おしゃもじ様信仰と東海道
最初に、昭和40年の文章を引用する。
『社宮司神は(中略)民俗学会の諸学者でさえ、わからない神だ(中略)。ただ、おしゃもじといえば、思い当たる方もいるだろう。 このおしゃもじ神から社宮司神は咽喉の病気や風邪の神とされている。のどやカゼを病む人は上げてある杓子を一本持ち帰り、患部をそれでなでる。快癒すると新しい杓子を添えて二本にして、お礼に納めるのが普通のやり方だ。』
川口 謙二『忘れられた神・仏』錦正社 (1965)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2966667/1/117
掛川市内の「おしゃもじ様」 (2023/5/3)
おしゃもじ信仰の背景と流行:
江戸末期には、「富士講」や「ええじゃないか」といった民衆信仰が流行しました。その中には一部地域で盛り上がった「おしゃもじ」信仰も含まれていました。
東海道沿いの関東から東海にかけて「おしゃもじ様」や「おしゃもっつぁん」と呼ばれる神様が信仰され、これに関連する小さな神社が現在も各地に残っています。
「おしゃもじ」信仰の性質とルーツ:
「おしゃもじ」信仰は厄除けや疫病退散と関係が深いものでした。おしゃもじ(=「杓子」の女房言葉)信仰の起源には「石神」や「社宮司」と呼ばれる神々と結びつけて考える考えが主流です。しかし、このほかに、太閤検地で使われた尺子(測量のためのメジャー)や源頼朝に由来する説話もあり、さらには隠れキリシタンの伝説が取り沙汰されることもあります。実際に収集されたおしゃもじ信仰のいわれは、実に多様です。
現在では巨木そのものが消失していることが多いためにわかりにくいですが、古い伝説をたどると巨木とおしゃもじ信仰が結びついていた例もあります。
これらの信仰は、一貫性がなく、統一的な宗教的背景を持つものではありません。地域や時代によって形が異なるものなのでしょう。
「ミシャグジ」との関係:
現在では社宮司=ミシャグジ起源説が流布していますが、昭和頃は社宮司やミシャグジよりも「おしゃもじ」様の方がずっとよく知られていたようです。
「おしゃもじ」と、諏訪地方における「ミシャグジ」とは、どちらも社宮司(しゃぐじ)との関連性があり、ある種の神秘的な存在として共通点がみられます。しかし、「ミシャグジ」は縄文時代にまで遡る可能性がある、非常に古層の信仰を持つ存在です。一方、「おしゃもじ」信仰は江戸末期から戦前までの流行神的な性格を持ち、一括して捉えらるのは不適当かも知れません。この点から、「おしゃもじ」は「ミシャグジ」とは異なる性質を持つ信仰として、一応区別して考えた方がよさそうです。
藤枝市内の「おしゃもっつぁん」 (2022/12/20)
平塚市内のおしゃもじ様(2022/12/29)
高山稲荷神社はかつて(2023年頃まで)品川駅高輪口の駅前、つまり旧東海道の脇にあった。その境内には、竿石だけの石燈籠があり、説明の立て札には「(おしゃもじさま)」とカッコ書きで記されていた。現在は、高山稲荷とともに旧東海道沿いの品川駅高輪口前からは移動してしまった。
江戸切絵図(芝高輪邊絵図)、1849-62頃、国会図書館デジタルコレクション
石灯籠は、さらにもともとは、東海道のすぐ脇ではなく、高輪の台地を少し上がったところにあった。ざくろ坂の北側にあった縁結びの釈地社でおしゃもじ様として信仰されていた(俵元昭『港区の歴史』)ものだという。江戸名所図会に石神社として掲載されていた神社を高山稲荷に合祀したもの、と考えられている。
江戸名所図会(1836頃)
『江戸名所図会』には、高輪の『石神社しやくじんのやしろ』の挿絵の注記に「縁遠き婦人、当社に詣で良縁を祈れば、必験ありという。報賽には社地に何に限らず樹木を栽ると習俗とせり。相伝う。石剣を祭るという」とある。本文には、「祭神詳らかならず、昔は遮軍神に作る」と紹介し、薩摩殿【鹿児島藩邸、だいたい高輪プリンスホテル】有馬殿【久留米藩邸、だいたい品川プリンスホテル】両候の【屋敷の】間の小路【現在の柘榴坂にほぼ相当】を2丁【約200m】入ったところにあった。付近の地名は「石神横町」だが、「土人誤りて、おしやもじ横町と唱う」と記してある。
高山稲荷の境内にある石灯籠の立て札に書かれている、港区教育委員会による現地の説明文では、もとは切支丹(キリシタン)灯籠だったとする説を紹介している。
柳田國男 『石神問答』(明治43年初板)書影、但し写真のものは初板ではなく昭和はじめ頃の私家版
同書 p.9
柳田國男『石神問答』には品川のオシャモジ様が石棒であるという説が掲載されている。(この部分は山中笑 の書簡)
「品川のオシャモジ様は江戸名所図会にも出で居候、現今は南品川安泰寺に移り石棒は御座なく候も 慥に以前有りしと云う伝説有りしと云う伝説は有之 品川の娼家某方に存すと申す事に候」とある。
江戸名所図会の石神社がおしゃもじであること、明治末になって品川のオシャモジ様(石棒)の行方がはっきりしないことが書かれている。
「東京都港区近代沿革図集:高輪・白金・港南」に於杓子横丁に関する古記録がまとめられている。(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション、閲覧には送信サービス登録・ログインが必要)縁結びを願って詣でるさまを記した狂歌がいくつか紹介されている。
大田区立鵜の木特別出張所の旧道側の筋向かいに鳥居のある祠があり「おしゃもじ様」とされている。祠の現住所は南久が原で、現在の鵜の木と南久が原の町境に所在する。
祠には扉がない。なかを覗くと、おしゃもじが奉納されていた。
(2024.12.27)
川崎市中原区木月の石神宮(しゃくじんぐう)は、もとは石神橋(しゃくじんばし)のたもとにあった道祖神らしい。
石神宮は東海道新幹線の高架下にある。かつてのような橋をわたってくる疫病神から町の人を守る道祖神ではなく、いまでは新幹線の旅人を守っている道祖神であるかのようだ。
綱島の旧家に伝わる『おしゃもじ神之記』が神奈川県公立文書館に寄託されており、そのなかに橘樹郡内のおしゃもじとして「木月」が挙げられている。
関神社 咳神社とも書く
「風邪は万病のもと」といわれるが、 風邪をひかぬよう守ってくれる神
昔、おしゃもじで喉をなで、それを神社に奉納すると風邪が治ったといわれ、別名「おしゃもじ様」ともいう
と書かれた掲示がされている
JR鶴見駅東口そばの鶴見神社の境内摂社に関神社がある。戦前は、奉納された杓子が山をなしていたとの記事がある。関から咳への転化と考えられている。
横浜市鶴見区(旧・生麦村)の御社母子稲荷神社の外観。
御社母子稲荷神社生麦事件発生現場にほど近い、旧東海道からは、京浜急行生麦駅に向かってほんの少し歩いた場所にある。現在地が当時と同じとして、生麦事件現場(標識の位置)との距離は約60 mである。
1862年英国人Richadson暗殺(いわゆる生麦事件)現場写真。F. Beato撮影。当時の生麦付近の東海道はこのような風景だったようだ(ただし、生麦の立場は大いに繁盛していた)。
(Getty Museum)
悪疫を封じ込めるための横浜市指定無形民俗文化財の奇祭「蛇も蚊も」(「じゃもかも」と読む)がおこなわれる原地区神明社、本宮地区稲荷神社も、近くにある
横浜市磯子区根岸町2−46、江戸時代は宝積寺持の社護子社、いまは社宮司稲荷ともよばれている、『横浜の伝説と口碑 上 (中区・磯子区)』横浜郷土史研究会(1930)によれば、玉楠という横浜十名木に選ばれた大木のそばの祠で、1930年当時は 、しゃもじを捧げて百日咳の平癒を祈る人が多かったという。大正の大震災では大難を免れたと云う人が多くいたとも伝えられている。
大木はなくなっているが、 現在も根岸町の根岸加曽台の崖下の首記住所の場所に残る。小さな祠の中をこっそり覗くと、いまも、おしゃもじが数本 奉納されていた。
(2024.10.7)
明治初年頃の根岸湾(外国人にMississipi Bayと呼ばれていた)。F. Beato撮影。
根岸旭台公園か不動坂上あたりからの撮影だろうか。だとすれば、右手前あたりの崖下の平地が根岸駅付近。加曽の社護子社は、崖が一番抉れたあたりの崖下で、この写真では見えていないと思われる。遠望の本牧の崖下に何もないのと異なり、根岸には漁村が形成されていたようだ。江戸時代に崖下に神社や古木があってもおかしくない。
(『Felice Beato Viaggio in Giappone 1863-1877』Federico Motta (Italyで出版) より写真を引用)
(『横浜の伝説と口碑 上 (中区・磯子区)』横浜郷土史研究会(1930)国立国会図書館デジタルコレクションより)
『横浜の伝説と口碑 上 』(1930)に写真が掲載されている 西戸部の杉山神社の境内にあったというおしゃもじ様。石碑の前におしゃもじが並べられているのが写真から見てとれる。伝説によれば、源頼朝が鎌倉から戸部まで狩りにきて飯を盛った杓子を突き刺して去った。そこから芽が吹き出たのを神とした。おしゃもじは食物を盛って喉を通すもの、したがって喉が開いて咳が止まるのだという俗説が伝わっていたという。
社宮祠大神、現在は数多くの杉山神社の末社のひとつとして、戸部の杉山神社境内にひっそりと祀られている。
もとは「くらやみ坂」にあって猿田彦大神を祀った道の神の社宮司社(「おしゃもじ様の伝説がある)で、明治41年に杉山神社に遷座したという記録がある。
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9522579/1/120
くらやみ坂を降りた場所に杉山神社がある。
(2024.12.28)
戸部の杉山神社は式内社の論社であり、杉山という名前をもつ神社の中では大きい方で戸部村の鎮守だった。現在の主祭神は大国主命で、境内には狛犬ならぬ「狛ネズミ」があり、切実な良縁を願う絵馬がみられる。
(2024.10.2)
横浜市西区浅間町(旧・芝生村)にある洪福寺。1970年以前の横浜生まれ地元民には、「洪福寺前」は横浜市電のターミナル駅*名として馴染みが深い。子供の頃に「洪福寺前行き」の市電をよく見かけた。いまでは「洪福寺松原安売り商店街」に その名前が使われている。ちなみに、市電開通時に「社宮司駅」が予定されていたという話も伝わっている。それほどここの社宮司が有名だった時期があった。
*「洪福寺前」が市電の終点だったのは 1968-9年の1年間だけだそうです。筆者には思い出深いのですが、「誰にでも」は間違いでした。
いまでは、洪福寺境内にひっそりと祀られている社宮司。かつては百日ぜきの子供の軽癒を祈ったおしゃもじがたわわになって捧げられていたという。
近くには「社宮司公園」という名前の公園がある。
藤沢市本町四丁目、南仲四町内会館に隣接する社宮司神社。
1993年の藤沢市文化財総合調査報告書第8集に「南仲通り四丁目会館(おしゃもじいなり)」という記述がある。比較的最近まで「おしゃもじいなり」として知られていたらしい。
こちらは、藤沢市羽鳥にある「おしゃれ地蔵」明らかに地蔵尊ではなく道祖神だが、なぜ「おしゃれじぞう」という名前なのだろうか?
藤沢市教育委員会による「おしゃれ地蔵」の説明掲示板。
『おしゃもじ様 』東海電極(現在の東海カーボン)茅ヶ崎工場のあたりは以前おしゃもじといわれていたという。江戸初期まであった御社宮(小和田の熊野神社は、真言宗系の別当寺による改革がおこなわれるまでは社宮司だったといわれる)の幣札が砂塵吹きまくる強風にのって天高く舞上り、やがて地上に落ち戻ったのがこの地であった、と伝えられている。
『茅ヶ崎市史3考古・民俗編』(1980.3)
石神下 バス停、ただし読みは「しゃくじん」ではなく「いしがみ」で東海カーボン工場からは旧東海道(国道1号線)を挟んでかなり離れている。おしゃもじ様と共通の背景かどうかは不明。
現在の茅ヶ崎駅前付近にあったという「石神弁天社」の由緒記(現在は厳島神社内にある)
茅ヶ崎駅の構内にはかつて「石神古墳」があった。
小和田一丁目にあった屋敷が「お伊勢山」または「おしゃもじ様」といわれていたという記録が残っている。以前の小和田新宿の西端、現在の国道1号線小桜町交差点を山側に入った辺りだろう。正確には交差点から直接左側に入る道は新しい道なので、その東にある路地の方であろう。
むざし さがむ;神奈川郷土史考(1963)
守公神社(大磯町国府本郷)
二宮の旧観光学校の裏手に「おしゃもじ様と言う祠があった、という記録がある。この場所は現二宮町と現大磯町の町境で旧東海道にも近い。国府の西はずれにあったという「雌しゃもじ様」をこの祠に想定してよいかもしれない。
「雌しゃもじ」の語はこの記録の「ある人の言い伝え」にあるだけのようだが、「飯杓子」と考える事もできそうで、興味ふかい。
藤枝宿にある佐護神社は地元では「おしゃもっつぁん」と呼ばれている。
写真の藤枝宿にある佐護神社のほかに、藤枝市内にはいくつか(4つあるとされる)の「おしゃもっつぁん」が残っている。
藤枝市内に4つほどあるとされている、おしゃもっつぁんは今井野菊氏の「ミシャグジ」の研究リストには掲載されていない。(ついでに余計なことを言えば、新潟のサクガミも、ほとんど彼女のリストにはない)Wikipediaなどの紹介ではミシャグジの中でも「おしゃもじ」が珍しい事例のように書かれているが、旧東海道沿いでは、「『ミ』シャ『グ』ジ」よりも「『オ』シャ『モ』ジ」のほうが優勢である。
掛川市城西にある社宮寺。「おしゃもじ」と書かれた”しゃもじ”が現在も奉納されていた。
ただし、鎖錠されていて近づけませんでした。
「神道大辞典」(第二巻、昭和14年、平凡社)には、遠州中泉町(現在の静岡県、JR磐田駅付近)の「オシャモジ様」について、造酒との関係があるか? と書かれている。
『磐田の民俗』(1984.3)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9539441/1/162
浜松 伊場の賀茂神社。賀茂真淵ゆかりの神社であるが、”針口神”が合祀されている。伽藍神が合祀されたものだろうか。
多賀大社門前「多賀や」さんの店屋上に掲げられているおしゃもじ
多賀大社前駅の大鳥居
お多賀杓子
(国立国会図書館デジタルコレクション「江戸名所図会」より石神井明神祠 挿絵)
本文に「石神井明神祠、石神井(しやくじ)村にあり。(略)神体は、一顆の霊石にして、其昔井を穿つとて、其土中に是を得たりとなり。(略)長さ二尺あまり、周囲太き所にて一尺ばかり、世に云う所の石剣にして、上代の古器雷槌などいえる類いなり。依て石神井の地名ここに起るといえり」と記されている。
練馬区石神井町に現存する石神井神社
(2024/10/14撮影)
「おしゃもじ」から連想されるものに、主に鹿児島に分布する田の神がある。東京都内にも田の神があるが、古来からのものかは疑わしく、ある時期に鹿児島から伝わったものなのかも知れない。写真は池袋駅の北にある水天宮の田の神。
東京都内で「おしゃもじ」としてGoogle Mapに掲載されている路傍の神像のいくつかは、形態からみて田の神に近い。
(ただし、「田の神とおしゃもじは関係ない」とも言い切れない)。
写真は下目黒(上)と神宮前(下)のもの。
鹿児島県日置市 湯之元温泉にある田の神。「やばい」側が表を向いているので裏から撮影。右手の飯勺は笠の上に乗せており、左手には椀をもっている。1739年の製作銘記があり、「田之神」と明記されている。(東海道とは関係ありません)
『石神問答』柳田國男
『江戸切絵図 芝三田二本杉高輪邊絵図』景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編、尾張屋清七、嘉永2-文久2(1849-1862)
『日本原初考 古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』ほか2冊、古部族研究会(編)、人間社(2017.9)
神奈川県公文書館ウェブサイト https://archives.pref.kanagawa.jp/
『磯子の史話』磯子区制50周年記念事業委員会「磯子の史話」出版部会編(1978.6)
『横浜の伝説と口碑 上 (中区・磯子区)』横浜郷土史研究会(1930)
『茅ヶ崎市文化財資料集 第九集』茅ヶ崎市教育委員会(1973.3)
『寒川その昔を語る 第8集』寒川町郷土研究会(1985.11)
『おしゃもっつぁん:平塚市上吉沢台の民俗』平塚市博物館(1998.3)
「神奈川県の民間信仰の一考察―点と線で結びつけてみたら―」川口謙二、『むざし さがむ:神奈川郷土史考』法政大学女子中高等学校編(1963)
『二宮町郷土誌』神奈川県二宮町教育委員会 編、二宮町教育委員会(1972)
『神道大辞典』平凡社(1939,1941,1943)
『江戸東京の庶民信仰』長沢利明、三弥井書店(1996.11)
『石神信仰』大護八郎、木耳社(1977.7)
『石神の性典』伊藤堅吉、富士博物館(1963.7)
2023/1/4 - 2025/8/27 眞田則明