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旧東海道 富士見道中

旧東海道から見る富士山 

旧東海道富士見道中:ハイライト

江戸時代の旅人は、どんな季節に東海道を旅したのだろうか?

外様大名の参勤交代は4月、譜代大名は6月。

唱歌〽お江戸日本橋 に出てくる「行列揃えて」東海道を「初登り」するは、8月ではないか、という説がある。「初登り」というからには、その後、何回も「京」に登ることを予期している。だから、一般庶民講ではなく、近江あたりの故郷に里帰りする江戸の商家の丁稚たちだろう、というのだ。江戸市中で大いに賑わった商店・三井越後屋呉服店は750人程度の奉公人を京都周辺から雇入れており、7年に一度、商いの閑散期の8月に里帰り(「中登り」)を許したという(江戸から遠い出身の丁稚を雇のは、幼な馴染みに対する引や、悪事の手引きなどの問題を起こさいため)。丁稚たちの行列は(750/7=107だから100人以上の場合もあったかもしれない。

それでは、庶民の場合の旅はどんなの季節だったか。地方では「江戸と背中が見て死にたい」ということわざがあったほど旅行は困難だったというが、江戸末期頃には神社仏閣参りを理由に旅行する気運が高まり、庶民の旅行増えたようである。江戸時代の庶民の旅行記録を、大田区立郷土博物館が調べた結果が公開されている。それ(展覧会図録)によると、旅行記録に残されている旅に出発した月は圧倒的に1月が多い(図)。冬の3ヶ月(12月から2月まで)で全体の7割を越えるから、あきらかに、庶民は冬に旅をしたと思っていいだろう。図録の解説者は、冬に旅をした理由は、農閑期だからだろう、としている。ある江戸研究家の先生からは、年貢を皆済した証文を貰えるのが12月だから、そのあとに旅に出たのでは? と言う話をお聞きした。なお、ほかの理由として、大名行列や川留めなど、旅の面倒に遭遇すると庶民特にとばっちりを受けやすいので、春・夏を避けた、そういうこともあったかもしれない。

冬の旅行は日中の時間が短く、長距離を動けるわけではない。旧暦の12月や1月には、庶民は雪の中山道より東海道を選び、日が短いとはいえ好天が続く太平洋側の冬に、絶景の富士山を眺めながら旧東海道を歩いたのではないだろうか。つまり、大名行列や中登りのような、1日に40km以上歩き続ける強行軍ではない。大山、江ノ島、富士山、秋葉山、伊勢、様々に寄り道をしながら(神社仏閣を書類上の目的地して)、それぞれに京や江戸の旅を楽しんだだろう。

江戸時代の庶民が残した旅の記録から読み取った江戸時代の庶民の旅程開始月(旧暦)

大田区立郷土博物館『弥次さん喜多さん旅をする』特別展図録(1997)データをもとに作成

広重「東海道五拾三次」戸塚 に描かれた講の招牌。

農工商人とみれば宿屋が旅人に悪事を働くことから、講は定宿を定め、講仲間は鑑札を所持し、その定宿に宿泊すれば、迷惑を強いられることがない定めにしたという。

歌川広重 東海道五十三次之内 神奈川(部分、加工あり)

大磯宿上方見附、旧東海道の真正面にそびえ塞がる富士山 (2023/1/19)

 江戸時代に東海道を歩いた旅人は、どういった場所で、目を見開いて周囲を見回したのだろうか?

 各宿場町の出入口には『見付』という標識があった。『見附』は本来は城下に入る見張り門のことであり、江戸後期にはさほど重要なものではなかったとする説がある。しかし、見張り門だとすれば、見通しのよい場所に設置されただろう。また、重要でない施設だといわれるわりには、現在でも『見付』の跡がよく残っている。宿場町の境界を示す傍示杭はなくなっていても、多くの宿場町で現在でも『見付』の位置が特定できる。また、東海道には見付宿という宿場もあった(見付宿のことは、あとでもう一度考える)。 各宿場で現在残っている跡地に表示されている呼び方は、江戸/京方/上方見附、東/西方見附、東/西木戸、様々なので、総称として宿場出口と呼ぶことにしよう

 宿場から出たときの眺め(特に富士山側の出口)に注意を払って、宿場出口の眺めを想像していると、気になってくることがある

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神奈川宿は眺望が良いことで知られていた。富士山も見える、とされていて、現在の神奈川新町や浦島町辺りからは富士山が見えたとしても全くおかしくない。しかし、台町の料亭街から、となると、海はよく見えたが富士山は見えなかったはずである。東海道を往来する旅人に、富士山はどのように見えたのだろうか?

 台町の西、現在の「関門跡」を過ぎた辺りから東海道は坂道を下り始める。坂道はおおよそ富士山が見える方向を向いているので、高い建物がなかった昔には、坂道から富士山がよく見えたことだろう。神奈川宿の京方見附の位置はあまりはっきりしていないので、京方見附との関係は不明だが、台町の宿場街を出て旧東海道を西に向かって歩きだすと、下り坂の前方彼方に富士山がどーんと現れる、という景色がみられたはずである。

現在も、富士山はビルの間からわずかに顔を出す。神奈川宿の出口付近が劇的な富士出現の場所だったことは確実である。風景シミュレーションは様々なことを教えてくれる。

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 現在の国道1号線の西側に設置されている保土ヶ谷宿の上方見附跡から富士山は見えそうにない。しかし、北や東に数十mずらして展望シミュレーションすると、この辺りは富士山と大山が並んで見える好展望地であることがわかる。富士山を遮っている西側の丘の上に登ると、現在でも富士山と大山が並ぶ光景が見られる。岩崎ガード歩道橋の上からだと、本当にわずかに(筆者は肉眼では確認したことがない。写真判定でわかる)だが、いまでも富士山が見える。

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藤沢宿では、東西の出入り口で富士山が見えそうである。富士山側の出口は、舌状台地の末端にある伊勢山橋(現在の小田急線との交差。江戸時代には小田急を跨ぐ伊勢山橋はなかったが、微高地はもともとの地形)に向かって坂を登ると、視界を遮っていた伊勢山をかすめて富士山が目の前に飛び込んでくる。藤沢宿京方見附がそこに待ち構えていて、その先に、富士山が道の正面になる湘南高校入口交差点ある。

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 平塚宿京方見附大磯宿上方見附、戸塚宿上方見附、箱根宿にたどり着いた山道の終点ど、宿場出口の場所が富士山が見える境界、特異的な位置にあるケースはほかにもいろいろある。

なお、富士山より西の宿場では、東側出口が富士山側の出口になる。丸子宿江戸方見附府中宿東見附蒲原宿東木戸などは、宿場の東側出口の場所が富士山が見える境界、特異的な位置にあるケースといってよいだろう。

 東西の宿場出口とも富士山が見える特異的な場所であるケースも多い。藤沢宿保土ヶ谷宿平塚宿府中宿、これまた枚挙にいとまがない。

 宿場町側からすれば、宿場の出口を展望の良い場所に設置する理由はあまりないように思われる。ただし、なぜか、宿場町は比較的展望の良くない場所が多かったようである。建物が立ち並べば、なおさら展望はよくなかったであろう。先を急ぐ旅人は宿場町内で目的地を見失って疲れを癒やしたくなる。宿場の出口までたどり着いた旅人は、次の目的地を目の当たりにして、元気よく歩き出した、そんなこともあったかもしれない。さらにいえば、

・旧東海道には富士山「山アテ」区間は数え切れないほどあり、宿場出口にも多い。また、宿場出口で富士山が正面などに劇的に見える場所が非常に多い。

・現在の宿場町の出口に道祖神や厄除けの神が残っている場所はみあたらない。

 「見附」宿は、東海道を西から旅して、ここで初めて富士山を「みつけ」ることから、見附と言う名前がついた、という説が、江戸時代には信じられていた。その説の是非は別として、「見附」と富士山が見えることの間に、連想される関係があったようである。

 あくまでも、可能性として、だが、富士山が宿場町の「塞の神」の役割を果たしたのかも知れない、などと夢想を交えて考えている。

以前作成したビデオと実際の車窓を比較するところからスタートです。


試作段階ですが、YouTubeに公開しました。

カメラの向きと動画のズレがまず気になりますね。山の名前の表示も工夫が入ります。