投稿日: 2020/03/17 3:40:40
「今日の日本に天皇の存在感が薄れている」旨のタイムライン記事を見かけた。
これは所謂「岩戸がくれ」の様なものかとの感慨を以て読んだ。
けれど、わがすめらみことは悠久の昔より何一つ変わらずおおみたからを抱擁し大八洲を見守っておいでになる。
ただ、
岩戸は私達日本人個々の心眼の中に在って、
どこかでアメノタヂカラオが開けてくれるものでは無いのかも知れないとも思えた。
お日様の忘却と言えば、むかし絵の修行時代、
毎朝毎夕防波堤の突端で太陽瞑想をした。
この朝日の事を天照大神や大日如来の様に思われたし、
夕陽の事を住吉の大神や観世音菩薩の様にも思われた。
けれど、夜の帳の後先の、朝日夕陽ばかりに大御心があらわれて、
朝に私達を励まし、夕に私達を労って顕れて下さっているばかりがお日様ではない事も分った。
寧ろ私達の視界の外におわす時にこそ白く目立たぬけれど、分け隔てなく万物を見守り、照らし、生きる力を惜しみなく降り注ぎ続けて居られる。
私達は日ごろそのめぐみを忘れても、その恩恵の中で暮して居られる。
私達も、何かを愛する時に、
愛するものが目覚める前にそっと朝露を置いて立ち去るような...
そんなつつましい慰撫の掌を心に持ちたい。
結び方が変だったけれど、
所謂ラブではない別の愛の心眼を開かねば、
見えてこない悠久のものがある...