小山真夫『小県郡民譚集』(昭和8 1933)

2 河西地方に關するもの


鹽田の海

 神代の昔に鹽土《しほづち》翁が陸奧鹽釜に往かれて鹽のこしらひ方をお授けになつた、お歸りのみぎり鹽田《しほた》の海に立寄り、和世田神とお二方で又鹽のこしらひ方をお授けになつた、潮水を汲んだ所を濱場といひ、鹽を燒いた所を釜屋敷、御手洗を鹽野井、其あたりを鹽野間、又は鹽沼、或は鹽野はさまと呼んで今に西鹽田村の前山に其地名がのこつてゐる。

 其後に地主の神が多くあらはれて來て處々を切り開いた、岩鼻が切れてまんまんとしてゐた鹽田の海の水が北海に注ぐに從ひだん/\乾いて陸地となつた。其荒れ水が埴科郡の坂木《さかき》の橫まくりに打ちあたつて其地を壊した。それで此地を鹽田といふので、中鹽田村の小島はかつて中島であつた。(里傳、鹽野神社緣起)


  地質學上では甞て水底であつたことは證しゐられる。今尚鹽に關する類似の地名を求めると富士山村字鹽の入、中鹽田村保野區字鹽野、及び鹽吹、別所村字鹽水、泉田村小泉區字鹽野、鹽田河原、浦里村越戶區字鹽の入、同村浦野區字鹽の入等がある。鹽田平にては田圃に行くを今に沖へ行く若くは浦へ行くといつてゐる。



半過

 昔小縣から佐久へかけて大海であつた。それは鹽尻の岩鼻《いはばな》と半過《はんが》の岩鼻とが今のやうに切れてゐない時のことであつた。そしてこゝから北は陸地で田畑がひらけてゐた。ところが此處に一疋の大鼠が棲んでゐて澤山の子鼠をひきつれ、其田畑を大荒しに荒すのが常であつた。それで村の名まで鼠といはれるやうになつた。

 村の百姓達は相談して、

「どうか此鼠を退治してえもんだ。」

「劫を歷た大鼠のことだから普通の猫では何疋かゝつたつてだめだらうから、どこからか非常に大きな猫を探し來て防ぐより外はあるめえ。」

 すると大勢のこととて忽ち大きな唐猫《からねこ》を見つけて來た、そして鼠の群にけしかけた、流石の大鼠もこれには堪えかねて逃げだした。唐猫はどこまでも追つかけて行く。大鼠はとう/\大海の端の岩山にまで走つたが進退きはまつて死者ぐるひに一心に岩山を嚙み切つて隱れやうとした。

 大海の水を支へてゐた岩山が嚙み切られたので、今までまん/\と水の湛えてゐたのが一時に迸り出て、大鼠も小鼠も皆流されて溺れ死んでしまつた。これから小縣佐久の平はできた、岩の嚙み切られたのが殘つて岩鼻と呼ばれてゐる。

 唐猫も矢張流されたが篠井《しのゐ》附近で辛うじて上つた、間もなく死んでしまつたから其地に之を祀つて唐猫神社といつてゐる。(里傳、日本傳説信濃の卷)


  半過は角閃安山岩より成り地質學の所謂潛鐘の現はれたものである。城山の中腹から東方に突出すこと約七町、其嶺は略水平線をなし、南北兩斜面は殆と同角度を保ち、恰も三角柱を据ゑたやうである。其柱の底面は千曲川の淸流に洗はれ正三角形の斷面をあらはしてゐる。



牛石

 神の代に氷澤大權現が牛に乘つてこられた。更級郡六ヶ鄕から小縣郡室賀《むろが》村へ越す峠で牛が死に化して石となつた、それを今に牛石と呼んでゐる。

 其牛石はたま/\畑へはいつて作物を荒すことがあつた、それ故其牛石の鼻に繩を貫いて折々つないであるのである。(小縣志稿)


  上室賀村氷澤大權現の奧宮は前宮より一里程山に入り岩壁に鎭座してある。其岩の高五丈五尺といはれる、岩上には絕えず水を湛え魚も住んでゐると傳へられる、(里老)又氷澤權現の島居前を乘りうちすれば速に落馬する。又其山に大きなたらの木があつて梵天たらと呼ばれた、昔より其枝を伐ることを禁じてあつた。此木にさはると必ず熱をだして病んだ、それで垣を結ひまはして置いた、これは此神の突いた杖をさゝれたのが根づいて繁つたものであるとも傳へてゐる。其後此木は枯れて舊こゝにあつたといはれるはかりになつた。(里人談)



でえら坊

 河西地方には、でえら坊傳説は三箇所に存してゐる。西鹽田村野倉區字後澤及び豆石に存するものは二箇とも山上に遺り、後澤のものは東方にありて左足跡で、豆石のものは西方にありて右足跡で共に西に向つてゐる。其兩足跡の隔りは凡十五六町ある。土塊を運んで來たところが持籠よりざらざらと漏つてこぼれたものが中鹽田村舞田山となり、袂の中より落ちたものが別所村男神嶽となつた。(竹下繁松)

 浦里村越戶區字西澤にあるものは、別所村安樂寺峠より越える山上の窪地にて凡七八十坪許もあらう。でえら坊が背負つて來た土塊をここに置いて男神嶽となり、手に載せて來たものを其傍に置いて女神嶽となつた、それからでえら坊は西鹽田村前山をまたいで東方にいつた。(里老)

 又浦里村當鄕區字管者にあるものは、東筑摩郡に接する地點で、其大さ凡八十坪許もあらう、現在は芝地になつてゐる。(里老)



男神嶽女神嶽

 別所村の東境には女神嶽《めかみたけ》、西境には男神嶽《をかみたけ》といふ山がある、 何れも美しき圓錐體をなして向ひあつてゐる。それで女神嶽をば伊弉册尊、男神嶽を伊弉諾尊にみたててゐる。此二山から流れ出る水の尾合川を相染《あひそめ》川といつてゐる。兩嶽の神靈は峰をへだててゐるので後世二神を併せ祭つて此川の邊に一祠をたて緣結びの神とした。(里傳、信濃奇勝錄)


  上述は別所村所傳であるが、隣村靑木村沓掛區の所傳は次のやうである。村の東方なるは夫神嶽(卽別所村の男神嶽のことである)南方なるは女神嶽(これは靑木村と西内村との境にある大明神嶽をさしてゐる)で此二山の谷間より流れ出るのが相染川であると。後建久年中に至り兩嶽の神祠峰をへだてゝゐるから緣結神社をたてた、社の神木に椋の木があつた。男女枝に紙を結びて良緣を願つた。又一に此神木を「びらん樹」とも呼んでゐる。後洪水のために社も神木も流れた、其留つた地に皀莢の木があつた、又此木に紙を結んで良緣を願ふ習はしとなつた。



七久里湯

 別所溫泉は之を總じて一に七久里《ななくり》湯ともいつてゐる。これは日本武尊が東征の歸路、この地に臨まれ七箇所の溫泉をお開き下され、御入浴遊ばされて長い年月の數多き苦みがはなれたと愛でて七苦離《ななくり》の湯と名づけられたのである。(里傳)



椀貸穴

 泉田村小泉區字和合《わごう》に一つの高塚がある、一に椀貸穴ともいつてゐる。昔椀の無い人が此塚へきて入用數だけ賴むと翌朝ちやんと塚の前にそろへてある。返す時は借りた數だけ塚の前にそろへておくと何時のまにかしまはれた。或時誰かが借りただけ返さなかつたらそれつきり借りることが出來なくなつてしまつた。(小泉勇左衞門)


  和合の塚は一に將軍塚とも呼ばれてゐる。浦野川の北段丘の上なる崖頭に座す、今は破壊したから其大さが知られぬ、聞く所によると壊した時に石槨はなかつたといつてゐる、遺物も普通の高塚出土品とは異つてゐて、唯土器の盃三箇を得たのみであつた。之は古型式の彌生式土器に屬し内外に朱色を施してあり、且何れも緣に二箇相ならんで孔が穿つてある。一盃の大さは高一寸六分、口徑三寸五分あつた。壊す前には塚の頂には大きな榎が繁 り、側に有頭石棒の長六寸六分のものがあつた。



田澤湯

 昔琵琶湖が陷落して富士山が突起した時の餘波で田澤《たざは》の湯は湧出したといつてゐるが、初めのうちは雲霧にまぎれてゐて誰にも知られなかつた。

 後文武天皇の御代に役《えんの》行者が來て叢を開いたのに一老翁が出湯に浴してゐた。

 「出で湯の効驗いかん。」

 「冷熱二泉がある。冷泉は仙家に宜しい、熱泉は衆人に適する。仙家は之によつて身心の垢を洒ぎ靈肉健にして飛行自在となり、衆人は之によつて宿痾を治し虚弱の體をよく强壯にする。別けても子供の無い婦人は三七日浴すれば必す懷姙し、乳の乏しい女二七日浴すれば必ず乳腺がこえる。」

と細かにのべ終ると其老翁は忽飛行して姿は消失せてしまつた。

 役行者はそこで此翁を溫泉權現と敬つて祠を建てて祀つた、又行者の從者は其持つて來た藥師如來を安置して藥師堂を創めた。

 これより老翁の浴した湯を仙人《せんにん》湯と呼び、一に和訓してやまうどの湯ともいつてゐる。又姙ある湯をば子持《こもち》湯、孕湯或は姥ヶ湯と呼び、乳ある湯をば有乳湯《うちゆ》と稱へた。其後浴客の繁くなつて來たので此深山も開けて村屋ができるやうになつた。(溫泉由來記)


  田澤溫泉は泉質硫化水素泉、色澤は無色澄明、溫度は攝氏四十度五分。



手塚

 奈良の御代に氷上鹽燒《ひがみしほやき》が叛いて信濃國に流された。其の後四年たつて再び叛いて信濃の人民を殘害した。延曆年中に坂上田村麻呂が討つて之を滅してしまつた。鹽燒王は生前に魔術をよくしたから、死んだ後で其怨靈の祟があつてはならぬといつて、遺骸を四つ裂きにし其兩手をここに葬つた、故に墓を王子塚と稱し村を手塚と呼ぶのである。

 其胴は筑摩郡某地に、耳と足とは諏訪郡某地に分けて葬つた。(里老、手塚村誌)


  王子塚は西鹽田村新町區(舊手塚村の分村)字王子塚にある。周圍六十二間、高二十二尺の圓墳の高塚で、墳南に王子社が祀られてゐる。考古學上よりは奈良朝時代のものではない。氷上鹽燒を正史に求むれば伊豆三島に流され、其後四年で召還され、明年復爵し、天平寶字八年藤原仲麿に擁せられて叛し、近江國で戰つて敗れ斬に處せられてゐる。手塚傳説は悉く正史よりはやぶれてしまふ。旣に殺されて三十餘年後の延曆年中に滅されたなどは妄誕きはまる。これは手塚傳説だけであつたのに村の物知りが鹽燒や田村麿を挿入して却つて傳説を壊したものであらう。



浦野

 浦野《うらの》驛に昔珍らしい竹があつた。其本は男竹であるけれども末《うら》は女竹になつてゐる。矢の箆《の》に作るによかつた、それで「うらの竹」と呼ばれた。之浦野といふ地名の因るところである。(爰等里人談)


  此地にかゝる竹があつたものか今は知る人もない。



袈裟供養

 弘法大師が鹽田平にお巡りなされた時のことである。村のお大盡の家に葬式があつた。大師は極めてみすぼらしい粗末の袈裟衣で其家の戶外で經を誦してゐた、すると主は親の葬時であるから誦經の聲に表をあけて見たがあまり汚い坊主であつたから「ごめよ。」といつて手の内をださなかつた。

 大師は立退いてやがてきらびやかな美しい袈裟衣に着かへて三四人の弟子を伴つて、又同じ家の戶外に經を誦した、主は又表をあけて見たが立派のいでたちの和尚樣であつたから、直に座敷へ請じていろいろのご馳走やお布施をあげて大層おとりもちをした。

 すると大師はこれらのものは一物もおあがりなさらないで、立派の袈裟や衣を脱いで座敷にひろげ、主のもてなしのご馳走やお布施をみんなぶちあけて注ぎかけた。主もおとりもちもこは何事と氣をもんで、

 「これはまあ何事で。」

 「いや別條ではない、お前の心は佛法僧に供養するのではない、唯僧の着てゐる袈裟衣にのみ供養するのだ、最前みすぼらしき衣にて弔うたも拙僧、唯今うつくしき衣にて弔うたも拙僧である。然るにみすぼらしき衣には門前拂ひをし、うつくしき衣には座敷に招待する。これは偏に三寶に供養するではなくて唯唯衣の美しさに供養するのである、されば拙僧は主の志を頂かないで美しと見られた衣に供養するのである。」

といひ終ると立ち去られた。(母)



九十九谷

 弘法大師が自ら永住しやうと思ふ地を見つけて精舍を建てやうと日本國中を巡り歩いた。そして鹽田の殿城山《てんじやうざん》の靈地であるのに目をつけて峰から峰、谷から谷と隈なく探つたが谷間が九十九すらなかつた。

 「若も百谷あつたなら吾ここに住まんものを。」といつて立ち去つた。(里傳、前山村誌)


  殿城山は西鹽田村と西内村との境にあり、一に鐵城山、でつちよう山とも呼ばれる。山容莊嚴。



元木の地藏

 前山村の澤山に稀有な柳の大木があつた。弘法大師が巡國のついでに、之を靈木だとして其幹を切り自ら地藏尊の像を刻つた。そして澤山の一峰で岩石平垣の場所を見たてて此處に安置した。

 又其柳の末木で造つたのは藥師佛の像で今中野村の堂に安置してある。それで前のを「元木《もとき》の地藏」といひ、後のを「末木《すゑき》の藥師」とよんでゐる。

 元木の地藏は參詣に困難であるといふので其後手塚村の藏六庵にもち下した。(里傳、手塚村誌)



ちがひ石

 殿城山の頂の西方なる佛殿の跡といふところや、北方なる獨鈷山の弘法山といふところには小さな十字形の石が澤山でる。之をちがひ石と呼んでゐる。

 これは弘法大師が衆人に與へ誓つて

 「若よく此石を携帶するものがあれば、諸の災危を免れさせやう。」

といはれた。それより此處に出はじめた、故に「誓石」といふのである。(前山村誌)


  ちがひ石は十字形にぶつ違つてゐるから違ひ石として知られてゐる。母岩である石英安山岩より拔け出した斜長石で、其柱狀結晶は打違に雙晶をしてゐる、之を以て鑛物學上に著名である。



獨鈷山

 獨鈷《とくこ》山は弘法大師が殿城山が靈場とすることができないのを惜んで、此山の頂へ獨鈷を埋めて去られたから此名が起つたのである。

 山頂に岩屋がある、護摩修業の靈場だといはれてゐる。其近くに「硯水《すずりみづ》」といつて靈水が湧き出て乾濕二季いつでも水に增減のないといふ所もある。それで此山を一に弘法山ともいつてゐる。(前山村誌)


  獨鈷山は殿城山の一支峰で、特に此部にのみ石英安山岩を噴出して一山塊をなしてゐる。違ひ石の產地である。



本鄕の笊水

 弘法大師が上本鄕をお通りなされた。折しも夏の眞盛りで咽が渇いたから產川《さんがは》の川端にゐた一人の婆さんに水を求めた。婆さんは笊で水をすくつて差上げた、水は笊の目から漏つて大師の口には一滴もとどかなかつた。

 五六日たつと川の水はおのずと減けて少しも通つてゐない、見れば上本鄕の地域内の川筋だけは石ころばかりになつて、其水上の十人《じうにん》村も其水下の五加村も水は流れてゐた。試みに石ころの川筋を掘つてみると水だけは深い底を通つてゐた。

 全く笊で水を差上げた其通りのありさまとなつた、けれどそれも水を差上げた夏だけで、其外の季節には變りがない。(小出愛治)



舞田の燒餅石

 弘法大師が舞田《まひた》村をお通りなされた時、丁度夕暮のこと一人の婆が燒餅を燒いてゐた。大師は立寄つてむしんした。所が婆さんは

 「これは燒餅ではない、石だ。」

といつた。大師はお歸りなされた、さて婆さんが夕食をたべやうと燒餅へとりついたのにほんとの石に化つてゐた。

 そこで婆さんは石になつた燒餅を山へ捨てた、これが燒餅石である。(母)


  燒餅石は粘土を中心にして其四圍に褐鐵鑛の包んだ鑛物である。褐鐵の皮が幾らか破れると粘土が水で溶けて流れ出してがらんこの殼となる、褐鐵鑛中の一異形で名が著はれてゐる。



沓掛の石芋

 弘法大師が沓掛村をお通りになると、一人の婆が小川の邊で芋を洗つてゐた。

 「婆や少しひもじいだが其芋を一つ二つ惠んでくれぬか。」

 「此芋は堅くて堅くてとても食はれやしねい。」

 「ではまるで石みたやうなものか。」

と問答して別れた。

 さて婆は洗つてしまつて家へ歸り煮て食べやうとしたが、どの芋もどの芋も皆石のやうに堅くて一つも食べられなかつた。

 これより沓掛では全く食べられるやうな性の芋はできなく皆石芋になつてしまふ。(里傳、日本傳説信濃の卷、長野縣天然記念物調査報告)


  石芋は沓掛字湯尻四十八番の田にかゝる小川や堰等に他の水草と共に繁茂してゐる。其の面積は五六反歩の地に分布してゐる。野生狀態の里芋(上州芋)で葉柄の長四尺一寸餘、葉身も其先端より其脚の末端までの長一尺一寸餘、幅の廣き所七寸二分、芋の周圍七寸餘、長三寸位に達するものがある。



大日堂の蜘蛛

 小泉村の大日堂には今に天井がない。昔一人の百姓がぼや切りに小泉山にいつた、一と休みしてゐると大層眠つたくなつてきて何時とはなしに眠つてしまつた。

 すると一疋の小蜘蛛がきて其百姓の足の親指に絲をかけて行つてしまつた。そこを通りかゝつて見た人がふしぎに思つて、眠つてゐた人を呼びおこし、直に絲を指からはづして傍の躑躅の株にしばりつけさせた。

 まもなく躑躅の株は根こぎになり宙を飛んでいつた。二人はたまげて後をついて行つたれば大日堂の天井に引つこんでしまつた。それから强い侍をたのみ天井板をはなして退治した、其後魔物のたてこもらぬやうに天井をはいだまゝにして置いたから今にないとのことである。(吉村文藏)


  大日堂は小泉朝日山にあり、大同年中坂上田村麿の建立だと傳へてゐる。六十年每に開帳があつて來迎ねりで名高い。



朝日山

 朝日山は坂上田村麿のたてたといふ大日堂のある所だ。後年堂塔修補の際こまらぬやうに此邊りに黃金を埋めておいた。そこは

 「朝日さし夕日かゞやく木の下に、黃金千甁、朱千甁、漆千甁。」

と謠はれてゐる。(里老、小泉淸見、小縣郡年表)

天明七年六月頃小童ら朝日山に遊んで計らずも碁石金を朱にて埋め置いたのを多く堀出した、其金質は極めて勝れてゐた。(小縣志稿) 又朝日さすの謠は高塚特有のものであらうが、やはり大日堂附近の寺住平に高塚がある、恐らく謡は此古墳に傳へられたものであらう。(小縣郡史)



北向觀世音出現

 淳和天皇の御代天長二年、今の別所、其頃の七久里《ななくり》の里の丑寅の方で草木が靑々としてゐる山の麓から夜な夜な光明がたちのぼつた。六月(本起錄には三月十五日)になると俄に地の底が鳴動して一つの阬穴ができ、火熖もえ上り黑煙を吹きだし日に增し激しくなる。火氣黑煙の向ふところ人はいふに及ばず畜類まで悉く斃れる。

 そこで里民(緣起には守護職眞庭朝臣)大におそれて上聞に達した、天皇は天文博士安倍泰能(緣起には陰陽博士某)にお命じなされて占はせられた。

 「奇怪の事なれど佛緣に依る兆あり。」

と申上げる。勅使(緣起には良岑安世)と比叡山の座主圓仁とを下らせ、安鎭の祈禱を修めさせた。(緣起には七壇の法座を設け百八日を期し秘密の大法を修した。)かくて十月二十五日の曉天に及び、阬中より紫の雲たちのぼり、金光さつと照して南の方へ移つた、勅使と圓仁とは紫雲の靡いていつた北向山に行つて見るに、凡眼には何物も見えない。

 それ故圓仁は深禪定に入つてゐると、空中に微妙の聲がする、

 「吾は萬民救濟を待つて、今此火阬に出現せる觀世音なり、吾像をとゞめ、北に向つて安置せよ、洽く衆生を濟度せん。」

と尊影は紫雲と共に虚空に上つた。(本起錄には阬中より女性現れ「吾は救世の本願大和國長谷の觀世音である云々」と宣ひ紫雲にのりて上天す)圓仁一刀三禮して靈像を彫り、之を堂に遷しまつゝた。(本起錄には表は千手千眼、裏は十一面觀世音に彫る)

 翌天長三年十月二十五日遷座の式を行ひ、觀兜、蓮華、最勝、妙乘の四院を營み、法務補翼の僧をおいた。天皇聞しめして北向山の勅額を賜ひ尊崇厚かつた。

 觀世音出現と同時に、かし火阬は變じて火氣はとゞまり黑煙はうせたるのみか、忽ち黑水湧き出で、中から一體六面の石(本起錄には鏡石)が出て恰も淨玻璃のやうであつた。尚ふしぎのことにはこゝかしこに溫泉が湧き出で妙觸療病の利益がいちゞるしくなつた。

 圓仁はこゝに一寺を營み其弟子をして住寺とさせた、それで圓仁の別業を設けたところであれば別所と稱へることゝなつた。(別所本起錄、北向山厄除觀世音菩薩緣起)


  北向觀世音火阬出現靈場は別所村字內大門の山懷にある。此傳說の存してゐる場所は所傳に基き神聖視してゐたが、後世汚黷せられんことを氣づかはれ、寶塔を建立されたそうである。此寶塔は壽永元年燒失したので、弘長二年僧賴眞一石一字の一切經を金銀泥にて書寫し、觀世音火阬出現の跡へ納め、石造多寶塔を建立して之に代へたといふことである。多寶塔は總高九尺あつて完全、(長野縣史蹟調査報告)



鏡池

 天長二年六月、火煙を噴いた火阬ができて、十月になつて此阬中から北向山觀世音菩薩が出現した。すると火阬はぴつたりやんで忽ち變じて黑水が湧き出し、一體六面の石鏡が浮き上つた。靈地から現れたのによつて淨臺にのせ諸人におがませた。

 此石鏡はふしぎのことには、見る人の心により、極樂を見る者もあり地獄を見る者もあり、菩薩を見るもあれば餓鬼畜生を見るもあつた。未曾有の石鏡であるによつて庫の中に祕藏することにした。

 盜人があつて密に庫に忍び這入つて、此石鏡を背負だした。始の中は輕かつたが段々重くなつてきたから路傍において休んだ。追手の人も多くなる樣子である、そこで又石鏡を背負出さうとしたのに、これは不思議重くなりきつて一寸も持上げることでも出來ない。

 追手の人は刻一刻と近よる、盜人は持つて行くことも出來なく、むざんに取かへされるも殘念で、近所の石を拾ひあげ、石鏡に投げつけて破らうとした。此とたんに大地は忽ち割れて、石鏡は盜人諸共に其割れ目に落ちこんでしまつた。追手は此有樣をみて唯驚くばかり。

 其後人夫を出して幾日となく地を堀つてはみたが、どうしても石鏡のありかが知れなかつた。それで一同は堀ることをやめることにした、堀つた所は自然々々に水があふれ出てきて小池となつた。これが別所村の鏡池である。(北向山厄除觀世音菩薩緣起)



大師湯

 天長二年北向觀世音が出現すると其火阬は火氣とゞまり黑煙うせて四近に溫泉を湧出させた、これ皆菩薩救世の賜である。

 其出湯のうち永壽湯といはれたのがあつたが、圓仁慈覺大師が此地に別業を設けるやうになつてから永壽湯に浴みして、痺病がなほつた。大師は喜んで自像を刻んでこゝに安置した、よりて大師湯と呼ぶやうになつた。(別所溫泉案內)


  大師湯は別所村字院內にあり、泉質は硫化水素泉、色澤は無色澄明、溫度は攝氏四十三度三分。



沓掛湯

 滋野《しげの》親王が御眼を煩はせられて信濃國小縣郡に下られ、沓掛の溫泉に浴してなほらせられた。親王御歸舘のみぎりに此湯の効能に報いやうと、溫泉藥師を安置して出湯の守護とした。又此地の山の姿が京都の小倉山に似てゐるから小倉の湯とお呼びになつた、それで一名を小倉湯ともいふのである。(里老)


  沓掛溫泉は沓掛字湯原にあり、泉質は硫化水素泉、色澤は無色澄明、溫度は攝氏三十六度。



大明神の主

 別所村がまだ開けない大森林であつた頃、上田より三十人許の木挽がはいつて每日木を切りだした。木挽たちはいつも上田に宿を占め夕方になれば歸つた。

 木挽の中に長太郞といふものがあつた。一人殘つて仕事小屋にとまつた。すると每夜大坊主があらはれて

 「長太相撲をとれ。」

といふ。始のうちは言ひのがれてゐたが、あんまり來るので大鉞をといで戶口にたてかけて待つてゐた。

 夜になると例の通り「相撲とれ。」といふ、「おうよし。」と答へて庭の眞中でとりくむ。其のうちに長太郞がよぢ/\と壁の方へ突かれてきた。長太郞はとり急いで鉞をとり坊主の腰を打つた、坊主は逃げさつた。

 長太郞はもとの通りに戶を閉ぢて眠つてしまつた。朝になり友の木挽がどや/\とは入つてきた、庭一面の血だらけにびつくりした。

 「長太もあんまり生意氣するからだ。」

といひながら小屋に入つて又びつくり。長太郞はごう/\と眠つてゐる。

 「長太々々何をしたのだ。」

長太郞はすつかり夕べのことゞもを語りきかせた。木挽達は

 「さらば血の引いてゐる跡をたづねて見やう。」

と口口にいつて付いて行つて見たれば、大明神嶽の頂の一つの石寶倉の中には入つてゐたといふことである。(小林義繼)



おかんが池

 大明神嶽の麓におかんが池といふ池がある。昔大明神峠に一軒の茶屋があつた。そこにおかんといふ女があつた。其母が中中まてで流しの下にこぼれてゐる米を見て

 「それを拾つて一日の食物にしろ。」

と叱つた、又或時は

 「山に落ちてゐる木の實を拾つて食つてゐろ。」

とにくまれ通しだので、我身をはかなんで池に飛んで死んでしまつた。

 それよりおかんが池といふ名が起つた。不思議のことには此池に籾殼をいれると一里もさきの川に流れ出るといつてゐる。(荒川良治)



嶽の幟

 昔幾年も幾年も旱が續いて山から流れてくる川の水も絕えてしまつたし、地から堀つて汲みだす井の水も乾いてしまつた。作物ができぬばかりか人間が死んでしまいそうになつた。それで村の人人が寄つてたかつて相談をし、男神嶽と女神嶽との兩山へ御祈誓をして

 「若しも大雨を降らしめ給うて、民の患をお救ひ下さらば、有らん限りの供物を奉ります。」

と申上げた。

 そして長い布を張つて龍神の姿をあらはして、布を立て並べて行くと、男神嶽の山の上の方に九頭龍《くづりう》のやうな形の靈體があらはれて、だんだん女神嶽の上の方へ進んで、山を覆うてしまつた。

 すると間もあらばこそ、大雨がざんざんざんざんと降つて來て、人民を救うて下された。これよりお祭り每に今もつて幟《のぼり》を澤山献ずるのである。(里傳)


  嶽の幟、實は反物で別所村を三組に別け年番に之を建てる。當番の組にては一戶二反づゝ、白布にても飛白にても思ひ/\の布を一反は竹の竿に添へて下げ、一反は其竹の末の笹葉を包んで垂れさげ、竹の下部にて一つにし、持つて山に上る。一組の人數は六七十人、風强く幟を飜すを以て其行列頗る壯觀である。神事終れば下山して此幟を鄕社に供へ、祭終りて家に持ち歸り、家人の用とする。獄の幟に供へた反物で著物をこしらへて着れば風邪におかされないと言ひ、親類緣者など殊更に依賴して其反物を神事に用ひしめる習はしである。(現在習俗)

  昔は現在と相違あつたのであるか、此行事をしてから更に男神山にて神酒を開き、それより下山すれば女神嶽の麓なる大湯の地に幟をたて並べ、女神嶽に供へ、又神酒を開くを式とすとも言はれてゐる。(善光寺道名所圖會)



嶽の宮

 村人は男神嶽に祈誓して雨がふつて百姓がよみがへつたので、奉齋に此神を祭るお宮を造ることになつた。

 ところが別所村の方に向けて建てやうか、夫神《をかみ》村の方に向けて立てやうかとの議論がおこつて容易にきまらない。

 そこで「牛と馬とに男神嶽の頂に驅け登らせ、勝つた村の方へお宮を向けやう。」との相談になつた。さてどちらが牛になるか、どちらが馬になるかが又問題となつたから、「それでは籤引きで定めやう。」とのことになつた。

 籤を引くと別所村は牛、夫神村は馬となつた。いよいよ用意して兩村の此山の麓から驅け登らせた。所が牛が山頂についたのに馬はまだ山腹にゐた。それでお宮を別所村の方面に向けたのである。だから每年六月十五日の祭日に別所村では山の頂で神事をするのに、夫神村では山腹で神事をするのである。(西島義雅、小林種次郞)


  男神嶽は別所村と靑木村大字夫神とに跨る圓錐狀の美山である。嶽の幟の神事は夫神にても別所のやうにしてゐる。



黃金の瓢

 浦野莊岡村の城に桓武天皇八代の孫と號する岡村權之左衞門《ごんのざゑもん》平淸氏といふ人がゐた。生れつき暴慢で驕奢に誇り人の榮譽を猜む心が深かつた。長じて甲斐信濃の守となつたが、「父淸廣の世に源賴光に權を奪はれて我家も昔の影がない、いつかは黨をあつめて源氏と戰ひ家名を興さう。」と思ふ心の絶えたことがない。其うちに賴光の弟賴信の世となつて兄より力が劣ると聞き、「今こそ時なれ。」と兵馬を備へて用意した。

 源賴信は京都にゐたが老臣どもは諸國に在職して留守である。急の事であれば丁度都に殘つてゐた卜部季武を呼んで、淸氏追討の先鋒とした。すると八屋兵衞友高之を猜み、

 「案內を知らぬ人に先鋒をさせるは危うい、吾は永らく信濃に住みよく地の利を知つてゐる、此度の先鋒は私に仰せ下されたし。」

といつて季武の上に立たうとたくらむ。

 そこで賴信は追手の先陣は季武、搦手の先陣は友高と命じた。季武は代代の侍であるに近頃出頭の友高と並べられることは心に耻ぢてゐるがこらへてゐた。友高は得たり顏に季武と肩を並べられたから更にうぬぼれて高言をはく。季武もこらへかねて友高へ飛びかかつたが、大事の前の小事だからと留められるままに手柄を後日に殘して靜まつた。友高も戰場ではとても季武には叶はないといふ事は知つてゐる。だから謀をもつて勝たう、淸氏は常に赤色の馬簾に黃金の瓢を指物に用ふると聞いてゐるから擬へて之をこしらへ密に櫃に收めて行くことにした。

 さて三月五日といふに賴信は七千騎に主として京都を出陣し、同月十五日辰の刻に浦野莊につき岡村城をとり圍んだ。友高は季武をだしぬけにしやうと手勢五百騎で先鋒し、木戶口に寄せては見たが湟が深くて近よれない。季武進んで此湟を飛び渡つて突進する、友高を顧みて

 「御邊は我等が行くところは何處にても續くといつたが疊の上の口きき通り渡つて來ぬか。」

と怒鳴つたれば、友高は面目なくも引退く。

 季武は城門の扉を破つて橋として味方を入れ、自らは進んで二の木戶まで進み入る。日はもうたそがれ時、引貝の音に季武は殿して軍を引きかへす。すると城中より一人の若武者が出て、

 「吾こそは甲斐の住人、乙切小八郞爲宗なり。 味方に離れ優優しく引取るは正しく故ある勇士と見えたり、いざや見參せん。」

と呼ばはつた。季武引きかへして爲宗が冑の錣をつかみ、宙へなげて放ち取つて押へて動かさない。

 「首打たれなば互に名告るべきと聞く、御身は誰ぞ。」

 「吾は駿河守季武なり。」

 「同じく首打たるべくばかかる人に切られるこそ面目である。さりながら音に聞えし季武殿が某ごとき者を切りたりとて高名にもなるまじ、なさけ賜はれ、然らば後には御力となり申さう。」

 「いやいや切らうぞ。」

 「降るものを切るとは武士の情ではあるまい。」

ともたぐる顏を見れば十七八の壯年、我子の昔を思ひ出し、

 「存ずる旨あれば助けてやらう。」

と切る手をとめた。

 爲宗はしばし休んでゐたが、心の中では「いかにもして季武打たう。」と思つてゐた。間もなく二人の武士城の中から出て來て季武に打つてかかる。爲宗あはてて、

 「これは我一族疑ひ給ふな。」

といひながら季武の首を掻かうとする。季武怒つて爲宗の胸柄つかんで湟の中に投げこんで、向つてくる二人の者をば捕へて首を捻り切り、匐ひ上る爲宗を

 「恩知らずよ。」

と首を切り、三級の首を太刀に貫いて

 「今日珍らしや駿河守卜部季武、年つもりて五十八。」

と呼ばはつて本陣さして引きあげた。

 友高は不覺によつて「命限りの働しやう。」と私に城門に寄せた。けれど城兵よく防いで入ることが出來ない。淸氏にはかに百騎を以て突進して急をついたれば、友高は支へることも出來す引退いた。

 季武は後の丘から見てゐたが、「味方の耻辱これに若くまい。」と搦手の木戶に攻め入り、進みくる先登を鎗で突き崩し、本丸へ乘り込む。淸氏必死となつて戰つたが叶はない。そこで「再擧を計らう。」と思つて城に火を放つて燃えたつ煙にまぎれ、十八人の股肱とたのむ家來をつれて前田山《まいたやま》の方へ落ちて行く。季武一騎之を追ひ驅けて前田山の麓に到り、

 「夫に落行くは權之左衞門と見しはひが目か、卑怯にも敵に後を見する。かく申すは駿河守季武なり。」

と呼ばはつて之を追いつめ、馬の脚をはらつて淸氏と戰ひ、遂に其首を切つた。

 淸氏の從士二人、之を見引きかへして季武に打つてかがる。季武むかひ戰つて三人諸共谷間にころび落つた。此有樣を見てゐた友高は、功名が季武にのみ向つていくのを無念に思ひ、密に近よつて切られてあつた淸氏の首を拾ひとり、逃げて行つてしまつた。

 季武は二人の從士を討つて谷間から上つて來てみれば、あはれ淸氏の骸ばかりで首がない。「さては盜まれたか。」と殘念至極と無つたけれど仕方はない。そこで骸のそばにあつた赤き馬簾と金の瓢の指物とを持つて歸る。

 友高は淸氏の首と兼て用意しおいた赤き馬簾と金の瓢とを添へて大將の御前に供へた。賴信喜んで友高に恩賞として伊賀國を與へることにした。

 季武遲れて大將の御前に行き、しかじかかくかくと事の由を申し、赤き馬簾と金の瓢とを差出したが、第一の淸氏の首がないので信じられない。「さらば都に上つて糺問しやう。」との言葉ばかり。

 そこで賴信は兵をあつめて京へ凱旋した。後季武と友高との手柄爭につき裁斷を重ねても中中判らない。ここに淸氏の家來で兼て賴信方へ降參してゐた讃岐源太といふものがあつた。此者のいふには「淸氏の瓢には二つに割れば中に姓名をしたためてある。」と申上げた。「それでは。」と友高の持つたる金の瓢を割つて見たのに姓名がしるしてない。季武の持つたるのには「岡村權之左衞門平淸氏」としるしてあつた。長らくの裁判もこれで一決し、友高は礫刑にあひ粟田口にさらし首となり、季武は疑晴れて本領安堵となつて事は落着した。(岡村記、平淸氏一代記)


  岡村城は浦里村岡區字城及び新町に跨り、東西三町五十二間、南北三町十間に亘る。平城にて內郭は四圍に土堤を樂き、外郭之を巡る。外郭は四周に湟をめぐらし、東北西の三門址外には各三日月濠がある。城址中に古井七箇を存す。

  平淸氏は一に維茂の落胤とも傳へてゐる(千曲眞砂)又此戰の年月を天曆元年三月と傳へる(岡村記、平淸氏一代記)天曆元年は賴信も季武も共に未だ生れない前の年號である。强いて此傳説を正史にあてはめるならば、傳中の季武年つもりて五十八とあるを採つて一條天皇寬弘四年ともすべきである。そうすれば一に淸氏四十一歳で死し、且桓武天皇八代の孫といふ所と年代上には齟齬はない。(小縣郡史)



手塚太郞

 手塚太郞は源義仲の臣で鹽田莊手塚の里に據つて依田城の西備にあたつた。義仲が北陸へ攻め上らうと出陣する際、手塚太郞も其舘より出で此石橋の上にて馬を止めて軍神を祈つた。其時馬の蹄の跡が二つ石橋の上についた。これが手塚村の手塚太郞駒の足形の橋である。(里老、母)


  手塚太郞駒の足形の橋は現今西鹽田村新町區(舊手塚村)にあり、長四尺餘、幅三尺。手塚區には手塚太郞光盛の屋敷址(門址の外は四圍に石垣で造つた屏がある)及び光盛の開基なる應悲山光盛寺址もある。



萬壽姬

 信濃國手塚の里に源義仲の將、手塚太郞金刺《かなさしの》光盛といふ侍があつた。光盛の娘に唐絲の前といふ者があつて、十八歲の時鎌倉に召されて源賴朝に仕へた。

 壽永二年秋の頃、賴朝は義仲のふるまひを憤り之を攻めやうと謀つた。唐絲は事の由をこまごまと書き、「其父光盛に信濃越後二國を賜らば賴朝を無きものにしやう、就いては木曾重代の脇差を賜はれ。」といひ送つた。

 義仲は唐絲の請を許し、其謀の成るを望んだ。唐絲は之より賴朝を狙つてゐたが、藥風呂をたてた時、遂に風呂奉行土屋三郞に脇差を見付けられて訴へられた。賴朝は之をいぶかつて、唐絲を松が岡殿にあづけた。所が三郞は唐絲の室から義仲よりきた手紙を見付けた。之でもつて賴朝は唐絲を召してせめやうとした。松が岡殿は其禮を缺いたのを憤つて、召に應ぜしめないで、密に信濃へ送つた。武藏の六所で梶原景時に行きあつたれば、唐絲は捕はれて又鎌倉へ届けられた。松が岡殿は景時の無禮をとがめやうと憤つたから、賴朝は唐絲を裏の石の牢に入れてしまつた。

 手塚の里には六十に餘る祖母と十二になる娘の萬壽姬とがある。風の便りで此樣子を聞いた。萬壽は「鎌倉に上り幾年でも召使して之を探り、如何にもして母を援けやう。」と考へ、乳母の更級に打明けた。更級は其孝心に感じどこまでもお伴してとて其夜直樣出發した。

 明くれば萬壽が居ないので、跡を追うて見たら雨の宮で追ひついた。祖母は鎌倉行を思ひ止るやう泣きとめたが、遂に娘の決心を飜す詮もない。よつて五郞丸を添へて立ち別れた。ふかしの里を過ぎ淺間の煙に思ひをよせつゝ上野武藏を過ぎ三十二日目に鎌倉についた。翌日事の由を認めて五郞丸に持たせて國元へ歸らせた。

 其後萬壽はつてを得て鎌倉に奉公することになつた。二十日許悲んだり疑つたりして氣をもんだが、石の牢のありかも母の樣子も耳にすることができて、ひたすら時の至るを待つてゐた。三月二十日の鎌倉山の花觀の日となつた、御邸中總出で人一人もゐない。時こそよけれと夜忍んで萬壽は石の牢前で母に遇つた。夢かとばかり喜び志の程を申上げて、一夜を短いとかこつて立ち別れた。

 次の年正月二日賴朝祈念のしゝの間の疊の緣に六本の小松が生いた。阿部なかもちといふ博士を召して卜はせたら、

 「松は千歲の齡あれば君は千代をかさねて、六本の小松にて六千歲榮え行くためしである。之に依つて鶴が岡に相生の松が枝を移し、十二人の處女を求めて今樣をうたはせ、神德をことほぐがよからう。」と申述べだ。

 賴朝は之に從つて處女十一人まで選んだが、今一人選びだすに困りはてた。更級は時は此時と局へ行き、萬壽が今樣上手のことを申出した。とう/\萬壽は其選にはいつた。

 彌正月十五日、宮前の左には賴朝を始め大小名、右には大御所を始め大小名の奧方、果ては鎌倉の貴賤上下みち/\てゐる。さて今樣の舞は始まる。一番は手越の長者の娘せんじゆ、二番はきせつのかめづる、三番は遠江國ゆやが娘しじう、四番は武藏國入間川の白拍子ぼたん、五番は卽萬壽である。歳は十三の春、花の眞袖をかへし、朗かの聲で、

 「鎌倉は八つ七がうとうけ給はる。春はまづ咲く梅がやつ。扇の谷に住む人の心はいとゞしかるらん。秋は露おくさゞめが谷。いつみふるかや雪の下。萬年かはらぬ龜がへの谷。鶴のから聲うちかはし、由比の濱に立つ波は、いく島江の島つゞいたり。江の島のふくでんは、ふくじゆがひむりやうの、ほうじゆをいたき參られたり。君が代はさゞれ石の、嚴となりて苔のむすまで。高砂や相生の松、萬歳樂に御いのちをのぶ。東方朔の九千歲、うつゝらの八萬歲。ちやうみやうこじの一千歲、西王母の園の桃、三千年に一度花咲き、實のなると申せども、相生の松にしくこと候ふまじ。そも/\君は千代をかさねて、六千歲榮えさせ給ふべき、かほどめでたき御事に、相生の松がえ、福壽無量の喜を、君に捧げ申さん。」

と小松の枝をゆりかつき、みなしろの大前へ二三度、四五度まひかゝつたれば、賴朝も感極つて立つて出て萬壽と共にまひうたつた。

 かうして祭の式もめでたくすんだ、次の日賴朝は萬壽を召して

 「國はいづく親はたれ、引出物とらせやう。」といつたれば、萬壽は「此度名乘らずば時は又とあるまい。」と思ひ

 「生國は信濃、親は御裏の石の牢にある唐絲でございます、されば四歲で捨てられましたが、去年の春事の由をうけたまはり、あるにもあられずして母の命に代らうと此處まで參りました、此度の引出物には母の命に我身を取りかへ給はゞ幸と存じます。」

といふ。賴朝は聞いて驚いたが

 「何がさて此度の喜びには世の中に惜むものがあらうぞ。」

とて唐絲を石の牢より出させて、萬壽に下された。萬壽はひしと母に抱きつき、唐絲は我子にすがり嬉し泣きに泣きあうた。賴朝はじめ誰も/\「人の寶は子にまさるものはない。」と感じあつた。

 かくて賴朝は尚引出物をとらせやうとて、信濃國手塚の里一萬貫の所を下され、御臺樣よりは黃金一千兩、ふしのゆひゆた一千束を贈られ、大御所樣よりは砂金五百兩、みのゝじやうほん一千匹を與へられた。そして暇をとらせて親子諸共信濃國へ歸された。程なく手塚の里へつき、二年の歳月、祖母ひとりのわび住居、淚のひぬ時ない其ところへめでたく歸つたのである。一家一族孝の德、神靈の加護とて其子孫は長く繁昌してゐるといふことである。(唐絲草紙)


  光盛は諏訪の住人にて(長門本平家物語)諏訪下宮祝金刺盛澄の弟である(諏訪大明神繪詞)金刺姓にて手塚を氏とせるは義仲が依田城に起つた時手塚の地に據つのでもあらうか。又手塚里より一夜の里程に雨の宮里があり、かくて深しの里があつて淺間山の麓を過ぎたとするが、雨の宮深しの里は手塚より淺間山に至る間には無い。文飾に出た里名でもあるか。



西行の戾橋 (一)

 西行法師が佐久の布引觀音から別所の北向觀音に廻らうとして鹽田の原を過ぎ山田峠にかゝつた。原頭に四五歲ばかりの子供らが蕨を探つてゐた。法師たはむれて

 「子供らよわらび《・・・》をとりて手を燒くな。」

と言うた。すると忽ち子供は

 「法師さん檜笠《・・》きて頭《づ》を燒くな。」

と言うた。西行は何氣なしに通りこした。峠を下つて湯川が流れてゐる。此川に架けてある橋に片足を蹈みかけたが、ふと「此老法師がかの小童にすかさずやりこめられたとは仰も何事だ、かの小童は唯人《ただびと》ではあるまい、これから先の旅も按じられる。」と心に思ひ浮ぶと引き返して、遂に橋を渡らなかつた。これから此橋を西行の戾橋《もどりばし》といふのである。

 間もなく峠に引きかへして見れば最早さきの童子らの影も形も見えなかつた。「これは天狗の仕業ではないか。」と西行は戾つて來たのを喜んだ。(母、里老)


  此傳說と同趣のものが善光寺道名所圖會に飯繩原の事として記載せられてゐる。戾橋は其語を忌んで婚禮の節は此橋を渡るを避け隣村八木澤を迂囘したものである。



西行の戾橋(二)

 西行法師が山田峠に來て遊んでゐる兒童に向ひ、傍の畑に靑々と茂つてゐた麥を指し

 「これは何んだ。」

と言ふと、兒童はたちどころに

 「冬莖《くき》たちの夏枯草。」

と答へた。西行も流石に此名答にはびつくりし、其先が案じられて此橋まで來たが引き返した。(後の眺、信濃奇勝錄)



西行の跳ね糞

 西行法師が鹽田の原を通つた時大便がしたくなつた。萩をたわめて其上に用をたし、すむと直に飛び退いた、大便は萩にはねかへされて散り亂れた。

 「西行はいくせの旅もして見たが萩にはねぐそこれが初《はつ》なり。」

と一首よんだ。(里老、市川一義)


  こんな西行話は此外に龜の背中に大便して重荷背負つたりの歌をよんだり、夏裸體でゐた婦人に會つたらめんぱで陰部を隱したのを卽吟したなどがある。



小泉小太郞

 前山村鐵城山の頂に一寺があつた。此住寺のもとに每夜美しい女が通つた。眞夜中に、何處から來て何處へ去るとも知れない。住僧も長らく暮すうちにいぶかしく思ひ、或夜女の着物の裾に針をつけ絲を操り出してやつた。夜があけて見ると絲は戶の節孔からぬけて山の澤を下り產川《さんがは》の上流にある鞍淵《くらふち》の岩窟の中まで引いてゐた。

 見ると大蛇が蟠つて赤兒を產まうと苦しんでゐる樣子、住僧は驚いて逃げ歸つてしまつた。よつて其女は此淵の主《ぬし》で大蛇であることを知つた。大蛇はさされた針の黑がねの毒に弱はり、且己の姿も覺られたのを耻ぢ、宿した兒を鞍岩《くらいは》の上に產みおき、自分は此處で死んでしまつた。故に此川の名を產川《さんがは》といふのである。其後大雨が降つて洪水が漲つて山澤をひたし、大蛇の遺骨は川に流れて蛇骨石《じやこつせき》となり其流れ下に散らばつた。

 生れた兒は二里餘押し流されて小泉村の或老婆に救はれた。これが小泉の小太郞である。小太郞が十四五歳の頃であつたか、老婆が

 「吾家はさほど豐といふでもないが年頃の養育も一方ではない、今は一人前の大人となつた、婆のために少しは手助をしろ。」

といつた。小太郞は生れつき小兵であつたけれども、體は逞くて每日大食して何一つ仕事といふことを爲たことが無い、そこで小太郞は氣の毒に思ひ、一日出ていつて小泉山に薪取りをした。そして山にある限りの萩の木を根こぎにし盡し、力をこめて束ね、たつた二抱許の束にして夕方歸つてきた。そして

 「此束は結び繩を解かないで一本づつ拔きつつ焚きな、山ぢうの萩の束だからな。」

といつた、老婆は

 「よしよし。」

と答へたが、腹の中で一日仕事に何うして山ぢうの萩やなんか採れるもんか、こんな小束にまるかるものか。」とこばかにして小太郞の留守に結び繩を解いた。すると萩は忽ちはぜくりかへつて家一杯に廣がり煙出しを跳ねあげた。老婆は萩に押しつぶされて死んでしまつた。それより小泉山には萩が一本も生いてゐなくなつた、又小太郞の子孫は長く此地に住んでゐるが、橫腹に蛇の鱗《こけら》のあとがあるといつてゐる。(母、宮越文彌、村誌)


  里老は鐵城山の住僧は鎌倉時代の安然坊で此處に潜居してゐたのだともいつてゐる。蛇骨石は鑛物學上に曹達沸石と稱するもので、母岩なる富士集塊岩の分解して生じたる白色纖維狀をなす鑛石である。小泉山に萩がないと傳へてゐるが現今では見ることができる。



大湯

 湯口が大きいから大湯《おほゆ》といふが、昔矢を背負つた雉が來て浴したら、其傷が癒つたといふので一に雉子湯とも呼んでゐる。又北條重時の子義政が其采邑鹽田に閑居して鹽田陸奧守といつた、其義政が此處に浴室を構へて入浴したから北條湯ともいはれる。其後大炊《おほえ》御門大納言の入浴ありこれより大湯といはれる。(里老)


  大湯は別所村字大湯にあり、泉質は硫化水素泉、色澤は無色澄明、溫度は攝氏四十一度七分。



久我湯

 正安元年樵谷禪師が安樂寺を中興して此處に永住するや常に此湯に浴したから始は禪師湯と呼んでゐた。後久我《くが》大納言が浴室を改修して入浴したから久我湯と改めた。(里老)


  久我湯は別所村字院内にあり、泉質は硫化水素泉、色澤は無色澄明、溫度は攝氏四十六度五分。



玄齋湯

 七久里左衞門深草玄齋が此湯を始めて玄齋湯《げんさいゆ》とつけた。後上田城主松平伊賀守が入浴して長命湯と呼んだが舊の稱呼を改めるまでにはならなかつた。(里老)


  玄齋湯は別所村大湯にあり、泉質は硫化水素泉、色澤は無色澄明、溫度は攝氏三十九度七分。



石湯

 天然の石を穿つて槽としてあるから石湯《いしゆ》と呼ぶ。一に昔野飼の牛が岩上から谷にころび落ちて四脚をいためた、これを浴みさせたのによく癒つたから牛湯といつた、それが石湯となつたのだともいつてゐる。(里老)


  石湯は別所村字院內にあり、泉質は硫化水素泉、色澤は無色澄明、溫度は攝氏四十三度七分。


  

野倉の長者

 野倉《のぐら》村には昔長者が二人あつて、字穴平《あなたひら》に邸してゐたのが朝日長者で宇荒井《あらゐ》に邸してゐたのが夕日長者であつたと。(里老)


  穴平の遺址は長者畠とよび古器の破片が出る。荒井の遺址も長者畠とよんでゐる。明治二十六年三月十五日畠の持主の娘荒井かめのに北向觀世音の夢現があり、畠の立石の東方二間で地下一丈の處に寶があるとのお告であつた。父は之を聞いたが堀らせなかつた。後火災に遭つて家運も傾きたれば蠶を飼つて挽囘しやうと此畠に桑植をしたのに同二十八年一月立石の東方二間地下三尺の處に石の蓋があつた。之を放つと方孔錢が塊つて出た。其下には桶の底ばかり未朽ちずに殘つてゐた。錢は六十餘種類で二十九貫四百匁あつた。此畠尚古器破片の外布目瓦の破片が隨分出土する。娘は此靈驗を額に記して奉賽した。



舌喰池

 手塚村の舌喰《したくひ》池は昔池を築くに數土堤が崩れて水をたたえることが出來なかつた。そこで「籤をひいて當つた者を人柱として埋めやう。」といふことになつた。人柱に當つた人は自ら舌を嚙みきつて其犧牲になつて埋められた。それで舌喰池と呼ぶのである。其後大に改築して大きくなつたから今では大池と稱してゐる。(里老)


  舌喰池は東西百九十間、南北百五十四間三尺、周十町三間、池敷九町七段八畝十五歩。新築年月不明、元和八年元祿五年正德三年改修して現形となつた。



甲田池の河童

 十人《じうにん》村の甲田《こうだ》池に河童が住んでゐた。同村の齋藤文治が其馬を池の畔につないでおいた。暫くすると池の中より河童が出て來て馬のたづなをはづし、馬を池の中へ引張つてつれこみはじめた。

 馬は驚いて跳ね上り家に飛び歸り廐にはいつた。河童は頭の頂の水をこぼされたので力がぬけ引きづられ廐の隅にゐた。文治が來て見れば河童が頻にあやまる。そして

 「何かおふるまひのある時はきつと入用だけの膳椀をそろへて持つてくる程に許してくだされ」

とわびるから、文治はこれを許してやつた。

 其後おふるまひのある度にいつも其前の夜きつと庭に膳椀をそろへておいた。使つた後では又庭にそろへておくと夜の中に持ち歸つた。所が或時近所の人が一膳分だけそつとかくして殘を庭にならべておいた。河童は夜中に之を持ち歸つたがこれぎりあとは膳椀を貸してくれなかつた。(古平淸、北村耕司)


  甲田池は舊高田池とも書いた。東西百十三間、南北八十六間、周四百六間、池敷三町二段三畝二十八歩、新築年月不明、寬永十七年、享保九年增築して現形となつた。



舞田葦

 眞田樣が上田城主であつた頃、城內に茶の湯の座敷をお造りなされた。其天井を葦《よし》でこしらへたいといふので、藩中を探つて舞田《まいた》村の葦をご御覧になり大層お氣に入りになつた。

 それから舞田の葦を採り集め、二三本づつ並べて竹釘をさして細い板のやうにこしらへ、更にこれをいくつとなく竹釘でさしつないで廣い板のやうにし、遂に天井ができ上つた。

 これより舞田の葦はよそ村のものより今でも價が高いのである。(高橋萬之丞)



湯川の早稻田

 田澤溫泉の流れ尻に湯川の早稻田といふ所がある。明治維新前までは此處にて實のつた新米を領主に差上げるを例としてゐた。それは昔眞田侯の奧方が入浴された時、此田からとつた新米を差上げたら、「山間時ならぬに珍しき限である。」とて、

 「かる稻の田澤の里の出湯とてこれも實のりのしるしなりけり。」

とお詠み下されたのが起りである。(田澤溫泉記)



五加の御宮

 上田城主仙石越前守が一日鹽田平をお廻りになつた。昔より五加村の八幡宮へは騎馬ではいることがとめてあつた。けれど殿樣の勢で馬上にて乘り入り參拜された。暫したつと其馬が斃れてしまつた。殿樣は罪をわび償ひに木を千本植ゑて謝した。死んだ馬は宮の西方木の二三本あるところへ埋めた。それより西向きの宮を改めて東向きにした。(水野嘉四郞)


  五加の八幡社は治承年中に源義仲の臣鹽田高光が再建したと傳へてゐる。



保野の長者

 上田城主仙石越前守の治めてゐられた頃、鹽田組保野《ほや》村に原理兵衛といふ長者があつた。前山寺の本堂や御嶽堂《みたけだう》村の岩谷堂等を再建したことにより誰知らぬものはない。

 其屋敷は保野村の中央に場どり、庭園は湯川を挾み更に南方は上小島村の境に及び、橋を架け山を築き大したかかりであった。

 初め理兵衛は「某寺の無間の鐘を撞くと長者になる」と聞いて、旅に出で巡り行つたが、さて如何にして撞けばよいかが判らなくて歸宅した。妻此話をきき、

 「はてさて何たる事ぞ、かう撞けばよいのに。」

とて持つてゐた火箸で爐の鈎にかかつて湯の煮えたぎつてゐる湯釜の胴を撞いて見せた。火箸は湯釜の胴に突通り、引きぬくと共に其孔よりほどばしり出るは湯ではあらで金銀の溶液がかな蔓《つる》となつて流出した。いつまでたつても止まない。それ故中途で切りとつた。すると其處より血潮が出て止つた。これがそもそもの長者になる本であつたが、かな蔓を呼びだし之を切つた報いにより絕家した。(母)



送り犬

 鹽田に嫁にきた人が產月になつて、里方へ歸らうと舞田峠を日の暮れ方に通りかかつた。峠の半で產み腰がついて其儘そこで赤ん坊を產んでしまつた。困つて「誰れか通行人があればよい、言傳《ことづけ》してやりたい。」と思ひ續けてゐても誰一人とて通らない。

 夜が段段と更けてくると一疋二疋と送り犬が寄つて來て產婦を取り卷いた。

 「どうでこんなとこで產んで困つてゐるから己《おれ》を食ふなら食つてしまつてくれろ。」

と恐し悲しで運を天にまかせてゐた。

 送り犬は何疋といふ程集つて取り卷いてはゐるが少しもはむかはない、却つて狼などのより付かぬやうに見守つてくれるやうである。其中に一二疋どこかへ拔けていつた。

 產婦の里方は峠西の仁古田《にこだ》村であつた。送り犬二疋は里方の家をかぎ當てて、主の着物をくはいて引張る。主は引かれるままに行つたら娘が初產してゐた。然かも送り犬に取りかこまれて安全に。主は一緒に賴んできた人と共に產婦をつれ歸つた。そして送り犬に

 「どうか一緒について來てくれろ。」

といつて、家へつくと赤飯をこしらへて送り犬の一群にふるまつた。(母)


  送り犬とは狼の仲間であるが殘忍性をもたぬものである。送り犬に會つたら言葉をかけると食ひつかない。人が轉ぶと其體の上を飛び越える。其時言葉をかけると食ひつかないが、だまつてゐると食つてしまふといはれてゐる。



山犬退治

 下之郷で或日子供が山犬に追はれて逃げてきた。一人の百姓の子供だけが見えない

 「おれの子供はきつと食はれたに相違ねえ。」

と思ひ、手に布を卷きつけて山の方へ行つて探した。山宮のあたりで大きな口をあいて飛びかかる山犬に出會つた。百姓はいきなり布を卷いた手を山犬の口の中に突きこみ、嚙むことも逃げることもさせずに退治して子供のかたきをとつた。(工藤かん)



別所觀音靈驗(一)

 尾張國知多郡の市之助といふ人は弘化四年信濃善光寺の御開帳に參詣しやうと同行十六人で出かけた。道中にて市之助は夢枕に北向觀世音菩薩がたゝせられたので、ぜひ參詣しやうと決心し中途から同行と別れ、自分一人で別所へまはり觀音樣に參詣した。稲荷山宿で待合つて一同そろつて善光寺町につき藤屋に泊つた。丁度其晚五つ半時大地震で阿鼻叫喚の巷となつた。驚きと共に飛び出したのに同行同宿の者は一人も行方が知れなくなつた。たつた市之助一人のみ無難で其場をのがれることができた。不思議の思ひをなして懐中を見たれば北向山厄除觀世音の御守護があつた。これ偏に觀音の御利益と其由をしるして堂前に額をかがげて奉賽した。(弘化四年三月廿五日奉額)


  弘化四年三月二十四日亥刻の善光寺地震は、南は犀川流域山中地方より善光寺平を中心とし北は越後に至り、延長二十五里、幅は僅に三四里の間を震域としてゐる。屋舍の全潰二萬九千六百三十三戶、半潰一萬二千九百三十三戶。山崩四萬三千箇所 埋沒三百軒六百十人。震火のために死んだ者は善光寺に籠れる一千二十九名、土地の民人一千二百七十五名、これらに地方の壓死者を合せて八千五百三十五人、旅舍に投宿して燒死した者は三千乃至五千だといへば總計一萬二三千に達する。



別所觀音靈驗(二)

 武洲江戶神田永富町出物店よ組忠次といふ人は壯年の時材木で腰骨を打損じたので、爾來名醫良藥といはれる程のものはどれとなく手あてして見たが少しも効がなかつた。

 時に信州北向觀世音に祈願し、同所の溫泉に浴したらよからうと奬める人があつたから箱車にのり五月十五日といふに着いた。晝は溫泉に浴し夜は御堂に通夜して願がけしたのに二七日の夜に夢中に觀音を拜し病苦を救ひくれんとの御聲をきいた。ありがたさの餘り拜禮しやうとしたのに不思議にも體は自由になつた。覺めて後怪みながら御堂の垣にすがり立つてみたのに腰はらくに伸びて自在であつた。よつて其由をしるした額をかゝげて奉賽した。(弘化二年六月奉額)



別所觀音靈驗(三)

 筑摩郡木曾藪原在長尾村の磯右衞門といふ人は年來板割を渡世してゐた。嘉永五年上野國川浦山へ稼にいつてゐる中に何となく筋骨痛み腰膝立たず居ざりとなつてしまつた。諸人の助けで居ざり車をこしらひ諸所の神佛に拜禮したが祈願がとゞかず一生涯は茲に極つたと悲嘆にくれてゐた。時に或人が北向觀音に祈願してはと敎へてくれたので弟常吉に車をひかせ同七年九月二十八日別條なく參詣ができ、參籠して一心に祈願したところ何時とはなしに腰膝たちもとの體となつた。よつて其由を記した額をかゝげて奉賽した。(嘉永七年十月奉額)



別所觀音靈驗(四)

 和州吉野郡新子村の某は五歲の時からかんの病で、伊勢金比羅を始め諸國の神佛に心願をこめたが更に効があらはれない。これにより罪障消滅のため信州善光寺に參詣し其門前にて往生すれば思ひおくことはないとひたすら願つてゐた。すると或人に北向觀音の靈驗あらたかのことを説き聞かされたので此處に參詣し三七日の祈誓をかけて晝夜禮拜した。七日の夜夢に觀音の出現を見忽禮拜し奉つたと思つたのにはからず腰は自由になり、此世をはかなんだにうつてかはり再生の喜びをした。それで國元の親兄弟にも此由をしらせ奉賽のために額をあげた。(文久三年五月奉額)