J.M. ケインズ『雇用、利子及び貨幣の一般理論』の試訳 by K. Sasaki
Keynes, John Maynard, 1936, General Theory of Employment, Interest and Money
‘ ’ ・・・〈〉
“” ・・・《》
()・・・()
[] ・・・ []
Capital・・・太字
Italic・・・イタリック
〔〕・・・訳者による補足
著者脚注は節の最後に番号を付して並べる。
訳者の注は節の最後に * を付して並べる。
人名は英語で記す。
指示代名詞には極力指し示す語を挿入して訳出する。
関係代名詞等でつながる長い文は、複数の文に分ける。
I, We, Our, Usなどは、日本語の作法にしたがい、多くの場合訳出しない。
I
投資物件、すなわち固定資産を買うということは、一連の見込利益に対する権利を買うということである。〔この見込利益は、〕資産の耐用期間に、資産を使って産出したものを販売して得られると期待されるものから、産出にかかる経費を差し引いたものである。毎期続く収益の系列 Q_1, Q_2, ... Q_n は投資の見込収益と呼ぶのがふさわしい *。
投資の見込収益と対をなす概念に、固定資産の供給価格がある。これは、当該資産を実際に市場で買うことができる市場価格ではなく、その資産を新たにもう1単位生産するように製造業者をちょうど誘導する価格を意味する。つまり、時に取替原価といわれるものである **。固定資産の見込収益と供給価格あるいは取替原価との関係、言い換えると、その型の資産をもう1単位加えて得られる見込収益とその1単位を生産する費用との関係、からその型の資産の限界効率が与えられる ***。より厳密に、耐用期間中に固定資産を用いて得られると期待される一連の収穫によって与えられる収益系列の現在価値と、その資産の供給価格をちょうど等しくする割引率に相当するものとして、私は資産の限界効率を定義する。この定義から、任意の型の固定資産の限界効率が与えられる。そして、限界効率のうち最も高いものを経済全体の資産の限界効率とみなすことができる ****。
ここで、資産の限界効率は収益の期待と固定資産の当期の供給価格によって定義されることに注意すべきである。〔資産の限界効率は、〕新たに生産される資産に貨幣を投じて得られると期待される利益率に依存しており、耐用期間が過ぎた後で記録を振り返ったとき初期費用に対して投資物件がもたらした収益という過去の結果に依存しない。
任意の期間に、任意の型の資産への投資が増えるとき、それにともないその型の資産の限界効率は下がる。これは、部分的にはその型の資産の供給が増えるにしたがい見込収益が減ることにより、また部分的にはその型の資産を生産する設備に無理がかかると概して資産の供給価格が上がることによる。これらのうち2つめの要素は、短期均衡を生じせしめるのにより重要であることが多いが、視野に入れる期間が長くなるにしたがい、1つめの要素が次第にその場を得る。これをふまえて、限界効率が任意の水準まで下がるために、一定の期間内にどれほど投資が増える必要があるのかを示す表を、それぞれの型の資産について作り上げることができる。そして、総投資率をその総投資率が成立する経済全体の資産の限界効率に結びつける表を提供するために、様々な型の資産の表すべてを集計することができる *****。これを投資の需要表、あるいは代わりに資産の限界効率表と呼ぶことにしよう。
さて、当期〔に実施される〕実際の投資率 は、当期の利子率を超える限界効率を持つ固定資産がもはや1つもない点まで推し進められるであろうことは明らかである。投資率は、経済全体の資産の限界効率が市場利子率と等しくなる投資の需要表上の点まで推し進められるであろうと言い換えてもよい(1)。
同じことを次のように表すこともできる。時点 r に資産から得られる見込収益をQ_r、当期の利子率で1ポンドを r 年割り引いた現在価値をd_rとおくと、ΣQ_rd_r は投資の需要価格である。そして、ΣQ_rd_r が上で定義した投資の供給価格と等しくなるところまで投資は実施されるであろう。他方、ΣQ_rd_r が供給価格の水準を下回ると、当期に当該資産へ投資されることはないであろう ******。
投資を引き起こす要因は、部分的には投資の需要表に、そしてまた部分的には利子率に依存するということになる。現実の複雑さのままに投資率の決定因を包括的にみることができるのは、ようやく第4篇の結論部分に至るときである。しかしここでは、資産の見込収益に関する知識によっても資産の限界効率に関する知識によっても、利子率も資産の現在価値も導出できないことに読者の注意を促しておきたい。利子率は何か別の源から突き止めねばならない。それがなされたときはじめて、見込収益を〈割り引いて〉資産を評価することができる。
脚注
(1)説明を単純化するために、資産から生じる多様な見込利益が実現するまでに経過する様々な時間に対応する、利子率群と割引率群 *******を取り扱うという点をぼかしてしまった。しかし、この点をふまえて議論を再説するのは難しくない。
訳注
* return を「収穫」、prospective return を「見込利益」、rate of return を「利益率」、rate of interest を「利子率」、yield を「収益」、prospective yield を「見込収益」と訳出した。また、series of annuity を「収益系列」と訳出した。
** replacement cost を塩野谷版、間宮版に倣い、「取替原価」と訳出した。間宮版の訳注は、会計学で時価評価する手法のひとつである取替原価、あるいは再調達原価と訳すべきだと指摘している。山形版は「再調達原価」と訳出している。間宮版の訳注によれば、第2章で示した第1公準(完全競争)を受け入れつつ、資産導入費用が逓増することを説明するには、資産導入にともなう諸経費(設置や配管等の費用)が逓増すると考えなければならないとしている。取替原価で考えると、需要が増えて価格が上がるという解釈は取りにくいが、次の次の段落では「部分的にはその型の資産の供給が増えるにしたがい見込収益が減ることにより、また部分的にはその型の資産を生産する設備に無理がかかると概して資産の供給価格が上がることによる」とある。
*** marginal efficiency of capital は、塩野谷版、間宮版、山形版は「資本の限界効率」と訳出しているが、ここではcapital asset にあてられる固定資産という訳語に平仄を合わせて「資産の限界効率」と訳出した。Keynesがここで問題にしているのは貸借対照表の資産側であるから、資産の語を用いるべきであろう。従来、capital を資本と訳出してきた経済学系の訳に問題があるようである。間宮版の訳注は、投資と生産に用いられる資産との違いに注目して、投資の限界効率と訳すべきだとしているが、この点判断を留保する。capitalの解釈については、Cannan, Edwin, 1921, Early history of the term capital, Quarterly Journal of Economics, 35, 3, 469-481 を参照 https://www.jstor.org/stable/1884097
**** in general を「経済全体」と訳出した。
***** rate of investment を「投資率」と訳出した。これは、期間内に実施される投資(単位時間あたりの投資額)を意味する。currentは当期と訳出した。
****** d_r はディスカウントファクターである。塩野谷版の訳注は、グラフと数式を用いて正味現在価値(NPV)と内部収益率(IRR)の同一性を論じている。山形版にも同様の訳注がある。内部収益率には複数解の問題があるので、現代においては正味現在価値を用いるのが標準的である。この点については以下の研究を参照。 https://www.jstor.org/stable/1827424 、https://www.jstor.org/stable/1830876 、https://www.jstor.org/stable/41948285
******* complexities of rates of interest and discount を「利子率群と割引率群」と訳出した。これは、事業リスク込みの金利と割引率の期間構造のことである。
Ⅱ
上で定義した資産の限界効率は、よく使われる〔語〕とどのような関係を持つだろうか? 資産の限界生産性、限界収益、限界効率、限界効用はいずれもみなが使い慣れているなじみ深い語である。しかし、経済学の文献を精査しても、これらの語をよく使ってきた経済学者の意図をすっきり叙述したものをみつけるのは容易でない。
すっきりさせるべきあいまいさが少なくとも3つある。まずはじめのあいまいさは、考慮する事柄が、物的資産をもう1単位用いて単位時間あたりに〔得られる〕物的生産物の増分なのか、資産価値をもう1単位用いて〔得られる〕価値の増分なのか、ということである。前者には物的資産の単位を定義する難しさがある。これ〔を定義すること〕は解決不能かつ不要だと私は確信している。もちろん、10人の働き手がそれなりの機械を新たに使える立場にあれば、所与の農地からより多くの小麦を育てられそうだとはいえる。しかし、価値を取り入れずに、これをわかりやすい数学的比率に落とし込む術を私はまったく知らない。とはいえこの問題に関する多くの議論は、論者がみずからの思うところを明確にできていないものの、おおむねある意味で資産の物的な生産性に関わっているようである。
次に、資産の限界効率は何らかの絶対量なのか比率なのか、という問題がある。この用語が使われる文脈と、利子率と同じ次元にあるものとして取り扱うという慣例から、それは比率であることを必要としているようである。ただ、比率を構成する2つの要素〔分子と分母〕が何であるかはっきりしないのがふつうであるが。
最後に、現在の状態で使用する資産の量を追加して獲得しうる価値の増分と、追加する固定資産の全耐用期間をつうじて獲得できそうな一連の価値の増分との区別――つまり、Q_1と系列全体Q_1, Q_2, … Q_r, …との区別がある。この区別を見過ごすことが混乱と誤解の大元である。〔この区別は、〕経済理論に期待をどう位置づけるかという問題のすべてである。資産の限界効率にまつわる議論のほとんどは、Q_1を除く系列の要素のいずれにもまったく関心がないようである。しかし、〔このような取り扱いは、〕すべてのQの値が等しいとする静態理論の場合を除いて正しいはずがない。資産が現在得るのはその限界生産性と(様々な意味で)等しいという仮定は分配の理論によくみられるが、この仮定は定常状態のときにだけ有効である。資産に対する当期の収穫の総額は、その限界効率と直接の関係をまったく持たない。また、生産の限界点 *における当期の収穫(つまり、産出の供給価格を構成する資産に対する収穫)は限界使用費用であるが、これも限界効率と密接な関係をまったく持たない。
上述のように、この問題に対するすっきりした説明がまったくないのは驚くべきことである。そうではあるが、私が上で与えた定義は、Marshallがある語で表そうとしたことにかなり近い。Marshall自身が用いたのは生産要素の〈限界純効率〉、あるいは代わりに〈資産の限界効用〉という語である。以下は、彼の『〔経済学〕原理』(第6版, pp.519-520)にある、最も関係深い文節の要約である。彼の主張の要点が伝わるように、いくつかの続いていない文章をひとまとめにした。
〈ある工場で、他の追加費用をまったくかけずに、100ポンドの価値がある機械をもう1台導入しうるとしよう。そして、〔この機械は〕減耗を考慮した後、工場の純産出に毎年3ポンドの価値を加えるとしよう。資産の投資家たちが高い報酬を得られそうなところすべてに〔機械を〕投入し、それがなされて均衡が見出された後でも割に合う、この機械を用いてちょうど割りに合うのであれば、この事実をもって利子率は年利3%と推定できる。しかし、この種の描写は価値を司る大いなる原因の働きの一部に過ぎない。循環論法に陥ることなく、これを利子の理論とすることができないのは、これを賃金の理論とすることができないのと同様である。…… 無リスク証券の利子率が年利3%であるとき、帽子の製造業が100万ポンドの資産を取り入れるとしよう。このことは、帽子製造業の商いが、丸々100万ポンドの価値を持つ資産を使わずに済ますより使うことで、3%の利払いをしてもなお得しうることを示唆する。たとえ利子率が年利20%であっても、商いがそれなしで済ませることを拒むような機械があるかもしれない。利子率が10%であればより多くの機械が用いられるであろう。利子率が6%であればさらに多く、利子率が4%であればさらに多く、そしてついに3%になればさらにもっと多く〔の機械が用いられるであろう〕。〔帽子製造業の商いが〕この量〔の機械〕を保有するとき、その機械の限界効用、すなわち使用がちょうどぴったり見合う機械から得られる効用、は3%と計測される〉**
この〔引用文〕から明らかなのは、利子率が実際どのようなものであるのかこの線にそって決めようとすれば、循環論法に陥いることをMarshallはよく知っていたということである(1)。この文節で、資産の限界効率表が与えられると、新規投資がどこまで推し進められるかは利子率が決める、という上で示した見方を彼は受け入れているようにみえる。これは、利子率が3%であるとき、費用と減耗を差し引いた後の純産出が年当たり3ポンドを加える望みがない限り、機械に100ポンドを払う人はいないことを意味する。しかし、Marshallが注意を怠っている他の文節を第14章でみることになる。――それでも、議論が彼を心もとないところへ至らしめようとするとき〔彼は〕後ざすりするのではあるが。
〈資産の限界効率〉とは称していないが、Irving Fisher教授は著書『利子論』(1930年)の中で、〈費用超過収益率〉***と彼が称する語の定義をしている。〔この語の定義は〕私の定義とまったく同じである。彼は次のように書いている。〈費用超過収益率は、すべての費用の現在価値とすべての収益の現在価値を計算するのに用いられる、これら2つを等しくする比率である〉(2)。Fisher教授は、どの方面への投資であっても、その大きさは費用超過収益率と利子率の比較しだいであると説明している。新たな投資を引き出すには〈費用超過収益率が利子率を超えていなければならない〉(3)。〈我々の研究におけるこの新たな量(〔費用超過収益率〕という因子)は、利子の理論における投資機会の側面で中心的な役割を演ずる〉。したがって、Fisher教授は、私が〈資産の限界効率〉を用いるのと同じ意味かつ厳密に同じ目的で〈費用超過収益率〉という語を用いている。
脚注
(1)しかし、賃金の限界生産性の理論が同様に循環論法であると思う点では、彼は誤っていないのではなかろうか?
(2)前掲書 ****, p.168。
(3)前掲書, p.159。
(4)前掲書, p.155。
訳注
* 生産の限界点とは、投資の見込利益がゼロとなるような、限界収入=限界費用となる点である。
** 塩野谷版の訳注は、引用文が引用元の利子率水準を5%から4%に、4%から3%に変えていることを指摘している。引用元のMarshall著, 永澤訳『経済学原理』第4分冊,pp.25-26、Jevons著, 小泉他訳『経済学の理論』付録1を参照。
*** ここでは、Fisher, Irving著, 気賀勘重・気賀健三訳『利子論』第7章, p.149の訳にしたがい、「費用超過収益率」と訳出した。『利子論』p.154には限界的費用超過収益率という語の解説がある。
**** 前掲書とは、Fisher, Irving著, 気賀勘重・気賀健三訳『利子論』である。
Ⅲ
資産の限界効率の意義と重要性に関する最も重大な混乱は、それが単に当期の収益に依存するのではなく、資産の見込収益に依存するとみることができないことから生じる。これは、見込生産費用が変化するという期待が、資産の限界効率に与える影響を指摘することによって最もよく描写される。この〔見込生産費用の〕変化は、労働費用つまり賃金単位の変化によって、あるいは発明や新技術によってもたらされると期待される。今期生産された設備からの産出は、その耐用期間をとおして、後の期に生産された設備からの産出と競わねばならない。〔後の期に生産される設備は、〕おそらくはより低い労働費用のために、またおそらくは改良された技術のために、産出するものの価格低下に耐えうる。そして、産出されたものの価格が〔その設備の〕耐えうる、より低い値に下がるまで〔設備の〕量は増えるであろう *。さらに、産出されるものすべてがより安く生産されるのであれば、その新旧を問わず、設備から得られる(貨幣で測った)企業家の利益は減るであろう。そのような成り行きが蓋然性あるいは確率としてさえ予見される限り、今期生産される資産の限界効率はそれに応じて下がる。
これは、貨幣価値の変化に対する期待が、当期の産出量に影響を与えることをつうじた要因である。貨幣価値が下がるという期待〔インフレ期待〕は投資を刺激し、一般に雇用も刺激する。これは、〔インフレ期待〕が資産の限界効率表、すなわち投資の需要表、を押し上げるためである。そして、貨幣価値が上がるという期待〔デフレ期待〕は、資産の限界効率表を押し下げるので〔投資と雇用を〕抑制する。
これが〈物価騰貴と利子〉と彼が名付けたところの、Irving Fisher教授による理論の背後に潜む真実である **。――〔彼は〕貨幣利子率と、貨幣価値の変化を調整した後に前者に等しくなる後者、すなわち実質利子率を明確に区別する ***。語義どおりこの理論を理解するのは難しい。というのも、貨幣価値の変化は予見されると想定しているのかどうか明確でないからである。変化が予見されないのであれば、〔貨幣価値の変化は〕当期の事柄にまったく影響しないであろう。他方、それが予見されるのであれば、貨幣を保有することと財貨を保有することの優位性が同等になるように、今ある財貨の物価は瞬時に調整されるであろう ****。また、ローンの期間中に貸出金の価値が変化する見込みを相殺するように利子率が変化するので、貨幣の保有者が〔貨幣価値の変化から〕得したり損したりする暇はないであろう。このジレンマから逃れる術はない。貨幣価値の変化の見込みを予見できるのは一部の人であり、ほかの人たちは予見できないとするPigou教授の便宜も、このジレンマから逃れることに成功していない。
この誤りは、貨幣価値の変化の見込みに直接反応するのは所与の資産ストックの限界効率ではなく利子率だと考えたところにある。今ある資産の物価は、貨幣価値の見込みに対する期待の変化に常に順応する。そのような期待の変化の重要性は、〔期待の変化〕が資産の限界効率に与える影響をつうじて、新たな資産を生産する意欲に影響を与えるところにある。物価が高くなるという期待が〔投資を〕刺激する効果は、それが利子率を押し上げることからではなく(これがもし本当なら産出を刺激する逆説的な方法になるが――利子率が上がる限りにおいて、刺激効果は相殺される)、所与の資産ストックの限界効率を押し上げることから生じる。利子率が資産の限界効率と足並みをそろえて上がるのであれば、物価が高くなるという期待から生じる刺激効果はまったくない。 というのも、産出に対する刺激は、所与の資産ストックの限界効率が、利子率に対してどれほど上がるかによるからである。とすれば、Fisher教授の理論は、貨幣価値の変化が当期の産出にまったく影響しないように、貨幣の未来価値に対する期待の状態が変わることによって、結果的に裁定される必要があるところの利子率として〈実質利子率〉という語を定義することによって、最もよく書き換えられるかもしれない(1)。
利子率が未来に下がるという期待は、資産の限界効率表を押し下げる効果を持つかもしれないことに注意を促したい。これは、今期生産される設備がもたらす産出が、より少ない収穫に耐えうる設備がもたらす産出と、耐用期間の一部で競わねばならないからである。この期待は大きな抑制効果を持たないかもしれない。というのも、未来の基準となる多様な〔信用〕条件に応じた利子率群について形成される期待は、今期の基準となる利子率群に、部分的に反映されているだろうからである。ただし、ある程度の抑制効果はあるだろう。というのも、今期生産される設備がもたらす産出は、この設備の耐用期間が終わるまでに現れる、はるかに新しい設備がもたらす産出と競わねばならなくなるからである。〔はるかに新しい設備は〕今期生産される設備の耐用期間が終わりまで、基準となる利子率がより低いために、より少ない収穫に耐えうる。
所与の資産ストックの限界効率が期待の変化に左右されることを理解するのは重要である。というのも、景気循環を説明するやや荒っぽい変動に資産の限界効率が翻弄されるのは、まさにこの依存関係によるからである。第22章で、経済ブームに引き続いて不況が生じることは、利子率に対する資産の限界効率の変動に関連づけて描写され、分析されうることを示したい。
脚注
(1)Economic Journal 1934年12月号に掲載されているRobertson氏の論文Industrial Fluctuations and the Natural Rate of Interestを参照。https://doi.org/10.2307/2224848
訳注
* 間宮版の訳注は、原文 until the price of its output has fallen to the lower figure with which it is content の the lower は the lowest の誤りだと指摘し、訳を変えている。ここでは原文どおりに訳出した。
** 間宮版の訳注は、Fisher, Irving, 1896, Appreciation and Interest, Publications of the American Economic Association, 11, 4, pp. 1-98だと指摘している。https://www.jstor.org/stable/2485877 Hayekによる後日譚はこちら。https://www.jstor.org/stable/23290286
*** Fisher, Irving著, 気賀勘重・気賀健三訳『利子論』第2章と第19章を参照。塩野谷版の訳注は、実質利子率=(1+貨幣利子率)/(1+物価上昇率)≒貨幣利子率-物価上昇率、という注釈をつけている。
**** 間宮版の訳注は、類似の表現が第15章第Ⅰ節後ろから3段落目にあると指摘している。
Ⅳ
2種のリスクが投資量に影響する *。〔これらを〕区別することは一般的ではなかったが、区別することは重要である。第1種の〔リスク〕は、企業家あるいは借り手のリスクである。〔このリスクは、〕望む見込収益が実際に得られる確率について、〔企業家〕自らの胸中に疑いが湧き上がることから生じる。自己資金を投ずるとき、意味を持つのはこのリスクだけである。
しかし、実物資産の担保や個人保証をつけたローンを認めるという意味での貸借の機構があるところでは、貸し手のリスクとも呼ぶべき第2種のリスクが意味を持つ。これは、モラルの欠如 **、つまり自発的な債務不履行や、そのほか債務の履行を回避する合法になりうる手段によるものかもしれないし、保証の余力が不十分であること、つまり期待が失望に終わることによる非自発的な債務不履行によるものかもしれない。第3種のリスクの源泉を加えることができるかもしれない。それは、実物資産よりこの分だけ貨幣のローンの安全性が低くなるように、本位貨幣の価値が逆方向〔デフレ方向〕に変化しうるということである。ただし、このすべてあるいは大部分は耐久実物資産の価格にすでに反映され、したがってその価格に織り込まれているはずであるが。
さて、第1種のリスクは、ある意味で社会が実際に負担する費用であるが、予測精度を高めることによってのみならず、平均をとって減らすことでも受け入れる余地がある ***。しかし、第2種のリスクは、借り手と貸し手が同一人物であれば存在しない、投資にまつわる費用の純粋な追加分である。しかも、第2種のリスクの一部は企業家のリスクの一部と重複する。つまり、投資を引き起こす最少の見込収益を算出するとき、〔企業家のリスクは〕純粋利子率に2度加えられる。というのも、企業がリスクをはらむものであれば、借り手は、彼が期待する収益と彼が借りる価値があると思う水準の利子率により大きな差があることを望むからである。また、それとまさに同じ理由で、〔貸し手が借り手から受け取る〕利子と彼に貸出そうと思わせる純粋利子率により大きな差があることを望む(並外れた保証の余裕を提供できる立場に立てるほど、借り手がしっかりしておりまた裕福であるときは別であるが)。とてもよい結果を得る望みは借り手の胸中にあるリスクと調和するかもしれないが、貸し手の慰めにはならない。
私の知るかぎり、リスクの一部に対する引当が重複する ****ことはこれまで強調されてこなかった。しかし、状況によってはそれが重要であるかもしれない。経済がブームに沸いているときこれら2種のリスク、つまり借り手のリスクと貸し手のリスクの推定値は、群集心理も相まって、ともに非常識かつ無分別なまでに低くなりがちである。
訳注
* risk を、山形版に倣い「リスク」と訳出した。塩野谷版、間宮版は「危険」と訳出している。
** ここでmoral hazardは、現代の経済学におけるモラルハザートとは異なる意味で用いられているようである。それで、「モラルの欠如」と訳出した。貸し手のリスクについては、von Böhm-Bawerk著, 塘訳『国民経済学 ―ボェーム・バヴェルク初期講義録―』pp.148-149を参照。
*** ここでaveragingは、複数銘柄に投資することでリスクを削減するというポートフォリオ効果を表しているようである。
**** 引当が重複するとは、企業家のリスクは借り手のリスクと貸し手のリスクの双方に入り込み、借り手と借り手がそれぞれ純粋利子率に上乗せするプレミアムの一部に反映されることを意味する。間宮版の訳注にも同様の指摘がある。
Ⅴ
資産の限界効率表は、未来に対する期待が現在に影響を及ぼす主要な経路であることから、根本的に重要である(〔影響は〕利子率の経路をつうじたものよりはるかに大きい)。未来の変化が現在にまったく影響を及ぼさない静態のときにだけ正しい、資産の限界効率を主に資本装備の当期の収益にかかわるものとみなす誤りは、今期と未来の理論的なつながりを断ち切る結果になってしまった。利子率でさえも事実上当期の現象である(1)。資本の限界効率も同じく〔当期の現象〕としてしまうと、今ある均衡を分析するのに、未来の影響を直接説明するあらゆるものを自ら切り捨てることになる。
多くの場合、静態の仮定が現代の経済理論の根底に潜んでいるという事実は、非現実性という大きな要素を招き入れている。しかし、上で定義したように使用費用と資産の限界効率を導入すれば、脚色を必要最小限に留めつつ、〔理論を〕現実に引き戻す効果があると思う。
経済の未来を現在とつなげるのは耐久設備の存在、これである。したがって、未来に対する期待が耐久設備の需要価格をとおして現在に影響を与えるということは、われわれの思考の一般原則に心地よく調和する。
脚注
(1)完全にではない。というのも、その価値は未来の不確実性を部分的に反映するからである。加えて、異なる〔信用〕条件の利子率どうしの関係も期待に左右されるからである。
Ⅰ
前章において、投資の規模は利子率と、当期の様々な投資の規模に対応する資産の限界効率表との関係しだいであり、資産の限界効率は固定資産の供給価格とその見込収益との関係しだいであることをみた。本章では、資産の見込収益を決めるいくつかの要因について掘り下げて考えることにする。
見込収益の期待を形成するとき考慮すべきは、部分的にはほぼ間違いなく知っていると想定できる現在の事実であり、また部分的にはおおよその自信を持って予測しうるに過ぎない未来の事柄である。これらのうちの前者〔現在の事実〕として言及されるのは、様々な型の固定資産と固定資産一般の現在高と、資産から比較的大きな助けを得て効率的に生産することを求められる財貨に向けられる現在の消費者需要の強さであろう。後者〔未来の事柄〕として言及されるのは、蓄積した固定資産の型と量、消費者の好み、考慮下にある投資物件の耐用期間中その時々の有効需要の強さ、そしてその耐用期間中に生じるかもしれない貨幣表示の賃金単位が変化することである。後者に当てはまる心理的な期待の状態を長期期待の状態としてまとめられるかもしれない――これは、今ある設備で今期生産し始めることを決意して、生産を終えるとき生産物と引き換えにどれほどのものが得られるかという生産者の予測の基礎となる短期期待と区別される。これはすでに第5章で考察したところである。
Ⅱ
不確実性 *が非常に高い事柄に大きな比重を置いて期待を形成するのは愚かしいであろう(1)。したがって、ある程度自信が持てる事実によって相当程度左右されると考えるのが自然である。たとえその事実が、あいまいでわずかしか知識がないほかの事実より、その事柄に決定的な関係を持ちえなかったとしてもである。よって、今ある状態という事実は、ある種不釣り合いなまでに長期期待の形成に入り込む。今ある状態を未来に投影するのが私たちの常であり、それを修正するのは変化を期待するほぼ確実な理由があるときに限られる。
したがって、私たちが決断の支えとする長期期待の状態は、私たちの予測のうち最も蓋然性が高いものだけにはよらない。それはまたこの予測に対する確信にもよる。――これは最良の予測がまったくの誤りだと判明する見込みをどれほど高く見積もるかということである。大きな変化を予測しても、変化がどのような形をとるのかきわめて不確実であるとき、確信は脆弱である。
確信の状態と呼ばれるものは実務家が細心の注意を払い、最も気に掛ける事柄である **。しかし、経済学者は注意深く分析してこなかったし、してきたとしても概して大まかな議論に甘んじてきた。とりわけ、資産の限界効率表への強い影響をつうじて経済問題に入り込むという意義を明らかにしてこなかった。資産の限界効率表と確信の状態という、投資率に影響を与える2つの異なる要因があるのではない。確信の状態が意義を持つのは、投資の需要表と同じことであるが前者〔資産の限界効率表〕を決める主要な要因の1つだからである。
ただし、確信の状態それ自体について述べるべきことはさほど多くない。私たちの結論は市場と商いの心理を実際に観察することに大部分もとづかねばならない。このために、以下続く余談は本書の大半の箇所とは異なる抽象度にある ***。
説明の便宜のために、確信の状態に関する以下の議論では、利子率を不変と想定する。そして、続く節をとおして、投資物件の価値の変化は見込収益の期待の変化によってのみ生じ、あたかも見込収益を割り引く利子率の変化にまったく影響を受けないものとして記述する。しかし、利子率の変化の効果は確信の状態の変化の効果に容易に付け加えることができる。
脚注
(1)〈不確実性が非常に高い〉は〈蓋然性が非常に低い〉と同じことではない。この点については『確率論』[ケインズ全集第8巻]第6章、〈議論の重み〉の項を参照。
訳注
* 塩野谷版の訳注は、ここでKeynes『貨幣論』ケインズ全集第8巻, p77を参照して、推論の確率と重みについて紹介している。間宮版の訳注にも同様の言及がある。なお、『一般理論』における不確実性が『確率論』で議論された不確実性と同じものであるか、研究者の間で議論があるようである。
** state of confidence を、塩野谷版と間宮版は「確信の状態」と訳出し、山形版は「自信の状態」と訳出している。本訳書は塩野谷版、間宮版にしたがい「確信の状態」と訳出した。
*** 例示が多く抽象度が低いということである。
Ⅲ
見込収益を推定する知識の基礎が驚くほど不確かなのは驚くべき事実である。つまり、今後数年にわたる投資物件の収益を司る要素に関する私たちの知識は、たいていごくわずかであり、しばしば無視できるほどである。率直に言って、今後10年のあいだの鉄道、銅鉱山、繊維工場、薬の特許に伴うのれん、大西洋を横断する定期船、ロンドンシティの物件から得られる収益の推定に用いられる知識の基礎はほとんどゼロか、時としてまったくない。今後5年についてさえも〔知識の基礎は皆無に等しい〕。実際、このような推定を真剣に試みる人はあまりに少ないので、彼らの動向が市場を左右することはない。
企業が主としてそれを企てた人たち、あるいはその友人や同僚によって所有されていた昔、投資は見込利益の厳密な計算に真に依拠してはいなかった。それは、自信に満ち溢れ激しい情熱を持った人たちがたくさん現れることと、企業こそが人生だと乗り出す人たちの建設的な衝動しだいであった。経営陣の能力と特性が平均以上か以下かによって最終的な結果はほぼ決まるものの、部分的には運しだいであった。成功する人もいれば失敗する人もいた。しかし、結果が明らかになった後でさえも、投資された合計に関する平均的な結果が一般的な利子率を超えたのか、同じであったのか、下回ったのかを知る術はない。天然資源の乱獲や独占を除けば、実際の投資の平均的な結果は、成長と繁栄の時代にあっても、人々を鼓舞して投資を促す希望を失望に変えてしまう蓋然性が高い。企業家は手腕と偶然が入り混じったゲームに興じるのであり、プレーヤーが得る結果の平均値はそのゲームに参加するプレーヤーにもわからない。もし、伸るか反るかに賭けるという性質が人類になく、工場を建てたり、鉄道を敷いたり、鉱山や農場を開いたりといったこと自体に(〔投資〕利益を除くと)満足を感じないのであれば、単に冷徹な計算の結果として実施される投資はこれほど多くないかもしれない *。
旧式の非公開企業に投資することは、社会全体のみならず個人にとっても、取り消すことがほぼできない決断であった。しかし、今日ひろくみられる所有と経営の分離と、整備された投資市場の発展とによって、時に投資を促し時にシステムの不安定性を大いに高めるきわめて重要な新しい要素が入り込んできている。証券市場がなければ、コミットした投資物件の再評価を頻繁に試みる術はない。しかし、株式市場は日々多くの投資物件を再評価しており、個々人にコミットメントを見直す機会を頻繁に与える(社会全体では〔投資を再評価〕できないが)。これはあたかも、農夫が朝食の後に気圧計を軽く叩き **、朝の10時から11時の間に農業から資産を引き上げ、週の後半に農業へ戻るべきか考え直せるようなものである。しかし、既存の投資物件を個人間で移転することを主たる目的に作られた株式市場で日々なされる再評価が、当期の投資率に決定的な影響を与えるのは避けられない。というのも、類似の既存企業を買収できる費用より多くをかけて、新しい企業を組み上げるのは不合理だからである。他方、株式市場に上場して瞬時に利益が得られるなら、新規プロジェクトに湯水のごとく資金を投ずる誘因がある(1)。よってある種の投資は、専門的企業家による混じり気のない期待によってよりも、むしろ株価に反映される、株式市場で取引する人たちが形成する期待の平均によって左右される(2)。そうであれば、このようにきわめて重要な既存投資物件の毎日、毎時の再評価は、実際どのようになされるのであろうか?
脚注
(1)私の『貨幣論』(第2巻,p.195)[ケインズ全集第6巻p.174]で、ある企業の株価が高騰していて好ましい条件で新株を発行して増資できるとき、低い利子率で借入れができるのと同じ効果があると指摘しておいた。ここでは、発行済み株式の評価が高いということは、それに相応する型の資産の限界効率を高め、したがって(投資は資産の限界効率と利子率との比較しだいなので)利子率の低下と同じ効果を持つと表現すべきであろう。
(2)もちろん、容易に売買できない種類の企業や〔企業価値と〕密接に連動する譲渡可能な証券がない企業には、これは当てはまらない。以前は、この例外に分類される企業が大半であった。しかし、新規投資の価値総額に対する比率で測ると、それらは急速にその重要性を失っている。
訳注
* ガリアーニ著, 黒須訳『貨幣論』pp.27-29に金銀が豊富になるにしたがい、金鉱山採掘の利潤が減るため採掘への意欲が低下することが記されている。
** 調子を整え、気圧の方向性をみるために気圧計を軽く叩くようである。(参考動画)Multhus著, 楠井・東訳『穀物條例論』p.16に、農業へ資本を投ずるか否かを論じた類似の章句がある。
Ⅳ
実際には、私たちは一般に相場観に頼っているというのが真実だというのが暗黙の了解である *。この相場観の要点は――無論それほど単純に算定できるものではないが――変化を期待する特段の理由がないかぎり、現況の状態が永くつづくという想定にある。このことは、現況の状態が永くつづくと本当に信じることを意味しない。広範な経験から、それは最も起こりにくいことだと私たちは知っている。長年にわたる投資の実際の結果が当初の期待と一致することは滅多にない。知識を持たない人に、いずれの方向への誤差が生じる確率も同じだから、等確率で生じることの保険数理的な期待の平均にとどまるよう主張したとしても、私たちの行動を正当化できない。というのも、知識のない状態をもとに、算術的等確率を想定するのは愚かしいと容易に示せるからである **。実質的に、どのように得られたものであろうと、現況の市場の評価は、投資収益に影響を及ぼす事実に関する私たちの知識に照らして唯一正しく、この知識の変化によってのみ〔市場の評価は〕変化しうると想定している。しかし、哲学的なことを言えば、私たちの知識は、算出された数学的期待値を基礎づけるには十分でないので、唯一正しいということはありえない。見込利益とは無関係なありとあらゆる想念が市場評価に入り込むというのが実際である。
しかしながら、上で示した相場の計算法は、相場観が維持され、それに頼ることができると思われる限りにおいて、連続性と安定性という、私たちの課題にとって重要な尺度と相性がよい。
というのも、整備された投資市場が存在し、また相場観が維持され、それに頼ることができると思われるのであれば、投資家は、彼が取るリスクが近未来のニュースの純粋な変化だけであり、その変化もそれほど大きくなさそうであるから、起こりうる変化に応じて判断できそうだと、自らを無理なく勇気づけられるからである。というのも、相場観がよく保たれると想定すると、投資価値に影響しうるのはこの変化だけであるので、10年先に投資物件がどうなりそうかまったく見解を持たないということだけで、睡眠不足に陥る必要がないからである。よって、相場観が瓦解せず多くの事柄が起こる前に判断を変え投資物件を変更する機会があると思えるのであれば、短期ならびに短期が連なる多期間において、個々の投資家にとって投資はほどよく〈安全〉になる。したがって、社会にとって〈固定〉された投資は、個人にとって〈流動〉的なものになる。
先進的な投資市場がこのような手順を基礎としてきたことに疑いはない。しかし、相場観は物事に対する絶対的な見方が恣意的であるために弱点があるのは驚きに値しない。十分な投資を確保するという、私たちに課せられた現代の課題の大部分は、この不確実性が生み出したものである。
訳注
* conventionを塩野谷版は「慣行」、間宮版は「慣習」、山形版は「慣習でしかないもの」と訳出しているが、本訳書では社会通念(social convention)の類義語である「相場観」と訳出した。
** 間宮版の訳注は、算術的等確率について『確率論』を参考に論じている。間宮版は、等確率とは、起こりうる事象が2とおりあるとき、最も不確実な状態を意味すると指摘している。
V
この不確実性を強調するいくつかの要因に短く言及する。
(1)経営に参画していない人たちや、当該事業を取り巻く状況の実際あるいは見込みに関する専門知識を何ら持たない人たちが保有する、社会の総資産投資に対する持分の比率が徐々に高まる結果として、所有する人あるいは購入を真剣に考えている人による投資物件の評価に関する実際上の知識の要素は著しく低下する *。
(2)現況の投資物件から得られる利益の日々の変動は、明らかに一時的で取るに足らない性質のものだが、まったくもって過度な、時として愚かしいほどの影響を市場に与えがちである。たとえば、米国の製氷会社の株式は、誰も氷を欲しがらない冬季より季節柄利益が高まる夏季に高値で取引されるといわれる。巡りくる祝日は、英国の鉄道システムの市場評価を数百万ポンド押し上げるかもしれない **。
(3)実際には見込利益に大きな違いをもたらさない要因によって〔大衆の〕見解が突然変動することから、知識を持たない多くの人たちの群衆心理の表出として成立する相場の評価は激変しがちである。というのも、相場観を留めおく信念の強い根拠は何もないだろうからである。確定的な変化を予期する明確な根拠がなくても、現況の状態が永く続く見通しがいつもより立ちにくいとき、とりわけ非常時においては、市場は楽観と悲観という感情の波にさらされる。これは不合理であるが、きちんとした計算に耐えうるしっかりした基礎が何もない状況では、ある種合理的である。
(4)しかし、とりわけ1つの事柄が私たちの注意を引く。判断力と知識が平均的な個人投資家を上回る手慣れたプロどうしの競争は、独自の戦いに興じる知識のない個人の気まぐれを正すと思われるかもしれない ***。しかし、プロ投資家と投機家の能力と技能は、概してほかのものに費やされている。というのも、こうした人たちの大半は、耐用期間をつうじて投資物件から得られそうな収益に対するよりよい長期予測を形成することではなく、短い時間に〔生じうる〕一般大衆の評価の基礎となる相場観の変化を予測することに関心があるのがおおよその実情だからである。彼らは、投資物件を購入して〈永久に〉持ち続けることに実際どれほどの価値があるかではなく、3か月あるいは1年先に、群衆心理の影響下にある市場がそれをどう評価するかに関心がある。これは、説明してきたような線にしたがって整備された投資市場の避けがたい帰結である。というのも、見込利益が30の価値を正当化すると信じていても、3か月先に市場がその価値を20と評価するとも信じるのであれば、その投資物件に25を払うのは賢明でないからである。
したがって、プロ投資家は、経験にもとづいて、市場の群衆心理に最も影響を及ぼすたぐいのニュースや社会の空気の今にも生じそうな変化の予測に関心を持たざるをえない。これはいわゆる〈流動性〉のために整備された投資市場の避けがたい帰結である。確かに、正統派金融の格言のうち、流動性の崇拝、すなわち投資機関の一部が〈流動的な〉証券に資金を集中して投ずることは積極的な美徳であるという教義、を超える反社会的なものは何もない。しかし、この〔格言〕は、社会全体では投資の流動性なるものは存在しないことを忘れている。そつない投資の社会的な目的は、私たちの未来を覆う時と不可知という暗黒の力に打ち勝つことである。しかし現実には、今日最もそつがない投資の隠された目的は、〈号砲に先んじて〉とアメリカ人がうまく表現するように、群衆を出し抜き、仲間のうちの誰かに質の悪いもしくは減価した半クラウン銀貨をつかませることである ****。
長年にわたる投資物件の見込利益〔を予測する〕より、むしろ2, 3か月先の相場の評価の基礎を予想するという知的ゲームは、プロの胃袋を満たす大衆の中のカモさえ不要である *****。――プロのあいだだけで楽しむことができる。何らか純粋な長期的妥当性を基礎とした相場観に純粋に忠実な誰かも不要である。というのも、これはいわばスナップ、ババ抜き、椅子取りゲームだからである。――これらは、早すぎず遅すぎず「スナップ」と言った人、ゲームが終わるまでにババを隣の人に渡した人、そして音楽が鳴り止んだときに自らの椅子を確保した人が勝つ娯楽である。これらのゲームは熱心に楽しく遊べるものだが、ババが回っていることをみなが知っているし、音楽が鳴り止むとき誰かが椅子に座れなくなることも知っている。
用いる暗喩を少し変えてみてもよい。プロによる投資は、写真の100人から最も麗しい6人を選び出す新聞紙上のコンテストに擬せられる ******。賞金は、全応募者の好みの平均に最も近い応募者に与えられる。よって、各応募者は自らが最も麗しいと思う6人ではなく、ほかの応募者の心を掴む可能性が最も高いと思われる6人を選ばねばならない。すべての応募者はこの問題を同じ視点でみている。応募者にとって最良の判断は、本当に最も麗しい6人を選ぶことでも、応募者の平均的な見解が真に麗しいと思う6人を選ぶことでさえない。平均的な見解が予想する平均的な見解を事前に予期することに私たちの知性を余すことなく用いる第3の段階に至る。さらに第4、第5、そしてより高次の思考実験をする人がいるかもしれない。
流行の娯楽に目もくれず、形成しうる最善の純粋な長期期待にもとづいて投資物件を買い続けるそつない個人〔投資家〕は、結局ほかのプレーヤーから多額の利益を得るに違いないと言を挟む読者は、次のような回答を得るに違いない。まず、確かにそのような真剣な人もいて、ゲームプレーヤーをしのぐ圧倒的な影響を投資市場に及ぼすか否かは大きな違いをもたらす。しかし、そうした個人が現代の投資市場に及ぼす圧倒的な影響を危うくするいくつかの要因も加えなければならない。今日、純粋な長期期待にもとづく投資はとても難しいのでほとんど実施されていない。それを試みる人は、群衆がどうふるまいそうかを群衆よりうまく予想しようとする人より多難な日々を送らざるをえないし、より大きなリスクを取らざるをえない *******。そして、知性の水準が同じであれば、より壊滅的な間違いに陥りやすいかもしれない。社会的に望ましい投資政策が最大の利益とともにあるという明らかな証拠は経験上まったくない。号砲に先んじるより、未来という時と不可知の力に打ち勝つほうがより多くの知識を必要とする。しかも、私たちの命はそれほど長くない。――人類は性急に結果を求め、素早く儲けることに異常なまでの熱意を持つ。そして平均的な人は遠い未来の利得をとても高い率で割り引く。プロの投資ゲームは耐えがたいほど退屈であり、ギャンブルの本能がまったくない誰にとっても過酷である。他方、〔ギャンブルの本能が〕ある人はその性向にそれなりの対価を払わねばならない。しかも、短期的な市場の変動を無視しようとする投資家は、安全のためにより多くの資金を必要とするし、もしわずかでも借り入れて投資するのであれば、〔投資〕規模を拡大して運用することができない。――これは、持ち前の知識と資金を娯楽に投じてより多くの収穫を得ようとするさらなる理由である。最後に、委員会や理事会、銀行などによって運営されている投資ファンドであればいずこでも、実務の世界で最も批判を受けるのは、公共の福祉を最も増進するはずの長期投資家である(1)。というのも、風変わりで、相場的でなく、また平均的な見解に無分別だというのが彼の行動の本質だからである。〔投資が〕うまくいけば、彼が無頓着である一般〔大衆〕の信念が〔正しかった〕ことを確認するに過ぎないし、ほぼ間違いなくそうなりそうだが、短期的にうまくいかなければほとんど同情されないだろう。慣習にしたがわずに成功するより慣習にしたがい失敗しつづけるほうがよい評判を得られる、というのが処世術の教えるところである ********。
(5)ここまで、投機家や投機的な投資家の確信の状態を中心にみてきた。そして自らの見通しに納得するのであれば、〔投資家は〕市場利率で無制限に資金を投入するかもしれないと暗黙裡に想定してきた。もちろんこれは事実ではない。したがって、これは時に信用の状態ともいわれる、借りようとする人たちに対する貸し手側機関の確信の状態のほかの側面も考慮しなければならない。資産の限界効率に壊滅的な影響を及ぼす株価の崩落は、投機の確信あるいは信用の状態が弱まることに端を発するかもしれない。崩落にはいずれか一方〔が弱まるだけ〕で十分だが、回復には両者が持ち直すことが必要である。というのも、信用が弱まるだけで崩落を引き起こすに十分だが、それが強まることは回復の必要条件であっても十分条件ではないからである。
脚注
(1)一般に健全性を考慮し、投資信託や保険会社は、投資ポートフォリオから得られる〔配当〕所得のみならず資産の時価評価も計算することが多い。このような実務は、後者〔資産の時価評価〕の短期的変動に注意を向け過ぎる傾向もあるかもしれない。
訳注
* equity を「持分(もちぶん)」と訳出した。この文は所有と経営の分離を説明している。Pareto著, 川崎訳『エリートの周流 ―社会学の理論と応用―』pp.95-96に群集心理に揺れる株式市場の描写がある。
** 間宮版の訳注は、国有化されていた英国の鉄道網が1921年に4社に分割され民営化されたと指摘している。
*** expert professionals を「手慣れたプロ」と訳出した。
**** 半クラウン銀貨とは、当時英国で流通していた銀貨で、2シリング6ペンスの価値を持つ。1920年に銀の含有量が減らされた。この文脈では、とるに足らない価値を象徴する語として用いられる。
***** anticipate を「予想する」と訳出した。期待(expectation)と語を分けた。
****** newspaper competition を「新聞紙上のコンテスト」と訳出した。いわゆるケインズの美人コンテストといわれるものであるため、コンテストという語を用いた。
******* guess を「予想」と訳出した。
******** ことわざのフレーズであるので、ここでは convention を相場観ではなく「慣習」と訳出した。
VI
経済学者はこうしたことを考慮外とすべきでない。しかし、それらは適切な視野の下におかねばならない。市場心理を予測する活動に投機という語を充て、資産の耐用期間をつうじた見込収益を予測する活動に企業という語を充てることを許されるのであれば、投機が企業を圧倒することが常であるはずがない。しかしながら、投資市場の機構が改善するにつれ、投機が圧倒するリスクは高まる。世界最大の投資市場の1つであるニューヨークでは、(上記の意味での)投機の影響が圧倒的である。金融の分野を離れても、アメリカ人は平均的な見解が平均的な見解だと思うことを見つけるのに、並外れた関心を示しがちである。こうした国民性の弱みは、株式市場に摂理に反する者を罰する女神ネメシスを見出すであろう *。多くのイングランド人は今もそうしているが、〈配当収入のために〉投資するアメリカ人は希であり、資産価値の上昇に望みをかけるほか、投資物件をちゅうちょなく買うことはないと伝えられる。これは、投資物件を買うとき、アメリカ人は見込利益に大きな望みをかけず、評価の相場的基礎が好ましい方向に変化することに望みをかけていることを別の言葉で言い換えたに過ぎない。つまり、アメリカ人は上記の意味で投機家なのである。投機家は、企業の滔々とした流れに浮かぶバブルであるなら無害である。しかし、企業が投機の渦に浮かぶバブルになってしまうと事態は深刻である。国家の資産開発がカジノの賭け事の副産物になってしまえば、開発は不首尾に終わる恐れがある。未来の収益が最大になる経路に新規投資を振り向けるという本来の社会的目的を遂げる機関としてウォール街の達成度を測ると、自由放任資本主義の際立つ勝利の1つであると主張することはできない。――ウォール街の最善の頭脳が実のところ異なる方向に向けられていると考えてよいのであれば、これは驚きに値しない。
こうした傾向は、〈流動的な〉投資市場を成功裡に整備したことの避けがたい帰結である。公共の福祉のために、カジノを近寄り難く高価なものにすべきだということに同意が得られるのがふつうである。そしておそらく証券取引所についても同様のことが正しいであろう。ニューヨーク証券取引所よりロンドン証券取引所の罪が軽いのは、国民性に大きな違いはないものの、平均的アメリカ人にとってのウォール街より平均的イングランド人にとってのスロッグモートン街が近寄り難く高価であることによる **。ロンドン証券取引所の取引にまつわる才取りの〈利鞘〉、高い仲介手数料、そして国に納める重い譲渡益税は、市場の流動性を十分減じている(隔週に口座〔を清算・決済する〕実務は逆に作用するかもしれないが)***。〔これらの費用は〕ウォール街を彩る取引の特徴の大部分を排除するに違いない(1)。米国にみられる投機が企業を圧倒することを和らげたいのであれば、実施しうる最も実用的な改革は、あらゆる取引に重い譲渡税を政府が導入することかもしれない。
現代証券市場の壮観は、死別やそのほか重大な事情をのぞいて離婚できない結婚のように、投資物件の購入を恒久的で解除不能なものにすべきだという結論に時として私を導く。これは現代社会の悪徳を治癒する便利な方法かもしれない。というのも、このことは投資家を長期的見通し、それだけを心に抱くよう命ずるからである。しかし、この便宜について少し考えるとジレンマに直面し、投資市場の流動性は、ときとしてその妨げになるものの、新たな投資の道を用意することがいかに多いかがわかる。というのも、個人投資家各人は自らにコミットメントは〈流動的〉であると言い聞かせることができるという事実は、投資家の心配をなだめ、なおいっそう積極的にリスクを取りたいという気持ちにさせるからである(全投資家を集計したとき〔流動的であるというのは〕事実でないが)。もし個々の投資物件の購入が非流動的であれば、個人で利用できる貯蓄を保有する他の方法がない限り、新規投資の意欲を大きく削いでしまう。これがジレンマである。富を貨幣の形で保蔵するか貸出すか個人が自由に選べる限り、これらの資産を容易に換金できる整備された市場によらずば、実物の固定資産を購入する代わりとして十分に魅力的にはなりえない(とりわけ、固定資産を管理せず、またそれらについてほとんど知識を持たない人にとっては)。
現代世界の経済的生命を苦しめる確信の危機を治すただひとつの急進的な方法は、所得から消費するか、投資可能な物件のうちたとえ根拠が不確かであっても最も有望だと思える固定資産の生産を命ずるか、個人に選択の余地を与えないことである ****。未来に対する疑いにより強く苛まされるときにはたいてい困惑して、彼はより多くの消費とより少ない新規投資に振り向けるかもしれない。しかし、疑いに苛まされたとき所得の使い道をあれ〔消費〕これ〔投資〕と選ぶ余地を与えなければ、破滅的、累積的、そして広範な反響効果を避けることができるかもしれない。
もちろん、貨幣を保蔵することの社会的な危険を強調してきた人たちは、上記と似たようなことを心に抱いていた。しかし、貨幣の保蔵に何らの変化がなくても、あるいは少なくとも相応の変化がまったくみられなくとも、生じうる現象であることを見過ごしてきた。
脚注
(1)ウォール街が活況を呈するとき、売買の半数以上が同日にポジションを反転する***** 一部の投機家の意図を持って提出されたものだと伝えられている。商品相場についても、同様のことが真実であることが多い。
訳注
* nemesis は、ギリシャ神話に登場する、摂理に反旗を翻る者を罰する女神ネメシスを語源とする。本来の投資家がすべき企業への投資を忘れ、カジノ的投機に我を忘れるアメリカ人を女神が罰するというという文脈であろう。KaldorにThe Nemesis of Free Trade, in Kaldor, 1978, Further Essays on Applied Economics, Duckworth(邦訳『貨幣・経済発展・国際問題』)という論説がある。古くはErasmus著, 沓掛訳『痴愚神礼讃』p.186に「ラムヌシア」という表記で現れる。
** スロッグモートン街(Throgmorton Street)は、かつてロンドン証券取引所が所在した通りの名前である。現在、ロンドン証券取引所はスロッグモートン通りから若干西にあるニューゲート通り(Newgate Street)に所在を移している。
*** jobberはロンドン証券取引所独特の制度である。顧客の注文を取り次ぐブローカーの注文を集約し、自己勘定で売買をつなぐ役割を果たす。日本の取引所にかつて存在した才取りに類似していることから「才取り」と訳出した。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/00170832.pdf 、
https://www.britannica.com/topic/security-business-economics/Trading-procedures#ref394197 等を参照。塩野谷版の訳注、山形版の訳注にも言及がある。
**** 間宮訳の訳注に、allow the individual no choice between A and Bという構文を、allow the individual no other choice than A and B と捉えて訳出したとある。本訳書では原文通りに訳出した。所得を自由に消費と投資に振り分けられるようにすると経済は不安定化するので、その自由を与えないという大変「急進的」な方法がここで論じられている。
***** ポジションを反転するとは、買った株式をその日のうちに売ること、または空売りした株式をその日のうちに買い戻すことである。
Ⅶ
投機がもたらす不安定性のほかにも、人類の性質の特徴がもたらす不安定性もある。倫理的、快楽的、経済的のいずれであろうと、私たちの積極的な行動の大半は数学的期待値ではなくのびやかな楽観による *。おそらく、結果の全容が現れるのが来るべき多くの日の先に引き伸ばされるような、何らか前向きなことをするという決断の大部分は、数量化された利得を数量化された確率に掛け合わせて求める加重平均の発露としてではなく、アニマル・スピリッツ――行動しないよりのびやかな行動に駆り立てられること、の発露としてのみ捉えられる **。企業は自らの設立趣意書の記述、それは率直で真摯なものであるが、におおよそ則って動いているふりをしているに過ぎない。得られそうな利得の厳密な計算は、南極への探検より若干ましであるに過ぎない。したがって、アニマル・スピリッツが霞みのびやかな楽観が弱まってしまうと、数学的期待値のほかに頼るものがなくなり、企業は衰退し死に絶えてしまう。――損失への恐れは〔楽観が弱まる〕前に持っていた利益への望みと同じくらい不合理であるにもかかわらず。
未来に向けて引き伸ばされた望みしだいである企業は、社会全体の利益に資するのは間違いない。しかし、個人の主導権が適切になるのは、合理的な計算がアニマル・スピリッツで補われ、支えられた場合だけである。しばしば開拓者を襲う、結局のところ損をするのではないかという考えは、経験が私たちにも彼らにも確かに伝えるように、横に置かれている。これは健康な人が死の予感を横においているのと同様である ***。
不幸にもこのことは、不況と恐慌を増幅させることのみならず、経済的繁栄が平均的なビジネスマンに心地よいと感じさせる政治的、社会的空気に過度に依存していることも意味する。もし労働党政権やニューディールに対する恐れが企業を意気消沈させるのであれば、これは合理的な計算と政治的意図のいずれかの結果である必要はない ****。――のびやかな楽観のデリケートなバランスが崩れただけである。したがって、投資の見込みを推定する際に、私たちは心配やヒステリー、そして胃腸の具合や天気に対する反応にいたるまで、のびやかな活動に大きな影響を及ぼす様々な事柄に留意しなければならない。
このことから、すべては不合理な心理しだいだと結論づけてはならない。反対に、長期期待の状態はしばしば安定しており、そうでないときであっても、そのほかの要因が補償する効果が働く。私たちは、それが個人的、政治的、経済的のいずれによらず、未来に影響を及ぼす決断は、そのような計算の基礎が何もないので厳密な数学的期待値によることはできないことを思い返すだけである。そして、計算できる場合には理性的な自己が最良の選択肢を選ぶが、物事を前に進めるのは活動を求める生来的な衝動であり、私たちの動機は気まぐれ、感傷、偶然に左右されやすいことを思い返すだけである *****。
訳注
* spontaneous optimism を「のびやかな楽観」と訳出した。
** Erasmus著, 沓掛訳『痴愚神礼讃』p.187に「運命の女神は思慮の足りない、向こう見ずな人間、「賽ハ投ゲラレタ」などと好んで口にする人間を愛するものです」とある。Hobbes著, 水田訳『リヴァイアサン』の34章(第3巻,p.57)と第45章(第4巻,p.69)は、Animal Spiritを「精神的な霊」と訳している。Animal Spiritは、生命を維持する精神であるVital Spiritの対概念として登場する(第6章,第1巻,pp.97-98)。Animal Spiritsは単なる生命維持のためではない「意志によるvoluntary運動」、つまり人間らしい活動の出発点となる精神を意味するようである。また、Steuart, James著, 小林監訳『経済の原理 ―第1・第2編―』p.31に「下層の階級に属する者たちの富裕になろうとする野心」とある。
https://socialsciences.mcmaster.ca/~econ/ugcm/3ll3/hobbes/Leviathan.pdf
*** expectation を文脈にしたがい「予感」と訳出した。
**** 当時の英国には、労働党政権や米国ルーズベルト政権のニュー・ディール政策は共産主義に近い左派であると危険視する見方があった。共産主義の脅威が現実のものであった時代であった。
***** falling back on を「左右される」と訳出した。
Ⅷ
さらに、私たちが未来を知りえないことの影響を現実にいくぶん和らげるいくつかの重要な要因がある。複利の働きと時の経過によって生じる陳腐化の可能性のおかげで、多くの投資物件は、比較的近い未来の収穫がその見込収益を正当に支配している *。投資期間が極めて長期にわたるクラスのうち最も重要な例、すなわち建物に関していえば、リスクはしばしば投資家から入居者に移転されるか、少なくとも長期契約によって両者がともに負担する。〔この場合、〕リスクは、入居者の胸中で、継続性と入居の保全の利点によって乗り越えられている。長期投資のクラスのうちもう1つの重要な例、すなわち公共事業に関していえば、その独占的地位に、ある種規定されたマージンを提供するレートで料金を設定する権利とが相まって、見込利益の大部分が事実上保証されている。最後に、公共団体が実施し責任を持つ投資の成長クラスがある。〔公共団体は、〕投資から生じる社会的な見込利得があると全般的に推定することによって、投資の実施にあからさまに影響を及ぼす。商業的な収益が幅広い範囲のどの水準にあろうと〔投資は実施され〕、収益の数学的期待値が少なくとも当期の利子率以上であることを追い求めることもない。――公共団体が支払わねばならない〔利子〕率は、投資事業の規模をまかなえる範囲に収めるのに、それでも決定的な役割を果たすかもしれないが。
したがって、利子率との違いを際立たせるべく、長期期待が短期的に変化する影響の重要性に全荷重を与えた後、後者〔利子率〕はいかなる水準にあろうと、通常の状況においては、決定的とまではいえないが大きな影響を投資率に及ぼす。しかし、利子率を管理することで適切な投資量をどこまで刺激し続けられるかは、経験によるほかない。
個人的には、単に利子率に影響を与える方向での貨幣政策が成功するか、現段階ではやや懐疑的である。長期的な視野に立ち、社会全般の利得にもとづいて資本財の限界効率を計算し、秩序だった投資に直接的にこれまでなかったほど大きな責任を負う国家をみてみたい。というのも、上記の諸原理にしたがって計算される様々な型の資産の限界効率に関する市場の推定値の変動は、実現可能な利子率のどのような変化をもってしても、相殺するにはあまりに大きすぎるだろうからである。
訳注
* 難解な文だが、割引率が高く、設備が急速に減耗するとき、固定資産の評価は近い未来の収益しだいになることを意味している。割引率が高いとき、10年先の見込収益の現在価値は小さくなるので、固定資産の評価に強い影響を与えない、ということである。
Ⅰ
第11章において、資産の限界効率を利子率と等しくし続けるように投資率を上下させる力が働くが、資産の限界効率自体は支配的な利子率とは異なることを示した。資産の限界効率表は新規投資のために需要される貸出金の条件を支配すると言えるのであれば、利子率は今供給される資金の条件を支配している。したがって、私たちの理論を完成させるには、何が利子率を決めるのか知らねばならない。
第14章とその補論において、従来与えられてきたこの質問に対する回答について考えることにしたい。大まかに言って、〔回答は、〕利子率を資産の限界効率と貯蓄に対する心理的傾向の相互依存関係によって決まるとしていることをみる。しかし、利子率を所与とした来るべき新規投資を形成する際に生じる貯蓄の需要と、その利子率の水準における貯蓄に対する社会心理の傾向から導かれる貯蓄の供給が等しくなるという主張は、これら2つだけの知識から利子率を導くことはできないと気づくや否や崩壊する。では、この問いに対する私たちの回答はどのようなものになるだろうか?
Ⅱ
個人の心理的な時間選好は、それを完全に行動に反映するのに2段階の意思決定を要する。第1のものは、消費の傾向と名付けた時間選好の側面である。第3篇で明らかにしたように、多様な動機に影響を受けて作用する消費の傾向は、個々人が所得からどれほど消費するか、未来の消費に充てるために何らかの形でどれほど保存するかを決める。
しかし、この意思決定をした後、さらなる意思決定が待ち受ける。すなわちそれは、未来の消費のために今期の所得または前期までの貯蓄から貯め込んだものをどの形式で保持するかである。直ちに流動化できる形式(つまり、貨幣あるいはその同等物)で持ちたいのか? あるいは、直ちに〔支払いに〕用いることができるものを、事前に定めた期間または無期限手放し、必要に応じてのちに特定の財貨を購入できるものを直ちに財貨一般を購入できるものに変換しうる条件を決めるのは、未来の市場条件しだいであるのに委ねる準備があるのか? 言い換えれば、流動性選好の度合いはどれほどであろうか?――そこでは、個人の流動性選好は貨幣表示または賃金単位表示で測られる資金量の表であり、それは様々な環境下において貨幣の形式で保持したいと願う量である *。
既存の利子率の理論の誤りは、心理的な時間選好を構成する2つの成分のうちの2つめ〔どの形式で資金を蓄えるか〕を無視して、1つめ〔所得からどれほど貯蓄するか〕から利子率を導こうとしたところに見出せる。この無視こそ、治療すべきものである。
利子率は貯蓄あるいは〔消費せずに〕待つことそれ自体に対する報酬でないのは明らかなはずである **。というのも、もし貯蓄を現金の形式で保蔵すれば、以前と同じ額を維持することはできるものの、利子はつかないからである。反対に、利子率の端的な定義は、利子率は特定の期間流動性を手放すことに対する報酬であると教えてくれる。というのも、利子率それ自体は、貨幣の合計と定められた期間(1)債券(2)に変えることで貨幣に対する支配力を手放すことから獲得しうるもの〔利子〕の比率の逆数に過ぎないからである ***。
したがって、流動性を手放すことに対する報酬である利子率は、貨幣を保有する人が流動性の支配権をどれほど手放しにくいかを示す尺度である。利子率は、投資のための資金需要と現在の消費を控える用意とを均衡させる〈価格〉ではない。それは、富を貨幣の形式で保有したいという欲求とそれに応える貨幣量とを均衡させる〈価格〉である。――このことは、もし利子率が低くなれば、つまり現金を手放す報酬が減ってしまえば、公衆が保有したいと願う現金の量は、それに応える〔貨幣〕供給を上回ってしまうことを示唆する。そして、もし利子率が高くなれば、誰も保有しようとしない現金が余ってしまうことを示唆する。もしこの表現が正しいのであれば、貨幣量は、流動性選好とともに、所与の状況で実際の利子率を決めるもうひとつの要因となる。流動性選好は、利子率が所与であるとき公衆が保有するであろう貨幣量を定める潜在的な力あるいは関数的な傾向である。r を利子率、M を貨幣量、そしてL を流動性関数とおくと、M=L(r)となる ****。貨幣量は、ここでこのようにして経済体系に入り込む。
しかし、ここでさかのぼって、そもそも流動性選好というものがなぜ存在するのかを考えよう。この点に関連して、今期の商取引のために用いることと富を保管するために用いることを分ける古来の方法を援用するのが便利である。2とおりの使用法のうちの第1のものについて、流動性という利便性と引き換えに特定の額の利子を犠牲にする価値があるところまで〔用いられる〕のは明らかである。しかし、利子率は決してマイナスの値を取らないという条件下で、利子を生む形式より利子をほとんどあるいはまったく生まない形式で富を保有する人がいるのはなぜだろうか(この段階では無論、銀行預金と債券のデフォルトリスクは同じと想定する)? 十全な説明は込み入っており、第15章まで待たねばならない。しかし、富を保有する手段としての貨幣に対する流動性選好が存在しえなくなるような、必要条件の破綻がある。
この必要条件とは、未来の利子率、すなわち未来の日々を支配する多様な満期の利子率群、に対する不確実性である。というのも、もし未来のすべてを支配する利子率が完全に予見できれば、異なる満期の債券に対する現在の利子率からすべての先物金利を割り出すことができ、また〔現在の利子率も〕先物金利の知識に適応する *****。たとえば、現在の年1時点で計測する1ポンドをr 年割り引いた価値を1d_rとおく。そして、第n 年の時点で計測する1ポンドをr 年割り引いた価値をnd_rとおけることが知られれば、下式を得る。
nd_r=1d_n+r/1d_n
〔上式〕から、n年先に現金化しうるどのような債券の利回りも、現在の利子率群から取り出した2つ〔上式の分子と分母〕によって与えらえることがわかる。もし債券のすべての満期について、現在の利子率が正の値を取るのであれば、富を保管するのに現金を保有するより債券を購入するほうが常に有利であらねばならない ******。
反対に、もし未来の利子率が不確実であれば、満期を迎えたときnd_rが1d_n+r/1d_nに等しいと間違いなく示唆することはできない。したがって、あるいはn年後に達する〔債券の〕満期の前に流動的な現金が必要になるかもしれない。このとき、現金を保有するのに比べて、購入した長期債を現金化するときに損失をこうむるリスクがある。保険数理的な利益、あるいは現況の確率にしたがって計算された利得の数学的期待値は――もしそのような計算ができれば、それができるとは思えないが――〔債券を売却するとき損失に終わる〕失望のリスクを償うのに十分でなければならない *******。
しかも、債券を取引する整備された市場があるという前提で、先物金利に不確実性が存在するところから生じる流動性選好のさらなる基礎がある。というのも、異なる人々は異なる見通しを推測し、市場に表示される〔利子率〕によって表される大勢の見解と異なる〔見解を持つ〕人は誰でも、利益のために流動的な資金を手元においておく十分な理由があるからである。もし彼が正しければ、やがて1d_rどうしの関係が互いに誤ったものであることが明るみに出ることから〔利益を得る〕(3)。
このことは、資産の限界効率に関連してある程度の紙幅を割いて既に説明したこととよく似ている。資産の限界効率が定まるのは〈最良の〉見解によってではなく群衆心理に影響を受けて決まる市場評価であることをちょうどみたように、利子率の未来に対する期待が定まるのも流動性選好に反映される群衆心理による。――しかしこれに加えて、未来の利子率は市場が想定する率を上回ると信ずる人は、実際の流動的な現金を保持する理由がある(4)。他方、逆の方向に市場と異なる見解を持つ人は、短期の借入をしてより長い満期を持つ債券に投資する動機を持つであろう。市場価格は売り方の〈弱気〉と買い方の〈強気〉がバランスする点に定まるであろう ********。
上で示した流動性選好の3区分は、(ⅰ)取引動機、すなわち個人および事業の為替という経常取引のための現金の必要性、(ⅱ)予備的動機、すなわち安全のために全資金のある部分を現金同等物で保有する欲求、(ⅲ)投機的動機、すなわち未来に身を結ぶものを市場よりよく知っていることから利益を確保するねらい、これら3つに左右されるものとして定義されるかもしれない。資産の限界効率を議論したとき、高度に整備された債券取引の市場を持つことの望ましさに対する疑問は、ジレンマを提起する。というのも、整備された市場がなければ、予備的動機による流動性選好は大いに高まるかもしれないからである。他方、整備された市場があることは、投機的動機による流動性選好の大幅な変動の機会を提供する。
もし取引動機と予備的動機による流動性選好が、利子率が所得水準に作用することを除く利子率自体の変化にあまり敏感ではない現金の量を吸収し、この量を差し引いた貨幣の総量は投機的動機による流動性選好を満たすのに充てられると想定するのであれば、利子率と債券の価格は、現金を保有するある一部の人たちの欲求が投機的動機に充てられる現金の量にちょうど等しい(その水準では債券先物が〈弱気相場〉になると感じるので)と、〔投機的動機による流動性選好〕を指摘する議論を描写することができる *********。したがって、貨幣量が増えるたびに、債券価格はとある〈強気筋〉の期待を超えるのに十分な水準へ押し上げられ、〔強気筋〕が債券を売り現金を手にするように影響を与え、〈弱気筋〉の仲間入りをさせる。しかし、もし短い移行期間を除いて、投機的動機からの現金需要がごくわずかなのであれば、貨幣量の増加はほとんどたちどころに利子率を引き下げ、雇用と賃金単位を引き上げるのに必要などれほどの〔貨幣量も、〕その追加の現金は取引動機と予備的動機によって吸収される。
一般に、貨幣量を利子率に結びつける流動性選好表は、貨幣量が増えるにしたがい利子率が下がることを示す滑らかな曲線によって与えられる。というのも、すべてこの結果にいたらしめるいくつかの異なる原因があるからである。
1つめに、利子率が下がると、ほかの条件が同じであれば **********、より多くの貨幣が取引動機による流動性選好によって吸収されそうである。というのも、もし利子率が下がり国民所得が増えれば、取引のために保持することが便利だとされる貨幣量は所得の増加におおよそ比例して増えるからである。他方、同時に、利子を受け取り損ねるという意味の、いつでも支払いにつかえる多額の現金の利便性に払う費用は減るであろう。貨幣ではなく賃金単位で流動性選好を計測する限り(これが便利である文脈もあろう)、利子率が下がることにより雇用が増え賃金が上がる、すなわち賃金単位の貨幣価値が上がるのであれば同様の結果が得られる。2つめに、直前にみたように、利子率のどのような低下も、利子率の未来が市場の見方と異なるという見方を持つ個人は、保有したいと思う現金の量を間違いなく増やす。
しかしながら、貨幣量が大幅に増えたとしても利子率に比較的小さな影響しか与えない状況を考えることができる。というのも、貨幣量の大幅な増加は、未来に対する不確実性を大いに高め、予備的動機による流動性選好が強まるかもしれないからである。他方、利子率の未来に対する見解があまりに一致して、現在の利子率のわずかな変化が大衆の現金への逃避をもたらすかもしれない。興味深いのは、体系の安定性と貨幣量の変化に対する反応の様は、不確かなことに対する意見の多様性があるか否かによって大きく左右されるということである。未来を知ることができれば最良である。しかし、それができず、経済体系のふるまいを貨幣量を変えることで制御しようとするのであれば、〔市場参加者の〕見解が異なることが重要である。したがって、この制御法は、みなが同時に同意見になりがちな米国においては、見解の相違がよりふつうにみられるイングランドよりも頼りないものになる ***********。
脚注
(1)負債の期間が明示されている特定の問題とは異なる一般的な議論では、様々な期間、すなわち様々な満期の負債、に対応する多様な利子率群を意味する語として利子率を用いるのが便利である。
(2)この定義を乱さずに、特定の問題を最も取り扱いやすくなるところどこにでも〈貨幣〉と〈負債〉を分ける線を引くことができる。たとえば、3か月を超える期間所有者が手放すことはない一般購買力に及ぼすいかなる支配力をも貨幣とみなし、3か月より長い期間〔購買力に及ぼす支配力〕を取り戻すことができないものを負債とみなすことができる。あるいは、〈3か月〉のところを、1か月、3日、3時間といった任意の期間に変えることができる。または、支払完了性を有する法貨以外のあらゆるものを貨幣の定義から除外することができる。実務上、銀行の定期預金、時として(たとえば)短期国債のような金融商品をも、貨幣に含めるのが便利である。通例にならい、『貨幣論』のときと同様、貨幣は銀行預金に準ずるものまでを含めた〔概念だ〕と想定する '*。
(3)これは私の著作『貨幣論』で、2つの意見と〈強気と弱気〉のポジションという名で議論したのと同じ点である '**。
(4)同じ方法で、投資の見込利益が市場の期待を下回ると信ずる人は、流動的な現金を保有する十分な理由がある。しかしこれはそうではない。彼には株式に比べて現金または債券を保有する十分な理由がある。しかし、未来の利子率が市場の思惑より高くなるとも信じない限り、現金を保有する代わりに債券を購入することはない '***。
訳注
* このような流動性選好のアイデアは、ケインズ全集第1巻『インドの通貨と金融』に発するものと思われる。金本位制下にあった当時のインドでは、英国との貿易の支払いにGoldが必要とされるまさにその季節に、Goldが装飾品等の目的で退蔵され、国際金融ひいては国内金融が滞ると上掲書で指摘されている。興味深いことに、こうしたインドの経験は、当時の古典派経済学の想定(商品貨幣)に近い状況であった。奇妙に聞こえるかもしれないが、第14章とその補論でみる古典派学説は、貨幣がないいわゆる物々交換の経済を想定している。このような見立ては当時のインドの事情には当てはまったとしても、今日の日本の事情には当てはまらない。今日の日本は信用貨幣にもとづく経済である。
** returnをここでは「収穫」ではなく「報酬」と訳出した。
*** 逆数という混乱を招く表現をしているが、要するに利子率=利子÷手放した貨幣量を意味する。またこの節にあるdebtは「債券」と訳出した。
**** 間宮版の訳注は、M=L(r)は均衡式ではないと指摘している。
***** future rates of interest を「金利先物」と訳出した。他の場所では rate of interest を「利子率」と訳出している。
****** 塩野谷版の訳注は、フォワードレートの導出について、式を用いて説明している。
******* いわゆるマコーレーのデュレーションは、満期前の特定の時点で利付債を売却すれば損失を回避できることを示している。ここではマコーレーのデュレーションが示唆するタイミング以外で売却することを考えていると解釈すべきである。
******** 小泉・長澤訳『貨幣論1 貨幣の純粋理論』ケインズ全集第5巻, 第3編第10章, pp. 145-146にならい、bear を「弱気」、bull を「強気」と訳出した。
********* 間宮版の訳注は、この長い文の前段にある「利子率が所得水準に作用することを除く」という留保条件について、「利子率の変化が所得の変化をもたらし、さらに所得の変化が流動選好の変化をもたらすことを考慮外とする」ことを意味すると指摘している。
********** cet. par. は ceteris paribus の略であるから、「ほかの条件が同じであれば」と訳出した。
*********** Mill, John Stuart著, 関口訳『自由論』p.189は、アダム・スミスらによる「道徳感情」が社会の隅々にまで浸透したため、英国の社会に意見の多様性がなくなっていると指摘している。
'* 本訳書では、訳文の語順にしたがい脚注(1)と(2)の順序が原文と入れ替えている。
'** 小泉・長澤訳『貨幣論1 貨幣の純粋理論』ケインズ全集第5巻, 第3編第10章, pp. 145-146に「二つの意見」と「弱気」「強気」という語がある。塩野谷版の訳注にも言及がある。間宮版の訳注は本文の1d_rはnd_rの間違いであろうと指摘しているが、本訳書は原文どおりに訳出した。
'*** 原文は the purchase of debit であるが、文脈から debit は debt だと判断して「債券を購入する」と訳出した。
Ⅲ
ここで、貨幣を因果の連鎖に加えてはじめて、貨幣量の変化が経済体系に入り込む道筋をようやく垣間見ることができる。しかし、もし貨幣が〔経済〕体系を活性化させる飲料だと主張する気にさせられたら、九十里は百里の半ばなりということを思い起こさねばならない *。というのも、ほかの条件が同じならば、貨幣量が増えると利子率は下がると期待されるが、公衆の流動性選好が貨幣量を超えて高まるとそうはならないであろう。そして、ほかの条件が同じならば、利子率が下がると投資量は増えると期待されるが、資産の限界効率表が利子率より急速に下がるのであればそうはならないであろう。さらに、ほかの条件が同じならば、投資量が増えると雇用量は増えると期待されるが、消費の傾向が落ち込むのであればそうならないかもしれない。最後に、もし雇用が増えると、部分的には物的な供給関数の形によって、また部分的には貨幣表示の賃金単位が上がる傾向によって支配される範囲で物価は騰るであろう。そして、産出が増え物価が騰がると、これが流動性に及ぼす効果は所与の利子率を維持するのに必要な貨幣量を増やすことになろう。
訳注
* この文章の前段にある「飲料」は、「九十里は百里の半ばなり」と訳出した "there may be several slips between the cup and the lip" に対応する。
Ⅳ
投機的動機による流動性選好は、私の『貨幣論』で〈弱気の状態〉と名付けたものに対応する。これらはいうまでもなく同じものである。というのもそこでは、利子率(もしくは債券価格)と貨幣量との関数関係ではなく、資産と債券を一緒にした価格と貨幣量との関数関係として〈弱気〉を定義したからである。しかし、この取り扱いは、利子率の変化による帰結と資産の限界効率表の変化による帰結を混同する嫌いがあった。ここでは混同を避けられたと思う。
V
保蔵という概念は流動性選好という概念の一次近似とみなせるかもしれない *。確かに、〈保蔵の傾向〉を〈保蔵〉に替えれば、実質的には同じものになる。しかし、もし〈保蔵〉が実際に現金保有を増やすことを意味するのであれば、不完全な考えである。――そして、もし私たちが〈保蔵〉と〈不保蔵〉を対義語として捉えてしまえば、深刻な誤解を招く。というのも、保蔵するという意思決定は絶対的なものではなく、また流動性を手放すことが提供する利点に関連していないからである。――それは利点を比べてみた結果である。そしてしたがって、天秤のもう一方に何が乗っているか知らねばならないのである。しかも、〈保蔵〉によって実際に現金を保有することを意味する限りにおいて、公衆の一部の意思決定の結果として実際の保蔵の量が変わることは不可能である。というのも、保蔵の量は貨幣量(あるいは――ある定義によれば――貨幣量から取引動機を満たすのに必要とされるものを差し引いたもの)と等しくなければならないからである。保蔵に向けられる公衆の傾向が達成することのすべては、保蔵に対する欲求の総計と存在する現金が等しくなるような利子率の水準を決めることである。利子率と保蔵の関係を見過ごしてきたということは、実際には不保蔵の報酬であるのに、なぜよく利子率が支出しないことに対する報酬とみなされるのかを部分的に説明する。
訳注
* hoarding を塩野谷版、間宮版に倣い「保蔵」と訳出した。山形版は「抱え込み」と訳出している。