旧東海道 富士見道中

旧東海道から見る富士山

1,江戸時代に、東海道はなぜ人気だったのか?

東海道新幹線と富士山(Public DomainQ)

「多くの歌人や絵かきがモチーフにし、どこから見える姿が美しいかを競い合った富士山。その姿を長時間眺めながら歩けるのも、東海道の大きな魅力だった。」(『地形がわかる東海道五十三次』朝日新聞出版2021.3から引用

 いま旧東海道を歩いても、富士山ごくたまに目に入るに過ぎない。『富士山を楽しむ東海道』の座は、東海道新幹線に譲っていて、江戸時代の旧東海道からの風景は、今では想像し難い。かつての旧東海道を旅する旅人は、どんな風景を目にしたのだろうか?

閑話休題.江戸時代の庶民は冬に旅をした

江戸時代の旅人は、どんな季節に東海道を旅したのだろうか?

外様大名の参勤交代は4月、譜代大名は6月。

唱歌〽お江戸日本橋 に出てくる「行列揃えて」東海道を「初登り」するのは、8月ではないか、という説がある。「初登り」というからには、その後、何回も「京」に登ることを予期している。だから、一般庶民や講ではなく、近江あたりの故郷に里帰りする江戸の商家の丁稚たちだろう、というのだ。江戸市中で大いに賑わった商店・三井越後屋呉服店は750人程度の奉公人を京都周辺から雇入れており、7年に一度、商いの閑散期の8月に里帰り(「中登り」)を許したという(江戸から遠い出身地の丁稚を雇うのは、幼な馴染みに対する値引や、悪事の手引きなどの問題を起こさせないため)。丁稚たちの行列は(750/7=107だから)100人以上の場合もあったかもしれない。

それでは、庶民の旅の場合はどんな季節だろうか。地方では「江戸と背中が見て死にたい」ということわざがあったほど旅行は困難だったというが、江戸末期頃には神社仏閣参りを(表向きの)理由に旅行する気運が高まり、庶民の旅行が増えたようである。江戸時代の庶民の旅行記録を、大田区立郷土博物館が調べた結果が公表されている。それ(展覧会図録)によると、旅行記録に残されている旅に出発した月は圧倒的に1月が多い(図)。冬の3ヶ月(12月から2月まで)で全体の7割を越えるから、あきらかに、庶民は冬に旅をしたと思っていいだろう。図録の解説者は、冬に旅をした理由は、農閑期だからだろう、としている。ある江戸研究家の先生からは、年貢を皆済した証文を貰えるのが12月だから、そのあとに旅に出たのでは? と言う話をお聞きした。なお、ほかの理由として、大名行列や川留めなど、旅の面倒に遭遇すると庶民は特にとばっちりを受けやすいので、春・夏を避けた、そういうこともあったかもしれない。

冬の旅行は日中の時間が短く、長距離を動けるわけではない。旧暦の12月や1月には、庶民は雪の中山道より東海道を選び、日が短いとはいえ好天が続く太平洋側の冬に、絶景の富士山を眺めながら旧東海道を歩いたのではないだろうか。つまり、大名行列や中登りのような、1日に40km以上歩き続ける強行軍ではない。大山、江ノ島、富士山、秋葉山、伊勢、様々に寄り道をして(神社仏閣を書類上の目的地にして)、それぞれに京や江戸への旅を楽しんだのだろう。

江戸時代の庶民が残した旅の記録から読み取った江戸時代の庶民の旅程開始月(旧暦)

大田区立郷土博物館『弥次さん喜多さん旅をする』特別展図録(1997)データをもとに作成

2,浮世絵に描かれた旧東海道からの富士山

歌川広重 『東海道五十三次之内』由比 薩埵嶺 (1834頃)

往時の東海道を身近に感じられるものとして、まず最初に挙げられるのは浮世絵だろう。浮世絵の東海道絵では、富士山がモチーフにされているものが多い。東海道(富士山が見える東側区間)と富士山は切っても切れない関係だ。

閑話休題.東海道の浮世絵は江戸末期、明治になる寸前に描かれた

東海道を舞台にした出版物は、江戸後期になると増え始める。寛政九年(1797)の『東海道名所図会』、十返舎一九『東海道中膝栗毛』(1802-1814)。浮世絵では、文化年間(1804-1818)の北斎の各種東海道絵がある。ただし、この時代の浮世絵は、人物が中心だった。

葛飾北斎『東海道五十三次・絵本駅路鈴』 品川 (1810頃)部分

人物絵中心の浮世絵に一線を画した風景が、北斎の『富獄三十六景』(1831-4)。広重の『東海道五十三次之内』(1834頃)がこれに続き、江戸末期の風景画浮世絵・東海道・旅行ブームは大いに加速されたという。

広重の『東海道五十三次之内』(1834頃)以降には、数多くの東海道絵が出版された。広重自身も、特に晩年に、多くの東海道絵を描た。いま見ることができる「東海道五十三次」浮世絵のほとんどすべては、江戸末期のものである。

明治初期の東海道は地図などによって江戸時代よりはずっと正確にわかる。川の渡しの再現や橋のかけ直し・道の切り通しもある程度は見当がつく。明治初年の旧東海道を再現することを目指すことで、広重の描いた江戸末期の旧東海道の世界に、かなり近づけそうだ。

葛飾北斎『富嶽三十六景』東海道程ヶ谷 (1831頃)

たとえば歌川広重の最晩年の東海道五十三次シリーズ『五十三次名所圖會』は1855年の出版である。二代目広重、三代目広重の浮世絵は明治期である。特に三代目広重の東海道五十三次になると、電線や汽車、渡船に乗っている自転車が近代化日本の風景とて描かれている。

最も有名な「保永堂版」の東海道五十三次も、描かれたのは明治維新の30年前に過ぎない。初代歌川広重は明治維新まで存命ではなかったが、黒船来襲は体験した。浮世絵の中の若者や子供たちにモデルがいたとすれば、おそらく多くは明治維新を迎えただろう人々なのだと思うと、浮世絵の印象も変わるのではないだろうか。

(*)1855年(安政二年)とは、黒船来航の2年後。米国で下院議長の投票が年越えで133回行われた。マルクス・エンゲルス『共産党宣言』・パリ二月革命の7年後。クリミア戦争のただ中で、パリで第一回万博(国際公認博としてロンドンに次いで二回目)が開かれた年である。

歌川広重『五十三次名所圖會 』日本橋 (1855)部分

さて、『五十三次名所圖會』は縦の構図で描かれていることから通称「竪絵東海道」と呼ばれる。 すやり霞などの伝統的技法と写実的描写を両立させて、上空から見下ろすような鳥瞰図の手法が取り入れられており、五雲亭貞秀吉田初三郎に連なる鳥瞰図と関連して、風景シミュレーションの観点で興味深い。

東京スカイツリーから富士山を見ると、皇居(江戸城)をビル群の中の緑地として見つけることができる(写真)。広重の世界と現在の世界を変わらずに繋ぐのは富士山だ。

東京スカイツリーからの富士山(2022/12/16撮影)

3.幕末・明治の風景写真にみる 旧東海道からの富士山

芦ノ湖からの富士山(Kimbei Kusakabe、1880-1900頃)The New York Public Library
箱根町支所下駐車場付近から(20242月撮影)Kimbei kusakabeの写真撮影はの付近と思われる

「旧東海道といえば江戸時代」とは限らない。自動車のない明治期では、明治22年に東海道本線が全通するまで旧東海道は日本の東西の主要な交通網だった。広重や北斎の浮世絵はまさに江戸時代の日本を描いているようだが、実は明治直前のことだった。幕末から明治初期には、外国人や日本人の写真家によって風景写真が撮影され、着彩写真は海外にも紹介された。


4.現在の旧東海道から見える富士山


東海道鳥井戸橋(茅ヶ崎市)からのダイヤモンド富士 (2019/4/2撮影)

旧東海道から富士山が見える場所をいくつか取り出して、ポイントになる風景を確認してみる。

4.1.旧東海道の橋からの富士山

現在の旧東海道を歩いたときの楽しは、橋からの展望である。周囲の建物が少なく、川の方向に大きく展望が開ける。大きな川では特に、橋の両端や橋の中央で、遠くまで視界がひらける。

東海道分間絵図には東海道を遮る橋がひとつひとつ描かれていた。それは道中のしるしだったのかもしれないが、展望の良い場所でもある。日本橋から中橋、京橋、新橋(芝口橋)、宇田川橋、金杉橋、芝橋、品川橋、泪橋(浜川橋)、内川橋、夫婦橋……と続いていく橋のひとつひとつに名前があるのも興味深い。今でも橋には名前がついていることが多い。


現状と明治時代初期の依田橋からの富士山

1886年の依田橋の写真〔リンク先)(Pitt Rivers Museum Photograph and Manuscript Collections, Oxford University)

東海道依田橋からの富士山 (2022/11/3)

東海道吉原(おそらく依田橋) (1890年代)New York Public Library

4.2.旧東海道の橋からの展望

日本橋から品川宿


4.3.旧東海道の富士見名所

「東海道五十三次唯一の富士観望の心臓地帯は電車や電柱に遮断され、工場の煙突騒音に禍され、又は全く眺望を損壊され尽された勝地も見受けられるのである」(岡田紅陽、『富士山』アルス、1940.10)

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1116525/1/7

昭和初年には失われていたという東海道の富士見の勝地。今はない勝地とは、どういった場所だったのだろう。

4.4.旧東海道の富士出現・富士隠れの位置

旧東海道で日本橋からずっと見えていた富士山は、現在の田町駅前(薩摩藩蔵屋敷)で高輪台地*に遮られる。その後 品川宿内・品川橋付近まで、旧東海道から富士山は見えなくなる。品川宿内では富士山は見えたり見えなかったりだが、鮫洲駅の付近からまた富士山が見えるようになる。

ただし、これは富士山の山頂がみえるかどうか、という計算の結果の話。実際に、富士山の山頂だけがかろうじて見えるのか、ある程度山体が見えるのか、で印象はかなり異なるだろう。現在では東京の町からの富士山の眺めは見ることがほとんどかなわないが、江戸時代の東海道の旅人はどのような富士山を見たのだろうか。

*渋谷川と目黒川に挟まれた台地のうち、東側に突き出した海寄りの部分。ほとんど平坦な場所がなく、東京の「坂道」が多い原因となる淀橋台地という激しく浸食された微高地。下末吉層に属する海岸段丘で、東京タワーなどが立地する。

沼津市大岡と沼津宿の間には「富士隠れ坂」という坂がある。富士見坂という地名は数多く残っているが、富士山が見えるのが当然の地域では、富士山が見えない場所のほうが地名になるのかもしれない。

4.5.旧東海道の「山アテ」と富士山眺望

日本橋から品川宿

神奈川宿内

5.宿場町の富士山 演出上の役割

歌川広重 東海道五十三次之内 神奈川(部分、加工あり)

大磯宿上方見附手前から、旧東海道の真正面にそびえ塞がる富士山 (2023/1/19)

江戸時代に東海道を歩いた旅人は、どういった場所で、目を見開いて周囲を見回しただろうか?

各宿場町の出入口には『見附』という標識があった。『見附』は本来は城下に入る見張り門のことであり、江戸後期にはさほど重要なものではなかったとする説がある。しかし、見張り門だとすれば、見通しのよい場所に設置されただろう。また、重要でない施設だといわれるわりには、現在でも『見附』の跡はよく残っている。宿場町の境界を示す傍示杭はなくなっていることが多いものの、多くの宿場町で現在でも『見附』の位置が特定できる。

宿場から出たときの眺め(特に富士山側の出口)に注意を払って、総称として宿場出口と呼ぼう。ただし各宿場で現在残っている跡地に表示されている呼び方は、江戸/京方/上方見附、東/西方見附、東/西木戸、様々なので、現地の呼び方を主に用いることにする。傍示杭と見附も区別しないことにする。

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神奈川宿は眺望が良いことで知られていた。富士山も見える、とされていて、現在の神奈川新町や浦島町辺りからは富士山が見えたとしても全くおかしくない。しかし、台町の料亭街から、となると、海はよく見えたが富士山は見えなかったはずである。東海道を往来する旅人に、富士山はどのように見えたのだろうか?

台町の西の「関門跡」を過ぎた辺りから東海道は坂道を下り始める。坂道はおおよそ富士山が見える方向を向いているので、高い建物がなかった昔には、坂道から富士山が素晴らしくよく見えたことだろう。神奈川宿の京方見附の位置はあまりはっきりしていないので、京方見附との関係は不明だが、台町の宿場街を出て旧東海道を西に向かって歩きだすと、下り坂の前方彼方に富士山がどーんと現れる、という情景がみられたはずである。

現在も、富士山はビルの間からわずかに顔を出す。神奈川宿の出口付近が劇的な富士出現の場所だったことは確実である。風景シミュレーションは様々なことを教えてくれる。

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現在の国道1号線沿南側に設置されている保土ヶ谷宿の上方見附跡から富士山は見えそうにない。しかし、北や東に数十mずらして展望シミュレーションすると、この辺りは富士山と大山が並んで見える好展望地であることがわかる。富士山を遮っている西側の丘の上に登ると、現在でも富士山と大山が並ぶ光景が見られる。

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藤沢宿では、東西の出入り口で富士山が見えそうである。富士山側の出口は西側で、宿場からだと、舌状台地の末端にある伊勢山橋(現在の小田急線との交差。江戸時代には小田急を跨ぐ伊勢山橋はなかったが、微高地はもともとの地形)に向かって坂を登ると、視界を遮っていた伊勢山をかすめて富士山が目の前に飛び込んでくる。藤沢宿京方見附がそこに待ち構えている。

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平塚宿京方見附大磯宿上方見附戸塚宿方見附(保土ヶ谷宿以上に微妙。明治時代の地図を見ると富士山方向の障害物の地形が現在と異なっているのだ。要精密調査)、など、宿場出口の場所が富士山が見える境界、特異的な位置にあるケースはほかにもある。

なお、富士山より西の宿場では、東側出口が富士山側の出口になる、丸子宿江戸方見附府中宿見附蒲原宿東木戸なども、宿場出口の場所が富士山が見える境界、特異的な位置にあるケースといってよいだろう。

宿場町側からすれば、宿場の出口を展望の良い場所に設置する理由はあまりないように思われる。ただし、なぜか、宿場町は比較的展望の良くない場所が多かったようである。建物が立ち並べば、なおさら展望はよくなかったであろう。先を急ぐ旅人は宿場町内で目的地を見失って疲れを癒やしたくなる。宿場の出口までたどり着いた旅人は、次の目的地を目の当たりにして、元気よく歩き出した、そんなこともあったかもしれない。さらにいえば、

・旧東海道には富士山「山アテ」区間は数え切れないほどあり、宿場出口にも多い。また、宿場出口で富士山が劇的に見える場所が多い。

・現在の宿場町の出口に道祖神や厄除けの神が残っている場所はない。少し離れている。

特に1707年の宝永大噴火からしばらくの間、富士山は美しい山というだけでなく、怒れる山、恐ろしい山だったのではないだろうか。富士山は女性の神様である。悪所もある宿場町で、富士山に見下されて通りを歩くのはどんな気持ちだっただろうか。女性の神様に見つめられて、悪所通いも通りを歩くのも見下されているというのはどんな気持ちだろうか。そう考えると、宿場町から富士山が見えないのは、ある意味納得ができることではなかろうか。

江戸時代初期に、富士山がよく見えた宿場町だった保土ヶ谷宿(本宿)と蒲原宿は、富士山が見えない山沿いに移転してしまった。前者についてはその理由の通説がなく、後者については津波による壊滅によって山側に移動したのだが、それにしても、揃いも揃って ピンポイントで出口「だけ」で富士山が見える位置に移動するのはなにか他の理由が会ったのではないだろうか。

 可能性としてだが、富士山が宿場町の「塞の神」の役割を果たしたかも知れない、と考えている。宿場の出口の富士山は、旅を誘う美しい山であっただけでなく、宿場町の出口で始めてその正体を表す道祖神、塞の神として町を守ってもらったという可能性を考えるのである。


https://youtu.be/3rq_4Ipbe9c


5.2 徳川家康と東海道の整備

桐敷真次郎氏の研究によれば、江戸城東方のまちづくりは1590年から1604年にかけてその基盤が作られた。これを指揮したのは明らかに徳川家康である。その後、家康(あるいは秀忠、だが)東海道を始めとした五街道の整備、駿府(静岡市)の整備へと取り掛かった。日本橋の施設は1603年、これまで尾根道ばかりだった街道に、尾根を通らない東海道が整備され、京までの街道が整備された。

江戸初期のまちづくりと駿府のまちづくりには、富士山(筑波山を含む)を中心とした景観を重要な要素として取り入れられていることが指摘されている。このような山の景観を中心に置いた街づくりはその後の時代には継承されず、徐々に薄れていった。(とされている)この指摘は陣内秀信氏のベストセラー『東京の空間人類学』で発展的に紹介され、知られるようになったが、一方で地形による合理性だけで説明できるという井関弘太郎氏による反論もあ

東海道と宿場は1603年頃、つまり江戸や駿府のまちづくりと変わらない時期に行われた。多くの宿場で富士山が見える場所から見えにくい場所に宿場が移され、また宿場の出口で富士山がよく見えるという現象が有ることを前節 5.1 で「数多く」指摘した。東海道と宿駅の整備にあたって、その初期には同じような山の景観を中心とした整備が行われたのではないだろうか? 

6.見えないものを見ようとして

キセキのように富士山が見えた。旧東海道沿いで、富士山が見える場所がとても少ない

木原一里塚附近。袋井と見附(磐田)の間の旧東海道。県道でも国道でもない旧道だが、富士山が見えるような見晴らしの良い場所がない

旧東海道から100mほど離れれば、開けた田圃の彼方に富士山が見える。また、眼前にみっちりと列をなして建物が立ち並んでいる線が旧東海道である

一例として写真を示すと、袋井と見附(磐田)の間の旧東海道から富士山が見える場所はほとんどない。国道でも県道でもない旧道であっても、建物が立ち並んでいて富士山は見えない。キセキのように富士山が見える場所もあるが、ごくまれである。

ところが、道から数十m離れると、富士山見える場所がそこらじゅうにある。富士山は遠く、山並みに隠れそうではあるものの、ここは富士山がよく見える土地なのである。(「見附」と言う地名は富士山が見えることからきているとされている)

現代の旧東海道を歩いていると、場所場所で変化し移りかわってゆく富士山などの山の展望の楽しみを欠いているのが寂しい。

浮世絵や古写真のおかげでわたしたちも江戸時代の東海道のイメージを持つことができる。言葉は主張をコンパクトに伝えるが、言葉の力だけでは伝わる量が圧倒的に少ないし、個人の感想を伝えるものにしかならない。江戸または明治初めに東海道を歩いた人の風景の見え方をCGムービーで感じ、伝えることができないだろうか?

現在、旧東海道から富士山が見える場所は多くない。往時はどうだったのだろうか? 建物や植生がなかった場合の風景をコンピュータを駆使して再現し、今では見えない旧東海道歩き、旅人が目にした風景を、まずは山の展望を主眼にして再現してみたい。

メタバース?


画像の出典


Library of Congress

国立国会図書館デジタルライブラリー

New York Public Library 

Art Institute of Chicago

MIT museum

パブリックドメインQ 著作権フリー画像集

Getty Images(有料画像)

Adobe Stock(有料画像)

「天正・慶長・寛永期江戸市街地建設における景観設計」桐敷真次郎、『都市研究報告』24、東京都立大学都市研究組織委員会(1971.8)


 引用文献

『地形がわかる東海道五十三次』朝日新聞出版(2021.3)

『特別展 弥次さん喜多さん旅をする――旅人100人に聞く江戸時代の旅ーー』大田区立郷土博物館(1997.11)

コラム「三井を読む」三井越後屋の奉公人、三井広報委員会(2017.4)

『富士山』岡田紅陽、アルス(1940.10)

浮世絵検索

「東海道における直進する街路からのランドスケープ」花澤信太郎、日本建築学会計画系論文集80,95(2015)

『東京の空間人類学』陣内秀信、筑摩書房(1985.4)


 参考文献

文献を調べていますが、旧東海道からの富士見という観点からの紹介は、ほとんどないように思います。現在の旧東海道から富士山を見るのが難しいからでしょうか。

「慶長・寛永期駿府における都市景観設計および江戸計画との関連」桐敷真次郎、『都市研究報告』28、東京都立大学都市研究組織委員会(1972.1)『神奈川の東海道(上/下)』神奈川東海道ルネッサンス推進協議会、神奈川新聞社(2000.7)『静岡県歴史の道 東海道』静岡県教育委員会(1994.3)『東海道駿府城城下町(上/下)』建設省静岡国道工事事務所(監修)、中部建設協会(1997.3)「お江戸日本橋の地形地質図」井関弘太郎、『地図情報』11, p.25(1991)「19世紀江戸のランドマーク体験に関する研究」齊藤潮、八島久子『日本都市計画学会研究論文集、307(1987)『東海道名所図会 新訂 下 駿河・伊豆・相模・武蔵編』秋里籬島(原著)粕谷宏紀(監修)、ぺりかん社(2001.11)『東海道中膝栗毛(日本古典文学大系 62 )』十返舎一九(原著)麻生磯次(校注)、岩波書店(1958.5)「東関紀行」著者不詳、大曽根章介久保田淳(校注)『中世日記紀行集 (新 日本古典文学大系51)』、岩波書店(1990.10)「東路記」貝原益軒(原著)、板坂耀子・宗政五十緒(校注)『東路記 己巳紀行 西遊記 (新 日本古典文学大系)』、岩波書店(1991.4)『武州叢書(第2編)』「金川砂子」煙管亭喜荘(原著)文政八年、石野瑛校)、武相考古会(1930.4)『富岳歴覧 : 外国人の見た富士山』伏見功、現代旅行研究所(1982.4)「珠玉の横浜写真・金幣アルバム」、『季刊市民グラフヨコハマ』(1990.6)『Felice Beato Viaggion in Giappone 1863-1877』C. G. Philipp, D. Siegert, R. Wick(編)、Fedelico Motta Editore(Milano,1991)「江戸名所図会に見る横浜」『季刊市民グラフヨコハマ』(1997.9) 『相中留恩記略 本編』相中留恩記略刊行会(編)、有隣堂(1967.12)『相中留恩記略 校注編』相中留恩記略刊行会(編)、有隣堂(1967.12)100年前の横浜・神奈川』横浜開港資料館(編)、有隣堂(1999.12)『大日本全国名所一覧』マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章(監修)平凡社(2001.6)『セイラム・ピーボディー博物館蔵 モース・コレクション/写真編 百年前の日本』小西四郎+岡秀行(編)、小学館(1983.11,2005.2)『レンズが撮らえたF・ベアトの幕末』小沢健志・高橋典英監修、山川出版社(2012.11)『レンズが撮らえた150年前の日本』小沢健志監修、山川出版社(2013.8)『レンズが撮らえた幕末明治の富士山』小沢健志・高橋典英監修、山川出版社(2013.12)『そこにあった江戸 幕末明治寫真圖會』上條真埜介編著、求龍社(2018.11)『秘蔵古写真 紀行』日本カメラ博物館監修、山川出版社(2019.12)「江戸時代の交通」古田良一、岩波書店『岩波講座 日本歴史 第10回配本』所収(1934.7)『考証東海道五十三次』綿谷雪、秋田書店(1974.1)『東海道の宿場を歩く』東海道ウォークガイドの会(編)、神奈川新聞社(2022.6)『東海道五十三次』岡本かの子、中央公論社『老妓抄』所収(1939.3)『東海道五拾三次をよむ』鈴木健一(編)、三弥井書店(2020.10)『古地図でわかる! 大江戸まちづくりの不思議と謎』山本博文、実業之日本社(2020.2)『歴史イラストで分かる幕末の江戸と暮らし』大津樹、IBCパブリッシング(2022.7)『デジタル鳥瞰 江戸の崖東京の崖』芳賀ひらく、講談社(2012.8)『広重と歩こう 東海道五拾三次』安村敏信・岩崎均史、小学館(2000.4)『ニッポンの旅 江戸達人と歩く東海道』石川英輔、淡交社(2007.9)『江戸のは道中を知るとこんなに面白い!』菅野俊輔(編著)、青春出版社(2009.3)『考証 東海道五十三次』綿谷雪、秋田書店(1974.1)『東海道』八幡義生、有峰書店(1974.4)「古地図・古写真で見る東海道五十今井金吾(編)、『別冊歴史読本』27巻26号(2002.9)『歩いて旅する 東海道五十三次』ウエスト・パブリッシング、『Le Japon Illustré』Aimé Humbert、Hachette et C"(1870)山と渓谷社(電子書籍2015.7)電子博物館・みゆネットふじさわ(2014.6/Googleによる推定)『東海道川崎宿とその周辺』三輪修三、文献出版(1995.12)『歴史街道ガイド 東海道五十三次を歩く①日本橋〜大磯』児玉幸多(監修)、講談社(1999.8)『日本橋 描かれたランドマークの四〇〇年』江戸東京博物館(2012.5)『東海道 日本橋、そして川崎宿へ』川崎市市民ミュージアム(2001.9)『小田原宿を歩く』小田原市教育委員会(2017.3)『東海道藤沢宿 藤文庫4』三浦俊明、名著出版(1980.5)『東海道と保土ヶ谷宿』横浜市立歴史博物館(2001.10)『東海道保土ヶ谷宿』神奈川歴史博物館(2011.10)『東海道と神奈川宿』横浜市歴史博物館(1996.3)、『東海道と戸塚宿』神奈川歴史博物館(2004.4)『東海道品川宿』品川立品川歴史館(2015.10)『港区立郷土歴史館常設展展示図録』港区立郷土歴史館(2021.3)『地図で読み解く江戸・東京』江戸風土研究会(編著)津川康雄(監修)(2015.5)『史話・私の横浜地図』内田四方蔵、横浜歴史研究普及会(1986.3)『鎌倉・横浜と東海道』神崎彰利・福島金治、吉川弘文館(2002.12)『歴史街道ガイド 東海道五十三次を歩く②小田原〜箱根〜府中(駿府)』児玉幸多(監修)、講談社(1999.9)『広重 名作東海道展』東海旅客鉄道(1988)『廣重 東海道五十三次名所江戸百景の世界』トーエイ企画(1991)『東海道五十三次五種競演』阿部出版(2017.10)『広重・国貞 東海道五拾三次』佐藤光信(監修)、平木浮世絵美術館(1994)『広重・北斎 東海道五十三次 旅ごころ 浮世絵展 図録』NHKサービスセンター、松坂屋営業本部(2001)『大広重展』ステップイースト(2019)『北斎 世界を魅了する浮世絵師と弟子たち』芸艸堂(不明、2022以前)『描かれた東海道』静岡県立美術館(2001)『広重 二大街道浮世絵展』NHKプロモーション(2006)『廣重と行く東海道の旅』那珂川町馬頭広重美術館(2017)『도카이도53역참』韓国国立中央博物館(2021)『富士山ーの景観と信仰・芸術ー』、國學院大學博物館(2014.9)『広重武相名所旅絵日記』楢崎宗重(編)鹿島出版会(1976.4)『広重名所江戸百景』小池満紀子・池田芙美、講談社(2017.5)『景観シミュレーションのための実写画像を用いた建物データ合成に関する研究』北原英雄、奈良先端科学技術大学院大学博士論文(1999.3)『汽車の窓から ー東海道ー』岩波書店編集部(編)、岩波書店(1954.2)『再現 江戸の風景』清水英範・布施孝志、鹿島出版会(2009.12)「ゲームエンジンによる旧東海道藤澤宿の街並み景観の再現」川合康央ほか、日本デザイン学会研究発表大会概要集PC-26(2016)「江戸の都市景観の再現に関する研究」清水英範ほか、土木学会論文集D64,473(2008)「江戸市中からの遠地形の視認可能性:GISによる可視マップ作成を中心として」布施孝志ほか、土木学会論文集D62,496(2006)「GIS を用いた「山当て」の検証方法に関する研究」久保勝裕ほか、日本建築学会技術報告集22,743(2016) 「道路景観の歴史的再現による快適性の追求ー道路地図データによる山アテ道路の発掘」大澤義明、日本建設情報総合センター(2010) 「『山アテ道路』って、知ってますか?」道路.jp(2015.2) 「品川心中」古今亭志ん生(五代目)『古今亭志ん生落語集第三』所収、VAP(1957, 2013)『江戸散歩(上)』三遊亭圓生(六代目)、小学館(2016)

既発表記事

『パソコンで楽しむ山と地図』山と地図のフォーラム(編著)、実業之日本社(1997.10) pp.134-140.『車窓展望の山旅』藤本一美・田代博(編、実業之日本社『富士山展望百科』田代博(監修)山と地図のフォーラム(編)、実業之日本社(1998.12)『続々・展望の山旅』藤本一美・田代博(編)、実業之日本社(1995.7)

その他

「富士が見える限界」田代博、『富士山』新潮社(1985.5)『展望の山旅』藤本一美田代博、実業之日本社(1987.2)続・展望の山旅』藤本一美・田代博、実業之日本社(1990.12)『紹巴富士見道記の世界』内藤佐登子、続群書類従完成会(2002.5)『現代語訳 旅行用心集』桜井正信(監訳)、八坂書房(2009.9)『上り下り東海道』佐藤弘人、新潮社(1960.6)『新東海道五十三次』井上ひさし・山藤章二、河出書房新社(電子書籍2016.8)『江戸の旅行の裏事情 大名・将軍・庶民 それぞれのお楽しみ』安藤優一郎、朝日新聞出版(2021.10)『江戸の旅人』高橋千劒破、時事通信社(2002.5)『歩く江戸の旅人たち』谷釜尋德、晃洋書房(2020.3)『広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密』竹村公太郎、集英社(2021.4)『東海道五十三次 いまむかし 歩き旅』高橋真名子、河出書房新社(2022.1)『「東海道五十三次」おもしろ探訪』泉秀樹、PHP研究所(電子書籍2013.3)『東海道五十三次 四百年の歴史を歩く』岡本永義、けやき出版(2010.5)『こんなに面白い江戸の旅』菅井靖雄、東京美術(2001.8)『東海道宿駅と其の本陣の研究』大熊喜邦、丸善(1942.11)『近代交通成立史の研究』山本弘文(編)、法政大学出版局(1994.6)『近世宿駅の歴史地理学的研究』土田良一、吉川弘文館(1994.5)『江戸想像散歩』冨岡一成、旬報社(2022.10)『古代神奈川の道と交通』田尾誠敏荒井秀規、藤沢市文書館(2017.3)『横浜浮世絵』横田洋一(編)、有隣堂(1989.5)『浮世絵にみる江戸名所 ビジュアルブック江戸東京2』ヘンリー・スミス(編)、岩波書店(1993.5)『富士山1950 岩波写真文庫』岩波書店編集部(編)武田久吉・津屋博逵(監修)岩波書店(1950,1990)Wikipedia Wikimedia Commons

2023/1/4 - 2024/2/28 眞田則明