上江門家の歴史

上江門家は多々名城主(多々名按司)の後裔といわれ、八重瀬町を代表する旧家で俗に「安里上江門」と称し、上江門家門中の宗家である。


面積は1982㎡ (約600坪)で、周囲は琉球石灰岩の石垣で囲まれ南面と西面には、防風林として福木が植えられている。 建造物しては初めて八重瀬町指定文化財に登録された。


沖縄の百姓集落における屋敷内の建物の配置は通常、正門の正面にヒンプンが設けら れ、ヒンプンを左折すると牛・馬・山羊などの家畜小屋があり、その奥に豚舎があるのが 一般的で、それらは「母屋の西側」に建造されている。


沖縄戦前まではトゥングヮ(台 所)の南側に二階建ての建物(メーヌヤー)が西向きに建てられ、一階部分は牛・馬・山羊小屋に区分され、二階には穀物が貯蔵されていた。奥にはフール(豚小屋)があり、それらは一般の民家とは逆に「母屋の東側」に配置されていた。母屋の西側には池が掘られアシャギ(長男や来客用の離れ部屋)が設置されていた。

屋敷の中央にある母屋は当初、茅葺きであったが大正時代に瓦葺きに葺き替えられた。 部屋の配置は(向かって左から)一番座、二番座、トゥングゥの順となっており、一番座、二番座の裏にはそれぞれ裏座がある。(以前は三番座まであったという)


多々名按司の子孫である上江門家は、建物の配置や母屋の間取りが基本的な配置と逆になっている。建物も1945年の沖縄戦では戦火を受けたが、2023年の改修では弾痕が残る柱などもそのまま使用されている。


安里集落は、古琉球時代に琉球石灰岩丘陵の暖斜面(安里古島)に発生した。中城間切安里村から大城大主を中心に移住してきた人々が大部分を占めていたので安里という村名になった。


時代とともに人口も増え、1713年~1719年にかけて、当時の首里王府の農村政策による強力な勧告によって現在地へ移動し、新しい安里村を建設した。


安里古島から来た上江門家が集落の最上部(北側)に位置し、その分家が下方(南側)に展開して集落が形成・拡大していった。


安里村の発生と変遷

1.「安里の殿」と「安里古島」

 多々名グスクの北側にある「安里の殿」 周辺一帯は「安里古島」とよばれ「玻名城古島」の西方にある。そこは名城古島と同様に石灰岩丘陵斜面の地で、古集落の形成 において典型的な地形となっている。安里古島は玻名城古島とともに、南隣にある多々名グスクの城主・多々名按司の領地であったと考えられる。その村には村を守護する「安里 之嶽」がつくられ、後にその境内に造られたのが「安里の殿」。祭祀は「安里の殿」で多く行われるようになり、「安里之嶽」 は自然と消滅した。


2. 13世紀~14世紀頃

安里古島に13世紀~14世紀頃、中城間切安里村から 「大城大主」 (大城門中の祖?) を中心とする集団が移住し、続いて血縁集団「喜納一族」(喜納門中の祖?)が同じく中城間切熱田村から移住して村落を形成する。先に移住した大城大主の先住地・中城間切安里にちなんで集落名を安里と称した。

3. 1713年~1719年頃

最初、安里古島に発した安里村は次第に人口が増え、現在地(小字村屋敷原) に移動して新しい安里村を創った。その時、熱田村から来た系列の人々は多々名城の 「三 の郭」辺りの「マーガジョウ」 と呼ばれる地域に移動する。このマーガジョウにはそれ以前に、安里集落から「真喜大屋子一族」が多々名グスクの武将として既に移り住んでいた。


マーガジョウは真嘉大屋子にちなんだ地名と思われるが、そこは「真嘉村小」 (マーガムラグー)と称する小集落であった。真嘉大屋子は元来、喜納姓を名乗り、中城間切熱田から来た系列の人である。安里古島から分村してきた人々は、マーガジョウで真嘉村小の 人々と合流して「喜納村」を形成するが、先に移住した真嘉大屋子の喜納姓に因んでいる。


 安里古島にあった安里村は、なぜ現在地へ移ったのか。また、一部はなぜマーガジ ョウに移り喜納村を創ったのか。当時、首里王府は農村に対する政策として、生産性の 低い石灰岩丘陵台地上や丘陵斜面に立地する集落を、耕地に適した広くて肥沃な土地へ移 動させたり、人口増加により農耕地が狭くなった集落を分村させた。


他の地に新しい集落を創らせて、可能な限り琉球国全体の生産を高めようとした。つまり、村落の移動や分村を勧告したり強制した。安里村の現在地への移動や、喜納村の誕生は王府の農村政策によるもので、住民の意志ではなかった。 


4. 座喜比村の一部 人々の合流と移動

座嘉比村とは、小字・座喜武原にある 「座嘉武井」 (ザカンガー)周辺にあった集落。 この座喜比村の一部の人々は、やがて隣接する安里村へ、残りの人々は現・玻名城集落と の中間の地に移動し、新たに座嘉比村を創った。その時期は1713年から1719年の間、つ まり安里村が現在地に移動した頃である。1820年の 「琉球1件帖」 に記されている座嘉比村とは、現在の安里集落と玻名城集落の中間の地に新設された座嘉比村である。


5.1732年~1830年の間 (喜納村の安里村への移動合併)

喜納村の人々が移住したマーガジョウは井泉がなく、水の確保は難しく雨水を取水して 使用したが、それでは生活するのに不十分。それで遠くにある玻名城村の村井 「んじゃ井」 の水を利用したが、王府に納める公租 (税金) にも苦労した。そのような環境下にあった 喜納村の住民は自らの意志で、平地で水利の良い現・安里村に移動合併し、マーガジョウ にあった喜納村は消滅した。


6. 「旧慣土地制度」による地割制度は、1661年~1672年頃から実施されたといわれ、安里村が現在地に移動した時は既に施行されていた。この制度下では、道路や屋敷の造成に 際して土地利用が統制された。それによって、安里集落や玻名城集落がゴバン目状の形態 になっているのである。多々名按司の後裔といわれる旧家 「上江門」の後方にも屋敷可能な土地がありながら、集落が南へ形成されている。それは安里住民の秩序だろうか。


※1959年(昭和34)に安里集落の古老たちへ、「タチクチ」 (起源)についての聞き取り調査が行われた。 結果を要約すると「ウヤファーフジから、安里村のタチクチは中城村安里、北中城村熱田の祖先の人々であ ることを聞いた記憶がある」 「沖縄戦前は、中城村安里の人々が安里之殿で祈願しているのを見た」。