(別章1ヤカラ道)

人は誰でも幸福を求める。

幸福とは、楽しみ、安定、豊かさの三つが満たされた状態をいう。

楽しみを特に求めるものは、快楽追求者であり、

安定を特に求めるものは、不快苦回避者となる。

そして快楽追求者は楽しみに豊かさを求め、

不快苦回避者は安定に豊かさを求める。

人が快楽追求者となるか不快苦回避者となるかは、

その人の遺伝、能力、環境、学習による。

「哲士」はものごとの探求に楽しみを求めるが、

どちらかというと安定に豊かさを求める不快苦回避者である。

ゆえに秩序を重要視する。

快楽追求者の多くは秩序を重視しない。

秩序が快楽追求の足かせになるからだ。

現状の秩序に寄りかかりながらも、

秩序の構築にも保守にも積極的に取り組まない。

秩序を望まない。

そして秩序を壊す者がいる。

彼らはいわゆる「不定の輩(ヤカラ)」と呼ばれる者である。

略して「輩(ヤカラ)」と呼ぼう。

彼らは「哲士」と正対するものである。

「輩」は自分の快楽追求のために秩序を壊す。

そこに「悪意」がない者は、秩序の必要性に気付いていない

未熟者であり、「輩」ではない。

「輩」は程度の差はあれ明確な「悪意」を持つ。

秩序の必要性を承知で、あえてそれを壊すのである。

甚だしい「悪意」を持って秩序を壊すものは悪者(無法者)であるが、

多くの者は、ささやかな「悪意」を持って、秩序構築や保守の

妨害をする。

「悪意」もありながら「善意」もある、

面白半分で秩序を壊す者、 この確かな意思をもたない者を

「半輩(ハンヤカラ)」と呼ぼう。

「哲士」が「善意」を心にしてことに当たるように、

「悪意」を持ってことにあたる者が、「輩」である。

なぜ「輩」は、「悪意」を持ってまでして、そんなことをするのか、

それは自分が優位に立つことが、何よりの喜びであり、

他者を絶えず蹴落とそうとするからである。

彼らの人生はゲームであり、勝つことが最優先される。

世界は遊技場であり、新たな秩序を構築するような場所ではない。

そしてゲームに勝つために手段を選ばない。

そこでは気づかれなければ平気でルールも破られる。

必要とあれば平気で秩序が壊される。

「輩」は「悪意」を見せない。

普段は多く、誠実を装っている。

彼らは罰せられるほどの悪は行わない。

ぎりぎりの悪で他人を貶める。

「善意の者」は他人に「悪意」が潜んでいるとは思いたくない。

そしてその者は嵌められる。

その者は蹴落とされる。

蹴落とされても「善意の者」は、自分が悪かったかと反省している。

次に「輩」は優しい言葉をかけて、「善意の者」をふたたび信じさせ、

そしてふたたび蹴落とす。

「輩」はどこにでも存在する。

「輩」は性別。年齢、地位・職業に関係なく存在する。

上司、教師、学者、医者、警官、政治家、法律家、宗教家など、

秩序を尊重し、人格を必要とされる者の中にもいる。

「輩」は策略によってライバルを蹴落とす、

またその横暴性が「行動力」と評価され、出世するものが多い。

そうして組織のリーダーになった「輩」は、ごまかしによって

組織を管理するため、秩序はいつも混乱している。

「哲士」が「論理性」「システム性」「バランス性」

「シンプル性」の四つの指針をもって、ことを進めるように、

「輩」は、その真逆の傾向でことを行う。

「理不尽」:気まぐれ、卑怯、威圧、不誠実

「短絡性」:感情的、思いこみ、無計画、快楽主義

「不均等」:大げさ、矮小、差別、無視

「混乱化」:乱雑、嘘、ごまかし、嫌がらせ

「輩」は自分では、そういう態度を取るが、

他人に、それを認めているわけではない。

他人がそういう態度をとれば、厳しく非難する。

そして彼らは「論理性」「システム性」「バランス性」

「シンプル性」の必要性を説く。

「善意の者」は「輩」には敵わない。

「善意の者」は、秩序を築こうとするが、「輩」はそれを平気で壊す。

壊す方が簡単である。

「善意の者」は後悔し反省するが、「輩」は気にしない。

「善意の者」は傷つくが、「輩」は傷つかないのだ。

「善意の者」は他人がどう思うかを気にするが、

「輩」は他人など、自分のゲ―ムの相手でしかない。

そして「輩」は、見ていなければそのゲームの駒を平気で奪う。

勝てるわけがないのである。

相手を蹴落とすことを目標とする者と、相手と協調しようとす者が

相容れるわけがない。

だがお人好しの「善意の者」は、いつか協調してくれるのではないか、

いつか自分に好意を持ってくれるのではないかと善意を示し続け、

蹴落とされ続ける。

「善意の者」に出来ることは、「輩」を見抜き、

彼らに近づかないこと、関わらないことである。

それが不可能な時は、彼らをある程度見習うことである。

いい加減で理不尽で、卑怯に彼らに接すればいい。

そして何を言われても気にしないことである、彼らのように。

「哲士道」で「愚念」「諦念」「脱念」「悟念」の必要性を述べた。

それは人が完璧には行動できないことから、完全主義に陥って、

自分を責め過ぎないための、観念である。

これらの観念のみが増長したのが、「輩」の態度である。

だから「輩」にも見習うべき点はある。

「善意の者」は、ある程度「輩」の部分をとり入れて、

リラックスできるのである。

そして「輩」の攻撃にも対応できるのである。

最後に「いじめ」問題を例に取り上げ、論議をまとめよう。

いじめられるのは「善意の者」である。

そして「いじめ」の中心にいるはもちろん「輩」である。

まわりには「半輩」が多くいる。

彼らには強い悪意はないが、ただ面白そうだからと、

自分が標的にされるのを恐れるところから、仲間に加わっている。

「善意の者」は、いじめられている実態を誰にも話さない。

他人に話すのは「卑怯」だと思っているし、

情けない自分を、第三者に知られるのを恐れるからだ。

「善意の者」は、いじめる相手にも「善意」があると信じている。

いつかわかってくれると、さらに「善意」を示すが、

そこを弱みにつけ込まれ、さらに攻撃される。

彼らに「善意」はないと知った途端に、優しくされる。

それがさらに「善意の者」を惑わす。

自分のほうに問題があったのじゃないかと思いをめぐらし、

また、いじめられてくよくよする弱い自分を責める。

「善意の者」はこの世の中に「輩」という存在がいることを

知らないのである。

「悪意」を持って、人生を送るものが身近にいることを

理解できないのである。

そして彼らは、普通の善良な顔をしてる。

やがて彼らが「悪意」を持っていることに気づいても、

太刀打ちできない。

彼らを激しく非難しても、

彼らは嘘をつき、ごまかし、罰を恐れない。

いいかげんで、いじめた覚えもはっきりしない。

呆れかえり、笑いものにされ、そしてあいかわらずいじめは続く。

怒りにまかせてことを起こせば、罰せられるのは、

いじめられたほうである。

「善意の者」は、我慢し続けることになる。

だから「善意の者」は、ほんの少し「輩」を見習えばいい。

「善意の者」は、ほんの少し「善意」を捨て、

ほんの少し「悪意」を持てばいいのである。

ほんの少し「輩」となればいいのである。

「輩道」を歩んではいけないが、「輩道」があることを

知っていてもよい。

そして「輩道」が破滅に突き進んでいくのを知るがいい。

「悪意」が栄える道理はないのである。

(2011.5.1)