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読書・独歩 宇宙の間隙に移居するParⅠガイド 情
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≪01≫  脳がアナロジーを担当すべきところを機械がテクノロジーで代替してしまったのだ。一言でいえば今日のIT社会の問題のすべてが、この「アナロジーからテクノロジーへ」ということに集約される。

≪02≫  こんなことは世の中を見ていれば至極当然な推移だと思っていたのだが、意外にも誰も指摘してこなかった。もっとも世の中の推移を見抜くには少しは鍛練がいる。縮めていえば「人間の生物的な本来」と「文化の社会的な将来」の両方についてちょっとばかり思索を深めていなくてはいけない。もっと短く縮めていえば「脳と言葉」「経済と機械」の両方の問題を解くスコープが同レベルで重なって見えてなければならない。世の中の推移を見るには、大脳主義者ふうの唯脳論や言語主義者ふうの素朴意味論者やMBAふうの予測に走る経済主義理論では、まったく役に立たないのだ。「脳と言葉」「経済と機械」をいつも連動させて見る必要がある。

≪03≫  しかしその程度のことをふだんからしていれば、「アナロジー」こそが本来なのに、「テクノロジー」の将来がそちらに向かわないで、逆にアナロジーの解体や腐食を促しているだろうことは一目瞭然なのである。

≪04≫  IT社会とは「何事もデジタル情報にする社会」なのではない。情報社会というなら、文字や書物が生まれてこのかた情報社会ではなかった歴史などはない。ユビキタスだとか電子経済だとかウェブ社会というのはそうではなくて、「何事も高速大量に情報にして、判断を情報化に即して了解してしまう社会」なのである。ようするに自分のアナロジーが奪われていく社会なのだ。

≪05≫  そんなことを感じていたら、なかでポール・ヴィリリオがそのことに気がついて発言を始めていた。読んでいてすぐ感じたけれど、この人は最初から勇敢だった。

≪06≫  1冊目は『速度と政治』だった。テクノロジーを利用しているなどとんでもなくて、われわれがテクノロジーに完膚なきまでに利用されていることを暴いたこの著作は、一方でドロモロジー(速度学)の開闢を告げるとともに、他方で「すでに速度が政治を超えている」ということを告げた。『戦争と映画』や『瞬間の君臨』は写真や映像や照明や電子機器をとりあげて、一方でドロモスフェール(速度時空圏)が覆いかぶさっていることを指摘するとともに、他方でリアルタイムな情報の高速授受はたんに「外観移送」(トランサバランス)をしているにすぎないことを喝破していた。

≪07≫  これらを高度情報社会の問題に鉈をふるうかたちに集約してみせたのが『情報エネルギー化社会』と『電脳世界』である。後者のサブタイトルに「最悪のシナリオへの対応」とあるように、ここでのヴィリリオはメディアの軍事性を抉りつつ、われわれすべてがいつのまにか無自覚なトランスプレイヤーにさせられている実例をふんだんに見せつけた。ヴィリリオは「メディアが政治と法と感情を超えた」と言い放ち、報道はその情報を伝えているのではなく、出来事のすべてを情報に還元することによって、政治と法と感情そのものを複合メディア化をしているにすぎないと断罪した。

≪08≫  ヴィリリオの文章はわかりにくいが、その思想は簡潔である。とくに難解なところはない。勇敢ではあるが、アヴァンギャルドでもない。世の中の推移を「脳と言葉」「経済と機械」を切り離さずに観察しているだけなのである。推移が速いぶん、ヴィリリオの言葉も高速になっているだけなのだ。

≪09≫  諸君なら、たとえば、次のような事例から何が観察できるだろうか。 ‥ベネトンがやったことは誰が誰をメディア化するのかという広告テロ戦略だった。広告はメディアの裂け目を見いだすしかなくなったのだ。‥映像の検閲がゆるゆるになるにしたがって、映像作家たちの想像力がさらにゆるゆるに衰えている。それより速く観客の想像力は枯渇する。‥CNNのせいで、いまや大衆はどこの国に対してもホームシックにかかれるようになった。その病気に罹らなかった連中は、たいてい自分に対してホームシックになっている。‥自動車の著しいハイテク化は、建物の一部を切り離してコンピュータにして、そのあとに4つの車輪をついでにつけたようなものだった。それでも事故がおこるのだから、あとは無視界コックピットが待つだけだ。‥ユビキタスな電子住宅こそ監獄である。閉じ込められれば閉じ込められるほど便利になるというのだから。‥OPA(株式公開買付制度)が残された経済的自由だと思えるのは、1秒後の瞬間情報を確信したいからである。きっとその情報が自分のところに来たものだと思いすぎたのだ。‥選挙はとっくにサブリミナル戦争になっている。政治がカジノになるのは投票者が博打が好きになっているせいだろう。

≪010≫  ヴィリリオがテクノサイエンスを唾棄していると思ったら大まちがいである。衆愚の軽挙妄動に腹をたてているのでもない。

≪011≫  テクノサイエンスは嘘をつくのがうまくなりすぎたと言ったのだ。嘘がうまくなったというのは、ニセモノの情報をふりまいているということではない。何でもリアルっぽく見せることがうまくなったということだ。大衆の軽挙妄動もいまに始まったことではなくて(第199夜に書いたように、そんなことはオルテガの時代にはやくもピークに達していた)、情報化された情報がトランスアパランス(超外観)になりすぎて、また高速ハイパーリアルになりすぎて、大衆はそれ以外の情報を受信する余裕がこれっぽっちもないということなのである。

≪012≫  つまりは、アナロジーが衰退してテクノロジーが隆盛しているというだけなのだ。ヴィリリオはこのことを『自殺へ向かう世界』という一冊の表題としても揶揄してみせた。

≪013≫  もうひとつヴィリリオがいつも言っていることがある。グローバリゼーションとは、歴史の完成の開始を意味しているのではなくて、地球のもっていた可能性の領域の終了と閉幕を意味しているということだ。これをいいかえれば、メッセージの速度それ自体がメッセージになってしまっているということだ。

≪014≫  アナロジーを奪ってはいけない。ヴィリリオはこの世で一番面倒な事態が進捗しつつあることに、ともかく一人でも闘いを挑みたかった男なのである。

≪015≫  ポール・ヴィリリオはパリ建築専門学校(建築大学ESA)の校長の職にある。60年代に「不均衡」というコンセプトを持ち出して、従来の建築が内部と外部を分断しすぎてきたことに抵抗した。そこで「斜め」(オブリック)の空間によって内外のあいだを動かした。少ないけれど、実作もした。クロード・パランと共同設計したサント・ベルナデット・デュ・バンレー教会がある。

≪016≫  その後は、都市計画にも傾注するのだが、その都市自体がおかしくなっていた。たまらず、カルチェ・ラタンの1968年にはオデオン劇場の占拠にも乗り出した。

≪017≫  しかし、実際の空間をいじったり行動をおこすだけでは何かが足りないと判断したようだ。しばらくするとヴィリリオは「世界という空間」と「世界という時間」そのものが根底から壊れつつあることに気がついて、その症状の解明に向かっていった。そのときの"方法の概念"が「速度」と「事故」なのである。「事故」については2002年の年末から翌3月まで、カルチェの現代美術館で同盟の展覧会を企画構成をした。これは9・11事件に対するヴィリリオのメッセージであった。

≪018≫  その後のヴィリリオはもっぱら情報問題やメディア問題に立ち向かう。本書はその精華のひとつだが、『幻滅への戦略』ではさらに情報のグローバリズムに敢然と立ちはだかって、このままではすべての自由主義がイコール監視主義になるだろうことを警告した。

≪019≫  ヴィリリオがこのような思索や活動をするようになった背景には、根深いトラウマが関与しているようだ。生まれたのが1932年で、父親がイタリア人のコミュニスト、母親はフランス人だった。幼児期はパリ、その後はドイツ占領下のナントなのである。ナントは1942年に爆撃された中世都市である。この10歳の爆撃の記憶は、長ずるにしたがって大きくなっていったようだ。

≪020≫  かつて、アラン・ジュフロワに伴われたフェリックス・ガタリが工作舎を訪ねてきたことがある。ジュフロワが「日本でおもしろいのは松岡だ」と何を根拠にそう言ったのかはわからないが、ガタリを連れてきた。そのときガタリはのちに伝説的な自由FM放送局として有名になった「ラジオ・トマト」を相棒とともに開局したばかりだった。その相棒というのがポール・ヴィリリオだったのである。

≪021≫  ぼくはそのころヴィリリオについてはまったく知らなかった。ただガタリが「ドゥルーズに匹敵するラディカルな知性だよ」と言ったのをおぼえている。

≪022≫  もうひとつ、まことににちょっとだけだが縁がつながりかけた話がある。ヴィリリオは20世紀最後の万国博となったハノーヴァー万国博のフランス館のプロデューサーとなった。ぼくはそのときの日本館の構想委員だったのである。ただしぼくの企画は蹴られ、ヴィリリオの企画は通った。フランス政府がラディカリズムが好きなのか弱いのかはわからないが、日本政府と地方自治体と官僚たちは、もっとずっと以前からのことであるけれど、ラディカリズムは絶対にお呼びじゃなかった。

≪023≫  そのときぼくが提案したコンセプトは「フラジリティ」だった。役人が言ったものだ、「壊れやすいだなんて、日本館にはもってのほかでしょう」。すでに日本は壊れかけていたにもかかわらず――。

≪024≫ 附記¶以下の順に読むのが、日本語訳としてはいいだろう。『速度と政治』『戦争と映画』(平凡社ライブラリー)、『純粋戦争』(UPU)、『情報エネルギー化社会』『瞬間の君臨』(新評論)、『電脳世界』(産業図書)、本書、『幻滅への戦略』(青土社)、『自殺へ向かう世界』(NTT出版)。ではヴィリリオの世の中の推移についての予見をもうひとつ。「これからは、おそらく光学的密告時代が加速するでしょう」。

リスクがリスクを生み、そのリスクの連鎖の大半を社会や組織が次々に呑みこんでいる。

こんなリスク社会をいったいどう見ればいいのか。

ルーマンは、そのようなリスク社会の特徴検出にこそ新たな社会システム理論のきっかけがあると見た。

オートポイエティックで、自己準拠的な、しかもダブル・コンティンジェントな社会モデル。

その入口を、今夜はちょっとだけお目にかける。 

≪01≫  本書では、ニクラス・ルーマンがその独特の自己準拠的システム論あるいはオートポイエティック・システム論にもとづいて、どのようにリスクおよびリスク社会を見つめたのかが集中して論じられる。 

≪02≫ 論者の小松丈晃は東北大学出身の1968年生まれの若手研究者で、ルーマンの大冊『社会システム理論』(恒星社厚生閣)の翻訳なども手掛けてきた。ただし本書は自立した単著ではなくて、勁草書房が刊行してきた“ルーマン論シリーズ”ともいうべきものの一冊で、福井康夫の『法理論のルーマン』、馬場靖雄の『ルーマンの社会理論』、春日淳一の『貨幣論のルーマン』などとも対応して、このシリーズ全体で、ルーマンがどういう社会学者であるかが総じて展望できるようになっている。 

≪03≫ 今夜は、そのなかのリスク論にかかわったルーマンの問題提起の仕方だけをとりあげる。ルーマンの社会論や経済論やルーマン自身の著作は次夜で紹介したい。まずは外側の解読者の目から案内しておきたいからだ。 

≪04≫  その前に一言。 ルーマンはこれまでの社会学者とちょっとちがっている。ドイツのフライブルク大学で法律学を修めたのち、いったん行政の実務にかかわり(ハノーヴァーで文部行政)、その後にハーバード大学では行政学と社会学を、さらにシュバイヤー行政大学で行政研究に携わったり、ドルトムントの社会調査局の主任研究員をやったりしていた。このとき早くも「複雑さ」「信頼」「システム」「意味」といった問題意識を前面に持ち出そうと試みていた。  

≪05≫  そのあとの1968年から25年以上は、ビーレフェルト大学の社会学教授として「社会システムの科学」を理論的に探求しつづけた。とくに1971年にユルゲン・ハーバーマスとの公開討論をしたのをきっかけに、その独自の探究心にもっと火が付いて、70年代後半には「オートポイエーシス」の社会学化に猛然と向かっていった。  

≪06≫  まるで”社会のシステム化”を一身に引き受けたかのようなのだ。こういう傾注ぶりは、アカデミックな社会学者の姿とはちょっとちがっている。 

≪07≫  ルーマンは1927年のリューネブルクの生まれである。父親はビール業。ナチス抬頭の折りから、15歳のときに高射砲部隊に入営し、17歳のときはフランスの収容所で強制労働に就かされもした。敗戦後もアメリカ軍の捕虜収容所に入れられた。ルーマンとドイツ社会の関係はいささか特異なのである。 

≪08≫  こういう経歴もあって、その問題意識はかなり広範にわたるのだが、またその著作は研究者のあいだでさえ難解きわまりないともくされてきたのだが(たしかにロジック・プレゼンテーションの仕方はヘタッピーである)、ぼくがルーマンの思想で最も注目するところははっきりしている。世界や社会をつねに複雑系として捉えつづけてきたこと、その世界や社会を形成する根源的な単位を「意味」に求めようとしつづけたこと、その意味を加工編集するものはすべからく「システム」であるとみなしたこと、このことにある。 

≪09≫  ルーマンは社会は複雑なシステムであり、そのシステムは意味によって構成されるとみなしたのである。ということは市場も価値も意思決定も、とことん「意味」で構成されるということになる。当然といえば当然のことではあるけれど、社会学者がこのように「システムと意味の関係」を長期にわたってぶらさないでいることは、実はめずらしい。 

≪010≫  では、そのような見方をしたルーマンにとって、リスクというものはどのように解釈できるのか。本書はそこに焦点をあてた論評になっている。 

≪011≫  すでに時代社会は1980年代後半あたりから、生態系の毀損や原発事故やエイズなどの人間社会が生み出したリスクに人間社会自身が曝されるにいたっていることが、あきらかになってきた。そのリスクは国民国家の枠をこえてグローバル化しつつあった。 

≪012≫  そこでウルリヒ・ベックが『危険(リスク)社会』(1986)をもっていちはやく社会学的警鐘を鳴らしたというところまでは、前夜の『現代社会のゆらぎとリスク』(1347夜)で紹介した。だから話はそこからだが、このように急速に浮上したリスクには前例のない特徴があった。また多様性があった。 

≪013≫  第1には、リスクの作為者とリスクの犠牲者を分かつことが困難なリスクであった。第2に、環境汚染や薬害やコンピュータ・ウィルスなどがそうであるように、多くのリスクが直接に知覚できないものに向かっていた。ベックはこれを「非知」のリスクというふうに捉えた。「知りえない知」としてのリスクということだ。第3に、原発事故や鳥インフルエンザなどがまさにそういう例にあたるのだが、時代が進むにしたがって保険制度などによってとうていカバーできないほどの大規模なリスクが次々にふえ、のみならずそれらが連鎖してきた。 

≪014≫  こうした異様なリスクの波及は、社会はもはや「富の分配」ではなくて「リスクの分配」で成り立っている、と言ったほうがいいような度しがたい様相をふりまくことになった。 

≪015≫  これではリスクの研究も多様にならざるをえない。オートゥイン・レンによると、いまやリスク学の研究分野は、①保険数理によるリスク論、②確率論によるリスク分析、③リスクを組み合わせる経済学、④リスク社会論、⑤リスクをめぐる認知心理学、⑥リスク文化論、⑦毒物学や疫学などに分かれざるをえなくなっているという。 

≪016≫  この分類でいえば、ルーマンは④リスク社会論を先駆けたということになるのだが、けれどもその思索の半径は、むろん④にはとどまらない。 

≪017≫  ルーマンは1980年代半ばから環境リスクについての発言を始めていて、スイスのザンクトガレン大学で講演をしたり、紙誌に寄稿したりして、政治的なエコロジー運動がさかんなドイツの実情をある程度意識したスタンスをとっていた。ドイツはナチスの体験もさることながら、「緑の党」などが早くから運動をおこしていた国柄なのだ。 

≪018≫  このスタンスのなか、マトゥラナとヴァレラが提唱した「オートポイエーシス」概念(1063夜)を社会システムに適用するようになった。ふいにというか、思い切ってというか。 

≪019≫  オートポイエーシスは生命システムの謎、とくに免疫的なシステムの謎を解くための概念として考えだされた。生命が「非自己」を活用しつつ自己組織化をとげながら、それでもシステムとしての「自己」を環境の内外で保持しているのはなぜか。そこには「自己を再生産するための自己準拠」や「自己による自己再帰」のしくみがあるのではないか。生命は自分自身についての「自己言及」をしながらもそこに生じる自己矛盾(コンフリクト)をたくみに超越するしくみをもっているのではないか。それはオートポイエーシスとでもいいうるものではないか。マトゥラナとヴァレラはそういう仮説をたてた。 

≪020≫  ルーマンは、そのようなオートポイエーシスが社会システムにも動いているだろうとみなした。法や価値観や市場の動向にも、オートポイエーシスのなんらかの作用が関与したり滞留したり、また逸脱したり過剰になったりして、システムの内外を出入りしているのではないかとみなしたのだ。 

≪021≫  しかし生命システムと社会システムとは似ているところもあるが、似ていないところも少なくない。社会生物学者たちはこのことにつねに悩んできたし、ローレンツ(172夜)やアイベスフェルトらの勇気をもってしても、動物行動学(エソロジー)の成果は容易には人間社会にあてはまらない。 

≪022≫  ましてオートポイエーシスのようなメタシステム仮説と現実社会の関係はいちがいに決めがたい。けれども、生命にも社会にも共通して動いているものがある。それは広くいえば「情報」であり、また、記号やメタファーをともなう「意味」である。 

≪023≫  ルーマンはそこで、社会システムにおいては「コミュニケーション」(あるいはコミュニケーション行為)が動いて、それがなんらかのかたちでオートポイエーシスに向かっている、ないしはオートポイエティクなしくみと関与している可能性があるとみなしたのである。 

≪024≫  これはけっこう大胆な展開だった。もしくは安直な比較かもしれなかった。しかしルーマンは躊躇なくここに深入りしていくことになる。ことに研究の途中から、大きな変更を加えもした。それは、社会システムのどこかににオートポイエティックなはたらきが部分的にあるのではなく、オートポイエティックな動きのなかに社会が機能しているのではないかというような、大きな見方の逆転だった。 

≪025≫  社会そのものの様態が、もっと大きな自己言及的なオートポイエーシス活動のひとつのケースであり、プロセスのあらわれであろうと見てとったのだ。そこから法や市場や組織が、また価値観やリスクが生み出されている(分出している)のではないかと見てとったのである。  

≪026≫   一般にリスクは「損害が生じる確率」だとみなされてきた。そのため、リスクは危険がともなうものであり、したがって安全の反対概念であると考えられてきた。 

≪027≫  しかし、はたしてそうなのか。危険や安全が確定されてからリスクが計算されたのか。そうではなかった。ことは「たまたま」から派生し、そこから統計学や確率論が生まれ、保険や数理経済学が生まれ、事故の記録や損害の算定が先行するにつれ、そのリスク回避が検討されるようになったのである。リスクは「危険」や「安全」の確定から生じたのではなく、事態の進展そのもののなかから鬼っ子のごとく生じたものなのだ。 

≪028≫  そこでルーマンは、リスクを「危険」や「安全」に対比させるのではなく、社会システムにおける「決定」のプロセスに関するものと見たほうがいいと考えた。 

≪029≫   近代以降の社会は、おおむね「真/偽」「法/不法」「統治/反対」「就業/失業」「支払い/未払い」「貸付/返却」「成功/失敗」「健康/病気」といった二値コードによって成り立ってきた。 

≪030≫  最近の普天間基地移転をめぐっても、トヨタのリコール問題をめぐっても、景気失業対策をめぐっても、国母クンの冬季オリンピック服装問題をめぐっても(笑)、この二値コードは政府によってもマスメディアによっても間断なく発動されている。 

≪031≫  ルーマンは青年期以来、このことにずっと疑問を抱いてきた。のみならず、このように二値コードをもって社会を裁断し、判定することそのことがリスクを生じさせていると見た。二値的な決定プロセスがあやしいのである。多くのリスクは“システミック・リスク”なのである。 

≪032≫  ひるがえって、社会というもの、つねに「規範」や「稀少性」や「競争点」を決めようとしてきた。それが市場に競争原理を生み、都市を賑やかにさせ、生活をさまざまな方向に導き、会社を成長戦略に向かわせ、景気や物価を上下させてきた。 

≪033≫  けれども、そこではいくつもの矛盾も派生した。たとえば、企業活動や消費者活動が仮に“環境にやさしい”ような方向に進んでいったとしても、そこにはエコポイントなどのような“数値”が課せられる。また、どんな会社や組織にも、社会の複雑な要素を反映したぶんのコンプライアンスの縛りが、網の目のように課せられる。つまりは社会はエンドポイント(1346夜参照)の数値の網目によって決定されてきたわけなのである。 

≪034≫  これは何をあらわしているかといえば、社会システムの各所に「決定者」とその決定を受ける「被影響者」の範囲があって、それが社会システムをついつい自己決定しているだろうということである。それも、ありうべき社会システムのグランドモデルを想定することなく、ずるずると結果的にそんなふうにさせてきてしまったのだ。 

≪035≫  ここには何がおこっていたのだろうか。これが自由主義市場の原則と体たらくというものなのか。それともすべてがまちがいで、だからネオリベラリズム過剰に向かってしまったのか。ルーマンはこの二つの見方ともに当たっていないと見た。 

≪036≫  では、なぜこんなふうになってきたのか。このような事態になった社会システムについての理論が欠乏していたせいだったのである。そこにリスクの介在を認めておかなかったせいなのである。 

≪037≫  社会システムはコミュニケーション行為で構成されているのではない。社会システム自体がオートポイエティックな動きをすることが、さまざまなコミュニケーションの行為的属性になっている。 

≪038≫  こういうコミュニケーションは再帰的コミュニケーションであり、自己言及性をともなっている。そして、ここが肝要なところになるのだが、リスクの本体はこの構造の隙間やきしみから生まれるのである。どのように生まれるかとといえば、コンティンジェントに生まれる。 

≪039≫  コンティンジェンシー(contingency)という言葉は、そのもっている意味がきわめて重要なわりには、とてもわかりにくい。よく「別様の可能性」とか「機能的な等価性」とかと訳されたり、説明されるけれど、これではとうてい掴めまい。  

≪040≫  辞書的な定義では、事件や事故が偶発的におこるときに、「まさかこんなことがコンティンジェントにおこるとは思わなかった」というふうに使う。また、その偶発的な出来事によって付随しておこる一連の出来事が、ことごとくコンティンジェントなのである。それゆえここは不確実なこと、不確定なこともコンティンジェントなものとしてすべて含意されている。いいかえれば生起するかもしれない可能性もコンティンジェントなのである。  

≪041≫  つまりここには「偶然の本質」がかかわっているとともに、「生起の本質」もかかわっている。それがコンティンジェンシーである。 

≪042≫  ルーマンは、オートポイエティックな社会システムには、リスクがコンティンジェントにかかわっていくと見た。システムがシステムの次のふるまいを、自分がかかえもった多様性のなかから選択することそのことがコンティンジェントであって、かつリスキーなのである。  

≪043≫  これはシステムが外部環境や内部環境に適応したからではない。そうではなくて、システムが次の様態を求めてシステムの“分出”をはかったのだ。システムの次の制限に自己準拠したのだ。つまりは、システムは複合的構成に向かうために自身をコンティンジェントにし、オートポイエティックなふるまいを保持しているということなのだ。 

≪044≫   システムに出入りするものはすべて「情報」とみなしていい。システムの状態はどんなときであれ、つねに情報がかかわっている。 

≪045≫  しかし、ひとたびシステムがシステムたらんとするためには、この情報の多様な様相と動向のなかから、なんらかの「意味」たちを見いだしているはずである。 

≪046≫  システムは情報システムであるとともに、意味を構成するシステムに向かって自己生産あるいは自己更新をしているはずなのである。ルーマンはこのようなシステムにおける有意的な情報処理のプロセスに注目し、そこに高度な複合性や相互依存性を生ずるしくみがあると見た。 

≪047≫  ここまではしかし、とくにめずらしい発想ではない。ホワイトヘッド(995夜)からフォン・ベルタランフィ(521夜)まで、ハーバート・サイモン(854夜)から清水博(1060夜)まで、動的なシステムを考えたことのある者なら、誰もが考える。ぼくならば、有意的な情報処理とは「編集」そのものであり、編集することがリスクを意味に転換しつづけることになるとも考える。 

≪048≫  だが、ルーマンはここを「意味を構成するシステム」がダブル・コンティンジェントにシステムを自己形成して、リスクを組み上げていくというふうに見た。ここがおもしろい。「ダブル・コンティンジェンシー」という概念もたいへんに特異である。「二重偶発性」とでも訳せるだろうが、そのままダブル・コンティンジェンシーと言ったほうがいい。 

≪049≫  もともとはタルコット・パーソンズが言い出したことで、これはコンティンジェントな事態には、そのことがあるものに依存するという意味と、そのこと以外のこともおこりうるという意味とが、二重に生起しうることにもとづいている。そういう二重のダブル・コンティンジェンシーがシステムが自己言及するたび、自己再帰するたびに選択され、そしてそのたびにリスクが内包されるということなのだ。 

≪050≫  さて、では、このようなオートポイエティックな社会システム論をもって、ルーマンがどのようにシスム理論を組み上げていったのか。このことについては、次夜の一冊に任せたい。今夜はリスクがコンティンジェントにあらわれるというところにだけ着目しておいてもらいたい。 

≪051≫ 【参考情報】  

≪052≫  (1)ニクラス・ルーマンについては前夜・今夜・次夜を通してそのプロフィールを把握してほしい。この人は真理も全体も主体も理性も必要としなかった社会学者なのだ。それだけではわかりにくかろうから、前夜は『自己言及性について』(国文社)と『ルーマン、学問と自身を語る』(新泉社)を紹介したので、そこからひとつ、ふたつ、リークしておくと、ルーマンは第1に、「知」というものの前駆的段階にずっと関心をもってきたということだ。第2には、「意味」にとって最も重要なのはその意味が情熱を迸(ほとばし)らせるときだと感じつづけていたということである。 

≪053≫  そして第3に、これはずっとエピソディックなことであるのだが、ルーマンはいつもカードに自分の発想をメモしていて、それをカードボックスに入れてはシャッフルしていたようなのだ。それで何をしたかというと、そのカード群の離合集散のために「読書」をしつづけていたらしい。この読書術、なんともいえない魅力をもっている。 

≪054≫  (2)ルーマンは「正しいもの」を設定しておいて、その論証のために思索や研究や調査や分析をするなどということをしなかった。こんなふうに自分の研究の方針を説明している。「現にあるものがそのようなかたちで現にあることにまず驚き、現にそのようにあることの”ありそうになさ”(Unwahrscheinlichkeit)を仮定することから初めて、そうであるにもかかわらず、なぜ形式や様式(秩序・構造など)が現に可能になっているのかを、探求する」(『社会システム理論』より)。ね、これって凄いよね。 

≪055≫  (3)「ダブル・コンティンジェンシー」を最初に提唱したタルコット・パーソンズ(1902~1979)はアメリカの社会学者。ヨーロッパの社会理論をアメリカに移植するにあたって、そこに数理的・情報科学的な手法をまぜて社会システム理論の規範をつくった。主著に『行為の一般理論』『社会的行為の構造』『社会システム論』などがあり、その思想は「構造機能主義」などとも呼ばれる。システムをA(適応)を受け持つ経済、G(目標達成)を進める政治、I(統合)を反映する社会共同体、L(パターン維持)を継続する家族の4つで説明したAGIL図式が有名だ。 

≪056≫  ちなみにパーソンズのコンティンジェンシーは「依存性」の意味あいが強い。これらのことの解説を含めて、本書は「注」が充実している。参考に。 

≪01≫ Q 前夜に続いてニクラス・ルーマンですね。『社会システム理論』って上下2巻の分厚いものですよね。 

≪02≫ A うん、やたらに分厚いね。でも最初はこれではなくて、ルーマンが1991年から翌年にかけてビーレフェルト大学で講義した『システム理論入門』(新泉社)のほうをテキストにしようかなと思っていた。これはディルク・ベッカーがまとめたもので、よくできている。ルーマン最晩年の成果だから、電子メディアについての新しい知見が加わっているところとか、学生にわかりやすく説こうとしてついつい本音を洩しているところとか、ちょっと見逃せない言及が多々あって、ぼくも愛着があったんでね。けれども講義録でもあるんでかなりはしょったものにもなっていて、今度、あらためて読みなおしてみたら、不満も少なくなかった。 そこでどうせなら、やっぱり大著の『社会システム理論』でドカンといくことにしたわけです。ルーマン社会学の最初の到達点だしね。 

≪03≫ Q いつごろのものですか。 

≪04≫ A 1984年あたり。例のオートポイエーシス理論を初めてルーマンが社会学に採り入れたときのものですね。だからルーマン独得の“思索的転写”を試みるクセがよく読みとれる。かつてぼくは、この大著のなかでルーマンがヴァレラやマトゥラナの「オートポイエーシス」を社会学化した手口のあれこれと、タルコット・パーソンズ譲りの「ダブル・コンティンジェンシー」のきわどい応用の手口を知って、かなり驚いた。 

≪05≫ Q 何に驚いたんですか。 

≪06≫ A これ、やりすぎじゃないか。こんなにうまくいくものか。そう、思ったね。だって生命科学の考え方をほとんど社会学に転用していたんでね。「遊」第2期をつくっていたころ(1970年代後半)、ぼくも生命システムの社会化を夢想していてね、ときには「私の生命論的超越」といったことを考えていたんだけれど、やっぱり生物学と社会学は重らないところのほうが少なくないなと感じたんです。 でも、ルーマンはそれをやってのけた。やりすぎじゃないかと感じた印象はまだ拭いきれていないけれど、その後もルーマンをあれこれ齧っていると、こういうやりすぎを冒さないかぎり、社会学がシステム論やリスク論を渉猟することはできなかったのだろうという気にもなったね。 

≪07≫ Q やりすぎでもいいんですか。 

≪08≫ A そうねえ、ときにはそういうことが必要なんだろうね。あとは時代がそこをどう評価するかだよね。 

≪09≫ Q ルーマンは向こう見ずというか、大胆なんですね。 

≪010≫ A そうとも言えるし、「ユーレカ!」だったのかもしれない。それに、生体と社会のマッチングのための飛躍のあとはけっこう慎重だったね。そういうちょっと風変わりで理屈一徹の社会学者でもあったドイツ人・ルーマンの略歴については前夜を見ておいてね。 

≪011≫ Q はい、読みました。で、今夜はどんな話ですか。社会システム理論の全貌案内ですか。 

≪012≫ A いやいや、それは無理だし、めんどうくさい。今夜は『社会システム理論』を一応のテキストとするけれど、さらなる大著の『社会の社会』1・2(法政大学出版局)とか、そのほか『社会システム理論の視座』(木鐸社)、『社会の科学』『社会の芸術』『社会の法』(法政大学出版局)なども参照しつつ、ぼくなりに編集ルーマン的社会システム論を紹介したい。まあ、その程度。さっきの講義録『システム理論入門』もいささか視野に入れてね。 

≪013≫ Q それもまたすごいですね。 

≪014≫ A とんでもない。それほどじゃないよ。それにルーマン自身もいろいろ自己解説を書いている。くどいほどにね。ルーマンその人が自己準拠的なんだよね。だからそういう眼で読めば、初期の『信頼』(勁草書房)や『目的概念とシステム合理性』(勁草書房)や、前夜や前々夜にも少しだけ紹介した『自己言及性について』(国文社)とか、『ルーマン、学問と自分を語る』(新泉社)とかも参考になる。 というわけで、以下の案内はセイゴオ流編集によるルーマン的社会システム理論の、ちょいちょい案内だな。 

≪015≫ Q それをこそ待ってました。 

≪016≫ A まあまあ、そう期待しなさんな。内容が多岐にわたるとわかりにくいだろうから、かなりぶっとばし気味に書くことにするけれど、それもルーマン的なシステム論の特徴のひとつだと思って、とりあえずついてきていただきたい。で、断り書きを、もうひとつ。せっかくだから、以下に綴った文章を「ですます」による講義調にしてみた。とくにそのことに狙いがあるわけじゃないけどね。そのほうが多少はわかりやすくなるだろうというくらいのことです。では、どうぞ。 

≪017≫  システムを考えるにあたって最初に考慮しておかなければならないのは、そのシステムが閉鎖系か開放系かということです。 

≪018≫ 宇宙全体を相手にするようなシステム論では閉鎖系を考えなければならないのですが、そういう閉鎖系では情報とエントロピーとがつねに逆数の関係で争いつづけ、結局はエントロピーが勝(まさ)って宇宙の熱力学状態はだんだん“熱死”に向かいます。エントロピーは「無秩序さかげん」(でたらめさ)のことですから、エントロピーがふえれば情報は薄くなるわけです。 

≪019≫ 一方、生命や社会にまつわるシステムは開放系ですから、システムに入ってくる情報をできるだけ薄くしないように外部から情報をうまく取り込み、しかもそれを加工(編集)したり、動かしたり変形しています。そのため、シュレディンガー(1043夜)が「生命は負のエントロピーを食べている」と言ったように、開いたシステムとしての生物たちはエントロピーによってシステムが“熱死”してしまうことから辛くも免れているのです。 

≪020≫ けれども個体としての生物は死ねば大地や空気中に還りますから、ここには小さな熱死は断続的におこっています。でも、それを含めて生命の長きにわたる歴史を考えると、そのしくみそれ自体はそれぞれ開放系になっているわけです。 

≪021≫ ルーマンが対象にしたシステムは、このような二つのシステムのうちの開放系としての社会システムです。 

≪022≫ 社会を開放系システムと捉えることはいちがいに妥当とはいえないところもあるはずですが、ルーマンはあえてそうみなしました。そこがルーマンの「えい、やっ」の決断でした。その当否をべつにすると、このようにいったん社会をそのようなシステムとみなせば、当然、そこには生命システムが入りますし、意識や心のシステムも入ります。ルーマンの社会システム論はそこから出発したのです。 

≪023≫ ついでに言っておくと、そのようなルーマン社会システムには「環境」は入りません。ルーマンの理論では、環境は社会システムの”外部”にあるのです。したがって、社会システムは環境との相互作用を解釈的にしているということになります。 

≪024≫  さて、開放系のシステムは、なんらかの情報がつねにそのシステムの内外を出入りしていることに特徴があるのですが、なかでも驚くべき特徴は、システムがそういう情報をつかって(自己編集して)、不断に自分自身を再生産しているということです。これを再帰的とか自己参照的とか自己言及的と言います。  

≪025≫ ルーマンは、社会システムが自律的で自己産出的なシステムだろうとみなしたのです。システムがシステム自身の継続のために、さまざまなサブシステムの“分出”をしているだろうからです。そこでルーマンは、社会がこういう自律分出システムであることを、最初のうちは自己準拠的なものと解釈していました。自己準拠的というのは、システムが半ばつくりあげた“広がった自己”とでもいうものをシステムの中身とみなして、その変更登録をしつづけるシステムということです。 

≪026≫ ところがそのうち、マトゥラナとヴァレラのオートポイエーシス理論を知るにいたって、社会システムもまたオートポイエーティク・システムになっているだろうと見通すことになります。このことを確信したのが、今夜とりあげている1987年の『社会システム理論』だったのです。 

≪027≫ ちなみにオートポイエティックと自己準拠的というのは、だいたいは同義です。再帰的、自己参照的、自己言及的もほぼ同義です。総じては「セルフリファレンシャル・システム」と考えればいいでしょう。 

≪028≫ ただし、ルーマンはこれらと似たような意味をもつ自己組織的という概念だけは注意深く避けている。ということは、ルーマンは複雑系一般を社会システムのモデルとして全面採用してはいないということですね。なぜそのように考えたかというと、ルーマンは「意味」と「コミュニケーション」をオートポエティック・システムとしての社会システムの最も重要な“要素”とみなしたからでしょう。現在の複雑系理論は必ずしも意味やコミュニケーションにまでは踏みこんでいません。 

≪029≫  ルーマンは「意味」こそが社会システムの自己参照的な特徴を支えている“糊とハサミ”だと考えていました。社会や人間におけるモノとコトを成り立たせているもの、それがルーマンにとっての意味なんです。   

≪030≫ そのようなモノとコトの本質は不安定で不確実なことにあります。社会におけるモノやコトは、そもそもが不安定で不確実であるがゆえに、それをのりこえるために「意味」をつくりだしているのです。ということは、その意味創出には本来的なリスクが伴っているということです。逆にいえば、意味はその不安定性や不確実性を自分の背景にすることによって、みずからを突出させているのです。 

≪031≫ どういうふうに突出させたのか。ここが大事なところですが、ここには、基本的には「区別」(distinction)と「表示」(indication)がおこっているんです。システムはなんらかの区別と表示の作用をもって自分自身を作動させているようなのです。 

≪032≫ これはルーマンが着目したスペンサー・ブラウンの『形式の法則』があきらかにしたものですが、ぼくも「編集八段錦」(編集工学的認知表現プロセスのモデル)のなかの最初の2段階に、この「区別」と「表示」をあげています。 

≪033≫ では、システムはどのようにしてその「区別」と「表示」をつかって次々に「意味」を生み出しているのかといえば、むろん「情報」をつかっているのです。システムが情報を区別し表示しているうちに「意味」が生まれてきたのです。情報と意味とはシステム状態のちがいなんです。このとき、システムは情報を自己準拠的に扱って、次々に意味という社会性を生み出しているんですね。 

≪034≫  ルーマンはこのような意味創出のプロセスには3つのきっかけがあるだろうと仮定しました。いわば3つの“意味次元”があると仮定した。事象的次元、時間的次元、社会的次元です。これらはシステムがなんとか自己成長をしようとするときのオプションなのです。 

≪035≫ このことをここでは詳しくは説明しませんが、ルーマンはこの3つの意味次元が相互に関係しあって、オプションを選択しながら社会システムの意味世界をリスキーにつくりだしていると考えます。 

≪036≫ こうしてここに、ルーマンの言う「コミュニケーション」がついに動きだします。情報が3つのオプション次元を通過するたびに、多様なコミュニケーションが動くのです。そこにはシンボル操作から会話までが、文脈生成からメディア化までが、また情報が意味に向かうにつれて負担するさまざまな心理的作用が含まれます。 

≪037≫ つまりは、ここにおいて、社会システムはコミュニケーションを媒介に、社会的価値観にも心理的価値観にも結びつくのです。 

≪038≫  ルーマンは、先行した社会学者タルコット・パーソンズの影響を深く受けています。その影響のひとつに「ダブル・コンティンジェンシー」という考え方がありました。 

≪039≫ 前夜にも書いたように、コンティンジェンシーというのはとても訳しにくい概念ですが、偶発性とか偶有性といったことです。何かが先に進んでいくときに、まわりとの関係でちょっとしたきっかけを活用して事態が多様に前方投企するときの具合をさしています。  

≪040≫ たとえば熱力学ではイリヤ・プリゴジン(909夜)が証したように、「ノイズから秩序が生成する」ということがおこります。これってコンティンジェントなんです。また「カオスの淵」では情報が創発することがあります。この具合もコンティンジェントです。タルコット・パーソンズは社会がなんらかの価値を生み出そうとするときは、こうしたコンティンジェントな具合が二重におこっていくのではないかと想定したのです。 

≪041≫ 二重というのは、たとえば個人におこったことが組織にも反映されるとか(その逆とか)、国際秩序の変化が国内秩序に変化を与えるとか(その逆とか)、ある概念が文脈のなかで反対の意味や二重の意味をもつとか、いろいろの場合におこります。これがダブル・コンティンジェンシーです。 

≪042≫ ルーマンはこれを応用して、社会システムが価値をまさぐるときには、「相互作用」「鏡像作用」「相補作用」が組み合わさって、ダブル・コンティンジェンシーをおこしていると見た。 

≪043≫ このことを理解するには、一個の個人をとりあげるとわかりやすくなります。この個人のことをルーマンは好んで「パーソン」と呼び、パーソナル・システムが社会システムとのあいだでダブル・コンティンジェントになっている例をいくつもあげていった。 

≪044≫ たとえば、幼児が「自己」を獲得するプロセスを考えてみると、そこには相互作用・鏡像作用・相補作用が組み合わさっておこっているだろうことが想定されます。これは、変な用語ですが、いわば幼児や子供における“自己パーソナル化”なんです。 

≪045≫ でも、いったんそうなってみると幼児や子供にとっても社会の見え方は変わります。というよりも自己パーソナル化にはすでに社会システムの何かの片割れが入ってきたわけでしょう。それが自己パーソナル化をおこしたんです。ということは、そこにはダブル・コンティンジェントなさまざまな作用があったということです。 

≪046≫  ざっとこのような考え方の準備をしたうえで、ルーマンは「コミュニケーションは相互に調整されたオプションである」ということを見抜きます。このあたりからがルーマンの独自の洞察が冴えてくるところです。  

≪047≫ だいたいコミュニケーションというのはたいそう不確かなものです。何かを言えばその意図やメッセージが相手に伝わるかどうか、どこにも保証はない。こういうコミュニケーションの不安は、誰だって感じていることでしょう。つまりコミュニケーションは根本においては「不確実性」を前提にして成り立っているのです。しかしだからこそ、そこでの意図やメッセージはオプションなのです。  

≪048≫ ルーマンは、①自己と他者のあいだの理解の不確実性、②コミュニケーションの到達範囲の不確実性、③コミュニケーションによる成果の不確実性、という3つのコミュニケーションにひそむ不確実性をあげています。とはいえ、不確実性だからコミュニケーションがうまくいかないというのでは、ないのです。  

≪049≫ そうではなくて、そうした不確実なコミュニケーションがあれこれ社会のなかを行き来するがゆえに、そこに社会システムが多様なオプション構造をかかえうると見るのです。そして、そのオプション構造をそれなりに明示しているものが「メディア」というものだと捉えるのです。ルーマンは“メディア言語”という言い方もしています。  

≪050≫ こういう考え方に立ったルーマンは、やがて電子メディアについてもその本質を指摘するにいたるのですが、それは『システム理論入門』や『社会の社会』のほうにやや暗示的に述べられています。電子メディアはもっと不確実性の意義や言語的ダブル・コンティンジェンシーを自覚したほうがいいというようなことです。もっともこのへんのことはルーマンはまだまだ暗示にとどまっていて、ぼくがそのうち『意味と市場』といった新著などでその内実をあきらかにするので、ここにどんな問題がひそんでいるかは、ここでは説明しません(思わせぶりで、ごめんね)。 

≪051≫ それよりもここで注意を促しておきたいのは、そしてこのことも説明をあえて省いておきたいと思うのは、ルーマンが「コミュニケーションはコミュニケーションによっては観察しえない」と言っていることです。そうなんですね、コミュニケーションはそこから派生した次のコミュニケーション・メディアによってしか説明できないんです。 

≪052≫ これってどういう意義があるのか、わかりますか。わからないんだったら電子書籍メディア「キンドル」などに驚かないことです。 

≪053≫  ところで、社会システムを理解するには、社会システム以外のものを比較したほうがよいのかもしれません。その代表は「環境」です。 

≪054≫ 環境システムは、そこに至ったすべての物理的生物的なプロセスを包含しているのですから、どんな社会システムよりずっと複雑で、ずっと非対称で複合的です。 

≪055≫ 環境と社会は非対称なんですね。しかし、ここで重要なのは環境が社会よりもずっと複雑だということではなくて、そうであるがゆえに社会システムは環境を参照できるということなのです。 

≪049≫ そうではなくて、そうした不確実なコミュニケーションがあれこれ社会のなかを行き来するがゆえに、そこに社会システムが多様なオプション構造をかかえうると見るのです。そして、そのオプション構造をそれなりに明示しているものが「メディア」というものだと捉えるのです。ルーマンは“メディア言語”という言い方もしています。  

≪056≫ 社会が環境を参照してきて、ではどうなったのかというと、社会史は環境の複雑性を縮減する方向にむかって進んできたのです。ルーマンはそこに着目して、早くから環境問題やリスク問題に発言してきた社会学者だったのです。 

≪057≫ そのような発言の核心点は一言でいえば、「環境は社会システムのなかでは分化されていく」ということです。太陽熱発電とか環境ホルモン問題とか、今日の環境問題や環境リスクをどのように今日の社会が感じているのかということに照らしてこのことを考えるとわかりやすいでしょうが、それだけでは足りません。ルーマンはもう少し深く考えていて、この環境システムと社会システムのあいだには必ずや「意味境界」が見えてくるはずだという“予言”をしているのです。 

≪058≫ 社会システムは環境に対して、境界自体を自己産出するシステムにならなければならない。そう、ルーマンは考えているのです。つまり、環境と社会のあいだに産出される境界が新たな社会的な「意味」をあらわすだろうというのです。それが「意味境界」という意味(!)です。で、これこそが、ぼくが思うにはリスクの正体のひとつなんですね(ふっふっふ)。 

≪059≫  さて、ルーマンはなぜにまたこのような一見、抽象的とも理屈っぽいともいえる「社会」を想定したのでしょうか。それについては、ガストン・バシュラールが指摘した「認識の障害」というものからの決定的離脱を試みたかったからでした。 

≪060≫ バシュラールが「認識の障害」と名付けたのは、①社会は具体的な人間の生活から考えなくてはいけないと思いこむ障害、②社会は人間たちのコンセンサスによって成立しているはずだと思いこむ障害、③社会は領土的な空間の単位であって、そこには別々の社会があると思いこむ障害、④社会は外部から観察できると思いこむ障害、のことをさします。 

≪061≫ ルーマンはこのような目では社会は語れないと見たのです。ということは、すでに述べたことですが、ルーマンの見る社会システムは行為ではなくてコミュニケーションによって成り立っているのです。  

≪062≫ このような見方は必ずしも新しいものではありません。すでにマルクス(789夜)は上部構造と下部構造によって、パーソンズは制御と階層によって、アルチュセールは最終審級によって、社会システムの構造を特徴づけようとしました。 

≪063≫ しかし、このような見方には、大きくひとつ欠けているものがあります。それは社会の部分どうしが対立しあったり、管理されていて、相互に自律的な関係をもちえないモデルになっているということです。ルーマンはここを突破したかったんですね。そういう点ではルーマンの社会システム理論は自律分出的統合モデルです。 

≪064≫ この見方についても、むろん反論はありえます。たとえばフランス・ポストモダン派の旗手リオタール(159夜)は、「世界は統一的報告では語りえない」とか「社会はもはやメタ物語によっては語りえない」と指摘してきました。しかしこの点についても、ルーマンは別の見解をとるのです。「そもそも社会を外部から観察しよう思うことが不可能なのである」「社会は社会が分化した記述者によって記述しうるのである」と。 

≪065≫ こうしてルーマンは次のようなことを相互的に自己記述していけば、社会システムは記述できると考えたのです。それは、①部分システムと社会システムの関係を記述する、②部分システムの相互の関係を記述する、③部分システムが自己自身に関して記述する。この3つをできるだけ相互的同時に進めるという方法でした。この記述の方法のために、ルーマンはオートポイエーシス理論を採用したわけです。 

≪066≫  これで、だいたいの枠組みの進行の仕方を、まことにおおまかに粗述したことになります。そこで、もう一度、ルーマンの方法にはどんな特徴があるのか、一言加えておきます。 

≪067≫ 社会学が社会システムに言及するには、社会システムが自分自身を相手に自己言及しているしくみや気配やノイズに気がつかなければなりません。これがルーマンが最終的に決断した方法でした。この方法は、ルーマンの方法自体がダブル・コンティンジェントであったことを示します。 

≪068≫ しかしとはいえ、システムの自己言及に注目すれば、これを記述する内容だって自己言及のループに入ってしまって、理論そのものの自己矛盾やハウリングをおこしかねません。そういう理論的危険性はなかなか拭えませんし、そういう理論的破産に陥った学者は数かぎりなくいます。ルーマンはどのようにこの問題をブレイクスルーしたのでしょうか。 

≪069≫ ぼくが思うには、ルーマンはこのブレイクスルーのためにこそ「意味」というものを、つねにシステムが自律的になろうとするたびごとのインターフェース上に出現させ、システムが自己再帰するたびに登場する意味の曖昧性や不確定性に注目して、そこに過剰や不安定や不確実性を入れてみることに気がついたのです。 

≪070≫ ここには意味が発生すると、その意味がなんらかの席を占めようとするたびに、そこからはぐれていったり、そこに覆いかぶさってくるものがあることを示唆します。またしばらくすると、その席に入った意味とその席からはぐれた意味とが、新たなカップリングやネットワーキングをおこすだろうことが予想されます。あるいはちっとも意味が創発せずに空席だけになっていることも予想されます。 

≪071≫ こういう見方は、ぼくの編集工学的な意味論からするとすこぶるわかりやすい捉え方なのですが、ここで最後に文句をつけておきますと、実はルーマンの大著をいくつも読んでいると、この最もわかりやすいところがしだいにボケてくるのです 

≪072≫ なぜそういうふうになるのか、ちょっと不可解なのですが、これ以上のことをクリティックする気がぼくにはないので、ここでルーマンの社会システム理論案内を閉じたいと思います。ご退屈さま。 

«073»参考情報

≪074≫ (1)ニクラス・ルーマンの主著は前夜を含めて、だいたい紹介した。ここではルーマンをめぐる批評や評論や解説をほどこしたものを紹介しておく。ギュンター・シュルテ『ルーマン・システム理論:何が問題なのか』(新泉社)、クニールとナセヒの『ルーマン:社会システム理論』(新泉社)、長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』(勁草書房)、馬場端雄『ルーマンの社会理論』(勁草書房)、村上淳一『システムと自己観察』(東京大学出版会)、村中知子『ルーマン理論の可能性』(弘文堂)、佐藤俊樹『意味とシステム』(勁草書房)などだ。 

≪075≫ これらのなかでは、実はルーマン批判とルーマン擁護が相克しあっている。ぼくにはその対立点を明示する用意はないので、もっと詳しく調べたい諸君はこれらの本にジカに当たられたい。 

≪076≫ (2)リスクを語るルーマンについては前夜にも述べたので省略するが、上記の語り口でも社会システムのどの場面にリスクが生じるかは、わかってもらえると思う。「意味」がダブル・コンティンジェントに出入りするところそのこと自体に、そもそもリスクが生起するわけなのだ。ちなみにルーマンには『リスクの社会学』という著作もあるのだが、まだ邦訳されていない。 

≪077≫ (3)ルーマンの社会学の前提には、ひとつはタルコット・パーソンズがいて、ひとつはスペンサー・ブラウンがいて、ひとつはロス・アシュビーがいる。なかでロス・アシュビーの「最小多様性」がなかなかおもしろいのだが、日本ではほとんど取り沙汰されてこなかった。ぼくが知るかぎりは経営学の野中郁次郎がこの点については先駆的な評価をしていた。サイバネティクスやセカンド・サイバネティクスのこと、「キンドル」や「iパッド」の衝撃なんぞにおたおたする前に把握しておいたほうがよろしいのではないか。 

≪078≫ (4)ルーマン社会学から派生する新たな概念として、ぼくが20年ほど前に設定したのは「ほか」と「ベつ」、「よそ」と「あて」という概念だった。これについてはその問題意識の導入部を『花鳥風月の科学』(中公文庫)の8章以降に書いておいたので、興味があるなら読まれたい。ここにはぼくの「空隙」論や「隙間」論が、言語活動の”奥”の問題として提示されていると、本人は思っている。 

トロツキーと野生の蘭?

リチャード・ローティはこのAIDA(間)にいて、カント以来の“哲学さま”を傍若無人にぶっこわす。

そして、新たな知の組み替えの方法と方向を自身の好みだけでリスク・テイクする。

このやり口に当時の思想界は呆れ、祟りがないようにとローティを遠ざけてきた。

が、そこには、コンティンジェントな意味の創発と負の想像力による連帯が、ひらひら躍っていた。

おっ、これは見逃せない。何かが萌芽する。

ただし、この男、ちょっと変わっているので、多少の水先案内を買って出たい。

≪01≫  本書のタイトル『偶然性・アイロニー・連帯』の「偶然性」は、チャンスやアクシデントやオケージョンではない。英語の原題は「コンティンジェンシー」(contingency)である。 

≪02≫ 日本語にするなら「偶有性」としても「偶発性」としてもいいだろうし、また深みをこめて「本来的偶然性」とか、やや哲学的に「別様可能性」というふうに理解してもいい。もっともぼくには、前々夜にものべたようにコンティンジェンシーという用語はそのまま使ったほうが、この言葉がもつ多義的なニュアンスがいきいき活躍すると思われる。 

≪03≫ とはいえこの概念、にわかにはわかりにくい。前夜のルーマン社会学の案内(1349夜)の「ダブル・コンティンジェンシー」でおよその見当がついただろうとは思いはするが、念のため説明しておきたい。 

≪04≫  コンティンジェントであるということは、まずは偶然性や偶発性に自覚的になるということである。次に、そこにはオプションとリスクの発生とそのハンドリングが発生し、そこに自身の動向が前方に向かって投企されるということである。 

≪05≫ つまりは、自身におこった偶発性や偶然性を、その来し方と行方を情報知覚して、そのコンティンジェントな機会によって出入りした出来事・情報・知覚・思索のいっさいを新たに編集していくということ、これがコンティンジェントであるということになる。 

≪06≫ 1348夜にも書いておいたように、コンティンジェンシーは辞書的な定義では、出来事がたまたまおこったときに「まさかこんなことがコンティンジェントにおこるとは思わなかった」というふうに使う。ということは、偶発的な出来事によって付随しておこるかもしれない一連の出来事は、ことごとくコンティンジェントなのである。 

≪07≫ それゆえこの言葉には、不確実なこと、不確定なこともコンティンジェントな可能性としてすべて含まれる。生起するかもしれない可能性のすべてがコンティンジェンシーなのだ。ここには「偶然の本質」がかかわっているとともに、「生起の本質」がかかわっている。 

≪08≫ そうだとすると、システムやわれわれがコンティンジェントであろうとするとは、どういうことかといえば、次のようにパラフレーズすることができる。コンティンジェントな当事者や当該システムが新たな事態(=現在)にさしかかったときに、そこに連なる歴史や思いちがいや創発的な発見を、たとえ当初の方針や目的から軌道が逸れようともそのまま引き受けていくという偶発的投企に、当事者が当該システムがあえて向かっていくということ、それがコンティンジェントな態度や方針である、というふうに。 

≪09≫  ローティは本書において、このコンティンジェンシーをたいそうメタフォリカルに扱って、言語や自己や共同体の本質そのものにあてはめた。言語の本質も自己の本質も共同体の本質にもコンティンジェンシーがかかわっていると見たのだ。 

≪05≫ つまりは、自身におこった偶発性や偶然性を、その来し方と行方を情報知覚して、そのコンティンジェントな機会によって出入りした出来事・情報・知覚・思索のいっさいを新たに編集していくということ、これがコンティンジェントであるということになる。 

≪011≫ なぜ異例であるかということを説明すると長くなる。20世紀の構造主義、分析哲学、コミュニケーション理論の流れをあらかた説明しなければならなくなる。だからそこはとばしていくが、ともかくも結論だけいえば、今日の哲学では今日のポストモダン思想にいたるまで、言語・自己・共同体のすべてにコンティンジェントな関与を強調した哲学など、ほとんどというほどなかったのである。 

≪012≫ もしあるとすれば、たとえばハイデガー(916夜)の言説の一部、後期ヴィトゲンシュタイン(833夜)の一部、フーコー(545夜)の一部、ジャック・デリダの一部、ウィルフリッド・セラーズの一部、デヴィッド・パットナムの一部、イアン・ハッキング(1334夜)の一部、ドナルド・デイヴィッドソンの言説の一部などに、それぞれ別の説明によって試みられたにすぎない。 

≪013≫ それより、これはローティ自身が認めていることであるが、コンティンジェンシーを全面的に“思想化”しえたのはこうした思想家というより、むしろプルースト(935夜)やナボコフ(161夜)やミラン・クンデラ(360夜)といった作家たちのほうだった。 

≪014≫ だから哲学思想としては、誰も言語・自己・共同体に対して全面的にコンティンジェンシーを付与させるなんてことはしてこなかったのである。タルコット・パーソンズやニクラス・ルーマンが社会学でとりあげたことすら、例外的だったのだ。 

≪015≫ しかし、ローティはこの異例に挑戦した。それは本書の構成に如実にあらわれている。目次を見ればすぐわかる。全体が第Ⅰ部「偶然性(コンティンジェンシー)」、第Ⅱ部「アイロニズムと理論」、第Ⅲ部「残酷さと連帯」というふうになっているのだが、その第Ⅰ部は「言語の偶然性」「自己の偶然性」「リベラルな共同体の偶然性」で埋められたのだ。 

≪016≫ 言語・自己・共同体が一気通貫にコンティンジェントに語られたのである。ごくかんたんに水先案内をしておく。 

≪017≫  一つ目の「言語の偶然性」とは、言語の本質がコンティンジェントであるということだ。これは、真理が言語と別にあるのではなく、言語だけが語彙と文章によってコンティンジェントに真理をあらわしうる唯一のものだということをいう。 

≪018≫ このことを最初に指摘したのは分析的言語哲学者のドナルド・デイヴィッドソンで、彼はすべての意味の出現は「パッシング・セオリー」でしかあらわれてこないと言った。 

≪019≫ パッシング・セオリーとは「つかのまの理論」とでも訳せるもので、言葉が「たまたま」と出会って放出されるそのときどきの「つかのま」の様子のことをさしている。ひらめき、集中、つまづき、乱用、誤用、顔面の緊張、会話、咄嗟の発言、つぶやき、ひょんな沈黙、らしさ、思いつき、ニュアンスの運びかた……、そして「ありとあらゆるメタファー」が、そのときどきの「つかのま」においてコンティンジェントに、それらを新たな意義に向かわせるというのだ。 

≪020≫ デイヴィッドソンは、こう書いていた。「互いの話を理解したいのなら、二人にとって必要なのは発話と発話のあいだでパッシング・セオリーを収束させる能力を発揮することだ」。ローティはこのパッシング・セオリーを発展させた。 

≪021≫ もっとも、言語がコンティンジェントな機会をえて思想の本来を開くという見方は、ぼくからすれば編集工学的方法による「意味の掴まえ方」や「意味の創発の仕方」そのもので、なんらめずらしい考え方でもない。編集術とはほぼそのことをこそ重視する。 

≪022≫ けれども今日の哲学事情のなかでは(とりわけ分析哲学以降の事情のなかでは)、こういう見方をことさらに主張することは、いまだ格別の異例に属するものなのである。それはローティがここからさらに進んで、「哲学・芸術・科学の歴史はすべからくメタファーの歴史だ」と断平として公言するにいたったからでもあった。思索や表現の歴史をメタファーでくくるなんて、とんでもなかった。案の定、そういうローティを、哲学界はいったん冷笑しようとさえしたものだ。 

≪023≫  二つ目の「自己の偶然性」については、ニーチェやハイデガーがすでに、個体的で偶然的なものこそが普遍的で必然的だということを暗示していた。ニーチェは「真理はメタファーの一部に属する」とまで言っていた。 

≪024≫ ローティはこれらをヒントに、「メタファーによる再記述」こそが思想の端緒と方向を示すものであって、さらには「これまで一度も使われなかった言葉を用いることがコンティンジェントな創造性ではないか」という見方を提供した。これはわかりやすくいえば、「理性から発する理論には本来的なコンティンジェンシーが抜け落ちている」という指弾であった。 

≪025≫ こんなこと、当然である。発想する自己や構想する自己は、発想や構想の立案のなかから生じてくるのではなく、そのなかの“欠けたモデル”によってこそ充填されるのだ。おそらくローティもそういう見方に加担したのであろう。「メタファーによる再記述」とはそのことだった。 

≪026≫ しかし、このような見方もぼくにとっては必ずしもめずらしいものではない。清沢満之(1025夜)の「二項同体」「ミニマル・ポッシブル」や九鬼周造の「仮説的偶然」「悲哀にひそむ偶然」がそうであったように、あるいはまた、チャールズ・パース(1182夜)の「アブダクション」やマイケル・ポランニー(1042夜)の「暗黙知」に対するアプローチやグレゴリー・ベイトソン(446夜)の「相補的生成」やアーサー・ケストラー(946夜)の「偶然的本質」に対する接近の仕方がそうであったように、コンティンジェントな偶然という“feel”(感じ)を媒介にしない存在的な自己の印画紙なんて、何も現像ができていない自己写真なのである。 

≪027≫ すでに九鬼周造は日本語の「自己」という概念にひそむ「自ら」という作用性を、「みずから」から「おのずから」への展出が含まれるとまで見抜いていたものだ。  

≪028≫  三つ目の「共同体の偶然性」については、社会学的には「自由」にかかわるコンティンジェンシーに関係があるのだが、これについては離学衆ほどにはローティはあまりうまく説明できていない。というのも、ローティは「自由よりもコンティンジェンシーを」と言いたいはずだろうに、そう、はっきり明示していないからだ。 

≪029≫ そのためこの議論においては、ローティが一見、文化相対主義の視点に立ったか、あるいはジョン・ロールズの自由や正義の論議やアイザイア・パーリンの「消極的自由」の視点を継承したかと思わせる。「消極的自由」とはパーリンの用語で、「積極的自由」が「~への自由」(to)であるのに対して「~からの自由」(from)を意味する。 

≪030≫ たしかにローティにはそういう相対主義っぽいところがある。それを非難する分析哲学やフーコー派やデリダ派も少なくない。しかしローティはそれでも突っ張った。そして結局は、共同体における「偶然性を承認することとしての自由」を謳ったのだ。これは、自由なんて絶対的なものはありっこないという態度であって、それよりもコンティンジェンシーだと言っているのに等しい。 

≪031≫ このこと、本書のなかでのローティ自身のいささか遠回しの説明によると次のようになる。(1)「共同体のコンティンジェンシーは詩人や革命家が生きられる社会をつくる」。(2)自分の言語や意識や倫理の最高次の産物とは、コンティンジェントな産物であると思える社会が自由な社会だとみなせることだ」。(3)「コンティンジェントに生まれたメタファーが字義通りのものになったとみなすこと、それをこそリベラル・アイデンティティであり、リベラル・ユートピアというものだ」。 

≪032≫  だいたいは以上のことが、ローティが「言語・自己・共同体」のそれぞれをコンティンジェントに語ろうとしたときの独得の航跡である。 

≪033≫ どうだろうか、わかりにくいとしたら、むろんぼくの水先案内要約にもよるが、ぼくのせいだけではない。ローティはそういう言い回しを好むのだ。 

≪034≫ なぜ、そんな「わかりにくさ」を好むのか。そこにローティの思索と表現の「あいだ」に本質的空隙があるからだ。「あいだ」(AIDA)があるからだ。このこと、ローティを“感じる”にはとても重要なところなので、少しく説明しておきたい。 

≪035≫ 次のようなエピソードがある。本書の訳者たちの勧めにしたがって、未訳の『哲学と社会的希望』(1999)に収められている『トロツキーと野生の蘭』というローティ自身の自伝的ひとこまの話を紹介しよう。 

≪036≫  リチャード・ローティの両親は戦前の共産党員だった。両親はいっときトロツキー(130夜)の秘書を匿ったことがあった。少年ローティはそういう両親が誇らしかった。その両親の影響らしいのだが、ローティは12歳のころには、「人間としての大事なことは、社会的不正義との闘いに自分をささげることである」という仄かな確信をもつようになった。  

≪037≫ しかし他方では、12歳のローティはニュージャージー北西部の山に自生する野生の蘭の美しさにとても惹かれていた。その途方もなく官能的な美しさには「うしろめたさ」を感じるほどだった。 

≪038≫ では、「トロツキーと野生の蘭」をともに抱くにはどうしたらいいのか。W・B・イエーツ(518夜)は「リアリティと正義を単一のヴィジョンのうちに包含する」と言ったけれど、そんなことは可能なのか。 

≪039≫ 戦後直後の15歳(1945)、早熟のローティはシカゴ大学に入った。あのハイエク(1337夜)やフリードマン(1338夜)のいたシカゴ大学だ。ローティは大学にいるあいだずっと、「トロツキー」と「野生の蘭」の共生共存の方法を模索した。公共的な社会正義にまつわる思索と行動と、私的でエロティックなオブセッションの胚胎と露出を、どのように和解させたらいいのかという悩みだ。 

≪040≫ 当時のシカゴ大学の哲学科では、レオ・シュトラウスが学生の人気を集めていて、「安定した絶対的なもの」が求められていた。そうしたなか、ローティは最初こそプラトニズムのなかで単一のヴィジョンを見いだすことを課してみたのだが、とうてい「トロツキー」と「野生の蘭」は和解してくれない。しだいにデューイらの相対主義に惹かれ、「合理的な確実性」にたいして疑いをもつようになっていった。 

≪041≫ 大学での成果は得られなかったのだ。失望したローティをつねに慰めたのは自由な読書だった(いまでもローティは「自分は読書家にすぎない」と言っている)。なかでもヘーゲルの『精神現象学』とプルーストの『失われた時を求めて』(935夜)が心をゆさぶった。ヘーゲルからは「時代を思想のうちへ」という世界読書法を学び、プルーストからは「コンブレの有限性」がもたらす触知感覚を学んだ。これらは、われわれは「戻らない時間」(歴史)に対してもコンティンジェントな参加(commitment)をしうるということを、ローティに教えた‥‥。 

≪042≫  ざっとはこういう自伝的エピソードのひとこまだが、これでなんとなくはリチャード・ローティの「わかりにくさ」の契機、いやむしろ「わかりにくさ」に厭わずに向かうという意図のようなものが見えるのではないかと思う。 

≪043≫ ちなみにシカゴ大学のあとのローティは、アメリカ陸軍で謎めく勤務についたのち、ウェルスリー大学やプリンストン大学で助教授を務め、その後はプリンストン、ヴァジニア大学で哲学教授をするかたわら、ようやく1981年に『哲学と自然の鏡』(産業図書)において、積年の「トロツキーと野生の蘭」問題の“原因”を、現代哲学の現状を縦横無尽に告発することで鬱憤をはらしていくというふうになっていく。 

≪044≫ その間、パース(1182夜)とデューイのプラグマティズムに近いものを、いったんハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、フーコー、デリダ、セラーズ、パットナム、イアン・ハッキング、デイヴィッドソンらに感じて接近し、しかしそれではやはり「トロツキーと野生の蘭」問題は解決できないと見るや、それらの言説の細部に分け入って、その言説に入ったり出たりするプロセスそのものを、自分自身がコンティンジェントになって書くとはどういうものかという課題に向かっていったのである。 

≪045≫ したがって本書はその課題への決着をつけるべく、いくつかの著作ののちに辿りついたローティ独特の“方法の書”であったといえる。しかし、その方法はすこぶるアイロニーに満ちることになる。 

≪046≫ 方法そのものがアイロニズムなのだ。なぜなのか。そのことについては本書の冒頭に、プラトンが「公正であることがなぜ利益にかなうことになるのか」という問いに答えようとし、キリスト教は「完全な自己実現は他者への奉仕を通じて達成できる」と考えようとしたが、この二つの背後にひそむ「公共性と私益性との融合の試み」は決して解決しないであろうと述べていて、ローティの方法があえて「アイロニー」のスタイルをとりこむことの必然が予告されている。  

≪047≫ 本書の第Ⅱ部が「アイロニズムと理論」となっていて、そこでプルースト、ニーチェ、ハイデガー、デリダが検討されながら、アイロニーには「見えない連帯」が隠れていると言い切った。この書きっぷりに、ぼくには“方法の魂”の一端が伝わってくる。 

≪048≫  さてところで、このようなリチャード・ローティではあるのだが、この風変わりな哲人については、実はいまもって毀誉褒貶がはなはだしい。評価が定まらない。最も大胆で斬新なプラグマティストなのか、他者の言説を巧みに操るまったく新しいタイプの新保守主義者なのか。超分析哲学者? それとも反哲学者? いまだに騒々しい議論の渦中にいるままなのだ。 

≪049≫ 評価が定まっていないのは、ぼくにはそれこそが大いなる勲章だと思えるが、世の中ではそうはいかない。思想界は、ローティに振り回されることが気にいらないのだ。それは『哲学と自然の鏡』が出版されたときのセンセーションからのことだった。 

≪050≫ ローティはそんなにおおげさな振り回しをしたのだろうか。どうもそのへんのこと、よくわからない。 

≪051≫ ぼく自身のふつつかな感想をいうと、初めて『哲学と自然の鏡』(1981)を読んだときは、分析哲学を超える分析哲学者の風情や、今日の哲学議論の多くがあいかわらずカント以来の「基礎」(foundation)にばかり回帰しつつけるのを、一見瑣末で物語っぽく見える「会話」(conversation)や「共生」(conviviality)のほうに振ろうとしているスタイルを感じた程度だった。でも、ここにはなんだか新しい言いっぷりがあるなとも感じた。  

≪052≫ 室井尚君(422夜)らが訳した『哲学の脱構築』(お茶の水書房・原著1982)のときは、『哲学と自然の鏡』で感じた“洒脱的思索”ともいうべき風情やスタイルが、フーコーやデリダに席巻されたアメリカの思想界を憂いてのことだっのたのか、そうかそうかという印象と、もうひとつは、ローティの言うプラグマティズムはデューイというより、チャールズ・パースのアブダクティブな思索態度に照準があるのだろうことを感じた。もっとも肝心のパースについての突っ込みが少ないのが気になった。   

≪053≫ それからもうひとつ、リオタール(159夜)によって終焉の鉄槌が下された「物語」の復活を説いているようにも感じた。 

≪054≫  そんな感想ばかりで、いっこうにローティが毀誉褒貶される理由の見当がつかなかったのだ。ということはぼくがローティを理解したとは言えないということだろう。 

≪055≫ むろん多少のことは見えていた。また友人たちからのヒントもあった。たとえば『哲学の脱構築』の解説を担当した吉岡洋が、ローティは「変更可能な枠組」を提供しようとしているのだろうとか、「説明と解釈のあいだ」に照準をおいているのだろうと説明しているのはヒントになったが、ぼくの怠慢でその後のローティを追うことはしないままだったのだ。  

≪056≫ 20世紀が幕を降ろしたころ、日本にもやっとローティ論が登場した。渡辺幹雄の『リチャード・ローティ』(春秋社)である。大册だ。たいそう濃ゆい内容で、日本にもこういう過激で広範な議論ができる研究者がいることが嬉しかったのだが、その細部にも強靭な議論を及ぼす力にはややたじたじにさせられた。 

≪057≫ しかもここでのローティ像は、一方ではクワイン、セラーズ、デイヴィッドソンらをブレンドする“稀代のソフィスト”で、他方ではポパーの改良的社会工学、ハイエクの自由市場主義、ポランニーの科学共同体、バーリンの価値多元主義、オークショットの社交体(ソキエタス)的市民結社を自在に交ぜあわせる思想ミキサーとしての“ポストモダンの魔術師”といった、半ばはその腕前が称揚されているのだが、半ばはあきらかに揶揄された評判者になっていて、うーん、なるほど、そういうものなのかと思うしかないものだったのだ。 

≪058≫ これでは、さあ、それでどうするとはぼくのほうは決められない。いや、ぼくは現代哲学の事情にはめっぽう疎いので(今後とも詳しくなりたいとも思わないけれど)、そもそもこんなふうにローティが取り沙汰されているとも取り沙汰できようともは思わなかったのだ。 

≪059≫  というふうに、ローティについてはまだまだ議論すべき余地があるようなのだが、あらためて断っておきたいのは、ぼくが注意を促したかった今夜の狙いは、あくまで「コンティンジェントな可能性」を拓こうとしたローティの試みなのである。 

≪060≫ ということは、前夜に話題にしたニクラス・ルーマンの「ダブル・コンティンジェンシー」との関連を、このあとの「千夜千冊」連環篇のために考えておきたかったということなのだ。話をそこに戻しておわりたい。 

≪061≫  ルーマンが、「意味」こそが社会システムの自己参照的な特徴を支えているモノとコトの正体で、それは不安定で不確実であるがゆえに、リスクとしての意味になっていると考えていたことは、すでに前夜に説明した。意味の創出にはリスクが伴っていて、そこにコンティンジェンシーがはたらいているということである。 

≪062≫ ルーマンはこのようなことを「コミュニケーション」の問題としてまとめようとした。そのため、意味がオプションを選択しながら社会システムにあらわれてくるところにコンティンジェンシーをおいた。そして、そのような“しくみ”はすこぶるオートポイエティックであろうと見た。またルーマンは、そうしたオートポイエティック・システムでは、言語がメディア的になっているとも指摘していた。“メディア言語”という言い方もしていた。 

≪063≫ リチャード・ローティはルーマンには一度も言及していない(と、思う)。関心ももっていないだろう。しかしながらぼくには、何かがどこかでつながっていると見えた。 

≪064≫ たとえばルーマンが言語をメディアとみなし、そこにダブル・コンティンジェントな“しくみ”の歯車を見たことである。ローティもいわばメディア言語がすこぶるメタフォリカルなもので、そうであるがゆえに「意味」(哲学)はつねにコンティンジェントでなければならないとみなしたのだ。加えてローティは、そのようなコンティンジェントな「メタファーの再記述」はつねに社会歴史的なものを継承するということに気がついていた。 

≪065≫ ただ、プラトン=カント的な哲学やその延長では、そのようなメタファーやコンティンジェンシーが生かせないと結論づけていた。そこでローティは分析哲学の現状分析からその限界の告発をすることにしたわけだ。 

≪066≫ ローティがこのような試みに向かったのは「トロツキーと野生の蘭」の扱いに困ったからでもあったけれど、そこには、ルーマンがバシュラールのいう「認識の障害」からの脱出をはかろうとしたことと、どこか共通のものがあるようにも思う。ルーマンにおいてもローティにおいても、社会学が社会システムに言及し、哲学が哲学システムに言及するには、そこに生ずる気配やノイズにこそ気がつかなければならないのである。「認識の障害」は逆転できるはずなのである。 

≪067≫ こうしてルーマンはそこにダブル・コンティンジェンシーという「はずみ」を切り出し、ローティはそこにコンティンジェントな「アイロニー」とコンティンジェントな「連帯」の萌芽を見たわけである。本書が『偶然性・アイロニー・連帯』となっているのは、そういう意図だった。 

≪068≫  さて、では、このコンティンジェントな思想はどういうふうになっていくのか。行く先はかなり多岐になるだろう。 

≪069≫ たとえば、そもそもルーマンやローティも模索した「ポストモダン思想」の行方がどういうものになっていくのかとか、そこに覆いかぶさっている「市場主義」がどういうものになっていくのかとか、そこにまたがる「オプション」の思想はどういうものであるのかとか、「新たな経済学」の可能性はありうるのかとか、そっちのほうの話になっていく。今後の連環篇に期待してほしい。 

≪070≫ 【参考情報】 

≪071≫ (1)リチャード・ローティ(1931~)の著作で、上記したもの以外で翻訳されているのは、『連帯と自由の哲学』(岩波書店)くらい。これからきっとラッシュしてくるにちがいない。 ローティが「リベラル・ユートピア」というふうに、しきりに「リベラル」という用語を使っていることについて一言。ローティの言う「リベラル」とは、「残酷さこそわれわれがなしうる最悪のことだと考えること」、それがリベラルなのである。残酷から最も遠のくこと、それがリベラルであり、当初の偶然性(コンティンジェンシー)を認めること、それが自由なのだ。自由とは、まずもって偶然性の承認なのである。このローティの考え方はジュディス・シュクラーから借りている。 

≪072≫ (2)本書『偶然性・アイロニー・連帯』には、巻頭エピグラフにミラン・クンデラ(360夜)の『小説の作法』からの引用文がおかれている。フランソワ・ラブレーの造語「アジュラス」についてクンデラが敷延した箇所で、笑えない者たちを意味するアジュラスを、笑えない者たちはその意味を理解できっこないという象徴的な指摘だ。ここに、ローティが本書にこめたコンティンジェントな意味論が巧みに暗示されていよう。 

≪073≫ (3)上には書かなかったが、本書『偶然性・アイロニー・連帯』には、ディケンズ(407夜)、プルースト、ジェームス・ジョイス(999夜)、ナボコフ、ジョージ・オーウェルといった文学者についての感想がかなり深く述べられている。ローティはひとつには、これらの文学には「人間が犯す残酷」の本質が哲学以上に記述されていることを、もうひとつには、ローティが「物語」によるナラティブ・アプローチの可能性に哲学的記述以上の可能性を感じていることを強調したかったのであろう。 

≪074≫ ローティが「物語」に可能性を見るのは、人間には「ファイナル・ボキャブラリー」(終局の語彙)とでもいうべきものが潜在しているとみなしているからだった。ファイナル・ボキャブラリーは地域的で、人生的である。ローティはそこには「インカーネーテッド・ボキャブラリー」(インカーネーションする言葉群)も「フェロー・コンティンジェンシー」(自分と同類の偶然性)も潜在すると見ている。それゆえ、このことを鮮烈にするには、ローティの言う「メタファーの再記述」が必要なのである。これを「リアレンジメント」(編みなおし)とも言っている。まさに「編集」である。 

≪075≫ (4)渡辺幹雄の『リチャード・ローティ:ポストモダンの魔術師』(春秋社)は、上にも書いたように、たいへん濃ゆい。腕に自信のある者はぜひ読まれるといい。 

≪076≫ ところで、この本にはいささか気になることも紹介してあった。ローティには未訳の“Achieving Our Country”(1998)があって、そこではローティが政治的党派性をあきらかにして、学界左翼と文化左翼を蹴散らして「左翼による左翼批判」を徹底しているばかりか、アメリカというシステムの終焉を予見しつつ、新たな政治思想を用意しているかの印象を与えるようなことを書いているというのだ。これだけを見るとローティは「おやかまし」であって、かつ度し難い新保守主義思想を模索しているようにも思えるのだが、さて、どうなのか。ちなみに“Achieving Our Country”とは、ジェームズ・ボールドウィンの言葉からとったもので、「我々の国家を大成する」という意味になる。 

≪077≫ なおローティについての評論は、大賀祐樹の『リチャード・ローティ』(藤原書店)もあり、こちらは渡辺のもの以降のもので、1980年生まれの著者の温度を感じるリベラル・アイロニー論になっている。また、パースの研究者でもあるリチャード・バーンスタインの『手すりなき思考』(産業図書)の2章ぶんにもあてられている。ハイデガー、フーコー、デリダ、ハーバーマスと論じたうえでローティを扱い、明日のプラグマティズムの可能性をさぐったものだ。『手すりなき思考』とはハンナ・アーレント(341夜)の言葉だ。 

≪078≫ (5)ローティが大きな影響うけたドナルド・デイヴィッドソンについて一言。フレーゲ、タルスキ、クワイン、クリプキ、パトナムを継承してなお斬新で精緻な意味理論(theory of meaning)を展開したデイヴィッドソンについては、まだまだ十分な理解が得られていないように思う。とくに「メタファー」についての卓越した思考が辿りきれていない。邦訳には野本和幸らの勇気によって『真理と解釈』『行為と出来事』(勁草書房)があるが、きわめてシステマティックな論述で構成されていることもあって、すこぶる難しい。 

≪079≫ デイヴィッドソンが考え抜いたことは、「どのようにして一人の話者は、他人の発する言葉について、それがどんなに些細なものであっても、ともかく理解することができるのか」ということを体系的に示すにはどうしたらいいかということだった。そこで「ラディカル・インタープリテーション」というモデルを設定し、見ず知らずの二人がどのように相手の言うことを理解していくかという考察を徹底し、そこに「図式」(scheme)と「実在」(reality)の図式の交換を見定めてていったのである。それはそれは天才的な仕事であった。そのうち千夜千冊することがあるかもしれないので、期待しないで待っていてほしい。 

≪080≫ ところで、デイヴィッドソンを理解するにも、イアン・ハッキング(1334夜『偶然を飼いならす』)が、いい。『言語はなぜ哲学の問題になるのか』(勁草書房)がいろいろの示唆を与えてくれる。 

意味を与えるのは人である。感動のど深さ加減による? 味覚の喪失に呼応する。意味は用語に吸い取られ、売買されていく。共感は負担となり、リラクゼーションには繋がらない。昇華・開放に

ウォールストリートの最上階でクォンツたちがブラック・スワンの雛型を確率微分方程式でつくりあげていたころ、ドイツのポストモダン社会学の片隅では、意気のいいコンティンジェント議論が交わされていた。

その主人公は「意味」である。

そこにはルーマンのダブル・コンティンジェンシーを一気にデジタル社会の議論で切り抜けようという、たとえばノルベルト・ボルツの試みが発火していた。 

≪01≫  いま、世界が病気にかかっているとしたら、それは「意味」が失われているからだ。いま、世界が再生しようとしているなら、それは新たな獲得の方法によって「意味」の意味が捜し求められているからだ。 

≪02≫  ドイツ語の「意味」(Sinn)はもともとは「旅する」とか「進路をとる」という古語だった。だとすると、まさに「新たな方向を示す意味」が、いま見失われたままなのだ。 

≪03≫  これを「ヴィジョンの喪失」だと思ってはいけない。ヴィジョンはさまざまな「思考」のフィギュアやプロフィールを組み合わせなければ、まず生まれない。その思考は何によって支えられるかといえば、時間の旅をしてきた「意味」によって支えられてきた。その意味は民族や風土や歴史といっしょくたに育ってきたものだ。 

≪04≫  ところがそれが、いつのまにか消されたか、何かによって取り替えられたか、どんどん忘れられたか、軽々しく扱われるようになった。意味で「価値」を示せなくなっていた。企業も学校も国家も共同体も家族も、気がついてみると「組織化された無知」のフリをするようになったのだ。あるいはグローバリズムがもたらしたギョーカイ用語だけで価値の説明をすますようになったのだ。 

≪05≫  これは「組織化された無責任」と言ってもいい(ベック:1347夜参照)。ノルベルト・ボルツはそのことをまとめて「意味社会の喪失」あるいは「意味に餓える社会」と名付けた。 この意味喪失社会では、それなら意味に代わって何が浮上しているのかというと、それが「リスク社会」(ベック)や「スポーツ社会」(ナイトハルト)や「体験社会」(シュルツェ)なのである。 

≪06≫  本書はドイツ・ポストモダン派の旗手が綴った一滴の快著だった。ボルツは本書の前に『仮象小史』『批判理論の系譜学』『カオスとシミュレーション』『グーテンベルク銀河系の終焉に』(いずれも法政大学出版局)、および『制御されたカオス』『カルト・マーケティング』といった著作などをものしていたらしいのだが、ぼくは前2冊以降のものは読んでいない。本書のあとに何を書いたかも知らない。 

≪07≫  しかし本書や『グーテンベルク銀河系の終焉』を読んだかぎりは、なかなかの腕前だ。ポストモダン議論についてはフランス派やアメリカ派にばかり付き合わされてきて、少々うんざりになっていて、なかでデイヴィッド・ハーヴェイの経済地理学的なポスモダニズム論くらいが勝ち残ったように見えていたのだが(そのうち千夜千冊します。もうちょっと待ってね)、どうしてどうしてドイツ派も、ボルツを見るかぎりは、骨がある。とくにハーバーマスに噛みついているところは、おもしろい。 

≪08≫  それは、そうかもしれない。なにしろこの国にはマルクス(789夜)、ニーチェ(1023夜)、カフカ(64夜)、マッハ(157夜)、ハイデガー(916夜)、ハイゼンベルク(220夜)、ベンヤミン(908夜)、アドルノ(1257夜)がいて、それからハーバーマスやウルリヒ・ベックやニクラス・ルーマン(1349夜)に及んできたのだ。意味と思考のフィギュアとプロフィールを生産しつづけたのは、なんといってもドイツだったのである。 

≪09≫  それがナチスと敗戦でしばらく控えていただけなのだ。そこには思想のリスクと戦争のリスクがたっぷり用意されていた。ボルツのような快速の走破者が出てきても当然だった。 

≪010≫  ありていにいえば、今日の社会の特質は「複雑性」と「不確実性」(または不確定性)と「不透明性」にある。この3つは今日の社会だけではなく、近代社会が確立した当時からの特質だ。  

≪011≫  社会が複雑になったというのは、事態やシステムがこみいってきたというだけのことではない。そこに自分が組みこまれて自己包摂的で自己準拠的になったため、自己と事態の見分けがつきにくくなったからである。GPSとネットにつながったケータイが、そのことをよくあらわしている。そのため、なんであれ「編集なき情報」(意味を問わない情報)に頼ったまま、その複雑性のなかにぷわぷわ浮かんでいるしかなくなったということが、複雑な社会の属性になってしまったのである。 

≪012≫  仕事も複雑なものに向かうしかなくなっている。一番わかりやすいのは電子システムを設計する仕事と、そのミスをデバッギングする仕事が、ほぼ等量のお仕事になっているということだろう。これを、精神的障害の数のぶん、それを知ってもらうための情報とそれを手当てするための人間の数とがだんだん等量に向かっているという例におきかえてもいい。 

≪013≫  なぜこんなふうになるかといえば、世の中の複雑性は不確実で不確定なものによって律せられているからだ。ということは、そこには必ずや「偶然」が出入りするようになったということで、そこにリスクとオプションが名状しがたく抱き合わせになっているということだ。つまりはどんな仕事でも、「偶然が必然になっている」。 

≪014≫  複雑なしくみにコンティンジェンシーがはたらいているということは、複雑で不確実な事態やシステムには“自分入り”のコンティンジェンシーが動いているということだ。ボルツはそこからこそ「意味」が生まれるとした。「意味は複雑性の自己記述だ」ともみなした。   

≪015≫  すでに前々夜でも説明したように、ルーマンもまた同じことを見抜いていた。そこにはオートポイエーシスがはたらいて、社会システムがコンティンジェンシーに出会うたびに意味を生成していると考えた。いずれも高度な社会学だった。 

≪016≫  しかし、このような見方は容易にはとりにくい。難解でもあろう。そこで、複雑な社会に誰彼なく組みこまれることになった多くの者たち(国家・企業・経済機関など)は、ごくごく安易な二つの“逃げ”を打った。 

≪017≫  いずれにしても現代のシステム社会では、国家も組織も経済も、自分ではコンティンジェンシーから「意味」を生み出せなくなったのだ。そのかわり、コンティンジェントなリスクだけを相手にぐるぐるまわりに押しつけた。 

≪018≫  かつて「意味」は聖なるものの顕現によって示されていた。これがルドルフ・オットーやミルチア・エリアーデ(1002夜)の考え方である。この考え方は、いまでも宗教や神学や民俗学に綿々と生きている。 

≪019≫  この考え方が生きているところでは、不確実性も不確定性もそのまま承認される。そこでは、信仰者は自分がコンティンジェントであることを疑いもしない。そもそも宗教というもの、世と人のあいだに出入りするいっさいのコンティンジェンシーを承認してあげる“魔法の学校”なのである。 

≪020≫  こうしてユダヤ=キリスト教は、世界で最も強力な「意味の市場」をつくりあげるにいたったのだ。ところがそういう宗教でも、一番重大なところは「意味」に転化できないできた。ヌースとか福音とか真如とかマンダラとしか言うしかなかった。 

≪021≫  そのうち近代国家が確立してくると、その歴史的コンティンジェンシーと近代的個人のあいだの認知ギャップをめがけて、機能や統計や自己責任や代理業務や機械が次々にさしはさまれていった。それがいつのまにか拡大拡張し、そのままコンピュータ時代に突入することになった。ついでに“救済のふりをした民主主義”や“人間の顔をした社会主義”が綿密に組み立てられていった。けれども、なかで最も巨大化したのが「意味を失った市場」なのである。 

≪022≫  むろんそういう市場のような装置に、本来の意味の歴史があるはずはない。意味喪失社会に代わるものばかりが、体よく、効率よく、確立されていったのだ。 

≪023≫  しかも、この装置の担い手は「はいはい、あなたは、みなさんという個人というものですよ」と信じこまされた。この不幸で、新たな宗教者扱いをされる担い手は、こともあろうに「インディビデュアル」(分割できないもの=個人)とさえ呼ばれ、すっかりおだてあげられることになったのだ。 

≪024≫  かくしてもはや、世の中から意味のカリスマも意味のスターもいなくなった。もしもそんなことを標榜する者がいれば、たちまちカルト主義者とか狂信者とか変人とかと例外者扱いされた。 

≪025≫  けれども社会というものはこれでは困るから、そこで新しいカリスマやスターをつくりあげることになった。たとえば映画スター、たとえば経営者、たとえばスポーツマン。かれらは新たな意味実現のためのシンボルなのである。これなら他の多くのインディビデュアルたちも、この新たなシンボルをめざして自己努力してくれる。  

≪026≫  が、こうなると、もう、本来の意味なんてどうでもいいわけだ。サクセスと成長と個性化だけが、「意味がつくる文脈」に代わるあらゆるシナリオのプロットになればいい。マスメディアはこれに乗っかった。 

≪027≫  さすがにハーバーマスやルーマンらはコミュニケーショの本来と行為の本来に意味を取り戻そうと考えたけれど、事態はとまらない。かえってコミュニケーションは通信の自由の、行為は経営や自己の、実現のためのパフォーマンスだとみなされるばかりとなったのだ。 

≪028≫  知覚にはゲーティングというものがある。知覚が刻みこまれるたびにゲートを通って、印象が強調されることをいう。 

≪029≫  かつてウンベルト・エーコ(241夜)は、知覚が思考や意味を獲得するプロセスにも、このゲーティングがあるはずだと主張した。そのゲートをちゃんと組み立てなおしさえすれば、世界はいつだって世界像(ワールドモデル)を取り戻せると主張した。その通りであろう。 

≪030≫  一方、今日の社会にも今日のシステムにも今日のネットワークにも、いろいろなゲーティングが設(しつら)えられている。ただしかし、この社会やシステムやネットワークの中のプロセスのゲートでは、何かが必ず「意味の身代わり」をする。また「肩代わり」をする。問題は、その身代わりの「身」、その肩代わりの「肩」は何なのかということだ。 

≪031≫  これをたんに手続きとかオペレーションとかマニュピレーションというふうに見てはいけない。それはデジタル・エンジニアが打つアルゴリズミックな“逃げ”の説明だ。そんなバカなことはない。どんなゲートも、本来の意味の代わりのエージェントか、擬似エージェントになっているはずなのだ。 

≪032≫  そうであるにもかかわらず、これらの「身」や「肩」をいくら集めても世界像を再構成してはくれない。してくれるのは、高速の検索だけなのだ。このことをアルノルト・ゲーレンは「こうして意味への問いは棚上げされるのだ」と言った。ニクラス・ルーマンは「かくて意味喪失を克服したいという要求だけが残った」と言った。 

≪033≫  もっともずっと前に不思議の国のアリスは、こう言ったものだ、「もしもしそこに意味がないのなら、ずいぶん仕事の節約になるわ。だってそれなら意味を捜さなくていいんだもん」。 

≪034≫  そうなのだ。意味を問いかけるなんて、このポストモダンな世の中では、自分は迷い子になりましたと言っているようなものなのだ。意味や思考は、とうてい外部に委託できるものではなかったのである。 

≪035≫  ボルツは本書の後半ではメディア社会をとりあげる。その見方は少しおっちょこちょいではあるけれど、一貫している。テレビもウェブも、意味と無意味を、同意と反意を、質問と解答を区別なく運ぶということだ。 

≪036≫  いくらテレビがクイズ番組で「知識」を提供しようとしても、視聴者はそこに提示された「正しい」と「まちがい」を憶えてはいられない。コンピュータもネットワークも、どれが質問でどれが解答であるかを、自分ではゼッタイに見分けない。コンピュータが得意なパターン・マッチングには「意味」は置き去りにされているからだ。  

≪037≫  しかしそれでもなお、デシタル・メディアは意味社会を変えていく。高速・大容量に加えて、そこにはインタラクティビティがあるからだ。互いに情報をやりとりさえしていれば、それで仮構の意味社会が維持されていると思いこめるようになったのだ。 

≪038≫  けれども、このインタラクティビティは実はつながってはいない。たとえば、至便性と安全性を求めるユーザー、個人データの軌跡を知りたがる企業、規制をめざす政府(とくに中国のような政府)、ウィルスを恐れないハッカー、ネットオークションに大事なものを売り出すお母さん‥‥。これらはズレあっている。決してつながらない。 

≪039≫  これは、今日の社会が本当の「意味」で社会を築いてはいないということなのである。共通項はグローバル・ルールだけ、あとはローカルな才能とローカルな技術が沸騰していながらも逼塞しているということだ。  

≪040≫  でも、だからといって寂しくはない。ケータイとノートパソコンとアイパッドくらいがありさえすれば、「意味」でつながらなくたって、どんな情報にも困らないからだ。システムやネットワークは、決して難問な「お題」など出してはこないのだ。 

≪041≫  それゆえ、もしも今日の社会に本当の「意味」の担い手たちがいるとしても(当然、人間に心や意識や言語があるかぎり、本当の担い手はいくらでもいるのだが)、その担い手はネットによってかえってもっと見えないところに引き下がらざるをえなくなったのだ。じゃあ、諸君、どうする? 

≪042≫ 【参考情報】 

≪043≫ (1)ノルベルト・ボルツは1953年の生まれ。ベルリン自由大学のヤーコプ・タウベスのもとで宗教哲学を修め、自身はアドルノ美学で博士号を取得した。両大戦にはさまれた時期の哲学的ロマン主義の研究で著作テビュー(『批判理論の系譜学』)したのちは、上記に紹介したような著作をたてつづけに書いたようだ。1992年からはエッセン大学のコミュニケーション学の講座を担当した。 ちなみにボルツの考え方の多くは、ぼくにはベンヤミンこそが先取りしていたと思われるのだが、ボルツ自身はそのベンヤミンをアドルノが引き取った方法(否定の弁証法)が気にくわないらしい。 


≪044≫ (2)上には書かなかったが、ボルツのポストモダン論は、ポストモダン社会では既存の理論が“製作”した「モダンな意味」に足をとられないほうがいいというふうにもなっている。それよりむしろ徹底的にネットで言葉を交わして、加工・訂正・編集をしていったほうが、かつての「本来の意味」に近づける可能性があるというような、そういう判断にもなっている。 しかし、デジタル・メディアやコンピュータ・ネットワークの現状からすると、これだけでは足りないだろう。ぼくの考えでは、システムやネットワークにも、そろそろメタテキストかワールドモデルが装填されるべきなのだ。ただし、それは必ずしも公開されたり商用される必要はない。クラブ財になったままでもいい。  

≪045≫ (3)ボルツとともに、ひとつはヴィレム・フルッサーの『サブジェクトからプロジェクトへ』『テクノコードの誕生』(いずれも東京大学出版会)を読まれるといい。 また本書の訳者の村上淳一は法学史を専門とする法学者だが、めっぽう柔らかい。『仮想の近代』『現代法の透視図』『法の歴史』(いずれも東京大学出版会)を覗いてみられるといい。 

≪01≫  プリゴジンとブリュッセル学派によって打ち立てられた散逸構造論がもたらした衝撃は、いまなお科学と思想の鳩尾をぴくぴくさせている。そのため手足が痺れるときもあるけれど、その振動はそこそこ心地よい。その心地よさは、それまで夕焼けや波打ち際や動物ドキュメンタリーを眺めているのは好きだが、科学には疎かったという者たちにも波及した。 

≪02≫  われわれは長いあいだにわたって、ひとつの大きな疑問をもってきた。地球は宇宙の熱力学的な進行にしたがってエントロピーが増大して、いつか滅びるだろうに、その地球上に生まれた生命という系はまるでその不可逆な過程に逆らうかのごとく個々のシステムを精緻にし、生命を謳歌しているように見える。これはなぜなのかという疑問だ。しかもその生命も結局は個体生命としては次々に死んでいく。 

≪03≫  生命だけではない。地球の高い空に乱れて散らばっていた雲はいつのまにかウロコ雲やイワシ雲のような形を整えるということがあり、乱流がほとばしっている川の流れにはいつのまにか目を瞠る渦ができていることもある。けれどもこれらはいずれは消える。そうであるのに、いっときの形を整えるかのようなドラマを見せている。夕焼けを見ていていつまでも飽きないのは、この生成と消滅がしばし大空の舞台の書き割りを覆ってくれるからである。 

≪04≫  自然の流れについては、大きな流れが見せるものと小さな流れが見せるものとでは、そこに異なる法則がはたらいているのかどうかという議論が続けられてきた。もし異なるのだとしたら、その二つの法則をつなげて理解することはできるのか、どうか。この疑問はさかのぼればヘラクレイトスの「流れ」の謎までたどれるのだろうけれど、そこにはもうひとつ、大きな謎が含まれていた。そもそも自然はどのように時間と戯れているのかということだ。  

≪05≫  科学や数学では時間はtか-tであらわす。力学や化学ではtと-tを入れ替えても事態に変わりがないときに、その過程は可逆的であるとみなしてきた。しかし、自然界にはtと-tを入れ替えられない現象がいくらでもおきている。熱力学ではとくに頻繁におこっている。熱い珈琲はそのままほうっておけば室温と同じになり、さらにほうっておけば水分がなくなってがちがちの固体になっていく。これを熱いブルーマウンテンに戻すことは不可能なのだ。 

≪06≫  そこには時間の不可逆がおこっている。それなら、いったい時間経過を可逆にしていることと不可逆にしていることのあいだには何がおこっているのか。この問題をイリヤ・プリゴジンは、力学系のミクロな可逆性と熱力学系のマクロな不可逆性とに注目して、ボルツマンの統計学的解決の先っぽでつかまえた。つかまえたものは「散逸構造」(dissipative structure)と名付けられた。 

≪07≫  すばらしいセンスだった。モスクワに生まれてブリュッセル自由大学で数理化学を修め、六〇年代はシカゴ大学で非平衡熱力学と時間の対称性の破れを研究した。四歳からピアノを習いウラディーミル・アシュケナージの父君に師事した腕前は、ピアノ国際コンクールで優勝するほどだった。 

≪08≫  散逸構造論は不可逆過程の熱力学システムの研究、とりわけ非平衡系のシステムを研究対象にして生まれた。これを非線形熱力学という。 

≪09≫  プリゴジンが注目した非平衡系は定常状態にあるシステムのことで、川の流れのように、内部的にはさまざまな変化があっても大局的には時間的に一定の流れをもつものをいう。散逸構造はこの定常状態のなかで生まれる。 

≪010≫  熱力学的な非平衡系の単純な例は、高温部と低温部があって高温から低温に熱が流れつづけているような例に容易に見いだすことができる。この変化が止んでシステム内が一定の状態になれば熱平衡系になる。熱い珈琲が室温と同じ状態になったときが熱平衡系である。 

≪011≫  だから熱平衡系にも構造はある。たとえばシステム内に水と氷や、水と油が分かれてあるときなどだ。が、その非平衡系の内部をよくよく見ると、そこではもっと劇的な変化がおこっていて、ウロコ雲やイワシ雲のように、それが新たな秩序の生成に見えるような現象が生起する。熱いブルーマウンテンにミルクを入れてかきまわしたときのマーブルパターンなども、そのような現象のひとつだ。 

≪012≫  こうした現象はシステム内の温度差・圧力差・電位差のような非平衡性を解消するような流れをおこし、非平衡系をなんとか熱平衡系へと転化させようとして、非平衡的なるものをしきりに散逸させている。熱い珈琲のマーブルパターンはそのような小さな散逸が生じた束の間のファンタスマゴリア(幻想像)なのだ。しかもこの過程は不可逆である。勝手に元の状態に戻るようなことはおこらない。ブルーマウンテンにミルクを入れたときのマーブルパターンはスプーンでかきまぜていったん消えれば、もう恋人を前にしたテーブルの上に再生することはない。 

≪013≫  不可逆過程は熱力学の本質的な動向と密接にむすびついている。このことから熱力学第二法則が導きだされた。第二法則は不可逆的にエントロピーを増大させる現象のすべてにあてはまる。 

≪014≫  大戦前、プリゴジンは第二法則を研究しながら、熱力学的な平衡が安定であるための条件を求めていた。そして、システム内部のエントロピー生成量が最小になるときにシステムが安定し、その特別のばあいが熱平衡状態であること、そこではエントロピー生成量がゼロになっていることをつきとめた。  

≪015≫  やがて、この成果(エントロピー生成最小の原理)を熱平衡から遠い非平衡系に移そうとすると、まったく異なる現象がおこることに気がついた。このことは、システムをとりまく周囲の非平衡性が大きくなったばあいのシステムでおこっていた。そのばあいは、不可逆的な流れの大きさを非平衡の線形一次式ではあらわせない。ということは、ここではエントロピー生成最小の原理は成り立たないということだ。システムの内部に生じる構造の非対称性がシステムの周囲の非対称性より大きくなっているからだった。  

≪016≫  プリゴジンは、これは「自発的な対称性の破れ」がおこっているためと見て、このようにして生じる構造を「散逸構造」と名づけた。大局はそんなそぶりをまったく見せていないのに(対称性はちっとも破れていないのに)、その局所においては小さな秩序が生成されているところ、そこが散逸構造が生じているところだった。 

≪017≫  散逸構造の発生は、ちょっと考えてみると奇妙なことである。 

≪018≫  熱力学第二法則やエントロピー増大則というのは、システムの構造がしだいに消滅していって、いわば平坦化していくようなことを、いいかえればシステムの対称性がどんどん増大していくことをあらわしていたはずである。そもそも熱平衡系では周囲の非対称性が一定に保たれていればシステムの対称性が増大して、そのぶん非対称性が周囲の非対称性と一致したときにシステムは安定するはずである。ところが散逸構造ではシステムの対称性は周囲の対称性より低下する。なぜなのか。 

≪019≫  プリゴジンはここには「熱的なゆらぎ」による秩序が生成されて、この差異を解消しているのではないかと考えた。わかりやすくいえば、外見は連続して見える流体などの物質状態も、それを細かく見れば粒子的な構造が激しい熱運動をしていて、そのミクロなゆらぎは非平衡状態が一定の限度に達したときにマクロに発現するのではないかと考えたのである。自発的な対称性の破れもこのときに発生すると解釈した。 

≪020≫  プリゴジンはまた、こうした散逸構造の出現しているときも、システムの大局的な定常状態は大きくは変わらないことを証明してみせた。正のエントロピーの生成量と負のエントロピーの流入量が互いに打ち消しあって、システムのエントロピーが一定の値となるからだ。これで散逸構造の安定は一応は説明できた。 

≪021≫  一方、散逸構造が生み出したものは何なのかという問題が残った。ここからが非線形非平衡熱力学の独壇場になる。 

≪022≫  ベナールの対流は、液体の入った浅い鍋を下から熱すると、ある温度のところから急に対流のパターンが出てきて、上から見るとハチの巣のような形になる現象をいう。鍋が熱せられて非平衡が大きくなり、それがエネルギーの散逸をともなってグローバル・パターンを自己組織化させているという現象だ。 

≪023≫  ベロウソフ・ジャボチンスキー反応では、グローバル・パターンが生じてからも、そのパターンが化学時計とよばれる単位で時間的に振動する。そこでは時間的な対称性も破れ、なおかつグローバルな時間のパターンも創発されている。  

≪024≫  こうした現象は何かに似ている。そうなのである、生命体にこそ似ている。生命は宇宙的な熱平衡から遠く離れた地球という非平衡開放系の上で生じたシステムだ。そうして生まれた情報高分子としての生命はやがて自己組織化をおこして、生物時計というような独自な時間を刻み、消化器系や神経系を発達させてそこに秩序を生成させた。 

≪025≫  熱力学開放系は、システムの内部から外部に向かって内部化学反応によってこしらえられた反応物質をせっせと取り去ることができるシステムだったのである。そうだとすれば、代謝機構や排泄機構をもっている生命体は、まさに熱力学開放系のモデルなのである。しかもあいつぐ不安定性の発生と分岐の出現によって、生物的な化学散逸構造はどんどん複雑化することができる。  

≪026≫  このことをのべたのが、圧倒的な熱狂をもって読まれたスタンジェールとの共著『混沌からの秩序』(Order Out of Chaos)だった。翻訳がみすず書房から出ている。そこには象徴的に次のように書かれていた。かつてジョゼフ・ニーダムは「西洋の思想はオートマトンとしての世界像と、神が宇宙を支配するという神学的世界像とのあいだを行ったり来たりしている」と書いたものだった。ニーダムはそれを西洋に特徴的な分裂病と命名した。それに対してプリゴジンはこう付け加えたのである。「実はしかし、この二つはむすびついている。オートマトンはその外部に神を必要とする」。 

≪027≫  プリゴジンは生命体の発生分化や成長にこそ、自分が研究してきたしくみがあてはまることに確信をもった。とくに生命体にひそむ「内部時間」は、プリゴジンが研究してきた時間の演算子でも説明できるのではないかと考えた。神もオートマトンもその内部に時計をもっていたわけだ。 

≪028≫  いまでも読者が多い『存在から発展へ』(みすず書房)はまさにこのことを高らかに宣言するパイオニアの役割をはたした。この著書でプリゴジンは、それまでのハミルトニアンによる力学の定式化に代えて、リウビル演算子による定式化を試みて、外部からの規定をうけない「内部時間」にあたる時間演算子を提出した。  

≪029≫  というわけで、プリゴジンは散逸構造論の旗手から複雑性の科学の旗手へ、さらには時間論の旗手となって、本書『確実性の終焉』を著すにいたったのである。 

≪030≫  本書はいまのべた時間の問題をさらに突っこんだプリゴジンの最後のまとまった著書にあたっていて、量子論や宇宙論における時間のパラドックスの解決まで照準に入れている。プリゴジンは神とオートマトンに代えて、こう書いた。「いまや創発しつつあるのは、決定論的世界と、偶然性だけからなる恣意的世界とのあいだにある、中間的な記述世界なのである」と。  

≪01≫  1901年、ウィーン生まれのフォン・ベルタランフィが70歳になったときの記念論文集には、13ヶ国、50人の研究者が寄稿した。その領域は生物学から人類学まで、歴史学から神秘学まで、コンピュータ・サイエンスから文学にまでおよんだ。 

≪02≫ しかし、ベルタランフィがどんな人物でどんな業績をのこしたかを知る者は少ない。ベルタランフィの専門はすこぶる多岐にわたっていて、ざっとあげただけでも、理論生物学の構築、開放系非平衡熱力学の予見、物質代謝と生物成長の関係の研究、染色法によるガン細胞発見の手法の開発、水産学におけるベルタランフィ方程式の発見、ドイツ神秘主義の研究やクザヌスの研究、シュペングラーやファイヒンガーの哲学研究など、べらぼうな広範囲にわたるのに、その成果の一部を知る者すら少ないのである。あまりに広いためにわかりにくいのかもしれない。 

≪03≫  けれども、これらの成果にひそむものを一言でいえば、システムとは何かということなのである。だからベルタランフィは世界最初のシステム科学者だったのだ。しかるに、われわれは「システム」とは何かということを、ろくに知ってはいない。このことが、ベルタランフィをして「20世紀で最も知られていない知の巨人」にしてしまったゆえんなのである。 

≪04≫  かつてアインシュタインは、「もし人類がこれ以上の生存を望むなら、われわれに求められているのはまったく新しい思考法であるだろう」と書いた。 

≪05≫  ベルタランフィにとって、この新しい思考法とはシステムによって世界や自然や社会を考える方法のことをさしていた。システムによって思考するとは、どういうことか。ベルタランフィが発見したのは、システムとは「相互連関する諸要素が複合関係的にくみたてている動向の総体」ではないかということだった。だから電気通信もシステムだし、ヒマワリやシェパード犬もシステムであって、テレビ受像機も郵便制度も交響曲もシステムであり、また個性のような心理的なものも、学校のような制度と知識と人員がくみあわさっているものも、また法律も、道徳でさえシステムだということになる。 

≪06≫  ぼくはこういう見方があるのかと驚いた。何か一つの現象や仕組や機構をシステムとみなすのならともかくも、それらのすべてを相互連環的にシステムとして見るべきだという。 

≪07≫  かつて、このように自然や世界や社会や機械のさまざまな現象や仕組を、同じ「システム」という概念で捉えるなんてことは、誰もできなかった。しかもベルタランフィが関心を寄せたのは、これらのシステムのいずれにも共通する特質は何かということだったのである。一般システム理論(GST)の「一般」とは、そういう意義をもっていた。 

≪08≫  たしかに、電気通信システムとシェパード犬のシステムと学校システムを、われわれはすぐさま比較することができないし、それらに共通する統合的な視点をもちあわせてはいない。 

≪09≫  だいいち、これらを統合して見る必要があるなどとは、誰も感じてもいなかった。しかしながらベルタランフィは、そこに現代人の思考法の限界があらわれているのだと見た。まだ1930年代のことである。そしてこのままでは、人間の「知」というものはタテ割りになったまま、どんどんバラバラになっていくと危惧した。 

≪010≫  では、どうしたら、これらをシステムとして統括して見ることができるのか。そこでベルタランフィは、システムの最も普遍的なモデルを生物体におき、その特徴を見きわめることから、システムを通してさまざまな現象や実態を比較統一的に見る方法の開発に着手していった。生物たちの「知」は人間にくらべると低劣のように見えるものの、かれらはその「知」をそれぞれの生体システムとして完璧なまでに完成させているように見えるからだった。 

≪011≫  ここからが生物学者としての独壇場になっていく。まず、生物がどのように自分という生命体を自立させ、外部の環境と相互作用をおこし、それをとりこんで自律性を発揮していくのかを調べた。そのうえで、ベルタランフィは生物を「開放システム」とみなし、生命体の各部がつねに「自己」をとりまく環境とのあいだを動的に調整しながらオーガニックな自己編成をしていると見た。 

≪012≫  そして、この自己編成力ともいうべきものの鍵を握っているのはおそらく「情報」であろうと見当をつけた。まだ、ウィナーのサイバネティクスもシャノンの情報通信理論も、まして自己組織化理論も登場していなかった時期である。こうしてシステム論の構築に先立って、理論生物学の構築が試みられたのである。『理論生物学』第1巻は1932年の出版だった。 

≪013≫  この生物体の開放システムに対して、大半の非生命的なシステムは川や炎のような例外をのぞいて「閉鎖システム」になっている。それらは環境から情報を自主的にとりこまないし、自分で成長することがない。 

≪014≫  したがって閉鎖システムは、エントロピーの増大を回避するすべをもっていないし、他者とみずから交わることもない。あえて交わるには、そこに情報のなんらかのコーディングと送信と、その受信とデコーディングとが必要となる。とくに機械とはそういうものではないか。ベルタランフィはそこまで踏みこんだ。これは、まさにシャノンの情報通信理論の予見といってよかった。 

≪015≫  ついでベルタランフィは、生物システムの発展を階層的秩序の変動としてとらえるという方法を提示する。この階層的秩序は、4つのタイプをもって進むと考えられた。 

≪016≫  最初の複雑性をもつようになる前進的統合化、それによってシステムの内部に部分と部分の連関がおこる前進的分化、しかしながらそのための代償として機能や器官の固定化を余儀なくされる前進的機械化、これらを統合的に調整して行動を強化する前進的集中化の4段階である。 

≪017≫  このような階層概念の導入は、ベルタランフィが生物におけるアロメトリックな相対成長を研究した成果によるもので、たんにセオリー・ビルディングのために考案した仮説ではなかったため、このあと生物学者に大きな影響を与えることになる。 それだけではなかった。この4段階説が、のちのロボット工学の基本方針となったのである。 

≪022≫  この見方はベルタランフィの独得の説明(たいへんに文章がうまい)を読まないとわかりにくいところもあるが、第172夜で紹介したコンラッド・ローレンツの「システム特性」あるいは「システムと創発」の考え方と共通するものがある。ただ、いかにもベルタランフィはそのあたりを”天才的”に叙述したため、存分な理解を得られなかった。ただし、ぼくなら、ここは「同形」とはいわずに、あえて「相似」と言ってみたかった。そのほうがまだしも、ベルタランフィの理解は広まったにちがいない。 

≪023≫  ベルタランフィのシステム観は、いまではホワイトヘッドやウォディントンや、フラーやローレンツやベイトソンや、さらにはもっとデキの悪い成果と一緒くたになって、まとめて「有機体論」(オーガニズム)とよばれている。 

≪024≫  この名称は機械論(メカニズム)的思考法に対する特徴をはっきりするためにつかわれているものなのだが、ベルタランフィの思想と方法を、そしてホワイトヘッドからベイトソンにいたる思想と方法の先駆的な特色を浮き彫りにするには、あまりにもだらけすぎている。 

≪025≫  ここではベルタランフィだけについて述べておくが、ベルタランフィが考えたシステム論はたしかに生命的有機体から抽出した仮説的理論を中核においてはいるのだが、必ずしも生物体だけにあてはめるものではなかった。むしろ有機体としてのシステムについての正確な理解こそが他のあらゆるシステムの理解にとっても有効であることを強調したのだった。 

≪026≫  だからこそベルタランフィのGSTは、ノイマンのサイバネティクスや、情報通信理論や、そしてロボット工学に先行できたのである。 

≪027≫  ベルタランフィ自身はこのような先駆的な有機体論の特徴を、あまりいい言葉とはおもわないけれど、還元主義的思考法に対するに「遠近法主義」(perspectism)とよんだ。  

≪028≫  名称はともあれ、この遠近法主義によってベルタランフィが示唆していることは、「認識とは適用である」ということである。本書を読んだときに、ぼくが最も影響をうけたのも、この「認識とは適用である」だった。 

≪029≫  これは「行動とは適応である」という生物学(動物行動学)の見方をさらに大胆に深めたもので、われわれの認識主体をさえ内部と外部の相互作用システムとみなしたベルタランフィの一貫した姿勢がよくあらわれている。 

≪030≫  そうなのだ、認識とはまさしく適用なのである。 そして何かに適用することが、何かの認識の本来の定着なのである。そのように認識を何かに適用するために、認識と適用のあいだに「システム」が必要なのである! 

≪031≫  と、ここまで書いてきて、ぼくが本書を貪るように読んだのは、まだホワイトヘッドもウォディントンも、フォン・ユクスキュルすら読んでいなかったころだったということを思い出した。 

≪032≫  ということは、ぼくはまさにベルタランフィによってシステム論に初めて進水していったということであって、いまこのページを書いているときも、いささかその最初の興奮を忘れていないままになりすぎていたと思わざるをえない。 

≪033≫  もうひとつ、ベルタランフィはさかんにオズワルド・シュペングラーの『西欧の没落』を引くのだが、そして、来るべきシステムの科学の充実が欧米社会の還元主義的な限界を突破してくれることを予言するのだが、かつて昆虫や動物の自己犠牲的な利他的活動を研究したO・E・ウィルソンが「社会生物学」を唱えて、利他主義を社会の未来にあてはめはじめたとき、多くの科学者たちが腰を引いてしまったことも思い出した。 

≪034≫  ベルタランフィにもそういうところがあったのである。ベルタランフィはあまりに早くにシステムを発見し、あまりに早くにそのシステムをあらゆる場面に応用してしまったのだ。ベルタランフィが「知られざる知の巨人」になってしまったのには、そういう事情もあったかもしれない。 

≪035≫  しかし、最後にもう一言「余計」を加えておく。ベルタランフィの一生は既存の科学を塗り替えるための仮説の連打によっていたわけであるのだから、既存の科学者たちがベルタランフィを横目で忘れようとしたのは、実は古い科学者たちの当然の自己保身でもあったとも思えるということだ。 

≪036≫  いずれにしても、われわれはベルタランフィのおかげで、今日もまた「システム」という言葉を乱用しつづけているのである。ときには思い出してあげたい。  

≪01≫  1975年2月、カリフォルニア州アシロマに28カ国140人の生物学者が集まった。科学史上にその名を残したアシロマ会議だ。発端は、遺伝子組み換え技術を開発したポール・バーグが腫瘍学のロバート・ポラックにその危険性を指摘されたことにあった。最初は反発したバーグだったが、ポラックに縷々説得され、ジェームズ・ワトソンらと連名で組み換えのガイドラインに関する国際会議を呼びかけた。 

≪02≫  喧々諤々の会議は、その後のバイオテクノロジーとバイオハザードの将来に多くの岐路と危惧が待ち構えているだろうことを予告した。 

≪03≫  遺伝子組み換えの植物や動物が生態系に放り出されたらどうなるのか。代替肥料や代替燃料が生物情報プログラムの特許を独占したらどうか。もし危険な遺伝子を組み込んだバクテリアやウィルスが撒き散らされたらどうなのか。疾病を遺伝子治療によって治すべきなのか。もしこのまま動物やヒトのクローニングが進んだら「チンプヒューマン」(半分チンパンジーのヒト)が出てくるのか。受精や受胎はいったいどこまで人工的になりうるのか。若い親たちが次々に赤ん坊を「特注」するようになったらどうするか。遺伝子バンクが金融力に匹敵する力をもったらどうなっていくのか。いったいバイオ・レメディエーション(生物的環境浄化)なんて必要なのか、などなど。 

≪04≫  生物学者たちは遺伝子工学の発達によって、自分たちが「悪魔と契約を結んで魂を売り渡したファウスト」になることを危惧し、警戒した。これは生物たちに「遺伝子ミシン」を入れて裁縫してもいいのかという危惧に対する警戒である。  

≪05≫  当然の危惧と警戒だった。とはいえしかし、どうにもはっきりしないことがあった。それは、こうした遺伝子による生体ミシン技能はこれまで文明がX線照射や抗生物質や麻酔薬や人工心臓やドーピングを受容してきたことと、いったいどこがどこまで違うのかということだ。結局、危惧と警戒をよそにバイテク産業が疾駆しはじめ、それが高度情報資本主義と混成してバイオキャピタル化していった。 

≪06≫  生体ミシン技能は人類の文明とともにずうっと継続されてきたものだとも判断されうるのだ。仮りにそうだとすると、問題は遺伝子工学によって様変わりした医療や薬剤そのものにあるというより、これを資本に組み込んでいる「しくみ」と「からくり」にあるらしい。 

≪07≫  アシロマ会議は1973年に米国エネルギー省(DOE)がヒトゲノムの配列決定計画を発表し、国立衛生研究所がヒトゲノムのマッピング解析に乗り出してヒトゲノム局を発足させたのを受けたものだ。 

≪08≫  受けてはいたものの、その後の事態は大半の危惧を吹き飛ばしていった。生物化学者も企業も病院も、「みんなで渡ればこわくないファウストたち」になって、バイオテクノロジー流出の大号令のもと、バイオキャピタルの傘を広げていった。 

≪09≫  控えめだったのは80年代の遺伝子スプライシング技能の開発やスーパーマウスやキメラの実験が世間を騒がせたあたりまでだった。90年代後半に入ってスコットランドの発生学者イアン・ウィルムットが世界初の体細胞クローン羊の「ドリー」を誕生させてからは(1996)、なりふりかまわずバイオテクノロジー全盛期に突入していった。F1技術(一代交配種づくり)は、これをなんなく食品や飼料に導入した(1608夜・1609夜・1610夜)。まさに「種が危ない!」だったが、勢いはとまらない。ドリーの2年後にヒトES細胞が誕生し、2000年にはヒトゲノムの塩基配列がほぼ解読された。 

≪010≫  本書はそうしたバイテクの嵐が吹きまくってからの2006年に書かれた。基本になったのは2002年にMITに提出された博士論文にもとづいている。だから、その後の状況の10年ほどの進展については展望できてはいないが、それでも「こんなことでよかったのか」という大疑義をもって、存分の大鉈をふるっている。 

≪011≫  著者のカウシック・スンター・ラジャンは1974年のマドラス(現在チェンナイ)生まれで、インドの大学からオックスフォード大、カリフォルニア大、MITをへて、シカゴ大で教鞭を執っている。科学技術学・歴史学・社会学を修めたが、その後の専門はゲノム情報科学に移った。 

≪012≫  ゲノム学に埋没してみると、問題はゲノム産業にもゲノム情報技術にも、それを包む金融資本のありかたにもあることが、見えてきた。生まれ故郷のインドでは、生体技術とアメリカ資本が絡み合っていた。これをどう見るか。ラジャンはポストモダン思想にぞっこんだったので、フーコー(545夜)やダナ・ハラウェイ(1140夜)に依拠し、マルクス(789夜)まで遡行することにした。 

≪013≫ そこでおおむね、次のようなポストモダンな立場とポストゲノムの見方で本書を書いたようだ。
ぼくなりの解釈を加えて要約してみる。 

≪014≫  われわれは急激に変化する世界のなかで、いくつもの根底的な問い直しをせざるをえなくなっている。
生命、資本、事実、交換、価値の意味がことごとく生命情報科学によって覆われているようになったからだ。 

≪016≫  なぜ、そうなっていくのか。あきらかに
遺伝子組み換え(GM Genetic Modification)技術の登場、
正確にはRDT(Recombinant DNA Technology 組み換え
DNA技術)の登場が引き金をひいていた。実験室でDNA分子を切断したり接合したりすることが可能になったのだ。 

≪018≫  この技術がまたたくまに産業化していった。かつての製薬産業では、有機化学合成のロジックによって小さな化学分子をつくっていたのだが、バイオ製薬のロジックは、細胞の中のしくみや化学反応のプロセスに組み込まれている特定の分子を直接に加工すればいい。これで未知の産業領域が一気にふえた。 

≪015≫  この変化は資本主義システムの特質にも大きな影響を与える。バイオテクノロジーがもたらす作用は既存のどんな資本主義概念でも説明がつかないものになっている。ラジャンはこれを「歴史をもたない資本主義」のスタートだとみなし、そこにフーコーとハラウェイから借りた概念「生-資本」すなわち「バイオキャピタル」が躍り出してきたと捉えた。 

≪017≫  切断や接合はベクターとよばれる核酸分子を“出先”にすれば、いくらでもできる。RDTが生命科学というコンテンツとコンテクストを分断して、開発技術の対象にした。 

≪019≫  19世紀、世界の製薬企業はバイエルとヘキストの2社に代表されていた。それがペニシリンとストレプトマイシンの開発後の1940年代以降になると、チバガイギー、エリーリリー、ウェルカム、グラクソ、ロッシェがずらりと並び、戦後は世界中で製薬企業が争うことになった。しかしそれらをあっというまに凌駕したのがジェネンテック社なのである。 
1980年10月14日、ジェネンテックが株式上場されたとき、資本主義は決定的に変質したのだ。 

≪020≫  RDTの素材は生命体がもつゲノム情報である。この資源は無限に近い。これに資本と金融市場を巧みに絡めていけば、そこには新たなバイオキャピタル市場ができあがる。その肥大力は予想がつかないほど巨きい。 

≪022≫  リード分子は薬品開発業界では“lead compound”と呼ばれる。業界の命運はこのリード・コンパウンドの同定とその臨床試験にかかっている。研究開発チームも企業も投資家もリード・コンパウンドが何になるかに固唾を呑んだ。こうして、生命科学の文法がバイテクの武器の誕生に変貌していったのである。 

≪021≫  実際にもバイテク企業やゲノム企業では、薬効のありそうなリード分子をまず探索し、それを取得して製品を開発させ、その製品と利益を市場の下流へと押し流すように資本蓄積をしていく戦略が明確に確立されていった。ここでは遺伝子組み換えと金融市場組み換え戦略がぴったり重なった。わかりやすくいえば、大ゲノム企業がバイテクベンチャーからライセンスを得た化学的分子を使って(買い取って)、複合的な製薬製造のバリューチェーンを次々に太く長くしているようなものである。 

≪023≫  むろんリスクはある。それは変異性(バリエーション)にかかわるもので、ゲノム分析を慎重にもさせるし、大胆にもさせる。それでもたいていはSNPS(スニップス Single Nucleotide Polymorphism)という情報的人工物に情報操作を集中させれば、なんとかいけた。SNPSは単ヌクレオチド多型体のことで、塩基の配列に沿って必ずあらわれる変異を示す。いまではどんなバイオ企業も膨大なSNPSのデータベースマップをもっている。 

≪024≫  ゲノム情報がバイオ産業にもたらす「知識」はアリストテレス的ではない。 アリストテレス(291夜)の知識はどうであれ、なんらかのテオリア(目的)とプラクシス(行為)とポイエーシス(制作)を伴うもので、そこでさまざまな多様性に分散するのだが、バイオテクノロジーの知識は特定の生命文法を限定するため、世界の疾病の発生と変化の可能性を計算する知識に生まれ変わってしまうのだ。 

≪026≫  この知識は生命の活動源泉から生まれてきたものでありながら、生命文法として人間や動物の本来を解明するものにはなりそうもない。なぜならこの知識は研究開発が「源泉」に着手すると同時に、すぐさま「資源」としてのみ活用されていくからだ。 

≪025≫  このような知識のありかたはきわめて特異であって、震えるほどに近未来的である。ミシェル・フーコー(545夜)が「生-権力」あるいは「生-政治」と呼んだものに近く、そこに、いっさいの知識をめぐる制度プロセスと認識プロセスと言説プロセスが封じこめられる可能性をもっている。 

≪027≫  これまで、知の源泉がそのまま富の資源になるなんてことは、神々がいた時代このかた、めったになかったことだ。今度ばかりは、それに近いことがおこっている。ラジャンがバイオテクの知識と技術のいっさいを「生-資本」だとみなすのは、そこなのである。 

≪028≫  多くの知識は変遷的であり、古代や中世とどこかでつながっている。また近代化を蒙ったとしても、その知識の原型や母型が破壊されるということはない。 

≪030≫  フレデリック・ジェイムソンがリオタールのポストモダン分析を、「ポストモダン主義は新しい社会秩序の文化的な優越性を示していない。それは資本主義のもうひとつの修正と反映にすぎない」と言ったものだが、むしろこの指摘に近いほうへ向かうしかなかったのだ。 

≪029≫  ところが、バイオキャピタル化された知識は過去とは不一致なのである。かつてリオタール(159夜)がカナダ政府の要請に応えた覚書『ポストモダンの条件』では、来たるべき情報革命の中でもポストモダンの知は断絶されることなく、それらを包摂するだろうと予想したのだが、バイオキャピタル革命では、それはままならない。 

≪031≫  ポストモダンの条件をもってしてバイオキャピタル革命の問題を議論できないのだとしら、どうするか。ラジャンは「ポストゲノムの条件」を検討しようと考えたようだ。 

≪032≫  本書は主としてエスノグラフィの手法によって組み立てられている。ジョージ・マーカスとマイケル・フィッシャーが提唱した「複数の場をまたぐマルチサイテッド・エスノグラフィ」だ。 ぼくが見るに、そこそこ刺戟的ではあるのだけれど、必ずしもうまく分析できているとはかぎらない。それでも、かなり読ませた。ざっと構成内容を紹介しておく。 

≪033≫  第1章「交換と価値」では、アメリカとインドのゲノム産業が、生命情報にまつわる「概念」や「知識」をいっさい深化させることなく(啓蒙させることもなく)、ひたすらテクロジーの論理だけでバイオキャピタルが形成されていっただろう実例を述べていく。その実情はウォール街の金融工学屋たちの仕事ぶりを思わせる。 ラジャンは反論のため、途中でモース(1507夜)の「贈与の思考」をまぜようとするのだが、うまくいかない。  

≪034≫  第2章「生と負債」はハイデラバードのバイテク・サイエンスパークとムンバイの研究病院でのフィールドワークにもとづいて、グローバルなバイオキャピタル動向がローカルな力を巧妙に奪っていること(予想できなかった分野での負債をもたらしたこと)、にもかかわらず市民の「生命的なるもの」が着々とバイオテクノロジーの秩序の中に記述化されていくことを追う。 ラジャンはグローバリズムが第一世界と第三世界で非対称になることを告発する。 

≪035≫  第3章「ヴィジョンと熱狂」には遺伝子産業革命の寵児ランディ・スコットが登場して、その言説とパフォーマンスが検討される。スコットは科学者であってインサイト社(のちにインサイト・ジェノミクス社)ほかの起業家であり、自身を救世主とみなしているクリスチャンで、かつまた有能な経営者である。まさに本書のテーマを敷延するのにふさわしいスターだ。 

≪036≫  それならスコットは遺伝子産業の未来をうまく伝道できたのかというと、そうではなかった。ヴェルテックス製薬の創設者でユダヤ教徒であるジョシュア・ボジャーについて、バリー・ウェルスが書いた『10億ドルの分子』という興味深い本があるのだが、その本の中のボジャー同様、スコットは病気を救うキャンペーンと創薬キャンペーンを分節的に重ねてはいても、バイオキャピタルの神話力を形成するには至らない。宗教的伝道性と産業的マーケティングは平行したままなのだ。ラジャンもそこを攻めきれない。 

≪037≫  第4章「約束と物神化」はおもしろい。ゲノム学がもたらしたDNAチップの可能性とそれがもつ問題、パーソナル医療のきわどい実情、ビジネスプラン化しつつある生命事情などを案内しつつ、ゲノム情報が物神化をおこしていることを暴く。 

≪038≫  バイオテクノロジーのもとでは、ゲノム情報は所有権をもったり、私的領域をもったりする。このことは、ゲノム的事実が多層的なリスク言説を積み重ねながらバイオキャピタル化していくことを、また、そのゲノム情報がそのプロセスをこなすことによってゲノム情報そのものの物神化をおこしていくことを示す。ラジャンはこのことをマルクスの「商品の物神化」議論をヒントに組み立てた。 

≪039≫  そのうえで、こうした傾向はすべての社会に「待機中の患者」をふやしていくだろうと予想する。一方で、ゲノムの物神化が資本主義の既存制度にどのような「内破」をもたらすかという議論もしようとするが、こちらは難航する。 

≪040≫  第5章の「救済と国家」では、シリコンバレーのインド人起業家たちのただならない使命感を通して、バイオキャピタル社会には巧みな「救済論」が組み込まれていることを指摘する。ラジャンはウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』を引きながら、いまやバイオテクノロジーと薬品産業の躍進事情がキリスト教に代わって 地球上の生命科学とナショナリズムを結び付け、「約束の明日」を保証しようとしている近未来図を提供する。 

≪041≫  第6章「起業家とスタートアップ企業」はバイオ企業ではなく、二人のインド人が起業したeラーニングのベンチャー(ジーンエド社)に焦点があてられる。こうした企業はゲノムの化学作用には立ち会っていないものの、生命化学に関する知識と情報の流通を担う。結局はバイオキャピタル社会に貢献する企業なのである。 ラジャンは述べていないが、ここにはその後のネット治療の拡張、患者情報の細密データ・ネットワーク化、病院産業のソーシャルネットワーク進出など、今日につながる数多くの問題が予見されていた。 

≪042≫  ところで本書には、フーコー、リオタール、デリダをはじめ、ジジェク(654夜)、アガンベン(1324夜)、スピヴァクほかの現代思想家がのべつ出入りするのだが、ぼくが興味をもったのはダナ・ハラウェイ(1140夜)のバイオキャピタル観との交差だった。 

≪043≫  実は「遺伝子の物神化」を最初に問題にしたのはラディカル・フェミニストのダナ・ハラウェイだったのである。ハラウェイは生物科学が遺伝子のセットを人ひとり分ずつ解明し、その遺伝子の一部にメスを入れて順序や組み合わせを変えることは、遺伝子セットそのものの肉体化であって、遺伝化学が有機的人体を代替するシステムになろうとしていることだと予言し、それは「遺伝子の物神化」にほかならないと指摘した。その見取り図は『猿と女とサイボーグ』にほぼ提出されていた。 

≪044≫  ハラウェイは資本主義がバイオキャピタル化をおこしていく以上、そこでは必ずや「有機体」が「生体部品の諸関係」(バイオコンポーネント)に、「生殖」が「人工受精」や「複製」に、「政治力学」が「生-政治」におきかえられるはずなのだから、そこでセルフヘルプな思想にとどまっていても勇敢にはなりえないと見通して、われわれは「物質と意味」についての物質論=意味論的な言述力をもつべきだと考えていた。 

≪045≫  このとき、遺伝子組み換えのさまざまな現場とニュースに出会い、生体分子のコードをどうするかという問題に直面したのだろうと思う。ふつう、われわれは遺伝子コードなど意識もできないし、感じることもできない。だいたいそんな知識にはなじんでいない。しかしバイオテクノロジーが取り出したSNPSやDNAチップはわれわれの生体にインストールされていくのだし、その知識はわれわれのどこかに入力されていく。 

≪046≫  すでにわれわれはずっと以前から、頭痛のたび、風邪のたび、さまざまな疾患のたびに大量の薬品や薬物を体に入れてきた。ビタミン剤をのみ、インシュリンを注射し、ホルモン剤を服用した。ハラウェイはこんな人体がすっぴんであるはずはないとみなしてきた。われわれはすでにしてどこかサイボーグなのである。「もどき」(擬)なのである。そこまでは読める。しかし生体分子コードの知識とハイブリッドになるということは、どういうことなのか。 

≪047≫  ジョージ・マイアソンに『ダナ・ハラウェイと遺伝子組み換え食品』(岩波書店)という本がある。ハラウェイは『慎ましい証人』(未訳)で、バイオキャピタル化された人体にも興味があることを述べていた。マイアソンはそこを問い、はたして遺伝子組み換え食品は、ハラウェイが興味をもつようなサイボーグを現出させるだろうかと詰ったのである。 

≪048≫  本書の著者のラジャンは、このようなハラウェイのバイオキャピタル観を詳しくは論じなかった。おおむねハラウェイに影響うけて「遺伝子の物神化」から「ゲノム情報の物神化」を導いたと書くにとどまっている。 

≪049≫  おそらく今後はハラウェイの議論は再燃していくだろうと思う。それとともにラジャンのポストモダン思想に依拠したバイオキャピタル論にもいくつもの議論が沸くだろう。 

≪050≫  とはいえ、それでも本書が示した標識によってそうとうの含意が動いていくにちがいない。今日の編集的社会像はバイオキャピタルを孕んだソーシャルキャピタルを抉っていかざるをえないはずなのだ。 

≪051≫  最後に、ラジャンのことにもふれた粥川準二の『バイオ化する社会』(青土社)を紹介しておく。2012年の刊行だった。 この本は「核時代の生命と身体」という副題のもと、全世界と日本でバイオ化が確実に進行していることを、かなり豊富な事例をもって雄弁に議論したものだ。「家族のバイオ化」「未来のバイオ化」「資源のバイオ化」「信頼のバイオ化」「痛みのバイオ化」「市民のバイオ化」という順にドキュメントされている。 

≪052≫  粥川はもともと豪腕のライターで、ジャーナリストでもある。すでに『人体バイオテクノロジー』(宝島社新書)、『クローン人間』(光文社新書)などがある。いずれも必読だ。 

≪053≫  なおバイオテクノロジーが社会を覆っていく様相を最初に描いた本としては、ジェレミー・リフキン(824夜)の『バイテク・センチュリー』(集英社)がある。ぼくはこの本を20世紀の終わり近くに読み、誰がこのことを思想化するのだろうと思っていた。今夜、ラジャンや粥川をとりあげたのは、ここに突破口のひとつがあることを告げたからだった。 なお、ここでは「バイオ・キャピタル」ではなく、中黒を取って「バイオキャピタル」と表記した。 

 宇沢弘文はちょっと風変わりな経済学者だ。
数々の輝かしい国際的な学歴と職歴をもち、ジョセフ・スティグリッツやジョージ・アカロフを門下にもちながらも、ついにメインに立つことがなかったし、その成果が経済学界で大きく評価されることもなかった。 

 こういう経済学者は日本には一人もいない。数学を専攻していたのに経済学に転じ、
ケネス・アローに認められてスタンフォード大学で助教授を、36歳でシカゴ大学の教授をしたが、
同僚のミルトン・フリードマン(1338夜)とはことごとく対立して、
アメリカでの活動を途中で放棄した。 

≪01≫  冒頭、こんな話が出てくる。1983年に宇沢が文化功労者に選ばれたとき、顕彰式のあとに昭和天皇がお茶をくださるというので、そこに列席した。宇沢は長らく天皇制に対して批判的だったので、こうした天皇からの顕彰そのものにも、語り合うことにも、少なからぬ違和感をもっていた。

≪02≫  お茶では、受賞者の一人ひとりが自分が何をしてきたかを語り、天皇がときおりそれに応ずる。天皇は思いのほか親しみのある気さくな話しぶりだったが、宇沢は自分の番がきたときすっかり上がってしまい、ケインズのここがおかしいだの、新古典派の理論はどうだの、社会的共通資本とはこういうものだのと懸命に喋りたてていた。 

≪03≫  我ながら支離滅裂になっているなと思っていたところ、昭和天皇が話をさえぎって、「君! 君は経済、経済というが、つまり人間の心が大事だと、そう言いたいのだね」と言われた。本心をずばり言い当てられたようでハッとした。 

≪04≫  宇沢は、自分がそれから四半世紀にわたって社会的共通資本や人間の心を大事にする経済学の研究をすすめてこられたのは、このときの昭和天皇の言葉に勇気づけられたからだったと、そう、冒頭エピソードを結んでいた。 

≪05≫  宇沢弘文はちょっと風変わりな経済学者だ。数々の輝かしい国際的な学歴と職歴をもち、ジョセフ・スティグリッツやジョージ・アカロフを門下にもちながらも、ついにメインに立つことがなかったし、その成果が経済学界で大きく評価されることもなかった。 

≪06≫  こういう経済学者は日本には一人もいない。数学を専攻していたのに経済学に転じ、ケネス・アローに認められてスタンフォード大学で助教授を、36歳でシカゴ大学の教授をしたが、同僚のミルトン・フリードマン(1338夜)とはことごとく対立して、アメリカでの活動を途中で放棄した。 

≪07≫  新古典派の成長理論の数学的定式にとりくんだわりに、新古典派にはめっぽう辛く、二部門成長モデルや最適値問題に先駆的に着手しながら、まとまりのある成果に辿り着かなかった。 

≪08≫  トルストイかと見まごうばかりの真っ白で長大な髭をたくわえているから、禅僧めいて見えるけれど、けっこう早口のお喋りで、決してドーンとしているわけではない。ただし大酒呑みで、酒が切れることを仇のようにしていた。 

≪09≫  けれども一方ではたいへんな自然愛好派であって、山歩きが好きだった。日常も屈託なく、ランニングシャツと短パン姿でどこにでも行った。都内各所、新幹線でもこの姿は目撃されている。それかあらぬか、飛行機には極端なほどの嫌悪感をもっていた。海外渡航はさすがにやむなく利用したが、国内ではすべて列車やバスや徒歩に徹した。東大教授時代は自宅からジョキングで通っていたらしい。 

≪010≫  なんとも愉快で痛快で、変な経済学者だったのである。数学から経済学に転じたのも河上肇の『貧乏物語』を読んだせいだというのだから、これには絆(ほだ)される。それよりなにより、ぼくにとってはこのことをもって最大のオーマジュを捧げたくなるのだが、宇沢は生涯にわたってのラグビー派だったのである。 

≪011≫  1928年、昭和3年の生まれ、2014年、平成26年にあの白い髭をたくわえたまま86歳で大往生した。こんな経済学者は、もう出てこない。 

≪012≫  本書は遺著にあたるのだが、新潮新書の阿部正孝と組み立てた構成を了承しながらも途中で倒れたため、自身でチェックすることは叶わなかったようだ。 

≪013≫  そのせいか、既存社会の弊害に対しては奔放大胆で、実は根っから生真面目な憂国派であった宇沢の、なんとも不思議でアンビレントなトーンが編集部の再現力によって、よく滲み出たものになっている。 

≪014≫  宇沢の考え方はわかりやすいともわかりにくいとも言える。その特色は7冊の岩波新書に如実にあらわれている。順に、①『自動車の社会的費用』、②『近代経済学の再検討』、③『経済学の考え方』、④『成田とは何か』、⑤『地球温暖化を考える』、⑥『日本の教育を考える』、⑦『社会的共通資本』というふうになる。 

≪015≫  ①はけっこうなベストセラーだった。高度成長とともに日本はあっというまに自動車で埋まっていくのだが、いったいこの現象が何なのか、その根底を問う議論を経済学者はとりあげない。そこで宇沢が自動車のソーシャルコストに物申したのだ。当時もその後も、自動車業界がこぞって手にした1冊になった。日本出版文化賞を受けた。  

≪016≫  ②と③は近経を現代化する試みだが、宇沢の意図にくらべると、その後の著作同様にそんなに説得力をもっていない。シカゴ大学で感じた市場原理主義と新自由主義の限界と陥穽を感じつつも、学者としてモデルを提起しなければならないという責務が葛藤していたのではないかと思う。それよりも、本書ではそのへんがスパツと放言されていて気持ちいいのだが、新自由主義を経済地理学的に切ってみせたデヴィッド・ハーヴェイ(1356夜)に対する評価をちゃんとやってみせている。こういうところが、もっと繰り出されてもよかったのではないかと思う。  

≪017≫  宇沢が地域社会や環境社会の経済思想にぐっと迫るようになったのが、④の成田空港問題と⑤の地球温暖化問題に対するアプローチで、その背景を社会的に大きく組み立てなおそうとしたのが、⑥の教育構想、⑦の社会的共通資本論である。宇沢はシカゴ大学から日本に戻ってきて、日本を本気で救いたくなっていた。ジェーン・ジェイコブスの影響が大きかった。 

≪018≫  こんなわけで、宇沢の経済思想はかなりダイナミックに紆余曲折してきたように見えるのだか、ぼくはそここそが魅力的だったと思ってきた。「ちぐはぐ」を恐れないところ、そこが「人間の経済」に向かうにはどうしても必要な振り幅であるからだ。 

≪019≫  あらためて経歴を紹介しておくと、宇沢は米子に生まれて3歳で家族とともに上京している。故郷で育んだものがずっと生きていた。 敗戦直前に旧制一高に入って全寮生活によって全身的に鍛練されたこと、また疎開のため故郷の曹洞宗の永福寺に逗留したことが、よかったようだ。 

≪020≫  志望は数学だったので東大理学部数学科に入り、彌永昌吉の代数的整数論と末綱恕一の数学基礎論を学んだ。彌永は師の高木貞治譲りの整数論の冴えもさることながら、フィールズ賞の小平邦彦、第1回ガウス賞の伊藤清、イワサワ理論の岩澤健吉、サトーの超関数の佐藤幹夫らを次々に育てた功績がめざましい。一方の末永は西田幾多郎(1086夜)に心酔していた数学者だったから、微積分の講義にサンスクリット哲学が混じるというようなところがあった。宇沢は「無量」という言葉で「数には限界がない」というメッセージを叩きこまれたことが印象的だったと書いている。末永は怒りっぽいことでも有名で、いいかげんな学生にはのべつチョークを飛ばしていた。   

≪021≫  こんなものすごい数学者の薫陶をうけたのだから、そのまま数学の学徒になってもいいはずなのに、宇沢は数学の抽象的で非社会的な孤高性に疑問を感じ、とくに河上肇を読んでからというものは、その貧窮と決意の逢着に感動して経済学に身を転じることにした。それを聞いた末永は「ばかやろう、お前は一番得意なことをやめて一番不得意なことに手を出そうとしているんだ」と怒鳴りちらしたという。 

≪022≫  宇沢は数学を捨てたのではない。
経済学に数学を適用して新たな社会経済モデルをつくりたかったのである。が、実際にはその作業は容易なものではないことがわかっていく。 

≪023≫  経済学をめざした宇沢は分権的経済計画を立案した。この論文がケネス・アローの目にとまり、1956年、スタンフォード大学でアローの助手になると、一気に数理経済学の若いスターになっていった。アローは社会選択理論と内生的成長理論でノーベル賞を授与されている。 

≪024≫  アローのおかげもあって、若い宇沢のアメリカでの活躍はめざましかった。たちまちスタンフォードの助教授に、カリフォルニア大学バークレーの助教授になり、ワルラスの一般均衡理論で博士号をとってからはアメリカで最も有名な日本人になっていて、1964年にはシカゴ大学の教授に迎え入れられた。すでに物理学者の南部陽一郎がいた。    

≪025≫  しかし当時のアメリカはベトナム戦争に血道を挙げていた時期で、宇沢には何かがしっくりこない。そこへもってきてシカゴ大学では、フリードマンの市場原理主義と政権へのおもねりがこれみよがしに激しく動いていて、どうにもがまんができない。1968年に日本に戻った宇沢は東大に落ち着いた。  

≪026≫  きっと宇沢にはシカゴ大学に代表されるような、エスタブリッシュな東海岸の言動力は合わなかったのである。西海岸のバークレーなどの開放的な校風に惹かれたのだと思う。この気分、たいへによくわかる。実際にもこのあとの宇沢は、アメリカと日本があまりにも勝手な「自由」と「利益」に向かって暴走していることに歯止めをかけたいと思うようになる。  

≪027≫  宇沢が後期に熟慮するようになる社会的共通資本(Social Common Capital)は、広い意味をもっていた。環境、地域、農業、医療、教育、子育てなどをソーシャル・コモンキャピタルとして重視して、新しい「人間のための経済」の基本をつくること、それが社会的共通資本を強調したい理由だった。 

≪029≫  もっとも吉本隆明(89夜)は、こういう宇沢の提案はたんなるグリーンエコと変わらないもので、そんなことで世界的な学者だと喧伝されるのは「バカじゃないか」「呆れます」と痛罵を浴びせた。吉本のみならず、宇沢のこの手の発想は「ただおめでたいだけ」と批判する連中は少なくなかった。   

≪028≫  自然環境(山・水・土壌・大気など)、社会的インフラ(道・橋・電力・鉄道など)、制度資本(教育・医療・金融・司法・文化など)という3つのソーシャル・コモンキャピタルを横につなげて護りたい、それらを発展させたい。そういう意志のもとに熟慮された。 

≪030≫  たしかに提案はジョン・デューイ風、ジェーン・ジェイコブス風、ローマクラブ風なものにとどまっているようにも感じる。そこが楽観的でおめだいとも見られたわけだ。けれども、ぼくはこの愚直な徹底と、そのために成田三里塚紛争や医療保険問題を引き受けていく日々とのアンビバレントな関係に、痛快も勇気も感じる。  

≪031≫  宇沢はリベラルアーツにこだわってきた。これは一高時代の校長、安倍能成がリベラルアーツを称揚しつづけていたことにもとづいている。安倍は教育と文化の仕上げにはリベラルアーツが重大な役割をはたすと確信していたのである。  

≪032≫  それなら、そのようなリベラルアーツが日本にあったかといえば、宇沢は古代においては空海(750夜)に、明治においては福沢諭吉(412夜)に、昭和においては石橋湛山(629夜)にそれがあったと言っている。これは当たっているだろう。空海と福沢と湛山を串刺してみることは、今後の日本のリベラルアーツ観の宿題になるかもしれない。 

≪033≫  しかし宇沢が痛快で勇気があるのは、そのような日本が結局は大学をリベラルアーツの府にしてこなかったことを抉るように批判しているほうにある。宇沢にとっての大学は端的にいうのなら、“Idle Curiosity”(好奇心)と“Instinct Workmanship”(職人気質)が育まれるべきところなのである。ソースティン・ウェブレンが掲げた看板だ。しかるに日本の大学は、これをすっかりおじゃんにしてしまうような共通一時試験やセンター試験をしてしまった。宇沢はセンター試験の問題はことごとく「腐っている」と指摘する。 

≪034≫  晩年の宇沢がそんな大学の現状にそうとうがっかりしていたことは、ぼくの耳にもいろいろ伝わってきた。  

≪034≫  晩年の宇沢がそんな大学の現状にそうとうがっかりしていたことは、ぼくの耳にもいろいろ伝わってきた。 

≪037≫  ぼくは宇沢弘文に会えないままだった。とくに会いたいと思わなかったからだ。しかしぼく自身が70歳をこえてみて、思索者というものは多少の器量の差はあるものの、どこか宇沢っぽくソーシャル・キャピタルの根底を問いたくなるものだという気がして以来、ああ、会っておくべきだったかなと思うようになった。  

≪036≫  宇沢はこれを「富を求めるのは道を開くためである」と訳し、自分はこの信条をもって経済学をやってきたのだと書いている。ラスキンの芸術経済学について宇沢があまり言及してこなかったわりに、最後の最後になってラスキンに言及するというのは、宇沢らしいことだ。 

≪038≫  吉本隆明は宇沢を詰(なじ)ったが、その吉本だって70歳前後からは宇沢っぽかったのだと思う。しかし宇沢は米子を出て一高に行っているころからずっと70歳っぽかったのである。
これでは宇沢のほうに軍配が上がる。   

 こういう本をどう読むかというのは、どの国の経済のシステムにたって何をしたいのかによって、大きく異なってくる。

 この本が書かれたのは1993年だが、このころアメリカは日本に腹をたてていたか、恨んでいた。
ところがこのあと、アメリカは低迷を脱出し、逆に日本がひどい低迷を続ける。
この本はそういう転換点で書かれたものなので、おそらくはいま読むと、当時のアメリカが何をもって“敵”の成功を見破り、何をもって自身の停滞を読み替え、どのように危機を脱出したのか、きっとそういうことも読めてくる。 

 ちなみにぼくはどう読んだかということは、いまとなっては参考にならない。このころ、ぼくはウォーラーステインの「世界経済システム論」に飽きて、もっとダイナミックな世界経済の変容を見たくて、本書をはじめとする“なまもの”を片っ端から読んで(レスター・サローの『資本主義の未来』とかミシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』とか、ロバート・ハイルブローナーの『二十一世紀の資本主義』とか)、多様な資本主義というものをただ観察していたからだ。“なまもの”だから、その場で食べたら、それでおわりなのだった。 

≪03≫  さて、七つの資本主義とはアメリカ、イギリス、スウェーデン、フランス、日本、オランダ、ドイツのことをいう。 いろいろ言いたいことはあるが、その判断は保留して、おもしろいから、著者たちがこれらの資本主義にくだした特徴づけを紹介しておこう。 

≪04≫ 【アメリカの資本主義】
この国の資本主義は「勝利に酔うための神話的な資本主義」である。しかし、すべての基準は自己基準的であり、「他人本位」であることを絶対に嫌う。とくに勝利を握る者よりもヒーローをとりまく不運な群が数多くなければならないことに特徴がある。そのためというか、そのかわりというか、「公正な競技場」というものを必ず用意する。経済活動はおおむね逐次的で、生得地位が獲得地位によってどのように変わっていくかということのみが、経済活動の評価の指針になる。 

≪05≫ 【イギリスの資本主義】
剥き出しの自然科学や社会科学の合理性を押し付ける資本主義と、紳士淑女のための分析満足を与えるための資本主義と、そして優越心のためのボランティア資本主義が、分かちがたく混在している。意外に知られていないのは、イギリスでは製品よりも文化よりも、貨幣(ポンド神話)が一番価値が高いということである。 


共同時間の資本主義

参照文献:『時間の比較社会学

≪06≫ 【スウェーデンの資本主義】
かつては社会主義と資本主義の間にいたと思われていたスウェーデンだが、実際には「社会品質に関心がある資本主義をつくりたがっている国」だった。「社会が市場をつくるもので、市場が社会をつくるものではない」というこの国の経営者たちの哲学は、アメリカや日本に聞かせたい。 

≪07≫ 【フランスの資本主義】
本書でフランスは例外扱いされている。その理由はフランスは外からフランスが理解されることを拒否しているからである。しかし、その内実を見ると、ここには中央集権的な権威によって守られている「心の状態によってどうにでもなる資本主義」がある。つまり、ここにはヨーロッパ最大のタテ社会があるとともに、すべての経済活動を属人化してしまう資本主義があるということだ。 

≪08≫ 【日本の資本主義】
「状況倫理をうかがいながら発展する反知性的な同質資本主義」。これが本書が与えた日本の資本主義に対するあけすけなニックネームである。 よくいえば「複眼的資本主義」、
ふつうにいえば「つねに代替をもとめている資本主義」、
ぶっちゃけていえば「協力しながら競争するという世界中が理解できないシステム原理で進んでいる資本主義」ということになる。 

≪012≫ 【ドイツの資本主義】
以上の諸国にくらべて(とりわけアメリカ人にとって)、最もわかりにくいのがドイツの資本主義である。アメリカやイギリスは分析的だが、ドイツは総合的であり、アメリカやフランスは個人主義的だが、ドイツは共同社会的である。 ドイツは「普遍」に囲まれていて平気な国なのだ。こんな窮屈がどうして選択できるのか、アメリカ人にはわからない。けれどもドイツではそこに美学すら見出している。そのため、英語経済圏や日本では公的部門と私的部門を分けるのがふつうなのに、ドイツでは公益と私益の両方にまたがったり、両方を調停する中間組織が数多く出てくることになる。雇用者団体がたくさんあるのもそのせいである。しかも、これらはそれぞれ自分たちが「普遍」を守っているとおもいこんでいる。 一言でいえばドイツには「差異を普遍で越える資本主義」があるということになる。いいかえれば「理想ではなく理想主義を忘れない資本主義」なのだ。 

≪09≫  この「協力しながら競争する」という方針がなぜ理解しにくいかというと、欧米人にとっては「協調するということはときに背信にあたる」からである。もうひとつ欧米にはなかなかわかりにくいことがある。それは日本には共同体の時間が流れていて、そこには個人の時間がないように見えることだ。欧米にとって共同時間が共有されていることは、そこに共謀があるということなのである。ところが日本にはあまり共謀がない(談合はあるが)。本書はその理由を仏教の影響と見ているが、これがあたっていないことは日本人は知っている。しかし、日本人もなぜ「共同時間の資本主義」を選択しているのかは、何も知ってはいない。 

≪010≫  ひとつだけ本書が言いあてている特徴がある。それは日本の資本主義は「知識集約型」であろうということだ。どうも本書の著者たちが野中郁次郎を読みすぎたせいのような気もするが、これは当たらずとも遠くない。
ただし、実際の日本人は自分たちがどのように知識集約的であるのか、その方法を取り出せないでいる。
そのためかつての松下・ソニー・トヨタ・ホンダの成功を日本経済のモデルにしなかった。
これも欧米から見るとわからないことらしい。 

≪011≫ 【オランダの資本主義】 
オランダでは、高度に組織化された行動を自分がとれるということが自由なのである。ようするにこの国の資本主義は「個人と社会という相対立する立場を調整するための資本主義」であり、ビジネスマンの行動原理でいえば「中立にいて感情を動かす資本主義」なのである。 

中谷巌『資本主義はなぜ自壊したのか』「日本」再生への提言を読んで

若くしてハーバード大学大学院でアメリカ経済学の最前線を学び、
細川内閣と小渕内閣では経済改革の急先鋒として、規制撤廃を叫んでいた著者は、
やがて新自由主義と市場原理主義の暴走に、ついに転向を決意して、反旗をひるがえすようになった。
なぜ中谷巌は転向したのか。なぜ資本主義はおかしくなったのか。この二つを自身の体験をもとにふりかえって、
本書は希有の自己懺悔と告発の書になりえた 

『資本主義はなぜ自壊したのか』①

≪01≫  「今にして振り返れば、当時の私はグローバル資本主義や市場至上主義の価値をあまりにもナイーブに信じていた。そして、日本の既得権益の構造、政・官・業の癒着構造を徹底的に壊し、日本経済を欧米流のグローバル・スタンダードに合わせることこそが、日本経済を活性化する処方箋だと信じて疑わなかった」。 

≪02≫  「だが、その後におこなわれた構造改革と、それに伴って急速に普及した新自由主義的な思想の跋扈、さらにはアメリカ型の市場の原理の導入によって、ここまで日本の社会がアメリカの社会を追いかけるように、さまざまな副作用や問題を抱えることになるとは、予想ができなかった」。 

≪03≫  中谷さんは一橋大学を出たあと日産自動車に勤めていたのだが、27歳のときにハーバード大学の大学院の経済学博士課程に飛び出していった。1969年のことだから、かなり早い時期にアメリカ型のエコノミストの群れに身を投じたといっていい。指導教官はケネス・アロー。そのころすでに“経済理論の神様”と称され、すぐにノーベル賞を受賞した(1972)。 

≪04≫  アメリカにおける経済学や経営学をめぐる学業の環境はすばらしい。セオリー・ビルディングの方法を教えこむのも徹底している。このことはぼくも野中郁次郎さんから早々に聞いた。2年間でマクロ経済学・ミクロ経済学・経済史・計量経済学がマスターできる。中谷さんはアメリカの経済学と経済主義に大いにかぶれた。その目で日本の現状を見ると、既得権によってがんじがらめになった閉鎖社会に見えた。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪05≫  当時のアメリカ経済学は、サミュエルソンの理論が中心になった「新古典派総合」とよばれるもので、マーケット・メカニズムを重視するマネタリストの立場と、政府の介入を適度に許すケインズ経済学とを適宜組み合わせるもの、悪くいえば折衷主義、良くいえば穏健な経済学である。ところがその後、アメリカ経済学は政府の市場介入を全面的に否定する市場原理主義のほうに傾いて、「合理的期待形成学派」とよばれる急進派が主流を占めていった。 

≪06≫  が、そういうことが見えてくるのはまだまだ先のこと、中谷さんは1974年に帰国すると、大阪大学や一橋大学の教壇に立ち、マーケット・メカニズムのすばらしさを学生たちに教えるようになった。 

≪07≫ やがて中谷さんは「改革派」の急先鋒として知られるようになり、とくに1993年に自民党政権が倒れて細川内閣が誕生したときは“おカミからのお呼び”の声がかかるようになる。首相の諮問委員会の「経済改革研究会」(いゆる平岩委員会)の委員になって、経済改革をすすめる提言をつくってほしいというのである。中谷さんは水を得た魚のように「規制撤廃」をまくしたてた。規制にしがみつく官庁や業界との全面対決も辞さなかった。 

≪08≫  細川内閣は佐川急便1億円献金事件の問題と「福祉税」という名の消費税導入の混乱で、あっけなく瓦解した。わずか8カ月での総辞職。それでも中谷さんに対する期待はおさまらない。小渕内閣が誕生した1998年には、高校の先輩でもある堺屋太一から「経済戦略会議」のメンバーになれという電話がかかってきた。そのころの堺屋は小渕内閣の経済担当大臣である。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪09≫  議長代理になった中谷さんは、200項目をこえる改革提案をまとめる。竹中平蔵もメンバーに入っていた。ところが、小渕首相は急逝。経済改革は短命の森内閣をへて、政権は小泉内閣にバトンタッチされることになった。ヘンジンの登場だ。姜尚中(956夜)は「国民なきナショナリズム」をふりまいたと言っている。新たな経済政策のリーダーのほうは竹中平蔵になった。 

≪010≫  そのあとの出来事は言うまでもない。市場原理主義はグローバリズムの美名のもとに日本を覆い、不良債権問題に大ナタがふるわれ、郵政民営化が着手された。いわゆる「構造改革」の進展である。 中谷さんは首相官邸に行くことがなくなり、代わって1999年にソニーの社外取締役に誘われた。このニュースも当時の経済界の話題になり、社外取締役ブームの火付けになった。それをきっかけに一橋大学を辞めた。その後は取締役会の議長すら務めた。  

≪011≫  しかし実業の社会に身を投じてみると、すでに日本企業や産業界のそこかしこに過剰な金融主義と過度の自己保身主義が蔓延しつつあること、コーポレート・ガバナンスと言われている背景ではたんに経営陣の高額報酬がアメリカに追随しておこなわれようとしていたこと、その裏では派遣社員などによる労働市場の薄っぺらな補強ばかりが進行していたことなど、どうもおかしなことばかりがおこっている。そういうことが見えてきた。  

≪012≫  副作用もおこっていた。不良債権の掃除をしたはずの経済は不安定になるばかりだし、格差は拡大するばかり、環境破壊にも歯止めがかからない。「構造改革なくして成長なし」というスローガンはあまりにも空しいものだった。 こうして、中谷さんはじょじょに自身の「転向」を覚悟するようになっていく。だから本書は懴悔の書であって、新たな展望の書なのである。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪013≫  グローバル資本主義という言葉が一般化してきたのは、1991年のソ連崩壊からだった。それまでは米ソの対立、資本主義圏と社会主義圏の対立、軍事の対立、民族の対立があり、世界中のどこにもグローバルで一様なものなどなかった。 

≪014≫  それがソ連崩壊と、それに続くインターネットの波及とが重なって、まずは情報のグローバル化がおこり、ついで金融のグローバル化が進んでいった。ここで圧倒的に有利になったのがアメリカを頂点とする先進資本主義国で、市場をどのようにでもコントロールできると思うようになっていく。市場原理万能主義の麻薬が効きはじめたのだ。そんなことは傲慢きわまりないことだったけれど、しかしレーガノミックス以降のアメリカは東海岸ウォールストリートの金融業界と西海岸シリコンバレーのIT業界を両輪に、グローバライゼーションを邁進する。とくに1993年からの進軍は凄まじい。日本もITバブルに向かって急進しつづけていた。 

≪015≫  金融とITには著しい共通の特色がある。二つとも、グローバル化にはもってこいの“身軽な産業”であるということだ。重さがないということだ。国境にも縛られることなく各地に進出して、“身重な製造業”を抜きさることができた。 

≪016≫  そこへマネタリズムによる異常化学反応がおこった。金融とITとの二つがすぐさまがっちり結びつき、数々の新たな金融情報商品がつくられ、その多くは安い金利で資金を何倍にも膨張させることができるレバレッジ経営の柱となっていったのである。ここにMBAたちによる金融工学が加わり、ハイエクなどの思想を極端化したフリードマンらによる新自由主義思想が加わった(1275夜『暴走する資本主義』、1277夜『変貌する民主主義』)。 

≪017≫  これで何がおこったかというと、デリバティブをはじめとした金融先物証券によるマネーゲームが金融機関と投資家たちを躍らせたのである。カネを未来の時間にくっつけて証券化し、これを先物として売り買いすることができるようになったのだ。この時点ではまだ日本の六本木ヒルズ族は登場していないけれど、堀江貴文や村上世彰たちは、この金融とITの合体に早くから強い関心をもっていた。 しかし、そこにはアメリカという国の特別な事情も絡んでいたはずなのである。そこを継承しすぎるのは甚だ危険だったのだ。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪018≫  戦後のアメリカという国は、ドイツと日本という“ファシズム国”に勝利することによって「自由を覇権とした国家」として君臨してきた。ただしそのころは、まだソ連と共産圏というもう一つの体制があった。そこで両国は、核開発を前提に「冷戦」という巨費と巨悪を駆使した驚くべきゲームを開始した。 

≪019≫  冷戦ゲームはケネディとフルシチョフのキューバ危機に象徴されるように、ほぼ一進一退を繰り返すのだが、その後、アメリカはベトナム戦争にのめりこみ、泥沼のような体験と軍事費のむだな投入に走った。それとともにこの時期は、アメリカの産業界にも大きな変質がおこっていた。品質の低下と消費主義の台頭である。 

≪020≫  そもそもアメリカ経済は規模が大きいこともあって、輸出依存型ではなくて国内経済充足型に動いてきた。したがって70年代までは産業の中心は自動車などの製造業であり、国際展開するといってもせいぜい海外に製造拠点を移してそれぞれの国で実績を上げるという方式にとどまっていた。 

≪021≫  それが80年代になると自動車産業や家電産業が日本やドイツに追いつかれ、競争力を失っていった。そこで日本に対する経済摩擦をほとんど故意ともいえるやりかたで引き起こし、日本市場をアンフェアであると断定するようになっていった。ジャパン・バッシングである。 

≪022≫  ところが、そこにソ連の崩壊がやってきた。東欧社会主義にピリオドが打たれた。こうしてアメリカは“一極”だけで世界の覇権をほしいままにする時代を迎えた。「自由」も「民主主義」も、「歴史」さえ、アメリカが独占することになったのである。が、そこに落とし穴もあった。楽観も傲慢もあった。ユーロ経済が着々と準備を進めていたし、シンガポールや中国や韓国などの新たなアジア資本主義が台頭しつつあったし、北欧も新たな転換を計画しつつあった。おまけにアメリカ経済が「双子の赤字」をかかえたままだった。 

≪023≫  かくて90年代に近付くと、アメリカは自国経済が単独で賄えないことを自覚していくようになる。そこで、産業の中心をデトロイトなどの中西部から「東の金融と西のIT」にシフトさせ、ここにニューエコノミーで乗り切っていくという新たなビジネスモデルが台頭してきたのだった。これが、ゴールドマンサックス、モルガンスタンレーなどの投資銀行が提案した「レバレッジ経営による金融立国型」のビジネスモデルである。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪024≫  資本主義は社会的な問題解決を追求するために生まれてきたシステムのひとつである。ただしこのシステムには生活の充足や文化の維持などを解決する方法はまったく入っていない。資本主義は水力発電と同様に、「力」の高低差や差異化をもって動いてきた経済システムのことをいう。 

≪025≫  その「力」の差は資本主義では、もっぱら「価格」(プライシング)にあらわれる。だから価格がついているのは商品だけではない。労働にも価格がつく。それが「賃金」というものである。むろん土地にも価格がついた。 

≪026≫  いやいや、商品や労働や土地や才能に価格がついているだけではなかった。お金自体にも価格がついた。ヒト・モノ・カネ・情報とよくいうけれど、まさにカネにも価格がついた。それゆえ「利子」というものが生まれた。そのため、経済力がある国や地域ではお金のもつ価値は大きく、利子率も高くなるから、資本は利子の高いほうに流れていき、一方、不況の国や地域では利子率が低く、それに応じて利潤も低くなる。  

≪027≫  やがて、カネにカネがまつわりついてくるというしくみに着目する考え方や行動が目立ってきた。これがグローバル資本主義のハシリというもので、利子率の低い国で資金を調達し、利子率の高い景気が上向きの国に投資していくことでまわっていくことを発見した。資本主義経済は一部の公共財(水や空気など)をのぞいて、ほとんどあらゆるものに価格がついている。したがって、グローバル資本はこれらの“値札”を徹底的に比較して、どこに資本が動いていけば投資者が有利になるかを決めるのである。 

≪028≫  それでもかつては、政治的もしくは技術上の制約があって、カネ(資本・利子)は国境を超えるのに限界があった。障害もあった。とくに東西冷戦体制のもとでは、資本主義が活動できるのは西側世界だけだったため、このような体制のなかでは、マルクス経済学による国家管理の経済と市場を活用する西側資本主義とは、相互に対立したままで、西側でも過度な搾取や収奪をするよりも適切な再配分をおこなう資本主義が慣例になっていた。 

≪029≫  けれども冷戦の終結をきっかけに、東側諸国が一挙にグローバル・マーケットに入りこんでくることになってしまった。それが幸か不幸か、IT革命の波及とほぼ同時期だったのである。これで、ヒト・モノ・カネの「高低差」がしだいに地球規模に広がり、グローバル資本に有利なシナリオが動くようになった。それでどうなったのか。資本主義は冷戦期のものとはすっかり様相を変え、つねに「高低差」を求めるだけのグローバル資本主義に驀進していった。これを促進したのが新自由主義の経済理論だったのである。  

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪030≫  近代経済学はもともと市場における「完全競争」を前提にしている。何をもって完全競争というかというと、①経済主体の多数性、②財の同質性(一物一価)、③情報の完全性、④企業の参入退出の自由性、という4つの条件が満足されていることをいう。 

≪031≫  この4つの条件がそこそこ満足されていれば、仮に景気の変動や物価の変動などがあったとしても、結局はマーケット・メカニズムがはたらいて(つまりアダム・スミスの「見えざる手」がはたらいて)、需要と供給のバランスがうまくとれていく。そうすれば資源の無駄遣いのない効率的な配分が進んでいく。そういう見方である。 

≪032≫  むろん、こんな理想的な条件が完全に満足されていることはありえない。経済学者たちもそのことは十分に承知していた。そのため、自由競争によってマーケット・メカニズムがはたらいても、なお「国民の経済」に歪みや偏りがおこるようであれば、つまりは「市場の失敗」がおこるようであれば、税金や補助金や社会保障給付などによって、所得の再配分を政府がやればよい。こういう考え方が出てきた。いわゆる「厚生経済学」である。 わかりやすくいえば、金持ちから税金をとって貧しい連中にそのカネを再配分することを政府がしていきなさいという考え方だ。 

≪033≫  ところが、IT革命が普及したことによって、ほぼこの4つの条件に近い状態が市場に出現しているとみなしたのが新自由主義経済学の理論なのである。新自由主義は「完全競争」こそが「自由競争」で、そこではヒト・モノ・カネは必ずやベスト・レスポンスをもって再配分されるはずだから、政府は所得や富のシステムにはできるかぎり関与せずに「小さな政府」であろうとすることを守り、むしろ減税政策のほうに加担すべきだと説いたのだ。 この主張は厚生経済学を前提にして、さらにその不備を改めていったものなのだが、ここにいくつかのトリックがひそんでいた。麻薬も含まれていた。 

≪034≫  厚生経済学は、政府が「よりよい施策を行使する」ということを前提にしているのだが、まずもってこの前提があやしかった。政府が正確な進路をとりつづけるなんてことは、ほぼありえない。日本のばあいは、官僚主導によって利益や権益が誘導されていくことはとくによくおこる。  

≪035≫  だから厚生経済学の上に乗っかって、政府の役割を縮小したとしても(「小さな政府」にしたとしても)、話は結局は同じことなのだ。通貨政策の綱渡りが続くことは変わらないし、「官から民へ」といっても企業が政府にとって代わっただけで、よりよい施策が産業界にもたらされる保証など、ほとんどありえない。むしろ企業にとってのガバナンスこそ、難しい。中谷さんがソニーなどを通して見た民営社会の実態はそういうものだった。 

≪036≫  いったい問題はどこにあったのか。アメリカなのか。アメリカの傲慢なのか。アメリカが生んだ新自由主義という思想やしくみなのか。あるいは厚生経済学の行き過ぎなのか。それを信じた世界の経済社会のありかたなのか。ドルが基軸通貨であることなのか。  それとも資本主義そのものに大きな欠陥があるのか。それは市場原理万能主義というものなのか。本書では、それらのいずれにも少しずつ問題があったという立場をとっている。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪037≫  経済人類学を提唱をしたカール・ポランニー(151夜)が、資本主義経済を「悪魔の挽き臼」だと譬えたことは有名である。ポランニーが『大転換』のなかで「悪魔の挽き臼」と名指ししたのは、近代になって市場経済が資本主義に包みこまれていくことになったとき、交易の対象になるべきではないものまで「価格」をつけたことに対してだった。   

≪038≫  一言でいえば、「労働」と「土地」と「貨幣」に価格をつけた。これが資本主義を「悪魔の挽き臼」とし、その後の市場経済をおかしくさせた原因だというのだ。これらは価格取引の対象にしてはいけない“禁断の商品”だったのである。仮に土地や労働に不動産価格や賃金などの価格がついたとしても、それを市場で取引するようになったため、そこに根本的な矛盾が引きおこされたのだと見た。 

≪039≫  こういうふうになったのは産業革命以降のことだとポランニーは考えた。18世紀のイギリスでは、ロンドンやリバプールやマンチェスターで技術革新と近代工業が生まれたわけだが、それは農村部から多くの労働者を導入することによって成り立った。かれらはエンクロージャー(土地の囲い込み)によって土地を奪われ、そのかわり身ひとつで近代工場になだれこんでくる。土地を離れた労働者は現金収入によって生活をする非熟練労働者になっていく。チャールズ・ディケンズ(407夜)が描いた『オリヴァー・ツイスト』はその赤裸々な姿だった。 

≪040≫  これはその後の産業社会の基本となっていった“原図”である。今日のビジネス社会もサラリーマン社会も、すべてこの“原図”の上に乗っている。しかしポランニーは、このような産業社会の成立こそが悪しき「大転換」(great transformation)だとみなしたのである。ポランニーはそこからつねに「失業」と「貧困」がおこると考えた。社会はそれに苦悩するとかんがえた。 

≪041≫  こうしたポランニーの考え方には、商品というものは、「価格がついて売れたときには、それと同じものが商品として再生産されるべきだ」という原則がある。 

≪043≫  かつて土地には徴税権がかけられていたにすぎなかった。フランスで土地が売買可能になったのはナポレオンが制定した近代民法によるもので、それによって初めて土地は「個人の私有財産」になった。日本でも明治6年の地租改正によって物納が金納に変わり、それとともに土地の所有者の名が公開されて、土地の私有が公然となっていった。 

≪042≫  労働や土地にはそのような同一性や同様性がない。人生は一回きりの時間なのであって、再生産は不可能であり、土地も売れるからといってその一回性をリピートできるものではない。 

≪044≫  そういう労働や土地を売り買いできるようにして、リピートできるようにしていくのは「悪魔の挽き臼」のしわざだというのだ。本書ではふれられていないけれど、この指摘はマルクスとエンゲンルスが分析したものとも一致する。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪045≫  しかしながら、この“神話”によって何がおこったかといえば、伝統社会が解体されていった。旧来の“神話”は解体され、土地や習慣に結びついた文化が分断されていった。ポランニーはそこに、資本主義が市場経済を覆いすぎた問題があると見たわけである。ポランニーは本来は「社会が経済を覆う」のであって、「経済が社会を覆うのではない」と見たわけだ。経済が社会に埋めこめなくなってしまったのは、これは近代の傲慢だというのだ。 

≪046≫  ポランニーはそこまで指摘しなかったが、貨幣(カネ)を売り買いの取引にしてしまったことも、まさに「悪魔の挽き臼」のなせるしわざだった。では、なぜこんなにもカネ自体が暴走するようになったのか。 

≪047≫  資本主義の初期においては、貨幣は金本位制度に裏打ちされていた。手持ちの紙幣を銀行にもっていけば、それに相当する価値の金(きん)を入手できたのである。むろん金(きん)とて土地と同様に自然界のものであり、これまた限られた資源であるのだから、これを交換できるようにすることには本来矛盾はあるのだが、それでもまだしも金本位制が動いていれば、貨幣の暴走に歯止めをかけることにはなっていた。 

≪048≫  それが各国で金本位制が中止されることになったのは、第一次世界大戦がその大きな転換点になったのだが、各国で膨張した戦費を支払ううえで金(きん)との兌換を維持することが不可能になったからだった。そこヘ1929年のアメリカ発の大恐慌がやってきて、金本位制は二度と戻らなくなった。 

≪049≫  そこでいったんは金本位制に代わるIMF体制(国際通貨基金制度)が導入された。けれども1971年にアメリカが金(きん)との兌換を停止すると、これをきっかけに各国が自由に貨幣を発行できる「管理通貨制度」が生まれ、貨幣はもはやどんな裏付けもないものとなり、この無目的な性格を活用したマネーゲームが始まり、これを金融工学が理論化するに至ったのだった。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪050≫  いささか中谷さんの議論を広げて紹介しすぎたかもしれないが、本書はだいたいは以上のような視点をつかって、中谷さん自身が“盲信”していた市場原理万能主義の“神話”の突き崩す試みをしている。 

≪051≫  ほかに、ブータンやキューバやデンマークの例、キリスト教型一神教がもっている弊害についての説明、「日本という方法」をめぐる示唆、日本企業のデザイン・インなどの工夫、貧困や格差に対する対策、なかでも「還付金付き消費税」のアイディアなども案内されているのだが、本書の底辺を流れる懴悔力や告発力にくらべると、それほど強調される「質感」にはなっていない。その気分、なんとなくわかる。 

≪052≫  もっとも「還付金付き消費税」については、けっこうな自信があるようで、どうしたら日本の格差社会や貧困波及を改善できるかということが述べられている。 

≪053≫   このアイディアは、デンマーク、スウェーデン、フィンランドといった国々が「国民負担率」(税負担と社会保険料負担の合計)が70パーセント近くになっているにもかかわらず、北欧諸国の国民がこれを支持しているという実情にヒントを得たもので、国民に収入の7割も国に預ける北欧諸国のようにはできないものの、なんらかの日本的な工夫があってもいいのではないという見方になっている。 ごくおおざっぱなところだけを紹介するが、ここには中谷さんの「告発から提案へ」という姿勢があらわれているようだ。 

≪054≫  実はかつて、日本の所得税(国税)も最大75パーセントになっていたことがあった。それがいまでは所得税の最高税率は37パーセントで、地方税を併せても50パーセントをこえない。 こんなふうになったのは、レーガノミックスを真似て、高額所得者に対する税率をうんと下げてしまったからである。これは、稼いだ連中から税金を巻き上げて貧しい者に再配分をするのは、市場経済のモラルを破壊し、自助努力や自己責任の力を低下させるものだという新自由主義のイデオロギーが日本の経済政策にかぶってきたからだった。 

≪056≫  そこで中谷さんは、基礎年金の財源を税方式に徹底し、そこに消費税率を上げた福祉目的税を確立するべきだと言う。現在の年金制度では、不安な雇用環境にある人々は保険料を完納することは望めない。完納できなければ、かれらは将来に年金を受け取れない。それよりも基礎年金の財源を消費税に転換すれば、保険料の納入や不払いに関係なく、すべての人々に基礎年金が払えるようになる。むろん消費税は上がるけれど、そのぶん保険料を払わなくてすむ。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪055≫  しかしそのせいで、いまや日本は「派遣切り」どころか貧富の格差をますます大きく広げつつある社会をつくってしまった。そこで何がおこっているかといえば、社会のつながりや将来の展望がきわめて不透明になってきた。 

≪057≫  現状の社会保険庁のていたらくを見ればわかるように、年金制度の維持にはあまりに無駄なコストがかかりすぎている。このコストも省ける。また多額の消費をする富裕層がより多くの消費税を負担するのだから、所得の再配分もすすむはずなのである。 むろん、こういうアイディアには反論がある。とくに「消費税には逆進性がある」という議論が、これまでは大きかった。消費税には脱税や節税ができないという大きな利点があるかわりに、一律に課せられるため貧困層にも課税がゆきわたりすぎるのである。 

≪058≫  いま、年収200万円を稼げない日本人は1000万人をこえた。仮にこういう状況のなかで消費税をヨーロッパ並みに20パーセントに上げたとすると、年収200万円の所得者の税負担は、すべての収入を消費にまわしたとして、40万円になる。年収1億円の所得者には8000万が残るのに、これでは貧困層のほうに重税感がある。では、どうするか。それが中谷さんが本書で提案した「還付金付き消費税」というものだ。  

≪059≫  詳しいルールはぼくが安易に説明すると誤解されると困るので、本書を読んでもらうか、別の中谷さんの文章や記事などを見てもらったほうがいいが、いささか注目すべきなのは、ここには「ベーシック・インカム」(基礎的所得)という思想が導入されているということだ。これは、国民の生活を守るためには、「国家は無条件で国民に所得を給付する義務がある」というもので、今後の社会制度を議論するにあたって、ぜひとも検討すべき考え方のひとつなのである。憲法第25条の「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とも合致する。  

≪060≫  ところで、ぼくは知らなかったのだが、中谷さんが実際に現地で見聞取材したところによると、デンマークでは企業はいつでも余剰人員を解雇できるようになっているらしい。しかも解雇された従業員たちは、それに対する不満をほとんどもたないのだという。 

≪061≫  なぜなら、デンマークでは解雇されても失業保険が手厚く支給されるので生活は急に不安にはならない。それとともに同一労働・同一賃金制度をとっているので、同じ仕事をしているかぎりは、同じ会社で何年務めていても賃金は上がらない。そこで大事になるのがスキルアップだということになるのだが、失業はこのスキルアップをするチャンスになるらしい。全国規模でかなり充実した職業訓練所ができていて、解雇されると同時に無料の職業訓練学校にも行ける。考えようによっては、ときどき解雇されたほうがかえって技能訓練ができるということになる。 

≪062≫  中谷さんは、このような制度はマクロ的には労働市場の流動性が確保されることになるとも見たようだ。企業側も経済情勢や実績に応じて、労働コストや人事コストを「可変費用」とみなせるようになる。国のレベルで見ても、産業構造の転換がもっと容易になるかもしれない。 

≪063≫  かつての日本の終身雇用性はそれなりに独自の長所をもっていたのだが、過剰雇用になったばあいに雇用調整がきかないという欠点をもっていた。そのためしだいに非正規社員をふやすようになっていったのだが、それが従業員の一体感を損ねた。アキハバラで無差別殺人をした青年は、その一体感から切り離されたという被害意識をもっていた。 

『資本主義はなぜ自壊したのか』

≪064≫  これからの日本は新たな雇用に関する改革が着手されなければならない。ただし、デンマークのような大胆な改革をするには「小さな政府」にこだわっていては何もできないし、コーポレート・ガバナンスやコンプライアンスに縛られていても二進も三進もいかない。 

≪065≫  実はスウェーデンは1000万人に満たない「小国」であり、デンマークやノルウェーはその半分程度の規模なのである(1256夜『世界の小国』)。一方、現在の日本は多くの場面で地域コミュニティの機能を失い、「絆」を断たれた分断された社会が無数のひび割れのような裂け目を見せている。農村部では「限界集落」化がおこって高齢者が地域を守るのが困難になっているが、同じことが都市部にもおこっている。 

≪066≫  少子化だけが問題なのではない。1億人をこえる日本人が十把一からげの政策や地域自治や福利厚生の傘の中に入っていることが問題なのである。むしろ領域や段階に新たな「意味」をもたせることのほうが重要なのだ。ということは、いま日本では、さかんに「道州制」が議論の俎上にのぼっているけれど、新たな社会や文化を守ったり作ったりしていくということを考えるのなら、道州制でもまだまだ大きすぎるのである。もっと小さな行政単位と介護や医療や生活や文化が取り組まれるべきなのである。日本には、もっと「小さな領域」をダイナミックにつないでいく方法が必要なのである。 

≪067≫  EUが制度の平準化をめぐって提案している「相互承認」(mutual recognition)という考え方がある。今日の日本は日米同盟を漂流させながら、東アジアとの紐帯を模索する必要が出ているのだが(だからヒラリー・クリントンも日本に来たあと東アジア諸国をまわるのだが)、日本自身にもそれぞれの領域の凹凸をつなぎうる相互承認力が必要になっているのはあきらかなのだ。 

≪068≫  こうして中谷さんは「相互承認」の次世代に望みを託しつつ、本書を次のような言葉でしめくくっていく。「自由とは禁断の果実であり、ひとたびその美味しさを知ってしまった人間が自らを抑制するほど賢くなっているかどうかは疑わしい。となれば日本としては、グローバル資本主義から受ける傷を最小化するため、まずは自国単位でできることは徹底的にやるべきであるとするしか、道はあるまい」というふうに。 

≪069≫  こうして中谷さんは「相互承認」の次世代に望みを託しつつ、本書を次のような言葉でしめくくっていく。「自由とは禁断の果実であり、ひとたびその美味しさを知ってしまった人間が自らを抑制するほど賢くなっているかどうかは疑わしい。となれば日本としては、グローバル資本主義から受ける傷を最小化するため、まずは自国単位でできることは徹底的にやるべきであるとするしか、道はあるまい」というふうに。 

EUが移行しようとしているサーキュラーエコノミーへ

ブレクジットの行方