神奈川宿から「道アテ」で見る富士山
葛飾北斎『東海道五十三次 四』神奈川
神奈川宿は眺望が良いことで知られていた。富士山も見える、とされていて、現在の浦島町辺りや宮前商店街入口辺りからは、見えたとしてもおかしくない。が、植生や建物がなかったわけではない当時でも、間違いなく宿場町から富士山が見えたというほど確実でもない。さらに、台町の海側に並んでいた料亭街から、となると海はよく見えたが富士山は見えなかったはずである。往時の旅人に、富士山はどのように見えたのだろうか?
台町の西の「関門跡」を過ぎた辺り、登路がおわって峠に差し掛かったあたり、さらに旧東海道が坂を下り始めると、2023年3月現在でも、旧東海道から富士山が(かろうじて)見える。坂道はおおよそ富士山が見える方向を向いているので、高い建物がなかった往時には、富士山が道の正面にはっきり (富士山が見える日であれば)誰にでも見えたことだろう。神奈川宿の上方見附の位置は現在の上台橋付近といわれているが、あまりはっきりしていない。したがって、宿場の出口の位置と富士山の展望との関係は明瞭ではないが、台町の宿場街を出ていよいよ旧東海道を西に向かって歩きだし、峠に差し掛かると、道の正面の前方彼方に富士山がどーんと現れる、という情景がみられたはずである。証拠はないが、大磯宿のように道の上にかぶさるように見えた場所もあったかも知れない。
金川砂子 臺町の項には「富士の高嶺を山越に見ゆ」とある。
広重の東海道五十三次(保永堂版)神奈川宿の峠の向こうには、摺りによっては白い三角形らしきものが見える場合がある。すべての摺りに見えているわけではなく、摺り間違いかもしれないが、富士山のようにも見える。
神奈川宿の出口付近、関門跡を過ぎた辺りで、道の正面に富士山が劇的に出現する場所だったことは確実である。風景シミュレーションは様々なことを教えてくれる。
歌川広重『東海道五十三次之内』(保永堂版)神奈川 台之景 (1834頃)
神奈川宿関門、Felice Beato (1866頃)
広重の東海道五十三次(保永堂版)神奈川 台之景、部分の拡大。摺りによって異なるが、坂道下り坂の右手に白い三角形が描かれている場合がある。宿泊客引きの女性も「富士山を見せてはいけない」と力が入るかもしれない。
神奈川宿台町の峠からすこしおりた付近、旧東海道上からからみた富士山。
神奈川宿台町の峠からすこしおりた付近の実際の風景。
現状富士山が見える可能性はない
大山が富士山の右肩に見えている
現状富士山が見える可能性はない
丹沢は隠れ、富士山も大部分が隠されてきている。植生や建物の状況、地形データの精度によっては江戸時代でも見えなかっただろう。
現状富士山が見える可能性はない
江戸時代でも滝の橋から富士山は見えなかった。
現状富士山が見える可能性はない
絶景の可能性がある。
道が右に折れると旧東海道の方向と富士山の方向が一致し、富士山と大山が見える可能性がある。
拡大した富士山と大山
現状富士山が見える可能性はない
江戸時代の東海道はシミュレーション位置よりもすこし西と考えられる。建物で隠れそうな様子
現在も残る料亭田中屋の前
旧東海道は富士山にまっすぐ向かっているが、峠の登路から富士山は見えない
The Tokaido Road Through Kanagawa(1897) by Kazumasa Ogawa, Getty museum
実は、富士山が見えている
絶景。
峠を超えると、旧東海道の前方やや右手に、富士山が、もしかすると、かつては大山も見えた。
富士山と大山の拡大。
2023/2/27(写真)2023/1/19、3/5 眞田則明
カシミール3D、山旅地図によるCG描画。地上約2m、300mmレンズ、富士山剣ヶ峰直下標高1000mを画像中心目標に設定、”残雪の山々”風景設定
武州叢書(第2編)金川砂子石野瑛 校、武相考古会(1930)国立国会図書館
「 歴史散歩“金川砂子” 神奈川宿内の西半分」アラさんの隠れ家(ウエブサイト、2006頃?)
『東海道と神奈川宿』図録、横浜市歴史博物館(1996)
『レンズが撮らえたF・ベアトの幕末』小沢健志・高橋典英監修、山川出版社(2012)
『描かれた東海道』静岡県立美術館(2001)
『廣重 東海道五十三次名所江戸百景の世界』トーエイ企画(1991)
『広重・国貞 東海道五拾三次』佐藤光信(監修)、平木浮世絵美術館(1994)
『広重・北斎 東海道五十三次 旅ごころ 浮世絵展 図録』NHKサービスセンター、松坂屋営業本部(2001)
『広重 名作東海道展』東海旅客鉄道(1988)
『広重 二大街道浮世絵展』NHKプロモーション(2006)
『廣重と行く東海道の旅』那珂川町馬頭広重美術館(2017)
『도카이도53역참』韓国国立中央博物館(2021)