≪01≫  いかにもガンジーらしい自伝である。こういう自伝はめったにない。ガンジー以外にこういう自伝は書けないといえば、何を当たり前のことを言っているのかとおもうだろうが、どうしてもそのように言いたくなるものがある。

≪02≫  理由ははっきりしている。この自伝にはガンジーがもっと遠慮なく自慢してもいいだろうことや、われわれが誇りたくなるようなガンジーのことがいっさい触れられていないのである。たとえば、世界中を驚かせ、感動させ、インドの民衆にとっても忘れられない誇りとなった1930年3月の「塩の行進」については、1行も触れられていない。

≪03≫  のみならず、反英独立運動の再三にわたる歴史的な高揚についても、まったく触れられてはいない。わかりやすくいえば、アカデミー賞をとったリチャード・アッテンボローの映画『ガンジー』で描かれたあのガンジーの、まさにガンジーらしい想像を絶する勇気と異様な忍耐と民衆の共感によるすばらしい高揚は、この自伝では綴られてないわけなのだ。ようするに、ガンジーが自分で政治的な活動だとみなしているすべての活動とその活動に関する感想が、省かれてしまっているのである。

≪04≫  この自伝が伝記のガンジーや映画のガンジーを彷彿させないようになった第1の大きな理由のひとつは、この自伝が1920年の全インド国民会議派のナグブル年次総会の記述で打ち切られていることにある。これでは当然のことながら、その後の反英運動や「塩の行進」や独立のための苦闘は入らない。

≪05≫  しかし、これはガンジー自身がここで確固たる自覚のもとにあえて打ち切ったためでもあった。書こうとおもえばいくらも書けた。ところがそうしなかった。ガンジー自身がこのあと突入していく政治の季節の叙述を拒否したともいえるわけなのだ。そして、そのように自伝の主旨をも頑固に貫いたところに、やはりただならないガンジーがいる。

≪06≫  しかし、もうひとつ、第2の理由もある。それは、ガンジーが自伝という様式に疑問をもっていたということだ。

≪07≫  だいたいアジアには自伝を書く習慣がない。自伝というのはヨーロッパ人の奇妙な習慣であり、ヨーロッパにおける個人の強調なのである。自伝を書くアジア人はたいていはヨーロッパの学校教育を受けているか、ヨーロッパでの生活が長かった者ばかりであることが多い。周囲から自伝の執筆を頼まれたとき、ガンジーはこのことについて悩む。

≪08≫  けれども周囲の希望は熱心だった。誰もがガンジーの生い立ちやイギリスでの日々やインド回帰のことを知りたがっていた。寡黙なガンジーはそういうことを周囲にめったに洩らさない。そうでなくとも、毎週月曜日を「沈黙の日」にして、筆談でしかコミュニケーションをしなかった人なのだ。

≪09≫  ともかくもガンジーはアジアの伝統を曲げて自伝を書くことにする。そのかわり、この自伝を「真実のための実験」の記録だけにしぼることを決意するのである。それも最初は刑務所に投獄されたときに限ろうとした。これがガンジーの自伝が珍しいものになっている第2の理由にあたっている。

≪010≫  ガンジーの「真実のための実験」とは、ガンジーが「ここ30年間なしとげようと努力し、切望してきたこと」と書いていることだが、それは「自己の完成、神にまみえること、人間解脱に達すること」である。

≪05≫  しかし、これはガンジー自身がここで確固たる自覚のもとにあえて打ち切ったためでもあった。書こうとおもえばいくらも書けた。ところがそうしなかった。ガンジー自身がこのあと突入していく政治の季節の叙述を拒否したともいえるわけなのだ。そして、そのように自伝の主旨をも頑固に貫いたところに、やはりただならないガンジーがいる。

≪012≫  のちにタゴールが記者に語ったことがある。「ガンジーは私よりはるかに偉大な人間だ」と。記者は「どうしてそんなふうに思われるのか」と聞いた。タゴールが答えた、「ガンジーは自分自身に完全に誠実に生きた。それゆえに神に対しても誠実であり、すべての人々に対しても誠実だった」と。タゴールはさらに加えて、「ガンジーは勇気と犠牲の化身である」と結んだ。この言葉はガンジーと親しかったタゴールの言葉として、ガンジーの本質をぴったり言い当てている。「真実をわたしの実験の対象として」という副題はガンジーにしかつけられない副題なのである。

≪013≫ 参考¶ガンジー自伝ではガンジーの生涯はわからない。そこでいろいろの伝記や評伝を補うことになるが、最もガンジーを彷彿とさせるのはクリシュナ・クリパラーニの『ガンディーの生涯』上下(レグルス文庫)であろうか。クリパラーニの著作は同じ文庫に『タゴールの生涯』も入っている。

『博徒と自由民権』①

≪01≫  名古屋事件を詳細に再現した一書。目を洗われた。 渡世無頼の徒である博徒たちが江戸後期より徒党を組むことはよく知られているが、その徒党が明治の自由民権運動の徒党と結びつく。あるいは熾烈な抗争をおこす。まるで政府も自由民権側も博徒の取り合いなのである。 

≪02≫  名古屋事件は明治17年におこっている。この年は群馬事件・加波山事件・秩父事件などの、いわゆる自由民権運動の激化事件が東日本各地で連続的に勃発した年で、それと連動するかのように名古屋事件がおこった。自由党員が計画し実行に移したもので、政府を転覆して自由民権派の政権を樹立することが目的だった。 

≪03≫  ところが、その運動資金(つまり革命資金)はことごとく強盗によって調達されていた。強盗は数十回にわたっている。 

『博徒と自由民権』

≪04≫  名古屋事件は押し込み強盗のとき警邏中の巡査2名に出会ってこれを惨殺してしまったことからあかるみに出たのだが、その犯人がよくわからない。 

≪05≫  のちにいろいろ調べてみると、その犯人の背景に「集義隊」「正気隊」「精鋭隊」「草薙隊」「愛知隊」といった自主的な草莽隊の名前が浮かび上がってきた。これらは戊辰戦争のときに尾張藩が結成した民兵組織なのである。 

≪06≫  どうも事情は複雑なようだ。そこで著者は当時の文書記録を片っ端から点検して、そこに東海遊侠伝に連なる博徒たちのその後の動向を汲み上げ、さらに自由民権派の動向と政府自治体側の計画を重ねていった。 

『博徒と自由民権』

≪07≫  こうしてひとつの異様な結社がかたちをあらわしてくる。「愛国交親社」である。 

≪08≫  そもそも自由民権結社というものは開明的な士族や豪商や農民層を中心に盛り上がってつくられてきた。それを引っ張っていったのが愛国社と自由党である。実際にも愛知では、明治11年に民権運動の連合体である愛国社に羈立社や三河交親社が参加して、多くの民衆層が熱気をもって参集しはじめていた。 

≪09≫  しかし、その2年後に設立された愛国交親社は自作農民と小作農民を糾合しているばかりでなく、多くの博徒が入っている。それにその活動は剣劇会や野仕合などとよばれる出会いの場で拡張するようになっている。中心人物は内藤魯一。 

≪010≫  そこへ板垣退助が東海愛知美濃に遊説にきて、岐阜で暴漢に刺されるという事件が勃発した。暴漢をすぐさま取り押さえたのは内藤魯一であった。板垣総理襲撃事件はこれでとりあえず収まったのだが、刺客が誰だったかということがあとで問題になる。そしてやっとわかってきたのが、刺客は知多郡の小学校教員であったこと、父親が熱田神宮の神官であること、そして愛国交親社の社員らしいということだった。 

≪011≫  さあ、こうなると事情がどこかで絡まっているだろうことは確実である。刺客は愛国交親社の社員ではなかったのだが、その背後には何か渦巻くものがある。 

≪012≫  名古屋事件はこのような複雑な事情の上で発覚したものだった。度重なる押し込み強盗の実行者たちは、一方では警察の博徒大刈込みにひっかかる無頼の連中でありながら、他方では、その主要メンバーが次々に愛知自由党にも組み込まれてもいった草莽の連中でもあったのだ。 

≪013≫  実際の名古屋事件は大きな騒動にはなってはいない。しかしながら、ここにはどうも自由民権運動というものの得体の知れない謎が隠れていた。 

『博徒と自由民権』

≪014≫  正直に告白すると、ぼくは自由民権運動を捉えきれないままに明治を学んできた者である。 

≪015≫  明治という国家は何をもってスタートしたかというと、五カ条の御誓文や富国強兵・殖産興業は謳い文句であって、実際には安政5年以来の不平等条約の撤廃を悲願として生まれた。文久3年以降、横浜にはイギリスとフランスの軍隊がずっと駐屯し、明治4年にはアメリカが長崎を基地として朝鮮の江華島攻撃をした。関税自主権を奪われた日本は保護関税政策をとることもできず、外国商人の略奪まがいの貿易に手をこまねくしかない状態だった。浮世絵や根付や茶道具が海外に次々に流出していったのも、もとはといえばこういう原因にもとづいている。 

≪016≫  自由民権運動も国会開設・地租軽減とともに、この不平等条約の撤廃を謳って始まった運動である。その指導者は不平士族や豪商やジャーナリストたちであったが、その主力部隊となったのは地租軽減を望む農民だった。農民は政策の改善を希求する。 

≪017≫  しかし政策を進行する明治政府はすっかり薩長土肥に握られていて、長州が大蔵・工部・陸軍・教部を、薩摩が宮内・海軍・開拓使を、司法・外務・支部各省を土肥の出身者が占めた。おまけに旧藩閥の勢力は官僚の対立にあらわれ、たとえば山県有朋・井上馨と江藤新平の対立は大蔵と司法の対立でもあった。それはまた地方に飛び火して、京都府庁(長州派)と京都府裁判所(江藤派)の対立になった。 

『博徒と自由民権』

≪018≫  こういう状況のなか、明治6年に農民による一揆が全国で連発していった。西郷隆盛は「内乱をこいねがう心を外に移し、国を興すの遠略」として征韓論を主張する。 

≪019≫  板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣はこれに同調したものの、井上馨・大隈重信は猛烈に反対し、かつての洋行派の岩倉具視・伊藤博文らと、そのとき洋行していた木戸孝允・大久保利通らはこの対立を避け、のちに政権の中央に座ることになる。これが明治6年の政変といわれるもので、これ以降は大久保政権が日本の国家づくりを牛耳っていく。 

≪020≫  これらの状況下、三つの重要な動きがおこる。第1には西郷が下野してさっさと鹿児島に帰ってしまったこと、第2に福沢諭吉・西周・森有礼らによって明六社が結成されたこと、そして第3が明治7年に胎動を始めた自由民権運動である。 

≪021≫  板垣・後藤・江藤・副島が「民選議院設立建白書」を提出し、愛国公党を組織した。大久保指導の日本を「有司専制」として痛烈に批判したわけである。  

≪022≫  これはヨーロッパならまさにブルジョア市民革命宣言にあたる内容であるのだが、不幸にして日本の農民や商工民はブルジョアというほどの力をもっていなかった。自由民権は「有司vs自由」という構造のまま広がっていく。 

≪023≫  ところが広がってみると、民権というものは近代国家のイデアであるので、このイデアを握ろうとして「上流の民権」と「下流の民権」が分かれた。長州の陸軍少将鳥尾小弥太などは「下流の民権」は明治国家の一大不幸をもたらすと喧伝しつづけた。 

『博徒と自由民権』

≪024≫  かくして自由民権運動は、その当初の当初から複雑な様相を帯びるのだが、廃藩置県に伴う地方行政の改革も事態をややこしくさせた。しばしば三新法体制といわれる。 

≪025≫  府県・郡区・町村の行政リーダーを決める法で、これによって郡長や区戸長が台頭し、多様な意味で全国の地域が騒がしくなっていく。明治10年に立志社の建白運動がはじまったのはそういうときなのである。そこへ大事件がかぶさってきた。日本最後の内乱というべき西南戦争である。  

≪026≫  このとき民権派は西南戦争への参加・不参加を踏み絵としてうねりを大きくしていったものだから、またまた事情が多面的になってきた。立志社がヨコの組織として結成した土佐国州会など、西南戦争賛成者を切る方針を採らざるをえなくなっている。 

≪027≫  そこで民権運動はいよいよ原点を確かめる必要が出てきて、愛国社の再興というかたちをとって全国大会を開き、そこから国会開設請願運動というわかりやすい目標を掲げていくことになる。 

≪028≫  チャンスもあった。大久保利通が暗殺されて政府の指導力が失われてきたこと、西南戦争によってインフレと不景気がひろがり、財政破綻が重大問題になってきたことである。その財政政策をめぐって大隈・寺島と山県・伊藤が対立し、ときならぬ混乱を招いたのもチャンスだった。結局は大隈が下野するこの事態は「明治14年の政変」とよばれているものだが、民権運動はここを先途と驀進していくしかなくなった。自由党が創立されるのはこの瞬間である。 

『博徒と自由民権』⑦

≪029≫  こうして、冒頭にのべた自由民権運動は激化事件とよばれる過激な動きの連打になっていく。これらは担い手がこみいっていて、かつ、いずれの激化事件もどこか一揆型あるいはクーデター型の要素を孕んでいた。 

≪030≫  激化事件は明治15年11月の福島県令三島通庸暗殺を図った福島事件を皮切りに、関東一円の困民党結成をあいだにはさんで、明治17年の群馬事件・加波山事件・秩父事件・飯田事件、そして名古屋事件となって、さらに翌年の大阪事件・静岡事件と続いていく。しかしこれが結局は民権運動の四分五裂と終息をもたらした。このような事態を恐れて後藤象二郎ははやくから「大同団結」を呼びかけていたが、これはまた空語のごとく雲散霧消する。  

≪031≫  こういうわけで、どうも自由民権運動というものは一筋縄では理解できないものに満ちている。博徒がかかわったことは、その一部の結縄で、そのほかにもたくさんの縄が飛び交った。 

≪032≫  かつてぼくは、色川大吉の案内で民権運動の経過と背景に入っていったのだが、そのとき掴めなかった”何か”がいまなお響いているようで、まだ困っている状態なのである。しかしふとおもうことは、この困った感覚こそが民権運動の”何か”の鍵を握っているのかもしれないということである。 

「思想史の相貌」①

≪01≫  この人とは会ったことはないが、「朝までテレビ」などで見ていて、なんとか「本物」の発言をしようとしているのだなということは、よく伝わっていた。 

≪02≫  それに、この人は思想に対して「正直」だ。どういうことかというと、知たり顔、わがもの顔をしないということで、世間の思想や歴史の思想というものを、いつ、どのように自分が入手したかということを、そのシチュエーションをふくめてちゃんと言明できる言葉の能力をもっている。正直などという言葉は思想者にはふさわしくないかもしれないものの、ぼくはたいせつにしている。 

≪03≫  西部自身はこう書いている。「思想とは、物事を区分けし、そして道を立てつつ、言葉による表現活動としての人間の生に形を与えようとする営みのことである」。 

「思想史の相貌」②

≪04≫  本書は明治から現代におよぶ13人の思想家をとりあげて、これに論評を加えた。 13人は、明治の福沢諭吉・夏目漱石、大正昭和の吉野作造・北一輝・川合栄治郎・和辻哲郎ときて、ここで伊藤博文と吉田茂という二人政治家が入り、ついで昭和も戦後にかかって坂口安吾・竹内好・吉本隆明の3人をつづけ、最後に小林秀雄を、そしていささか長めの議論を展開してドンジリで福田恆存をじっくり示すという、そういう結構をとっている。 

≪05≫  本書が西部の書いたもののなかで、どれくらい成果の高いものかは、まだこの人のものを2、3冊しか読んでいないので、知らない。 

≪06≫  それは知らないが、ぼくが読んだかぎりは、本書の原型が「ビッグマン」というマイナーなビジネス誌の連載で、一回ずつの枚数を制限されているなかで書きついだものだという事情を勘定にいれると、かなり高質なものになっているとおもわれる。  

≪07≫  西部が保守思想を堅固に標榜していることは、つとに知られている。 この人は「戦後日本が“平和と民主”という仮面をかぶることによって、あの戦争から眼を背け」、「日本が自己固有性を見失ってしまったこと」が、がまんならない。そして、いまや「思想なるものが瀕死に達していること」を嘆きつつも、あえて思想の本来を少しずつでも回復させたいとおもっている。 そのためには、いま思想界を覆う「ヒューマニズムの錯誤」を払いたい。そういう立場を決然と表明している人である。 

≪08≫  むろん、そういうことに気がついたのは、この人ばかりではない。すでに多くの思想者が新たな地平をひらくために、試みの言葉を放ってきた。そこで、明治以降、そうした試みに挑んだかとおぼしい13人をとりだし、その言説に論評を加え、これからの日本の思想史がどのような相貌をもつべきか、そこをかれらの長所と短所とともに綴ってみようとした。そこが本書の基本的な狙いになっている。 

「思想史の相貌」③

≪09≫  福沢諭吉については、福沢が「書生の熱狂」を嫌って「一身独立」と「人間交際」を主張したことを評価する一方、あまりに実学と数理を重視して「便利の思想」に走ったことに限界を見る。また、それが福沢の「やせがまん」の出処進退を決しているとも読む。  

≪010≫  漱石からは、「二重性の哲学」と「エゴから離れた自己本位」を導いて、今日の日本に欠けているのがハイデガーのいわゆるゾルゲ(生の憂慮)にもとづいた悲観的楽観、すなわち「ニヒリスティック・ヒロイズム」の一種かもしれないと告げる。 

≪011≫  ついで、吉野の民本主義は「死者の民主主義」にすぎないのではないか、川合には「権力に対する鈍感」があるのではないか、和辻の堕落は「全体意志」をもちだしたところではないか、という指摘がつづく。 

≪012≫  伊藤博文論は国体論批判と不磨大典批判に、吉田茂論は戦後現実主義批判と社民主義に妥協したことに対する批判に、それぞれ焦点をあてている。とくに吉田が「平和と民主」とアメリカ迎合の政治によって民主主義の堕落した形態としての衆愚政治をよびこんだことに、手きびしく文句をつける。 

「思想史の相貌」

≪013≫  西洋が西洋史の矛盾に気がつき、いよいよ虚無を抱きはじめたとき、日本は近代化をむかえて西洋の表面的模倣に走ることになった。 

≪014≫  西洋は自身の矛盾に気がついて、やっと階級意識(マルクス)を、ルサンチマン(ニーチェ)を、そしてリビドー(フロイト)を、人間の歴史の奥に発見しようとしていた。が、日本はそんなことにはおかまいなしに、近代化を突っ走り、無謀な戦争に走った。 

≪015≫  これではろくな日本はつくれない。表層だけが西洋になるばかりで、かれらの苦悩とは無縁のままの西洋主義になる。 それでも唯一、日本がそのような表層をとっぱらって自身の内面に向きあう機会はあったはずである。それが敗戦直後の状況である。坂口安吾はその機会をとらえて『堕落論』を書いた。 

≪016≫  その坂口を西部は認めようとする。日本が日本になるために正しく堕ちるべきだと主張した坂口を継承しようとする。「自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」。 

「思想史の相貌」

≪017≫  一方、竹内好は日本が自己をとりもどすために、アジア人であることを勧めたのだが、それは西部の心を動かさない。 同様に、吉本隆明は日本人がもつべき「世界認識」を問題にしながら、どこかで「大衆のイメージ」に問題をすりかえてしまった。小林秀雄は多くの問題に気がついていながらも、その大半を審美主義にもちこんだ。これではダメなのだ。西部はそのように3人の戦後に突出した思想者を眺めた。  

≪018≫  福田恆存には醒めきった「精神の型」がある。それをこの人は「保守思想の神髄」とよぶ。 もともと福田が闘いつづけたのは“戦後の風潮”というものだった。バカバカしい戦争のあとにやってきた、もっとバカバカしい時代を、福田は一貫して冷たくあしらった。そういう福田を小林は「良心をもった鳥のような人だ」といい、坂口は「あの野郎一人だ、批評が生き方だという人は」といった。 

≪019≫  西部も福田のそうした「精神の型」に敬服している。そして、「ヨーロッパの韻にあはせた日本的ミニアチュア」と「近代精神の外装である自我主義」を福田とともに壊したいと考えている。 

≪020≫  本書の全体の叙述が、そのような福田の計画、すなわち保守計画をうまく引きついだのかどうかは、わからない。ちょっと急ぎすぎているようにも見える。 

≪021≫  が、20年前なら、おそらくたいして関心をもてなかったであろうこの人の論法に、ぼくはいまなら傾聴すべきものがあるようにおもわれて、ついつい本書を精読してしまったのである。 

≪022≫  最後に一言。本書は戦後日本が犯した「ヒューマニズムの錯誤」を告発する一書。 

補足:西部邁著『大衆への反逆』ーー反進歩への旅ーー

反進歩への旅

p304  さて自由こそが現代において保守するべき最高の伝統であるとするこの思潮は、うまく帳尻が合うでしょうか。この200年間自由によって新しい技術新しい組織そして新しい価値が帯正しく生み出されました。自由とはこうした変化を自発的に選択することに他なりません。ところが当店シュンペーターには創造的破壊と見えたこの過程は、今や、破壊的創造の様相をあらわにしつつあります。巨大組織による情報と資源の集積は、法のもとにおける平等という前提をどんどん形骸化します。連続的に召集される変化は、個人の予測し得ぬ将来の危険を弥増して行きます。 人々は平等の実質かと危険の回避を求めて集権的機構の参加にわれがちに避難して行きます。 福祉社会において我々が現認しているのはこうした逃走者の群れなのではないでしょうか。

 しかし、この場合、逃げていく彼らを弱い人間と罵るのは全く不適当です。これこそが自由の帰結だからです。個人的に収集解析できる情報や個人的に処理できる技術的社会的の諸条件が故人を揺さぶった結果、個人はそれこそ自由に右往左往し、 その挙句、分析的機構をもたらす不安定性を少しでも軽減してくれと、これまた自由意志に基づいて中央政府に頼み込んだまでのことなのです。自由への道は右へ左へと曲折しているうちに、反対方向にあったはずの隷従への道といつのまにか合体していたというわけです。ここに至ってもなお自由の衝迫に突き動かされる者は、自由と安定が両立し得た古き良き時代への Nostalgia に浸ったり、自由のもたらす不安定を法と秩序の権力的活動によって押え込もうとしたりするのでしょう。 ・・・ついでに触れておくと、法と秩序の破壊の果てにユートピアを建設しようとする急進主義は、人間の不完全性という大前提によって、その不毛さがあらかじめ宣告されています。

 新自由主義という現代では最も首尾一貫した経済哲学は、社会主義やケインズ主義に対する批判としては多々有益な示唆を与えてくれるのですが、自由が自らの反対物を生み落とすという皮肉なダイナミズムを過小に見積もっていると言わざるを得ません。法の支配という精神が効果を発揮するのは、頬の効力の及ぶ範囲と強度とが各人にとって明瞭であるような状態においてでしょう。つまり、社会の技術や価値や制度やが大して変化しない静態あるいは定常の状態です。ところで、不確実性の極小化されている定常状態にあっては、自由の問題を持ち出すことの意味もまた極小化されるでしょう。なぜなら、自由とは不確実な未来へ向けてなされる危険な自己投企のことに他ならないだろうからです。

 保守主義が未来を想像することに関して極力慎重であったのと比べると、ケインズ主義と新自由主義は、計画者の自由と個人の自由という差こそあれ、極力大胆に未来に挑戦しようとしているのです。もちろん二通りの大胆さの間には深刻な葛藤が絶えません。新自由主義者の方は、中央計画者が書庫神にまつわる細かな情報を知り得るはずはないとして、論的の知的傲慢に非を鳴らし、他方ケインズ主義者の方は、個々人の自由な最適化行動が必ずしも全体としての最適化を帰結するとは限らないとして、論敵の知的謙遜のうちに隠された政治的無責任さを糾弾するでしょう。しかし前方志向的である点では両者に変わりはないのです。未来は自由意志上によって掘り起こされるべき無尽の宝庫であり、独創的な意匠によって象られる可塑的な粘土だとみなされているのです。

p306

  僕ならばトータルエネルギー、食料、自然環境、都市、教育その他、を装うあらゆる領域について論議されている諸問題とやらを聞かされれば自由やら選択やら、競争やら計画やらの過剰を懸念して、できるだけ早くどこかに標準を定めて、定常状態に接近したらどうかと考えてしまいます。現場を革新や変化のオーバーシューティングとみなして定常状態に漸近しようというのは後方志向的な構えだと言っても差し支えありません。つまり僕の希望は、まだ定かに判らぬにしても、過去のある時点に、あるいはいくつかの過去の時点を複合した仮想の過去時点に、戻りたいということなのです。もちろん僕だって知識の質量が不可逆であるからにはフィルムを巻き戻すように過去に帰るわけにはいかぬと承知していますので、反動主義だロマン主義だと性急に烙印を押してもらいたくありません。 僕が言いたいのはトーテム過去をそのままに再現するというのではなくトーテム現在手元にある資源や情報や組織のうちから良好とみなされるものだけを残していき、そして新たな変化や革新にはできるだけ慎重に対処して、ある望ましい過去のパターンに似せて現在を、少しずつ取って組み立て直してみたら、ということであるにすぎません。

 こんなことに現実的な可能性があるなどと思っているのでもありません。そんな風に思うのはよほどおめでたい頭の持ち主でしょう。なぜなら、現存の資源も情報も組織も、単なる手段なのではなく、前方志向の能動的価値観とぴったり張り合わされて存在しているのですから、それらを後方志向的に取捨選択するなどという作業がおいそれと進むわけがないのです。現存の価値そして現存の慣習に基づく以上 、後方志向の試みは99%まで不可能だと考えるべきでしょう。

 かといってその他の不可避を嘆くのは今更という気がします。将来への希望にあふれる人間を好ましいとする評価が支配している大いにおめでたい現状の中では言いにくいことであり、またこんなことを指摘したって自慢にも何にもなりはしないのですが、「希望の終わり」の時代は、とうの昔に、どう遅く見てもセリーヌの時に、始まっているのではないでしょうか。未来の日付を持った人類のイメージたるや決定的にネガティブなのです。それはあまりにも不吉にして不気味 、不細工にして不出来ときているのですから、当然その前で新手の希望をひねり出して不屈不撓不屈の精神を誇ったとて、自分の不明と不才、不実と不徳を恥じることになるのが不可避だと言えば不遜でしょうか。だからといって我が身の不運や不幸を不憫と憐れんでも自ら犯した不始末や不行跡が不覚の涙で不問に付されるわけじゃないし 、結局不謹慎と詰められようが、ふてくされとあざ笑うが動転それを己の不治の本性による不可抗力と決め込んで、不言不語の不惑の境地、 さもなくば不惑不覚の不毛の境地で遊んでいるのが不抜の構えというものなのでしょうか。

p307

しかしそんな具合にはいかないでしょう。歴史的決定論を99%しか信じないということは、1%の自由を断固として信じるということでもあるのです。自由というこの難物に居場所を探してやらなくては気持ちの収まりがつかないでしょう。僕は、行ってみれば後ろ向きの自由を探りたいのです。新奇なるものの生産に走るのではなく、あらかた消滅してしまった過去のある状態を少しずつ復元しようと言うのです。これを進歩に対する反動だと呼んで別に悪いわけじゃありません。しかしそれは、なくしたものを見つけ出すのが進歩のうちに入らないと規定した限りのことです。そんな形の進歩の結果として、過去に歩んできた道は次から次へと消えていき、あるのはひたすら前方へそれこそ翔んでる現在だけということになりました。この飛翔の速度こそが、その恐ろしく抽象的なものこそが 、実は、進歩の実態だというわけです。

 砂上楼閣ほどの確かな基礎も持たぬこんな現在から過去の大地へ降りるということが果たしてできるでしょうか。保守主義は過去の蓄積物というしっかりした台地の上を一歩ずつ慎重に歩いて行こうとするわけで、堅実なものです。それに対して今ある進歩主義は、進歩という幻覚をジェット機燃料にして飛び続ける飛行物体にでも例えるべきものですもしその幻覚を一挙に失うならば、その物体は失速して墜落するの運命にあります。 第一に降りた頭とする場合、幻覚からの作成もわずかずつでなければならない 、もしくは、十分に覚醒してもいてもあたかも半睡状態にいるかのような振りをしなければならない、と言った 仕儀になるでしょう。しかも、着地点を選ぶにあたって、言論千々に乱れるアテネにするか、幽明界を不確かにしている中世都市にするかなどと考えあぐねていれば、覚醒の微調整は一層困難になるでしょう。そのうち、まあ何処かに不時着するだろうという自己慰安に時を費やすのです。文明を批判しながら文明の一員である大方の人々は、無論僕も含めて大概こんな状況にあると言わなければなりません。

 しかし、例え不時着だろうがどこでも良いとこは行かなくてトーテムそれにふさわしい場所を見つけなければなりません。そのためには、過去の大地を丹念に観察し評価することが、どうしても必要なのです。 ここにおいて自由の役割がまだ残されています。自由という手垢に汚されてしまった観念になお意味があるとしたら、それは、汝の欲する所をなぜということではなく、新奇な冒険を称揚することでもなく、貨幣や権力や法や言葉を使ったゲームで現つを虚ろにすることではなくむろんなくと人間の尊厳とやらを謳い上げることですらなく、まず何よりも、各自の観察や意見を相互に批判し検討する際の自由なのだと思われます。そしてそのための条件としては、法制的な意味での言論の自由もさりながら、認識的な自由もなければならないでしょう。過去および現在のさまざまな言論との比較の中に自己の言論を相対化し、それを通じて、知識や感覚の部分化あるいは固定化から最大限に自由になるということです。その結果、自分たちが大事にしっかりと繋がれることになるならば、その時、大いに逆説的なことですが、自分たちの根源的な不自由を知るということになるでしょう。つまり、ここのオリジナリティのオリジンが過去の地層の中にあることを知るでしょう。 

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 ここで考慮に入れておかなければならない事項、なんともうっとうしい事実は、過去は緑色に輝くまろやかな大地なのではなく、腐敗、堕落、貧困、抑圧、怯懦、裏切りなどなど、これら一切をふんだんに含む、むしろどす黒い凹凸の大地であろうという点です。従ってトーテム、過去に降り立つことを「希望な」どという美しいげな言葉で飾るべきではないでしょう。それは当然進歩の行手にあるただならぬ様子がはっきりと見え始めた現段階において、我々がかろうじて見つけ出す代替的な「探検」であり「実験」なのです。探検や実験の精神に頼るという点では進歩主義の思考に沿うものですが、過去に対する楽観を禁欲する点で、それは進歩主義を懐疑しています。 過去の大地の中に再び拾い上げるべきダイヤモンドがあるだろうと見当をつけるものの、それらは、貧困や抑圧といった肺の過剰な堆積のの奥深くに埋もれているのです。実際、この過剰の圧倒的なことを考えると、その中から進歩や革新の幻覚を生じ、それをダイヤモンドと錯覚したのも、99%まで必然ではなかったかと思われます。この因果が極点に達した時、革命の一言が人々の肺腑からほとんど自然に湧いてきたのであって、それを作為と見るほうがよほど作為的です。

 しかしこの社会的力学が示す恐るべき性質はもう明らかです。つまり「革命がその子らを食む」という症状です。これは、何もフランスやロシアの社会革命のような急性の病に限って見られることではなく、技術革新という産業の革命や民主主義という政治の革命もまた、人々の心を徐々に確実に蝕む慢性の病なのです。 どちらがより悪性であるかという議論もあって良いわけです。しかしどちらか一方が健全であるなどと考えるのは、それこそ病にかかっている証拠ではないでしょうか。また、出口なしの状況であることほぼ明瞭であるにもかかわらず、「では一体どうすれば良いと言うのか」 と反応してくる practical な性急さも、病の現れであるのみならず病を悪化させる一因なのだと思われます。治療法の見つかっていない精神病などこの世にざらにあると知るべきです。もし出口のことについて言うならば、自分及び自分たちの病を克明に観察しその原因を周到に探査すること、つまり、病人が自分の病気を調べるというどうにもあてのない作業の中から、ひょっとして見つからないとも限らない、これが我々の夢見ることのできる唯一の、希望と言えば希望なのです。

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 出口なしといえば誰しも全体主義を思い浮かべるでしょうし、僕も彼の国々の抑圧ぶりには身を切られる思いがすることが少なくないのです。身を切られるというセンチな言葉をあえて使ったのは、僕自身が社会主義者だとか共産主義者だとか自称し他称されていたことがあるからです。実情は無政府主義者に一番近かったように思いますが、二十歳前後の普通の青年が考えることはたかがしれてます。それについて何かを述べ立てようなどという気はありません。ちょっとばかり反抗精神が旺盛だったというのが真相なのです。それに今となっては、当時の政治的のことに関する記憶がすっかり霞んでしまいました。変にありありと覚えているのはむしろ非政治的なことです。

 留置所で万引き成年と同室になり 当店暇を持て余して、お互い子供の時に見た映画の話をし始めました。僕が「ひばりの狸姫」が失恋する場面をひとくさり語るうち、その青年がなぜか涙ぐんでいるのに気づいて慌てた情景が思い出されます。また、拘置所で深夜誰かの首吊り自殺があると、未決囚たちが鉄扉を叩いてさが騒ぐ理由です。僕は、死刑囚が自殺するのを変とも思わず、うすぼんやりと明るい電灯を見上げて、「囚人服でも裂いて紐をつくりそれをあの電灯の根元に引っ掛けて首を吊ったんだろうな」と感心していたものでした。そういえば、半円形の菓子をいくつかの細かい三角形に切り分けたような形にできている運動場へ行く途中で、決まって誘拐殺人犯本山某のこの上なく陰気な顔とすれ違いました。ところが30分後に独房に帰りがてら顔を見かける平沢貞通氏の方は明るく品格のある感じで尊いこの対照がすごく印象的でした。また警察の車に追われて友人と二人でタクシーで逃げたこともありました。赤坂見附あたりの交差点で赤信号にぶつかってタクシーを捨てたわいいものの、友人の方が都電の線路に躓いてしまい  、その時「友の屍を乗り越えて進もう」とかいう歌の文句が僕の口元まででかかりました。後は足に自信のある身、「そいつを捕まえてくれ」という私服刑事の声がどんどん遠ざかって、そこでしめしめと思ったのが浅はか至極、その道は出口なしの袋小路だったのです。「お前、逃げ足が早いなあ」などと刑事に冷やかされながら手錠をはめられ、人だかりの中を逃げたぶんだけ引き立てられたのは牧歌的とはいい条、哀れな結末でした。そして、こともあろうに裁判所の中で、上と睡眠不足のために貧血を起こしてひっくり返ったこともありました。温情あふるる裁判官が「君は一体どんな生活をしているのかね」と僕を憐れみ、 憐れむ方も憐れまれる方おーい見てれていたあの光景は、今思い出しても照れくさいほどです。といったような有様で、人間の記憶装置は相当につまらんことを貯蔵しているようです。

 ただ経験の及ぼす慣性は強いもので、左翼的な事柄に対する幾分同情的な関心が、ここ20年間、消え去るにまでは至らなかったことは確かです。まだ残っているそうした関心を現場で試すべく、この夏、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリア、ユーゴスラビア 、ルーマニアそしてブルガリアの7カ国を1ヶ月ほど旅してみました。急ぎ足の貧乏旅行であり、しかもそれらの国々の言葉を全く返せないのですから、ごく表面的な印象しか得ることが出来なかった事は言うまでもありません。一強かったのは、案内者月のお仕着せ旅行と違ってとっても官僚主義の様相をじかに感じ取ることができたという点です。 

  起床6時間も待たされましたまま、どの駅員に聞いても、「ニエッ、ニエッ」 と言って両手を広げて見せるばかりのブタペスト。中級完了や外交官の出入りするらしい中華料理屋でテーブルに着いてから2時間も待たされて、そして後から同席したゲー・ペー・ウーを思わせるような厳しい人物の前には、さっと料理が運ばれてきたプラーハ。56個ばかり2 M も先から投げて起こされあちこち散らばったやつを腰をかがめて広いもあったベオグラード。こんな風にいちいち数えていたらきりがなく自由主義圏の人々が「二度とこんなところに来るものか」と口を揃える気持ちがよくわかります。

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しかし、僕にとってこの度の収穫は決して小さなものではありませんでした。材を供給する側にいる時にはすごく尊大な態度をとる人々が、ひとたび持ち場を離れた時には、あの傲慢な社会主義の役割演技の為だったのだと言いたそうに 、外国人に対する好奇心を丸出しにして親切に語りかけてきます。こうした二面性は現場を訪れてみなければ容易くはわからぬことだと思います。また、こちらの素性をじっくり確かめてから、さっと列車のコンパートメントのドアを閉め、「ドイツ人は独裁者が好きなのだ」とヒソヒソ声で語り続けるチェコの婦人もいました。同じような情景をものの本で読んだような気がするものの、「あの情景が今ここにあるのか」といった灌漑が起こったものです。そうかと思えば、「偉大な祖国ロシア」の歌を繰り返し歌って聞かせてくれるユーゴ外交官の子息がいました。官僚主義は抑圧の純粋培養ばかりでなく、モラルの人工的生産をも行なっているのだということを示してくれたように思われました。さらに、歴史博物館だというので入ってみれば、東ドイツの歴史はなるほど1945年に始まったものであり、展示されているものの大半は拳を前に突き出した労働者の彫刻と星やハンマーの印のついた赤旗の群れだと言って過言ではありません。それらが象徴しているものは「プロレタリアートの団結」菜乃花、それとも、精神の豊穣を願って歴史に不連続を起こそうとした人々がついにたどり着いた精神の荒地なのか。 

 もちろん東を批判することが西の素晴らしさの証になるわけではありません。そんなふうに思うのはイデオロギーのギッコンバッタンをやりすぎてめまいを起こしているようなものです。プラハでしたか、いく人かのお客を無視してタクシーが僕を乗せると言って聞きません。僕はやむなく先客に会釈して乗ったのですが、運転手は早速闇の両替お申し出てきました。彼の狙いは日本人が持っているであろうお金なのであり、こんなところにまで日本人の金遣いの荒さが有名を轟かせているのかと魂消ました。精神の荒地は今や極東にまで拡がっているのだと見るのが公平でしょう。ドレスデンのスナックで同席した二人のハンガリア青年の場合もそうでした。彼らは昼間からウォッカのがぶ飲みで周囲のドイツ人達から眉をひそめられ、それがまた一層ウォッカの引き金になるといった調子です。僕は彼らの表情の人懐っこさと彼らの父親が参加したであろうハンガリア革命に免じて、一緒に眉をひそめられてやるという行為に出ました。彼らは「西側は素晴らしい」と何度も言うので「どこが」と問い返せばトーテム「自分はロンドンでストリップショーを見たことがあるんだ」トウィンクしてみます。マジャール平原が荒れているのか西部戦線に異常があるのか、答えはちょっと難しいのではないでしょうか。

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 しかしそうは言っても、率直に言って、ライプチヒの一日を忘れることはできないでしょう。何か特別のことがあったというのではありません。僕のやったことといえば、街の中を7時間ばかりうろつきとっても疲れたら街角に腰を下ろし、昼は街頭でソーセージをかじり、夜は大衆食堂でチキンを食べたことであるにすぎません。強いて言えば、見かけた限りの八百屋に一様にカビの生えたイチゴが並べられていたことでしょうか。しかも果物といえばまずそれだけでした。レストランで僕の後ろにいた人が何かを盗まれた時の騒ぎもちょっと面白いものでした。というのは、今度はその人が自分の損失を取り戻そうとして別の人の包みを持ち去ろうとして騒ぎが続いたからです。

 しかしそんなことよりも何よりも、あちこちに設置された街頭スピーカーからマルクスエンゲルス主義がどうだとかこうだとかいう放送が流されている下を、うなだれ加減で黙々と行き交う人の流れ、それが僕には応えました。通りすがりの旅行者がトータル人相学に長じているというわけでは全然ないのに、他国の人々の心を忖度するのはもってのほかではあります。しかしそうと知りながら通ってる彼らの様子から活気なるものはおよそ感じられず、「これはジョージ・オーウェルの世界だ」と思わずつぶやきそうになったのを憶えています。ゲシュタポがそこかしこに佇んでいるような気配すら感じられて、感情かとは思ったものの、本当に背筋が寒くなりました。彼らの表情をくらいとか押しひしがれたというのは適切ではないでしょう。そんな風であるためには明るさとか明るさを知っていなければなりません。彼らが街路に醸し出す集団人格のやりきれなさは、精神の自由な有様を想像したことすらないのではないかと思わせるような、機械的な冷たさを持った、無人格性という点にあるのです。 僕が見たものは、それを間違いなく見たのだと思えるにも関わらず、僕の能力ではうまく表現できない類のもののようです。思い切って幽鬼の群れという誇張した表現に頼りたくなってしまいます。

 しかし、僕は幽鬼の群れを本当に見たのでしょうか。あれは本当に屠殺場で轢かれていく羊群だったのでしょうか。今になって考えてみると、それは僕自身の作り出した幻覚だったのかもしれません。少なくとも何割かはそうかもしれませんくてんその日は7月の上旬だというのに肌寒い曇天でした。もしその日がいかにも夏らしい日だったとしたら、僕の印象はどう変わったでしょう。またもし、家庭の団欒の場に入ったり職場や学校の集会に参加したりといったことがあれば 、彼らの行うであろうたくさんの会話が僕の気分を少しは高揚させてくれたのでしょうか。また、あの日はたまたま流通機構が乱れていたのであって、翌日にカビの生えていない市いちごやその他の美味しそうな果物が八百屋に並んでいたのかもしれませんくてんそんな周囲の事情のことより 当店スターリニズムに対して抱く僕の嫌悪の情がこれほどまでに強くなければ、ライプチヒは多少陰気臭かったが静かな落ち着いた街であった、ぐらいのところまでで止まったのでしょうか。事実トーテムモンゴルや北朝鮮から来たらしい旅行者たちは楽しげに街を歩いていたようです。要するに、観察者の推理や心理や整理を離れて客観的に真実などは考えられないという事実をこの場合も忘れるべきではないのでしょう。僕は確かに言えることは 、幽鬼の群れを見た(と表現したいと思った)僕という人間がいるということだけなのです。

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 僕は頭に対して大変屈折した思いを持ち続けている世代(の一部)に属します。頭に対する僕のイメージが頭店その世代に独特の思想や感情のプリズムによる屈折を受けてできたものであることは疑いないところです。例のマジャール青年たちに「僕が16歳の時ハンガリア革命があり、僕はその事件に強く影響された」と語った時、彼は二人は「うん、どうもあの事件のことらしいなあ」といったような顔つきで顔を見合わせていました。しかし、それは、ちょうど今の日本の青年が太平洋戦争について話を聞かされた時と同じような風情でした。当時彼らは生まれたばかりの赤ん坊です。ハンガリア革命が1960年前後の左翼青年達に与えた衝撃のことなど知るべくもないでしょう。また、ポーランド人の若者たちと映画の話になり、「あなた方はアンジェイ・ワイダの『地下水道」という映画を知っているか」と尋ねると、「全然知らない  、いつ頃のものか」と言います。「僕が見たのは20年前だ」と答えたら、彼らはあっは、あっはと大笑いし、「そんな古い映画など見ているわけがないじゃないか」と言ってました。全くその通りです。ポーランドの多くの若者たちにとっては、ワルシャワ蜂起の実相など知る方法もないし、ひょっとして知る必要すらないのかもしれないのです。ワルシャワに蜂起した青年男女が、ファシストに対して最後の絶望的な攻撃を加えるべく地下水道に潜りトーテム汚物の中を動き回って、やっと明かりを見出した時、そこはヴィスワ川に面した出口なしの鉄格子でした。対岸には蜂起の収束を待って進駐すべくロシア軍が待機しています。つまり蜂起軍の援助をしてくれるものとばかり思われていたロシア軍は、蜂起軍がその後のイニシアティブを取ることを恐れて、むしろ蜂起の敗北を期待していたのです。こうしたポーランドの救いのない過去の一断面にこだわっている極東もしくは極性の中年男が一方にいれば頭飛んだ方には、父親たちのはまった陥穽も知らずにその蓋の上で踊っているポーランドの若者もいるのです。

 中年と言えば、作者の名は失念しましたが、週の第八の日を幻想しなければ次の週を迎えられないといったふうに、彼は日を送っていました。ワルシャワの裏町で飲んだくれ、そしてのたうっていたあの青年は、今一体どういう中年になり果てているのかいないのかなどとつづっていけば、東欧に関する恥ずかしき青春の思い出にはとめどがありません。

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 ハンガリアに入った時、さあいよいよブタペスト大東店素手でロシア軍の戦車に立ち向かい、最後には「今我々は孤立している、戦車が間近に迫っている、我々は諸君の助けを必要としている」という(西側に向かっての)必死の外国放送が砲撃の音とともに跡切れ、そして殲滅されたと言うトーテムあの版スターリニズムの革命の聖地なのだと、ちょっとばかり興奮気味でした。もちろん、冷静に市内を見渡せば、僕の思惑などにはお構いなしに、ブタペストは西洋都市も顔負けの観光客と車の洪水でした。賑わうと言うか蜂の巣をつついた騒ぎと言うかトーテムその商業的喧騒の中からは政治的強者どもの夢の跡すら伺うこともできませんでした。

 22年という歳月は革命の客観的痕跡を消し去るには十分すぎる長さだったのでしょう。あえて痕跡らしいものを探せば、他の社会主義国には見られない無秩序がブタペストを特殊なものに見えさせていた 、ということでしょうか。例えば、荷物預かり所で前から6番目に位置していたにも関わらず、40分経たなければ自分の番が来ないといったようなことが、常態といえば言い過ぎですが、珍しいことじゃないのです。その間東店係員はずるを決め込んでいるのではなく、ごった帰った荷物の山尾汗だくでかき回しているのですから当然これはもう、官僚主義の非効率とか何とか言うよりも、アノミーと呼ぶのがふさわしい状況です。他の言い方をすれば、マジャール人たちを官僚統制に服させるのはなかなかの難事と思われされました。

 埃だらけのめちゃくちゃにやかましい街中を歩きに歩き回って、ブタ城に間近い高台のあたり、半ば廃墟になった建物を何気なしに見やると、石垣の上には所々鋭く砕け散った跡があるではありませんか。これこそ弾痕だ、革命の紛う方なき傷跡だと即座に信じ込みました。我知らず興奮がこみ上げてきて 、脇に抱えていた(お金とパスポートとビザの入った)洗面袋(?!)を路上に放り出しトーテム写真機を構えたのです。ところが、持って生まれたおっちょこちょい、貧乏人に特有のもの離れ金離れの良さ、実際事に対して髙をくくった杜撰な生活、朱に交わればすぐ赤くなる付和雷同、こうした色々の性癖が然らしめた結果、洗面袋を後にしたまま、僕は歩き出してしまったのです。30分くらい経ってから気づいてからは、まるで「ハンガリア狂想曲だ」と心でつぶやきながら懸命に狂走しました。

 戻ってみても石畳の上にあるのは塵ばかりです。通りかかったパトカーに身振り手振りで説明すると、あっという間に警察署に運ばれました。目つきの鋭い係官は何やら書類に書き込んで僕に手渡しました。そして、 you can stay here for 3 days.と、まっすぐ行かを指差します。たどたどしい英語ながら、重々しく宣言したという感じでした。指差された床の下には地下室があり、地下室には留置所があるというのが相場です。とすれば三日間ぐらい留置場に泊まっても良い。食物ぐらいは恵んでやろうということかもしれません。いやいやトーテムいくら無秩序とはいえ社会主義を名乗るお国柄、 VISA なき旅行というとそれ自体が立派に犯罪を構成するかもしれません。 とするとcanはmustトの間違いだろうか 。まあいいさ、ハンガリア戦士 を心ひそかに記念して留置所暮らしも悪くはない、後はなるようにしかならんのだろう、と素早く心を決めたわけです。 それが飛んだお笑いでした。よく説明を聞けば、それは市内に3日だけ有効の仮ビザだったのです。

 それから後は夕闇迫って、何処からともなく聞こえてくるジプシーの調べ、腹は空くし、喉は乾くはで、仮 ビザなんか何の役にも立ちません。 文字通りなすべきこともなく街をぶらついていました。やがてトーテム英語の通じるアメリカ系ホテルにでも行ってみれば、何かみより耳寄りの情報があるかもしれぬと考えました。この辺りは、僕もアメリカの傘の下で育った世代ではあります。ヒルトンだったかインターコンチネンタル出会ったかいずれにせよホテルの受付で、落し物が見つかったからすぐ警察に取りに来いというメッセージを手渡された時には、さすが疲れを忘れました。どこかのバスの運転手が拾って、外国人客の多いそのホテルに持参し、ホテルから警察に連絡が入ったというわけです。

 その晩は、柄にもなく豪遊と洒落込んで、そのホテルの最上階に宿を取りました。と川を挟んで広がるブタペストの夜景がひとしお美しく見えたものです。フォガシュなる魚料理を平らげ、トカイ・サモドロニキというぶどう酒が心地よく聞いてくる頃合いを見て、 ジプシーたちの楽団にジプシー音楽の代表曲を何かやってくれと頼むと、僕のテーブルをぐるりと取り巻いて奏でられるせっせすたるバイオリンの調べは、まこと、ユーラシア大陸の果てまでも狂おしくそして物悲しく響き渡るかと思われました。

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これを唯一の異変として東欧の旅は滞りなく進みました。自然風土の影響は強いものをようで、社会主義の国々も南下するにつれて活気を呈してくるように思われました。しかしこちらは、憧れのブタペストが終わってしまえば、後は付け足しといった感じで、少しだらけ気味だったような気がします。例えば、ブカレストの公園で、途中で知り合ったプエルトリコ人と一緒に、食費を少しでも浮かすすべく、李の採取に熱中すると言った体たらくでした。日焼けもだんだん濃くなり、見た目にはいささか人種不明の容貌と相成りました。最後の年ソフィアで待てどもやってこないバスを待ちくたびれて路傍にに座り込んでいると、通りかかった二人連れの日本人の一方が「こんにちは」と声をかけてくれました。僕が返事する元気もなく頷くだけで済ましているとトーテムもう一方が「おいやつは日本人じゃないよ」と連れに注意していました。国を離れてから一年半、日本の国籍というよりも国籍の観念そのものが薄らぐ一方であったような気がします。炎天下の雑踏をぼーっとみ合っているこの男は確かに1アップでありニップ であるのですが、それが自分のあずかり知らぬ偶然によるということも確かなのです。

 こんな思いにとらわれるとろくなことが起こらないというのが僕の経験則です。その夜、民族舞踏レストランなるところで6人ぐらいのアメリカ人グループ(年の頃50前後の男女)と同席することになり、厚化粧の布陣が僕の前に座りました。こちらが相手の許可を求めた上で食後の一服といけば、

酔いの回ったらしいその婦人は「日本人はタバコをよく飲むそうだが肺がんの事は心配しないのか」と言います。他のアメリカ人もプカプカ吸っているのですから同国人の心配でもしていれば良いものを、周囲と目配せしながらしたり顔です。日本人はしばしばとスモーキングモンキー呼ばれているのです。・・・「どこを見たか」と聞くからどこそこと答えると、「日本人はカメラが好きだからたくさん写真を撮っただろう」とまた目配せとしたり顔です。・・・首から二台カメラを下げてパチリパチリというのが日本人について定着したイメージなのです。・・・そのたつまらぬことをあれこれ、どうやら社会主義の国を三つばかり回っているうちに欲求不満が溜まり、それを目の前のジャンプに向けて解消する趣向と見えました。

 東欧旅行が「うるさいバカ」の一言とともに終わったのは全く予想外でしたが、この旅行は僕にとって結局のところはカタルシスでした。社会主義をマイナスの方に位置付けるようになったのは15年ほども前からですが、若い時に社会主義者を名乗ったことがあるという一時とうまく折り合いがつかず、その評価を顕在化させるのを躊躇する傾きがあったようです。それが吹っ切れたのです。そして当然のことながら、カタルシスに引き続いてエンプティの感情がやってきました。今まで無数の元社会主義者が感じたに違いないこの空虚を僕もまた取り消しようもなく持つに至ったということですから、しごく平凡なコースを後れて歩いているということになります。しかし、平凡だろうがなんだろうが、自分の中の社会主義の残滓を処理できたのですから、空虚の代償ぐらいは仕方ありません。むしろ、この間隙をついて自由主義やら個人主義やらといったありあわせのイデオロギーが吹き込んでくるのを如何にきちんと防ぎきるか、これが難しいところです。それを思うとエンプティを嘆いている暇などありませんくてんそんな類のイデオロギーの風に翻弄されるのはどうこした平凡というものであり、弁解の余地なく恥ずかしいこととはわかっていますが、防ぐ手立てが容易じゃないのです。

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 東欧に続いてギリシャの国中を動いている間、ずっと、この困難について、考えるというよりも、感じ続けていたようです。それは、言ってみれば先祖返りの綱を渡ることの難しさ、といったようなものでしょう、伝統の保守という経験主義的な生活方式を重んじ様にも、そうした伝統が手元にない以上、先祖返りして見つける他ありません。ところが、保守すべき伝統を過去の中から発掘するには、合理主義的な認識方法がなければなりません。しかもその認識は過去の全域にそして全側面に及び得る先生力を持っていなければならないと来ていますから、まるで認識における哲人政治へ先祖返りするようなものです。この二重の先祖帰りの綱渡りのみが彼岸というものへ行き着く途だとすれば、それはもう、凡人には成功する宛のない途と考えるべきでしょう。しかしピンと張りつめられた綱のことを感情移入することによってなんとか精神の緊張を維持しながら、可能なことを出し続けるというふうに人生を編んで見れば、そのうち、またしてもあの1%の可能性がこの綱渡りについても仄見えてくるのかもしれません。

 オリンポス山の中腹で野宿をし、明け方あまりの寒さに目覚めて、眼科に当店まだ寝静まっている小さな町と折下水平線から顔を出した太陽と尿いっぱいに積んで山肌の灌木の中を下っていく一頭の馬そしてひとりの農夫とを一望した時、メテオーレスでいくつもの巨大な岩塊のそれぞれの頂に辛くもへばりついているギリシャ正教修道院の一つを訪れて、宗教のもたらす狂気そのものと言って良い精神の凝集の前にたじろいた時、プロポネソス半島の奥深く、今なお神々の黄昏を知らぬげの山村で、誰ぞ彼はと囁きながら近づいてきた村人たちを前にして、ただ黄昏の日を浴びているばかりであった時 ・・・スパルタのオリーブ畑の中で、遺跡だか石ころだかの上に腰を下ろし、乾いた土埃を全身にかぶって、びっしり降りしきる蝉の声に包まれて半分年眠ったように休んでいた時、アテネでバカンスだバカンスだとそれこそバカみたような顔つきで、案内書片手に名所から旧跡へと駆け回るホモ・モーベルの大群に巻き込まれ、世界を隈なく徘徊し破壊し回っている大衆旅行という妖怪の腹中に自分がすっぽりと収まっているというその破目に、我ながら苛立ちを感じていた時・・・・ともかくそうしたあらゆる時々にこの綱渡りのイメージが僕の意識の裏側にどこまでも執拗に張り付いていたように思われます。

 しかし、夏には珍しく荒れに荒れたエーゲ海は、三日三晩、各国の大衆どもを乗せた島めぐりクルーザーを上下に玩び、彼らの玩ぶあてどない思弁には全く無関心に、一切の過去を獰猛に飲み込んだまま、あくまでも紺碧に 、うねり続けていました。 

(『諸君!』昭和54年4月号単行本『蜃気楼の中へ』所収)

『哲学ノート』①

≪01≫  目で文字を追っているだけではない。本を読むという行為はけっこう複雑だ。ワードとフレーズとセンテンスに引っぱられつつ、文意に賛否を感じながら起承転結を確認する。読書には読む者の心理・生理・物理・教理・学理が絡み、それがページをめくる意欲を後押しし、大小の注意力や前後の集中力を支え、散漫や放心や中断をおこさせる。書き手は仕事を了えているけれど、読み手の仕事はいま進行中なのである。 

≪02≫  本書の読み方は妙なものだった。ひとつはレーニン思想哲学の一冊としての読書体験だ。レーニンの本を読むというなら、何といっても『国家と革命』が筆頭にあがるだろうし、マッハ相手に四つに組んだ『唯物論と経験批判論』も忘れられず、その次にやっと本書か、記念すべき『帝国主義』がくるというところだ。だから『哲学ノート』をこれら三冊より熱心に読めたというのではなかった。 

≪03≫  もうひとつの読み方はやや変わらざるをえない。本書はレーニンの読書に関する書き抜きノートそのものの翻訳で、そのため岩波文庫版ではレーニンが他人の著書の文章に施したアンダーラインやメモや括弧やコメントがそのまま活版の約物をつかって復元されている。それゆえ引用文を読みながら、レーニンの示したメモやマーキングを同時に読むことになる。 

『哲学ノート』

≪04≫  本をどう読んだかという読書録めいたものは、いくらでもある。学術的な本は、ほぼ六〇パーセントが他人の本についての読解性にもとづいているとも言える。けれども、それらの本のあちこちに読み手の感想がかぶさっているような本はめったにない。 

≪05≫  タテ組にはなっているが、岩波文庫を開いて見てもらえばすぐわかる。本書の各ページには随所に「注意」「すばらしい!」「適切で深い言葉だ!」「正しい!」「マッハ主義と比較せよ」「こっけいだ!」といった書きこみ、大事な文章を囲んでいるところ、強調点・線・二重線・波線を使い分けて強調しているところが示され、そしておびただしい量の注解や見解のようなものが書きこんである。それがほぼ全面的に約物入りの活字組で再現されている。 

≪06≫  つまり、レーニンの筆跡こそ再現されてはいないものの、レーニンがどのように本にマーキングをしたかはだいたいわかるようになっている。どんなノートをつくっていたかということもほぼ伝わってくる。こんな本はめずらしい。 

≪07≫  ぼくはこの本で初めて、世の哲人や学者や革命家たるものが、ようするにベンキョー家たちがマーキングをしながら本を読んでいるのだということを知ったのだった。そうか、本って書きこみをしていいのか。本はノートなんだという驚きである。さっそく試みるようになった。 

≪08≫  やってみればすぐわかることだが、本への書きこみは予想以上におもしろい。そこにあるのは白紙のノートではなく、他人のテキストなのである。そのテキストを読みながら書きこめる。印をつけ、色を変え、コメントを書く。もっと愉快なのはそうやって初読時に書きこみをした本を、他日に開いたとき、新たな高速再読が始まるということだ。これは意外なほどに読書体験というものを立体化させていく。 

『哲学ノート』

≪09≫  本書でレーニンが読んでマーキングした本とは、ヘーゲルの『論理学』『歴史哲学講義』『哲学史講義』、ラッサールの『エフェソスの暗い人ヘラクレイトスの哲学』、アリストテレスの『形而上学』、フォイエルバッハの『ライプニッツ哲学の叙述・展開および批判』、そしてマルクスとエンゲルス共著の『聖家族』である。  

≪010≫  このうちノートはヘーゲル『論理学』についての抜き書きとメモがいちばん多く、約半分を占めている。だいたいは第一次世界大戦下の一九一四年からスイスのベルンに亡命していた二年間ほどのノートだ。 

≪011≫  このころのレーニンは第二インターナショナルの裏切りにあっていたころで、妻のクルプスカヤの『レーニンの思い出』(青木文庫)によると、ベルンにきてすぐに『グラナート百科事典』のカール・マルクスの項目の執筆にとりくんでいた。それを了え、ヘーゲルの『論理学』にとりかかったようだ。 

『哲学ノート』

≪012≫  レーニンが読書に異常に熱心だったことはよく知られている。 一九〇三年のジュネーブ亡命のときは、マルクスとエンゲルスの全集を図書館に通って片っ端から熟読しているし、一九〇八年にパリに亡命したときは、国立図書館までの距離が遠く、自転車で通うには要注意人物化していた身には少なからぬ危険が伴ったにもかかわらず、毎朝八時に起きて図書館に通い、いつも二時に帰ってくるという読書稽古を日課にしていたほどだ。むろん自宅でもずいぶん読書に時間を費やしている。 

≪013≫  自宅では手元に本があったのであまりノートをとっていないようだが、図書館に通っているときはたいていノートをとっていた。本書に収録されている本も、そのほとんどがベルン図書館蔵のものである。図書館の本には書きこみはできない。だからレーニンは気になる文章を猛烈なスピードでノートに書き写し、そのうえで、書き写しながら感じたことを、そこに書きこんだ。そこにはアリストテレスからマルクスまでが同時に住みこんで、その住人の言葉にレーニンが添削をしているように読める。まことにめずらしい本なのである。 

『哲学ノート』

≪014≫  やはりウラジーミル・イリイチ・レーニンその人のことと、ロシア革命のことを書いておく。ロシア革命についてはかつてどんな歴史もそこに到達しなかったプロレタリア革命が、いかに多様な反抗とストライキの積み重ねであったかを物語る。レーニン本人には謎が多いが、なんといっても革命家の生涯なのだから、ありきたりなこともきっと何かを暗示する。 

≪015≫  レーニンは本名ではない。あとで名のった。本名はウラジーミル・ウリヤーノフだ。一八七〇年のヴォルガ河畔のシンビルスク(いまはウリヤノフスク)で、物理学者の父とやや混血系の母のもとに生まれた。父のイリヤは非ユークリッド幾何学の提案をしたロバチェフスキーの親友で、地元の名士として知られていた。子どもたちは奴隷や貧困に心を致すように教えられていたようで、そのせいか早世した者を除いた兄弟姉妹五人が、すべて革命家に近い道を歩んだ。 

≪016≫  九歳でシンビルスク古典中高等学校に入ると、全科を通じて首席となった。けれども十五歳で父を亡くし、翌年には兄が皇帝アレクサンドル三世の暗殺にかかわった容疑で絞首刑になった。姉も同じ容疑で追放処分を受けている。 

≪017≫  にもかかわらず、そのあたりのことについては長じてもほとんど文章にしなかった。おそらくは、その後のレーニンの身や周辺におこった首肯しがたい事件や出来事の数々の連打からして、兄や姉の不幸な犠牲など(そうとうショッキングなことだったろうに)、語るべきものとならなかったのだろう。革命家には逮捕・投獄・追放はしょっちゅうなのだ。 

『哲学ノート』

≪018≫  一八八七年にカザン大学に進んだ。ラテン語・ギリシア語を習得したが、ここでマルクスの著作に出会っている。マーキングをしたかどうかはわからないが、学生運動にはかかわって警察に拘束され、大学からは退学処分を受けた。 

≪019≫  いったん母の農場などにいたものの、むずむずしていたのだろう、サンクトペテルブルク大学の試験を受けたり(満点だったようだ)、弁護士資格を取得したり、弁護士事務所で一年半ほど仕事をしたりしたのち、ペテルブルクに引っ越した。ゴーゴリの『外套』などを読めばすぐ見当がつくが、ペテルブルクは青年レーニンを起爆させるにふさわしい都市だった。さっそく「労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟」を結成するのだが、たちまち警戒され、逮捕・投獄されたのちシベリア流刑罪になった。すぐに逮捕されるなんて、あえてうまく立ち回らなかったとおぼしい。それが一八九七年だから二六歳だ。刑期は三年。そのあいだ寒村ウファで本を読み、そこで再会した革命家のナデジダ・クルプスカヤと結婚し、『ロシアにおける資本主義の発展』を書く。 

≪020≫  当時のロシアは社会民主主義派が多く、ツァーリズムを打倒するより労働者の経済的地位を向上させる〝経済主義〟が主流になっていたので、レーニンは資本主義の蜜の根本に疑義をぶつけたのである。 

『哲学ノート』

≪021≫  一九〇〇年一月、刑期が了わってプスコフに少し留まったのちスイスに亡命した。〝経済主義〟を批判する仲間とともに政治闘争を訴える新聞「イスクラ」を創刊するためだ。イスクラは「火花」という意味だ。 

≪022≫  一九〇二年、明快なアジェンダ『何をなすべきか?』を書く。労働者は経済主義にとどまってはいけない。それではブルジョワ・イデオロギーと変わらない。諸君は社会主義の実現をめざし、少数の職革(職業的革命家)を組織して政治的な革命に向かうべきだというものだ。このときレーニンは、カウツキーの「社会主義の意識はプロレタリアートの階級闘争の中へ外部から持ちこまれたもので、自然発生的に生じるものではない」という見解を引用した。のちに「外部注入論」と言われた。  

≪023≫  翌年、イスクラ派はロシア社会民主労働党(RSDRP)の第二回党大会を開催して気勢を上げた。ここで方針をめぐる歴史的な対立がおこる。メンシェヴィキ(少数派)とボリシェヴィキ(多数派)の分派である。イスクラ編集局六名もここで割れ、以降レーニンはボリシェヴィキ派の亡命リーダーとなった。のちにボリシェヴィズムはレーニン主義と同義の用語になる。 

『哲学ノート』

≪024≫  一九〇五年ロシア暦一月九日は日曜日だった。独自の労働者組織をつくったロシア正教のガポン神父の引率で、労働者たちがペテルブルクでニコライ二世の皇宮に向かっての請願行進をしていた。憲法制定会議の召集、労働者の諸権利の保障、日露戦争の中止などを請願する行進だったが、六万人を超す参加者に動員された軍隊がこれを取り締まりきれずに発砲した。大混乱のうちに一〇〇〇人以上の死傷者が出た。「血の日曜日事件」である。 

≪025≫  当時の民衆はロシア正教の影響によって皇帝崇拝の傾向をもっていたのだが(皇帝は王権神授によるものとされていた)、この事件以降、崇拝は色褪せ、ロシア革命の幕が切って落とされた(ロシア一次革命)。レーニンはすぐに『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を書き、「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」の方向を示した。いささか未熟な労農民主独裁論だった。 

≪026≫  ロシア一次革命は、一九〇七年六月のストルイピン首相のクーデターで終息した。レーニンも潜伏する。労働者運動や革命運動はストライキの頻発度におきかえられていった。ストライキは自発的なものもあるが、多くは指導機関や誘導機関がかかわり、その立場と思想はまちまちである。 

≪027≫  そうしたなか、一九一二年四月にバイカル湖北方のレナ金鉱で鉱山労働者たちによるストライキが始まり、またまた軍隊による発砲で多くの犠牲者が出た(レナ金鉱虐殺事件)。改善闘争は続くのだが、それだけでは盛り上がらず、犠牲を生み出すごとに、改善意識は暴発力を秘めて革命意識に転化していった。一九一四年、ストライキ型の労働運動はかつてなく広がり、厚みを増した。 

≪028≫  ヨーロッパではバルカンのテロを契機に、第一次世界大戦の突端に火がつき、ヨーロッパを巻きこむ戦争が一挙に拡大していた。その波状は予想を超えそうだ。レーニンはそこを凝視する。 

『哲学ノート』⑨

≪029≫  戦争は敵国や敵の兵士を相手にする。そのためどんな戦争であれ、国内には愛国心が昂まり、ナショナリズムが沸々と動く。革命は国内の敵と闘う。労働者は資本家や政府に向かい、農民は地主や為政者に向かう。その一方、戦争は多くの男たちを軍隊に吸収し、家族を孤立させ、軍備力と工業力のための国軍の費用をふんだんに放出する。 

≪030≫  ロシアは第一次世界大戦の連合国側に与し、内に労働運動を、外に戦場をかかえることになった。 一九一五年の時点で、戦争と革命はごっちゃになりつつあった。政府はロシア各地の住民に兵役を命じ、それまで兵役対象からはずしていた中央アジアの諸民族やザカフカスの住民にも動員を命じた。  

≪031≫  自由主義者は「進歩ブロック」をつくって、戦勝をもたらしうる信任内閣の形成をめざした。急進派は労働者代表を含めた戦時工業委員会を主要都市に次々に送りこんだ。一九一六年十月、ペトログラード(サンクトペテルブルク)の労働者がストライキを打ったところ、軍隊の一部がストライキ側に加わった。政府は動揺し、国会ではロシアが「愚行」を継続するのか、国を「裏切者」に売るのかという議論が沸騰した。「進歩ブロック」のミリューコフの策略だった。 

≪032≫  そんなとき、長らく皇帝夫妻にとりいって権勢をふるっていたラスプーチンが暗殺された。暗殺者はテロリストではない。皇族や貴族の有志が殺したのである。一九一七年一月、国会デモが始まった。 

『哲学ノート』

≪033≫  一九一七年二月、ペトログラードで国際婦人デーにあわせたヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入った。この「パンよこせ」デモは数日のうちに「戦争反対」「専制打倒」の声と混じっていった。革命家はこうした民衆の要求を巧みに暴動に誘導する。暴徒には官憲が出動する。 

≪034≫  ニコライ二世はストとデモの鎮圧を命じ、ドゥーマ(帝政ロシアの議会)には停会命令を出した。ところが鎮圧に向かった兵士が次々に労働者や女性デモ側についたのである(つかせるように陽動した)。すかさずメンシェヴィキはペトログラード・ソヴィエトを結成し、チヘイゼが議長を選出し、ドゥーマは十月党のロジャンコのもとに臨時委員会を動かして、三月二日にリヴォフを首相とする臨時政府をつくった。社会革命党からケレンスキーが入閣した。 

≪035≫  ツァーリの権威は風前の灯である。ニコライ二世は弟のミハイルに皇位を譲ったが、弟がこれを拒否し、ここに三〇〇年にわたったロマノフ朝が自壊した。これがロシア二月革命である。 

≪036≫  ペトログラード・ソヴィエトは、このあとのさまざまな決定はソヴィエトと臨時政府の見解が一致するかぎり遂行されるという声明を出したものの、これは「二重権力」だった。チューリヒにいたレーニンは、マルクスの「プロ独」(プロレタリア独裁)の実行はまだ遠いと思う。 

『哲学ノート』

≪037≫  臨時政府は対ドイツとの戦争を継続すると発表して連合国側の歓心を買った。ペトログラード・ソヴィエトは「全世界の諸国民へ」という声明で、ロシア人民がツァーリの専制権力を倒したように、諸国が民族的にも自決することを呼びかけた。外相になっていたミリューコフは決定的勝利に至るまで世界戦争を遂行しようと呼びかけた(ミリューコフ覚書)。 

≪038≫  何かが食いちがったまま、第一次連立政府がスタートを切った。そこへ三月になって流刑地からカーメネフとスターリンが戻り、四月三日にレーニンがスイスからドイツ経由の覆面亡命列車で帰ってきた。ドイツはレーニンに戦争終結の活動をしてもらったほうがいいので、あえてレーニンを庇護したのである。これで、メンシェヴィキに主導権をもっていかれていたボリシェヴィキが一挙に動きだした。  

≪039≫  機関誌「プラウダ」は「革命的プロレタリアートが行動をおこす」「銃弾には銃弾を、砲弾には砲弾をもって応じよ」と扇動し、レーニンは「四月テーゼ」を書いて、政策転換を訴えた。そこには「ブルジョワ政府に対する反対」、「祖国防衛の拒否」(戦争反対)、「全権力のソヴィエトへの移行」が強く明記された。 

≪040≫  こうして七月蜂起に向かって過激なデモや武装闘争が繰り広げられたのだが、指揮をとったボリシェヴィキとアナキストはことごとく弾圧された。トロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンやジノヴィエフは地下に潜った。デモ部隊は武装解除されて、兵士として前線に送られていった。 

『哲学ノート』

≪041≫  ここから十月革命に至る苛烈な日々には「民衆の熱狂」はない。革命指導者たちによる戦術につぐ戦術、転換につぐ転換、クーデターにつぐクーデター、決行につぐ決行だった。多くはレーニンの判断だ。 

≪042≫  なかでも一九一八年一月の憲法制定議会を、レーニンの判断で機略的に封鎖してしまったことが大きかった。謀略的封鎖だったが、これで決定的イニシアティブがボリシェヴィキの掌中に入った。レーニンが武装蜂起による権力奪取のシナリオを中央委員会に提起すると、中委は十月十日に武装蜂起を決定した。翌々日、ペトログラード・ソヴィエトも軍事革命委員会を設置し、トロツキーの画策も相俟って、軍部の各部隊が次々に蜂起支持を表明すると、臨時政府の打倒が開始された。冬宮は占拠され、最後の反撃を試みるケレンスキーも倒れた。 

≪043≫  残るはどこがソヴィエト権力を握るかである。武装蜂起に参加したエスエル(社会革命党)左派は除名処分され、左翼社会革命党として独立して、十二月九日のボリシェヴィキとの連立政権の確立に応じた。しかしその後のエスエルは憲法制定議会に全権力を集中させることを要求して、レーニンが示した「憲法制定議会はブルジョワ共和国の最高形態だが、われわれはもはやそれより高度なソヴィエト共和国にいる」という見解と対立した。 

≪044≫  翌一月五日に開かれた憲法制定議会はエスエルが主導することになり、ボリシェヴィキの提案は否定された。ところが翌日、レーニンは人民委員会議の名によって憲法制定議会を強制的に解散させ、一月十日に「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国」の成立を宣言したのである。ロシア十月革命は最後の数週間でとりあえず成就した。世界中がびっくりした。また、警戒した。 

『哲学ノート』

≪045≫  世界大戦は囂々と進行していた。レーニンは「四月テーゼ」以来、一貫して戦争放棄を主張していたから、すべての交戦国に対して無併合・無賠償の講和を要請するのだが、フランスもイギリスも他の連合国もまったく無視した。そこで、ソヴィエト政府はドイツとオーストリア゠ハンガリーとの単独講和に踏み切るべくブレスト・リトフスクでの交渉に入る。トロツキーが交渉に当たった。 

≪046≫  ここでソヴィエトに三つの方針が分かれた。講和ではなくロシア革命をヨーロッパに波及させるべきだというブハーリン派、ドイツ側の条件を受け入れて次の展開に備えるというレーニン派、ドイツに革命を勃発させるべく交渉を引きのばすべきだとするトロツキー派である。 

≪047≫  最初はトロツキーの路線が支持を得て、一月二七日にドイツ側の要求を却下したのだが、ドイツ軍がロシアへの攻撃を再開してロシア軍が潰走するに及んで、レーニン案が浮上した。三月三日、ブレスト・リトフスク条約が締結され、ロシアは講和と引き替えにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ、ザカフカスの一部を手放した。のちにドイツ敗北後、この条約を破棄するのだが、ウクライナ以外はそのまま独立に進んだ。エスエルは講和条約に反対して、連立政権から脱退した。 

≪048≫  連合国側は、こうしたソヴィエトの革命政権をこのまま容認できない。各国は口実をつくって出兵や駐屯を試みる。アメリカ・日本はシベリア出兵を、イギリスは白海沿岸都市の占拠を、それぞれ狙った。もしここで、ソヴィエトが動揺するか、甘くなっていたら、その後のソ連はない。 

≪049≫  この緊迫した情勢に、各地で激しい内戦が飛び火していった。ネストル・マフノの抵抗が激しかった。エスエルは白軍を、ソヴィエト中央はトロツキーのもとで赤軍を、この両者に属さない部隊は緑軍を組織する。全土が大戦に続く内戦のため生産力が落ち、食糧が絶え、最悪の経済危機と生活難を強いられた。ソヴィエト政府は「戦時共産主義」を断行した。私企業を禁止してあらゆる産業を国営化し、農村からは穀物を割当て徴発して、いっさいを配給制に切り替えたのだ。失敗だった。ロシア経済は壊滅的になる。農民は叛乱し、労働者は深刻な食糧不足に追いやられた。 

≪050≫  この苦境を突破するため、ボリシェヴィキは一党独裁を強め、他のすべての政党を非合法化し、秘密警察チェーカーは裁判所の決定なく逮捕と処刑ができるようにした。のちのKGBの前身である。 非合法化されたグループや反革命軍にはレーニン暗殺を企てる者たちが出現した。政府はこれらに「赤色テロル」を宣誓して過激な報復を加えた。退位後は監禁されていたニコライ二世とその家族は、反革命軍が奪還するおそれがあるというので銃殺された。 

『哲学ノート』

≪051≫  内戦は一九二〇年末まで続いた。内戦中に赤軍に対抗する白軍に所属し、その後国外に大量亡命した者たちは、総じて白系ロシア人と呼ばれた。 

≪052≫  一九二一年三月、バルト海艦隊の拠点であったクロンシュタットで、水兵たちが反政府叛乱をおこした。軍艦ペトロパブロフスク号での集会では、言論・集会の自由、農業・家内工業に対する統制の解除、すべての政治犯の解放、勤労人民への配給の平等など十五項目の決議が採択された。まっとうな要求であったが、粉砕された。ジノヴィエフは軍隊を送り込み、トロツキーは赤軍による二度の鎮圧攻撃を指令した。 

≪053≫  クロンシュタットの叛乱によって、ソヴィエト政府は統制経済を緩めざるをえなくなった。ここに政策転換されたのが「ネップ」(新経済政策)である。ソヴィエトは共産党と改称される。 

≪054≫  こうして一九二二年十二月三十日、ソヴィエト社会主義共和国連邦(USSR)の建国が宣言された。マルクス・レーニン主義による世界史上初の社会主義国家が樹立されたのである。どんな歴史にも出現したことのない国家だった。マルクスはこれを予想し、レーニンはその実現を達成したのである。驚嘆すべき国家だった。 一年後、レーニンは死ぬ。一九二四年一月二一日、まだ五三歳だった。ヨシフ・スターリンがこれを継いだのだが、スターリンの「ソ連」はさらに驚くべき体制を地上に出現させた。 

『哲学ノート』

≪055≫  ついついロシア革命の経過をかいつまんだため(とうていかいつまめないのだが)、いささか煩瑣になってしまったが、レーニンとはこの異様な革命経過そのものなのである。決断も矛盾も目白押し、「やる」も「やられる」も、弾圧も排除も犠牲ものべつ踵を接し、イニシアティブをいつ誰がどこで獲るかの革命人生だった。 

≪056≫  レーニンの読書はいつまでも続かなかったわけである。一九一七年の二月革命で、いままで追放されていた革命家たちが亡命先からペトログラードに戻ってくると、いよいよレーニンの出番となったからだ。あの劇的なペトログラード到着と「四月テーゼ」の発表以来、レーニンは革命パンフレットの執筆者となり、さらにボリシェヴィキ革命グループの中心リーダーとなって、読む者から読まれる者に変貌をとげたのである。その直後、病没した。 

≪057≫  レーニン亡きあとのソ連は長らくスターリン独裁の時代になった。マルクス・レーニン主義は国家イデオロギーになり、計画経済と集団農場化が推進されたけれど、一〇〇万人ともそれ以上とも言われる粛清や圧殺が進行した。スターリニズムである。第二次世界大戦後は「鉄のカーテン」が築かれ、東欧諸国や東ベルリンをソ連の親衛隊にすると、欧米諸国との冷戦に突入していった。 

≪058≫  スターリン死後も、フルシチョフやブレジネフが冷戦を継続させるのだが、一九八〇年代後半になってゴルバチョフがグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革運動)を断行し、北欧型の社会民主主義への転換を遂げると、折からの東欧の民主化の嵐の中、ついにソ連は崩壊した。いまやプーチンはめったにレーニンの話をしなくなっている。 

『裏切られた革命』①

≪01≫  青年トロツキーはナロードニキ(narodniki)だった。オデッサのドイツ系実業学校ではプーシキン、トルストイ、ネクラーソフ、シェイクスピア、ディケンズ、ウスペンスキーを読み耽った。無神論が好きだったのだ。 

≪02≫  マルクスの著作にもマルクス主義にも触れた。最初のノリは悪かったが、ロシアや世界が「革命」に向かうことには血が躍った。だから秘密組織や党派活動には体が動いた。何度も逮捕・投獄・流刑を強いられるうちにマルクス主義を受容し、革命家になる決意を深めていった。 

≪03≫  トロツキーはユダヤ人である。ユダヤ人だったけれど、ユダヤ教にもキリスト教にも惹かれず、家族もイディッシュ語ではなくロシア語とウクライナ語を話した。生まれ育ったのがウクライナ南部のエリザヴェトグラード近くの小村だったのである。妹のオリガがとてもラディカルで、のちにボリシェヴィキの指導者の一人のレフ・カーメネフと結婚した。 

≪04≫  一八七九年の生まれだから、レーニンの九歳年下で、スターリンやサヴィンコフ(ロープシン)とは同い歳になる。ただしトロツキーは本名ではない。本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインという。レーニン同様に仮名をよく使ったが、二四歳のころにレフ・トロツキーを名のった。レフは「ライオン」である。 

『裏切られた革命』

≪05≫  トロツキーを知るというのは読み手にとってはちょっとした事件であろう。ぼくのばあいは、トロツキーという名前とトロツキズムという言葉は同時に入ってきた。早稲田に入る前に早稲田に通っていたころ、近くのサテン(喫茶店)で、いつも両切りピースを口から離さないYTという上級生からトロツキーという名を聞いた。その甘美で異様な口吻が気になって最初に『文学と革命』を、ついで『永続革命論』を読んだ。 

≪06≫  そのあと現代思潮社から対馬忠行らの努力によってトロツキー選集が出はじめて(トロ選と愛称していた)、それを刊行順に先輩から借りてどきどきして拾い読むのだが、当時の選集には『裏切られた革命』が入っていなかったので(一九六八年に追加)、そのうち高田馬場の古本屋で本書を見つけたのだったと憶う。 

≪07≫  すでに早稲田には反スターリニズムの怒号が吹きすさんでいた。だから内容に驚くことはなかったけれど、革命というものが、いつ、どのように裏切られていくのかということを覗くのは、とんでもなく秘密めいていた。 

≪08≫  しかし、さすがのトロツキーもすべての事情を書けるわけではない。スターリンを名指しでこきおろすこともしていない。だから、トロツキーの生涯やその時代の凄惨な歴史に腰を抜かすほどに驚かされたのは、アイザック・ドイッチャーの三部作に出会ってからのことだ。『追放された予言者』『武装せる予言者』『武力なき予言者』の三部作(新潮社)で、山西英一らが一九六四年に和訳した。きわめて詳細で、凄かった。 

『裏切られた革命』

≪09≫  トロツキーは語学やリテラシーに強く、書き手としての才能に充ちていた。論述力にすぐれ、文章に歴史的対峙力がみなぎっている。その才能は持ち前でもあったろうが、獄中や流刑地で磨きがかかったとおぼしい。  

≪010≫  大杉栄の「一犯一語」がそうだったように、革命家たちは獄中で才能を磨く。トロツキーの最初の投獄は十八歳のときの一八九八年である。革命煽動の小冊子を書いて配布したところ、二〇〇人の仲間とともに逮捕され、裁判まで二年、一九〇〇年にはシベリア流刑四年の判決を受けた。こういう投獄や刑期が思想や行動に何をもたらすのかわからないけれど、ぼくが知っている友人や知人がどうなったかといえば、どんな主義主張であれ、監獄ではうんと深まっている。日常がないのだから、そうなるのだろう。 

≪011≫  シベリア・イルクーツク地方のウスチクートとヴェルホレンスクに流されたトロツキーは、オデッサで獄中結婚していたアレクサンドラ・ソコロフスカヤと二人の娘をもうけて、革命学習に集中した。もうひとつ、流刑地で練り上げたことがある。少しずつ送られてくる革命運動のニュースを吟味しながら、前衛的革命党には紛争と紛糾がつきもので、その渦中で規律をつくっていくにはどうするかということを考えたのだ。 

≪012≫  しかし、居ても立ってもいられなくなったトロツキーは、一九〇二年の夏、刑期半ばでシベリアから脱走した。脱走しても、潜伏は続けなければならない。ロンドンに身を隠しながら、機関誌「イスクラ」を刊行するロシア社会民主労働党に依拠した。プレハーノフ、レーニン、マルトフらと出会った。 

≪013≫  一九〇五年、事態が大きく動いた。いわゆる「血の日曜日事件」がおこりロシア全土にゼネストが拡大し、ロシア第一革命になる。この動乱のなかでトロツキーはペトログラード・ソヴィエトのリーダーの一人になり、反レーニンのメンシェヴィキからレーニン中心のボリシェヴィキに活動位置を移した。とたんに逮捕され、ふたたびシベリア流刑を言いわたされた。今度は終身流刑だ。 

≪014≫  絶体絶命かと思われたが、こんなことには甘んじられない。護送中に敢然と脱走すると、ウィーンに亡命した。このウィーンで書いた草稿が「プラウダ」に発表された『永続革命論』である。 

『裏切られた革命』

≪09≫  トロツキーは語学やリテラシーに強く、書き手としての才能に充ちていた。論述力にすぐれ、文章に歴史的対峙力がみなぎっている。その才能は持ち前でもあったろうが、獄中や流刑地で磨きがかかったとおぼしい。  

≪010≫  大杉栄の「一犯一語」がそうだったように、革命家たちは獄中で才能を磨く。トロツキーの最初の投獄は十八歳のときの一八九八年である。革命煽動の小冊子を書いて配布したところ、二〇〇人の仲間とともに逮捕され、裁判まで二年、一九〇〇年にはシベリア流刑四年の判決を受けた。こういう投獄や刑期が思想や行動に何をもたらすのかわからないけれど、ぼくが知っている友人や知人がどうなったかといえば、どんな主義主張であれ、監獄ではうんと深まっている。日常がないのだから、そうなるのだろう。 

≪011≫  シベリア・イルクーツク地方のウスチクートとヴェルホレンスクに流されたトロツキーは、オデッサで獄中結婚していたアレクサンドラ・ソコロフスカヤと二人の娘をもうけて、革命学習に集中した。もうひとつ、流刑地で練り上げたことがある。少しずつ送られてくる革命運動のニュースを吟味しながら、前衛的革命党には紛争と紛糾がつきもので、その渦中で規律をつくっていくにはどうするかということを考えたのだ。 

≪012≫  しかし、居ても立ってもいられなくなったトロツキーは、一九〇二年の夏、刑期半ばでシベリアから脱走した。脱走しても、潜伏は続けなければならない。ロンドンに身を隠しながら、機関誌「イスクラ」を刊行するロシア社会民主労働党に依拠した。プレハーノフ、レーニン、マルトフらと出会った。 

≪013≫  一九〇五年、事態が大きく動いた。いわゆる「血の日曜日事件」がおこりロシア全土にゼネストが拡大し、ロシア第一革命になる。この動乱のなかでトロツキーはペトログラード・ソヴィエトのリーダーの一人になり、反レーニンのメンシェヴィキからレーニン中心のボリシェヴィキに活動位置を移した。とたんに逮捕され、ふたたびシベリア流刑を言いわたされた。今度は終身流刑だ。 

≪014≫  絶体絶命かと思われたが、こんなことには甘んじられない。護送中に敢然と脱走すると、ウィーンに亡命した。このウィーンで書いた草稿が「プラウダ」に発表された『永続革命論』である。 

『裏切られた革命』

≪015≫  永続革命論のシナリオは、レーニンの二段階革命論に対立する。レーニンは帝政を倒すにはまず労農独裁力によって民主主義革命をおこし、そのうえでプロレタリア独裁をめざすとしたのだが、トロツキーはブルジョワジーや労農連合体には民主主義革命を遂行する能力はないと見た。 

≪016≫  後進国においての革命は、プロレタリアートにしか実現できない。トロツキーは一挙に権力奪取に到らないかぎり、革命は成就しないと見抜いたのだ。レーニンはそんなやりかたは農民を無視しているもので、歴史をとびこしすぎていると批判したのだが、実際に二月革命が近づくと、レーニンも「四月テーゼ」を出してボリシェヴィキによる権力掌握に舵を切ったのである。 

≪017≫  このレーニンの転換に仲間はかなり驚くのだが、ここはレーニンのほうがトロツキーに近づいたため、ロシア革命が成就したわけである。ロシア革命史上、最も大きな〝転位〟だ。二人の協力関係はレーニンの死まで続く。  

≪018≫  トロツキーの永続革命論はぶっちぎり革命論である。中断や延滞や躊躇がない。最後衛が一気に最前線まで駆け上がり、並みいる現状を暴力的に突破する。トロツキズムと言われるゆえんだが、トロツキー自身は若きマルクスのブント時代の提起にもとづいたと言っている。 

≪019≫  のちにトロツキーが書いた『ロシア革命史』(岩波文庫)を読むと、トロツキーの関心は先進国になくあくまで後進国をどのように革命状態にさせるかということに集中していたことが、よくわかる。後進国は先進国の発展のプロセスを辿るのではなく、先進国や技術革新の成果を採り入れて、飛躍的に階級を駆け上がるのだから、その勢いのまま革命を永続していくべきだというのである。「複合的発展の法則」とも書いている。 

『裏切られた革命』

≪020≫  一九一四年に第一次世界大戦が始まり、ロシアも連合国としてドイツとオーストリア゠ハンガリーと戦端を開くことになった。革命家にとっては、この戦争状態をどのように革命状態にしていくか、である。 

≪021≫  しかし、トロツキーはいまだ〝犯人〟のままなので、スイスやフランスに潜伏しながら「論陣」による革命状態のつくり方を訴求する。まずはスイス社会党に依拠して「反戦」を訴えた。ところがフランスに入っているうちに、身元がバレた。すぐさまスペインに逃れ、そこから一転、ニューヨークに入り、そこでブハーリンらとロシア語新聞などで挑発を続けた。 

≪022≫  一九一七年、ニューヨークを抜けてロシアに入り、ここからはいよいよ二月革命の驀進に身を投じる日々になる。七月にボリシェヴィキに入党すると、九月にはペトログラード・ソヴィエトの議長として、十月革命では軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を仕切った。レーニンが革命政権の指導者に就くと、戦争を終結させるべくドイツとの秘密交渉に当たり、ブレスト・リトフスク条約締結の裏舞台をつくった。 

≪023≫  一九一八年二月、トロツキーは最高軍事会議議長のポストに就いて、国内の内乱や反乱の鎮圧に乗り出すための「赤軍」を組織する。数百数千人の隊員はまたたくまに五〇〇万人の部隊になったのだが、その任務は反乱軍や反乱兵士を軒並み制圧・殺害するというもので、これによってネストル・マフノの画期的なパルチザン活動(マフノ・アナキズム運動)も跡形もなく撃沈されていった。 

≪024≫  その矢先、レーニンが死ぬ。十月革命で最大の推進力を発揮したのはトロツキーであったが、中央委員会ではスターリンらの三人組が擡頭した。トロツキーは左翼反対派や合同反対派の一員として排除され、一九二五年には軍事担当を解かれ、一九二七年にはいっさいの役割から放逐された。スターリンは永続革命論を極左冒険主義として唾棄し、一九二九年にはソ連国外追放となったのである。 

『裏切られた革命』

≪025≫  トロツキーは一九三五年に亡命先をフランスからノルウェーに移して、そこで本書を書いた。もとより執筆能力の旺盛なトロツキーだったので、あっというまに書き上げたのだろう。原題は『ソ連とは何か、そしてどこへ行くのか』というものだった。それがフランス語版で『裏切られた革命』になったのをトロツキーも承認した。このタイトルは、本書執筆の一九三六年の十二月にスターリン憲法が制定されたことを思うと、まさにふさわしい。トロツキーが本書で言いたかったことは「スターリンのソ連には社会主義はまったく存在しない」ということだったからである。 

≪026≫  四年後の一九四〇年、トロツキーはメキシコ郊外の寒村でピッケルで脳天を打ち砕かれて死んだ。スターリンの差し金であることが明白になっている。 

『裏切られた革命』

≪027≫  スターリンは最初はシケイロスを隊長とする二〇名ほどの暗殺団にトロツキーを狙わせたのだが、これは失敗した。ダヴィド・シケイロスといえばメキシコを代表する画家であるが、第二次世界大戦中の当時のメキシコは画家が暗殺を計画するような、そういうメチャクチャで、行方知れずの情勢だった。このあたりの情勢はあまりに複雑すぎて説明しきれないが、トロツキーはシケイロスに狙撃される前はフリーダ・カーロの「青い家」に隠れていて、そこは画家のディエゴ・リベラが譲ったものだった。革命画家たちのあいだも二つ以上に割れていたわけである。リベラとカーロ、それに対抗してシケイロスがいて、メキシカン・リアリズムは革命的沸騰と革命的退廃の両方を演じようとしていたわけだ。その両方にトロツキーがかかわっていた。 

≪028≫  それはともかくシケイロスはトロツキー暗殺に失敗した。そこでスターリンは、トロツキーの女性秘書の恋人役になりすました青年暗殺者を送りこむ。青年は首尾よく六十歳のトロツキーの脳天をぶち抜いた。トロツキーはこのテロリストをすっかり信用していたらしい。遺言は「第四インターナショナルを前進させてほしい」だった。 

『裏切られた革命』

≪029≫  死にざまだけを見ても、トロツキーの人生がとんでもなく意外性に富んだ生涯だったことの見当がつく。最初はシベリア流刑と脱走が、次にはレーニンとの共闘と対立が、ついではトロツキーが組織した赤軍の闘いが、そして最後にはスターリンの「一国社会主義論」とトロツキーの「永続革命論」との決定的対立が、トロツキーをして二十世紀史上最も高速過激な人生を送らせることになったのだ。 

≪030≫  トロツキズムやトロツキストというものは、こうした「トロツキーの見果てぬ夢」を追うという感慨に、どこかつきまとわれている。そこには、「革命と反革命」「一国ローカリズムと世界インターナショナリズム」「前衛と後衛」「革命的独裁主義と革命的民主主義」「官僚群と労働者」「一時性と永続性」「忠誠者と反逆者」といった、一筋縄では議論しきれない巨大で深遠な対比項が渦巻きつづけている。 

≪031≫  トロツキー自身がそのようなリミナルな極限状況を好んで革命思考をしたせいでもあった。だからトロツキーが暗殺されたのは、どこかで誰もが予想していた悪夢でもあったのだ。トロツキーは最初から最後まで裏切られた革命家だったのである。 

『裏切られた革命』⑩

≪032≫  本書には、早稲田時代にぼくが2Bだかの鉛筆で引いた傍線がのこっている。それを見ると、ぼくはトロツキーの「複合的発展の法則」という言葉にずいぶん関心を寄せている。また「過渡期の制度」とか「文化的創造」といった言葉にもかこみがついている。寺山修司はこう詠んでいた、「冷蔵庫のなかのくらやみ一片の肉冷やしつつ読むトロツキー」。  

≪033≫  トロツキーは読んだほうがいい。『トロ選』のほかに、多くの著作が和訳されている。ぼくは『文学と革命』などにも瞠目した。未来派についての適確なアート・センスが吐露されている。前半生については『わが生涯』(岩波文庫)が一九一七年の二月革命前後まで、詳しい。『レーニン』『ニーチェからスターリンへ』(ともに光文社古典新訳文庫)は、きわめて興味深い思想批評になっている。ニーチェ、レーニン、ブハーリン、スターリン、ヒトラーなどを独得にプロフィールさせている。 

≪034≫  ロシア革命を内側から見たものとしては、本書とともに『ロシア革命史』全五冊(岩波文庫)、『革命はいかに武装されたか』(トロ選第Ⅱ期・現代思潮社)がある。 

≪035≫  評伝も多い。大作はドイッチャーの三部作だが、ロバート・サーヴィスの『トロツキー』上下(白水社)やジャン・ヴァン・エジュノールの『亡命者トロツキー』(草思社)もわかりやすい。最期のトロツキーの日々については小泉英敬の『メキシコ時代のトロツキー』(新泉社)が涙ぐましいほどに追っている。ついでながら評伝ではないが、安彦良和のマンガ『虹色のトロツキー』(中公文庫コミック)は、石原莞爾が満州にトロツキーを迎えようとした半ば架空の顛末を描いていて、やたらにおもしろい。トロツキー、たしかに虹色だったかもしれない。 

≪036≫  評伝も多い。大作はドイッチャーの三部作だが、ロバート・サーヴィスの『トロツキー』上下(白水社)やジャン・ヴァン・エジュノールの『亡命者トロツキー』(草思社)もわかりやすい。最期のトロツキーの日々については小泉英敬の『メキシコ時代のトロツキー』(新泉社)が涙ぐましいほどに追っている。ついでながら評伝ではないが、安彦良和のマンガ『虹色のトロツキー』(中公文庫コミック)は、石原莞爾が満州にトロツキーを迎えようとした半ば架空の顛末を描いていて、やたらにおもしろい。トロツキー、たしかに虹色だったかもしれない。 

≪037≫ (付記)目安の大きさ 

官僚国家の崩壊①

≪01≫  原題は『ヴォルテールの末裔』である。すばらしい標題だ。中身のほうも、邦訳書名からは想像できないほど、領域の広さと機知のタイミングに富んでいる。 

≪02≫  だいたい本書の中身は官僚国家の腐敗や崩壊を描いているのではない。そういうことも含まれているが、もっと広範に民主主義と資本主義の複雑なからみがつくる国家と組織の支配の仕方を問題にしている。だからこの書名はあやしいと言ったほうがいい。 

≪03≫  書名もそうだが、邦訳書はもうひとつ損をしている。ぼくは書店で手にとろうとしたときに、帯に「カレル・ヴァン・ウォルフレン氏、猪瀬直樹氏激賞!」と大きく打ってあったので、たじろいだ。ウォルフレン・猪瀬コンビではあまりに狭い。仮にこの二人が激賞していたにせよ、こんなふうに片寄った激賞にしないほうがよかった。もうひとつ注文がある。邦訳書は7・8・9・11章を割愛してしまった。この割愛はあまりに多すぎる。著者はカナダ人の作家で、本書に10年をかけたのだ。すでに邦訳書で上下2冊になっているのだから、割愛することはなかった。 

≪04≫  と、まあ、そんな事情で原著者には気の毒な印象があるので、ここでは以下、著者の言葉だけで綴ってみることにした。こういう紹介もあっていいだろう。 

≪05≫  引用は随所から採った。それでも以下の文章がひとつながりの論旨に見えるようなら、おなぐさみ。括弧の中を除いて、一言も鈴木主税の翻訳文を変えてはいない。ちなみに以下は、「セイゴオ読書術」のひとつの、マーキング読書術による"編集"で、全体を読みながらまずさまざまなマーキング(傍線や囲みや書きこみ)をし、そのうちの、ある特定のマーキングをしたフレーズやセンテンスだけを取り出して、再度、再々度、これらを自在に入れ替えてつくったものである。必ずしも著者の論旨の順ではない。しかし、それが読書というものなのである。  

官僚国家の崩壊②

≪06≫  aわれわれ欧米人が何をしてきたかといえば、3つの要素を、それがもともと家族であるかのようにごたまぜにしてきたのだ。3つの要素とは、民主主義と理性と資本主義である。 

≪07≫  bわれわれはともすると、西欧のこうした精神分裂症を国家の利益やイデオロギー闘争のせいにしがちである。(しかし)、b民主主義は西欧のさまざまな地域で、知性とはほとんど関係なく常識の産物として生まれた。cそれは組織的でもなければ分析的なものでもない。d資本主義は所有権および収入を分ける方法でしかない。e資本主義とは、社会に実在する動的な要素を所有し、使うことである。fだが今日、資本主義とされているものは、利潤動機とよばれるものを中心に動く。 

≪08≫  (3番目の)g理性は公平な行政手段にすぎなかったのである。g理性が所有しているのは、完璧に構築され、完璧に統合されて、完璧に自己正当化のできる制度なのである。(他方)h盲目的な理性がすべてをつなげる鎖の役目をはたしている。 

≪09≫  iそもそも民主的な政府と合理的な行政が結びついたからこそ、ほぼこの2世紀のあいだに社会的なバランスが劇的に改善されたのである。jとはいえ、その過程で、なぜどのようにしてこの両者が提携するようになったかという実際的な認識が失われてしまった。その結果、両者の役割が逆転することになった。k管理することがしだいに目的と化し、民主政治の指導者はそれにしたがわざるをえないと思うようになった。  

≪010≫  lその結果、民主政治の機能が衰えて、単なる手続きに堕してしま(った)。m効果と速度という技術的な道具のほうが価値があるとされるようになったのである。n合理的なメカニズムがこれほど容易に18世紀の哲学者の意図と正反対のことをするのに使われている。o言いかえると、社会全体のコンセンサスといった理念がむしばまれてきたのである。 

≪011≫  p一つの国家で、また多くの国家間で、富と倫理がこのように操作されることに加え、完全にそれと平行する世界がのしてきた。金融世界である。qこの管理を欠いた書類上の経済がもたらしてきた影響は、社会に催眠術をかけるようなもので、それは企業買収の世界にあらわれている。

官僚国家の崩壊③

≪012≫  r現在は大いなるコンフォーミズム(体制順応主義)の時代である。西欧文明の歴史において、これほど絶対的なコンフォーミズムの時期はまずほかにないだろう。s精神、欲望、信仰、感情、直観、意志、経験――そのどれもがわれわれの社会の営みと関連していない。そのかわり、失敗した、罪をおかしたと言うと、われわれはそれを無意識のうちに非合理な衝動のせいにしている。 

≪013≫  (しかしながら)t人間を全体的な存在としてとらえるわれわれの意識――つまり意識的な記憶――は徹底的に粉砕されたので、われわれはいかにして公の法人組織である当局をしてその行動の責任をとらせるかについて、何の考えももてない。(こんなことではおそらく)u詭弁と偽善の現代文明は、これからの10年間でその真価を問われるだろう。(そうでないのなら、せめて)v文明の真髄はスピードではなく、考えることに向かわなければならない。 

≪014≫  (これまでは)w現代の解決策は、憲法と法律によって基準を設定することだった。xだが、憲法や法律は、われわれには容認しがたいほどに、それを管理する人の意志に支配される。(そこで、これからは)y社会全体として必要なのは、道徳を多様化することではなく、それを抽象化することである。zわれわれはいま、われわれ自身の過ちのなかにいるのだ。

「無心の歌・有心の歌」

≪01≫ くっくっく、ウィリアム・ブレイクをキャンディなウィスキーボンボンにしてはいけない。ブレイクは“辛し明太子”なのである。 

≪02≫  「ラッパ吹きが帽子にうんこする」。これはエピクロス学派であろう。ピタゴラス学派が「それを頭にかぶるのさ」と言った。まるで長新太のイラストレーションのようでもあるが、これは『月のなかの島』の一節だ。 

≪03≫  ウィリアム・ブレイクをたんなる神秘主義者に見たり、幻視者などと見てはいけない。ふっふっふ、ブレイクはたいそうな激辛なのである。そのうえで揶揄の天才であって、かつまた夜想者(夜陰の紛れ者)なのである。ぼくが子供にこそ見せたいと思ってきた『天国の門』の口絵には芋虫がいて、その下に「人間とは何か」に始まる詩句がきざまれた。 

≪04≫  もっとはっきりいえば、世界最初のキリスト教無神論者なのである。ぐっぐっぐ、ブレイクは三位一体を否定し、そのくせつねにイエスの内側に立ったのだ。ブレイクは歴史を錯誤する者なのだ。 

「無心の歌・有心の歌」

≪05≫  ブレイクは社会の日々なんかより、ずっとメタなところにいた画家である。ずっとレアなところにいた詩人である。それにもかかわらず、社会に背中を向けてはいなかった。社会に向かってメタだったのだ。  

≪06≫  ブレイクはそのころは雨後の筍のように輩出していたロンドンのジャーナリストたちの言動に、いつも激しく噛みついていた。対岸のフランス革命を讃え、そして批判した。ラファイエットとロベスピエールの両方を睨んでいた。神と悪魔は現実社会の中にこそいることを見ていた。だからこそ、詩篇『ティリエル』にはイギリス人とフランス人たちの理性の悲劇が歌われていた。 

≪07≫  もっとわかりやすくいうのなら、傑作『天国と地獄の結婚』とはフランス革命のことだったのだ。しかし、このようなブレイクの姿は、ずっずっず、まだまだブレイクの仮の姿だったのだ。 

≪08≫  メタでレアなブレイクは、リヴァイアサンなどとうてい許しっこない。国家よりもずっと大きくてずっと流動的なものに憧れていた。リヴァイアサンなどつまらなかった。そこには対立がないからだ。ブレイクは「対比」をこそ歌った詩人なのである。 

≪09≫  ブレイクは天使の放縦も許さない。そこにはぞっとする想像がないからだ。スティーブン・キング君、わかるかな。ブレイクにとっての想像とは真の「想起」なのである。ごっごっご、その最も恐ろしい想起とは「神の死」というものである。ブレイクの無神論的神学は「神の死の神学」なのである。ヘブライズムに根差したものなのだ。 

「無心の歌・有心の歌」

≪010≫  だからこそ『ヨブの書』の挿絵では、なんと神を退場させて、そこへイエスを登場させたのである。旧約の中にイエスがあらわれたのだ。のちにブレイクがカバラやドルイド教に心酔していたのではないかと推測された所以であった。 

≪011≫  けれどもブレイクは、カバリストでもドルイド教徒でも、アウグスティヌスが回向したマニ教徒でもなかったのだ。 

≪012≫  ブレイクは預言者ではない。預言者などにはなりたくなかった。だからこそ「閉ざされた知覚」と「老いたる無知」に刃向かった。しかし、そうしているうちに、自身の言葉が預言書(prophecy)めいてきたことを自覚した。ここがブレイクが最も恐ろしい面を見せたところであるだろう。 

≪013≫  そこでブレイクは、象徴たちが次々に自己分裂しつづける文字通りの預言書を書いたのだ。それが三大預言書とよばれる『ヴァラあるいは四人のゾア』『ミルトン』『エルサレム』である。九夜にわたる『ヴァラ』には143種にのぼる象徴があらわれている。 

≪014≫  そのほか『ユリゼンの書』『アメリカ』『ヨーロッパ』『ヨブの書』も、いま読めばどこもかしこも預言書めいている。『アメリカ』の最後の一行には「五つの門は破壊され、締釘も蝶番も溶けさり、烈しい炎は天国と人々の住居のまわりに燃えさかった」とあるのだし、『ヨーロッパ』の冒頭には「なぜなら盗んだ喜びが甘く、盗んだパンは秘密の愉しさのなかで食われる」と書いてある。まるで21世紀のアメリカとEUを撃っている。 

≪015≫  そのうえ、この預言書めいた各書の扉の下部には、蛇に巻きつかれた蝙蝠の翼をもった人間が版画されていた。だから言わないこっちゃない。ブッシュとブレアは、『アメリカ』と『ヨーロッパ』をこそ読むべきだった。 

「無心の歌・有心の歌」

≪016≫  ウィリアム・ブレイクの名はそうとうに知られていると思うのだが、ブレイクを論じたり語ったりすることは、どうも日本人には苦手らしい。並河亮を除いて、本格的なものはむろん、気の利いたものも読んだおぼえがない。 

≪017≫  大正3年4月に「白樺」はブレイク特集をする。柳宗悦が137頁におよぶ「ヰリアム・ブレーク」を書いた。なかなかせつないものである。バーナード・リーチも短文を寄せ、ブレイクが難解なのはスウェデンボルグの影響のせいだというようなことを書いている。これでブレイク熱はイエーツやホイットマンとともに日本の知識人のあいだに蔓延したのだが、そのブレイク像は「叙情と神秘の画家詩人としてのブレイク」にとどまっていて、『ミルトン』や『エルサレム』などの長詩にはまったく目を向けられなかった。 

≪018≫  日本のブレイク解釈の狭さはどうもこのあたりに遠因があるようで、その後も「ブレイクはいいですねえ」というので、念のため話を聞いてみると、たいていは版画の幻想趣味と『無心の歌・経験の歌』(本書では『無心の歌・有心の歌』)と『天国と地獄の結婚』のブレイクだけになってしまっいる。みんながみんな、ロマンチックになりすぎている。 

「無心の歌・有心の歌」

≪019≫  これでは、かのダンテ・ガブリエル・ロセッティが惚れたブレイクだけが日本にやってきて花を咲かせたというようなもの、顰めっ面で壮絶なヤーコブ・ブロノウスキーの『仮面を脱いだブレイク』(1946)や、“原型的批評”による直観像のみを写し出したノースロップ・フライの『恐ろしきシンメトリー』(1947)によるブレイクは、まったく語られてこなかったということになる。 

≪020≫  むっ、むっ、むっ、こんなブレイク、ブレイクではあるわけがない。もっとも日本人にとってのブレイク像が狭いというよりも、もともとブレイクは後世に謎をかけた人物だったのだ。言葉と絵柄のマジシャンだったのだ。いわば「逆-花咲か爺」だったのだ。これではいまもってブレイクを誰もが読み違えることによってしか、ブレイクには近づけないということになる。 

≪018≫  日本のブレイク解釈の狭さはどうもこのあたりに遠因があるようで、その後も「ブレイクはいいですねえ」というので、念のため話を聞いてみると、たいていは版画の幻想趣味と『無心の歌・経験の歌』(本書では『無心の歌・有心の歌』)と『天国と地獄の結婚』のブレイクだけになってしまっいる。みんながみんな、ロマンチックになりすぎている。 

「無心の歌・有心の歌」

≪019≫  これでは、かのダンテ・ガブリエル・ロセッティが惚れたブレイクだけが日本にやってきて花を咲かせたというようなもの、顰めっ面で壮絶なヤーコブ・ブロノウスキーの『仮面を脱いだブレイク』(1946)や、“原型的批評”による直観像のみを写し出したノースロップ・フライの『恐ろしきシンメトリー』(1947)によるブレイクは、まったく語られてこなかったということになる。 

≪020≫  むっ、むっ、むっ、こんなブレイク、ブレイクではあるわけがない。もっとも日本人にとってのブレイク像が狭いというよりも、もともとブレイクは後世に謎をかけた人物だったのだ。言葉と絵柄のマジシャンだったのだ。いわば「逆-花咲か爺」だったのだ。これではいまもってブレイクを誰もが読み違えることによってしか、ブレイクには近づけないということになる。 

「無心の歌・有心の歌」

≪021≫  最近、ピーター・アクロイドの大部の『ブレイク伝』(1995)がみすず書房から翻訳された。これまでで最も長大なものではあったものの、なんともイマイチだった。 

≪022≫  決定的に欠けていたのは、ブレイクは「啓示」で動いていたはずなのに、生活で動いていたとしたがっているところであろう。ブレイクの実像を求め過ぎたのだ。なぜいまごろになってブレイクの実像が必要なのか、ぼくにはまったくわからない。ブレイクにとっては社会や生活は「“何か”が特殊化されすぎたもの」なのであって、現実そのものが何かを語っているなどということはなかったはずなのだ。かっかっか、そんなことはブレイク自身がとっくに易々と喝破していたことだ。 

≪023≫  その“何か”というのは、連続した啓示がつくるはずのヴィジョンやイデアのことである。社会生活も革命も戦争も、恋愛も家族の死も情実も、それらが歪みきったうえで蟠(わだかま)ったものなのである。それはブレイクにとっては「現世の殻」もしくは「魂なき廃墟の工場」なのだ。 

「無心の歌・有心の歌」

≪024≫  そもそもブレイクにおいては、象徴そのものが自己分裂や相互融合をくりかえしている。現実のものなどそのメタ分裂とレア融合の残滓にすぎなかった。 

≪025≫  すでに神話のなかの象徴たちが、次のようなラディカルすぎるほどの動向をおこしていた。 

≪026≫  ①「分裂と統合」を発生させ、②「対立と衝突」に向かい、③ヨブのごとき「拡大と収縮」を試み、④天地創造を模したダンテやミルトンの上昇と下降を願いながらも、やがて、⑤「重複」の悪魔に捉えられ、結局は、⑥「円環と渦動」という状態を露呈するものなのである。 

≪027≫  しかも、これほど波乱に富んでいて、なおこれらは支離滅裂にはなってはいない。おまけにメタシナリオの中の神話的象徴のほうがずっと現世的なのである。ガラスの破片なのだ。だから、現実社会でおこっていることたちは、それらに何枚ものフィルターと勘違いが加わった残滓だけなのだ。 

≪028≫  こうしてブレイクは、版画製作生活者として現世を満喫し、かつアメリカ独立戦争やフランス革命を同時代に実感し、それらに儚い期待も香ばしい失望も抱いたのであるが、実はブレイク自身が生きていたのは、「ブレイク一人の神話世界」ともいうべきメタシナリオの中だけだったのである。 

「無心の歌・有心の歌」

≪029≫  ブレイクのメタシナリオは『ヴァラ-ゾア』『ミルトン』、とりわけ『エルサレム』に顕著に示されている。また、象徴たちのイメージ変容は、ブレイクのスケッチや版画に著しい様相をもって描かれたので、誰もがだいたいのことを知っている。 

≪030≫  だが、だいたいのことではブレイクにはならない。ブレイクはそうしたイメージの変容には必ずや厳密なエンジンがあると考えていたからだ。たとえば、ブレイクがヤコブ・ベーメに魅かれたのはベーメの神には憤怒のエンジンが属していたからである。

≪031≫  こういうブレイクを見るには、むしろブレイクを映画的展開者の先駆者とみなすのがいいのではないかと思う。ぶっぶっぶ、ブニュエルや、ふっふっふ、フェリーニや、ぐっぐっぐ、グリーナウェイの先駆者、それがウィリアム・ブレイクなのだ。とくに『天国の門』の16枚の版画にはこの映画的先駆性が如実にあらわれている。

≪032≫  ということはブレイクは、グロテスクなイラストレーションとバロックなアニメーションの先駆者であって、神話のすべての物語運動を視覚化できた最初の表現者だったということなのである。ここまでは、わかりますね。 

≪033≫  それをブレイクの時代の言葉でいえば、ブレイクの先駆性は「インゲニウム」(ingenim)にあったということになる。インゲニウムとは構想のことである。ブレイクにとっては魂の構想力を司るエンジンだ。 

「無心の歌・有心の歌」

≪034≫  かくしてブレイクは、生涯をかけて一本の神話映画をつくったのだ。そのタイトルが「インゲニウム」というものだ。  

≪035≫  このインゲニウムを、ブレイクは最初は前世代のスウェデンボルグの霊視の記述のなかに発見し、ついでダンテ、ミケランジェロ、ベーメ、ミルトン、バークリー、バークに再発見していくのだが、これらを「ブレイク一人神話」に引きこむには、そこに「エマネーション」(emanation)を加えることを思いつく。 

≪036≫  エマネーションとは魂が自己分離して放射状に形をなしていくものをいう。ブレイクはそのエマネーションをブレイク神話のアニメーション化(アニマ+モーション)に使っていく。そして放射状のエマネーションを自ら引き取って渦巻きにしてみせた。ぐるぐる、するする、ぶるぶると。 

≪037≫  本書『無心の歌・有心の歌』とはこの渦流化のプロセスを歌にしたものだ。 

「無心の歌・有心の歌」

≪038≫  こうして最後のブレイクが、67歳になったとき、ダンテ『神曲』の挿絵化に向かっていくことになる。 

≪039≫  ここでブレイクは無謀にも、ダンテの思索の訂正をイラストレーション上で試みたのだ。残念ながらこの試みはブレイクの死で中断されるけれど、それでもわれわれは102枚の下絵をもっている。 

≪040≫  この下絵をよくよく見ていると、驚くべきことに、ブレイクはダンテの『神曲』を書き替えていた。『神曲』は一枚ずつ少しずつ、ウィリアム・ブレイクの神曲になろうとして、しっしっしっし、まるで戸川純の歌のように脱皮しつづけていた。 

≪041≫  ふっふっふ、これこそ松岡正剛がかねてより得意なことだった。いまその魂は、りん、りん、りん、椎名林檎に受けつがれているはずだ。 

「変貌する民主主義」①

≪01≫  ぼくには、人前でのタバコの喫いすぎから生活能力の欠如まで、自慢できるほどいっぱいの欠陥があるのだが、それを仮に“思想方面”に絞っても(そういうことが仮りに可能だとして)、まだまだいろいろの欠陥がある。誰かがぼくを詰(なじ)ろうとすれば、その点をこそ問題にして批判したくなるような欠陥だ。ある領域、ある概念、ある傾向に対して、いちじるしい浅慮、脱落、歪曲、無知、逸脱があるわけだ。 

≪02≫  それをいまあれこれ披露しようというわけではないものの(それほどお人よしでも、敵に塩を配りたいというわけでもないが)、そのひとつに「民主主義」に対する度しがたい欠陥がある。ぼくは、この言葉、この概念、この意味、この体制が、どうにも苦手なのである。そのため、民主主義に対する基本的理解力が極端に低いと思わざるをえない。 

≪03≫  だいたい「多数決の原理」と「民主主義」が結託しているのがよくわからない。少数者の意見をちゃんと聞くのが民主主義なんですよと学校で教わったけれど、そのくせ結論はみんなが手を挙げて多数決で決まるのが民主主義なのである。 

≪04≫  いったい少数者に意見を求めたのは何だったのか。手を挙げさせたのは、恥をかかせるためだったのか。「入口の民主主義」は「出口の絶対主義」なのか。こんなことだから、どんな仕事にも参入障壁をなくせばそれですむと思っている市場主義者がふえるばかりなのではあるまいか。ぼくはそんなふうに思ってしまうほうなのだ。 

≪05≫  一方、これはぼくの子供時代に親戚のおじさんが京都の選挙に出て大勝利を収めたとき以来の不信だが、どんな人気とりをしても、どんなに資金をつぎこんでも、選挙の結果で勝ちさえすれば、それで民主的な評価を受けましたというのも、これは今度は「出口の民主主義」ばかりが強調されているとしか思えない。「入口の民主主義」と「出口の民主主義」はどうにもつながっていない。民主主義には、そういうところがいろいろあると言わざるをえないと感じてしまうのだ。 

「変貌する民主主義」

≪06≫  もうひとつ、民主主義によく似た言葉あるいは概念として「自由主義」があって、ぼくはこれがまた大いに苦手なのである。だから「自由民主主義」などと二つの言葉が重なると、ちょっと身震いがする。 

≪07≫  ただし、こちらにはぼくなりの思想も言い分も多少はあって、苦手ではあるけれど、また、自分でどんな文脈であれ「自由主義」という言葉を使うということはまずないだろうけれど、「自由」をめぐるというなら、これについての感想や考え方を自由主義者たちの議論にぶつけても、早々には辞去しないですむと思っている。  

≪08≫  しかし、民主主義という言葉は困る。「民主主義」も「民主」も、これまで一度もろくすっぽ考えてこなかった。だからアレクシス・ド・トクヴィルの『アメリカの民主主義』も、C・B・マクファーソンの『自由民主主義は生き残れるか』も、ロバート・パットナムの『哲学する民主主義』も、目は通したけれどもろくに読みこんではこなかった。「戦後民主主義」という言い方も、まだ一度たりとも納得も得心もできたことがない。 

≪09≫  ついでにいえば、いちばん困るというか、もっと大嫌いなのは、どんな事件についてもどんな犯罪についてもどんな見解についても、相手次第で「それは民主主義的ではない」という批判で逃げる連中や、右にも左にも中道にもマスコミにもあてはまるのだが、最後は「民意」を持ち出せばすむと思っている連中だ。 

≪010≫  近ごろは、ITメディアがやたらに発達したためにすぐさまモニタリング・データをとって、一種の「集計民主主義」(aggregate democracy)を短時間ではじきだし、ほれほれ、いまはこういうのが国民の声なんですよ、これが民意ですよと知たり顔までするようになった。こういう連中とは袂を分かちたい。 

変貌する民主主義」

 ≪011≫  そういうぼくが、これは出来がちがうぞと思えたのが本書だった。今年5月の出版だったが、そうとうによく出来た一冊だ。 

≪012≫  これほど適確に「民主主義思想」にひそむ多様性を過不足ない文脈と判断をもって解読してみせたのは、初めてではあるまいか。いや、ろくすっぽ関連文献を読んでいないうえに、民主主義に対する理解力が乏しいぼくが褒めるのではかえって著者に失礼になるのかもしれないが、いやいや、本の値打ちについてはぼくにも多少の解釈力はあるはずだから、これはやっぱりかなり出色の一冊なのである。 

≪013≫  ということで、混乱をきわめた2008年の年の暮の今夜は、1275夜の『暴走する資本主義』につづいて本書の紹介をすることにした。このあとのぼくの案内は、本書の著者の森政稔(もり・まさとし)さんが書いていることのまるごと受け売りで、しかも要約につぐ要約と、切った貼ったの案内ということになる。むろん引き写しでない以上はどこかはセイゴオ流にならざるをえないし、いくつかの用語使いも変えてある。正確な文脈や言い回しについては、本書に直接あたられたい。 

≪014≫  それでも以下を読んでもらえば、民主主義をめぐる議論がいかに厄介なものなのか、少しは見えてくるのではないかと思う。森さんも書いている、「民主主義を論じるさいには、つねに独特のやりにくさというか、困惑というか、あるいは倦怠感から免れにくい、というのが正直な感想である」。 

≪015≫  ちなみに森さんは1959年生まれで、現職は東京大学大学院総合文化研究科の、国際社会科学専攻教授。専門は政治社会思想史だ。 

「変貌する民主主義」④

 ≪016≫  本書のタイトルは『変貌する民主主義』である。これは最近の世界の動向のなかで、民主主義を多様に、かつ多元的にも議論せざるをえなくなった“変貌している事情”があるということを示している。どういう事情がおこったのか、そこから点検を始める。 

≪017≫  まずは1989年にベルリンの壁が崩れると、ソ連が解体して米ソ対決型の冷戦の構図にピリオドが打たれ、「社会主義体制vs民主主義体制」あるいは「社会主義体制vs自由主義諸国」という図式に、意味も力もなくなってきた。それまでは共産主義・社会主義国のサイドからみれば、民主主義体制は労働者の生活の立場を欠いた「ブルジョワ民主主義」というもので、真の「民主集中」をはたしているのは社会主義国のほうだということになっていた。 

≪018≫  そのため米ソ対立時代では、自由主義諸国のなかですら、その民主主義のシナリオは「反共の民主主義」というふうにも意図されていた。

≪019≫  実際にも、冷戦時代の民主主義陣営の多くは「反共の砦」だったのである。とりわけケネディとフルシチョフが鎬を削ったキューバ危機のころが、その頂点だった。ベトナム戦争の真の要因も、南ベトナムを「北」に対する「反共の砦」にするための無謀の戦争で、戦後日本もアメリカにとっては「反共の砦」だったのである。 

「変貌する民主主義」⑤

 ≪020≫  ところが、ゴルバチョフのペレストロイカの促進で、社会主義体制があっけなく解体した。それでどうなったかというと、東欧やバルト諸国は「民主化」された。 

≪021≫  ただしその「民主化」は意外にも、それまで従来の大半の自由主義諸国がとってきた政府主導の「代議制議会民主主義」への単純な回帰ではなかったのである。ポーランドの「連帯」がそうであったのだが、フォーラム型の民主主義をめざした。これは、市民参加型の下から積み上げる分権的な組織形態をもったもので、ポーランドのばあいは労働者が組合を維持しつつ、かつ教会などの生活世界との関係をもった。そのため「コミュニケーション民主主義」が重視されるとともに、「自分自身を制限する民主主義」(自己限定型民主主義などともいう)になっていった。  

≪022≫  そういう“変貌”があったのだ。そうなると東欧の民主主義政治は、従来の政党と代議制民主主義によるものではなくて、市民社会が活動する民主主義の必要性が説かれるようになり、ここから世界中にNGO・NPO・ボランティアなどによる「市民活動民主主義」が台頭することになったわけである。 

≪023≫  こうした「フォーラム型民主主義」や「市民活動民主主義」は一挙に広まった。いまではここに、割箸排斥やエコバッグ運動を主張する「エコロジカル民主主義」や「環境民主主義」が加わっている。誰もそうとは自覚していないようだけれど、これらは冷戦崩壊後の民主主義の“変貌”の継承だったのである。 

「変貌する民主主義」⑥

≪024≫  他方、冷戦終結はアメリカに一極集中をもたらした。アメリカは地球上唯一の「帝国」(empire)になった。アントニオ・ネグリ(1029夜)らが夙に指摘したところだ。 

≪025≫  それで何がおこったかといえば、基軸通貨のドルが圧倒力をもち、アメリカの世界軍事戦略の独占がおこり、新自由市場主義経済のモデルがデファクト・スタンダードとして世界中にふりまかれた。   

≪026≫  このすべてがグローバリズムの無敵の進軍となったのだが、なかでも市場原理主義ともいうべきグローバル・キャピタリズムが強大な力を発揮した。アメリカはこの軍事と経済にまたがる尊大な力を見せつけつつ、中東に、極東に、南米に、徹底して政治と経済の「民主化」を迫ったものだった。日本には日米経済協議などを通して、イラクにはミサイルを落として。 

≪027≫  これらが世界にどんな傷痕を残したかは、いまや言うまでもない。アフガニスタンもイラクもいまだに「民主化」はおこっていないのだし、グローバル・キャピタリズムの進軍とともに生み落とされた「小さな政府」と「規制緩和」を旗印にしたサッチャリズムとレーガノミクスと、そして小泉純一郎の構造改革に代表される行き過ぎた「民営民主主義」の後遺症も、いまなお治癒していない。 

「変貌する民主主義」

≪028≫  冷戦終結後という“最近の事情”をとっても、ざっとこのくらいの民主主義の分化と変質がおこっている。“変貌”はあきらかなのである。 

≪029≫  これでは、もはやいちいち民主主義と言わなくてもいいじゃないかという気がするが、そんなふうに見えてしまうのは、そもそも民主主義という概念が「多様と統合」のあいだで、「民主主義と自由主義」のあいだで、「自由主義と資本主義」のあいだで、さらには「民族と個人」や「国家と組織」や「企業と社会」のあいだで、あるいは「ナショナリズムとポピュリズム」のあいだで、「大きな政府」と「小さな政府」のあいだで、歴史的にもひどく揺れてきたからだった。 

≪030≫  なかで、最も歴史的に古い「揺れ」は、民主主義と自由主義の、仲がよさそうで、なかなかそうはいかない関係にあらわれている。  

「変貌する民主主義」

≪031≫  そもそも民主主義(democracy)とは、いくつもの政治体制のなかの、ひとつの統治形態をあらわす用語であった。デモクラシーは、正確に翻訳するなら「民主政」である。民主政は古代ギリシアでは「民衆の権力」(demokratia)の意味で、王政と貴族政と並ぶポリスの統治形態のことだった。 

≪032≫  そうした民主ポリス(中世の自治都市なども)は自己領域をかたくなに守って、しばしばハリネズミのように武装した。アテネもスパルタもそのように武装した。民主政はその理念に反して当初から排他的だったのである。 

≪033≫  それでも統治(ガバナンス)の主体が「民」であるなら、それは民主主義ということになるのだが、ところが歴史上、これが必ずしも政治上の統治形態を表明してはこなかった。たとえばイギリスの統治形態は今日も「君主政」であるけれど、イギリスは同時に民主主義国家なのである。天皇を象徴にいただく戦後日本もそうだとみなされている。 

≪034≫  ということは、民主主義を統治の原理とみなせば、政治の限界が民主主義の限界となり、民主主義を民衆の原理とみなせば、統治の原理は民主主義を逸脱してしまう。民主主義の使い方をめぐっての、いちばん難しいところが、すでにここにあったわけである。 

≪035≫  そこが難しくこじれていれば、いつの時代にあっても、何をもってしても、旧体制の低迷を打破しようとするときに強力に「民主主義!」を標榜しさえすれば、「民」はその旗に靡きやすいということになる。わかりやすい例でいえば、これを利用したのがヒトラーのナチス政権だった。ナチスの大勝利は「民」の待望による「民主の代表」が選ばれたもので、しかしその実、その代表は個人としての「総統」だったのである。それゆえヒトラーらはその「個」の奥に、アーリアの血という「類」を想定することになる。ということは、民主主義を統治の原理とみなせば、政治の限界が民主主義の限界となり、民主主義を民衆の原理とみなせば、統治の原理は民主主義を逸脱してしまう。民主主義の使い方をめぐっての、いちばん難しいところが、すでにここにあったわけである。 

「変貌する民主主義」

≪036≫  そもそも民主主義(democracy)とは、いくつもの政治体制のなかの、ひとつの統治形態をあらわす用語であった。デモクラシーは、正確に翻訳するなら「民主政」である。民主政は古代ギリシアでは「民衆の権力」(demokratia)の意味で、王政と貴族政と並ぶポリスの統治形態のことだった。 

≪037≫  そうした民主ポリス(中世の自治都市なども)は自己領域をかたくなに守って、しばしばハリネズミのように武装した。アテネもスパルタもそのように武装した。民主政はその理念に反して当初から排他的だったのである。 

≪038≫  それでも統治(ガバナンス)の主体が「民」であるなら、それは民主主義ということになるのだが、ところが歴史上、これが必ずしも政治上の統治形態を表明してはこなかった。たとえばイギリスの統治形態は今日も「君主政」であるけれど、イギリスは同時に民主主義国家なのである。天皇を象徴にいただく戦後日本もそうだとみなされている。 

≪039≫  ということは、民主主義を統治の原理とみなせば、政治の限界が民主主義の限界となり、民主主義を民衆の原理とみなせば、統治の原理は民主主義を逸脱してしまう。民主主義の使い方をめぐっての、いちばん難しいところが、すでにここにあったわけである。 

≪040≫  そこが難しくこじれていれば、いつの時代にあっても、何をもってしても、旧体制の低迷を打破しようとするときに強力に「民主主義!」を標榜しさえすれば、「民」はその旗に靡きやすいということになる。わかりやすい例でいえば、これを利用したのがヒトラーのナチス政権だった。ナチスの大勝利は「民」の待望による「民主の代表」が選ばれたもので、しかしその実、その代表は個人としての「総統」だったのである。それゆえヒトラーらはその「個」の奥に、アーリアの血という「類」を想定することになる。 

「変貌する民主主義」

≪041≫  一方、自由主義(liberalism)という言葉も、最初の最初から“不純”な矛盾を孕んでいた。トーリー党員がホイッグ党員を侮蔑をこめて「リベラルス」というスペイン語で呼んだのが近代の起源なのだから、あとは推して知るべしで、その侮蔑されたホイッグ党が19世紀の半ばに「自由党」(the Liberal party)となって、初めて自由主義の政治的思想性が前に出てきたわけだった。 

≪042≫  その自由党による自由主義も出発点において、すでに二つの思想的方向をもっていた。ひとつはジョン・ロックが主張したような政治的権利とむすびついた自由主義で、ここでは自然法のもとでの各人の平等な自然権が謳われ、「民」としての各人は自然法を体現する国家との契約関係をもつことになった。もうひとつはスコットランド啓蒙派とよばれるヒューム、ファーガソン、アダム・スミスらが主張したような経済的自由とむすびついた自由主義で、ここでは国家に代わって「市場」が自由を保証するものとなった。 

≪043≫  けれども、この二つの方向は、いずれも前時代の商人による重農主義型の「レッセ・フェール」(自由放任主義)からの脱却を試みたもので、そのため国家と市場が保証する自由主義だったのである。 

「変貌する民主主義」

≪044≫  このような民主主義と自由主義がさらに交差して動かしがたい“事実”になっていったのは、アメリカ独立革命、フランス革命、パリ・コミューンなどの一連の動向と、嵐のような産業革命の進行のなかでのことだった。ここに国家と市場だけではなく、民主をほしがる「社会」が登場してきた。民主主義の理念や自由主義の理想を担う担い手がいる社会システムに、具体的な民主主義のルールと自由主義のルールが求められるようになったからだった。 

≪045≫  この「社会」はもはや民主主義と自由主義だけではできてはいなかった。そこにはすでに資本主義(当時は産業資本主義)がくまなく入りこんでいた。資本と労働が、財とサービスの交換が、飢餓と福祉が入りこんでいた。「社会」は家族と国民によって成立しているだけではなく、従業員として資本家として、さまざまなサービス提供者として消費者として、そして病人として教職者として芸術家として、つまりはあらゆる職能者、あらゆる生老病死者として、それらが交錯しながら成立していたのである。 

「変貌する民主主義」

≪046≫  こうして民主主義をめぐる考え方はどんどん曖昧になっていったわけである。そこで20世紀になると、知識人たちはいったい来たるべき「民主」や「自由」とはどのようなものであるべきなのかを問わざるをえなくなっていく。 

≪047≫  なにより19世紀につくりあげた国民国家の大半が世界大戦を起こしてしまったのだ。戦争はすべての職能者と生老病死者としての「民」を巻きこむ総力戦になってしまったのだ。失敗の原因は何なのか。処方箋はどういうものなのか。その処方箋はしかし、同時に資本主義の行方や福祉国家の行方を同時に問うものであるべきだった。  

≪048≫  そこにあらわれたのがケインズの経済学やハイエクの自由学である。ケインズは「国家が経済に介入する役割」を考えて、市場経済のルールがどのようであるべきかを提案した。それは当然、民主主義のルールと自由主義のルールを含むものとなった。多くの政治家と企業人はこのルールに可能性があると感じた。のちの福祉国家モデルともなった。 

≪049≫  一方、ハイエクはそうした民主主義と自由主義と資本主義がまざりあった社会で、どのように自由が問題にされるべきかを提案した。本書はしばらくハイエクの考え方の点検をする。 

「変貌する民主主義」

≪050≫  フリードリッヒ・ハイエクはもともと経済学者である。独自の視点から社会主義や主流派(古典派)の経済学を批判していた。そのうえで、経済政策は「自由と両立する秩序」を生み出すべきだと考えた。 

≪051≫  そこでハイエクは、さまざまな行為者が自由な選択を可能にする市場の秩序がありうると見て、それを「カタラクシー」(catallaxy)と名付け、それが「偉大な社会」(great society)を成り立たせる原理であるとした。この「偉大な社会」では知識は社会のなかに分散していて、それを政府がなんらかの主体となって掌握したりコントロールすることは、とうてい不可能である。それを可能だとしてしまうのは、集産主義(collectvism)の傲慢である。いや、誤謬であろう。それよりむしろ、市場がそのような分散した知識を取り出し活用すべきではないか。それならば、市場は組織とは区別され、特定の目的と統制によらない自由な秩序を発揮するはずだ。  

「変貌する民主主義」

≪052≫  だいたいそのようなことを主張して、ハイエクは『法と立法と自由』や『自由人の政治的秩序』などを著して民主主義の将来を規定した。 

≪053≫  まず前提として、民主主義はすでに幻滅されていると見た。なぜ民主主義が信頼を失ったかといえば、それが無制限なものとなったからであるとも見た。社会主義国の民主主義も資本主義国の民主主義も、結局は利益集団が中心になっている「利益民主主義」にすぎなかったとみなしたのである。 

≪054≫  ついでハイエクは、民主主義の適用範囲を制限しなければならないと考えた。法のもとの民主主義になるべきだと考えた。そのうえで民主主義は一般性あるいは予見可能性として、「自由な秩序」に貢献すればいい。しかし「自由の秩序」をつくるのはあくまで市場であるべきで、政府はこれに介入するべきではないというのだ。 

「変貌する民主主義」

≪055≫  これがのちにミルトン・フリードマンらのシカゴ派によって強調される「小さな政府」論の原型になる。またウルトラ市場主義や金融資本主義の原型にもなった青写真だった。ハイエク理論はハイエク当人の好むと好まざるとにかかわらず、「新自由主義」の理論的背景になったのである。 

≪056≫  よく知られているように、また前にものべたように、こうした「新自由主義」の考え方はその後の実際の経済政策としては、「小さな政府」と「規制緩和」と「民営化」を旗印にしたサッチャーのサッチャリズムとレーガンのレーガノミクスと、そして小泉純一郎の構造改革のシナリオになった。しかし、そこにはあっというまに金融工学がくっつき、グローバル・キャピタリズムがくっつくことになり、とどのつまりは“暴走する資本主義”まで走り続けてしまったわけである。 

≪057≫  著者は、ハイエクには伝統文化の重視があったのに、サッチャー、レーガン、小泉にはそれがなかったことも指摘している。 

「変貌する民主主義」

≪058≫  これで一応は、今日の民主主義が分化と変質をかかえて変貌を遂げてきた“大きな事情”は、だいたい見当がついただろうと思う。一言でいうのなら、民主主義と自由主義はともに「大きな市場」にくみこまれてしまったのである。

≪059≫  むろん、ここにはまだまだいくつもの“事情”が関与していった。それが今日の世界中の金融不況や自爆テロの横行から教育不信や家族崩壊をへて、ニートの問題や派遣社員の問題にまでつながるのであるが、そしてそれが現代の民主主義の赤裸々な姿というものなのだが、それをすべて議論していてはキリがないので、いくつかの項目に絞って案内しておく。 

≪060≫  その前に、こうした現状に対して20世紀末に二つの仮説が提出されていたことを見ておきたい。 ひとつはフランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で、「自由民主主義の体制は世界史が選んだ最終的な政治体制であろう」と言ったことだ。フクヤマは、もう、歴史上これに代わるものはあらわれないと言ったのだ。そのため、それをもって「自由民主主義の勝利宣言」だととらえる向きもふえた。 

「変貌する民主主義」

≪061≫  もうひとつはサミュエル・ハンチントン(1083夜)が『文明の衝突』で、今後の世界は主要国家の動向で語られるのではなく、西洋文明・儒教文明・日本文明・イスラム文明・ヒンドゥ文明・スラブ文明・ラテンアメリカ文明・アフリカ文明の、8つの文明間の衝突や連携としてとらえるべきだというものである。そのような見方をとるには、市場やマクドナルドやファッションのような流動的なものでなく、フォルトライン(断層線)によって世界を見るべきだとした。  

≪062≫  この見方も、ハンチントンの主旨とはべつに、だからこそ中東の勝手に対しては強硬に戦争を仕掛けるべきだというネオコン(ネオ保守主義)の宣伝理論に使われることになる。 

≪063≫  ところが、フクヤマやハンチントンの見方は、これを利用しようとする者にとっては都合がよかったかもしれないが、そのような見方だけではとうてい世界史の歩みは説明できないということが、しだいに露呈してきたのだった。 

「変貌する民主主義」

≪078≫  多数支配の問題はいろいろの矛盾をかかえている。ひとつはよく知られているように、ファシズムが多数支配と民主主義をトリッキーに演出して「全体主義」を体現したということであるが、もうひとつはそれとも深い関係があるけれど、「差別」や「差異」の問題が浮上してきたということにある。 

文明の衝突

≪079≫  たとえば黒人問題、たとえば被差別部落問題、たとえばジェンダー問題、たとえばアパルトヘイト問題、たとえば信仰問題、たとえば少数言語問題である。現代民主主義はこれらの「少数問題」「マイノリティ問題」を一挙にかかえることになる。 

「変貌する民主主義」

≪070≫  ヨーロッパでは近世になると、国王が中世的な法のくびきで縛られることを嫌って、国王の絶対性と永続性を認めさせるべく、最初は王権神授をつかい、ついでは王権が民権を掌握できることをつかって、主権の位置を確定させることをつくりあげていた。トマス・ホッブス(944夜)の「リヴァイアサン」の登場はそのころの議論の象徴である。 

≪071≫  しかしその王権が分散したり崩れたり、ピューリタン革命やフランス革命などで覆されたりすれば、では宙に浮いた主権はどうなるかという「主権の行方」が取り沙汰されることになる(このあたりの事情は『世界と日本のまちがい』に縷々書いておいた)。 

≪072≫  このとき、ルソーやモンテスキューの社会契約説や法学説が颯爽と出てきて、主権は「在民」していったのである。 

≪073≫  けれども主権在民とはいえ、その主権、すなわち「民権」は、もはや国王のような絶対者の管轄にあるものではないのだから、その意思を決定するしくみが新たに必要だった。そこでフランス革命のときには「民会」のようなものが設定され、意思の正当性を議決するという方法がとられ、そこで多数決のルールが確定していったわけである。 

「変貌する民主主義」

≪074≫  ところが、そうやって始まった「多数決民主主義」は、実際には“第三身分”のような階級が独占するものでもあったため(その時々の多数者に決定が独占するのは当然だから)、以降、国家や社会には人民や市民といった「集合的主権体」があらわれることになったのだ。主権は寄せ集めになっていったのだ。 

≪075≫  が、歴史はまだまだ変転していった。ついでナポレオン戦争後の19世紀半ばの「国民国家」(ネーション・ステート natin state)の勃興と林立がおこると、主権はしだいに「国民」(nation)というもっと大掛かりな集合体に移っていった。そうなると、ふたたびその国民を統括する国家が、多数決による決定を代行することになっていったわけである。 

≪076≫  同様に、こうした国民一般ではない集合的主権体がほかにもありうるはずだという主張も生まれていっても、おかしくはない。その最大のものがマルクスによってプロレタリアートと呼ばれた労働者の主権(民権?)なのである。 

≪077≫  ともかくもこうして、「多数決民主主義」はそのプリミティブな「多数が勝つ」という数のルールを変えることなく、次々に主権を求め、集合体を求めて移動しまくったのである。それでもどこまで移動しても、実は矛盾は消えるはずはなかったのだ。 

「変貌する民主主義」

≪080≫  それでも、アメリカは長らく楽観していた。なぜならアメリカはそもそもが「移民」の国で(これについても『世界と日本のまちがい』で詳しく説明しておいた)、それゆえに建国以来の「多様のなかの統一」という理念があったからである。 

≪081≫  したがってアメリカは危機に陥るたびにこの理念を持ち出して、混乱を乗り切ってきた。たとえば、ルーズベルトのニューディール政策にはさまざまな狙いがこめられていたけれど、そのひとつにはアメリカ内部の分裂しかねない多様な少数者の統合をはたそうとした意図があったのだし、真珠湾攻撃をきっかけに「リメンバー・パールハーバー」によって日本叩きを組み立てたのも、9・11でブッシュが「ブッシュの戦争」を公然と始めたのも、必ずそこには「多様のなかの統一」の理念が大活躍したものだった。 

「変貌する民主主義」

≪082≫  このような理念の実践をケネディ以来は(それを大々的に復権させたのはケネディだったから)、民主主義思想の議論では「多数派リベラル」のロジックとも言っている。けれどもそのロジックの正体は、その時期ごとの「アメリカン・デモクラシー」の代名詞だったのである(きっとオバマ大統領もこのたびの未曾有の金融危機をこの理念の実践で乗り切るつもりであろう)。 

≪083≫  しかしながら、こうした「差別」や「差異」の問題は、何度かにわたるアメリカでの特段の例をのぞけは、一国の民主主義システムによって乗り切れるというほうがめずらしい。「差別」や「差異」は、むしろ小さな領域や隣接しあう領域にこそ、発生しやすいものなのである。こうして問題はさらに複雑な様相を呈することになる。 

「変貌する民主主義」

≪084≫  国家には、一人ひとりの「生存の問題」というものが先行している。生存の権利は個人に発生し、これを王権国家も民主主義国家も、何をあとまわしにしても優先して守るという義務をもっている。  

≪085≫  だから民主主義もまた、つねに個人を救えるものとなっていなければならないのだが、そこに「少数者は多数決のなかでは選択に漏れる」という多数決の原理が重なると、事情はとたんに複雑になる。いったい少数者の「尊厳」はどこで保証されているのかということになる。  

≪086≫  これは、今日ふうにいえばいわゆる「アイデンティティ」の問題が足元に絡んできたということである。社会学的にいえば「所属」や「帰属」の問題だ。 

≪087≫  では、どうしたら「差異の多様性」と「帰属の多様性」の両方に対処できるような民主主義が持ち出せるのか。そんな名案はどこにもなかったのだが、現実的には二つの提案がなされていったとみなすことができる。 

「変貌する民主主義」

≪088≫  ひとつは「分離の民主主義」である。すでに20世紀前半、ユダヤ人のシオニズム、アフリカ系アメリカ人に「分離の民主主義」はあらわれてきていた。もうひとつは「連合民主主義」や「多極共存型民主主義」(consociatinal democrascy)といわれるもので、一言でいえば「差異の民主主義」であり、「ネットワークする民主主義」である。この用語はオランダの政治学者レイプハルトが提案した。 

≪089≫  分離するか、ネットワークするか。この選択は民主主義にとってはあまりの難問である。仮に分離を選べば、「差異」はたちまち過激なものになる可能性がある。イスラエルとパレスチナの関係やインドとパキスタンの関係がそういうふうになっている。さらに分離していけば、イスラム過激派の自爆テロがそうであるのだが、自爆者たちは“アラーの神の民主主義”のほうを選んだことになる。 

≪090≫  ネットワークを選べばどうなるか。そこには隠れたネットワークが生じる可能性がある。そして、そこでも実は分離者たちが与えられた多数決民主主義を壊していく運動が派生しかねない。つまり「少数者の見解」とは、また「差異の民主主義」というものは、とんでもなく深いものをもっているわけなのだ。 

≪091≫  こうして難問はいよいよデッドロックにさしかかる。そこにさらに加わってきたのがナショナリズムとポピュリズムの問題だった。 

「変貌する民主主義」

≪092≫  近代の民主主義が選んだもの、それは第1には国民国家であり、第2には共和政で、第3には議会制民主主義の確立である。ここに資本主義と社会主義がすばやく交差して、のちにファシズムや国連主義がかぶさった。 

≪093≫  では、これだけで民主主義の歯車が作動したり制御されていたのかといえば、そんなことはない。これらの奥には、実は長期型と短期型の二つの“熱情”がひそんでいた。長期型のものはナショナリズムである。短期型のものはポピュリズムだった。いわば“人気”(にんき・ひとけ)というものを、民族の奥から感じあっていくナショナリズムと、投票などの集計で勝ちとっていくポピュリズムだ。いずれも民主主義を装うことができた。そして、人々に「右か左か」を問い、煽るのにも適していた。 

≪094≫  ナショナリズムは民族や部族にひそむエトニーやエトノス(民族的なるもの)が社会に向かって立ち上がり、多くの共感を呼びながら胎動する。それをアントニー・スミスのように近代以前からの動向とみなす学者もいれば、ベネディクト・アンダーソン(821夜)のように近代以降のフィクショナルな「想像の共同体」だとみなす学者もいるが、大筋の定義としてはエルネスト・ゲルナーによる「ナショナリズムは国家と民族の一致を要求する思想である」という見方が通っている。 

「変貌する民主主義」

≪095≫  が、現代社会にとってのナショナリズムの問題は、ナショナリズムそのものにあるのではないとも言わなければならない。問題は、ナショナリズムの動向が保守主義と合体したり、急進主義と重なっていったとき、そこに民主主義の楔(くさび)を打ち込むことが難しくなっていくことにある。ナショナリズムは右にも左にも動くのだ。小熊英二(774夜)は『民主と愛国』で、戦前の日本のナショナリズムは戦後のある時期までむしろ左翼が積極的にコミットしていたことを証した。 

≪096≫  ナショナリズムにはまた、いくつかの派生特色があった。二つだけあげておくが、ひとつは、ナショナリズムはつねに国際主義(コスモポリタニズム・インターナショナリズム)と対決し、根無しの国際主義こそ「民主」を狂わせるものだと指摘する方向をもったことだ。もうひとつは、ナショナリズムはときに人種主義(racism)にも傾いて、かつてならゴビノーの優生学や、ナチスの反ユダヤ主義や、黄禍論(イエローペリル=黄色人種批判)となり、それがアパルトヘイト政策にも、最近では反日ナショナリズムにもなっていく方向をもったことである。 

「変貌する民主主義」

≪097≫  ポピュリズムとは何なのか。現在ではポピュリズムは「人気取りの政治」に結びつけられることが多いけれど、政治的な意味でのポピュリズムは、もともと19世紀末のアメリカで「人民党」(ポピュリスト)と名のった政治運動に起源をもっていた。アメリカ西部や南部の農民を支援者としたもので、二大政党に収まらない新たな政治を要求するために生まれた。 

≪098≫  アメリカの政党史では画期的なものであったのだが、やがてこれを民主党が吸収し、“西部のライオン”の異名をとったW・J・ブライアンらによって東部エスタブリッシュメントの攻撃部隊をつくりあげた。そこには異様な進化論批判などもまじっていて、アメリカのファンダメンタリズム(原理主義)ともつながった。 

「変貌する民主主義」

≪099≫  しかしポピュリズムには、資本主義社会を勝ち抜くことを積極的に肯定し、とくに独立自営者たちに共感を示すところがあったため、そのプロパガンダ性がマスメディアに乗りやすく、つながりやすく、そういうせいもあって、やがてポピュリズムはそのイデオロギーの如何にかかわりなくメディア政治化し、「ポピュラー民主主義」ともいうべき大きな力を発揮した。 

≪0100≫  この勢いに80年代になって結びついたのが、新自由主義の「市場原理主義」と「民営化」路線であり、それを最大限に活用したレーガンだった。日本ではお粗末すぎてはいたが、小泉内閣がこれを利用した。これらがポピュリズムそのものであったことは、小泉劇場政治にも顕著であろう。 

「変貌する民主主義」

≪101≫  ところで、民主主義の多様な“変貌”は、当然ながら企業社会にも押し寄せた。とくに新自由主義の旋風以降はその波及はいちじるしい。そもそも「官から民へ」というムーブメントの狙いは、政府機能が市場に移管していくということでもあるのだから、実は企業側にも“政治”や“統治”が求められるということなのである。 

≪102≫  これを受けて日本で盛り上がったのが、「株主資本主義」こそが民主的であるという議論の流行と、そして「コーポーレート・ガバナンス」論だった。 

≪103≫  日本のコーポーレート・ガバナンス論は、終身雇用制や親方日の丸制にみられる日本企業の体質は、まことに悪しき日本的慣行であって、こんなことではITネットワークと金融資本が張りめらされたグローバル化時代の競争にはとうてい勝ち残れない。勝ち残るには企業マネーの背骨をつくっている株主(シェアホルダー)や投資家の利益の立場に立った態勢と体制を整えなければならない、というような判断から流行したものだった。企業においてはさしずめ「民主」は「株主」になったのである。 

「変貌する民主主義」

≪104≫  こうして企業はあたかも自己暗示にかかったかのように「自己責任」を問うことになり、公正なアカウンタビリティ(説明責任)をわざわざ自陣に引き込むことにした。大企業はあわてて社外取締役(outside directer)を導入し、公的機関や国立大学なども経営協議会などを設置して、“公正なチェック"がおこなわれていることを示すことにした。 

≪105≫  しかしこのような措置は、もともとがグローバル時代での勝ち残り戦略のためにスタートを切ったものだったから、一方では規制緩和を、他方では合併やM&Aをはじめとする規模の拡大をつねにせざるをえなくなり、コーポーレート・ガバナンスは市場優先時代のなかでの“民営政府”のような議論のようになったのである。 

≪106≫  この雪崩のような現象は、アメリカ最大のエネルギー企業であったエンロンの破綻の原因が、見かけはコーポーレート・ガバナンスの要件を満たしていたにもかかわらず、結局は不当な自己利益で粉飾されていたことがあかるみに出るにおよんで、ここには何かの欺瞞のロジッックがあるように思われもした。岩井克人(937夜)や原丈人が「会社は誰のものか」を問うのは、このころだ、 

≪107≫  けれども、それでもなお日本企業の多くは、今度はコンプライアンスの呪縛を、いまなお自己暗示のようにかけたままになっている。このことをめぐっては前々夜の『暴走する資本主義』(1275夜)にも書いたばかりだ。 

「変貌する民主主義」

≪108≫  コーポーレート・ガバナンス論がもたらした問題は、いったい民主的な状態を何によって判定できるかという議論の行方を象徴的にあらわしている。 

≪109≫  判定を外部の評価に委託したからといって、事態は何も変わらない。案の定、かえってタレコミなどによって雪印や不二屋や吉兆が痛手をこうむることが多発した。社会というもの、内部にも外部にも自治体や企業や学校をとりまく多数の利害関係者(ステークホルダー)がいるわけで、それをシェアホルダーに限定して発展させようという株主優先方式には、過剰な片寄りがあったのである。 

≪110≫  また、統治のバランスをステークホルダーに広げたところで、かえって事態の複雑性は増すばかりで、それによって「正しさ」の判定基準に何の変化がおこるわけではない。予期せぬ担当者のモラルハザードがおこって、事件やニュースになるだけなのだ。本書の著者はこうしたガバナンスに対する過剰な期待は、「目利きのいない社会」の代案としてみなしたほうがいいだろうとも言っている。 

≪111≫  ガバナンス(統治)の議論は、これをとことん追いかけていけば、必ず自己統治(セルフ・ガバナンス)のほうへ煮詰まっていく。さきほどのべた「アイデンティティ」とも絡まっていく。  

「変貌する民主主義」

≪112≫  著者はこの点についても鋭い指摘をしている。民主主義が権力の外部に責任体制を広げていったことには、社会の各領域で「主体」がわかりにくくなったため、その不安を外部からの評価によって穴埋めしようとしたのではないか。また、複雑な社会での「自己」はたえず不当評価・意欲喪失・失業・疾患・犯罪・事故・精神的危機・家庭崩壊などのさまざまなリスクに直面し、それがIT技術の発達もあって社会現象とあからさまに直結するようになったため、自己統治と社会統治との問題が近づきすぎてしまったのではないか。ぼく流にいいかえれば、そういう指摘だ。 

≪113≫  たしかに、今日の「自己」は自分のリスクを克服するのに、以前よりずっとカウンセリング、サイコセラピー、メンタルクリニックなどに頼るようになった。ここには一種の「セラピー社会」もたちあらわれている。著者は、このような状態からは新たな展望は出てこないと考えているようだ。むしろ、かつてミシェル・フーコー(545夜)が「主体」の哲学を避け、「自己」を社会の抵抗性と見ようとした視点に共感を示している。 

≪114≫  ざっとは、このくらいでいいだろうか。あらかたの構図は見えてきたはずだ。まさに民主主義は変貌しつづけて、いまや最も厄介なスローガンになっていたわけなのだ。 

「変貌する民主主義」

≪115≫  民主主義が長い歴史のなかで、それなりに一貫して「多様なものの統合」という方針をもってきたことは否めない。民主主義が「差異と統合」を調整するための技法であることも、この多難な時代のなかではっきりしてきたともいえる。  

≪116≫  しかし、21世紀社会はあまりに「官から民へ」が進みすぎて(これからは中国やロシアやインドにそれがおこっていく)、かえって民主的制御が効かなくなりつつある時代にもなってきた。これは新たな「民主主義の赤字」(democratic deficit)という問題を生み出している。新たな民主的システムへの転出が、そのシステムのコストを取り戻そうとすればするほど、そのシステムの維持だけにとらわれていく病気というものだ。かくしていまや、民主主義はいちばんコストのかかるシステムになってしまったのである。 

≪117≫  というところで、ここでぼくが民主主義を扱うことを苦手としてきた理由をふりかえってみると、それは「多数決のあやしさ」というものにあった。このことについてはいまだ当初の感想を変更するつもりはないのだが、著者が次のように言っていたことには、いまではじっと耳を傾ける気になっている。なんといっても、今夜は年の瀬なのである。炭男としては、そういう気分になるものだ。 

「変貌する民主主義」

≪118≫  政治とは多かれ少なかれ強制や権力を伴う営みであるが、それでもなお、それらがひとしなみ過酷というわけではない。民主主義が専制や全体主義から区別されるつもりであるとすれば、それは民主主義にあっては権力が同意に基礎づけられているという信念に由来するところが大きいと、ひとまず言うことができるだろう。 

≪119≫  (そうすると多数決の問題になっていくのだが、このとき)多数決に同意するということは、多数の決定をあたかも自己の決定であるかのように受け入れるフィクションを承認するということである。これを承認しない人々に対しては、当然に多数決の原理は力を持たないということになる。少数者の根拠にあるのは、このような多数決への不信である。

「変貌する民主主義」

≪120≫  ここでは、少数者の立場が、討論などの民主主義的プロセスを経ることによって、多数者の見解を変化させる可能性があるかどうか、ということが重要な分かれ目となる。多数と少数とを区別するものが、変更することのむずかしい生得的なアイデンティティに由来する場合(言語・民族・宗教等)、多数はつねに多数であって、少数はつねに少数ということになりやすい。対立は構造化され、政治的統合に亀裂が生じる。(中略)このような場合、この政治社会にとどまっていることの意義が疑われる。この政治社会から分離独立することがあるべき選択として浮上する。 

≪121≫  ある意味ではこのような選択は、かつての多民族帝国から国民国家が独立するさいの民族自決の論理と共通であるということができる。異なるのは、国民国家より小さな単位において主張されていることであって、この区別によって、一方は国民国家を擁護する議論に、他方はそれを解体する議論になるということである。 

≪01≫  民主党圧勝、鳩山政権の誕生。事前におおかた予想されていたことだったけれど、新聞は「日本の民主主義の前進が衝撃的な数字によって刻印された」とも、「明治憲法発布の1889年から数えて120年目の、日本憲政史上初めての大事件である」とも書きたてた。 

≪02≫  自民党からすれば、1955年の結党(保守合同)以来の初めての第一党からの転落だから、かなりの重症だ。政党というのは包括社会(the wider group)を標榜しながらも離合集散をつづけるアグリゲーション(集合体)なのだから、そこに大きな亀裂や外傷がおこれば、その集合性にたちまち同憂同苦がおこるのは当然である。まして昨今の自民党の領袖政治はおバカなほどに能天気な体質だったので、自分たちが政局の“部外者”扱いされるのはガマンならないことだろう。 

≪03≫  他方、民主党の稽古不足も否めない。日本の政治は議院内閣制の衣を着た官僚内閣制で、政策決定とその実行をすべき大臣や副大臣は官僚による省庁の代理人にすぎない。閣議もろくに機能していない。前日に開かれる事務次官会議で通った案件だけが閣議に提出されるだけになっている。 

≪04≫  そこで民主党は結党このかた、これをこそ破りたいという悲願を掲げ、それでついに政権を奪取したのだが、さあ、そうなってみて実際はどうなるか。数日中に閣僚人事が決まるだろうから、そこでおよその値踏みができるだろうが、どうなるかなんてことは稽古不足の新内閣ではまだわからない。 

≪05≫  この政権交代ゲーム、そのスタートするところは自民も民主も実はそんなに変わらないところからの競争だった。そのあたりのこと、塩田潮の『新版 民主党の研究』(平凡社新書)にも詳しい。けれども何はともあれ“国民の審判”によって、民主党が当事者となり、自民党が部外者となった。総選挙の結果が正しい審判だったかどうか、という問題ではない。“国民の審判”とはつねにそのような多数決の数で決まるのだ。 

≪06≫  だから、正念場を迎えたのはむしろ民主党なのである。それゆえ今後は、民主党が本気になれば、さまざまな場面における「しくみ」がちがっていくはずだ。ちがわなければいけないし、そうしなければまたぞろ審判がくだる。 

≪07≫  それゆえ民主党型の連立内閣としては、早々にゲームの「ルール・ツール・ロール」を変えるかどうかが重要になる。相手は国民ではなくて、官公庁と地方自治体だ。そこが問われることになる。ゲームが変わればスコアも変わる。けれども官僚たちのスコアはほぼ半世紀以上も変わってこなかった。そこをどうするかなのである。 

≪08≫  それにしても毎度のことながら、こういう選挙のたびに敗北者が生まれ、脱落者の烙印を捺されていくというドラマがおこる。大物政治家も例外にはならない。  

≪09≫  今度は海部俊樹・山崎拓・久間章生・笹川尭・堀内光雄・島村宜伸・柳沢伯夫・綿貫民輔・中川昭一らが落選し、公明党の太田昭宏代表・北側一雄幹事長・冬柴鉄三も議席を失った。与謝野馨・小池百合子・町村信孝・野田聖子・武部勤は小選挙で敗れ、比例で拾われた。惨憺たる結果だ。 

≪010≫  べつだん選挙で落ちたからといって人格が疑われることも、社会から爪弾きにさらされることもないのだが、けれども自民党はあきらかにこれで決定的なバイオグラフィ(生活誌)を傷つけられたのだし、それ以前に安倍・福田の両首相の呆れるほどの役割放棄が、自身の経歴のみならず自民党の組織的性格に忌まわしい傷をつけたことは明白だった。誰もがそのツケが自民党の総体にまわったと見ている。知らんぷりをしていてもダメだったのだ。いまさらながら「しまった」と痛感している政治家たちも多いだろう。 

≪011≫  アーヴィング・ゴッフマン(1922~1982)は、こうした社会的な傷の刻印は「否定的に意味づけられた差異」であるとみて、これを「スティグマ」(stigma)とよんだ。スティグマのもともとの意味は、アッシジのフランチェスコの手にあらわれたような「聖なる刻印」をさすのだが、ゴッフマンの社会学ではその刻印によって内外の集団から差別されるような社会的傷痕のことをスティグマという。そういうスティグマは社会の変遷とともにずっと動いていくというのである。 

≪012≫  ゴッフマンはウクライナ出身のユダヤ系カナダ人の2世で、トロント大学、シカゴ大学をへてペンシルヴァニア大学で社会学の教鞭をとってきた。いっときのアメリカ社会学界の大立者である。大立者ではあったが、異端の社会学でもあった。社会のなかでオーダー(秩序観)がどのような相互行為によって発生したり歪曲されるかを研究し、統計的集計的な数値にいっさい依拠しない「インタラクション・オーダー」という概念を提起した。一言でいえば、スティグマは相互行為によって出たり入ったりするという見方を披露した。  

≪013≫  スティグマはいろいろの社会的作用で出入りする。でっちあげ(frame up)や罠(entrapment)でもおこるし、みずから身分証明を偽ってもおこる。噂や流行も危険だ。けれども、これらはつねに頻発する。そしてあげくが、「あんたはノーマルではないんだよ、それをあんたは見せたんだよ」。これでおジャンなのである。 

≪014≫  加えて、そこではたいてい「外聞を憚る秘密」(skeleton in the closet)の暴露がともなっている。人は他人の秘密を知りたいもので、秘密はスティグマへの伏せられた入口なのだ。それだけではない。いったんスティグマを烙印された者には「日陰」がちゃんと用意されていて、そこに参入させられると、「日陰者」は他のスティグマの持ち主と十把一からげに扱われることにもなる。 

≪015≫  こうして、当初はそれほどの烙印だとは思っていなくとも、危険は猛毒のごとくいろいろの場面で待っている。メディア社会の今日では、とくに公開の場での反応(社会対応)をまちがえれば、あっというまに“own”(同類)から降ろされてしまう。小さな個別のスティグマはやがて大きなスティグマに成長してしまうのだ。JR西日本の会見がその一例だった。 

≪016≫  社会というものはノーマルズ(常人)の組み上げによってのみ、その基準を構成しているものなのだ。その基準(緩みと自己規制)の上に自民党も民主党もJR西日本も、それぞれの“own”というものを育ててきた。けれどもそこにアブノーマルズ(非常人)が露見すれば、ただちに“own”そのものが常軌を逸したとみなされる。そういう社会をみんなでつくってしまったのだ。 

≪017≫  だからといって、スティグマは何も選挙の敗北や企業の失策だけでおこっていることではない。小学校の「いじめ」からも、身体的なハンディキャップからもおこる。 

≪018≫  たんなる欠点や弱点が過大にブローアップされれば、それがスティグマの相互行為に発展してしまうのだ。社会的に不安定でイレギュラーなものは、該当社会の基準から照らしてすべてスティグマになりうると見たほうがいい。 

≪019≫  ゴッフマンはしたがって、スティグマは自発的応諾(compliance)からではなく、他律的順応(conformance)によって成立するとみた。逆にいえば、コンプライアンスをちゃんと自己管理していないと、あんたは社会的コンフォーマンスによってスティグマを捺されるよということなのだ。 

≪020≫  わかりやすい例は、日々、マスメディアを賑わせている芸能人のタレント・スキャンダルのたびに、その当人にスティグマの烙印が捺されてきたということだろう。麻薬常習犯扱いされた酒井法子のスティグマは、8月の衆議院総選挙の渦中においてもその報道を上回るワイドショー的過熱ぶりだったけれど、それによって彼女には一生消えないスティグマが烙印されたのである。 

≪021≫  残念ながら、こういう社会にはなんらの自律性もない。すべての区画がレスポンス・ユニバース(反応社会)になっている。  

≪022≫  世の中というものはコンベンショナル(慣習的)にできあがっている。その慣習の枠内で当事者が多少の逸脱をおこしていても、その成否は問われない。そこでは当人の所属する社会空間が妥当な領域に分割されていて、ふだんはその領域にふさわしい出来事が多少の逸脱をもっておこっているからだ。その程度であれば、モラル・キャリア(精神的経歴)が問題にされることもない。 

≪023≫  しかし、いったんある個人がその区域と慣習を越境したり脱落したばあい、そして、それが一組の社会的基準にそぐわない行為とみなされたばあいは、どうか。ときには1度か2度のアイデンティティ修正(re-identification)のチャンスが与えられるのだが、その対応をミスると、そこからはスティグマの鉄槌が待っている。その者は“せっかくのチャンス”を逃したのである。 

≪024≫  マスメディアはむろん、ほとんどの組織や集団がつくりあげた“own”も、この“せっかくのチャンス”を自身で摘み取った者を許さない。あるいは放置できない。社会学ではこのときに、その個人と関係者に集団的孤立(the group isolate)が始まり、その者が内集団逸脱者(an ingroup deviant)になったというふうにみなす。 

≪025≫  つまりは、どんな集団に帰属している者にも、当人の好むと好まざるとにかかわらないアイデンティティ・ペグ(identity peg)がついているわけなのだ。それはふだんの口調や態度や行動が多少異様であっても、多少の鼻つまみであっても、たいていは辛うじて保たれている。これを逆にいうのなら、「私はそんな標識(ペグ)のニンゲンじゃない」「もっと好きなことをしたいし、しているのだ」と思ってみても、実はそのペグに支えられて社会の帰属者としての日々がこっそり保証されていたわけなのだ。 

≪026≫  そのためうっかりと、まあこのくらいなら大丈夫だろうと思って適当にその標識に合わない言動をしつづけていると、突然に週刊誌にその一端がリークされ、あんたのアイデンティティ・ペグがおかしくなったんだよと言われることになる。こうなると、世間は急激な変化や顕著な変質を決して許さない。 

≪027≫  まったく一息つくまもない転落なのである。詳しいことは知らないが、酒井法子のスティグマもそのような急速な展開を見せていた(ちなみに、彼女のドキョーはなかなかおもしろい。いずれ山田五十鈴のような大物女優になるといい)。 

≪028≫  ところでゴッフマンという社会学者だが、以前からちらちらと読んできたかぎりでは、この人のものは長く読んでいないと見えてこないような、波打際を走るような文脈があって、そこに惹かれる。ありていにいえば緩慢あるいは冗漫な文章なのだが(ときにゴフマネスク・スタイルといわれる)、その緩冗なる論証ゆえに“見えない輪郭”を摘出できるものがあるからだ。 

≪029≫  さいわい本書のほかに、「ゴッフマンの社会学」(誠信書房)という全4巻のシリーズが早くから刊行されていて、そこに『行為と演技――日常生活における自己呈示』『出会い――相互行為の社会学』『アサライム――施設被収容者の日常世界』『集まりの構造――新しい日常行動論を求めて』が収められてきた。『儀礼としての相互行為』(法政大学出版局)もある。主要著書のほとんどである。 

≪030≫  ちなみに、このようなゴッフマンを再浮上させるにあたって、大きな役割をはたしたのはピエール・ブリュデュー(1115夜)だった。日本では本書の訳者でもある石黒毅の業績が大きい。 

≪031≫  ぼくはこうしたゴッフマンをまとめて読んできたのではなかったが、それでもこれらをときどき読んでいると、社会や組織がもたらす名状しがたい“宿命”のようなものがしだいに見えてきた。それはゴッフマン独特の「行為は存在である」という見方なのである。つまりはゴッフマンの“存点”なのだ。 

≪032≫  ゴッフマンがその“在点”を個人にあてはめたときには、さらに個人は「ほんのわずかな外力が加わってもただちにいずれかの方向への包絡の程度を変えるもの」というふうになる。たいそうフラジャイルなのである。  

≪033≫  個人の存在がフラジャイルであるのはその通りなのだが、さて、他方、このような見方を社会のほうにあてはめると(ゴッフマンの言うcivility)、個人が特定の社会や組織や集団からいかに離脱しても、きっとまた別な社会や組織や集団に絡めとられるようになっているという、なんともやりきれない結論が引き出されてもくる。世の中、どう見ても、どこもかしこも愚弄的共謀(derisive collusion)だらけなのである。どこにも公式的自己(official self)が待っていて、どこでも「演技する自己」(performing self)がつきまとう。  

≪034≫  しかし、これは個人のほうにも責任がある。なぜそんなふうになったのかといえば、「個人が社会の尺度であることをやめた」からだった。そのかわり、個人は郵便番号とIDとケータイとGPSを好んで持ったのだ。 

≪035≫  実はある種の社会や組織はユーフォリア(多幸感)をもたらしている。麻薬のせいではない。どんな日々の仕事や集団にもユーフォリアがやってくる。気分のよさというものだ。それがあるから、なんとか仕事がやっていられるのだし、その集団に属してもいられる。ところが、世間というものは、この他人が満喫しているユーフォリアが大嫌いなのだ。 

≪036≫  かつては宗教社会がここに聖なるバリアーをもってヴァーチャル・ユーフォリアの確定を支えていたのだが、それが壊れてしまってからというもの、バリアーはすべて社会的規制によって固められてきた。その社会的規制は、当然のことに当事者と局外者をつくっている(役所と市民、政治家と大衆、企業者と消費者のように)。  

≪037≫  そうすると、この二つのあいだではユーフォリアからの追い出しがしょっちょう画策されることになる。「へま」(gaffe)、「間抜け」(boner)、「お人よし」(brick)は苦もなく脱落準備を促される羽目になるだろうし、あるいは「不時の侵入」(inopportune intrusion)や「踏み越し」(faux pas)に無警戒な者も、早々のユーフォリア・コミュニティからの退出が促される。昨今のバンソーコー政治家や酩酊政治家は、この罠にひっかかった。 

≪038≫  こうして、社会のスティグマを受けないようにするには、必要以上の防衛措置をこうじていなければいけないということになる。“言動のセコム”をしなければならなくなってくる。どんなセコムをするべきなのか。ゴッフマンが社会観察から抽出したその防衛措置は、「演出上の忠誠心」「演出上の節度」「演出上の周到」というものだ。これをなんとかやり通せれば、その集団的社会からスティグマを烙印されるという背任(disloyalty)がおこらないですむらしい。 

≪039≫  しかし、これはまた、何たる面倒か。こんな面倒な防御をもってスティグマをもらわないようにするのなら、いっそ出自においても、身体においても、行為においても、スティグマで武装したほうがよほど“社会的である”という気になってくる。けれどもいまや、それはとりあえずは映画やマンガやパンクやトランスジェンダーにおいてのみ許されるだけなのだ。まったくつまらない世の中になったものである。 

≪040≫  最後に一言、加えておこう。鳩山由紀夫新首相のコンセプトはおなじみの「友愛」である。これはおじいさんの鳩山一郎以来のコンセプトをひきついだものだが、原語は「フラタニティ」(fraternity)にある。 

≪041≫  フラタニティは、ふつうは「友愛」「誼み」「兄弟の間柄」「同胞愛」「同業者」などを意味するのだが、歴史的には英米に発達した男子学生の宗教的共済的紐帯のことをさす。入会希望者には度胸試しや風変わりなイニシエーションがあった。フラタニティに入ればエンブレム(紋章)が共有できて、卒業後も相互の便宜と親睦がはかられる。このフラタニティの女子学生版を「ソロリティ」(sorority)という。   

≪042≫  だからどうだというのではないが、もしも厳密に「友愛政治」というものを敢行しようとなると、ここからの脱落者はそれこそスティグマを捺されることになる。鳩山さんはむしろ局外者をへらしたいほうだろうから、排除的フラタニティなど行使しないだろうけれど、もしも現代情報社会においてフラタニティを実行しようというなら、どうするか。ゴッフマンはそういうばあいは次の3つの秘密を区別して運用しなさいと助言した。 

≪043≫ 「暗い秘密」‥‥‥チームが自認し、隠している秘密で、そのチームの一員がオーディエンスの前でも隠しつづけられる秘密。当然「二重の秘密」になる。ひとつは致命的事実が隠されているということ、もうひとつはその致命的事実がはそれまで公然と認められたことがないということ。 

≪044≫ 「戦略的秘密」‥‥チームが招来しようと計画している状態に、オーディエンスが効果的には対応できないようにするための秘密。チームの意図や能力にかかわる秘密であることが多い。 

≪045≫ 「部内秘密」‥‥‥その秘密の所有が個人をある集団のメンバーとして特徴づけ、その集団の事情に通じていない者たちには別のイメージを与えることになる秘密。 

≪046≫  お節介にも、また注意深くにも、ゴッフマンはこういうことも書いていたのだった。ついでにいえば、これら3つの秘密を、さらに「信託された秘密」と「随意的な秘密」に使い分けられるなら、そのチームは「密告者」(informer)からも、「あらさがし」(wiseguy)や「さくら」(shill)からも、また「お忍び目付」(imposter)からも、よからぬ敵対行為を被らなくてもすむらしい。 

≪047≫  それこそお節介ながら、鳩山さんの“日本運営”の門出のために、ちょっと付け加えてみたかったことである。なお、ゴッフマンの「相互作用」とブルデューの「ハビトゥス」には興味深い類縁性がいろいろあるのだが、そのあたりのことは別の本の案内を通して千夜千冊してみたい。  

≪01≫  社会は市場ではない。意識も市場ではない。けれども社会にも個人の意識にも必ずや「効用」と「厚生」がつきまとう。 こういう考え方は価値社会には欠かせないと考えられてきた。そのため多くの者が合理的な成果を求めてきた。しかし、社会と意識と市場がそんなに合理的にできてきたのかといえば、はなはだあやしい。それどころか、そこには「合理的な愚か者」が溢れかえっていた。「合理的な愚か者」とは誰なのか。何なのか。今夜は、アマルティア・センの社会学の刃が社会の常識に向けて切り返してみせたケイパビリティによる概念工事を、少々ながら紹介したい。 

≪02≫ 誰が「合理的な愚か者」なのか。気をもたせるのもなんだから、最初に結論を言ってしまうけれど、これはずばり「ホモ・エコノミクス」(経済人)のことである。そこらじゅうにゴマンといるビジネスマンや経営者たちのことだ。 

≪03≫ ホモ・エコノミクスは合理的ではあるがつるつるで、努力家ではあるが平均的で、勤勉かもしれないが適当なリターンを得たい愚か者なのだ。社会よ、国家よ、企業人たちよ、そんな合理的な愚か者に市場や社会の意思決定を託していいのか。そこを私はとことん問いたい。これがセンが言いたい主旨だった。 

≪04≫ センは、合理的な経済活動だけをするルールや価値観に追従する社会人というものを疑った。また、そういう理論を組み立ててきたそれまでの経済学や社会学に文句をつけたかった。そこで本書で「価値をめぐる社会学」に新たな展望をもたらそうとした。なぜ、そんなことを考えたのかといえば、次のようないきさつがあった。 

≪05≫ センはインド人である。その故郷がイギリス領だったころの、インド・ベンガルに生まれた。9歳のときの1943年、悲惨なことで当時のマスコミを震撼させたベンガル大飢饉を体験した。この故郷の窮状にショックをうけて、既存の社会や経済のありかたに疑問をもった。 

≪06≫ カルカッタのプレジデンシー・カレッジで経済学を学び、ケンブリッジ大学に進んで既存の経済学や社会学の波及に不満と限界を感じた。そのころのアカデミズムでは、アダム・スミス以来の「利己心」とジェレミー・ベンサム以来の「功利主義」と、そして新古典派経済学が提唱した「ホモ・エコノミクス」とがつるつるに固定されたままになっていた。それなのに、それによって動いている資本主義経済社会は麗々しくも「自由市場」とか「リベラリズム」だと思われていた。 

≪07≫ いったい個人の自由選択と社会が示す多数の価値観がぴったり合致することなんて、あるのだろうか。それを軽々しく「自由」とか「自由選択」などと呼んでいいのだろうか。どうも疑問だ。デリー大学、オックスフォード大学、ハーバード大学などに教職をもちながら、センはしだいに経済学と倫理学を近づけていって、そのうえで新たな展望による「共感」と「コミットメント」の社会学を考えるようになっていった。  

≪08≫ 残念なことに日本人はあまりセンを読んでこなかった。「共感」や「コミットメント」の社会学があると言ったって、うまく伝わらない。 

≪09≫ むろん日本にもセンについての紹介も導入もあった。主には本書の訳者の大庭健(専修大学教授)と川本隆史(東京大学教授)が精力的にその研究を引っぱってきたのだが、日本人が経済学と倫理学の統合のための試みに関心がないせいなのか、社会福祉学や厚生経済学という学問の潮流そのものに人気がないせいなのか、センの議論の仕方がわかりにくいせいなのか、専門家以外にはあまり読まれていない。 

≪010≫ センが書く論文は難しい。文章もうまくない。もってまわったところがあるし、サマライズ(要約)がしにくい。だからなかなか読まれてこなかったのかもしれないが、それでも、センがどのように「合理的な愚か者」を問題視するにいたったかというプロセスは、市場主義者にも反市場主義者にも、つまりはリスクとリターンを新たな局面で考えたい者にも、今日の民主党政権のように「新しい公共」を考えたい者にとっても、見逃せないプロセスだった。 

≪011≫ 今日の社会は「個人の集合」からなっている。その個人と社会のあいだに、家族や地域共同体や商店街や学校や会社や役所がはさまっている。だから個人の価値判断をなんらかの手法で集めると(たとえば選挙や世論調査)、それらは「社会的な価値観」の構図になるだろうという予測が成り立つ。場合によっては、それが「社会的な意思決定」だというふうにもなる。内閣支持率などはその典型だ。 

≪012≫ しかし世間というもの、いまやすっかり大衆に支えられ、その大衆はたいていポピュリズムに傾く性癖をもち、おまけにそこにはマスメディアの解説や扇動もある。どのように個人の価値観が社会の価値観とつながっているのかは、なかなか見えにくい。ましてどこに意思決定プロセスがあるのかは、たとえば最近の普天間基地移転問題がそうであるように、さらに見えにくい。 

≪013≫ こういう問題を理論的に考え、そこに数学的な手法を加えながら組み立てようとする「社会的選択理論」(theory of social choice)という専門的な学問がある。最終的には社会的な意思決定がどのように組み立てられるべきかを議論する。ケネス・アローが組み立てた。 

≪014≫ 社会的選択理論で問題にするのは、個人の利己心である。社会は個人の利己的なふるまいをどう扱えばいいのか。周知のように、アダム・スミスは個人の利己心が、市場においては「見えざる手」によってうまく動くと考えた。 

≪015≫ この考え方は一挙に広まった。スミスより20歳ほど若いジェレミー・ベンサムは、個人が快いほうに向かって自己利益を求めることは、市場のみならず、社会全体においても最大幸福につながるとみなして、この動向をベンサム自身の造語によって「功利主義」(utilitarianism)と名付けた。功利主義の見方によれば、利己心は「最大多数の最大幸福」をつくる発端なのである。それまでイギリスではコモン・ローが慣例と判例の基準となってきたのだが、ベンサムは行政と法律の外側にも尺度がありうることを示したわけだった。ここに“計算可能な個人主義”が発露した。 

≪016≫ ベンサムの功利主義は、ついでスチュアート・ミルによって自由論や代議政治論に発展し、どんな個人にも、他人に危害を加えないなら何をしてもいい個人的自由があると想定された。やがて自由主義的な個人主義が確立していった。 

≪017≫ そのほか、さまざまな考え方がスミスとベンサムの功利的利己主義を出発点にして連打されていったのだが、そのあたりの流れについては1336夜に案内した間宮陽介の『市場社会の思想史』(中公新書)などを参照してほしい。 

≪018≫ なぜ功利的利己主義というような個人のちっぽけな行動が集まると、まわりまわって社会という大きなしくみに寄与できるだなんてことになったのか。 

≪019≫ こうした考え方の底辺に何があるのかというと、それはかんたんだ。社会が「グッド」や「ハッピー」になるはずだという理念が根強くあったからである。いかに戦争や犯罪や不信がはびこっていようと、社会はそれを理念とするわけにはいかない。やはり善心や幸福を理念としたい。 

≪020≫ 社会が「グッド」や「ハッピー」になるにはどうすればいいか。仏教なら自分で修行をしなさい、イスラム教ならアラーを信じなさいということになる。老荘思想なら社会のことなどにあまりかかずりあうな、無為自然でよろしいということになる。ところがヨーロッパでは、理念は現実であり、現実の社会は理念を反映するべきものなのだ。「グッド」も「ハッピー」も現実的なアプローチが可能になって、その結果が互いに示しあえるものでなくてはならなかった。できれば、その結果を明示的な数値をもってあらわしたい。 

≪021≫ こうしてヨーロッパでは、「グッド」や「ハッピー」を考えて信仰するのが宗教者で、それを社会的な場面にあてはめて推理をするのが知識人で、それを効果的に制度にするのが政治家で、それにもとづいて生産するのがメーカーで、それを商取引するのが商業者たちで、これらを享受するのが民衆だという相場になっていった。つまりはヨーロッパにおいては(いまでは資本主義社会にとってはということだが)、学問とはこれらのための推理の手段を提供し、その可能性があるのかどうかを見極めるものなのである  

≪022≫ というわけで、スミス、ベンサム、ミルたちは、人々の望む善心や幸福というものも、そこに多少の制限を加えさえすれば、おおかたの個人の行為や意思の集積によって実現できるだろうと推理したわけだった。自由の範囲がどこにあるのかも考えるようにしたわけだ。 

≪023≫ しかし、ほんとうに個人の利己心の集積が社会の自由になっているのかどうかは、テストしてみなければわからない。信仰だけでも理屈だけでもわからない。まして商取引だけではわからない。とくに世界大戦や金融恐慌や貧困をかかえるようになると、新たな社会的なブレイクスルーの方法が模索されるようになった。 

≪024≫ かくして社会的選択理論は、そのテストのための数理的な手段を考えるようになったのである。「グッド」や「ハッピー」を求める行為が数値に向かって明確になっていくアプローチに踏みこんだのだ。 

≪025≫ 個人の意思や行為を社会に示せる数値的なしくみがあるかといえば、最も典型的には2つある。  

≪026≫ ひとつは、投票などによる多数決である。ぼくにとって多数決が気持ちの悪いものであることは、一昨年の暮に千夜千冊した森政稔『変貌する民主主義』(ちくま新書)のところや『国家と「私」の行方』(春秋社)で詳しく書いておいたけれど、しかし一般社会では、「多数決の原理」はめったにゆるがない。いや、民主主義社会では多数決はゼッタイ的なものにもなっていて、個人が社会的に選好や決断を示す強力な意思決定装置として君臨しつづけている。ここでは数がちゃんとものを言う。 

≪020≫ 社会が「グッド」や「ハッピー」になるにはどうすればいいか。仏教なら自分で修行をしなさい、イスラム教ならアラーを信じなさいということになる。老荘思想なら社会のことなどにあまりかかずりあうな、無為自然でよろしいということになる。ところがヨーロッパでは、理念は現実であり、現実の社会は理念を反映するべきものなのだ。「グッド」も「ハッピー」も現実的なアプローチが可能になって、その結果が互いに示しあえるものでなくてはならなかった。できれば、その結果を明示的な数値をもってあらわしたい。 

≪027≫ もうひとつは、「市場の原理」である。ここでも市場参加者としての個人の意思や行為は(企業参加を含めて)、市場の動向に如実に反映される。こちらはもっと劇的に数の変化が日々あらわれていく。 

≪028≫ この2つは、複数の個人の価値判断を単一の社会的な価値判断に仕向けるしくみなのである。両方とも数値によって意思の進んだ道筋がわかるようになっている。だからこそ投票制度や多数決や投資市場は、これまでの社会のなかで大手を振って成り立ってきた。 

≪029≫ 言い忘れたが、経済学では、このような個人に始まる価値判断の向きとその算定結果のことを「効用」(utility)といい、社会学では、このように複数の価値観が集計された総体のことを「厚生」(welfare)という。社会的選択理論というのは、この「効用」と「厚生」のあいだの関係に分け入っていくものだった。その大成者がケネス・アローだったのである。 

≪030≫ アローは『社会的選択と個人的評価』(1951)を書いて、社会的な決定ではたいていは次のようなことが前提になっていると考えて、これらを関数にした。「個人の選好には制約がない(個人の好みは強制されない)。全員一致の選好は社会的決定になる(これをパレート最適という)。多数決もありうる。どこにも独裁が関与すべきではない、どんな意見も尊重されるべきである……」。 

≪031≫ アローが挙げた前提要素は、ざっと見ればわかるように、民主的な社会価値をかたちづくっている要素と思われているものばかりだ。ところがこれらを関数(社会的厚生関数)として数式にしてみると、結論は意外なものになった。以上のような民主的な条件が同時に成立することは“ありえない”というものだったのだ。これを社会経済学では「アローのパラドックス」とか「不可能性定理」と呼んでいる。 

≪032≫ 当然ながら、アローの結論は反響を呼んだ。民主主義の不可能性を数理的に立証したようなものだったからだ。 

≪033≫ そこでアローを引き継いだ社会的選択理論は、まずはこの民主主義の完全成立の不可能性を免れる道はないのかという議論をし、それがかなり困難だとわかると、ついではこの結論を別の領域にあてはめたり、比較したりした。この過程で、いわゆる社会福祉学や厚生経済学がさまざまに提案された。 

≪034≫ また、アローのパラドックスの限界を調べるほうに向かう研究者たちもいた。その限界を指摘するほうの一群に、アマルティア・センが屹立したのである。 

≪035≫ ここまでが、センが社会的選択理論の舞台に登場するまでのあらかたの背景だ。あまり学問のほうに入りこまないように説明したのでわかりにくかったかもしれないが、それでも、すでにセンの前に、「効用」と「厚生」を媒介にしながらも、最大多数の最大幸福をめざすべき民主主義の方程式が喘いでいたことが見てとれる。 

≪036≫ センはどうしたのか。先を急いでいうと、センはアローの成果と限界を克服し、そこから新たな展望が見いだせないかというふうに考えた。また、そういう課題を「リベラル・パラドックス」というふうに措いてみた。全員一致の原理(パレート最適)と個人の自由を承認する原理のあいだにまたがるパラドックスである。リベラル・パラドックスが横たわる原因は、はっきりしていた。 

≪037≫ パラドックスを生み出している起源が合理的な利己心にあるということだ。この利己心はアダム・スミスが想定した自由に市場に参加するという利己心ではない。市場参入による勝利を想定した利己心だ。だったら、これを疑ったほうがいい。 

≪038≫ ここからセンによる「合理的な愚か者」という群像モデルができあがっていった。長らく「ホモ・エコノミクス」として大事にされてきた平均的経済社会人像は、またナポレオン以降のネーション・ステートで集計の対象になりつづけてきた統計的市民像は、ここにべっとりと泥を塗りたくられたのだ。 

≪039≫ つづいてセンは、そこには合理ではなく不合理や非合理があるだろうと予想したのだが、こちらはなかなかブレイクスルーが難しかったようだ。センは時間をかけて考えた。その軌跡は本書が1970年の論文から1980年の論文までの幅をもっていることにもあらわれている。しかし最終的にセンは脱出した。このときセンが持ち出したのが「共感」と「コミットメント」だったのである。  

≪040≫ センのいう共感とは、自身の利益にまったく関係がなさそうな事態や行動に共感することをいう。たとえば他者の貧しさへの共感、悲哀への共感、不成功への共感……だ。もう一方のコミットメントとは、そのような共感がおこってしまったことを放ってはおけず、そこについついかかわろうとする意思の発動のことをいう。 

≪041≫ はっきりした利他性というものではない。「思いやり」ともかぎらない。ふと、やむにやまれぬものが発動しているのだ。それが共感であり、コミットメントなのである。これは、センの乾坤一擲だった。 

≪042≫ それにしても、こんな柔らかい概念が社会的選択理論のような数理的な社会学や経済学に持ち出されたのは希有のことだった。これらは、それまでの社会的選択理論からすると、自身の選好や効用がもたらす理論には反することで、スミス、ベンサム以来の功利的個人主義にも半ば対立する。 

≪043≫ はたしてこのような共感やコミットメントをもつ社会単位としての個人を、民主主義社会のルールの延長にあるものと見ていいのか、自由論の新しい提起であるとみなしていいのか、そこの議論がはなはだこみいっている。センの論文がわかりにくくなっているのは、このあたりのせいもある。 

≪044≫ けれどもセンはあきらめなかった。新たな概念の提出によって切り抜ける。それは「ケイパビリティ」(capability)というものだった。潜在能力というふうに訳されることが多いのだが、そのままケイパビリティと掴んだほうがいいだろう。センは、共感やコミットメントが個人の活動のケイパビリティとして、インターパーソナルに必ずや観察できるはずだとみなしたのだ。ぼくなら、このケイパビリティにコンティンジェントな別様の可能性が待っている、と言ってみたい。  

≪045≫ 【参考情報】(1)
アマルティア・センは1998年にノーベル賞を受賞した。そのときの推薦理由をケネス・アローがまとめた。①社会的選択のフォーマルセオリーの提案した、②個人の選択と合理性についての矛盾の摘発と橋渡しをした、③社会的政策の明示化した、④不平等と貧困を測定可能にした、⑤分配とその既決についての研究を進めた、⑥社会的厚生の展望を開いた、というふうになっている。 

≪046≫ 【参考情報】(2)
センの著者の翻訳は少ない。本書のほかには、『不平等の経済理論』(日本経済新聞社)、『福祉の経済学』(岩波書店)、『集合的選択と社会的厚生』(岩波書店)、『不平等の再検討』(岩波書店)くらいがあるだけだ。 研究書もまだ少なくて、若松良樹『センの正義論』(岩波書店)、鈴村興太郎・後藤玲子『アマルティア・セン』(実務出版)、田中廣滋『公共選択の経済理論』(中央経済社)、塩野野裕一『価値理念の構造』(東洋経済新報社)、斎藤純一『自由』(岩波書店)、有賀誠ほか『ポスト・リベラリズム』(ナカニシヤ出版)、合意形成研究会『カオスの時代の合意学』(創文社)、大澤真幸『自由の条件』(講談社)などが目立つくらいで、あとは学術誌の論文が多い。本書の訳者の大庭・川本も論文で強力な援軍を繰り出し中なのだ。 なお、文中でいささか気の毒なかっこうで紹介してしまった平山朝治の『ホモ・エコノミクスの解体』(中央経済社)は、他の平山の著作とともに必読だ。中央経済社から全5巻の『平山朝治著作集』が刊行されている。いつかはとりあげたい。 

≪047≫ 【参考情報】(3)
実はセンの「ケイパビリティ」は、このあとのぼくの千夜千冊の隠し玉になっていく。それがどういうものなのかはわざとらしくここでは書かないし、それにはさまざまな「自由論」や「正義論」や「リベラリズム論」を経由する必要があるので、よほど注意深く千夜千冊を辿っていってもらわないと、隠し玉の起爆の場面を見逃してしまうかもしれない。ぜひとも、ご注意を。 ただしひとつだけ、ここでヒントを書いておく。ISISというのは、“Inter System of Inter Scores”ということなのだが、このインタースコアがインターシステムとなっていくところに、実はインターパーソナルなケイパビリティが関与しているわけなのである。あれっ、言いすぎたかな。 

≪01≫  重信メイは日本赤軍のリーダーだった重信房子の娘である。母は1971年に、パレスチナを拠点とする赤軍派の海外基地をつくるため、奥平剛士と偽装結婚した。その工作中に奥平はテルアビブ空港乱射テロで死亡、メイはレバノンのベイルートで房子とパレスチナ人の父の娘として生まれ、無国籍のままアラブ社会の空気を吸って育った。 

≪02≫  母がどんな苛烈な情況のなかでメイを生み育てようとしたかは、重信房子が『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』(幻冬舎)に、またその苛烈な情況がどういうものだったかは『日本赤軍私史:パレスチナと共に』(河出書房新社)に、証している。 

≪03≫  ベイルートのアメリカン大学の国際政治学科の大学院を出たメイが、革命家の母とのあいだに何を交わしてきたかは、メイの最初の本『秘密:パレスチナから桜の国へ』(講談社)に詳しい。「母と私の28年」というサブタイトルがついている。もっと前に千夜千冊したかった本だ。 

≪04≫  そこにも書かれているが、母の重信房子はハーグ事件の関与疑惑で国際指名手配をうける日々をおくっていた。ハーグ事件とは1974年に日本赤軍の3人が短銃で武装してフランス大使館を占拠した事件のことをいう。重信房子と吉村和江がこの事件の共謀共犯者とみなされた。 

≪05≫  母は逃亡を続け、いくたの変転をくぐりぬけたすえ、2000年、偽造パスポートで日本に入国したところを、かねて日本赤軍支援者を監視してきた大阪府警公安第3課によって発見され、逮捕された。空港を進む重信房子の誇らしげな姿は、何度もニュースで流された。 

≪06≫  それにしても、なぜあれほどの「母」が捕まったのか。独特のタバコの吸い方で本人と特定されたようだ。ぼくも気をつけなければいけない。 

≪07≫  重信メイは2001年3月5日に日本国籍を取得、4月3日に「桜の国」の地を初めて踏んだ。さぞかしだったろう。 

≪08≫  母の裁判を見守るかたわら、同志社の渡辺武雄教授の指導のもとで同大学大学院のメディア科を修了し、その後はAPF通信社のリポーター、河合塾の英語講師、MBC(中東放送センター)の東京特派員などに従事しながら、執筆もするようになった。  

≪09≫  とくに目立ったのは2006年から「ニュースの深層」のキャスターを務めたことだろう。ぼくはメイが出る「深層」の半分か3分の1ほどを見たと思うのだが(この番組は当時最も好ましい報道解読番組だった)、出演回数がふえるたびに彼女のコメントの切り口、発言のタイミング、その場の役割の発揮などがめざましくなっていくのを感じた。 

≪010≫  ぼくの周辺ではメイはもっと活躍していた。とくに知ろうとしたわけではないのだが、なぜかその動向がぼくにも逐一入ってきた。たとえばアーティストの大浦信行君が映画制作中で、それが『日本心中 9.11~8.15』としてメイも登場させているということや、瀬々敬久監督がドキュメンタリー『頭脳警察』でメイを撮っていることなども、なぜか刻々と知らされていた。 

≪011≫  ちなみに重信メイのツイッターでは、この数日は若松孝二の突然の交通事故死が惜しまれている。メイも「悔しい」と呟いていた。ぼくもときどき覗いてきたが、このサイトは中東の空気が飛び交っていて、刺激になる。そのメイもそろそろ来年の3月には30代を卒業である。 

≪012≫  本書はチュニジアやエジプトに連続しておこった「アラブの春」を、欧米や日本のメディアが「民主化」への前進だと称えたことに大いなる疑問を呈した一冊である。わかりやすく書くことをこころがけているようだが、中東の空気を肺腑の奥まで吸ってきた者ならではの説得力だった。 

≪013≫  チュニジアを代表する花はジャスミンである。そのチュニジアを23年のあいだベン・アリー大統領とその仲間が支配していた。   

≪014≫  若者たちは大学を卒業しても就職ができず、さまざまな閉塞感を感じていた。そうした一人の青年ムハンマド・ブーアズィーズィーは、やむなく友人から荷車を借りて、露天で野菜を売っていた。しかし露天商をやるには許可がいる。青年は検査官につかまり、荷車・野菜などすべてを没収され、女の検査官からは平手打ちをくらった。 

≪015≫  チュニジアは女性の社会進出が進んでいる。女性検査官もめずらしくはない。けれどもアラブ社会で男が女に引っぱたかれるのはそうとうの屈辱だった。青年は心の傷を負い、焼身自殺した。 

≪016≫  これが2010年12月17日のこと。病院に運ばれるブーアズィーズィーの姿は居合わせた市民によってモバイル動画で撮られていた。青年の焼身自殺は国内でも海外でもニュースにはならなかった。そのかわりフェイスブックやユーチューブがこの動画をあげた。この動画の効果はラディカルだった。青年の境遇に共感した者たちが次々に焼身自殺していったのだ。焼身自殺をすることが政府に対する反対行動だと思われたからだ。 

≪017≫  デモや集会が連打された。そのころのフェイスブックのデモの写真にはたいてい赤旗がひるがえっていたと、メイは思い出している。弾圧がおこり、300名をこえる死者が出た。そして1カ月後、ベン・アリーがサウジアラビアに亡命し、下院議長が暫定大統領になった。これがいわゆる「ジャスミン革命」だった。 

≪018≫  ベン・アリー政権を倒したのは左派とリベラル派の勢力だったが、革命がおこったあとの議会選挙で台頭してきたのは、ムスリム同胞団を母体とするアンナハダだった。なぜイスラム系の政党が勝ったのかといえば、ジャスミン革命の民衆勢力から有力なリーダーが登場しなかったからだ。  

≪019≫  もともとイスラム社会には多様なリーダーがいる。リベラル派も少なくない。たとえば、かねてからメイが最もリベラルだと感じてきたのは、2010年に74歳で亡くなったムハンマド・ファドララだった。レバノンのシーア派のスピリチュアルリーダーで、科学と宗教の融合をはかったりした。受精卵からつくられる胚性幹細胞を取り出して研究することはアメリカでもまだまだ議論されていることなのだが、ファドララは真っ先にそれを許容するファトワ(宗教見解)を発表していた。    

≪020≫  ファドララには「イジュティハード」が豊かにあったのだ。コーランに書いていない判断をイジュティハードというのだが、ファドララにはその判断をくだすに足る知識と教養と見識があったようだ。 

≪021≫  中東のイスラム社会にはこうしたリーダーが複雑多様に輩出している。既存政権を打倒するところまでなら民衆蜂起でもできるのだが、その後の社会を指導していくには組織力と判断力をもったリーダーがいる。そういうリーダーをかかえた政党が台頭してくるのは当然なのである。 

≪022≫  チュニジアのジャスミン革命がエジプトに飛び火した。 そう、一般には報道されてきた。けれどもメイが見るに、エジプトでは2006年くらいからすでにストライキが頻繁におこるようになっていた。 

≪023≫  2008年4月にはアルマヘッラ・アルコブラという工業都市で、悪い労働条件の改善をもとめるストライキが立ち上がっていた。このとき労働者の闘いを学生たちがソーシャルメディアをつかって支援しはじめていた。    

≪024≫  そうしたなか、一人の男性ブロガーが警察官が没収した麻薬を横流している現場映像を入手した。ハリード・サイードという。サイードは「映像をブログで公開するぞ」と警察官を脅した。警察側はインターネットカフェにいたサイードを突き止めて、殴る蹴るの暴行をはたらいたうえ、刑務所に放りこんだ。2010年6月6日のことだ。 

≪025≫  サイードは獄中死した。しかし仲間たちは納得しない。「私たちすべてがハリード・サイードだ」というページをネットに立ち上げた。そこにチュニジアのジャスミン革命の追い風が吹きこんできた。2011年1月、チュニジアのベン・アリーが国外脱出をはかった日、カイロでデモが広まり、抗議の焼身自殺者たちが相次いであらわれた。 

≪026≫  ムバラク大統領は強気だった。1月25日のデモには5万人が集まったのだが、エジプト政府はソーシャルメディアを妨害し、インターネットと携帯サービスの接続機能を遮断した。そのうえでムバラクは国営テレビに出て首相以下の全閣僚を解任して、自分は経済改革の先頭に立つことを誓ってみせた。しかし2月1日になって、反対勢力が100万人規模のデモを呼びかけたところで、潮目が逆流していった。ムバラク政権はこのとき、実質的に崩壊した。 

≪027≫  なぜ、強気のムバラクを短時間で倒すほどのことが急速におこったのか。民衆革命の力によるものだったのか。ソーシャルメディアの力が政府を倒したのか。かんたんな答えでは説明できない。 

≪028≫  エジプトはアメリカから毎年20億ドルの経済援助を受けてきた。その大半が軍部に流れ、その軍部が大企業に投資していた。エジプトでは軍が金融機関をもち、経済活動をしているのである。 

≪029≫  国民からすれば政府高官や軍部の奢侈と腐敗はとうてい許しがたいものだったが、それを利用活用する上層経済社会にとってはきわめて便利なものでもあった。その反面、労働者のストライキが長引いて経済的な損失が大きくなれば、大企業に投資している軍も大きな損失になる。軍はおそらくムバラクを見限るタイミングを見て、その損得勘定の目で民衆の動向を読んでいたのだったろう。 

≪030≫  ムバラクのほうも迷っていた。自分の外交政策に満足していたアメリカが最後は自分を助けるだろうと見ていたからだ。しかしカイロで民衆暴動がおこったときの、国務長官ヒラリー・クリントンの発言はかなり迷走していた。結局、アメリカはムバラクを見限り、けれども反米反イスラエル政権が生まれてこないようにシナリオを仕組むという作戦に向かったのだ。 

≪031≫  「ジャスミン革命はリビアにも及び、カダフィ政権を転覆させた」。またまたこのように、欧米メディアや日本のマスコミが報じてきた。メイはこれも怪しいと睨んでいる。 

≪032≫  リビアでは教育費は大学まで無料である。医療費・電気代・水道代もことごとく無料だ。家やクルマを買うときのローンも、国が半分を援助する。メイは「私が知るかぎり、世界で最も豊富な福祉国家だったのではないかと思う」と書いている。スカンジナビア諸国のように高い税金によって得られる福祉サービスではなく、ふんだんに石油が採れることによって実現した福祉なので、国民の懐がまったく痛まない。驚くべき国家だったのである。 

≪033≫  しかもリビアは、正式国名を「大リビア・アラブ社会主義人民共和国」というように、アラブ・ナショナリズムとイスラムと社会主義を絶妙に組み合わせた国なのだ。アラブ・ナショナリズムとは、厳密な定義が難しいが、大きくはアラビア語を話す民族として誇りをもつことを意味する。 

≪034≫  カダフィはこのアラブ・ナショナリズムと、政教を分離しないイスラム社会と、そして社会主義とをアクロバティックにまぜたのだ。 

≪035≫  第二次大戦後の1951年、リビアはそれまでの英仏による共同統治から独立し、リビア連合王国(1963年からリビア王国)になった。東(キレナイカ)、西(トリポリタニア)、南(フェーザン)の王国を統合した。 

≪036≫  当初は農業国だったが、1955年から油田開発が順調に進捗し、60年代にはアフリカ最大の埋蔵量を誇る産油国になった。油田の多くは東のキレナイカに集中する。 

≪037≫  それから18年後、ナセル主義者のカダフィ(ムアンマル・アル=カッザーフィー)が青年将校たちを集めてクーデターをおこして政権を握った。西のトリポリタニアを代表するカダーフという大部族の出身だった。その中心都市がトリポリだ。 

≪038≫  カダフィは「緑の書」(グリーンブック)を発表して新国家の建設に邁進し、独裁者ではありながらも、世界の革命勢力や民衆運動を支援しながら国力を増強していくという、きわめて独自の方針を貫いた。とくに欧米に対しては頑として反抗するという態度を鮮明にした。  

≪039≫  そのため1985年に発生した西ヨーロッパの一連のテロ事件を理由に、リビアは欧米からの経済制裁を受け、翌年にはアメリカ軍の空爆にさらされた。カダフィの自宅もピンポイントで爆撃された。しかしカダフィは報復としてパンナム機を爆破し、敵対関係を譲らなかった。 

≪040≫  90年代に入ると、カダフィは欧米に対する挑発的な発言を控える一方で、少しずつアフリカ諸国に接近し、なんと「アフリカ合衆国」の構想をもつようになっていった。2009年にはアフリカ連合の総会議長になり、翌年には金本位の「ディナール」による地域通貨計画を発表した。 

≪041≫  これら一連のカダフィの大胆な方針に、アメリカは業を煮やしていた。リビアが中国資本や中国企業の進出をどしどし受け入れていることも気がかりである。すでに中国はリビアを足場にアフリカ投資計画の多角化を狙っていた。リビアと中国は社会主義国で、その二つが資本主義市場力をもったのではたまらない。 

≪042≫  リビアに中央銀行がないことにも、アメリカは苦りきっていた。当時、中央銀行がないのは世界でイラン、アフガニスタン、イラク、リビアの4カ国だけだったのだが、これらの国にはIMFや世界銀行の力は及ばない。自国でソブリンファンド(国債)の運用に失敗しないかぎり、世界のグローバル経済からは独立できるからだ。 

≪043≫  それだけではない。迫りくるグローバリゼーションのことをアラブでは「アウラマ」と言うのだが、そのアウラマとは別の経済社会システムがアフリカを包むようになれば、これは欧米グローバリゼーションにとっては最大の敵対物なのである。 

≪044≫  メイはここで、イラクのサダム・フセインが2002年に石油売買をドルではなくユーロに切り替えると発言したあとに、アメリカによるイラク戦争が仕掛けられたことを想起することを、読者に促している。 

≪045≫  日本が3・11の未曾有の体験に遭遇していた2011年3月17日、国連安保理はリビア空爆を決議した。カダフィは最後まで国民に抵抗を呼びかけたが、ついに無残に爆殺された。その映像はむごたらしいものではあったが、テレビは何度も放映した。 

≪046≫  いったい何がおこったのか。リビアに民衆革命や民主化革命がおこらなかったとは言えない。言えないものの、しかし、カダフィ政権が覆った要因にはもっと政治的な問題も絡んでいたとも見るべきだったのである。 

≪047≫  他方、リビアに国会がなく、ダイレクト・デモクラシーが施行されていたことにも目を致す必要がある。リビアの国民は640万人で、国土からすれば少なく、財政規模も岐阜県くらいである。そこで「マジレス」(基礎人民会議)という会議体がつくられ、国民の声をそこで吸い上げるというしくみを継続してきた。選挙もそのマジレスが機能した。 

≪048≫  これを「民主的ではない国だった」と誰が言えるだろうか。リビアはある意味ではアテネ以来の直接民主主義国家だったのである。 

≪049≫  「アラブの春」はチュニジア、エジプト、リビアという北アフリカの国から、アラブ諸国が密集する中東に移動していったかに見える。まさに中世のイスラム社会の燎原の火のような拡張だが、コースは逆だった。またとんでもないスピードだった。 

≪050≫  たしかにバーレーンにも飛び火した。2011年2月14日の首都マナーマでのデモでは1000人が逮捕された。ところがその直後、この事態を鎮圧するためにやってきたのはサウジアラビア軍とUAE(アラブ首長国連邦)の警察隊だった。 

≪051≫  この2国は「湾岸協力会議」(GCC=サウジアラビア、UAE、オマーン、カタール、クウェート、バーレーン)に入っていて、やがては共通通貨「ハリージー」を導入したいという経済連携の約束をとっている。そのためバーレーンの“紛争”を「石油産業を守るために」という名目によって介入したのだが、実はバーレーンに親イラン政権を出現させないための先手必勝でもあった。 

≪052≫  イエメンでも、2011年1月27日にサーレハ大統領の退陣を求める反政府デモが勃発した。首都サヌアでは1万6000人が集まった。が、ここでもGCCが動いた。政治的な罪は問わないからという条件付きで、サーレハの辞任を要請したのだ。サーレハが首を縦にふらなかったため、事態は泥沼化していった。サーレハが退陣したのは年末だった。 

≪053≫  そうして残されたのはイエメンの貧困だけだったように見えましたと、メイは書いている。 

≪054≫  オマーンへの飛び火は2011年2月2日だった。ただ、絶対君主制のオマーンでは、民衆の改革の要求を王家がすんなり認めた。スンニ派から分派したイバード派の国王たちの一族である。また、サウジアラビアが資金援助した。オマーンの領海にあるホムルズ海峡は世界の原油輸送の4割を通行させているのだが、そこが不安定になっては困るからだった。 

≪055≫  2011年1月23日、サウジアラビアで労働者の一人が貧困に抗議して焼身自殺をした。  

≪056≫  その後、3月11日に「怒りの日」と名付けた大規模なデモがおこった。日本ではまさに3・11とぴったり重なったため、その日が「怒りの日」であったことはあまり知られていない。 

≪057≫  サウジアラビアは世界最大の石油埋蔵量を誇る。絶対君主制の国家である。サウード家が支配する。王家も国民もスンニ派が多数を占める。湾岸最大の国土をもつともに、ムスリムたちの二大聖地のメッカとメディーナが国土の中にある。そのためワッハーブ家の権威が国中にゆきとどく。 

≪058≫  これらはいずれもサウジアラビアの保守的な求心力になっている。なかで女性が規律に縛られ、シーア派が貧困を強いられている。  

≪059≫  女性が縛られているのは、たとえば女性がクルマを運転することが禁じられていることなどにあらわれる。「怒りの日」のあと、女性がクルマを運転している映像がユーチューブにアップされたときは喧々囂々となった。 

≪060≫  シーア派の貧困とともに、いまだに奴隷制がのこっていることや、「ビドゥーン」(「持っていない」の意味)という国籍のない者たちがいることも、社会の歪みをつくっている。このようなサウジアラビアには「アラブの春」も「民主化革命」も、まったくやってきていない。 

≪061≫  イラクでは、2011年2月25日にバクダッドで大規模なデモがあった。数万人が徒歩でタハリール広場に集まって、「バース党反対! マーリキ首相反対!」のシュプレヒコールを叫んだ。 が、イラクで最も望まれているのはアメリカが用意した民主主義ではなく、イラク人自身による民主主義なのである。当然だ。 

≪062≫  ヨルダンはどうか。 この国はイスラエル、パレスチナ自治区、サウジアラビア、イラク、シリアという5カ国と国境を接している。尖閣や竹島どころではない。いつも政情が安定しない。おまけに人口の4分の3がパレスチナ人でもある。イスラエルとの戦争から逃げてきた人々だ。 

≪063≫  そのヨルダンにも1月21日にデモがおきた。物価とインフレと失業に対する不満がリファイー政権にぶつけられた。しかし、この運動はほとんど報道されなかった。左派による王政反対の表明が含まれていたからだった。それでもリファイー内閣は2月1日に総辞職した。 

≪064≫  ヨルダンの王家はハシーム家で、さかのぼればムハンマド(マホメット)の末娘ファーティマの系譜のひとつ、ハサンの末裔を自称する。ハシーム王家はタイと似て国民から親愛されている。 

≪065≫  そのハサンの末裔を同じく名のっているのが、モロッコのアラウィー王家である。安泰とはいえない。そうしたモロッコでも、やはり「2月20日運動」とよばれるデモがあった。そして内閣が辞職した。では、これが民主化のための革命だったかというと、それにはほど遠い。 

≪066≫  モロッコは、ポリサリオ戦線という勢力が独立を宣言した「サハラ・アラブ民主共和国」をかかえ、またアラビア語ではないベルベル語を喋る先住民ベルベル人をかかえている。ベルベル人もイスラムの信仰者で、ベルベル語やベルベル文化の正当な教育を受けられるようにするべきだと主張している。当然だろう。チェンマイにいて、しばしばモロッコに材料を仕入れにいく花岡安佐枝はベルベル人の威厳と工夫が大好きで、「あそこは中世からの民が生きているんです」と言っていた。同じことをピーター・ブルックと何度も北アフリカを移動していた土取利行さんも言っていた。 

≪067≫  モロッコにはこうした要求がいろいろくすぶっているわけだ。けれども、王家や政府がその要求を何かひとつを受け入れれば、次々に連鎖がおこるにちがいない。それゆえ、まだモロッコはこれらすべてに慎重なのである。ベルベルを除いて、モロッコはまだ「春」にはなっていないのだ。 

≪068≫  その後、世界のニュースを驚かせたのがシリアだった。いまでもジッグザッグに混乱しつづけている。しかし、混乱させているのは誰なのか。何なのか。すこぶるわかりにくい。 

≪069≫  シリアは1961年からバース党が政権を握り、1970年にハフィーズ・アル・アサドがクーデターで大統領になった。いまのアサド大統領の父親だ。アラウィ派というイスラム少数派に属している。 

≪070≫  2000年、実に29年にわたって君臨してきたハフィーズが亡くなり、兄も交通事故で亡くなったので、次男のバッシャール・アル・アサドが大統領を継いだ。バッシャールは父アサド同様にバース党を仕切り、いまは内戦状態に突入したままにある。 

≪071≫  2011年の暮れから今年にかけて、シリアでは連続的な自爆攻撃があった。反政府勢力とアメリカは「アサド政権が仕掛けたものだ」と非難した。ちょうど取材でシリアに訪れていたメイは、これが反政府勢力によるものだということにピンときた。だいたい自爆攻撃はムスリム同胞団やアルカイダがとってきた戦法である。ところが犠牲者が出るたび、メディアは政府に責任があるかのような報道をしつづけた。  

≪072≫  5月25日から翌日にかけて、シリア中部のホウラで少なくとも109人の犠牲者を出した虐殺事件がおきた。子供49人、女性34人が含まれていた。アメリカと国連はすぐにシリア政府を批判した。アサドは反政府テロによるものだと反論した。 

≪073≫  シリアの反政府勢力は複雑である。左派と政教分離主義者が合流したNCC(民主的変革のための全国調整委員会)、国外で活動するSNC(シリア国民評議会)、地域調整委員会、革命最高評議会、シリア革命総合委員会などがある。 

≪074≫  これらは入り乱れて活動しているが、関係諸国が構成する「シリアの友人」ではSNCをシリアの正当な代表とする動きになっている。だが何もかもが予断を許さない。  

≪075≫  いったいシリアの過激な内戦はどこが仕組んでいるのか。反政府側なのか、政府側なのか、それとも第3の黒幕なのか。  

≪076≫  メイはこの事件が政府によるものとはどうしても思えない。ホウラは9割がスンニ派である。虐殺がおきたとき、この町は反政府勢力の支配下にあった。反政府勢力は犯行はアラウィ派のシャッビーハという暴力集団によるものだと断じている。しかし、反政府勢力が実効支配しているホウラにシャッビーハが入るのは難しい。そのほか不自然なことがいろいろある。 

≪077≫  おそらくこれは、反政府勢力が親アサドともくされた連中を一挙に殺害したのであって、そのうえでその罪をアサド勢力になすりつけ、これをきっかけにNATOなどの軍事介入をよびこもうとしたものだったのではないか。メイはそのように推理した。 

≪078≫  ぼくには真相はまったくわからないが、アメリカがシリア内戦に介入している理由ならはっきりしている。アメリカはイランがアサド政権を支持しているのが気にいらないのだ。 

≪079≫  イランとシリアは国境を接しあっている。この接触地域に対して力をもっているのはヒズボラである。イランの資金援助や武器供与はヒズボラが握っている。のみならずヒズボラは反イスラエルの武装闘争をしている。アメリカはヒズボラを叩きたい。かくて、アメリカはイラン牽制のイニシアチブをとるためにも、シリア内戦に介入しているわけなのである。 

≪080≫  もうひとつ、理由があった。シリアのタルトゥースにはロシアの中東唯一の軍事基地がある。アサド政権を倒せば、ロシアの軍事基地を撤退させられるかもしれないのだ。 

≪081≫  ぼくは知らなかったのだが、ユーチューブにはシャッビーハが暴力をふるっている映像が何度も流れたらしい。CNNもこれを紹介した。しかし、メイはこれもまた事実であるかどうかも疑わしいと言う。シリアではすでにインターネット上の“自作自演”まがいのものが、いくつも流れているというのだ。アラビア語やアラブ社会に通じていれば、そのおかしな点がいくつも見つかるはずだという。  

≪082≫  レバノンはメイが生まれ育った国である。メイが生まれた1973年の3年後から、レバノンはずっと戦争状態が続いている。外から持ち込まれた戦争もあれば、イスラエルと闘った戦争もあった。 

≪083≫  そのレバノンでも「アラブの春」と同期するようなデモがあった。けれどもレバノンのデモは宗派ごとに決められている法律に反対するデモだった。レバノンには民法がないため、宗派ごとに規定や規約をつくっているのである。そのため、宗派の異なる二人が結婚しようとすると、どちらかが改宗しなければならない。むろん無宗教の結婚という選択肢などはない。  

≪084≫  このことは、大統領がマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派というふうに、政治家個人が宗派と結びつくという政教複合型の政治社会をつくりあげた。とうていぼくなどの想像力がおよばない状況だ。 

≪085≫  そんな国に重信メイが育ち、母の革命計画と国際手配からの逃亡をどんなふうに眺めていたのかと思うと、さまざまな気分が押し寄せてくる。いろんな気持ちがまざっていく。 

≪086≫  ぼくはファイルーズのエキゾチックな歌やマルセル・ハリーファなどの音楽や、さらには西洋との融合を拒否して「ジャバリ」(山より来る)を守っているレバノン伝統音楽も好きなので、今夜、「アラブの春」の正体をめぐりながらも、ついつい重信メイに国籍を与えなかったレバノンの日々がメロディックにも空想されてしまうのだ。 

≪087≫  ちなみに中東問題や「アラブの春」については、書き手によっていろいろな見方がとびかっている。 

≪088≫  今夜のぼくはメイの本書に依拠したが、ほかに田原牧の『中東民衆革命の真実』(集英社新書)、森孝一『アメリカのグローバル戦略とイスラーム世界』(明石書店)、アントワーヌ・バスブース『サウジアラビア:中東の鍵を握る王国』(集英社新書)など、いろいろ読まれるといい。それにしても3・11と中東の「春」が同時進行していたこと、ぼくにはけっこう重くのしかかっている。 

≪01≫  どう転んでも、アメリカは度しがたいほどの反知性主義(anti-intellectualism)の国だ。このことはアメリカ人の半数以上が誇りにしているわりに、日本ではあまり知られていない。 

≪02≫  知られてはいなかったのだが、ドナルド・トランプが大統領選に勝って、少し事情が変わってきた。選挙中での数々の驚くべき差別的な発言、就任後の場当たり的な施策、ツイッターでの個人的な言説を見ているうちに、いったいこれは何だというふうになったにちがいない。 

≪03≫  レベルが低いのか、オバマの知性が嫌いなのか、これはひょっとしてレーガンやブッシュ父子にも見えていたことがもっと感情的に露呈したことなのか。それならトランプのほうがむしろ正直なのかもしれないのか、ということはこれこそがアメリカの反知性主義の本音というものなのか、というふうに感じ始めたからだろう。それにしてもこのことの、どこが「反知性」主義なのか。 

≪04≫  そんなところへ、日本の読書界で森本あんりの『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)が話題になった。帯のオモテには「いま世界でもっとも危険なイデオロギーの正体」というふうに、ウラでは「アメリカ✕キリスト教✕自己啓発=反知性主義」と煽っている。 

≪05≫  森本はICUとプリンストン神学院を出た組織神学とアメリカ・キリスト教史の専門家だ。なぜキリスト教の研究者がこんなことを書いたのか。どうも根が深そうだが、これだけではキリスト教と反知性主義の関係はわかるまい。 

≪05≫  森本はICUとプリンストン神学院を出た組織神学とアメリカ・キリスト教史の専門家だ。なぜキリスト教の研究者がこんなことを書いたのか。どうも根が深そうだが、これだけではキリスト教と反知性主義の関係はわかるまい。 

≪07≫  トランプ現象については、いままさに多くの分析と推断と憶測が追っかけている。ぼくは追っかけには関心がないのでろくに読んではいないのだが、ちらちら見たかぎりでは、会田弘継の『トランプ現象とアメリカ保守思想』(左右社)などは説得力があった。共同通信記者でもあった会田には『追跡・アメリカの思想家たち』(中公新書)という好著もある。 

≪08≫  おそらく日本での議論は三つほどに分かれるはずだ。トランプによってこれからのアメリカがどうなるのか、それが日本にどんな影響をもたらすのか、そもそもこんなふうにアメリカがなる理由はどこにあったのか、この三つだ。 

≪09≫  こういうときは、いろいろな訳知りの声が大きくなってくる。ある連中は、アファーマティブ・アクションに限界が来ていたんだよと言う。格差是正政策をやりすぎた、ハンチントン(1083夜)の『分断するアメリカ』の指摘のように、ヒスパニック・アメリカを別扱いしたくなったというのだ。これは見え見え解説で、何の説明もしていない。 

≪010≫  ある連中は、アメリカの反知性主義は衆愚政治やポピュリズムのことだよと言う。これもかなり無茶な説明で、愚民政策や人気取りポピュリズムはマスメディアを内包した現代政治に特有のもので、アメリカン・リーダーとそのチームの作戦や手立てが抜群にうまいとはいっても、とくにトランプ現象ばかりにあらわれているわけではない。 

≪011≫  ポピュリズムというのものは、はっきりいえば民主主義の浸透と拡張がもたらす必須の症状である。とくに日本では石原・青島・横山このかた、ポピュリストばかりが得票ゲームを制してきた。問題はそのポピュリズムで何をするかということ、橋下徹がしきりに強調していることだが、そういう主張をするのがほぼ全員ポピュリストなので、これも説得力がない。 

≪012≫  アメリカで仕事をしたり少し住んだことのある連中は、こんなことを訳知りに言う。アメリカにはずっと以前から「ペイルフェイス」(青白いインテリ)と「レッドスキン」(赤ら顔のマッチョたち)が対立していて、いろいろな場面で彼らが争っている場面に出くわすと、たいてい終盤にさしかかってレッドスキンのほうに心情的に傾いていく。トランプはレッドスキンの票を集めたのだよ、と。 

≪013≫  「ハーバード、イエール、ニューヨークタイムズが嫌いで、カーボーイとコカコーラとジーンズが好きなのが反知性主義なんだ」と割り切るのもいる。これは半ば当たっているだろうけれど、なぜそうなったかの説明がいる。 

≪014≫  少しアメリカ政治に詳しい者は、民主党と共和党の由来、北部と南部の気質、大統領政治のアメリカ的特殊性を喋ったうえで、トランプやブッシュの反知性主義はずうっと大統領選のたびににおこっていて、アイゼンハワーもニクソンもレーガンもブッシュも知的な勝利なんて収めなかったじゃないかと説明する。 いずれも、まるで無思想であることが反知性だと言わんばかりだが、これではおそらく何もわかってはこない 

≪015≫  あらかじめ言っておくが、反知性主義は無知性や無教養のことなのではない。 ロラン・バルト(714夜)が早々にあきらかにしたように、無知というのは知識の欠如なのではなく、知識に過飽和されていて、未知が見えなくなったり、新たな未知を受け入れることができないことを言う。狭隘になった知性が無知なのだ。 

≪016≫  しかし、反知性というのは、これとは少し異なってくる。「知性一辺倒ではありたくない」というのだから、知性一辺倒の主義主張に反旗を翻したいのだ。それは、権威的知性や知識人の大同団結に対する反発なのである。 

≪017≫  知識人の大同団結というのは、ハーバードやイエールやプリンストン的なアカデミーのことでもあるが、有名なのはフランクリン・ルーズベルト時代のブレーン・トラストや、ケネディ時代のランド・コーポレーションだ。これらはやたらに「プログラム」や「アジェンダ」を振りかざした。たしかにトランプにはそういうプログラムがない。 

≪018≫  しかし、プログラムがないことを反知性主義は標榜したいのではない。プログラムが陥る合理主義が嫌いなのである。そうだとすれば、そこにはなんらかの“前歴”あるいは“思想”があるはずなのだ。どんな前歴や思想があったのか。 

≪019≫  意外なことに、一見、哲学用語っぽく見える「反知性主義」という言葉自体は、哲学史のなかから生まれてきたものではなかった。それもヨーロッパではなく、アメリカでつくられた用語なのである。しかもリチャード・ホーフスタッターが言い出す前にはなかった用語だ。 ホーフスタッターが『アメリカの反知性主義』を書いたとき、初めてこの言葉が生まれた(以下ではホフスタッターと綴る)。 

≪020≫  ホフスタッターはアメリカ史とアメリカ政治思想史の研究者で、バッファロー大学を出身してブルックリン大学やコロンビア大学で教鞭をとった。世論というものがどのように形成されるかに関心をもって、そこにかなり操作的なものが駆動することに気付いて、1950年代の政治思想と世論事情を調べるうちに、本書の論旨に至って執筆をした。

≪021≫  『アメリカの反知性主義』は1964年に刊行され、その年のピューリッツァー賞に輝いた。それで話題になって、初めてアメリカ人は自分たちが反知性主義の伝統や熱情の中にいたらしいことを知った。ケネディがフロンティア精神をふりまき、米ソ対立の真っ只中で暗殺されていった時期だ。 

≪022≫  ただ、この本は本格的な研究書であって、一般受けするようなところは何もない。アメリカの精神史のきわどいところを衝いてもいるので、アメリカ人がみんなで読みたくなるような内容でもない。とくにWASPにとっては同意できないようなところが少なくない。 

≪023≫  反知性主義に時代の天秤が傾くということは、一方に知性主義があったということなのだが、この知性主義にアメリカ独特の片寄りがあることを、アメリカの知性派は受け入れにくいのだ。なぜならホフスタッターが指摘した知性主義の片寄りは、アメリカが建国以来の信条にしてきた初期ピューリタニズムの片寄りであったからだ。 

≪024≫  それゆえ「アメリカの反知性主義の陥穽」という烙印はとうてい流行しそうもないものだったのだが、それがいよいよ「あいてほしくない蓋」があいてしまったのである。これがトランプ現象爆発の、さらにはイギリスのEU離脱の、ドイツやフランスやイタリアや日本の右傾化政治家の台頭とともに、目立つようになったのだった。 

≪019≫  意外なことに、一見、哲学用語っぽく見える「反知性主義」という言葉自体は、哲学史のなかから生まれてきたものではなかった。それもヨーロッパではなく、アメリカでつくられた用語なのである。しかもリチャード・ホーフスタッターが言い出す前にはなかった用語だ。 ホーフスタッターが『アメリカの反知性主義』を書いたとき、初めてこの言葉が生まれた(以下ではホフスタッターと綴る)。 

≪020≫  ホフスタッターはアメリカ史とアメリカ政治思想史の研究者で、バッファロー大学を出身してブルックリン大学やコロンビア大学で教鞭をとった。世論というものがどのように形成されるかに関心をもって、そこにかなり操作的なものが駆動することに気付いて、1950年代の政治思想と世論事情を調べるうちに、本書の論旨に至って執筆をした。

≪021≫  『アメリカの反知性主義』は1964年に刊行され、その年のピューリッツァー賞に輝いた。それで話題になって、初めてアメリカ人は自分たちが反知性主義の伝統や熱情の中にいたらしいことを知った。ケネディがフロンティア精神をふりまき、米ソ対立の真っ只中で暗殺されていった時期だ。 

≪022≫  ただ、この本は本格的な研究書であって、一般受けするようなところは何もない。アメリカの精神史のきわどいところを衝いてもいるので、アメリカ人がみんなで読みたくなるような内容でもない。とくにWASPにとっては同意できないようなところが少なくない。 

≪023≫  反知性主義に時代の天秤が傾くということは、一方に知性主義があったということなのだが、この知性主義にアメリカ独特の片寄りがあることを、アメリカの知性派は受け入れにくいのだ。なぜならホフスタッターが指摘した知性主義の片寄りは、アメリカが建国以来の信条にしてきた初期ピューリタニズムの片寄りであったからだ。 

≪024≫  それゆえ「アメリカの反知性主義の陥穽」という烙印はとうてい流行しそうもないものだったのだが、それがいよいよ「あいてほしくない蓋」があいてしまったのである。これがトランプ現象爆発の、さらにはイギリスのEU離脱の、ドイツやフランスやイタリアや日本の右傾化政治家の台頭とともに、目立つようになったのだった。 

≪025≫  ちなみに日本でホフスタッターの本書が翻訳されたのは、原著刊行40年後の2003年だった。ピュリッツァー賞をとった本なら何でも早めに翻訳してきた日本の出版界としては、かなり値踏みをしたことになる。それでも刊行されると、さすがに知識人たちの口端にのぼった。話題にはなったのだが、どうにも理解が届かないという反応だ。  

≪026≫  そこで森本あんりが『反知性主義』を書いて多少は解説を広め、先ほど紹介したように帯で「いま世界でもっとも危険なイデオロギーの根源」という煽りが打たれたのだったが、ぼくが見るに、それでもその正体が日本人に理解されつつあるとは、とうてい思えない。 

≪027≫  だいたい日本では「危険なイデオロギー」を反知性でくくるという“思想癖”がない。ホフスタッターはピューリタニズムの分析とその大衆的復興に反知性主義が芽生えたと見たけれど、日本の宗教運動をかつてそのように分析したものはなかったのだ。  

≪028≫  早い話が、日本では親鸞(397夜)や出口王仁三郎や池田大作やオウム真理教を、反知性とはみなさない。内田樹(1458夜)が構成した『日本の反知性主義』(晶文社)にもそういう記述や指摘はまったくない。 

≪029≫  日本で危険視されるのは、以前なら淫祠邪教、近代なら復古主義、戦後なら民主主義を阻害する要因にあたる“危険思想”ばかりなのである。 

≪030≫  今夜はそのことを言及するところではないので議論を省くけれど、そもそも日本仏教史や日本宗教史には、ヨーロッパにおける宗教改革やプロテスタンティズムやピューリタニズムに当たるものはないとみなされてきた。 

≪031≫  そのためそれらに匹敵する日本的特性、たとえば本地垂迹、徳一と空海の論争、和光同塵、廃仏毀釈、清沢満之らの浄土教改革運動、近世末と近現代の新興宗教等々に注目してもよかったのだが、それらをつなげて歴史的に分析することなど、まったくされてこなかったのである。せいぜい王権との関係で顕密体制が議論されたり、柳田らによって民俗学的に民間信仰が研究されてきただけだ。 

≪032≫  中国仏教・朝鮮仏教・東南アジア仏教を、日本仏教との比較を介して相互批判的に抉るなどということも、してこなかった。 

≪033≫  日本人がホフスタッターを読むには、この前提のなさが理解を妨げる。それなら、ホフスタッターの本はどういうものなのか。もちろん日本人が理解しやすいようには、これっぽっちも書かれていない。それどころか、かなり色濃いアメリカニズムになっている。 

≪034≫  執筆動機からすると、50年代のアメリカの政治思想が反知性主義のほうへ極端に傾いたことに注目して、その理由をそれ以前の宗教思想と社会思想とアメリカ人の習慣に求めたものである。一言でいえば、アメリカのキリスト教に反知性主義のルーツがあったと結論づけたものだ。 

≪035≫  読めば記述はかなり精緻になっていて、うんざりするほど実証的で、議論もだいぶん重たいものになっている。  

≪036≫  結論だけをいえば、「アメリカのキリスト教に反知性主義のルーツがあった」というふうになるのだが、しかしこの結論では、アメリカのキリスト教はどう見てもプロテスタンティズムやピューリタニズムなのだから、WASPの「P」に問題があったということになったとしても、そのPに反知性主義があるというのは、Pこそがアメリカの言論をリードしているアメリカ社会では、わかるようでわかりにくい。 

≪037≫  そこで話はかなりめんどうなルーツを説明しなければならなくなってくる。少しは順を追わなければ、あらかたのことすら見えてはこないのだが、その前にホフスタッターが本書を書いた前提になった1950年代のアメリカで何がおこったとホフスタッターが言っているのか、そこを見ておこう。 

≪038≫  50年代アメリカで極端な出来事が連続的におこっていた。代表的には二つある。ひとつにはマッカーシズムが吹き荒れたということ、もうひとつには大統領選が意外な結果をもたらしたということだ。 

≪039≫  マッカーシズムについては説明するまでもないだろうが、上院議員のジョセフ・マッカーシーが「赤狩り」(Red Scare)の急先鋒に立ち、全米の組織という組織に共産主義者がいるかどうかを調べることになり、それで多くの者が強引に摘発されていったという事件だ。ハリウッド映画界にもかなりのメスが入り、チャップリンらも疑われた。ホフスタッターはこれによって反知性主義が燎原の火のように広まったという。 

≪040≫  マッカーシーはウィスコンシン出身の、マッチョな共和党員である。1950年のリンカーン記念日に共和党女性クラブで演説をして、「自分は国務省にいる共産主義者のリストを持っている、それは250人に及ぶ」とぶちまけた。国務省にチャイナ・ハンズと呼ばれる外交官たちがいたのだ。全米が沸き立ち、これがきっかけでマッカーシズムの旋風が吹き荒れ、1954年には共産党が非合法化された。 

≪041≫  ここには前段で、アメリカが第一次大戦後にさまざまな脅威に異常に反応していたことが暗に関与する。①ロシア革命がおこって共産主義と社会主義が世界を覆っていくかもしれないという脅威、②ナチス・ドイツやイタリア・ファシズムがアメリカの貧困層や中間層に浸透するのではないかという不安、③経営者層と労働者層が分離して経済不安が募り、そこに金融恐慌などがおこってしまうのではないかという危機感、などである。 

≪042≫  金融脅威の危機はフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策で、ファシズムの脅威は第二次世界大戦の勝利で、なんとか食い止めた。 

≪043≫  しかし、戦後のソ連や中国の急激な勢力拡張図からすると、共産主義が根絶やしになれるようなものとは思えなかったのである。マッカーシズムの嵐はそこに吹き荒れた。それを言い出したマッカーシーの手口は理性的でも知性的でもなかった。ひたすら盲信的だった。 

≪044≫  もうひとつの50年代の出来事は、1952年の大統領選挙でドワイト・アイゼンハワーがアドレー・スティーブンソンを大破したということだ。 

≪045≫  スティーブンソンは祖父が副大統領だった。毛並みがいい。プリンストン大学で歴史と文学の、ノースウェスタン大学で法学の学位をとった代表的なインテレクチュアル(知識人)だ。イリノイ州の知事や国連代表も務めた。実績も申し分ない。彼こそはアメリカの良心だと言われた。 

≪046≫  一方のアイゼンハワー(愛称アイク)はテキサス州出身の根っからの軍人で、高校卒業後はバター工場に勤め、そこから海軍兵学校に行き、その後はノルマンディ上陸作戦の指揮をとるなど、輝かしい軍歴を重ねた。1950年には連合国軍の最高司令官、つまりNATOのトップになった。 

≪047≫  スティーブンソンはスマートなインテリ政治家として、アイゼンハワーが戦争の英雄であろうとも、今後のアメリカをこの無教養で行動主義的な大統領のもとで統括することはとうてい不可能であるというキャンペーンを展開したのだが、結果はアイクの大勝利におわった。 

≪048≫  キャンペーンをやりすぎたかもしれないが、マスメディアはまさかスティーブンソンが大敗するとは予想しなかった。これはトランプがヒラリー・クリントンではなくて、さしずめオバマやケネディに勝利したというほどの衝撃と熱病を、当時のアメリカ人に植え付けた。 

≪049≫  それだけではない。4年後の1960年にもスティーブンソンとアイクは再び一騎打ちをするのだが、またもアイクが圧倒したのだった。 

≪050≫  ホフスタッターは、こうした50年代の出来事に代表される「反知性が知性を凌駕する」というような現象がいったいどうしておこったのか、この現象にひそむものは何なのかという問題を立てたのである。 

≪051≫  そして、そこにはアメリカの歴史に何度か波打った宗教的な「大覚醒」(リバイバル)のうねりとその記憶が大きく影響しているとみなし、それを反知性主義の波と呼んだのだ。 

≪052≫  大覚醒(The Great Awakening)とは信仰復興運動(リバイバリズム)のことをいう。18世紀半ばに第一次のリバイバルがおこったようだ。ノーサンプトンの町の教会にいたジョナサン・エドワーズ(1703~1758)という牧師が当時のリバイバルの民衆活動を記録して、『誠実な報告』としてメディアに載せた。それはのちにフランクリン以来の“preach and print”(説教して印刷する)の活動と言われたものに、熱狂的な信仰復興がぴったり重なっていくニュームーブメントだった。ホフスタッターはここに反知性主義が始まったと見た。 

≪053≫  が、どうしてグレート・アウェイクニングとしての大いなる覚醒が反知性主義のスタートになったのかは、これだけではわからない。そこが見えるにはいったん建国時アメリカの宗教事情にまで立ち返る必要がある。ホフスタッターの議論はそこに始まる。 

≪060≫  アメリカ的なキリスト教の成長は、『風とともに去りぬ』などが描写しているように、各地でダイナミックな槌音になったとともに、はなはだ厳格でもあった。ファンダメンタルな信仰スタイルも二つの流れになっていった。信仰至上主義と救済準備主義だ。 

≪061≫  信仰至上主義のほうは、個人間の信仰コミュニティでの「恩恵の契約」(covenant of grace)のために、それぞれの義認(justification)を優先させる。救済準備主義は倫理的生活を重視して「業務の契約」(covenant of works)を守ろうとするので、仕事の聖化(sanctification)を重視する。 

≪062≫  これらが平行しながら活性化していった。いずれも労働契約を重視しているという点で、のちのアメリカン・ビジネスの繁栄を約束させるアメリカらしいスタートだった。 

≪063≫  ファンダメンタルな大学も次々に創立された。ほとんどが私立大学だ。17世紀半ばにはハーバードが、独立革命に向かってイエール、プリンストン、コロンビア、ダートマスが揃う。いずれもピューリタンの牧師を養成することが第一義になっている(言うまでもないだろうが、カトリックが神父、プロテスタントが牧師である)。 

≪064≫  そうした大学ではリベラルアーツの3学4科を基本に、自然哲学・道徳哲学・形而上学および古代東方言語が教えられた。土曜日がとくに重要で、聖書解釈学とそのための論理分析(logical analysis)が叩き込まれた。そして、これらを裏打ちするのが、アメリカ国家をピュアに建設するための勤労への全面奉仕であった。それが信仰(回心)の証しだったのである。 

≪065≫  こうして初期ピューリタン社会が高速に確立していったのだが、それは民衆からすると、高度な聖書理解と勤労を同時に求められることになる。またそれを言葉で説明できることと、自分の働く姿を明確に示していくことが要請された。アーリーアメリカン・ピューリタニズムはきわめて知的勤労的であったのだ。 

≪066≫  やがて民衆(会衆)たちは、教会の要求する水準と自分たちの信仰力とのあいだに溝があることを感じはじめた。 

≪067≫  キリスト教では、たとえ幼児洗礼を受けていたとしても、成人してからあらためて自分の意志で罪を悔い改めて洗礼することによって、初めてクリスチャンになれるというふうになっている。これを「回心」(conversion)という。  

≪068≫  民衆はこの回心をどのようにおこせばいいのか、厳格な初期ピューリタニズムの社会では、それが戸惑いになることが少なくなかった。教会と自分とのあいだに溝が感じられてしまう。 

≪069≫  それは「バカの壁」ではなく、上からもたらされる「知性の溝」だった。上からの信仰はコットン・マザー(1663~1728)がもたらした。下からの信仰はジョナサン・エドワーズがもたらした。 

≪070≫  コットン・マザーはボストン生まれの開明派で、会衆派の教会を仕切るとともに、種痘の導入や植物誌の執筆をした。ただホーソーン(1474夜)の『緋文字』に有名なセイラムの魔女裁判にかかわったため、評判を落した。 

≪071≫  民衆たちはエドワーズのわかりやすい説教のほうを求めるようになった。そして、回心して信仰することに「熱狂したい」と思うようになったのである。

≪072≫  これこそが民衆に大覚醒(リバイバル)をもたらす信仰復興運動(リバイバリズム)だった。ノーサンプントン教会のエドワーズや、イギリスから渡って巡回牧師をへて名演説ぶりを発揮したジョージ・ホイットフィールド(1714~1770)が活動を開始した。ホイットフィールドはフランクリンと昵懇になって「神の演出家」とさえ騒がれた。

≪073≫  これらが反知性主義的なピューリタニズムになった。厳格で理論好きなピューリタニズムではなく、信仰的愛嬌と大衆救済力と熱狂をもたらすピューリタニズムだ。19世紀に入ると、その勢いはもっと増していく。 

≪074≫  農夫出身の弁護士から伝導者に向かっていった第2次大覚醒期のチャールズ・フィニー(1792~1875)や、まともに学校を出ていないものの貧民街に教会を興し、YMCA会長までのぼりつめた第3次大覚醒期のドワイト・ムーディ(1837~1899)らが次々に名のりを上げて、「熱意なき知識」よりも「知識なき熱意」を訴えて、アメリカ人の心を鷲掴みにした。 

≪075≫  なかでもとくに世紀末から20世紀にかけては大リーグの野球選手であったビリー・サンデー(1862~1935)が現れて、大衆伝導家としてほとんど聖人扱いを受けた。伝導者がアメリカン・ドリームの体現者になったのである。 

≪076≫  かれらは「エヴァンジェリカル」(福音主義)と呼ばれ、民衆はその演説に、そのメッセージに、その一挙手一投足に酔った。アメリカお得意のタウン・ミーティングもネガティブ・キャンペーンもパブリック・ビューイングも、かれらエヴァンジェリカルが“発明”したものだ。 

≪077≫  それでどうなったのか。アメリカ社会にマインド(精神)とハート(心情)とが、エモーション(情緒)とインテレクト(知性)とが、緊張関係をもって相克するようになった。ホフスッタッターはこの相克をこそアメリカ独特の反知性主義の波と捉えたのである。 

≪078≫  本書を読んでいると、フィニーやムーディやサンデーがいかにユニークで情熱的な大衆煽動家だったかということが、よくわかる。それとともにかれらは「ビジネスモデルとしての信仰運動」を展開し、近代アメリカの経営思想や顧客戦略をことごとく先取りをしたのであろうことも、よくよく伝わってくる。 

≪079≫  実際にも、コカコーラやマクドナルド・ハンバーガーやリーバイス・ジーンズは、かれらの福音ビジネスをほぼ丸写しにして市場拡大していったとおぼしい。そこには背広族なんていなかった。みんなスティーブ・ジョブズのような格好で、どんなところにも出入りした。言いかえれば、ジョブズは21世紀のビジネスに大覚醒をおこしたかったということだ。 

≪080≫  リバイバリズムは大衆のリーダーをつくっていったとともに、新たなデノミネーション(教派活動)も生んだ。最も広がったのがメソジストとバプテストだ。  

≪081≫  二つはいささか対照的で、メソジスト教会は中央組織をがっちりつくり、バプテスト教会は各個教会主義という分散活動に徹した。これらも大衆を巻き込むエヴァンジェリカルな思想に徹し、ヨーロッパ的な理性にこだわる連中などには目もくれなかったのである。 

≪082≫  ようするにアメリカの反知性主義は、アメリカの国土に根付く熱狂を組み上げて、とりすましたヨーロッパ文化と決別することを選んだのだ。 

≪083≫  ホフスタッターは、アメリカ人が「イギリス譲りのジェントルマン」を捨てたのはグレート・アウェイクニングによってのことで、そのことがアメリカ独特の中立主義文化(mugwump culture)をつくっていったとも分析している。 

≪084≫  ここに言う「マグワンプ」という言葉はわかりにくいが、ふつうは豪奢な金メッキに走るような上流階層の趣味のことをさす。それがこの時期のアメリカでは、リバイバリズムによって圧倒されたジェントルマン層が中立主義を余儀なくされていったという動向に、使われる。 

≪085≫  トランプに投票したのはこのマグワンプ・ソサエティでもあったのである。WASPの「P」はこうして体制化されていったのだと思われる。 

≪086≫  というわけで、ホフスタッターはハードすぎた初期ピューリタニズムが、民衆指導者たちのソフトな反知性主義によって逆転されてきたというムーブメントを抽出してみせたのだが、それはそうだったとして、その後に続いたアメリカ社会がグレート・アウェイクニングをどのように自家薬籠にしていったかという点については、ホフスタッターやその後のアメリカ社会思想史の説明では、判然としない。 

≪087≫  とくに19世紀半ばに、きわめて禁欲的で反知識的で反ヨーロッパ的な自然主義、超絶主義、「内なる神」意識、アメリカ主義をもたらしたエマソンやソローについての摑まえ方が、かなりわかりにくい。 

≪088≫  ごく常識的なアメリカ文学史では、エマソンの登場が、ホイットマン、ソロー、メルヴィル(300夜)、ホーソン(1474夜)、ヘンリー・ジェームズらに刺戟を与え、19世紀後半の最初の黄金期を形成した。というふうになっている。それなら、これらの表現者や思想者たちが、それまでの「覚醒」やその後の「反知性」を代表していたのかというと、とてもそのようには思えない。そもそもエマソンにそんな役割を与えるのがいいかどうか、いささか疑問なのだ。 

≪089≫  ラルフ・ウォルド・エマソン(1803~1882)はボストンに生まれ、弱冠14歳でハーバード大学に入り、少し苦労をしたのちハーバード神学校を出て牧師になった。 

≪090≫  自由信仰をしたため教会を追われて渡欧したが、戻ってきてからは「個人の無限性」と「アメリカ文化の独自性」を強く主張した。その思想は1836年の「超絶主義宣言」として、また翌年の演説「アメリカ学派」として、あっというまに話題になった。当時すでに、この演説は「これこそはアメリカの知的独立宣言だ」と言われた。 

≪091≫  大評判になるほど独創的だったのはよくわかるが、はたしてそれがソフト・ピューリタニズムを画期する反知性主義であったかというと、そういうものではなかったように思える。少くともぼくには、そう感じられてきた。 

≪092≫  エマソンが唱えた「超絶主義」(transcendentalism)やエマソンを中心に形成されたトランセンデンタル・クラブや実験的共同体ブルックファームには、たいへん魅力的なものがある。 

≪093≫  ぼくにそのことを示唆したのは北村透谷の内部生命論と稲垣足穂(879夜)のエッセイ群だったが、あらためて振り返って惟えば、それは日本人によるエマソンの東洋的解釈であって、アメリカ人がそこに見いだしたものとは少し違っていた。 

≪094≫  それというのも、われわれは(われわれ日本人は)エマソンがゾロアスターに言及しなかったら、ニーチェ(1023夜)は『ツァラトゥストラはかく語りき』を書かなかったはずだろうし、エマソンはプラトン(799夜)についてもずいぶんディープな思索をほどこしているが、それはハイデガー(916夜)の先取りでもあったはずだと見えるのだが(そんなふうに評価したいのだが)、アメリカ人にとってはそのような見方はちっとも嬉しくもない見方だったようなのだ。 

≪095≫  アメリカ人には、エマソンがアメリカに独自の思想を打ち立てたこと、それはヨーロッパをぶっちぎることだったということのほうが、ずっと大事なことだったようだ。 

≪096≫  比喩的にいえば、われわれ日本人はエマソンの超絶主義に老荘思想を見いだし、そのクラブの雰囲気からは竹林の七賢の清談や18世紀江戸の文人ネットワークに似たものを感じたのだが、アメリカ人はそこからセルフサービスによるスーパーマーケットや自力で自給自足をはかるコンビニエンス・ストアをめざしたのである。 

≪097≫  もう少し思想的にいえば、アメリカ人はエマソンから「成り立ち」(constitution)を学び、自力と大霊(over-soul)とが結びつきうることを教わったと思いたかったのだ。 

≪097≫  もう少し思想的にいえば、アメリカ人はエマソンから「成り立ち」(constitution)を学び、自力と大霊(over-soul)とが結びつきうることを教わったと思いたかったのだ。 

≪099≫  またそのことは、エマソンが主張した「自己信頼」(self-reliance)に大きな影響を受けたヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817~1862)によって、その主著『森の生活』による自然回帰の強調となり、信仰者としては「市民的不服従」になっていったというのも、よくわかる。これまたハリウッド映画の登場人物の半分が自己信頼派と自然愛好派で描かれていることにもあらわれている。 

≪0100≫  けれども、こうしたエマソンやソローの表現思想が、ホイットマンからホーソンまでの文学的成果をひっくるめたアメリカ的反知性力の牽引になったというのは、どうも首肯しがたいところなのである。 

≪101≫  ホフスタッターの記述には、知的ピューリタニズムとリバイバル反知性との関係に起因させている現象として、もうひとつわからないところがあった。それは60年代のアメリカの反知性主義を論ずるにあたって、ビートニックやヒッピーやアンダーグラウンドのムーブメントを採り上げたことだ。 

≪102≫  ビート・ジェネレーションが感覚的なことをたいせつにして、身体的なこと、音楽的なこと、共同生活的なことを率先していったことはその通りだろうが、そこにソロー的な「森」(ヴィレッジ)が想定されていただろうこともその通りだろうが、そこにはたしてエマソンの関与と反知性を認めるべきかというと、どうもそうとは思えない。 

≪103≫  本書の記述ぶりからすると、ビートやヒッピーと反知性を結びつける気になったのは、ノーマン・メイラーの言説に従ったからのようだ。だが、これは早とちりだった。 

≪104≫  ノーマン・メイラーはかなり破天荒で痛快な作家である。ハンガリー系ユダヤ人で、ハーバード卒業後は陸軍兵士としてルソンで戦い、終戦後は進駐軍として館山や銚子や小名浜に滞在した。こうした体験を書いたのが『裸者と死者』だった。ヘミングウェイ(1166夜)の戦争ものを、初めて凌ぐ傑作があらわれたと騒がれた。そのあとの『鹿の園』も傑作で、大江健三郎がぞっこんだった。 

≪105≫  ただメイラーはそうとうなアメリカ愛国派であって、自分こそが代表的なアメリカ人であるべきだという自負に満ちすぎていた。それが『ぼく自身のための広告』や『アメリカの夢』になったのだが、このアメリカン・スタイルを喧伝するために、いっときスクウェアとヒップウェアのきわどい峻別に酔っていたことがあって、これがホフスタッターを類焼させたのだと思う。  

≪106≫  当時のホフスタッターは映画『いちご白書』で有名になったコロンビア大学の学長代行をしているあいだに、いろいろ勘違いしたものが混じったにちがいない。 

≪107≫  ちなみにこのことは巽孝之がみごとに構成編集執筆をした『反知性の帝国』(南雲堂)で、志村正雄が『知性・反知性・神秘主義』として雄弁に文句をつけているので、詳しくはそちらに委ねたい。巽のこの本は、日本で刊行された“反知性もの”としては、最もおもしろかったものある。 

≪108≫  ともかくもぼくとしては、アメリカの反知性主義はエマソンに絶頂を迎えたわけではなく、現代においてはアメリカのビジネスと政治と民主主義にこそ絶頂を迎えつつあるのだと言いたい。 

≪109≫  ところで、今夜の話の底辺でややこしく動いている問題は、いったいわれわれは「知能的なるもの」(intelligent)と「知性的なるもの」(intellect)とをどのように区別してきたのかということだ。  

≪110≫  ふつうは、知能は動物から受け継いだ機能が人間において開花したもの全般のことで、そこには生物学的なすべての活動が前提になっている。学習力や反応力や判断力は知能的なものになる。だから人工知能(artificial-intelligence)といえば、これらをコンピュータ・ネットワークがどれほど代行できるかということが前提になる。 

≪111≫  これに対して知性は、言語や科学的発見や技術開発や政治的実践など、文明と文化の随所に発揮されてきた才能のことをいう。当然、戦争に勝つことも社会問題を解決することも、議会を運営することも新しい料理をつくることも、映画を演出することも詩集を出すことも、すこぶるインテレクチュアルなのである。 

≪112≫  が、こんなふうに知能と知性の違いを分けてみてもあまり役に立たないだろう。そこで次のように考えてみることになる。 

≪113≫  知能とはQ&Aを次々に成立させるプロセスをまっとうする能力のことで、わかりやすくいえば「答えがある問題」をそのための問いや動機から導き出せることである、と。そう、みなしてみることだ。動物たち、とくに哺乳動物はこのQ&Aで成り立っている。 

≪114≫  知性はそうではない。それらを含んで「答えのない問題」に向かっていく。向かうにしたがって理解力が広まりも深まりもして、そこに新たな問題を立てる気にもなっていく。これがインテレクチュアルなのである。 

≪115≫  少しは進んだと思うが、とはいえインテリジェントとインテレクチュアルとを分けていこうとすること自体が、今日の哲学や思想にはもはや無理があるとも言うべきだ。まして反インテリジェントや反インテレクチュアルを想定しようとするのは、歴史にさかのぼった経緯を述べるならまだしも(ホフスタッターのように)、歴史的現在に臨む思想としてはほとんどどんな切れ味をもてないところに来ていると思ったほうがいいだろう。ぼくは、そう断じている。 

≪116≫  というわけで、今夜の反知性主義をめぐる議論は、トランプ現象があったから浮上しえたようなものの、今後もこの視点でアメリカや日本やEUを語っていくのは、また差別問題や民主主義を語っていくのは、あまり成果が見込めないということになる   

≪117≫  そこで最後に、アメリカ人なら誰もが知っているエピソードを付け加えて、今夜の話をしめくくりたいと思う。二つほど、付け加える。ひょっとすると、こんな話のほうがわかりやすかったのかもしれない。 

 (A) 去年のアイオワ州の大統領予備選で、トランプは「たとえニューヨークの五番街のど真ん中に立って誰かを射殺したって、私は支持者を失わない」と豪語した。ずいぶんヤバい放言をしたものだが、トランプはむろん知っていたことだが、アメリカの大統領には実際に誰かを射殺して当選したヤバい男がいたのである。第7代大統領のアンドリュー・ジャクソンだ。20ドル紙幣の肖像になっている。 結婚問題をめぐる恋沙汰だったし、実際には決闘での射殺であったのだが、ジャクソンは自分を非難した男をピストルで撃ち殺した。 ジャクソンはジェントルマン(地主)出身ではない初の大統領である。スコッチ・アイリッシュで、正規の教育を受けることなく働きながら弁護士になった(トランプの母親はアイルランド移民である)。やがて1812年の米英戦争では軍神と呼ばれるほど活躍したが、誰も大統領になるだなんて思いもしなかった。ド・トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫)に「ジャクソン将軍は性格こそ激しいが、能力は凡庸だ。自由な人民に統治に要する資質を示すものは、その経歴を通じて何ひとつなかった」と綴り、ホフスタッターは「アメリカの政治で、真に強力で大掛かりな反知性主義への最初の衝動となったのは、ジャクソン派の選挙運動であった」と書いた。 その1824年の選挙戦でジャクソンと大統領を争ったのは、ジョン・クインシー・アダムスである。第2代大統領の息子で、ハーバード出身、オランダ大使をへて34歳で上院議員に選出され、モンロー時代は国務長官としてスペインからフロリダをもぎとった。水も漏らさぬ貴族的ジェントルマンとして有名で、本人もそれを隠さず、学芸的なるインテレクチュアルとしてのポーズを欠かさなかった。 二人が激突した。大統領選で、アダムスはジャクソンをジャッカス(ロバ、まぬけ)呼ばわりをしたが、ジャクソンはそれを逆手にとってロバを自陣のシンボルに使った。このとき民主党が結成されたので、民主党はいまなおロバなのである(共和党はゾウにした)。大かたの予想を裏切って、選挙はジャクソンに軍配が上がった。 以降、アメリカでは「野卑なる者が好きな暴言をしつづければ、貴族的な理性は敗退する」と揶揄されるようになった。 

≪119≫ (B) ホフスタッターの本は1964年なので、その後のアメリカにおこった出来事を書いておく。ビリー・グラハムのこと、「ジーザース・ムーブメント」のこと、非伝統的礼拝運動のこと、中絶反対運動のことなどだ。 今日ではこれらも反知性主義の波とされているが、ぼくはそう見るのがいいかどうか、わからない。 ビリー・グラハムはノースカロライナの農場育ちで、少女への失恋体験をきっかけに糸杉を相手に救済の説教をくりかえし訓練して、稀にみる伝道師になっていった。その後はマジソンスクウェア・ガーデンでの連続伝道イベント、テレビ出演による新たなテレビ伝道師としての活動、ベルリン世界伝道会議やローザンヌ世界伝道会議の成功などを通して、大リバイバル運動聖霊派のリーダーとして君臨した。 グラハムは保守派のリバイバルの象徴になったのである。ニクソンの助言者としても知られ、ギャロップ社の「20世紀で最も評価される100人」の7番目にランクされた。ちなみにレーガンはテレビ伝道師次世代のジェリー・ファルエルの応援で大統領になり、ジョージ・W・ブッシュはビリー・グラハム本人からバプテスマを受けた。 1968年、パリでカルチェラタンが燃えると、世界的なカウンターカルチャー(対抗文化)とスチューデントパワーのムーブメントが巻き起こった。アメリカではこの動きにロックとドラックとが結びつき、多くの若者が大学と教会とコンサート会場を拠点にイエス・キリストをスーパースター扱いをして崇めるという活動が西海岸に広まった。「ジーザース・ムーブメント」という。カリフォルニアのチャック・スミスのカルヴァリー・チャペルでは数カ月で15000人が洗礼を受けた。ジョーン・バエズやボブ・ディランの歌とともにあることと「ジーザース・クライスト!」と叫ぶことは一緒くたになったのだ。 福音派や聖霊派の中に、このジーザース・ムーブメントを教会活動に積極的に取り込み、フォークソング、ゴスペル、黒人霊歌、ポップス、ロックの享受と貧民救済と差別撤廃とをアピールする動きがおこっていった。ときにそれらはベトナム反戦運動とも共振したため、ここにアメリカの70年代以降のリバイバリズムは、保守派の台頭とカトリックからの反撃を食うことになる。 すでにケネディはアメリカ合衆国最初のローマカトリックの大統領で、マーティン・ルーサー・キングの公民権運動に協力したのだが、二人とも暗殺されていた。しかし、そこからいくつもの亀裂が生じたのである。 最も話題になったのは1973年に人工妊娠中絶が合憲判決されたことをきっかけに、中絶容認派(プロチョイス=選択尊重派)と中絶反対派(プロライフ=生命尊重派)とが激しく対立していったことだ。テレビ伝道師たちは中絶による道徳的堕落を訴え、リベラル派は堕胎者・同性愛者・性同一障害者らのアピールと連動した。 これらをアメリカの反知性主義の継続とみなすとしたら、アメリカはあまりも悩ましい70年代をおくったものである。 

≪01≫  とっくのことに、ポール・ヴァレリー(12夜)は例の「洋服を着た鷹」のような炯眼をもって、「人民(people)という言葉は混合(mixture)という意味でしか理解しえない」と喝破していた。ヴァレリーは「ヨーロッパ精神の危機」をいちはやく体感していた文学的知識人であるが、そこには「表象が人民に代理されることを合理化しよう」としてきたヨーロッパ人の特有の痛哭の自省が裏打ちされていた。 

≪02≫  コミュニケーションに行為の社会学を見出してきたユルゲン・ハーバーマスは、「人民は複数でしか(in the plural)あらわれることができない」と言い、そういう複数の人民を従えた政治家が単一人民の代表者であるかのような相貌をとるのは危険な兆候だとみなした。 

≪03≫  まさにその通りだ。これらのことがどんなに正鵠を射ていた指摘だったか、われわれは21世紀のここに至ってそのことを苦々しく噛みしめざるをえないことになっている。ヴァレリーやハーバーマスの警告は無視され、その後はポピュリズムという化け物のような様相を呈して、世界中を徘徊したのである。 

≪04≫  本書は2016年夏の、トランプがまだ大統領になっていなかった時期の著作だが、ポピュリズムが本来の社会的多元性を蝕む反多元主義(antipluralism)や、政治家がご希望の注文に応じてみせる大衆恩顧主義(mas-clientelsm)にもとづいていることを証してみせた。 

≪05≫  恩顧主義(クライエンテリズム)とは、庇護者(パトロン)になりたがる政治家が業界団体や職能団体や地方コミュニティをクライエント(顧客)として、さまざな政策的サービスを供給することをいう。安倍晋三が加計学園と特区を重ねたやりかたはクライエンテリズムの典型だった。 

≪06≫  これまで幾つものポピュリズム論がものされてきたが、いまひとつ納得できるものにお目にかかれなかったなかでは、本書はそこそこの好著だった。それでもいろいろいわかりにくいところがある。 

≪07≫  わかりにくいのはミュラーの跳び移り気味の論旨と、やや硬すぎる日本語訳のせいもあるが、それよりなにより今日の自由民主主義とポピュリズムとがますます区別がつかなくなってきたせいでもある。 

≪08≫  もともとポピュリズム(populism)という言葉はラテン語の民衆(populus)に由来するもので、最初のうちはエリート主義との対比で用いられていた。だからポピュリズムという用語は、文字通り訳せば「人民主義」とか「民衆主義」とかになる。  

≪09≫  実際にポピュリズムという言葉が歴史上の政治用語として使われることになったのは、アメリカで1892年2月に結成された人民党(Populist Party)が登場してからである。或る一派が「人民の敵」からの攻撃を守るため「人民の党」を名のったのだ。少数のエリートたちに抗する抵抗だった。やがて左派の活動家や政治家がポピュリストと呼ばれ、改革派とポピュリズムが同一視されることもあった。 

≪010≫  けれども、いまやそんな用語が示す内実はとっくにかなぐり捨てられている。かつては「リベラル・デモクラシー」とか「反エスタブリッシュメント主義」とも言われたことがあったかに思えたが、その後は「大衆迎合主義」「衆愚政治」「人気取り政治」の、ときには「大衆操作マキャベリズム」の代名詞にすらなってきた。今日のポピュリズムの特徴を人民主義や民衆主義という訳語をもって試みても、何も語れない。 

≪011≫  とりわけインターネットとケータイが普及しはじめた20世紀末から21世紀になってみると、ポピュリストたちが選挙で圧勝するのは「人民」を代表するというより、新しいポピュラー・エリートが「人心」を味よく掴まえている現象だろうということは、誰の目にもあきらかだった。ファストフードよろしく、数口で食べられるメディア活用の人心操作が長けているからだということが白日のもとに晒されたのだ。トランプが「140字のヘミングウェイ」気取りでツイッター政治を始めたのは、とてもわかりやすいポピュリストの政治処世術になっている。  

≪012≫  さすがにヴァレリーは「人心」もまた混合と混乱の発現体そのものだと見たけれど、当の人民や人心のほうは、それでも自分を巻き込む人気政治家の牛丼弁当やハンバーグ弁当についつい手を出してしまうのだ。 

≪013≫  本書の著者のヤン=ヴェルナー・ミュラーは1970年ドイツ生まれの40代の政治学者だ。オックスフォード大学を出て主としてヨーロッパ政治思想史にとりくみ、いまはプリンストン大学で政治学の教鞭を執っている。かつては民主主義論やカール・シュミット論で気勢を上げていた。 

≪014≫  シュミットについてはいずれ千夜千冊したいと思っているのだが(21世紀政治の今後を占ううえでもかなり重要な政治思想家なので)、それはいまは措くとして、ミュラーは本書を通してポピュリズムが「アイデンティティ・ポリティックスの排他的な形態」だということ、世界がもつべき多元性を壊していくものだということを示したかった。 

≪015≫  2017年4月刊行の本書の日本語版には、アメリカがトランプの大統領就任後に異様の事情に見舞われているのは、予想できたことだったという主旨の序文が付いている。   

≪016≫  トランプが民主主義にとってきわめて危険なポピリュストになっているのは世界的潮流の延長だというのである。さもありなんだ。トランプ現象は、ベネズエラのチャペス大統領、ハンガリーのオルバー首相、トルコのエルドアン大統領といった権威主義まるだしのポピュリズムと区別がつきにくいものになったばかりか、EU離脱の国民投票に無節操に走ったイギリスのキャメロン首相、2016年春に麻薬撲滅を掲げてフィリピンの大統領となったドゥテルテ、冬のオーストリア大統領選で極右ポピリュストのノルベルト・ホーファーを破った緑の党のファン・デア・ペレンらとも区別がつかなくなっている。みんな、ファストフード政治がうまいのだ。味も似ている。 

≪017≫  なぜ、こんなふうになったのか。政治家の誰もが「民主主義の装い」がやたらに巧妙になったからなのはまちがいない。民主主義があまりに普遍的な巨大分母になったので、どんな政治家たちもポピュラーな牛丼分子でいられるようになったのである。 

≪018≫  いいかえれば、どうすれば「民主主義の顔」が装えるのか、ある時期からそのコツが流行していったのだ。過激な左翼政治が退場していったことも関係があるが、グローバル資本主義の浸透、マスメディアの過飽和、ネット社会の蔓延などとも影響している。日本の実例を見れば、いろいろ実感されてくる。 

≪019≫  今夜の千夜千冊は2017年10月12日のリリースの予定だが、降って湧いたような衆議院解散総選挙の渦中に突入した時期に重なった。 

≪020≫  森友・加計学園問題をかかえながらも、ついついノーガードで衆議院解散を口にした安倍晋三の「奢りと緩み」を見逃さなかった小池百合子都知事が、かねて得意のカウンター攻撃によって「希望の党」を結党して代表に就き、これに前原民進党が集団疎開をしたのはわずか2週間前のことだった。 

≪021≫  案の定、民進党は割れて解党寸前となり、枝野幸男のグループが立憲民主党を立ち上げた(蓮舫代表が「センスがない」と言われて辞任して前原になったのもこの一連の出来事の1週間前だった)。これで「希望の党」にいちはやく動いた細野君の立場は消し飛んだ。細野君にはきっと多少のセンスはあったのだろうが、ボタンをいつ外していつ留めるのかのヨミに負けたか、自分でポピュリストになりきる野蛮な度胸がなかったのだろう。 

≪022≫  こうして用意周到ともいえない小池劇場がするするっと国政に及んだわけだが、小池百合子が希代のポピュリストの素養をもってこの挙に臨んだことはあきらかだったのに(牛丼政治というよりスイーツ政治だが)、自民党を抜けて都知事選に単身で挑み、都議会のおやじエスタブリッシュメントに戦いを挑んでいるときは、マスメディアは小池劇場にポピュリズムの烙印なんて捺さなかったのである。メディアはこぞってその手腕に目をまるくしただけだった。 

≪023≫ しかしこんなことは、いまさらのことではなかった。小泉劇場以来の「日本風ポピュリズム」の滑稽至極な縮図はとっくの昔から連打されていた。たとえば以下のような指摘が以前からなされていた。日本の実例のほうがわかりやすい話になるだろうから、ちょっと紹介しておく。  

≪024≫  2003年に大嶽秀夫が書いた『日本型ポピュリズム』(中公新書)という本がある。 90年代の「失われた10年」で泥沼化していった日本の政治不信状況が、細川護熙、石原慎太郎、田中康夫、田中真紀子、小泉純一郎というふうに代表された日本的ポピュリズムによっていたこと、またマスメディアのワイドショー的な扱いがこのポピュリズムをチープな神輿に乗せるものになったことを強調した。  

≪025≫  大嶽は3年後に『小泉純一郎ポピュリズムの研究』(東洋経済新聞社)も著した。政治過程の分析を専門とする大嶽は、小泉が官邸主導型のリーダーシップを発揮できたことを、道路公団民営化、郵政民営化、イラク戦争での対応、北朝鮮問題の4点に議論を限定して、そこに政治の「感情化・人間化・単純化」がおこせたことが小泉劇場の勝利につながったものだと分析した。 とはいえ、この程度のマジメな分析では妖怪じみたポピュリズムを抉った一冊とはいえなかった。 

≪026≫  ついでは2011年、東北の津波と原発メルトダウンの動揺が収まらないなか、気鋭の政治学者の吉田徹が『ポピュリズムを考える』(NHKブックス)を書いた。 

≪027≫  すでに世界的な忌まわしいほど派手なトレンドになっていたポピュリズムを、サッチャー・中曽根のネオリベ型ポピュリズムから小泉・サルコジの劇場型ポピュリズムまでを相手にして、ポピュリズムは民主主義政治では避けられないものだと規定したうえで、ポピュリストたちのとる姿を「国民に訴えるレトリックを駆使して変革を迫るカリスマ的政治スタイル」と特徴づけた。しかし、こんな常套句をつないだような見方では、とうてい事態は切迫してこなかった。 

≪028≫  ちなみに吉田は、大嶽があげたポピュリストのほかに田中角栄・小沢一郎・青島幸男・橋下徹などを加えている。もちろん当たっている。ただ、地方議会や企業経営者のなかにも、ポピュリストは登場していたはずなのである。 

≪029≫  吉田には『感情の政治学』(講談社選書メチエ)という本もあって、選挙民が投票先を主体的合理的に選択すれば政治がよくなるなどというのは幻想にすぎず、人間の非合理性に知勇も苦する政治を考えたほうがいいと論じた。こちらはドミニク・モイジの『感情の地政学』(早川書房)とも響いていて。モイジは今日の政治が「恐れ」「希望」「屈辱」をもとにアイデンティティの競い合いになっていることを指摘した。 

≪030≫  オソレ・キボー・クツジョクはポピュリズムのまぜこぜ本質であるだけでなく、社会や宗教や知識の病状にもなっている。 

≪031≫  トランプ登場後の2016年になって、日本のポピュリズム議論はもう少し沸騰していった。朝日新聞GLOBE編集長の国末憲人はいかにもジャーナリストらしい一冊、『ポピュリズム化する世界』(プレジデント社)を書いた。 

≪032≫  ポピュリストは「攻撃する目標を定め」「白黒をはっきりさせ」「庶民の味方であることを演出し」「大騒ぎをすることで人を巻き込む」ことが得意であること、ポピュリストはナショナリストや強権主義者やデマゴーグ(ほら吹き)であることが少なくないが、大衆迎合を厭わないため民主的な様相を擬装するのが巧みであることを強調した。わかりやすすぎる。 

≪033≫  同時期に帝塚山学院大学の薬師院仁志は『ポピュリズム』(新潮新書)で、ポピュリズムが「民主主義の自爆」であることを示し、とくに橋下徹のポピュリズムを批判した。本書では冒頭から、大阪市議選に大阪維新の会から出馬した村田卓郎が「選挙突入後、橋下市長が堺東駅前あたりで3回くらい街頭演説すれば、どんなチンパンジー候補を立ててもWスコアで楽勝するでしょう」とツイッターしたことが鬼の首を取ったように採り上げられているが、一冊を通して、残念ながらポピュリズムという魔物の正体には迫れなかった。橋下批判も貫徹できていない。 

≪034≫  こうしたおっとり刀の議論を政治学の本道に戻すべく登場したのが、オランダ政治史やヨーロッパ保守思想史を専門とする水島治郎の『ポピュリズムとは何か』(中公新書)だった。 

≪035≫  水島は『ハンナ・アレントの政治思想』『アレント政治思想の再解釈』(未来社)で名を上げたマーガレット・カノヴァンの「人民の分け方」を援用して、人民といっても、A「普通の人々」(ordinary people)、B「一体となった人民」(united people)、C「われわれ人民」(our people)がさまざまに混在するのだということを前提に、Aでは特権層によって軽視されたサイレント・マジョリティに対するポピュリズムが、Bでは党派や部分利益を超える一体ヴィジョンによるポピュリズムが(だから多元主義とは逆方向になっていく)、Cでは民族集団を「われわれ」と呼ぶため外国人や宗教区別が強調されるポピュリズムになると説明した。 

≪036≫  これは借りもの談義ではあるが、けっこう明快だった。また水島はポピュリズムには、①イデオロギーがやたらに薄いこと(思想的に薄弱)、②カリスマを必要としていること(アイドル性が富む)、③党内手続きやポリティカル・コレクトネスに縛られない大胆な作戦を行使したがること(ファレンダムが好き)、④立憲主義の原則を軽視する傾向をもつこと(直接民主制に走りがち)、⑤多数派主義のため弱者やマイノリティが看過されやすいこと、などが特徴になっていることをあげた。ようやく痒いところに手が届きはじめたのだ。  

≪037≫  このほか、日本でポピュリズムを議論してきた者として、野田昌吾、山本圭、島田幸典、杉田敦、古賀光生、畑山敏夫などがいるのだが(いずれも政治学者たち)、ぼくとしてはこれらの背後で議論の骨格をつくったものとして、ブルガリア出身のツヴェタン・トドロフの『民主主義の内なる敵』(みすず書房)があったことを加えておきたい。 

≪038≫  トドロフは民主主義の敵は外部(ファシズム)からやってくるのではなく、内なる敵としての「メシア願望」「個人の専横」「新自由主義」「ポピュリズム」「外国人嫌い」がもたらすものであると指摘した。トドロフはロラン・バルトの弟子筋にあたる記号論の越境者でもあって、その『幻想文学論序説』(東京創元社)は斯界のバイブルになっている。今後は、この手の政治学者以外の思想者の「手入れ」が入ることを希みたい。 

≪039≫  かくて、ミュラーの本書が岩波から翻訳刊行されたわけである。上にも書いたように必ずしもわかりやすくポピュリズムを説き解(ほぐ)したものではないのだが、肝要を衝くための作業はまずまず果たしている。 

≪040≫  順不同ながら(さっきも書いたように、本書は論旨がとびとびで、ロジカルな展開の順をもっていない)、ぼくなりに10点ほどを要約しておく。 

≪041≫  第1に、ポピュリズムの多くは立憲主義にもとづく制度や機構(mechanisms)に対しておおむね敵対的になりやすい。そのため命令委託(imperative mandate)ができると思い込む。つまり既存の「しくみ」では進捗しないので、命令委託に飛び移りたがるのだ。 

≪042≫  第2に、直接民主制的なレファレンダム(referendum)に走りがちである。レファレンダムとは憲法改正、法律制定、重要案件の議決などの立法機関の議決によるのではなく、有権者のまるごと投票によって最終決定をしたくなることをいう。小泉、キャメロン、橋下がそうであったように、ポピュリストたちは国民投票や住民投票が大好きなのである。これは予定のシナリオが頓挫しそうになってくると、「それじゃあ、みんなの答えを聞いてみようぜ」という作戦だ。 

≪043≫  第3に、ポピュリズムは政治世界を「想像させる方法」なのである。そのため道徳的で排他的な要求を示すことによって、この想像力を強化させることに熱心になる(moralistic imagination of politics)。この「想像させる政治」を持ち出しているところが、つまりはカジュアル・ポピュラーな想像力がポピュリズムにはたらていることに気がついたのが、ミュラーの自慢なのだが、説明はほとんど深めてはいない。 

≪044≫  第4に、ポピュリストはできれば国家を乗っ取りたいと思っている。ようするに「全一者」になりたいのだ。そのため大衆恩顧主義(マス・クラエイタリズム)の手を事前から打っていく。味方を事前にふやしておくわけだ。当然、市民社会を抑圧することを辞さないというふうにもなりかねない。

≪045≫  第5に、ポピュリズムはリベラリズムや社会民主主義に対しては抑制と均衡(check&balance)をもって当たる。そのためのティーパーティやオキュパイ・ウォールストリートのような「接客」は大好きだ。これは絶対多数が探れないときの予防パーティーなのである。 

≪046≫  第6に、国民・民衆・大衆・人民にひそむであろう「不満」(frustration)と「憤懣」(resentment)の対象をつねに決めつける。なぜ決めつけるのか。ポピュリズムの特質がきわめて論争的であることにあるからだ。小泉純一郎の郵政民営化選挙などがその典型だった。 

≪047≫  第7に、とくに欧米では(なかでもアメリカでは)ポピュリズムは進歩主義(progressive)と草の根主義(grassroots)を取り込みたがる。極端な連中が賛同にまわってくれるほうがポピュリズムには似合うからだ。カリスマ・リーダーのポピュリストも中間的な代表を嫌う。ポピュリストはサブリーダーでは満足しないのだ。一挙に攻め上りたいわけである。 

≪048≫  第8に、ポピュリストは自分たちの出自や立場や評判が劣位(inferiority)にあることにも、反動(reactive)にあることにも頓着しないばかりか、恐れない。それゆえポピュリストたる者はしばしば「権威主義的パーソナリティ」か、あるいは「不愉快なパーソナリティ」に富む(つまりは厚顔無恥を怖れない)。

≪049≫  第9に、ポピュリズムの本質は「反多元主義」にある。国民みんなにそれぞれの立場がある、多様性がばらついている、流派がたくさんある、では困るのだ。ポピュリストは自分たちが、それも自分たちだけが人民を代表すると盲信する。ナンシー・ローゼンブラムが指摘したように、ポピュリズムは全体論(holism)に憧れ、「残余なき全体」を標榜していると思いがちなのだ。ドナルド・トランプはこう主張した、「ただひとつ重要なことは、人民の統一(the unification of the people)である。なぜなら他の人々(the other people)はどうでもいいからだ」。 

≪050≫  第10に、ポピュリズムを「近代化のプロセスの敗者あるいは鬼っ子」と規定するのは妥当ではない。1950年代では、ポピュリズムが主張するようなことを、ダニエル・ベル(475夜)、エドワード・シルズ、シーモア・マーティン・リプセットらが代弁したものだ。いずれもマックス・ウェーバーの継承者としてのリベラルな知識人だった。 もうひとつ、おまけ。政権に就いたポピュリストは、当然のことなのだがNGO(非政府組織)に対しては、かなり厳しい態度をとっていく。ロシアのプーチンやハンガリーのオルバーンに顕著なことだった。 

≪051≫  ミュラーは
ポピュリズムにアプローチしようとする議論が往々にして袋小路に陥るのかについても、言及していた。  

≪052≫  それは、いまのところ、①ポピュラーな大衆(有権者・投票者)の投票感覚の社会心理的な分析ができないからである。②ポピュリストが依拠しているはずの特定の階層や階級に関す社会学的な分析が遅れているからである。③ポピュリズムが提案する政策の定性的な評価軸が確立できていないからである。 

≪053≫  こういうものだ。なるほど、まことに素直な告白だ。しかし、この3つのことが準備できていないということは、政治学や社会学が21世紀政治を前に頓挫したままになっているということにほかならない。 

≪054≫  かくてミュラーはポピュリズムに対抗ないしは対処するために、では一体どうしたらいいのかを自問自答して、次のように示唆をした。ポピュリズムは民主主義の内部が生み出したものなのだから、これからはすべての民主主義的な言語や民主主義的な装いを総点検するしかない。それには「民主主義の終焉」についても議論をしておかなければならない、と。 

≪055≫  そうなのである、ミュラーを筆頭に、知識人たちも呻いているばかりなのである。 

大衆の反逆 1團3節

≪01≫  「今日のヨーロッパ社会において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に登ったという事実である。大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである」。 

≪02≫  こういう断定的な文章で始まる『大衆の反逆』をいつごろ読んだのだろうか。おそらく「遊」2期をつくっているころだとおもうが、大衆社会化論というものに惑わされて、ほったらかしにしていたのだとおもう。読んでみて、そうか、大衆に問題があるのか、ふーんそうか、と驚いた。 

大衆の反逆 1團2節

≪03≫  オルテガのことは60年安保で機動隊に圧殺されて死んだ樺美智子さんの父君の樺俊雄さんに教えられた。手元に本がないのでわからないのだが、樺さんは日本で最初のオルテガ翻訳者だったとおもう。たしか『大衆の蜂起』というタイトルだった。 

≪04≫  ただし、ぼくがオルテガを最初に読んだのは『芸術の非人間化』というもので、これは父の借金をあくせく返しているころに、荒地出版社の河村君が「こんな本をつくったよ。松岡君にあうんじゃないかと思って」ともってきてくれた。この本の中身はうっすらとしか憶えてないが、新しくおこりつつある芸術が人間性を排除したり否定するところ、および「たいしたものじゃない」ものの表現するところに成り立っていくだろう、それはドビュッシーとマラルメにおいて予告されていた、というようなことが書いてあったように思う。これにも驚いた。 

大衆の反逆 2團3節

≪05≫  オルテガはマドリッドのジャーナリスト一家に生まれている。父親はスペインの有力新聞「ユル・インパルシアル」の編集主幹、母親はその新聞創立者の娘だった。 

≪06≫  そのせいか、オルテガには論文や体系的な記述がない。もっぱらエッセイを好んだ。それも、ある態度を貫いた。やるべきところでは身を使い、そうでない場面ではひっこむという態度である。たとえばオルテガは新聞一族に育ったこともあって政治に関心をもっていたが、政治家を知識人の立場で批判することを嫌った。自分も政治プランを出すつもりで批評した。ときにはそのための行動をおこす。実際にも、1931年にスペインは共和国になるのだが、その王政崩壊の直前に「共和国奉仕団」というものを結成した。政治結社である。 

≪07≫  共和国成立後、周囲からこの活動に期待が集まると、オルテガはそれならというので代議士として責務を果たして新憲法の確立に手を貸した。が、それがすむとすぐにこれを辞している。こういう態度があったのである。 

大衆の反逆 2團2節

≪08≫  オルテガが生きた時代は2つの大戦の間にあたる。そのためオルテガにはつねに危機意識があった。しかし、いったい危機とは何かというと、これがはっきりしない。 

≪09≫  危機だからといって騒いだり焦ったりして解決を急いでもうまくいかないこともあるし、逆に放っておいたら危機が通りすぎていたということもある。誰しもおもいあたることである。が、これでは危機そのものの意味がわからない。見えてこない。それなのに世間ではつねに危機がはびこる。そこでオルテガは危機の正体をつく。「危機とは二つの信念のはざまにあって、そのいずれの信念にも人々が向かえない状態のこと」、そう決めた。 

大衆の反逆 3團3節

≪010≫  では、その信念とは何なのか。ここからがオルテガ流の哲学の出発になる。 その成果が1940年の『観念と信念』だった。標題が示すように、オルテガは観念と信念を区別し、これを混同してきたのは近代人の主知主義の誤謬だと指弾した。 

≪011≫  オルテガがそこで言うには、表面上は観念は「思いつき」で、信念は「思いこみ」に見えるのだが、それだけではつねに混同がおこる。実はそこにはもうひとつ深い層があって、その「潜在的含蓄」によって区別するべきなのである。そうすると、信念が「われわれ自身がその信念の中に、いかにして、また、どこから入ったかも知らないのに、いつのまにか入りこんでいるという確信」なのだということが見えてくる。これは何かに似てはいまいか。そう、これは慣習の力というものに似ている。80年代に彗星のようにあらわれたピエール・ブルデューの「ハビトゥス」(習慣)の発想とはだいぶんちがっているが、どこか一脈通じるものもあった。 

≪012≫  かくてオルテガは、この「潜在的含蓄としての信念」が社会の中でどのようにはたらいているかに関心を向けていく。 

大衆の反逆 3團2節

≪013≫  『大衆の反逆』は、まず大衆がけっして愚鈍ではないこと、大衆は上層階層にも下層階層にもいること、その全体は無名であることを指摘する。ようするに大衆とは新しい慣習のようなもので、「大衆とは心理的事実」なのである。 

≪014≫  そこまでは、大衆に罪はない。いやいやどこまでいっても大衆には罪がない。ところが、この大衆の動きや考えが何かに反映し、それがその社会が選択した「信念」と思えてしまうと、問題が出る。オルテガはその現象こそが、いまスペインにおこりつつある現象なのだと観察した。すなわち、罪のない大衆はいまや「無名の意思」を「やみくもに現代社会におしつけはじめた」のではないかというものだ。 

≪015≫  大衆に罪がないとすれば、どこかに罪がまわっていく。どこかに罪の主体が押しつけられる。たとえばスキャンダルによる失脚、たとえばマスコミの報道によるキャンペーン、たとえば政治家の政治、たとえば官僚の判断力。大衆はこれらを自由に問題にして、そしてさっと去っていく。 

大衆の反逆 3團3節

≪016≫  オルテガによれば、大衆の特権は「自分を棚にあげて言動に参加できること」にある。そして、いつでもその言動を暗示してくれた相手を褒めつくし、またその相手を捨ててしまう特権をもつ。 

≪017≫  ただし、大衆がいつ「心変わり」するかは、誰もわからない。それでも社会は、この大衆の特権によって進むのである。 

≪018≫  この分析は、本書をたちまちベストセラーにした。スペインだけではなく、各国で翻訳された。1930年の初版といえば、ナチスが台頭し、猛威をふるいはじめたときである。人々はオルテガを読み、自分が大衆に属していることを初めて知らされる。 

大衆の反逆 4團3節

≪019≫  大衆がどのように出現してきたか、オルテガの回答は意外なものである。「自由民主主義」と「科学的実験」と「工業化」が大衆をつくったのだというものだ。これでピンとくる人はよほどカンが鋭いか、何かの苦汁を嘗めた経験がある人だろう。 

≪020≫  自由民主主義が大衆をつくったことは多数決の原理にあらわれている。これはわかりやすい。工業化が大衆をつくったことも、マスプロダクト・マスセールによって誰もが同じものを所有する欲望をもったということを見れば、見当がつく。だが、科学的実験はなぜ大衆の出現に関係があるのだろうか。 

大衆の反逆 4團2節

≪021≫  オルテガは20世紀になって甚だしくなりつつあった科学の細分化に失望していた。科学は「信念」を母体に新たな「観念」をつくるものだと思っていたのに、このままでは「信念」は関係がない。細分化された専門性が、科学を世界や社会にさらすことを守ってしまう。こんな科学はいずれそれらを一緒に考えようとするときに、かえってその行く手を阻む。それはきっと大衆の言動に近いものになる。それよりなにより、そうした科学にとびつくのがまさに大衆だということになるだろう。 

≪022≫  こういう懸念がオルテガに「科学的実験が大衆の増長を促す」という「風が吹けば桶屋がもうかる」式の推測を成り立たせた。オルテガはこの見方に自信をもっていた(ややもちすぎていた)。それは、こうした科学を推進してやまない科学者を「サビオ・イグノランテ」(無知の賢者)と呼んでいることからもうかがえる。 

大衆の反逆 4團3節

≪023≫  ぼくはオルテガの大衆論を諸手では迎えない。いろいろ不満があるし、とんちんかんなところも感じている。 たとえば、オルテガがエリートと大衆を分けているのは、もう古い。古いだけではなく、まちがってもいる。いまではエリートも大衆に媚びざるをえなくなっているからだ。 

≪024≫  そういう不満はいろいろあるのだが、感慨や沈思もいろいろあった。ひとつは、オルテガのように大衆と対決する哲人は、もう資本主義のさかんな国にはあらわれないんじゃないかという感慨だ。なぜなら、そのような哲人は大衆を衆愚扱いすることになり、それでは自ら天に唾するものになってしまうからである。 

≪025≫  これは、哲人は大衆と対決するのではなく、たんに大衆の場面から去るしかなくなっているという感慨でもある。 

≪026≫  もうひとつは、大衆の解体は何によっておこるのだろうかという疑問のような感慨だ。そんなことはおこりえないのか、それとも大衆そのものが自壊する要因があるとしたら、それは何なのだろうか、また大衆が自壊をのりこえる作用をもっているとしたらそれは何なのだろうかという問いでもある。 

≪027≫  とくにインターネットによって世界が少しずつウェブ液状化をおこしている世紀末、そんな感慨に耽りたくなってくる。 

大衆の反逆 5團3節

大衆の反逆 5團2節

大衆の反逆 5團3節

≪01≫  感情生活の現象学とでもいうものがあってよかった。ピエール・ブルデューはそれを試みようとした。そうしたら構造主義とは別れざるをえなくなった。 

≪02≫  ブルデューの出発点は「人間であること、それは文化を身につけることである」という点にある。すべての起源はそこにあり、すべての重要性はそこにあった。そこでブルデューは「文化的資本」という見方を想定してみた。文化的資本は書物や絵画のように物質的に所有可能なものから、知識や教養や趣味や感性のような個人のうちに蓄積され、漂流し、ときに身体化されているものまでを含む。ブルデューは当初からそのいずれにも関心を示したが、わけても身体化されている文化的資本に注目した。 

≪03≫  そして、そこには固有の様式のようなものがひそんでいて、それがその個人が所属する階層や集団や職業に深い関連をもっていることを発見するようになると、それをしだいに「ハビトゥス」と名付けるようになった。文化的資本のすべてをハビトゥスとしたわけではなく、そこにあらわれてくるにもかかわらず、いまだ正当に名付けられていなかったものをハビトゥスとしたのだ。 

≪04≫  ハビトゥスは習慣であり、感覚様式であり、生活慣習であり、趣向というものである。だから、そのようなハビトゥスは社会構造と無縁ではないが、相対的な自律性ももっている。ハビトゥスの自律性はちょっとした「場」や「界」をもっているとさえいえる。しかし、断じて社会構造や経済構造そのものでも、その部分品でもない。ましてそれを社会や経済が押し潰すことも、逆にそれだけで社会の流行や取引を成立させることもできない。 

≪05≫ このように文化的資本やハビトゥスをとりあげてみると、ここには資本主義の動向と鈍くも鋭くも対比されてくるものが見えてくる。 

≪06≫  本書の原題は『アルジェリア60』という。フランスにとってのアルジェリアは、明治以来の日本における朝鮮とも、20世紀におけるフランスにとってのインドシナとも、むろんアメリカにとってのフィリピンとも異なっている。 

≪07≫ そこはフランスであってフランスではないところなのだ。ブルデューはそのアルジェリアを調査研究することから、研究者としての第一歩を踏み出した。本書はその研究成果をミシェル・フーコーに促されて、かなり劇的に抽出し、翻案したものだ。その内容は資本主義の矛盾を摘出することになった。 

≪08≫ かつてヴェルナー・ゾンバルト(第503夜)は、「資本主義の誕生期においては企業家が資本主義をつくるが、より発展した段階になると資本主義が企業家をつくる」と書いた。 

≪09≫ アルジェリアが体験できなかったものは高度に発展する資本主義であり、アルジェリアが大事にしていたものはハビトゥスだったのだ。 

≪010≫ ブルデューはその後、「文化が危ない」というメッセージを投げかけるようになった。そして、文化を危なくさせている元凶は一にグローバリゼーションであることを告発するようになった。 

≪011≫ ブルデューも最初のうちは、自由市場主義者が文化だって市場の恩恵をうけてきたはずだ、これからも市場は文化をちゃんととりこむに決まっていると発言しつづけてきたことに、ちょっとした反論を加える程度だった。しかし調べてみると、市場の論理は文化をろくすっぽ保護していないし、まして恩恵をもたらそうともしていないことに気がついてきた。 

≪012≫ たとえば書物は文化的資本の最も象徴的なものであるにもかかわらず、資本主義市場が書物を擁護したり保護したりしたことは、ほとんどないのだ。書物は靴下やCDや自動車とまったく変わらない商品にすぎないとみなされたのだ。もし書物を文化的資本とみなすなら、書物の生産・流通・消費のプロセスのどこかで利潤の法則が逸脱しているはずなのに、そんなことはこれっぽっちもおこっていないのだ。逸脱した書物をつくったところは、赤字になり、買収の対象になり、そして市場から退散するしかなくなるだけなのだ。 

≪013≫  これでブルデューは怒りはじめたのだ。そこへジャン=マリー・メシェの次のようなお節介が聞こえてきた。彼はヴィヴァンディの会長で、マードックと張り合ってイギリスの衛星放送会社BスカイBを乗っ取ろうとした張本人である。その乗っ取り屋はこう言ったのだ。「通信の完全な自由化とそのテクノロジーの革新のおかげで、数百万の雇用がアメリカで創出された。フランスもぜひそれに見習ってほしい。われわれは競争と創造性の制水弁をおもいっきり開くべきである」  

≪014≫  ニッポン放送やTBSをほしがっている日本の金持ちITベンチャーとどこか似ているが、ブルデューはこれを聞いて、この発言のどこに価値があるのかと噛みついた。通信とITと制作が重なったところで、すべてのコンテンツは商品化されるだけで、すでに民放テレビがそうなっているように、最大利益を最小コストで追求すればするほど、番組は同じタイプのものを同じ時間帯に提供するだけになることは目に見えているのだ。 

≪015≫  ブルデューは通信ネットワーク企業が、驚くべきスピードで企業の吸収・合併・売却をしつづけていることに警鐘を鳴らす。とくにソフトを制作するグループと配給を担うグループが合併することを非難する。このままでは配給がソフトを規定するという垂直統合だけが世には蔓延すると指摘する。かつては権力や支配層が「思想と猥褻の検閲」をしたものだが、これからは売れる商品だけをふやすために、「資本による検閲」が始まっていくというのだ。儲かるものしか作らないというのは、儲からない内容を資本が検閲しているということなのである。 

≪016≫ すでにアメリカでは、いくつかの出版社を例外として、大半の出版社は8つの巨大メディア企業による支配下に入ってしまった。もはやメディアにおける利潤の追求は文化の否定に近づいてきたのである。 

≪017≫ 実はすでに芸術が瀕死の重症なのである。ゴンブリッチが予告したように、芸術の生態環境が破壊されれば芸術はそれほど遠くない将来に死ぬしかないにちがいない。われわれはジーンズやコカコーラを文化だとみなしたことによって、実はそれ以外の文化をすっかり病気にさせてしまったのである 

≪018≫ こうしてブルデューは宣言する。「本質的に文化的なインターナショナリズムの伝統は、その名にもかかわらず、グローバリゼーションとラディカルに対立するものなのではあるまいか」というふうに。 

≪019≫ それには文化のインターナショナリズムが資本のグローバリズムと対立したってかまわないのだ。では、そんなことがどうして可能になりうるか。 

≪020≫ ハビトゥスというラテン語は、「状態・態度・外観・服装・たたずまい・習慣」といった意味をもつ。反省や自覚によって認識されるものではなく、「一見してそれとわかるもの」というニュアンスをもつ。ギリシア語なら「ヘクシス」にあたるもの、英語なら"have"から派生する語感をもっている。 

≪021≫ そうだとすると、まだハビトゥスはなんとか健在であるはずだ。グローバル資本主義がどれほど席巻しようとも、われわれが目覚まし時計で起きるとき、腹が朽ちくなるほど食べ終わったとき、書店で何かを探して夢中になっているとき、それをどのマシンで再生しているのか忘れるほど音楽に耳を傾けているとき、旅先であまり人がいないバスストップに降りてしまったとき、われわれは自分に固有のハビトゥスを発揮しているはずなのだ。 

≪022≫ ブルデューが「資本主義」と「ハビトゥス」を対比させているのは、企業家やメディア産業を批判するためだけではなかった。ハンス・ハーケとの対話集『自由-交換』を読めばわかるように、また大著の『芸術の規則』を通読すればわかるように、ブルデューは芸術家たちも文化の危機に加担しているとみなしているのだし、『ホモ・アカデクス』では大学人や知識人がとんでもなく危険な立場にいることも指摘している。 

≪023≫ ようするにブルデューは文化はその環境によっても、その資本構成によっても、そしてその担い手だった者たちによってすら、攻撃と腐敗を促進されているとみなしているのである。  

≪024≫  ということは、文化は寄ってたかって反撃に転じなければならないわけなのだ。 それほどラディカルな反撃の意思を、これまで使い古され、あまりにも全般的に見える「文化」といった用語だけであらわしていくことが可能かどうかは、多少の疑問もあるし、批判がおこることもあるだろうが、ブルデュー自身はそういう懸念にはいっさい一顧だにしない。それをこそ文化と呼ばないでどうするのかというのである 

≪025≫ 第475夜でダニエル・ベルの『資本主義の文化的矛盾』を紹介しておいた。ベルが30年前にそこで指摘していたことは、売れることと文化的であることはほとんど無縁になりつつあって、それを奪還するには資本主義に埋没しているわれわれ自身が、5つや7つの病気にかかりすぎているということだった。 

≪026≫ いまなおその病気が快方に向かっているとはいいにくい。しかし30年前よりも、資本主義の矛盾が極端な亀裂を見せつつあるということも、また決定的な病気の症状なのである。
その病気の体には情報資本主義がぴったりくっついてしまったからだ。 

≪027≫  資本主義の将来に可能性がないわけではない。ときどき株価や定価を忘れるほどのことをしさえすればいいだけなのである。
ぼくとしては、それを「日本という方法」や「故実十七段という構成」で試みてみたい。