下之郷明神から生島足島神社へ

生島足島神社の参道と社号争いの話(『上田市史 上巻』(昭和15 1940) 130頁 133頁 より)

(※東参道 享保4年 1719年)
(※社号争い 寛政11年 1799年、文化6年 1809年、天保4年 1833年)


東參道

 此社の參道は、西の方に開いて居たが、領主松平忠周の時、享保四年社中殘らず修造を加へ、同時に東方にも參道を開き、其參道にも大鳥居を建て、東西鳥居前に、左の禁制札を立てた。

    禁制
 一 不淨之者入事
 一 牛馬率入事
 一 狼藉之事
 一 喧嘩口論之事
 一 社木猥枝折事
 右之條々於相背者可爲曲事者也
    享保四亥年九月  郡奉行山本市右衛門

 現時に於ては、參詣者の多くが、古は西參道のみで、後世に至て東參道が開通した事を知らない人が尠くない。


生島足島の神社號

 此社の重大儀たる、御遷り神事に據り、上宮を生島足島二神の社殿、下宮を諏訪神の社殿と爲すこと、穩當なるべしと思ふ。此社は、藩政時代の寛政以前の頃は、唯下之郷明神とのみ呼んで居たのであるが、寛政十一年正月十九日、京都吉田家より、生島足島神社の舊號に復する許可を得て、茲に生島足島神社と稱する事となつた。此時の上田原町問屋日記に

 一、下之郷明神生島足島之神社に相成り、信州二ノ宮小縣惣社と唱へ神事有之由に候事

とあれば、此時には、信州二ノ宮で、小縣總社と云ふたのである。


神社號の異議

 此神社號に就ては、常田村 今上田市内 大宮神主、川上對馬の故障申立てありしも、寛政十一年、下之郷明神は、生島足島神と認められた。後文化六年再び川上對馬、神社號に就て異議を唱へ、京都表に於て、下之郷神主工藤近江と論爭の末、譯《ワケ》(分)社號と爲す事となり、常田大宮を生國大明神と稱するに協定したが、近江歸村の後、村人社人悉く之に反對し、譯社號を承認せず大騒となつた。依て近江は出奔し、譯社號の件は中止と成つた。此後天保四年三たび社號の儀に就き、常田大宮神主川上將監が爭ふことがあつたが、下之郷生島足島神社の社號は、依然變ることは、無かつたのである。(生島足島神社史料)