第3章 因果応報

人生は楽しむためにある。

楽しむとは、快さに包まれること。

しかし刹那の快さではない。

安定した快さ。

豊かな快さ。

それが本当の楽しさだ。

楽しさが持続すれば、幸福。

しかし楽しさは、容易には持続しない。

楽しさはやがて、終わる。

終わらなくても、飽きる。

そして醒める。

人は、自分に鞭打たれ、楽しみを必死に求めるが、

手に入れた途端に、その一瞬の快楽とともに終わる。

そして、忘れる。

そんな断続的な快楽の繰り返しを、せめて幸福と呼ぶ。

生きることは、命のエネルギーを環境から獲得することだ。

その獲得には、苦痛が伴う。

しかし、その獲得を成し遂げれば、快さに満たされる。

生きることには、命のエネルギーを費やす快さもある。

だが、獲得が思うようにいかなければ、また、新たな苦痛に襲われる。

悔しさ、後ろめたさ、歯がゆさ、嫉妬、絶望。

生きるとは、そんな不快苦と快楽の繰り返しだ。

人生は、苦痛ばかりでもなければ、

快楽ばかり続くわけでもない。

だから、せめて人生に、楽しさを求めていい。

さらなる楽しみに、挑戦してみていい。

そのことに、臆することはない。

しかしその楽しみは、大きな道理に従わなければならない。

楽しさは喜び。

喜びとは、世界が広がること。

環境を、新たに変えれる可能性を手に入れること。

それは出会いと言える。

自分を含めて、知性との出会いだ。

人と動物を隔てるのは、この知性の存在。

知性は、環境を変えようとする力だ。

そして知性は、やがて環境の大きな道理を守ろうとすべきものだ。

知性は、人が人であるためのプライドだ。

知性の出会いには、尊敬が含まれなければならない。

出会った知性が、優れているとか、成熟しているとか、

そういうことだからではない。

大きな道理を守ろうとする知性に対して、尊び敬わなければならない。

それは、年齢や性別や身分とは関係しない。

その意志がある者に対して、尊び敬わなければならない。

大きな道理を守るとは、自分を守ることだ。

自分を含めて環境を守ることだ。

自分を含めて環境の未来を守ることだ。

それは、自分も環境も、奇跡で成り立っているからだ。

奇跡には、感謝しなければならない。

感謝するということは、恩を返す、

すなわち守るということだ。

守って維持する、それが感謝だ。

因果は廻る。

知性が、大きな道理を守ろうとすれば、

それは、新たな出会いを呼ぶ。

知性の出会いは共鳴し、感動を呼ぶ。

感動は、大きな道理が何かを教える。

新たな知識は、新たな喜びを生み出す。

そして、出会った者同士が、尊敬し合えば、

そこには、愛が生まれる。

優しさに満ちた、慈愛だ。

愛はまた、喜びを生み出す。

喜びは、生きる楽しみを生み出す。

その楽しみのために、人はまた、大きな道理を守ろうとする。

知性を磨き、自分を律する。

そのために人は、苦しみを敢えて受ける。

『哲士は、因果応報、

自然の大きな道理の中に、

楽しさを見い出す』