経験は過去の経験と大きく異ならないであろうと信ずる理由がない限り、(たとえば)2%の長期利子率は希望より怖れを抱かせ、同時に、直利がほんのわずかな怖れを相殺するのに十分な分だけしか提供しない。
そうであるなら、利子率はすぐれて心理的な現象であることは明らかである。確かに、第5篇に見出されるように、完全雇用に対応する〔利子〕率を下回る水準で均衡にはなり得ない。なぜなら、〔利子率が〕そのような水準にあるとき、純インフレーション状態が生成され、増えた現金すべてがM1に吸収される結果になるからである **。しかし、完全雇用に対応する〔利子〕率を上回る水準にあるとき、市場で決まる長期利子率は貨幣当局の当期の政策のみならず、未来の政策に関する市場の期待によっても左右されるであろう。短期利子率は貨幣当局によってたやすく制御できる。これは、近未来に政策が大幅に変わることはないという信念を生成するのが難しく、かつ生じうる損失が直利と比べて少ないためである(それが消失点に近づいていない限り ***)。しかし、長期利子率については、過去の経験と未来の貨幣政策に対する現時点で形成される期待をもとに、代表的な見解によって〈安全ではない〉と思われる水準にひとたび落ち込んだとき、より制御しにくいかもしれない ****。たとえば、国際金本位制に接続している国において、ほかの国々で優勢を占める利子率より低い利子率は、確信の欠如を正当化しうるとみられるであろう。しかし、国際〔金本位制〕のシステムに属するいずれかの国で優勢な、(リスクを控除した後で)最も高い〔利子〕率にひきづられる国内の利子率は、国内の完全雇用にあう水準よりはるかに高いかもしれない。
したがって、その特質上実験的であり、あるいは容易に変わりやすいものとしての公衆の見解に衝撃を与える貨幣政策は、長期利子率を大幅に引き下げるという目的を遂げることができないかもしれない。なぜなら、r がある水準を超えて下がるのに対応して、M2がほぼ無制限に増えるからである。他方、合理的かつ現実的であり、公衆の利益に叶い、強い信念に根付き、揺るぎない〔貨幣〕当局によって同じ政策が推進され、公衆に訴えることができれば、たやすく成功することが確かめられるかもしれない。
利子率は心理的現象というより、すぐれて相場的だというのがより正確かもしれない。というのも、実際の価値は、その価値がどれほどのものかという期待に対する支配的な見解に支配されるからである *****。今後もそこにあり続けそうだという十分な信念に支えられた利子〔率〕は、どの水準にあろうと今後もそこにあり続けるだろう。もちろん、変化しつつある社会においては、あらゆる種類の理由で期待される通常〔水準〕のまわりを変動するが。とりわけ、M1がMより速く増えているとき利子率は上がる。逆もまたしかりである。しかし、〔利子率は〕完全雇用〔を達成する〕には高すぎる水準の近傍を数十年にわたって変動するかもしれない。とりわけ、利子率は自ら調整され、相場で定まった水準は相場感よりはるかに強い客観的な根拠に根差しているので、雇用が最適な水準を達成していないことが、公衆と〔貨幣〕当局いずれの胸中で利子率が不適切な範囲にあることが大勢を占めていることに結びつかないからである ******。
ここまでで、完全雇用を提供するのに十分な高水準の有効需要を維持する策の難しさ、〔そしてこの難しさは〕相場的でおおよそ安定的な長期利子率と、気まぐれで極めて不安定な資産の限界効率から生じることが読者に明らかになったはずである。
次のような希望は、より勇気づけられる考えから無理なく抽出しうる慰めである。すなわち、相場観は手堅い知識に根差していないまさにそのために、貨幣当局による目的の持続的で一貫性のある抑制の効いた政策に過激な抵抗をみせるばかりではない〔という希望である〕。公衆の見解は、利子率の穏やかな低下に無理のない歩調でなじみ、未来の相場に対する期待もそれにともない修正され、よってより進んだ動きへの道を準備するかもしれない――ある点まで。金本位制離脱後の大英帝国にみられた長期利子率の低下は、この種の興味深い例である。――主要な動きは繰り返された不連続なジャンプに影響を受けたが、公衆の流動性関数は引き続く段階的な引き下げに慣れ、ニュースや当局の政策に関するある種の新しいインセンティブに反応する準備ができるようになった。
脚注
(1)新しい均衡の特徴を決めるものは何かという問いについては、〔本書〕第5篇を待たねばならない。
訳注
* running yieldを文脈からcurrent yieldと同義と捉え、「直利」と訳出した。直利とは年間の利子を割引率で除したものであるが、ここでは年間の利子を表すものと思われる。この段落の数値例を再説すると次のとおりである。年間の受取り利子が4ポンド、年利の割引率が4%のコンソール(長期債の極限としての永久債)の価格は、4/4%=100ポンドである。割引率が4%の2乗=0.0016=0.16%だけ上がり、4.16%になるとコンソールの価格は100ポンドから96.1538…ポンドに下がる。つまり、割引率が4%の2乗だけ上がると長期債の価格は4ポンドほど下がる。この4ポンドは年間の利子4ポンドと相償う。よって、長期債の割引率の上昇が4%の2乗を超えないと期待するとき、投資家は手元流動性である現金を長期債に投ずる。割引率の上昇が4%の2乗を超えると期待するとき、投資家は現金を長期債に投じない。割引率が2%であるときには、割引率がわずか2%の2乗=0.04%上がるだけで年間の受取り利子2ポンドに達してしまう。割引率がわずかに上がることで生じる損失は、非流動性すなわち長期債から得られる利子を超えてしまうので、投資家は長期債に投資しづらくなる。投資家が買い進まないと長期債の価格は上がらない。すなわち割引率は下がらない。このような筋道から、割引率が低くなるほど流動性選好は強くなる。つまり、長期債を買いづらくなり、貨幣を保有する気持ちが強くなるので利子率はそれ以上下がりづらくなる。この例は、いわゆるDollar Durationを用いて、利子率のふるまいを説明するものである。塩野谷版、間宮版にも同様の訳注がある。コンソール市場についてはJevons, William Staley著, 小泉他訳『経済学の理論』pp.82-84を参照。
** true inflationを、貨幣政策が雇用にまったく影響を及ぼさず、インフレーションにのみ影響を及ぼす際のインフレと捉えて「純インフレーション」と訳出した。塩野谷版では真正インフレーション、間宮版では真性インフレーションと訳出している。
*** この補足は、短期利子率が0近傍にない限り、という意味である。
**** 間宮版の訳注は、現行の利子率r が、安全な、あるいは正常な利子率r* と完全雇用下の利子率r^の間にあるならば、すなわちr^<r<r* であるならば、rは「危険な」利子率になるとしている。現代的な解釈では、利子率は平均回帰(mean-reverting)の特徴を持つ。その平均をr*とすると、完全雇用実現のために利子率をr^へ意図的に引き下げることは、程なくr*への回帰を生じせしめる。すなわち利子率は上がり、債券価格は下落する期待が生まれる。この現象を「危険」という語で表現している。
***** 間宮版の訳注は、Hickは期待が利子率を決めるという考え方をBootStrapだとして批判していると紹介している。Hicks, John Richard著, 安井・熊谷訳『価値と資本』第11章から第13章を参照。また次の論考も参照。https://www.jstor.org/stable/4537948 興味深いことに、近年イールドカーブを推計する手法の1つにブートストラップ法がある。
****** 間宮版の訳注は、conventionを「市場で打ち立てられた水準」と捉えているが、ここでは「相場観」と訳出した。
Ⅲ
上記のことを次の命題にまとめあげることができる。すなわち、どのような期待の状態が与えられるとしても、取引動機または予備的動機によって求められるものを超える現金の保有に向かうある種の潜在力が公衆の心にある。〔この潜在力は、〕貨幣当局が進んで現金を創造する条件に左右される程度だけ、公衆自身は実際の現金保有を認識する。まとめ上げられたこの潜在力こそが流動性関数L2である。
したがって、ほかの条件が同じならば、貨幣当局によって創造された貨幣量に対応する定まった利子率、より厳密には様々な満期の債券のための、定まった利子率群があるであろう。しかし、同じことは経済体系を構成する何かほかの要素を切り出したときも真実である。したがって、この特定の分析が有用かつ重要であるのは、貨幣量の変化と利子率の変化の間にある特別な、直接的で目的に叶う関係がある限りにおいてのみであろう。こうした特別な関係があると思うのは、大まかに言って、銀行システムと貨幣当局が貨幣と債券の取引仲介者であり、資産や消費財の取引仲介者ではないという事実による。
もし貨幣当局が〔売り買いの〕両側であらゆる満期の債券を特定の条件で取引し、様々な程度のリスクをはらむ債券を取引する準備さえもあるのであれば、利子率群と貨幣量の関係は直接的なものになるであろう。利子率群は、銀行システムが債券を獲得または手放す準備をする条件を表すものに過ぎなくなるであろう。そして、貨幣量は、市場利子率によって示唆される条件で債券と引き換えに手放すより――関連する事柄すべてを考慮に入れた後――流動性現金を制御することを好む個人による保有に安住の地を見出しうる量であろう。おそらく、短期国債〔を割り引くため〕の単一の政策利子率の代わりに、あらゆる満期の金箔で縁取られた英国債を、宣言した価格で売買するという中央銀行による申し出の束は、貨幣の管理技術になされうる最も重要な現実的な改善となろう *。
しかし今日の実務では、実際の市場価格を支配するという意味において、銀行システムによって債券価格を固定することが市場で〈効果を持つ〉その程度は、〔銀行〕システムしだいである。価格は、時として他方向より一方向により効果的である。つまり、銀行システムは、ある価格で債券を買い受けるかもしれないが、スプレッド が表す買値にごく近い価格で売る必要はないからである **。しかし、公開市場操作の助けを借りても価格は市場の両側で効果的になり得ない理由はないが。また、貨幣当局はあらゆる満期の債券を取引するのにディーラーと同様の積極性を持たないのがふつうであることから生じる、より重要な留保条件がある。実務上よくみられるのは、貨幣当局が短期債〔の取引〕に集中し、長期債の価格は短期債の価格に対する遅れをともなう不完全な反応によって影響されるに任せる傾向である。――ここでも、〔貨幣当局が〕そうする必要は何もないのだが。この留保条件が働くところでは、それに応じて利子率と貨幣量の関係の直接性が修正される。大英帝国では意図的な制御の余地が広がっているようである。しかし、何らか特定の場合にこの理論を適用する際には、貨幣当局によって実際に採用される方法の独自の特徴を考慮条件に入れねばならない。もし貨幣当局が短期債だけを取引するのであれば、短期債の実際そして見込みの価格が、より長い満期を持つ債券価格に及ぼす影響を考えねばならない。
したがって、貨幣当局が様々な条件と様々なリスクの債券に対してあらゆる利子率群を与える能力には限界が画されている。その限界は次のようにまとめられる。
(1)特定の種類の債券を取引する積極性に枠を設ける、貨幣当局自身の実務から生じる限界がある。
(2)上で議論した理由により、利子率がある水準まで低下した後、ほぼすべての人がごくわずかな利回りしかもたらさない債券を保有するより現金を好むという意味で、流動性選好は事実上絶対的なものになる可能性がある。この場合、貨幣当局は利子率を効果的に制御する力を失ってしまうだろう。しかし、この限界的な場合は未来に現実的な重要性を持つかもしれないが、今日に至るまでその事例を私は知らない。確かに、貨幣当局の大半は長期債を大胆に取引することに積極的ではないので、試みられることはほぼないが。しかも、もしそのようなことがなされるならば、貨幣当局自身が、ある名目利子率で銀行システムから上限のない規模で借りられることを意味するであろう。
(3)流動性関数がいずれの方向にも水平になることによって、利子率の安定性が完全に破壊される最も衝撃的な例は、極端な非常事態に起こった。〔第1次〕大戦後にロシアと中欧に生じた通貨危機、つまり通貨からの逃避は、貨幣もいかなる条件の債券も、いずれも誰も保有したがらない時期を経験した。そして、利子率がどれほど高く位置し、また上昇しても、未曾有の貨幣価値の低下という期待に影響を受けた資産(とりわけ流動財の在庫 ***)は、限界効率のペースに追いつけなかった。他方、1932年のある日の米国においては、対照的な種類の危機があった。――いかなる合理的な条件であっても、保有している貨幣を手放そうという人が現れようがない金融危機もしくは流動性危機の時期があった ****。
(4)最後に、第11章の第Ⅳ節p.144で議論した難しさがある *****。つまり、低利子率の時代に重要である、効力を持つ利子率をある値を超えて引き下げる方法〔の難しさ〕である。すなわち、借り手と究極的な貸し手を出逢わせる仲介費用と、貸し手が純粋利子率を超えて上乗せを要求するリスク〔・プレミアム〕、とりわけモラル・リスクに対するプレミアムとが〔利子率引き下げの障害となる困難である〕******。費用とリスクに対するプレミアムは、純粋利子率が下がるのに比例して減ることはない。したがって、典型的な借り手が負担する利子率は、純粋利子率より緩やかにしか下がらないかもしれない。そして、今ある銀行と金融の組織の方法では、利子率がある下限を下回るようにはできないだろう。モラル・リスクの推定値が適用される場合には、このことは特に重要である。というのも、貸し手の胸中に借り手の正直さに対する疑いが湧き上がることによるリスクは、結果としてより高い〔プレミアムが〕課されることによって相殺される不正直さを意図しない借り手の胸中にはないものである。費用が重くのしかかる(たとえば銀行貸付のような)短期貸付の場合、たとえ貸し手の純粋利子率がゼロであっても、その顧客〔である借り手〕に1.5%から2%の料金を取る必要があるかもしれない。
訳注
* gilt-edged bondを、「金箔で縁取られた英国債」と訳出した。比較対象はshort-term billという短期国債であるから、こちらも字義通り国債と解釈した。当時の英国債は縁が金箔で彩られた用紙の形態で発行された。gilt-edged bondは英国王(女)の代理で、イングランド銀行が発行していた。
** dealer's turnを「スプレッド」と訳出した。スプレッド とは債券の仲買人が投資家に提示する売り渡し価格と買い受け価格との差である。
*** 間宮版の訳注は、stocks of liquid goods を流通在庫と捉えている。
**** 間宮版の訳注は、crisis of liquidation を投資対象が現金化できなくなる清算の危機と捉えている。
***** この参照ページは原文のものである。
****** allowance for risk を「リスクのプレミアム」と訳出した。
Ⅳ
以下の第21章の主題として取り扱うのがより適切であるところのものを予期するという代償を払って、貨幣数量説と上記との関係をここで短く示唆しておくのは興味深い。静態の社会、つまり未来の利子率に関するいかなる不確実性も誰も感じる余地がまったくない社会では、流動性関数L2、または保蔵の傾向(そのように名付けるのであれば)は、均衡においてゼロである。したがって、均衡において、M2=0かつM=M1である。なぜなら、Mのどのような変化も、想定されるMの変化とM1の変化が等しくなる水準まで所得が到達するような利子率の変動を引き起こすからである。ここでM1V=Yである。Vは上で定義した貨幣の所得速度であり、Yは総所得である。したがって、産出の量Oと価格Pを測ることができればY=OPとなり、したがってMV=OPとなる。これは、伝統的な形式の貨幣数量説とほぼ同じものである(1)。
実世界の目的のために、産出の変化の関数である物価の変化と、賃金単位の変化の関数である物価の変化とを区別しない数量説には重大な欠陥がある(2)。おそらく、この省略は、保蔵の傾向がまったくなく、いつも完全雇用であるという想定によって説明される。というのも、Oは一定、M2はゼロであるこの場合にVも一定とすると、賃金単位と物価水準がともに貨幣量に直接比例するはずだからである。
脚注
(1)もしVをY/M1に等しいものとしてではなく、Y/Mに等しいものとして定義するのであれば、そのときはもちろん、数量説は重要性を持たないものの、あらゆる状況下で成り立つ自明の理となる。
(2)この点については以下の第21章でより深く掘り下げるつもりである。