Data pubblicazione: 1-giu-2015 12.50.17
渋江 陽子
ダンヌンツィオの初期受容:鴎外による紹介
場所:立命館大学 諒友館 826教室
参加者:渋江、土肥、片山、霜田、Mercuri、吉村、國司、Gallo、Nigro、中島、菊池、中山、秋葉
今回は、ダンヌンツィオ研究者渋江陽子さんに、ダンヌンツィオと森鴎外の関係について発表していただきました。日本を代表する小説家・文人が、イタリアの国民的作家を我が国にどのように紹介したか…『椋鳥通信』の中で鴎外が描いたのは、とてもコミカルなダンヌンツィオ像でした。
渋江さんは、まずはフランス語、英語、ドイツ語への翻訳の例をみながらダンヌンツィオという作家がどのようにイタリア国外で知られていったかを簡単に説明しました。そしてその上で、日本におけるダンヌンツィオ初期受容についてお話しされました。なかでも重要だったのは上田敏と田山花袋だったいうことです。前者はダンヌンツィオの代表作『死の勝利』を翻訳しつつ、また訳詩集『海潮音』にダンヌンツィオの詩を4篇も収録しました。後者はを雑誌≪太陽≫に掲載した記事の中に、『インノーセント』(原題Innocente)の「露骨なる描写」に強烈な印象を覚えた旨を書き残しており、そこからダンヌンツィオ芸術が彼の文体に何らかの影響を与えたことを想像させます。興味深いのは、この両者のダンヌンツィオ受容には、共通して鴎外の影が差しているということです。敏は『海潮音』を鴎外に献呈しており、一方の花袋は『第二軍従征日記』のうちに、鴎外とダンヌンツィオ談義に花を咲かせたことを記しています。
さて、ここからが本題です。鴎外本人はいかにダンヌンツィオを紹介したのでしょうか。ここで注目に値するのは、漱石門下の森田草平が1909年に≪東京朝日新聞≫に連載した小説『煤煙』です。というのは、この小説に「影と形」という題で序を寄せたのが鴎外その人であり、またそれがダンヌンツィオの『死の勝利』を模倣した対話劇だったからです。雑誌≪スバル≫においては、1909年あたりからダンヌンツィオ作品の翻訳が多く掲載されていましたので、『煤煙』の連載とも相まって、この頃ダンヌンツィオが大きな存在感を発揮していたことが容易に想像されます。また、同時期には、鴎外が無名氏の名のもとに、ヨーロッパの時事ネタを紹介する記事を「椋鳥通信」として同誌に連載していました。ここでもダンヌンツィオのプレゼンスは強く感じられれ、渋江さんによると、計50回ほどダンヌンツィオの名が登場しているということでした。その多くは、次のようなとてもコミカルな描写です。
Notre-Dameで日の入るときにorgueを聞かせてもらいたいといふ注文をして、とうとう聞いてもらって、Vierneが弾くaccordの聲のなかにD'Annunzioは黙然として柱廊を散歩してゐた。借金は人が返してくれるし、気樂な次第である。
(一九一〇年五月七日發、≪スバル≫1910年7月)
上のパロディを見ても、この「椋鳥通信」の文章を見ても、どうやら鴎外はダンヌンツィオを小馬鹿にしている節があるようですね。渋江さんは、当時ダンヌンツィオは「つっこんでもいい人物」として認識されていたのではないかと推察されていました。ダンヌンツィオ作品に関する鴎外の率直な評価の知りたいものです。
なお、本会に参加されていた土肥さんがこのテーマに非常に精通しており、質疑応答の時間にとても面白い情報をたくさん教えてくださいました。私が一番興味を抱いたのは、鴎外によるパロディ戯曲「影と形」がダンヌンツィオとも親交があったイタリア文学研究者下位春吉によってイタリア語に翻訳され、ダンヌンツィオ本人のもとに届られたらしいという嘘のような本当の話です。ダンヌンツィオがいかなる反応を示したのか、こちらも気になりますね。
(國司記)