第19章 不撓不屈

不快苦を避け、快楽だけを求める人がいる。

苦労を乗り越えなければ、充実感は伴わない。

しかし苦労を嫌がり、また恐れ、そんな充実感を求めない。

だからその人は、やってきたこと何もかもが中途半端だ。

何も達成していない。

苦労を嫌がってきたことに、自分でも気づいていない。

苦労をしてでも充実感を得ようとしてこなかったことに、

気づいていない。

だから、自分にはチャンスがなかったと思っている。

不快苦は、嫌が上でもやって来た。

しかしそれは、苦労となっていない。

知恵を使って、それを解決しようとして来なかった。

その内容や結果ではなく、その努力をして来なかった。

だから、それらを経験してきても、何の糧にもなっていない。

ただ、防御のプライドが高くなっただけだ。

苦労しなければ充実感は得られないということを知らないで来た人は、

人生を切り開くことも出来ないで来た。

苦労を恐れないことは、能力だ。

苦労を乗り越える自信があるから、恐れないのだ。

それは小さな苦労を乗り越えてきたという経験が生んだ自信。

生まれついた能力と、育った環境による。

苦労を恐れないものは、苦労を厭わない。

自分を果敢に挑戦させる能力。

それが、人生を切り開く。

人生を切り開きたい、人生を充実させたいのなら、

本能に振り回されてはいけない。

人の脳は、二つの思考を行う。

一つは、見たり感じたりした認識にもとづいて考え、行動する。

もう一つは、想像した認識にもとづいて考え、行動する。

前者を直感認識、後者を仮想認識と呼ぼう。

この、後者の仮想認識の能力が、環境のなすがままだった生物を、

環境を自ら変えれる生物に発展させた。

すなわち、物陰に隠れて風を防ぐだけだった生物を、

自ら壁を作って、風を防げる生物に変化させた。

この仮想認識は、論理に基づく。

見たり感じたりして認識する直感認識は、本能に基づく。

動物は、行動の、瞬時の判断を求められるが、

論理を組み立てて行動の結果を予想できないほとんどの動物は、

この本能による直感に、判断を任せる。

その判断の基準は、

命を繋ぐために、エネルギーを確保し、

危険を防ぐ。(生存本能)

種を繋ぐために、配偶者を手に入れようとし、

子孫を守る。(種存本能)

群れの中で、自己の立場を主張する、

または、群れに埋没して、自己を守る。(存在本能)

人もまた、同じである。

直感に任せれば、上の判断基準で行動を決める。

しかし人は、論理による仮想認識能力を手に入れた。

環境をも変えてしまえるその力は、より効率よい行動を選ぶ。

しかし、論理に偏りがあれば、その判断は間違えやすい。

だがそれが正しく働けば、

人生を切り開き、人生を充実させることに導く。

たとえば、何も知らない者たちにサッカーをさせれば、

みんながまっしぐらにボールを追いかけ、奪い合う。

みんながいっせいにボールのところに集まるため混乱して、

まともにボールを蹴ってシュートすることも出来ない。

これが、本能による直感認識での行動。

ボールを追うのではなく、

ボールを持った者が蹴り出しやすい位置、

すなわちパスしやすい位置に移動すれば、

ボールは速やかに渡り、そしてシュートしやすい。

これが、仮想認識によって判断した行動。

たったこれだけの工夫で、ゲームは勝利しやすくなる。

しかし、直感認識で動いている者たちから見たら、

この者は、理解不能の異状者となる。

論理は確率であるから、もしかしてボールは来ないかも知れない。

その場合、この者は、ボールを追わない愚か者となる。

世間の批判とは、そういうものだ。

しかしボールが来れば、その者は効率よくボールを処理出来る。

その時、その者は自らの手で人生を切り開き、

充実した時を過ごしたことになる。

人生を切り開くためとは言え、

不用意に、他を犠牲にしてはいけない。

自己中心の考えは、結局、本能に振り回されている。

世の中は、因果と調和で出来ている。

自分の回りの環境の調和を崩せば、

巡り巡って、やがてその弊害を受けなければならなくなる。

しかし、回りの環境が不十分で作り直す必要がある時は、

一度、環境を崩さなければならない。

その時は、自己の主張を通し、

他を無視したり犠牲にしたりする必要が出てくる。

しかし、それは新たな環境の調和と因果を作るためだ。

やがてそれは、回りの環境にも利益をもたらす。

その可能性を高くするということだ。

環境を変えることは、リスクを伴う。

新たな手段は、思わぬ失敗を引き起こすかも知れない。

大きな道理に従っているかどうか。

それが、肝心になる。

本能に振り回されてはいないかどうか。

自己中心でないかどうか。

それらを満たした、仮想認識の高いレベルが理性だ。

しかし世の中には、本能に振り回される人のなんと多いことか。

多くの者が、直感認識で判断する。

もしくは、強い本能の欲求から、仮想認識が偏向している。

そして、理不尽な振る舞いを、あなたに行う。

または、あなたに強制する。

ありきたりの、保守的な行為を強制する。

あなた自身も、そうかも知れない。

それほど、本能の欲求は強い。

それは、その強さが生きる原動力になっているからだ。

だから、本能に振り回される人を闇雲に責めてはいけない。

しかし自分は、本能に振り回されてはいけない。

その環境が、あまりに理不尽であり、

あなたが不当な被害を受けるなら、

そして、その環境を変えれる可能性も、

環境が自ら変わっていく可能性もないのなら、

その環境を去れ。

つまらぬ義理や情け、世間体、プライドで

その場に留まる必要はない。

抜け出す工夫、逃げ出す知恵を考えることも、

決して恥ではない。

現状に流されなければ、手がないということはない。

逃げ出すこともまた、本能に縛られない判断だ。

「恥知らず」

「義理知らず」

「情け知らず」

そのように、他から言われるかも知れない。

しかし、構わない。

大きな道理に従い工夫せよ、知恵を絞れ。

その環境を逃げ出そうとすることも、

そこに留まって、環境を変えようとすることも、

それは、あなたの自由だ。

どちらを選択しようと、

あなたにとって、新しい方法を生み出す必要があるのは同じ。

そしてそのためには、苦労を乗り切らなければならない。

それは試練。

人生は、新しい方法で必ず切り開かれる。

試練を乗り越えれば、充実した人生が、そこに待っている。

遅いことはない、必ずまだ間に合う。

『哲士は、不撓不屈(ふとうふくつ)、

苦労に屈せず、知恵を絞り、

新たな方法を生み出せ』