J.M. ケインズ『雇用、利子及び貨幣の一般理論』の試訳 by K. Sasaki
Keynes, John Maynard, 1936, General Theory of Employment, Interest and Money
https://www.files.ethz.ch/isn/125515/1366_KeynesTheoryofEmployment.pdf
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Capital・・・太字
Italic・・・イタリック
〔〕・・・訳者による補足
著者脚注は節の最後に番号を付して並べる。
訳者の注は節の最後に * を付して並べる。
人名は英語で記す。
指示代名詞には極力指し示す語を挿入して訳出する。
関係代名詞等でつながる長い文は、複数の文に分ける。
I, We, Our, Usなどは、日本語の作法にしたがい、多くの場合訳出しない。
Ⅰ
方法と定義の幅広い問題を扱った第2篇を離れ、ここで本書の主題に立ち返る。私たちが最終的に突き止めたいのは、雇用量を決めるものである。これまでに得た暫定的な結論は、総供給関数と総需要関数の交点から雇用量が導かれるということである。主として物的な供給条件によって決まる総供給関数について、新たに考えるべきことはほとんどない。その形は見慣れないものかもしれないが、根底にある諸要因に新たなものはない。第20章において雇用関数という名の総供給関数の逆関数を議論するとき、それに立ち返りたい。第3篇と第4篇では、果たす役割が概して見過ごされてきた総需要関数の分析に注力したい。
総需要関数は、任意の雇用水準と、その雇用水準の下で実現するであろう〈粗利〉を結びつける *。〈粗利〉は2つの量――任意の雇用水準の下で消費に支出されるであろう額の合計と、投資に充てられるであろう額の合計の和である。これら2つの量を決める要因はその性質を大きく異にしている。第3篇では、任意の雇用水準の下で総消費を決める要因について考えることにする。第4篇では、総投資を決める要因について考えることにする。
ここでは、任意の雇用水準の下で、消費の総額を決めるものに関心があるのだから、厳密には、消費の総額(C)を雇用水準(N)に結びつける関数について考えるべきである。しかし、これと若干異なる関数、すなわち、賃金単位で測った消費の総額(Cw)を、雇用水準Nに対応する賃金単位で測った総所得(Yw)に結びつける関数のほうが分析しやすい。この取り扱いには、Yw はいついかなるときも同じ形をしたNの一意の関数というわけではない、という反論があろう。というのも、YwとNの関係は、雇用の性質の詳細によって(おそらくわずかではあるが)影響を受けるからである。つまり、所与の総雇用量Nを個々の仕事に配分するしかたが2とおりあるとき、(個々の仕事の雇用関数の形が異なるために—―これについては第20章で議論するが、)異なるYwが得られるかもしれない。場合によっては、このことに特別な注意を払う必要があろう。しかし、一般には、NによってYwが一意に定まるとみなすのはよい近似である。そこで、賃金単位で測った所与の総所得Ywを所得のうち消費に支出される額Cwに結びつける関数関係χを消費の傾向と定義することにしたい。すなわち
Cw=χ(Yw) または C=W・χ(Yw)
総消費は、(ⅰ) 総所得の水準、(ⅱ) 客観的な付帯状況、(ⅲ) 社会を構成する人々の主観的な必要、社会を包む空気や習慣、そして(産出が増えると修正を迫られるかもしれない)所得が人々に分配される諸原理、から部分的に影響を受けるのは明らかである。支出の誘因は互いに影響しあうので、こうした分類の試みは誤った分割に陥る。とはいえ、支出の誘因を客観的要因と主観的要因に大別して別々に考えると見通しがよくなる。次章で詳述する主観的要因は、人々の心理、慣習、しきたりを含む。これらは変わりえないものではないが、非常事態や革命などの状況を除くと、短期に目立って変わることはない。歴史を検証したり異なる種類の社会制度を比べたりするときには、主観的要因の変化が消費の傾向に与える影響を考慮に入れる必要があろう。しかし、以下においては主観的要因を所与として、消費の傾向は客観的要因の変化にのみ影響を受けると想定することにしたい。
訳注
* proceeds を「粗利」と訳出した。
Ⅱ
消費の傾向に影響を与える客観的要因のうち、主なものを以下に掲げる。
(1)賃金単位の変化:消費(C)は、名目所得の関数というより、(ある意味において)実質所得の関数とみたほうがよいのは明らかである。技術、嗜好、所得分配を決める社会的条件を所与とすると、働き手の実質所得は彼が行使する労働単位の量、つまり賃金単位で測った所得、とともに増減する。ただし、産出の総量が増えるとき、(収穫逓減の作用によって)働き手の実質所得も増えるが、賃金単位で測った所得の増分ほどではない。もし賃金単位が変化するのであれば、一次近似として、所与の雇用水準に対応する消費支出は、したがって、物価と同様に、同率で変化すると仮定してもよいであろう。ただし、ある状況においては、賃金単位が変化して、実質所得が企業家と金利生活者に配分されるようすが変わり、それが総消費に影響する可能性を考慮に入れる必要はあるが。このことを除けば、賃金単位で測った所得に対して消費の傾向を定義することで、賃金単位の変化をすでに考慮に入れていることになる *。
(2)所得と純所得の差の変化:人々が消費額を決めるときにまず心に抱くのは当然のことながら純所得であるため、消費額は所得よりむしろ純所得によって決まることを上で示した。ある場合においては、異なる所得の水準をそれに対応する純所得の水準に一意に結び付ける関数があるという意味で、所得と純所得の関係がある程度安定しているかもしれない。しかし、もしそうでなければ、所得の変化のうち純所得に反映されない部分については、消費に影響しないので考慮外としなければならない。言い換えると、純所得の変化のうち所得に反映されない部分については、消費に影響するので考慮に入れなければならない。しかし、例外的な状況を除くと、この要因が重要性を持つことはなかろう。所得と純所得の差が消費に与える影響については、本章の第4節で詳述する。
(3)純所得に算入されない資産価値の意外の変化:資産価値の意外の変化は、所得額と安定したあるいは規則的な関係がまったくないので、消費の傾向を修正する際に考慮すべきとても重要な要因である。富裕層の消費は、富の名目価値が予期せず変化することに敏感に反応するようである。これは、消費の傾向を短期的に変える力を持つ主な理由とみなすべき要因である。
(4)時間割引率、すなわち異時点間のモノの交換比率、の変化:これは利子率とまったく同じものではない。というのも、割引率の変化は、予見しうるかぎり、貨幣の購買力が未来に変わることを考慮に入れているからである。加えて、割引率は、財を消費する楽しみを享受する前に死亡してしまうとか、懲罰的な税が課されるといった、未来に生じうるあらゆる種類のリスクをも考慮に入れている。しかし、近似としてなら、割引率を利子率と同じものとみなせる **。
この要因が所与の所得から支出に充てられる比率に与える影響については、大いに疑問の余地がある。利子率に関する古典派の理論(1)は、利子率が貯蓄の需給を一致させるという考えにもとづくが、ほかの条件に変化がなければ、消費支出は利子率の変化に負の反応を示すと想定している。つまり、利子率のいかなる上昇も消費をはっきりと減らすであろうと想定している。しかし、利子率の変化が当期の消費支出に与える総合的な影響は複雑で不確実であるとされてきた。というのも、利子率が上がると、貯蓄に対する主観的な誘因のあるものは満たされやすくなり、別のものはより満たされにくくなるという、互いに矛盾する傾向があるためである。長期にわたる利子率の大幅な変化は慣習を大きく変えるかもしれない。そして、支出の主観的な性質に影響を与えてきた――現実の経験に照らさずにその方向を言い当てるのは難しいが。しかし、よくみられる利子率の短期的な変化は、いずれの方向にも、支出に大きな影響を直接及ぼすことはなかろう。 総所得が以前と変わらないのに、利子率が5%から4%に下がったために、生活様式を変える人はそれほど多くないであろう。間接的にはより多くの影響があるかもしれないが、それらすべてが同じ方向への影響ではなかろう。利子率の変化が所得から充てられる支出に与える影響のうちおそらくもっとも重要なものは、これらの変化が証券とそのほかの資産の価格を上下させるという影響である。というのも、資産価値の予期せぬ上昇を享受する人は、たとえ資産から得られる所得が以前と変わらなくても、当期に支出しようという気持ちが強くなるのが自然だからである。そして資産価値の意外の低下を被る人は、当期に支出しようという気持ちが弱くなるのが自然である。しかし、このような間接的な影響は、上記の(3)ですでに言及したところである。このことを除くと、経験から導き出される主要な結論は、利子率が所得から充てられる個人の支出に与える短期的な影響は、通常では生じえない大きな利子率の変化について考える場合を除くと、おそらく二次的でありそれほど重要でない、ということだと思われる。利子率が非常に低い水準まで下がると、年間に受け取る年金に対する年金加入料の比率が高まる。それは年金を買って高齢世代を養う習慣を後押しし、負の貯蓄の重要な源になるであろう ***。
未来の不確実性が極度に高まることが鋭く影響して生じる消費の傾向の変化も、おそらくここに分類すべきであろう。
(5)財政政策の変更:個々人が期待する収穫によって貯蓄の誘因が決まるのであれば、消費の傾向は利子率のみならず財政政策からも影響を受けるのは明らかである。所得税、とりわけキャピタルゲイン課税や相続税など〈不労〉所得に対する懲罰的な課税、は利子率と同じくらい影響する。ただし、財政政策は利子率それ自体より大きな変更の余地がある。少なくともその望みがある。所得格差を減じるためのよく考えられた仕組みとして財政政策を活用すれば、消費の傾向を高める効果はより一層大きくなるのはもちろんである(2)。
経常税から公債の元利払いをするために設けられる政府の減債基金が、消費の傾向に与える影響にも注意を払わねばならない。というのも、多額にのぼる政府の減債基金は、ある状況において消費の傾向を弱めるものとみなされるべき、企業貯蓄の一種だからである。多額の減債基金を積み上げる政策は、ある状況の下では、消費の傾向を弱めるものとみなされなくてはならない。拡張的な財政政策から正反対の減債基金を積み上げる政策へ転換すると有効需要が大幅に減る(逆方向の政策転換が起こると大幅に増える)のはこのためである。
(6)当期と未来の所得水準の関係に対する期待の変化:形式の完全を期すべくこの要因を書き添えておかねばならない。この要因はある個人の消費の傾向に大きな影響を与えるかもしれないが、社会全体を見渡すときには、それらは打ち消し合い平均的な線に落ち着くようである。加えて、目に見える影響を及ぼすには、概して不確実性が高すぎる事柄である。
したがって、所与の状況で、名目値に対する賃金単位の変化を除けば、消費の傾向はかなり安定した関数と考えてよかろうという結論に至る。資産価値の意外の変化は消費の傾向を変えることがあるかもしれないし、利子率と財政政策の大きな変更も違いをもたらすことがあろう。しかし、消費の傾向に影響を与えるそのほかの客観的要因は、見過ごしてはいけないが、ふつうの状況では重要でないであろう。
そのほかの客観的要因を〈消費の傾向〉という関数にまとめて詰め込むことは、一般的な経済状況の下では、賃金単位で測った消費支出が産出と雇用の量によっておおよそ決まるという事実によって正当化される ****。というのも、そのほかの客観的要因も変わりうる(このことを忘れてはならない)が、賃金単位で測った総所得は、総需要関数のうち、消費の成分に影響を与える主要な変数だからである。
脚注
(1)第14章を参照 *****。
(2)話のついでに、財政政策が富の増加に与える影響はひどく誤解されてきたことに触れてもよいかもしれない。しかし、第4篇で与えられる利子率の理論の助けを借りないと適切に議論することができない。
訳注
* この段落の文意は、産出が増えるにしたがい生産効率は下がり、生産は所得に追いつかなくなる。結果として生じるモノ不足が物価を上げ、それに賃金の上昇は追いつかないということである。ただし、賃金単位が物価と同じように変化するなら、賃金単位の変化が消費支出に与える影響は、物価の変化が消費支出に与える影響とおおよそ同じとみなしてよいということである。この点について、間宮版の訳注は数式を用いて説明している。
** 塩野谷版の訳注は、ここで扱われている時間割引率と利子率は異なると指摘している。その根拠として、Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第1分冊, pp.178-181、『経済学原理』第4分冊, pp.129-131を紹介している。
*** 間宮版の訳注は、負の貯蓄ではなく正の貯蓄ではないかと指摘している。塩野谷版には言及がない。ここでは原文のまま訳出した。
**** いわゆる micro-foundation of macro に近い記述にみえる。
***** 永久年金の購入代金 P=INT/r を変換すると P/INT=1/r となる。利子率 r が下がると価格 P は上がるので、当期に支出しようという気持ちが高まるかもしれない。あるいは、年金加入料の形で集めた貨幣を公的支出に充てる財政投融資の一種をDutch Financeというが、それを想定しているのかもしれない。→この訳注は不要?
Ⅲ
消費の傾向がかなり安定した関数だとすると、総消費は総所得によっておおよそ決まる(総消費と総所得はいずれも賃金単位で測られる)ので、消費の傾向それ自身の変化は副次的な影響として取り扱われる。では、この関数の通常の姿はどのようなものであろうか?
おおよそ典型的には、人々は所得が増えるにしたがい消費を増やす傾向にあるが、消費の増加は所得の増加ほどではない。これは、人々の気質に関する先験的な知識と、経験という個々の事実にもとづく、かなり自信を持って言ってよい原則的な心理法則である。この法則を記号を用いて表そう。消費をCw、所得をYwとおく(いずれも賃金単位で測った値とする)と、ΔCw〔消費の変化〕の符号はΔYw〔所得の変化〕と同じであるが、量は少ない。つまり、dCw/dYwは0より大きく1より小さい。
このことは、雇用量がいわば循環的に増減する短期を視野に入れるときよく当てはまる。短期においては、より長く続く心理の性質とは異なる習慣が、変化した客観的な状況に適応する時間が十分にない。というのも、人々の所得は慣れ親しんだ生活水準を満たすためにまず充てられるのがふつうであり、所得の実額と習慣的な支出との間に見出される差が貯蓄される傾向にあるからである。たとえ人々が所得の変化に応じて生活水準を調節するとしても、短期においてその適応は不完全なものにとどまるであろう。したがって、所得の増加はよく貯蓄の増加をともない、所得の減少はよく貯蓄の減少をともなうが、貯蓄の変化は所得が減るときより増えるときのほうが大きい。
所得水準の短期的な変化に関することではないが、所得の絶対水準が高くなるにしたがい、所得と消費の差は概して広がる傾向にあるのもまた明らかである。というのも、家計には当座の基礎的な必要を満たす強い動機があるが、生活に余裕があるときにだけ効力を持つ貯蓄の動機はそれほど強くないのがふつうだからである。このようなことから、実質所得が増えるにしたがい、概して所得のより高い比率が貯蓄されるようになる。しかし、より高い比率が貯蓄されるか否かにかかわらず、実質所得が増えるとき、消費は同じ絶対額だけ増えることはない、というのが現代社会の原則的な心理法則だと考えられる。というのも、そのほかの要因に大きな常ならぬ変化が生じなければ、所得が増えるにしたがいより多く貯蓄されなければならないからである。後述するように(1)、本質的には、経済体系の安定は現実に見られるこの法則によっている。この法則は、雇用、したがって総所得、が増えるとき、増えた雇用は増えた消費の必要を満たすためだけに用いられることはない、ということを意味する。
他方、雇用水準が大きく落ち込み所得が減ると、人々と機関はよい時代に積み上げた金融の蓄えを取り崩し、政府は望むと望まざるとにかかわらず財政赤字に陥り、たとえば借り入れて失業手当を給付するなどして、消費は所得を超えるかもしれない。したがって、雇用が低い水準に落ち込んでも、人々の習慣的な消費行動と採用されるであろう政府の政策によって、総消費の落ち込みは実質所得の落ち込みほどではないであろう。このことは、均衡の新たな位置はおおよそある変動幅の内側に収まることを説明する。さもなくば、ひとたび雇用と所得が落ち込みはじめると、それが止めどなくつづいてしまう。
後にみるように、この単純な原則から前と同じ結論が導かれる。すなわち、消費の傾向に変化がなければ、雇用は投資の増加に歩調をあわせて増える。というのも、雇用が増えるとき、消費支出の増加は総供給価格の上昇〔所得の増加〕ほどではないので、所得と消費の差を投資が埋めないと、雇用の増加は利益をもたらさないからである。
脚注
(1)p.251を参照 *。
訳注
* 第18章第Ⅲ節、箇条書きしている付近を指している。
IV
雇用量は期待消費と期待投資の関数であるが、上述したように、諸事情に変化がなければ、消費は純所得、すなわち(純所得は消費と純投資の和であるから)純投資、の関数であることの重要性を過小評価してはならない。言い換えると、所与の投資水準の下では、純所得を算出するときに差し引く引当金が大きくなるにしたがい、消費と雇用にとって都合が悪くなる。
この引当金 *(補足費用と言い換えてもよい)のすべてが、既存の資産設備を維持するために当期に実際に支出される場合には、この点が見過ごされることはなかろう **。しかし、引当金が当期の資産設備の維持に充てられる実際の支出を超える場合に、雇用量への影響に関する実際的な結果の重大性について、適切に評価されているとは言いがたい。この超過分は、当期に投資をもたらさず、消費支出に用いられることもない。したがって、超過分は、当期の新規投資によって埋め合わせられなければならない。新規投資の需要は、引当金がなされるべき既存設備の当期の減耗とは無関係に生じたものでなければならない。結果として、当期の所得をもたらすための新規投資が減少すると、所与の雇用量を可能にするためには、なお一層の新規投資が必要とされる。使用費用に含まれる損耗についても、損耗が修復されないのであれば、ほぼ同様に考えることができる ***。
取り壊されるか打ち捨てられるまで住みつづけることのできる住宅について考えてみよう。住宅の借り手が支払う年間賃貸料から住宅の価値の一部が償却され、家主はその償却分を修繕に充てず、また消費に用いることのできる純所得ともみなさないとしよう。この引当金は、それがU〔使用費用〕であるかV〔補足費用〕であるかによらず、住宅の耐用期間を通じて雇用の足を引っ張ることになる。これは住宅が建て替えられるときに引当金が使われる、そのときまでつづく。
定常状態にある経済では、このことにあえて言及する必要はないかもしれない。というのも、毎年、既存の住宅に対する減価償却引当金は、その年に寿命を迎えた住宅の建て替えによってちょうど埋め合わされるだろうからである。しかし、このことは、非定常状態にある経済では重要な要因となりうる。とりわけ、償却までに長い期間を要する資産への投資が爆発的な活況を呈した後には、重要な要因となりうる。というのも、このような状況下では、新規投資の大部分が既存の資産設備に対して企業家が用意する、より大きな引当金によって吸収されるからである。資産設備は時とともに損耗するが、取り置かれる引当金のすべてが設備の修繕や取り替えに費やされる時期には至っていないと、総所得は純投資の総額が低水準にとどまるのに応じた水準を超えて上昇しえない。減債基金などは、(引当を前もってすべき)設備を取り替えるための支出の需要が顕在化するはるか前に、消費者から購買力を取り上げてしまう。つまり、引当金は当期の有効需要を減らし、設備が取り替えられる年にのみ有効需要を増やす。この影響が〈金融の健全性〉、すなわち設備の耐用期間より短い期間で初期費用を〈償却〉することが望ましいという考え、によって増幅されると、累積された結果は大変深刻なものになるかもしれない。
米国を例にとると、1929年までに、5年にわたる急速な資産の増加によって〔耐用期間中であるために〕取り替える必要のない設備に対する減債基金と減価償却引当金が累積的に積み上がった。この積み上がりは、これらの引当金を単に吸収するだけでも、途方もない量の全く新しい投資が必要とされたほどであった。完全雇用下の豊かな社会が確保したいと思う、新規貯蓄を充当するのに十分な追加の新規投資をみつけることはほとんど期待できなくなった。この要因だけをとってみても、不況をもたらすに十分である。しかもこの種の〈金融の健全性〉は、そうする余裕のある大企業によって不況をつうじて堅持されつづけ、不況から早期に立ち直る障害となった。
前節の繰り返しになるが、現在(1935年)の英国において、第一次大戦後に実施された住宅建設とそのほかの新規投資の大部分は、修繕と取り替えのために現在必要とされる支出額をはるかに超える減債基金をもたらした。この傾向は、地方公共団体と官公庁によってなされた投資が〈健全な〉金融の原則にしたがうときに、より強調される。この原則は、資産設備を取り替えるときが来る前に初期費用を償却するのに十分な減債基金をしばしば要求する。結果として、対応する新規投資が全くない、公的部門と半公的部門による多額に上る法定の減債基金に直面すると、民間の個々人が純所得の全てを支出に充てようとも、雇用を維持するのは難しくなるであろう。地方公共団体などによる減債基金の額は、これらの機関が1年に新規の開発のために投ずる資金の半分(1)を超えているようである(2)。しかし、減債基金を厳格に運用するように地方公共団体に求めることが、失業をどれほど悪化させるか保健省は気づいているだろうか。個人が家を建てる手助けを住宅金融組合 ****がする場合においても、住宅の減耗に先んじて負債を取り除く熱意は、それがないときに比べて、住宅の所有者により多くの貯蓄をするよう動機づけてしまうかもしれない――この要因は純所得への影響を介したものと理解するより、おそらくは直接に消費の傾向を弱めるものとして分類すべきであろうが。実際のデータでは、住宅公社によって前払いされる借入金の返済額は1925年に2,400万ポンドであったが、1933年までに6,800万ポンドに達した。これに対して新規貸付分は1億300万ポンドである。返済額は今日これよりも多いと思われる。
産出量の統計から得られるのは純投資ではなく、投資であることを力説しているのはColin Clark氏による『国民所得, 1924-1931』である。彼はまた、多額の減価償却などが投資の価値に内在しているのが常であることを明らかにしている。たとえば、1928年から1931年(3)の大英帝国における投資と純投資を、彼は下表のように推計している。彼が定義する粗投資は、使用費用の一部を含むために、私が定義する投資よりおそらくいくぶん大きい。そして、彼が定義する〈純投資〉が、私の定義とどれほど似通っているかは定かでない *****。
Kuznets氏は1919年から1933年の合衆国における総資産形成(私が投資と呼ぶものを彼はこのように呼ぶ)という統計を作成して同じ結論を得ている ******。産出の統計に対応する現実は粗の投資であり純投資でないことは避け難い。Kuznets氏は粗投資から純投資に至る困難さを見つけた。彼は次のように書いている。〈粗投資から純投資に至る困難は既存耐久財の消費を補正する難しさであり、それは単にデータが欠如している困難にとどまらない。耐用期間が長年にわたる財の年あたり消耗という概念自体が曖昧さを免れない〉。したがって彼は後退して、〈事業会社の決算にあらわれる減価償却と減損は、事業会社が用いた既存の耐久財の消費量を正確に記述しているという仮説による〉と書いている(4)。他方、住宅と個人が所有するそのほかの耐久財については、彼は控除を試みていない。彼が合衆国について得た興味深い結果は次のようである(5)。
※純固定資産形成はKuznets氏の定義による。
この表から特筆すべき事実がいくつかある。純固定資産形成は1925年から1929年の5年、非常に安定している。後半の上昇分も10%である。企業家の補修、修繕、償却、減損のための差し引きは、不況の谷においても多額に上っている。しかしKuznets氏の方法は、償却などの年次の増分をあまりに低く見積もっていることに疑いがない。というのも、彼は新規の資産形成に対して年1.5%に満たない額を付しているからである。結局、純固定資産形成は、1929年の後ぞっとするような崩壊に見舞われ、1932年には1925年から1929年の5年平均を95%下回った *******。
上表はある程度において余談である。しかし、すでに多額の資産を積み上げている社会においては、消費に充てることができる純所得を産出するために、総所得からなされるべき控除の大きさを強調することは重要である。というのも、もしこれを軽視するなら、人々が純所得の大変高い割合を消費に充てる用意があるときにさえ消費の傾向が弱まることを、過小評価してしまうかもしれないからである。
明らかなことの繰り返しになるが――消費はあらゆる経済活動の唯一の最終的な目的である。雇用の機会は、総需要の大きさによって限界を画されざるを得ない。総需要は当期の消費か次期以降の消費に対する当期の備えからしか導かれない。利益を得て次期以降に備える消費を永遠の未来に押し込めることはできない。社会全体をみると、引当金によって未来の消費に備えることはできない。次期以降の消費に備えることができるのは、ひとえに当期の物的な産出だけである。引当金を十全にすることは必ずしも物的な準備を意味しないので、公的な組織も民間の組織も物的な未来に対する備えから金融の未来に対する備えを切り離すかぎりにおいて、金融の健全性は有効需要を減じ、福利を損ねがちである。これは多くの事例が示すとおりである。しかも、前もって準備しておいた消費が大きくなるにしたがい、前もって準備するさらなる何かをみつけることは難しくなり、需要の源泉として当期の消費に頼る度合いがますます強まる。しかし、総所得が増えるにしたがい、不幸にも、総所得と総消費の差は広がっていく。すると、何らかの新たな方策を考えつけなければ、後にみるように、問題の解は多くの失業のほかにはなり得ない。当期に生産する次期以降の消費への物的な備えと同じだけ、消費は総所得に満たないために、失業が生じ、社会は貧しくなる。
あるいは事態をこのようにみてもよい。消費の一部は当期に生産されたモノによって満たされ、残りは前期までに生産されたモノによって、すなわち負の投資によって、満たされる。前期までに生産されたモノによって消費が満たされる部分は当期の需要を減らす。なぜなら、当期の消費支出のこの部分は、純所得の一部として還流しないからである。反対に、次期以降の消費を満たすことをもくろんで当期中に生産されるモノは、当期の需要を拡張する。あらゆる資産投資は、いずれ負の資産投資となる運命にある。新規の資産投資がいつも、純所得と消費の差を埋めるように、負の資産投資を超えるようにするという問題は、資産の蓄積が進むにしたがいますます解消し難くなる。当期の負の資産投資を超えて新規の資産投資が実施されるのは、消費支出が次期以降に増えていくと期待されるときである。投資を増やすことによって当期の均衡を維持しようとするときはいつでも、次期の均衡を保持することをより難しくしている。当期に消費の傾向が弱まるのは、未来のある時点において消費の傾向が強まると期待されるときにのみ社会の利点と一致する。〈蜂の寓話〉を思い出してみよう――明日の陽気は今日の陰気によって準備されなければならない ********。
道路を敷設したり住宅を建設するというような公共投資に話が至ると、これについて困惑が広がることは興味深くまた言及すべきポイントである。公的部門の助けを得た投資によって雇用を増やす計画は、未来に禍根を残すとして反対されるのがふつうである。〈人口が安定的に推移するようになったあかつきに必要とされる水準まで、住宅を建て、道路を敷き、市庁舎を建て、電力網を整備し、水道を張り巡らせるなどしてしまったら、ほかに何もやりようがないではないか〉と問われる。しかし、こうした困難は民間投資や産業の拡張についても同様に適用されることを理解するのは容易でない。とりわけ後者においては難しい。というのも、建設するのにそれほど資金がかからない工場に対する需要は、住宅の需要に比べて早く満たされてしまうというのははるかに理解しやすいからである。
これらの事例が示すように、理解を妨げているのは、資産に関する学界での議論と同じである。つまり、資産は消費と離れて自立して存在しえないという事実を十分に理解しないことにある。反対に、永続的な習慣としての消費の傾向が弱まると、消費に対する需要のみならず、資産に対する需要も弱まらざるをえないのである。
脚注
(1)以前の資産支出についてみると、たとえば1930年3月31日に終わる1年度に、地方公共団体は87,000,000ポンドの資産勘定を支出したが、そのうち37,000,000ポンドは減債基金によって提供された。1933年3月31日に終わる1年度には、これらの値はそれぞれ81,000,000ポンドと46,000,000ポンドであった。
(2)実際の値はあまり重要ではないと思われるが、2年あるいはそれより遅れてしか公表されない *********。
(3)前掲著, pp.117-138 **********。
(4)これらの引用は全米経済研究所の所報(52号)から引用した。そこにKuznetz氏による近刊の暫定的な結果が示されている '*。
(5)この点に関するより進んだ議論は本書巻末のAppendix 2を参照[編集者]。
訳注
* financial provision を「引当金」と訳出した。
** 塩野谷版の訳注は、Keynesの同意を得てフランス語版では「……支出される場合には、この点は単なる理論的重要性しかもたない」と修正してあることが記されている。この是非については判断せず、原文のとおり訳出した。
*** allowance of wastageを「損耗」と訳出した。間宮版では「減価償却費」と訳出している。
**** 住宅金融組合とは、19世紀の英国で設立された労働者が貯蓄をして住宅等を購入するための組合である。
***** ケインズ全集第29巻pp.78-81を参照。
****** Gross Capital Formationを「総資産形成」と訳出した。国民経済計算では総資本形成と表記するが、工場や機械は国民貸借対照表の資産に計上されることから、語を合わせた。また、これにともない、総固定資本形成、純固定資本形成、資本財をそれぞれ総固定資産形成、純固定資産形成、資産財と表記する。
******* 表の数値はNBERのBulletinの1934年11月52号,p.6表6の行A7 http://www.nber.org/newsbulletin/newsbulletin/nov15_1934.pdf からとったものである。この段落の 引用文は、このBulletinのp.13、左列11行目以降である。Bulletinのシリーズは http://www.nber.org/newsbulletin/ を参照。
******** Mandeville による『蜂の寓話』は第23章第Ⅶ節を参照。
********* 脚注(1)と(2)は語順の都合で原文と順序が入れ替わっている。
********** ここで前掲著はColin Clark『国民所得, 1924-1931』と思われる。
'* この点について、Kuznetsとの往復書簡がケインズ全集第29巻,pp.225-248にある。純資産形成を算出するとき、企業設備の減耗のみ考慮され、住宅や公共設備の減耗は考慮されていないとのKuznetsからの指摘があった。これを考慮に入れると、純資産形成は下表よりさらに落ち込むようである。Kuznets氏の指摘に対するケインズの応答は、Economic Journalの https://www.jstor.org/stable/2224919 を参照。この論文は全集のAppendix 2に収録されている。
所与の所得水準からどれほど消費するかに影響を及ぼす2つめの要因が残っている――すなわち、賃金単位ではかる所得と前章で議論した客観的要因を所与としたときの、どれほど消費するかを決める主観的そして社会的な誘因についての説明が残されている。しかし、これらについての分析にはなんら新しいところがないため、長々とした説明を加えず、重要な要因の一覧を示せば十分であろう。
人々が所得から支出をするのをためらうようになる、主な誘因あるいは主観的な事柄にはおおよそ8つある。:
(ⅰ)予期せぬ事態に対する備えを構築すること。
(ⅱ)未来における所得とその人あるいはその人の家族の必要の関係が、現在の所得と必要の関係と異なることに備えること。たとえば、老後、家族の教育、家族の扶養などに備えること。
(ⅲ)インカムゲインとキャピタルゲインを享受すること。つまり、現在の少ない消費よりも未来のより多い実質消費を好むことを理由とするもの。
(ⅳ)少しずつ増えていく消費を享受すること。年をとれば物事を楽しむ余力が低下していくとしても、生活水準が少しずつ改善されるのは、その逆よりも人々の本能をより満足させることを理由とするもの。
(ⅴ)明確なアイデアや特定の行動をとる決意がある訳ではないが、頼らずに何事かをなしうるという感覚を楽しむこと。
(ⅵ)投機や事業を実施するための軍資金を確保すること。
(ⅶ)遺産を残すこと。
(ⅷ)黄金の僕となること。つまり、理性に依らず想念に囚われ、支出行動を控えること。
これら8つの誘因を、用心、先見、計算、改善、自主、事業、自尊、吝嗇と呼んでもよいかもしれない。これに関連する消費誘因として、快楽、近視眼、寛大、 計算違い、虚飾、放蕩を列挙することもできよう。
個人によってなされる貯蓄のほかに、英国や米国のような現代の産業社会において、中央政府、地方公共団体、機関、事業体によってなされる貯蓄は貯蓄総額の3分の1から3分の2を占める――これらの諸組織は、個人を突き動かす誘因とおおよそ類似しているがまったく同じものではない、次の4つの誘因によって貯蓄する。
(ⅰ)事業の動機――負債を負うことなしに、あるいは市場から追加の資金を調達することなしに、追加の資産投資を実施するための資金を確保すること。
(ⅱ)流動性の動機――緊急時や困難、不況に対応するために資金を確保すること。
(ⅲ)改善の動機――少しずつ増えていく所得を確保すること。これは、貯蓄がもたらす所得と効率がもたらす所得の見分けがほとんどつかないために、時として経営陣を批判から守るであろう。
(ⅳ)金融の健全性と〈正しいほうにありたい〉という願望の動機。負債を償還し、実際の損耗や陳腐化より遅れずむしろ先んじて償却するために、使用費用と補足費用を超えて引当金を準備すること。
所得の一部を消費せずに貯めておくことを好むようになるこれらの動機に対応するように、所得を超えて消費をする動機についても時として効力を持つ。正の貯蓄に向かう動機のいくつかは、上述の個人の動機についてと同様に、未来における負の貯蓄に関する意図された対応物を持つ。家族の必要や老後に備えた正の貯蓄〔は、未来にそれをつかうとき、負の貯蓄となるが、これ〕はその例である。
さて、これらすべての誘因の強さは、仮定する経済社会にある機関や組織によって、また人種、教育、習慣、宗教、今日の道徳によって、今日の望みと過去の経験によって、資産設備の規模と技術水準によって、富の分配や生活水準によって、とても大きく変わる。しかし、本書の議論においては、広汎な社会の変化やゆっくりとした世俗の進歩の結果に、横道にそれるときを除いて、関心を持たないことにする。つまり、貯蓄と消費の主観的な誘因の主な背景については与えられたものとして取り扱う。所得の分配がおおよそ定められた社会構造にしたがってなされるかぎりにおいて、長期にわたってゆっくりとしか変化しない主観的な要因を今日の文脈の中では与えられたものとする。
Ⅱ
したがって、主観的、社会的な誘因の主な背景はゆっくり変化するため、短期に生じる利子率の変化などの客観的要因はたいてい副次的な重要性を持つものにすぎないのであれば、短期に生じる消費の増減は、(賃金単位で測られた)所得がどれほどの率で得られるかということに左右され、所与の所得に対する消費の傾向の変化に左右されないという結論に至る。
しかし、誤解を生じさせないようにしなければならない。上記は、利子率のある範囲内の変化が消費の傾向に与える影響はふつう大きくない。これは、利子率の変化が実際に貯蓄と消費に与える影響が小さいということを意味しない。その反対のことも十分ありえる。利子率の変化が貯蓄額に与える影響は実に大きいが、よく考えられているのとは反対の影響を及ぼす。というのも、消費の傾向を弱める高い利子率が将来より多くの所得をもたらすとしても、利子率が上がると貯蓄額は減ることは確かだと言える。というのも、総貯蓄は総投資によって支配されているからである。(投資の需要関数に変化が生じてそれを相殺しないかぎりにおいて、)利子率が上がると、貯蓄が投資と同額になるまで所得を減らすはずである。所得は投資の減少より激しく減少するので、利子率が上がると消費率は低下するのは確かである。しかし、これはより多くの貯蓄の余地があることを意味しない。反対に貯蓄と消費はともに減る。
したがって、所与の所得のもとで、利子率の上昇によってより多くの貯蓄をするようになったとしても、(投資の需要曲線が有利な方向に変化しないと仮定すると、)利子率の上昇は貯蓄額を減らす。同列の議論は、ほかの事情に変化がなければ、利子率の上昇が所得をどれほど減らすかということも私たちに教えてくれる。というのも、消費の傾向と資産の限界効率が所与であるとき、利子率が上がると投資は減り、それと同額だけ貯蓄が減り、所得も減るからである。次章でこの点を詳述する。
利子率が上がると、もし所得水準に変化がなければ、私たちはより多く貯蓄するようになる。しかし、より高い利子率が投資を妨げるのであれば、所得は変化しないということはないし、変化し得ないこともない。所得は、貯蓄の余力の減少が、高い利子率によって刺激された貯蓄によって相殺されるまで減る。私たちがより高潔で決然とした倹約家であり、また国家と個人の金融についてより頑固に正統派を貫けば、資産の限界効率に対して利子率が上がると、総所得はより大きく減少する。頑固さは罰のみもたらし報酬をもたらさない。この結果は避け難い。
よって、結局のところ、総貯蓄の率と総消費の率は、予測、見込み、計算、改善、自主、事業、自尊、貪欲とは関係がない。美徳と悪徳はいずれも関係がない。それらは、資産の限界効率(1)を考慮に入れて、利子率がどれほど投資にとって好ましいのかによって決まる。否、これは言い過ぎかもしれない。もし利子率が継続的な完全雇用を維持する水準にあるのであれば、美徳はその支配力を取り戻す――資産蓄積の率は消費の傾向の弱さによって決まるようになるかもしれない。したがって、くりかえすと、古典派経済学者が美徳に対して払った敬意は、利子率が完全雇用がずっと続くように調節されるという隠された仮説にもとづく。
脚注
(1)第4篇で導入する概念を、このセクションのいくつかの文章で暗に先取りしておいた。
第8章で提示したように、消費の傾向に変化がない限りにおいて、雇用量は投資の増加にともなって増える。ここでは、この考えを一段押し進めることができる。というのも、ある環境の中では、所得と投資の間に乗数と呼ばれる一定の比率を打ち立てることができるからである。ある単純化が許されるのであれば、(一次雇用と呼ばれる)投資に直接あてがわれる雇用と総雇用量との間に乗数を打ち立てることもできる。この段階は、雇用理論の総合の部分である。なぜならそれは、消費の傾向を所与としたとき、総雇用量、総所得、総投資の関係を厳密に打ち立てるものだからである。乗数という考えを初めて経済理論に取り入れたのは、R.F. Kahn氏による『国内の投資と雇用の関係』(Economic Journalの1931年6月号掲載)であった。論文の中で彼は、多様な仮説的な状況の中で消費の傾向が(そのほかの条件と同じく)所与と考えられるのであれば、そして金融当局やほかの公的機関が投資を刺激するか抑制するかすると、雇用量の変化は投資量の純額の変化の関数となるであろうと議論した。そして、その議論は純投資の変分とそれにともなう総雇用量の変分との関係を実際の数字として推定する一般原理を定めることを目的としていた。しかし、乗数について到達する前に、限界消費性向という考えを導入しておくことが便宜であろう。
I
本書で考える実質所得の変動は、異なる資産設備にあてがわれる異なる雇用量(つまり労働単位)の結果として生じる。よって実質所得は雇用される労働単位の数量とともに増減する。一般に仮定するように、所与の資産設備の下で雇用される労働単位が増えるにしたがい収穫は逓減するのであれば、賃金単位で測った所得は雇用量の増加よりも高い比率で、したがって(もしそれができるとして)生産物で測った実質所得の増加よりも高い比率で増える *。しかし、生産物で測った実質所得と賃金単位で測った所得は(資産設備がほぼ一定である短期において、)ともに増減する。したがって、生産物で測った実質所得は厳密な数字の尺度を持ち得ないので、賃金単位で測った所得(Yw)を実質所得の変化の有効な指標とするのが便利である。ある文脈においては、一般にYwは実質所得よりも高い比率で増減することを見過ごすべきではない。しかしほかの文脈においてはそれらがいつもともに増減するということからお互いに入れ替えて用いる。
したがって、実質総所得が増減すると総消費もともに増減するが、増減の速度は所得ほどではない、という通常の心理法則は、次のように解釈するべきである—完全な正確さを持たず、むしろ形式的に完全を期するために容易に列挙しうる明白な前提条件の下でしか成り立たないものであるが—ΔCwとΔYwは同じ符号を持つがΔYw>ΔCwである。ここでCwは賃金単位の消費である。これは29ページですでに打ち立てた命題の繰り返しであるが。そして、dCw/dYwを限界消費性向と定義することにしよう。
この量は大変重要である。というのも、生産物の来るべき変化が消費と投資にどのように分たれるかを私たちに教えてくれるからである。つまりΔYw=ΔCw+ΔIwとなる。ここでΔCwとΔIwは消費と投資の変分である。そして、ΔYw=kΔIwとも書ける。ここで1−1/kは限界消費性向である。
kを投資乗数と呼ぶことにしよう。これは、総投資の変分があるとき、所得は投資の変分のk倍だけ増えることを私たちに教える。
訳注
* 間宮版の訳注は、第8章II(1)賃金単位の変化 の段落との対比をしている。
Ⅱ
Kahn氏の乗数はこれとは若干異なる。彼の乗数は、投資産業において一次雇用の変分にともなう総雇用量の変分の比率を測るものである。これを雇用乗数、k’、と呼ぶことにしよう。つまり、もし投資ΔIwが投資産業に一次雇用ΔN2をもたらすならば、総雇用量の変分はΔN=k’ΔN2となる。
一般に、k=k’である理由は何もない。というのも、異なる型の産業の総供給関数の適切な割合の形は需要の変分に対するあるセットの産業の雇用量の変分の比率は、ほかのセットの産業の雇用量の変分の比率と同じであるからである(1)。確かに、たとえば、限界消費性向は平均消費性向と異なり、消費財と投資財の需要の比率の変化が大きく異なるために、ΔYw/ΔNとΔIw/ΔN2が一致しないという推定がなされてしかるべきだと思う。もし、2つの産業のグループの総供給関数の対応する部分の形状のありうる違いを考慮に入れると、以下の議論をより一般的な形に書き直すことは容易である。しかし考えを明示するために、単純化されたk=k’の場合を取り扱うのが便宜であろう。
したがって、もし社会の消費に対する心理が、たとえば所得の増加の10分の9だけ消費する(2)というものであれば、乗数kの値は10となる。そして、(たとえば)公共事業を増やすことによってもたらされた総雇用量は、ほかの方面の投資が減らないという仮定の下では、公共事業に提供される一次雇用の10倍となる。雇用量と実質所得の増加にも関わらず消費額を変えない場合にのみ、雇用の増加は公共事業に提供される一次雇用にかぎられる。他方、人々が増えた所得の全てを消費にまわしたいときには、安定点は存在せず、物価は際限なく高騰する。通常の心理状態を前提とすると、雇用の増加が消費の減少をともなうのは、消費の傾向が同時に変化するときである—たとえば、個人の消費を制限することを好むようになるような戦時の宣伝の結果として消費の傾向が変化するときである。そしてこのような場合にのみ、投資産業の雇用増が消費財を生産する産業の雇用へ好ましくない反動をともなう。
ここまでの説明で、こうしたことが式に込められていることが読者にも明らかになったであろう。賃金単位で測った投資の変分は、賃金単位で測った貯蓄を公衆が増やそうとしない限り生じえない。ふつうの言葉で言うと、公衆は賃金単位で測った総所得が増えていかない限り、貯蓄を増やすことはない。したがって、増えた所得の一部を消費するという彼らの努力は、増える投資に十分に見合うだけの貯蓄を提供する所得の新たな水準(と分配)に至るまで産出を刺激する。乗数は、必要とされる追加の貯蓄をもたらすに十分なほど実質所得を増やすにはどれほど雇用が増えなければならないのか、そして雇用量の増加はどれほど心理性向に関係しているのかを私たちに教えてくれる(3)。もし貯蓄が薬であり、消費が〔薬を飲みやすくする服薬補助用〕ジャムであれば、追加のジャムは、追加の薬の大きさに比例しなければならない。公衆の心理性向が私たちが想定するものとは違わない限りにおいて、投資に用いられる雇用量の増加は消費財を生産する産業に刺激を与えずにはおかず、投資に必要とされる一次雇用のある倍数だけ総雇用量を増やさずにはおかない、という法則を打ち立てたことになる。
上記のことから、限界消費性向の値が1からそれほど離れていないのであれば、わずかな投資額の変動が大きな雇用量の変動をもたらすであろう。しかし同時に、投資のわずかな増加が完全雇用をもたらすかもしれない。他方、もし限界消費性向の値が0からそれほど離れていないのであれば、わずかな投資額の変動はわずかな雇用量の変動しかもたらさない。しかし同時に、完全雇用を達成するには投資額を大幅に増やさなければならない。前者の場合、非自発的失業という病は苦もなく治癒できるであろう。しかし、病が進行するときには深刻化しやすい。後者の場合、雇用量の変動はより小さいものの、低い雇用水準にとどまりやすく、とりわけ思い切った治療法を用いない限り、病を治癒することはできないであろう。実際のところ、限界消費性向はこれら2つの極のあいだに位置しているようである。ただし0よりも1のほうにはるかに近い。ある意味私たちが手中にしている結果は、両極の世界の悪い点である。すなわち、雇用量の変動は激しく、完全雇用を達成するために必要とされる投資の増加は大変大きく制御することが難しい。不幸なことに、雇用量の変動があまりにも激しく病を治癒することができず、深刻な失業はその性質 *を理解しない限り治癒することができない。
完全雇用に達したとき、投資をさらに増やそうとする如何なる試みも、限界消費性向のようすにかかわらず、物価を際限なく引き上げる(4)。つまりここで純粋インフレーションの状態に達する。しかしここに至るまでは、物価の上昇は実質総所得の増加とともに生じる。
脚注
(1)より詳細にいうと、e_eとe'_eは産業全体と投資産業の雇用の弾力性とおき、NとN2を産業全体と投資産業の雇用者数とおくと
ΔYw=Yw・ΔN/(e_e・N)
であり
ΔIw=Iw・ΔN2/(e'_e・N2)
であるから
ΔN=(e_eIwN)/(e’_eN2Yw)・kΔN2
つまり
k'=Iw/(e'_e・N2)・(e_eN)/(Yw)・k
しかし、もし産業全体と投資産業の総供給関数の形が違うことが実質的な違いを生じせしめる何の理由もなければ、つまり Iw/(e'_eN2)=Yw/(e_eN)であれば、ΔYw/ΔN=ΔIw/ΔN2となり、よってまたk=k'となる。
(2)数量は一貫して賃金単位で測る。
(3)より一般化した場合においては、投資産業と消費産業における生産の物的条件の関数でもある。
(4)第21章p.203を参照。
訳注
* 塩野谷版の訳注には、ケインズの示唆により、フランス語版に「慢性的な」という語が追加されていると記されている。よってこの文節は「…深刻な失業はその慢性的な性質を理解しない限り…」となる。本文の訳は原文どおりとし、ここで注意を促しておく。
Ⅲ
ここまで投資の純変分について取り扱った。したがって、もし上記のことを、留保条件を付けずにたとえば公共事業の増加の影響に対して当てはめるときには、ほかの方向に向けられる投資が減り、公共事業の増加が相殺されないことを仮定しなければならない――そしてもちろん、社会の消費の傾向に変化がないことも仮定しなければならない。上で言及した論文の中でKahn氏は、重要だと思われる考慮すべきものを相殺するものについて考え、そして推計される量を提示した。というのも、実際のところ、最終的な結果に影響を与える投資額のある特定の増加のほかにも、考慮すべきいくつかの要因があるからである。たとえば、もし公共事業のために政府があらたに10万人を雇用したとしよう。そして(上で定義したような)乗数を4としよう。このとき、総雇用量の増加を40万人と推定するのは安全ではない。というのも、このあらたな政策がほかの方面の投資に反作用をもたらすかもしれないからである。
(Kahn氏にしたがうと、)次のような事柄は現代の社会では大変重要であり見過ごしてはならない要因であるようである(ただしはじめの2点は第4編の終わりに至るまで完全には理解できないかもしれない)。
(ⅰ)政策を実施するための資金調達の方法と、雇用量の増加とそれにともなう物価上昇によって必要とされる活動的な貨幣の増加は、利子率の上昇をもたらし、これを抑えるように中央銀行が介入しない限り、ほかの方面の投資を減退させるかもしれない。一方で時同じくして、資産財の価格が上がり民間の投資家が得る限界効率は低下するかもしれない。そしてこれを相殺するには実際の利子率が低下しなければならない。
(ⅱ)よくあらわれる混乱した心理として、政府の政策は〈信任〉の度合いに影響を与え、流動性選好を高めるるか、または資産の限界効率を低くする。これはそれを相殺する何らかの措置が講じられない限り、ほかの方面の投資を抑制する。
(ⅲ)外国との貿易がある開放経済において、投資の増加による乗数効果の一部は、外国の雇用に好影響を与える。というのも増えた消費の一部は自国にとって好ましい外国貿易のバランスを減少させるであろうから。もし、世界の雇用と切り離された国内の雇用への影響だけを取り上げて考えると、乗数効果の完全な形は損なわれることになろう。他方は、自国の雇用は、外国の経済活動が活発になることが乗数効果を介した好ましい反響をつうじて、取り戻すことができるかもしれない。
さらに、大幅な量の変化を考えるのであれば、限界消費性向の進歩的な変化を受け入れなければならない。この量の一部、したがって乗数、はだんだんと変化していく。限界消費性向はすべての雇用水準で一定である訳ではない。雇用量が増えるにしたがいそれは低下する傾向にある蓋然性が高い。つまり、実質所得が増加するとき、社会はより少ない割合を消費したいと思うようになるのである。
今記したような一般法則が働くのに加えて、限界消費性向をそして乗数を修正する働きを持つそのほかの要因がある。それらの要因は、傾向を相殺するよりもより先鋭化させる方向に働くようである。というのも、第1に、雇用量の増加は、短期において収穫逓減の作用をもたらし、総所得のうち企業家の手元に残る部分を増やす。企業家の限界消費性向は社会の平均的な人の限界消費性向に比べて低い。第2に、失業は、それが官民を問わず負の貯蓄をともないがちである。というのも、失業者は自らあるいは友人の貯蓄を取り崩して生活するか、公債発行によってその一部がまかなわれた失業手当によって生活するからである。結果として、失業者が再び職に就くと、こうした負の貯蓄は減少し、限界消費性向も、異なる環境下で実質所得が増加する婆に比べてより速やかに低下する。
いずれにせよ、乗数は純投資が大きい場合に比べて小さい場合の方が高いようである。大幅な変化が見込まれるときには、私たちが問題にする期間を通じた限界消費性向の平均値をもとにした乗数の平均値によって導かれなければならない。
Kahn氏は、ある仮説的な条件の下でこうした要因のとりうる値について分析した。しかし、いかなる一般化も強く押し進めることができないのは明らかである。たとえば、典型的な現代の社会において、失業者の消費支出がほかの消費者の消費から移転されることによってなされるのであれば、所得の増加の80%を大幅に下回らない量が消費されるであろう。相殺を許した後で、乗数は5を大幅に下回ることはなかろう。しかし、外国貿易が消費の20%を占め、失業者が借入れかそれに類するもので就業時の通常の消費の50%ほどまでの消費額をまかなうような国においては、特定の新規投資によって提供される雇用の総雇用に及ぼす乗数は2倍または3倍にまで低下するであろう。したがって、投資の変動を所与とすると、外国貿易が大きな役割を果たし、失業者への給付が借入れによってまかなわれる国(1931年の英国のような国)においては、それらの要因の影響が重要ではない国(1932年の米国のような国)より雇用量の変動は穏やかである(1)。
しかし、投資額の変動の激しさを説明しようと試みている乗数効果の一般的な原理は、国民所得の比較的小さな部分は、総雇用量と総所得の変動を引き起こし、その変動はそれ自身の変動よりもはるかに大きいということである。
脚注
(1)しかし、アメリカ合衆国の推計はp.128を参照 *。
訳注
* 本章第5節(V)の最終段落を参照。貿易依存度が低いアメリカ合衆国は、貿易依存度が高い大英帝国より経済変動が穏やかであるというのが本節の意図であるが、第5節の推計値をみると、アメリカの経済変動は思いの外穏やかである。それでhoweverという語が用いられている。
IV
これまでの議論は総投資が変化することをもとになされてきた。総投資は、消費財産業は投資財産業に比例する形で手配されることを十分に予見してなされる。これは、産出量が増えるにしたがい収穫が逓減するという条件の下で、その後に比べて消費財の価格に対するかく乱がより激しくなることがないときに該当する。
しかし、一般に、十分には予見し得ない資産財産業の産出量の増加に端を発する場合について考慮する必要がある。このようなプロセスが雇用に対する影響が出尽くすには時間がかかることは明らかである。しかし、この明白な事実は、連続時間で成り立ち、タイムラグなしで効果を発揮し、その効果がずっと続くとする乗数の論理的な理論と徐々に効果を発揮し、タイムラグがあり、時間をおいた後でしか効力を発揮しない資産財産業の拡大の結果とのあいだに混乱を生じさせている。
これら2つのあいだの関係は、第1に予見不能なあるいは一部予見不能な資産財産業の拡張は、総投資に即時的な効果をもたらすものではなく、後者が徐々に増加することによって効果を次第に発揮すること、そして第2に一時的な限界消費性向の正常水準からの乖離を引き起こししばらくして元に戻ることによって明らかになる。
したがって、資産財産業の拡張は時間をかけて期間を経るごとに徐々に一連の総投資をもたらし、そしてそれらの期間における限界消費性向の一連の価値は、拡張が予見されていた場合とも総投資の新たな安定的な水準に到達したときのものとも異なる。しかしいずれの期間においても、乗数理論は、総需要の変分は総投資の変分に限界消費性向によって決まる乗数を掛け合わせたものに等しいという意味で、よくあてはまる。
これら2つの事実を説明することは、資産財産業における雇用の拡大がまったく期待されておらず、ためにはじめのうちは消費財産業の産出が全く増えないという極端な場合によくわかる。この場合、資産財産業に新たに雇われた人々が増えた所得の一部を消費する効果は、消費財の価格を一時的な均衡が得られる水準まで引き上げる。それは、一部は高い価格から引き出される利益の増加の効果が貯蓄階級に有利に働くことによって、そして一部はより高い価格が財の枯渇を引き起こすことによってによって引き起こされる。消費を送らせることによってバランスが蓄えられる限り、一時的に限界消費性向、つまりは乗数そのもの、は低下する。そして財が枯渇する限りにおいて、一時的に総投資は、資産財産業の投資の増分より少なく増える—つまり、資産財産業においては総投資ほどには乗数効果が発揮されない。しかし時間が経つにつれ、消費財産業があらたな需要水準に対応して、後回しにされていた消費がなされるときには、限界消費性向は通常の水準よりも一時的に高くなる。これはそのまえに限界消費性向が通常の水準よりも低かったことを取り戻すためである。そうしてついには通常の水準に戻る。財の貯蔵が以前の水準に戻ることは資産財産業における投資の増加よりも一時的に多い総投資の増加をもたらす(産出量の増加にともなう流動財の増加も同様の効果をもたらす)。
予期されない変化が雇用に与える影響が出尽くすまでに時間がかかるということは、ある文脈においては重要である—とりわけ景気循環の分析において重要な役割を果たす(『貨幣論』の中で私はそのような道筋に分け入った)。しかし、それは本章で明らかにしたような乗数理論の重要性に何ら影響することはない。資産財産業の拡張から予期される雇用にもたらされる利点のすべて指標として適切ではないということもない。しかも、消費財産業が、産出を拡大するには単に現行の設備により多くの雇用を当てはめることによってではなく、資産設備を拡張しなければならないような、その能力の上限間近で操業している場合を除くと、消費財産業の雇用が資産財産業の雇用の一定割合で増え、乗数効果が通常の水準で働くには、短期よりも長い時間を要すると考える理由はない。
V
上でみたように、限界消費性向が高まるにつれて乗数は高まり、投資額の所与の変化が雇用量に与える混乱は大きくなる。すると、所得のごくわずかの割合が貯蓄される豊かでない社会は、所得のより多くの割合が貯蓄され、結果として乗数がより低い豊かな社会に比べて、激しい経済変動により見舞われやすいという逆説的な結論に至るようである。
しかし、この結論は限界消費性向の影響と平均消費性向の影響の違いを見過ごしている。というのも、高い限界消費性向は所与の投資額の比率の変化からより高い比率の影響を受ける一方で、しかし平均消費性向も高いのであれば、絶対額の影響は小さい。このことは次の数値例によって描写される。
実質所得が現行の資産設備に500万人の雇用者を充てて得られる産出量を超えないかぎり、所得のすべてを消費するというのが、社会の消費の傾向であるとしよう。次に追加的に雇用される10万人の産出は、その99%が消費され、次に追加的に雇用される10万人の産出は、その98%が消費され、第3に追加的に雇用される10万人の産出は、その97%が消費され、これが続いていくとしよう。そして1000万人が雇われることを完全雇用の状態であるとしよう。すると、500万+n×10万人が雇われるとき、その時点の乗数は100/nであり、n(n+1)/[2(50+n)]%の国民所得が投資されている *。
したがって520万人が雇われているとき、乗数は50という大変大きい値をとるが、当期の所得に対する投資の比率は0.06%というごくわずかな値にすぎない。結果として、もし投資が高い比率で減少しても、たとえば3分の2も減少しても、雇用量は510万人に減少するにすぎない。これは雇用量の2%の減少である。他方、900万人が雇用されているとき、限界的な乗数は2と1/2という比較的低い値をとるが、当期の所得に占める投資の比率は9%という比較的高い値となる。結果として、もし投資が3分の2も減ってしまうと、雇用量は690万人 **にまで減ってしまう。これは雇用量の19%の減少である。投資が0にまで落ち込む極限の状態を考えてみると、雇用量の落ち込みは前者の場合4%にすぎないが、後者の場合44%に達する(1)。
この数値例は比較している2つの社会のうち貧しいものは雇用が足りないために貧しい。しかし、同じ議論は貧困がより劣った技能、技術、設備などによるものである場合にも容易に適用できる。したがって、貧しい社会では乗数がより高いが、豊かな社会では投資の変動にともなう雇用量の変動がはるかに激しい。これは豊かな社会では投機の産出のより高い比率が当期の投資であるからである(2)。
また次のようなことも上記から明らかである。公共事業に従事する人数を所与とすると(ある仮定の下では、)総雇用量に与える影響は失業が深刻であるときに、完全雇用に近づき失業問題がほぼ解消されるときに比べて大きい。上の数値例において、雇用量が520万人まで落ち込んだとき、公共事業に10万人の雇用が追加されると、総雇用は640万人にまで増える。しかし雇用量がすでに900万人に達しているとき、公共事業に10万人の雇用が追加されても、総雇用は920万人 ***までにしか増えない。したがって、その効果が疑わしい公益事業でさえも失業が深刻であるときにはそれに充てる費用を何度も回収してあまりある効果がある。もし失業が深刻であるとき所得のより少ない割合が貯蓄されることを仮定することができ、失業手当の費用が減少していくのであれば。しかし、完全雇用が近づくにつれて、この命題はより疑わしくなる。加えて、完全雇用に近づくにつれて限界消費性向が低下していくという仮説が正しいのであれば、投資が増えるにしたがい雇用量を増やすことはより難しくなる。
(もしそれが利用可能であれば、)総所得と総投資の時系列統計から景気循環のそれぞれの場面における限界消費性向をグラフ化することは難しくない。しかし、現在のところ、私たちが利用できる統計はおおよその推定を超える何かを導きだすのには十分でない(または、この目的にかなうのに十分出ない)。私の知る限り、(本書103ページに掲げた)Kuznetz氏による合衆国の統計がこの目的を達するに最高のものであろう。ただしそれにも不確かな部分が多く残されているが。国民所得の推定とともに、これらの統計値は、それに価値があるとすると、投資乗数の値が私の見込みよりもより低く、より安定的な値をとっている。もし単年を取り上げると、変動が激しいように見える。しかしそれをグループ化すると、乗数は3よりも小さく、2.5のあたりで安定しているようである。これは、限界消費性向が60%から70%の域を出ないことを示唆する—好況期の値としては理解できる値であるが、不況期の値としては、私の判断では、驚くほど低い値である。しかし、合衆国において企業金融は極端に保守的であることからすると、不況期の値としてもおかしくないのかもしれない。いいかえると、修繕と取り替えを実施することができないことを通じて投資が極端なまでに落ち込むと、そのような損耗に対する引当がなされ、もしそうでなければ起こるであろう限界消費性向の上昇を妨げる。私はこの要因が近年の合衆国の不況を深刻化させていると疑っている。他方、統計は投資の減少を強調しすぎているかもしれない。統計は1929年に比べて1932年の値は75%以上も低下していることを示している。一方で純〈資産形成〉は95%以上低下している—これらの推定値が少し変わることで乗数の値に大きな違いが生じる。
脚注
(1)上記では、投資の量を生産のために雇われた人の数で測っている。したがって、雇用者数が増えるにしたがい、雇用1単位当たりの収穫が減るのであれば、上記の尺度で投資の量が2倍になるということは、物的な尺度(もしそのような尺度があれば)で測る増加は2倍より小さくなる。
(2)より一般的に、投資の変化率に対する総需要の変化率を比率で表すと
=ΔY/Y/ΔI/I=ΔY/Y・(YーC)/(ΔYーΔC)=(1ーC/Y)/(1ーdC/dY)
この式のdC/dYが低下すると富は増えるが、C/Yは低下する。よってこの比率が高まるかどうかは消費の増減が所得より低い比率であるか高い比率であるかによる。
訳注
* 塩野谷版の訳注には、この節の数値例を大きな表にしたものがある。間宮版の訳注にも式を用いた説明がある。
** 塩野谷版の訳注は、690万人ではなく730万人が正しいと指摘している。間宮版、山形版の訳注にも同様の指摘がある。
*** 塩野谷版の訳注には、この920万人の算出方法が示されている。
Ⅵ
非自発的失業者がいるとき、労働の限界負効用は限界生産物から得られる効用より必然的に小さい。実際、負効用ははるかに小さいであろう。というのも、労働力のある部分を構成する、長期にわたって失業していた人は、労働から負効用ではなく効用を得るかもしれないからである。もしこの考えを容認すれば、上の推論は、公債を発行して借り入れたお金を〈浪費〉しても(1)、結局社会は豊かになることを示している。古典派経済学の原理に沿った教育を受けた政治家が、改善策を片端から阻止するのであれば、ピラミッドを建設したり、震災の復興をしたり、戦争であっても富を増やすのに役立ちうる *。
愚かしい結論から逃れようと悪戦苦闘するあまり、公債を発行して得たお金のある部分を浪費するより、すべてを〈浪費〉することを選ぶ判断になりがちな様は奇妙である。ある部分を浪費する財政支出は、すべてを浪費するわけではないので、厳格な〈ビジネス〉の原理で審議される傾向にある。〔したがって、奇妙なことに選択されにくい。〕たとえば、公的な借入れを失業給付に充てるのは、現行の利子率を下回る金利で改修工事の資金を調達することより受け入れられやすい。Goldの採掘として知られる地面に穴を掘る作業は、世界の実質的な富に影響が全くないばかりか労働の負効用をももたらすにもかかわらず、あらゆる解決策のうち、最も受け入れられるものである。
大蔵省が古いボトルに紙幣を詰め、それを廃坑の適切な深さに埋めて、廃坑の入り口まで廃棄物を押し込んで塞ぎ、十分に実証された原理である自由放任にしたがって、民間企業に紙幣を掘り起こさせるのであれば(もちろん紙幣が眠っている坑域の採掘権は入札によって与えられる)、失業はなくなり、それを反映する形で実質総所得と固定資産は現況より大きくなるであろう **。確かに住宅を建設したりするほうが理にかなっている。しかし、このような政策を妨げる政治的、現実的な難しさがあるなら、上記のようなこと〔Goldの採掘〕は何もしないよりもよい。
この種の不況脱出法と現実社会のGoldの鉱脈は完全に類似している。適切な深さにGoldの鉱脈がある時代には、世界の実質的な富は急速に増える。そして、そのような鉱脈がほとんどないとき、私たちの富は停滞もしくは減る。したがって、Goldの鉱脈は文明社会にとってもっとも価値ある重要なものである。大規模な公債支出のうち、政治家が正当化できると考える唯一のものが戦争であったように、Goldの採掘は、地面に穴を掘る口実として、健全財政を旨とする銀行家にも受け入れられる唯一のものである。これらの活動のそれぞれは、進歩の中で一定の役割を演じてきた――ほかのよりよい政策がうまくいかないときにも。詳細を述べると、不況期に賃金と原材料に対してGoldの価値が上がる傾向は、結局のところ景気の回復を手助けする。それは、Goldの鉱脈をより深く掘り進んでも採算が合うようになり、また採算がとれる金鉱石の品質の下限を引き下げるからである。
もし社会に有益な富を増やしながら雇用を増やすことができないのであれば、Goldの採掘は、増えたGoldが利子率に与えるであろう影響に加えて、2つの理由で大変現実的な投資の形式である。第1に、Goldの採掘には、利子率を過度に気にせず実施される、賭けのような魅力がある。第2に、Goldの量が増えるという結果は、ほかの投資の場合にみられるような、限界効用を低下させる影響がない。住宅の価値はその効用によるので、住宅が建設されるたびに住宅建設から得られるであろう家賃収入は減る。したがって、利子率がそれにともなって低下しない限り、同じような住宅に投資する魅力は弱まる。しかし、Goldの採掘の成果〔Gold〕は、このような不利益に悩まされることはない。抑制はGoldで測った賃金単位の上昇によってのみ生じる。賃金単位の上昇は雇用が大幅に改善されるまで生じそうにない。しかも、耐久性が劣る富の形式に生じるような、得た富が、後に使用費用と補足費用のための引当勘定に与える逆効果もない。
古代エジプトに、ピラミッドの建設と貴金属の探索という2種の活動があったのは二重に幸運であった。古代エジプトがこれらの伝説的な富から恩恵を受けたことは間違いない。ピラミッドと貴金属は、消費されることで人々の必要に供することがないため、増えても価値が損なわれない。中世の時代には、〔ピラミッドと貴金属の代わりに〕伽藍を建造し、挽歌を歌った ***。2つのピラミッドと死者を弔う2度のミサは、1つであるときより2倍よい。しかし、ロンドンとヨークを結ぶ2本の鉄道では〔限界効用が低下するので〕こうはいかない。私たちは、健全な財政家に近づくよう自らを教育してきたので、自らが住む家を建てるときですら子孫に〈金融上の〉つけを残すのではないかと考えこんでしまう。住宅を建てることほど、失業の苦しみから簡単に逃れる術はほかにないのであるが。いつ使うかはっきりしない楽しみに対する権利〔貯蓄〕を積み上げることによって個人を〈豊かにする〉という金言を国の政策運営に当てはめてしまうと、失業の苦しみを受け入れざるを得なくなる。
脚注
(1)〈公債を発行して借り入れたお金を支出する〉を、個人からの借入による公共投資のみならず、公債発行で財源を賄われたそのほかの政府一般会計の支出をおしなべて表す語として用いると便利であることが多い。厳密には、後者〔公債発行による一般会計支出〕は負の貯蓄と考えるべきであるが、この種の公共部門の行動には民間貯蓄を支配する心理的な誘因と同じものは働かない。したがって〈公債を発行して借り入れたお金を支出する〉とは、資産勘定であるか予算不足に対応するためのものであるかを問わず、公共部門のすべての勘定による純借入を表す便利な語である。財政赤字のある部分は公共投資の増加によって作動し、残りの部分は消費の傾向が増進するのに作用する。
訳注
* ピラミッドの比喩は、本節終わりと第16章第Ⅲ節終わりにも登場する。Steuart, James著, 小林監訳『経済の原理 ―第1・第2編―』p.414,p.427にもピラミッドの比喩がある。奴隷制と戦争については小林監訳, 第7章を参照。
** Steuart, James著, 小林監訳『経済の原理 ―第3・第4編・第5編―』p.674に鉱山への言及がある。
*** Steuart, James著, 小林監訳『経済の原理 ―第1・第2編―』p.425に伽藍の例がある。