投稿日: 2014/03/25 15:15:35
「一神教と多神教」について過去にこう言う呟きをした事がある。
「8月18日@visualizeman
多神教一神教と一般に云われるものは実は「多」と「一」が逆で、
一神教と云われている宗教は実は「数多ある神の中で我のみ正し」という「相対一神教」なのです。
対して多神教と言われる神道は万物は唯一絶対の神のさきはえであるから
万物に神宿ると言う「絶対一神教」つまり逆と言う事です。」
「2月17日@visualizeman
一神教と多神教;通説とは本当は逆で、
日本は万物の根源である、総ての総てである唯一神だからその顕現である総てに神を見る。
一神教と云われる物は数多ある神の中でウチの神だけ偉いと言う主張。
詰り多神アリと信じて競ってるのが基督教等。それは要するに宗教では無く共産と同じ【主義】なの。
日本と、日本以外の諸外国(特に西欧や中華圏)との間には、
西や東、右や左といった思想の種類という同一平面上の反対側とか、
地続きの他所と言うのと違った、別の隔たりがある様です。
それは詰りこう言う事じゃないかと私は考えます。
神には無限の美点があって、それを表現し、めでる為に
創造主として活動を始められた。
その神の中に生れた一つ一つの「美」を担って
表現者として遣わされたのが一人一人の人間です。
その意味において、「産めよ 殖えよ 地に充てよ」と言うのは
まことに創造主たる神にとっての喜びと言えるでしょう。
総ての人や生命はミラーボールの光のように、
決して他を以ては照らせない方角に伸びる一条の美の光線なのです。
人は自分の産まれてきた意味やアイデンティティーと心の座標が一致した時そのミッションに連なる。
ミラーボールや雲丹のトゲの様に八方十方にのびた光線の一条一条が
アイデンティティー、「人」や「国」や一輪の花なのでしょう。
総ての光線は正しく自己アイデンティティーに合致した場合、正しく地に足が着きます。
そこに根が生えるように自分の生命が寄って来る所の光に連なります。
そしてそこからミラーボールの光線の様に伸びるのが私達一人一人の道です。
雲丹のトゲやミラーボールの光の様な光線は行く先において他の道を奪ったり抵触したりする事はありません。
言い換えるとそれは、彼が自身の道を究めて行く事は必ず孤独な旅になると言う事をも意味します。
本当の道の探求は必ず未踏の荒野を行く様に独自で、
後の世で「常識」と云われるものに到達した人は、
皆がその時に属している「妥当」や「常識」の中の一員では無く必ず「異端」でした。
キリストもガリレオも皆そうです。
けれどキリストやガリレオに石を投げ糾弾した人達が亦
「キリストの言葉も知らないのか」「ガリレオの発見も知らないのか」と言いながら
新しいキリストやガリレオに石つぶてを浴びせているのが人の世の習いです。
「普遍」に至る者は必ず「異端」であり、
「本当の価値」は必ず「新価値」であるのです。
「異端」だけが「普遍」に至る事が出来、
「新価値」だけが「本当の価値」になるのです。
けれど、私に出来る事で世を照らす為に本当の事に至ろう、知ろう、とする道のりが
孤独であると言う事は、その事こそが、私達が「たった一点の光源から来た放射光線(ひかり)」である事の
何より確かな証拠ではないでしょうか?
その事を思い出すのは何よりの励ましでもあるのです。
辛い孤独な道の途中で、故郷の父母の面影が励みであるのと同様に...
私達光線は、行く先において総ての人との「一致」を見出す事は出来ないのです。
「一致」詰り「普遍の真理」は、来し方、光源に於てのみ発見し得るのです。
皆に基督教に帰依せよと言うのも、
自由だ、共産だと言うのも、
結局それらは「主義」であって、
主義は必ず「自分たちとは相いれない対岸」を想定した「こっちの方が良いと言う相対的価値」です。
「行く先において一つになろう」
「一つになれる場所を目指して集まろう」
と言うのは詰りこう言う事なのです。
ミラーボールの光を幾つかに束ねて分けて、
この絵のようにしようと言う事なのではないでしょうか?
日本が古来から想い、立ち返ろうとするマツリゴトの理念は
自由であれ共産であれ、右であれ左であれ、
結局「主義」と云うものである限り何時かは「一致しなくなる」ものなのじゃないでしょうか?
それが詰り↑図と"⦿"の違いなのでしょう。
長い、回り道の多い話になりましたが、
こうなるであろうから中々書き止める勇気が出ませんでした。
日本と言う理念が元の「光源」のシンプルな理念
(ex.「親孝行」「お天道様」)
であるから、例話が万物や万事、多岐に関わって来ざるを得ないと言う
「多神教と言う誤解」と同じ様な伝え難さがある訳なのでしょう。
"「日本」というのは「主義で」日本なのではない。"
"「日本」は「主義」では無いのだ。"
※...と言う事が、漠然とでも印象に残ってくれたら...と言う想いで書き止めておきました。
「多神教」と言う命名自体「一神教」と言う人の発想なのでしょうが、
「一神教」と云うのはよく見れば今日で言う「主義」と同じものなんですね。