第16章 狷介孤高

動物は、本能によって行動する。

多くの動物には、三つの基本的な本能が働いている。

生存本能:生存し続けようとする目的を持つ

種存本能:子孫を残そうとする目的を持つ

存在本能:上の二つのために、

存在を主張しようとする目的を持つ

動物は、エネルギーの無駄な消費を減らすために、

効率よい行動を目指す。

そのためには、たえず判断が必要となる。

判断とは、ある程度先行きを予測するということである。

しかし、他の多くの動物は、そんなことが出来るほどの知能を

持っていない。

そんなことが出来るほどの脳構造を持っていない。

だから、本能と言う判断装置を用いて、行動を決定する。

本能とは、自然淘汰によって選択された遺伝子情報として、

受け継がれてきた行動プログラムである。

また、いくつかの行動と、効率が良かった場合の結果を、

偶然に繰り返し経験し、条件反射的に記憶して、

それらが後天的に、遺伝子情報に書き込まれて、

プログラム化された場合もあると考えられる。

人は、脳が進化して発展し、

先行きを予想できる想像力(仮想認識力)を手に入れた。

そして自分の意思で、ある程度の判断が可能となった。

だが人もまだ、本能の手助けが必要である。

だから本能の束縛から、まだ逃れられないでいる。

そのことが、人の行動判断をさらに複雑なものにしてしまっている。

本能は、様々な欲求を生み出す。

そしてその欲求の強さは、それぞれ個別差がある。

欲求は、脳内分泌液の量によって影響されるからだ。

そしてその欲求の向く方向にも、個別差がある。

外に対する攻撃傾向が強いか、内に向ける防御傾向が強いかだ。

これらは、性別、遺伝と、生育してきた環境に影響される。

人の場合、以下のようになる。

攻撃傾向が強いものは、積極的、外交的、大胆、悦楽志向

対抗的、冷酷、自信家、自己中心的

破壊的、感覚的、批判的、刹那的

防御傾向が強いものは、消極的、内向的、慎重、辛抱志向

協調的、温情、小心、他者中心的、

秩序的、論理的、反省的、計画的

人は、群れで生きる動物である。

いくつもの群れに所属する。

それらの群れの範囲は重なり合って、かなり広範囲に及ぶ。

そのために人は、多くの制約を受ける。

人は群れの中で生きるほうが楽な分、多くのストレスも受ける。

群れの秩序が整っていればいるほど、生き易くなるが、

束縛のストレスも多くなる。

そして存在本能は、群れの中でより発揮される。

存在本能は、多くの欲求を叶えやすくするために、

群れの中で自己を目立とうとさせ、

また目立つことで攻撃を受けやすいことから、

群れに埋没させようとする。

前者は攻撃傾向であり、後者は防御傾向が強いと言える。

そして、前者の目立つ仕方において、人の場合、二種類ある。

一つは、自分の存在価値を高めるために、

自己顕示を強く行うことであり、

一つは、自分の回りまたは対象の存在価値を低下させるために、

他者を軽蔑することだ。

これらは、自己中心的な立場だ。

群れに埋没する仕方においても、二種類ある。

一つは、自分の存在価値を放棄してしまい、

いっさいその責任を受けないという方法であり、

もう一つは、他がみんなやっているのだからと、

責任を自分一人で受けないという方法である。

これらは、責任回避の立場だ。

人は複雑な反応をするため、群れに埋没しながらも、

自己を顕示したい欲求がある。

その場合は、一部の群れに埋没して、

しかし一部の群れとして、全体の群れの中で目立とうともする。

その一部の群れが、回りの他者を、総がかりで軽蔑すれば、

それがイジメとなる。

人は群れで生きる。

しかし、群れのために生きているのではない。

だが、群れの中でしか生きられない弱さを持っている。

群れは、上で述べたように、自己中心的なものたちと、

責任回避のものたちで成り立っている。

群れには制約が必要だが、多くは、自己中心的なものたちが

自己都合で作るため、理不尽なことが多い。

そして他の人を、群れのために生きさせようとする。

しかし彼ら自身は、群れに埋没してしまうことを恐れる。

群れの中の、責任回避のものたちは、群れを保持するために、

制約を守らせようとする。

制約が守られ、群れが安泰であることで、彼らは安心する。

そして、群れに従わないものを排除しようとする。

これらはすべて、人の存在本能がなせる仕業である。

哲士もまた、群れの中に生きざるを得ないが、

孤高でなければならない。

孤高とは、自分や群れからの制約に縛られすぎないこと、

群れに頼らず、また、群れからの迫害を恐れず、

自分の足で立っていることだ。

道理に従い、その道理に従った仕組みには従う。

だが、観念としての制約には縛られない。

従うべき制約は、自分の理性が納得したもの、

理性からのみ発せられたものだ。

人は、動物だ。

本能に操られる。

しかしその力は、人を生きさせる。

そして、人は群れ集う動物。

群れの中で、その制約の中で、人は葛藤する。

理性は、猛獣使いのように、自分と言う獣を取り扱う。

だが時には、羊飼いのように、群れをも従わせる。

群れもまた、動物なのだ。

哲士は、そのような理性を尊重する。

『哲士は、狷介孤高(けんかいここう)、

自分を制約するものは、

自分の理性のみである