第06回例会(2014. 12. 28)

Data pubblicazione: 11-dic-2014 9.57.36

発表①:Lorenzo Amato(東京大学准教授)

老ジョヴァン・バッティスタ・ストロッツィ、MadrigaliからRimeへ: 16世紀フィレンツェの古典詩人の再発見

発表②:小松 浩之(京都大学大学院生)

ルカ・ジョルダーノ《平和の寓意を描くルーベンス》をめぐって

場所:京都大学吉田南キャンパス総合館東棟101演習室

参加者:Amato、小松、片山、中山、竹下、古川、菊池、霜田、土肥、星野、秋葉、イチタニ、國司、(Vagata)

発表①

第1部、Lorenzo Amato東京大学准教授の講演は、文献学上の新発見を多く提示するエキサイティングなものでした。彼が今回取り上げたのは、老ジャンバッティスタ・ストロッツィ(1504-1571)という、マドリガーレの妙手として知られたフィレンツェの詩人です。今日では顧みられること少ないの作家ですが、彼の生きた16世紀のフィレンツェにおいては一目置かれる存在であったということです。その後、彼の名は忘れ去られたとはいわないまでも、文学史に名を残す大詩人の一人としては数えられない、比較的優れた作家という程度の過小評価の対象になってしまいました(現に私は、恥ずかしながら?この作家の存在を知りませんでした)。この点と関係することのようですが、ストロッツィは、誕生して間もない活版印刷術で「手を汚す」ことを嫌い、印刷本を残しませんでした。彼の作品は、手稿のままで公刊され、フィレンツェおよびストロッツィ家の内部で流布していたのです。以下に、Amato准教授の発表を要約します。

 

ストロッツィの死後、1593年、息子たちによって彼の作品集が初めて出版されたのだが、そのタイトルは『マドリガーレ集』(Madrigali)というものである。つまり、そこに含まれた詩は、マドリガーレのみであった。マドリガーレとは、多くの場合3行+3行+2行で構成される非常に短い詩形である。ペトラルカやベンボによって使用されることが少なかったためペトラルカ主義の規範に拘束されにくい詩形として、16世紀のフィレンツェで流行した。ストロッツィ作品の伝承の歴史おいては、結局のところ、1593年の印刷本『マドリガーレ集』の流布が決定的な意味をもった。「春」や「そよ風」などを主題とした音楽的なマドリガーレが好評を博し、<軽妙な短い詩の作り手>という評価が確立したのである。

ところが、近年になって、多くの未刊行の手稿が発見されたことにより、新たなストロッツィ像が浮かび上がりつつある。1975年、アリアーニによって20の手稿(1000の詩篇)が、2001年、ディ・マルツィオによって59の手稿(1500の詩篇)が、そしてAmato准教授自身の調査により、103の手稿(3000の詩篇)が掘り起こされたのである。これらのうち34の手稿は、ストロッツィの作品のみを収めた詩集であり、しかもそれらに付されたタイトルは『詩篇』(Rime)であり、『マドリガーレ集』(Madrigali)ではない。ソネット、バッラータ、セスティーナ等の詩形も使用されており、(詩集の内部における個々の詩の配置により一つの物語を展開させるという)カンツォニエーレ的な発想も読み取れる一方で、いくつかの「巻」(libri)に分けるというむしろ古典作家的な要素を見出すこともできる。

さらに、肝心のマドリガーレについても、従来のストロッツィ評に修正を加えるべきだろう。1593年『マドリガーレ集』においては個々の詩が独立した作品として並べられていたというに過ぎなかったが、今回発見された手稿の中では、一つのテーマ(献呈される相手を象徴する「貴重なもの」、エメラルド、松明等)を共通項にする複数のマドリガーレが一連の詩群として提示されている。その上、しかるべき順序で配置されたマドリガーレ群は、相互に内容の連関だけでなく詩形上のつながりをも有していた。従って、これらのマドリガーレを連続したものとして読ませようとする作者の意図は明らかである。個々のマドリガーレをスタンツァに見立てれば一篇の叙事詩の観を呈するとさえいえなくもない。そこまで極端な解釈をしなくとも、少なくとも「短い軽妙な詩編の作り手」というイメージが詩人ストロッツィの実像とかけ離れたものであったことは間違いなさそうである。

 

以上がAmato准教授の発表の要約です。伝承の過程で作家の価値が矮小化されたり、作品の実像が歪められてしまったりする――よくありそうな話ですが、ここまで顕著な例は珍しいのではないでしょうか。Amato氏によれば、ストロッツィの過小評価の原因の一つは、彼自身が出版を望まなかったことにあります。ですが、活版印刷術が流行していた当時、「手を汚す」ことを嫌い、時代遅れの写本文化に則って作品を「発表」し続けたストロッツィの振る舞いは、私にはある種崇高なものに見えます。ストロッツィは、本当に偉大な作家だったのでしょうか。それを判断するためには、なによりも読みやすいエディションが必要になってくるでしょう。Amato氏による校訂版が、近い将来出版されることを期待しましょう。(國司記)

発表②

第2部は京都大学人間環境学科の小松氏による、画家ルカ・ジョルダーノ(1634-1705)に関する発表でした。私は、美術に関してはずぶの素人です。発表の内容を正確に捉えられたかは疑わしいですが、いずれにしても、初めて体験した美術史に関する研究発表は興味をそそるものでした。

 

この発表で取り上げられたのは、次の一枚の絵画です。

現在プラド博物館に所蔵されているこの絵画は、≪平和の寓意を描くルーベンス≫と呼びならわされています。制作年代については諸説あり、支配的な見解は1650-1660年代の作品と見るものですが、近年は1680年代頃に作成されたとする見方も支持されるようになってきたといいます。そして、前者の場合はしばしば作品の内在的な要素(様式)から制作年代が割り出されるのに対して、後者の場合は作品に関連する資料・文献から制作年代が推定されるケースが多いということです。

その他、作品所有者の変遷や図像源泉について様々な情報を提供されましたが、小松氏が特にこだわっているように見えたのは、作品のアレゴリー解釈でした。画家がルーベンスであることには議論の余地がないとして、描かれている裸体の女性がいったい誰なのでしょうか。一般的には、女性を「平和」のアレゴリーとみなすことが多いようですが、小松氏は、既存の解釈から一歩踏み込み、この裸体の女性にヴェネレ(ヴィーナス)を見出すことができないかと提案しました。マルスとヴェネレが居合せる場面は頻繁に描かれるテーマの一つであり、ジョルダーノ当人も他の作品の画題としていた(≪ヴェネレ、クピド、マルテ≫等)ので、この裸婦をヴェネレであるとみなしても不自然ではないというのでした。また小松氏は、裸婦の手のしぐさが「拒否」を示していることが同一のテーマの他の作品と比較して風変わりな点であると指摘しました。

 

この絵を観て抱いた私の個人的な印象は、「ややこしいなぁ」というものです。小松氏が指摘されていたように、柱の手前に座る「裸婦」がルーベンスの制作する絵画のキャンパス上にも描かれており、従って、同一の対象が二つの異なった視点から描かれていることになります。二次元のはずの絵画が、不思議な立体感を醸し出しています。西洋美術の伝統の中には、絵画作品の中にその絵画の小さなコピーを紛れ込ませる紋章紋(mise en abyme)と呼ばれるテクニックがありますが、≪平和の寓意を描くルーベンス≫は、一風変わった紋章紋と言えるかもしれません。また、実在の人物「ルーベンス」が一人、神話・アレゴリーの世界に入り込み、その世界の一部だけを見つめているという設定も「ややこしい」感を与えます。一言でいうならば、様式面からも、内容面からも、様々な視点が乱立しているように見えるのです。時代錯誤だとは分かっていますが、シュルレアリスティックな印象を覚えました。

 

以上素人の戯言でした。今後、美術史についてしっかり勉強して、再びこの絵画と向き合ってみようと思います。(國司記)

おまけ:

箸置きまで食べる店、おむらやにて。