多々名グスクは、琉球の三山時代(1314年)以前に玻名城按司によって築城されたといわれる。当初は「ハナグスク」と呼ばれ、グスクの南海岸の礁湖内にある「親泊港」 (地元でワタヤーと呼ばれる)を利用した海外貿易で金属素材を確保した。
城内の鍛冶場で武器を作り、農民には鉄製農具を提供することで勢力が大きくなり、その名は知れ渡っ ていた。「おもろさうし」に宮殿の美しさや、農耕が発達し五穀を蓄える高倉が立ち並ぶ城下の玻名城集落を称える「おもろ」が13首も味われている。
英祖王統2代目・大成王の三男(具志頭按司)が隣接する具志頭グスクの初代城主で、 二代目具志頭按司の弟 (次男)が初代の多々名按司。父・英慈王の出生年 (1268年) から推測すると、初代多々名按司1290年頃の出生となる。
14世紀初め頃、多々名按司は玻名城按司を滅ぼし「多々名グスク」と呼ばれるようになった。
「たたな」 は「たたら」が 訛った言葉で、「たたら」とは鍛冶場で使う 「ふいご」のことである。
多々名グスクの面積は約40,000㎡(12,000坪)で、隣接する具志頭グスク (約30,000㎡ 9,000坪) より大規模である。
島尻大里(南山王国)と対立していた多々名按司は1320年頃、南山配下の西大城按司 (タマターグスク城主)を攻略したが、15世紀初め (1410年頃)に南山・他魯毎の叔父・連渤期によって滅ぼされたといわれる。
多々名城の前衛拠点であった「上城」の堅い守りや、中城間切熱田村から移住した武将・真嘉大屋子 (まーがうふやこ)の善戦によっ て、攻略することは容易ではなかった。そこで南山軍は、多々名城唯一の生活用水である 「んじゃ井」を発見して占領した。城中への水の供給を絶たれた多々名城は、こうして南山軍の手に落ちたのである。
その多々名按司の子孫が八重瀬町安里の屋号「上江門」である。
多々名グスク(平面概要図および平面実測図参照)
当グスクは南に太平洋を望む東西方向に延びる石灰岩丘の頂上部に位置している。南北は急崖 で西側は平坦に近い緩斜面となってることからグスクの入り口は西側にある。総面積は約40,000㎡ で具志頭グスクより広い。石積みで仕切られた4つの空間に分けることができ、御内原 (女宮の居 所)の跡も確認できるといわれる。
当グスクは規模が大きく、石積もかなり広範囲で見られることから、当グスクに拠った按司はかなりの権力を保持していたことが想定される。しかし、具体像については文献資料には殆んど見ら れない。「多々名大主」の演目が組踊りにあり、「琉球民話集」 では 「多々那按司」、「おもろさ うし」には「はな城世の主」が当グスクに拠った首長とみられるが詳細は不明である。「琉球国由来記」には「タタナ城」がグスク内に存在するとあるが、グスク内に複数あるどの拝所が該当 するか判然としない。試掘調査では中国産青磁、グスク土器、石器、獣骨などが出土していること から、14~15世紀にグスクの最盛期があったものと考えられている。
①はグスクの最高部で、野面積みの石積みで囲われている。「一の郭」と考えられている。
②(西側)と③(東側)で石積みが一部切れていることから、出入り口と見られる。 ③「一の郭」の西側部分③は、「二の郭」 (御内原?) と考えられている。
⑤石積み囲いの南側にあり、井戸跡と思われる集石が見らる。その北西隅には守護神とされる「イビガナシ」が祀られている拝所がある。
⑤スロープ状となっており、かつての出入り口と考えられている。
⑥自然地形に即した2つの石積みラインで、それらの南側と両石積囲いの間には通路状の空間が見られる。そこには横矢掛かりを仕掛けることが可能である。
⑦この空間は当グスクの中でも最も広い空間で、「三の郭」といわれる。
⑧御嶽(拝所)高さ1~1.5mの野面積の石積みが南北方向に直線上に走っている。石積みは途切れている部分が 多く、出入り口は特定できない。北西部の石積みラインは、東側へ張り出すように屈曲している。
①推定される城門で、南側に開口している。 ②平坦面が広く展開しており、ここからは陶磁器などの遺物が表採できる。ここは「四の郭」 とみ られている。
多々名按司海外貿易の道
多々名按司は、中城城主・護佐丸や勝連城主・阿麻和利のような強力按司がそうだったよう に、盛んに海外貿易を行った。日本から素鉄を輸入し、城中にかかえている優秀な鍛冶職人に 武器を作らせて強力な武力を有した。さらに、その鉄で農具を作らせて配下の農民に与えて農 業を発展させた。
多々名按司が海外貿易を行った港は、ギーザパンタ近くの海岸にあった「親泊港」(ワダヤー)で、「おもろさうし」にも記されている。ギーザパンタの上に首里王府の政策(失敗)による人工井戸 「ギーザ井戸」がある。その近くに 「ウシヌマチー」と呼ばれた 物々交換した場所があった。
親泊港(ワタヤー)と多々名城を結ぶ道を 「多々名按司海外貿易の道」という。ギーザ井戸の入り口近くからギイザ浜に至り、そこから干潮 (ひし)の上を西に進み、親泊港に至る道筋 という。親泊港について1852年の項で、「球陽」に次のような内容が記されている。
「嘉永5年(1852年)1月11日、具志頭間切の沖合に1隻の異国船があらわれた。 男5人女1人がボートに乗って親泊港に漕ぎ入れて上陸した。言葉が通じないので、ジェスチャー ・御茶の葉・生きた豚などの交易を求めた。住民は、彼らが欲しがってるものと 交易して立ち去らせることにした。まもなく異国船は帆を揚げて南の方に去って行った。