(2)栽培イネの起源
1.栽培イネの起源は8千年前の中国
アジアには複数の野生イネ(下の写真)が存在している。古代の人々は、この野生イネの中から栽培に適したイネを選別し”栽培イネ”が作られた。
”栽培イネ”(=稲作)の起源は、考古学的証拠から8千年ほど前の長江流域とされてきた。しかし、遺跡の調査が進展しゲノム解析の結果、珠江流域が稲作の起源ではないかとされている。稲作の起源説は、ゲノム解析と併せた遺跡調査の進展によりブレが生じるようである。
考古学と遺伝学の進展により、歴史(=これまでの常識)が変わるのはとても刺激的である。日本の遺伝学者木原均氏が遺した言葉「地球の歴史は地層に、生物の歴史は染色体に記されてある」に納得する。
しかし、アジアの”栽培イネ”は、湿潤な気候が適していることからアジア特有の季節風(モンスーン)の影響を受け、灌漑に便利な大河(長江や珠江など)の流域が有力な場所であろう。
写真:野生イネ(出典:国立遺伝学研究所)
図:梅雨前線が横たわる日本列島と中国大陸(出典:理科ねっと)
2.稲作の伝来は縄文時代
我が国への稲作の伝来は縄文時代の終わりごろ(およそ2600年前)とされている。佐賀菜畑遺跡(写真1)および福岡板付遺跡(写真2)から炭化米や水田跡が出土している。
しかし、縄文時代における稲作のほとんどは現在のような水田稲作ではなく、焼き畑などによる粗放稲作がほとんどであったのではないかと考えられている。国内に存在する縄文遺跡の調査結果から、当時の食糧調達は木の実の採取や狩猟によるところが多くを占めていたようであり、弥生時代に入ってもその傾向は変わらなかったとされている。
写真1:菜畑遺跡水田跡(出典:文化庁)
写真2:板付遺跡水田跡、足跡(出典:板付遺跡調査報告書)
縄文や弥生の水田跡はそれほど多くは見つかっていない。当然ながら遺跡となるためには、何らかの自然環境の変化によりそこに土砂や火山灰などが堆積し保存されなければ後世に残らない。栽培に適した場所であれば人はそこに留まり稲作を続け、過去(古い時代)の稲作の痕跡は上書きされる。また栽培に不適な場所となれば放棄され痕跡は消失する。
産地一帯において、数多くの遺跡(ピンクの網掛け部分)が発見されています。
表:弥生時代のくらし(マインドマップ)
(参考文献・データ)
DNAが語る稲作文明(著者:佐藤洋一郎氏)
日本の稲作史(著者:佐藤洋一郎氏)
稲の考古学(著者:中村慎一氏)
板付遺跡調査報告書(福岡市埋蔵文化財調査報告書 第8集)
西日本の弥生稲作開始年代(国立歴史民俗博物館研究報告書第183集)
菜畑遺跡(唐津市文化財調査報告書 第5集)
塚原(熊本県文化財調査報告書 第16集)
沈目立山遺跡(熊本県文化財調査報告書 第26集)