中国のハンセン病快復村での滞在体験

執筆:2013年3月

「MSc in International Development, University of Birmingham」

(バーミンガム大学 国際開発学 修士課程)

日高 将博(ひたか まさひろ)さん

1.自己紹介

大学では中国史を専攻していました。中国留学時代に反日デモに遭遇し、その疑問から日本と中国の誤解を解くために、日中交流団体DELTAを設立し、各種イベントを開催していました。仕事で名古屋に引っ越したのち、FIWC(Friends International Work Camp)東海委員会を設立し、中国のハンセン病隔離村でワークキャンプを始めました。その後、商社を退社し、ハンセン病隔離村で活動するため中国に。NGO"家-JIA(Joy In Action)-“ に所属していました。中国のNGOの活動を大きく効果的にするため、イギリス留学を志しますが、311の地震の災害支援に行くため大学のオファーを延期し、宮城県気仙沼市唐桑に滞在、現場監督として全国から多数のボランティアを受け入れていました。その後、台風災害支援のためフィリピン•ミンダナオ島に数ヶ月滞在し現在は、イギリスの大学院で開発学を勉強する一方、フリーランスとして世界中に助け合いのネットワークを作るため奔走しています。その他の活動としては、役者、MC、DJなどです。今回は中国のNGO “家-JIA (Joy in Action)”に所属していた時に、訪れた桂林にあるハンセン病隔離村、旱冲村(ハンチョンむら)で滞在した経験を共有したいと思います。


2.旱冲村(ハンチョンむら)での経験

僕と中国の関わりは、中国の歴史に興味があり、大学で東洋史を専攻したことに始まります。日本語教師のインターンシップで初めて北京を訪れ、多くの友人ができました。実際に接した中国は、それまで抱いていたイメージとは全く違うものでした。このイメージが覆された経験をもとに、広州で日中交流団体を立ち上げ、交流イベントを開きました。その活動の中で出会ったのが、ハンセン病の隔離村で活動をするNGO“家-JIA (Joy in Action)”です。

人生の転機となったハンセン病快復村を初めて訪れたのは、大学を卒業する直前の3月でした。村は周囲と隔離された上に、住民の高齢化も進んでいましたので、話される言葉も方言で理解できませんでした。「言葉が理解できない僕は彼らに何をしてやれるのだろう……。」そう思っていた僕に、彼らは「私たちは家族に見捨てられた存在。一緒にいてくれるだけでいい」と言ってくれました。こうして、僕には中国の山奥に大切な友人ができました。

就職後も休暇を取っては、日本と中国の学生を引き連れて村に入り、建物の修理や掃除をしたり、日用品の買い出しに出かけたりしていました。そんな交流を続ける僕たち若者を見て、周囲に暮らす人々も少しずつ、ハンセン病への差別や偏見が薄れてきたように感じます。国籍を超えて、人と人との繋がりの強さを感じ、彼らと生活を共にしたいという思いが募り、昨年2月に会社を退職、NGO「家」の長期ボランティアを始めました。

ここで、ハンチョン村で出会った大切な人を紹介したいと思います。90歳を超えた客家の「謝ばあちゃん」です。足首が変形し、足裏にある傷口もひどいけれど、性格はとても明るく、よく笑います。「ばあちゃん」の子どもは別のところに住んでいて、経済的に余裕がないため、呼び寄せて一緒に住むことができません。体が不自由なため、隣のじいちゃんにご飯を作ってもらい、傷の手当てをしてもらい、朝起きたら、ドアにおいてある椅子に座り、1日中外を眺めて過ごしていました。ある雨の日ばあちゃんが寒そうにしていたので、俺が来ていたピンクのシャツをあげました。その日以来「見て。このシャツ、日本の男の子がくれたのよ」と、中国人の学生に言って喜んでくれました。その日から僕はおばあちゃんから「日本」と呼ばれるようになりました。

ご飯を食べているばあちゃんが、僕に「こっちに来て一緒に食べなさい」と言い、曲がった手でスプーンを持って自分の碗からすくってくれました。薄味が好きな「ばあちゃん」のご飯は、正直言ってあまりおいしくありません。けれども1口2口食べて、「うまい!」と僕が言うのを見ると、にっこり笑います。言葉はあまり通じませんが、孫になれたような気がしました。ある日、息子が村にやってくるとの知らせがありました。「ばあちゃん」は楽しみにして朝から息子の話ばかりしていました。しかし、昼になり、夕方になり、夜になりましたが、結局息子は来ませんでした。その日、僕は「ばあちゃん」のそばを離れられませんでした。僕が帰るとき、ばあちゃんは泣いて、「お前は遠くに住んでいるから、もう会えないだろう」と言いました。「絶対に戻ってこよう」、そう思って村を去りました。

山奥や孤島に隔離され、誰も気にとめることがなかった多くの快復村ですが、学生を中心としたワークキャンプの実施により、村が活気づき始めました。日本人と中国人、村人とキャンパーという枠を越え、一対一の人間関係を築くことができました。私は、ボランティアをしているというよりも、大好きな人に会いに行くという感覚です。

謝ばあちゃんの食事の様子・謝ばあちゃんと

3.ハンセン病について

ハンセン病は、「らい菌」という細菌によって引き起こされる感染症の一種です。らい菌は、人間の体内に侵入すると主として皮膚及び末梢神経に増殖性炎症を引き起こします。それにより、知覚麻痺、運動神経障害、顔面・四肢等の変形、眼の障害などの症状が現れます。こういった外見からわかる症状により、ハンセン病患者は差別の対象となってきました。しかし、らい菌は感染力が弱いため、私たちがらい菌に感染しても通常は発症することはありません。

1980 年以降、世界保健機構(WHO)は、ハンセン病蔓延国に向けたグローバルな対策として、多剤併用療法(MDT)を推奨しています。MDTにより、らい菌は数日で死滅し、早期に治療すれば後遺症を残さずに完治します。


4.日本のハンセン病について

日本では 1930 年頃から、ハンセン病患者たちを強制的に隔離していきました。その根拠となったのが「らい予防法」であり、この法律は1996年まで存続しました。予防法が廃止された後、国がこれによって行った強制収容、終身隔離、患者作業、断種などの人権侵害に対して謝罪を求める気運が高まり、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が起こされ、原告である元患者側が勝訴しました。しかし予防法が廃止され、国の責任が明らかになった現在でも、隔離前に暮らしていた故郷に帰って生活できる人は少ないのです。元患者の平均年齢は今や約 80歳となり、全国の療養所で暮らす入所者も年々減少していてきています。


5.中国のハンセン病について

中国には、南部を中心に 625 にも及ぶハンセン病快復村があります。中国では日本の予防法に該当するような法律が存在したわけではありませんでしたが、社会におけるハンセン病の理解も乏しく、また中国において有用な治療法が普及していなかった時代は隔離政策がとり得る唯一の政策でした。現在でもハンセン病患者に対する差別・偏見は根強く残っており、病が治癒しても社会復帰ができず、快復村内で暮らすことを余儀なくされている人は、中国 全土で 4万人にも上るといわれています。彼らの生活は地方政府から支給される生活給付金に依存してますが、その額は地方により異なり、少額しか支給されない地域もあります。今も倒壊寸前の家屋で、清潔な水を供給する設備やトイレ、電気すらない環境での生活を余儀なくされ、後遺症に苦しみ、孤独に生活している高齢の村人が大勢います。

中国キャンプでは、キャンプ中の緊密な協力関係、共同生活により、キャンパーと村人、キャンパー同士の間に継続的な信頼関係が生まれます。ワークキャンプがもたらすこの人と人との“ツナガリ”が、ハンセン病快復村への偏見・差別の解消につながると考えています。

ワークキャンプの様子

6.JIA (Joy in Action)について

中国国内で活動するNGOです。”JIA”は中国語で「家」の発音記号jiaから名付けられています。ハンセン村でのワークキャンプに関わるすべての人々―村人・ボランティアの学生たち・準備に関わるNGOのメンバー・周辺の住民―みんな作業と生活の共有を通して「家族」となるをモットーに、また、FIWCの「言葉より行動を」の精神を受け継いだ形でのJoy In Actionの頭文字をとったものです。

中国にワークキャンプを根付かせること、ワークキャンプの情報収集や共有を行うこと、個々のワークキャンプと世界各地の人や団体との繋がりを形成することなどを目的に活動しています。 活動の主体は大学生であり、各地域に委員会が存在しています。


7.旱冲村(ハンチョンむら)について

場所:広西省壮族自治区贵港桂平市

蒙圩から山道を約 2 時間半登ったところにあります。 過去には最多約 300 人の人が住んでいたようです。山道は幅が狭く凹凸が激しいため、雨の多く降る梅雨の時期は特に危険です。 しかし、自然が非常に豊かで近くには美しい泉や大きな滝があります。

村人:男性4人、女性1人 政府からの受給金額(1人当たり):250元/月(日本円で約3,000円)

少額のため、薬などの高額なものはなかなか購入することが出来ません。食材の調達には村人の1人がバイクで市場(蒙 圩)にまで買いに行っています。 また、農業や養蜂、養鶏をしている村人もいます。後遺症の度合いは人により異なり、村人の1人は自活が困難なため隣に住む村人が食事・洗濯などの世話をしていますが、皆明るく精神的には健康です。

環境:村には電波が入らず、歩いて30分のところでようやく入ります。またソーラー式の電気(電球)が導入されていますが、明かりは十分でなく、天気の悪い日にはすぐ切れてしまうため夜7時位からあたりは真っ暗です。 2008 年のキャンプによって男女別のトイレが作られたので、トイレに問題はありません。村の近くに病院はなく、重大なケガ・病気の場合はバイクで 30〜40 分の蒙圩にある病院に行く必要があります。 4人の村人の家の前には水道が引かれていますが、残り1人は水汲み場まで汲みに行っています。

村の様子・村人の家

8.フィールドワークをめざしている人へ

大切なことは、三つあります。

一つは、現地の人から信頼されることです。

一対一の人間関係を築くことができれば、その人の人生、取り巻く環境、そして自分には何ができるか必要とされているかが見えてきます。もし見えて来なくても、その人と素敵な関係が築けたことが何よりの宝物だと思います。人間関係を築くにはいろいろな方法があると思いますが、自分なりのやり方で誠意を持ってやれば大丈夫だと思います。僕はもっぱらお酒ですが・笑。

そして二つ目は、結果を急がないことです。

現地にはその場所なりの時間、そしてその人なりの事情があります。長い時間がかかっても、自分のやりたいこと聞き出したいことが得られないかもしれません。僕も何度同じ村に通っても、結局お酒を飲んで話したいことの半分も話せないということも多いです。でもそれもまたいいのではないかと思います。

最後の三つ目は、楽しむことです。

結局何をするにもこれにつきると思います。現地の人と人間関係を築くこと、うまく行かないことも楽むことができれば続くのではないでしょうか。結局人間好きなこと、楽しいことをやっている時が一番いい成果が出るというのが僕の考えです。