イネの起源は長江の中下流域か・・
→1990年代、約7千年前の籾が長江中下流域で発見された。(現在最有力説)
(1)イネの伝来は縄文時代か
・日本への伝来は、縄文時代後期(3千年前)←福岡板付遺跡で水田跡や炭化米が発掘
稲作が開始され人口が増加していった。また、コメは給料や税として扱われ基本通貨の役割を担ってきた歴史がある。
・稲作の発展により弥生時代には人口が大きく増えたとされている。
・米作りの条件は、
1.水
アジアのモンスーン気候が稲作りに適
2.土木技術
川の水を引く:2世紀頃には西日本で行われていた。
ため池を作る: 満濃池(奈良時代)は日本最大。
3.共同作業
稲作は共同体として生活が発達※日本人の民族性が涵養
↓
部族社会が形成され → 国家が形成された
出典:「理科ねっとわーく」
出典:城南町歴史民族資料館(弥生時代の集落のイメージ図)
(2)稲作の変遷
・縄文時代 :イネ伝来
・弥生時代 :栽培が高度化(菜畑遺跡から現代の灌漑技術に相当する高度な用水工事の跡あり)
・室町~江戸:治水と新田開発が進み耕作面積は250万ha
・明治時代 :最北端の北海道に稲作が普及し、日本全国で作付けされるようになった。
また、国の研究機関が整備され品種改良(耐冷害、耐肥性)により、東北地方の大冷害によ
る減収がなくなる。
・大正時代 :耕作面積は300万haに達し、施肥技術が向上し反収が300kg(5俵)に増加した。
明治時代:反収200kg(3.3俵)
大正時代:反収300kg(5俵) 150%増
※俵:60kg
出典:城南町歴史民族資料館(古墳時代の倉庫と住居を再現)
(3)機械化
S40年代、田植機や稲刈機が普及し労力が小さくなるが、これにより資本投下量が大きくなった。
・トラクターやコンバインは年々高機能化し、それに伴い価格も上昇してきた。
(参考図):H27年度 農業用機械の生産額割合(総額4,700億円)
出典:日農工統計より抜粋
(4)食生活の変化
コメの収量は増大することとなるが、パンや肉などの需要が増えるにつれコメの需要は低下していった。
S40年代:反収400kg(6.7表)
現在 :反収600kg(10表)
※「日本人にとって稲作とは」(考察)
●稲作は日本人の民族性を涵養した
”稲作は1人ではできない”就農してつくづく実感したことである。田植機や稲刈機など、稲作ほど機械化が進み一昔前に比べ格段に作業効率が向上している。このため、1人でもなんとか農作業はできる。
しかし、用水路の清掃や周辺除草などの維持管理はとても1人でできるものではない。ましてや農耕馬で土地を耕し手作業で田植えや稲刈をしていた大昔、はたまた稲作が伝来した太古の昔となればコメ一粒つくるのに途方も無い労力が必要であることは想像できる。
稲作は協同作業を必要とするため人が集い、集落が生まれ、村社会形成されてきたと良く言われるが、大いに得心した次第である。
日本人にとって稲作とは「歴史」であり「文化」であり「日本人そのもの」である。
●変わらないために変わるのである
”村社会”、閉鎖的であまり良い響きではないがこの仕組みにより稲作が伝承されてきたのは間違いない。しかし、国の枠を超え世界規模でモノがやり取りされる現代において、村社会は他国の稲作に飲み込まれてしまうのではないかと考える。
「稲作」という日本の文化や歴史を変わりなく継承していくためには時代の変化に対応していくしなかい。変わらないために変わるのである。ダーウィンも言っている「強いものが生き残るのではない。変化に適応できた種だけが生き残るのである」。
●戦略的互恵社会へ
どう変えるか・・・。それは村社会から戦略的互恵社会への転換であると考える。己が技術を磨き互いに競争し助け合い、課題を共有し共に行動していくことで日本人の強みが発揮できるのではないか、と。日本人は太古の昔から、稲作をとおし協働する知恵を備えている。