J.M. ケインズ『雇用、利子及び貨幣の一般理論』の試訳 by K. Sasaki
Keynes, John Maynard, 1936, General Theory of Employment, Interest and Money
‘ ’ ・・・〈〉
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Capital・・・太字
Italic・・・イタリック
〔〕・・・訳者による補足
著者脚注は節の最後に番号を付して並べる。
訳者の注は節の最後に * を付して並べる。
人名は英語で記す。訳注にはしない。
指示代名詞には極力指し示す語を挿入して訳出する。
関係代名詞等でつながる長い文は、複数の文に分ける。
I, We, Our, Usなどは、日本語の作法にしたがい、多くの場合訳出しない。
Ⅰ
本章とそれに続く3章〔すなわち第2篇〕は、本書の主題として考察する問題と特有あるいは専門的な関わりがまったくない、いくつかの混乱を解消する試みに充てる。よって本篇は、主題の追究からいったん逸れて脇道に入る。本篇の内容がここだけで論じられるのは、偶然にも、ここ以外の場で私自身の特別な研究に叶うようにそれが取り扱われてこなかったためである。
解消せずにはうまく自ら〔の考え〕を表現しえない、本書を書き進めることを大いに妨げる3つの混乱がある。それらは、第1にマクロ経済体系の問題を取り扱うにふさわしい単位の選定、第2に経済分析において期待 *が演ずる役割、第3に所得の定義である。
訳註
* 期待(予想)については、古くはTookeの『物価史』第1巻所収のT.E.グレゴリーによる序文(p.19)に言及がある。
Ⅱ
経済学者がひろく研究に用いている単位が不満足なものであることは国民分配分 *、実物資産の蓄積、一般物価水準といった概念によって描写することができる。
(i)MarshallとPigou教授(1)が定義した国民分配分は、生産物の数量もしくは実質所得の尺度であり、生産物の価値もしくは名目所得の尺度ではない(2)。さらに、国民分配分は純生産によって決まる――これは、つまるところ、当期の経済活動と負担の結果として生じる、期首の実質資産蓄積の減耗を控除して得られる、消費または資産蓄積の維持に用いられる資源の純増のことである。この語をもとに量の分析が試みられる。しかし、財貨やサービスはそれぞれが異質であるために、生産量が変わっても生産量に占めるそれぞれの財貨やサービスの比率が変わらない特殊な場合を除き、国民分配分を厳密に計測することはできない。このことは、国民分配分を量の分析に用いることの重大な異議となる。
(ⅱ)純生産を測るために資産設備の純増を測ろうとするとき、困難はより深刻になる。というのも、当期に産出される新たな設備と、損耗によって劣化する設備の量を比べるための尺度を見つけなければならないからである。純国民分配分を得るために、Pigou教授は、〈おおよそ《ふつう》といえる〉資産の減耗を控除する(3)。ここで《ふつう》とは、〈資産の減耗の控除に、大部において予測しうる十分な規則性があること〉を意味する。しかし、この控除は貨幣を単位としてなされないために、実際には変わらない物量が変わりうると教授は仮定しなければならなかった。教授は知らぬ間に価値の変化を導入していたのである。さらに、Pigou教授は、技術の進歩によって新旧の設備に違いが生じているとき、それらを比較衡量する満足な方法を作り上げることができていない(4)。教授が追い求めている概念は、経済を分析するための正しく適切な概念であると思う。しかし、単位の体系が十分に整備されないままで、国民分配分を正確に定義することはできない。実質の生産を比べたり、新規設備の形成を既存設備の減耗と相殺して純生産を算出したりするのは、解決しようのない無理難題である。
(ⅲ)一般物価水準の概念には、よく知られているが避けがたいあいまいさがある。あいまいさの故に、この語を用いると、厳密であるべき因果分析は著しく不満足なものとなる。
これらの困難は、いみじくも〈無理難題〉とされている。しかしながら、これらは〈純理論的〉な困難であり、実際の事業の意思決定を混乱させたり、その過程に入り込んだりすることはない。また、経済現象の因果の連鎖とも一切かかわりがない。経済現象は、これらの概念のあいまいさにもかかわらず、明確である。よって、これらの概念は不要だと結論付けるのが自然である。いうまでもなく、量の分析をするとき、あいまいな量を用いてはならない。分析を試みるや否や、これらのあいまいな概念を用いない方がよいことが明らかになろう。
異質なものからなる、比較しえない集計量を量の分析に用いることができないということは、統計値の近似的な比較を妨げるものではない。 比較は、厳密な計算というより大まかな判断によるが、ある範囲で重要性や妥当性を持ちうる。実質純生産や一般物価水準のような概念は、歴史や統計の分野で、歴史の検証をしたり社会の関心を満たすために用いられるべきである。これらの目的のために、完全な正確性――実際の値に関する知識が完全または正確であることが求められる、本書の因果分析が必要とするような正確性――はふつう得られないし、必要とされてもいない。10年前あるいは1年前と比べて、今年の純生産は高く一般物価水準は低いという言明は、Elizabeth女王と比べて、Victoria女王はよい女王であったが幸せではなかったという言明に似ている――こうした言明は無意味とは言えないし、興味を引かないとも言えないが、微分学の題材には向かない **。あいまいな部分を持つ不可算的な概念をもとに量の分析をするなら、正確性はいつわりのものとなる。
脚注
(1)Pigou著『厚生経済学』のいくつかの箇所、とりわけ第1部第3章を参照 ***。
(2)便宜的な妥協として、国民分配分を構成する実質所得は、お金で買える財貨とサービスに限定されるのがふつうであるが。
(3)『厚生経済学』第1部第5章〈資産をそのままにするとはいかなることか〉。この部分は、Economic Journal1935年6月号に掲載された最近の論文のp.225で手直しされている ****。
(4)Economica1935年8月号p.247にあるHayek教授の批判を参照 *****。
訳注
* Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第4分冊, pp.301-304に、Marshallが分配面を強調した理由が記されている。
** Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第1分冊, p.14、Malthus著, 楠井・東訳『穀物條例論』p.36、Multhus著, 小林訳『経済学原理』上,pp.84-85, pp.178-179、Jevons著, 小泉他訳『経済学の理論』pp.2-3、ベーコン著, 服部・多田訳『学問の進歩』pp.88-90を参照。
*** Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第4分冊, p.12, pp.31-32, pp.49-50も参照。
**** 塩野谷版の訳注は、第1部第5章ではなく第1部第4章が正しいとしている。これは下のリンクから確認できる。https://oll.libertyfund.org/title/pigou-the-economics-of-welfare また、1935年6月号掲載論文の参照ページはp.225ではなくp.235が正しいとしている。間宮版では、訳注に言及なく第1部第4章、p.235と書いている。Economic Journalをみると、p.225にはKeynesの論文が掲載されている(Bonar and Keynes https://www.jstor.org/stable/2224615 、Pigou https://www.jstor.org/stable/2224616 )。Pigou教授による1941年の論文タイトルは、ずばりMaintaining Capital Intactである(https://www.jstor.org/stable/2549333 )。Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第1分冊, p.45に"normal" についての説明がある。
***** 論文はhttps://www.jstor.org/stable/2548607 である。
Ⅲ
忘れてはならないのは、いかなる場合においても、企業家は所与の資産設備をどの程度活用すべきか考えている、ということである。 需要の増加、つまり総需要関数の上方へのシフト、が期待されると総生産が増えるということは、所与の資産設備に企業がより多くの人員をあてがうことを意味する *。ただ1種の生産物を産出する企業や産業については、望むなら、理にかなった方法で生産量の増減に言及できる。しかし、多種の生産物を産出する企業活動のすべてを集計するときには、設備にあてがわれる雇用量のほかに、正確に言及できるものは何もない。この文脈において、総生産量と一般物価水準を用いる必要はない。というのも、異なる資産設備の水準と異なる雇用量によってもたらされる総生産量の比較に耐えうる、当期の総生産量の絶対的な尺度は不要だからである。描写やおおよその比較を目的として生産の増加を語るときには、資産設備にあてがわれる雇用量が生産量の満足な指標であるという想定にもとづかねばならない――これは、雇用量と生産量は、数字によってはっきり表せる比率ではないにしても、ともに増減するという想定である。
このようなことから、雇用の理論を扱うとき、貨幣で測る価値の量と雇用量という2つの根源的な単位のみを用いるようにしたい。名目値は明らかに均一であり、雇用量も工夫しだいで均一とみなせる。というのも、難度や種類が異なる、多様な仕事の相対報酬がおおよそ固定されているとき、ふつうの人が1時間雇われることを単位とすることによって、本書の目的を達するに十分な形で雇用量を定義できるからである。特殊技能を持つ人が1時間雇われることは、相対報酬で加重して雇用量に算入する。たとえば、特殊技能を持つ人の時給がふつうの人の時給の2倍であるとき、特殊技能を持つ人が1時間雇われることを2単位とみなすのである。本書では、雇用量の単位を労働単位ということにする。労働1単位の貨幣賃金を賃金単位(1)ということにする。このとき、Eを賃金(と給与)の総額、Wを賃金単位、Nを雇用量とすると、E=N・Wとなる **。
供給される労働力が均一であるという仮定は、働き手の技能と適性が不均一であるという疑いようのない事実によって覆されることはない。 というのも、働き手の報酬が能率に比例するのであれば、働き手が供給する労働力を相対報酬で加重することによって、この不均一を取り扱えるからである。もし、生産が増えるにしたがい、企業は、賃金単位当たりの能率がより低い働き手を雇わざるをえなくなるのであれば、それは雇用量が増えるにしたがい資産設備を用いて得る収穫が逓減する理由の一つとなる ***。同水準の報酬を得る働き手の不均一性は、設備にいわば包摂される。つまり、生産が増えるにしたがい、均一な設備を操作する働き手の能率が低下するとみる代わりに、増えた働き手に設備が適合しなくなるとみるのである。したがって、特殊技能を持つ働き手や熟練工が余っておらず、設備の操作に不慣れな人を雇うことで生産1単位当たりの労賃が高くなるときには、雇用量が増えると、そうでないときに比べて、設備を稼働して得る収穫はより速やかに逓減する(2)。互いに代わりを務めることができないほど働き手の技能が特殊化されているときにも、不都合は生じない。というのも、このことは、ある資産設備の操作に特化した働き手がすべて雇われてしまうと、その型の設備が産出する生産物の供給の弾力性が突然0になることを意味するからである(3)。したがって、労働単位が均一であるという仮定は、異なる労働単位の相対報酬が極度に不安定でないかぎり、困難を生じない。たとえ困難が生じたとしても、労働力の供給と総供給関数の形状を速やかに変えてそれに対応することができる。
マクロ経済体系のふるまいを記述するとき、貨幣と労働という2つの単位のみを使うと、不要な混乱のほとんどを避けられると思う。生産物と設備を単位として用いるのは、個々の企業や産業をとりあげて分析するときに限るべきである。総生産量、総資産の蓄積、一般物価水準といったあいまいな概念を用いるのは、(おそらくはある程度広い)範囲内で不正確な近似ということを明示して、歴史の比較をするときに限るべきである。
すると、当期に生じる生産の変化は、現行の資産設備にあてがわれる働き手が(最終消費財の生産または新規設備の生産)に携わることで賃金を得る時間数によって測られる。高い技能を持つ働き手については、相対報酬で労働時間を加重する。異なる資産設備に異なる働き手があてがわれる結果もたらされる生産物を比べる必要はない。所与の設備を保有する企業家が総需要関数のシフトにどう反応するかを期待するのに、産出される生産物の数量、生活水準、一般物価水準を、異なる時や異なる国のそれらと比べる必要はない。
脚注
(1)貨幣単位で測った任意の量をXで表すとき、賃金単位で測った同じ量〔X〕をXwと表すと都合がよいこともあろう。
(2)使われている設備と同じ設備が余っているときでさえも、需要が増えるにしたがい生産物の供給価格が上がるのは、主にこのためである。労働力の超過供給が全ての企業家に対して平等に開かれた予備軍 ****を形成するとしよう。そして所与の目的のために雇われた働き手は、少なくとも部分的には、努力1単位ごとに報酬を受けるとしよう。ただし、この報酬は実際特定の雇用の効率とは厳密な関係をもたない。(これはおおよそ現実的な仮定である)雇われた労働力の限界効率が減ることは、産出が増えるにしたがい、内部不経済によることなく供給価格が上がる顕著な例である。
(3)それを用いる人たちが仮定を明確にしていないので、通常用いられる供給曲線という用語は上記の困難に対応しているのか定かでない。おそらく彼らは、所与の目的のために雇われた人は、その目的のための効率と厳密に等しい報酬を得るのが常であると仮定しているのであろう。しかしこれは非現実的である。おそらく、働き手が多様であることをあたかも設備に由来するように取り扱う本質的な理由は、産出が増えるにしたがい露わになる増えてゆく余剰が、より効率的な働き手ではなく、主に設備の所有者の手に収まるのが現実であるということによっている。(効率的な働き手はより定期的に雇われたり、昇進が早まったりすることを通して便宜を受けるかもしれないが。)つまり、同じ仕事をする異なる効率の働き手は、働き手の効率によく比例するように報酬を受けるのはごく希だということである。しかしながら、効率の高さに応じてより多くの報酬を受けるとき、それが生じる限りにおいて、私の方法はそれを考慮に入れている。というのも、雇われる労働単位数を計算するとき、個々の働き手は報酬の比率によって重み付けされるからである。私の仮定の下では、特定の供給曲線を取り扱うとき、明らかな興味深い混乱が生じる。というのも、供給曲線の形は、異なる仕事に振り向けるのがふさわしい働き手に対する需要しだいだからである。繰り返しになるが、こうした煩雑な事柄を無視するのは非現実的である。しかし、経済全体の雇用を扱うとき、これらについて考える必要はない。それは、所与の有効需要が異なる生産物へ一意に振り分けられるからである。しかし、これは、需要の変化をもたらす理由によらず、うまく当てはまらないかもしれない。たとえば、消費性向が高まることによって有効需要が増えることは、投資誘因が高まることによって同じだけ需要が増えるときに直面するものとは異なる総供給関数に直面するのを見出すかもしれない。しかし、これらすべては、話の本筋からそれて一般的なアイデアを詳細に吟味することになる。それは今ここで私が追究すべきことではない。
訳注
* expectationを塩野谷版、間宮版、山形版に倣って「期待」と訳出した。予想という訳語も有力だが、不確実性下の主観的判断や安定と激変の二面性を持つ群衆心理を重視する『一般理論』には期待という語が似合う。
** Marx著, 武田訳『経済学批判』pp.26-27、Pigou, A.C., The Theory of Unemploymentを参照。
*** diminishing return を「収穫逓減」と訳出した。
**** poolを「予備軍」訳出した。マルクスによる産業予備軍、Pigou, A.C., The Theory of Unemploymentを参照。
Ⅳ
多くの場合、供給曲線と生産量を物価に結びつける供給の弾力性によって示される供給の条件は、生産量に言及せずに、2つの単位〔貨幣と労働〕を用いる総供給関数によっても示される。個別企業、産業、一国のいずれの供給の条件も総供給関数によって示される。ある企業(同様に、ある産業、ある国)の総供給関数は次のように与えられる。
Zr=φr(Nr)
ここでZrは、(使用費用控除後の)粗利である *。期待される粗利は雇用水準Nrを誘発する。したがって、雇用と産出のあいだに、関数Or=ψr(Nr)が示すような、Nrの雇用がOrの産出をもたらすという関係があるのであれば、次式を得る。
p=(Zr+Ur(Nr))/Or=(φr(Nr)+Ur(Nr))/ψr(Nr)
これは通常の総供給関数である **。ここでUr(Nr)は、雇用がNrであるときの使用費用(の期待値)である。
関数Or=ψr(Nr)は、商品が同質であるときに確固とした意味を持つ。このとき、Zr=φr(Nr)は通常のしかたで評価される。しかし、Orを集計することはできない。というのも、生産物の集計値、ΣOr、は〔Orがそれぞれ異質な商品の数量であるために〕足し合せることができないからである。他方、Nrを集計することはできる。総雇用量を各産業に振り分けるしかたが決まっているのであれば、ある産業の雇用量Nrは総雇用量Nの関数となり、単純化をさらに進めることができる。
訳注
* proceeds を「粗利」と訳出した。
** 間宮版の訳注は、数式を用いて説明を加えているが、訳者は意味を取れなかった。
あらゆる生産は、消費者の欲求を満たすことを終局的な目的としている *。しかしながら、(消費者の欲求を満たすものを生産するために)生産者が費用を負担してから、産出されたものを最終消費者が購入するまでに時間――時としてとても長い時間――を要する。 企業家(この説明においては生産者と投資家の双方を含む)は、おそらくは長い時間が過ぎた後で商品を(直接間接に)消費者に提供するとき、消費者が商品をどれほど買うのか、できるだけ正確に予測しなければならない(1)。 時間のかかる生産をするかどうか決めるとき、企業家はこの予測を縁とするほかない。
事業の意思決定に影響を及ぼすこうした予測には2とおりある。ある企業家や企業は、第1の型の予測をし、別の企業家や企業は第2の型の予測をする。第1の型は、〈完成品〉の販売価格に関する、生産をはじめる時点の予測である。(製造業者から見て)生産物が〈完成〉するとは、第三者が生産物を使ったり買ったりできる状態にあることを意味する。第2の型は、〈完成品〉を買い(または、おそらく自ら生産して)資産設備を増やしたときに、未来に収穫の形でもたらされる利益に関する予測である。ここでは、前者を短期的な予測、後者を長期的な予測ということにする。
したがって、日々の(2)生産量の決定に関する、個々の企業のふるまいは、短期的な予測――生産量に依存する生産費と粗利の期待――にもとづいてなされる。資産設備を増やしたり、生産物を流通業者へ販売するときには、企業による短期的な予測は、ほかの企業の長期(あるいは中期)的な予測に強い影響を受ける。企業が使用に供する雇用の量は、こうした多様な予測によって決まる。実際に立ち現れる生産量は、期待を修正する因となるほかは、雇用量に影響しない。また、企業が資産設備、中間生産物、半製品を持つ決定をするときに参照した予測は、次期の生産量を決めるのに有効ではない。次期の生産高を決めるときには、資産の蓄積と在庫が参照されるのも間違いないが、費用と粗利の見込みに関する現時点の予測が参照される。
(短期的あるいは長期的な)予測が変わると、長期にわたって雇用量に影響する。予測の変化によって生じる雇用量の変化は、その後予測に変化がなくても、1期目と2期目、2期目と3期目、同様にその後の期、でそれぞれ異なる。というのも、短期的な予測が悪化する場合についてみると、予測の変化は、悪化した予測に照らすとはじめることが誤りであった生産を、すぐにすべて止めさせるほど急激でないからである。短期的な予測が好転する場合についてみると、予測の変化は、それがより早い時期に生じていれば達したであろう雇用量に届くのに、しばらく時間がかかる〔ほどゆるやかなものである〕。長期的な予測については、〔それが悪化する場合、〕設備はその耐用年数のあいだ取り替えられずに使いつづけられ、雇用をもたらす。長期的な予測が好転する場合についてみると、設備規模が新しい状況に適応〔して拡大〕した後の雇用水準を、一時的に上回るかもしれない。
〔予測が移ろうときには、いつでも雇用量が再調整される。しかし、〕もしそれ以上の調整を必要としないところまで雇用量が調整される長期にわたって、期待に変更が生じないのであれば、雇用量は定常状態に至る。これを予測に対応する長期雇用(3)ということにする。実際には、ひんぱんに予測が変わるので、雇用量が長期雇用に至ることはない。しかし、それぞれの予測に対応する長期雇用の水準があるのは確かである。
予測の変化に対応する、新たな長期の状態へ至る過程について考える。ここでは、予測のさらなる変化によって、当初の予測の変化が攪乱されたり遮られたりしないとする。はじめに、新たな長期雇用の水準が以前より高くなるような予測の変化について考える。当初、影響は投入率のみにあらわれる。すなわち、新しい生産過程の前段で仕事量が増える。他方、予測の変化が起こる前にすでに始められていた生産過程の後段では、消費財の生産量と雇用量はほとんど変わらない。半製品の在庫があるときには、この帰結は修正されるかもしれない。しかし、当初の雇用量の増加は顕著でないことに変わりはない。時を経るにつれ、雇用量は少しずつ増えていく。さらに、雇用量が新たな長期雇用の水準を一時的に上回ることも容易に想像しうる。というのも、新たな予測に対応する資産を形成する途上で、長期の状態より多い雇用量と総消費がもたらされるかもしれないからである。したがって、予測が変わると、雇用量は音楽記号のクレッシェンドのように少しずつ増え、頂点に達し、その後新たな長期雇用の水準に向けて減っていくであろう。もし、予測の変化が、生産技術と生産設備が時代遅れになるような消費者の好みの変化によるものであれば、新しい長期雇用の水準が以前と変わらなくても、雇用量に同様の変化が生じるかもしれない。新たな長期雇用の水準が以前より低いのであれば、雇用量は新たな長期雇用の水準を一時的に下回るかもしれない。このように、予測がひとたび変化すると、その影響が出尽くすまで周期運動のような循環が生じうる。この種の経済変動については、『貨幣論』において、経営資本と流動資産の積み上がりと減耗に関係づけて論じたところである **。
上記のような、予測のさらなる変化によって遮られることのない、新たな長期の状態への移行過程の詳細はこみいっている。現実の移行過程は、これに輪をかけてこみいっている。予測は常に移ろい、以前生じた予測の変化が経済体系に完全に反映されるはるか前に、新たに生じた予測の変化と重ね合わされてしまう。そして、経済体系は、過去に形成されたいくつもの予測にもとづく活動が幾重にも折り重なり、混沌を極めている。
脚注
(1)売上収益に関する予測と同等のものを導く手順については、上記p.24の脚注(3)を参照 ***。
(2)ここで日々のは企業が雇用の場をどれほど提供するか、その決定を存分に再検討しうる最短の期間を意味する。いわば、経済時間の有効最小単位である。
(3)長期雇用の水準は一定である必要はない。つまり、長期の状態は静態的である必要はない。たとえば、富や人口の定常的な増加は、不変の予測の一部を構成するかもしれない。唯一の条件は、現況の予測が十分に遠い未来まで見通しているということである。
訳注
* Menger著, 福井・吉田訳『経済学の方法』付録Ⅵを参照。
** 経営資本については『貨幣論Ⅱ 貨幣の応用理論』第28章を、流動資産については第29章を参照。塩野谷版の訳注は、経営資本、流動資産、固定資産の関係をダイアグラムにまとめている。
*** 第3章第1節の脚注である。この試訳では番号(4)を振っている。文中のequivalentはcertainty equivalentのことか。
Ⅱ
こうしてみると、〔雇用量の決定因をつきとめるという〕本書の目的を達するのに、予測に関する分析が必要であることに気づく。前節で明らかにしたように、雇用量は、現行の予測のみならず、過去になされてきた予測から幾重にも影響を受けるのは明らかである。しかし、過去の予測は、それが経済体系に反映される前に、企業家が当期の意思決定のために参照する、現行の資産設備に体現される。過去の予測は、このように体現されるかぎりで、企業家の意思決定に影響する。したがって、前節のような複雑な影響はあるものの、当期の雇用量は当期の資産設備を参照して形成された当期の予測に支配されているというのが、正確な描写であろう。
現行の長期的な予測に言及せずに済ますことはできない。しかし、短期的な予測は、現実には、立ち現れる経済状態に照らして少しずつ連続的に見直されるので、言及を避けてもよい。そして、結果の予測と実際に起きる結果は、ぶつかり合い、互いに重なり合って影響しあう。つまり、生産量と雇用量は生産者の短期的な予測によって決まり、過去の結果によって決まらないが、短期的な予測をするとき、最近の経済状態は重要な役割を演じる。生産をはじめるたびに、予測について一から考えるのは困難の極みである。また、当期と次期で経済の大部分はたいていほとんど変わらないので、予測について一から考えるのは無意味である。よって、変化が生じる明らかな理由がないかぎり、直近の経済状態がつづくと仮定して、生産者が予測するのは理にかなう。実際には、最近の生産によって得た粗利が雇用量に与える影響と、当期の生産によって得られるであろう粗利が雇用量に与える影響は大きく重複している。どちらかといえば、次期以降の経済状態の変化よりも、最近の経済状態に照らして、生産者は予測を少しずつ修正する(1)。
ただし、〔資産設備のような〕耐久財については、生産者が形成する短期的な予測は、投資家による現行の長期的な予測にもとづくことを忘れてはならない。長期的な予測には、前期までの経済状態によっては短期に修正されないという性質がある。さらに、長期的な予測について詳述する第12章でみるように、長期的な予測は突然に修正されうる。したがって、現行の長期的な予測を近似のために省いたり、前期までの経済状態によって置き換えたりすることはできない *。
脚注
(1)生産を決定するときの予測を強調するのは、物価が下落するか、産出の対価に対する失望が予測と比べたときの損失という結果に反映される前に、投入と雇用が在庫の積み上がりに影響を受けるというHawtrey氏の論点に通ずるものがあると思う。というのも、売れ残り在庫の積み上がり(または事前注文の取り消し)は、もし売上収益を無批判に次期に投影するなら、前期の産出から得られる売上収益という単なる統計値だったはずのものとは異なる投入を、最も引き起こしやすい事象であることを厳密に意味するからである **。
訳注
* Keynesは、平時には予測が安定し有事には確信が崩壊して期待がパニック的変動に晒される、凪と嵐の繰り返しを想定している。これは経済学で長らく議論されてきたadaptiveでもforward lookingでもない期待形成である。
** 間宮版の訳注は、この脚注の原文最後にあるmost likelyは、most unlikelyとすべきだと指摘している。これは判断しかねるので原文のまま訳出した。
Ⅰ.所得
どの期間においても、企業家は消費者またはほかの企業家に完成品を販売する。これをAとおく。また、企業家はほかの企業家から完成品を購入する。これをA1とおく。さらに、企業家は半完成品、経営資本、完成品の在庫を含む資産設備を期末に保有している。これをGとおく *。
しかし、A+G-A1の一部は、当期の経済活動によるものではなく、期首に保有していた資産設備によるものである。したがって、当期の所得と呼ぶところのものを得るには、A+G-A1から、前期から受け継ぐ資産設備が(あるしかたで)貢献している価値の一部を差し引かねばならない。満足のいく差し引きのしかたが見つかれば、所得を定義することができる。
差し引きのしかたには2とおりある。いずれの方法にも一理あるが――一方は生産に、他方は消費に関連する。以下、順に考えたい。
(ⅰ)期末における資産設備の価値Gは、ほかの企業家から購入したり、自ら手を加えたりすることによる資産設備の補修および改良と、生産物を産出することによって生じる資産設備の除却および減耗を差し引きした結果である。たとえ生産物を産出するのに資産設備を使わなくても、補修および改良に費やす最適な支出額がある。ここで、企業家は資産設備の補修および改良のためにB´を費やし、その結果、期末の資産設備の価値がG´になるとしよう。つまり、G´-B´は、販売量Aを産出するのに資産設備を使わないとき、前期から受け継がれた資産設備の純増の最大値である。G´-B´とG-A1の差は、Aを産出するのに負担したものの尺度である。Aを産出するのに負担したものの尺度は次式で表される。
(G´-B´)-(G-A1)
これをAの使用費用ということにする。使用費用をUとおく(1)。ほかの生産要素が生産に携わる対価として、企業家が支払う費用をAの要素費用ということにする。要素費用Fと使用費用Uの和を、生産物Aの主要費用ということにする。
すると、企業家の所得(2)は、ある期間に販売した完成品の価値が主要費用を超える分として定義される。つまり、企業家の所得は、生産量に依存する、彼が最大化しようとする量である。つまり、所得は日常の語法による粗利に等しい――これは常識とも合う。企業家を除く社会の成員の所得は、企業家の要素費用と等しいので、総所得はA-Uとなる **。
G-A1がG´-B´を超過し、使用費用が負であることももちろん考えられる。たとえば、投入は増えるが、製造し販売できる状態になる生産物が増えるのに十分でない期間をみれば、使用費用は負となるであろう。また、産業が高度に統合され、設備のほとんどを企業家自らが生産する状況を想像するとき、投資がなされるときにはいつも使用費用は負となるであろう ***。しかし、使用費用が負となるのは、企業家が自らの従業員を用いて自らの資産設備を形成する場合に限られているので、資産設備の大部分が、それを使用する企業とは異なる企業によって生産される経済では、使用費用はおおよそ正であると考えられる。さらに、Aの増加に伴う限界使用費用、dU/dA、は正でない場合を考えることが難しい。
本章の後段を念頭に、当期の総消費(C)はΣ(A-A1)に等しく、総投資(I)はΣ(A1-U)に等しいことをここで述べておくのが便利であろう。加えて、ほかの企業家から購入するものを除いた設備に限れば、Uは企業家の負の投資である(そして、-Uは投資である)。つまり、ほかの企業家から購入した資産を除いた、自らが使うために、自ら生産した資産である。したがって、〔1社だけが存在する、〕完全に統合された経済体系においては(A1=0であり)、総消費はA、総投資は-U、つまりG-(G´-B´)、となる。上記においてA1を導入し、式を若干複雑にしているのは、完全には統合されていない生産体系を記述する、一般的な方法を提供するのが望ましいことによる。
さらに、有効需要とは、企業家が使用すると決めた現行の雇用量を用いて、受け取れると期待する所得(または粗利)の総額である。総所得には、企業家がほかの生産要素に渡す所得〔要素費用〕を含む。総需要関数は、想定される種々の雇用量と、生産物から得られると期待される粗利とを結びつける。そして、有効需要は、供給の条件〔総供給関数〕を考慮に入れると、企業家が期待する利益が最大となる雇用水準に対応するために有効となる、総需要関数上の点である ****。
これらの定義は、限界粗利(または限界所得)を限界要素費用と等しくする点で優れている。ここで定義した限界粗利を限界要素費用に関係付ける命題は、使用費用を無視するか0と仮定して総供給価格(3)を限界要素費用(4)と等しくする、幾人かの経済学者による命題と同じものとなる。
(ⅱ)つづいて、第2の差し引きのしかたについて考える。ここまで〔項目(i)において、〕期首と期末の資産設備の価値の変化の一部について扱った。この変化は、利益の最大化をもくろむ企業家の自発的な意思決定によって生じる。しかし、これに加え、資産設備の価値に非自発的な損失(または利益)が生じるかもしれない。この種の損失は、企業家によって制御不能であり、企業家による現在の意思決定とは関係なく生じる。(たとえば、)市場価値の変化、陳腐化による減耗、経年劣化、戦災や震災などの惨事による損壊などである。これらの非自発的な損失は、避け難いものであるが――大まかに言って――予期しえないものではない。たとえば、使用の有無にかかわらない経年劣化や〈ふつうの〉陳腐化は予期しえないものではない。ふつうの陳腐化とは、Pigou教授の言によれば、〈資産減耗の控除に、大部において予測しうる十分な規則性があること〉であるが、これに、〈保険によってカバーしうるリスク〉とみなせる十分な規則性を持つ損失の総額を含めてもよい。ここでは、期待される損失額は、期待が形成される時点によって異なることを無視する。そして、非自発的ではあるが予期しえないものではない設備の減耗、つまり期待される減耗と使用費用の差、を補足費用ということにする。補足費用をVとおくことにする。この補足費用の定義が、主要費用に含まれない、予測しうる減耗の一部の扱いについては似ているものの、Marshallによる補足費用の定義と異なることは指摘するまでもない *****。
したがって、企業家の純所得と純利益を計算するときに、企業家の所得と粗利から補足費用を差し引くのが自然である ******。というのも、企業家が自由に支出または貯蓄しうるもの〔総所得〕を考えるときに補足費用が企業家の心理に与える影響は、粗利から補足費用を差し引くときに補足費用が企業家の心理に与える影響とほぼ同じといってよいからである。企業家が設備を使うか否かを決める生産者の立場に立つとき、上で定義した主要費用と粗利は重要な概念となる。しかし、企業家が〔資産設備などの〕購入者の立場に立つとき、補足費用は、それが主要費用の一部であるかのように企業家の心理に影響する。したがって、純所得の総額を、使用費用のみならず補足費用も差し引いて、純所得の総額がA-U-Vとなるように定義するのであれば、ふつうの語法に近づき、購入額に関係する概念となる。
予期せぬ市場価値の変化、例外的な陳腐化、惨事による損壊などによって、設備の価値が変化することもある。これらの理由は非自発的であり――広い意味において――予測しえないものである。これらの理由による実際の損失は、純所得の計算に算入せず、資本勘定に計上する。この種の損失を意外の損失という *******。
補足費用の額Vが当期の消費額に心理的な影響を与えるという意味で、純所得は因果の連鎖の中で重要な役割を果たす。というのも、当期の消費につかう額を決めるとき、ふつうの人が消費につかえる額として計算に入れるのは純所得だからである。人々が消費につかう額を決めるときに考慮に入れるのは、無論これだけではない。たとえば、資本勘定に計上される意外の損益がどれほどあるかも消費額に大きな違いを生む。しかし、補足費用と意外の損失には違いがある。補足費用は、粗利の変化とちょうど同じ方法で消費額に影響を与える傾向にある ********。企業家の消費額に影響を及ぼすのは、当期の生産から得られる粗利が主要費用と補足費用の和を超過する分である。他方、意外の損失(または利得)は企業家の意思決定に影響を与えるものの、同じ大きさで意思決定に入り込むことはない――意外の損失が同額の補足費用と同じ影響を持つことはない。
しかし、補足費用と意外の損失との分類に立ち返らねばならない。所得勘定の借方に計上するのが適切だと思われる避けがたい損失と、資本勘定に意外の損失(または利得)として計上するのが適切だとされるものの分類は、便宜または心理によってなされ、補足費用を推定する一般に受け入れられる基準によって決まる。というのも、補足費用を推定する無二の原理を打ち立てることはできず、ために補足費用の額は会計手法の選択によって決まるからである。設備が生産された当初の補足費用の予測値は確固とした量である。しかし、その後に推定をし直すならば、再推定までのあいだに人々の期待が変わったことによって、設備の残存期間を通した補足費用は変わってしまうかもしれない。意外の資本損失は、U+Vの時系列に関する従前の期待と見直し後の期待の差である。これが内国税歳入庁お墨付きの、広く受け入れられている企業会計原則である。この原則の下では、設備が購入された時点で補足費用と使用費用の和は確定し、その後人々の期待が変わっても、設備の耐用期間中はこれを変更しない。この場合、どの期間の補足費用も、事前に決められた額が実際の使用費用を超過する分と考えねばならない。このやりかたは、設備の耐用期間を通じて意外の損益が0であることを保証する利点がある。しかし、任意の会計期間、たとえば1年、にその期における価値と期待をもとに補足費用を再計算することも、ある場合においては理にかなう。実際、企業家はそれぞれ異なる方法を採用している。設備が購入されたときの、補足費用の当初の期待値を基礎補足費用といい、一定の時が経過した後にその期の価値と期待にもとづいて再計算される補足費用を当期補足費用というのが便利かもしれない *********。
したがって、所得から差し引くもの、というのが補足費用の額の定義として最も近いであろう。補足費用は、(企業が)配当を発表するとき純所得を算出するために差し引くものであり、(個人が)当期の消費額を決めるとき純所得を算出するために差し引くものである。資本勘定に計上される意外の損益は図式から完全に消え去りはしないので、〔資本勘定と補足費用の〕いずれに計上すべきかはっきりしないときには、それを資本勘定に計上し、帰属が明らかなものについてのみ補足費用に含めるのがよい。というのも、資本勘定に負担がかかりすぎているのであれば、当期の消費への影響を強めることによってそれを直すことができるからである。
本書における純所得の定義は、彼が所得税審判委員会 **********の実務を縁とするとき、Marshallによる所得の定義に非常に近いものとなる――委員会は、彼らの経験上、所得とみなせるものをすべからく所得とみなしている。彼らは、微に入り細をうがつ調査をし、一般に純所得とされているものを純所得と解釈しているようである。この定義はまた、Pigou教授がつい最近定義した国民分配分の名目値とも対応する(5)。
しかし、異なる経済学者が異なる解釈をしうる、あいまいな基準に依拠する純所得は、完全にはすっきりとしないままである。たとえば、Hayek教授は次のように指摘した。すなわち、資本財を所有する個人はその所有から得られる所得を一定に保つことをねらいとし、ために、投資所得が減少する傾向を示す理由がどのようなものであろうと、それを相殺するに十分な所得を確保するまで、所得を自由に消費に支出する気にならないであろう、と(6)。このような人が実際にいるのか疑わしい。しかし、純所得のありうる心理的な基準を提供するこの差し引きに、理論的に反論できないのは明らかである。しかし、Hayek教授が総貯蓄と総投資に言及するときにはあいまいさを免れないと推論するとき、それらが純貯蓄と純投資を意味するならば、そのときにのみ彼は正しい。雇用の理論に関係する貯蓄と投資には、この種の欠点がなく、上述のように客観的に定義することができる。
したがって、純所得に力点を置きすぎてはならない。純所得は消費額の決定にのみ関係し、しかも消費額に影響するほかの多くの要因からはっきり区別されない。そして、当期の生産の決定に関係する概念であり、あいまいさがない所得を見過ごしてきた(ことが常態であった)〔のは誤りである〕。
上述の所得と純所得の定義は、日常の語法にできるだけ近いものとなるよう意図されたものである。ここで、『貨幣論』の中で、特定の意味を持つべく所得を定義したことに読者の注意を促したい。企業家が得る所得の総額の一部に関係するそこでの定義が特殊であるのは、所得を(総額であろうと純額であろうと)当期の事業活動から得た実際の利益とせず、当期の事業を実施するときに期待する利益ともせず、ある意味(生産高が変化しうる場合には満足に定義されないと思われる)正常な、あるいは均衡状態にある利益としている点である。この語法は、特に貯蓄と関連付けて用いるとき、大きな混乱を生じさせるであろう。というのも、(貯蓄が投資を超過する分に関連付けて論じるときにはとりわけ、)『貨幣論』における特殊な意味に解釈されるときにだけ妥当性を持つ帰結が、それがあたかもふつうの意味を持つものとして議論にしばしば用いられてきたからである。こうした混乱を生じさせるために、そして私の考えを正確に述べるためにもはや以前の用語を使う必要がないために、それらの用語を捨て去ることにした――用語が生じさせた混乱は大変残念なものであった '*。
脚注
(1)使用費用に関するいくつかのより進んだ議論については本章の補論を参照 '**。
(2)以下で定義する純所得とは区別しておく。
(3)供給価格は使用費用を定義するという問題を無視するなら不完全にしか定義できない用語であると思う。この問題は本章の補論でより詳細に議論する。補論では、総供給価格の場合には時として適切であっても、個別企業の産出1単位当たりの供給価格の問題に対しては、供給価格から使用費用を除外することは不適当であることを論じる。
(4)たとえば、総供給関数をZw=φ(N)、あるいは代わりに Z=W・φ(N) と置くことにしよう(ここでWは賃金単位であり、W・Zw=Zである。)すると、総供給曲線のどの点においても、限界生産物の収益は限界要素費用に等しいことから次式が得られる。
ΔN=ΔAwーΔUw=ΔZw=φ(N)
つまりφ'(N)=1となる。ただし、要素費用は賃金単位と一定の比率を保ち、(企業数を一定としたとき)それぞれの企業のための総供給関数は他の産業での雇用者数と独立である。このとき、個々の企業家によく当てはまる上式の項を企業家全体で足し上げることができる。これは、賃金が一定であり、その他の要素費用が賃金と一定の比率を保つとき、総供給関数は貨幣賃金の逆数によって傾きが与えられる直線になることを意味する '***。
(5)Economic Journal 1935年6月号, p,235 '****。
(6)Economica 1935年8月号The Maintenance of Capitalのp.241以降を参照 '*****。
訳注
* capital equipmentを「資産設備」と訳出した。間宮版の訳注は、『貨幣論』の定義では、capital equipmentは固定資産(fixed capital)、半完成財の在庫である経営資本(working capital)、完成財の在庫である流動資産(liquid capital)を含むと指摘している。
** 間宮版の訳注は、総所得はA-(U+F)+F=A-Uと計算されると指摘している。
*** 間宮版の訳注は、使用費用U=(G´-B´)-(G-A1)は、産業が統合されているときにはA1が0となるので、負の値を取ると指摘している。ただし、本文次節でこの説明がなされているので、訳注にする必要はないと思われる。
**** 間宮版の訳注は、この節のはじめとおわりにある有効需要の語義に揺れがあると指摘している。この指摘の是非は判断しない。
***** 間宮版の訳注は、Marshall『経済学原理』第5篇第4章に補足費用の定義があると指摘している。永澤訳『経済学原理』第3分冊, pp.53-54を参照。主要費用と補足費用という概念の提出についてはKeynes『人物評伝』のp.274を参照。『一般理論』出版直後から、補足費用の定義について議論がされているようである。たとえばEconomic Journalの次の論文を参照。https://www.jstor.org/stable/2224883
****** 間宮版の訳注は、宮崎・伊東『ケインズ・一般理論』をもとに純所得、純利益、要素費用、使用費用などの関係をまとめている。
******* この段落は、現代のマクロ経済統計の体系である国民経済計算のうち、国民貸借対照表の調整勘定に記録されるその他の資産量変動に対応する概念を説明するものと思われる。
******** 間宮版の訳注は、補足費用の増加は粗利の減少と同じ効果を持つと指摘している。これは、間宮版が純利一定で粗利=純利+補足費用と見ていることによる。
********* 間宮版の訳注は、補足費用について細かな注意書きをしている。本訳書ではこの点に深入りしない。
********** Income Tax Commissionersを「所得税審判委員会」と訳出した。間宮版の訳注は、これが1799年に設立され、1946年財政法により行政審査機関となった、日本の国税不服裁判所に近い存在だとしている。
'* 間宮版の訳注は、『貨幣論』における利潤は、貯蓄投資差額であると指摘している。
'** 塩野谷版の訳注は、『貨幣論』と『一般理論』の利潤の定義の違いを、貯蓄投資差額に注目して言及している。間宮版の訳注は、使用費用U=期中の損耗(G0+A1-G)-自然損耗(G0-G'-B')=(G'-B')-(G-A1)となることを示している。
'*** 塩野谷版の訳注は、KeynesとMarshallによる費用の定義を比べている。Marshallによる費用の定義については、Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第3分冊,pp.53-54を参照。また、塩野谷版の訳注は、この脚注にあるφ'(N)=1と最後の文は誤りであり、これに関連して、ケインズが考えている生産関数Zwは逓増的であるとも指摘している。間宮版の訳注は、収穫逓減を想定するとφ'(N)>1となるはずだと指摘している。
'**** この論文はPigouによるものである。https://www.jstor.org/stable/2224616
'***** この論文はHayekによるものである。https://www.jstor.org/stable/2548607
Ⅱ.貯蓄と投資
用語がさまざまな意味で使われるという混乱が収拾されるのは快いことである。私の知るかぎり、所得が消費を超える分を貯蓄とすることにすべての人が同意するようである。したがって、貯蓄の意味に対するいかなる疑念も、所得または消費の意味に対する疑念から生じるはずである。所得については上で定義したとおりである。ある期間の消費は、その期間に最終消費者に販売された商品の価値を意味する。このことは、最終消費者とは何かという問いを投げかける。最終消費者と企業家を分けるどのような理にかなう分類も、それが一貫して用いられるのであれば、同じように有効である。たとえば、自動車は最終消費者によって購入されると考え、住宅は企業家によって購入されると考えることの正否はよく議論されてきた。よって議論に加えるべきものは何もない。この基準は、消費者と企業家の分類に対応しなければならないのは明らかである。したがって、企業家がほかの企業家から購入するものの価値をA1と定義したとき、この問題は暗黙裡に解決していたのである。消費は、あいまいさを生じさせずに、Σ(A-A1)と定義される。ここでΣAは当期の総販売額であり、ΣA1は企業家からほかの企業家への総販売額である。以下においては、みやすさを考慮して集計記号Σを省略し、単に総販売額をA、企業家からほかの企業家への総販売額をA1、企業家の使用費用の総額をUとおくことにする *。
所得と消費を定義したことを受けて、所得が消費を超える分であるという貯蓄の定義は、自然と得られる。所得はA-U、消費はA-A1であるから、貯蓄はA1-Uとなる。同様に、純貯蓄は純所得が消費を超える分であるから、A1-U-Vに等しい。
同時に、ここで定義した所得によって、当期の投資も導かれる。というのも、当期の投資は、生産活動によって生み出される資産設備の価値が当期にどれほど増えたかを表さねばならないからである。これは明らかに、前節で貯蓄と定義したものに等しい。というのも、所得のその一部分は、当期に得た所得のうち消費に充てられない部分だからである。生産活動の結果、いずれの期においても、企業家はAの価値を持つ完成品を販売し、ほかの企業家からA1の価値を持つ設備を購入し、ある規模の資産設備を保有することになる。Aだけ生産し販売することによって、資産設備にはUの減耗が生じる(あるいは-Uだけの設備の改善が生じる。ここでUは負である)。同じ期に、A-A1の価値を持つ完成品は消費される。A-UがA-A1を超える分、つまりA1-U、はその期に生産された資産設備の増分である。よってこれはその期の投資である。同様に、資産設備の純増分であるA1-U-Vは、投資から補足費用を差し引いて得られるその期の純投資である。補足費用は、資産価値のふつうの減耗から、使用費用と資本勘定に計上される設備の価値の意外の変化を除いて得られる。
したがって、貯蓄額は消費者各人のふるまいを集計したものであり、投資額は企業家各人のふるまいを集計したものであるにもかかわらず、どちらも所得が消費を超える分であるために、貯蓄額と投資額は等しくなる。しかも、この帰結は、上で述べたような所得の定義の巧みさや特殊性に関係なく得られる。所得は当期の生産物の価値に等しく、投資は当期の生産物のうち消費されない部分の価値であり、貯蓄は所得が消費を超える分と等しいことを了承すると――これらは常識および経済学者の大多数による伝統的な語法と一致する――貯蓄と投資は等しくなる。つまり、
所得=生産物の価値 **=消費+投資
貯蓄=所得-消費
よって
貯蓄=投資
したがって、上の条件を満たせば、〔所得、消費、貯蓄、投資を〕どのように定義しても、同じ結論が得られる。この結論が得られないのは、いずれかの条件が妥当性を欠く場合のみである。
貯蓄額と投資額が同値であることは、取引が双務的であることから導かれる。つまり、一方に生産者がおり、他方に最終消費者あるいは資産設備を購入する企業家がいるという取引の特徴から説明される。所得は、販売した生産物と引き換えに生産者が得る価値が、使用費用を超える分である。しかし、生産物のすべては、消費者またはほかの企業家に販売されなければならないことは明らかである。そして、企業家各人の当期の投資は、ほかの企業家から購入した資産設備が使用費用を超える分である。したがって、貯蓄と呼ぶところの、所得が消費を超える分の合計は、投資と呼ぶところの、資産設備の増分の合計と異なる値を取りえない。同様のことは、純貯蓄と純投資にもあてはまる。実際、貯蓄は残余にすぎない。消費と投資の決定があいまって所得を決める。投資が実施に移されるとき、消費を切り詰めるか所得を増やすかしなければならない。よって、投資の活動は、貯蓄と呼ばれる残余や余地を、もたらさずにおかないのである。
もちろん、貯蓄額と投資額をきめるときに、消費者と企業家が十分に冷静でなければ、取引が成立しうる均衡価格を見出せないかもしれない。このような場合には、本書の語法を適用できない。というのも、このようなときには、生産物はもはや確固たる市場価値を持ちえず、価格は0と無限大のあいだで不定となるからである。しかし、経験に照らすと、価格が実際に不定となることはない。そして、買い手がつく価格と売り手がつく価格を一致させ均衡に至らしめる心理的な反応の習慣がある。生産物の市場価値が存在するということは、同時に、名目所得が確固たる価値を持つ必要条件であり、消費者による貯蓄の総額と企業家による投資の総額が等しくなる十分条件である。
この問題をすっきりと理解するには、貯蓄について考えるより、消費(あるいは消費の抑制)について考えるほうがよいであろう。消費をするか消費を抑制するかは、消費者各人が決めることである。同様に投資するか否かも、企業家各人が決めることである。総所得と総貯蓄の額は、消費するか否か、投資するか否かに関する各人の自由な選択の結果として立ち現れる。しかし、消費と投資は、それらの決定と関係を持たない、独立した意思決定の結果としてそれぞれが独立の価値を持つと仮定することはできない。この原理にしたがい、消費性向という概念を、以下において貯蓄性向あるいは貯蓄傾向の代わりに用いることにしたい ***。
訳注
* 塩野谷版の訳注は、この段落で導入されるA1はミクロ的意味を持つ(ある企業が財を購入するための支出額は、その企業の販売額とはからなずしも一致しない)が、A1がマクロ的意味を持つときには、企業全体の購入額=企業全体の販売額となることに注意を促している。間宮版の訳注は、この節の定義によれば、家計による住宅や自動車の購入は消費に分類されると述べている。これは、A1が企業間取引と定義されていることによる(現代のマクロ経済統計の体系である国民経済計算は、家計が持ち家産業を営むと犠牲する)。
** 間宮版の訳注は、この生産物の価値は使用費用控除後の値であると指摘している。
*** 塩野谷版の訳注は、『一般理論』における各種費用を現代の産業連関表に対応させ、現代の定義との相違は減価償却の定義によると指摘している。
Ⅰ
古典派の価値の理論において、使用費用は重要な役割を果たしていると思うが、それは見過ごされてきた。使用費用について語るべきことは、本書に関連し適切だと思える範囲を超えている。しかし、この付論では、少し掘り下げて考えることにしたい。
定義により、企業家の使用費用は次式に等しい。
A1+(G´-B´)-G
ここで、A1は企業家がほかの企業家から購入した額、Gは企業家が保有する期末の資産設備の実際の価値、G´は期中に資産設備を使わず、B´だけ補修と改良に費やしたときに得られるであろう期末の資産設備の価値である。さて、G-(G´-B´)、すなわち前期から引き継いだ資産設備の価値の純額を超える設備の価値の増加、は企業家による当期の資産設備の形成である。これをIとおく。すると、販売代金Aに対応する使用費用Uは、A1-Iに等しい。ここで、A1は企業家がほかの企業家から購入した分であり、Iは企業家による当期の資産設備の形成である。少し考えてみれば分かるが、これは常識以外の何ものでもない。ほかの企業家へ支払う額の一部は当期に形成される資産設備の価値とバランスし、残りは生産要素に払った費用の総額を超える、販売した生産物を産出するときに負担した費用を表す。このことを読者がほかの方法で表現しようと試みれば、この方法の利点は解決不能(かつ不要)な会計上の問題を避けられることにあると気付くであろう。思うに、生産から得られる当期の粗利を、あいまいさが生じないように分析する術はほかにない。もし産業が完全に統合されているか、企業家がほかの企業家から何も購入しないのであれば、A1=0となり、使用費用は、設備を使用することによって生じる当期の負の投資と同値になる。しかし、〔A1=0であっても、〕分析のどの段階においても、要素費用を販売した商品と保持される用品〔在庫〕に割り当てる必要がないという利点はなお残る *。したがって、企業によって与えられる雇用量は、企業が統合されたものか個々別々のものかによらず、1つの統合された意思によって決定されるとみなせる――この手順は、当期に販売されるものの産出と総生産が密接不離に結びついていることに対応する。
さらに、使用費用は、よく用いられる、企業が販売しうる生産物一単位当たりの短期の供給価格より、明確に定義しうる概念である。というのも、短期の供給価格は、限界要素費用と限界使用費用の和だからである。
さて、今日の価値の理論において、短期の供給価格は限界要素費用のみと等しいとされるのがふつうである。しかし、これは限界使用費用が0であるか、供給価格が限界使用費用を控除した値であると特別に定義した場合にのみ正しいのは明らかである。このような、〈粗利〉と〈総供給価格〉を総使用費用を控除後のものとする定義は、本書(p.24 〔第3章のⅠ〕)にみられる。しかし、そのような定義は、使用費用を控除した総生産物を取り扱うのに時として好都合であるが、もし、それをいつも(そして暗黙裡に)個別企業や単一の産業の生産物にあてはめるのであれば、議論に用いられる〈供給価格〉という語から通常の〈価格〉の意味を除いてしまうことになる。したがって、そのように供給価格を定義すると混乱が生じるかもしれない。供給価格は、個別企業の販売しうる生産物にあてはめるときには確固たる意味を持つものと仮定されてきたようである。この場合には議論を要しない。しかし、ほかの企業から購入したものと、限界生産物を産出するときに生じる設備の減耗の両方を取り扱うのは、所得を定義するとき極めて多くの混乱をもたらす。というのも、生産物を販売するほかの企業から一単位追加で購入するための限界費用を、企業の供給価格と呼ぶところのものを得るために、生産物単位当たりの粗利から控除しなければならないとしても、限界生産物を産出するのに用いた設備の負の限界投資を認めなければならないからである。生産のすべてが完全に統合された企業によってなされるとしても、限界使用費用が0であると考えるのは正しくない。つまり、限界生産物を産出するときに生じる、設備の負の限界投資は無視しうるものであると考えるのは正しくない。
使用費用と補足費用は、長期総供給価格と短期総供給価格をよりはっきりと関係づける。長期の費用には、基礎補足費用と主要費用の予測値を設備の耐用期間に適切に均したものが含まれる。つまり、生産物を産出するための長期の費用は、主要費用と補足費用の和の予測値である。さらに、ふつうの利益を得るために、長期の供給価格は長期の費用〔主要費用と補足費用の和の予測値〕を上回らなければならない。この超過分は、設備の費用の比率として計算され、計算に用いられる比率は同ランクの条件とリスクを持つ代替投資機会の現行利子率〔要求利回り〕によって決まる。〔要求利回りの代わりに〕標準的な〈純粋〉利子率 **を用いるのであれば、期待利回りと実現利回りが異なる可能性をカバーするリスクの費用と呼ぶところのものを、第3の要素として長期の費用に含めなければならない。したがって、長期の供給価格は、主要費用、補足費用、リスクの費用、利子負担の和に等しい。長期の供給価格は、これらの要素に分解することができる。他方、短期の供給価格は限界主要費用に等しい。したがって、設備を購入するか自ら形成するとき、企業家は、主要費用の限界値が平均値を超える分で、補足費用、リスクの費用、利子負担をカバーしなくてはならない。よって、長期の均衡においては、主要費用の限界値が平均値を超える分は、補足費用、リスクの費用、利子負担の和に等しい(1)。
限界主要費用が平均主要費用と平均補足費用の和にちょうど等しくなる生産水準は、とても重要な意味を持つ。というのも、このときに企業家の営業勘定が損得なしとなるからである。つまり、このときに純利益は0となる。これより生産水準が低いと、企業家は純損をこうむる。
主要費用のほかに、補足費用がどれほど必要なのかは設備の性質によって大きく異なる。以下は2つの極端な事例である。
(ⅰ)設備の補修のうち、あるもの(たとえば、機械に油を差すこと)は、設備を用いるのと並行して実施する必要がある。(ほかの企業家から購入する分を除いて、)このための費用は要素費用に算入する。当期の減耗のすべてが、このような形で補修されるのであれば、(ほかの企業家から購入する分を除く)使用費用は、補足費用と同額、かつ正負が逆となる ***。そして、長期の均衡において、限界要素費用はリスクの費用と利子負担の和と同額だけ平均要素費用を超過するであろう ****。
(ⅱ)設備の価値の減耗のある部分は *****、それを用いたときにのみ生じる。この費用は、設備を用いるのと並行して補修されないのであれば、使用費用に計上される。もし、設備の価値の損耗がこのようにしてのみ起こるのであれば、補足費用は0となるであろう。
企業家は、古びて劣化した設備を、単に使用費用が低いという理由で、優先的に用いることはないということを指摘しておきたい。というのも、低い使用費用〔という設備の利点〕を、効率の悪さ、たとえば高い要素費用〔という設備の欠点〕が上回るかもしれないからである。したがって、企業家は使用費用と要素費用の和が最少となる設備を優先的に用いる(2)。ここで問題としている生産物の生産水準に対応する使用費用がある(3)。しかし、総使用費用は限界使用費用と一様な関係を持たない。つまり、総使用費用は生産水準の高まりに対応する使用費用の増分と一様な関係を持たない ******。
脚注
(1)この記述のしかたは、限界主要費用曲線が産出が変化しうる全域にわたり連続であると仮定するのが便利であるということによっている。実際には、この想定は非現実的であり、設備の技術的な余力の上限に対応する産出に近づくときなどはとりわけ、不連続の箇所が若干あると思われる。この場合、限界分析は部分的に崩壊する。そして、価格は限界主要費用を上回るかもしれない。ここで、限界主要費用は産出がわずかに減るときに計算される。(同様に、減少方向、すなわち産出がある点を超えて減少するときにも不連続があるかもしれない。)長期均衡において短期の供給価格を考えるとき、この点は重要である。それは、この場合の技術的な余力の上限に対応する不連続は、操業していると想定しなければならないからである。したがって、長期均衡における短期の供給価格は(産出がわずかに減るときに計算される)限界主要費用を上回る必要がある。
(2)使用費用は未来の賃金水準の期待値に部分的に依存しているので、短期的に過ぎないと期待される賃金単位の下落は、要素費用と使用費用を異なる比率で動かし、どの設備を使うかに影響を与え、さらにおそらくは有効需要の水準にも影響を与える。というのも、要素費用は使用費用とは異なる経路で有効需要の決定に関わるからである。
(3)はじめて利用に供される設備の使用費用は、産出の総量と独立である必要はない(下記参照)。つまり、使用費用は産出の総量が変化するとき、ことごとく影響を受けるかもしれない。
訳注
* 間宮版の訳注は、生産物を当期に販売されたものと販売されなかったものに分ける必要がないことを、式を用いて説明している。
** 間宮版の訳注は、純粋利子率を危険が存在しないときの利子率としているが、ここでは原文にしたがい、リスクがないときの利子率と解釈する。
*** 間宮版の訳注は、資産設備に減耗が生じないように機械に油を差すことなどを、ケインズはU=-Vと表現していると指摘している。
**** 間宮版の訳注は、限界要素費用=(平均使用費用+平均補足費用)+平均要素費用-限界使用費用+平均リスクプレミアムという式を立て、限界使用費用は生産量に依存しないので平均使用費用=-平均補足費用かつ限界使用費用=-限界補足費用=0となると指摘している。結果として限界要素費用=平均要素費用+平均リスクプレミアムとなり、限界要素費用は平均リスクプレミアムの分だけ平均要素費用を超過する。
***** 間宮版の訳注は、これを可変的減価償却費と解釈している。
****** 間宮版の訳注は、総使用費用=α産出量であれば、総使用費用と限界使用費用に一様な関係があるとみなせるが、そうではないというのが文意だとしている。
Ⅱ
使用費用は現在と未来をつなぐもののひとつである。というのも、生産水準を決めるときに、企業家は保有する資産設備を当期に使い切るか、次期以降に使うために取っておくか選択しなければならないからである。使用費用の水準を決めるのは、当期に資産設備を使うことによって、未来の利益をどれほど犠牲にすることになるかという期待である *。限界要素費用と限界粗利の予測値と相まって、この犠牲の限界値が企業家の生産水準を決める。では、企業家は、生産活動にともなう使用費用をどのように計算するのであろうか?
本書において、使用費用を、それを使わないときと比べて、使うことによって生じる設備の価値の損耗と定義した。ただし、使用費用には、設備を補修・改良するための費用と、ほかの企業家から設備を購入するための費用が含まれる〔よって、使用費用は(G´-B´)-(G-A1)となる〕。したがって、設備を当期に使わず次期以降に使うことによって得られる期待利回りの改善分を現在価値に割り引いて使用費用を算出しなければならない。使用費用は、設備を使わずに取っておくことによって、その設備の取り替え期日を遅らせることの現在価値と少なくとも等しく、おそらくそれよりも多い(1) **。
設備に余剰も重複もなく、毎期同種の設備が新たに生産され、既存の設備に加えられるか、〔耐用期間を満了した〕既存の設備と取り替えられるのであれば、限界使用費用は、設備が使われると耐用期間がどれほど短くなり、また生産効率がどれほど落ちるかということと、当期の取り替え費用とを参照して計算される。設備に重複があれば、上記に加え、利子率と設備の重複が損耗などによって解消されるまでの期間にわたる(推定し直された)当期補足費用によって、使用費用は決まるであろう。利子負担と当期補足費用は、このように使用費用の計算に間接的に入り込む ***。
要素費用が0であるとき、〔使用費用の〕計算は最も単純化され理解しやすくなる。たとえば、『貨幣論』第2巻第29章で説明したように、銅のような原材料の在庫の重複を考えると理解しやすい ****。未来のさまざまな期間における銅の期待価値について考えよう。これは、重複が解消され推定されたふつうの費用に少しずつ近づくそのスピードによって影響を受ける系列である。余剰銅のトン当たりの使用費用、つまりその現在価値は、ある期におけるトン当たりの銅の未来価値の推定値から、利子負担と、その期から現在までの、トン当たりの銅の当期補足費用を差し引いて得られる値のうち、最大のものと等しいであろう。
同様に、船舶、工場、機械の使用費用は、これらの設備に重複があるときには、取り替え費用の推定値を利子率で割り引いたものと重複が解消されるまでの期間の当期補足費用からなる。
上記においては、時機が到来すれば〔耐用期間を満了した〕設備は同型のものと取り替えられると仮定してきた。もし問題とする設備が耐用期間を満了したとき、同型のものと取り替えられないのであれば、使用費用は新規設備の使用費用のある割合を取ることによって計算する必要がある。この割合は、既存設備を取り替えるときの、新旧設備の相対的な効率を反映するように与えられる *****。
脚注
(1)それよりも多いのは、後日通常より多くの収益が得られると期待されるが、新しい設備を生産するのを正当化する(あるいはそのための時間を与える)のに十分とはいえないときである。今期の使用費用は、次期以降に生じうる収益すべての潜在的期待値を現在価値に割り引いたものの最大値に等しい。
訳注
* 間宮版の訳注は、機会費用として捉えられる使用費用には3とおりあると指摘している。すなわち、ⅰここで述べられている、現在資産を用いることで犠牲にする未来の利益、ⅱ本節脚注(1)で述べられている、収益の潜在的期待値を現在価値に割り引いたもの、ⅲ本節最後で述べられている、既存設備を取り替えるときの新旧設備の相対的な効率差である。これらの機会費用は、現代の企業が想定してもおかしくない使用費用の例と見ることができる。
** 間宮版の訳注は、設備の更新費用をpとして、設備の取り替えをΔτだけ延期したときの利益をp(t+Δτ)/(1+r)^(t+Δτ)-p(t)/(1+r)^tと表している。ただし、この段落の文意から、pを設備の更新費用とするより、期待収益の現在価値に基づくある種の事業価値と捉えた方が自然かもしれない。
*** 間宮版の訳注は、この段落で言及されている設備の重複の有無に注目している。どのような状況かにわかには掴みにくいが、設備に重複がある場合には、設備を使うタイミングを考慮できるということを意味していると思われる。今日的な語法を用いれば、ある種のリアル・オプション的な状況と思われる。
**** Keynes著, 長澤訳『貨幣論Ⅱ 貨幣の応用理論』pp.143-144を参照。『貨幣論』では、銅は持越費用を説明する例として言及されている。間宮版の訳注にも指摘がある。
***** 間宮版の訳注は、旧式の設備の効率が低いと使用費用がかさみがちであるから、新しい設備に早期に更新するのが合理的だと指摘している。
Ⅲ
設備が陳腐化するのでなく、しばらくのあいだ重複するに過ぎないとき、使用費用の実際の価値とふつうの価値(ここで、ふつうの価値とは設備の重複がないときの価値である)の差は、重複が解消されるまでの期間によって決まることに読者の注意を促したい。したがって、問題としている設備の型が、残存期間がまちまちであるために〈まとまって〉耐用期間の満了を迎えず、毎年一定の割合が満了を迎えるとき、限界使用費用は、重複が例外的にひどくないかぎり、大きく減らない。全般的な不況期には、企業家が期待する不況期の長さによって、限界使用費用は決まる。したがって、景気が回復しはじめるときに供給価格が上昇するのは、部分的には、企業家の期待が見直され、限界使用費用が急激に上昇するためであろう *。
企業家の見解とは反対に、重複する設備すべてに適用しないかぎり、重複する設備を取り壊すという施策が物価を上昇させるという望ましい効果をもたらさない、と議論されることがある。しかし、使用費用の概念は、(たとえば、)重複する設備の半数を取り壊すという施策が、直ちにどれほどの物価の上昇という効果をもたらすのかを示している。というのも、重複が解消される期が近づくにつれ、この施策は限界使用費用を高め、その結果として供給価格も高めるからである。企業家は、それをはっきりとした形で定式化してはいないが、暗黙裡に使用費用の概念を持っているようである **。
補足費用の負担が重いのであれば、設備の重複があるとき、限界使用費用は低いであろう。さらに、設備に余剰があるなら、要素費用と使用費用の限界値は、それらの平均値を大きく超過しないであろう。これらの条件が満たされるとき、設備の余剰は、企業家の事業は純損失、おそらくは大きな純損失をこうむるであろう。設備の重複が解消されるのに時間がかかるので、損失の状態から、ふつうの利益の状態へすぐに移行することはないであろう。設備の重複が解消されるにしたがい、使用費用は少しずつ増える。そして、要素費用と使用費用の限界値が平均値を超える分は少しずつ増えるであろう ***。
訳注
* この叙述は前段落の訳注 *** と関連している。設備に重複がないとき、使用のタイミングを考えないので限界使用費用に大きな変動は生じない。景気回復期には、一斉に設備の使用が活発化するので限界使用費用が増える。間宮版の訳注に類似の言及がある。
** 設備に重複があるとき一部の設備の操業を停止すると、稼働し続ける設備の稼働率は高まる。結果として限界使用費用も増え、またその生産物の供給価格も高まる。間宮版の訳注に類似の指摘がある。
*** この段落の限界費用、平均費用、利潤の関係は理解しづらい。おそらく文意は、資産に重複があるので、稼働率が低下して利潤がマイナスになるということであろう(操業停止点付近の生産)。そして、設備の重複が解消され稼働率が高まると利潤がプラスになるということかと思われる(損益分岐点を超える生産)。
Ⅳ
Marshallの『経済学原理』(第6版のp.360)にあるように、使用費用の一部は、〈設備の特別費用〉という見出し *の下に記されているように、主要費用に含まれる。しかし、使用費用の一部〔である特別費用〕の、算出方法と重要性については言及がない。Pigou教授は、限界的な生産に伴う負の限界投資 **は無視しうると仮定し、『失業の理論』(p.42)の中で次のように述べている。すなわち、〈生産水準が異なると、設備の損耗と非単純労働の労賃に違いが生じるということは、二次的な重要性しか持たないため、考慮の外に置かれる〉、と(1)。確かに、生産に伴う設備の負の投資は0であるという言明は、近年の経済学を貫く考えである。しかし、個別企業の供給価格の意味を正確に説明しようとするや否や、近年の経済学は窮地に追い込まれる。
休止している設備を費用をかけて補修すると、上述の理由のために、とりわけ長期にわたると期待される不況下において、限界使用費用は減る。にもかかわらず、非常に低い限界使用費用は、短期そのものの特徴ではない。それは、休止している設備を補修する費用が重くのしかかる設備の型の特徴であり、また、急速な陳腐化や、類似の新規設備が多くあるときに生じる大きな重複によって特徴づけられる不均衡の特徴である。
原材料の場合には、使用費用を許す必要性は明らかである――もし1トンの銅を当期に使い切るのであれば、それを次期に使うことはできない。そして、次期に使われるであろう銅の価値は限界費用の一部として計算されなければならないのは明らかである。しかし、この銅の例は、生産のために資産設備が用いられるときにはいつでも生じることの極端な事例であるとして見過ごされてきた。原材料についてはそれを使うことによる負の投資を認め、固定資産についてはそれを無視してもよいとし、両者にはっきりとした区別を設ける仮定は、事実に対応しない――耐用期間を満了した設備が毎期取り替えられ、設備を使うことによって耐用期間が短くなる場合には、とりわけそうである。
使用費用と補足費用は、経営資本、流動資産、固定資産のいずれにも適用できるという利点がある。原材料と固定資産の本質的な違いは、使用費用と補足費用の負担にではなく、流動資産の収穫は一期間に限られるのに対し、耐久性があり少しずつ減耗する固定資産の収穫は、その資産の耐用期間中の利益と使用費用の系列からなる点にある。
脚注
(1)Hawtrey氏(Economica 1934年5月号p.145)は、Pigou教授による限界労働費用に伴う供給価格の定義に注意を促している。そして、Pigou教授の議論はそれに関して深刻に損なわれていると論じている ***。
訳注
* Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第3分冊, p.53にある、本文の上に掲げられた見出しである。
** 間宮版の訳注は、「限界的な生産に伴う負の限界投資」が〈設備の特別費用〉、すなわち可変的減価償却費であると指摘している。
*** 塩野谷版の訳注は、該当ページはp.147だとしている。論文はhttps://www.jstor.org/stable/2548747 である。
Ⅰ
前章において、単に同じものを異なる側面からみたにすぎないので、社会全体をみたとき、その水準が等しくなるべきものとして貯蓄と投資を定義した。しかし、(『貨幣論』を著したときの私を含め、)今日の幾人かの書き手は、両者が必ずしも等しくならないような、特殊な定義を与えてきた。ほかの書き手は、貯蓄と投資を定義せずに議論の口火を切り、両者が等しくないこともあると仮定して話を進めている。したがって、これらの語に関する前述の議論とほかの議論を関係付けることを視野に、存在しているように思われるこれらの語の多様な用法を分類することは有益であろう。
私の知るかぎり、貯蓄は所得が消費支出を超える分であることに、すべての論者が賛同する。貯蓄がこのことを意味しないのであれば、間違いなくとても不便であり誤解を招くであろう。消費支出の意味についても、大きな見解の相違はない。したがって、貯蓄と投資の語法の違いは、投資または所得の定義から生じる。
Ⅱ
まず、投資について考える。ひろく使われている語法によると、この語は、個人または企業による資産、それが中古品であろうと新品であろうと、の購入を意味する。時として、この語は株式取引所で行われる資産の購入のみを意味する。しかし、細かいことを気にせずに私たちが投資と言うときには、たとえば、家を建てる、設備を導入する、完成品や非完成品の在庫を持つことを意味している。そして、再投資とは区別される新規投資は、所得からあらゆる種類の固定資産を購入することを意味する。もし、投資財の販売を負の投資とみなすのであれば、中古の投資財の取引は〔購入による正の投資と販売による負の投資が〕相殺されるので、この語の本書における定義は広く使われている語法に一致する。(貸出債権や貨幣の量の変化を含む、)負債の創造または弁済のために調整を必要とするのは確かである。しかし、社会全体をみると、負債の増減の総計は資産の増減の総計にちょうど一致するので、こうした複雑さは総投資を扱うときには相殺される。したがって、ひろく使われている語法による所得は本書の純所得に対応すると仮定すると、ひろく使われている語法による総投資は本書の純投資に対応する。つまり、純投資は、純所得を計算するときに考慮に入れる、既存の資産設備の価値の変化を控除した後の、あらゆる資産設備の純増である。
したがって、こうして定義される投資には、固定資産、経営資本、流動資産のいずれかから成る資産設備の変分が含まれる。定義の違いは(投資と純投資の違いを除くと)、これらから1つないしそれ以上のものを除くことによって生じる。
たとえば、Hawtrey氏は、流動資産の変化、すなわち意図せぬ製品在庫の増加分(または減少分)、に大きな重要性を与え、流動資産の変化を除いた投資の定義を提案した。このとき、貯蓄が投資を超える分は、意図せぬ製品在庫の増分、すなわち流動資産の増分、と同値である。これを強調すべきだとするHawtrey氏の説に、私は満足していない。彼は、当初形成された期待、その正誤は措く、より、予期せぬ変化に対する修正が重要だと考えている。Hawtrey氏は、企業家が、製品在庫の変化を参照しながら、前期の生産水準から変更した生産水準を毎期決定するとしている。確かに、最終消費財の場合、在庫の変化は意思決定に強い影響を与える。しかし、意思決定に影響するほかの要因を排除するねらいがみえない。したがって、有効需要のほんの一部に過ぎない前期の製品在庫の増減ではなく、有効需要全体の変化を強調することにしたい。さらに、製品在庫の増減に対応する、使われていない固定資産の生産余力の増減も、生産の意思決定に影響する。在庫の増減と少なくとも同じ程度の重要性を持つ固定資産の増減を、Hawtrey氏はどのように扱うのであろうか。
オーストリア学派によって用いられる資本形成と資本消費は、上で定義した投資と負の投資とも、純投資と負の純投資とも一致しない。特に、資本消費は、上で定義したような資産設備の純減が全くないときに起きるといわれている。しかし、これらの語の意味をはっきりと説明する箇所は見あたらない。たとえば、生産過程を引き延ばすときに資産の形成が起きるという説明は、ものごとを前に進めない。
Ⅲ
つづいて、特殊なしかたで所得、よって所得が消費を超える分、を定義したことから生じる、貯蓄と投資の乖離について考える。『貨幣論』における語法はその例である。『貨幣論』における利益の定義は、本書のそれと異なる。というのも、本書の60ページ〔第6章のⅠ〕で説明したように、『貨幣論』においては、実現利益ではなく、(ある意味において)〈ふつうの利益〉を企業家の所得として算出しているからである。貯蓄が投資を超える分によって、生産は、企業家が設備を用いて得る利益がふつうより少なくなる水準にあることを意味していた。貯蓄が投資を超える分が増えることによって、実現利益が、生産を減らす誘因によって減少していることを意味していた。
雇用量(よって、生産量と実質所得)は、(設備の耐用期間を通じた収穫が最大となるように設備を用いるときの使用費用を差し引いた、)当期と次期以降の利益を最大にすることを求める企業家によって決められる。他方、企業家の利益を最大にする雇用量は総需要関数によって決まる。総需要関数は、種々の仮説にもとづく消費と投資を合計して得る、期待される粗利の総額から導かれる。『貨幣論』で定義されたような、投資が貯蓄を超える分の変化という概念は、利益の変化を扱う一つの方法であった。ただし、『貨幣論』では、実現利益と期待利益の区別は明確でなかった(1)。投資が貯蓄を超過する分の変化は、生産水準の変化を支配する力であるとそこで議論した。したがって、本書の議論は、(今思うに、)より正確でためになるものであるが、本質的には前書の議論を発展させたものである。『貨幣論』の言葉を用いて説明すると次のようになる。すなわち、前期の雇用量と生産量を所与とすると、投資が貯蓄を超える分が増えると期待されるならば、企業家は雇用量と生産量を増やすであろう、と。本書と前書に共通する重要な点は、企業家が期待する有効需要の水準が雇用量を決めるということである。『貨幣論』の言葉で有効需要が増える基準を説明すると、貯蓄よりも投資が増えるという期待となる。しかし、『貨幣論』の説明は、本書で発展させた議論に照らすと、極めて混沌としており不完全であるのはもちろんである。
D.H. Robertson氏は、当期の所得を前期の消費と投資の和に等しいものとして定義した。そして、今期の貯蓄は、前期の投資と、前期の消費が今期の消費を超える分の和として定義される。この定義によれば、貯蓄は、前期の所得が今期の所得を超過する分(所得は私の語法による)だけ、投資を超過しうる **。したがって、Robertson氏が貯蓄が投資を超える分があるというのと、私が所得が減少しているというのは同じである。彼の貯蓄の超過分は、私の所得の減少分とちょうど等しい。もしいつも前期の結果によって当期の期待が決まるのであれば、当期の有効需要は前期の所得に等しいであろう。したがって、Robertson氏の方法は私の試みに代わるもの(おそらくはその一次近似)とみなしうる。両者に共通する試みとは、因果分析に大変重要な意味を持つ、有効需要と所得の峻別であった(2)。
脚注
(1)そこ〔『貨幣論』〕での私の方法は、現時点での実現利益を、現時点での利益の期待値を決めるものとみなしていた。
(2)Robertson氏の論文Saving and Hoarding(Economic Journal 1933年9月号,p.399)と、Robertson氏、Hawtrey氏、そして私の間の議論(Economic Journal 1933年12月号, p.658)を参照 *。
訳注
* Robertson氏の論文は https://www.jstor.org/stable/2224283 である。塩野谷版の訳注では、ケインズの論文の参照ページはp.658ではなくp.699だとしている。対応する論文はhttps://www.jstor.org/stable/2224530 である。塩野谷版の訳注は、ケインズはRobertson氏の期間分析における次期の所得Y1を有効需要と見立てることで、両者の議論を関係づけていると指摘している。
** 間宮版の訳注は、Robertsonの定義を式で表している。すなわち、Yt=Ct-1+It-1 と St=Yt-Ctから、St=It-1+(Ct-1-Ct)となる。
Ⅳ
つづいて、〈強制貯蓄〉という語に付される、極めて漠としたアイデアについて考える。このアイデアについて重要性を見いだせるであろうか。『貨幣論』(第1巻p.171の脚注[ケインズ全集第5巻p.154〔小泉・長澤訳, 2001, pp.176-177〕])に、参考文献を示してこの語の以前の使われ方をとりあげ、それらの文献による強制貯蓄と、投資と『貨幣論』における〈貯蓄〉の差との類似点について掘り下げた。今となっては当時思っていたほどの類似点が両者にあるのか自信が揺らいでいる。いずれにしても、〈強制貯蓄〉とそれに類する(Hayek教授やRobbins教授によって)最近用いられるようになった語は、投資と『貨幣論』における〈貯蓄〉の差と確固とした関係がない。というのも、Hayek教授やRobbins教授はこの語の意味を正確に説明していないが、彼らの意味する〈強制貯蓄〉は貨幣または銀行信用の量の変化によって生じ、それによって測られる現象だからである。
生産量と雇用量が変わると、賃金単位で測った所得も変化するのは確かである。そして、賃金単位が変わると、借り手と貸し手のあいだで所得は再分配され、名目の総所得も変わる。いずれの場合にも、貯蓄額は変わるであろう(変わるかもしれない)。したがって、貨幣の量が変わると、利子率の作用を通じて、(後に示すように、)所得の水準と分配が変わり、所得の水準と分配が変わると貯蓄の水準は変わる。しかし、そのような貯蓄水準の変化が〈強制貯蓄〉であることは、状況の変化による貯蓄水準のそのほかの変化が〈強制貯蓄〉であることと選ぶところがない。よって、ある状況を規範または標準としないかぎり、この2つの場合を区別することができない。しかも、本書でみるように、貨幣の量が変わることで生じる総貯蓄の変化は大変移ろいやすく、ほかの多くの要因から影響を受ける。
基準となる貯蓄率をどうにかして定めないかぎり、〈強制貯蓄〉という語は意味を持ちえない。もし、(そう定義することが理にかなうかもしれないが、)完全雇用下の貯蓄率を基準とするのであれば、〈強制貯蓄〉の定義は次のようになろう。〈強制貯蓄は、長期均衡の見地から完全雇用が成立しているときに貯蓄されるであろう額を、現実の貯蓄が超過する分である〉。この定義は理解しうるのもである。しかし、超過強制貯蓄が生じるのは希であり、それは非常に不安定な現象である。そして、過少強制貯蓄がよく生じる *。
Hayek教授による『強制貯蓄に関する学説の発展について』(1)という興味深い論文は、これがこの語がもともと意味していたことであることを示している。〈強制貯蓄〉、または〈強制倹約〉、という語はBenthamの着想によるものであった。Benthamは、〈すべての働き手が最大の力を発揮できるように雇われている〉(2)状況で、(貨幣と引き換えに売ることのできるモノの量に対する)貨幣量が増えると生じることについてわかりやすく述べた。Benthamは、完全雇用の下で、実質所得が増える余地はなく、したがって追加の投資は〈国の調和と社会正義にしたがってなされる〉強制倹約による、富の移転によって生じると指摘する。19世紀の書き手はみな、この問題を扱うとき、Benthamとほぼ同じ考えを心に抱いていた。しかし、この明快無比な言明を完全雇用に達していない経済に適用しようとすると、困難が生じる。(所与の資産設備にあてがう働き手が増えるにしたがい収穫が逓減するという事実によって、)雇用量のいかなる増加も、すでに雇われている働き手の実質所得をいくらか減らすことになる。しかし、この損失を、雇用量の増加を伴う投資の増加と結び付ける試みは、実りあるものとならないであろう。〈強制貯蓄〉に関心を寄せる今日の書き手は、雇用量が増える状況にこの概念を当てはめようとしていないようである。彼らは、完全雇用に達していない状況に強制倹約というBenthamによる語を当てはめるときには、説明と但し書きが求められることを見過ごしている。
脚注
(1)Quarterly Journal of Economics 1932年11月号p.123 **。
(2)同上。
訳注
* 不完全雇用下の投資すなわち貯蓄は、完全雇用下の投資すなわち貯蓄より少ない。
** この論文は https://www.jstor.org/stable/1885188 である。
Ⅴ
貯蓄と投資を字義通りに取り、それぞれ異なる値を取りうるという広く流布されている考えは、個々の預金者と銀行との関係が一面的な関係にあり、実際そうであるような二面的な関係にはないという錯視によって説明されるようである。預金者と銀行は互いに協力して次のようなことをしてしまうと思われている。すなわち、貯蓄が銀行体系の中に吸い込まれ投資に費やすべき資金が消失したり、あるいはその逆に、貯蓄を伴わない投資を銀行体系が起こさしめたりすると思われている。しかし、それが現金、債券、資本財のいずれであろうと、資産を獲得せずに貯蓄することはできない。そして、資産を新たに手に入れるには、その資産と同じ価値を持つ資産が新たに生産されるか、または、ほかの誰かがそれを手放すかしなければならない。第1の選択肢においては、それに対応する新たな投資が存在する。第2の選択肢においては、ほかの誰かがそれに見合う貯蓄を取り崩す。というのも、富の取り崩しは、所得を上回る消費によって生じるからである。この減少は、保有している固定資産の価値は減少しないために、固定資産の価値が変化することによる資本勘定の減価によっては生じない。〔資産を売却することによって、〕当期の資産価値と同額を受け取る人は、その価値をどのような形にせよ富として貯蓄することはない。つまり、それは当期の消費が当期の所得を超える分に充てられなければならない。さらに、資産を手放すのが銀行体系であれば、誰かが現金を手放すはずである。したがって、個人やほかの経済主体による貯蓄の総額は、当期の新規投資の水準に等しくならねばならない。
〈真の貯蓄なしに、〉銀行体系が創造する信用によって投資が実施されるという言明は、銀行信用を膨らませることの、数ある結果のうちのひとつに過ぎない。もし、新たな銀行信用が与えられなければ実施されなかったであろう投資が当期に実施されるのであれば、所得の増加は投資の増加を上回るであろう。加えて、完全雇用の状況を除けば、名目所得のみならず実質所得も増える。公衆は、増えた所得を貯蓄と支出に〈自由に振り分ける〉であろう。そして、投資を増やすために借り入れをした企業家の意図が、(実施されるはずであったほかの企業家による投資の代わりにその投資が実施される場合を除いて、)公衆による貯蓄を増やす意図を超える速さにはなりえない *。さらに、この決定の結果としての貯蓄は、そのほかの貯蓄と同じくらい純粋なものである。新たな銀行信用に対応する貨幣の追加分は、富のほかの形態より貨幣を保有することを注意深く選ばないかぎり、誰も保有を強いられることはない。しかし、雇用量、所得水準、物価に新たな状況下で誰かが貨幣の追加分を保有するよう促す力はない。予期せぬ、ある特定の方面への投資の増加は、十分に予期されているときには起こりえない、総貯蓄と総投資の不規則性をもたらす。銀行信用の保証は、次の3つの傾向を生み出すこともまた確かである――(1)生産量の増加、(2)賃金単位当たりの、限界生産物の価値の増加(これは、収穫逓減の下では生産量の増加に伴い必ず起こる)、(3)賃金単位の名目値の上昇(これは雇用の改善にともないよく生じる)。これらの傾向は異なるグループのあいだの実質所得の分配に影響するかもしれない。しかし、これらの傾向は、生産が拡大する状態そのものの特徴であり、ほかの理由による生産の拡大によっても、銀行信用の拡張が生産の拡大によるのと同じように生じるであろう。こうしたことは、雇用の改善が生じうる施策を採らないことによってのみ防ぐことができる。しかし、上述の議論は、いまだ到達していない議論の結論を暗示している。
したがって、不完全であり誤解を生むかもしれないが、貯蓄はすべからく投資をともなうという古い見方は、投資をともなわない貯蓄がありえ、〈真の〉貯蓄をともなわない投資がありえるという新しく作られた見方よりも理解しやすい **。誤りは、個人が貯蓄すると、それと同額だけ総投資が増えるという、もっともらしい推論に進むときに生じる。貯蓄をするとき、その人の富が増えるというのは確かである。しかし、個人が貯蓄をするとき国富が増えるという結論は、ほかの誰かの貯蓄と富に反作用が生じることを想定していない〔ために誤りである〕。
彼自身またはほかの誰かの投資とは関係なく人は貯蓄する、という明らかな〈自由意思〉にもとづく貯蓄と投資が一致するのは、本質的には、支出と同様、貯蓄が二面的であることによる。ある人の貯蓄水準は彼の所得に大きく影響しないようであるが、彼の消費額がほかの人たちの所得へ及ぼす反作用は、どのような額でもすべての個人が一斉に貯蓄することを不可能にする。消費を減らしてより多く貯蓄しようとするいかなる試みも、その試みが自らをくじくように所得に影響する〔所得は減少し貯蓄は増えない〕。総貯蓄が当期の投資水準を下回ることはできない。というのも、貯蓄を上回る投資がもくろまれると、投資と貯蓄の総額がちょうど等しくなるまで所得は増えるからである。
上記は、誰もが持つ自由と調和する、次の命題に似ている。すなわち、各人は必要に応じて保有する貨幣の量を変えることができるが、各人が保有する貨幣の量を合計すると銀行体系が創造した貨幣の量にちょうど等しくなるという命題に似ている。後者〔貨幣についての命題〕の場合、人々が保有する貨幣の量は、彼らの所得と貨幣の代わりに保有するのが自然である(証券に代表される)ものの価格と関係なく決まることはない。したがって、銀行体系によって創造される貨幣の量と、所得と証券などの価格の新しい水準の下で個人が保有する貨幣の総量が等しくなるように、所得と証券などの価格は変化する。実にこれは、貨幣の理論の本質的な命題である。
これらの命題は、単に売り手のない買い手はなく、買い手のない売り手はないことから導かれる。市場規模に対して取引の額が少ない個人は、需要が一面的な取引でないことを無視しても差し支えないが、総需要について考えるときそれを無視するのは不合理である。これは、経済のふるまいに関するマクロの理論とミクロの理論の根本的な違いである。ミクロの理論においては、個人の需要はその人の所得に影響しない ***。
訳注
* 文意は、GDPが増えても貯蓄と投資のバランスは崩れないということであり、また、貯蓄不足はGDPを増やす障害とはならないということである。つまり、強制貯蓄は誤認に基づく概念である。間宮版の訳注は、強制貯蓄について次のように説明している。すなわち、経済には一定量の資金があり、それが消費または投資に振り分けられる。投資資金が前もって用意されていないときに投資が増えるのであれば、それは消費(に充てる資金)が減ることを意味する、と。
** 間宮版の訳注は、ここでの新しく作られた見方は、強制貯蓄であると指摘している。
*** ミクロ経済学では、消費者が所得(endowment)を各財の需要に振り分けると考える。マクロ経済学では、消費者の需要(と企業家の投資意欲)が所得を決め、さらにその所得が消費者の需要(と企業家の投資意欲)を決めるという反響作用があると考える。