J.M. ケインズ『雇用、利子及び貨幣の一般理論』の試訳 by K. Sasaki
Keynes, John Maynard, 1936, General Theory of Employment, Interest and Money
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Capital・・・太字
Italic・・・イタリック
〔〕・・・訳者による補足
著者脚注は節の最後に番号を付して並べる。
訳者の注は節の最後に * を付して並べる。
人名は英語で記す。訳注にはしない。
指示代名詞には極力指し示す語を挿入して訳出する。
関係代名詞等でつながる長い文は、複数の文に分ける。
I, We, Our, Usなどは、日本語の作法にしたがい、多くの場合訳出しない。
この版で修正した初版の誤植
頁 行 修正
60 6 'possess;on' を 'possession' と読み替える
83 12 'has' を 'had' と読み替える
126 13 '23' を '19' と読み替える
126 脚注1, 2 'th' を 'the' と読み替える
171 21 'security' を 'precautionary' に読み替える
212 9 'than' を 'that' に読み替える
229 32 'output' を 'the stock of assets in general' に読み替える
233 25 'their' を 'its' に読み替える
237 31 'or' を 'of' に読み替える
267 28 'three' を 'four' に読み替える
271 4 'technique' を 'techniques' に読み替える
319 23 'income' を 'incomes' に読み替える
341 7 'Mercantilist' を'Mercantilists' に読み替える
これらの修正は 、『一般理論』のいつくかの翻訳版を準備する際に、〔ケインズ全集の〕第14巻により初期の草稿の集注版 variorum を収録する際に、あるいは本書を印刷のためセットする際に明らかになったものである。この修正は29ページにみられる総供給と総需要に関する不十分な説明や、305ページにみられる式の不十分な導出といった、より意味のある修正を含んでいない。
訳注
補遺1の訂正は、ケインズ全集版で修正済みである。
親愛なる経済学者諸氏に向けて本書を著す。より多くの読者に理解していただくことを望んではいる。しかし、本書は主として理論上の難題に取り組み、理論の実践には重きをおかない。というのも、正統派経済学に瑕疵があるとすれば、その誤りは、論理的整合性に細心の注意を払って組み上げられた上部構造 *にではなく、あいまいで一般性を欠くその前提に見出されるからである。経済学者諸氏を促して彼らが拠って立つ想定の確からしさを批判的に再検討してもらうという目的を遂げるには、抽象度が高い議論のみならず激しい論争にもよるほかなかった。できることなら論争を避けたかった。しかし、私の主張を明らかにし、主流派の理論との違いを示すために、それはどうしても必要であった。私が〈古典派〉と呼ぶところのものに深く親しんできた諸氏は、まったくの誤りであるという思いと目新しいものは何もないという思いのはざまを揺れ動くであろう **。そのいずれが正しいのか、あるいはいずれでもないのか、みなさんに判断を委ねたい。論争を巻き起こすであろう諸章がみなさんに判断の材料を提供するはずである。〔古典派との〕違いを際立たせようとするあまり私の舌鋒が鋭すぎるのであれば、お赦しいただきたい。今ここで論争を挑むのはほかでもない、私が長らく確信をもって奉じてきた理論である。この理論の優れたところはよく承知しているつもりである ***。
論争の的となる問題はこの上なく重要である。しかし、私の言説が正しいのであれば、まず説得すべきは一般のみなさんではなく親愛なる経済学者諸氏である。みなさんに関心を持っていただくのはありがたい。ただこの段階においては、経済理論の現実に対する影響力を目下ほぼ破壊し尽くし、これを解決しないかぎり今後も破壊しつづけるであろう、経済学者のあいだにある深刻な見解の相違に決着をつける一経済学者の試みを、傍らからみるにとどめていただきたい。
本書と5年前に著した『貨幣論』[ケインズ全集第5巻、第6巻]との関係は、私にははっきりしているが、みなさんにはおそらくそうでないだろう。私自身にとっては数年来追い求めてきた考えの自然な発展であることが、読者には理解しがたい見解の変更に映るであろう。いくつかの用語を必要に応じて替えてみたものの、それで分かりづらさは軽減されない。用語の変更については、本書の中で適宜指摘したところであるが、前書と本書の全般的な関係を端的に表すと次のようになる。『貨幣論』を書きはじめたとき、需要と供給の一般理論といわば切り離されたものとして貨幣の影響をみる伝統にそってなお考えを進めていた。それを書き終えたとき、貨幣の理論を総産出の理論に近づける方向へある程度前進した。しかし、産出水準が変化することの効果を十全に扱えないという、理論篇(第3篇と第4篇)にある未解決の障害は、今思うに、私が先入観から解き放たれていないことを現していた。〈基本方程式〉****なるものは、産出を所与とした瞬間の描写にすぎない。それは、産出を所与として、利潤の不均衡が生じたとき産出水準の変化を必要とする諸力がどのように展開するか示そうとするものであった。しかし、瞬間の描写と異なる動態の描写は、不完全かつ混乱を極めたままであった。これに対して本書は、歩を進めて、総産出と総雇用の規模の変化を決定づける諸力を研究の主題としている。貨幣は重要かつ特有な形で経済体系に入り込む。そのかわり、貨幣の技術的詳細は紙背に退く *****。貨幣経済は、本質的には、未来に対する見方が変わると雇用の方向のみならずその水準も変わりうる経済である。未来に対する見方が変わることから影響を受ける現在の経済活動は、需要と供給の相互作用によって解き明かされる。本書の手法は、このように価値の基礎理論と結びつく。こうして、なじみ深い古典派の理論を特別な場合として含む、より一般的な理論に至る。
標なき道に踏みだす本書のような書物の書き手が途方もない考え違いをしないようにするには、ひとえに批判と対話によるほかない ******。(ほかの道徳科学と同様、)理論と実証のいずれによっても思考の確証を得難い経済学についてあまりに長い時間一人で考えこんでいると、愚かな思考にはまり込み、はっとすることがある。『貨幣論』の執筆時にまして、本書はR.F. Khan氏の絶えざる助言と建設的な批判による。彼の示唆なくして本書がこのような形をとることはなかった。校正刷りの全文に目を通していただいたJoan Robinson、R.G. Hawtrey、R.F. Harrodの3氏からは多くの助けを得た。索引はケンブリッジ大学キングスカレッジのD.M. Bensusan-Butt氏の手によるものである。
本書を編むことは――筆者にとって、慣れ親しんだ考えや表現から抜け出すための長い闘いであった。筆者の企てが功を奏していれば、本書を読むことは、大半の読者にとっても同様の闘いとなるに違いない。苦心してここで練り上げたアイデアは、極めて単純かつ明快である。難しさがあるとすれば、それは新しいアイデアにではなく、大半の人たちが成長の過程で生い茂らせてきた古いアイデアを捨て去ることにある *******。
J.M. KEYNES
1935年12月13日
訳注
* Marx著, 武田他訳『経済学批判』の序文に「生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している」(p.13)とある。Marxは体制を意味する語としてsuperstructureを用いている。『一般理論』第3章第Ⅲ節と対応させると、ケインズはこの語を意図的に誤用したのではないかとの思いが浮かぶ。その真意は、失業と貧困を省みない当時の体制と社会通念を批判し変革することにある。無論、Keynesは共産主義者ではないが。この種のイングランド流レトリックが随所に散りばめられていると感じる。Mill, John Stuart著, 松本啓訳『ベンサムとコウルリッジ』p.135に、類似の文脈の中で「上部建築」という語がある。また、Hobbes著, 高野訳『法の原理』p.229に「救済に必要不可欠な信仰の諸点についてはそれらを根本的(FUNDAMENTAL)と呼び、その他のすべての点は上部構造(SUPERSTRUCTION)と呼ぶことにしよう」とある。
** ガリアーニ著, 黒須訳『貨幣論』p.4に類似の章句がある。
*** ケインズ全集第20巻,p.695に「自由貿易の原理主義者は、廃れてしまった考えを再考することを私に強要した。そして、彼らの道に引き戻そうとした。その道は、私が重々承知しており、知らないことは何もない道だ。その道は、私がこれまで何度も明らかにしてきたように、わた国の現在の苦境を解決に導くものではない」とある。Malthus, Robert Thomas著, 小林時三郎訳『経済学原理』上,pp.42-43に、マルサスがリカードに向けた同様の章句がある。Menger著, 福井・吉田訳『経済学の方法』の序言pp.13-14に類似の章句がある。また、Coase, R.H.著, 宮沢・後藤・藤垣訳『企業・市場・法』の序と第1章第1節にも類似の章句がある。
**** Keynes著, 長澤訳『貨幣論』第3篇は、100ページを超える紙幅を割いて基本方程式を詳述している。
***** 貨幣の技術的詳細については『インドの通貨と金融』、『貨幣改革論』、『貨幣論』ほかケインズ全集を参照。本書の流動性選好説は、物々交換の社会、または交換すらないロビンソン・クルーソー経済の思考から抜け出せない古典派向けのレトリックである。流動性選好の原型はSteuart, James著, 小林監訳『経済の原理』にみられる。
****** Steuart, James著, 小林監訳『経済の原理 ―第1・第2編―』p.387に類似の章句がある。
******* 類似の章句が柿原訳『一般理論とその後 第13巻および第14巻への補遺』ケインズ全集第29巻, p.89にある。さらに同書のp.297に「いつの日か、論争的でもなく、批判的でもなく、他人の見解との関係においてでもなくて、単に実証理論としてこの問題全体を再述してみたいと思います」とある。奇妙なことに、『一般理論』は、全編とおして古いアイデアを捨て去ることができない人たちの土俵で、古いアイデアを捨て去ることができない人たちの説得を試みている。この説得法はLocke著, 加藤訳『統治二論』第10章にみられる(第10章の訳注1を参照)。また、Gossen著, 池田訳『人間交易論』序文の最後に「私は、部分的にはかなりのそしてはじめは痛みをともなう戦いを通じてはじめて、古い考えから離れることができ、そして捨て去ったもののかわりに比肩しえないほどの美を獲得したときに、そのような痛みが喜びにかわった。真実にしたがいこのように述べることによって、おそらく読者と著者との懸隔を緩和することができるであろう。このように述べることによって、いかがわしさではなく内的な確信によって著者が古い考えと戦ってきたことが読者にはわかるだろう」とある。また、古くはHobbes著, 高野訳『法の原理 ―自然法と政治的な法の原理』p.88に「人間がひとたび正しくない意見を疑うことなく受け入れ、それを異論の余地のない記録として精神の中に書き記してしまうと、そのような人間に知的に語りかけることは、すでに書き散らかされている紙の上に判読できるように文字を記すことと同様に不可能である」とある。Steuart著, 小林監訳『経済の原理』序文p.ixにも類似の章句がある。また、Mill, John Stuart著, 関口訳『自由論』p.133は人間の成長を樹木の成長に例えている。
現代イングランドの経済学者をあまねく『経済学原理』で教化してきたAlfred Marshallは、彼の思想がRicardoの思想を引き継いでいることを強調するのにことさら苦心した *。彼の著作は、主として限界原理と代替原理をRicardo学派の伝統に接木しようとするところに本質があった **。ただし、産出を所与とした生産と分配の理論とは異なる、全体としての産出と消費の理論を切り分けて解説することは決してなかった。Marshall自身がそのような理論を必要と感じていたのか、私にはわからない。しかし、彼の直系の弟子や信奉者はその理論なしで済ませ、またそれが欠けているという感覚もなかったのは明らかである。私が育ったのはこのような時代の空気の中である。私自身これらの原理を教えてきたが、それが不十分であることに気づいたのはここ10年ほどのことに過ぎない。したがって本書は、私自身の思想と成長の中で、イングランドの古典派(正統派と言い換えてもよい)の伝統から抜け出すという反応を表すものである。本書においてこのことを強調し、またいったん受け入れた原理から乖離する点を私が強調するのは、イングランドの場所によってはあまりに論争的だといわれてきた。しかし、イングランド経済学のカトリックとして育まれ、ひとたび信仰篤いカトリックの祭司であった者がプロテスタントに改宗するとき ***、相応の物議を醸すような論争を避けられようか?
しかし、このすべてのことは、ドイツの読者にいくぶん異なる受け止めかたをされると想像する。19世紀のイングランドを支配した正統派の伝統は、ドイツの思想家の心を鷲掴みにすることは決してなかった。ドイツでは、当代の出来事を分析するのに古典派経済学が十分なのか、主要な学派に属する経済学者によって常に強い疑問が呈されてきた。マンチェスター学派もマルクス主義も、究極的にはRicardoから派生したものである ****。――この断定は、その表層だけみれば驚くべきことかもしれないが。しかし、ドイツでは、大多数の学派の見解は、そのいずれにもつかないのが常であり続けた。
しかし、〔Ricardoに源を発するこれらの理論に〕対抗する理論的構築物を打ち立てたと主張されるのは希であるし、 それが試みられることさえ希だといえる。それには懐疑的であり、現実路線を取り、きっちりとした分析は不要だとして、歴史と実証の手法と結果に甘んじてきた。理論研究のうち、最も重要な正統派の議論はWicksellによるものである。彼の著作にはドイツ語版があったし(最近まで英語版はなかったが)、彼の著作のうち最も重要なものの1つはドイツ語で書かれている *****。しかし、彼の後継者の多くは、スウェーデン人かオーストリア人である。そのうちの後者は、古典派の伝統に引き戻そうとして、Wicksellの見解をオーストリア学派の理論にことさら結び付けようとしているのが実際である。したがって、科学のほとんどの分野にみられるドイツ人の習慣とは真逆であるが、ドイツ人は丸々1世紀のあいだ、卓越した、多くの人に受け入れられる、きっちりした経済理論がまったくないことに甘んじてきた。
したがって、正統派の伝統から重要な点で乖離する、雇用と一国経済の産出に関する理論を読者に提示したとき、イングランド人の拒否反応に比べてドイツ人のそれは穏やかであると期待してよいかもしれない。しかし、ドイツ経済学の不可知論に打ち勝つ望みはあるだろうか? きっちりとした分析の手法が当代の出来事に解釈を与え、当代の政策を形成するのに資する重要な何かを持つのだとドイツ人を説得できるだろうか? ドイツ人はとにかく理論を好む ******。長年にわたり〔理論〕なしで過ごしてきたドイツ人経済学者は、どれほどまでに飢え、どれほどまでに渇いているであろうか! 私に試す価値があるのは確かである。もし、ドイツの状況にとりわけよくあうようデザインされた理論のフルコースを、ドイツ人経済学者が準備するのにごくわずかでも貢献できれば、私は満たされた気持ちになる。というのも、本書の大部分は主にアングロ・サクソン諸国の今ある状況を参照して描写し、解説していると言わざるを得ないからである。
しかしながら、自由競争と大幅な自由放任の措置という条件下で生産される所与の産出の生産と分配に関わる理論と比べて、本書が提供すると主張する一国経済の産出の理論は、全体主義国家の状況にはるかにたやすく適用できる。消費と貯蓄を結びつける心理法則、借入れによる支出が物価や実質賃金に与える影響、利子率が部分的に果たす役割――これらは思想体系の欠くべからざる要素であり続ける。
この機会に、翻訳者であるHerr Waeger氏の称賛すべき仕事に対して謝意を表する(本書の巻末に付した彼の手による用語集(1)は、直接的な目的を超えて有益だと期待したい)。また、出版社であるMessrs Duncker and Humblot社にも等しく謝意を表する。この出版社は『平和の経済的帰結』を出版いただいた16年前から今日まで、私がドイツの読者に接する機会を維持し続けてくださった *******。
J.M. KEYNES
1936年9月7日
脚注
(1)この版には収録されていない[編者注]。
訳注
* Marshall著,永澤訳『経済学原理』の扉に植物学者Carl von Linnéの言葉「自然は飛躍しない」が記されている。Marshall研究者による見解については馬場啓之助『マーシャル ―近代経済学の創立者―』勁草書房, pp.15-17を参照。
** Keynes著, 大野訳『人物評伝』p.273に『経済学原理』が「限界と代替」を軸とした経済分析を打ち立てたとの説明がある。
*** Marx著, 武田他訳『経済学批判』p.210にカトリックとプロテスタントの対比がある。
**** 塩野谷版の訳注によれば、マンチェスター学派とは、Richard CobdenとJohn Brightを中心とする、穀物法撤廃を掲げた自由貿易派のことである。イングランド北部の都市マンチェスターを拠点に活動したことからこの名で呼ばれる。この学派については第24章第Ⅲ節で言及される。ただ、文脈から、ここでのマンチェスター学派はCobden, Brightから限界革命に至る思想の流れとひろく捉えるべきとも思われる。限界革命の立役者の一人Jevonsをマンチェスターの代名詞とする例はBagehot(1892)にみられる。https://www.jstor.org/stable/2955973 ドイツ歴史学派の重鎮Schmollerによる『国民経済、国民経済学および方法』の第1章、第12章、第15章、Menger著, 福井・吉田訳『経済学の方法』関係文献Ⅱ, 第15書簡も参照。SchmollerはMengerを「マンチェスター学派の一味」(『経済学の方法』p.362)と批判したようである。SchmollerはMengerらオーストリア学派をドイツの大学から遠ざけたことでも知られる。『国民経済、国民経済学および方法』の訳書(田村訳)第2章のp.18, p.109, p.140にJ. N. Keynesへの言及がある。また、同書所収のSchmoller「国家科学・社会科学の方法論のために」p.201にも同様の章句がある。同書には897年にベルリン大学総長に就任した際の講演録も収録されている。
***** 塩野谷版の訳注によれば、これは『利子と物価』である。この書はR.F. Kahnの手により英訳された。邦訳は北野熊喜男・服部新一両氏によるものが日本経済評論社から刊行されている。 ****** Menger著, 八木他訳『一般理論経済学』1の編者による案内にもドイツ人の理論に対する懐疑について言及がある。MengerとSchmollerの間で展開されたいわゆる「方法論争」については、Menger著, 福井・吉田訳『経済学の方法』を参照。
******* ドイツ語版の序の第1段落は、つづく日本語版の序に援用された。Keynesの『一般理論』は、Mengerの『一般理論経済学』から強い影響を受けていると思われる。
現代イングランドの経済学者をあまねく『経済学原理』で教化してきたAlfred Marshallは、彼の思想がRicardoの思想を引き継いでいることを強調するのにことさら苦心した。彼の著作は、主として限界原理と代替原理をRicardo学派の伝統に接木しようとするところに本質があった。ただし、産出を所与とした生産と分配の理論とは異なる、全体としての産出と消費の理論を切り分けて解説することは決してなかった。Marshall自身がそのような理論を必要と感じていたのか、私にはわからない。しかし、彼の直系の弟子や信奉者はその理論なしで済ませ、またそれが欠けているという感覚もなかったのは明らかである。私が育ったのはこのような時代の空気の中である。私自身これらの原理を教えてきたが、それが不十分であることに気づいたのはここ10年ほどのことに過ぎない。したがって本書は、私自身の思想と成長の中で、イングランドの古典派(正統派と言い換えてもよい)の伝統から抜け出すという反応を表すものである。本書においてこのことを強調し、またいったん受け入れた原理から乖離する点を私が強調するのは、イングランドの場所によってはあまりに論争的だといわれてきた。しかし、イングランド経済学の正統派に育まれ、ひとたび信仰篤いカトリックの祭司であった者がプロテスタントに改宗するとき、相応の物議を醸すような論争を避けられようか?
ひるがえって、日本の読者のみなさんは、イングランドの伝統に対する私の攻撃は不要であるし、私の攻撃に抗うこともなかろう。イングランド経済学の書物が日本でひろく読まれているのはよく知っているが、それらの書物に対する日本のみなさんの受け止めがどうであるかはあまり伝わってきていない。東京の国際経済研究会は、東京稀覯経済書翻刻叢書の第1巻としてMalthusの『経済学原理』を翻刻した〔と聞き及んでいる〕*。この称賛すべき最近の企ては、RicardoではなくMalthus直系の系譜にある書物が共感を持って受け止められるかもしれないと私を勇気づけてくれる。少なくとも一部の人にとってはそうであってほしい。
ともあれ、外国語という無用の困難なしに日本の読者に手にしていただける形にしてくださった東洋経済新報社に、深甚の謝意を表する **。
J.M. KEYNES
1936年12月4日
訳注
* 塩野谷版の訳注に、Malthus『経済学原理』(第2版,1836年)の翻刻が教文館から出版されたとある。Tokyo Series of Reprints of Rare Economic Works には、塩野谷版の訳「東京稀覯経済書翻刻叢書」を採用した。なお、翻刻とは翻訳ではなく、元の本の版組などに忠実に復刻することである。cinniで蔵書検索すると次のようなものが出る。https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB30578408 Keynes『人物評伝』p.248の脚注(4)に、London School of Economicsは経済学および政治学における稀覯論文再刻叢書の第一輯として、1930年にMarshallによる国内価値と外国貿易に関する論文を再刻したとある。
** わが国が『一般理論』を受容する様子については早坂忠編『ケインズとの出遭い ―ケインズ経済学導入史―』日本経済評論社, 1993年 を参照。
イングランドの政治経済学は、100年あるいはそれ以上の長きにわたって正統派に支配されてきた。これは、不変の教義が優勢であったということではない。その逆である。教義は前へ前へと発展してきた。しかし、教義の前提、雰囲気、方法は驚くほど同じままであり、すべての変化に連続性を見出すことができる。私を育んだ正統派はこうした連続的移行を特徴とする。私は〔正統派〕を学び、教え、書き著してきた。傍からみれば、私はいまだにそれに属しているかもしれない。後年、学説史の研究者は、本書を本質的には同じ伝統に属するものとみなすであろう。しかし、私自身がこのほど上梓する〔『一般理論』〕と以前上梓したそれに通ずる〔『貨幣論』〕は、私自身を正統派から脱皮させ、〔正統派〕に強い反感を抱かせ、何かから解放し、解き放つ感じがする。そして、私のこうした心境は、いくつかの文節でことさら論争的な書き振りになっていること、特定の見方を保持する人にあまりな態度をとっていること、そして世間の評判には目もくれない、という本書の欠点を説明する *。私は、私の周りの人たちを説得したかったのであって、その外側に位置する〔人たち〕の見解に十分届くようにはしていなかった。3年後の今、脱ぎ捨てた昔の皮の匂いをほとんど忘れ、新しい皮に慣れてきている。再度書き直すことが許されるのであれば、上記の欠点がないよう努め、私自身の立場をもっと明確に述べることができるのだが。
フランスの読者に申し上げるこうしたことのすべては、説明でもあり弁解でもある。というのも、フランスでは、当代の見解に影響を及ぼす正統派の伝統に、わが国にみられるような権威がないからである。米国においては、事情はイングランドとほぼ同じであり続けた。しかしフランスにおいては欧州各国と同様、20年前に旬であったフランス自由主義経済学派の〔影響力が〕途絶えて以来、支配的な学派がまったくないままにあり続けた(この学派は影響力を失ってからも長い時代を立派に生き抜いたが。Economic Journal の若き編集者となった私のはじめの仕事は、彼らのうちの多く―― Levasseur、Molinari、Leroy-Beaulieu等の各氏に宛てる追悼文を書くことであった **)。もしCharles GideがAlfred Marshallと同じ影響力と権威を勝ち得ていたら、〔フランスの読者は〕私たちと似た境遇にあったかもしれない ***。実情、フランスの経済学者は体系的思考に深く根差しておらず、あまりに折衷的である(と思うこともある)。おそらくこのことは、私の言わんとすることをより受け入れやすくするであろう。ただ、イングランドの批評家の中には、〈古典〉学派や〈古典派〉の経済学者といった語を〔私が〕誤用していると思う人もいるので、読者のみなさんは、私が語るとき私が語ることに時として疑問を持つという結果にもなるかもしれない。したがって、私自身のアプローチの主たる相違点をごく短く示唆しておくことを試みれば、フランスの読者諸氏の助けになるかもしれない ****。
私は自らの理論を一般理論と名付けた。この語によって、私は一国全体の経済体系のふるまいを結びつけることを主に意図している。――特定の産業、企業、個人の所得、利益、産出、雇用、投資、貯蓄よりむしろ、総所得、総利益、総産出、総雇用、総投資、総貯蓄を結びつけることを意図している。そして、取り出した経済の一部について正しい帰結を一国全体のシステムに拡大解釈すれば、重大な誤りが生じると私は主張する。
私が意図することを例示しよう。一国全体のシステムで、所得のうち消費されないものという意味での貯蓄の量は新規の純投資の量に等しく、またそうあらねばならないという私の主張は、逆説だと思われ、また広範な論争を招いた。この表現は、一国全体のシステムとしては確かに成立すべき貯蓄と投資が等しいという関係が、任意の個人についてはまったく成り立たない事実に見出される。私が責任を持つ新規の投資が私自身の貯蓄量と何らかの関係を持つべき理由はまったくない。極めて正当にも、個人の所得が彼自身の消費や投資と独立の関係であると私たちはみなしている。しかし、私が指摘したいのは、一個人の消費と投資から生じる需要が他の人たちの所得の源であり、総所得は独立ではなく、その正反対に支出と投資をする個人の傾向しだいであるという事実を見過ごしてきたということである。そして同様に、支出し投資する人々の傾向は彼らの所得しだいであるから、総貯蓄と総投資の間に打ち立てられる関係は厳密に等しくまた等しくあらねばならないとごく簡単に示すことができる。この点については、理性的な論争が入り込む余地はまったくない。正しく理解しさえすれば、この結論は平凡なものである *****。しかし、それはより多くのものが続く思考回路を動かす。一般に、産出と雇用の実際の水準は、生産余力や既存の所得水準にではなく、生産するという今期の意思決定、それはまた投資するという今期の意思決定に左右されるが、と当期とそれ以降の消費に対する現段階での期待による。しかも、消費の傾向と貯蓄の傾向(と私が名付けるもの)、すなわち所与の所得をどのように配分するかということについての個人の心理的な傾向が社会全体にもたらす帰結、を知ればたちどころに所与の新規投資の水準にみあう利益均衡を達成する所得水準、そしてしたがって産出と雇用の水準がどれほどか計算することができる。これは乗数理論の開発による。また再説すると、貯蓄の傾向が高まると、他の条件が変わらなければ、所得と産出が収縮するであろう。他方、投資の誘因が高まると、〔所得と産出〕は拡張するであろう。こうして、一国全体のシステムの所得と産出を決める要因を分析することができる。――私たちは最も厳密な意味での雇用理論を持つ。この思考から現れる帰結は、財政と公共政策一般、そして景気循環の問題にとりわけ強い関係がある。
本書に特有な特徴であるもうひとつの主要な点は、利子率の理論である。近年に多くの経済学者が考えてきたことは、当期の貯蓄率が自由な資金の供給を定め、当期の投資率は〔資金の〕需要によって支配され、利子率は貯蓄の供給曲線と投資の需要曲線が交差する点を決めるいわば均衡を導く価格要素であるということである。しかし、総貯蓄が総投資に厳密に等しいことがあらゆる状況で必要とされるのであれば、この説明が崩壊するのは明らかである。この〔問題の〕解決のために、別の方法を探さねばならない。私がみつけたのは、新規資産財の需要と供給の均衡ではなく、貨幣の需要と供給、すなわち流動性を求める需要とそれを満たすための手段、の均衡を維持する利子率の働きである。ここで私は、19世紀以前の古い経済学者たちに立ち返る。例えば、Montesquieuはこの真実を相当明瞭に理解していた(1)。――Adam Smithと並び称されるフランス人Montesquieuは、フランス最高の経済学者であり、(経済学者が持ちあわせるべき)優秀な頭脳と良識においてフィジオクラットを抜きんでた存在である ******。しかし、これらすべてがどう機能するかの詳細を示すことは本書の本文に譲らねばならない。
私は本書を『雇用、利子、貨幣の一般理論』と名付けた。そして、注意を促したい3つめの特徴は貨幣と物価の取り扱いである。本書の分析は、かつて囚われていた〔貨幣〕数量理論の混乱からついに私が逃れる様を記録したものである。私は、一国経済の物価水準は個別〔の財〕と厳密に同じ方法で、すなわち需要と供給の影響を受けて決まると考える。賃金の水準、使われていない工場と労働力の余力、市場と競争の状態といった技術的条件が個々の生産物と一国全体の生産高の供給条件を決定づける。個々の生産者に所得を提供する企業家 *******の意思決定と、その所得を配分する〔生産者たち〕の意思決定が条件を決定づける。そして、価格群――個別の財の価格と物価水準の両方――は、これら2つの要素の結果として導かれる。貨幣と貨幣量は、成り行きのこの段階には直接影響しない。〔貨幣とその量〕は、分析のより早い段階ですでに役割を果たしている。貨幣量は流動的な資源の供給を決め、したがって利子率を決め、そして(とりわけ確信のような)その他の要因とともに投資のインセンティブを決める。これがさらに所得、産出、雇用の均衡水準を定め、加えて(それぞれの段階でほかの要素とともに)供給と需要の影響をつうじて、一国全体の物価水準が打ち立てられる。
近年に至るまでいずこにおいても、経済学は、一般に認知されているよりはるかに大きく、J. -B. Sayの名に結び付けられる学説によって圧倒されてきた。彼の〈市場の法則〉は、大多数の経済学者によって長らく打ち捨てられてきたが、〔Say〕の基礎的な想定から、とりわけ需要は供給によって作り出されるという彼の誤りから逃れられていないのは確かである。Sayは、経済システムがいつも余力一杯のフル稼働状態にあり、それゆえ新しい活動はいつもほかの活動の代わりであり、新たに加えられるものでは決してないと暗に想定していた。〔Sayの〕後に続くほぼすべての経済理論は、ある種それが要求してきた、この同じ想定に基礎づけられている。しかし、そのような基礎を持つ理論は失業と景気循環の問題に取り組む力がない。おそらく、生産の理論についてはJ.-B. Sayの学説から逃れ切ること、利子の理論についてはMontesquieuによる利子の学説に立ち返ることを言うことによって、私が本書で主張することをフランスの読者に最もよく表現しうる。
J.M. KEYNES
1939年2月20日
キングスカレッジ
ケンブリッジ
脚注
(1)私は、『法の精神』第22編第19章を特に念頭においている *******。
訳注
* too little ad urbem et orbem を「世間の評判には目もくれない」と訳出した。
** ケインズは1911年に編集者となった。ケインズによる追悼文についてはEconomic Journalの1912年22巻85号, pp.152-156を参照。https://www.jstor.org/stable/2221657
*** Charles GuideについてはEconomic Journalの https://www.jstor.org/stable/2955944 、https://www.jstor.org/stable/2220664 等を参照。
**** differentiae を「相違点」と訳出した。
***** banaleを「平凡」と訳出した。
****** physiocratsを「フィジオクラット」と訳出した。中川辰洋『チュルゴーとアダム・スミス』pp.189-190によれば、これはギリシャ語の自然(physis)と力(karatia)を組み合わせた造語である。直訳すると自然の力、転じて神の摂理となる。現代の読者は重農主義者という語からこうした背景を汲み取れないと考えた。フィジオクラットについてはMarshall著, 永澤訳『経済学原理』第1分冊, 付録B, p.266を参照。
******* 野田他訳『法の精神』岩波書店, 中巻, 第4部第22編第19章, pp.334-335を参照。なお、この脚注の位置を示すのはアスタリスク(*)であるが、本訳書はアスタリスクを訳注に用いているので番号を付して表示した。「モンテスキュー 貨幣」で検索すると多くの興味深い資料をみることができる。
******* entrepreneur を「企業家」と訳出する。塩野谷版、間宮版では企業者であるが、今日ではあまり使われない語であるため企業家とした。『一般理論』の文脈では、起業家という訳では意味が狭くなりすぎるようである。Jevons, William Stanley著, 小泉他訳『経済学の理論』p.198にも企業者という訳語がある。
一般という語 *に意を込めて、本書を『雇用、利子及び貨幣の一般理論』**と名付けた。書名をこのようにしたのは、私の主張と結論の特徴を〔本書の〕主題に関する古典派(1)の理論の特徴と対比させるためである。古典派理論は私を育み、実践と理論の両面で、当代の支配階級と学術階級の優位を占める経済思想である。この事情は100年前から変わらない。〔にもかかわらず、〕私はあえて、古典派理論の公準は特殊な場合にのみ適用でき、一般には適用できないと主張したい。古典派の公準は、取りうる均衡のうちある極限だけが存在すると想定しており ***、しかも古典派理論が想定するこの特別な場合の特徴は、図らずも私たちが実際に営む経済社会の特徴ではない。よって、その教えを経験的事実に当てはめようとすれば誤解を招き、破滅的な結果になる。
脚注
(1)Marxの手による〈古典派経済学者〉という語は、RicardoとJames Mill、そして彼らより前の人たちを総称する語である。すなわち、Ricardo経済学に結実する理論を創ってきた人たちのことである。誤用との指摘を免れないかもしれないが、私はRicardo経済学の理論を好んで取り入れるRicardoにしたがう人たち、(たとえば)J.S. Mill、Marshall、 Edgeworth、Pigou教授も〈古典派〉に含めることを習いとしてきた ****。
訳注
* prefixを「語」と訳出した。直訳では接頭辞だが、接頭辞はunemploymentのunのように、単語(employment)の前に付すことで意味を付加する要素を意味する。ここでは、単にTheoryではなく、その前にGeneralに付したことを意味する。訳では書名のはじめに「一般」がこないので 「語」とした。なお、「一般」は、Marshall著,永澤訳『経済学原理』に何回か登場する。
** Pigou教授の著作に『失業の理論』がある。第19章の補論にみられるように、ケインズはこの書に対して批判的である。この『雇用、利子及び貨幣の一般理論』という書名は、一世代上の経済学者たちへの反論というKeynesの意図を象徴している。塩野谷版は『雇用・利子および貨幣の一般理論』、間宮版は『雇用、利子および貨幣の一般理論』、山形版は『雇用、利子、お金の一般理論』、大野版は『雇用、金利、通貨の一般理論』としている。興味深いことに、学者である塩野谷と間宮は「および」を用い、翻訳家である山形と大野は「および」を用いていない。ここでは学者の訳にしたがい「及び」を用いた。また、「通貨」「お金」ではなく、「貨幣」を用いた。
*** assumeを「想定する」、assumptionを「想定」と訳出した。
**** 古典派についてはケインズ全集第29巻, pp.321-331を参照。Hobson著, 高橋訳『異端の経済学者の告白[ホブスン自伝]』p.20に「幸せにも価値法則には、現在の、そして誰か将来の著者が解決せねばならぬ問題は何ひとつ残されていない」というJ.S. Millの言葉が引用されている。『一般理論』第14章第Ⅰ節に古典派と新古典派という語が現れる。そこでは、貯蓄と投資が常に均衡していると主張するのが古典派であり、貯蓄と投資が均衡しないことがありうると主張するのが新古典派であるとされる。
価値と生産の理論にまつわるたいていの学術論文は、利用に供される所与の量の資源が様々な使途に配分されるようすと、この資源量が利用に供される想定の下で、資源に分け与えられる報酬と、資源がもたらす生産物に付与される価値を決める条件に関心を寄せている(1)*。
雇用可能な人口規模という意味で、あるいは天然資源や資産設備の蓄積の程度という意味で、利用可能な資源量の問題についても記述的にではあるがよく取り上げられてきた **。しかし、利用可能な資源のうち実際に用いられるものを決める純粋理論について、詳細に検討するものはこれまでほとんどなかった。もちろん、まったく検討されてこなかったというと語弊があるだろう。というのも、利用される〔資源量の〕変動に関する、あまたある論考のすべてでそれは扱われてきたからである。私が言いたいのは、それが見過ごされてきたということではなく、その背後に潜む基礎理論は単純明快だとされてきたので、ごく希に言及される程度であったということである(2)。
脚注
(1)これはRicardo学派の伝統である。というのも、Ricardoは、その分配とは異なるとして、国民分配分の量にいかなる関心を持つことも明確に拒絶したからである。この点、彼は自らの理論の性質を正確に評価していた。しかし、彼の後につづく見識に劣る人たちは、富の原因に関する議論に古典派理論を用いてきた。1820年10月9日付けの、Malthusに宛てたRicardoの手紙に次の一節がある。〈政治経済学は富の性質と原因に関する研究だとあなたはお思いでしょう。――私は、それを作るのに同意した諸階級へ、産業の生産物を分配する、そのやりかたを決める法則に関する研究と呼ぶべきだと思います。量について法則を打ち立てることはできません。しかし比率についてならかなり正確な法則を打ち立てられるでしょう。前者の研究は虚ろで当てになりませんが、後者の研究だけは科学の真の目的たりえるという意を日々強くしています。〉
(2)たとえば、Pigou教授の『厚生経済学』(第4版, p.127)に〈この議論をつうじて、その反対のことを明示する箇所を除き、所有者の意思に反して用いられない資源があるのはふつうである、という事実を無視する。こうすることで議論の中身に影響を与えずに、説明を簡略化できる。〉(イタリックは筆者)とある。つまり、国民分配分全体の量を取り扱ういかなる企ても明確に放棄するRicardoに対して、Pigou教授は、国民分配分の問題に注力した著作の中で、ある程度の非自発的失業が生じているときも完全雇用のときと同じ理論を保持している。
訳注
* resourcesを「資源」と訳出した。次の段落冒頭にあるように、資源とは働き手、天然資源、設備を意味する。また、報酬とは要素費用(賃金と利潤)への配分比率のことであり、生産物の価値とは財貨・サービスの相対価格のことである。
** 「記述的」という表現は、SchmollerとMengerの間で繰り広げられた「方法論争」を意識したものと思われる。この点、Schmoller著, 田村訳『国民経済、国民経済学および方法』所収の「国家科学・社会科学の方法論のために」p.202、Menger著, 福井・吉田訳『経済学の方法』所収の訳者による「方法論争」概観(pp.392-402)を参照。KeynesはMarshall著, 永澤訳『経済学原理』第1分冊に収録されている「付録 B 経済科学の発展」を通してドイツの経済学に触れたのかもしれない。
Ⅰ
古典派の雇用理論は――単純明快だとされるが――ほとんど検証されていない次の2つの基礎的な公準にもとづいているようである。すなわち、
Ⅰ.賃金は労働の限界生産物に等しい
つまり、雇用者の賃金は雇用が1単位減少したときに失われるであろう価値(産出の減少によって費やさずに済むあらゆる費用を控除した後の価値)に等しい。ただし、競争と市場が不完全であるときには、ある原理にしたがって、両者は等しくならないかもしれない *。
Ⅱ.所与の雇用量が利用されるとき、賃金がもたらす効用は、その雇用量における限界負効用 **に等しい
つまり、雇用者の実質賃金は、実際に利用される雇用量が実現するのに(雇用者自身の見立てで)ちょうど十分〔な水準に〕ある。ただし、第1公準に付される競争の不完全性という留保条件のように、潜在的雇用者が団結することによって、個々の労働単位1つ1つについて〔賃金の効用と労働の限界負効用の〕等しさが撹乱されるかもしれないという留保がつく。ここで負効用は、人や団結した人々が下限を下回る効用しか得られない賃金を受け入れるより働かないことを選ぶようになる、あらゆる理由を含むと理解されなくてはならない ***。
第2公準は〈摩擦的〉失業なるものと矛盾しない。というのも、完全雇用の継続を阻む多種多様な調整の不備があると考えるのが現実的な解釈だと正当化できるからである。〔摩擦的失業の〕例には、見込み違いや需要の間欠のために特殊技能を持つ人の数の相対バランスが一時的に崩れることによる失業、予期せぬ変化への対応が遅れることによる失業、現職から次職へ移るとき一定の時間がかかること、つまりとどまることを知らない社会につきものの〈仕事のあいま〉に労働力の一部が雇用されないという意味での失業がある。第2公準は〈摩擦的〉失業のみならず、その限界生産性によってもたらされる生産物の価値にみあう報酬を労働単位が受け取ることを拒んだり、労働単位にその能力がないことから生じる〈自発的〉失業とも矛盾しない。〔自発的失業は、〕制度や慣習の結果として、団体交渉の結果として、変化への対応が遅れた結果として、はたまた頑迷さの結果として生じる。〈摩擦的〉失業と〈自発的〉失業というこれら2種で分類は尽くされる。古典派の公準の下では、〈非自発的〉失業という語によって定義される、第3の型が生じる余地はない。
古典派理論によれば、上述の留保がつくものの、雇用量は2つの公準からただちに導かれる。第1〔公準〕から雇用の需要表を、第2〔公準〕からその供給表を得る。雇用量は、限界生産物の効用と限界雇用の負効用とがバランスする点に定まる。
この考えにしたがうと、雇用を増やす可能性がある手段は次の4つしかない。
(a)〈摩擦的〉失業を減らすために組織を改善し、また予測精度を高める。
(b)〈自発的〉失業を減らすために労働の限界負効用を減らす。負効用は新たな働き手を雇うときに払う実質賃金によって測られる。
(c)賃金財産業において、労働の物的な限界生産性を高める。(貨幣賃金から得られる効用がその価格に左右されるような財、という意味を持つPigou教授による便利な語〔賃金財〕****を用いて〔表現した〕。)
(d)資産階級の支出を賃金財から非賃金財に移し替え、賃金財の価格に対する非賃金財の価格を引き上げる。
私の理解では、これがPigou教授による『失業の理論』――古典派の雇用理論に関する唯一現存する詳細な解説――が言わんとするところである(1)。
脚注
(1)Pigou教授による『失業の理論』については、第19章の補論でより詳しく検討する *****。
訳注
* Marshall著、永澤訳『経済学原理』第4分冊, pp.17-24, pp.50-52を参照。塩野谷版の訳注は、完全競争下と不完全競争下の生産物市場を想定して第1公準が成り立つことを数式で示している。
** marginal disutilityを「限界負効用」と訳出した。従来は限界不効用と訳出されることが多かったが、伊藤・宮崎『コンメンタール ケインズ一般理論』日本評論社 のp.34に「不効用ではなく、負効用ですね」とあるのに倣った。
*** Marshall著、永澤訳『経済学原理』第4分冊, pp.35-39を参照。塩野谷版の訳注は、完全競争下と不完全競争下の労働市場を想定して第2公準が成り立つことを数式で示している。
**** 賃金財の定義はTheory of Unemploymentの第3章で与えられる。また、ケインズ全集第20巻のpp.579-591に関連する議論がある。
***** Theory of Unemploymentの第2章によれば、「埋められないポジションの空き」という意味で失業という語を用いているようである。この意味の失業が生じると生産が減るので、就業している人が買える商品が減り、また失業している人が買える商品も減る。これが社会問題だとされる。現代の私たちには奇妙に聞こえるが。また、第5章によれば、賃金財のフローFは、雇用量Eと平均賃金wの積によって表される。塩野谷版の訳注には、上記(a)から(d)の
Ⅱ
全人口〔を見渡すと、〕現行賃金の下で、働きたい人が働きたいだけ働いていることは希であるのが事実である。これに照らすと、失業の種類が上記〔の2種〕で尽きているというのは本当であろうか? というのも、需要さえあれば、現行の貨幣賃金の下でより多くの人が働くのはふつうだからである(1)。古典派は、この現象と第2公準が矛盾しないように、次のように考える。現行の貨幣賃金の下で、働きたい人すべてが雇われる前に労働力の需要が満たされてしまうのは、より低い賃金では働かないという公然あるいは暗黙の協定を働き手が結んでいるためである。働き手が総じて貨幣賃金の引き下げに応ずれば、より多くの人が働けるであろう、と。もしそうなら、明らかに非自発的であるこの種の失業は、厳密な意味での非自発的失業ではなくなり、団体交渉などによる〈自発的〉失業という上記の分類に加えられるべきものとなる。
これに対して2つの異議 *が提起される。第1の異議は実質賃金と貨幣賃金、それぞれに対する働き手の態度に関するものである。これは理論上の大きな問題とならない。第2の異議は理論上の問題となる。
さしあたり、働き手はより低い貨幣賃金で働くつもりがなく、貨幣賃金が現行の水準から引き下げられると、ストライキをするなどして今雇われている働き手は労働市場から退出するとしよう。このことから、現行の実質賃金は労働の限界負効用を測る正確な尺度だと言えるだろうか。必ずしもそうとは言えない〔これが第1の異議である〕。というのも、現行の貨幣賃金が引き下げられると働き手は退出するにもかかわらず、賃金財の価格が上がったことにより賃金財で測った現行の貨幣賃金の価値が下がっても退出しないからである。ある範囲において、働き手は最低限の実質賃金ではなく、最低限の貨幣賃金を要求する、と言い換えてもよい。古典派は、理論の大幅な修正を迫られるかもしれないこのことを黙殺してきた。しかし、見ぬふりはできないのである。労働力の供給が実質賃金のみによって決まらないのであれば、彼らの理論は粉々になり、何が実際の雇用を決めるのか皆目見当がつかなくなる(2)。古典派は気づいていないようであるが、労働力の供給が実質賃金のみによって決まらないのであれば、物価が変動するたびに労働力の供給曲線はまるごと動いてしまう。彼らの手法は極めて特殊な想定と結びついており、より一般的な状況を取り扱うために用いることはできない **。
日常の経験から、働き手は労働力を供給する条件として、実質賃金ではなく貨幣賃金の提示を求めるのは(ある範囲内で)単なる可能性どころか通例であることに疑いはない。貨幣賃金の引き下げにはたいてい抗う一方で、賃金財の価格が上がっても働くのをやめないのが働き手の実際である。貨幣賃金の引き下げに抵抗しながら実質賃金の引き下げに抵抗しないのはおかしい、といわれることがある。しかし、後節(p.14〔本章第Ⅲ節〕)に掲げる理由から、一見したところよりまっとうであると思われる。後にみるように、折よくそうなのである。おかしいかまっとうかいずれにしても、実際これが働き手のふるまいであるのは経験が教えるところである。
加えて、働き手が貨幣賃金の引き下げを拒むために不況期に失業が生じるという主張が、事実によって支持されないのは明らかである。1932年の米国における失業は、働き手が貨幣賃金の引き下げをかたくなに拒んだために生じたとか、経済の機構が提供しうる生産性を超える実質賃金を要求したために生じたと声高に主張されているが、この説は妥当性を欠いている。〔大恐慌のさなかに〕経験したのは、働き手が要求する最低限の実質賃金と働き手の生産性に著しい変化がまったくなくても、雇用量は大きく変動するということであった。経済ブーム期より不況期に働き手はより挑戦的になるのであろうか。ブーム期より不況期に働き手の物的生産性は低下するのであろうか――そのようなことはまず考えられない。経験から導き出されるこれらの事実は、古典派の分析が透徹していないことを疑わせるに十分である ***。
貨幣賃金の変化と実質賃金の変化との実際の関係について、統計調査の結果をみるのは興味深い(3)。特定の産業に特有の変化が生じるとき、実質賃金は貨幣賃金と同じ方向に動くようである。他方、賃金の一般水準に変化が生じるとき、実質賃金は貨幣賃金と同じ方向に動くのがふつうだとはとてもいえず、ほとんどいつも反対方向へ動いているように思う。つまり、貨幣賃金が上がるとき実質賃金は下がり、貨幣賃金が下がるとき実質賃金は上がる。これは、短期において雇用が減ると、それぞれまったく異なる理由で、貨幣賃金は下がり実質賃金は上がる傾向にあるためである。雇用が減るとき、働き手は〔貨幣〕賃金の引き下げに応じやすくなるが、所与の資産装備の下で産出が減ると限界収益は増え、状況が同じであれば実質賃金が上がらざるを得ない ****。
確かに、現行の実質賃金が、それを下回るといかなる状況でも今より多くの人が働くことはない下限にあるのが本当であれば、摩擦的失業は存在しても、非自発的失業は存在しないであろう。しかし、これが必然だというのは愚かしい。というのも、現行の貨幣賃金の下で、賃金財の価格が上がったことにより実質賃金が下がっても、今雇われている人より多くを利用できることが通例だからである *****。もしそうなら、現行の貨幣賃金と同等の賃金財〔すなわち実質賃金〕は、労働の限界負効用を測る正確な尺度ではなくなり、第2公準は完全な形では成り立たなくなる。
しかし、より本質的な〔第2の〕異議がある。第2公準は、労働の実質賃金が労使の賃金交渉によって決まるという考えにもとづく。もちろん、実際の交渉が貨幣〔賃金〕について行われるのを認めるし、働き手が応じうる実質賃金はそれに対応する貨幣賃金と無関係でなくてもよいことさえも認める。にもかかわらず、実質賃金を決めるのは、交渉の結果まとまる名目賃金である〔と考えている〕。つまり、古典派の理論は、貨幣賃金の引き下げに応ずることで、働き手はいつでも自在に実質賃金を引き下げられると想定しているのである。労働の限界負効用と等しくなるように実質賃金が調整される傾向にあるという公準は、賃金に対応する雇用量を決められないまでも、働き手は仕事に応じた実質賃金を決められる立場にあると想定しているのは明らかである。
端的に言って、伝統的な理論は労使の賃金交渉によって実質賃金が決まるという考えに固執している。そして、雇い主が自由に競争し働き手が労働組合を組織しないとき、望みさえすれば働き手は、その賃金で雇い主が〔利用〕を申し出る ******雇用量の下で限界負効用と調和する実質賃金を選べると想定している。もしそうでなければ、実質賃金と労働の限界負効用が等しくなることを期待すべき理由は、もはや何ひとつなくなる。
古典派は、その帰結を働き手全体に当てはめようとしていることを思い起こさねばならない。ほかの誰かが拒んだ貨幣賃金の引き下げを受け入れたために、一人の人が職を得られるという類のことを考えていない。〔古典派の帰結〕は、閉鎖経済と開放経済のいずれにも等しくあてはまり、開放体系の特徴にも、貿易相手国の賃金引き下げにも左右されない。これらは完全に議論の対象外であるのは明らかだが。また、貨幣で測る賃金総額の減少が銀行体系と信用の状態に与える間接的な影響にも依拠していない。この点については本書の第19章で詳述することにしたい。古典派の帰結は、短期において、若干の留保がつくものの、いつもそれに比例してというわけではないが、閉鎖経済における貨幣賃金の一般水準の低下がともかくある程度の実質賃金の低下をともなうという考えに依拠している。
貨幣賃金をめぐる労使交渉によって実質賃金の一般水準が決まるという想定が正しくないのは今や明らかである。この想定を肯定する試みも否定する試みもほとんどなされてこなかったのは奇妙である。というのも、この想定は古典派理論の一般的な方向性とまったく矛盾しているからである。古典派は、貨幣で測った限界主要費用によって物価が支配され、貨幣賃金が主として限界主要費用を支配すると私たちに信じ込ませてきた。貨幣賃金が変化すると物価もほぼ同じ比率で変化するため、実質賃金も失業水準もほとんど変化しない。働き手にわずかでも得失が生じるとすれば、変わらないままにされた限界費用の他の要素の得失と引きかえによる(4)。しかし、〔古典派〕は、働き手が自らの実質賃金を決める立場にあるという固定観念と、おそらくは物価が貨幣量に左右されるという先入観に引きずられて、考えの道筋から逸れてしまったようである。そして、働き手は自らの実質賃金を決める立場にあるという命題を一度信じ込んでしまうと、働き手は完全雇用、つまり所与の実質賃金と矛盾しない最大の雇用量、に対応する実質賃金をいつでも決められる立場にあるという命題と取り違えられ、定着してしまった。
要約:古典派の第2公準に対する2つの異議がある。第1〔の異議〕は働き手のふるまいに関するものである。物価が騰り実質賃金が下がっても、貨幣賃金に変化がなければ、現行賃金の下で申し出られる利用可能な労働力の供給は、物価が騰る前に実際に雇われていた量を下回ることはふつうない。そうでないと思うことは *******、現行賃金で働きたいのに現在失業している人たちは、生活費がわずかでも上がると、職探しをやめてしまうと思うことである。この奇妙な想定は、Pigou教授の『失業の理論』(5)に潜んでおり、また、すべての正統派にとって暗黙の了解事項である。
もう1つのより根源的な異議は、賃金交渉によって実質賃金の一般水準が直接決まるという想定をよしとしないところから生じる。〔これについては〕用意した諸章で〔議論を〕展開することにしたい。賃金交渉によって実質賃金が決まるというのは、古典派に忍び入った不正な想定である。というのも、現況の雇用量の下で、限界負効用と調和する貨幣賃金の一般水準に等しい賃金財〔すなわち完全雇用となる実質賃金〕をもたらすために、働き手全体が利用できる手段はまったくないからである。働き手全体が企業側と交渉し、貨幣賃金を見直しても、実質賃金を引き下げることはできない。これが本書の主張するところである。実質賃金の一般水準を決めるのは他の特定の諸力であることを示すことにまず努めたい。このことを明るみに出す試みは本書の主題の1つである。私たちが生活しているこの経済が実際にはどのように動くのかという点について、根本的に誤解されてきたと主張したい。
脚注
(1)p.5の脚注〔第2章はじめの脚注2〕に掲げたPigou教授の引用を参照。
(2)この点については第19章の補論で詳述する。
(3)この点に関するより進んだ議論は補論3 *******を参照[編集者]。
(4)私の考えでは、この議論が真実の要素を多く含んでいるのは確かである。しかし、第19章で示すように、貨幣賃金が変わる結果生じることの全容はさらに複雑である。
(5)第19章の補論を参照。
訳注
* observationを、第Ⅱ節第12段落(要約:から始まる段落)にある two objectionsを先取りして「異議」と訳出した。
** 塩野谷版の訳注は、均衡雇用量一定の下で物価変動が名目賃金に与える影響を、グラフを用いて説明している。さらに第19章第Ⅰ節を参照するよう示唆している。間宮版の訳注は、名目賃金が下がることによる実質賃金の低下と物価上昇による実質賃金の低下は労働供給に異なる影響を及ぼすと解説している。
*** ケインズ全集第20巻pp.472-489に、1930年2月19日、BBCでサー・ジョサイア・スタンプと失業問題を議論したことが記されている。ケインズは公共投資を主張したが、イングランド銀行理事であったスタンプは、金融センターとしてのロンドンの地位が低下するとこれに反対した。
**** Dunlopは、この節にみられる「貨幣賃金と実質賃金は逆方向に変化する」というケインズの主張の反証を提供した。間宮版の訳注はここでDunlopの研究に言及しているが、本訳書は本節の脚注(3)に付した訳注で言及する。Malthus著, 小林訳『経済学原理』上,pp.181-182のRicardoの見解(穀物価格が上がると生活費が上がるので賃金も上がるが、穀物価格ほどの上昇ではない)も参照。
***** 間宮版の訳注は、この文がケインズによる非自発的失業の定義だと指摘している。よりフォーマルな定義は本章第Ⅳ節で提示される。
****** offerは労働力の需要を表す語であることから「申し出る」と訳出した。
******* 原文はTo suppose that it doesだが、直前の否定文を受けていることから、「そうでないと思うこと」と訳出した。
******** 補論3はケインズ全集に収録されている Keynes, J.M., Relative Movements of Real Wages and Output, Economic Journal, March 1939. https://www.jstor.org/stable/2225182である。本訳書では訳出しない。この論文は、「貨幣賃金と実質賃金は逆方向に変化する」というケインズの主張の反証を提供したDunlop論文 https://www.jstor.org/stable/2225435 への応答である。Dunlopの反証に関する往復書簡はケインズ全集第29巻, pp.343-349を参照。Dunlopは、1948年と1998年に https://www.jstor.org/stable/1910503 と https://www.jstor.org/stable/2646972 という後日譚を著した。
Ⅲ
個人と集団の貨幣賃金をめぐる争いが実質賃金の一般水準を決めると思われがちであるが、それは実際には異なる目的に向けられている。働き手はまったく自由には移動できず、賃金は様々な仕事の相対的な強みを厳密には反映しないために、他の人たちと比べて貨幣賃金の引き下げに応じる個人と集団は、実質賃金の相対的な引き下げをこうむるであろう。このことは、貨幣賃金の引き下げに対する抵抗を正当化するに十分である。他方、すべての働き手に等しく影響する、購買力の変化に伴う実質賃金の引き下げにことごとく抵抗するのは非現実的である。実際、〔物価の騰貴が〕昂進しないかぎり、このように生じる実質賃金の引き下げに働き手はふつう抵抗しない。特定の産業で働き手が名目賃金の引き下げに抵抗するのは、実質賃金の引き下げすべてに対する類似の抵抗が総雇用量の増加を阻むのと同じような克服しがたい障害にはならない。
貨幣賃金をめぐる争いは、主として実質賃金の総額が多様な働き手の集団に配分されるようすに影響するが、雇用1単位の平均には影響しない、と言い換えてもよい。それを決めるのは、本書が示すように、異なる一群の諸力である。働き手の一部が団結することは、相対的な実質賃金を守るのに有効である。実質賃金の一般水準を決めるのは経済体系の別の諸力である。
したがって、働き手は、無意識的かつ本能的であるものの、幸運にも古典派よりすぐれた経済学者である。彼らは、現行雇用量の下で、貨幣賃金に対応する実質賃金が労働の限界負効用より高くとも、それが経済のそこかしこに生じることは希であるために、貨幣賃金の引き下げに抗う。他方、実質賃金が労働の限界負効用より低くなる恐れがないかぎり、総雇用が増え、相対的な貨幣賃金が変わらないような実質賃金の引き下げに働き手は抗わない。いかなる労働組合も、たとえそれがわずかであろうと、貨幣賃金の引き下げにある程度抵抗する。しかし、生活費があがるたびにストライキを起こせると夢想する労働組合はなかろう。古典派は労働組合が総雇用を増やす障害になるというが、労働組合は障害にならないのである *。
訳注
* von Böhm-Bawerk著, 塘訳『国民経済学 ―ボェーム・バヴェルク初期講義録―』pp.144-145に同様の章句がある。
Ⅳ
ここにおいて、古典派が生じる余地はないとする第3の型の失業、〈非自発的〉失業、を厳密に定義しよう。
〈非自発的〉失業は、単に働ける余力が使い尽くされていないということを意味しないのは明らかである。1日10時間働ける人の余力を超えていないからといって、その人が8時間働くことは〔非自発的〕失業とされない *。実質の報酬がある水準を下回るときには働かないという取り決めにしたがって、労働組合が労働力を〔労働市場から〕引き上げることも〈非自発的〉失業とみなすべきではない。また、便宜のために〈摩擦的〉失業を〈非自発的〉失業の定義から除くことにする。すると、〔非自発的失業は〕次のように定義される。貨幣賃金に対する賃金財の価格がわずかでもあがるとき、現況の貨幣賃金で自発的に働く人の総供給と、その〔貨幣〕賃金で働き手を雇いたいという総需要が、ともに現行の雇用量より多いとき、非自発的失業が存在する。これに代わる定義は、同じことの言い換えに過ぎないが、次章(p.26〔第3章第1節〕)で与えられるであろう **。
この定義から、〔古典派の〕第2公準が想定する実質賃金と労働の限界負効用が等しいということは、現実的に解釈すれば、〈非自発的〉失業が存在しないことに対応することになる。〈完全〉雇用と呼ぶところのこの状態は、そのように〈完全〉雇用を定義しているので、〈摩擦的〉失業とも〈自発的〉失業とも矛盾しない。このことは古典派理論のほかの特徴とも調和する。この点、古典派理論は完全雇用下の分配理論とみなすのが最良である。古典派の公準がよくあてはまるかぎり、上述の意味での非自発的失業は生じえない。生じうるのは、〈仕事のあいま〉に一時的に失職することによる失業、高度な特殊技能を持つ人に対する需要が一時的に途切れることによる失業、〈クローズドショップ型〉*** の労働組合が非組合員の雇用に影響を及ぼすことによる失業である。その理論が特殊な想定にもとづくことを見過ごしている古典派の伝統にしたがう論者は、(例外はあるものの、)その想定が成り立つときには完全に論理的である、根本的には自らの限界生産性にみあう報酬の受け取りを拒むために失業が生じる、という結論に至らざるをえない。古典派経済学者は貨幣賃金の引き下げを拒む働き手の心情に共感するであろうし、一時的な状況に逐一対応するのは賢明でないことも認めよう。そうであるにせよ、整合性を旨とする科学の力に導かれて、この拒絶が根本問題であるという。
しかし、古典派の理論が完全雇用の経済にのみあてはまるのであれば、非自発的失業――もしそのような失業があれば(誰がその存在を否定できようか?)――の問題に古典派の理論をあてはめられないのは明らかである。古典派の理論家は、あたかも非ユークリッド幾何の世界にいるユークリッド幾何の研究者のようである。一見平行にみえる直線群がしばしば交わるのをみて、まっすぐな線がきちんと引けていないと非難するのである――それが平行線が交わるという不幸な事態を直す唯一の方法だとして。しかし、ユークリッド幾何学の平行公理を捨て、非ユークリッド幾何学を紐解くほか、直しようがないというのが実際である ****。同様のことが今日の経済学にも求められている。古典派学説の第2公準を捨て、厳密な意味での非自発的失業が生じうる経済体系のふるまいを紐解かなければならないのである。
訳注
* 類似の表現がTheory of Unemploymentの第1章, p.3にある。
** 塩野谷版の訳注は、グラフを用いて非自発的失業を説明している。間宮版の訳注は、古典派とケインズの相違は労働市場そのものにではなく、財市場との反響効果を考えるか否かにあると指摘している。間宮版によれば、貨幣賃金を切り下げて労働市場の均衡を得ようとすると財市場で有効需要が減り、実質賃金は逆に上がってしまうというのがケインズ の考えである。
*** 塩野谷版の訳注にクローズドショップの補足説明がある。これは、19世紀英国で発展した、労働組合に加入した人だけが雇われ、働き続けられる仕組みである。組合は職業別に組織される。仕事別に受け入れる賃金の下限を設定し、それを下回る場合には労働力を提供しないことで企業に対する交渉力を保持した。クローズドショップについては、https://www.jstor.org/stable/2999928 、https://www.jstor.org/stable/i242570 、https://www.jstor.org/stable/1803687 、https://www.jstor.org/stable/1824756 等、多くの研究がある。
**** Malthus著, 玉野井芳郎訳『経済学における諸定義』p.110にユークリッド幾何に関する記述がある。JS Mill著, 関口正司訳『功利主義』所収の『論理学体系』第6巻第12章第4節p.191は幾何学派について言及している。関口氏の訳注によれば、『論理学体系』第6巻第8章で「幾何学的方法」が取り上げられている。類似の言説はMenger著, 福井・吉田訳『経済学の方法』p.60にもある。Pareto著, 姫岡訳・板倉校訂『一般社会学提要』p.262には非ユークリッド幾何学への言及がある。加えて、Jevons著, 小泉他訳『経済学の理論』p.17、Marshall著, 永澤訳『経済論文集』p.210にユークリッド幾何を肯定的に捉えた記述がある。ケインズ全集第28巻pp.32-33には、アインシュタインに関する記述がある。
Ⅴ
古典派体系からの乖離を強調するあまり、古典派との重要な一致点を見過ごしてはならない。というのも、古典派と同様の留保の下で、第1公準を従来どおり保持するからである。ここでいったん立ち止まり、このことの意味を考えたい。
第1公準を保持するということは、所与の組織、設備、技術の下で、雇用の増加はそれにともなう実質賃金の低下によってのみ起こるという特定のしかたで、実質賃金と産出量(したがって雇用量)が関係づけられることを意味する。無効にすることはできないと古典派経済学者が(いみじくも)主張した、この重大な事実に異を唱えるつもりはない。所与の組織、設備、技術の下で、労働1単位が得る実質賃金は雇用量と特別(逆相関)の関係にある。したがって、雇用が増えるとき、短期においては一般的に賃金財で測る労働1単位の報酬が下がり、収穫〔雇い主の利益〕は増える(1)。これは、設備等が一定である短期において、産業は収穫逓減にさらされているのがふつうである、というおなじみの命題の言い換えにすぎない。(実質賃金を司る)賃金財産業の限界生産物は、雇用量が増えるにしたがい減らざるを得ない。この命題が保たれているかぎり、雇用量を増やすいかなる方法も、限界生産物と実質賃金の低下を伴う。
第2公準を捨て去っても、雇用量の減少は働き手が手にする実質賃金の上昇をともなうとはいえる。しかし、雇用量が減るのは、働き手が実質賃金の引き上げを望んだためだとはいえない。また、働き手の一部が貨幣賃金の引き下げに応ずることで失業が解消されるともかぎらない。ここで取り扱った雇用量に関係する賃金の理論について議論を尽くすには、第19章とその補論をまたねばならない *。
脚注
(1)議論は次のとおりである。n人が雇われているとき、n番目の人は1日あたり1ブッシェル収穫する **。この人の賃金は、1日あたり1ブッシェルの購買力を持つ。しかし、n+1番目の人は1日あたり0.9ブッシェルしか収穫しない。すると、日給が0.9ブッシェルの購買力を持つようになるまで賃金に対する穀物の価格が上がらない限り、n+1番目の人を雇うことはできない。このとき、賃金の総額は以前のnから9/10*(n+1) になるであろう。したがって、新たに人が雇われることがあるとすれば、所得は既に働いていた人たちから企業家へ移転せざるをえないであろう。
訳注
* 間宮版の訳注は、この節に解説を加えているが、訳者はうまく意味を取ることができなかった。
** ブッシェルはヤード・ポンド法における体積の単位である。穀物の量を計測するのに使われてきた。英国の1ブッシェルは36.36872リットルとされる。
Ⅵ
SayとRicardoの時代から、古典派経済学者は、供給がそれにみあう需要を生み出すと教えてきた――はっきりと定義されてはいないが、これは、生産費のすべては直接間接に生産物を買うために支出されなければならない、という重要な意味を持つ *。
J.S. Millによる『政治経済の原理』は、この学説をわかりやすく示している。
〈単純に、商品の支払い手段は商品である。ほかの人が生産したものを〔買うのに〕用いる各人の支払い手段は、その人自身が持つ商品にほかならない。売り手の誰もが、語義どおり買い手である。国の生産力が突如倍増することがあるなら、あらゆる市場において商品の供給も倍増するはずである。そして、それと呼吸をあわせて、購買力も倍増するはずである。こうして誰もが供給のみならず需要も倍増させるであろう。交換のときに提供できる商品が倍増するので、誰もが2倍だけ買うことができる〉(1)
この学説の系として、消費を控えるいかなる行動も、消費財の供給から解き放たれた労働と商品が余すところなく資産財の生産に投入される結果になると考えられてきた。Marshallの『国富の純粋理論』(2)からとった次の一節は、この伝統的なアプローチを描写している。
〈所得のすべては、サービスと財貨を買うために費やされる。所得の一部が支出され、残りは貯蓄されるとよくいわれる。しかし、支出によって労働と商品を購入するのと同様に、所得から貯蓄する部分でも労働と商品を買うというのは、古典派のなじみ深い公理である **。購入するサービスと商品から現在の楽しみを得ようと望むとき、これを支出という。購入するサービスと商品を、未来に楽しみを引き出す手段として期待される富の生産に用いるとき、これを貯蓄という〉
確かに、後期Marshallの著作(3)、あるいはEdgeworth、Pigou教授の著作から、類似の文節を引用するのは容易でない。今日、このような粗い形で学説が提示されることは決してない。にもかかわらず、この学説は、いまだにすべての古典派にとって欠くべからざる基礎をなしている。Millに賛意を表することをためらう現代の経済学者も、Millの学説を必要とする帰結を受け入れることをためらわないのが建前である。たとえば、Pigou教授の著作ほぼすべてを貫く次のような信念は、古典派の伝統を現代に投影したものである。すなわち、摩擦を除くと貨幣が実際上の違いをもたらすことはまったくない。生産と雇用の理論は(Millの〔理論の〕ように)〈実物〉取引をもとに解き明かされ、貨幣は後の章で申し訳程度に導入すればよい、という信念である ***。現代的な見解も、貨幣があるところ〔消費〕に費やされなければ、別のどこか〔投資〕に費やされるはずだという考えにいまだ浸り切っている(4)。ただし、〔第1次〕大戦後の経済学者が、この立脚点に一貫して立ちつづけることに成功するのは希である。というのも、彼らが以前保持していた見方とあまりにかけ離れた齟齬や経験的事実が浸透し切っているからである(5)。にもかかわらず、その〔見解の〕行く着く先を見通せず、彼らはいまだに基礎理論を修正せずに済ませている。
これらの帰結はまず、取引のないロビンソン・クルーソー ****経済の一種を、誤った類推によって、私たちが実際に営む経済にあてはめようとしたものかもしれない。〔ロビンソン・クルーソー経済〕では、生産活動の結果として生じる、個々人が消費または貯蓄する所得は、本質的には生産活動によって産出されたもの以外の何物でもない。これはこれとしても、総額でみれば、産出の費用が需要の結果として生じる売上収益 *****によっていつもまかなわれるという帰結は、大層もっともらしくみえる。というのも、生産的な活動に関わる社会の全要素が得る所得の総額は、それが産出するものの価値にちょうど等しいという、よく似た疑いなく正しいもう1つの命題と区別しがたいからである。
同様に、ほかの誰からも明示的には何も奪わずに自らを豊かにする個人の行動〔貯蓄〕はまた、(Marshallの著作から引用した上の一節にあるように、)個人の貯蓄がそれと歩調をあわせた投資をもたらすことから、社会全体を豊かにするはずだと考えても無理はない。というのも、繰り返しになるが、個々人の富の純増を合計すると、社会全体の富の純増を集計したものにちょうど等しくなるのは疑いもないからである。
しかし、このように考える人たちは、本質的に異なる2つの活動が同じに見える錯視に陥っている。彼らは、現在の消費を抑えることと未来の消費を準備することをつなぐ結び目があるという誤った考えを持っている。ところが、後者〔未来の消費を準備すること〕を決める誘因と前者〔現在の消費〕を決める誘因を結びつける単純な方法はまったくないのである。
これが、産出全体の需要価格と総供給価格が等しいという、古典派理論が〈平行公理〉とみなす想定である ******。この想定が受け入れられると、残りのすべてが後につづく――民間と国家による倹約の社会的利点、利子率に対する伝統的な態度、失業に関する古典派理論、貨幣数量説、海外貿易に関する自由放任の手放しの賛美、この後にも疑問を呈すべき多くのことがらが続く。
脚注
(1)『政治経済学の原理』第3編第14章第2節 *******。
(2)p.34〔から引用〕。
(3)Millの著作からとった上掲の文節を、彼の著作『産業の生理学』(p.102)に引用しているJ.A. Hobson氏は、Marshallが上の文節を初期の著作『産業の経済学』p.154に引用し、次のように評価したと指摘している。〈購買力を持っていても、人はそれを使わないかもしれない〉。Hobson氏は続ける。〈しかし、彼はこの事実の重要性をつかみ損ねている。そして、このふるまいを《恐慌》の時期に限っているようである〉。Marshallの後期の作品に照らしても、この評価は公平性を失わないと思う ********。
(4)Alfred and Mary Marshallによる『産業の経済学』p.17に次の一節がある。〈すぐに傷んでしまう生地で作られた洋服を買うことは、景気にとってよくない。というのも、人々が新しい洋服を買うのに〔支払い〕手段をつかわなければ、他のところで働き手に雇用が生じるようにそれをつかうかもしれないからである〉。初期Marshall〔の著作〕から再び引用していることに読者の注意を促したい。〔後期〕Marshallの著作『〔経済学〕原理』では、〔こうした考えに〕強い疑いを持つようになり、とても注意深く逃避的になっている。しかし、古いアイデアから解き放たれることは決してなく、彼の見解を基礎づける想定が完全に抜き取られることもなかった。
(5)実社会への助言が理論と同じ体系に属するように、一貫した思想体系を保ち続けたのはRobbins教授ほぼ1人だけであるのは特筆に値する。
訳注
* 間宮版の訳注は、Sayの法則をロビンソンクルーソー経済、物々交換経済、貨幣経済に分けて解釈している。訳者は、GDPの三面等価は均衡式ではなく恒等式なのでいつでも成り立つが、GDPの期待値である有効需要が十分でなければ非自発的失業が生じると理解している。この意味では、Sayの法則をあまり気にする必要はない。気にすべきは、どのような解釈を取ろうと、失業者がいるということである。
** この文で労働を買うとは、サービスを購入することを意味しているようである。
*** 間宮版の訳注は、Millの『経済学原理』第3篇第7章3から「経済において、時間と労働を節約する手段であることを除けば、貨幣ほど重要でないものは存在しない。貨幣というものはそれがなくてもやれることを―貨幣があるときほどではないが―迅速かつ簡便に行うための機械であり、他の多くの機械と同様、貨幣が貨幣ならではのはたらきをするのは、装置に狂いが生じたときだけである」との一節を引用している。加えて、間宮版の訳注は実物交換経済と貨幣経済の定義を、ケインズ全集第13巻所収の「貨幣的生産理論」(1933年)を参照して示している。
**** Robinson Crusoeとは、英国の作家Defoe, Danielによる『ロビンソン・クルーソー』(1719年)の登場人物である。ロビンソンは漂着した孤島に独り住んだ。後にフライデーという従僕がこれに加わる。Schmoller著,田村訳『国民経済、国民経済学および方法』所収の「国家科学・社会科学の方法論のために」p.207にも同様の章句がある。Steuart, James著, 小林監訳『経済の原理 ―第1・第2編』p.46、p.119-120、pp.145-146、pp.165-166、Jeveons, William Stanely著, 小泉他訳『経済学の理論』p.63も参照。また、木村雄一『LSE物語』pp.90-91によれば、キャナンの著作『富』の第1章にもロビンソン・クルーソーが登場するようである。
***** sales-proceedsを「売上収益」と訳出した。塩野谷版では販売代金、間宮版では売上収入と訳されている。von Böhm-Bawerk著, 木本訳『マルクス体系の終結』pp.64-73に類似の章句がある。
****** Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第5篇第3章, p.28に、需要価格とは「商品のそれぞれの特定の数量が買手を見出すことのできる価格」である、とあり、同書第4篇第1章, p.8に「任意の量の商品を生産するために必要とされる努力を喚び起こすために要求される価格は、同じ期間におけるそのような量に対する供給価格と呼んでよいであろう」とある。
******* 塩野谷版の訳注は、ケインズのこの引用はMarshall『産業の経済学』(p.154)やMummery and Hobson『産業の生理学』(p.102の脚注1)に引用されたMillの文節の孫引きだとしている。これに関連するDon Patinkinらの論文がEconomic Journalにある。それらは、https://www.jstor.org/stable/2232093/https://www.jstor.org/stable/2232135/https://www.jstor.org/stable/2231878/https://www.jstor.org/stable/2231879 である。また、Marshall著、永澤訳『経済学原理』第4分冊, p.13とp.299に類似の記述がある。永澤訳『経済論文集』p.340にも引用がある。Hobsonについては第23章第Ⅶ節後段を参照。
******** 塩野谷版の訳注は、Marshall『産業の経済学』(第3篇第1章第4節, pp.154-155)の見解とMarshall著, 永澤訳『経済学原理』第4分冊, pp.299-301にあるMillの引用をもとに議論しているため、KeynesはMillの言説を若干誤解しているとしている。
Ⅶ
本章のいくつかの地点で、古典派理論が次のような一連の想定にもとづくことを示してきた。
(1)実質賃金は、現行雇用の下での、労働の限界負効用に等しい
(2)厳密な意味での非自発的失業は存在しない
(3)産出と雇用がいかなる水準にあっても総需要価格と総供給価格は等しいという意味で、供給はそれにみあう需要を生み出す
これら3つの想定は、いずれの1つも残りの2つを含意し、すべてともに立ちともに倒れるという意味において、同じことの言い換えに過ぎないのであるが。
Ⅰ
後に厳密に定義する、2, 3の語からはじめたい。 所与の技術、資源、費用の下で企業家が所与の労働量を雇うとき負担する、2種の支出がある。第1に、提供されるサービスの見返りに、企業家が(ほかの企業家を除く)生産要素へ払い出す金額がある。これを当該雇用の要素費用ということにする。第2に、購入するものの見返りに企業家がほかの企業家へ払い出す金額と、稼働させないままにしておく代わりに設備を稼働させることで負う犠牲とをあわせた金額がある。これを当該雇用の使用費用ということにする(1)。要素費用と使用費用の合計を超える産出から生じる価値の超過分を利益、あるいは企業家の所得ということにする。もちろん、企業家からみた要素費用は、生産要素が所得とみなすものと同じである。したがって、企業家によって与えられる雇用から生じる、要素費用と企業家の利益は総所得といわれるものを構成する。このように定義された企業家の利益は、企業家が用いる雇用の量を決めるとき最大化しようとする量であるし、そうあるべきである。企業家の立場からみるとき、所与の雇用量から生じる総所得(要素費用と利益の和)を、ときとして収益と呼ぶのが便利である。他方、所与の雇用量の下での産出の総供給価格(2)は、企業家がちょうどそれだけの雇用を与えるにふさわしい期待収益である(3)。
所与の技術、資源、雇用量1単位あたりの要素費用の下で、個別企業、産業、一国全体の雇用量は、企業家が産出から受け取ると期待する収益の額によって決まる(4)。というのも、企業家は、要素費用を超える収益の超過分が最大になることを期待する水準に、雇用量を定めようとするからである。
N人を雇うことで生じる産出の総供給価格をZとおき、ZとNの関係をZ=φ(N)と書く。これは総供給関数(5)と呼びうるものである。同様に、N人を雇うことによって企業家が受け取ると期待する収益をDとおき、DとNの関係をD=f(N)と書く。これは総需要関数と呼びうるものである。
さて、所与のNの下で期待収益が総供給価格を上回るとき、すなわちDがZを上回るとき、企業家たちにNを超えて雇用を増やすインセンティブが働く *。そして必要とあらば、生産要素を求めて互いに競争することによって、ZがDに等しくなるNまで、費用を増やすだろう。よって、雇用量は総需要関数と総供給関数が交わる点によって与えられる。というのも、企業家の期待利益が最大となるのはまさにこの点だからである。総供給関数と交わる総需要関数上の点Dを有効需要と呼ぶことにする。説明の目的とするところの雇用の一般理論の大意はこのようなものであるから、続く諸章で多くの紙面を割き、これら2つの関数に影響を及ぼす様々な要因を考察することにしたい。
他方、〈供給はそれにみあう需要を生み出す〉という言葉によって端的に表され、すべての正統派経済理論がその基礎としつづけている古典派の学説は、これら2つの関数に特殊な関係を想定する。〈供給はそれにみあう需要を生み出す〉とは、あらゆるN、すなわちあらゆる生産高と雇用量、についてf(N)とφ(N)が等しいことを意味する。そして、Nの増加にともないZ(=φ(N))が増えると、D(=f(N))もZと同じ量だけ増えなければならないことを意味する。言い換えると、古典派理論は、いつでも総需要価格(収益)がおのずから総供給価格に等しくなると想定している。つまり、Nがどのような値をとろうとも、収益DはNに対応する総供給価格Zに等しいと想定している。ということは、有効需要は唯一の均衡価値を持つ代わりに、無限の範囲の価値をすべてひとしく取りうることになる。雇用量も、労働の限界負効用がその上限を画すものの、いかなる値もとりうる **。
もしこれがほんとうなら、企業家の競争によって、雇用は国全体の産出の供給はいつでも非弾力的になるところまで、つまり有効需要の価値がそれ以上増えても産出がもはやまったく増えなくなるところまで、拡大する ***。この量が完全雇用と同じものであるのは明らかである。前章で働き手のふるまいをもとに完全雇用を定義した。同じことであるが、いまたどりついたところでいうと、産出に対する有効需要の増加に対して、総雇用が非弾力的な状態にあるというのが代わりの基準となる。よって、一国全体の産出の総需要価格と総産出の総供給価格が等しいというSayの法則は、完全雇用を妨げるものは何もないという命題と等しくなる。しかし、もしこれが総需要関数と総供給関数を結びつける真の法則でないなら、それなくしては総雇用量に関するいかなる議論も無に帰す、極めて重要な経済理論の章がいまだ書かれぬままだということになる ****。
脚注
(1)使用費用の厳密な定義は第6章で与えられる *****。
(2)この用語の通常の意味であるところの、 産出1単位の供給価格と混同してはならない(下記参照)。
(3)ともに使用費用を差し引いたものとして解釈すべき語であることから、収益と総供給価格の双方から使用費用を差し引いていることに、読者はお気づきであろう。もちろん、企業家が支払った金額の合計は、使用費用を含んでいる。この取り扱いが便利である理由は第6章で与えられる。本質的な点は、使用費用を差し引いた総収益と総供給価格は、一意にあいまいさなく定義しうるということである。ただし、使用費用は産業の統合具合と企業家が互いに購入しあう程度に依存しているのは明らかであるから、これらの要因とは無関係に、使用費用を含むように買い手が支払う金額の総合計は定義しえない。個々の生産者の、通常の意味における供給価格を定義するときでさえも同様の困難がある。ましてや、産出全体の総供給価格の場合には、通常の場合に直面しなかった重複という深刻な困難がある。もし、使用費用を含むものとしてこの語を解釈すべきだということであれば、生産する財が消費財か資産財かで企業家を分類し集約するという特殊な想定をすることによって乗り越えるほかない。こうした取り扱いは、その性質上あいまいでこみいっており、現実に即していない。しかし、上記のように使用費用を差し引いて総供給価格を定義すれば、困難は生じない。ただ、読者は第6章とその補論での十全な議論を待たねばならない ******。
(4)生産規模を実際に決めなければならない企業家は、所与の産出から生じる売上収益がどれほどになりそうか、唯一の間違いない期待を受け入れているわけではないのはもちろんである。そうではなく、いくつかの仮説的な期待を多様な確率と確度で保持する。したがって、収益の期待値は、それが確信を持って保持されるのであれば、企業家が決断するとき、実際に期待の状態を構成するあいまいでより多様な確率の束に接したときするのと同じ行動を導くものを意味する。
(5)第20章において、上記のものと密接に関係する関数を雇用関数と名付けることになる。
訳注
* 間宮版の訳注は、期待収益(D)が総供給関数(Z)より大きいとしても、物価が上昇して実質賃金が下落しなければ雇用量は増えないと指摘している。この点訳者は判断を保留する。
** 第2章第Ⅵ節の訳注* でSayの法則に触れたが、間宮版の訳注はここでもSayの法則に触れている。
*** 間宮版の訳注は、産出の上限まで雇用が増えるというKeynesの主張を批判し、任意の雇用量で財市場は需給均衡すると述べている。
**** 塩野谷版の訳注に、総需要関数と総供給関数の交点とKeynesian Crossの交点を対応させるグラフがある。
***** user costを、間宮版に倣い「使用費用」と訳出した。塩野谷版は「使用者費用」、山形版は「利用者費用」と訳出している。使用者費用ではなく、使用費用と訳すことについては伊藤・宮崎『コンメンタール ケインズ一般理論』日本評論社, p.74に「資本設備の使用とともに生ずる費用ということを、はっきりあらわすための訳語としては、使用費用の方がベターだと考えた」とある。野村『資本の測定』慶應義塾大学出版会, p.135には「利用者が直接的に費用を負担する」という語がある。
****** この脚注は、付加価値=国内総供給-中間消費を意味するものと思われる。総供給価格=買い手が支払う金額の総合計-使用費用に対応する。間宮版の訳注は、実質賃金、雇用量、企業の期待利益が最大となる産出量の関係を議論しているが、訳者はうまく理解できなかった。
Ⅱ
後の諸章で解き明かされる雇用理論について、ここで短い要約を示しておくことは、それを十全に理解するのは難しいとしても、読者の助けとなろう。 用いられる語のより注意深い定義は、後の適切な箇所でなされる。この要約では、雇われる労働1単位あたりの貨幣賃金とそのほかの要素費用は一定であると想定しよう。後に取り払われるこの単純化は、説明の便宜のためにのみ導入される。貨幣賃金等が変化する傾向にあるか否かによらず、議論の本質的な性質は厳密に同じである。
理論の概要は次のとおりである。雇用が増えると実質の総所得は増える。実質の総所得が増えると総消費も増えるが、総所得の増加ほどではないというのが社会の心理である。したがって、増えた雇用のすべてを増えた当面の消費需要を満たすのに専ら用いてしまうと、雇い主は損失をこうむることになる。よって、いかなる所与の雇用量を正当化するにも、所与の雇用の下で、社会が選んだ消費額を超える総産出の超過分を吸収するのに十分な当期の投資量がなければならない。というのも、これだけの投資量がなければ、企業家が受け取る〔収益〕は、その雇用量〔の利用〕を申し出るのに必要な分より少なくなるからである。すると、社会の消費の傾向と呼ぶところのものが与えられたとき、雇用の均衡水準、つまり雇い主を総じてみたとき雇用を増やしも減らしもしない水準、は当期の投資量に左右されることになる。さらに、当期の投資量は、投資の誘因と呼ぶところのものに左右される。そして、投資の誘因は、資産の限界効率表と、多様な満期とリスクに対応する貸出利子率群の関係に左右されることが見出されるであろう。
したがって、消費の傾向と新規の投資率が与えられると、均衡と矛盾しない雇用水準は一意に定まる。というのも、ほかのいかなる水準も総産出の総供給価格と総需要価格の不均衡をもたらすからである。この水準は、完全雇用を上回ることはない。つまり、実質賃金は労働の限界負効用を下回ることはない。しかし、一般にそれが完全雇用と等しいと期待できる理由は何もない。完全雇用に対応する有効需要は特殊な場合であり、それが立ち現れるのは消費の傾向と投資の誘因が互いに特定の関係にあるときだけである。古典派の想定に対応するこの特定の関係は、ある意味最適な関係である。しかし、偶然にせよ意図されたものであるにせよ、このような関係は、完全雇用の下で社会が消費に支出することを選ぶ分を、完全雇用がもたらす産出の総供給価格が超える分にちょうど等しい需要量を、当期の投資が提供するときにだけ存在しうる。
この理論は以下の命題にまとめられる *。
(1)所与の技術、資源、費用の下で、所得(名目所得と実質所得の両方)は雇用量Nに左右される。
(2)社会の所得と、D1と表示する消費に支出されると期待される分との関係は、消費の傾向と呼ぶところの社会心理の性質に左右される。つまり、消費は総所得の水準しだいであり、また雇用水準Nしだいである。ただし、消費の傾向に意味のある変化が生じた場合を除く。
(3)企業家が雇うことを決断する雇用量Nは、社会が消費に支出すると期待される量D1と、新規投資に捧げると期待される量D2という2つの量の合計(D)に左右される。Dは上述の有効需要である。
(4)総供給関数をφとおくとD1+D2=D=φ(N) であり、また上記の命題(2)よりD1はNの関数であるからχ(N)と表せ、この関数は消費の傾向に依存する。これらのことから、φ(N)-χ(N)=D2となる。
(5)したがって、均衡雇用量は(i)総供給関数φ、(ii)消費の傾向χ、(iii)投資量D2しだいということになる。これが雇用の一般理論の本質である。
(6)あらゆるNに対応する賃金財産業における労働の限界生産性がある。実質賃金を決めるのはまさにこれである。よって、命題(5)には、実質賃金を労働の限界負効用と等しくなるまで引き下げる量をNが超えることはないという留保条件がつく。これは、Dの変化のすべてが、貨幣賃金一定という一時的に置かれた想定と調和するわけではないことを意味する。したがって、理論を完全な形で叙述するには、この想定を捨て去らねばならない。
(7)あらゆるNについてD=φ(N)であるとする古典派理論にしたがうと、雇用量は、とりうる最大値以下のあらゆるNについて、中立均衡の状態にある。企業家間の競争によって、〔雇用量は〕その最大値まで押し上げられるかもしれない。古典派にとっては、この点だけが安定均衡となる。
(8)雇用量が増えるとD1も増えるが、Dの増加ほどではない。つまり、所得が増えると消費も増えるが、所得の増加ほどではない。現実の問題を解く鍵はこの心理法則に見出される。というのも、雇用量が増えるにしたがい、その〔雇用量を実現する〕産出に対応する総供給価格(Z)と、企業家が総消費から取り戻せると期待しうる額の合計(D1)とのギャップ **は広がるからである。したがって、消費性向に変化がなければ、広がっていくZとD1のギャップを埋めるように時同じくして投資D2が増えない限り、雇用量を増やすことはできない。よって、――雇用量が増えるときはいつでも、広がっていくZとD1のギャップを埋めるに十分なD2の増加を引き起こすという古典派理論の特殊な想定を除けば――経済体系は完全雇用水準を下回るNで安定均衡に達するかもしれない。この均衡は総需要関数と総供給関数の交点によって与えられる。
したがって、所与の実質賃金の下で利用可能な労働力の供給が雇用の最大水準を画すことを除けば、実質賃金群で測った労働の限界負効用が雇用量を決めることはない。消費の傾向と新規投資率は雇用量を決め、雇用量と実質賃金の所与の水準との関係は一意に定まる――その逆ではない。もし、消費の傾向と新規投資率から導かれる有効需要が弱いのであれば、実際の雇用水準は現行の実質賃金の下で利用可能な潜在的な働き手の供給より少なくなるであろう。そして、均衡実質賃金は、雇用の均衡水準における労働の限界負効用より高い水準にとどまるであろう。
この分析は、豊かな社会のただ中にある貧困 **、という逆説に説明を与える。というのも、有効需要が不足するだけで、完全雇用の水準に到達する前に雇用量の増加が止まってしまうかもしれないし、そうなることが多いからである。有効需要が不足していると、たとえ労働の限界生産力が労働の限界負効用を上回ったままでも、生産過程を抑制してしまうであろう。
さらに、社会が豊かになるにしたがい、実際と潜在的な生産力のギャップ ***は広がり、経済体系の欠陥はよりきわだち、ひどくなる。貧困な社会では、産出のはるかに多くの部分が消費される傾向にあるので、ごく控えめな投資さえあれば完全雇用を達成するに十分である。他方、富裕な社会で富裕層の貯蓄の傾向を貧困層の雇用と調和させようとすれば、はるかに多くの投資機会を見つけなければならない。潜在的に富裕な社会であっても、投資の誘因が弱いと有効需要の原理に導かれて、実際の産出を減らすよう強いられる。そして、富裕であるはずの社会も、弱い投資の誘因に調和するところまで消費の超過分が十分に減少し、貧しくなってしまうであろう。
問題はこれにとどまらない。富裕な社会では、限界的な消費の傾向(1)が弱いだけでなく、資産の蓄積が既に進んでいるために、利子率が十分に速く低下しないかぎり、追加投資の機会に惹きつけられない。このことは、私たちを利子率の理論、とりわけ利子率が適切な水準におのずから低下しない理由、に誘う。この理論については、第4篇全篇にわたり〔詳述する〕。
したがって、消費の傾向の理論、資産の限界効率の定義、 利子率の理論は、現時点で私たちの知識にある、埋めるべき主要な3つの隔たり ****である。〔これらの隔たりが埋められた〕あかつきには、物価の理論は〔本書が提示する〕一般理論の副産物という適切な位置に落ち着くことが見出される。しかし、貨幣は利子率の理論で本質的な役割を演じる。貨幣には、ほかのものが持ちえない無二の特徴があることを解き明かしたい *****。
脚注
(1)本書の第10章で定義する。
訳注
* 補遺 1に、この箇所は説明不十分と記されている。塩野谷版の訳注は、命題(3)と(4)が均衡においてのみ成り立つとして、この部分が不十分だと説明している。
** ケインズ全集第20巻,p.709にこの議論の原型がある。Steuart, James著, 小林監訳『経済の原理 ―第3・第4・第5編―』p.596に「豊富の真っただ中にあって空腹で飢餓に陥る」(he must either starve for hunger in the midst of plenty, or be reduced, perhaps, to beggary)という表現がある。Smith, Adam著, 山岡訳『国富論』上, p.92、Jevons, William Stanley著, 小泉他訳『経済学の理論』pp.185-187も参照。
*** gapは、近年の経済学の用語であるgdpギャップ、需給ギャップなどと平仄を合わせることを意図して、「ギャップ」と訳出した。
**** ここでも原文はgapであるが、訳注 ** の「ギャップ」とは文脈が異なることから「隔たり」と訳出した。
***** More, Thomas著, 澤田訳『改版 ユートピア』p.242に「貨幣の使用全廃とともに貨幣に対する欲望が完全に消滅させられ」とあるが、さすがにそれはユートピアでしか実現し得ないであろう。
Ⅲ
世紀を超えて教えられてきたことの底流をなすRicardoの経済学は、総需要関数を考慮に入れなくてよいという考えにもとづく。確かに、Malthusは有効需要が不足することなどありえないとするRicardoの学説に強く異を唱えた。しかしそれは容れられなかった。というのも、Malthusは、(誰の目にも明らかな事実に訴えるほかは、)どのように、またなぜ有効需要が不足したり過剰になったりするのか、明示できなかったからである。彼は〔古典派に〕代わる理論を提示できなかった。かくして、異端者を罰する宗教裁判 *がスペイン全土を席巻したように、Ricardoはイングランド全土を席巻した。彼の理論はシティ **、議会、学界に受け入れられ、論争はぴたりと止んだ。異なる見解は消えうせ、議論が生じることさえなくなった。Malthusが格闘した有効需要の大いなる謎は、経済学の文献のどこにもみあたらない。古典派理論の熟成に最大級の貢献をしたMarshall、Edgeworth、Pigou教授による著作のどこをみても、一顧だにされていない。有効需要の論考は、Karl Marx、Silvio Gesell、Douglas少佐といった地下世界で、ようやく生きながらえることができた ***。
Ricardoが完膚なきまでの勝利を得たのはなぜか、興味を引く謎である。思うに、学説がそれを投影する状況によく副っていたからにちがいない。古典派の帰結は素養のない人が想像しえない高みに達し、ためにそれは理性的なものとして称揚された。教義の実践は禁欲的かつ苦痛をともない、ためにそれは美徳とされた。論理的上部構造は無辺の一貫性を備え、ためにそれは麗しいものとされた。不正義や目を覆いたくなるような残忍さは前のめりになって突き進む社会につきものであり、この流れに抗うのは無益有害であると説明しおおせ、ためにそれは権威層の目に留まった。思いのままにふるまう資本家に免罪符を与え、ためにそれは権威層の背後に潜む社会を支配する力の寵愛を得た ****。
このようなことから、つい最近まで、正統派の経済学者が古典派の学説に疑問を呈することはなかった。他方、科学的な予測に向かないこの学説に対する実務家の信頼は、時の経過とともに著しく損なわれてきた。Malthusの後、経済学者は、理論の帰結と観察される現実に関係が見いだされなくとも、まったく心を動かされなくなった――しかし、人々はそれを見過ごさなかった。結果として、理論の帰結を事実によって確かめられる科学の研究者に払う尊敬の念を経済学者に払いたくない、という気運が高まってきているのである *****。
伝統的な経済理論の祝福すべき最善説によって、経済学者はカンディードと見まごうまでになった ******。この世を離れエデンの園 *******へ歩を進めるカンディードは、それそのままで、あらゆるものが最良の世界で最善の状態にあると説く。経済理論の最善説も、有効需要が不足することによって繁栄への到達が遅れうることを無視してきたことにその源がある。というのも、古典派の公準の下では、最適な資源量がおのずから利用に供されるようになるのは明らかだからである。古典派は経済のあるべき姿をよく示しているのかもしれない。しかし、経済がその想定どおりにふるまうというのは、現実に困難が存在しないと強弁するに等しい。
訳注
* Holy Inquisitionを「宗教裁判」と訳出した。間宮版はこれを神聖異端尋問と訳出し、訳注に15世紀のスペインで改宗ユダヤ人に対して行われた、大審問官トルケマダによる苛烈な尋問だとしている。歴史的には、1469年にカステラ王国とアラゴン王国が連合してスペインの礎ができた。国の統一を押し進める中で、少数派が弾圧されたものと思われる。異端尋問は、コロンブスがアメリカ大陸を発見したとされる1492年にはじまった。Pareto著, 川崎訳『エリートの周流 ―社会学の理論と応用―』p.30に「少なからぬ衛生学者が自分の教義を守ろうとして興奮するさまは、いやしくも理性の光を失っていない人びとにとっては、彼らが発狂したとしか思えないほどに異常である。いうなれば、この人たちは、ひとりの人間の健康を保つためなら、その理由だけでこの人を殺す用意さえあると思わせる。かくして、かつて人びとの魂を救うために、その人びとを火あぶりにしてしまったあの宗教裁判にも劣るほどの分別しか示しえないのである」とある。
** 英国ロンドン中心部にある金融街The Cityのことである。ある種の独立行政体として知られる。
*** Malthusの有効需要の主張についてはKeynes『人物評伝』ケインズ全集第10巻、Malthus, Robert Thomas著, 小林時三郎訳『経済学原理』上,pp.27-29, 下,pp.152-155を参照。また、同書のJevonsの項にMalthus、Ricardo、JS Mill、Marshallに対する微妙な関係が記されている。また、Schmoller著, 田村訳『国民経済、国民経済学および方法』p.57も参照。誤った前提の上に首尾一貫した論理を打ち立てたとの批判は、von Böhm-Bawerk著, 木本訳『マルクス体系の終結』p.149のMarx批判にもある。Douglas少佐については、1922年のある朝、オックスフォードに滞在していたケインズが、ハロッドと哲学者H.W.B. ジョセフと朝食を摂る際に話題になった(ハロッド著, 塩野谷訳『ケインズ伝』上, p.163)。
**** この節をMarshall著, 永澤訳『経済学原理』第1分冊, pp.14-18, pp.62-65と対照のこと。Jevons著, 小泉他訳『経済学の理論』序文でもRicardoとJS Millが厳しく批判されている。
***** ケインズ全集第29巻, pp.88-89、Marshall著, 永澤訳『経済学原理』第1分冊, pp.39-50と対照のこと。また、Malthus, Robert Thomas著, 小林時三郎訳『経済学原理』上,p.26に類似の章句がある。p.35もあわせて参照。さらにMalthus, Robert Thomas著, 小林時三郎訳『経済学原理』下,第4章第3節も参照。Mill, John Stuart著, 竹内一誠訳『大学教育について』pp.66-67に「前提を確証せず、あるいは結論を観察によって確認せずに、論証だけで自然界の想定された事実に確実に到達しうると主張するスコラ学者たちの「推論」のはなはだしい濫用が、実は近代の人々の精神、特にイギリス人の精神に、真理探究の一方法である演繹的推論に対する不信の念を植え付けました」とある。また、Menger著, 福井・吉田訳『経済学の方法』第5章、Schmoller著, 田村訳『国民経済、国民経済学および方法』第11章も参照。
****** 最善説については、1755年11月1日に発災したリスボン大震災を受けてヴォルテールが著した『リスボンの災厄についての詩』を参照。http://nam-students.blogspot.com/2016/04/blog-post_25.html
資料(https://chssl.lib.hit-u.ac.jp/images/2020/02/expo05.pdf)によれば、この詩の中で批判にさらされているのがアレクサンダー・ポープである。『人間論』という著作がある彼は、「全ては善、全ては必然」という最善説の主張をひろめた英国の詩人である。最善説は天文学者でもあったライプニッツ『弁神論』にあらわれる哲学である。ライプニッツについては、Voltaire著, 福鎌訳『ヴォルテール回想録』p.5を参照。また、フランスの思想家ルソーは牧師の依頼を受けて『リスボンの災厄についての詩』を批判する書簡をヴォルテールに送った。カンディードは啓蒙思想家Voltaireの小説『カンディード』(1759年)に登場する人物である。Voltaire著, 植田訳『カンディード他五篇』p.366に「うまくいっていないのに、すべては善だと言い張る血迷った熱病」とある。また、Hobson著, 高橋訳『異端の経済学者の告白[ホブスン自伝]』p.14にも「あらゆる世界のうちでも最良のこの世界にあって「すべてがうまく行っているわけではない」というはじめて兆した感情」とある。加えて、Schmoller著, 田村訳『国民経済、国民経済学および方法』第15章、とりわけpp.111-112、第17章も参照。
******* cultivation of their gardenを、文脈にしたがい「エデンの園」と訳出した。創世記2-15、Locke著, 加藤訳『統治二論』p.97、Locke著, 加藤訳『キリスト教の合理性』を参照。またErasmus著, 沓掛訳『痴愚神礼讃』p.76に「タンタロスの庭園」という表現がある。