小山真夫『小県郡民譚集』(昭和8 1933)

一、小縣郡に關するもの

1 依田窪地方に關するもの


牛石

 神代の昔、武石《たけし》の里、沖の平は一面に川邊に沿うた方には葭が生ひ、丘邊に據つた方には笹が茂つてゐた。ここに一柱の神樣があつて、此平を切り開かうと、牛に乘つて來られた。沖の入口の坂までお出でなされると、牛は精がつきて死んでしまつた。其牛が化して石となつた、これが卽牛石《うしいし》なのである。神樣はそれより燧をきり、其火を放つて此葭原笹原を燒きつくした。そして此沖の平を切り開き、五穀のとれるやうにして人民に下さつた、人民は其後神樣のお留りなされた小山の麓に宮を造り、笹燒《ささやき》明神とあがめてお祭り申すことにしたのである。(父)

  牛石は武石村沖區字鳥羽にある。其大さ長四尺五寸、高二尺四寸、厚一尺六寸、形は臥せる牛に似てゐる。もと腰越より沖に入る舊道の河段丘を上る坂路の中央にあつた、故に人は避けて皆此石の左右を通つた。此地に接して腰越區に字牛詰、東に離れて依田川に牛が淵の地名がある。牛石は古來靈石とし、牛馬に乘つて來るものも、此石の傍は下つて通つた。甞て武石山より出た鳥居材を曳いてきて、はしなくも牛石の尾部に突きつけ、石少しく缺けた、すると其缺口より白き乳汁が出たと傳へてゐる、又此石疫病を避け、流行病は牛石より上の村へは侵入しないといつてきた。此道が縣道となつた時牛石を堀出して、道の東側に据へたのに、偶くつむきが流行した、里人は牛石の祟りだとし、之を祭つた。これより例となり、土用の初丑の日を以て祭日として今に絶えない。



でえら坊

 依田《よだ》窪地方には、でえら坊傳説は三箇所にのこつてゐる。依田村御嶽堂區字岩谷堂に存するものは、東は依田川に沿ひ、西は岩谷堂の巌壁に接し、爪先といふものは北方に向いてゐる、今は桑畑となつてゐる。同村生田區尾野山組字一本木、及び字大平に存するものは、二箇とも原野の中にあつて、濕地で雑草が繁つてゐる。でえら坊が岩石土塊を背負つて来たが、縄が切れて土石が落ち堆積したものが御嶽堂區の城山《じようやま》で、其両足の跡のついたところが此処である。塩川村塩川區字太皷岩に存するものは、もとは大きかつたといふが、現在は径六尺ばかりの小池となつてゐる。略円形で芝地の中にあつて水草が生へてゐる。でえら坊が尾野山《をのやま》方面より来た時の足跡で、其折引掛け背負にして来た持籠の縄が切れ、土塊が落つて堆積したものが尾野山である。(里老)

  でえら坊は又でえらぼつち、でえらぼうし、だえらぶつち等とも呼ばれてゐる。古代に存在した巨人で、土塊を運びそこね、其こぼれたものが一種の山嶽又は丘陵となつた、其際附近に大きな足跡を留めたといふ話の筋である。そしてでえら坊の足跡傳説の遺存する所は、殆ど地質学上の第三紀水成岩層の地に限られ、穏かなる地殻の隆起につれて、諸所に生じたる窪地に伴つてゐるやうである。此巨人の傳説は神代の神様が国生み、即国土経営を物語るのではあるまいかといふ古老もある。



鬼石

 東内村の荻窪《おぎくぼ》には昔鬼が住んでゐたといつてゐる。道の傍に大きな鬼石とよばれてゐる立石があつた。鬼のゐた窪であるから鬼窪とよんだのである、それが後に荻窪とかはつたのであるといつてゐる。(萩原作造)

  大正六七年頃内村道改修の際、鬼石を取除いたら其下から大きな歯が三本みつかつて出た、其一本は凡八分に九分位の歯冠に長さ一寸三四分位で三本脚のものであつた、鬼の歯が出たと大さわぎであつた。



鹿敎湯《かけゆ》

 昔獵師があつて内村の奥で一頭の鹿を射た、鹿は矢に中つたけれど逃げていつて何處へ隱れたかわからなくなつた。 翌日獵師は再び山にはいり鹿の行くへをさがしてゐた。

 件の鹿は水たまりにはいり、傷をひたしてゐる。獵師は之をみるより又矢をつがひて射やうとしたのに、鹿は其創が全く癒えたのか忽ち跳ね上り逃れ去つてしまつた。

 獵師は怪しんで其水たまりに行つて檢べてみたら温泉であつた、其効能が大したものだと人々に話し傳へた、浴する者が誰もききめがあると喜んで、鹿の敎へてくれた湯だから鹿敎湯《かけゆ》と稱へるやうになつた。

 そして其鹿といふのは實は文珠菩薩の化身であつて、此靈湯のありかを廣く知らせやうとしての爲わざであつたと。この事が聞えると行基菩薩の弟子圓行が巡錫して此靈地に文珠堂を創建した、これが今の鹿敎湯の開けはじめである。(高梨新藏)

  日本傳説集所収のものと異つてゐる點に注意せられたい。鹿敎湯は一に文珠湯、又は那須湯ともいはれる。泉質は鹽類泉、色澤は無色透明、温度は攝氏四十度。



枝垂栗

 昔朝日山にはいり栗の樹の下で其實を採らうとしてゐる子供があつた。樹は高く大きく其なつてゐる枝には子供の手はとどかないし持つてゐる竿でも役にたたなかつた。丁度其時弘法大師が此邊をお通りになり、

 「不憫なものだ、永くお前らのために幸を與へてやらう。」

とおつしやつて、栗の樹の枝を撓めて子供の思ふ存分其實を採らせた。

 これより此地の栗の樹は皆枝がしだれてゐるのである。(里老)

  枝垂栗は西内村平井區朝日山字上の原を中心として四邊の山腹に自生してゐる。山麓より八町ばかり登れば見ることができる。現在十株餘の老樹があるが、高二三尺位で枝垂れてゐる幼樹も多く見られる。果實は小さく結ぶことが少い。大正八年八月三好博士偶然變化の一著例とし、同九年七月内務省より天然記念物の指定を受けた。



一柳三體觀音

 昔依田窪は山には林、野には草で人の住居はぽつりぽつりとあつたのみであつた。此窪の中に名だたる一本の柳の大木があつた、承和元年圓仁が巡つて來て、救世の本願のために此柳の木を切つて三體の觀世音菩薩を造つた。

 其柳樹の頭で作つたものは聖觀世音で腰越の鳥羽堂に安置して、龍頭山龍福寺と名づけた。其柳樹の胴で作つたものは聖觀世音で御嶽堂の岩谷堂に安置して、龍洞山寶藏寺と稱した。其柳樹の末で作つたものは千手觀世音で尾野山の觀音堂に安置して、龍尾山平等寺と呼んだ。それで之を一柳三體の觀世音といふのである。縁日は龍尾山は三月十六日、龍洞山は三月十七日、龍頭山は三月十八日である。(里老、齋藤金十郎)

  柳樹のあつたと傳へてゐる所は丸子町腰越區字柳切《やなぎり》である。同町腰越區龍頭山は信濃百番觀世音札所の信前二十八番の札所であつて、依田村御嶽堂區龍洞山は信前二十三番の札所である。同村尾野山區龍尾山は札所になつてゐない。



靈泉寺湯

 昔平井《ひらゐ》村の南に淨地と卜せられて寺がたてられた、金堂の西方にあたり温泉が湧きだした、和尚様が之を開いて浴室をこしらい、世の人にはいらせた。靈泉のききめは能く虚弱の體も金剛のやうに強くさせ、不治の病も雲霧のやうに散らせてしまつた。よりて寺號を金剛山靈泉寺とつけた。

 正和四年平繁長が此靈地に阿彌陀佛一體を安置し、住持雲峰源興が大に法を盛にしてから邊がひらけてだんだん村屋ができてきた。それで之を靈泉寺湯、又は靈泉温泉といふのである。(靈泉寺所傳)

  靈泉寺湯は泉質鹽類泉、色澤は無色透明、温度は攝氏三十七度。



天狗

 鹿敎湯の山奥は劔の刄をたてたやうな山でものすごい、或時保福寺の方の人が此山のあたりへはいり炭燒きをした。すると天狗様は其炭燒きをさらつて、天上高く引きあげて下へ落された、あはれ其人の體はみぢやんになつてしまつた。

 翌日村人が大勢みつけにいつて其死體を探しあてた、すると天狗様は

 「村人が炭を燒くのはよいが、他村《よそむら》から燒きにはいると此通りだぞ。」

といつた。(若林卓雄)



河童

 立科《たてしな》山の麓に赤沼池といふ池があつて、其附近に鈎引《かぎひき》石といふ大きな石がある。昔其石の上に一人の子供が出てゐて通行の人に向ひ、

 「おれと鈎引しろ。」

といふ。通行人も面白半分にお互の指と指とを鈎のやうに引かけて引つぱりくらをすると、忽子供は通行人を赤沼池に引張りこんで食つてしまう。それで殺された人は幾人という數知れない。遂に其子供といふは赤沼池の中に棲んでゐる河童だといふことになつた。

 「それはけしからん一つ退治してやらう。」と諏訪の立木某は殿様に願つて名馬を借り、此鈎引石のそばを通行した。案の通り子供がゐて「鈎引しろ。」といふから、馬上より「よし。」と答へて指と指とを組み合せるや否や、馬に鞭うつてまつしぐらに走つた。子供は引きづられて堪えかぬ、

 「申し申し、お許し下され、實のこと私は赤沼池の河童です、何とぞ命だけお助けなすつて、すれば骨つぎの秘傳をおさづけ申します、どうぞ。」

 「さらば其法を傳へろ。」

と精しく秘事をおそはつた。

 「人助けの接骨法の秘事を傳へたにより一命は助けてやる、しかし此處にゐて再び人を喰ひたいといふ慾心が起つてはいけないから今宵一夜のうちに立退け。」

といつた。すると其夜立退いて和田村夜の池に移つて今におとなしく住んでゐると。

 これが諏訪の整骨名醫河童相傳の立木家祖先の起りである。(宮原文之助)

  鄕土にては、河童を水中に住んでゐて、人を引きこんで其肛門をぬいて食つてゐる。そして頭の頂は凹んでゐて水がはいてゐる。其水がある間は極めて方が強く、水がこぼれると弱くなる。凹の周には毛がある。體は乳くさい赤坊位で、指は三本づゝである、などゝいつてゐる。



せんが淵

 おせんは百姓の娘だが憂世の風にもあてられずして大きくなつた。年盛りの頃或日飛魚の瀧に涼を求めにいつた、父は早くなくなり母の手一つで育つたおせんには此淸遊がどれ程心をすがしくしたか判らない。

 おせんは岩に腰かけ暫くじつと瀧壺をみてゐたが、うつらうつらと眠くなつた、まもなく美しい少年に「おせんさん。」と呼ばれたので、はつと驚いて目を開けばもう少年の姿は見えなかつた。

 それよりおせんは此美少年が戀しくなつて毎日同じ時刻に瀧にきて、夢現の中に此少年の恣を迎へるのである、けれど目を開けばゐないので果ては一室にこもつて物思ひに沈んでしまつた。

 母は娘の心を察し初戀を滿足させやうと遂に娘が意中の瀧の少年を見つけだし婚禮の式をあげさせた。然し姑と聟との間はうまく行かないので、かわい妻をのこして聟は家を出てしまつた。

 おせんはそれより又瀧壺に行つて夢にも夫にあはんものとながめてゐる、日は西の山に傾く、瀧壺に映つた夕日は又となく美しい、と見るうちに瀧壺には親しき夫の姿がありあり見えた。おせんは一圖に瀧に身を投げてしまつた。それより此處をせんが淵とよぶのである。(里老、赤羽三子義)

  飛魚の景は依田川水系中屈指の勝地である、往昔より其名著はれたるを以と詩歌に詠まれ畵圖に描かれてゐる。せんが淵は此境の一部である。



めつか新藏

 内村に新藏といふ人があつた、百姓では中々の利發者で腕きゝであつた。ところが病のために片目つぶれてしまつたから「目つか新藏」とあだ名されてゐた。年頃になり松本の殿様の御家老である野野山家では其評判をきいて、娘を新藏にくれるといふことになつた。

 彌祝儀の日となり新藏は聟入りにいき一同は家老の座敷へなほつた。利發で腕きゝであるとは耳にしてゐたが、見ればぶ男でおまけにかたはときてゐる。今が今祝儀の式のはじまる其折何がさてこゞともいへぬ、そこで聟の膳に箸をつけないで供へた。新藏は

 「給仕箸がおちてゐるぞ。」

と聲をかけたが、兼て示し合せてあるため給仕は何聞かぬ體でいそ/\と用を辨じてゐた。家老は「此なりゆきは。」と隣室にうかがつてゐる。

 やがて一同は椀に手をかけ箸をとつた、新藏は徐に自分の腰の物の小柄をぬき配膳の縁を惜しげもなくすうとそぎ立所に割箸をこしらつて使つた。此擧動と膽力とに見とれて舅となる家老野野山は「あつぱれの聟。」と心ひそかに喜んで、いさぎよく娘の結婚を祝つた。(父)



一心行者

 一心《いつしん》行者は武石村の人で信心家で親孝行の人であつた。はじめ小寺尾で行をしてゐたが後江戸へ行く中途立岩《たてや》村へよつた。村の一人が

 「貴公は行をしたといふがどんな業ができるか一つやつてみせてくれろ。」

といふので「それでは」とて、其人の掛けておいた着物に九字をかけた、すると不思議、着物はばら/\に切れてしまつた。

 江戸に上つて不忍池にて行をした、十月十三日の本門寺に法華信者が集つた、大にぎやかであつた、所が大雨が急にふりだし皆困つてゐた。すると行者は又九字を切つて雨をとまらせてしまつた、皆のものは感心してゐた。

 此事が江戸奉行の耳にはいると

 「其方は邪法を使ふか。」

 「否邪法は使ひませぬ、人べんを使ひます。」

と二三の問答の末、不動の金しばりといふ法力を以つて奉行をこらしめた。「許せ。」とのことで法力を解いた。奉行は「かゝる者がゐてはいけない。」といつて牢に入れた。

 それから行者は伊豆の三宅島へ流されることになつた。船に乘るとて橋の上まできた時行者は舌をかみ切つて飛びおりた。役人達は一生懸命で探したが遂にみつからなかつた。役人は行者の位牌を三年三月島流しにしておいた。

 ところが行者の靈は木曾の御嶽山にいつてゐた、それで其處に宮をたてゝまつつた、これが一心行者である。(橋本さだ)

  行者一心は武石村小寺尾の人、橋詰長兵衞光廣の長子、名は重五郎、明和八年生る、幼にして父を亡ひ母に養はれて成長した、長じて行者となり御嶽山に登り二十餘年もかゝつて其山路を修繕した、其間諸國に講社を結んで信徒を勸奨した、明治十六年二月一心菩薩の號を追諡せられ、鄕里にては宮をたて一心靈神として今に祀を絶たない。(武石沿革史)武石村ではこゝに揚げたやうな傳説はない。



しつこう加右衞門

 しつこう加右衞門は武石村の生れで力持ちの人であつた。藩侯が江戸米を上州松井田までつけて行く、碓氷峠のはんね石(※「はんね石」に傍点)といふ難所にて向より掛聲があつてもかまはずつけてゐた、此處は馬の蹄がするりと滑つて渡るところであるから掛聲があれば一方では避けてゐなくてはならぬ定めである、それ故向ふの馬方が大層おこつた、加右衞門は「申譯がねい。」といつて自分の馬の四脚を兩手でかつぎあげておこつた馬方を通してやつた。

 或時佐久郡芦田村の若い衆の力だめしの石を田の中へ投入れた、若い衆は加右衞門の歸途をまち構へてゐた、そして加右衞門を呼びとめ押問答が一つ二つはじまつた、すると加右衞門は本陣の門柱を持上げて其下に馬の手綱をはさんでおさへさせ、上州よりつけて來た靑竹を片手でこいてぴし/\とつぶし之を以て鉢巻をして、「さあこい。」といつてかゝつた、若い衆は蜘蛛の子のやうに逃げてしまつた。

 又或時腰越村までくると餅をつく音がした。元來すきなので其家の前で動けなくなつた。

 「どうしたのでごはす。」

 「おりや餅がすきで搗く音を聞いたら動けなくなつちまつた。」

 「それはお氣の毒、一つたべてお出でなさんし。」 「そりや御馳走《ごつつお》でごはす。おじんぎなしよばれていきやす。」

と、とう/\一臼の餅をぺろりと食べてしまつた。其後

 「いつかの御禮でごはす、ほぞく時氣づいておくんなさんし。」

と薪《ばや》一たば馬につけてきてやつた。餅をふるまつた家では之をもらつて見ると靑竹でしばつてあつた、ほどいて普通のたばにしたら九たばになつた。(瀧澤喜三郎、伏見富治、小山よの)



鬼杢兵衞

 杢兵衞は武石村の人で强力であつたから「鬼杢兵衞」とあだ名されたのである。小澤根村瀧澤家の石橋は長四尺餘幅三尺餘の一枚石であるが、杢兵衞は之を見つけて一人で背負つて來て架けた、石と背との間には草を挾んで背負つたが其草ばかりでも六束あつた。(伏見富治)

  武石村では强力を稱するにはいつでも「しつこう加右衞門に鬼杢兵衞」といつてゐる。然し在世年代は知れない。