終  章 諸行無常

前章までに述べてきたことを、まとめよう。

人生を切り開いていくには、三つのポイントがある。

一つは、本能に振り回されないこと

一つは、知恵を絞ること

一つは、ものごとに固執し過ぎないこと

一つ目の、「本能に振り回されないこと」とは、

たとえば車の運転中に、虫が混入してきたとする。

人は虫をうっとうしがり、または恐れ、思わず払い除けようとする。

それが本能の働き。

しかし、その行為は、運転中非常に危険な行為だ。

虫に刺されても、まず死ぬことはないが、

車が事故を起こせば、命を落とすかもしれない。

虫を払い除けることより、運転を優先することが理性の働き。

衝動ではなく、大局からものごとを判断しなくていけない。

たとえは簡単な例だが、

実際にはその思いが、動物的な欲望や欲求から出ているのか、

経験的な論理から出ているのかわからなくないときがある。

自分にごまかされてはいけない。

欲望や欲求の、言いなりになってはいけない。

二つ目の、「知恵を絞ること」は、

第十九章で述べた、サッカーのたとえだ。

これも、大局からものごとを見る必要がある。

困難にくじけず諦めず、工夫すれば、道は必ずある。

人は、大局を知り、新たな道を知るために、

たえず考えることが、重要だ。

三つ目の、「ものごとに固執し過ぎないこと」とは、

上の二つに反するように思えるかもしれない。

すべてが自分の思いどおりにいくわけがない、

叶わぬものは固執し過ぎず、諦めることも必要だ。

本能は、基本的に命を司る仕組みだから、

理性だけは、制御できない面がある。

また、知恵を絞るにしても、

人によっては知識も違えば、能力も違う。

今のままではどうにもならないことを現実として、

別の道や手段に、発想を転換することも必要だ。

これもやはり、大局からものごとを見ることが、

肝心であることにつながる。

固執が、人を苦しめる。

諦めずに苦しい。

我慢できずに苦しい。

この思いが、回りのものを巻き込んで、

人間関係の障害となることも多い。

どうにもならないことは、どうにもならない。

どうなるかわからないことは、なるようになるしかない。

なってしまったことは、仕方がない。

止むを得ない。

固執を捨てることにより、自由となる。

さらりとなる。

淡々となる。

それは本能の制約を外れること。

それは既成の観念から外れることだ。

ひどい衝撃を受けたり、追い詰められたりしたとき、

人は動揺し、自分を見失う。

荒れ狂う感情の中で、後はただ本能に任せて動くのみだ。

考えは混乱し、することなすことうまく行かない。

後悔とあせりから、早く立ち直ろうとあがき、

さらに動揺する。

そしてほとんどの場合、最悪の結果となる。

そう言うときこそ、上の三つのポイントを忘れない。

やるべきことをやる。

それが理性の、とるべき姿だ。

人に、運命や宿命はわからない。

因果の絡み合いで、人は、それぞれの状況に追いやられてきた。

その時々に判断してきたが、

それが正しかったのか、間違っていたのかはわからない。

運命に翻弄されるというが、

結局、自分に何が起こり、どうなっていくのかは、

どんなに考えても、確信は出来ない。

人をとりまく環境には、因果の流れがある。

原因があり、それが「仕組み」と言う構造の中に入って、

それぞれの結果となる。

この仕組み内の流れを「作用」と呼ぼう。

「仕組み」は、大きく二つに分けられる。

一つは、「自然の仕組み」。

これは、ものごとが物理的、化学的法則に従って作用する仕組みだ。

温暖化や寒冷化、地震や台風などの地球的規模の変動から、

ものの落下、破損、または機械的や電気的作動などが含まれる。

また生命の反応も含まれる。

一つは、「人為の仕組み」。

これは、人間が互いに共同する環境で作られる。

人も生物であるため、自分を含む回りの環境への侵食と汚染、

自己の増殖を行う。

しかし人は、環境を自分の都合のいいように変えてしまう力を

持っているため、人類優位の生態系を作る。

この、さらに特異で変動的な、人類中心の生態系が、社会環境だ。

社会環境では、それぞれ個々の人が持つ欲望がからみ合って、

いろいろな仕組みが作られる。

原因の要素が「仕組み」に入れば、

それに応じた結果が生まれる。

「自然の仕組み」の中の作用は、「法則」に基づく。

そして「人為の仕組み」の中にある作用は、「技術」に基づく。

「技術」は、人々の欲望をかなえるために考え出される

「法則」の新たな組み合わせだ。

効率よく、より大きな価値を生み出すことができる「技術」ほど、

「仕組み」を確固としたものとする。

「法則」や「技術」を知れば、

それらが働く「仕組み」を知ることが出来る。

自分の回りで、どのような「仕組み」が働いているか分かる。

緩やかに働くもの、急激に進むもの、

自分や自分の環境にとって、有利に働くもの、不利に働くもの、

または大きな影響を自分に及ぼさないもの、

それらが分かれば、運命が分かることに等しい。

そして運を操ることも可能となる。

そのためには、五感を研ぎ澄ましていなければならない。

そして、どんなときにも冷静沈着でものごとをなさなければならない。

これが上で述べた人生を切り開くための、一つ目のポイント、

「本能に振り回されないこと」につながる。

「仕組み」を知ることは重要だ。

しかしすべてを知ることは出来ない。

環境に「仕組み」が存在することはわかっても、

その内部の「法則」や「技術」がわからない場合も多い。

だから頭を使って、予測することが必要となる。

二つ目のポイント、「知恵を絞ること」につながる。

自分の想像を超え、予測出来ないこともある。

「仕組み」が強力すぎて、

結果が分かっていても、どうにもならないことがある。

どうなるかわからぬまま、

「仕組み」を受け入れざるを得ないことも多い。

これが、三つ目のポイント、

「ものごとに固執し過ぎないこと」につながる。

人は、生まれて死んでいく。

かけがえのない貴重な人生だ。

しかし誰が、充実した人生を送れるだろう。

才能によって、道を切り開いてきたとしても、

やがて、才能は尽きる。

驕りだけが残る。

捨てきれないプライドだけが残る。

他人の評価を気にする、動物のプライドだ。

そんなプライドを抱いたまま、人は死んでいく。

死んでしまえば、そんなプライドは、

まるで砂埃のように飛ばされ、やがて消える。

そんなプライドに、こだわった人は不幸だ。

そんなプライドを持ち上げたり、

満たさないからと軽蔑する人は、愚かだ。

それは、人生を閉ざす。

何も見たくない、知りたくもないと扉を閉ざす。

先の見えない、砂埃の人生だ。

成功しても、砂埃の人生だ。

真のプライドとは、

自分で道を切り開こうとする意志を持っているということ。

どう切り開いてきたかという結果ではない、

いつも、そう心がけているかどうかだ。

それは知ろうとすること、

真実を知ろうとすること。

人生を切り開くとは、少しでも真実に気づくこと。

真実を少しでも知りたいと思う、

そんな理性を持って、人は一生を送るべきだ。

脳は知ることによって、喜びに満たされる。

知って理解することによって、喜びに満たされる。

しかし、その脳の喜びのためだけに、真実を求めるのではない。

知ることによって、新たな扉が開かれるからだ。

新たな世界の、新たな出会いのためだ。

新たな出会いは、人を希望へと導く。

理性は、まるで本能の回りに巻きついた薄皮のようだけれど、

ヒトを人とするもの。

ヒトは動物だが、人は動物ではない。

理性を持って、人生を送るべきだ

人として、人生を送るべきだ。

それがやがて、ただ通り過ぎてしまう風のようであっても。

それは砂埃でなく、爽快な風だ。

真実は変らないが、ものごとは変る。

人もやがて変る。

人はやがて去っていく。

人は、得た知識を持っていくことは出来ない。

しかし希望は持っていくことができる。

希望は、この世へ生まれてきたことへの感謝へつながる。

動物として生まれてきたことへの感謝。

人として生まれてきたことへの感謝。

そしてそれは、やがて自然に帰る感謝へつながる。

知るか、知らないか。

気づくか、気づかないか。

出会うか、出会わないかだ。

『哲士は、諸行無常、

希望を持ってこの世を渡り、

一陣の風のごとく去る』

(2008.10.1)