丸子宿(鞠子宿)から見る富士山
安倍川付近から鞠子宿方向を展望。丸子宿出口付近に山の凹みがあり、丸子から富士山を望む「窓」になっている。
江戸方見付跡(2023年撮影)
丸子宿(鞠子宿)は、丸子川の削った*東西に広がる谷沿いにつくられた小さな宿場町である。十返舎一九の東海道中膝栗毛にとろゝ汁が名物と書かれているのが著名で、今に至るもとろろ汁は丸子の名物である。
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DAN杉本さんのカシミール3Dを使って、丸子宿付近の富士山(剣ヶ峰)可視マップを作ってみた。赤紫色になった部分が、計算上 富士山剣ヶ峰が見える地域になる。
黄色い直線道路は現在の国道1号線、やや黄だいだい色の旧東海道はこの図の範囲では国道1号線の南側に 丸子川との間をくねくねと進んでいる道(県道208号線)である。江戸方見附跡*は下図の中央付近、そこから丸子橋(丸子川を渡る橋)の付近の京口見附跡までが丸子宿(江戸時代の宿場町)の範囲である。丸子宿内のだいだい色の道に赤紫色の部分がないことから、丸子宿内では富士山が見えなかったことがわかる。江戸方見付跡から丸子一里塚の間に、旧東海道から比較的富士山が見えそうな赤紫色の部分とかぶっている地域がある。
計算上丸子一里塚跡と江戸方見附跡の少し手前までの間で富士山が見える。現在の江戸方見附跡付近から富士山を見るのは難しいが、もともと、富士山は尾根と尾根の間に顔を出すだけで、建物が立ち並んでいる現在の旧東海道上から確認することは困難である。丸子川付近からは富士山が見える場所があるので、場所を選べば見えるだろうとは思われるが、道沿いは山の植生程度で見えない場所がある程度のギリギリの可視と思われる。実際、証拠とできる写真を収めることができなかった。さらに、一里塚を過ぎたところにも、わずかに可視の部分があるが、おそらくは見えない。
ちなみに丸子宿を東に出ると、大曲と呼ばれた松並木標識のあたりで富士山は(建物さえなければ)その姿を現す(現在の表紙は大曲附近)。そのあとは府中宿までずっと富士山が可視になる。静岡市街地は、建物や植生さえ邪魔しなければ、「富士山が見えるほうが当たり前」である。
逆に、丸子宿を西に出ると岡部宿まではずっと山道である。
(*)1974年7月に丸子川は決壊し、富士山を隠している佐渡山は山崩れを起こした。現在の地形と江戸時代の地形がまったく同じとは限らない。
丸子宿付近の富士山可視マップ。赤紫色になった部分が、計算上 富士山剣ヶ峰が見える地域。黄色い直線道路が現在の国道1号線、橙色に縫った道路が旧東海道で、この図の範囲では国道1号線と 丸子川との間をくねくねと進んでいる。
江戸方見付跡(2019年撮影)
一里塚跡
江戸時代の切絵にも描かれている谷津神社
山裾を巡って流れる丸子川
一里塚跡標識から丸子宿方面。富士山が見える可能性が有るのは、この写真の道がわずかに左に曲がるまでの直線の範囲、きわめて短い範囲である。道がさらに左に曲がる付近が江戸方見付跡
旧東海道上から。おそらく富士山の一部だと思われるが、写真で証拠を残せません。現在は旧東海道から富士山は『見えない」とするべきでしょう
旧東海道から数十m離れた、丸子川南岸からの富士山
旧東海道から数十m離れた、丸子川北岸からの富士山
おまけ 大曲、手越原、安倍川からの富士山
「大曲」付近から
轟橋バス停から
近藤歯科医院付近から
安倍川橋 西詰から
2023/1/29-2024/1/27(写真は2019/11/16、2023/1/28、2023/2/6、2024/1/26に撮影) 眞田則明
道中膝栗毛 後篇 坤(リンク先は、(初版と同じ版木とされる)紙屋利助による再摺本 国会図書館蔵)
十返舎一九 著
通油町 村田屋治郎兵衛(初版)
1803(初版)
今村一尤 「丸子川決壊の夜」、「あばれ水」編集委員(編)
文化洞(1975)