(別章3フモウ道)

自分の回りを荒涼としていく者、それが『不毛(フモウ)人』である。

『不毛人』は、横暴、横着、横柄、大げさ、大雑把、

無謀、無頓着、短気、陰険、陰湿、身勝手である。

「不毛人」は回りの者の存在を無視し、平気でその価値を否定する。

回りの者は「物」であり、それもほとんどが使えない、邪魔ものである。

『不毛人』は、その態度から、回りの人間を威圧し、緊張させ、

大きなストレスを与えて、やがて回りを不毛にしていく。

彼らはいつもイラ立っている。

彼らは不満だらけである。

彼らは敵意に満ちている。

彼らは思い通りにならないと、すぐに感情的になる。

彼らは朗らかに笑うことはない。

ヒステリックに笑うだけである。

穏やかさもなく、優しさも思いやりもない。

いつも攻撃的である。

彼らは回りのことを考えない。

自分勝手に振舞うだけである。

傍若無人(ぼうじゃくぶじん)、やりたい放題である。

そして彼らには強いプライドがある。

彼らの目標は勝つことである。

勝って、自分の思い通りにことを運びたいのである。

思い通りに運んで、それが何かの役に立つわけではない。

結果的に何かに有効なことはあっても、

彼らの目標は勝つことである。

自分のプライドを守ることである。

それだけである。

そのプライドにしても、確固たる信念があってのものではない。

本能的に存在を主張したいだけだ。

だからさらに強いものが現れると、媚る。

その者に媚びへつらう。

その強い者に従ったほうが有利と思うからだ。

なりふり構わない。

しかしその者のことを気遣っているわけではない。

その者の存在感が弱くなれば、簡単に無視するようになる。

「不毛人」は、回りの調和や秩序を考えない。

そして、今ある調和や秩序を、意味のないものとする。

周りの者も、彼らの威圧感や否定感から、

不快を恐れ、彼らの機嫌をとるようになる。

彼らに逆らうのをやめ、彼らのいいなりなっていく。

回りの者も秩序を守る意味を見失なっていく。

「不毛人」は、自らが環境の秩序を破壊する「癌」であり、

そして関わる回りの環境を次々に「癌化」していく。

実際に、その者に長く関わっていて、

身体に「癌」を発生させる者もいる。

「不毛人」には、明確な悪意はない。

だから彼らの行いは「輩(ヤカラ)」に近いが、「輩(ヤカラ)」そのままではない。

「輩(ヤカラ)」は回りを無視しない。

回りのことを知って、そして他者を陥れていくのである。

明確な悪意を持っている。

「輩(ヤカラ)」は自分が勝つだけでなく、自分が勝って得するように

企てるのである。

「輩(ヤカラ)」にも、回りを不毛にしてしまう者はいる。

ただ、完全に不毛にしてしまうことはしない。

そうすれば、自分が損するからである。

だが他者にただ勝てばいいという「不毛人」は違う。

明確な悪意はないが、また誠意もない。

隠された敵意があるだけだ。

時には善意を見せることがある。

だから回りの人間は、安易に彼らと関わってしまう。

油断して、彼らのペースに巻き込まれる。

そして後には、荒涼とした「不毛」が残るだけとなる。

「不毛人」は、「小人(コトナ)」の強力型である。

「小人(コトナ)」には、いくつかの傾向がある。

それは彼らが、多少、回りの環境から影響されるからである。

「小人(コトナ)」には、まだ無邪気さが残る

しかし「不毛人」は、ほとんど回りからの影響を受けない。

まさしく「小人(コトナ)」のモンスター化したものである。

「小人(コトナ)の偏向性を強力にして、

傍若無人に振る舞い、やりたい放題をする。

「不毛人」は、「輩(ヤカラ)」と「小人(コトナ)」の中間とも言える。

「不毛人」に誠意や情けはもちろん通用しない。

彼らに思いやりや気遣いは通用しない。

しかし彼らは回りにそれ要求する。

それらが欠けている者に対して、ひどく非難する。

そしてもちろん彼らに、それらの思いはまったく欠けている。

彼らと敵対しても勝ち目はない。

誠意ある者は。秩序や回りとの調和を重んじる。

それらを無視する「不毛人」に、太刀打ちできるわけがない。

彼らは「なりふり構わない」のである。

自分の行動や言動に矛盾や理不尽があっても気にしない。

正論をどんなに理路整然に説いても、彼らは耳を塞ぎ、

うるさいというだけである。

または、へ理屈で対抗してくる。

誠意ある者が勝てる相手ではないのである。

彼らに対応するには、

近づかない

関わらない

取り合わない

気にしない

だが、実社会において、どうしても彼らにかかわらずに

おれない場合が多い。

精神的な面を含め、明らかな実被害を受ける場合は、

何としてもその場から去る、逃げるのが得策である。

しかし逃げれない場合が多い。

その場合、彼らを「操る」ことも必要である。

「不毛人」は、自分の思う通りにことを運ぼうとする。

どんなに効率が悪く、無駄や無理があっても、

自分の思い通りにしたいのである。

そうならないと機嫌が悪い。

だから年中、機嫌が悪い。

誰かのせいで、思いが叶わなかったら、

その者をひどく憎む。

自分のプライドが傷つくからである。

彼らは、「存在本能」に基づくプライドによってのみ、

行動している。

誰にも負けたくないのである。

だから、その彼らの横暴は「空回り」のことが多い。

何の意味もないことが多い。

「無視」してもかまわない場合が多い。

彼らの横暴が「無視」できないのは、、

あなたの「思い込み」であり、

あなたのプライドが「彼らを許せない」からであることが多い。

彼らの横暴に傷ついたあなたのプライドは、

彼らを許せないと憎む。

憎しみを握りしめて、あなたは苦しむ。

それでは、本能のプライドだけで振る舞う「不毛人」と同じである。

彼らは怒りを撒き散らし、あなたは撒き散らさない、

ただそれだけの違いである。

彼らと同じ立場に立たない。

彼らの一段上に立って、彼らを「操る」。

彼らを、彼らの気づかないように導いて、被害を少なくするのである。

そういう思いが、この怒りのループから、あなたを外れさせる。

あなたが彼らを罰することはない。また出来ない。

あなたが彼らに対抗すれば、それは火に油を注ぐだけである。

彼らは反省もしなければ成長もしないからである。

あなたが彼らに抗すれば、彼らはさらに意地になって、

さらにあなたに、無謀を繰り返す。

あなたの存在感を無視し、あなたの価値観を否定する。

だが、秩序や調和を乱す「不毛人」はやがて、自らに罰せられる。

因果応報である。

秩序や調和は、人々が幸せに生きるためにある。

それらを大切に扱わない者は、幸せに近づけない。

禍を引き寄せてしまうのである。

彼らを相手にしない。

彼らの不幸に巻き込まれない。

屈辱を受け怒りに打ち震え、彼らを許せないという

そんな自分のプライドへのこだわりを捨てる。

一段上に立って、彼らを「操る」。

「大人」になるということである。

彼らに「大人」の対応をするということである。

社会では多くのストレスを受ける。

精神的なストレスのほとんどが、人間関係から生まれる。

あなたの回りに、「小人(コトナ)」や「不毛人」あるいは「輩(ヤカラ)」が

いるからである。

そして「不毛人」のいる環境では、事態は一切変わらない。

その混乱した状態がいつまでも続く、彼らがいなくなるまで。

彼らは反省もしなければ、成長もしないからである。

心あるものは、やがて彼らから離れていく。

そして彼らは回りの者を「物」と思っている。

彼らは孤独の中にいる。ただ彼らは、それも平気である。

彼らは人との関わりから生まれる喜びを知らない。

荒涼な心、彼らはまともな「人間」ではない。

彼らに「大人の対応」をすること、大人になること、その道標が「哲士道」である。

(2013.9.7)