資本主義を科学する

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ミカエル・エンデコーナー  ーーモモと一緒にお金を問うーー

《001》 こういう本をどう読むかというのは、どの国の経済のシステムにたって何をしたいのかによって、大きく異なってくる。

《002》 この本が書かれたのは1993年だが、このころアメリカは日本に腹をたてていたか、恨んでいた。ところがこのあと、アメリカは低迷を脱出し、逆に日本がひどい低迷を続ける。この本はそういう転換点で書かれたものなので、おそらくはいま読むと、当時のアメリカが何をもって“敵”の成功を見破り、何をもって自身の停滞を読み替え、どのように危機を脱出したのか、きっとそういうことも読めてくる。

《003》 ちなみにぼくはどう読んだかということは、いまとなっては参考にならない。このころ、ぼくはウォーラーステインの「世界経済システム論」に飽きて、もっとダイナミックな世界経済の変容を見たくて、本書をはじめとする“なまもの”を片っ端から読んで(レスター・サローの『資本主義の未来』とかミシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』とか、ロバート・ハイルブローナーの『二十一世紀の資本主義』とか)、多様な資本主義というものをただ観察していたからだ。“なまもの”だから、その場で食べたら、それでおわりなのだった。

《004》 さて、七つの資本主義とはアメリカ、イギリス、スウェーデン、フランス、日本、オランダ、ドイツのことをいう。

《005》 いろいろ言いたいことはあるが、その判断は保留して、おもしろいから、著者たちがこれらの資本主義にくだした特徴づけを紹介しておこう。

《006》 【アメリカの資本主義】この国の資本主義は「勝利に酔うための神話的な資本主義」である。しかし、すべての基準は自己基準的であり、「他人本位」であることを絶対に嫌う。とくに勝利を握る者よりもヒーローをとりまく不運な群が数多くなければならないことに特徴がある。そのためというか、そのかわりというか、「公正な競技場」というものを必ず用意する。経済活動はおおむね逐次的で、生得地位が獲得地位によってどのように変わっていくかということのみが、経済活動の評価の指針になる。

《007》 【イギリスの資本主義】剥き出しの自然科学や社会科学の合理性を押し付ける資本主義と、紳士淑女のための分析満足を与えるための資本主義と、そして優越心のためのボランティア資本主義が、分かちがたく混在している。意外に知られていないのは、イギリスでは製品よりも文化よりも、貨幣(ポンド神話)が一番価値が高いということである。

《008》 【スウェーデンの資本主義】かつては社会主義と資本主義の間にいたと思われていたスウェーデンだが、実際には「社会品質に関心がある資本主義をつくりたがっている国」だった。「社会が市場をつくるもので、市場が社会をつくるものではない」というこの国の経営者たちの哲学は、アメリカや日本に聞かせたい。

《009》 【フランスの資本主義】本書でフランスは例外扱いされている。その理由はフランスは外からフランスが理解されることを拒否しているからである。しかし、その内実を見ると、ここには中央集権的な権威によって守られている「心の状態によってどうにでもなる資本主義」がある。つまり、ここにはヨーロッパ最大のタテ社会があるとともに、すべての経済活動を属人化してしまう資本主義があるということだ。

《010》 【日本の資本主義】「状況倫理をうかがいながら発展する反知性的な同質資本主義」。これが本書が与えた日本の資本主義に対するあけすけなニックネームである。

《011》 よくいえば「複眼的資本主義」、ふつうにいえば「つねに代替をもとめている資本主義」、ぶっちゃけていえば「協力しながら競争するという世界中が理解できないシステム原理で進んでいる資本主義」ということになる。

《012》 この「協力しながら競争する」という方針がなぜ理解しにくいかというと、欧米人にとっては「協調するということはときに背信にあたる」からである。もうひとつ欧米にはなかなかわかりにくいことがある。それは日本には共同体の時間が流れていて、そこには個人の時間がないように見えることだ。欧米にとって共同時間が共有されていることは、そこに共謀があるということなのである。ところが日本にはあまり共謀がない(談合はあるが)。本書はその理由を仏教の影響と見ているが、これがあたっていないことは日本人は知っている。しかし、日本人もなぜ「共同時間の資本主義」を選択しているのかは、何も知ってはいない。

《013》 ひとつだけ本書が言いあてている特徴がある。それは日本の資本主義は「知識集約型」であろうということだ。どうも本書の著者たちが野中郁次郎を読みすぎたせいのような気もするが、これは当たらずとも遠くない。ただし、実際の日本人は自分たちがどのように知識集約的であるのか、その方法を取り出せないでいる。そのためかつての松下・ソニー・トヨタ・ホンダの成功を日本経済のモデルにしなかった。これも欧米から見るとわからないことらしい。

014》 【オランダの資本主義】オランダでは、高度に組織化された行動を自分がとれるということが自由なのである。ようするにこの国の資本主義は「個人と社会という相対立する立場を調整するための資本主義」であり、ビジネスマンの行動原理でいえば「中立にいて感情を動かす資本主義」なのである。

《015》 【ドイツの資本主義】以上の諸国にくらべて(とりわけアメリカ人にとって)、最もわかりにくいのがドイツの資本主義である。アメリカやイギリスは分析的だが、ドイツは総合的であり、アメリカやフランスは個人主義的だが、ドイツは共同社会的である。

《016》 ドイツは「普遍」に囲まれていて平気な国なのだ。こんな窮屈がどうして選択できるのか、アメリカ人にはわからない。けれどもドイツではそこに美学すら見出している。そのため、英語経済圏や日本では公的部門と私的部門を分けるのがふつうなのに、ドイツでは公益と私益の両方にまたがったり、両方を調停する中間組織が数多く出てくることになる。雇用者団体がたくさんあるのもそのせいである。しかも、これらはそれぞれ自分たちが「普遍」を守っているとおもいこんでいる。

《017》 一言でいえばドイツには「差異を普遍で越える資本主義」があるということになる。いいかえれば「理想ではなく理想主義を忘れない資本主義」なのだ。

《019》 参考¶レスター・サロー『資本主義の未来』はTBSブリタニカ、ミシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』とロバート・ハイルブローナーの『二十一世紀の資本主義』はダイヤモンド社。

≪01≫  いま、ぼくは「世界の見方をコンテント・インデックスするための作業」の一応の仕上げにかかっている。三十年来の懸案の仕事で、マザープログラムとしての「目次録」というものだが(詳しいことはそのうち公表する)、これをイシス編集学校の「離」の演習を修了した者たちがつくる「纏組」のメンバーとともに取り組んでいる。この年末年始にはちょっとピッチを上げたい。

≪02≫ なかで二人の若い仲間にエディトリアル・リーダーシップを期待している。一人は香港を拠点に投資会社を動かしている「川」君で、一人はチェンマイにいて化粧品会社を経営している「花」嬢である。こんな会話をしていると仮想してもらうといい。「花」は最近トルコに原料の仕入れに行ってきた。

≪03≫ 松 イスタンブールはどうだった? 花 トルコはやっぱり東と西の両方をもってますよね。それがオリーブの木の繁り方にもあらわれてます。 松 かつての日本はトルコの政治動向によく目を凝らしていたけれど、最近はダメだね。トルコが東西融合のカギを握っているのにね。香港も「東の中の西」だよね。仕事をしていて、どう? 川 すでにマネーはあまりにもグローバルになりすぎてるんですが、経営者たちのマネージ感覚はやはり中国的で、会社の将来に対するアカウンタビリティはやっぱりどこか東方的です。 花 タイのさまざまな会社は、その手工業的な生産のしくみにはまだまだアジア性があるんですが、いったんグローバルマネーの洗礼を受けると、がらりと変わります。それは日本企業の近寄り方にもあらわれている。 川 校長のNARASIA(ナラジア)のほうはどうですか。奈良とアジアを線から面へつなげていくプロジェクトでしたね。 松 ちょうど近代以降の東アジアの人物ばかりを取り上げる「人名事典」の執筆編集にかかっているんだけど、いままで誰もそんなことをしてこなかったようだね。どうも「欧米の知」に埋没しすぎた時期が長すぎた。掘り起こすのがたいへんだ。

≪04≫  まあ、こんな感じの会話をちょくちょく楽しんでいるのだが、この二人のためにも、今夜はアンドレ・フランクの『リオリエント』を紹介することにした。すでに『NARASIA2』でちょっとお目見えした本だ。榊原英資さんが紹介した。ざっとは、以下のようなものになっている。

≪05≫  ヨーロッパ人は自分たちの位置が世界の圧倒的優位にあることを示すため、かなり“せこい”ことをしてきた。わかりやすい例をいえば、メルカトール図法を波及させてヨーロッパを大陸扱いし、イギリスをインドほどの大きさにして、そのぶんインドを「亜大陸」と呼び、途方もなく大きな中国をただの「国」(country)にした。

≪06≫  そもそもアジアを含む「ユーラシア」(Eurasia)という言い方があまりにヨーロッパに寄りすぎていた。せめてアーノルド・トインビーや世界史学会の元会長だったロス・ダンがかつてかりそめに提案した「アフラジア」(Afrasia)くらいには謙虚になるべきだが、そんなアイディアはすぐに吹っ飛び、そのユーラシアの中核を占めるヴェネツィアやアムステルダムやロンドンが発信したシステムだけを、ウォーラーステインが名付けたように「世界システム」とみなしたのだ。

≪07≫  西洋史観にあっては、ヨーロッパの歴史が世界の歴史であり、ヨーロッパの見方が世界の価値観なのである。

≪08≫  さすがにこうした片寄った見方が、何らかの度しがたい社会的な過誤を生じさせてきたであろうことは、一部の先駆的な知識人からしてみれば理の当然だった。たとえばパレスチナ出身のエドワード・サイードは『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)で、カイロ生まれのサミール・アミンは『世界は周辺部から変る』(第三書館)で、西洋社会(the West)が自分たち以外の「残り」(the Rest)を“オリエンタルな縮こまり”とみなして、多分に偏見と蔑視を増幅してきたことを暴いた。

≪09≫  またたとえば、マーティン・バナールは大著『ブラック・アテナ』(新評論)で、ヨーロッパが古代ギリシアに民主的なルーツをもっているとみなしたのは十九世紀ヨーロッパが意図的にでっちあげた史的神話であり、そこには根強いヨーロッパ中心史観が横行していったことを暴露した。ミシェル・ボーもほぼ似たようなことを暴露した。

≪010≫  ヨーロッパ中心史観は“せこい”“ずるい”だけではなく、アジアについての歴史認識が決定的にまちがっていた。そのことをいちはやく証かした者たちも、告発した者たちもいる。早くにはジョゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』(思索社)という十巻近い大シリーズがあった。ぼくは七〇年代に夢中になった。本人とも会った。中国の科学技術を絶賛していた。

≪011≫  ドナルド・ラックとエドウィン・ヴァン・クレイは『ヨーロッパを準備したアジア』(未訳)というこれまた八巻をこえる大著を刊行し、十六世紀のヨーロッパ人が「中国と日本こそ未来の偉大な希望である」と見ていたことを実証した。この時期までは、ヨーロッパの宣教師・商人・船長・医師・兵士は中国と日本を訪れた際の驚きをヨーロッパの主要言語でさかんに著述喧伝していたのだ。ライプニッツでさえルイ一四世に、「フランスがライン川の対岸に関心をお持ちのようならば、むしろ南東に矛先を変えてオスマンに戦いを挑んだほうがよろしかろう」と手紙を書いているほどだ。

≪012≫  ジャネット・アブー゠ルゴドの『ヨーロッパ覇権以前』(岩波書店)という本もある。この本では、十三世紀にすでに「アフロ・ユーラシア経済」というシステムが機能していて、そこに、①ヨーロッパのサブシステム(シャンパーニュの大市、フランドル工業地帯、ジェノヴァ・ヴェネツィアなどの海洋都市国家)、②中東中心部とモンゴリアン・アジアを横断する東西交易システム、③インド・東南アジア・東アジア型のサブシステムという、三つのサブシステムが共有されていると主張した。

≪013≫  イスラムの研究者であるマーシャル・ホジソンは、近代以降のヨーロッパの世界経済研究者の視野狭窄を「トンネル史観」だと批判した。ヨーロッパ内部の因果関係だけをくらべて見てトンネル的な視界でものを言っているというのだ。

≪014≫  たしかにヨーロッパにはアダム・スミスの『国富論』は下敷きになってはいても、『諸国民の富』はまったく目に入っていない。実はアダム・スミスが「中国はヨーロッパのどの部分よりも豊かである」と書いていたにもかかわらず――。

≪015≫  どう見ても、世界経済は長期にわたってアジア・オリエントに基盤をおいていたのである。ジェノヴァもヴェネツィアもオランダもポルトガルも、その経済成長の基盤はアジアにあった。トルコ以東にあった。コロンブスが行きたかったところも“黄金のアジア”だったのである。

≪016≫  これらのことをまちがえて伝え、あるいは隠し、その代わりにその空欄にヨーロッパ中心史観をせっせと充当していったことは、近代以降の世界経済社会から得た欧米主義の大成果の巨大さからして、あまりにもその過誤は大きい。捏造されたのは歴史観だけではない。経済学やその法則化もこの史観の上にアグラをかいただけだったのだ。その責めはマルサスやリカードやミルにも、また残念ながらマルクスにも、またマックス・ウェーバーにもあったと言うべきである。

≪017≫  ようするにヨーロッパは、ウェーバーにこそ象徴的であるが、アジアの経済社会が長らく「東洋的専制」「アジア的生産様式」「貢納的小資本主義」「鎖国的交易主義」などに陥っていると強弁しつづけることで主役の座から追いやり、ヨーロッパ自身の経済成長をまんまとなしとげたのだった。

≪018≫  こうした強弁にもかかわらず(いや、故意に過誤を犯してきたからだったともいうべきだが)、ヨーロッパは十九世紀になると、それまで周辺世界を公平に学習してこなかったことはいっさい棚上げにして、その後の一〇〇年足らずで一挙にアジアを凌駕してみせたわけだ。実質的にも、理論的にも、その後のグランドシナリオにもとづくグローバリゼーションにおいても――。

≪019≫  そこでアンドレ・フランクがこれらの総点検をもって、本来のアジア・オリエントの優位は今後の二一世紀における“リオリエント現象”によって復権につながるのではないかという仮説を、本書で提出することになったわけである。

≪020≫  一言でその方法をいえば、本書ではブローデルのヨーロッパ中心の経済パラダイム論やウォーラーステイン型の近代世界システム論ではなくて、新たな「リージョナルエコノミー・システム」(地域間経済システム)が右に左に、東西に、南北に動くことになる。銀や綿花や胡椒や陶磁器が「横につながる経済力」をもって主語になっていく。

≪021≫ -01
川 どうして「アジアの経済学」が生まれなかったんですかね。 
松 欧米で? 
川 アジア人の手によって。 
松 そもそも 儒学の「経世済民」は東洋の経済思想だと思うけどね。でもそれが近代化のときに孫文をはじめ、みんな社会主義のほうに行った。日本にも三浦梅園にも二宮尊徳にも権藤成卿にも経済学はあったんだが、やっぱり近代日本人がそのことに気がつかなかったんだね。二十世紀にその必要があったときは、もうすっかり欧米エコノミーに蹂躙されていたしね。 
花 そうなると、前夜の千夜千冊の『ガンディーの経済学』(作品社)こそ、ますますかっこいいですね。スワラージ、スワデーシというより「ナイー・タリーム」ね。 
川 「富」と「貧」をつなぐ受託者制度ね。あれは「第三の経済学」というより、まさしく近代における経済社会の原点ですよね。 松 ポランニーが実践できなかったことだよね。 

≪021≫ -02
花 それをカッダル(チャルカー=手工業の国産糸で紡がれ織られた服)に人々の選好を集中させるという象徴的選択であらわしているのが、とてもかっこいい。セクシーです。 
川 アジット・ダースグプタの『ガンディーの経済学』に書いてあった「サッティヤグラハ」がそうですが、ガンディーって概念を編集的に創造してますよね。それが経済政策の「より少ない資本、それも外国資本に頼らない資本」という実践方針と合致していくのは、感心しました。 
松 そう、かなり編集的な政治家だね。 
川 「ナイー・タリーム」(新しい教育)は母語による学習と教育の徹底ですよね。 
花 子供に教えるためのシラバスは手仕事的な仕掛けで説明されているべきだというのは、涙ぐみます。 
川 あれって「離」のカリキュラムですね。「離」は子供ではなくて大人用だけど、“大人のための手仕事”でシラバスができてますよね。「目次録」も新しいシラバスになるでしょうね。 
松 うん、そうなると嬉しいね。

≪022≫  本書は六〇〇ページの大著で、十五世紀から近代直前までのアジアの経済力を克明に詳述したものであるが、その記述は研究者たちの成果と議論をことこまかに示しながら展開されているために、一般読者にはきわめて読みにくい。

≪023≫  けれどもそのぶん、経済史家やアジアを視野に入れたいエコノミストには目から鱗が何度も落ちるだろうから、ぼくのような素人にはアジア経済史研究の跛行的な比較の核心がことごとく見えてくるというありがたい特典がある。

≪024≫  が、そういうことをべつにすると、本書が提示した内容はきわめてシンプルなのである。第一点、なぜ中世近世のアジア経済は未曾有の活性力に富んでいたのか。第二点、なぜそのアジア経済が十九世紀に退嬰して、ヨーロッパ経済が世界を席巻できたのか。第三点、以上の背景と理由を経済史や経済学が見すごしてきたのはなぜか。たったこれだけだ。

≪025≫  第二点については、かつてカール・ポランニーがいみじくも「大転換」と名付けた現象で、その理由については一般の経済史では産業技術革命の成功とヨーロッパ諸国によるオスマントルコ叩きの成功とが主たる理由にあげられてきた。それがアジアに及んで、一八四〇年のアヘン戦争がすでにして“とどめ”になったと説明されてきた。

≪026≫  いっとき話題になったダグラス・ノースとロバート・トマスの『西欧世界の勃興―新しい経済史の試み』(ミネルヴァ書房)では、ヨーロッパにおける経済組織の充実と発展が要因だとされた。株式会社の発展だ。ウィリアム・マクニールの『世界史:人類の結びつきと相互作用の歴史』(楽工社)では、大転換はそれ以前の長きにわたるアフロ・ユーラシアの経済動向に関係しているという説明になった。

≪027≫  一方、ポランニーは十九世紀のヨーロッパが土地や労働を売買することにしたからだという“犯罪”の告発に徹した。

≪028≫  フランクはこれらの説明のいずれにも不満をもったのである。それが第三点の問題にかかわっていた。

≪029≫  フランクの不満を一言でいえば、多くの経済史家が「ヨーロッパ世界経済」と「それ以外の外部経済」という区分にこだわりすぎていたことにあった。その頂点にブローデルとウォーラーステインがいたのだが、フランクは当初はこの二人に依拠し、あまつさえウォーラーステインとは共同研究すらしていたのだが、ある時期からこのようなパースペクティブをいったん捨てて、もっとホリスティックな世界経済史観の確立をめざさなければならないと決断したようなのだ。

≪030≫  そこでフランクは、第一点の問題を新たな四つのスコープで書きなおすべきだと考えた。「リージョナリズム」(地域主義)、「交易ディアスポーラ」、「文書記録」、「エコロジー」(経済の生態系)だ。これによって本書の前半部はまことに雄弁な書きなおしになった。そこには第三点の「見過ごし」の理由もいちいち示されている。

≪031≫  しかしあらかじめ言っておくと、ぼくが本書を読んだかぎりでは、第二点の「東洋の没落」と「西洋の勃興」の交代がおこった理由は十分に説明されていなかった。また、十九世紀におけるアジアの後退の構造的要因をアジア自身には求めていなかった。アジアは叩きのめされたとしか説明されていないのだ。このあたりは『資本主義の世界史』や『大反転する世界』(ともに藤原書店)のミシェル・ボーのほうが明断している。

≪032≫  とはいえ、本書によって世界史上の訂正すべき問題の大半が一四〇〇年から一八〇〇年のあいだにおこったことは如実になった。ふりかえっていえば、一九三五年にアンリ・ピレンヌが「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」と直観的に指摘したことは、本書によって浩瀚なアフラジアで、アフロ・ユーラシアな、そしてちょっぴりNARASIAな四〇〇年史となったのである。

≪033≫ 
川 フランクは「東洋の没落」と「西洋の勃興」の交代の理由をあきらかにしなかったんですか。 
松 いろいろ書いているし、引用もしているんだけど、抉るようなもの、説得力のある説明はなかったね。 
花 学者さんの学説型の組み立てだからじゃないですか。 
松 そうだね。ただし、この手のものがあまりにもなかったので、従来のアジア経済史を読むよりよっぽどダイナミックなものにはなってます。ただし、読みづらい。いろいろこちらでつなげる必要がある。 
花 それでも「リオリエント現象」というテーゼは高らかなんですか。 
松 必ずしも情熱的でも、精神的でもないけれど、確実にリオリエンテーションを実証しようとしているね。

≪034≫  十五世紀からの世界経済の鍵を握っていたのは、「銀の流通」と「リージョナル交易」と「細菌のコロンブス的交流」である。その一部の流れについてはジャレド・ダイアモンドも触れていた。そこにはたえず「リオリエント」(方向を変える)ということがおこっていた。以下、興味深い流れだけを簡潔に地域ごとに紹介することにする。

≪035≫  まずインドとインド洋だが、ここでは時計回りにアデン、モカ、ホルムズ、カンバヤ、グジャラート、ゴア、ヴィジャナガル、カリカット、コロンボ、マドラス(現在はチェンナイ)、マスリパタム、マラッカ、アチェなどが交易港湾都市として次々にネックレスのように連なり、これに応じて十七世紀のムガール帝国のアグラ、デリー、ラホールがそれぞれ五〇万人内陸都市として繁栄した。

≪036≫  低コストの綿織物・胡椒・豆類・植物油などが、ヨーロッパに対しても西アジアに対しても西回りの貿易黒字を計上しつづけ、その一部が東回りで東南アジアに向かっていたのだ。これによってインドは莫大な銀とある程度の金を受け取り、銀は貨幣に鋳造されるか中国などに再輸出され、金はパゴダ貨や金細工になっていった(インドはほとんど銀を産出しない)。

≪037≫  なかでインド西岸は紅海・ペルシア湾交易の中継地となったグジャラートとポルトガルの交易集散地となったゴアを拠点に、インド東岸はベンガル湾に面したコロマンデル地域を中心に、東南アジアと中国とのあいだで綿布を輸出し、香料・陶磁器・金・錫・銅・木材を輸入していた。コロマンデルはオランダ人による世界経営の出張拠点にもなっていく。

≪038≫  次には東南アジアだが、この豊かな生産力をもつ地域ではインド洋側のクラ地峡よりも、東側の東シナ海に面した「扶南」(中国からそう呼ばれた)地域に流通センター化がおこったことが重要である。胡椒はスマトラ・マラヤ・ジャワに、香料はモルッカ諸島・バンダ諸島にしか採れなかったからだ。

≪039≫  歴史的には、ベトナムの越国と占城(チャンパ)、カンボジアのクメール人によるアンコール朝、ビルマのペグー朝、タイ(シャム)のアユタヤ朝、スマトラのシュリーヴィジャヤ王国とマジャパヒト王国などが、西のインドと東の中国の中継力を発揮して、インドの繊維業から日本と南米の銀の扱いまでを頻繁に交差させていった。

≪040≫  とくに東南アジアが世界経済に寄与したのは、やはり中国市場との交易力によるもので、たとえばビルマと中国では中国から絹・塩・鉄・武具・化粧品・衣服・茶・銅銭が入り、琥珀・紅玉・ヒスイ・魚類・ツバメの巣・フカヒレ・ココヤシ糖が出ていったし、ベトナムは木材・竹・硫黄・薬品・染料・鉛を中国に向かわせ、タイは米・綿花・砂糖・錫・木材・胡椒・カルダモン・象牙・蘇芳・安息香・鹿皮・虎皮などを中国に向け、アユタヤ経済文化の独特の栄華を誇った。

≪041≫  こうしたなかで、戦国末期の日本が一五六〇年以降に豊富な銀の産出量によってはたした役割が見逃せない。近世日本は交易力においてはまったく“鎖国”などしていなかったのだ。徳川幕府まもなくの三十年間だけをとっても、日本の輸出力はGNPの一〇パーセントに達していたのだし、その三十年間でざっと三五〇隻の船が東南アジアに向かったのだ。

≪042≫  中国についてはキリがないくらいの説明が必要だが、思いきって縮めていうと、まずは十一世紀から十二世紀にかけての宋代の中国が当時すでに世界で最も進んだ経済大国だった。そこにモンゴルが入ってきて元朝をおこしたのだけれど、それがかえって江南に逃れた士大夫・商業階級を充実させ、むしろ明代の全土的な隆盛のスプリングボードとなった。

≪043≫  中国経済は生産力は高く、交易はさすがに広い。スペイン領アメリカと日本からの銀によって経済活動が煽られたこと、米の二期作とトウモロコシ・馬鈴薯の導入によって耕地面積の拡大と収穫量の増大がおこったこと、少なく見積ってもこの二つに人口増加が相俟って、明代の中国は世界経済における“銀の排水口”として大いに機能した。「近世の中国が“銀貨圏”にならなかったら、ヨーロッパの価格革命もおこらなかっただろう」と言われるゆえんだ。科学文化史全能のハンス・ブロイアーに「コロンブスは中国人だった」と言わしめたような、途方もない世界経済情勢のモデルがそこにはあったのである。

≪044≫  もともと中国は絹・陶磁器・水銀・茶などでは世界の競争者を大きく引き離してきたのだが、“銀貨圏”になってからはさらに亜鉛・銅・ニッケルなどの採掘・合金化にも長じて、他方では森林破壊や土壌侵食すら進んだほどだった。このことは、のちの欧米資本主義諸国家の長所と短所があらわしたものとほとんど変わらない。

≪045≫  こうした中国事情にくらべると、イスラムの宗教的経済文化を背景としたモンゴル帝国やティムール帝国の威力があれほど強大だったのに、一四〇〇年~一八〇〇年の中央アジアの歴史状況はほとんど知られてこなかった。『ケンブリッジ・イスラムの歴史』などまったくふれていない。これはおかしい。シルクロードやステップロードの例を挙げるまでもなく、中央アジアは世界史の周縁などではなかったのだ。

≪046≫  それどころか、オスマントルコ、サファビー朝ペルシア、インドのムガール帝国は、すべてモンゴル帝国やティムール帝国の勢力が及ぶことによってイスラム帝国を築いたのであって、これらはすべて一連の世界イスラム経済システムのリージョナル・モデルの流れだったのである。

≪047≫  中国とて、そうした地域から馬・ラクダ・羊・毛皮・刀剣をはじめ、隊商が送りこんでくる数々の輸入品目に目がなかった。そのような中央アジアが衰退するのは、明朝が滅び、やっとロシアが南下を始めてからのことなのである。

≪048≫  そのロシアだが、ここは一貫してバルト諸国やシベリア地域と一蓮托生の経済圏を誇ってきた。ロシア経済圏が拡張するのは十七世紀にとくにシベリアを視野に入れるようになってからで、シベリア産の毛皮がロシア・ヨーロッパの毛皮を上回り、貨幣がヨーロッパから東に流れることになってからである。ピョートル大帝時代はモスクワ周辺だけで二〇〇以上の工業組織ができあがっていた。うち六九が冶金、四六は繊維と皮革、一七は火薬関連だったらしい。

≪049≫  そのほか、世界経済からは最も遠いと思われてきたアフリカにおいても、“アフラジアの経済力”との連携が結ばれていた。たとえばタカラガイ(宝貝)だ。柳田国男も注目したタカラガイの、もともとの主産地はモルディブ諸島で、それが南アジアでタカラガイ貨幣として使われるようになり、ヨーロッパ人(ポルトガル、オランダ、ついでイギリス)はそれを逆にアフリカに持ち込んで黒人奴隷を安く買いまくったのである。

≪050≫  以上のちょっとしたスケッチでもわかることは、われわれはこれまで金や金貨や金本位制ばかりによって「世界経済史の流れを教えこまれてきた」ということだろう。とんでもない。それはまったくまちがっていた。十五世紀からの中国・インド・日本のアジア、南北アメリカ、アフリカを動かしていたのは何といっても「銀」であり、何といっても「銀本位」だったのである。そこに大量の生産物と物産と商品と、金・銅・錫・タカラガイなどが交じっていったのだ。

≪051≫ 花 金色銀色、桃色吐息(笑)。アジアは銀なり、ですか 川 銀はポトシ銀山や日本の石見ですよね。金のほうはどうなってたんですか。 松 主な産出地域はアフリカ、中米・南米、東南アジアだね。そのうちの中米・南米というのはスペイン領だから、銀は西から東へ動き、金は東から西へ動いた。ちなみにインドでは金が南下して、銀が北上するんだね。 花 徳川時代でも東国が銀の決済で、西国が金の決済ですよね。 川 一物一価じゃなくて、二物多価だった 松 そうそう、そこにこそ「貨幣の流通の問題」と「価値と価格の問題」とがあるわけだ。

≪052≫  本書は第三章と第四章を銀本位経済社会のリージョナルなインタラクションに当てて、近世のグローバル・エコノミーがいかに“アフラジアな地域間交易”によって律せられていたかを縷々説明している。

≪053≫  しかしながら、そのオリエントの栄光は十九世紀になると次々に衰退し、没落していった。最初の兆候は一七五七年のプラッシーの戦いでインドがイギリスに敗退したことだった。それによってイギリス東インド会社の「ベンガルの略奪」の引き金が引かれ、織物産業が破壊され、インドからの資本の流出が始まった。

≪054≫  オスマン帝国は経済成長のピークが十八世紀以前に止まり、その類いまれな政治力も十八世紀のナポレオンのエジプト遠征あたりをピークに落ちていった。そこへ北アメリカからの安価な綿が入ってきてアナトリアの綿を駆逐し、カリブ産の安価なコーヒーがカイロ経由のアラビアコーヒーを支配した。まるで東京の珈琲屋がスターバックスに次々に駆逐されていったようなものだった。

≪055≫  中国では銀の輸入が落ちた一七二〇年代に清朝の経済力の低下が始まっていたが、一七九六年の白蓮教徒の乱をきっかけに回復不能な症状がいろいろな面にあらわれた。それらに鉄槌をくだして息の根を止めようとしたのが、一八四〇年のイギリスによるアヘン戦争である。

≪056≫  この時期になるとアメリカの拡張が本格的になってもいて、奴隷プランテーションによる資本力の蓄積もものを言いはじめた。その余波が日本に及ぶと、かねて予定の通りのペリーによる黒船来航になる。そんなこと、とっくに決まっていたことなのだ。つまりは全アジア的危機をいかにしてさらにつくりだしていくかということが、欧米列強の資本主義的な戦略になったのだ。

≪057≫  というわけで、「アフラジアな経済圏」はリージョナルな力を狙い打ちされるかのようにことごとく分断されて、欧米列強の軍門に降ることになったのである。軍門に降っただけではない。アフラジアな各地は新たな欧米資本主義のロジックとイノベーションによって“別種の繁栄”を督促されていった。これはガンディーのようにシンガーミシン以外の工場型機械を拒否するというならともかくも、それ以外の方法ではとうてい抵抗できなかったものだった。

≪058≫  人類の経済史は一八〇〇年以前と以降とをまったくちがうシナリオにして突き進むことになったわけである。

≪059≫  その突進のシナリオは、ぼくがこの数ヵ月にわたって千夜千冊してきたことに呼応する。すなわち、ナヤン・チャンダの『グローバリゼーション 人類5万年のドラマ』(NTT出版)とジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)以来紹介しつづけてきたこと、つまりはグレゴリー・クラークの『10万年の世界経済史』(日経BP社)をへて、いったんブローデルの『物質文明・経済・資本主義』(みすず書房)とウォーラーステインの『史的システムとしての資本主義』(岩波現代選書)を通して案内し、それをジョヴァンニ・アリギの『長い20世紀』(作品社)と渡辺亮の『アングロサクソン・モデルの本質』(ダイヤモンド社)でブーツストラッピングしたものに合致する。

≪060≫  けれど残念なことに、グレゴリー・クラークが「従来の世界経済史を見てきた歴史観はマルサスの罠にはまっていた」と指摘したような問題は、あくまで一八〇〇年以降のヨーロッパの経済システムから見た反省にすぎなかったのである。その点フランクは、本書に登場するおびただしい研究者とともに、そうした「一八〇〇年以降の見方」をいっさい使わずに、新たなアジア型の近世グローバル・エコノミーの記述の仕方に挑んだのだった。

≪061≫ 川 「リオリエント」って「東に向いて方向を変える」ということですね。とてもいい言葉だけれど、今後は広まっていきますか。 松 そうあってほしいけれど、東アジアの経済の将来は中国の急成長でわかったようにいまや政治情勢と高度資本主義とのずぶずぶの関係になってきているから、それを新たに「リオリエント」とか「リオリエンテーション」として網を打つのはなかなか難しいだろうね。 川 普天間も尖閣もノーベル平和賞も、ちっともリオリエントじゃありません。 松 だいたい日米同盟や韓米同盟がリオリエントするときは軍事的プレゼンスか経済摩擦だからね。マハティールの「ルック・イースト」というわけにはいかない。 花 本格的アジア主義みたいなものがない。みんなちょっとずつアジアを重視してくれているけれど、しょせんはグローバリズムのロジックですよね。 川 経済だけの歴史観には限界があるんじゃないんですか。 松 その通り。 花 アジアの歴史がもたらしてきた物語が不足しすぎています。 川 東の哲学ってほとんど世界に向かっていませんからね。いまの中国も政治と経済のプレステージだけで押している。 花 この本が言っている“リージョナルなもの”が失われているんでしょうね。 松 大文字の経済はそろそろいらないということだね。とくにGod・Gold・Gloryの3Gはいらない。 花 でも、イスラムはどうでしょう。大文字なのに独特でしょう。 松 おっ、いいところを突くね。これで決まったね。次夜の「千夜千冊」はイスラム経済学でいこうかな(笑)。

≪062≫ 【参考情報】

≪063≫ (1)アンドレ・グンダー・フランクは1929年のベルリン生まれ。アムステルダム大学で長らくラテンアメリカの経済社会の研究をしていたが、その後はウォーラーステインと交わり、90年代に「500年周期の世界システム論」を発表すると、やがてそのウォーラーステインとも袂を分かってアジア・アフリカ・南北アメリカをつなげる「リオリエント経済史」とでもいうべき研究に没頭した。マイアミ大学、フロリダ大学などの客員教授も務めた。バリー・ギルズとの共同研究が有名。

≪064≫ (2)翻訳者の山下範久は気鋭の歴史社会学者で、世界システムにもとづく社会経済論の研究者。いま39歳。東大と東大大学院ののち、ニューヨーク州立大学の社会学部大学院でウォーラーステインに師事した。その後は北大をへて立命館大学へ。

≪065≫  何冊かのウォーラーステイン著作本の翻訳のほか、『世界システム論で読む日本』『帝国論』(講談社選書メチエ)、『現代帝国論』(NHKブックス)、『ワインで考えるグローバリゼーション』(NTT出版)などの自著がある。実は日本ソムリエ協会認定のワインエキスパートでもあるらしい。

≪066≫  ところでぼくは、東大の博士課程にいた山下さんが『リオリエント』を翻訳したときに、手紙付きで贈本を受けた。手紙には「私淑する松岡先生に、是非、御批判を乞いたいとの思いやみがたく感じて、突然に失礼とは存じながら一部献呈させていただきました」とあり、たいへん恐縮したものの、その後本書を紹介する機会がないままになってしまったこと、申し訳なかった。証文の出し遅れのように、今夜、その約束の一端をはたしたわけだ。

≪067≫  山下さん自身のほうはそれからの活躍がめざましい。たとえば最初の単著となった『世界システム論で読む日本』は、ウォーラーステインが確立した開発主義的な近代化論とそれへの批判をふくむ従属理論とを総合した見方をいったん離れて、そこにポランニーやブローデルの視野を残響させるような方法で新たな世界システム論をめざそうというもの、それを山下さんは「近世」の解明に、さらに日本の近代化の世界史的な位置付けの解明にあてた。ずうっと前に山本七平が提示した仮説にもとずく桂島宣弘の『思想史の十九世紀』(ぺりかん社)にいささか依拠しすぎているのが気になったけれど、その構想はなかなか意欲的だった。

≪068≫  そのあとの『現代帝国論』や共著の『帝国論』(講談社選書メチエ)はこちらこそいつか千夜千冊したいというもの、「ポランニー的不安」(人間・自然・性の定義のゆらぎや流動化)と名付けた問題を巧みに浮上させている。今後は是非とも、たとえばエマニュエル・トッド(1355夜)とユセフ・クルバージュがイスラムと西洋の橋と溝とを描いた『文明の接近』(藤原書店)に代わるような、「東洋・西洋の橋と溝」や「世界史と日本の経済システム比較」といったものを、独自に展開してもらいたい。

≪069≫ (3)謎めく「目次録」については、まだ詳しい話はできないが、これはぼくが来年にプロトタイプをまとめる仕事としては最も重要なものになる。冒頭に書いたように、「目次録」は「世界の見方のためのコンテント・インデックス」を立体化したマザープログラムのようなもので、そこから数百万冊の本の目次に自在に出入りできるようになるという“知の母”づくりなのだ。

≪070≫ (4)松丸本舗がクリスマスと初春にそれぞれ特別企画した、クリスマス期間の「くすくす贈りマス」セールと正月7日間の「本の福袋」セールについては、どうぞ丸の内丸善4階を訪れてほしい。行ってみないとゼッタイにその「ときめき」はわからない。

≪071≫  いとうせいこう、福原義春、ヨウジヤマモト、佐藤優、美輪明宏、市川亀治郎、杏、コシノジュンコ、鴻巣友季子、やくしまるえつこ、藤本晴美、松本健一、長谷川眞理子、今野裕一、森村泰昌、しりあがり寿、金子郁容さんたち、総勢20余名のゲスト陣と、ぼくとイシスチームとが、年末年始に分かれてずらりとお好み本とお好みグッズを意外なパッケージセットにして待っているというものだ。

≪072≫  ジャン・ジュネあり、坂口安吾あり、男空(おとこぞら)文庫あり、アンデルセンあり、森ガール術あり、稲垣足穂あり、温泉セットあり、甘読スイートあり、藤原新也・アラーキー・横尾忠則セットあり、セカイまるごと仕掛け本あり。これ、松丸本舗店主からの宣伝でした(ぼくも、この歳になって、さらにいろいろ仕事が多くてフーフーしています)。

≪01≫ なぜガンディーは糸紡ぎのカッダルを奨励したのか。 
スワラージやスワデーシーとは、そもそも何のことだったのか。 
なぜガンディーは失業保険金の給付に反対したのか。 

本書の著者ダースグプタは初めてガンディーに萌芽した経済学の意味をあきらかにした。 
それは今日に通じる「新しい経済学」だというのだ。 
たとえば選択的選好論、たとえば受託者制度。 

そこには市場原理的な「所有の個人主義」から村落的で編集的な「方法の個人主義」への画期的な転換が志されていた。 

嗚呼、ガンディーの「ナイー・タリム」の勇気!

≪02≫ ガンディーは「機械は壮大だが、恐ろしい発明品だ」とか、「トラクターと化学肥料はインドの荒廃を意味する」とかと言い、一貫して近代的工場生産を反対した指導者として、また外国製品をボイコットしたスワラージ主義者として知られてきた。

≪03≫ あまつさえ、ときには「需要と供給の法則は悪魔の法である」と言ったという噂も伝えられてきた。そんなガンディーに、はたして今日の資本主義社会で耳を傾けるべき経済学があったのか。本書のタイトルを見ただけでは、そんな疑問をもつ者も少なくないだろう。

≪04≫ ぼくも発行されたばかりの10月末に作品社から本書が送られてきたときには、うーんと唸らざるをえなかった。帯には「新自由主義でもマルクス主義でもない“第三の経済学”という構想」とある。ガンディーに独特の経済観念があったことは、わかる。それが今日の経済思想の混迷を妥当する“第三の経済学”とまで言えるのか。それにアンソニー・ギデンズやトニー・ブレアなみの“第三の経済学”では、やや困る。

≪05≫ でも、かなり気になった。読書というもの、この「気がかり」がすこぶる重要で、これをアタマのどこかに羽根簪(はねかんざし)のようにひらひらさせながら読むのがコツとも醍醐味ともなるのだが、ただしそのときは“一気読み”をしなければならない。ところが、そのころ仕事に追いまくられていたぼくは、気になりながらもなかなか通読できなかったのだ。これでは羽根簪を自分でどこに挿したのかが、わからなくなる。

≪06≫ というわけで、このインドの著者には申し訳ないことをしたが、それでもなんとかまるで隙間に光を見いだすように“拾い読み”や“追い読み”ばかりして、一昨夜、読み了えた。266夜に書いた『ガンジー伝』ではほとんど予想できなかったものだった。

≪07≫  本書の著者のアジット・ダースグプタは1928年にカルカッタに生まれたインド人である。カルカッタ大学とケンブリッジ大学で経済学を修めた。どちらかというと厚生経済学に与しているようだが、開発経済学や統計経済学にも強い。むろんのこと、インドの近現代経済史については欧米の誰よりも専門的だ。そのダースグプタが混迷する21世紀世界経済の曲がり角で、ガンディーに的を絞ったのである。

≪08≫  絞った理由は、およそのところは察しがつくだろうと思うが、グローバリゼーションに席巻された世界経済の喧噪のなかで、新たな「第三の道」やそれ以外の「オルターナティブ」を構想しようとするとき、ひょっとすると自分たちの国(インド)の近代化の原点にいるマハトマ・ガンディーの経済思想にこそ、古くて新しい光を見いだせるのではないかと思ったためだった。

≪09≫  そこでダースグプタが着目したのは、ガンディーがつねに民族的(ないしは民族主義的)な構想をもっていて、その構想にはインド人民における「欲望や欲求の制限」という強い見通しが入っていたことだった。ダースグプタは、これを経済学にいう「選好」の発案というふうに捉えた。たんなる選好ではない。「倫理的選好」というものだ。

≪010≫ ふつう、倫理的選好などという基準は経済社会で実現されるようなものではない。自由市場では誰だってどんなものも欲しくなるし、いったん手に入れたものでもそれより魅力的な商品があれば、自動車であれジュースであれ、ケータイであれジャケットであれ、すぐ欲しくなる。そこに倫理的選好など持ち込むスキはない。

≪011≫ しかし、ガンディーはそれをこそ訴え、それをこそ実行した。欲望や欲求を「個人が欲しがるもの」(消費財)と、「村落のレベルで対象にすべきもの」(輸送手段や公衆衛生)に分けたり、70万人の村落にいくつ病院があればいいかという政策を考えようとしていった。

≪012≫ カッダル(チャルカー=手工業の国産糸で紡がれ織られた服)に人々の選好を集中させたのも、ガンディーの強引きわまる功績だった。ダースグプタはそこに「倫理の経済学」の実践があったと見たのだ。

≪013≫  もともとぼくも関心をもっていたのだが、ガンディーにはいろいろな編集的独創力がある。それは手紡ぎ車を奨励する行動にもあらわれたが、さまざまなガンディー好みの言葉にもあらわれている。

≪014≫ たとえば「サッティヤグラハ」という言葉は「サッティヤ」(真実)と「アグラハ」(把握)を組み合わせたもので、ガンディーの造語だった。意味は「真実の把握」だが、かえって造語であるがゆえに非暴力不服従運動という意味が巧みに加わった。

≪015≫ よく知られるスワラージやスワデーシーも同様だ。スワラジーは「自治」や「独立」を、スワデーシーは「自分たちの国」をあらわすインド固有の言葉なのだけれど、ガンディーはこれらの言葉を頻繁に強調するだけでなく、そこにつねに「不屈な行動力」とか「国産品愛用」という意味を付加し、その活動に国民全体が参加することを訴えた。

≪016≫ ガンディーは言葉や文脈における編集的選択肢を見せるのが、まことにうまかったのだ。

≪017≫  民衆の選好というもの、ほっておいても或る方向を選ぶようになるものではない。広告代理店的にいえば、そこには徹底したマーケティングが必要だし、無節操なほどのアドバタイジングが必要だ。しかし、そういうことをすればするほど、それらの戦略はどんな商品にも適用されていくことになり、結局は市場や生活者を過当競争の中に投げ入れる。

≪018≫ ガンディーはそうではなく、人々に独特の選択肢を提供することにしたわけである。そしてその選択肢には必ずや、インドの村落が持ち合わせている素材や技能や労働力が入るようにしていたのだった。

≪019≫ ガンディーが故郷のポールダンダルで初期にした演説の言葉には、すでにそうした編集力が駆使されていた、とダースグプタは言う。それは“ガンディーの経済学”が芽生えていた証拠だというのだ。これにはぼくもちょっと動かされた。選択的な選好をガンディーが意図的に用意していたとしたら、それはなるほどかなり自覚的な経済政策であり、“ガンディーの経済学”なのかもしれない。ダースグプタは、その一例を次のポールダンダルでの演説の一節に見いだした。

≪020≫ 「ベンガルが、インドの他の地方や外の世界を搾取することなしに自然で自由な生活をおくろうとするならば、トウモロコシを自らの村落で栽培するのと同様に、衣服もそこで製造しなければなりません」

≪021≫  ふつうは、ガンディーのような選択的選好は、それが経済政策であるばあいは「愛国的選好」とか「保護主義政策」というふうにみなされるのがオチである。ガンディーは政治リーダーであり為政者でもあったのだから、まさにそういう偏向にあったのだ。そんな政策は自由交易を阻害しているとか、市場の自由を無視していると言われても仕方がない。

≪022≫ しかしガンディーは怯まずにこの方針を貫いた。そこには、当時のインドには1年のうち少なくとも4カ月くらい仕事がない者たちがいて、それが人口の4分の1に達しているという認識があったからだった。

≪023≫ 異常なほどに多い失業者の数である。いや、失業者なのではない。そういう「仕事のない生活者」が多いのだ。では、このような苛酷な現実にいったい何を加えることによって変更をもたらすことができるのか。

≪024≫ ここでガンディーは「糸紡ぎ」を選んだのだ。極端にいえば、ただひとつ、「糸紡ぎ」だけを奨励したのだ。まことに驚くべき選択である。それをもってスワデーシーの原理としたのだ。

≪025≫ なるほど、ガンディーの言い分では、糸紡ぎは「最も簡単で、最も安く、最も良い」し、しかも「最小の支出と組織的努力で、最大多数の村人たちに収入をもたらす」という利点があるというのだが、仮にそうだとしても、これには当然ながらいくつもの反論がありえた。

≪026≫ たとえば糸紡ぎで得る収入よりもすでに高い収入のある者には、こんな方針はとうてい肯んじられないし、糸紡ぎで作るものと見かけも肌触りもそれほど変わらないものが、もっと大量にもっと容易に(ときにうんと安価に)、もっとスピーディに製造できる欧米の機械技術もあった。実際にも糸紡ぎ政策の提案には、こうした反論や無視がいくつもおこった。

≪027≫ それにもかかわらずガンディーの方針は、これらの反論や不満を押しのけてでも「手製による糸紡ぎで織られたカッダル」を作り、村人たちが手にし、着用するのがいいとしたわけである。当時はそのカッダルの市場すら準備できていなかったのに。

≪032≫  「パンの労働」というのは、もともとはトルストイ(580夜)が言い出したことで、過激には「パンを作らない者はパンを食べてはならない」というもの、一般的には「身体を使って労働しない者には食べる権利はない」というもので、インド哲学的には「ヤージュナ(犠牲)を払うつもりのない者は恩恵に浴することはできない」という考え方をいう。

≪033≫ これは自給自足(アウタルキー)の経済を提唱しているのではないし、むろんエコの経済主義(エコノ・エコロジー)の発案というのでもない。ガンディーは「パンの労働」を通して精神活動と肉体労働がバランスよく向上すると思っていたようなのだ。もう少しいえば、「パンの労働」がコミュニティにそれぞれ生きているかぎり、人々はやたらな消費主義や余暇主義に走らないと踏んでいたようなのである。

≪034≫ とくに「過度の余暇」が生活者全般にもたらすものを、ガンディーは警戒した。20世紀の世界が「過度の余暇」によって価値観を失い、しだいにめちゃくちゃなものになっていくだろうことを予想してもいた。

≪035≫ 資本主義の未来を案じていただけではない。ソ連や中共や東欧の社会主義計画経済が労働時間を1日2時間とか3時間にすることも、ガンディーは問題視していた。「パンの労働」を強調したのには、そうした見通しもあった。

≪036≫  それにしても「パンの労働」論には、一般の市場経済ではあまりにも普遍化されているひとつの原則が、大きく踏みにじられていた。エコノミストの大半は次のようにガンディーを詰(なじ)るはずなのだ。それは、こういうものだ。「ガンディーは分業を拒否している!」。

≪037≫ どんな経済学でも分業を軽視したりすることはない。分業はアダム・スミスから一貫して経済学の大前提になってきた経済の王道なのである。分業を前提にしない生産システムや流通システムなどありえないと言っていいほどだ。産業とは何かといえば、それは分業だと言ってもいいほどなのだ。

≪038≫ でもガンディーは、「自分のパンを自分で作れ」と言ったのである。これはあきらかに分業の拒否ではないか。

≪039≫ このガンディー批判は当たっていなくもない。そもそもガンディーが「機械の使用」に反対していたこと自体が分業拒否だった。

≪040≫ こうしたガンディーの頑迷固陋については、ガンディーにインタヴューしたチャールズ・チャップリンをさえ当惑させた。チャップリンは自由を求めるガンディーには共感も尊敬もするが、その機械に対する嫌悪にはさすがに辟易としたと感想を述べた。あのテーラー・システムによるベルトコンベア式労働をモノクロ無声映画で揶揄したチャップリンを当惑させたのだから、そうとうなものだ。

≪041≫ 進歩主義者のオルダス・ハクスリーはもっと辛辣だった。「ガンディーのような人々は、自然への回帰を説き、農業および工業の生産に科学と技術を適用することに反対して、実際には世界を飢餓、死、そして野蛮へと逆戻りさせようとしているのである。トルストイとガンディーは人道主義者を自称するが、実際には殺戮を唱導しているのであり、それと比較すればチムールとチンギスハンの大殺戮など、ほとんど目にとまらないくらい些細なものに見える」。

≪042≫ マルクス主義者たちも「ガンディーは機械の時代を石器時代にしたがっている」と呆れた。実はガンディーの僚友だったネルー(のちの首相)やインド国民議会派でさえも、ガンディーの理念とはべつに実際の政策においてはインドの「産業化」は機械化を伴うものと規定し、それをしないかぎりはインドの貧困が解消されないとひそかに決意していたのだった。

≪043≫ つまりはガンディーの反分業論や反機械論は、当時の多くの者に「有害な酔狂」と映っていたのだった。

≪044≫ それでもガンディーは機械化に反対した。『ヒンドゥ・スワラージ』のなかでは、機械はいずれヨーロッパを荒廃させるだろうし、機械そのものが道徳悪になる日がくるとも信じていた。

≪045≫  いったいなぜガンディーは産業化にも機械化にもあんなに執拗に反対したのだろうか。ダースグプタはさまざまなガンディーの文献を調べあげ、第1には、ガンディーが「資本力よりも労働力を」と考えていることを突き止めた。

≪046≫ これまでガンディーの経済政策は「より少ない資本、それも外国資本に頼らない資本」という観点から論じられてきた。しかしダースグプタはそうではなく、ガンディーは「より少ない資本力によって、より多くの労働力を」という点に活路を見いだそうとしていると見たのだ。

≪047≫ インドはもともと過剰労働力国家なのである。ガンディーはそれは今後100年後も200年後もそうだろうと見積もっていた。だとすれば、安易に機械を工場へ急いで導入することは、インドの本質を歪ませるだろうと考えたのだった。

≪048≫ 第2に、ガンディーは「機械が人々の利他性を奪う」と考えていた。何でも機械が便利に見えるようになるということは、人々のあいだに芽生えている良き利他主義を薄め、機械と自分だけがいればいいという利己主義や個人主義をはびこらせることになると見なしていたのだった。

≪049≫ 第3に、ガンディーは安直な産業化は、一国を外国市場に従属させ、ひいてはその国を経済的帝国主義へと乗り出させることになるという見方を固持していた。ここ20年間ほどのIMFやワシントン・コンセンサスによる新興国の失敗例を見るたび、ぼくにもこのガンディーの予想が胸をよぎることがある。

≪050≫ しかし、こうした“ガンディーの経済学”はほとんど理解されなかったわけである。それにおかしなことに、ガンディーは「シンガーミシンだけは有益だね」とも言ったたため、ガンディーの経済思想はまことに勝手なご都合主義だとも思われたのだった。

≪051≫ ただ、これについては本書を読んでぼくはかえってギョとさせられた。ガンディーはある記者に尋ねられて、こんなふうに答えていたのだ。その記者は、「ガンディーさん、いったい家庭がシンガーミシンを入れるのと機械化された工場とのあいだの、どこで線引きできるんですか」と問うたのである。ガンディーはこう答えた。「ちょうどそれが個人を助けるのをやめて、その人の個性を蝕むところで」と。うーん、すばらしい。

≪052≫  ロナルド・ドゥウォーキンが『権利論』のなかで、最近のアメリカでは権利の議論が政治を支配していると書いたことは、よく知られている。

≪053≫ ドゥウォーキンは政治には目標ベース、権利ベース、義務ベースの3つのドメインがあるのだが、アメリカでは目標ベースは功利主義によって、義務ベースはカントの定言命法によって、権利ベースはトマス・ペインの革新論によってつくられていると見抜いたうえで、最近はイノベーションがあるたびに権利ベースをめぐる議論をまきちらして経済をまわすようになったアメリカ政治を皮肉った。

≪054≫ しかしこの“でん”でいくと、ガンディーはどんなイノベーションによってもインドを動かそうとはしなかったので、権利ベースを欠いた政策者だったということになる。このことは権利と義務と自由をめぐる政治論のなかで、これまでガンディーを過小評価する根拠につかわれていた。ダースグプタはこの点にも分析を入れて、実際のガンディーは「権利は義務から派生する」と確信していたことをあきらかにした。

≪055≫ これについてもおもしろいエピソードがある。よくよく知られているようにガンディーはいつも半裸で仕事をしていたが、これに関心をもったジャイナ教徒の空衣派たちが、われわれも裸でいる権利があると言ったところ、ガンディーはにっこり笑って「そのためには裸でいることによる義務を作らなければならず、その義務をはたさなければならない」と言ったというのだ。『自由への制限』で表明された言い分だった。

≪056≫ ガンディーにとって重要なのは自由の要求ではなく、不平等との闘いだったのである。人種差別、女性蔑視、経済エリートによる大衆搾取、家父長制の強調、宗教の特殊視などは、ガンディーがつねに闘いつづけた問題だった。

≪057≫ なかでもガンディーはカースト制度の最下層をどうするかという問題を苦慮した。伝統的なヒンドゥー社会では、ヴァルナ(カースト集団)による4重の階層区分が貫かれている。バラモン(聖職者)、クシャトリヤ(戦士)、ヴァイシャ(農業者・商業者)、シュードラ(肉体労働を通して他のカーストに仕える者たち)、である。しかし実際のインド社会はその下にアヴァルナ(非カースト)もしくはパンチャマ(5番目のヴァルナ)と呼ばれる不可触民をもっていた。ガンディーはインドにおける不平等のいっさいの根拠がこの不可触民制度にあると見て、ここから「受けるに値する不平等」と「受けるに値しない不平等」を切り出していったのだ。

≪058≫ 「受けるに値する不平等」とは義務をはたさず、勝手に怠けているような連中が受ける不平等のことである。これに対して「受けるに値しない不平等」は不可触民のように、社会の根本がもたらしている矛盾に起因する。

≪059≫ このように考えていたガンディーからすれば、失業保険金を給付するなどという政策は、多くの労働者の義務の発生を奪うものであり、それゆえかれらの権利を発生させないものだったのである。

≪060≫  さて、こうしたあまりにも独創的なガンディーの経済思想や政治思想を、最もわかりやすく今日の問題に橋渡しするであろうものが、ダースグプタによると「受託者制度」をめぐる理論というものだ。

≪061≫ これは、「人々が合法的に富む者から期待できるのは、かれらの富を信託のもとにおき、これを私的利益のためだけではなく社会の奉仕に使用するというしくみであろう」という発想から生まれたものだった。ここに受託者というのは、「自らの信託の義務を誠実に履行し、その被後見人の最大の利益のためにこれをおこなう者」というふうに定義される。

≪062≫ ごく簡潔にいってしまえば、ガンディーは「富む者と貧しい者とのあいだのパートナーシップ」を、「新たな信託のしくみ」として活用しようとしたのだった。これが受託者制度だった。

≪063≫ そこには失業保険制度やその給付の平等に政策が集中しすぎるという疲弊はない。問題は失業するということではなく、誰もが職に就いているという社会を、(欧米から見て)どんなにレベルを下げても実現することこそが重要課題だったのである。

≪064≫ ガンディーがこうした制度やしくみに強い関心をもったのは、「富」の分配についての欧米主義からの脱出を試みようとしていたからだった。いささか民族主義的ではあろうけれど、たいへんに共感できる。それとともに、そこにはインドにおける教育問題を同時に解決したいという意図もはたらいていた。最後に、そのことにも触れておく。一番、ガンディーがかっこいいところだ。

≪065≫  教育という英語は、語源的には「引き出す」(drawing out)という意味をもっている。インド語のひとつグジャラティ語の「ケラヴァーニ」もまったく同じ意味をもつらしい。

≪066≫ ガンディーはこの話を引きながら、自分にとっての教育は「開くこと」であり、「そこに引きずり出すこと」であると言った。そのためには、「知性」と「身体」と「精神」とが同時に絡み合って引きずり出されるような教育が必要だと考えた。これはガンディーが生涯にわたって帰依したヒンドゥ教の教えとも合致していた。

≪067≫ しかし、ガンディーは初等教育は必ずや国民教育であるべきで、それも厳しくなければならないとも考えた。インドの国民に英語による教育をしすぎることに問題があるともみなしていた。すでにイギリスの植民地政策によって、インドの教育設備ではほとんど英語が流通していたのだが、これがインド本来の「知性・身体・精神」を歪ませるのではないか。ガンディーはさかんにこのことを危惧した。

≪068≫ たとえば、初等教育のシラバスが英語で書かれていることに、そもそもの問題があると見て、これらに多大な資金を提供するのは支出のムダであるとも指摘した。

≪069≫ こうしてガンディーの「ナイー・タリム」(新しい教育)が構想されていったのだ。学校児童に向けてのプログラムだった。

≪070≫ 「ナイー・タリム」はその原則がきわめて明確だった。第1に、すべての児童教育は「母語」によること、第2に読み書きそろばんが職業性につながること、第3に教育システムが経済的に自立しうること。この3つを前提の方針にした。

≪071≫ もっと画期的なのは、「そもそも子供のためのシラバス自体が手仕事的な仕掛けで説明されているべきだ」としたところだ。これがすばらしい。ガンディーは自分でもワルダーで子供のための学校をつくっていたが、そこではまさに、糸紡ぎ、手織り、大工仕事、園芸、動物の世話が先頭を走り、それらによって自分たちがこれから学ぶことの“意味”を知り、そのうえで音楽、製図、算数、公民意識、歴史の勉強、地理の自覚、科学への冒険が始まるようになっていた。

≪072≫ なかでも、文字を習い始める時期を延期したことに、ガンディーの深い洞察があるように思われる。あまりに文字を最初に教えようとすると、子供たちの知的成長の自発性が損なわれるというのだ。ガンディーは自信をもってこう書いている、「文字は、子供が小麦と籾殻とを区別することをおぼえ、自分で味覚をいくぶん発達させてからのほうが、ずっとよく教えられるのです」。

≪073≫ なんという卓見か。その通りだ。ダースグプタは、このガンディーの教育には「方法論的個人主義」が開花していると評した。

≪074≫ ちなみにぼくは、この「ナイー・タリム」と、そして今夜はそのことには触れないが、シュタイナー教育法にもヒントを得て、まずは大人用の学習方法をネット上で展開するべく、イシス編集学校の「守・破・離」のコースウェアをつくってきた。とりわけ「離」におけるカリキュラムには“大人のための手仕事”を工夫したものだった。ここではまさに「離」のシラバスそのものが編集技能獲得的なのである。

≪075≫ ただし、ガンディーやジョン・デューイやマリア・モンテッソリとはちょっと違って、ぼくの方法では「読書」にも多くの可能性が秘められているというところが強調されている。(そういうぼくにも、そろそろ子供のカリキュラムにとりくむ時が近づいているようだ)。

≪076≫  ざっと、以上が本書でぼくが感応したところのサマリーだ。本書には、そのほか、ガンディーの先人たちやその後の思想者たちのことも採り上げられていて、とくにブッダ、トルストイ、ラスキン(1045夜)、スワミー・ヴィヴェーカーナンダ、アマルティア・セン(1344夜)が重視されている。

≪077≫ 革命的な大乗仏教改革者のアンベードカルとの熾烈な論争も少しだけ言及されていて、ぼくにはこの点だけは本書があまりに浅薄だと思ったのだが、それについてはいつかアンベードカルを千夜千冊したうえで、議論してみたい。

≪078≫ 世の中、師走になりました。日本、ますますつまらない。

≪079≫ ぼくは今日は九段会館の「剣道文化講演会」で90分の話を、赤穂浪士の「公と私」をめぐる議論や山鹿素行の日本論や大道寺友山の武道論や盤珪禅師の不生禅などで語ってみたのだが、そのなかで白鵬に「相撲がなくなれば日本はなくなる」と言われたことに日本人が感応していないのがあまりにも変だという話をまぜておいた。いま、そこにガンディーの話もまぜるべきだったと思っている。

≪01≫ ケインズの経済政策理論が復活している。 他の経済理論が次々に失策を演じたからなのか、それともケインズの理論にもともと一日の長があったのか、まだ判定はその決着を見ていない。 しかし、ケインズ理論が「大きな政府」論で、公共投資を重視するバラマキ政策だなんてことは、そもそもケインズのどこを読んでも書いてはいないことなのだ。 きっとケインズは誤読されてきたにちがいない。 では、ケインズはいったい何を考えていたのかといえば、ひたすら貨幣の未来のことを考え抜いていた。

≪02≫  7月11日の参議院選挙は民主党が惨敗した。とはいえ、これはたんに予想を大きく下回ったということで、躍進はしたものの党名を口にするのも憚りたい「みんなの党」を含めて(「みんな」って誰だよ! 『世界と日本のまちがい』の29ページ以降を読みなさい)、どこかの党が政策的に勝ったなどというわけではなく、たんに民主党のオウンゴールが目立っただけのようなものだった。どちらにせよ、ひどい選挙だった。

≪03≫  それから3日もたたないうちに日本振興銀行の不正が発覚して、前会長の木村剛が逮捕された。木村は竹中平蔵とともに小泉内閣時代の日本のマネタリーモデルを策案した張本人で、新自由主義経済戦略の旗手だった。ぼくも10年ほど前に『日本資本主義の哲学』(PHP研究所)という本を読んだことがあるが、なかなか切れ味がいいなという印象だった。ただし、こちらも策に溺れたオウンゴールだった。

≪04≫  民主党のオウンゴールは、菅直人が消費税を10パーセントに上げると言ったことが原因だったと言われている。そうでもあろうが、オウンゴールは普天間基地問題をはじめ何本もあったから、それだけではないだろう。それにしても、安倍・福田・麻生・鳩山内閣と打ち続く日本の宿命的とさえ言いたくなるオウンゴール問題は、そもそもが竹中・木村のマネタリズムといい、消費税増税計画といい、それほど国の経済政策と外交政策は難しいということをあらわしているにすぎない。

≪05≫  それとともにこれは実は、日本においても「ケインズとは何か」ということがあらためて問われているということだったのである。

≪06≫  ケインズの経済学は、ふつうは「大きな政府」の経済政策理論を確立したとか「デマンドサイドの経済学」を確立したとかと言われている。しかし、はたして、それだけか。

≪07≫  そもそもケインズは、失業の発生の理由、不況が長引く理由、貨幣価値が流動する理由などを考え抜いた。そして「有効需要の不足」にこそさまざまな経済不振の要因を見定め、むしろ「サプライサイドの経済学」を律するのは政府の重要な役割であろうと結論づけたのである。ところが、そういう“新しい経済学”は1929年の世界恐慌以降の経済政策の主流となったものの、あるときからしだいに退嬰していったのだ。

≪08≫  とくにケインズ経済政策論が木っ端微塵に砕かれたのは1970年代に入ってからで、ハイエク(1337夜)やフリードマン(1338夜)らのシカゴ学派の台頭と、サッチャリズムとレーガノミクスが時のグローバルスタンダードになっていったときだった。政府が公共事業をしてバラマキ政策をするのではなく、政府は規制を緩和して自由市場に任せておけばいいという風潮が高まってからだ。

≪010≫  そこに不死鳥のごとくに再浮上してきたのが、ケインズの経済政策論だったのである。

≪011≫  5月の連休直前に、ケインズの『説得論集』の新訳が日本経済新聞出版社から刊行された。山岡洋一の訳だった。

≪012≫  この人はアダム・スミスの『国富論』を新訳してもいて、そのこと自体がなんとも象徴的だったので、ぼくも手にとった。久々にケインズを読んだのだ。この本にはインフレとデフレの本質に言及したチャプターがあって、当時の保守党政権が「国を混乱に導いた原因」がいくつも指摘されている。

≪013≫  保守党は次のようなことを信奉して、ニッチもサッチもいかなくなったとケインズは書いていた。こういうものだ。 ①道路や住宅の建設を急いではいけない。そんなことをすれば雇用の機会を使いはたす。②全員に職を与えようとしてはいけない。それではインフレを引き起こす。③投資を控えよう。採算がとれる保証がない。④政策を変えないほうがいい。リスクがふえるだけだ。⑤いま、われわれは悲惨ではないのだ。安全第一にしているべきだ。

≪014≫  こういう保守党政策が、「否認・制限・休止のイギリス」をつくってしまったというのが、当時のケインズの指摘なのである。

≪015≫  しかしこれって、自民党にも民主党にも、すべてあてはまる。そう思わないか。だったら、こういうときはいったんケインズを読むべきなのである。それには「ケインズという男」のことを少々は知らなければならない。

≪016≫  ジョン・メイナード・ケインズが生まれたのは、1883年のケンブリッジのハーヴェイ・ロードだった。自身が経済学者で動学モデルの提唱者でもあったロイ・ハロッドの名著『ケインズ伝』(東洋経済新報社)では、好ましくも「ハーヴェイ・ロードの前提」と名付けられたこの幼少年期のエリート環境は、ケインズのいっさい心性原郷とも思想模型ともなっている。

≪017≫  父親のジョン・ネヴィル・ケインズはケンブリッジ大学の経済学者兼論理学者で、時の経済学の総帥アルフレッド・マーシャルの篤い信頼を得ていた。子煩悩らしく、ジョン・メイナードの成長の記録を克明に日記に付けるだけでなく、はやくも4歳の子に「利子って何のことかわかるかね」などと聞いたりした。よくある作り話だったとしても、この話、ケインズらしい。

≪018≫  イートン校、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジというふうに超エリートコースを進むと、そこでは数学を専攻した。ケインズは数学で才能を発揮したのではないのだが、ずっと数学を手放さなかったことは特筆できる。

≪019≫  しかし、学生時代のケインズを極め付きに陶冶したのは、リットン・ストレイチーの勧めで秘密結社めいた哲学倶楽部「ザ・ソサエティ」の会員になったことだ。これが、かの名高い「ブルームズベリー・グループ」の青年青女どもの巣窟で、そこはすこぶるホモセクシャルな空気に包まれていた。ボスはジョージ・エドワード・ムーア。その『倫理学原理』に「善は分析不能」と書いたムーアの感覚はブルームズベリーのちょっと妖しげな若者たちを夢中にさせた。ぼくも何度かうろつきまわったが、ブルームズベリーとは大英博物館の周辺地区をいう。

≪020≫  ブルームズベリー・グループには、スティーブン・トムリン、リットン・ストレイチー、レオナード・ウルフ、ヴァージニア・ウルフ、ダンカン・グラント、デイヴィッド・ガーネットらがいた。いずれも妍と狷とを競いあうケンブリッジ学派で、のちの第一次大戦のときは徴兵拒否をした。反戦思想派でもあったのである。

≪021≫  やがて大学の学生ユニオンの会長ともなったケインズは、古典文芸から数学・科学までのありとあらゆる思索と活動とにかかわって、早々にケンブリッジ自由党クラブのリーダーとして政治活動にも関心をもつようになった(ケインズは終生、自由党の支持者)。

≪022≫  続く卒業時にはトライポス(優等卒業試験)を受け、1906年には高等文官試験に挑み、104人中2位の高成績で合格すると、インド省に入った。役人になったのだ。とはいえ、官僚として腕を発揮したわけではない。のちに『確率論(蓋然性論)』と『インドの通貨と金融』の著作として発表される大論文の草稿に情熱を注いだ。とくに確率については「主観確率」を駆使したもので、「確からしさ」とは何かを追究して、その後のケインズ理論の礎となった。

≪023≫  当時のケンブリッジ大学には、いま思うと理解できないことだろうけれど、経済学の教授はマーシャル一人がいただけだった。ケインズはピグーとともにフェローに抜擢された。二人はそのまま生涯の論敵となった。

≪024≫  しかし、大学は必ずしもケインズの安住の場所ではなかったようだ。そこには躍動する経済の現場はなかった。そこでケインズは自身で投資活動をする。それも半端じゃなかった。本気だった。他方では、1911年から33年間「エコノミック・ジャーナル」の編集に携わった。これも生きた現場を求めてのことで、ということはケインズは編集的経済学者だったということなのだ。だから多くの論文がこの雑誌を通して膨らんでいった。

≪025≫  大蔵省(財務省)の顧問としても活躍した。1915年、時の大蔵大臣ロイド・ジョージに採用され、しばしば実際のイギリスの経済政策を提案した。古い手形の支払いを猶予して、新しい手形を保証するとか、銀行と割引商社が不良債権の一部を保有するとか‥‥。第一次世界大戦でドイツを苦しめた賠償金問題をいちはやく打開しようとしたのも、ケインズだった。

≪026≫  その間、いろいろパンフレットや雑誌論文は発表していたが、本格的に経済学の著作に取り組んだのは後半期で、『貨幣改革論』(1923・40歳)、『貨幣論』(1930・47歳)、そして“ケインズ革命”とよばれた『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936・53歳)が、のちにケインズ三部作と称されるぴかぴかの勲章となった。

≪027≫  なかで最もよく知られているのは、むろん『一般理論』(岩波文庫・東洋経済新報社)だが、実はケインズが一貫して考えつづけていたのは貨幣や通貨の問題だった。ひょっとしたら貨幣のどこかにホモセクシャルな官能を見いだしたのではないかとさえ、勘ぐりたくなるほどだ。

≪028≫  仮にそうだとしても、そんなことはいまとなっては判定しがたいケインズの内なる妖しい気質だとしか言いようがないのだが、それはそれとして、ケインズの最初の著作が『インドの通貨と金融』であり、それに続く『貨幣改革論』だったことは、やっぱり意味深長だった。

≪029≫  ケインズが貨幣や通貨について研究する気になったのは、むろん官能的な動機のせいではない。きわめて現実的な対策を組み立てたいという動機にも基づいている。インド省にいたケインズは、最初は、大英帝国の経済にとって屋台骨だったインドの通貨問題にとりくんだのである。

≪030≫  インドの通貨ルピーはもともと銀本位制になっていた。1ルピーと一定量の銀が裏表に価値づけられていて、実際にも多くの銀貨が流通していた。それが19世紀後半になるにつれて、多くの国々が金本位制を重視しはじめ、銀は金に対して下落するばかり。これでは金本位の大英帝国と銀本位のインドとのあいだで潤沢な富が形成してこない。

≪031≫  そこでケインズはこの問題を例題にして、いったい通貨や貨幣はどういう役割をもつべきかという普遍的問題を考えた。ケインズはジェネライズすることこそ、自分の仕事だと確信していた。そこは数学専攻者らしいところだった。

≪032≫  考えるべきことは大きく二つある。ひとつは貨幣が金や銀に代表される価値をもっているのなら、その供給はどのように確保され、放出されるべきなのかという問題である。これはマネーサプライの問題、あるいはサプライサイドの問題になる。もうひとつは、社会的人間はどのように貨幣を求めるのか、どう使いたいのか、どう貯めたいのかという問題で、これはデマンドサイドの問題になる。

≪033≫  ケインズはのちに政策においてはサプライサイドの問題が、社会においてはデマンドサイドの問題が大きいという結論に至るのだが、このときは古典派経済学が打ち立てた「金本位制の理論」に挑むことが、当初の目的になった。とくに古典派を代表するリカードの経済学を超克することがめざされた。

≪034≫  すでにイギリスの経済は金本位制を敷きながらも、マネーの流通は銀行の当座預金と小切手を媒介にしたり流通速度によって動いていた。貨幣の90パーセント近くが銀行預金になってもいた。つまりハイパワード・マネーが現実社会を覆いつつあったのだ。

≪035≫  ここでふつうなら(古典派経済学ふうには)、インドの通貨ルピーが金本位制を採用して、本国同様に銀行の力が増していくことが望まれるところだろうが、ケインズはそうは考えなかった。ルピーは「金為替(ポンド)本位」になるべきだと判定したのだ。銀行にだぶつく貨幣がある以上、金本位制を継続していることのほうがデメリットになると判断したのだった。ハイブリッド思考あるいはデュアルスタンダード思考だったのである。

≪036≫  そもそもケインズには、専制君主の地位にある金(ゴールド)をその王座から追放する革命よりも、金を王とする立憲君主制のほうがずっとましだろうという思いがずっと強かった。だから金本位制に反対していたわけではないのだが、しかし、銀行の力が増してきて、紙幣がじゃぶじゃぶ刷られるようになった社会では、もはや金本位制を守ろうとすることには問題があると見た。

≪037≫  そのような見方は、1923年から5年にかけてイギリスで金本位制に復帰するかどうかの議論が沸いたとき、ケインズが業を煮やしたことにもあらわれた。

≪038≫  ひるがえってケインズは、本来の貨幣のありうべき方向として、次のような想定をしていたのではないかと思われる。

≪039≫  すなわち、①国家が計算貨幣に応当させる標準(本位=スタンダード)に対応する表券主義にもとづく貨幣、②貨幣が本位(スタンダード)に対応しなくとも機能する代表貨幣、③国家が一歩進んで本位を放棄するときに必要となる法定不換紙幣、こういう3つの方向があっていいと想定していたようなのだ。

≪040≫  そこで大前提として、まずは「管理貨幣」(managed money)というものを考えた。「国家がある客観的基準で測って確定した価値をもたせ、兌換やその他の方法でその発行条件を管理することを引き受けている貨幣」のことである。これにもとづいて、法定不換紙幣と商品貨幣が用意されればいい。いずれも譲渡が可能で、債務履行ができる。なかで商品貨幣はコモディティ・マネーにあたるだろうとみなした。

≪041≫  つまり管理貨幣、法定不換紙幣、商品貨幣の3種が、ケインズの考えるマネー・プロパー(本来の貨幣)なのである。≪037≫  そのような見方は、1923年から5年にかけてイギリスで金本位制に復帰するかどうかの議論が沸いたとき、ケインズが業を煮やしたことにもあらわれた。

≪042≫  このうち、管理貨幣と商品貨幣が客観的基準にかかわり、管理貨幣と法定不換紙幣は国法や慣例から照らして相対的な価値を示す関係をもつ。ケインズはグローバルスタンダード用の貨幣とナショナルスタンダード用の貨幣の両用を構想したのだ。ハイブリッド思考であって、かつデュアルスタンダードな貨幣論者だったのだ。

≪044≫  そうしたことを通してケインズの貨幣論は、しだいに人間社会における「貨幣の流動性」とは何かというほうに向かっていく。

≪043≫  しかしながら世の中でおこっていることは、そのようなリクツだけでは埒があかないことも、しだいに知れてきた。第一次世界大戦で莫大な賠償金を抱えたドイツの現状を目の当たりにしたときは、そのドイツがおかしくなればヨーロッパ経済も世界経済も一挙におかしくなるだろうと推理して、むしろドイツの負債をチャラにすべきだとの暫定的な結論も下していた。ケインズはリアリストでもあったのだ。

≪038≫  ひるがえってケインズは、本来の貨幣のありうべき方向として、次のような想定をしていたのではないかと思われる。

≪039≫  すなわち、①国家が計算貨幣に応当させる標準(本位=スタンダード)に対応する表券主義にもとづく貨幣、②貨幣が本位(スタンダード)に対応しなくとも機能する代表貨幣、③国家が一歩進んで本位を放棄するときに必要となる法定不換紙幣、こういう3つの方向があっていいと想定していたようなのだ。

≪040≫  そこで大前提として、まずは「管理貨幣」(managed money)というものを考えた。「国家がある客観的基準で測って確定した価値をもたせ、兌換やその他の方法でその発行条件を管理することを引き受けている貨幣」のことである。これにもとづいて、法定不換紙幣と商品貨幣が用意されればいい。いずれも譲渡が可能で、債務履行ができる。なかで商品貨幣はコモディティ・マネーにあたるだろうとみなした。

≪041≫  つまり管理貨幣、法定不換紙幣、商品貨幣の3種が、ケインズの考えるマネー・プロパー(本来の貨幣)なのである。≪037≫  そのような見方は、1923年から5年にかけてイギリスで金本位制に復帰するかどうかの議論が沸いたとき、ケインズが業を煮やしたことにもあらわれた。

≪042≫  このうち、管理貨幣と商品貨幣が客観的基準にかかわり、管理貨幣と法定不換紙幣は国法や慣例から照らして相対的な価値を示す関係をもつ。ケインズはグローバルスタンダード用の貨幣とナショナルスタンダード用の貨幣の両用を構想したのだ。ハイブリッド思考であって、かつデュアルスタンダードな貨幣論者だったのだ。

≪044≫  そうしたことを通してケインズの貨幣論は、しだいに人間社会における「貨幣の流動性」とは何かというほうに向かっていく。

≪043≫  しかしながら世の中でおこっていることは、そのようなリクツだけでは埒があかないことも、しだいに知れてきた。第一次世界大戦で莫大な賠償金を抱えたドイツの現状を目の当たりにしたときは、そのドイツがおかしくなればヨーロッパ経済も世界経済も一挙におかしくなるだろうと推理して、むしろドイツの負債をチャラにすべきだとの暫定的な結論も下していた。ケインズはリアリストでもあったのだ。

≪045≫  貨幣には、何かを買えるという自由が保障され、万が一のときのために貨幣を保蔵しておくという利点がある。これがマネーパワーの原点になる。

≪046≫  このような貨幣には、そうしようとしさえすればいつだって財貨やサービスと交換できる機能があるわけで、そうであるがゆえに、そこに大きな特質が生ずる。それが経済学で言われる「変動性」(ボラティリティ)というものになる。使い勝手というふうに見ればいい。

≪047≫  一般に、貨幣の流動性は貯蓄においては高く、投資においては低くなる。しかしここに利子率が加わると、利子率が低ければ流動的な選好度が高まり、高ければ流動的選好度が弱くなる。資本主義社会はその揺動しつづける「流動性選好」の上に成り立っているとみなされる。

≪048≫  そこでケインズはこの点にさらに分け入って、流動性選好には所得動機、営業動機、予備的動機、投機的動機の4つほどのインセンティブが関与すると考えた。所得や賃金の受取りと支払いのために貨幣を保有しようと思うのが所得動機、取引や売買の支出や支払いを調整するときに一定の貨幣を必要とするのが営業動機、突然の支出を想定して手元に貨幣をおいておきたいのが予備的動機、市場の変化に応じて利益を得ようとして貨幣を動かすのが投機的動機である。

≪049≫  実は資産とは、そもそもその本質においてはこのような流動性をもっていて、人間社会も市場も、この流動性資産をめぐるインセンティブによってつねに右往左往させられているものなのである。いや、貨幣だけでなく、絵画やゴルフ会員権や株式なども、この流動性資産になっていく。いやいや、原則的には何でもが流動性資産になりうるはずなのだ。たとえば、17世紀オランダではチューリップが流動性資産になった。

≪050≫  しかしながら、このような特定の資産に対する流動性の信頼は、突如として崩れることがある。リスクも高い。そして、いったんその資産の信頼が失われると、人々や会社や組織はその資産を売り払い、別の資産に転じていく。あっけないほどである。

≪051≫  これがいわゆる「バブルの崩壊」というものなのだが、問題はそれにともなって貨幣がいつも“くっついて動く”ということなのである。「もの」にくっつき、「ひと」にくっつき、流動的にくっついていく。ここに一国の経済を揺るがす問題が出てくる。

≪052≫  もともと貨幣に対する人間の選好度は、自分が属する環境や生活における現在と将来の満足度を比較しながら動いていく。

≪053≫  現在の時点で何かを消費する満足度は、将来の時点で何かを得るという満足度と、ある意味では均衡する。これを理論的には「流動性プレミアム」というのだが、しかし実際には、貨幣を保有しすぎれば、現在よりも将来の満足度が勝ちすぎて、このプレミアムのバランスが崩れていくということがおこる。

≪054≫  これは「貨幣愛」とも「過飽和的貨幣感覚」ともいうべきもので、それが過剰になれば、おっつけ実体経済のほうに貨幣がとんとまわらないということを引き起こす。のみならず、そのために雇用機会を著しく下げ、失業者をふやしてしまうことにもなっていく。

≪055≫ ケインズには有名な「美人投票」のメタファーがある。

≪056≫ これはゲームで、参加者が新聞に載った100人の顔写真の中から6人を選んで投票すると、最大の票を獲得した組み合わせに近い者に賞金が与えられるというルールになっている。

≪057≫  この場合、参加者はこれこそが本当の美人だと思う女性に投票しても意味がない。大多数がこういうタイプを美人だとみなすだろう女性に投票しておく必要がある。ということは美人の条件を分析したところで、うまく賞金にはありつけないということなのだ。

≪058≫  この場合、参加者はこれこそが本当の美人だと思う女性に投票しても意味がない。大多数がこういうタイプを美人だとみなすだろう女性に投票しておく必要がある。ということは美人の条件を分析したところで、うまく賞金にはありつけないということなのだ。

≪059≫  いったい、ここには何がおこっているのか。 ケインズの貨幣論はここからが独壇場なのである。すなわち「貨幣についての流動性こそが、物価も不況も雇用も狂わせる」と見たわけなのだ。おそらくこの見方こそ、今日、ケインズの復活を話題にさせているところでもあるだろう。

≪060≫  では、景気を回復し、雇用を取り戻すにはどうするか。どんな手を打てばいいのか。むろんかなりの難問だ。

≪061≫  しかしケインズは、ぶれなかった。社会の流動性選好を一定程度に弱めることができれば、消費や雇用が比較的安定し、不況からの脱出も少しずつ可能になると見た。たとえば、ひとつには金融緩和政策である。またもうひとつには「賢明な支出」を促すということ。

≪062≫  どういうものかというと、ただしここからは『雇用、利子および貨幣の一般理論』のクライマックスにさしかかるので、ここでその理論を詳しくしていくのはめんどうなので、今夜はケインズらしい幾つかのアイディアを紹介しておくだけのことにする。

≪063≫  たとえば一つは、「スタンプ付き貨幣」というものだ。このアイディアはもとはドイツの商人シルヴィオ・ゲゼルが思いついたものなのだが、ケインズはこれをいささか理論化した。貨幣をずっと所持していると効力が減衰するか、あるいは費用がかかるようにしてしまおうという“時計”を付けた。貨幣(紙幣)が一定期間をすぎるとスタンプを捺して、新たなスタンプ付きの貨幣に転じさせようというふうに考案したのである。こうすれば貨幣の流動性選好が落ち着くだろう。

≪064≫  もっともケインズはこのアイディアには限界があるとも指摘している。仮に貨幣スタンプ制度を導入しても、人々が外国の貨幣の流通に乗り換えてしまえば、その有効性が落ちてしまうからだ。

≪065≫  ケインズは国際通貨制度についても、幾つかの独創的なアイディアを提案した。このあたりそうとうに編集的であり、かつ偏執的である。

≪066≫  たとえば、超国民銀行(SNB)を提案した。しくみがおもしろい。この銀行は創業資本をもたないが、その債務が各国の加盟中央銀行によって保証されているというもので、中央銀行とのみ取引をおこなう。このとき、加盟中央銀行から預託された預金勘定を開設して、SBMという国際通貨を発行する。SBMは2パーセントの価格幅で金(ゴールド)と交換可能であるとし、加盟各国の通貨は金に対する条件と同じ条件でSBMと交換できるようにしようというものだった。ケインズはSBM建ての国際的公債も発行できることまで付け加えた。≪058≫  この場合、参加者はこれこそが本当の美人だと思う女性に投票しても意味がない。大多数がこういうタイプを美人だとみなすだろう女性に投票しておく必要がある。ということは美人の条件を分析したところで、うまく賞金にはありつけないということなのだ。

≪067≫  「国際清算同盟」というアイディアもあった。1929年ごろから構想していたもので、打ち続く世界大戦後の世界経済社会を想定して、戦後の賠償問題にあらかじめ手を打っておこうというプランである。

≪068≫  「バンコール」という国際銀行通貨についてのアイディアは、SBMを発展させたもので、各国が開設しうるバンコール勘定の割当て額を各国の過去の輸出入金額の実績にもとづいて決めておいて、バンコールを金の等価物として認めさせ、各国通貨を一定の平価でこれに次々にリンクさせようという構想だった。バンコール発行額には総額240億ドルという当初の想定すらされた。

≪069≫  しかし、こうしたアイディアはすべてブレトンウッズ体制のなかで、IMFと世界銀行に切り替わってしまったのである。SBMもバンコールも生まれず、結局はアメリカの国際経済政策のための戦後体制ができあがっていったのだった。1354夜の『IMF』、および1332夜のジョージ・ソロスのところを読まれたい。

≪070≫  ケインズの思想は「リスクと不確実性と無知」をどう関係づけるかという闘いから生まれていた。社会がつくるペナルティ・エリアの内側で何を決行するかという闘いである。

≪071≫  あれこれの詳細な議論をさておいて集約すると、ぼくにはケインズがめざした結論は、最適な資本ストックに適合しているかぎり、社会的利子率はゼロになるというヴィジョンにあったのだろうと思われる。そこではすべての生産機会と制作の夢が実現されるはずだという、そういう社会を想定していたのだろうと思う。

≪072≫  いいかえれば、ケインズの『貨幣論』は、世の中の価格変動を減退させるためにのみ、貨幣制度を手術しようというものなのだ。マーケットプライスに決して踊らされない社会の実現をめざしたともいえる。

≪073≫  となると、ケインズの思想はモラル・サイエンスであり、「見方のサイエンス」であり、かつまた制度変更の思想というものだったのである。

≪074≫  だとしたら、ケインズから「効用の経済学」だけを抜き出すのは問題だったのかもしれないのだ。むしろ本来の「信用」と「リスク」の経済思想がめざされていたと読み直してもよかったのである。しかし、そういうふうにはケインズは解釈されてこなかったのだ。

≪075≫  それでは、このあとケインズ経済学はどのように解釈され、適用されていったのか。また、そのケインズ理論がどうしてマネタリストによって打倒されたのか。そしてそのうえで、いままた「ケインズの復活」がどうして議論されているのか。たいへん興味津々のところだろうが、そのあたりのことについては、次夜に別の本をとりあげて案内することにする。≪067≫  「国際清算同盟」というアイディアもあった。1929年ごろから構想していたもので、打ち続く世界大戦後の世界経済社会を想定して、戦後の賠償問題にあらかじめ手を打っておこうというプランである。

≪076≫ 【参考情報】(1)ケインズの著作は、ほぼ『ケインズ全集』全30巻(東洋経済新報社)に収録されている。単著としては『雇用、利子および貨幣の一般理論』(岩波文庫2冊組、東洋経済新報社)が最も手に入りやすい。そのほか『説得評論集』(ぺりかん社)、『ケインズ説得論集』(日本経済新聞出版社)、『講和の経済的帰結』(ぺりかん社)、『人物評論』(岩波書店)など。『貨幣論』はかつて鬼頭仁三郎訳の善5冊本(同文館)もあった。なお「世界の名著」(中央公論社)にも『ケインズ、ハロッド』の1巻がある。 ケインズの評伝と解説を重ねたものは、定番のハロッド『ケインズ伝』上下、スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ』全三巻、リーキャッシュマン『ケインズ時代』、モグリッド『ケインズ』(いずれも東洋経済新報社)、伊東光晴『ケインズ』(岩波新書)、同『ケインズ』(講談社学術文庫)、早坂忠『ケインズ』(中公新書)、西部邁『ケインズ』(岩波書店)、浅野栄一『ケインズ』(清水書店)などに詳しい。

≪077≫ (2)ケインズ経済学の解説は論評については多くの著作があるが、ディラード『ケインズの経済学』(東洋経済新報社)、クライン『ケインズ革命』(有斐閣)、ハリス『新しい経済学』全3冊(東洋経済新報社)、ハンセン『ケインズ経済学入門』(東京創元社)、ショー『ケインズ経済学の軌跡』(多賀出版)、ミンスキー『ケインズ理論とは何か』(岩波書店)、アラン・メルツァー『ケインズ貨幣経済論」(同文館)、新野幸次郎・置塩信雄『ケインズ経済学』(三一書房)、浅野栄一『ケインズ一般理論入門』(有斐閣新書)、宇沢弘文『ケインズの『一般理論』を読む』(岩波書店)、館龍一郎『ケインズと現代経済学』(東京大学出版会)、新しいところで吉川洋『ケインズ』(ちくま新書)、リチャード・カーン『ケインズ『一般理論』の形成』(岩波モダンクラシックス)、小畑二郎『ケインズの思想』(慶応義塾大学出版会)などが目につく。 ほかにカール=ビブン『誰がケインズを殺したか』(日本経済新聞社)、間宮陽介『ケインズとハイエク』(中公新書)、伊東光晴『現代に生きるケインズ』(岩波新書)、スキデルスキー『なにがケインズを復活させたのか』(東洋経済新報社)などが興味深い。ごくかんたんには、たとえば平井俊頼『ケインズ100の名言』(東洋経済新報社)、中野明『ポケット図解ケインズ』(秀和システム)などを覗かれるのがいいだろう。

≪01≫ 70年代後半から新自由主義が吹き荒れて、フリードマンらのシカゴ学派が経済学の主流を占めた。 
 ケインズ経済学は「大きな政府」論だと批判され、ほとんど死に体になったかに見えた。
 しかし、事態がグローバリズムと金融資本主義に向かうなか、その結末がリーマンショックだとわかると、ケインズの復活が叫ばれはじめたのである。
 いったい、これは何なのか。
 本当にケインズの理論が再解釈されたのか、それとも経済学がただただ混乱しているだけなのか。 

≪02≫  前夜に続いてケインズ(1372夜)をめぐりたい。ただし、今夜は新ケインズ派やポスト・ケインジアンの窓際からケインズ思想の真骨頂と意外性の両方を眺める。 

≪03≫  とりあげる本は原著が昨年出たばかりのもの、日本語訳は今年のものだ。著者のスキデルスキーは切れ者だ。経済学者ではなく歴史学者であるところも、いい。 

≪04≫  話をナシーム・タレブの『ブラック・スワン』(1331夜)から始めると、2008年に向かって起爆していった金融危機と、それにともなうマネタリズムの極度の歪曲と失墜は、数羽のブラック・スワンの構造を解剖すれば見えることだった。 

≪05≫  ブラック・スワンは投資組織と商業銀行のあいだに遊弋していて、その時期は、アラン・グリーンスパンの言葉でいえば「リスクが割安に振れすぎていた」。そこへアメリカのサブプライム・モーゲージ市場が有毒資産をくっつけた。 

≪06≫  この思いもよらぬ“信用収縮”という情勢の悪化に、凡百の理論家や評論家が原因分析に乗り出して、主には「流動性過剰論」と「貯蓄過剰論」の二つの症例をカルテに書いた。 

≪07≫  住宅ブームを支えたのは証券化(セキュリタイゼーション)で、サブプライム・モーゲージが世界中の銀行に浸水したのは金融商品と派生群のせいだった。これにCDS(信用デフォルトスワップ)で味付け保険をつければ、毒入りソーセージはとてもおいしそうだったので、投資家は気楽にサンドイッチを食むようなつもりでこれを買った。 

≪08≫  流動性過剰と貯蓄過剰の背後で動いていたのは、悪名高い「規制緩和」である。3段階に進んだ。1999年にグラス・スティーガル法が廃止され、商業銀行が証券の引き受けと販売などの投資業務をできるようになり、ついでクリントン政権がCDSを規制しないことを決め、2004年にSEC(アメリカ証券取引委員会)が大手投資銀行のレバレッジ比率の上限を10倍から30倍以上に引き上げた。 

≪08≫  流動性過剰と貯蓄過剰の背後で動いていたのは、悪名高い「規制緩和」である。3段階に進んだ。1999年にグラス・スティーガル法が廃止され、商業銀行が証券の引き受けと販売などの投資業務をできるようになり、ついでクリントン政権がCDSを規制しないことを決め、2004年にSEC(アメリカ証券取引委員会)が大手投資銀行のレバレッジ比率の上限を10倍から30倍以上に引き上げた。 

≪010≫  ちょっとおおげさに言うなら、歴史上、世界金融同時危機ほど“奇妙な考え方”に世界の金融関係者が麻痺させられた例はない。スキデルスキーは、その原因は「経済学の理論的な失敗」にもとづいていたとはっきり指摘する。経済学の考え方がまちがっていたから、金融自由化が正当化され、金融自由化をすすめたから信用が爆発的に拡張し、それが崩壊したから信用が収縮して事態が逼迫したのである。 

≪011≫  ケインズは「世界を支配しているのは考え方以外のものではない」と何度も書いていたけれど、まさかここまでエコノミストたちの“考え方”が挙(こぞ)って最悪になるとまでは予想していなかったろう。とくに市場の参加者がここまで同じ価値観にふりまわされたのは、めずらしい。 

≪012≫  それでもこれで、新ケインズ派の経済学者たちが本腰を入れて「不確実性」と「リスク」と「政府の役割」についての考え方を根本からたてなおすようになればいいのだが、おっとっとっと、まだまだなかなかそこまではいっていない。ということは、ケインズの真骨頂もいまだに十分には掴まれていないのだ。 

≪013≫  このところの経済学がどんなところにさしかかっているかというと、たとえばアメリカでは淡水派と海水派に分かれたままにある。淡水派がシカゴあたりにいて、海水派が東海岸と西海岸にいる。 

≪014≫  淡水派は完全市場と対称的情報を想定した一般均衡モデルを使い、市場効果をパレート効率的に見る。海水派は不完全市場・非対称的情報・不完全競争によるモデルをつくる。もっともこれはロバート・ワルドマン(ローマ大学)のあまりに単純すぎる分類で、実際にはもっと交錯もし、錯乱もしつつあるというのが現状だ。 

≪015≫  おそらくは新古典派も新ケインズ派も、いわゆる“完全市場パラダイム”なるものに引っ張られ、いまなお合理的予想仮説(REH)、実物的景気循環(RBC)理論、効率的金融市場理論(EFMT)という大きな3つの前提を降ろせず、それが胸のつかえになっているのであろう。 

≪016≫  3つの前提についてちょっとだけ説明しておくが、新古典派経済学が「合理的予想仮説」(REH)を提唱したのは、政府が市場に介入するのは無益であるばかりか、むしろ有害だということを証明するためだった。 

≪017≫  その出発点は、自分たちには将来の動きについての広範で正確な知識があるという、思い上がった想定にある。そのうえで、市場参加者の無知や無能をカバーする確率誤差をモデルに加えさえすれば、各人が市場予測に使うモデルはかぎりなく正しくなるはずだと考えた。だからこの連中は、不況の到来も景気循環も、そのうち市場が自動調整すると推定する。 これはいかにも、「群衆の英知」を信頼しようとするアメリカ資本民主主義らしい仮説だった。 

≪018≫  次の「実物的景気循環理論」には、市場がつねに均衡して、需要はつねに供給に等しくなるはずだという妄信があるのだが、適度に合理的予想仮説はとりいれて、修正をしてきた。そのうえで最近は、景気循環がおこる理由の説明を変えつつあるようだ。景気循環は生産が最適水準から一時的に乖離するせいでおこるのではなく、生産の潜在的な水準自体が変動するからだと見るようになったのだ。変動するのは、たとえば原油価格・規制・気象条件などのことをいう。 

≪019≫  3つ目の「効率的金融市場理論」(EFMT)は、市場における知識のありかたに手を加え、何が確実におこるかなのではなく、何かがおこるリスクを計算するモデルのほうに走った。そのため金融市場のさまざまなリスク特性を、取引リスクに関する“頑丈”な数量的指標として算出するようにした。それがブラック・ショールズ公式に始まるオプション評価モデルだが、あまりにこの策に溺れて正規分布ばかりを過大視することになっていったこと、いまさら言うまでもない。何羽目かの大きなブラック・スワンがここにいた。 

≪020≫  こんなぐあいなのだから、いったん国が不況に陥ったとたん、いくつもの学派が稔りのない論争をつづけていたばかりだったということになる。その争点はあいかわらずの「政府の失敗」か「市場の失敗」で、こんな二者択一では結論など出てこない。 そこで、ちょっと待てよ。ここはいったんケインズに戻ってみたらどうなのかという気運がまきおこってきたわけだ。 

≪021≫  スキデルスキーはケインズの詳細な伝記に、30年をかけた歴史家である。『ジョン・メイナード・ケインズ――裏切られた期待』全2巻(東洋経済新報社)と『ケインズ』(岩波書店)があり、さらに『共産主義後の世界――ケインズの予言と我らの時代』(柏書房)などを書いてきた。ケインズを語らせたらロイ・ハロッドに並ぶ。しかし、本書が最も切れ味がある。 

≪022≫  そのスキデルスキーのケインズ評は、一言でいえば「経済学に収まらない学知と人生」というものだ。ラッセルやヴィトゲンシュタイン(833夜)と交わり、E・M・フォースター(1268夜)を読み耽り、ムーアの影響のもとでは妖しいブルームズベリー・グループに所属してリットン・ストレイチーやヴァージニア・ウルフと日夜遊び、教会や宗教権力には見向きもしなかったのだからさもありなんだが、他方ケインズには「公僕として公共に資する」と任じていたところもあった。それゆえその経済的資質は「どちらかといえばジョージ・ソロス(1332夜)やバフェットに似ているのではないか」とスキデルスキーは評した。 

≪023≫  ケインズ自身も、「経済学の才能はめったにない組み合わせをもっていなければならない」「数学者であって歴史家で、政治家であって哲学者でなければならない」「芸術家のように超然としていて、政治家のように現実的でなければならない」と言っている。 

≪024≫  美術史家のケネス・クラークは「ヘッドライトを消したことがない男」と喩え、友人のオズワルド・フォークは「間違った手掛りがあっても、誰よりも早く物事の動きに追いつく」と評した。スキデルスキーは『ケインズ』で何度も「異例の経済学者」という形容を用いた。 

≪025≫  きっと直観力と観察力と連想力が図抜けていて、どんな出来事のカケラをも未知の総合のための鍵か鍵穴にする編集力に富んでいたのだと思われる。ケインズと同時代人のクルト・ジンガーは「鳥のようだった」と言っている。天空を飛んでいるくせに、突然、地上の獲物を見つけて襲いかかっているというのだ。 

≪026≫  そういう風変わりで天才的だったケインズの、経済学なのである。当然、読み方や理解の仕方にはそれなりの天空アンテナが必要になる。地デジでは無理だ。 

≪027≫  ケインズの経済学は、まとめれば「不確実性のもとでの選択」によって構成されていると考えていい。これは「稀少性のもとでの選択」を重視した古典派経済学とはまったくちがっていた。 

≪028≫  アダム・スミスに始まる古典派から新古典派までは、①稀少性、②通貨の中立性、③均衡の重視、④想定の非現実性、という4つを金科玉条にしてきた。いまでもこの4つは一般的な経済学のジョーシキにされている。 

≪029≫  ①の「稀少性の経済学」は、資源は必要を満たすにはつねに不足しているのだから、勤労によってつくられた生産物に対する需要が不足するはずがない、というリクツをつくった。リカードが言ったように「需要を制約する要因は生産だけ」なのである。ジャン・バティスト・セイ(1767~1832)ならば「供給はそれ自体の需要を生み出す」ということになる。  

≪030≫  この「セイの法則」ではモノを十分に生産するかどうかこそが最大の課題で、需要不足にどう対処するかは問題にはなっていない。となれば、当初の経済学は、大筋、生産を各種の用途にどう配分するかという法則の研究になったわけである。
ライオネル・ロビンズは「経済学は、目的と用途をもつ稀少な手段の関係に鑑みて、人間の行動を研究する学問」だと規定した(1932)。 

≪031≫  もともと古典派の経済学は「実物交換経済」のモデルにもとづいていた。価格は財と財とが交換されるときの数量の比率なのだ。だからこの連中は、そうした価格が需要と供給のあいだでどのように決まるか、その全体系はどのようになっているかを研究する。 

≪032≫  しかし、こういう経済学では通貨は交換を容易にする手段にすぎないということになる。そこに、②の「通貨の中立性」というリクツが出てくる。これに対してケインズは、通貨はあくまで価値を保蔵することによって「現在と将来を結びつけている」と考えた。これまた言うまでもないことだろうが、古典派経済学には、ニュートン力学を勝手に換骨奪胎したようなところが、用語使いだけではなくて、かなりある。経済的活動をそれぞれが独立した原子としての人間で構成されるものとみなし、そこに作用と反作用がおこると見たからだ。 

≪033≫  19世紀のレオン・ワルラスは大半の経済現象が連立方程式で解けると考えたし、20世紀半ばのブノワ・マンデルブロ(1339夜)も、経済理論の大半は物理学で説明できると断言した。だからマンデルブロは市場予測の研究からフラクタル理論を見いだしたのだ。ふーん、そうかと思って、千夜千冊するかどうか決めてはいないが、ぼくも半年ほど前はしきりに「経済物理学」に関する本をあれこれ読んだものだった。 

≪034≫  この運動力学的に経済を見るという観点から、③の「均衡の重視」というリクツが出てくる。経済学はしだいに「均衡」を求める学問になっていったのだ。これって、あきらかに機械論的なのである。ケインズはこのことにも反対して、「経済学は社会科学(モラル・サイエンス)です。内省と価値を扱います」と手紙に書いた。 

≪035≫  結局、古典派は「効用」にとらわれた経済学なのである。どんな経済行為も理想的な効用を求めて動き、そこには平均的な「ホモ・エコノミクス」像が仮想されうると考えた。けれども、そこにこそ④の「想定の非現実性」というリクツが出すぎていると、ケインズは見抜いたのだ。 

≪036≫  ケインズの経済学には、アダム・スミスの「市場の見えざる手」ではなく、「慣行の見えざる糸」が観察されているとスキデルスキーは言う。「慣行の見えざる糸」というのは、不確実性な社会や経済のなかを動く「たまたま」のことをいう。 

≪037≫  それゆえケインズは「経済の進歩は意外にも遅いものだ」という見方を、一貫して採っていた。マルセル・デュシャン(57夜)が「芸術は遅延する」と言ったけれど、それに近い。またそのため、均衡の概念を放棄はしなかったものの、経済社会には“複数の均衡”があるとみて、それぞれがちょっとずつ「自前の均衡」をもとうとしていると見た。これもデュシャンっぽい。 

≪038≫  ケインズが確率論や蓋然性について興味をもったのは学生時代からのことであるが、そのなかで注目していいのは、確率や蓋然性を統計的に捉えることよりも、論理的もしくは言語的に捉えようとしていることである。「おそらく」「たぶん」「たまには」「ひょっとすると」といった言葉が人間の口をついて出ているかぎり、そんなことを統計的平均像にしてもしようがないだろうと喝破していたのだ。『たまたま』(1330夜)も『ブラック・スワン』(1331夜)も、ケインズが生きていたら真っ先に書いた本だったろう。 

≪039≫  ただしケインズは、なにもかもを不確実だと見たわけではなかった。経済学で不確実性が重要になるのは、収入や繁栄に対する観念や予測が「将来についての見方に依存しようとする」からだと解釈していた。 

≪040≫  しかしこのことは、いまや資本主義のすべてが将来の予測に向かって動くようになってしまったのだから、実は経済システムの全貌があまりにも頑固な不確実性に覆われすぎることになってしまった、というふうにもなるわけである。ここに、ケインズがその生涯を通して、資本主義に好感をもてなかった本当の理由が見えてくる。 

≪041≫  前夜にも書いておいたことだが、実はケインズは投資家でもあった。それも製造関係ではなく金融投資一点ばりだった。  

≪042≫  第一次世界大戦勃発直後のイギリスの“信用収縮”を実際に体験したことが大きい。大戦後の一時的な変動為替相場制のときは、アルフレッド・ジョーンズが考案したヘッジファンドを、数十年も早く試みてもいた。最晩年にはイングランド銀行の理事にもなった。 

≪043≫  むろん儲かりもしたが、失敗もした。通貨か、商品か。投資対象としてはどちらがいいか。ケインズはその比較にたえず迫っていて、そのいずれでもない「信用」という本質を見いだしたのだ。1923年の『貨幣改革論』にはそうした経験も生きている。友人で金融業者でもあったニコラス・ダヴェンポートは「ケインズが偉大な経済学者になったのは、投機の本能がわかっていたからだ」と語った。 

≪044≫  むろん儲かりもしたが、失敗もした。通貨か、商品か。投資対象としてはどちらがいいか。ケインズはその比較にたえず迫っていて、そのいずれでもない「信用」という本質を見いだしたのだ。1923年の『貨幣改革論』にはそうした経験も生きている。友人で金融業者でもあったニコラス・ダヴェンポートは「ケインズが偉大な経済学者になったのは、投機の本能がわかっていたからだ」と語った。 

≪045≫  世間ではしばしば、「ケインズは大恐慌を予想できなかった」と言われてきた。それは事実ではないとスキデルスキーは言う。ケインズも、そしてフリードリヒ・ハイエク(1337夜)も、1928年か29年には大規模な暴落がおこると見ていたのだ。  

≪046≫  ただ、その理由が二人は正反対だった。ケインズは金利が高すぎるから恐慌がおこるとみなし、ハイエクは金利が低すぎるから極度の不況になると見た。  

≪047≫  1927年にインフレの危険などなかったはずなのである。それがまたたくまに大規模な恐慌になった。なぜなのか。ケインズは1928年7月にウォール街の投機を抑えるために3・5パーセントから5パーセントへの金利引上げをしたことが問題だと判断した。物価指数が安定していたため、「利益インフレ」が隠れていたのだという見方だ。 

≪048≫  ハイエクはそうではなく、FRBが政策金利を低くしすぎたせいだと判断した。そして、そういう時期には銀行システムは“信用注入”をすべきではないという結論を導いた。これこそはその後、ミルトン・フリードマン(1338夜)らのマネタリストによって拡張されるにいたった見方だ。 

≪049≫  いまからふりかえれば、この大恐慌をめぐるケインズとハイエクの見方の相違が、1970年代以降の経済学がどういうイニシアティブになったのかを予告していた。フリードマンらのマネタリストの経済学が一方的に凱歌を挙げ、そのぶんケインズ主義は排斥されたのである。 

≪050≫  それでも、第二次大戦後の経済世界に君臨していたのはケインズ主義だった。戦後の世界では、誰も1930年代に戻りたいとは思わなかった。前夜に紹介したケインズの国際清算同盟案や超国民銀行(SNB)案や国際通貨SBM案は、反対もしくは歪められて、結局はIMFや世界銀行になったけれど、それでも戦後経済は「ブレトンウッズ体制」と総称されて、ケインズ経済学の大流行となったのである。 

≪051≫  しかしながら、栄光は長くは続かない。60年代後半になってケインズ主義の政策に綻びが見えはじめ、70年代後半にサッチャーが、80年代初頭にレーガンが登場すると、経済理論と経済政策の多くがあっけないほどに“ケインズ以前”に戻っていた。ブレトンウッズ体制に代わって「ワシントン・コンセンサス体制」になったのだ。 

≪052≫  こうして固定為替相場制が葬られ、完全雇用の目標は放棄され、資本取引をめぐる規制が次々に取り除かれていった。 周知の通りの新自由主義の大流行だ。変動為替相場制、自由貿易、民営化、規制緩和、財政均衡、インフレ・ターゲット政策、それに個人主義が組み合わされ、金融派生商品が世界中にあふれていった。しかし、ここでブラック・スワンが笑いだしたのだ。 

≪053≫  この経済的世界観は、どうみても市場効率と自動調整機能を信じる古典派経済学そのものでもあった。これではケインズが打倒されたというより、ケインズの藁人形が燃やされたようなものだった。 

≪054≫  藁人形に火をつけたのはフリードマンである。フリードマンは通貨的不均衡理論の伝統にもとづいて、マネーストックが変化したときは、長期的にみれば生産の水準ではなく物価の水準に影響があるものの、短期的には「マネーストックの伸び率の変化は生産の伸び率にもかなりの影響を与えうるはずだ」と主張した。 

≪055≫  藁人形に火をつけたのはフリードマンである。フリードマンは通貨的不均衡理論の伝統にもとづいて、マネーストックが変化したときは、長期的にみれば生産の水準ではなく物価の水準に影響があるものの、短期的には「マネーストックの伸び率の変化は生産の伸び率にもかなりの影響を与えうるはずだ」と主張した。 

≪056≫  これでフリードマンは60年代後半から70年代におこることになった「スタグフレーション」をみごとに予想した。インフレが加速すると失業率が上昇するという“謎”を言いあてたのだ。資本主義先進国がいっせいにフリードマンの提言に耳を傾けるようになった。フリードマンが「どんなときでも可能であるときは、減税をすべきだ」と言えば減税政策が流行し、政府は市場を規制緩和と民営化に託すべきだと言えば、そうした。 

≪057≫  小泉劇場のシナリオは竹中平蔵でも木村剛でもなく、早くにフリードマンが書いていたのだ。そこにはケインズ主義がすっかり一掃されていた。 

≪058≫ こうして経済学は「乱世」に向かっていったのである。なんとか対策を練りはじめたのは、またまた新古典派経済学の連中である。 

≪059≫  フリードマン理論は、経済主体が市場のシグナルの変化を学んで行動を適合していくというモデルによってできていて、それを「適合予想理論」ともいうのだが、そこには市場の動きに結果が出るまではタイムラグがあった。そこで弟子のロバート・ルーカスはもっと合理的な経済主体ならダイレクトに市場を対応させられるとみて、「合理的予想仮設」を提案した。 

≪060≫  またたとえば、新自由主義が「小さな政府」を提唱していても、政府の介入にはいくらでもそれを正当化するリクツが残っているだろうから、その抜け穴をすべてふさいでしまう「実物的景気循環(RBC)理論」などという化け物も出てきた。これは「ワシントンの介入をやめさせろ」とすぐに言いたがる業界大物たちにとっては、まことに便利な代物になった。 

≪061≫  ケインズ主義者も黙っていたわけではない。新ケインズ派はルーカスらのシカゴ派の精緻化に挑んで、「市場は不完全である」という論点をいまさらながら強調し、グローバリズム批判を展開するようになった。ジェームズ・トービン、フランコ・モディリアーニ、ジョセフ・スティグリッツらが代表した。ケインズ流にポートフォリオを読み替え、消費関数や投資関数の最適化の原則を求める研究に向かったのだ。 

≪062≫  別のケインズ主義者は、そのくらいでは手ぬるいと批判した。ポール・デービッドソンらはケインズが重視した「不確実性の議論」にこそ戻るべきだと言い出し、ポスト・ケインジアンを自称した。しかしこれでは“ケインズの復活”は複雑になるばかりで、その後は「新・新古典派総合」などと揶揄されているように、いささかおたおたと不完全競争をめぐる議論に右往左往するようになっていった。 

≪063≫  新たな火の手も上がった。「公共選択理論」である。これまで政策当局としての政府や自治体は「社会の計画者」だとみなされてきた。それをこの理論では、政府や自治体もまた経済活動をおこなう主体のひとつだとみなした。これは従来の公共政策や公共投資のやりすぎを批判するもので、いわゆる「政府の失敗」議論に火をつけた。このリクツには、合理的予想仮設と共通する「個人の効用化最大化」が唯一の解になっているだけという憾みがあった。 

≪064≫  いったいケインズ経済学とその後の経済学とのドタバタ議論のあいだで、何がおこったのだろうか。スキデルスキーは次のようにまとめる。ぼくなりに少々言い換えておく。  

≪065≫  (1)総じては、ケインズによる「不確実性」と「リスク」の区別が放棄されたのだ。将来に関する不確実性がすべて確率計算に換言できると思いすぎたのだ。つまりは、過去と現在の確率分布が将来でも有効だとしすぎたのだ。 

≪066≫ (2)ということは、新古典派経済学のすべてに特徴的なことは、つまるところは「時間」という要因を考えなくなったということなのだ。ということは、出来事はそれなりの順序でおこっているのではなく、同時におこると考えたのだ。経済学は瞬間湯沸かし器になり、“物語”が消されたのである。これは新ケインズ派でも同断だ。 

≪067≫  (3)結局、ケインズのマクロ経済という見方はもはや見失われたわけである。今日のマクロ経済学は、企業と消費者の最適化行動にもとづくモデルに収斂してしまったのである。しかしケインズ自身はそうは考えていなかった。将来に関する不確実性があるからこそ、そこに「性向」「状態」「流動性」があると見た。 

≪068≫  (4)いいかえれば、今日の経済学では「供給が需要をつくりだす」という「セイの法則」が復元されてしまったのだ。サプライサイドの経済学になったのだ。これでは失業給付と福祉給付を厳格化する以外には対策がなくなっていく。ケインズはまったく逆だった。むしろ、「有効需要がその産出量を決めるかもしれない」という、デマンドサイドの経済学がもっと検討されていいはずなのである。 

≪069≫  (5)今日の経済学は総じて通貨数量説である。マネーサプライの伸び率がインフレ率を決めるというふうになった。まさにフリードマン理論の勝利だが、ケインズはそうなるには完全雇用状態が必要になると考えていた。しかし、そんなことはおこりえないから、マネーサプライだけでは経済社会は先に行けない。そこをどうするか。ここで経済学は座礁したままなのだ。 

≪070≫  (6)みんな、経済モデルの中に「想定の非現実性」を入れすぎたのである。イデアリズムになったのだ。これがケインズのリアリズムを駆逐した。これに対するケインズ理論の逆襲は、残念ながらまだ用意されていない。 

≪071≫  (7)新自由主義が、政府は景気の微調整すらしないほうがいいというふうに言いすぎたことは責められていい。政府は景気の安定策においても、せいぜい物価を安定させる程度の手を打って、あとは市場に任せればいいというふうになったのだ。 

≪072≫  ではケインズは「大きな政府」ばかりを期待しつづけたのかといえば、むろんそうではないのだが、とはいえこれを凌駕する経済政策論を国内的には提案しなかった。ケインズはむしろニューグローバルな国際経済政策のほうを考えていた。 

≪073≫  (8)今日の経済社会では、政府から企業までがいくつかの戦略ゲームにはまってしまった。となると、ガバナンスの責任とルールの明確化とコンプライアンスばかりを問う政治と経済がまかり通ることになる。ケインズはこれらのことを予想もしなかったし、批判もできていないけれど、ポスト・ケインジアンならここから問題をおこすべきだったのである。 

≪074≫  ケインズは資本主義を賛美しなかった。キリスト教に参ったわけでもなく、また社会主義に注目したわけでもなかった。ケインズは骨の髄まで自分の心と意味の動向だけに殉じた「変な男」なのである。

≪075≫  そういうケインズが考えた経済学に、これほど世界の経済がまるごと乗っかったということは、考えてみればそれ自体がかなり異様なことだった。ケインズに賛成するのであれ、批判するのであれ、そこまでケインズ経済学が絶対視されたことのほうが、かなりおかしなことだったのだ。 

≪076≫  そもそもケインズはジョン・ロールズやマイケル・サンデルが重視しているような「正義」などということより、「心の状態」の不確かな「ゆらぎ」のほうに関心をもっていたのではないか。ぼくはケインズを読んでも、本書を読んでも、つくづくそういうことを実感した。だから、ケインズはしょせんは契約社会の改善などを構想していないと言うべきなのである。 

≪077≫  ふたたびナシーム・タレブの『ブラック・スワン』に話を戻していえば、タレブは経済社会に従事する連中の問題として、大意、次のようなことを言ったのだった。 

≪078≫  今日、ITウェブ時代が地球を覆っているなか、仕事は二つのものに割れてしまったのではないか。その二つというのは、ひとつは「重力の影響に携わっていたい」ということ、もうひとつは「貸借対照表のゼロの数をいじりたい」ということ。その二つだけだろうと言うのだ。 

≪079≫  前者の仕事には、農業や身体的なものや医療的なものがすべて入る。後者の仕事は、経営戦略や金融や電子ゲームやソフト制作のすべてにまたがっている。タレブは、ねえ、これでホントにいいんですかと問うたのだ。なかなか穿った問いだった。 

≪080≫  しかし、話をここで終えるわけにはいかないだろう。ケインズに戻っていえば、この二つに社会の仕事の事態が割れてしまったのは、その「あいだ」にひそむ「貨幣というお化け」の正体を、世界中の諸君が見ないようにしているからだということになる。そうも言っておかなければならない。 

≪081≫  もっと端的にいうのなら、ファウストに仕掛けられたメフィストフェレスの魂胆が忘れられているということなのである。これはケインズも、答えを出さなかったことだった。 

≪082≫  というところで、ケインズの次の言葉で今夜を結んでおくことにしよう。「資本主義は現在の視界に存在するいかなる代替的システムよりも、経済目的を達成するのには、おそらくより効率的なものにすることができるであろう。しかし私は、それが本質的に多くの点できわめて不快なものであるとも考えている」(自由放任の終焉)。 

≪083≫ 【参考情報】(1) ロバート・スキデルスキーのことはよく知らない。けれどもわずかなプロフィール資料を見たかぎり、もっと知りたくなるようなコンティンジェントな人物だ。 スキデルスキーは1939年に満州のハルビンに生まれている。父親はロシア系ユダヤ人で、母親は白系ロシア人。曾祖父がシベリア鉄道の工事の一部を請け負って極東ロシアに移住して、林業や鉱業などを幅広く手掛ける実業家になったようだ。 その後、ロシア革命でいっさいのロシア国内の事業を失ったらしいのだが、その後にハルビンで事業を復活させた。だからスキデルスキーが生まれたころはそれなりに裕福だった。ただ、この一族は全員が“無国籍”だったようで、父親は1930年になってやっとイギリス国籍を“取得”した。 そのため、スキデルスキーは数奇な少年時代を送った。1941年に日本が日中戦争および太平洋戦争をおこしたとき、スキデルスキー一家は最初には満州帝国によって拘束され、次には日本によって拘留されたのだ。J・G・バラード(80夜)の少年時代を想わせる(バラードの少年時代はのちにスピルバーグが映画化した『太陽の帝国』に詳しい)。だからスキデルスキーがイギリスに渡ったのは、やっと在英日本人との”捕虜交換”が成立したときだったのである。 戦後は、父親がまたまた中国に戻って事業を再開しようとしたため、スキデルスキーも1947年から中国で暮らしている。天津に1年ほどいて、インターナショナル・スクールに通った。けれども、ここでも波乱が待っていた。共産党軍が天津占領をめざしたのだ。一家はこれで香港に逃れ、スキデルスキーがオックスフォード大学のジーザス・カレッジに入ったのは1950年代末のことだったのである。 上にも書いたように、専攻は歴史学である。1967年には『政治家と不況』を書いている。その後はジョンズ・ホプキンス大学などをへて、1978年にウォーリック大学教授になった。なぜか1991年に一代貴族に選ばれ、イギリス上院議員になっている。うーん、おもしろい。 

≪084≫ (2)邦訳されたスキデルスキーの著書は次の通り。『ジョン・メイナード・ケインズ――裏切られた期待』(東洋経済新報社)、『ケインズ』(岩波書店)、『共産主義後の世界――ケインズの予言と我らの時代』(柏書房)。なんだか、もっといろいろのものを書いているような気がする。 

≪085≫ (3)経済学というものは、ほとほとわかりにくいものだ。ぼくは学生時代にマルクス(789夜)や宇野弘蔵から入ったので、まったく正統な学習をしてこなかった。読書もいつだってランダムで、いまさらそんなぼくに何が言えるのかと思うのだが、ハイエクやフリードマンの流行を見て、ちょっと待ったという気になった。 いまでは少々落ち着いて考えられるようになった。ぼくが思うに、経済学を一つの体系のなかに収めてはいけないということだ。学生やMBAや企業人は、まずもって広い視野をもつべきだ。せめては、「生産の経済学」「消費の経済学」「景気の経済学」「政策の経済学」「金融の経済学」「家政の経済学」、そして「情報の経済学」を、それぞれ別々に話せるようになったほうがいい。そのうえで、貨幣・通貨・日本経済、国際経済、グローバリゼーションを云々するべきだ。 しかし、そうなるには、経済と社会と文化と情報を切り離さないで語れないといけない。けれども、まったくそうはなっていない。だから菅直人の「消費税10パーセント」発言程度で、一国の選挙の趨勢があっけなく決まってしまうのだ。 

ファウスト伝説とは何か。 その魔術に隠されていた錬金術や換金術。 なぜファウストはそんな悪魔と契約をしたのか。 ゲーテはファウスト伝説から、何を取り出したのか。 ゲーテが仕込んだ謎はきわめて深く、問題は近代社会が選択した根本にかかわってくる。 そしてそこに、貨幣の隠された意味が浮かび上がる。 いよいよ証かされる貨幣の魔術的本質を、今夜はゲーテの問いに戻って、しばし逍遥する。 

≪02≫  ドイツの小都市シュタウフェンの市役所の広場のそばに「獅子亭」がある。1539年、この宿泊レストランで特筆すべき死亡例があったことが建物の外壁に告知されている。こういうものだ。 

≪03≫  「西暦1539年、この獅子亭においてファウスト博士なる奇妙な黒い魔術師ありて、悲惨なる死を遂げたり。ファウスト博士なる男が存命中、ひたすら義兄弟と呼びし悪魔の長の一人メフィストフェレスなる者が24年間にわたる契約の切れし後、ファウスト博士の首の骨をばへし折り、その哀れなる魂を永劫に地獄に引き渡せりと言い伝えらる」。 

≪04≫  16世紀ヨーロッパに出入りしていたファウスト伝説がどういうものであるかは諸説があるが、ファウストが「黒い魔術」すなわち「錬金術」に長けていただろうことは、どの伝説にも共通する。「人造の金」の精錬に夢中になって各地を渡り歩き、その魔術的技能を吹聴してさまざまな貴族にその腕を信じこませていたらしいことも、各種ヴァージョンが伝わっている。シュタウフェン男爵が手元不如意になったときも、ファウストは自分の錬金術が役立つと信じこませていたらしい。 

≪05≫  シュタウフェンはファウストが死んだ(殺された)とされる土地である。そのためその後、ファウストをめぐる噂はさまざまに尾鰭をつけ、人々はこの男を悪魔メフィストフェレスと契約を結んだファウスト博士として結像させていった。 

≪011≫  ファウスト伝説には、そのほかいろいろのエピソードが交じっていく。曰くニュルンベルクで錬金術師として活躍した、曰くフランクフルトの見本市で貨幣の両替を繰り返していた、曰くバンベルクで魔法でこしらえた豚を売った、そのほか云々。 

≪012≫  さて、いまさらいうまでもなく、このような話の展開をもつファウスト伝説が、その後、ゲーテ(970夜)のレーゼドラマ『ファウスト』の下敷きになったわけである。 

≪013≫  しかし、ゲーテは伝説を下敷きにはしたものの、『ファウスト』をかなり独特の物語にしていった。ゲーテが生涯にわたって抱えたテーマのすべてを注ぎこもうとしたからだ。そのため1773年に着手していながら、死ぬ直前の1831年までの60年を費やしたほどだった 

≪014≫  今夜は『ファウスト』を案内するところではないので、詳しいことは何も書かないが、ゲーテがファウストという主人公に何を託したかという仕込みは肝腎な点なので、かんたんに言っておく。 

≪020≫  ついでにそのあとの展開を書いておくと、ファウストとメフィストの契約が成立すると、手始めにメフィストはファウストを見ちがえるように若返らせ、少女グレートヒェンに惚れさせる。グレートヒェンは本名をマルガレーテといった。 

≪021≫  970夜にも少々説明しておいたように、グレートヒェンはどんな器用なこともできないが、愛することだけを知っている。そういう可憐な少女だった。ファウストは恋に落ち、胸を焦がし、その本来の活力を失っていく。辛うじてメフィストのはからいで結ばれるのだが、それならその愛でこそメフィストの契約を破棄できたはずなのに、ファウストにはもはやアニメーション(アニマ・モーション)がエマネーション(流出)につながらない。 

≪022≫  そうこうしているうちに、この関係を責めるグレートヒェンの兄がファウストの手にかかって死んだ。一方、グレートヒェンは眠り薬の量を誤って母親を殺してしまう。それどころか、ファウストとのあいだに生まれた子を水没させて殺し、牢屋に入れられたまま死んでしまう。 

≪023≫  茫然とするファウストをメフィストはハルツ山地のブロッケン山の「ワルプルギスの夜の宴」に連れ出し、なにもかもを忘却させようとするのだが、ファウストにはグレートヒェンの面影がどうしても消えない。事態はしだいに行き詰まってくる。 

≪024≫  その後、ファウストはしばらく落ち着きを取り戻すのだが、そこへメフィストがまたまた罠をかけ、ファウストは美女ヘレナと恋に陥り、二人のあいだに男児オイフォリオンが生まれる。詩の化身となったオイフォリオンが地下世界に行くと、ヘレナもこれを追う。この先の話はおもしろいのだが、また、省略しておこう。 

≪025≫  ファウストはいつしか100歳になっていた。それでも最後の命の火を燃え上がらせて、新たな社会の建設に立ち向かう。もはや魔術の力を借りるまでもない。メフィストを振り切るかのように、「止まってくれ、おまえは実に美しい!」と叫ぶと、ついに最期を迎える。 

≪026≫  ニヤリと笑ったメフィストは契約に従ってファウストの霊を手に入れようとするが、天使たちがこれを阻み、墓の中のファウストの魂はグレートヒェンの霊に導かれて天高くのぼっていく‥‥。 

≪027≫  ざっとはこういう筋書きなのだが、さて、このファウストとメフィストフェレスのあいだで交わされた「契約」こそが問題なのである。いったい何がおこったのか。その契約とは何なのか。 

≪028≫  ユング(830夜)は『心理学と錬金術』のなかで、「ゲーテの『ファウスト』は始めから終わりまで錬金術のドラマである」と述べた。「錬金」や「換金」がゲーテが問うた根本の意味にかかわっているというのだ。ぼくはこの意味がしばらくわからなかったのだが、あるときビンスヴァンガーの本書に出会って、うーん、そうなのかと唸った。 

≪029≫  本書は、ゲーテの『ファウスト』は近代的な経済の起源をあらわす完璧な寓話になっていることを証してみせている。ゲーテは、近代の貨幣経済の本質に「中世以来の錬金術がとりこまれている」と見たのではないかというのだ。 

≪030≫  なるほど、そうかもしれない。そうでないかぎり、ファウストを熱中させたような社会建設の行為が貨幣経済として確立しなかったろうという見方は、それなりに説得力があった。それに、ゲーテはたんなる作家ではなくて、そもそもがワイマール宮廷の政治家であり、世界の解釈者でもあったわけだ。 

≪031≫  加えて、それよりなにより「ファウスト・ヒストリア」では、ファウスト博士はワイマール近郊のロート村に生まれたことになっていた。26歳でワイマールの宮廷に入り、32歳で内閣主席となり、それにもかかわらずワイマールを理想社会にはなしえなかったゲーテが、この地に因縁をもつファウスト博士の錬金術や換金術に大きなヒントを得たのは想像がつくことだったのである。 

≪032≫  というわけで、本書はなかなかに虚をつくものだったわけだが、本書に耳を傾けるには 少しだけ錬金術がどういうものであったかを知っておく必要がある。 

≪033≫  錬金術(Alchemie:アルケミー)は「賢者の石」を用いて「金」(きん)を創り出す技術のことをいう。“chemie:ケミ”はもともとエジプト伝来の「黒い土」を意味した。そこからアルケミーは「黒い魔術」で、それが錬金術ともくされた。プルタルコスは「黒いものは太陽の光を見る瞳が黒いように、秘密に満ちたものをあらわす」と説明した。のちのち、このケミから本格的な「ケミストリー」(化学)が派生した。 

≪034≫  「賢者の石」は金の原料ではない。金を生み出すための触媒のことで、それによって卑金属が貴金属になる。たとえば鉛という卑金属に、特別の石の粉末あるいは硫黄や水銀を加えて蒸留すると、ときに微小な貴金属に変化するはずだと考えられた。中世、このプロセスは「鉛を意味するサトゥルヌス神の内発的な可能性が引き出された」というふうに解釈され、そういうことを説明できるのが魔術師や錬金術師の扱いをされたのだ。鉛の本体であるサトゥルヌス神は「賢者の石」によって眠っていた時間クロノスをめざめさせたのだ、というふうに。 

≪035≫  もっとも、サトゥルヌスのギリシア名はクロノスなのだから、ちょっと古典語学に詳しければ、こんな説明はファウストやメフィストでなくとも、いくらでもできたのである。しかし、当時はこれは驚くべき説明だった。錬金術は「時間をも創り出す」と思われたからだ。 

≪036≫  というわけで、錬金術はいつだって「新たな価値を創り出す」という意義だったのである。ゲーテはそこを袂り出すことにした。そして、「新たな価値」とは、次の3つに時代を超えてあらわれるだろうと見抜いたのだ。 

≪037≫  第1には、金を生み出そうとすることは精神の黄金性に達することだった。第2に、肉体の永遠に近づくことを象徴した。そして第3に、金は貨幣としての使用力をもちうるのだから、社会における至高の富を意味するにちがいない。 

≪038≫  ゲーテは「経済」を錬金術のプロセスとその本質的な意義によって解釈したわけである。そのため、折からの古典的な国民経済学と真っ向から対立することになったのだ。 

≪039≫  折からのというのは、1776年に発表されたアダム・スミスの『国富論』以降ということだ。『国富論』の発表は、ちょうどゲーテが『ファウスト』の構想に取り組み、第1部を書き始めたころに当たっている。 

≪040≫  そのとき、ゲーテにとって経済社会はどのように見えていたかといえば、欺瞞たらたらに見えていた。なぜなら古典的な経済学にとっては、富を創り出すのは労働と市場なのである。分業的労働が市場を活性化させ、そこから富が生まれていくと考えられていた。だからスミスは「貨幣または財貨で買えるものは、その貨幣または財貨のぶんの労働によって買える」というふうに説明した。 

≪041≫  けれどもゲーテからすると、このアダム・スミスの経済学には根本的な問題が言及されていない。いや、わざわざ根本的なことが隠されている。そのことをゲーテは『ファウスト』第2部にいたって、あからさまに暴露する。物語の場面でいえば、次の箇所になる。 

≪042≫  グレートヒェンが獄死したのち、メフィストはしばらく落胆したファウストから離れて、次の作戦の準備にかかっている。  

≪043≫  神聖ローマ皇帝の宮廷にとりいったメフィストは、ここでファウストを活躍させようと考える。玉座の間に集まった廷臣たちのおしゃべりによると、いま帝室は著しい難境に立っている。財政窮乏の危機なのだ。そこでメフィストは窮乏を救う方法は、地下に埋蔵している金銀を掘り出すことだと唆(そそのか)す。 

≪044≫  なかなか肯んじない皇帝に対して、メフィストは一計を案じて壮大な仮装舞踏会を演じさせ、その機に乗じて皇帝に一通の証書の署名をさせようと考えたのだ。 

≪045≫  この場面、まことに豪華なページェントの場面になっているのだが、おそらくはゲーテがワイマール時代に興じた遊楽や演目が取り入れられているだろう。それはともかくここでは、皇帝はパンの大神の仮装をし、ファウストは富貴神プルートゥスに扮し、メフィストが強欲を演じるというふうになっている。案の定、ファウストはこのとき皇帝の信任を得た。 

≪046≫  すかさずメフィストは皇帝に証書一通の批准の署名をさせた。ページェントの最中のこととて、皇帝はこの自分の署名行為などおぼえていない。しかし、この証書は一夜のうちに数千枚も刷られて、たちまち帝国内の貨幣として流通していったのである。 

≪047≫  皇帝の帝国はしだいに立ち直っていった。財政は復活し、富はゆきとどき、国中が繁栄することになったのだ。かくてファウストは「公共の資力」に貢献した第一人者になった。 

≪048≫  メフィストとファウストが何をしたかといえば、地下に埋蔵されている金銀を“担保”にして、新たに紙幣を発行するための許可書に署名をさせたのである。兌換紙幣を発行する権利をもぎとったのだ。そのことによって「見えない金」をもたらしたのである。ファウストは言う、「わたしは支配権を獲得し、所有権を獲得する」と。 

≪049≫  ここにゲーテは、ファウスト伝説の錬金術を、近代国家の「金本位制のもとでの紙幣発行というシステム」に読み替えたのだ。そこに貨幣の支配力と財産の所有という幻想が成立しうることを読み取ったのだ。 

≪050≫  それだけではなかった。ゲーテはこのあとファウストに皇帝の戦争を勝利に導かせる場面をつくる。ファウストは将軍となり、メフィストの力を借りると「霊たちの軍勢」を作り出し、「見えない力」を使うことによって戦争を指導する。 

≪051≫  このとき3人の戦士が活躍した。「喧嘩男」「取り込み男」「握り男」の3人だ。それぞれ、財貨の略奪、入手したものを所有する力、その所有したものを手放さない吝嗇を、あらわしている。 

≪052≫  戦争は圧倒的な勝利となった。皇帝はその功績を讃えて海岸地帯を世襲封土として与え、ファウストは地下の埋蔵性をもつ所有者になっていく。「紙幣の発行」と「霊による戦争」は、「見えない金」の所有と「見えない力」の支配という行為の象徴だったのである。かくてゲーテは一国の経済が、自由市場ではなくて、紙幣と戦争と海賊行為によって成り立っていることを見抜いたのである。 

≪052≫  戦争は圧倒的な勝利となった。皇帝はその功績を讃えて海岸地帯を世襲封土として与え、ファウストは地下の埋蔵性をもつ所有者になっていく。「紙幣の発行」と「霊による戦争」は、「見えない金」の所有と「見えない力」の支配という行為の象徴だったのである。かくてゲーテは一国の経済が、自由市場ではなくて、紙幣と戦争と海賊行為によって成り立っていることを見抜いたのである。 

≪054≫ (1)埋蔵している地中の財宝は貨幣を発行する力に見合う。そういう魔法は通用する。 

≪055≫ (2)貨幣・紙幣の発行は時の権力さえ承認すれば合法化される。そういう魔法も説得力をもつ。 

≪056≫ (3)所有の欲望と結びついているのは、貨幣と戦争と暴力と吝嗇である。そうい魔法は民衆も求めている。 

≪057≫ (4)やはり技術や発明が社会を豊かに変えるのだ。それは近代以降の魔法なのである。 

≪058≫ (5)土地にひそむ物質は、結局は「富」あるいは「資本」の原基であるにちがいない。そのことを知らしめたのも近代の魔法だったのだ。 

≪059≫  魔法や魔術と言われてはいるものの、実は経済とはもともと魔術的なしくみからしか生まれないのではないか。そのうえで古典的な経済学や国民経済学は「自由」「平等」を「市場」に結びつけただけではないのか。ゲーテは、そう言いたそうである。 

≪060≫  本書はそうしたゲーテの見通しを、かなり赤裸々に綴っている。もっともそれは、ゲーテ以前にすでにヨーロッパ経済が「世界システム」として見せ始めていたことでもあって、たとえば1694年のイングランド銀行の設立と、そこにおけるウィリアム・ペティの紙幣発行論とか、1715年にオルレアン公から紙幣発行権をもぎとったジョン・ローの営為とか、それがもたらしたミシシッピ会社などの株の力とか、そういうものはゲーテがファウストやメフィストを借りて独創したものではなかった。 

≪061≫  けれどもそのうえで、やはりゲーテは『ファウスト』において、その後の市場主義者のイデオロギーが何をどのように抗弁しようとも欺瞞に満ちていくだろうことを、鋭く見抜いていたわけでもあった。なんといっても、ファウストがメフィストフェレスと「契約」をしたことに、ゲーテのいっさいの想像力が起爆したのである。 

≪062≫ 【参考情報】 (1)ファウスト伝説は「ファウスト・ヒストリア」以降、ゲーテ以前にも、ゲーテ以降にもさまざまな物語になっている。たとえばクリストファー・マーロウの『フォースタス博士の悲話』(1588〜92)では、ファウストは悪魔と結んで科学の権化に向かっていくという物語になり、レッシングの『ファウスト博士』では理知を昇りつめたファウストは魂の救済力をもったともされた。 しかし最も特異なのはトーマス・マン(316夜)の『ファウスト博士』で、ぼくはこれには脱帽した。参った。次(2)にかんたんな案内をしておく。驚かないように。 

≪063≫ (2)トーマス・マンの傑作『ファウスト博士』(1947)には副題がある。「一友人の物語るドイツ作曲家アドリアン・レーヴァーキューンの生涯」だ。これでわかるように、この物語は音楽家の壮絶な宿命を友人が語っているという体裁をとる。 音楽家アドリアンは知能抜群で、ギムナジウム時代から個人教授を受けて作曲家としての才能を開花させるのだが、ハレ大学に進むと神学に打ち込み、ライプチヒ大学に移ると今度は神秘学に夢中になる。あるとき「隠れ家」に案内されてピアノをかき鳴らしていると、褐色の女があらわれ頬を撫でられ、あわてて表へ逃げ出す。しかし翌年、その女を追ってグラーツ近郊に行き、女から梅毒をうつされる。5週間後に発病、二人の医師の治療をうけて第一次症状は消えたものの、根治はできない。 その後のアドリアンはさまざまな芸術的交流を通して、『万有の奇跡』『デューラーの木 版画による黙示録』などの悪魔的な傑作を発表し、ついに自分はベートーベンの『第九交響曲』を破棄すると宣言する。かくてその宣言の交響カンタータとして『ファウスト博士の嘆き』を完成し、1930年5月に友人知己を呼んで、自分の罪過を告白、ではこれから悪魔の作品を聞かせようと言ってピアノに突っ伏し、意識を失う。 そういう粗筋なのだが、この音楽家の物語を書いた友人は、実は音楽家の分身であったことがあきらかになる。それだけでなく、うすうす見当がついたかもしれないが、この主人公はニーチェ(1023夜)がモデルなのである。トーマス・マンはファウストとニーチェを重ね、しかも将来のファウストは音楽家でなければならず、音楽家は本物を求めればファウストにならざるをえないことを突き付けたのだ。また、物語のありとあらゆる場面ドイツ的悲劇のシンボルとアレゴリーを埋めこんだ。こんなファウスト伝説は、今後もとうてい出てこない。そういう傑作、いや怪作なのである。 

≪064≫ (3)著者のハンス・クリストフ・ビンスヴァンガーについては、よく知らない。1929年のチューリヒ生まれで、スイスのザンクト・ガレン大学の経済学教授だということくらい。スイスにおける自然保護運動の旗手でもあるらしい。なおファウスト伝説の当時のルーツについては、溝井裕一の『ファウスト伝説』(文理閣)を見るといい。数々のファウストにまつわる写真も入っている。 

いま、マネーと情報はぴったりくっついている。

電子決済や電子ネットワーク社会が、その準備をなしとげた。

では、かつて情報と富は結ばれていなかったのか。

そんなことはない。

グレートマザーの時代は結びついていた。

デマレージの経済社会というものもあった。

本書はECUを設計した異才リエターによるかなり変わったマネー論仮説だ。 

松花体話録

松花体話録

松花体話録

≪03≫ 【参考情報】 (1)ベルナルド・リエターは1942年生まれ。文中にも紹介したように、ECU(エキュ)の設計者として知られ、のちには通貨トレーダーとして名を馳せた。しかしその後は地域通貨の研究に転じて『マネー崩壊』(日本経済評論社)を書いて、国家通貨とは別の通貨の可能性に視点を移していった。 本書もその延長にあるもので、世界通貨「テラ」なども提唱しているのだが、全体に理想性や幻想性が漂っていて、厳密な議論がされているとは思えない。しかし、そこに何かの可能性が胚胎しているだろうことが、多くの読者を魅了したようだ。たとえば『マネー崩壊』の巻末に長い解説を書いた加藤敏春はその一人だ。 加藤は『エコマネー』(日本経済評論社)でその思いのたけを存分に披露した。ケインズの「バンコール」に倣った「ミレニアム」という世界通貨も提唱し、ハイパーテキスト型社会構造の可能性と地域通貨の関連についても言及している。通産省の出身で、その後はエコマネー・ネットワークの代表をしているようだ。 

≪04≫ 【参考情報】(2)本書には、経済書としてはきわめて特異なことだが、ユングの「アーキタイプ」(元型)の思考法が組み入れられている。それがグレートマザー社会にひそむ「陰のマネー論」に及び、今夜の花ちゃんとの会話には入っていないが、実はイシスの話題、黒聖母の話についてもいろいろ言及して、近代資本主義社会によって失われたこれらの「陰」や「影」がいかに重要になりつつあるかを強調した。 とくにイシスについては何度も触れていて、古代エジプト社会における「穀物貨幣」の役割や、イシスに象徴される再生力の重要性などを強調している。イシスに込められた「社会の再生」の秘密とは何かというあたりだ。イシス編集学校の諸君にとっては必読かもしれない。 が、リエターはその「もてなし」をうまく発揮していない。経済学や経済社会論ともうまく連携されていない。きっとカリフォルニア大学バークレー校のタオ・フラワーな気分に呑みこまれたままになっているにちがいない。ここをどう突破するかが、今後の課題だろう。 

ゲゼルの大著は、いまほとんど読まれていない。

そのラディカルきわまりない思想の系譜も、

ほとんど辿られていない。

実はそこにはプルードンが先行し、

マルクスとケインズがあいだに入り、

シュタイナーが後行していた。

しかし誰も、こんな奇妙な系譜を

本気で議論してはこなかった。

いったい何をどのように捉えたらいいのだろうか。

今夜は大著『自然的経済秩序』をめぐりながらも、

まずはその周辺のアプローチの方法をさぐる。 

≪02≫ 資料①  

≪03≫  シルビオ・ゲゼルの波乱に満ちた生涯については、あらかた前夜に書いた。20世紀初頭の経済理論家があれだけの“経済乱世”をくぐり抜けてきたというのは、めずらしい。 

≪04≫  いくつか理由が考えられる。ドイツ帝国の勃興期と多難期のドイツの辺境に生まれ育ったこと、若いころにシュティルナー、マルクス(789夜)、ショーペンハウアー(1164夜)、ニーチェ(1023夜)を読んだこと、南米アルゼンチンで投機とその崩壊のプロセスに立ち会ったこと、すぐれたビジネスセンスとロジカルな理論構築能力に恵まれていたこと、第一次世界大戦前のドイツマルクの狂乱を身近で体験したこと、ロシア革命が勃興して社会主義の成長理論が登場していたこと‥‥。 

≪05≫  そうしたことがゲゼルのなかで比類のないかっこうで融合したから、かなり独創的な経済理論や自由貨幣の構想が思い浮かんだのだったろう。そこから協同組合的な理想や農業重視的な理念とともに、ありうべき資本主義の未来像についての構想が浮かんでいった。 

≪06≫  そのゲゼルのことを、どこかでシュタイナーは知った。シュタイナーのアントロポゾフィ(人智学)はつねに精神生活と社会生活の深い関係を問うものであるが、そこにはゲーテ譲りの政治経済感覚も去来していた。そこへゲゼルが加わって、生産と生活の直結ないしは循環が理想になっていく。シュタイナーが「貨幣は他人の生産した財貨の“小切手”にすぎない」というふうにみなしていたこと、また、その“小切手”が経済領域においてどのような財貨とも交換しうるのは、社会生活者たちが労働をして生産物を社会に供給する責任をはたしているかぎりにおいてのことだ考えていたのは、多分にゲゼルっぽい。 

≪07≫  シュタイナーが「老化する貨幣」を考えて、貨幣に25年ほどの期限つけたいと思っていたのも、きわめてゲゼル的である。シュタイナー的なオーガニック・エコノミーにはそういう貨幣の未来像が必要だったのだ。それが「エインジング・マネー」だった。 

≪08≫ 資料②  

≪09≫  ゲゼルは生前もその後も、一貫して異端扱いされてきた。シュタイナーやエンデやビンスヴァンガーが重視したのはめずらしい。 

≪010≫  それでもケインズ(1372夜)が貨幣論のなかでわざわざ「将来はマルクスよりもゲゼルが重要になっていく」と予言的に評価した。それにもかかわらず、その通りには評価されてこなかった。やはり特異すぎたのであろう。またケインズの「バンコール」などの提案がアメリカ主導のIMF=世界銀行構想に押し切られたせいだろう。そのあとは、あまりにシカゴ学派と新自由主義がはびこってケインズ主義が退嬰してしまったせいもある。  

≪011≫  それでも、それがリーマンショック以降はいささか反転して、少しはケインズ復活の機運も出てきただろうから(1373夜)、これからは多少はゲゼルにも光が当たるかもしれないが、そうなるにはゲゼルがもっと読まれなくてはならず、それがなかなか叶わないままにある。いま日本で読めるのは残念ながら本書一冊きりで、しかも大冊。一般読者には難解でもある。 

≪012≫  そもそもゲゼルの思想の立場も実は説明しづらいところがある。たとえば、本書の訳者の相田慎一が「あとがき解説」で最初に断っているように、ゲゼルは「反マルクス主義的社会主義」というレッテルを当初から貼られてしまっていた。ケインズが「マルクスよりもゲゼル」と言ったのも、その見方を踏襲していた。 

≪013≫  そうした見方はゲゼルの今日的な意味を取り出すに当たってはかなり狭すぎる。それでもマルクスとゲゼルを比較するのは、ゲゼルを理解するためのとりあえずの入門的な見方としてはわかりやすい窓になるはずだった。とくに資本主義についての考え方はきわめて対比的なのである。 

≪014≫  たとえば、マルクスは資本主義の本質が「産業資本主義」にあるとして、そこに資本と生産関係の矛盾が噴き出て、資本家と労働者のあいだに搾取が生じるとみなしたが、ゲゼルは資本主義の本質は「利子経済」にあると見た。そして、矛盾がおこるのは生産過程ではなく、むしろ流通過程であって、搾取がおこるとしたら貨幣所有者と商品生産者のあいだだろうとみなした。 

≪015≫  マルクスは市場経済そのものを根底から覆し、プロレタリアートの手による経済社会にするという構想を出し、それがレーニン以降のプロレタリア独裁国家によるソ連の計画経済になったわけだけれど、ゲゼルはまったくそういうことは考えなかったのである。市場経済は個人の自由が守られるかぎりは有効なもので、資本主義も利子経済から脱却できれば何とか軌道修正できるだろうと見ていた。ただし、それには貨幣による経済秩序の統御が障害になっているので、そこにこそ「エイジング・マネー」としての自由貨幣が登場すべきだと提案しつづけたわけだった。 

≪016≫  一応はこういうふうに、ゲゼルの経済思想のおおまかな特色がマルクスとの比較によって見えてはくるのだが、ただしそういうふうに見ると、そのぶん、ゲゼルの思想が反マルクス的な自由論をめざしているとも見えるだけに、それが個人的自由主義に与するものともみなされる。そういうふうに見るのがふつうの近代思想史の見方なのである。 

≪017≫  しかしながら、実際にはゲゼルの思想は、今日にいういわゆる個人的自由主義とはほとんど交差していない。 

≪018≫  というのも、ゲゼルの個人的自由主義はアダム・スミスやスチュアート・ミルの自由経済論から出てきたのではなく、まして今日のリバタリアニズムと直結しているわけでもなく、実はピエール・プルードンやマックス・シュティルナーから出ていたからである。そうだとすると、ゲゼルの思想はマルクス以前のアナキズムこそが思想的背景だというふうになってきて、ふつうの経済学者はむろん、多くの思想家たちも、いささかお手上げになる。そのへんをどう見るかが、ゲゼルの自由地論や自由貨幣論を考えるときの、ちょっとした難関になるわけなのである。 

≪019≫ 資料③  

≪020≫  プルードンを有名にしたのは1830年の七月革命と1848年の二月革命である。七月革命で仕事を失い、二月革命ではチュイルリー宮の無血占領に参加した。 

≪021≫  フランスのブザンソンに生まれ育って、そのブザンソンのゴーチエ印刷所の植字工や校正工になった。1829年、ゴーチエ印刷所にたまたまシャルル・フーリエの『産業的協同社会的新世界』の原稿がもちこまれた。プルードンは校正担当者としてフーリエと接触して、その思想のとりこになった。  

≪022≫  そのうちそこへ七月革命の余波が届いた。ナポレオン以降のフランス社会の最悪の混乱と経済的打撃がやってきたわけである。プルードンは“渡り職人”の資格をとってなんとか食いつなごうとするのだが、とうてい仕事はなかった。パリにも出てみたが、何の仕事も得られない。こうしてプルードンは国家というもの、社会というもの、経済というものの成り立ちそのものに疑問をもちはじめる。フランス革命、ジャコバン党の支配、ナポレオン帝国、そしてルイ・ボナパルトの共和政というふうに連打されてきた祖国フランスの右往左往に根底的な疑問をもったせいである。 

≪023≫  それは言ってみれば「真の革命とは何か」ということであった。こうして書かれたのが『所有とは何か』(1840)だったのである。所有の起源を辿っていくと、そこには他人のものを収奪するか、徴収することでしか成立していない財産というものがある。そういう所有の制度をこのまま放置しておいてもいいものか。その問題に切り結んでいったプルードンは、かくて「所有」と「私的財産」の根源を歴史上初めて俎上に乗せた思想者となった。 

≪024≫  しかしプルードンはそこにとどまらない。1843年には『人類における秩序の創造について』を、1846年には『経済的諸矛盾の体系』を発表し、リヨンの織工たちが蜂起したときはその支援にもまわった。また当時は“ヘーゲル左派”と呼ばれていたルーゲ、グリュン、ハイネ(268夜)、まだ25歳だったマルクス、さらにはバクーニン、ゲルツツェンらと積極的に接触して、その考え方を広めていった。 

≪025≫  『経済的諸矛盾の体系』は通称『貧困の哲学』と呼ばれた。いっさいの経済行為を「分業・機械・競争・独占・租税・貿易・信用・所有・共有」に十分類し、それらがことごとく矛盾とアンチノミーの上に成り立っていることを証そうとした社会的快著だった。プルードンは社会の前進の駆動力は、この矛盾とアンチノミーから発進していると見たわけである。 

≪026≫  しかし翌年、マルクスはこれを『哲学の貧困』として批判した。プルードンの思想を抉ったというよりも、プルードンが立ったアナーキーな人脈と立場に批判を加えたのだった。これ以降、マルクスはプルードンやバクーニンらを無政府主義者として難詰する。 

≪027≫  こうして時代は1848年のフランスは二月革命に雪崩こむ。これが世界史的にどんな意味をもっていたかは説明するとキリがないが、第1には、当時のフランスには50万人を突破する勢いで失業者があふれていた。そのため国立の失業対策のための工場が必要になっていた。第2には、偏向した選挙権をめぐる運動が激化していた。人口170人に有権者が1人という制限に知識人や労働者が不満をぶつけ、各地でいわゆる「バンケ」(改革宴会)が開催されていった。第3に、バンケの中止を求める政府と民衆が激突し、市街戦が激化した。第4に、その運動の渦中に国王ルイ・フィリップが退位亡命して、蜂起した側の労働者の代表やルイ・ブランなどの社会主義者が登場して臨時政府が成立した(これを狭義の二月革命という)。 

≪028≫  第5に、臨時政府は21歳以上の男子による普通選挙を敢行するのだが、穏健派が議会の多数を占める結果となり、国立作業場が閉鎖されることになって、ふたたび30万人の労働者が決起(六月蜂起)、多くの犠牲者を出して鎮圧されることになった。第6に、これらの結果、ルイ・ボナパルトが大統領に就任した。第7に、こうして19世紀初頭から続いたナポレオン体制のあとに各国が築こうとしたウィーン体制が音をたてて崩れていき、その余波がベルリンとウィーンの三月革命などに波及していったのである。 

≪029≫  プルードンはこうした事態をすべからく「理念なき革命」と断罪し、「人民の代表」と題する新聞を発行したり、選挙に立候補したり、六月蜂起で弾圧された労働者を擁護したりしつつ、議会には所得税に対する改変を迫る提議を案出したりもしていたのだが、ついに業を煮やしてまったく新たな「銀行」の提案に向かっていった。 

≪030≫ 資料④ 

≪031≫  前夜で、ゲゼルがスイスに農場を購入して「土地」のことを考えるようになり、雑誌「貨幣と土地改革」を創刊したということを述べておいた。また、その後にスイスの国営銀行法に介入して『スイス銀行の独占』を書き、1906年には『労働全収権の実現』や『積極通貨政策』を刊行したことも述べた。 

≪032≫  ゲゼルは土地にひそむ自由地に目をつけ、しかるのちに自由通貨を構想したのだった。『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』をまとめていくには、この思索のプロセスが前提になっていた。加えて、ゲゼルはこれを書くときにプルードンを批判したマルクスを批判して、マルクスの選択肢がプロレタリア独裁による国家経済に向かったことを非難した。 

≪033≫  ゲゼルが考えた「自由地」とは、土地監理局に報告されて労働が許された土地、外国人が侵攻あるいは認定されて居住している土地に対して、誰もが努力しさえすれば開墾できる土地のことをいう。ゲゼルはそれを「第三級の自由地」と呼んだ。 

≪034≫  この自由地を、生産と労働の本来的な活動のなかで経済的に有効にするにはどうするか。地主の申し渡した地代を払い、労働賃金を払っているだけでは、そこには経済の自立的自由は生まれない。そこでゲゼルは、ありうべき「自由地」にふさわしい「自由貨幣」がありうるのではないかと考えたのである。 

≪035≫  ということで、本書の主だったところだけを抜き書きするが、ざっと次のような部立てと章立てと節立てになった。よくよくこの目次を見れば、ゲゼルが何を構想したか、あらかたが見えてくるにちがいない。 

≪036≫ 資料⑤  

≪037≫ 目次① 

ミヒャエル・エンデが最後に望んでいたのは、

利子が利子を生まない貨幣だった。

そういう貨幣が使える新たな社会だった。

エイジング・マネー。

時間の経過とともに変化する貨幣。

自由貨幣、補充貨幣、スタンプ貨幣、代用貨幣。

この卓抜な発想には、何人かの先覚者がいた。

ゲゼル、ケインズ、シュタイナーである。

エンデはかれらの著作から

新たな社会経済の青写真を汲み取っていく。

かつてのNHKの番組がその余波をあきらかにする。 

≪01≫ ミヒャエル・エンデが最後に望んでいたのは、利子が利子を生まない貨幣だった。 そういう貨幣が使える新たな社会だった。 エイジング・マネー。 時間の経過とともに変化する貨幣。 自由貨幣、補充貨幣、スタンプ貨幣、代用貨幣。 この卓抜な発想には、何人かの先覚者がいた。 ゲゼル、ケインズ、シュタイナーである。 エンデはかれらの著作から、新たな社会経済の青写真を汲み取っていく。 かつてのNHKの番組がその余波をあきらかにする。 

≪02≫  この本のもとになった番組をぼくは見ていない。1999年5月4日の放送だったようだが、見逃したのではなく、知らなかった。この本によってそういう番組があったことを初めて知った。これを読むかぎり、けっこう充実した番組になっていただろうと予想する。 

≪03≫  河邑厚徳といえばNHKの教養番組ドキュメンタリー派の鬼才で、「がん宣告」「シルクロード」「アインシュタイン・ロマン」「チベットの死者の書」などで鳴らした人物だ。その河邑がエンデが残したたった1本のテープから番組を組み立てていったというのだから、それだけでも構想力や構成力がどんなものであるかが想像できる。もっとも書物になるにあたっては、共著者の「グループ現代」が選んだ森野栄一、村山純子、鎌仲ひとみの3人の準備力と執筆力が大きかったはずである。森野栄一についてはあとで紹介する。 

≪04≫  エンデが残した1本のテープというのは、1994年2月にミュンヘンの自宅で語った2時間のものらしく、それもカメラの回っていない音声録音だったようだ。その翌年にエンデは亡くなった(1995・8・28)。 

≪05≫  このときエンデは冒頭で次のように言っていた。 「よろしいですか、どう考えてもおかしいのは資本主義体制下の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことのすべて、つまり個人の価値観から世界像まで、経済活動と結びつかないものはないのですが、問題の根源はお金にあるのです」。 

≪06≫  これを聞いた河邑はカメラが回っていなかったことを悔しがり、それならその声のテープに新たな映像を加えて、独自のドキュメンタリーに再浮上させようと決断したようだ。  

≪07≫  それからのことは知らないが、ついには本書に見るように取材先をいろいろ加え、多様な編集戦線をつくりあげていったのだろう。「あとがき」によると小泉修吉プロデューサー、村山純子ディレクターの寄与も相当なものだった。 

≪08≫  本書はそういう成り立ちの本であるが、実はエンデ本人をクローズアップしつづけているのではない。『モモ』や『はてしない物語』の作家としてのエンデをほとんど掘り下げてはいない。むしろエンデの周辺、エンデが影響を受けた経済思想家、エンデの衣鉢を継いだ者たち、さらには今日におけるエンデの貨幣感覚の実践者たち、そういう方面を追っている。テーマはサブタイトルにあるように「根源からお金を問うこと」、それこそが『エンデの遺言』だったのではないかということにある。 

≪09≫  では、ぼくの本書を読んでの感想を綴っておく。番組を見ての感想ではない。大きくかいつまんでいくが、ところどころに本書でとりあげていないエンデの作品や時代についてのことや、これまで千夜千冊してきた貨幣論や経済社会論との関係についての感想などを挟む。 

≪010≫  まずは、ここから話していくのがいいと思う。シュタイナー(33夜)のことだ。エンデにはどこかシュタイナーに振幅しているところがある。 

≪011≫  エンデが青少年期をルドルフ・シュタイナーの影響のもとに過ごしたことは、前夜に紹介した。そこでは書かなかったのだが、シュタイナーのアントロポゾフィ(人智学)には父親エドガー・エンデが傾倒していた。エドガーは「見えない世界」を油絵などにしようとしていたので、シュタイナーのみならずあれこれの神秘思想の本を読んでいた(どんな本だったか、知りたいものだ)。 

≪012≫  エンデはその父親より、もっとシュタイナーに近づいた。6歳でシュタイナー学校に入ったということは、シュタイナーのことをある程度知る者ならおおむね見当がつくだろうが、ほとんど生涯の価値観を決定づけるに足るものだったはずである。 

≪013≫  シュタイナー学校は正式には「自由ヴァルドルフ学校」という。1919年にシュトットガルトの煙草工場に付属する社営学校として開校された。工場に働く師弟が“学衆”だったので、職業学校としてスタートしたものだった。 

≪014≫  いまや世界各地に800校以上を数えるシュタイナー学校は、日本にも1975年に刊行された子安美知子の『ミュンヘンの小学生』(中公新書)を通して、本格的に紹介された。この本には「娘が学んだシュタイナー学校」というサブタイトルがついている。言語芸術、演劇的活動、オイリュトミー(舞踊体操=Eurhythmie)、農業活動、肥料製造、設計、デザイン、ドローイング、絵画、医療、カウンセリングなどを組み合わせた独特の学習教育をしている。ぼくもオイリュトミーの天才と言われたエリゼ・クリンクが来日したときは、なぜか記念講演をさせられた。踊りは風が翻るようですばらしく自在だった。 

≪015≫  ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)はオーストリア・ハンガリー帝国の辺境の町クラリエヴェク(現在のクロアチア)に生まれ、小さな頃から神秘的なことや幾何学的なことに異常な関心を示していた。 

≪016≫  10代は実業学校に通い、物理にも機械にも興味をもつとともに、レッシングやカントを読むようになった。やがてウィーン工科大学で自然科学を、ウィーン大学で哲学・文学・心理学を学んだ。その活動の出発点は22歳から携わったワイマール版『ゲーテ全集』の編集にある。ゲーテ(970夜)はシュタイナーのすべてなのである。だからドルナッハに最初のゲーテアヌムを設計開館すると(1913)、各地にシュタイナー学校が広まるとともにゲーテアヌムを併設していった。 

≪017≫  エンデはそういうシュタイナーに少年時代から馴染んできた。影響が少なかろうはずがない。 

≪018≫  そのシュタイナーに経済社会論をめぐる著作がある。おもな主張は『社会問題の核心』(人智学出版社)や『シュタイナー経済学講座』(筑摩書房)にまとめられている。おそらくエンデが熱心に読んだ本だろう。そこに「老化する貨幣」が提唱されている。 大意、次のようなことが書かれている。 

≪019≫   健全な社会においては、貨幣は他人の生産した財貨の“小切手”にすぎない。その“小切手”が経済領域においてどのような財貨とも交換しうるのは、その小切手所有者が社会の生産部門の労働をして、生産物を社会に供給する責任をはたしているかぎりにおいてのことである。 しかしいま、貨幣は生産活動の表象としての機能を失っている。こうしたときは、貨幣はその貨幣価値をその所有者に足して効能を減じていく処置をされるべきである。たとえば、貨幣所有権が一定の期日を過ぎれば、なんらかの手段で社会に還付されるようにする。本来は生産活動に投下されるべき貨幣が死蔵されないためにも、こうした方法が考案されるべきである。 

≪020≫  シュタイナーは貨幣に「25年ほどの期限」をもうけることを提案したそれによって貨幣価値に高低のカーブをつけ、さまざまな決済・融資・贈与のあいだで自動的な調整がおこなわれていけば、きっとオーガニックな経済社会のバランスがとれるだろうと考えた。 

≪021≫  これが「老化する貨幣」だ。当初の価値がしだいに減衰していくという貨幣という意味をもつ。経済学では「エイジング・マネー」と呼ばれている。「加齢する貨幣」である。時を経過するとともにその価値を変化させ、ときには衰えていく。 そういうエイジング・マネーをミヒャエル・エンデも夢想した。 

≪022≫  そもそもエンデは戦火の渦中のドイツにいて、祖国のマルクが未曾有の混乱を見せつづけていたことをいやというほどに体験している。このような国家は当時はドイツのほかにはなかった。  

≪023≫  ナチス体制のもとで流通していたのはライヒスマルクである。しかし激しいインフレの進行でほぼ信用を失っていた。そのため敗戦直後のドイツは事実上、いまでは想像もつかないだろうけれど、“物々交換”がまかりとおっていた。なんとタバコが価値尺度と交換手段の役割をはたしたのだ(タバコはこういうときに大事なのです。むやみに禁煙運動など広げないように‥‥笑)。 

≪024≫  タバコのことはともかく、ドイツを占領した連合国はさすがにこの原始的現状を見て、焦った。高度な合理を求める資本主義社会では「原始的な交換」こそ最もヤバイことなのである。カール・ポランニー(151夜)の言う「社会に埋めこまれた経済」が発生してしまうからだ。 

≪025≫  そこで一刻も早く通貨改革を施行しようとしたのだが、紙幣の印刷をどの政府のもとでおこなうかについて、ソ連との合意が得られない。そのため全ドイツの通貨統一はあっさり見送られ、ソ連占領地区を除いた暫定通貨の導入に踏切り、紙幣の印刷をアメリカ本土が担当し、それをこっそりフランクフルトのライヒス銀行に空輸で送りこむという非常手段を決行した。 

≪026≫  ドイツは国民の意志とはまったく関係のない暫定通貨、いや擬似通貨とさえいいうる通貨によって、真っ二つに分断されたのだ。 

≪027≫  こうした事情を目の前で見ていたエンデは、貨幣や通貨というものが勝者に強く、敗者には酷(ひど)くなっていくことを実感した。また国際通貨や基軸通貨というものが資本主義と社会主義の苛烈な競争のためにのみ大手をふっていることに気がついた。 

≪028≫  かくてエンデは、「パン屋でパンを買うためのお金」と「株式取引所で扱われる資本としのてのお金」を厳しく峻別すべきことを、しだいに考えるようになっていく。 

≪029≫  このような体験をしたエンデが、貨幣や通貨のありかたに疑問をもったとしても不思議はない。エンデはNHKの番組では、こんなふうに言っている。 

≪030≫  私が見るところ、現代のお金がもつ本来の問題は、お金自体が商品として扱われていることです。本来、等価代償であるべきお金がそれ自体で商品となったこと、これが決定的な問題だと私は思います。お金自体が売買されるのが現代です。これは許されることなのか。そのことにおいて貨幣というもののなかに、貨幣の本質を歪めるものが入るのではないか。これが核心の問題だと思います。 

≪031≫  エンデは貨幣を否定しているのではない。そういうことではない。おそらくどんな思想家も革命家もエコノミストも、貨幣を否定する者なんて、めったにいるはずがない。貨幣は言語や大工道具や運送機関のように必然なのである。そのことは『貨幣と象徴』(1371夜)にも書いておいた。 

≪032≫  しかし、言葉づかいによっては人が傷つくように、英語教育で世界中を統一することが愚挙であるように、大工道具で手が頻繁に切断されてはならないように、尺貫法で大工が仕事をしたっていいように、小さな町を機関車が横断するべきではないように(それでは『ねじ式』の悪夢がくりかえされる)、自動車は森首相の悪ったれ息子だからといって酔ってコンビニに突っ込んではならないように、貨幣にもそれなりの使い勝手があっていいはずなのである。 

≪033≫  エンデはこのことを説明するのに、シュタイナーが説いた「社会有機体三層論」を援用した。 

≪034≫  人間の社会というものは、さまざまなレベルやレイヤーやゾーンで成立している。これをシュタイナーは大きく3つに分けた。
第1には国家や法や政治のもとに生きている(法生活)。
第2に生産や消費のもとに生きている(経済生活)。
第3に文化や教育のもとに生きている(文化生活)。 

≪035≫  これらはそれぞれが相互に自律しあっている「生の領域」なのである。これを一緒くたにしないほうがいい。たとえばフランス革命は「自由・平等・友愛」を掲げたが、「平等」は政治や法が律しても、「自由」は精神や文化が担うべきであろう。
もしも「友愛」を問題にしたいなら、それこそ経済における友愛が追求されるべきなのだ 

≪036≫  そもそも「所得と職業」が、「報酬と労働」が一つになってしまったことが問題なのである。
われわれは「働く」ということを「同胞のために働く」という場合にもいかすのだし、逆に、決まった収入を得ることと好きな仕事をもっとしたいということが一致しないことだって、しょっちゅうあることなのである。まして表現活動や冒険の旅に出ることは。 

≪037≫  そう、シュタイナーは主張したわけだ。社会は有機体として「法制・経済・文化」の三層になっているというのだ。ヴァルター・クグラーの『シュタイナー 危機の時代を生きる』(晩成書房)などを読まれるといい。『社会問題の核心』では次のようにも書いている。 

≪038≫   純粋な生産活動によって得られる収入と、すぐれた経営手腕によって得られる収益と、貯蓄によって得られる収入とは、それぞれ区別して考えるべきである。
社会における資本のはたすべき役割は、個人がその能力によって発現する役割にも寄与するべきである。
資本主義の問題は、資本がそのすべてを経済領域に向けすぎたことにある。
むしろ本来の創造的な機能にこそ資本が機能できるようにしなければならない 

≪039≫  エンデもこのようなシュタイナーの主張を継承して、経済が「自由」と「平等」を謳っていることに疑問を呈し(まさに新自由主義がその合唱のようになったのだが)、社会が分業によって成り立っているのだとしても、その分業によってすべての市場経済が許容されるべきではないし、株式経済のルールが人々を法令遵守させるべきではないと考えた 

≪040≫  シュタイナーもエンデも、資本はもっと社会的なものであるということを考えていたのだ。銀行だってそうである。
 社会のためのソーシャルバンクがあっていい。
 しかし、そんなことがありうるのだろうか。それは夢物語にすぎないのではないか。番組では、ここでドイツにあるGLS銀行を取材する。 

≪041≫  「贈ることと貸すことの共同体の銀行」という奇妙な名をもつこの銀行は、預金者が自分で投資するプロジェクトを選び、同時に自分で預金の利率を決められるようになっている。たとえば有機農業のプロジェクトを促進したいと思えば、銀行が選定した有機農業ファンドに投資する。そのとき、自分で自由に利率を選ぶ。銀行側も利子の最高額の設定を通常の利率にしておいて、それ以下でもかまわない投資者を募る。その投資者が多く、その有機農業プロジェクトが成功すれば、投資者は存分なリターンが得られるわけである。 

≪042≫  ここまでくると、前夜にも少しふれたように、エンデがハンス・ビンスヴァンガーの『金と魔術』(1374夜)にひとかたならぬ関心をもったことは、容易に予想がつく。 

≪043≫  あらためて言うまでもなく、ゲーテが『ファウスト』で描いた錬金術は紙幣を勝手に印刷する近代の錬金術だったわけだが、それは連合国アメリカがドイツマルクにしてみせたことであり、ソ連がこれを無視したことに通じていた。戦勝国はたえず貨幣を牛耳ったのだ。それとともに、そのことは現代の貨幣資本主義や株式資本主義のすべての常識にもなっていったのである。ファウストとメフィストフェレスの会話は、資本主義社会にはまったく届いていなかったのだ。 

≪044≫  前夜にも述べておいたように、ビンスヴァンガーはのちにはエンデの『鏡のなかの鏡』にも注目した。映画化をすればきっとアンドレイ・タルコフスキー(527夜)の『ストーカー』のような作品になるような趣向だが、内容は一つのシティの祭壇から金銭価値が増殖していっているという恐怖を描いている。エンデがいつごろ『金と魔術』を読んだのかは知らないが、エンデはビンスヴァンガーに、そのビンスヴァンガーはエンデに影響されてきたのであろう。 

≪045≫  ビンスヴァンガーは、本書のインタヴューでは次のような発言をしている。成長と失墜をもたらす貨幣経済の根底に株式市場があることを問題視した発言だ。 

≪046≫  株式経済は重要な企業形態ではあるけれど、成長を基盤にせざるをえない。しかもこの経済では分配された利益配当が主題であって、株価が主人公なのである。かつ、株式経済の利潤は手元に戻ってくることを当てにした投資で成り立っている。そこに問題がある。エンデはそうした株式市場の外で動く貨幣経済の可能性を模索していたのではないか。 

≪047≫  いささかシュタイナーの思想に加担しすぎたかもしれないが、エンデがこのような経済思想の持ち主だったことは、これまであまり知られてこなかった。本書はエンデに対する取材を通じて、この面を取り出した。 

≪048≫  それでは話を次に進めよう。 エンデがシュタイナーに続いて、いや、シュタイナーその人がその経済思想に影響されたであろうからエンデも注目しつづけた、もう一人の経済思想家がいた。それが知る人ぞ知るシルヴィオ・ゲゼルなのである(以下、シルビオ・ゲゼルと表記する)。 

≪049≫  ゲゼルは、ケインズ(1372夜)が『雇用、利子および貨幣の一般理論』でとりあげた「スタンプ付き貨幣」を発想したドイツの商人である(以下、スタンプ貨幣と言う)。ケインズはかなりゲゼルの影響を受けている。 

≪050≫  しかしゲゼルは、ケインズが言うようなたんなる商人ではなかった。革命的な経済思想家であり、画期的な貨幣論の提案者であった。むろんケインズもそれはわかっていた。ケインズは「シルビオ・ゲゼルは不当にも誤解されている。しかし、将来の人間はマルクスの思想よりもゲゼネの思想からいっそう多くのものを学ぶはずだろう」と書いた。 

≪051≫  ついでにいまのうちに言っておくが、実はアインシュタイン(570夜)もゲゼルにぞっこんだった。「私はシルビオ・ゲゼルの光り輝く文体に熱中した。貯め込むことができない貨幣の創出は、別の基本形態をもった所有制度に私たちを導くであろう」と褒めている。 

≪052≫  けれどもゲゼルは一貫して無視されてきた。何か危険な思想の持ち主だったのか。それともユートピア主義者だったのか。あるいは極左主義なのか。そのいずれにもあてはまらない。では、いったいゲゼルとは何者なのか。何がケインズやシュタイナーやエンデにもたらされたのか。スタンプ貨幣というアイディアなのか。いや、それだけではなかった。 

≪053≫  ともかくも、この異質な人物のアウトラインを知っておくべきだろう。本書『エンデの遺言』にもそれなりのページ数がさかれている。日本で「ゲゼル研究会」を主宰している森野栄一の執筆担当だった。 

≪054≫  シルビオ・ゲゼルは1862年にドイツ帝国のライン地方に生まれた。マルメディ近郊というところで、ドイツ文化とフランス文化が混じっていた。父親は会計局の役人、母親は教師。9人兄弟の7番目で、家の中ではフランス語、外に出るとドイツ語を喋った。 

≪055≫  16歳でギムナジウムを卒業すると、父親が公務員に就かせたいというので郵政局の職員になるが、すぐに退職してしまう。年長の兄の2人がベルリンに出ていたので、兄弟で歯科用の医療器械を扱う店を開いた。その後、語学力をいかしてスペインのマラガに赴き、ほどなく軍務に服役、その後に退役すると機械メーカーの通信員となる。アンナ・ベッカーとも婚約する。 

≪056≫  1886年、24歳のゲゼルはアルゼンチンに行く。兄のパウルが製造した歯科治療器具をブエノスアイレスで販売することが仕事だが、アルゼンチンはインフレとデフレを繰り返す金融混乱時代になっていた。ゲゼルはこの地でアンナと結婚し、輸入業者としての荒波をくぐりはじめた。とくに国内の不換通貨に金の価格の変動が重なって、国際為替相場が暴力的なほどに擾乱していくのを体験する。 

≪057≫  好調に見えた投機ブームが2年ほどたつと、アルゼンチンの経済は最悪になってきた。政府はデフレ政策をとり、金の流出と引き換えに追加的な対外債務を求めるのだが、いっこうにうまくいかない。銀行も不振に喘ぎはじめ、投資家たちは政府の債務返済猶予を認めない。すぐさま紙幣の価値が低落し、破産企業が続出すると、闇の投機が躍り、貨幣の売り買いが始まった。 

≪058≫  それなりの仕事をしていたゲゼルは、ここで一念発起する。ことごとく事業を整理して(段ボールプラントも仕事にしていた)、工場の売却益でラプラタ川に浮かぶ島をひとつ買うと、そこで農地を耕しつつ、理論活動に耽ったのである。こうして第1弾の『社会的国家への架け橋としての通貨改革』という画期的な論文が生まれる。インフレ期に貨幣の売買が安定するには、「指数通貨」と「自由貨幣」の両方が必要だというものだった。 

≪059≫  反応はなかった。しかしゲゼルは続いて『事態の本質』『貨幣の国有化』を著し、1897年には『現代商業の要請に応える貨幣の適用とその管理』を刊行して、アルゼンチン政府と経済界に問うた。反応はあいかわらず、ない。それでもゲゼルは『アルゼンチンの通貨問題』というパンフレットを作り、政界・実業界・新聞社をまわった。しかしあまりの無反応に、ゲゼルは段ボールのプラントビジネスを再開し、自分の事業の展開によって政策と通貨の問題を実験してみせた(このやりかたは、ぼくが親しい原丈人のやりかたに似ている)。 

≪060≫  しかし、それでもまだ反応はなかった。けれども、ゲゼルの予想はずばり当たっていたのである。物価水準を切り下げようとする経済政策はことごとく失敗だったのだ。アルゼンチン経済は1年後に破綻、4万人の失業者が街に溢れた。ゲゼルのほうはかえって財を得た。34歳になっていたゲゼルは、1900年にヨーロッパに帰ってくる。 

≪061≫  ヨーロッパに戻ったゲゼルはスイスを選んだ。ヌシャーテル県のレゾート・ジュネヴィに農場を購入すると、そこでみずから農民となって6年間をおくった。スイスの長い冬がゲゼルに新たな思索と表現をもたらした。 

≪062≫  ヨーロッパに戻ったゲゼルはスイスを選んだ。ヌシャーテル県のレゾート・ジュネヴィに農場を購入すると、そこでみずから農民となって6年間をおくった。スイスの長い冬がゲゼルに新たな思索と表現をもたらした。 

≪063≫  ついでスイスの国営銀行法の議論に介入して、『スイス銀行の独占』を書き、1906年には『労働全収権の実現』を、続いて『アルゼンチンの通貨過剰』を、さらにフランクフルトと共著の『積極通貨政策』を刊行した。 

≪064≫  ここでスイスからベルリンに拠点を変えたゲゼルは、ゲオルグ・ブルーメンタールと雑誌「重農主義者」を発刊するかたわら、これまでの著作を編集再構成し、いよいよ『自然的経済秩序』をまとめていった。この主著は、日本では『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』(ばる出版)という大著になっている。カウツキー研究者の相田慎一の訳である。2007年に翻訳刊行されたものだが、ぼくはこれを読んでぶっ飛んだ。 

≪065≫  どういうふうにぶっ飛んだかは、以下のゲゼルのこのあとの事歴の紹介のところにも少しはふれるが、詳しくは次夜の千夜千冊にまわしたい。ここにはピエール・ジョセフ・プルードンが蘇っているからだ。プルードンがどういう思想家だったかということも、今夜はふれない。 

≪066≫  第一次世界大戦のさなかに『自然的経済秩序』は出た。ゲゼルは勇躍、1916年にはベルリンで「金と平和」を、翌年にはチューリヒで「自由土地、平和の根本条件」を、1919年にはふたたびベルリンで「デモクラシー実現後の国家機関の簡素化」を、それぞれ講演した。 

≪067≫  3番目の講演は「小さな政府」を提唱したものだった。しかしゲゼルはそうした驚くべき先駆性とはべつに、1917年に始まったロシア革命によるマルクス主義的な反資本主義の思想と行動に警戒を強めた。いったい社会主義や共産主義によって世界は変革されるのか。ゲゼルは以降、ボルシェヴィズムを批判し、マルクスの経済思想の限界を見極めようとする。 

≪068≫  思想的にマルクスを批判しただけではなかった。1919年にバイエルン共和国のホフマン政府から社会化委員会への参加が要請されると、ミュンヘンで友人のテオフィール・クリスティン、ポレンスケ弁護士らとともに「自由経済顧問団」を結成し、ギュスターブ・ランダウアーの新政府(クルト・アイスナー政府)の樹立に協力をする。ゲゼルは『自然的経済秩序』第4版の序文にこんなふうに書いている。 

≪069≫   自然的経済秩序は新たな秩序の人為的な組み合わせではない。分業から生まれた発展は、われわれの貨幣制度と土地制度かがその発展に対立するという障害に直面する。この障害は取り除かれなければならない。それがすべてだ。  自然的経済秩序は、ユートピアとも一時的熱狂とも無縁である。自然的経済秩序はそれ自身に立脚し、役人がいなくとも生活する力をもっており、あらゆる種類の監督と同様に国家それ自体を無用なものとする。それは、われらが存在を司る自然淘汰の法則を尊重し、万人に自我の完全な発展の可能性を与えるのだ。  この理念は自分自身で責任を負い、他者の支配から解放された人格の理念であり、これはシラー、スティルナー、ニーチェ、ランダウアーの理念である。 

≪070≫  だいぶん過激になっている。しかし、ゲゼルが新政府の財務担当人民委員に就任して1週間で、クルト・アイスナー新政府はモスクワの指示に従う共産主義者によって転覆されてしまった。これがバイエルン第二共和国である。ランダウアーは逮捕され、殺害された。 

≪071≫  ゲゼルは憤然として「全貨幣所有者への呼びかけ」というパンフレットを撒いた。また、国内物価水準の安定のために国際為替レートの協調会議の招待状を認(したた)めた。が、ゲゼルらは共産主義者の嫌疑をかけられ、大逆罪で告発される。 

≪072≫  その後、ゲゼルは高等裁判所での法廷闘争を展開、結局は釈放されるのだが、さすがに暗澹たる気分になっていた。国家というものが大逆罪によって何を仕掛けているのか、あまりにもよく見えすぎたからだ。もはや国家には脱出口はないのではないか。さすがのゲゼルも絶望したようだ。 

≪073≫  第一次世界大戦は終わった。しかしヴェルサイユ条約の経済政策はなんともひどいものだった。黙っていられないゲゼルは、1920年に『ドイツ通貨局、その創設のための経済・政治・金融上の前提』というパンフレットを発表する。時のドイツ銀行の総裁ハーフェンシュタインに宛てた。むろん何の対応もなかった。 

≪074≫  それならいよいよもって“ゲゼルの奇跡”が近くなってきつつあるはずだったが、もうゲゼルの余命のほうがなくなりつつあった。1927年、渾身をふりしぼって『解体する国家』を書くと、世界が大恐慌に見舞われていったさなかの1930年3月11日、69歳の誕生日を前に、ゲゼルはベルリン郊外のエデンに没した。いま、ぼくが少しずつ近づきつつある 

≪075≫  ミヒャエル・エンデがどのようにシルビオ・ゲゼルを知ったかははっきりしない。
 NHKの番組では、金融システムの問題を話していたエンデが、その話が華僑に入ったあたりで突然にゲゼルのことを持ち出し、取材班を驚かせたという。NHKチームはゲゼルのことをまったく知らなかったからだ。
 のみならず、エンデはゲゼルの経済思想が実践された例を持ち出した。オーストリアのヴェルグルという町のことだった。 

≪076≫  シルビオ・ゲゼルという物がいて、「お金は老化しなければならない」と説きました。お金で買ったものはジャガイモにしろ靴にしろ、消費されていく。しかしその購入に使ったお金はなくならない。モノは消費され、お金はなくならない。モノとしてのお金と消費物価とのあいだで不当競争がおこなわれているのです。ゲゼルはそれはおかしいと考えたのです。ゲゼルはお金も経済プロセスの進行とともに消費されるべきだと考えたのです。  このゲゼルの理論を実践し、成功した例があります。1929年の世界大恐慌の後のオーストリアのヴェルグルという町のことで、その町長のウンターグッゲンベルガーが町の負債と失業対策のため、現行貨幣とともに「老化するお金」を導入したのです。 

≪077≫  ヴェルグルはザルツブルグ近郊にある。その町で、1932年に画期的な実験がおこなわれた。世界大恐慌のあおりをくった人口5000人ほどのヴェルグルは、400人の失業者と1億3000万シリングの負債をかかえていた。そこで町は、通常貨幣とは異なった「労働証明書」という形の新しい通貨を発行し、公共事業の支払いに充てた。 

≪078≫  世界史上初の「エイジング・マネー」の導入だった。しかしオーストリア政府とオーストリア中央銀行は紙幣の発行は国家の独占的な権利であるので、この行為は認められないとして、ウンターグッゲンベルガー町長を国家反逆罪で起訴、すべての新紙幣を回収してしまったため、この実験はあえなく潰えた。 ヴェルグルで発行された「労働証明書」は、ゲゼルが構想し提案した「自由貨幣」のうちのひとつの、「スタンプ貨幣」である。特定の地域で短期間にわたって使うためのものなので「地域通貨」とも「代用紙幣」ともいえる。 

≪079≫  ヴェルグルのスタンプ貨幣(厳密には紙券)は12カ月分の枡目が印刷されていて、そこに使用者たちがスタンプを貼るようになっている。スタンプ紙券の額面はいろいろだが、どの紙券も毎月1パーセントずつ減額していく。そのため町民は月末までに減価分に相当するスタンプを当局から購入して貼らなければ、額面を維持できない。町はこうしたスタンプ収入をさまざまな救済資金に充てたのだ。 

≪080≫  スタンプ貨幣は“期限のついた紙幣”であって、“減価する紙幣”なのである。使用者の“痕跡が残る紙幣”でもある。とくに「勝手に増殖しないようになっている」という最大の特色がある。 

≪081≫  ゲゼルは1週間で0・1パーセントずつ減価するスタンプ貨幣を提唱した。年間に換算すると5パーセントになる。これは一般の通貨レートの変動に接近した変動幅だと想定できるので、ゲゼルの構想がすぐれていたことを暗示した。 

≪082≫  いったいゲゼルからエンデに伝わった自由貨幣の構想は、資本主義の世の中で現実化可能なものなのだろうか。 

≪083≫  むろんゲゼルは可能だと考えた。ゲゼルは資本主義をよくするにはそれしか方法はないと考えていた。ゲゼルもエンデも、またシュタイナーも、お金や資本主義を廃止する必要はまったくないと考えている。むしろ現状の通貨・紙幣・資本主義がこのまま進んでいけばしだいに悪化するだろう、取り返しがつかなくなっていくだろうとみなしていた。 

≪084≫  どのようにゲゼルに発した自由貨幣を議論していけばいいのか、またゲゼルが「土地」を“自由地”として再解釈していったかということをどう議論すればいいのか、それを正確に語ろうとするとけっこう難しい。だから、そのことについては次夜に視点を変えて案内するとして、ここでは、こうした自由貨幣構想が各地で現実化した小さな例を、NHKの取材に従って紹介しておくことにする。 

≪085≫  ★1932年の早い時期、ドイツのバイエルンの石炭鉱山の町シュヴァーネンキルヘンで、鉱山所有車のヘベッカーが「ヴェーラ」という自由貨幣を発行した。ヴェルグル同様にすぐに政府が禁止したため、わずか10カ月ほどの実験だったというが、このあとドイツは経済悪化が深刻になり、ナチスが台頭してきた。 

≪086≫  ★1932年10月、アメリカのアイオワ州ハワーデンで30万ドルの自由貨幣が発行された。ハワーデンは人口3000人。自由貨幣は失業手当の調達に使われた。3セントの印紙を貼る方式だった。 

≪087≫  ★1933年、ロングアイランドのフリーポートで、失業対策委員会が5万ドルの自由貨幣を3種類の紙券として発行した。スタンプ紙幣方式だった。同じ年、アラバマ出身のバンクヘッド上院議員とインディアナ州のピーテンヒル下院議員がそれぞれゲゼル理論を咀嚼して、連邦政府に代用貨幣の発行を認めるという法案を提出、緊急時の通貨対策として承認をされたが、これは実施されることはなかった。 

≪095≫ 地図画像2 

≪088≫  ★1934年10月、スイスのバーゼルに本店をおくヴィア銀行は、協同組合銀行として経済リング「ヴィア」を開始した。そのころのスイスには5万人ほどのゲゼル派がいたらしい。その出資にもとづいて4万2000フランが資本金になった。翌年には会員3000人、年間売上は100万フランになった。1938年に“時間とともに目減りする通貨”を発行するために、「ヴィア」という経済単位での取引ができるようにした。有効期間1年で、毎月、印紙を裏に貼るようにした。理念は利用者間の相互扶助におかれたため、利子率は最低限のものだった。こうしてその取引額は1960年には1億8330万フランに達した。いまでは、スイス企業の17パーセントにあたる7万6000社がヴィア・システムに参加し、1995年以降はヴィアカードによる決済が可能になっている。 

≪089≫  ★1983年、カナダのバンクーバーで、コモックスのマイケル・リントンが「グリーンドル」という物やサービスを交換できるシステムLETSを始めた。地域交換取引システム(Local Exchange Trading System)の頭文字をとってLETSという。物やサービスの提供を受けたい住民が、そのつどグリーンドルという計算単位で代価を発行するしくみになっていて、口座ゼロから出発してグリーンドルを使うと口座からその分がマイナスになることでスタートできた。リントンはこのマイナス口座からのスタートをLETSへのかかわりを示す“積極的な負”とみなした。 

≪094≫ 地図画像1  

≪090≫  ★1991年、ニューヨーク州イサカで「イサカアワー」という地域通貨が誕生した。「グリーンスター」という生協型のスーパーマーケットのポール・グローバーが始めたもので、非営利の委員会でこれを管理した。1イサカアワーは10ドル。現在も使われていて、8分の1アワー、4分の1アワー、2分の1アワー、1アワー、2アワーの5種がある。表面には「ここイサカでは私たちはお互いに信頼しあっている」というフレーズが刷られ、裏面には「この紙幣は時間の労働もしくは交渉のうえでの物やサービスの対価として保証されています。イサカアワーは私たちの地元の資源をリサイクルことで地元の経済を刺激し、新たな仕事を創出する助けとなります。イサカアワーは私たちの技能・体力→道具・森林・野原・川などの本来の資本によって支えられています」と刷られている。 

≪091≫  ★1992年、ドイツのザクセンアンハルト州のハレ市に、「交換リンク」という仕組みが始まった。現金をまったく使わずに通帳上の中だけで物や仕事やサービスを交換するシステムで、通帳の中で交換されるのは「デーマーク」という経済単位である(1デーマーク=1ドイツマルク)。これは会員全員が見る交換可能リスト誌を媒介にして、日本にもよく見られる「売ります」「買います」の“交易”が成立すれば、あとは年会費や通帳発行料金などを収めれば、そのほか自由だった。その後、「交換リンク」はデーマーク型のものがドイツで200あまりの地域で、フランスでは「SEL」という単位の300あまりの地域が実施されている。 

≪092≫  ざっとではあるが、こんなふうにゲゼルの自由貨幣運動は各地に広まっていったのである。ここではふれなかったが、ドイツの「緑の党」などのムーブメントにも、つねに自由貨幣論は出入りしてきた。 

≪093≫  しかしながらこれらは、いまでは地域通貨論や電子マネー論の範疇で片付けられているだろう事例になっている。そうなる理由もあるのだが、ゲゼル→ケインズ→シュタイナー→エンデという系譜を考えると、その程度の議論でいいのかどうか、そろそろ問われるべきときがきているはずである。 

≪096≫ 地図画像3  

この物語は偽札をめぐっている。

その実、マネー帝国主義の本質を暴いている。

前作『徒然王子』と今回作『悪貨』は一対なのだ。

ここから島田文学の評判が、もっと立つといい。

ゲーテやジッドや泰淳を継ぐものだ。

話はめちゃくちゃおもしろい。

仕事をしている者は、みんな読むといい。

映画にすべきだし、精密なマンガにもしたい。

充分にエンタメもしているので、3時間で読めるけれど、

その印象は忘れがたいものになるだろう。 

≪02≫  悪童ジュンはトシキに連絡をしてこのコンビニ袋をひったくらせると、二人でキャバクラで豪遊をする。ホームレスの男はすっかり落胆して、もともと手持ちのポケットの4360円でマンガや菓子を買って子供たちにそれらを郵送し、残った140円でライターを買うと近くのガソリンスタンドにふらふらと行き、油をまいて爆発とともに焼け死んだ。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、カネは人の上に人を造り、人の下に人を造る」。 

≪03≫  金融犯罪を取り締まっている警視庁捜査二課の日笠警部は、このところずっと宝石店オーナーの張燕燕をマークしていた。祖父は有名な書家、父親は作家協会の重鎮。彼女はその毛並みにものいわせ、瀋陽に本店のある遼寧飛躍銀行を拠点にマネーロンダリングを手広く展開しているらしい。その手口は「銭洗い弁天」の異名をもっていた。 

≪04≫  遼寧飛躍銀行は外国人向けの個人口座を事実上のタックスヘイブンにするため、1秒間に150回もの為替取引が可能なソフトを活用して人民元建てにし、高い運用実績を出している。 

≪05≫  人民元は中国国外では使えないことになっているが、遼寧飛躍銀行が発行するデビットカードがあれば、そのつど外貨に両替できる。顧客は資金洗浄や節税のために次々に利用する。日本でも食肉加工業者、外食チェーンのオーナー、無農薬野菜生産者、美容整形外科医、ラブホテル経営者らがこの恩恵に浴している。 

≪06≫  張燕燕の周辺では巧妙な手口のアングラ金融が動いていた。たとえばホームレスなどから戸籍を買い、その男を社長に仕立てて会社を興し、通帳記録や納税証明などをあらかた偽造すると、政府系の金融金庫からセーフティネット貸付けで1億円ほどの単位を借りる。そのうえで半年後に会社を倒産させ、その資金を海外に運ぶ。これを何通りも仕組んで海外の銀行で運用するのである。 

≪07≫  しかし警察はいっこうにその実態がつかめない。日笠警部は張燕燕の宝石店「シェヘラザード」に女性刑事を潜入させることにした。選ばれたのは本名からして源氏名のような宮園エリカだった。派手好きで、署内でも浮いている。ここにようやく、この物語の主人公の一人が登場する。 

≪08≫  ジュンとトシキがキャバクラで散在した25万円ほどの現金は、やがてそのホステスのモネの手からモネの父親に渡った。モネとはフランス語のマネーでもあった。 

≪09≫  そのモネの父親が当座預金の口座に入金手続きをしていると、意外なことが発覚した。偽札(にせさつ)が交じっているというのだ。女子行員がモネの父親が預けた札束を偽札鑑定機を通して見ているうち、その紙幣番号が25枚にわたって同じであることに気がついた。すべて「RM990331G」になっている。  

≪010≫  たちまち関係者のあいだで“大きな疑問”が噴き出てきた。発見された偽札はこれまで例を見ないほどにきわめて精巧であったこと、それにもかかわらず、なぜわざわざすぐバレるような同一紙幣番号を刷ったのかということ。警視庁も日本銀行も、また政府筋も、その魂胆がまったく推察がつかなかった。 

≪011≫  物語はこの“大きな疑問”をめぐって、しだいに背後で動いていたとんでもない計画と策略をあきらかにしていく‥‥。 

≪012≫  島田雅彦は本作品『悪貨』の直前に、『徒然王子』(朝日新聞出版)という傑作を発表していた。 

≪013≫  朝日の朝刊に連載されていたもので、ぼくもちらちら読んでいて、島田の新たな力量を感じていたが、上下2冊の単行本になってあらためて読んで、島田の“世界読書癖”が日本に向かって惜しみなく投入されたユニバーサル・ファンタジーになったなと感心した。   

≪014≫  ほぼ同じころに書かれた『徒然草 in USA――自滅するアメリカ 堕落する日本』(新潮選書)も、島田の現在の社会価値観がよくあらわれていた。そのころ島田はニューヨークで暮らしていたので、リーマンショックの有為転変を間近に実感していたらしい。一言でいえば、「このぶんではおっつけ通貨システムが破綻するだろう」という予感である。この実感が『悪貨』で物語になった。 

≪015≫  島田が1992年の泉鏡花文学賞を受賞した『彼岸先生』(新潮文庫)あたりで、抜群の総合力を小説に封じ込め始めたことは、うすうす知っていた。それ以前、島田は「自分の脳や舌にべっとりこびりついた日本語を非母国語化しよう」として、ずいぶん苦労していた。ぼくは、そんなことはとっくに大江健三郎たちが試みてつまらない小説を量産していたのだから、また島田よりずっと若い世代の作家たちはそもそも日本語の彫琢なんて眼中にすらないのだから、なぜ島田がそんなことを気にしているのだろうと思っていた。「左翼」を「サヨク」と綴らざるをえなかった世代の宿命なのか。 

≪016≫  やがて「文体を彫琢しない」という島田の奇妙な意志は、蓮實重彦によって「エアロビックス的」とか「1フレーズ=1呼吸的」とも言われるようになったが、ぼくからするとそれは文体の問題ではなくて、思想の問題だと受け取れた。きっと島田は「日本」を書きたいのである。その「方法」を模索しつづけてきたのだ。 

≪017≫  それが『彼岸先生』あたりから少しずつ起爆しつづけ、皇室に取材して血族4代を描いた『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』(いずれも新潮文庫)の「無限カノン」三部作に至り、ついには最近作の『徒然王子』に結実したのだった。 

≪018≫  『徒然王子』は傑作だった。ぼくなりの言い方でいえば「おもかげの国・うつろいの国」としての日本に失われたものを、島田得意の主人公設定術による不眠症の王子がタイムトラベルすることで拾い集めるという手法だが、小説としてみごとに組み立てを完了しきって、これまでの島田の迷妄を払っていた。 

≪019≫  こうして『悪貨』が書かれた。きっと『徒然王子』で、それまで気分が悪くなるほどに押し詰まった社会意識と表現活動とを邪魔していた開放弁がきれいに空いたのであろうと思う。『悪貨』の書きっぷりは実にのびのびとエンタテイメントできている。 

≪020≫  メタフィクショナルな筋書きが好きな島田にしては軽い仕立てだが、ぼくはこの方向はけっこうおもしろいと思う。もっと試みてほしい。アレクサンドル・デュマ(1220夜)にもなれるし、山本周五郎(28夜)にもなれる。願うらくは『大菩薩峠』(688夜)にも向かってほしい。ニヒリズムと無差別テロと大乗仏教と技術革新の葛藤を描いた中里介山の社会意識は、島田にもひそんでいるだろうからだ。    

≪021≫  言うまでもないことだが、『悪貨』の筋立ての背景にあるのは、グローバル資本主義がもたらした金融危機である。とくに日本の惨憺たる現状を揶揄している。  

≪022≫  ここに、中国を舞台にした偽札造りの一団が絡み、さらに日本の「彼岸コミューン」と自称する地域通貨アガペーを発行する集団が暗躍する。二つをつなぐのは「ノノくん」こと野々宮冬彦だった。筋立てでは、このノノくんが主人公になる。 

≪023≫  野々宮には先生がいた。「イケさん」こと池尻陸郎だ。池尻は大学の経済史の恩師が定年退職をしたのちに始めた耕作放棄地での野菜作りが、恩師の癌によって中断したのを、譲り受けた。ノノくんは大学院でカント、マルクス、プルードン、ゲゼル、ポランニーを研究してみたのだが、それらが今日の社会に通じない机上の空論にも感じていたところなので、恩師の土地で農業体験もなく野菜づくりを始めたのだ。やがてその場は農業共同体のような赴きを呈しはじめ、池尻はこれを「彼岸コミューン」と名付けた。島田の好きな「彼岸」コンセプトが躍る。 

≪024≫  そのうち「彼岸コミューン」に、環境保護グループや食の安全管理運動をしているグループが加わり、さらに過疎村やゴルフ場や廃園になったテーマパークを買い取ったり、借り受けたりするようになった。 

≪025≫  そこへ折りからの金融危機をきっかけに、失業者や路上生活者が参加するようになると、「彼岸コミューン」は公共の福祉の手がまわらない活動として注目を浴びるようになった。しかしこんな自由な活動を既存社会や既存経済システムが許すはずはない。 

≪026≫  野々宮は高校2年のときに父を失い、池尻が始めたばかりのフリースクールに通うようになり、そこで「彼岸コミューン」の構想を聞かされた。 

≪027≫  池尻は18歳になった野々宮を大学資格検定を受けるように勧め、大学での学費と生活費を「彼岸コミューン」で負担した。池尻は野々宮の先生であり、養父のような存在だったのである。 

≪028≫  野々宮は大学を出ると「彼岸コミューン」の海外支部の設立に奔走し、とくに農村共同体の残る東南アジアに入った。カンボジア東北部のラタナキリ、ベトナムの州都バンルン、さらにはラオ族のゴム園経営者と華僑の宝石ブローカーを通じてタイにも入った。その後の野々宮の活動は杳として知られなくなるのだが、「彼岸コミューン」が資金難に陥ったころ、高額の寄付が届くようになった。池尻はこれはてっきり野々宮の好意だろうと直感したが、まだその真意も経緯もわからない。 

≪029≫  こうして宮園エリカが張燕燕の中国での大きなお得意であるらしい日本人と接触することになっていく。それが野々宮だった。エリカは野々宮の不思議な魅力に魅かれていく。 

≪030≫  この物語に「偽札」(にせさつ)が動きまわっていることが、この作品をおもしろくも、また普遍的にもさせていることも、言うまでもない。すでに千夜千冊してきたように、偽札を扱う物語はゲーテ(970夜)の『ファウスト』からアンドレ・ジッド(865夜)の『贋札つくり』をはじめ、武田泰淳(71夜)にも及んでいる。 

≪031≫  そこには「イコテーション」(等価計算)という近代社会が深々と抱えこんでしまった本質的なテーマが蠢いている。ウィリアム・ペティの『アイルランドの政治的解剖』は、イコテーションこそが「政治的算術による人民支配の根幹である」という悪魔のような方程式を早々に見抜いていたものだ。ペティの論理にくらべればアダム・スミスの経済論など、寄宿学校の教科書のようなものだった。 

≪032≫  紙幣(ペーパーマネー)を刷るということがどんな意味をもっているかは、国家を相手に大博打を打ったジョン・ローの“ザ・システム”による一連の事件がほぼ物語っている(1293夜『株式会社』参照)。それは資本主義の宿命とも本質とも矛盾ともなった。 

≪033≫  こうして「通貨」という化け物が世界を支配するようになっていくのだが、しかし、その発行流通行為がいまやどんな国民国家でもどんな国際金融機関でも正当化されている現在史では、お金が流通すること、マネーパワーが猛威をふるうことは、それ自体は何の欺瞞でもなくなった。むしろそうしたマネーパワーを制御する政治や金融機関の手腕だけが問題にされるだけなのだ。 

≪034≫  では、化け物をほったらかしにしておいていいものなのか。どこからこの巨怪な欺瞞を崩していけるのか。こうした現状では、偽札(贋札)を持ち出すことこそが資本主義の悪夢のティピカルきわまりない象徴を打撃しうるのである。 

≪035≫  『悪貨』では、大量の贋札を偽造しているのは中国の瀋陽にある偽造センターになっている。瀋陽は大連などともに、今日の北京や上海に代わって次の中国資本主義のハブになりそうな地区を代表している。島田はそのため瀋陽を選んだのだろうけれど、そこはまた満州帝国時代の擬似帝国日本のキャピタル奉天でもあった。 

≪036≫  偽札偽造センターを仕切っているのは郭解という中国人である。この名前は司馬遷の『史記』の侠客列伝に出てくる(こうした人名ブラウジングは島田の常套手段)。郭解は表向きは建設会社の会長で、政府高官とも太いパイプをもっていて、急激な資本主義経済の導入によって中国に貧富の格差が増大し、農村共同体が崩壊していることを苦々しく思っている。 

≪037≫  その郭解がタイで鉱山開発などを通して勢力をのばしているとき、悪戦苦闘している野々宮を助けた。郭解は中国や東南アジアの印刷技術の工場には日本の技術が必要だと考えていた。中国や東南アジアの紙幣は粗悪だったので、このままでは通貨の信用が確立しないこともわかっていた。そこで野々宮に日本の印刷技術、とりわけ紙幣印刷力を高めるほどの技術の導入を依頼した。野々宮は世界最高水準の原版制作者を見いだし、ついでに偽札鑑定機の輸入代理を引き受けた。 

≪038≫  原版制作者は“ゴトウ・ハンド”の異名をとるゴトウという男で、早々に瀋陽の偽造センターに匿われた。郭解はおおいに気に入り、しかし悪魔のような計画を思いついていく。ゴトウは自身の境遇を知らせるため、偽造紙幣に暗号を仕込むことを思いつく。それが「RM990331G」という紙幣番号だったのである。 

≪039≫  郭解の計画は日銀紙幣の偽札を大量に印刷し、これを日本に流して日本政府と日本銀行がつくりあげている信用制度を機能不全に陥らせようというものだった。すでに日本はスタグフレーションになっている。そこへ日本円が暴落し、インフレがおきれば、経済は制御不可能になる。そこで郭解は「日本をまるごと買収してしまおう」と考える。郭解はこれを“徐福計画”とも名付けていた。このあたり、島田は冴えに冴えている。 

≪040≫  結局、野々宮はその片棒を担いだわけである。だが野々宮としては、それは日本の政治経済社会にうんざりしていたからだった。大鉈をふるうには郭解の徐福計画も悪くない。また、そのことによって「彼岸コミューン」が蘇生して、新日本建設の土台になれるのではないかとも夢想した。 

≪041≫  池尻の構想「彼岸コミューン」は、このコミューンを政令指定都市かトヨタくらいの規模にして、全国の耕作放棄地をネットワークしてつないでいくというものだった。のみならず、後継者のいない寺院を買い取って宗教法人活動を併動させ、さらに金利をとらない「友愛銀行」をつくって、この独自金融活動を拡大していくというものでもあった。 

≪042≫  このような構想は、もはや国家には「信用の社会」を制御する能力が失われているという判断にもとづいていた。税金や年金は国民の寄付であって、それが国民生活に正当に還元されるはずはない。そこへもってきて国家は負債をかかえて紙幣発行や国債に頼らざるをえなくなっていく。「彼岸コミューン」はこれらに代わって新たな「信用の社会」をつくりあげるべきである。池尻はそう確信していた。 

≪043≫  こうして地域通貨アガペーが導入され、運よくコミューン・ネットワークとともに広がりつつあったのだが、時代がそれを許さなかった。ちょうど新自由主義が波及して、政府が率先してマネー錬金術を奨励しはじめたのだ。 

≪044≫  野々宮が偽札を含めた大量の資金を「彼岸コミューン」にこっそり流していったのは、このときである。その一端がホームレスからジュンとトシキのひったくりでめくれあがり、野々宮の野望は日笠警部とエリカの潜入調査でしだいに露呈してくることになった。 

≪045≫  池尻もかつての“生徒”の野々宮がとんでもない方向に向かっていることを知って、瀋陽を訪れる。待っていたのは郭解一味による妨害と、暗殺指令だった。窮地に陥る池尻と野々宮と、そして野々宮に惚れてしまっていたエリカ。物語はいよいよ意外な結末に向かっていく‥‥。 

≪046≫  『悪貨』は「貨幣の彼岸」を描いた作品だった。「Voice」8月号で、仲俣暁生のインタヴューを受けて、島田は『悪貨』の意図を、だいたい次のように語っている。 

≪047≫  リーマンショックのとき、間近でその様子を見ていて、「ドルに未来はないな」という思いを抱いた。国家の借金である国債の発行は天文学的になっていて、返済不能なのは自明だ。そこでアメリカはドルを大量発行するしかない。しかしそのアメリカを支えているのはアメリカ国債を大量に買っている中国と日本である。それでもアメリカのFRBは特定国際金融機関の思惑にもとづいた動きしかしない。このままでは通貨システムは数年のうちに破綻する。 

≪048≫  作家として、このような現状に何を投じられるかといえば、世界をインサイダーとアウトサイダーに分けている状況をひっくりかえすことである。もはや「国破れて山河あり」というのも幻想だろう。そのうち日本の山河さえ中国マネーに買収されていくのではないか。すでに「おいしい水」の土地が中国人によって買い占められつつある現状だ。 

≪049≫  しかし、それが21世紀の帝国主義の現実であり、マネー資本主義の実態なのである。中国だって、このままですむはずがない。5つくらいに分裂するかもしれない。それでも世界帝国主義とマネー資本主義は崩れない。日本もベトナムあたりと組んで、この事態を壊さないといけない。さもなくば「彼岸コミューン」や「偽札」をぶつけるしかない。 

≪050≫  実は本書にはとんでもない“付録”が付いている。松丸本舗で実物を買わないとわからないのだが(笑)、本書のページには“偽札”が挟まっているのだ(→写真を見てほしい)。 

≪051≫  弥勒菩薩をあしらった「零円」札で、ちゃんと日本銀行券になっている。なぜか「RM9903316」という紙幣番号も入っている。さすがにホログラフィックな透かし刷りはないけれど、裏は「悪貨」と銘打たれている。島田によれば、これは“使える偽札”なのである。  

≪052≫  ゼロ円札なのだから、何かを買ったときに額面のお金に加えてこのゼロ円札を加えればいい。何枚加えても額面の上昇にもならないのだから、“無実”なのである。そこが赤瀬川原平の“芸術”とは異なるらしい。おもしろいことをしたものだ。 

≪053≫  それにしても島田雅彦、健在である。いやいや、これからますます他の追随を許さなくなるのではないか。 

≪054≫  ぼくは島田とは『色っぽい人々』(淡交社)で対談をして以来の“薄い友人”にすぎないが、その対談のとき(1996年3月)、グリーンが好きだと言っていたのが印象的だった。お母さんが洋裁をやっていて、グリーンのジャケットを作ってくれたのが気にいったせいだろうというのだが、それならこれはまさにピーター・パンである。 

≪055≫  しかしその後、このピーター・パンは文学を揺さぶり続けることになる。それがすばらしい。文学界にとって一番手ごわい作家になるだろうことを、あえて期待してやまない。ちなみに『悪貨』は誰かが映画にするといい。オーソン・ウェルズ並みの若手が監督で。 

≪056≫ 【参考情報】(1)島田雅彦(1961年生まれ)の略歴で注目すべきなのは、父親が日本共産党の機関紙の記者だったということだが、それ以上に作家島田雅彦を形成したのは、川崎の読売ランドが見える「郊外」に引っ越し、そこで少年期を過ごしたことにある。読売ランドはヴァーチャルな幻想、自分の日々はリアルな現実、そのあいだに「郊外」があったのである。 もうひとつ島田に特徴的なのは、東京外語大のロシア語科を出たことだ。冷戦中の世界のなかでロシア語を選んだことは、その後の島田の世界読書の原点になっているにちがいない。オペラに詳しく、三枝成彰と組んで『忠臣蔵』や『ジュニア・バタフライ』の台本も書いた。村上春樹を「くだらないファンタジー」と全面否定していることでも有名だ。 

≪058≫ (3)池尻が大学院で学んだゲゼルとは、シルヴィオ・ゲゼルのことで、ケインズ(1372夜)のところでも触れておいたように「スタンプ付き貨幣」を構想した。ゲゼルについてはほとんど知られていないが、実はミヒャエル・エンデが早くから注目していた。エンデは貨幣の悪魔性にずうっと挑戦してきたファンタジー作家だった。島田雅彦のファンタジーとはまったく異なるものの、エンデの思想もときには思い出したい。 

≪057≫ (2)島田雅彦の主な作品は、発表順に次の通り。版元名は現在入手しやすいものにしておいた。『優しいサヨクのための嬉遊曲』(新潮文庫)、『夢遊王国のための音楽』『天国が降ってくる』(講談社文芸文庫)、『僕は模造人間』(新潮文庫)、『未確認尾行物体』(文春文庫)、『ロココ町』(集英社文庫)、『アルマジロ王』『預言者の名前』『彼岸先生』『忘れられた帝国』(新潮文庫)、『浮く女、沈む男』『内乱の予感』(朝日文庫)、『君が壊れてしまう前に』(角川文庫)、『子どもを救え!』『自由死刑』(集英社文庫)、『彗星の住人』『美しい魂』『エトロフの恋』(新潮文庫)、『フランシスコ・X』(講談社文庫)、『溺れる市民』(河出文庫)、『退廃姉妹』(文春文庫)、『カオスの娘』(集英社)、『徒然王子』(朝日新聞出版)。 エッセイもかなり多いが、ぜひ読むといいのは、『漱石を書く』(岩波新書)、『彼岸先生の寝室哲学』(朝日文庫)、『感情教育』(朝日出版社)、『ヒコクミン入門』(集英社文庫)、『楽しいナショナリズム』『妄想人生』(毎日新聞社)、『徒然草 in USA』(新潮選書)など。

貨幣についての最初で、かつ最も巨大な著作。

それがジンメルの『貨幣の哲学』だ。

構成は、Ⅰ分析篇が、1価値と貨幣・2貨幣の実体価値・3目的系列における貨幣で、

Ⅱ総合篇に、4個人的な自由・5個人的な価値の貨幣等価物・そして、6生活の様式というふうに結ばれていく。

なぜジンメルは貨幣を社会学したのだろうか。

なぜ、その後のすべての貨幣論はジンメルの「生の哲学」に始まることになったのか。 

≪02≫  社会学はむろん社会を相手にする学問だが、19世紀末から20世紀初頭の確立期にすでに相手にする仕方によって、二つの立場に分かれていた。わかりやすくいうと、ひとつは「方法論的個人主義」で、個人を起点に社会を考える。もうひとつは「方法論的集団主義」と呼ばれているもので、家族やグループや組織の特色から社会を考える。のちにフリードリッヒ・ハイエク(1337夜)が好んだ分け方だ。 

≪03≫  個人主義の見方は、個人の行動の意図や判断や動機を重視する。マックス・ウェーバーの「理解社会学」などが代表になる。ウェーバーは社会的な行為そのものを解釈していくことが社会を理解する方法だと考えた。そのためこの見方からは、極端な場合は社会なんてものはなく、行為の実体の個人だけがいるという見方にまで進む。これは「社会唯名論」(ソーシャル・ノミナリズム)ともいう。  

≪04≫  集団主義の見方は、社会を有機的にとらえ、個人がどんな行為をしてもそこにはさまざまな集団を形成する社会という実在があると見る。それゆえこちらは「社会実在論」(ソーシャル・リアリズム)とも言われる。エミール・デュルケムなどの社会学が代表する。デュルケムは個人の外側に社会的な外存力や拘束性があることを重視し、それゆえ個人のふるまいに功利主義や自殺問題がおこるとみなした。 

≪05≫  しかし、このような個人か集団かという分け方はあまりにも粗い。そこで、このあいだを見る社会学が必要になる。 

≪06≫  だいたい個人は個人だけでは生きられない。そんなことは当然で、個人の中に社会的な意識があり、社会の中に個人を見る目があって、それらが頻繁な相互作用をしているはずである。  

≪07≫  今日、個人の自立の単位として使われているエリック・エリクソンが提唱した「アイデンティティ」という概念ですら、エリクソン自身が最初から「社会とのつながり」と「内的なまとまり」の重なりによって生じるとしたものだった。アイデンティティという言葉はまちがって使われているわけだ。 

≪08≫  一方、社会的集団といっても、その集団ごとにさまざまな価値観のちがいがある。生まれ故郷の村と会社という組織と参議院選挙に候補者を送りこむ政党では、何かが違う。そこでフェルディナンド・テンニース(テニエス)はそうした共同体の特色にも、最低でも、「自然な結びつきによるゲマインシャフト」(≒共同社会)と「選択によって組み立てられたゲゼルシャフト」(≒利益社会)があるというふうに見た。 

≪09≫  また、社会に個人と集団があるといっても、そこにはいくつかの組み合わせが先行しているとも見られる。たとえば「一人称と二人称(私と君)」という関係そのものに社会の萌芽があるという見方も成立しうるし、それが「神と私」の関係にも、「上司と部下」の関係にも、村の「老人と若者」の関係にもなる。マルティン・ブーバーの『我と汝』(588夜)はそこに注目した。 

≪010≫  けれどもさらにいえば、社会の中の相互作用は一人称と二人称の関係だけではないとも言わなければならない。そこには必ずや第三者がかかわって、「自己と他者」という、より大きな相互社会をつくっている。だからこそ、そこには多様な葛藤が生じる。実は「私」の中にすでになんらかの他者が介入しているはずなのである。 

≪011≫  ゲオルク・ジンメルの社会学はそこに出発した。ジンメルは社会の基本モデルを「三者関係」(三者以上の関係)におき、そこに二者関係からは見えてこない“分離と結合”がおこると見た。 

≪012≫  そのジンメルが42歳の1900年に書き上げた大著が『貨幣の哲学』だったのである。ジンメルにとって、貨幣は社会の三者関係モデルや相互作用モデルの本質のひとつだと思われたのだ。 

≪023≫  ジンメルは32歳のときに『社会分化論』(1890)を書いた。社会の分化が進むにつれて個人の意識や生活の分化もおこるという論点で、ぼくにとって興味深かったのは、そこから「競争」や「闘争」を議論していることだ。 

≪024≫  それもけっこうおもしろそうに書いている。かんたんにいえば、ジンメルは社会がザッハリッヒカイトになっていけばそこに競争や闘争がおこるのは当然なことで、そうだとすればその競争や闘争を観察し、深く分析することが社会の本質に近づく大きな方法になると考えたのだった。 

≪025≫  こうしてジンメルの分化論は「憎悪・嫉妬」と「自制・配慮」の両方をくらべ、そのあいだにひそむ「羨望」とは何かという観察に向かう。 

≪026≫  なぜ社会のなかの人間は羨望をもつのか。それは社会の本質に内在していたものなのか。それとも社会を構成した人間の組み立てが派生させたものなのか。なぜ金持ちが羨ましく、なぜ結婚が羨ましく、なぜ繁栄や成功が羨ましく映るのか。そして人間は、なぜそのための競争や闘争に向かってしまうのか。 

≪027≫  こうして、その競争や闘争の前面に登場してきたのが、ジンメルにとっての「お金」「貨幣」「マネーの力」というものだったのである。 

≪028≫  これでなんとなく見当がついたかもしれないが、ジンメルの『貨幣の哲学』は経済学が考えるような貨幣論や通貨論ではない。「生」の社会のなかでの貨幣に集約された人間社会が分化に巻き込まれていく意味の根源を問うための著作だったのである。 

≪029≫  ジンメルが貨幣の本質について指摘していることは、決して厳密なものではない。むしろたいそう暗示的である。 たとえば、こんなふうに書く。「貨幣はたんなる手段であるかぎりにおいて、純粋な潜勢力を示している」。あるいは「貨幣は、無性格という消極的な概念で示されるという、きわめて積極的な性質をもつ」。それから「貨幣はその完全な形式においては絶対的な手段である」。そして、これはけっこう有名な言葉になっているのだが、「人間は貨幣に対してだけは貨幣的な態度をとるのが困難になっている」。 

≪030≫  なんたるいいかげんな説明か。こんな言い方では、貨幣の本質が説明されているとは言い難い。そう感じるのがふつうであろう。しかし、もう少し詳しく読むと、どうもこのような言い方にこそ、貨幣の本質を過不足なくあらわそうとしている考え方が保持されているようにも感じられてくる。ジンメルの魅力だ。

≪031≫  ジンメルが貨幣の「潜勢力」と言っているのはポテンシャリティのことで、貨幣の本来的な可能性や資力をあらわしている。 社会のなかではどんなモノもなんらかの物象化を受けていて、そこでは金属であれ、交通機関であれ、家族であれ、なんらかの制限を受けている。河川や森林ですら、環境として制限された存在なのである。もし制限されていないものがあるとすれば、それは意識や欲望や、憎悪や羨望だ。 

≪032≫  そのように見てみると、どうも貨幣ばかりはそういう制限を受けていないと考えざるをえない。貨幣はただのザッハリッヒカイトな存在で、それにもかかわらずいっさいの可能性に転化するという潜在力それ自体になっている。そう考えざるをえないのだ。 いったいなぜ貨幣はそんなふうにいられるのか。ジンメルは貨幣が「無性格だからだろう」と考えた。  

≪033≫  貨幣は、他のあらゆる財とは異なって、それ自体の価値がなく、交換や支払いによってその価値をあらわすようになっているからなのだ。貨幣の力は無性格なのだ。マネーパワーは貨幣そのものが示しているのではなく、それを扱うときの人間社会側の扱い方に依存しているパワーなのである。 こうして貨幣は消極的(ネガティブ)な出自をもっているがゆえに、しだいに積極的(ポジティブ)な性格を発揮していった。 

≪034≫  ジンメルは、貨幣が「絶対的な手段」であって、「人間は貨幣に対してだけは貨幣的な態度をとれない」と考えた。 われわれは貨幣によって「私」の欲望を満たすことができると思っているが、それは貨幣によって何かを入手したと思えたからである。その何かは土地であれ、マンションの一室であれ、エルメスのスカーフであれ、音楽会の切符であれ、北京ダックの食事であれ、もともとは誰かのモノやコトだった。そのモノに価格が付いたから、それを貨幣によって食べたり買ったりすることで、入手できるようになったわけである。 

≪035≫  しかし、その誰かが料理してくれた北京ダックの原料は、やはり誰かから貨幣によって入手していたのだし、音楽会の切符の印刷代は誰かと誰かのあいだで貨幣によって代替された行為によっていたものだった。つまり、このような「私」の欲望を成立させた貨幣というものは、私だけに作用しているのではなく、社会のあらゆる場面を通りすぎている、まさに「天下のまわりもの」としての、無性格きわまりないものなのである。 

≪036≫  そうだとすれば、われわれは貨幣そのものの価値とは、一度も正確に対面していないというべきなのだ。いや、社会というものは、実は貨幣の本質などちゃんと知っちゃいないのだ。しかし、そのように貨幣を使うようにしたことこそ、貨幣社会の本質だったのである。 

≪037≫  ジンメル自身はこう書いている。「貨幣は人間と人間とのあいだの関係、相互依存関係の表現であり、その手段である。すなわち、ある人間の欲望の満足をつねに相互にほかの人間に依存させる相対性の表現であり、その手段なのである」。 

≪038≫  このように貨幣を捉えたのは、ジンメルが最初だった。のちに、たとえばニクラス・ルーマン(1349夜)が、こうした見方をまとめて「貨幣はコミュニケーション・メディアである」とみなしたけれど、そういう考え方はジンメルにこそ出所したものだった。 

≪039≫  人間は限界(Grenze)をもっているのではない。人間が限界そのものなのである。それゆえ、社会はこの限界を超えるために構築され、作用するように設(しつら)えられてきた。 

≪040≫  貨幣は、そのような人為に満ちた社会のなかで、最も人為性を消した存在として大いに流通してきたのだろうと思われる。むろん貨幣や通貨は、もとはといえば物々交換やポトラッチ交易や贈与を背景に発達してきたものだった。しかしだからといって、貨幣にはなんら「等価交換という力」は備わってはいない。貨幣はむしろ、社会における「割りに合わない力」をあらわしているにすぎない。 

≪041≫  したがって、ジンメルはここを強調しているのだが、そもそも交換には「価値の相等性」(Wertgleichheit)などなかったのである。 それなのに一般社会では、貨幣があたかも交換の魔法をもった武器のように扱われてきたのは、「お金」や「マネー」を万能にしすぎたせいだった。人間と社会のほうが、貨幣にならない価値観の大半を貨幣に換算しすぎたせいだったのである。 

≪042≫  その後、カール・ポランニー(151夜)は「経済は社会に埋めこまれている」はずなのに、土地や労働に価格をつけたのはまちがいだったと慨嘆したけれど、ジンメルは早くにそのことを察知していたのだった。「生と死」に裏打ちされた人間は、そこから派生する価値のいくぶんかについては、ゼッタイに価格を近づけてはならなかったのである。生も死も、奴隷時代のようにまるごと買えるようにしてはならなかったのだ。 

≪043≫  今日、ほとんどすべてのモノとコトに価格が付いている。リラックスもレクリエーションも、スポーツの観戦も病気の感染も、歌曲のサワリをダウンロードすることも天気予報をケータイで詳しく見ることも、そして空気も「おいしい水」も。どんなモノやコトにも価格が付いた。 

≪044≫  貨幣ではなく、価格こそが「割りに合わない力」を割りに合わせてしまったのである。そうだとすれば、むしろ貨幣は、欲望が見つづけてきた幻影が生み出した最も無性格な宿命の魔王だったというべきだったのである。 

≪045≫  ジンメルにとって、貨幣は「過去と未来の分水嶺」だった。それは社会がいつしか組み上げてしまった「無意識的合目的性」であり、だからこそ人間が決して逃れられない「当為」だったのである。 

≪01≫  ほんの少しだが、やっとこの大々大著を紹介することにした。みすず書房版で「日常性の構造」二冊、「交換のはたらき」二冊、「世界時間」二冊の、二段組各400ページ強の計六冊。とんでもない大々大著で、これをはたして読んだといえるかどうかもおぼつかない。 

≪02≫  けれどもこの六冊を知らなかったら、ぼくは歴史のなかのさまざまな「オイコス」の凹凸に介入するすべが見えないままだったろうとおもう。本書はヨーロッパやアジアの経済・文明・社会を歴史的に語るうえでのイニシエーションを迫るグロッタ(洞窟)であって、またサーンチーの大門なのだ。ジュール・ミシュレの歴史論を読んだ者がその後に一度は必ず通過すべきイニシエーションなのである。オイコス(oikos)とノモス(nomos)が合体して資本主義文明になっていった交差点を叙述したものである。 

≪03≫  とはいえそのイニシエーションを一応了えたからといって、要約なんてことができるはずはない。いや、こればっかりはしないほうがいい。ブローデル自身が「本来の歴史は逸話的構成によってしか綴れない」と冒頭で断っているほどで、この大々大著は驚くほど細部の記述の連続連打に徹していて、これを好きに摘まむものを拒否している。そもそも執筆に20年近くが費やされた。 

≪04≫  本書は社会経済にまつわる逸話の厖大な集積だ。社会経済史の巨大な編み物だ。編み物からは経済と生活と文化の歴史のダイナミックな紋様が浮かび上がってくる。ブローデルは「長期持続」という観点で400年におよぶ歴史の編み目をまことに丹念に見た。ブローデルが好んで「コンジョンクチュール」(conjoncture)とよぶ「複合状況」をできるかぎり記述同時的に綴ろうとした。 

≪05≫  コンジョンクチュールにはいろいろの訳語があてられてきた。井上幸治・浜名優美は主として「変動局面」と訳し、竹岡敬温は「景況」と意訳し、本書では文脈に応じて「状況」「複合状況」「諸状況」「経済情勢」などとあてている。つまりは全体史を決定づける契機を孕んだ状況推移の場面のことである。ニクラス・ルーマン風にはダブル・コンティンジェントな、長期・中期・短期の経済システム的動向をときどきカオスの淵のごとく揺動させる局面のことをあらわす。それがコンジョンクチュールだ。 

≪06≫  ブローデルがこの大々大著で取り扱ったのは、15世紀から18世紀にいたるヨーロッパの社会生活・物質生活・経済生活と、それをとりまくすべての出来事だった。それらがおのずからそれぞれにおいて語りだすエコノミー・モンド(世界経済)、そのすべてを記述しようとした。 

≪07≫  第一巻では「日常性の構造」として、人口・習慣・食べもの・産物・消費物・技術などなどが総ざらえになっていく。そのなかで、たとえば農業と牧畜が結びついた地域で肉食が流行していった理由、それとは逆に米作地帯では肉食が少ない理由が語られ、そういう説明のあいまに、トウモロコシの収穫は米作とは異なってあまりに人手がかからなかったため、そのことが農民や奴隷を強制労働させる余暇をもたらし、また、その余波がアメリカインディアンの巨大なモニュメントになっていったので、「だからこそ余った時間に使われなかった労働力が収奪される社会ができたのだ」というような、ドキッとした指摘が挟まれていく。 

≪08≫  ぼくが第一巻の二分冊を入手したのは、たしか一刷目が出た翌年の1986年だったと憶う。茶色いお湯が身に沁みた麻布十番の風呂屋にせっせと通っていたころで、風呂から帰ると湯上がりのほてった体で第一巻二分冊をちらちら見るようにした。これほどの大冊は、さすがに貪るごとく読むというわけにはいかない。風呂屋へ行くのは1ヵ月に2、3回で、あとは自室の風呂かシャワーだったから、1年かかって「日常性の構造」二冊ぶんをやっと通過したというにすぎなかった。 

≪09≫  本書には一冊ずつにおよそ150点近くの図版や写真が入っているのだが、これもまたまことに雄弁で、風呂上がりの法悦にしていたのは、この図版や写真を眺め、その解説にあたる箇所を拾い読むことだったのである。 

≪010≫  第二巻は「交換のはたらき」だ。ここでは「市」と「大市」の誕生と発展と変遷と、そこで交換される遠方近傍のおびただしい物品たちの価値と価格とが浮上する。それらの変遷を通してブローデルが言いたかったことは、「交換のないところに社会はない」ということである。カール・ポランニーとは異なる説得力があった。 

≪011≫  次にブローデルがあきらかにしたのは、さまざまな市の変遷を見ると、どんな物品も市の外にあるかぎりは使用価値しか持っていないのに、それが市を通過することによって交換価値に転じていくということである。世の中のあらゆる経済単位は、この市の「外から内へ」と「外から内へ」を通過するというところにこそ発生していた。 

≪012≫  市を媒介にして使用価値が交換価値に変わるといっても、そこに一様な変換がおこるわけではない。まずは週に一、二度の市が開かれて、そこに店ができる。その種類は時代や地域によってさまざまだ。次にそれらの店が物品を信用で仕入れ、そこに客が付き、ついで物品が動いていく。取引できずに貯まったり腐ったりしていく物品も多かった。この一連のプロセスには、たんに物品が動いただけではない可能的価値が動いたということなのである。  

≪013≫  価格が動き、それを信用の軽重浅深であらわす手形が動いた。当然ながら債権と債務も動き、それらの取引の一部を引き取る貨幣が動いたのだ。それらの複数の変数が互いに連鎖していくことこそが「交換のはたらき」だったのである。 

≪014≫  この動きを歴史地域的な順でみると、おそらく1450年あたりを境にヨーロッパ全域の経済が変化した。農産物の価格が停滞あるいは下落して、職人や職人組合による製品の価格がそれらを上回ったのだ。このときに都市の市に変化がおきた。リューベック、ケルン、ヴェネチア、フィレンツェ、ジェノヴァなどの市が次々に結ばれ、相互の交易ロードがつながっていった。16世紀になると、そうした市が離合集散して大市を形成する。アンヴェルス、ベルヘン・オプ・ゾーム、フランクフルト、メディナ・デル・カンポ、リヨン、ブザンソン……。 

≪015≫  17世紀、やがてこれらの大市の経済活動は新興のアムステルダムの取引所に向かって大きなうねりをつくっていく。それは大市の歴史に対して新たなヨーロッパ商業センターが誕生したことを物語っていた。 

≪016≫  しかし18世紀になると、そのアムステルダムをたくみに模倣するところがあらわれた。それがロンドンで、これらすべての「交換のはたらき」をジェノヴァやパリと争いつつ集約することになった。なにもかもをロンドンが吞み込んでいったのだ。 

≪017≫  そうなると18世紀のヨーロッパで大市が活発なのは、むしろマージナルなボーケール(フランス)、アルプス地方、バルカン諸国、ポーランド、ロシアのほうとなるわけで、その余波が最後はアメリカ大陸へと飛び火していったのである。資本主義の原型はこうして世界に散っていったのだ。 

≪018≫  第二巻の後半では「市場経済と資本主義」の発育が詳述される。ブローデルはここまで、15世紀~18世紀では、交換経済とはべつに「自家消費」という領域が各地にそうとうに併存していたことを口をすっぱくして説明していた。市場経済はあくまで生産と消費を媒介することであって、生活全体の活動には必ず「生産≒消費」の領域がありうることを強調した。「生産≒消費」がもっとも直截な生活的交換なのである。そこからは、市場価格が及ばない物質生活によって長らく人間生活が営まれてきたという歴史の証しが見えてくる。 

≪019≫  しかしながら市場価格の一人歩きは、いったん動きはじめるととどまるところを知らない勢いになる。それが16世紀のヨーロッパではほとんど地域時間のズレのない価格変動となり、インドや中国では20年遅れの変動の到着となった。アメリカ産の銀で鋳造されたスペインの8レアール銀貨は地中海を渡ってトルコ帝国やペルシアを通り、通貨価値を変えてインドと中国に達したのだ。世界は価格変動の波に攫われたのだ。 

≪020≫  それで何がおこったかといえば、市場経済が2つの顔をもった。Aの市場経済は「透明な交換」の競争的連鎖によるもので、取引勘定や利益勘定に大きな狂いを生じさせないものだった。むろん飢饉や事故や騙しあいもあるのだから、ときに大きな変動はあるのだが、それもやがては収まるはずの市場経済Aである。  

≪021≫  一方、市場経済Bのほうは、さまざまな場で交換がおこるたびに「ランクを変えていく経済」になっていった。これはパブリック・マーケットに対するにプライベート・マーケットが設けられる頻度が上がるにつれてしだいに強化され、やがては「流通の経済」の様相を呈するようになる。 

≪022≫  ブローデルはこのようなBの形態は、最初は市場経済というよりも「反市場的な経済」の登場によるものというべきだと書いている。炯眼だった。 

≪023≫  この反市場的取引は、たちまち契約書や為替手形の取引を伴うようになって、“不公平な交換”をつくりだすようにもなっていった。「交換のはたらき」はしだいに「流通のはたらき」に重なってしまったのだ。このときこそが、今日でいう資本主義の最初の誕生だったのである。   

≪024≫  資本主義の発展がさらに何によってエンジンをふかしていったかは、いまさら説明するまでもない。かんたんにいえば金融業が銀行になり、資本を集める者たちが資本家になっていった。  

≪025≫  むろんさまざまな消長があった。14世紀フィレンツェの金融はバルディ家とペルッツィ家とともに没落し、15世紀にはメディチ家とともに没落していった。16世紀にはジェノヴァのピアチェンツァの大市がヨーロッパ中の大半の決済を担うことになるのだが、それも半世紀ともたず、17世紀にはアムステルダムがヨーロッパの金融網を華々しく支配した。そしてそれらの覇権の流れは、さきほども書いておいたように、ロンドン取引所の開始とともにイギリスの手に落ちたのである。 

≪026≫  資本家の前歴も、最初のうちは商業エリートにすぎないものだった。ヴェネチア、ジェノヴァ、フィレンツェなどのイタリア都市国家で資本を握っていたのは商業エリートたちである。かれらは政治権力も握っていた。17世紀のオランダでも同じこと、執政官である貴族階級が大商人の利益にそうように政治と経済を統治した。 

≪027≫  それが17世紀のイギリスで商業ブルジョアジーの紐帯化と階層化がすすみ、ここに国家の経営が結びついていった。こうして東インド会社の経営エンジンがフル稼働したことも手伝って、イギリスが最初の資本主義モデルをつくることになる。しばしば「アングロサクソン・モデル」といわれる。経済と金融と流通のガバナンスが300年ほどのあいだに、都市国家から国家のガバナンスへと移行したわけだ。 

≪028≫  もうひとつ、資本主義を担うものたちがいた。言わずとしれた「会社」だ。 ブローデルはそれを「自らの領分における資本主義」というふうに名付けた。自己領域をもつ資本主義だ。うまいネーミングだが、ぼくはそこに「自己言及する資本主義」を加えたい。 

≪029≫  会社の起源はもちろん職人や商人に始まる。そこからはまずギルドや組合が派生し、それ自体の会社的自立がなかった。したがって大商人たちは小麦を扱ったり魚を取引したりしていても、自分たちのことを「コミッショネール」などと呼んでいた。コミッションをとる卸売商人なのである。やがてこれらの大商人たちは互いに協定を結び、中間商人と各種の職能を連ねていった。書記・代理人・仲買人・会計係・保険業者・運送業者がそこに引き寄せられ、組み合わされていったのだ。 

≪030≫  その場かぎりの協定は長くは続かない。かれらのなかの力のある者たちは互いに互いを争って、できるかぎり利益を共有しやすい集団を形成する。これが「ソシエテ」(会社)や「コンパニア」(特許会社)の前身である。この形態は、もともとは「ソキエタス・マリス」(海の結社)とか「ソキウス・トラクタートル」(運送する結社)から借りたものだった。それらはまとめて「コレガンティア」とか「コンメンダ」と呼ばれもした。この形態の特徴は、取引の現地に行かずに本拠地にソキウス・スタンスを一人以上残しておくということにあった。いわば、“本社”ができたのだ。 

≪031≫  やがてこれらのなかから同族会社コンパニアや合名会社ソシエテ・ジェネラールが生まれ、ソシエテ・ジェネラールをさらに統合するマグナ・ソキエタス(大会社)が派生していくと、資本の結合が認められるようになり、まとめて「ソサイエティ」とか「カンパニー」と呼ばれるようになっていった。株式会社の骨格が誕生したのである。かくて株式会社は国家の認可と資本力と銀行と信用と顧客をもつと、あっというまに成人に向かって成長していった。  

≪032≫  こうしてブローデルの言う「資本主義はつねに資本主義自体よりも大きく、その固有の運動の上に資本主義を支え、資本主義を高く持ち上げている全体のなかに位置する」ような資本主義が、ここにもはや後ずさりすることなく定着していったのだ。 

≪033≫  さて「交換のはたらき」を矯めつ眇めつ眺め読んでからしばらく、ぼくは第三巻をほったらかしにしていたはずだ。みすず書房の後続翻訳刊行がちょっと遅れていたような気もする。 

≪034≫  ぼくのほうにも多少の理由があった。ひとつにはブローデルが本書の前に25年をかけて書いた『地中海』全五冊(浜名優美訳・藤原書店)が気になってきて、そちらのほうをちらちら読みはじめたせいだ。これは本書を中断して読むにはあまりにダブルハードな作業だったので少々手に余ったけれど、それでもたびたび引きずりこまれた。読書というものには、ときに蟻地獄に引き込まれるような魅惑があるものだ。 

≪035≫  もうひとつの理由は、ブローデルの弟子筋にあたるイマニュエル・ウォーラーステインの言動が気になってきたことだ。まわりも喧しくなってきた。しかしぼくは一読してすぐにウォーラーステインの「世界システム」(世界資本主義の発生定理のための枠のようなもの)の議論は気にいらないなと感じた。あるとき川勝平太さんから「ぼくは彼に論争を挑んでね」と聞いたので、さて何が川勝仮説とぶつかったのか、それを知りたくて読みはじめたのでもあった。  

≪036≫  ブローデルが1949年に刊行した大作『地中海』をどのように書いたかは、いまや伝説になっている。マルク・ブロックとリュシアン・フェーヴルによって開始されたアナール派歴史学の旗印のもと、それらの最初の輝かしい金字塔になっていった。 

≪037≫  正式タイトルは『フェリペ2世時代の地中海と地中海社会』という。原書で1100ページ。三部構成で①「環境の役割」、②「共同体の運命、全体の動き」、③「出来事・政治・人間」というふうになっていた。何が試みられたかといえば、15世紀前後のさまざまなコンジョンクチュールを縁どうしで繫ぎ合わせて、かつてない全体史の姿をあらわそうとした。 

≪038≫  ブローデルが『地中海』の執筆に着手したのは1939年のことで、リュシアン・フェーヴルの別荘でのことだ。その2年前、フェーヴルに出会ったブローデルはこの生涯のメンターたるべき歴史家にぞっこんになる。だから論稿をいちいち見せた。それでも学究の日々は第二次世界大戦に巻き込まれたので、仕上げに至ったのは1947年のことだった。フェーヴルは大いに気に入り、翌年、パリ大学に社会科学高等研究院が創設されると、フェーヴルは院長となり、ブローデルを事務局長に抜擢した。 

≪039≫  フェーヴルは1956年に没するのだが、このあとはブローデルが「アナール」誌の編集長になる。アナール学派がこうして始動していった。 

≪040≫  というわけで、ぼくはいったん『地中海』にとりくみながらまたぞろ本書の途中に戻っていくことになったのだが、いま本書第三巻「世界時間」の奥付を見たら、翻訳刊行は第一分冊が1996年に、第二分冊が1999年になっていた。とすると、ぼくは「世界時間」を2000年に入ってから読んだのだということになる。 

≪041≫  なんとも『物質文明・経済・資本主義』を通読するのに15年以上がかかったのだ。これでは大河小説を干し芋を齧るようにちびちび読んだようなもの、とうていブローデルを読んだとはいえないかもしれないが、それでもしかし、それがかえってマッド・マネーが飛び交うグローバル市場原理主義の渦中にブローデルの言い分を読むことにもなって、ぼくのオイコス滋養になったのである。 

≪042≫  第一巻、第二巻を通してブローデルは、資本主義が少数の特権者によって発情しながらも、それが社会秩序の現実となり政治秩序の現実をとりこみ、ついには文明の現実の様相を装うことになったことについて、その生態を正確な昆虫学者のように観察描写してきた。  

≪043≫  それらを引っさげての第三巻では、冒頭で「世界経済」と「世界=経済」をいたずらに混在してしまう危険を告知した。「世界経済」は文字どおりの世界市場の広がりをあらわすもので、それは言葉の定義におけるグローバリゼーションである。ブローデルはそのような世界経済はすでに15世紀には共有されていたとみなした。しかし「世界=経済」のほうは、仮にそれがかなり広範のものであれ、どこかの地域が世界経済化したということなのだ。それはかつての都市国家のグローバリズムの延長物なのである。 

≪044≫  そうだとすると、グローバル資本主義の歴史というものがあるとすれば、それが中心をもったグローバリズムだったのか、それとも脱中心的なものなのかということを見ていく必要がある。この見方はすこぶる今日的である。ワシントン・コンセンサスとウォール街の狂乱に始まったグローバル資本主義が進行するなか、第三巻「世界時間」を読むというのは、ぼくにとってはまことに効果的な読みになった。そういう読み方をしていくと、21世紀の今日のグローバリズムは、あきらかに中心をもつことによって周辺を蹴散らしていくグローバリズムのほうなのである。 

≪045≫  そんな大それたグローバル資本主義の起源はいったいどこにあったのかというと、ブローデルは全巻を通してそういう書き方はしていなかったけれど、ぼくが読むに、その起源はやはり国民国家とそれ以前の国民経済と国民市場にさかのぼる。もっとはっきりいえば、東インド会社とロンドン取引所と航海条例を背景に、イギリスが「経済の世界時間」を国家によって保証しようとしたとき、このカラクリが起動したのだった。あとは産業革命がそれを後押しするだけだったのだ。 

≪046≫  ブローデルが長大な記述と思索を通して、資本主義の特性として抜き出したのは、過不足なくいえば次の3つのものにかぎられている。 

≪047≫  ①資本主義は国際的な資源と「機会の搾取」の上に成り立つ。ということは、資本主義はどんな部分であっても世界規模なのだ。これを支えるのはあらゆる意味での交換市場である。 

≪048≫  ②資本主義はどんな激しい非難にもめげず、つねに頑なな合法性をもとうとするか、ないしはその合法性を独占しようとする。そこには交換市場のはたらきの多様性はない。だから、資本主義的経営組織はつねに市場を出し抜こうとするしかない。 

≪049≫  ③資本主義は、経済活動のすべてをそのシステムの中には取りこめない。資本主義はたえず経済活動の頂点をめざそうとするものであって、それ以外のものではないということだ。  

≪050≫  資本主義は市場の自由によって育まれてきたのでは、なかったのである。資本主義は市場を出し抜きたくて、ブルートに競争社会を生き抜いてきたものだった。なぜそうなったかといえば、「交換」には2つのタイプがあって、競争原理がはたらくカジュアルでストレートなものと、高度にしくまれた反市場的なものがあり、この後者によって資本主義は化け物のように発達したからだった。 

≪051≫  ブローデルが見つめたこと、それは世界が物質生活に依存するかぎり、資本主義はそれをいくらでも養分にして肥大していくということだ。そして文明は、つねに肥大したもののほうに積状化していくということである。戦争があろうが、殺戮があろうが、遺伝子組み替えがあろうが、である。経済文明というものは、政治や文化の頽廃など平ちゃらなのである。 

≪052≫ 【参考情報】 

≪053≫ (1)フェルナン・ブローデルは1902年にシャパーニュとバロアのあいだの、200人ほどの小村に生まれた。鍛冶屋や車大工や樵夫たちがいた。父はパリの小学校の数学の先生で、50歳ほどの短い生涯を小さな学術研究グループに捧げた。そのおかげでブローデルはパリのヴォルテール高等中学校で学び、さらに1920年にはソルボンヌ(パリ大学)史学科に入った。その後、アルジェリアのリセ(高等中学校)の教師となり、ブローデル本人の言いようでは、”表面的な歴史”を教えた。 

≪054≫  ブローデルを少しめざめさせたのは1925年からの兵役でライン地方に行ったときに「ドイツ」を感じられたことである。ついで北アフリカを訪れて、歴史の「壮観」というものを知った。そこでドイツ史をやろうと思ったのだが、エミール・ブルジョアの指導で、スペイン史にかかわることになった。さらにリュシアン・フェーヴルのヒントで地中海に惹かれていった。これがブローデルがフェリペ2世の時代の地中海に没入していく前提になった。  

≪055≫  このとき、古い撮影機で古文書を撮影することに没頭できた。一日2000枚もの複写にあけくれたようだ。ブローデルはあきらかに世界最初の“マイクロフィルム解読型の歴史学者”になったのだ。 

≪056≫  1935年からはサンパウロ大学の教授になった。このときは文明史を教えられるようになっていた。そして1939年10月、サントス港からブラジルを離れようとしていたとき、船上でリュシアン・フェーヴルと出会った。そのときの20日間の大西洋航路こそ、ブローデルをフェーヴルの歴史息子のようにした船旅になった。 


≪057≫ (2)アナール派の歴史学はリュシアン・フェーヴル、マルク・ブロック、アンリ・ベールに始まっている。1929年の「社会経済誌年報」の「年報」をとってアナール派とかアナール学派と呼ばれる。フェーヴルの歴史観は心性史に向かっていた。ベールは実証主義的な史学に反抗した。ブロックは人間の歴史をつくりたかった。 

≪058≫  これらがブローデルに流れこみ、そしてブローデル流に湧き立っていった。ブローデルは1949年に『地中海』を完成し、コレージュ・ド・フランスの教授に就いた。1957年、ブローデルが「年報」(アナール)の3代目編集長となると、ここに「新しい歴史」という構想が開花した。こうしてさらに20年近くの調査と研鑽が磨きかけられて『物質生活・経済・資本主義』が結実し、その影響が歴史学界をゆさぶっていった。 

≪059≫  しかし、ブローデルはついに心性史は書けなかったのである。『物質生活・経済・資本主義』を自らダイジェストして講義した『歴史入門』(中公文庫)という本があるのだが、そこにはブローデルがカール・グスタフ・ユング(830夜)がめざしたような「集合的無意識」的なるものを、歴史に浮上させることができなかったという告白が述べられている。 

≪060≫ (3)ブローデルについての評価はいまやきわめて広範な多様性に至っている。そもそもレヴィ=ストロース(317夜)の構造主義的な文化人類学とあいいれないところがあった。またブローデルはマルクス主義者が嫌いだったにもかかわらず、つねにマルクス(789夜)の歴史観を意識していたので、そこをどう見るかの意見がその後に分かれた。一方、アメリカのウォーラーステインはブローデルを思いきって発展させたため、半分はブローデルもその見方を借りつつも、半分はブローデル自身のこだわりが強化された。 

≪061≫  こうしてブローデルの「新しい歴史学」はブローデルそのものの範疇を超えて、さまざまに広がり、蟠り、また闘いあった。ときに“ブローデル帝国”と揶揄されるゆえんだ。しかしそういう騒々しさのなかでも、ブローデルの目はいまもなお澄んでいる。こういう言葉がある。「歴史家は、生活のなかでも最も具体的で、最も不滅であるもの、最も匿名の人間にかかわるもの、そのような生の源泉そのものへと向かっていくのである」。 

頑固な資本主義論である。

史的世界システムとしての資本主義しか認めない。

しかし、その半分はカール・マルクスが、残り半分はフェルナン・ブローデルが述べたことだったのではないか。

それでもなおウォーラーステインの独創があるとすれば、システム理論の構築にあるはずなのだが、これは反システム運動論になって、

たとえばルーマンの社会理論に及ばなかった。 

≪01≫  資本主義は歴史的なシステムで、かつて歴史的にシステムといえるものは、唯一、15世紀に発して今日につながる資本主義しかなく、それは「世界システム」となった資本主義だけである。 

≪02≫  これがウォーラーステインの言い分だ。あっけないほど、きわめて明快。それに頑固だ。だからこれ以上、何も付け加えることがない。 

≪03≫  まあ、それではそっけないだろうからあえて説明すれば、「世界システム」というのは、資本制的な分業がゆきわたっている地域・領域・空間にほぼあてはまるもので、その内部には複数の文化体が包含されている。 

≪04≫  この世界システムは歴史的な流れでみると、本来ならば、ローマ帝国やハプスブルク帝国やオスマン帝国のような政治的に統合された「世界帝国」になるか、もしくは政治的統合を欠く「世界経済」になっていくはずのものである。 

≪05≫  一言加えれば、世界帝国は「貢納」のかたちをとりながら辺境の経済的余剰を中核部に移送して、そのシステムの完成をめざしていく。他方、世界経済のほうは「交換」によって経済を拡張していくのだが、そこには世界帝国のような大きな官僚機構を支える必要がないぶん、しだいに余剰がシステムの成長にまわっていくようになる。 

≪06≫  したがって近代以前の世界システムはその成長プロセスで、たまたま世界経済めくことはあったとしても、まもなく政治的に統合されて、たいていは世界帝国に移行してしまう。たとえば産業革命をおこして巨大化したかに見えた大英帝国時代のイギリス経済も、資本主義の条件をいくつも発揚していたとはいえ「植民地をもった国民経済」であるにすぎず、資本主義が体現された世界システムとしての「世界帝国=世界経済」ではなかった。 

≪07≫  これに対して15世紀末から確立していったヨーロッパの世界経済こそは今日にいたるまで、ついに世界帝国化することなく、史的システムとしての世界経済をほしいままにした。 

≪08≫  ウォーラーステインが言うには、これが、これだけがヨーロッパ全域を背景として確立された世界システムで、それこそがイギリスを呑みこみ、オスマン帝国やロシアを呑みこみ、その他の地域の経済活動を一切合財吸収して、しだいに史的システムとしての資本主義、すなわちヒストリカル・キャピタリズムを完成させていったというのである。 

≪09≫  かなりはしょったし、言い方はいろいろあろうけれど、以上がウォーラーステインの主張の概略だ。つまりは世界システムの資本主義は国民経済の中の資本主義が発展してだんだん世界化したのではなくて、資本主義は当初から世界経済のかたちをとって史的世界システムとして確立されたというのだ。 

≪010≫  ウォーラステインはこれを「万物の商品化」とも呼んだ。これは、たいへんわかりやすい。明快だ。こんなふうに書いている。 

≪011≫  「史的システムとしての資本主義は、それまで市場を経由せずに展開されていた各プロセスの広範な商品化を意味していたのである。資本主義はそもそも自己中心的なものだから、いかなる社会的取引も商品化という傾向を免れることはできなかった。資本主義の発達には万物の商品化に向かう抗しがたい圧力が内包されていた」。  

≪012≫  なるほど、これは説得力がある。たしかに多くの歴史は「万物の商品化」だったといえる。しかし、たったこれだけのことを強調したウォーラーステインが、どうしてまたあんなに経済思想界で流行したのかといえば、マルクス(789夜)とブローデル(1363夜)を下敷きにしたからだったろう。それ以外には考えられない。そのことについてあれこれ言いたいところだが、実は一昨日から歯が痛くて左顎部が腫れあがっていて、どうにも思考が怠慢になる。以下、少々の注をつけて、今夜はやりすごしたい。まことに申し訳ないが、あしからず。 

≪013≫  前夜にも書いたように、ぼくはウォーラーステインをブローデル(1363夜)の『物質文明・経済・資本主義』の途中に、しかも『地中海』をちらちら脇見しながら、かつ川勝平太(225夜)のウォーラーステイン批判を含んだ経済システム論を横目にしながら読んだ。 

≪014≫  これはむろん邪道な読み方で、腰を落ち着かせてウォーラーステインを読んだわけでも、まして学問成果として検討するように読んだわけでもなかったのだが、それはそれで付き合い方としてはよかったかなと思っている。いくつか納得するところはあるにはあるのだが、ウォーラーステインはあまりに図示的であり、また自信に満ちすぎているからだ。 

≪015≫  もともと本というもの、人との出会いと同じようなところがあって、最初にどんな出会い方をして、そのときどんな印象で付き合いが始まったかということが、アトに引く。むろん何かのきっかけでそのスタイルやテイストが一気に変化することもあるけれど、ぼくの経験ではリテラル・ライフ(読み書き人生)での本との付き合いは、人以上にその付き合い方が微妙に決まっていく。それでいいと思っている。 

≪016≫  ウォーラーステインもそういう一人だった。というのも、ぼくは自由主義や民主主義の定義が20世紀初頭まではともかく、その後はあまり役に立っていないように、資本主義についてもその発案的定義ならマルクス(789夜)やゾンバルト(503夜)で十分だと見ていたのだ。実際にもその後、資本主義をどのように見るかということは、いまだに決定的な解釈が確立していない。ケインズ、シュンペーターからハイエク(1337夜)、フリードマン(1338夜)まで、多くの見解が表明されてきたものの、どれも帯に短く襷に長かった。 

≪017≫  ところがそういう流れのなかで、「ヒストリカル・キャピタリズム」(史的システムとしての資本主義)という見方でしか資本主義を語るべきではない、なぜならそれ以外は資本主義ではないからだと、そこまで踏み込んで強調したのはウォーラーステインが初めてだったので、驚いたとともに、ちょっとやりすぎだと思ったのだ。 

≪018≫  一言でいえば歴史主義だし、よく言ってもブローデルの歴史観を反映させ、それをブローデルのように経済や生活にあてはめるのではなく、資本主義システムだけにあてはめたということが、こんな限定的な見方をもたらしたのだろう。だからウォーラーステインの資本主義の定義は、資本がそこに投下され、投資が投資を自己増殖させていくということに求められすぎた。これは資本の論理であって、このことはふつうは資本主義の一部の特徴でしかないのだが、ウォーラーステインは資本の増殖と循環をおこすシステムだけが世界システムの名に値するものだとみなしたのだった。 

≪019≫  しかもこのような見方は、ウォーラーステインがどう弁解しようとも、どう見ても合理的判断者の見本のような「ホモ・エコノミクス」を想定した資本主義論であり、しかも市場の中のホモ・エコノミクスではなく、「資本というホモ・エコノミクス」ともいうべきものによって資本主義を説明しきろうというものだった。これには与せない。アジアや日本の資本主義について言及していないのも気にいらない。 

≪020≫  というところで、今夜は打ち切りです。ごめんなさい。ああ、歯が痛すぎる。これは歯医者を代える必要がありそうだ。 

≪021≫ 【参考情報】 

≪022≫ (1)イマニュエル・ウォーラーステインは1930年、ニューヨーク生まれのユダヤ人。コロンビア大学出身。1976年以降はニューヨーク州立大学の社会学主任教授として、またフェルナン・ブローデルセンター所長として健筆をふるい、経済史学に、またアフリカ研究に大きな影響力をもった。  

≪023≫  ウォーラーステインの著書は多い。とくに、『資本主義世界経済』1・2(名古屋大学出版会)、本書、『近代世界システム』Ⅰ・Ⅱ(岩波書店)がよく読まれた。ほかに『アフター・リベラリズム』『脱=社会科学』『ワールド・エコノミー』『世界を読み解く』『長期波動』『ポスト・アメリカ』『ユートピスティクス』『脱商品化の時代』(いずれも藤原書店)、『大学闘争の戦略と戦術』(日本評論社)、『世界経済の政治学』(同文舘出版)、『ヨーロッパ的普遍主義』(明石書店)、『反システム運動』(大村書店)など。 



≪024≫ (2)経済史を読むというのは、専門家以外にはあまり好まれないようだが、宇宙史や生物史、科学史や文化史と同様に、大いに読書のスサビとなるべきだ。ぼくは二人のカールによって、すなわちカール・マルクス(789夜)とカール・ポランニー(151夜)によって始めたけれど、もっと早めに多くのものを読むべきだったと悔やんでいる。たとえばシュンペーター、ジョン・ヒックス、アナール派の面々、山田盛太郎、大塚久雄、宇野弘蔵、速水融、角山栄、川勝平太、長岡新吉など。ちなみに先だって「中央公論」の対談で佐藤優と対談し、そのあと雑談したのだが、大塚久雄にも宇野弘蔵にも通暁しているのに感心した。ぼくは早稲田時代に黒田寛一とともに宇野経済学を読んだにすぎない。 

覇権(ヘゲモニー)とは何か。

それは国家そのものにあてはまるのではない。

軍事と資本にこそあてはまる。

本書でジョヴァンニ・アリギがえんえん書いたことは、史的システムとしての資本主義はどのように覇権のサイクルをその内側のエンジンに取り込んだかということだ。

民主党党首がたった一夜にして替わった夜、そのことを振り返りたい。 

≪01≫  1週間近く続いた歯の痛みは、何度かの治療と抗生物質によって軽減した。抜けられない仕事が続いていたのでどうなるかと思ったが、点滴と深夜治療のおかげで、どうにか、落ち着いた。 

≪02≫  そのあいだに鳩山・小沢の退陣が急転直下に進み、きのうは菅直人による新内閣が決定した。目もあてられないほどのドタバタではあったけれど、最後の最後の鳩山さんの退陣挨拶はなかなか味わうべきものがあった。折しも小沢陣営に推されて民主党の総裁選に立った樽床伸二と、たった1分ほどだけだったが総裁選前夜の夜に電話で話した。樽ちゃんは「いや、もうドタバタですわ。そやけどちょっとやってみますわ」と大阪弁まるだしで言っていた。 

≪03≫  歴史はいつだってドタバタなのである。決定的なことはたいてい数日でおこるものなのだ。普天間問題で社民党が政権を離脱しなければ鳩山さんもやめなかったろうが、世の中、突如としてニッチもサッチもいかなくなることがあるものなのだ。そのときは、それまで溜まっていた矛盾が一挙に噴き出てきて、かなりのどんよりした人物でも、けっこう意外な決断でもできるようになる。とくにそのうちの8割は、そういうときには思いきったリタイアをする。仕事を投げ出す。細川然り、安倍然り、福田然り、鳩山然り。まことに理不尽なことではあるが、「入口の民主主義は出口の民主主義とはなりえない」ものなのだ。 

≪04≫  この格言はいろいろなところにしぶとく生きている。そして大衆はそのたびに新しい顔の誕生を知る。そしてそのあとは、ただただポピュリズム‥‥。 

≪05≫  政局に出入りする顔にくらべると、学者の世界の顔はいうまでもなく、まことに地味である。ポピュラリティもない。iPS細胞とか太陽発電とかいっためざましい研究成果の発表をべつにすれば、だいたい学者の顔などとんと伝わらない。顔もわからない。誰が学長になったかなどということは、ニュースにすらならない。 

≪06≫  しかし、どんな学者たちにもポピュラーな顔もあれば、シリアスな顔もある。アピアランスは重要だ。千夜千冊に著作や作家たちの顔の写真を必ず入れてきたのは、顔は何かをあらわしていると思えるからだ。そういう顔には、孤独な顔もあるし、談論風発の顔もある。言葉を発している顔もあるし、言葉を消している顔もある。下村寅太郎さんの顔はラテンの知を東洋にした顔だった。白川静さんの顔はいつだって孤詣独往(こけいどくおう)の顔だった。 

≪07≫  学者だって、顔を無視してはいけないのだ。ぼくにとって読書するということは、そういう顔と向きあうことが含まれる。 

≪08≫  イタリア人ジョヴァンニ・アリギの顔はいくつかある。ごくごくわかりやすい顔は、1960年にミラノのバッコニ大学で経済学の博士号をとって、1979年からはニューヨーク州立大学のブローデル研究所にしばらく所属、イマニュエル・ウォーラーステイン(1364夜)と共同研究していたという顔だ。ウォーラーステインとの共著『反システム運動』(大村書店)もある。  

≪09≫  この顔は、フェルナン・ブローデル(1363夜)の歴史観とウォーラーステインの世界システム論による経済史家としての資質をそれなりに積極的に継承したということで、それならアナール派の顔ということになるのだが、この顔だけではたいしておもしろくはない。この顔だけでもない。 

≪010≫  アリギには、諸君がデヴィッド・ハーヴェイ(1356夜)を気にいったというなら、ぜひにアリギを読むといいとぼくから薦めたくなるような、そういう顔もある。新自由主義やポストモダンの分析については、そもそもハーヴェイとともにアリギは欠かせなかった。 

≪011≫  二人は実際にもかなり親密な仲で、本書の最終ページの著者紹介には、アリギとサネール・アミンが並んでテレビ画面を見ているようにこちらを向いて並んで坐り、その後ろでハーヴェイがその画面に見入っている1枚のモノクロ写真が挿入されている。このスナップ写真はなんともいえない知的友情のようなものを感じさせる1枚で、ぼくはこの手の“男カンケー”がけっこう好きなのだ。 

≪012≫  ハーヴェイとアリギは『北京のアダム・スミス』(未訳)では、お互いの文章を引用しながら新自由主義やアメリカ帝国の分析をカテーテルを入れたり出したりしながら勤しんでいるという、そういうカンケーでもあった。  

≪013≫  さらにもうひとつの顔として、穏やかではあるが、アリギがアントニオ・ネグリ(1029夜)とのあいだで真摯な論争をしているということがある。もともとはネグリとハートが『〈帝国〉』(以文社)のなかで『長い20世紀』を引用して、アリギの言う循環論ではシステムの断絶やパラダイムシフトの認識ができなくなると批判したのがはじまりだった。 

≪014≫  アリギはこれに応えて、「自分が資本主義社会の歴史では資本蓄積に4つのシステムの循環がおこっていると指摘したのは、システムの断絶やパラダイムシフトを認めないためではなく、むしろその逆で、資本主義が歴史的に何度も似たような矛盾を循環的発揮していれば、いつか根本的なシステムの再組織化がおこるだろうと言うためだった」と反論した。アリギは、システムの大きさが金融の大きさに覆われるときに、資本主義が新たな現象になっていくだろうと予見したわけだ。この論争については、トマス・アトゥツェルト&ヨスト・ミュラー編『新世界秩序批判』(以文社)に詳しい。 

≪015≫  こんなふうにアリギという一般には知られていないだろう経済史の顔の周辺にだって、いくつものちょっとした歴史は動いているものなのだ。政治舞台ばかりが顔でれきしを動かしているわけではない。 

≪016≫  さて、本書のタイトル『長い20世紀』はエリック・ホブズボームの「短い20世紀」を意識したものだった。ボブズボームも一般には知られていないかもしれないが、ヨーロッパの近現代史をベンキョーするときは、たいていは無理やりにでも読むテクストになっている。ぼくも『市民革命と産業革命』(岩波書店)、『資本の時代』(みすず書房)、『匪賊の社会史』(みすず書房)などを通過した。 

≪017≫  もっとも、この、いっときのイギリスを代表した歴史家にもいくつかの顔があって、生まれはエジプトのアレクサンドリアで、ユダヤ人の父のもとベルリンに住み、1930年代からイギリスに移住して変貌していった。ドイツの社会主義同盟やイギリス共産党に入党していた時期もある。 

≪018≫  そのボブズボームが「短い20世紀」と言ったのは「長い19世紀」に対比した形容で、20世紀の本質は19世紀に形成されていたという観点を強調するためでもあった。 

≪019≫  しかしアリギは、20世紀資本主義世界の100年間には、それ以前の15~16世紀から19世紀末に及んだ3つの覇権(hegemony)がサイクルとして組みこまれているのだから、これは「長い」と見たほうがいいという見解をとったのだった。 

≪020≫  3つの覇権のサイクルとは、オランダの覇権サイクル、イギリスの覇権サイクル、アメリカの覇権サイクルのことをいう。これらのサイクルは、そもそもはブローデルが4大都市国家と名付けたヴェネチア・フィレンツェ・ジェノヴァ・ミラノに始まるもので、それがイタリア都市国家群からアムステルダムへ、アムステルダムからロンドンへと中心を移すにつれ、しだいに世界資本主義と国民国家と植民地帝国主義をまぜた覇権の姿をとっていった。このあたりのことは、すでに1363夜に案内しておいた。 

≪021≫  その大きなうねりは、1648年の三十年戦争終結によるウェストファリア体制、1815年のナポレンオン戦争終結によるウィーン体制、1918年の第一次世界大戦終結によるヴェルサイユ体制を迎えるたびに強大になり、また柔軟にも、矛盾に満ちたものにもなっていった。オランダの覇権は資本主義経済を歴史社会のシステムとし、イギリスの覇権はこれを世界大にし、アメリカの覇権ははこのことの未曾有の発展を体現し、そのプロセスに金融のグローバリゼーションが入りうることを保証したわけである。  

≪022≫  こうして、オランダ→イギリス→アメリカの覇権サイクルが途切れることなく20世紀に重畳的に流れこんだわけなのだから、それは、15世紀からの400年のサイクルが20世紀の100年に流れこんだという意味で、「長い20世紀」なのである。 

≪023≫  オランダ・イギリス・アメリカの3つの覇権サイクルは、20世紀後半に入るとIMFと世界銀行の両輪によるブレトンウッズ体制に集約されていく。このことについても、すでに何度か説明しておいたから、ここでは省く。  

≪024≫  しかし注意しておかなければならないのは、アメリカ型の資本主義そのものの特質は企業資本主義にあったということだ。イギリスの自国中心型の植民地主義的経済とはそうとう異なっている。そこでは、市場の不確定性から解放されるために企業間の競争的な資本を取り合うというゲームがつくられていた。よくできたものではあったが、1929年の大恐慌に象徴されるような、途方もない経済恐慌の種をかかえていた。 

≪025≫  ところがアメリカの覇権サイクルのほうは、そういう自国の企業資本主義を呑みこんで、ブレトンウッズ体制の“悪用”をもってもっとグローバルに動いていった。アリギはそこに注目したわけだ。その端緒はルーズヴェルトのニューディール政策をトルーマンとアチソンが共産主義経済に対する対抗政策に切り替えたトルーマン・ドクトリンに、早くもあらわれていた。また、その端的な読み替えでもあったマーシャル・プランにあらわれていた。ブレトンウッズ体制は、強大な軍事力を背景とした「西側諸国の再編」の道具立てとして機能していったのである。 

≪026≫  かくてアメリカ・サイクルは、“反共の旗印”のもと、西ヨーロッパと日本を自由資本主義社会の連邦国にすることによって、化け物のように20世紀後半を席巻しはじめる。とりわけ朝鮮戦争からベトナム戦争終結までの23年間の威力はすさまじい。“覇権型資本主義の黄金期”と揶揄される。  

≪027≫  この時期こそは、ホブズボームが1848年~1875年の27年間を「資本の時代」と名付けた未曾有の黄金期を上回るキャピタル・ストックの時代であった。それは、1967年から1973年までユーロダラー(ユーロカレンシー市場)の預金高が最高に伸びた時期とも重なっていた。しかし、それらも束の間、オイルショックと変動相場制によって、世界資本主義はことごとく新たな様相を呈することになる。 

≪034≫  ところで本書でアリギが日本をやたらに褒めちぎっていることは、いささか気持ちが悪い。総合商社、重層的下請けネットワーク、その共生的企業精神、独自のアウトソーシング、日本資本のフレックスでインフォーマルな体質、そのいずれをも評価している。 

≪035≫  このお褒めの言葉は額面通りには受けとりがたい。なぜなら日本は、1985年のG7プラザ会議では円の切り上げを強制され、1989年には金融緩和を余儀なくされたのである。日本資本主義にはたしかにおもしろい属性と体質がいろいろ含まれているが、結局はアメリカの覇権サイクルにいくぶん抵抗できたぶんの時間稼ぎだけが、いまや唯一の特徴なのであって、それ以外は結局はそのサイクルの忠実な一員たることを迫れてきたのだから、たとえアリギからの言葉といえども、これは肯んずるわけにはいんないところなのだ。 

≪036≫  このお褒めの言葉は額面通りには受けとりがたい。なぜなら日本は、1985年のG7プラザ会議では円の切り上げを強制され、1989年には金融緩和を余儀なくされたのである。日本資本主義にはたしかにおもしろい属性と体質がいろいろ含まれているが、結局はアメリカの覇権サイクルにいくぶん抵抗できたぶんの時間稼ぎだけが、いまや唯一の特徴なのであって、それ以外は結局はそのサイクルの忠実な一員たることを迫れてきたのだから、たとえアリギからの言葉といえども、これは肯んずるわけにはいんないところなのだ。 

≪037≫  アリギに話を戻すと、アリギは本書の5年後に書いた『カオスとガバナンス』や近著の『北京のアダム・スミス』では、日本よりも中国を含んだ東アジア全域の「資本主義群島」に関心を移したようだった。これは当然だ。けれども、アメリカの覇権主義がこれらの東アジア諸国からなんとかして「見か締め」料(みかじめ料)をとるだろうことは、アリギの友人ハーヴェイならば、とっくに見抜いていたはずのことだったろう。 

≪038≫  そうなのだ、覇権国家というもの、古代このかた「見か締め」料が命綱なのである。 

≪039≫ 【参考情報】 

≪040≫ (1)珍しく顔の話を導入にしたので、ジョヴァンニ・アリギについては本文にそこそこのことを書いた。1937年の生まれ、1998年以降はジョン・ホプキンス大学で社会学を教えた。でも、ここではやっぱり顔を眺めてほしい。ぜひハーヴェイらとのスナップショットを見つめてほしい。アリギとハーヴェイの顔はそれぞれ何かを語っている。ちなみに、イタリア出身でアメリカ人になっていった作家やクリエイターや学者は少なくないのだが、ぼくが会ったなかではレオ・レオーニ(179夜)が最高だった。アスペン議長を務めて、かつ童話作家でいられるという顔をしている。『間の本』(工作舎)を見られたい。 

≪041≫ (2)ブローデル、ウォーラーステイン、アリギと続いたアナール系の経済的歴史書の案内は、これでいったん打ち切りたい。実はあまり楽しいものではなかった。それぞれが大著であったことも手伝っているが、これらは評するものではないというのが、一番の感想だ。大河小説や長めのミステリーを読むような読中感だったのだから、そのままでよかったのである。これからは気をつけたい。もっとも視点の異なる経済的歴史書は今後もときどきはとりあげる。とくにポスト新自由主義とリオリエントについては。ただその前に「贈与の歴史」や「マネーの歴史」や「アングロサクソン・モデル」のことだけはとりあげたい。 

≪042≫ (3)せっかくなので、鳩山由紀夫について一言。 鳩山さんとは十数年の付き合いで、そのきっかけをもたらしたのは、それぞれ別々の機会ではあるが、裏千家の伊住政和と慶応の金子郁容と構想日本の加藤秀樹だった。伊住さんとは鳩山さんの家で例のヒョーバンの幸(みゆき)夫人の手料理を食べ、金子さんとはニフティのトークイベントに招いた(金子さんと鳩山さんはアメリカ時代からの友人)。加藤さんのかかわりは、以前、「文芸春秋」が「次の首相候補」の特集をしたとき、鳩山さんと船田元さんが1位・2位を占めたのだが、その二人があるときから加藤さんとともにぼくの仕事場を訪れるようになったのだ。そのような手筈をとったのは坂井直樹(いまは慶応大学教授)だった。2カ月に1度くらいのペースで、その3人訪問が1年近く続いたように思う。 

≪043≫  そのどこかで、ぼくは鳩山さんに一国の宰相になるよりどこか海外の大使などの仕事をするか、あるいは文化領域のリーダーをめざしたほうがいいというようなことを言ったことがある。しかし鳩山さんは、それから随分かかったが、一国の宰相になることのほうを選んだ。ぼくはウーンと唸った。そうか、そうなってしまったかという実感だ。 

≪044≫  鳩山さんは付き合っていて、こんなにおもしろい政治家は珍しいというほどに、真摯で軽妙である。メタファーにも富んでいる。捌きもうまい。ところが政治の現場や「ぶらさがり」では、これが使えない。野党時代に民主党のリーダーの一人として、党員たちと同じマニフェスト・エクリチュールを使うほうを鍛練してしまったのだ。これがもったいなかった。野党のころにその独特の味で「政治を語り愛する」という言い方の前哨戦をつくっておけばよかったかもしれないが、そうはいかなかったのだろう。

≪045≫  人の話をよく聞くという点では、そうとうの集中力と理解力があると感じる。ぼくと会うときは軽いジョークを挟む以外は、じっと聞く。「連塾」にも3度ほど足をはこんでくれたが(そのうち1回は森進一と)、いつも集中していた。 

≪046≫  ついでにいえば、鳩山さんが「弱さ」を理解しているということについては、正真正銘なところがあった。大金持ちのくせにそれはないだろうと思われるかもしれないが、決してそんなことはない。その非難は当たらない。有島武郎のような例はいくらでもある。けれども鳩山さんは、そのフラジリティを表現したり体現することについても、うまくいかせなかった。残念だ。でもいまでは、首相を降りたことでホッとしているだろう。これからはいくらでも別の機会が待っている。細川さんの陶芸という方法だって、ある。 

なぜイギリスに世界資本主義が集中して確立し、そこからアングロサクソン・モデルが世界中に広まっていったのか。

英国型コモンローと大陸型ローマ法の違い、エクイティやコーポレート・ガバナンスの違い、とりわけアメリカ的株主主権型資本主義との違いなど、いろいろ考えなければならないことがある。 

≪01≫  数年前、ぼくは『世界と日本のまちがい』(その後『国家と「私」の行方』春秋社)のなかで、イギリスを悪者扱いした。イギリス人が嫌いなのではない。ジェントル然としながらもシャカリキにしゃべるところ、オックスブリッジの学究力、コッドピース(股袋)を発明するところ、エスティームでエスクワイアーなところ、男色やギャラントな性質を隠さないところ、大英博物館が自慢なところ、そのほかあれこれ。付き合うかぎりは、むしろ喧しいフランス人や無礼なアメリカ人よりずっと好ましく思っているほうなのだが、そういうこととはべつに、歴史にひそむ「イギリス問題」を看過してはまずいと思ってきたからだ。 

≪02≫  この本には「自由と国家と資本主義」というサブタイトルをつけた。それは、ヨーロッパにおける都市国家・王権国家・領主国家・植民地国家などと続いてきた「国家」の歴史が、近代においてネーション・ステート(国民国家)に向かったところで、その隆盛とともに「自由」と「資本主義」をいささか怪しいものにしたと言わざるをえないからだ。 

≪03≫  イギリスがイギリスになったのは、ヘンリー8世がルターの宗教改革に反対し、とはいえローマ教会のカトリックの支配にもがまんがならず、一挙に英国国教会という独自路線を打ち立てたとき、それからエリザベス女王と東インド会社が世界資本主義のセンター機能をアムステルダムからロンドンに移したときからである。このときイギリスは「アングリカニズム」の国になった。大陸ヨーロッパとは袂を分かち、あきらかにブリティッシュ・ナショナリズムに立ったのだ。ナショナリズムとは自国主義のことをいう。これはカトリックの普遍主義(ユニバーサリズム)とはずいぶん違う。 

≪04≫  その後、イギリスはクロムウェルのピューリタン革命を通してピューリタニズムを生んだかに見えたのだが、それは「エミグレ」(移住者)とともに新大陸アメリカに渡り、いささか姿と信条を変えてアメリカン・プロテスタンティズムになっていった。そのどこかであきらかに資本主義とピューリタニズムあるいはプロテスタンティズムが結びつき、イギリスには「コンフォーミズム」(順応主義・承服主義)が残った。歴史的には、それらの前期資本主義・国教会・ピューリタニズムを含んで、アングロサクソン・モデルがつくられていったはずなのである。 

≪05≫  本書でアングロサクソン・モデルと言っているのは、むろん英米型の資本主義のモデルのことを言う。いまではまとめて「株主資本主義」とか「新自由主義的資本主義」と呼ぶか、もしくはそれをイギリス型のアングロサクソン・モデルとアメリカ的でWASP型のアングロアメリカン・モデルとに分けるのだが、本書では一括されている。 

≪06≫  この見方そのものは新しくない。旧聞に属する。しかし旧聞に属したモデルから出発してそのヴァージョンを説明したほうがわかりやすいこともある。本書はその立場をとる。英米のアングロサクソン・モデルとしての株主資本主義、ドイツの社会民主主義的な銀行資本主義、フランスのエリート率先型の国家資本主義、日本の経営者従業員平均型の資本主義というふうに、とりあえず出発点を分けるのだ。 

≪07≫  古典派経済学は、自由市場原理(マーケット・メカニズム)によって、個人と自由と社会のつながりがほどよく鼎立すると考えた。そう考えることで、たとえ個人が利益追求をしても「見えざる手」のはたらきによって経済社会は相互的な向上を生むという確信を樹立できた。 

≪08≫  ところが20世紀に入って2つの大戦を経過し、そこに政治と企業と大衆と個人の分離がいろいろ生じてくると「個人の自由」と「社会の連帯」とが合致しなくなってきた。そのうち、政治のほうがこのどちらかを重視するようになった。 

≪09≫  市場と「個人の自由」を連動させて重視したのは、その後は市場原理主義とも新保守主義ともよばれている「新自由主義」(neo-liberalism)である。新自由主義は、もともとイギリスのコモンローの伝統やそれを補正するエクイティ(道徳的衡平)の考え方にひそんでいたイデオロギーやスタイルを生かし、これをマーガレット・サッチャー時代に強化したものだ。 

≪010≫  これに対して、市場の力をなんとか「社会の連帯」に結びつけようとしたのが「社会民主主義」(social democracy)で、こちらは大陸ヨーロッパに普及していたローマ法などの伝統にもとづいてラインラント型に組み立てられ、ドイツを中心に労使共同決定スタイルをもってヨーロッパ大陸に広まっていった。 

≪011≫  これらのうちのイギリス型がアメリカに移行して、WASP的な資本主義となり、もっぱら株主重視の強力な自由市場的資本主義になったわけである。しかし、なぜそんなふうになったのかということをリクツをたてて説明しようとすると、これが意外に難問なのだ。アメリカ人が「人生は深刻だが、希望もある」と言うのに対して、イギリス人は「人生には希望はないが、それほど深刻でもない」と言いたがるといった程度の説明では、あまりにも足りない。 

≪012≫  アングロサクソンという民族は一様ではない。源流は大きくはゲルマン民族に入るし、イングランドに渡ったアングル人とサクソン人は最初は別々だった。  

≪013≫  アングル人はその後にイングランドの語源になり、サクソン人のほうもサセックスとかエセックスといった地名として各地に残った。エセックスは「東のサクソン王国」、ウェセックスが「西のサクソン王国」である。ウェセックス王国の首都がウィンチェスターで、9世紀にそのエグバート王がそれまでの七王国を統一し、イングランドの最初の覇権を樹立して、それをアルフレッド大王が仕上げていった。 

≪014≫  しかし、それでイギリスという原型ができたわけではない。1066年に北フランスのノルマンディー公ウィリアム1世がヘースティングズに上陸してイングランドを征服し、ロンドンを拠点に中央集権を敷いて、ここに多民族を配下とした「ドゥームズデー・ブック」(土地台帳)にもとづく封建制を施行したとき、やっとイギリスの原型が誕生し、ここからコモンローの伝統が育まれていった。このあたりのことは、『情報の歴史を読む』(NTT出版)にも書いておいた。  

≪015≫  その後、エリザベス時代やヘンリー8世時代をへて、大英帝国の規範としてのイギリスがしだいに形成されていった。そのわかりやすい頂点は、ナポレオンがヨーロッパ中を戦争に巻き込んだときイギリスがこれに抵抗し、ナポレオンもまた大陸封鎖によってイギリスを孤立化させようとしたことにあらわれた。 

≪016≫  以上のように、イギリスは大陸ヨーロッパとの関係で大英帝国になっていったわけだが、当然、その内的歴史にもアングロサクソン・モデルの胚胎があったとも言わなければならない。その大きな下敷きにコモンロー(commonlaw)がある。 

≪017≫  コモンローは、中世イングランドの慣習法にもとづいて積み重ねられていった法体系である。教会法に対して世俗法の意味で、こう呼ばれるようになった。 

≪018≫  イングランド王国を征服したウィリアム1世が「ドゥームズデー・ブック」によってイギリスの土地と人間のつながりをまとめていったとき、税金が確実に王国の金庫に納付されているかどうかをチェックするための大蔵省(Exchequer)が設置され、納税事務とともに民法や刑法にあたる管轄権をもった。 

≪019≫  これを背景に、12世紀に国王裁判所(Royal Justice)が生まれ、巡回裁判(travelling justice)の制度が確立した。不法行為法、不動産法、刑法などの封建制の基幹をなす諸法がこうして整えられていった。この巡回裁判によってあまねく浸透していったのがコモンローなのである。 

≪020≫  そこにはほぼ同時に、「信託」(trust)や「エクイティ」(equity)の概念が芽生え、そのまま定着していった。コモンローは成文法ではない。制定法ではない。国王をも律する「王国の一般的慣習」としての判例の集合体である。そこには権威によって書かれた文書(法典)はない。 

≪021≫  なぜそのようなコモンローがアングロサクソン・モデルの基本となったのか。なぜコモンローがローマ法やカノン法の継受を必要としなかったのか。3つの理由がある。 

≪022≫  第一には、ノルマン人によるイングランド統一以降、国王裁判所が巡回的に全土に判例を積み重ねていったため、国内の地方特有の規則や法が淘汰されていったことだ。これが多民族多言語の大陸系のヨーロッパにあっては、ローマ法などを導入して成文的統一をはかるしかなかった。 

≪023≫  第二には、法律家はすべて法曹学院(Inns of Court)という強力な法曹ギルドによってかためられていた。イギリスの法モデルは、大学でローマ法を学んだ者が管理するのではなく、法曹学院の成果をその出身者たちが管理するものなのだ。いまでもイギリスのロースクールは大学とは独立していて、バリスターとよばれる法廷弁護士が所属する法曹団体(Bar Council)がこれをサポートしている。 

≪024≫  第三には、そうした封建制がくずれて近代化が始まったのちも、大法官府裁判所がコモンローを補完するエクイティ(衡平法)という体系を接合してしまったからだった。以降、アングロサクソン・モデルはコモンローとエクイティの両輪によって資本主義ルールを確立することになっていく。 

≪025≫  アングロサクソン・モデルにおけるコモンローとエクイティの役割は、まことに独特だ。コモンローが支配的ではあっても、会社法・為替手形法・商品販売法といった制定法(statute law)はその後に次々に加えられていった。 

≪026≫  これを促進したのは「最大多数の最大幸福」を説いたジェレミー・ベンサムで、コモンローだけではあまりに合理的な解決が得られないことを批判したためだ。1875年に裁判所法がコモンローとエクイティの統合をはかったのが、その大きな転換だった。それでも、包括的な家族法、相続法、契約法、民事訴訟法などはいまなおコモンローの判例にもとづいている。 

≪027≫  こういう変成的なことがアングロサクソン・モデルに入りうるのは、イギリスの議院内閣制では行政府と立法府はほぼ一体になっていて、意外にも三権分立が必ずしも確立していないせいでもあろう。イギリスの議会は与党内閣の政策意思を受けて、なかば受動的に立法機能をはたしていることが多いのだ。それゆえ、内閣の意思に反して党籍を除名されれば、その議員が日本の政治家のように、政党を変えて再選に臨むなどということはまずおこらない。イギリスの政治家は党籍剥奪とともに政治生命をおえる。日本にはイギリス的な意味での本格的な政党政治家はほとんどいないと言っていい。 

≪028≫  では、「エクイティ」とは何なのかというと、ここでもちょっとした歴史認識が必要になる。 

≪029≫  今日のアメリカ型の株主資本主義では、株式のことをエクイティとかエクイティ・キャピタルと言い、株主資本をシェアホルダーズ・エクイティと言っている。けれどももともとのエクイティの意味とは衡平法から生まれた「信託」のことだった。  

≪030≫  エクイティという言葉も、委託者(受益者)の権利を公平に守るという意味から生まれた新概念なのである。14世紀には明確な意味をもちはじめ、ヘンリー8世の1535年に信託法(ユース法)が確立すると、大法官が「エクイティによる救済」を施すようになって、その判例がしだいに集合してエクイティの概念を普及させた。コモンローが基本的な決め事の本文(code)だとすれば、エクイティは付属文書(supplement)にあたるもの、ざっとはそのような価値観の関係だと見ていい。 

≪031≫  こうしてイギリスに、法律上の所有権(legal ownership)と、土地などの所有権(equitable ownership)とを区別する、用的なエクイティの考え方が浸透し、これがその後の株式会社における有限責任制の保護や、さらにはアングロサクソン・モデルにおける経営者の株主に対する受託者責任の重視につながっていった。 

≪032≫  すでによく知られているように、アングロサクソン・モデルにおいては、法人化された株式会社(共同出資企業)では、経営者(取締役と執行役員)は受託者で、会社と株主の利益に対しての忠実義務(duty of loyalty)と注意義務(duty of care)を負っている。そのぶん、広範な裁量権(執行権限)も与えられている。今日の取締役や役員の行動基準はここから発してきたものなので、ここから受託者が委託者(株主)に説明する(account for)という、いわゆる「説明責任」(accountability)も生まれた。 

≪033≫  こういうことはすべてコモンローとエクイティの考え方から派生したものだった。しかし、そんなことはイギリス人の自分勝手だったのである。 

≪034≫  以上のような特異なアングロサクソン・モデルの基本を理解するには、いったん、それとはいささか異なる大陸ヨーロッパ型の資本主義がどのようなものであるかを知っておいたほうがいい。 

≪035≫  そもそも「ヨーロッパ」という概念は、今日のEUに見られるごとく、地域や民族や人種や言語の実体をあらわしてはいない。古代ギリシア、ローマ帝国、ガリア地方、フランク王国、ライン川諸国(ラインラント)、イベリア半島勢力その他の、さまざまな社会経済文化が離合集散する共同体群が、あるときローマ・カトリック教会によって“統一体としてのひとつの規範”をもったことから、「ヨーロッパ」という超共同体が認識されてきたものだった。 

≪036≫  なかで、大陸ヨーロッパで法的な規範として重視されていったのが「ローマ法」である。風土も慣習も言語も異なる複数民族のヨーロッパ社会では、これらを統括する法典が必要だったからだった。そこはイングランドとは決定的に違っていた。いや、イングランドが変わっていた。 

≪037≫  たとえばドイツだが、ドイツは神聖ローマ帝国の昔から連邦制の分権国家群として成り立っていた。それが19世紀まで続いた。なぜそうなったかというと、有名な話だろうが、次のような変遷があった。 

≪038≫  962年にザクセン朝のオット11世が神聖ローマ帝国皇帝として戴冠したとき、いったんローマ・カトリック教会の世俗社会に対する権威が失われた。それまではキリスト教の聖職者が王国内部の大公や伯を牽制し、その力が王国ガバナンスの要訣となっていたのが崩されたのだ。しかし11世紀になって、ローマ・カトリック教会は中央集権的な教会体制を再構築し、教会の司祭職の叙任権を奪回する試みに出た。 

≪039≫  この叙任権問題をめぐっては激しいやりとりがあった。挙句、ローマ法王グレゴリウス7世がドイツ国王ハインリッヒ4世を破門し、1077年にハインリッヒ4世がイタリアのカノッサで法王の許しを乞うことになった。これが教科書にも有名な「カノッサの屈辱」だが、これを機会にローマ・カトリック教会はゲルマン系の諸国家を布教するにあたって、諸侯には自治権を、庶民には生活上の自由を認めるようにした。 

≪040≫  こうしたことがしだいにヨーロッパ各地におけるローマ法の定着を促した。加えてこの事情のなかで、そのころ成立しつつあった大学の教職者たちがローマ法を研究し、その影響をその地にもたらすという制度ができあがっていった。ドイツでは大学の教科書こそが法律になったのだ。イギリスが法曹団体によって外側から法をコントロールしたこととは、ここが大いに異なっている。 

≪041≫  ヨーロッパの資本主義は、12世紀の銀行業の確立から14世紀の小切手の利用や複式簿記の実験をへて、15世紀にはほぼその前提的全容が姿をあらわしていた。いわゆる商業資本主義の世界前史にあたる。 

≪042≫  この史的世界システムとしての資本主義が産業革命を促し、やがて強度のアングロサクソン・モデルと軟度のドイツ・イタリア型とアメリカ型などに分化していったことについては、また、それとは別に日本モデルやブリックス・モデルが登場してきたことについては、ましてそのおおもとのアングロサクソン・モデルがいったんサッチャリズムやレーガノミックスでそれなりの絶頂期を迎えながら、どうにも不具合を生じてしまったことについては、アナール派以降の説明でもウォーラーステインの説明でも必ずしも充分なものになっていない。  

≪043≫  そうなのだ、アングロサクソン・モデルはしばしば限界状況をきたし、それをそのたびなんとかくぐり抜けてきたというべきなのである。それがついにはエンロン事件やリーマン・ショックにまで至ったのだ。 

≪044≫  古い歴史の話はともかくとして、その後の現代資本主義における「イギリス問題」を見てみても、アングロサクソン・モデルがしばしば限界状況をきたすということは、決してめずらしいことではなかった。たとえば多国籍企業の時代でも、70年代から80年代にかけてのスタグフレーション(景気停滞とインフレの同時進行)の時代でも、もっと言うなら大恐慌の時代でも、そういう症状はあらわれていた。 

≪045≫  それらの症状が90年代以降は、たんにディレギュレーション(規制緩和)とリストラクチャリング(事業再編)とグローバリゼーション(経済管理の標準化)によって、乗り越えられようとしていたか、あるいはごまかされていたとも言えるわけである。ということは、ディレギュレーションとリストラクチャリングとグローバリゼーションの掛け声は、アングロサクソン・モデルの“ぼろ隠し”だったとも言えるわけだった。 

≪046≫  1993年に書かれたハムデン=ターナーとトロンペナールスの話題の書『七つの資本主義』(日本経済新聞社)には、資本主義をめぐる七つの対立が明示されていた。古くなった見方もあるが、いまなお参考になる対比点もあり、本書も踏襲しているので、あらためて掲示しておく。  

≪047≫ ①普遍主義(universal)と個別主義(particular) カトリックとプロテスタントに普遍主義があった。ラテン系やアジア諸国は経済的には個別主義を重視する。このいずれをもグローバリズムが覆ったのだが、その一方では地域ごとの普遍主義と個別主義の抵抗に遇った。 

≪048≫ ②分解主義(analytic rational)と総合主義(synthetic intuitive) 要素に分解したがるのが分解主義である。つまりはスペシフィック(関与特定的 〈specific〉)にものごとを見たり、アンバンドル(切り離す)しながら事態を進めたりする。証券化のプロセスで、要素価値とリスクをアンバンドルするのがその例だ。総合主義は統合したがり、バンドルしたがりだが、ときに関与拡散(diffuse)になる。ネットワーク主義がこの傾向をもつ。 

≪049≫ ③個人主義(individualistic)と共同体主義(communitarian) 個人主義はアングロサクソン・モデルの根底にある。ドイツ・イタリア・日本は共同体的であろうとすることが多い。このあたりのこと、エマニュエル・トッドの研究がある。しかし、ここでいう共同体主義(コミュニタリアニズム)については、いまはかなり深化し、また多様になっている。 

≪050≫ ④自己基準(inner directed)と外部基準(outer directed) アングロサクソン・モデルは株主や企業が自己基準をもってコーポレート・ガバナンスとコンプライアンスに当たることを前提とし、アジア型企業の多くは状況判断や社会変化に対応しようとする傾向をもつ。 

≪051≫ ⑤連続的時間(sequential)と同時的時間(synchronic) 野球やアメフトはシークエンシャルに時間秩序が整っているスポーツゲームで、サッカーやラグビーはシンクロニックなゲームである。連続時間的な価値観は継続事業的な判断(going concern)をし、たとえばM&Aにおいても、M(merger)は合併によって新会社を設立する一方、A(acquisition)によって株式の一部取得を通して事業を継続させるという方法をとる。同時間主義はドイツや日本の徒弟制や、マンガ制作やアニメスタジオに顕著だ。 

≪052≫ ⑥獲得主義(achievemental)と生得主義(ascriptive) フランスではエリート養成学校グランゼコールの同窓生、なかでもENA(国立行政学院)の卒業生が高級官僚から天下って民間会社の経営者となり、政財界を牛耳ってきた。日本ならば東大法科にあたる。これが獲得主義だ。一方、生得主義は生まれながらの才能をどう伸ばすかという方向になっていった。 

≪053≫ ⑦平等主義(egalitarian)と権威主義(hierarchical) とくに説明するまでもないだろうが、これにタテ型とヨコ型が交差するとややこしい。たとえばフランスやドイツはヨコ型権威主義、スペインやシンガポールはタテ型平等主義の傾向がある。 

≪054≫  これらの対比特色のうち、アングロサクソン・モデルがどこを吸着し、何を発揮していったかというと、たとえば「分業」の思想や「株主重視」の発想は分解主義と個人主義がもたらした。「複利」の発想は連続時間的価値観から生まれた。株主資本主義は分解主義がもたらしたのである。一方、アメリカ型は保守もリベラルも自己基準的なので、集団に奉仕しながらも、個人がその集団に埋もれてしまうのを嫌うため、プロテスタントな自立性を組織的に求めようとしていく。 

≪055≫  これに対してドイツや日本は同時間主義的で、状況的な外部基準をおろそかにしないので、ついつい労使共同決定的になっていった。ドイツや日本にいまでも多数の中小企業群(Mittelstand)があって、それぞれが専門技術やノウハウをもって食品から自動車までを支えているのは、かつてはそれぞれのハウスバンクが機能していたせいだ。いいかえれば、ドイツや日本では、労使共同的であるから経営の透明性や説明の明示性が劣り、そのかわりに親方日の丸や業務提携が発達したということになる。逆にアングロサクソン・モデルでは、事態と機能を分解したのだから、それならつねに経営者や担当者の説明責任(アカウンタビリティ)が求められるわけである。 

≪056≫  こういった特色があるということは、アングロサクソン・モデルにおける「会社という法人」が、きわめて擬制的であるということを物語っている。ハイエクやフリードマンを擁したシカゴ学派などでは、会社というものははなはだフィクショナルなもので、取引関係者相互の「契約の束」(nexus)にすぎないという見解さえまかり通っていた。 

≪057≫  アングロサクソン・モデルがつくりあげたしくみのなかで、無節操に世界に広がり、はしなくも価値の毀誉褒貶が激しく、最も説明がつかなくなったものがある。それは何か。会社ではない。議会や政府でもない。貨幣や通貨というものだ。 

≪058≫  そもそも社会は物々交換の経済をもって始まった。そこでは互酬的で互恵的な交換が通例になっていた。そこに、共同体ごとに原始的な貨幣が使われるようになった。それでもそれらはいわば「内部貨幣」であったのだが、やがてそのような貨幣に「交換手段」(medium of exchange)と「計算単位」(unit of account)があらわれてきた。そうなると、人々の異時点あるいは異地点のあいだでの消費と支払いのズレを、貨幣がしだいに保証するようになり、そのうち貨幣に「貯蔵手段」(store of value)が派生した。 

≪059≫  それだけならまだしも、生産に従事する労働の対価を貨幣で支払うようになって、貨幣は「もの」にくっついて動くだけではなく、「ひと」にくっついて労働や生活にも所属することになった。こうして貨幣は法律や言語に匹敵するパワーの象徴になっていったのである。 

≪060≫  そうした貨幣の本質をどのように議論するかということは、とんでもなく難しい。これまでもその議論をぞんぶんに組み立てたという思想はきわめて少ない。近々、ゲオルグ・ジンメルの『貨幣の哲学』(白水社)などを通して、そのあたりを千夜千冊したいと思うのだが、それはそれとして、今夜は、今日の貨幣の問題で、次のことについて言及しておかなければならないだろう。 

≪061≫  第一には、貨幣は地球上のいろいろな場所で発行され、使用されてきたにもかかわらず、これを通貨とし、世界通貨として金などの金属価値から切り離して不換紙幣にしてしまったのは、ひとえにイギリスとアメリカの事情によっていたということ、つまりはアングロサクソン・モデルがもたらした出来事だったということだ。明治日本が列強に伍するために「円」をつくらされたのも、イギリスの画策だった。 

≪062≫  第二に、今日の貨幣は政府と銀行などの「取り決め」(agreement)によってのみ、その価値が裏付けられているにすぎないということだ。これを「貨幣法制説」というのだが、そのことによってだけ、ポンドやドルや円や元やフランという「国民通貨」が成り立っているわけである。 

≪063≫  この国民通貨には、現金通貨と預金通貨があるのだけれど、今日ではそのいずれもが「信用通貨」とみなされている。信用通貨というのは銀行の債務としての銀行信用によって裏付けられているという意味である。これは、通貨は銀行の与信行為によって生まれ、それが同時に銀行にとっての負債に相当するということを意味する。 

≪064≫  第三には、貨幣が利子を生むようになったということだ。この習慣が本格的に生じたのは、イギリスが三十年戦争後のウェストファリア条約以降、国家が保有していた通貨発行権を民間銀行に委譲したことからおこった。戦費を調達するためである。このとき例のジョン・ローが大活躍したということについては、1293夜のミルクス・ウェイトらの『株式会社』(ランダムハウス講談社)でも詳しく述べた。問題は、そのとき、国家が戦費調達の代償として国債を発行し、それを銀行に引き受けさせることの見返りに、通貨発行権とともに利子を付ける権利を認めたということなのだ。 

≪065≫  ちなみに、この利子をこそ問題にしたのがシルビオ・ゲゼルの自由貨幣論やイスラーム経済というもので、いまでも独特の経済価値論を発揮しつづけているので、これについてもいずれ千夜千冊したいと思っている。 

≪066≫  第四に、通貨は世界資本主義システムが進展するなかで、しだいに為替相場と密接な関係をもつようになり、やがて固定相場制から変動相場制に移行したとき、一方では「基軸通貨」の思想をもたらし、他方では「無からつくる通貨」(fiat money)の可能性を開いてしまったということだ。 

≪067≫  そして第五に、ここが今夜の一番の眼目になるのだろうが、通貨の歴史は、株式が「擬似貨幣」の役割を担うことを許したということである。エクイティの発想は、ここからは金本位制でも不換紙幣制でもなく、株式本位制としての資本主義に達したということなのだ。株式は計算単位としての役割をもちえないにもかかわらず、その他のありとあらゆるパワーを吸収することができるようになったのだった。 

≪068≫  株式は国民通貨ではないし、銀行の負債でもない。また確定的な利子も付かない。それなのに現代の資本制は名状しがたい情報価値の評価の変動を媒介に、現代貨幣の本質である「無からつくる通貨」の可能性をもってしまったのである。  

≪069≫  ここにこそ、アングロサクソン・モデルがつくりだした最も強力で最も理不尽な「株式資本主義」と「市場原理型資本主義」の特徴があらわれていた。 

≪070≫  とりあえずの結論ではあるが、ぼくとしては以上のような見方がいいと思っている。日本のビジネスマンは、そろそろアングロサクソン・モデルに代わるモデルを構想するか、もしくはエクイティの英米的ロジックに明るくなるべきなのである。 

≪071≫ 【参考情報】  

≪072≫ (1)本書の著者の渡辺亮は一橋大学とロンドン・ビジネススクールの出身。野村総研で企業財務調査、為替予測、アメリカ経済予測に携わったのち、ワシントン支店長をへて、ヨーロッパ社長となっている。1999年、いちよし経済研究所の社長となり、2002年からは法政大学経済学部教授になった。『ワシントン・ゲーム』(TBSブリタニカ)、『英国の復活・日本の挫折』(ダイヤモンド社)、『改革の欧州に学ぶ』(中公新書)などの著書がある。   

≪073≫  本書はテーマが章立てで分けられているわりに、さまざまに重複していて、実はそこがおもしろい。本来なら未整理な原稿ということにもなるのだが、それがかえってネステッドな解説の複合性を発揮したのだ。これは「ケガの功名」なのだけれど、ときに読書にはこういう僥倖をもたらすことがあるものなのである。 

≪074≫ (2)本書に先行する本も後追いする本もいろいろある。先行例としてはハムデンターナーとトロンペナールスの『七つの資本主義』(日本経済新聞社)、ミシェル・アルベールの『資本主義対資本主義』(竹内書店新社)、ブルーノ・アマーブルの『五つの資本主義』(藤原書店)、ピーター・ドラッカーの『ポスト資本主義社会』(ダイヤモンド社)などが有名だ。後攻例はいくらでもあるから省くけれど、たとえばアラン・ケネディの『株式資本主義の誤算』(ダイヤモンド社)などはどうか。 

「万物の貨幣化」と「万物の商品化」が蔓延した。

グローバル化した金融資本主義も広まりすぎた。

そこへもってきての日米の定常経済状態の低落。

EUやアジアがその隙を狙って権をとるとはかぎらない。

で、どうするか。

アクラシーに陥っていてはなるまい。

どこかで方向転換をするしかないだろう。

歴史はたいてい、そういう反転をおこしてきた。

『資本主義の世界史』のボーは、本書においていちはやく「大反転の促進」を訴えた。 

≪01≫  ヨーロッパ中心史観はフランスではもっぱらリセ(高校)がつくってきた。戦前日本の大東亜史観のようなものだ。ただし日本の大東亜史観は敗戦後は学習対象から除去されたが、リセの歴史教育はいまでも続いている。リセで育って社会の要職についた連中は、その後は歴史的知識人の代表面(づら)をして各地にヨーロッパ中心史観をふりまいた。たとえばロベール・ボノーは「ヨーロッパは人類の進歩の中心、発明と革新の中心、あらゆるものの拡大の中心である」と書いた。 

≪02≫  リセの歴史教育がおかしいことは、すっかりバレている。ヨーロッパ中心に世界が動いたのはやっと19世紀後の、それもナポレオンが失脚してのちのことにすぎない。それどころか15世紀以前、世界には中心(センター)なんてどこにもなく、ユーラシアや南北アメリカに重要な十字路だけがあった。そういう十字路はいくつもあったが、そのひとつはモンゴル帝国の進む道にできた十字路であり、また古代このかたの中近東の十字路であり、またオスマントルコの版図がつくりあげた十字路であった。それを15世紀以降の列強が躍起になって分割占拠したから、欧米列強世界にセンター(中心)ができたにすぎない。たとえばアムステルダムやロンドンである。リセはその勝利の甘美な思い出に浸ったままにある。 

≪03≫  しかしそういう欧米中心史観の構図にもヒビが入ってきた。いまやアメリカとEUと東アジアはほぼ横一線で並びつつあるし、しばらくするうちに世界はアメリカと中国とインドの三極に分化してもいくだろう。リセの頑迷な史観はともかくとして、現在世界をふつうに見ればこういうふうになる。 

≪04≫  が、こんな構図の変化よりずっと不気味で気持ち悪いことが、実は現状を覆っている。現在世界の問題は、すでにどの国やどの地域の軍事力や経済力が覇権をとるかなどということではない。 

≪05≫  覇権よりももっともっと重大なのは、たとえば、世界中に広まりつつある血液の汚染、耐性の強いウィルスの出現、所かまわず侵入している金融マネー、これら3つの動向なのである。世界の覇権を争っているうちに、われわれはいつのまにかこれら3つの高速な波及に侵されていたということだ。しかもわれわれは、かのオイディプス同様にこうした「新たな禍いの正体」をちゃんと見てはいなかったのである。 

≪06≫  ざっとこんなようなイントロで始まるボーの『大反転する世界』は、いまこそ世界が反転しようとしているのに誰もが尻込みをしているという告発をもって、長い物語のあとの混迷の未来の記述に入っていく。 

≪07≫  ボーは1981年に『資本主義の世界史』(藤原書店)を書き終え、それが初めての“資本主義500年の物語”の集大成になったと拍手をもって迎えられていた。だいぶん遅れてのことだったけれど、ぼくも読んだ。集中して書かれているせいか、ブローデル(1363夜)やウォーラーステイン(1364夜)よりもわかりやすかった。 

≪08≫  しかし評判はよかったものの、ボーは自分の長い物語が次の100年、いや10年すらも予告できていないことに気がついたのだ。それが1990年代という世紀末の恐ろしさだった。 

≪09≫  かくてボーは世界が大きく反転していってほしいと願うことになる。あるいは逆に取り返しがつかないほど反転してしまったのかと慨嘆する。こうして書き上げたのが本書だった。“basculement”(大反転)というフランス語は「均衡を失うこと、ひっくりかえること」という意味で、状況が急に変わっていくことをあらわしている。 

≪010≫  しかしながら、どう見ても、反転や逆転をおこすしかない危険きわまりない時期があきらかにやってきているのに、誰もが尻込みをしていることに、ボーは苛立った。そして本書を書いたのだ。 

≪011≫  世界に情報や知識が不足しているわけではない。そんなものならグーグルでも検索できる。そうではなくて熟慮と解読が不足して、その行き先を示す勇気を決定的に欠いているだけなのである。 

≪012≫  なぜこんなふうになったのか。この世界はどんな変質をとげてしまったのか。20世紀末の1997年、ボーはこの眼前の世界をやむなく「ハイパー・コンプレックス」(超複合体)と呼ぶことにした。この気持ち、よくよくわかる。もう一言加えるなら、「不確実なハイパー複合体」とも説明することにしている。これはもっとわかる。 

≪013≫  何が不確実でハイパーで複合的になってしまったのか。「地球」と「人類」と「資本主義」とが、ことごとくそうなりつつあるのだと言うしかない。ボーもそう思わざるをえなくなっていた。時あたかも新自由主義と金融工学の勢いがとまらなくなっていた時期だった。 

≪014≫  かつてカントは『実践理性批判』の最後に、こう書いた。われわれには二つのものが煌めいている。ひとつは「頭上の天空」、もうひとつは「内なる道徳律」であると。この二つについて考え、そこに没入していけばいくほど、その感嘆と畏敬によってわれわれの心は満たされるのだと。そしてさらに、こう付け加えた。「これをよそに求める必要はない」。 

≪015≫  しかしいま、われわれの前にあるのは、星が煌めく「頭上の天空」と思念が飛び交う「内なる道徳律」ではなくなっている。カントが決して必要としなかった「よそ」ばかりで埋まってしまったのである。天なる宇宙と内なる宇宙の二つのあいだには、無数に広まった「資本の姿」と「情報の姿」が満ちてしまった。われわれはそれらに心を奪われているうちに、二つの宇宙すら見失ってしまったのだ。 

≪016≫  こうして資本と情報が何を覆ったかといえば、何もかもを覆った。地球を覆い、人類を覆い、資本主義を覆った。本当は、その地球・人類・資本主義は最も有能な自己組織化能力と再生産能力とをもっていたはずなのである。ところが、その本来の力が根本から鈍ってきた。おかしくなった。地球も人類も資本主義も実は自己調整力がなく、自浄力を失っていることが見えてきた。 

≪017≫  原因はだいたい見当がついている。少なくともボーは、今日のグローバル社会が資本を蓄積しすぎ、技術の革新にのみ未来があると思いこみ、すべてを製品や商品にすればいいと確信してしまったことに原因があると結論づけた。加えて、人類の多くがそれを律するのがメディアとネットワークだろうと強く感じてしまったからだと告発した。 

≪018≫  それでどうなったのかといえば、ひたすら「アクラシー」が広がったのである。アクラシーとは統治能力の喪失、意思決定と行動の放棄を意味する。かつてはこれほどの能力喪失や行動不足が続くなんてことはなかった。国家が努力し、国民がこれに呼応しさえすれば、その目的と手段に多少の問題があろうとも、なんとか難局を乗り切ることができると考えられていたし、実際にもなんとかそうしてきたはずなのである。国連活動、戦争協力、福祉国家政策、社会民主主義、教育制度はそうやって仕上がってきた。 

≪019≫  しかし、市場経済のグローバルな拡大とともに、そういう努力の気力が消え失せてきた。アクラシーが蔓延しているばかりなのだ。 

≪020≫  ボーのこのような見方は、カール・ポランニー(151夜)が『大転換』のなかでとっくに予告していたことだった。ポランニーは、いったん社会が市場経済に覆われるに至れば、市場の自己調整機能は古い社会を壊し、伝統文化を隅に押しやり、土地と労働と貨幣を市場経済のための武器に仕立てていくだろうことを暴いた。 

≪021≫  そして、その通りになった。ただしポランニーが予測していたより事態はずっとひどくなった。市場資本主義はゲームルールの寡占的グローバリズムによって律しきられ、そこには金融独占資本主義の特質があらわになっていた。市場に期待された自由な参加性は名目上のことだけで、市場の勝ち組アクターは多国籍性と情報技術資本力ともいうべきものを二つながらもっていることもあらわになった。もっとあからさまになったのは「万物の貨幣化」と「万物の商品化」が決定的になってきたことだ。 

≪022≫  ボーは『資本主義の世界史』のなかで慌てて、こう書いたものだ。この万物の貨幣化と万物の商品化、すなわち経済の自律化は、それ以前の社会形態の暴力的な破壊によって初めて可能になったのであり、それ以前の世界では宗教・社会・経済・政治の交じった側面と、連帯と再配分のシステムが複雑な関係を維持していたのであるのに、と。 

≪023≫  そうしたボーの見方を興味深く裏付ける図解がある。『資本主義の世界史』第7章に挿入された「1970~90年代における一国/世界システムの危機と構造」というものだ。 

≪024≫  ここでは、冷戦体制のもとの世界システムが、中枢-半中枢-辺境としてではなく、それが階層化されて南北・東西軸に対抗矛盾として露呈したというふうに、左右に配列して把握されている。またここには市場原理主義と国家管理資本主義(エタティスム)との捩れた合体関係も暴かれている。 

≪025≫  しかしボーの指摘は遅すぎたのだ。ボーもまた「全般化資本主義」とか「テクノ資本主義」というような言い方で、現状を苦り切った表情で形容するしかなくなっていたのだ。 

≪026≫  かくてボーは「大反転」もしくは「総反転」を提言するしかなくなった。けれどもそのスローガンは、9カ条にはなっているものの、いささかむなしいものになっている。次のようなものだ。①不平等の是正、②連帯の紐帯の強化、③基本的欲求のための方策の見直し、④基本的資源の均衡の維持、⑤多国籍企業からの離脱、⑥過剰な商品流通の抑制、⑦科学技術の影響の軽減、⑧人類の持続可能な発展の道の探索、⑨経済を社会が包むための方途の発見。 

≪027≫  気持ちはわかる。9カ条がまちがっているわけでもない。けれども、どういう方法で着手するのかが、見えてこない。なぜなら、これらの目標が実行に移されるためには、問題のすべてが壁の中にあることを知らねばならず、そのためには、出口を壁の中に作り出す必要があるからだ。壁を崩さずに、そこに大きな出口を作らなければならないのである。  

≪028≫  しかも、このことをアクラシー(統治能力の喪失、意思決定と行動の放棄)のなかで、あるいは「全員の一斉責任放棄」(Grand Démission)のなかで取り組まなければならない。どういう試算かは知らないが、ボーはそのためには第一次世界大戦に要した人員まるごとくらいが、この「壁の中の出口づくり」に参加するしかないだろうと書いている。 

≪029≫  なるほど、事態はそのくらい深刻なのである。ボーもそこについては覚悟する。つまりは、われわれは「抉(えぐ)られた決戦」を迫られているのだ。それを「マイナスの大戦」の規模で開始しなければならないのである。けれども、けれども、そうだとしたら、これはまったくもって絶望的である。 

≪030≫ 【参考情報】 

≪031≫ (1)ミシェル・ボーは1935年、フランス・アルプスの山麓のシャンベリー生まれ。パリ政治学院で法学・政治学・経済学を修めたのち、ラバトにあるモロッコ銀行に務め、その調査研究員としてアジア・アラブ世界に通じていった。その後、CNRS(国立科学研究センター)の研究員をへて、1965年からリール大学、パリ大学で教鞭をとり、もっぱら資本主義世界史とソ連経済論を講じた。その後、ウォーラーステインや「緑の党」のアラン・リピエッツらと交わり、またミッテラン政権の第9次経済計画の雇用部門にかかわったりしたが、90年代を迎えてしだいに世界資本主義の行方に深い危機感をもつようになった。 

≪032≫ (2)ボーの大反転論は、どこか深い悲哀のようなものが満ちてはいるものの、新たな展望書にはなっていない。だからボーを読んだあとで、たとえばジョセフ・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)や『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』(徳間書店)、あるいはたとえばデビット・コーテンの『グローバル経済という怪物』(シュプリンガー・フェアラーク東京)などを読むと、かなり胸のつかえが降りる気がするようになるかもしれない。そうではあるのだが、今度は何かを棚に上げた対策主義というふうにも読めてきて、そこが双方ともに辛いのである。 

≪033≫ (3)というわけで、ぼくは今夜の論調を少し暗くした。
これにはむろん理由がある。「世界が反転する」という見方には、このボーのような見方だけが残されているとはかぎらないということなのだ。次夜以降を待ってほしい。 

『マルチチュードの文法』のパオロ・ヴィルノが、ポストフォーディズム資本主義にネオテニーを読み取った。

ふうん、そういう手に出たか。これはあっぱれだ。

これまで資本主義、権力の覇権性(たとえばマルチチュード)、そして生物学的人間像(たとえばネオテニー)の3つが、組み合わさって議論されてこなかったことのほうが、おかしいのだ。いや、経済社会論とポストモダン思想と認知科学とが並んだことはあった。

しかし、その成果は乱れに乱れるだけだった。

それならそろそろ、ヴィルノのような視野からの逆襲があってもいいのではないか。 

≪01≫  1388夜に紹介した鈴木謙介『反転するグローバリゼーション』の参考情報(4)に、パオロ・ヴィルノの『マルチチュードの文法』(月曜社)がおもしろいと書いておいた。マルチチュードは「人民」という概念の反対語であるとか、ポストフォーディズムとは資本のコミュニズムなのだとか、なかなかオツなのだ。ネグリ(1029夜)にありがちな輻湊するロジックの蛇行と退屈がない。 

≪02≫  本書は、そのネグリの仲間のヴィルノが『マルチチュードの文法』の2年後にまとめたもので、イタリア的自在思想の健在を感じさせた。そのぶん、かなり大胆な21世紀型社会観相学で結論を急ぎすぎているところ、説明をいささかはしょりすぎているところ、またチョムスキー(738夜)とフーコー(545夜)の論争に象徴的な言辞を読みすぎたところ、ネオテニーについての理屈がうまく通っていないところもあるのだが、うーん、それでもやっぱり伸身宙返りの体操のようで、おもしろい。 

≪03≫  こういう見方はこれまでなかった。一言でいえば、資本主義論にやっと生物学と哲学の突端だけが侵襲してきたという見方だ。 

≪04≫  ヴィルノが本書で結論にしているのは、われわれにつきまとう「ネオテニー」(1072夜)に象徴されるような生物学的性質は、これまでは家庭や学校や企業といった社会の組織がときに和らげ、ときには矯正してきたものでもあろうけれど、いまや、このようなわれわれにひそむ生物学的歴史性と、われわれが直面しつつある「ポストフォーディズムの資本主義」として如実となってきた社会学的現実性とは、実はおそろしいほど近接し、重合してしまっているのではないかということだ。 

≪05≫  そして、こういうことは20世紀末から21世紀にかけて歴史上初めておこりつつあることで(この理由がいまひとつ明確ではないのだが)、かつてこんなことはなかったのではないかということだ。 

≪06≫  ちなみに、ここで言っている生物学的歴史性とはわれわれの「自然的本性」のことを、つまりは本来の意味での「ネイチャー」というものをさし、直面している社会学的現実とはポストフォーディズムの資本主義社会を、つまり打ち続くグローバルな社会の特質というものをさす。ヴィルノは、この二つのものがこれまでは別々になっていたのに、いまや折り重なるように一緒くたになっているというのだ。かなり大胆だが、この見方はおもしろかった。 

≪07≫  ヴィルノがこのような大胆な観察的結論をもつに至ったのは、次のように現代思想の潮流を読み取ったという前提がある。  

≪08≫  70年代、労働者と大衆は多くの運動において敗退した(これはマルクス主義や左翼陣営の退嬰と重なっている)。そこで登場してきたのは「ポストモダン思想」と「認知科学」だった。この二つはいずれも「人間的自然」をめぐっていた。その後、(イタリアにおいては)前者は「弱い思想」として、後者は「強い思想」として対比されていった。こうした潮流の登場を前にマルクス主義がしだいに色褪せていったことについては、言うを俟たない。 

≪09≫  このことから、ヴィルノは次の推断をする。二つの新規な思想の登場によって、これまでの社会の構造分析はおおむね終わりを告げたのではないか、いいかえれば、つまりは「生産の社会関係」で世の中を語る力を失ったのではないか、というふうに。 

≪010≫  ポストモダン思想は心理の側面、日常的なフィーリングの出入り、異文化の交差といったものに注目し、断片的な実存や不透明な感覚をふんだんに社会学にとりこんだ。しかしこのことで研究者や表現者の数ぶんの解釈学によって、つねに思想が変化するようにもなった。ヴィルノが言うには、ポストモダン思想がそのような傾向に陥ったことは、そのころに各国が次々に導入していった変動相場制と軌を一にしていたという。なるほど、そのようにも観相できなくもない。たしかに世界は変動相場制ですっかり変わってしまったのだ。 

≪011≫  認知科学のほうはどうなっていったかというと、神経生理という生物学的な背景をもって精神の哲学や言語学をそこに吸い上げて、脳においてもコンピュータにおいても“精神と言語のシステム”が探求可能であるという言説をふりまいた。しかし、そうであるのなら、その精神と言語をつかさどるシステムに普遍性がなければならないのだが、そこは不問に付された。 

≪012≫  こうして80年代半ばから、社会は理論的なしくみのほうはさっぱりほったらかしになり、そこへグローバリゼーションががんがん押し寄せて、気が付いたらエンロン事件やリーマン・ショックがおこり、新自由主義がずらずら広がって、そのまま世界はポストフォーディズムの侵襲に緩やかに向かっていっていったわけである。 

≪013≫  これってヤバイのか。金融経済だけの出来事なのか。それが社会にも及んだということなのか。世界がマクドナルド化してフラット化したということだけなのか。ヤバイのはむろんヤバイだろうけれど、ただ資本主義がヤバクなったということではない。そんなはずがない。 

≪014≫  よくよく目を凝らしてあらためて周囲を眺めると、もっと決定的な変化がおこっている。ここにはひょっとすると生物学的な状況認識が浮上してきたのではないのか。そう、ヴィルノは見たのだった。 

≪015≫  その生物学的な状況認識の最たるものは、従来は隠されていたネオテニーが世の中に隠しようもなくなってきたということに顕著にあらわれているのではないかというのが、本書が一番走っているところだ。社会の成員が幼稚であることを、あからさまな社会的事態によって隠さなくなったというのだ。  

≪016≫  このような見方はアルノルト・ゲーレンが『人間』(法政大学出版局)で先行して発言していたり、アシュレイ・モンテギュー(1072夜)が早くに指摘していたことだったが(ゲーレンについてはいずれ紹介する)、ヴィルノはこれをまるごと借りた。 

≪017≫  幼形成熟をあらわすネオテニーのことがわからないというなら、まずはぼくの1072夜の『ネオテニー』を読んだうえで、『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)を読んでほしい。ほぼネオテニーの本質については書いておいた。そのうえで、われわれ人類が原始古代から分化能力に欠けていたという本性の裡にあったことを思い出してもらえばいい。 

≪018≫  われわれは本来は「不定」(indefinito)という性質をもっている動物で、ネオテニーも文明も、これを巧みに補助するために作られていったものだったのだ。 

≪019≫  この性向を仮に「謙譲の伝統」とでも言えば(ヴィルノはとりあえずそう言いたがっていたが)、動物としての人間はそもそもの能力や機能が「過剰」に出来てきたのではなく、むしろ「過少」に出来てきたということなのである。「少ない動物」だったのだ。それがネオテニーに代表される「あえて成長を遅らせて出産されていく」ということ、すなわち「謙譲の伝統」であったわけである。 

≪020≫  これはいわば、人間というもの、不足や欠如をこそその本質に抱えてきたということである。このあたりのことはぼくも『フラジャイル』そのほかで、さんざっぱら書いてきたことだ。数日前に店頭に並んだばかりの「セイゴオ語録」1・2の『危ない言葉』『切ない言葉』(求龍堂)にも、そのあたりのニュアンスの言葉が並んでいる。 

≪021≫  しかし、われわれの歴史はわれわれ自身がそういう“切ない宿命”にあったことを隠してきたか、もしくは直視しないようにして、文明の成果を競いあう方向で済ませてきた。繁栄しかり、戦争しかり、没落しかり、循環しかり。歴史を見ての通りだ。 

≪022≫  ところがそれが、ヴィルノが言うには、70年代後半のポストモダン思想と認知科学の登場と変動相場制の波及とでしだいに隠しようがなくなり、そのあとポストフォーディズムの資本主義にあれこれまみれているうちに、社会的現実と生物学的現実とが踵を接するようになったというのである。 

≪023≫  ところでヴィルノは以上のことを説明するにあたって、1971年にチョムスキーとフーコーがたった一度だけ出会って対話をしたという“事件”を持ち出した。 

≪024≫  オランダのテレビ用のプログラムだったそうで、片や言語は生得的なもので、そこには普遍文法があるというチョムスキーと、片やどんな認識の図式も歴史の経験の中に解消しうるというフーコーとの対話は、生物的認知に不変項があるのか、それとも歴史にそれがあるのかという対比であって、二人が互いを尊重しながらも結局は相いれない後半部にさしかかると、そこにはその後の思想の展開の大きな潮流を分けるすこぶる興味深いものが見えたと、ヴィルノは判定するのである。 

≪025≫  二人の対比点は、われわれはメタ生物の中にいて世界を見るのか、それともメタ歴史の中にいて世界を見るのかという争点にある。 

≪026≫  いずれも魅力的に見えるし、時に応じてそのどちらかに加担したくもなるが、しかしヴィルノは、その両者の考え方はいずれもポストフォーディズム社会のなかでは片手落ちの見方になってしまったのではないか。それらはネオテニーと資本主義とが互いに交ざりあって相互に剥き出しになった社会の解釈には舌足らずなのではないかと、本書の議論を展開していったのだ。ネオテニーも資本主義も21世紀に向かってしだいに「構造的な早産」をあからさまにしたじゃないかというのだ。  

≪027≫  つまり言いかえれば、チョムスキーは“無数の母語”や“スーパー言語”の可能性を訴えていたけれど、それはポストフォーディズムの資本主義のなかでその大半が資本の言語として食い尽くされつつあるのではないか。またフーコーはさかんに認識論的な指標や徴候を歴史に見いだしたけれど、その大半は資本と生活の関係の中のメルクマールになってしまったではないか。おおざっぱにいえば、そう、言うのだ。 

≪028≫  この判定は大袈裟とも言えるし、対比の多様性をわざと喪失させているとも感じるが、ヴィルノが言いたいことはよくよくわかる。ようするに、いまや生物性と言語性と歴史性は、現在の資本主義に生きる人間的自然のなかでは相互化をおこしているのだから、思想のほうもチョムスキーやフーコーの守護領域から出てこないとダメだろうというのである。 

≪029≫  このあたりのことは、かつてジンメル(1369夜)やベンヤミン(908夜)が予想していたこと、すなわち世界の大都市化はいずれ「神経質な生を激化」させるか、もしくは「世界との葛藤を緩和させる擬似環境をつくりだすだろうが、それらはそのことを理解するための哲学すら失うだろうという予想にもつながるし、あるいは大塚英志が『物語消費論』で、東浩紀が『動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』(いずれも講談社現代新書)などで説明しているような、資本主義的オタクが蔓延するだろうという状況判断ともつながっていく。 

≪030≫  ポストフォーディズムは言語と欲望のコミュニケーションの多くを、みずからの資源として摂取しはじめてしまったということなのである。 

≪031≫  というわけで、本書は資本主義というものがその発生の初期から、われわれがのちに「人類学的な常数あるいは習慣」と呼んだものの大半を確実に模倣するように発展してきたことを、そしてそれが“反転”しつつあることを、かなり意外な視点から解いたものだった。 

≪032≫  その資本主義がポストフォーディズムに達してきた現在、ヴィルノはもはや歴史のパラダイムや認知のパラダイムを持ち出してもまにあわないと見たのである。 

≪033≫  ところでここには、もうひとつ注目すべきヴィルノの指摘があるので、そのことについて触れておきたい。それは、時代は「新しい動物性」に向かって進みすぎてきたということだ。そうであるのならば、これから必要なのはそういうものに代わる「ハイパー歴史」や「ハイパー認知」であって、もっと端的にはアレクサンドル・コジェーヴが提出した「スノビズム」ではないかという見方なのである。 

≪034≫  コジェーヴのことはいつか正面きって採り上げたいが、いまは簡単にすませておくと、コジェーヴはヘーゲルの『精神現象学』などを読み深めるうちに、戦後のアメリカ社会を「新しい動物性」として捉えた。どうしてそのように捉えたのか。 

≪035≫  ヘーゲルによれば、人間はもともとは生物的であるのだから、人間が人間的であるためには与えられた環境を否定する行為がつきまとう。そこにはなんらかの自然との闘争があり、人為化がおこるはずなのである。それが人間的自然というものである。 

≪036≫  ところがコジェーヴの目に映ったアメリカの消費者たちは、与えられた商品を次々に消費して、メディアが提供するモードを次々に取っ替え引っ替えて、欲求のままに生きている。これは、動物がその生息する環境や自然になじみこみ、欲求のままに生きて死ぬ姿にどこか似ている。かくてコジェーヴには、戦後アメリカがつくりだした消費社会は「新しい動物性」に律せられていると見えたのである。 

≪037≫  一方、コジェーヴは日本文明にも遭遇して、ここには自然をそのままに受容するのではなく、和歌や庭園や生け花にあらわれているように、「新しい動物性」とはまったく対極的な「新しいスノビズム」があるように思われた。与えられた商品で欲求を満たすのではなく、そこに先鋭的なフォルマリズムを加えて、新たな自然との関係の儀式化にさえとりくんでいる。それは政治や労働には無縁であるけれど、つまり歴史的実践に無縁であるけれど(日本ってそうだよね)、歴史に逆らって生み出した様式や趣向にこだわるものがある。コジェーヴはそれをヨーロッパふうに「動物性」に対する「スノビズム」とみなしたのである。 

≪038≫  コジェーヴの日本贔屓はそうとうに度が過ぎているのだが、ヴィルノはこのコジェーヴの見方にかなり加担する。もはやあからさまなネオテニーを表象するポストフォーディズム社会では、アメリカ的な動物性と日本的なスノビズムが両極でめくれあがっているのだと見たのだった。さきほども書いたように、これは大塚英志や東浩紀が日本のオタク系文化に見いだしたものにはっきりと通じるものがある。 

≪039≫  まあ、このあたりのことは、ヴィルノの言述だけではいまひとつ浮上しないことも少なからずあるので、そのうち千夜千冊していくことにする。けれどもその前に、ポストフォーディズムのこと、もっと一般的にいえば「新しい資本主義」をめぐってのさまざまな見解をしばらく案内しておきたい。 

≪040≫ 【参考情報】 

≪041≫ (1)パオロ・ヴィルノは1952年のナポリ生まれ。70年代にさまざまな社会革命運動に参加して、ローマ・ミラノ・トリノの工場労働者と共闘、1979年に投獄された。アントニオ・ネグリと同じ訴訟に巻き込まれていったのだ。 

≪042≫  ヴィルノの思想活動はもっぱら哲学、それもコミュニケーション問題に関する哲学をベースにしてきている。シナリオライティング、エディティング、ジャーナル主義にも大いに関心が深く、『マルチチュードの文法』ではそうした編集感覚が横溢していた。ぼくはまだ読んでいないが、『慣習と唯物論』『世界性』『パロルを伴うパロル』『脱出のレッスン』『機知と革新的行動』(いずれも未訳)などの著作がある。近く『論理学と人類学』という大著が刊行されるらしい。 

≪043≫ (2)本書には『鏡ニューロン、言語的否定、相互認知』という論文も収録されている。ミラーニューロンをめぐる議論をヴィルノふうに展開したもので、社会学と生物学を橋渡しするためのそれなりのヒントがひそむ。また、『いわゆる「悪」と国家批判』という論文も収録されて、こちらはカール・シュミットの政治学がかなり思いきった議論に放りこまれている。使徒パウロがテサロニケの信徒に送った第2の手紙に出てくる「カテーコン」(抑制する力)を題材に、アリストテレス(291夜)、ホッブス(944夜)、カント、ヴィトゲンシュタイン(833夜)、シュミットをめぐったもので、これまたけっこう大胆な仮説的思索になっている。ヴィルノという男、舌足らずではあるが、どうも只者じゃない。 

≪044≫ (3)ポストフォーディズムとマルチチュードの関係については、『マルチチュードの文法』(月曜社)に次のような10個のテーゼが示されている。参考にされたい。 

≪045≫  ①ポストフォーディズム(そしてマルチチュード)が登場したのは、イタリアでは一般に「1977年の運動」として記憶されている社会闘争によってである。②ポストフォーディズムはマルクスの「機械についての断章」の経験的実現である。③マルチチュードは自らのうちに労働社会の危機を映し出している。④ポストフォーディズム的マルチチュードによって、労働時間と非労働時間との質的な差異は消失する。⑤ポストフォーディズムにおいては、「労働時間」とそれよりも幅広いひとつの「生産時間」とのあいだに、ひとつの恒常的な開きがある。⑥ポストフォーディズムは、一方で、このうえなく多様な生産モデルの共存によって特徴づけられ、他方でまた本質的に同質な労働外の社会化によっても特徴づけられている。⑦ポストフォーディズムにおいては、「一般的知性」(general intellect)は固定資本と一致せず、むしろ本質的に、生きた労働の言語活動的相互行為としてその姿をあらわす。⑧ポストフォーディズム的労働力の総体は、最も未熟練とされるものも含めて、知的な労働力であり、「大衆知力」(intellettualtá di massa)になりうる。⑨マルチチュードは「プロレタリア化の理論」を埒外におく。⑩ポストフォーディズムは「資本のコミュニズム」である。 

この本を、会社経営とカジノ資本主義にうんざりしている諸君に贈りたい。

原丈人は、旧弊の社会に新たな可能性を拓き、IT産業に新たなコア技術の指針を与えている。

ここには、ポストコンピュータ技術とマイクロファイナンスと公益資本主義とが、奇跡のように組み合わさっている。

諸君も勇気をもちなさい。

世界を動かす日本人のベンチャーキャピタルはこれから大きな成果を諸君にもたらすはずなのだ。 

≪01≫  産業の中心になるはずがない金融業がわがもの顔で世界市場を席巻したことに、原丈人はずいぶん以前から警鐘を鳴らしていた。 

≪02≫  IT産業が勃興したころは、ベンチャーキャピタルは技術支援のためにこそ組み立てられていた。原さんがデフタ・パートナーズをつくったのはまさにその時期で、ぼくはその後しばらくして出会った。シリコンバレー、イスラエル、シンガポール、日本のベンチャー、さまざまな大学の研究室の成果などの世界中の新しい技術の萌芽について、何度も夜を徹して議論したのがたいそう新鮮で、おもしろく、こんな日本人がアメリカにいたのかと引き込まれた。 

≪03≫  まだシリコンバレー・エフェクトの余波のなか、日米ベンチャーがそれなりの“佳き勇気”を競いあっていた時期だった。

≪04≫  ところが、そういうことはなかなか長続きしない。経済状況と財務感覚がたちまち変質していった。なんだか化け物じみていったのだ。数字でいえば、たとえば80年代はベンチャーキャピタルの投資総額は毎年3000億円以下だったのに、それが2000年ごろには10兆円というとてつもない規模に膨れ上がっていた。脇役であるはずの金融がバブル化し、化け物じみていったのだ。 

≪05≫  それでどうなったかとえば、IT企業に必要以上の資金がどこどこ流れこみ、「新しい技術で新しい価値を作る」という当初のベンチャーらしい、多少は義侠心もまじっていた方針は次々に吹っ飛んで、実際に会社で仕事をしている者たちよりも、そこに投資している連中のほうが高いリターンを得るようになった。 

≪06≫  一言でいえばIRR(内部収益率)が大手を振ったのだ。これは投資に対してどれほどのリターンがあったかを年率で示す投資側から見る指標だが、これでは同じリターンを得るなら十年よりも五年、五年よりも一年というふうになる。一見、IRRを重視するのはリスク回避として当然のようではあるが、これを会社が実現しようとすると、たちまち短期で儲かる仕事だけをしていくという目先ばかりを追う集団になっていく。経営側のほうでもROE(株主資本利益率)をやたらに重視するようになっていった。 

≪07≫  アメリカでベンチャーキャピタリストとして活動していた原さんは、この風潮と動向に疑問をもったのである。長い時間をかけて世界中の企業とかかわって、この「まやかし」に挑戦することにした。 

≪08≫  ROEは株主の投資に対してどれだけのリターンがあったかを示す指標だ。ネットバブルがはじけた反省から急にやかましく言われるようになった指標だが、ROEを重視しすぎると株価がもっぱらROEにくっついて連動することになり、経営者は短期に株価を上げないと評価されないようになる。 

≪09≫  そのため、多くの経営陣はストックオプションの権利を付与されていたので、自分が経営トップに在任している数年のうちに株価を上げることばかりに注意が奪われていくようになった。呆れるほどの高収入になったCEOも続出した。  

≪010≫  この趨勢は、もともと短期で株価を上げたがっているファンドマネージャーたちの思惑とぴったり利害が一致した。そこでCEOたちは資産を圧縮するなどしながら財務諸表を化粧なおしして、短期的にROEを上げ、株価に結びつけるようになった。こんな悪しき流行を見ていた原さんは、研究開発にまともに取り組めば「それが売上と利益を生むには最低でも7年から10年がかかるはず」なのに、このままでは本気のベンチャーは絶対に育たないと見た。 

≪011≫  加えて、こういう風潮に「金融工学」がぴったり寄り添った。金融工学は「参入障壁のない完全競争市場」を架空の前提にした経済学をバックに組み上げた“擬似サイエンス”とでもいうもので、すべてを数式と数値であらわして、投資家たちが群がるリスクヘッジの理屈を作り上げた。 

≪012≫  むろん実体経済の価格の乱高下を平準化させるといった方面では、それなりの有効性をもつことはあるだろうけれど、これが経済一般・金融一般にあてはまると思いはじめたとたんにとんでもないことになる。 

≪013≫  なぜならヘッジファンドの理屈では、企業価値は時価総額なのである。その時価総額を決めるのがROEだから、企業価値は「1株利益÷1株当たり純資産」で決まる。しかも、これを向上させるのが当該の経営陣の至上命令になるのだから、それにはこの方式を使えば「資産を小さくすればいい」というふうになっていく。このようなロジックでは内部留保をためるより、それを配当金として分配したほうがいいということになるからだ。 

≪014≫  リスクの高い研究開発を持続的に展開する企業では、主な資金の調達方法は、そんなにない。①金融機関からの借り入れ、②現行株主立てする株主割当増資、③内部留保、の3つくらいだ。 

≪015≫  このうち①の方法は借入金が返せなくなったら研究開発が止まるのだから、ベンチャーには難しい。銀行もかんたんに応じない。②の株主割当増資は短期のリターンを望む株主が多ければ、そういう連中に資金を出してもらうことを説得するのに時間がかかる。となれば、③の内部留保こそが大事になるのだが、これがなかなか理解されないようになってしまったのだ。会社の「ダム」を作っておくことが一番大事なのに、そこにお金がまわらなくなってしまったのだ。 

≪016≫  こうして原さんはさまざまな工夫と戦略を練ることになる。たとえば、欧米の市場モデルばかりに気をとられていないで、「五年以上株式を保有する株主だけが取引できる市場」をつくりなさいというふうに。 

≪017≫  原丈人がデフタ・パートナーズを設立したのは一九八四年だった。デフタはいまは世界的な事業持株会社のグループになっていて、現在、原さんはその会長だ。日本事務所は八重洲通りのビルにあるけれど、原さんはめったにいない。のべつ世界中を駆けめぐっている。  

≪018≫  出会ったころは、シリコンバレーの片隅で気炎をあげる一介のベンチャーキャピタリストだった。しかし、早くからその名が知られていた。ぼくはいったい誰に紹介されて出会ったのかちょっと思い出せないのだが、おそらくは日経新聞の楳林さんという記者だったのではないかと憶う。 

≪019≫  そのころぼくは、稲盛和夫さんと樫尾忠雄(カシオ計算機)さんの推薦で、日経のベンチャービジネス交流センター(VBC)の纏め役のようなことをしていた。「VBC通信」というメディアの編集も引き受けて、月に一度、800人ほどのベンチャー経営者の会員のうちの200人ほどずつが集まる会合にも出ていた。これは奇妙な体験だった。何百枚もの名刺が交換される異業種交流会というものも、そのとき初めて観察した。 

≪020≫  それまで企業経営者群などと出会ったこともないぼくが、なぜ日経からそんな大それたことを頼まれたのかというと、1985年の筑波科学博で「テクノコスモス」というベンチャーパビリオンを演出したとき、その参加企業だった京セラの稲盛さんに気にいられたせいだと思う。気にいられたのは、きっと量子力学と意識の関係の話をやたらに詳しくしたのと、稲盛さんの意向に適う科学博のパビリオン演出をしたからであって、それ以上でもそれ以下でもない。 

≪021≫  それはともかく、当時の日経は「スモールビジネス」とか「地域経済」という紙面をもっていたのだが、それを一挙に「ベンチャービジネス」というタイトルに変更するにあたって、VBCを立ち上げると決め、そのために稲盛さんに相談したらしい。 

≪022≫  稲盛さんに相談したのは当時の日経の編集局長だった樋口剛さんで、その樋口さんがたまたまぼくの九段高校時代の先輩だった。そんなつながりで日経のベンチャー担当記者が原さんをぼくに紹介したのだろう。 

≪023≫  原さんは体は小さいが勇気が漲っていて、太いものに巻かれるのが大嫌いである。当然に負けん気も強い。学生時代からの考古学の学究者でもあったから、たいていの歴史にめっぽう詳しい。総じて探求心が抜群に旺盛である。 

≪024≫  そんな気質の持ち主だったせいか、日経の仲人のせいだったのか、最初から互いに妙に気が合った。かなりいろいろなことを話した。やっとパソコンが世に出回りはじめた時期のことで、原さんはそのころからつねに斬新きわまりない経済社会についての発想と、それにもとづく才能と技術に関する実験と体験を重視した。「知的工業」とか「知的工業製品」というコンセプトを当時から打ち出していた。 

≪025≫  ぼくにもさかんに「松岡さんのような考え方に資金が投入されるべきだよね」と言ってくれた。「へえ、考え方に対しても投資ってあるんですか」と無知を承知で訊いてみたところ、破顔一笑、「当然でしょう。ベンチャーは考え方から始まるんですから。ファウンダーの知能にこそ投資すべきなんです」と言われてしまった。そして「担保をとらないと資金を融通しない連中は、たんなる金儲け屋ですよ」とも笑った。 

≪026≫  金融機関にまったく疎かったぼくは、これは世の中には知られていない“秘密の花園”の話かと思ったほどだ。 

≪027≫  しかし原さんは本気だったのである。実際にもNTTの株の売却益で組まれた先端技術基盤センターから資金を引き出して、ぼくの編集工学に役立てようとされたこともあった。もっともこれは書類が不備だったため審査であえなくはねられた。そのときも原さんはこんなことを言った。「日本はね、まだリスクキャピタルのことがわかっていないし、アーリーアダプターがいませんねえ」。 

≪028≫  アーリーアダプターというのは、アントレプレナー(発見型起業者)がつくった新しいコンセプトにもとづく製品やプロジェクトを他に先駆けて買ってくれる人のことをいう。原さん自身がアーリーアダプターなのである。 

≪029≫  その原さんが『21世紀の国富論』(平凡社)を書いたときは万歳だった。 

≪030≫  この本は本書の前身にあたる本である。冒頭、2000年秋にアメリカでネットバブルが崩壊したのは、B2BやB2Cのビジネスモデルを支えるのに必要な技術が未完成であったにもかかわらず、新たに産業をおこそうと暴走したせいだった、というところから記述が始まる。 

≪031≫  そのあと、時価会計主義と減損会計の問題点、ベンチャーキャピタルがただの金融業になってしまった理由、1989年のベルリンの壁崩壊をもって「資本主義の勝利」だなどと思いこんだ市場主義者の限界、ビジネススクールの弊害、株主至上観の決定的誤り、ヘッジファンドが価格を歪める力をもちすぎた原因などを次々に血祭りに上げ、そのうえで、公開企業はストックオプションを廃止するべきだ、ヘッジファンドの有害になるファクターを除去する新たな競争のルールを作るべきだ、株式交換を用いた三角合併を食い止めるべきだ、リスクキャピタルには税制優遇措置を組むべきだ、といった提言を連打した一冊になっている。 

≪032≫  しかしここまではイントロだったのである。ここから先に書いてあったことは、本書にも重ねて強調されているところでもあるのだが、「公益資本主義」の提案となって、とびきりに新しい。注目すべきは次のような点にある。 

≪033≫  いま多くのIT産業はサービス化に向かい、アマゾン、グーグル、楽天のように“消費者化”している。それでは知的工業製品を下敷きにした新たな産業社会はつくれない。いつまでも現在のコンピュータ主義が続くとは考えないほうがいい。  

≪034≫  現在のパソコン・ネットワーク社会は、P2P(Peer to Peer=ピアツーピア)のクライアント・サーバ方式でできている。ネットワークにつながっている成員のすべてがサーバとクライアントの両方の役割を果たすように、P2Pが成立するようにつくられている。これが現在のインターネット技術の基礎である。 

≪035≫  この基礎にもとづくコミュニケーションを可能にしているのは、オラクルに代表されるリレーショナル・データベースだ。RDBと略す。エクセルの表のようなテーブルの集合をつくっておいて、それらのテーブル間の関係を定義することでデータを管理するDBだ。これにはけっこう複雑な処理が必要で、少しでもデータ構造を変えようとすると、たいへんなコストがかかる(だからオラクルは儲かっている)。RDBは構造に柔軟性がないのだ。オラクルも、インフォミックスも、サイベースも硬い。その後に考案されたデータウェアハウスも同様だ。 

≪036≫  では、どう考えればいいか。ひとつは、このRDBに代わるものを技術開発すべきなのである。候補としてオブジェクト指向データベースがあげられるが、これは早くから開発されてきたにもかかわらず、市場に受け入れられなかった。パフォーマンスが低かったのと、デファクトスタンダードになっていたRDBとの互換性がなかったせいだった。最近ではXMLとの絡みで少しは改善されている。XMLは拡張可能マークアップ言語のことをいう。 

≪037≫  もうひとつは、ここが原さんの大胆な提案になるのだが、現在のパソコンを次世代のものにしてしまうということである。 

≪038≫  現在のパソコンを支えている3つの技術は、マイクロプロセッサ(インテルが代表)、オペレーティングシステム(マイクロソフトが代表)、クライアント・サーバ型リレーショナル・データベース(オラクルが代表)の3つで、これが三種の神器になっている。   

≪039≫  このようなパソコンは相互コミュニケーションのために発想されたのではなく、計算と情報処理を高速にパーソナルにできるようにして、つくられてきた。だから本気で自分で情報や知識を編集しようとか、相互の編集環境をつくろうとすると、かなりの工夫を加えてカスタマイズしなければならない。ハードとソフトが分断されているためだ。 

≪040≫  のみならず、このようなパソコン・ネットワーク産業では、ハードは粗利率が低いため、キャピタリストからすると投資がしにくくなっている。そのため勢い、パソコンサービス型の産業のほうに金融の目が向いてきた。三種の神器にもとづく産業は、市場を偏ったものにもしてきたのである。日本はとくにここに追随した。 

≪041≫  これに対して、原さんは「PUC」を構想する。「パーベイシブ・ユビキタス・コミュニケーション」だ。コミュニケーションのためのシステムである。これは「ハードとソフトを分けないポストコンピュータ」の未来像である。原さんのデフタ・パートナーズは一九九六年から、このPUCに特化した投資をおこなっている。 

≪042≫  PUCを産業の基盤に乗せるには、当面、6つの新技術の開発が必要とされる。①マイクロプロセッサに代わる次世代プロセッサ、②組み込み型ソフトウェア、③新たなP2Pネットワーク技術、④ネットワーク・セキュリティ技術、⑤ソフトウェア・スイッチング技術、⑥デジタル・ディスプレー・コントローラ。  

≪043≫  ①は計算ではなくコミュニケーションに特化したDSPチップ(デジタル信号処理プロセッサ)、②はハードと統合されたソフトウェアで、ウィンドウズのような大きなものではなくずっと小さくなるもの、③は新たに考案されつつある「インデックス・ファブリック理論」にもとづいて開発される、④はそのためのセキリュティ技術、⑤は中継用交換機の機能をIP網とその上のソフトウェア処理で代替するもの、⑥は動画像を処理する半導体技術によるデジタル・ディスプレーである。  

≪044≫  このうちの③の「インデックス・ファブリック理論」が独創的で、ぼくからするとすこぶる編集工学的なのである。 

≪045≫  コンピュータ処理のうえで、属性が固定的なデータを「ストラクチャード・データ」という。これを高速に処理するのがRDBである。 

≪046≫  属性の下位の分類がいくつもの階層構造をもつデータ群を「セミストラクチャード・データ」という。RDBはこの処理がからっきしヘタくそだ。しかし、われわれの知性や読書体験はこの傾向をこそもっている。たとえば1000冊の本の目次群はセミストラクチャード・データ群になっている。固定的に構造的なのではなく、半構造的で、柔構造的なのである。なぜなら「意味」という属性を扱うからだ。  

≪047≫  さらに属性がうまく定義できないのに、実際にはすばらしい機能を発揮しているデータ構造をもっているものがある。たとえば遺伝子のDNA配列やタンパク質のアミノ酸構造である。脳もそうである。いや、生命システムの多くの機能がそうなっている。こういうデータ群を「アンストラクチャード・データ」という。これにはRDBはまったく歯が立たない。 

≪048≫  これまで、バイオ新薬の発見技術、コンテンツの編集的獲得プロセス、画像コンテンツの検索、理想的なカーナビ、安全かつ使い勝手のいいeコマース(電子決済システム)技術、個人の体調に合ったテーラーメードの薬の確定、原産地から流通プロセスまでを知るトレーサビリティ(追跡)技術、本人の特性を理解する秘書技術……などなどといったものは、以上のデータ属性をさまざまに組み合わせる必要があり、なかなか一筋縄ではいかなかった。 

≪049≫  これを解決しようというのが③のための「インデックス・ファブリック技術」というものだ。略して「IFX」という。 

≪050≫  原さんはこの発想のための理論に、イスラエルのテルアビブで出会った。劇的だったようだ。ぼくはその直後の興奮を、原さんからいろいろ聞いたことがある。IFX理論はその後、2001年9月のVLDB(超大型データベース)学会でも発表された。独自のツリー構造でインデックス(目次・目録)を構成し、これを柔らかい半構造データにするための理論である。 

≪051≫  IFXがどのようになっていくかは、いまのところ「おたのしみに」と言っておくのがいいだろう。ぼくはそもそも編集工学がもっているエンベッド(組み合わせ可能)な技能観ときわめて相性がよさそうなので、実はある計画との擦り合わせを考えたいと思っているのだが、それも今夜は「おたのしみに」と言うしかない。ちなみにエンベッドな技能観とは、「アソシエーションによる編集技術」のことをいう。 

≪052≫  ともかくもこのように、原さんはポストコンピュータ時代を想定して、そのコア技術になりうるべきものを世界の技術から組み合わせ、そこに投資しようとしている。株価を維持したり上げようとするだけの企業や企業合併などには目もくれていないのだ。 

≪053≫  一方、本書には「新しい資本主義」のために「公益資本主義」という方向が必要になっているという提案が、いくつもなされている。 

≪054≫  現在、世界にはLDCとみなされている国々がたくさんある。後発発展途上国のことだ。LDCは一人あたりGNI(国民総所得)が750ドル未満、50パーセント以下の識字率、高い幼児死亡率、経済的脃弱性などに喘いでいる。国連の判断では四九ヵ国にのぼる。 

≪055≫  原さんは、これらの根底に「教育」と「医療」の問題があると見た。この二つの分野に最新テクノロジーをエンベッドしたシステムを考えたらいいのではないか。こうした国々こそが、二一世紀の最も発達したテクノロジーを導入できるようにするべきだというのだ。 

≪056≫  そこで、バングラデシュの最大のNGOであるBRAC(バングラデシュ農村向上委員会)と組んで、農村部の貧困層のためのマイクロクレジットを組み合わせた教育、技術訓練、保険プログラムを発進させるためのbracNetという会社を立ち上げた(BRACが40パーセント、デフタが60パーセントの出資)。2005年の秋だ。まずワイヤレスブロードバンドのインフラ整備から始め、2008年にはその成果をいかして固定電話会社を吸収した。 

≪057≫  この会社の特徴は、利益の40パーセントを教育と医療に使えるような仕組みになっていることにある。おかげで収益の40パーセントを得るBRACは、おまけにNGOなので非課税部分が大きく、これを教育や医療の活動に充てられるようになったのである。 

≪058≫  LDCは貧困とともに飢餓にも喘いでいる。ここにはまさに「栄養」が必要だ。原さんは「スピルリナ」という高タンパクの藻を原料とした栄養供給システムを提案した。スピルリナをLDC各国に普及させるためのスキームを国連とともにつくり、原さん自身が国際機関の特命全権大使となって、スピルリナ・プロジェクトを推進していった。日本でもコクヨ、ロート製薬、大日本インキ、三井不動産などが協賛し、すでにザンビア、ボツワナ、モザンビークなどでその試みを開始した。 

≪059≫  これらは、株主資本主義や時価会計資本主義に代わる公益資本主義への第一歩の試みである。夢物語なのではない。飢餓とコア技術とマイクロファイナンスとは、決して別々のものではなかったのである。 

≪060≫  以上、ここに紹介したのは、原さんがとりくんでいる現状のごく一部にすぎない。話してみるとすぐにわかるが、この人は真剣で斬新な話題でありさえすれば、どんな領域のことでも猛烈な好奇心によって対応する人なのだ。 

≪061≫  よくぞこれだけ多領域の仕事をこなしているなと感心するけれど、しかもよくぞ毎日のように世界を動いているなと思うけれど(ケータイに電話を入れると、たいていトランジットしている)、最近思うのは、そこには「日本」への強い愛着があるということだ。 

≪062≫  今年、日経ホールでの経済フォーラム(日本と東アジアの未来を考える)に呼んで話をしてもらったときは、アジアの新たな産業を日本の資金と日本語によっておこすべきで、そのためにはアジア人に日本語をおぼえてもらうべきだと言っていた。隣りにいたローソンの新浪剛史社長が、「そういえば今年のローソンの売上ナンバーワン店のスタッフは中国人の女性たちでした」と話を合わせていた。原さんが言いたかったのは、従業員にアジア人がふえるといいという話ではない。日本流がとびかうアジア産業が必要になっているということだ。 

若くしてハーバード大学大学院で

アメリカ経済学の最前線を学び、

細川内閣と小渕内閣では

経済改革の急先鋒として、規制撤廃を叫んでいた著者は、

やがて新自由主義と市場原理主義の暴走に、

ついに転向を決意して、反旗をひるがえすようになった。

なぜ中谷巌は転向したのか。

なぜ資本主義はおかしくなったのか。

この二つを自身の体験をもとにふりかえって、

本書は希有の自己懺悔と告発の書になりえた。 

≪01≫  「今にして振り返れば、当時の私はグローバル資本主義や市場至上主義の価値をあまりにもナイーブに信じていた。そして、日本の既得権益の構造、政・官・業の癒着構造を徹底的に壊し、日本経済を欧米流のグローバル・スタンダードに合わせることこそが、日本経済を活性化する処方箋だと信じて疑わなかった」。 

≪02≫  「だが、その後におこなわれた構造改革と、それに伴って急速に普及した新自由主義的な思想の跋扈、さらにはアメリカ型の市場の原理の導入によって、ここまで日本の社会がアメリカの社会を追いかけるように、さまざまな副作用や問題を抱えることになるとは、予想ができなかった」。 

≪03≫  中谷さんは一橋大学を出たあと日産自動車に勤めていたのだが、27歳のときにハーバード大学の大学院の経済学博士課程に飛び出していった。1969年のことだから、かなり早い時期にアメリカ型のエコノミストの群れに身を投じたといっていい。指導教官はケネス・アロー。そのころすでに“経済理論の神様”と称され、すぐにノーベル賞を受賞した(1972)。 

≪04≫  アメリカにおける経済学や経営学をめぐる学業の環境はすばらしい。セオリー・ビルディングの方法を教えこむのも徹底している。このことはぼくも野中郁次郎さんから早々に聞いた。2年間でマクロ経済学・ミクロ経済学・経済史・計量経済学がマスターできる。中谷さんはアメリカの経済学と経済主義に大いにかぶれた。その目で日本の現状を見ると、既得権によってがんじがらめになった閉鎖社会に見えた。 

≪05≫  当時のアメリカ経済学は、サミュエルソンの理論が中心になった「新古典派総合」とよばれるもので、マーケット・メカニズムを重視するマネタリストの立場と、政府の介入を適度に許すケインズ経済学とを適宜組み合わせるもの、悪くいえば折衷主義、良くいえば穏健な経済学である。ところがその後、アメリカ経済学は政府の市場介入を全面的に否定する市場原理主義のほうに傾いて、「合理的期待形成学派」とよばれる急進派が主流を占めていった。 

≪06≫  が、そういうことが見えてくるのはまだまだ先のこと、中谷さんは1974年に帰国すると、大阪大学や一橋大学の教壇に立ち、マーケット・メカニズムのすばらしさを学生たちに教えるようになった。 

≪07≫ やがて中谷さんは「改革派」の急先鋒として知られるようになり、とくに1993年に自民党政権が倒れて細川内閣が誕生したときは“おカミからのお呼び”の声がかかるようになる。首相の諮問委員会の「経済改革研究会」(いゆる平岩委員会)の委員になって、経済改革をすすめる提言をつくってほしいというのである。中谷さんは水を得た魚のように「規制撤廃」をまくしたてた。規制にしがみつく官庁や業界との全面対決も辞さなかった。 

≪08≫  細川内閣は佐川急便1億円献金事件の問題と「福祉税」という名の消費税導入の混乱で、あっけなく瓦解した。わずか8カ月での総辞職。それでも中谷さんに対する期待はおさまらない。小渕内閣が誕生した1998年には、高校の先輩でもある堺屋太一から「経済戦略会議」のメンバーになれという電話がかかってきた。そのころの堺屋は小渕内閣の経済担当大臣である。 

≪09≫  議長代理になった中谷さんは、200項目をこえる改革提案をまとめる。竹中平蔵もメンバーに入っていた。ところが、小渕首相は急逝。経済改革は短命の森内閣をへて、政権は小泉内閣にバトンタッチされることになった。ヘンジンの登場だ。姜尚中(956夜)は「国民なきナショナリズム」をふりまいたと言っている。新たな経済政策のリーダーのほうは竹中平蔵になった。 

≪010≫  そのあとの出来事は言うまでもない。市場原理主義はグローバリズムの美名のもとに日本を覆い、不良債権問題に大ナタがふるわれ、郵政民営化が着手された。いわゆる「構造改革」の進展である。 中谷さんは首相官邸に行くことがなくなり、代わって1999年にソニーの社外取締役に誘われた。このニュースも当時の経済界の話題になり、社外取締役ブームの火付けになった。それをきっかけに一橋大学を辞めた。その後は取締役会の議長すら務めた。 

≪011≫  しかし実業の社会に身を投じてみると、すでに日本企業や産業界のそこかしこに過剰な金融主義と過度の自己保身主義が蔓延しつつあること、コーポレート・ガバナンスと言われている背景ではたんに経営陣の高額報酬がアメリカに追随しておこなわれようとしていたこと、その裏では派遣社員などによる労働市場の薄っぺらな補強ばかりが進行していたことなど、どうもおかしなことばかりがおこっている。そういうことが見えてきた。

≪012≫  副作用もおこっていた。不良債権の掃除をしたはずの経済は不安定になるばかりだし、格差は拡大するばかり、環境破壊にも歯止めがかからない。「構造改革なくして成長なし」というスローガンはあまりにも空しいものだった。 こうして、中谷さんはじょじょに自身の「転向」を覚悟するようになっていく。だから本書は懴悔の書であって、新たな展望の書なのである。 

≪013≫  グローバル資本主義という言葉が一般化してきたのは、1991年のソ連崩壊からだった。それまでは米ソの対立、資本主義圏と社会主義圏の対立、軍事の対立、民族の対立があり、世界中のどこにもグローバルで一様なものなどなかった。 

≪014≫  それがソ連崩壊と、それに続くインターネットの波及とが重なって、まずは情報のグローバル化がおこり、ついで金融のグローバル化が進んでいった。ここで圧倒的に有利になったのがアメリカを頂点とする先進資本主義国で、市場をどのようにでもコントロールできると思うようになっていく。市場原理万能主義の麻薬が効きはじめたのだ。そんなことは傲慢きわまりないことだったけれど、しかしレーガノミックス以降のアメリカは東海岸ウォールストリートの金融業界と西海岸シリコンバレーのIT業界を両輪に、グローバライゼーションを邁進する。とくに1993年からの進軍は凄まじい。日本もITバブルに向かって急進しつづけていた。 

≪015≫  金融とITには著しい共通の特色がある。二つとも、グローバル化にはもってこいの“身軽な産業”であるということだ。重さがないということだ。国境にも縛られることなく各地に進出して、“身重な製造業”を抜きさることができた。 

≪016≫  そこへマネタリズムによる異常化学反応がおこった。金融とITとの二つがすぐさまがっちり結びつき、数々の新たな金融情報商品がつくられ、その多くは安い金利で資金を何倍にも膨張させることができるレバレッジ経営の柱となっていったのである。ここにMBAたちによる金融工学が加わり、ハイエクなどの思想を極端化したフリードマンらによる新自由主義思想が加わった(1275夜『暴走する資本主義』、1277夜『変貌する民主主義』)。 

≪017≫  これで何がおこったかというと、デリバティブをはじめとした金融先物証券によるマネーゲームが金融機関と投資家たちを躍らせたのである。カネを未来の時間にくっつけて証券化し、これを先物として売り買いすることができるようになったのだ。この時点ではまだ日本の六本木ヒルズ族は登場していないけれど、堀江貴文や村上世彰たちは、この金融とITの合体に早くから強い関心をもっていた。 しかし、そこにはアメリカという国の特別な事情も絡んでいたはずなのである。そこを継承しすぎるのは甚だ危険だったのだ。 

≪018≫  しかし、そこにはアメリカという国の特別な事情も絡んでいたはずなのである。そこを継承しすぎるのは甚だ危険だったのだ。 

≪019≫  戦後のアメリカという国は、ドイツと日本という“ファシズム国”に勝利することによって「自由を覇権とした国家」として君臨してきた。ただしそのころは、まだソ連と共産圏というもう一つの体制があった。そこで両国は、核開発を前提に「冷戦」という巨費と巨悪を駆使した驚くべきゲームを開始した。 

≪020≫  冷戦ゲームはケネディとフルシチョフのキューバ危機に象徴されるように、ほぼ一進一退を繰り返すのだが、その後、アメリカはベトナム戦争にのめりこみ、泥沼のような体験と軍事費のむだな投入に走った。それとともにこの時期は、アメリカの産業界にも大きな変質がおこっていた。品質の低下と消費主義の台頭である。 

≪021≫  そもそもアメリカ経済は規模が大きいこともあって、輸出依存型ではなくて国内経済充足型に動いてきた。したがって70年代までは産業の中心は自動車などの製造業であり、国際展開するといってもせいぜい海外に製造拠点を移してそれぞれの国で実績を上げるという方式にとどまっていた。 

≪022≫  それが80年代になると自動車産業や家電産業が日本やドイツに追いつかれ、競争力を失っていった。そこで日本に対する経済摩擦をほとんど故意ともいえるやりかたで引き起こし、日本市場をアンフェアであると断定するようになっていった。ジャパン・バッシングである。 

≪023≫  ところが、そこにソ連の崩壊がやってきた。東欧社会主義にピリオドが打たれた。こうしてアメリカは“一極”だけで世界の覇権をほしいままにする時代を迎えた。「自由」も「民主主義」も、「歴史」さえ、アメリカが独占することになったのである。が、そこに落とし穴もあった。楽観も傲慢もあった。ユーロ経済が着々と準備を進めていたし、シンガポールや中国や韓国などの新たなアジア資本主義が台頭しつつあったし、北欧も新たな転換を計画しつつあった。おまけにアメリカ経済が「双子の赤字」をかかえたままだった。 

≪024≫  かくて90年代に近付くと、アメリカは自国経済が単独で賄えないことを自覚していくようになる。そこで、産業の中心をデトロイトなどの中西部から「東の金融と西のIT」にシフトさせ、ここにニューエコノミーで乗り切っていくという新たなビジネスモデルが台頭してきたのだった。これが、ゴールドマンサックス、モルガンスタンレーなどの投資銀行が提案した「レバレッジ経営による金融立国型」のビジネスモデルである。 

≪025≫  このアメリカの恐ろしい転換には、もともとアメリカがドルという基軸通貨をもっていること、そのドルを発行することによってシニョレッジ(Seignorage)を稼いでいるという大きなアドバンテージが動いていた。 

≪026≫  シニョレッジとは貨幣の発行者が得る利益のことをいう。つまりドルをばらまけば、アメリカは世界経済をリードできるという圧倒的なアドバンテージをもっていた。 

≪027≫  どうやってドルをばらまくかというと、ホワイトハウスが拡張的な経済政策をやって、経常収支の赤字額を拡大すればよい。 そうすると、赤字相当分のドルは海外に流出し、アメリカはシニョレッジを稼ぐことができる。流出したドルは海外取引の基軸通貨として利用されるので、世界中の経済はそれによって回っていく。 

≪028≫  ただし、アメリカがシニョレッジにのみ走れば、ドルが過剰流出してドルの価値が低下する。そのように判断した投資家たちはドルを手放すというふうになる。そこでFRBなどがつねに適切な通貨政策をとることになるのだが、むろん適確な通貨政策がいつもとれるとはかぎらない。そこへやってきたのがサブプライム・ローンの焦げ付きと通貨政策の失敗だったわけである。 

≪029≫  資本主義は社会的な問題解決を追求するために生まれてきたシステムのひとつである。ただしこのシステムには生活の充足や文化の維持などを解決する方法はまったく入っていない。資本主義は水力発電と同様に、「力」の高低差や差異化をもって動いてきた経済システムのことをいう。 

≪030≫  その「力」の差は資本主義では、もっぱら「価格」(プライシング)にあらわれる。だから価格がついているのは商品だけではない。労働にも価格がつく。それが「賃金」というものである。むろん土地にも価格がついた。 

≪031≫  いやいや、商品や労働や土地や才能に価格がついているだけではなかった。お金自体にも価格がついた。ヒト・モノ・カネ・情報とよくいうけれど、まさにカネにも価格がついた。それゆえ「利子」というものが生まれた。そのため、経済力がある国や地域ではお金のもつ価値は大きく、利子率も高くなるから、資本は利子の高いほうに流れていき、一方、不況の国や地域では利子率が低く、それに応じて利潤も低くなる。 

≪032≫  やがて、カネにカネがまつわりついてくるというしくみに着目する考え方や行動が目立ってきた。これがグローバル資本主義のハシリというもので、利子率の低い国で資金を調達し、利子率の高い景気が上向きの国に投資していくことでまわっていくことを発見した。資本主義経済は一部の公共財(水や空気など)をのぞいて、ほとんどあらゆるものに価格がついている。したがって、グローバル資本はこれらの“値札”を徹底的に比較して、どこに資本が動いていけば投資者が有利になるかを決めるのである。 

≪033≫  それでもかつては、政治的もしくは技術上の制約があって、カネ(資本・利子)は国境を超えるのに限界があった。障害もあった。とくに東西冷戦体制のもとでは、資本主義が活動できるのは西側世界だけだったため、このような体制のなかでは、マルクス経済学による国家管理の経済と市場を活用する西側資本主義とは、相互に対立したままで、西側でも過度な搾取や収奪をするよりも適切な再配分をおこなう資本主義が慣例になっていた。 

≪034≫  けれども冷戦の終結をきっかけに、東側諸国が一挙にグローバル・マーケットに入りこんでくることになってしまった。それが幸か不幸か、IT革命の波及とほぼ同時期だったのである。これで、ヒト・モノ・カネの「高低差」がしだいに地球規模に広がり、グローバル資本に有利なシナリオが動くようになった。それでどうなったのか。資本主義は冷戦期のものとはすっかり様相を変え、つねに「高低差」を求めるだけのグローバル資本主義に驀進していった。これを促進したのが新自由主義の経済理論だったのである。 

≪035≫  近代経済学はもともと市場における「完全競争」を前提にしている。何をもって完全競争というかというと、①経済主体の多数性、②財の同質性(一物一価)、③情報の完全性、④企業の参入退出の自由性、という4つの条件が満足されていることをいう。 

≪036≫  この4つの条件がそこそこ満足されていれば、仮に景気の変動や物価の変動などがあったとしても、結局はマーケット・メカニズムがはたらいて(つまりアダム・スミスの「見えざる手」がはたらいて)、需要と供給のバランスがうまくとれていく。そうすれば資源の無駄遣いのない効率的な配分が進んでいく。そういう見方である。 

≪037≫  むろん、こんな理想的な条件が完全に満足されていることはありえない。経済学者たちもそのことは十分に承知していた。そのため、自由競争によってマーケット・メカニズムがはたらいても、なお「国民の経済」に歪みや偏りがおこるようであれば、つまりは「市場の失敗」がおこるようであれば、税金や補助金や社会保障給付などによって、所得の再配分を政府がやればよい。こういう考え方が出てきた。いわゆる「厚生経済学」である。 わかりやすくいえば、金持ちから税金をとって貧しい連中にそのカネを再配分することを政府がしていきなさいという考え方だ。 

≪038≫  ところが、IT革命が普及したことによって、ほぼこの4つの条件に近い状態が市場に出現しているとみなしたのが新自由主義経済学の理論なのである。新自由主義は「完全競争」こそが「自由競争」で、そこではヒト・モノ・カネは必ずやベスト・レスポンスをもって再配分されるはずだから、政府は所得や富のシステムにはできるかぎり関与せずに「小さな政府」であろうとすることを守り、むしろ減税政策のほうに加担すべきだと説いたのだ。 この主張は厚生経済学を前提にして、さらにその不備を改めていったものなのだが、ここにいくつかのトリックがひそんでいた。麻薬も含まれていた。 

≪042≫  経済人類学を提唱をしたカール・ポランニー(151夜)が、資本主義経済を「悪魔の挽き臼」だと譬えたことは有名である。ポランニーが『大転換』のなかで「悪魔の挽き臼」と名指ししたのは、近代になって市場経済が資本主義に包みこまれていくことになったとき、交易の対象になるべきではないものまで「価格」をつけたことに対してだった。 

≪043≫  一言でいえば、「労働」と「土地」と「貨幣」に価格をつけた。これが資本主義を「悪魔の挽き臼」とし、その後の市場経済をおかしくさせた原因だというのだ。これらは価格取引の対象にしてはいけない“禁断の商品”だったのである。仮に土地や労働に不動産価格や賃金などの価格がついたとしても、それを市場で取引するようになったため、そこに根本的な矛盾が引きおこされたのだと見た。 

≪044≫  こういうふうになったのは産業革命以降のことだとポランニーは考えた。18世紀のイギリスでは、ロンドンやリバプールやマンチェスターで技術革新と近代工業が生まれたわけだが、それは農村部から多くの労働者を導入することによって成り立った。かれらはエンクロージャー(土地の囲い込み)によって土地を奪われ、そのかわり身ひとつで近代工場になだれこんでくる。土地を離れた労働者は現金収入によって生活をする非熟練労働者になっていく。チャールズ・ディケンズ(407夜)が描いた『オリヴァー・ツイスト』はその赤裸々な姿だった。 

≪045≫  これはその後の産業社会の基本となっていった“原図”である。今日のビジネス社会もサラリーマン社会も、すべてこの“原図”の上に乗っている。しかしポランニーは、このような産業社会の成立こそが悪しき「大転換」(great transformation)だとみなしたのである。ポランニーはそこからつねに「失業」と「貧困」がおこると考えた。社会はそれに苦悩するとかんがえた。 

≪046≫  こうしたポランニーの考え方には、商品というものは、「価格がついて売れたときには、それと同じものが商品として再生産されるべきだ」という原則がある。 

≪047≫  労働や土地にはそのような同一性や同様性がない。人生は一回きりの時間なのであって、再生産は不可能であり、土地も売れるからといってその一回性をリピートできるものではない。 

≪048≫  かつて土地には徴税権がかけられていたにすぎなかった。フランスで土地が売買可能になったのはナポレオンが制定した近代民法によるもので、それによって初めて土地は「個人の私有財産」になった。日本でも明治6年の地租改正によって物納が金納に変わり、それとともに土地の所有者の名が公開されて、土地の私有が公然となっていった。 

≪049≫  そういう労働や土地を売り買いできるようにして、リピートできるようにしていくのは「悪魔の挽き臼」のしわざだというのだ。本書ではふれられていないけれど、この指摘はマルクスとエンゲンルスが分析したものとも一致する。 

≪050≫  近代資本主義が労働と土地を売買自由にしていったのは、一言でいうなら、資源の「転換」と「開発」によって経済社会を活性化させるという新たな“神話”が確立したからである。 

≪051≫  しかしながら、この“神話”によって何がおこったかといえば、伝統社会が解体されていった。旧来の“神話”は解体され、土地や習慣に結びついた文化が分断されていった。ポランニーはそこに、資本主義が市場経済を覆いすぎた問題があると見たわけである。ポランニーは本来は「社会が経済を覆う」のであって、「経済が社会を覆うのではない」と見たわけだ。経済が社会に埋めこめなくなってしまったのは、これは近代の傲慢だというのだ。 

≪052≫  ポランニーはそこまで指摘しなかったが、貨幣(カネ)を売り買いの取引にしてしまったことも、まさに「悪魔の挽き臼」のなせるしわざだった。では、なぜこんなにもカネ自体が暴走するようになったのか。 

≪053≫  資本主義の初期においては、貨幣は金本位制度に裏打ちされていた。手持ちの紙幣を銀行にもっていけば、それに相当する価値の金(きん)を入手できたのである。むろん金(きん)とて土地と同様に自然界のものであり、これまた限られた資源であるのだから、これを交換できるようにすることには本来矛盾はあるのだが、それでもまだしも金本位制が動いていれば、貨幣の暴走に歯止めをかけることにはなっていた。 

≪054≫  それが各国で金本位制が中止されることになったのは、第一次世界大戦がその大きな転換点になったのだが、各国で膨張した戦費を支払ううえで金(きん)との兌換を維持することが不可能になったからだった。そこヘ1929年のアメリカ発の大恐慌がやってきて、金本位制は二度と戻らなくなった。 

≪055≫  そこでいったんは金本位制に代わるIMF体制(国際通貨基金制度)が導入された。けれども1971年にアメリカが金(きん)との兌換を停止すると、これをきっかけに各国が自由に貨幣を発行できる「管理通貨制度」が生まれ、貨幣はもはやどんな裏付けもないものとなり、この無目的な性格を活用したマネーゲームが始まり、これを金融工学が理論化するに至ったのだった。 

≪056≫  いささか中谷さんの議論を広げて紹介しすぎたかもしれないが、本書はだいたいは以上のような視点をつかって、中谷さん自身が“盲信”していた市場原理万能主義の“神話”の突き崩す試みをしている。 

≪057≫  ほかに、ブータンやキューバやデンマークの例、キリスト教型一神教がもっている弊害についての説明、「日本という方法」をめぐる示唆、日本企業のデザイン・インなどの工夫、貧困や格差に対する対策、なかでも「還付金付き消費税」のアイディアなども案内されているのだが、本書の底辺を流れる懴悔力や告発力にくらべると、それほど強調される「質感」にはなっていない。その気分、なんとなくわかる。 

≪058≫  もっとも「還付金付き消費税」については、けっこうな自信があるようで、どうしたら日本の格差社会や貧困波及を改善できるかということが述べられている。 

≪059≫   このアイディアは、デンマーク、スウェーデン、フィンランドといった国々が「国民負担率」(税負担と社会保険料負担の合計)が70パーセント近くになっているにもかかわらず、北欧諸国の国民がこれを支持しているという実情にヒントを得たもので、国民に収入の7割も国に預ける北欧諸国のようにはできないものの、なんらかの日本的な工夫があってもいいのではないという見方になっている。 ごくおおざっぱなところだけを紹介するが、ここには中谷さんの「告発から提案へ」という姿勢があらわれているようだ。 

≪060≫  実はかつて、日本の所得税(国税)も最大75パーセントになっていたことがあった。それがいまでは所得税の最高税率は37パーセントで、地方税を併せても50パーセントをこえない。 こんなふうになったのは、レーガノミックスを真似て、高額所得者に対する税率をうんと下げてしまったからである。これは、稼いだ連中から税金を巻き上げて貧しい者に再配分をするのは、市場経済のモラルを破壊し、自助努力や自己責任の力を低下させるものだという新自由主義のイデオロギーが日本の経済政策にかぶってきたからだった。 

≪061≫  しかしそのせいで、いまや日本は「派遣切り」どころか貧富の格差をますます大きく広げつつある社会をつくってしまった。そこで何がおこっているかといえば、社会のつながりや将来の展望がきわめて不透明になってきた。 

≪062≫  そこで中谷さんは、基礎年金の財源を税方式に徹底し、そこに消費税率を上げた福祉目的税を確立するべきだと言う。現在の年金制度では、不安な雇用環境にある人々は保険料を完納することは望めない。完納できなければ、かれらは将来に年金を受け取れない。それよりも基礎年金の財源を消費税に転換すれば、保険料の納入や不払いに関係なく、すべての人々に基礎年金が払えるようになる。むろん消費税は上がるけれど、そのぶん保険料を払わなくてすむ。  

≪063≫ 現状の社会保険庁のていたらくを見ればわかるように、年金制度の維持にはあまりに無駄なコストがかかりすぎている。このコストも省ける。また多額の消費をする富裕層がより多くの消費税を負担するのだから、所得の再配分もすすむはずなのである。 むろん、こういうアイディアには反論がある。とくに「消費税には逆進性がある」という議論が、これまでは大きかった。消費税には脱税や節税ができないという大きな利点があるかわりに、一律に課せられるため貧困層にも課税がゆきわたりすぎるのである。 

≪060≫  実はかつて、日本の所得税(国税)も最大75パーセントになっていたことがあった。それがいまでは所得税の最高税率は37パーセントで、地方税を併せても50パーセントをこえない。 こんなふうになったのは、レーガノミックスを真似て、高額所得者に対する税率をうんと下げてしまったからである。これは、稼いだ連中から税金を巻き上げて貧しい者に再配分をするのは、市場経済のモラルを破壊し、自助努力や自己責任の力を低下させるものだという新自由主義のイデオロギーが日本の経済政策にかぶってきたからだった。 

≪061≫  しかしそのせいで、いまや日本は「派遣切り」どころか貧富の格差をますます大きく広げつつある社会をつくってしまった。そこで何がおこっているかといえば、社会のつながりや将来の展望がきわめて不透明になってきた。 

≪062≫  そこで中谷さんは、基礎年金の財源を税方式に徹底し、そこに消費税率を上げた福祉目的税を確立するべきだと言う。現在の年金制度では、不安な雇用環境にある人々は保険料を完納することは望めない。完納できなければ、かれらは将来に年金を受け取れない。それよりも基礎年金の財源を消費税に転換すれば、保険料の納入や不払いに関係なく、すべての人々に基礎年金が払えるようになる。むろん消費税は上がるけれど、そのぶん保険料を払わなくてすむ。  

≪063≫ 現状の社会保険庁のていたらくを見ればわかるように、年金制度の維持にはあまりに無駄なコストがかかりすぎている。このコストも省ける。また多額の消費をする富裕層がより多くの消費税を負担するのだから、所得の再配分もすすむはずなのである。 むろん、こういうアイディアには反論がある。とくに「消費税には逆進性がある」という議論が、これまでは大きかった。消費税には脱税や節税ができないという大きな利点があるかわりに、一律に課せられるため貧困層にも課税がゆきわたりすぎるのである。 

≪064≫  いま、年収200万円を稼げない日本人は1000万人をこえた。仮にこういう状況のなかで消費税をヨーロッパ並みに20パーセントに上げたとすると、年収200万円の所得者の税負担は、すべての収入を消費にまわしたとして、40万円になる。年収1億円の所得者には8000万が残るのに、これでは貧困層のほうに重税感がある。では、どうするか。それが中谷さんが本書で提案した「還付金付き消費税」というものだ。 

≪065≫  詳しいルールはぼくが安易に説明すると誤解されると困るので、本書を読んでもらうか、別の中谷さんの文章や記事などを見てもらったほうがいいが、いささか注目すべきなのは、ここには「ベーシック・インカム」(基礎的所得)という思想が導入されているということだ。これは、国民の生活を守るためには、「国家は無条件で国民に所得を給付する義務がある」というもので、今後の社会制度を議論するにあたって、ぜひとも検討すべき考え方のひとつなのである。憲法第25条の「すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とも合致する。 

≪066≫  ところで、ぼくは知らなかったのだが、中谷さんが実際に現地で見聞取材したところによると、デンマークでは企業はいつでも余剰人員を解雇できるようになっているらしい。しかも解雇された従業員たちは、それに対する不満をほとんどもたないのだという。   

≪067≫  なぜなら、デンマークでは解雇されても失業保険が手厚く支給されるので生活は急に不安にはならない。それとともに同一労働・同一賃金制度をとっているので、同じ仕事をしているかぎりは、同じ会社で何年務めていても賃金は上がらない。そこで大事になるのがスキルアップだということになるのだが、失業はこのスキルアップをするチャンスになるらしい。全国規模でかなり充実した職業訓練所ができていて、解雇されると同時に無料の職業訓練学校にも行ける。考えようによっては、ときどき解雇されたほうがかえって技能訓練ができるということになる。 

≪068≫  中谷さんは、このような制度はマクロ的には労働市場の流動性が確保されることになるとも見たようだ。企業側も経済情勢や実績に応じて、労働コストや人事コストを「可変費用」とみなせるようになる。国のレベルで見ても、産業構造の転換がもっと容易になるかもしれない。 

≪069≫  かつての日本の終身雇用性はそれなりに独自の長所をもっていたのだが、過剰雇用になったばあいに雇用調整がきかないという欠点をもっていた。そのためしだいに非正規社員をふやすようになっていったのだが、それが従業員の一体感を損ねた。アキハバラで無差別殺人をした青年は、その一体感から切り離されたという被害意識をもっていた。 

≪070≫  これからの日本は新たな雇用に関する改革が着手されなければならない。ただし、デンマークのような大胆な改革をするには「小さな政府」にこだわっていては何もできないし、コーポレート・ガバナンスやコンプライアンスに縛られていても二進も三進もいかない。 

≪071≫  実はスウェーデンは1000万人に満たない「小国」であり、デンマークやノルウェーはその半分程度の規模なのである(1256夜『世界の小国』)。一方、現在の日本は多くの場面で地域コミュニティの機能を失い、「絆」を断たれた分断された社会が無数のひび割れのような裂け目を見せている。農村部では「限界集落」化がおこって高齢者が地域を守るのが困難になっているが、同じことが都市部にもおこっている。  


≪072≫  少子化だけが問題なのではない。1億人をこえる日本人が十把一からげの政策や地域自治や福利厚生の傘の中に入っていることが問題なのである。むしろ領域や段階に新たな「意味」をもたせることのほうが重要なのだ。ということは、いま日本では、さかんに「道州制」が議論の俎上にのぼっているけれど、新たな社会や文化を守ったり作ったりしていくということを考えるのなら、道州制でもまだまだ大きすぎるのである。もっと小さな行政単位と介護や医療や生活や文化が取り組まれるべきなのである。日本には、もっと「小さな領域」をダイナミックにつないでいく方法が必要なのである。    

≪073≫  EUが制度の平準化をめぐって提案している「相互承認」(mutual recognition)という考え方がある。今日の日本は日米同盟を漂流させながら、東アジアとの紐帯を模索する必要が出ているのだが(だからヒラリー・クリントンも日本に来たあと東アジア諸国をまわるのだが)、日本自身にもそれぞれの領域の凹凸をつなぎうる相互承認力が必要になっているのはあきらかなのだ。 

≪074≫  こうして中谷さんは「相互承認」の次世代に望みを託しつつ、本書を次のような言葉でしめくくっていく。「自由とは禁断の果実であり、ひとたびその美味しさを知ってしまった人間が自らを抑制するほど賢くなっているかどうかは疑わしい。となれば日本としては、グローバル資本主義から受ける傷を最小化するため、まずは自国単位でできることは徹底的にやるべきであるとするしか、道はあるまい」というふうに。 

≪01≫  明治4年、1円が誕生した。1500ミリグラムの純金に相当する貨幣だ。それが明治30年に750ミリグラムになり、昭和12年に290ミリグラムに下がった。 

≪02≫  戦後、日本がIMFに参加してみると、1円はわずか2.4ミリグラムに落ちた。約80年のあいだに円の価値は625分の1になったことになる。1ドル=360円がレートだ。ぼくの子供時代は、この1ドル=360円がバカのひとつおぼえのようなものだった。1年が365日だから、なにかそれに関係があるのかと信じていた。 

≪03≫  一方、昭和46年にスミソニアン体制の確立によって初の「円の平価切り上げ」がおこった。90億ドル以上の金外貨準備高の蓄積と国際収支の黒字を背景とした切り上げだ。ベトナム戦争その他で疲弊したニクソン時代のアメリカの苦境を脱するための方策に日本が応じたもので、日本の貨幣政策とはなんら関係がない。これで1ドル=308円となった。その後はしだいに切り上げがおこなわれ、いわゆる「円高」が進行する。いまなお、円にはどんな自主性も、ない。 

≪04≫  純金換算価値の円と平価の円。この2つの円によって、日本の経済社会やビジネス事情の何が表現されているのか。このことに正確に回答できる理論も、経済学者も政治家も、おそらくいまの日本には見当たらない。それほどわれわれは円については従属的なのである。むろんアメリカに。 

≪05≫  ぼくが“ミスター円”こと榊原英資さんから聞いたところでは、日本がアメリカと死闘を演じた舞台裏には、アメリカのシナリオの周到な論争暴力ともいうべきものと、そのシナリオの実現にはチームで何人の脱落者が出ようとかまわないという優勝劣敗の実行思想があったという。ところがこれは今に始まったことではなかったのだ。 

≪06≫  明治4年に円が誕生したということは、この年に日本が資本制経済国家の第一歩をしるしたということである。この年、京都の村上勘兵衛書店から『改正新貨条例』という本が出た。本書はそこから話をおこしている。 

≪07≫  まず洋銀と一分銀との交換レートから準備が始まった。ついで新貨条例によって「円」を新たな貨幣呼称として、1円金貨をもって「原貨」とするシステムが発足した。同時に「算則は十進一位の法を用い」て、10厘を1銭に、10銭を1円とした。これは慶長期以来の「両・分・朱」による四進法型の日本の貨幣システムをまったく変えるもので、はっきりいって断絶があった。 

≪08≫  にもかかわらず、この「両から円へ」の移行はたいした混乱もなくうまく収まっていった。これは日本人あるいは日本の社会というものが、幸か不幸か「断絶による空白」や「正確な継承」よりも、なんらかの「新たな力の介入」や「よその成功例の真似」を安易に選びたがるという性質をあらわしている。明治維新もそうだった。敗戦後の社会もそうだった。 

≪09≫  日本人は価値観の切り替えは嫌いじゃないらしい。しかし切り替えたあとに、それ以前の価値観がつくった文化を捨てるクセがありすぎる。 

≪010≫  日本の社会は貨幣制度や通貨の文化に関しては鷹揚だった。よくいえば鷹揚、実は鈍感、はっきりいえば現実対応型だった。 

≪011≫  そのことはすでに、江戸時代の貨幣制が「三貨制度」とよばれているように、東国では金貨が、西国一帯では銀貨が、商取引には銅貨が、それぞれ用いられていたという地域別の通貨併存状態にあらわれている。「関東の金遣い、上方の銀遣い」とか「江戸は金目、大坂は銀目」といわれてきた慣行で、みんなおかしいとは感じていなかった。国内決済における金銀銅の使い分けや並立のことは、「日本はひとつじゃない、東国と西国は別の国だ」を連呼する網野善彦さんたちがいろいろな場面で強調しているので、よく知られていることであろう。 

≪012≫  実際には、価格表示にさえ少しずつ相対的な価値観があらわれていた。たとえば鯛は金貨で、米・着物・塩・砂糖・薬礼などは銀貨で、野菜や豆腐は銅貨で表示されることが多かったのである。寺子屋の先生などへのお礼は各地の現物にもとづいた。 

≪013≫  これらがまったくバラバラかというと、そうでもなく、三貨は市場比価と相場で相互に取引されていたのだから、これはいわば「併行本位制」とでもいうものだ。 

≪014≫  このようなことがおこった原因は、さかのぼればそれこそ網野さんの議論にあきらかなようにいろいろルーツはあるのだが、近世以降でとりだせば、江戸社会が最初は古代以来の「米遣いの経済」を中心にした実物経済だったことにもとづいている。それが寛文期になって商工業者の台頭による「金遣いの経済」が目立ってきた。 

≪015≫  その後、江戸の貨幣制は五匁銀の登場、とりわけ天保の一分銀の登場によって、秤量貨幣から計数貨幣の流行を生む。株仲間解散令という愚策も加わって、徳川経済は窮地に立たされた。貨幣経済も田沼意次の懸命の貨幣政策にもかかわらず、銀貨が後退して金と銅を主流とした流れになっていった。 

≪016≫  そこへ黒船がドーンなのである。市場の開放を迫られた。どんな事情が徳川社会にあったにせよ、すべては明治維新によってガラリと変革を遂げることになってしまう。記憶は消去され、記録の社会が躍り出た。それが円の誕生の宿命だったのである。 

≪017≫  明治政府が銀本位制でスタートしたことは、あまり知られてはいない。問題はその事実のほうにあるのではない。事実の裏のほうにある。 

≪018≫  円による銀本位制という方針は、政府が相談をかけていた英国オリエンタル・バンクの支配人ジョン・ロバートソンの強い進言によっていた。明治政府の自主判断ではなかった。これは江戸幕府以来の「商館貿易」の延長で、パークス、ロッシュなどの交易外交官につづいて、ロバートソンが政府要人を動かしたことと関係がある。このことは表面的には、当時の列強諸外国で金本位制を施行していたのはイギリス一国だけだったから、イギリス以外の国は銀本位制であるべきだったのである。 

≪019≫  表向きはそうなのだ。けれども、そこには裏の意図、裏のシナリオがあった。実は日本が銀本位制になろうとしていた時期、1871年にはドイツが、ついで1875年までにはスカンジナビア貨幣同盟のスウェーデン、デンマーク、ノルウェーが、それぞれ金本位制に移行していった。フランスも金本位を考えていた。他方、アメリカやイギリスからすれば、こうした金主導に向かいそうな国際経済の趨勢を、なんとか銀によって抑えておく必要があり、そこで日本に銀を押し付けておいたという筋書きもあったようなのだ。  

≪020≫  この裏側の異様なシナリオの進行は、ロバートソンがイギリスの利益を代表していたこと、日本側が金本位制をもちだしたところ、ロバートソンがかなり強硬に反対した記録がのこっていることなどから、まずまちがいがない。 

≪021≫  そうだとすると、日本は引っかけられたのか。英米の犠牲になったのか。そのうえで円による銀本位制を受けたのか。どうもそういうことになってくる。騙されたとはいわないが、あれよあれよというまの五里霧中のなかでの決定だった。したがって、これを伊藤博文らが金本位制に切り替えるにあたっては、かなり内外の軋轢をはねのける必要があった。敗戦直後の憲法制定に似ていなくもない。日本という国、こういうことのくりかえしばかりなのである。 

≪022≫  ところで、このときなぜ「円」という名称がついたのかということは、まだわかっていない。円の誕生にかかわった大隈八太郎(重信)と造幣局判事の久世治作があやしいのだが、いまのところは円形状の円貨をつくるのだから「円」にしたという説と、日本がイギリスの香港造幣局の造幣機械を輸入した際に、香港側ですでに「銀円」という用語が通称されていたのでそれをたまたま流用したという説とがあって、いずれも説得力をもつにいたってはいない。  

≪023≫  もうひとつの説として、すでに橋本左内や横井小楠や佐久間象山らが内々で「両」を「円」と呼んでいたという興味深い記録があるのだが、これもいまのところは十分な証拠になっていない。 

≪024≫  いずれにしても、円の誕生はいまだにミステリーの裡にある。この原稿を書いている1週間前、アメリカと日本は同時株安となり、日銀は金利ゼロ政策を打ち出した。おまけに森首相はブッシュ大統領に会いにいって、銀行の不良債権を縮減することを約束させられた。そういう一週間だったのであるが、いまもって同じ歴史がくりかえされているという印象が拭えない。 

≪01≫  ダニエル・ベルの最初の問題の書『イデオロギーの終焉』(東京創元社)は「傲慢の放棄」と「市民的秩序の誕生」を謳って、一口にいえば政治における狂信主義と絶対的信念が終わったこと、あるいはそろそろ終わりなさいということを告げたものだった。 

≪02≫  今日の世界の政治はまったくそうはなっていない。まだまだアメリカや中国やイスラエルは傲慢であり、それに加担する国々は多く、ときに絶対的信念こそが地球の右と左からやってきて激突しあっている。わずかにボランティア活動やNPO・NGOによって市民的秩序が芽生えてきただけだ。 

≪03≫  ついでベルは1973年に『脱工業社会の到来』(ダイヤモンド社)という一書を発表して、今後は最大の戦略変数として科学技術の変化が全面化すると予告した。ポスト・インダストリーという言葉がこれで流行した。そこには、財貨中心の工業社会に代わって情報社会が登場するであろうこと、財からサービスへの転移がおこるであろうことが予測されていた。また、このことがおこるには、次の四つの回避がなされなければいけないとも説いた。すなわち、①熱核兵器、②人口爆発、③発展途上国の経済的離陸の困難、④エントロピーの増大、だ。これはコンラート・ローレンツが『文明化した人間の八つの大罪』(新思索社)であげた問題点と重なっていた。 

≪04≫  最初に口火を切ったことの評価をべつにすれば、ここまではまずまず穏当な予告といっていいだろう。ただしベルはこのときは文化や宗教に関心をもたなかったか、もしくはこの本からはその検討をすっかり欠落させていた。そこで本書『資本主義の文化的矛盾』なのである。 

≪05≫  本書も他のベルの成果と同様に、近未来予告の著作だった。『脱工業社会の到来』を書いてからわずか3年しかたっていない。アメリカがベトナム戦争とドルショックとオイルショックから抜け出したばかりの、まだまだぜいぜい苦境にあえいでいる時期である。こんな時期に展望はむずかしい。  

≪06≫  けれどもぼくは本書を読んで、ベルの一番いいところが出ていると感じた。どこがいいところかはのちに指摘するとして、ベルが言いたかった結論を先に言っておくと、このままでは政治と経済と文化の三者は絶対にあいいれない矛盾するものになっていくだろうというものだ。ベルは経済と技術を相互に連動するものと捉えているので、この三者とは「政治、経済=技術、文化」という三軸である。 

≪07≫  主旨を要約すれば、こうなる。
政治が「公正」(justice)を追求することと、経済=技術が「効率」(efficiency)を追求することと、そして文化が「自己実現」(self-actualization)ないしは「自己満足」(self-gratification)を追求することとのあいだには、ぬきさしならない矛盾が生じてしまうというのである。
この溝はますます開いていくだろうとも予想した。そのうえで、ベルはさまざまな矛盾についてその理由をさぐろうとしていく。 

≪08≫  ベルは第一次世界大戦後にニューヨークの貧困家庭に生まれ、ニューヨーク市立大学やコロンビア大学で博士号をとっているころは、社会主義青年同盟に参画してコミュニズムに惹かれていたのだが、スターリン体制に幻滅してからはモダニズムの総体に疑問をもつようになった。 

≪09≫  そのためコロンビアやハーバードで社会学を教えるようになってからは、もっぱら近代社会の登場によって何がおこり、それが現代社会の驀進のなかでどのように変貌していくかということに研究の軸足をおいてきた。研究の渦中、おおよそ次のような判断をくだした。近代は早々に「超越」(beyond)が終了し、それに代わって現代では「限度」(limit)が求められるようになるにちがいない。 

≪010≫  この構図は、ローマ・クラブの『成長の限界』によって示された指針を見ても、またその後の社会状況を見ても、あるいは汚染や地球温暖化などの環境の状況を見ても、ほぼ当たっていた。たしかに今日の社会ではいたるところで「限度」が要求されている。しかしながら、その限度を芸術活動や想像力にあてはめていいものかというと、どうもそうはいかない。資本主義の俎上に文化をのせるには、そこに踏みこんでいかなくてはならない。そこをどう考えていくか。 

≪011≫  政治・経済(技術)・文化は一見連動しているようでいて、実は別々のリズムで、別々の価値の目盛りで、別々の国ごとに動いてきた。これだけでもグローバルな資本主義の進行とこれらが軌を一にしないことがはっきりするが、その動きを担当しているエンジンを見ると、もっと絶望的になる。 

≪012≫  政治のエンジンは社会正義と権力とが闘うところで動く。技術と経済のシステムは合理的な機能性をエンジンにする。文化はといえば、これらとは反対に動くエンジンをもっていて、ホモ・ファーベル(道具をつくる人間)としての活動よりも、つねにホモ・ピクトール(シンボルをつくる人間)としての活動に向かっていく。大半の生活者にとって道具はだいたい便利であればその改善は他人まかせなのだ。 

≪013≫  文化のエンジンがこのようになっていることの理由を、ベルは文化が自分らしさをほしがっているという見方で説明した。あまりうまい説明ではないが、これもだいたいは当たっている。  

≪014≫  が、これだけで文化が政治・経済・技術と対立しているという構図にはならない。そこでベルは、文化は「反合理と反知性」に向かうという性質をもっているのではないかと分析した。ここはきわどいところでもあるが、おもしろい。たしかに合理的知性は経済効率を求めるし、知性は知性の整合性を発揮するにあたって結局は合理を仲間に引き入れる。 

≪015≫  これに対して、芸術のような文化も生活のような文化も、べつだん合理知性的である必要はないし、技術的である必要もない。生活文化にとっては、合理と知性は自動車や洗濯機や電子レンジやコンピュータのように外側にあればいいもので、人間はそれをちょっとだけ手に入れられれば、それですむものなのだ。  

≪016≫  そうであれば、資本主義の高度化のなかで文化はしだいに鬼っ子になっていくだろうというのだ。文化は資本主義が過剰になっていくにつれ、その資本主義を育ててきた政治・経済・技術からはじかれていく。文化のほうも親に背きたくなっていく。なるほどそういうことはおこりうる。そう、ベルは見た。しかし、まだこれでは「奥」が何も見えてはこない。いったい文化はいつのまに政治・経済・技術と背を向けあうようになってしまったのかという説明がいる。 

≪017≫  爛熟した資本主義社会とは、何かをつくることが話題になる社会ではなくて、市場で何かが売れたことを話題にする社会である。たとえばぼくの本はたまには新聞の書評欄に載ることはあるが、それは話題になったのではなく、たんに書評欄にとりあげられたにすぎない。資本主義社会にとって話題になるとは、書評されることではなく、売れることなのだ。ところが、売れることは文化の本質とはまったく無関係ではないにしても、必ずしも文化の奥とは連動しない。消費されるということは価格をもったモノがいくつ売れたかということであって、文化が抱えもっている内容が消費されたことではないのである。 

≪018≫  なぜ、そんなふうになったのか。ベルは自分の分析に恐ろしくなってくる。これは経済・技術の暴走で、政治はこのことをまったく食い止めていなかったからだった。そこで社会の現状の特色を並べ、先は見えないにしても、このようになってしまった根本原因に迫ろうとする。 

≪019≫  ベルが並べた資本主義によって分断させられた文化の特色は1970年代の社会を観察したものであるが、今日にもそこそこあてはまる。カッコの中に今日ふうの説明事例を入れておいた。 

≪020≫  第一に、話法が分裂している。これは世界の多様性に対して比較できる見方が失われているからである(みんな短い言葉で交わしあう)。第二に、したがって経験の様式が一定しない。みんなでマイブームなのだ(それをもたないと個性がないようにおもう)。第三に、そのような現状を報知するメディアが話法ごと、見方ごとに分裂していく(戦争報道と母親殺しは別々の道徳になる)。 

≪021≫  そうなると第四に、受容した情報のちょっとした組み合わせの違いだけで、社会のなかの相互作用がすぐに複雑化する(ウェブのリンク分岐をたどるだけになる)。そして第五には、そのちょっとした差異の一つひとつに自意識が居座る理由ができてしまい(仕事や方針の変更の理由がいくらでも出てくる)、そのため第六に役割と人間性とのあいだにものすごくギャップができて(コンプライアンスでまとめるしかない)、これらを通観するには第七に、社会的流動といった怪物がそこをゆさぶっているとしか言えなくなってしまうのである(フリーターがふえていくのがわかりやすい例である)。 

≪022≫  以上はぼくがそうとうに圧縮編集して説明して例示を加えたことなので、ベルの言葉がどのようになっているかは原文をあたってほしいけれど、それはともかく、それでどうなるかというと、「どこにも中心がなく、どこにも過去のない、けれどもどこにもアイデンティティがある現在」が資本主義の国々にいっぱい並立するということになるわけなのだ。 

≪023≫  ところが、このような文化的状況とはいっさいかかわりなく、世界各国が自由競争による資本主義市場を信頼して、そこにみんなで一斉に突っこんでいくのだから、またそれを促す政治しかやらないのだから、政治・経済・技術・文化は絶対にあいいれない矛盾を深めていくしかなくなっているのだった。 

≪024≫  だいたいこのへんまでで中巻の半ばにさしかかる。このあとベルは芸術と現代社会という難題に向かって、シェーンベルクやオルテガや、ピカソやホワイトヘッドの検討に入るのだけれど、これはどちらかといえば気休めである。ベルには不得意な議論だ。 

≪025≫  ただし、そのあとにヨーロッパ社会の現状とアメリカの欲望を抽出していく記述はかなり参考になる。鋭い指摘もある。ぼくが編集したうえで紹介しておくが、ベルがあげた現代病は次の七つとなった。 

≪026≫
(1)解決不能の問題だけが問題になる病気 
(2)議会政治が行き詰まるから議会政治をするという病気 
(3)公共暴力を取り締まれば私的暴力がふえていくという病気 
(4)地域を平等化すると地域格差が大きくなる病気
(5)人種間と部族間の対立がおこっていく病気
(6)知識階級が知識から疎外されていくという病気
(7)いったん受けた戦争の屈辱が忘れられなくなる病気 

≪027≫  いずれも当たっているだろう。ソリューションばかりを目標にしている社会には、耳が痛いはずである。
(1)は環境サミットこのかた公然化しているし、
(2)は自民党にあてはまり、
(3)と(4)は日本社会そのものだし、
(5)は中東の宿病であり、
(6)はその後のポストモダンそのもの、
(7)は9・11で世界的症状となった。
しかし、この7つの病状をどうすれば“健康”に向かうのか、そのいちいちの処方箋は示されない。 

≪028≫  ざっとこういうぐあいにベルは後半戦に入ってきて、現代社会の資本制的諸矛盾を解決するには、これらをごちゃまぜにして新たな概念のもとに組みなおせるような考え方のほうが有効だと見るのである。いちいちの処方箋をつくろうとしてきたことが、かえって問題を連携させなくなったと見るのだ。そこで、たとえば「パブリック・ハウスホールド」(公共家族)という社会観を導入しなければならないと言い出すのである。  

≪029≫  いわばベル式公共経済論だが、これではたんなる善意の提案か、地球家族を分割したにすぎないようだ。ラディカルなものがない。かつてここを読んでがっかりして以来、ベルがどのようにこの展望を引き出してきたか、忘れてしまったほどだ。今夜もその箇所をあらためて読んで検証する気がおこらないので、気がむいた諸君はそこを自分であたってもらいたい。 

≪030≫  ということで、最後の提案を除けば、本書はぼくが見るかぎりはベルの最も良心的で、最もきわどい「いいところ」が出ているとおもえたのだった。いま社会学には、このようなまるごと責任をとるような著作がめっぽう少なくなっている。ベル自身が言うように、とっくにイデオロギーが支配できる時代が終わっているからでもある。 

≪01≫  企業倒産の急増、工場閉鎖、製造業の営業赤字転落、派遣切り、採用取消し、加うるに、いつまでも続く政局混乱と官僚腐敗。これは日本での出来事であるけれど、いまさら本書をとりあげるのが隔靴掻痒になりかねないほど、いまの世界経済はのたうっている。 

≪02≫  とはいえ、サブプライム・ローンの崩落とリーマン・ショックで、アメリカ経済構造が瓦解したのではない。金融恐慌長期化の不安の前でビッグ3が破綻寸前になり、それが数週間をたたずしてトヨタの営業利益の低落にまで及んだわけではない。グローバル・キャピタリズムはとっくの昔からおかしかったのだ。 

≪03≫  というようなことについての本が、かこいまは書店のどこにも並んでいる。実はあまり痛快な本はないようだ。それでもなかで面白かったのは、IMFの偽善を暴いたジョセフ・スティーグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)、チャールズ・モリスの『なぜアメリカ経済は崩壊に向かうのか』(日本経済新聞社)、副島隆彦の『連鎖する大暴落』(徳間書店)につづく『恐慌前夜』(祥伝社)、中谷巌の『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社)くらいであったけれど、それらについてはまたどこかでふれるとして、今夜は、今年上半期のビジネス界での話題をさらっていたライシュの『暴走する資本主義』にした。いや、痛快というほどの本ではない。 

≪04≫  著者はぼくより1歳下のUCLAバークレー校の経済思想のセンセーで、クリントン政権では労働長官を務めていた。良識派というところだろう。『勝利の代償』『アメリカは正気を取り戻せるか』(東洋経済新報社)という前著もよく売れていた。今年5月の「ウォールストリート・ジャーナル」では、「最も影響力のある経営思想家20人」の一人に選ばれていた。もっとも、そんな影響力のある経営思想家が20人もいるなら、もうちょっとアメリカもましだったはずなのだが。 

≪05≫  この本、原題は『スーパーキャピタリズム』(超資本主義)となっている。スーパーキャピタリズムは日本ではまだなじみのない用語だが、経済権力の主体が投資家と消費者に移っていくことによって、一国の経済社会の「影の部分」が肥大化してしまった資本主義のことをいう。それで何がおこるかというと、経済格差の極端化、雇用不安の拡大、地域経済の低迷、環境悪化、人権侵害、過剰サービスが引き起こされる。 

≪06≫  だったら、それってまさに日本に蔓延したグローバル・キャピタリズムの「影の部分」そのもので、それで日本はビョーキになったじゃないかと思うだろうが、まさにそうなのだ。ただ、この著者は、アメリカ発信のスーパーキャピタリズムは、ここで民主主義が防波堤を築きさえすれば、まだなんとか食い止められると思っていて、それがすでにグローバル・キャピタリズムとして世界中を荒らしまわり、とんでもない災禍をもたらしているとは思っていない。アメリカにおいてのスーパーキャピタリズムの弊害を、執拗に告発するにとどまっている。 

≪07≫  つまり、この本は「民主主義と資本主義は対立している」という、以前から議論がかまびすしかった論点を、たんに一般的な社会論としてではなく、アメリカの最悪の病根の摘発を通して試みようとしたものなのである。グローバル・キャピタリズムの震源地がアメリカであることは摘発していない。それでアメリカの良識派はどのように責任のがれをするのかと、ぼくはその程度の気持ちで読んだものだった。むろんリーマン・ショックの前のことになる。 

≪08≫  が、いろいろ知らないこともたくさん書いてあって、それなりに背筋を寒くもし、「企業のコンプライアンスなど、むしろ企業の社会的責任力を低下するものだ」というこの著者の主張に、そうそう、そこはそうだよなと同意もしたものだ。余談になるが、この8月に軽井沢セミナーでのこと、オリックスの宮内会長があまりにCSRやコンプライアンスの牙城を前に出して、「日本企業はグローバルにならないと勝てない」というロジックを説明したことがあった。このときぼくは半ば腹をたてて反論したことがあるのだが、そのときはこの著者のこの箇所の言い分を援用したものだった。 

≪09≫  まあ、そんなことはいい。とりあえず本書の論旨の一端をかんたんに紹介しておくことにする。 

≪010≫  アメリカは長らく、資本主義と民主主義とが共存共栄している最もすぐれた国だと思われてきた(らしい)。しかし、自由市場謳歌型資本主義は大成功を収めたかに見えたけれど、民主主義についてはずっと衰退したままだったのである(と著者は言う)。 

≪011≫  それにもかかわらず、アメリカは他国に対する「民主化」を迫って戦争を仕掛け、その実は自由市場資本主義の確保と拡張に邁進してきた。それは1975年に、ミルトン・フリードマンがチリのピノチェト軍事政権に市場経済を採用するように説得に行ったときから始まっていた。フリードマンについては略するが(いずれ『資本主義と自由』あたりを千夜千冊したいけれど)、民主主義には自由資本主義が不可欠で、それには「民営化と規制緩和」による「小さな政府」が最適であると説いたという、つまりはグローバル・キャピタリズムの理論模型を世にふりまいた当人である。サッチャー、レーガン、小泉がこれをお手本にしたことは、周知の通り。ぼくも『世界と日本のまちがい』(春秋)に書いた。まず、ここまでが前提だ。 

≪012≫  アメリカの自由資本主義の拡張戦略は、その後も着々と成功していった。1975年のダウ平均(ダウ・ジョーンズ工業株価指数)は600ドルあたりだったのが、2006年には13000ドルになった。しかも1980年前半のインフレはたくみに抑えられていた。フリードマン先生、万歳である。 

≪013≫  こうして70年代後半以降、たとえばビッグ3などの巨大企業は社会全体からの支持をうるために、経済成長によって得た利益を雇用社会や地域社会にどのように配分するかについて、政府とさえ交渉できるしくみを維持できた。それで、よかったのである(と著者は言う)。なぜなら、そのころまではこのしくみはまあまあ公正で、アメリカ国民もビッグ3がたいして違いのないクルマを提供しているのだから、それを取っ替え引っ替えしていればすんだのだし、また当時の投資商品もほとんどがそこそこのリターンしか約束していないものだったからである。 

≪014≫  ところが、そのしくみが世界に輸出され(民主化と資本主義の世界戦略のために)、それが各国でカスタマイズされ、トヨタやホンダのクルマとしてアメリカに戻ってきたとき、アメリカはここでスーパーキャピタリズムに向かっての切り替えをやりすぎた。しかもそのあいだ、自由資本主義はアメリカ市民の力をしだいに骨抜きにしていった。そしてそのうち、アメリカには一握りの経営者と投資家と消費者しかいなくなったのだ。 

≪015≫  ここまでが、前半の議論だ。著者はこれで何を言いたかったのか。アメリカから「資本主義の民主的側面がなくなっていった」と言いたいのである。スーパーキャピリズムはよくないがそれ以前の民主的資本主義はよかったじゃないかと言いたいのだ。 

≪016≫ 70年代後半以降、米国は自由市場資本主義の拡張を押し進めた 

≪017≫  スーパーキャピタリズムの発端は一様ではない。FRBのポール・ボルカーがインフレ対策のために短期金利引上げ政策を導入したとき、1981年にレーガンが減税政策に踏み切ったとき、70年代後半に規制緩和が始まったとき、アメリカ経済のグローバル化が猛進していったとき、80年代に企業の重役たちが利己的利益を追求し始めたとき、そのほか、あれこれ何たらかんたらと、その発端の要因があげられている。 

≪018≫  おそらくはこれらが複合し、いつのまにか歯車がとまらなくなったというべきだろうが、著者はこれに加えて「企業の奢り」や「軍事と民生の接近」をあげつつも、しかし民主的資本主義にトドメをさして、スーパーキャピタリズムの道をバカでかくしてしまったのは、「グローバル化」「新生産方式」「規制緩和」という3つのお化けエンジンだったのではないかと言う。 

≪019≫  これについては説明するまでもない。まあ、そうだろう。が、ここにもうひとつ付け加わるべき現象がある。それは「冷戦」の落とし子として開発された軍事技術スペックが、どんどん市場に流れていったということだ。もともとはコンテナ技術、光ファイバー技術、衛星通信シテスムであったけれど、それらにコンピュータとソフトウェアとインターネットがつながって、そこからありとあらゆるサプライチェーンの構築が始まったのだ。ここは見逃せない。 

≪020≫  それでどうなったかというと、結果だけをいうのなら、グローバル・サプライチェーンが成長しつづけ、それまで法定金利5・25パーセントで満足していた預金者たちが投資家になり、1985年には株保有者が国民の20パーセントになったのである(2005年にはアメリカ国民の半数の世帯が株保有者になった)。 

≪021≫  では、そのような株主たちにそれだけの数字に見合う「価値」が保有されていたのかといえば、そうではなかった。2002年のエンロン事件がその実態の一端をあきらかにしたのだが、価値の一部は狡猾な会計者と貪欲なCFO(財務責任者)によってでっちあげられていて、そこにさらに禿鷹のようなファンドマネージャーがくっついていたわけである。 

≪022≫  かくてスーパーキャピタリズムはアメリカの「貪欲社会」を、根本において支えていくことになった。何の根本かといえば、社会の根本でも生活の根本でもなくて、マネーの根本だ。 

≪023≫  敵対的買収、乗っ取り、ジャンクボンド、プロキシファイト(株主総会の委任状争奪)、LBO(レバレッジド・バイアウト)、ヘッジファンド、プライベート・エクイティ・ファンドが流行し、若者も壮年もお姉さんもおばさんも、株主リターンを求めてチャンスをわがものにしたくなっていった。  

≪024≫  これでは経営がすっかり変わる。株主にリターンを最大にするチャンスをつくれなかった経営者は交代し、新たな経営者が今度は金融業者と組んで、ハイリターンの投資市場を用意することになった。CEO(最高経営責任者)は、ウォール街の四半期予測を満たすか超えるかだけが目標になった。案の定、世界のトップ2500社のCEO交代は、1995年で9パーセント、2005年には北米だけで35パーセントになった。 

≪025≫  会社は黒字であるかどうかということは、完全に意味を失ったのだ。株主がより高い収益と高い株価を他社に期待している以上、会社は“見えない狩人”にどんな場合でも追い立てられているウサギにならざるをえなくなったのだ。 

≪026≫  しかし、アメリカ経済はこれで巨大に肥大したと見えたわけである(日本もそれをまねしたわけだ)。GDPは1970年の3倍に、ダウ平均は1000ドルから13000ドルへ。これで万々歳だと思ったとしても、しかたない。こうしてたとえば、GMに代わってウォルマートがアメリカ・スーパーキャピタリズムの象徴になったのである。2007年時点、ウォルマートはアメリカで最高の収益と最多の従業員を誇っていた。 

≪027≫  本書は、このウォルマートについてかなり長い分析をくだしている。めんどうなので省くけれど、次のことくらい知ったほうがいいのかもしれない。ウォルマートは従業員には年平均17500ドルしか払っていない。時給は1時間10ドルである。福利厚生もわずかなもので、医療保険対象者をへらすためにパートタイマーをふやしつづけている。CEOのリー・スコット・ジュニアの報酬は1750万ドル、従業員給与の900倍だ。 

≪030≫  これはいったい、どうしたことか。役員たちが貪欲になりすぎたからなのか。取締役会が無責任になっているのか。CEOの性格がおかしいのか(おかしいに決まっている)。ウォルマートは商店街で消費者の生き血を吸っているからか。消費者がバカなのか。 

≪031≫  若者はウォールマートの「外」が異常になりすぎたのだと見た。投資銀行のトップやトレーダーがCEO以上の報酬を手にし、さらにヘッジファンドのマネージャーがそれを上回る報酬になっていること、このことすべてにリー・スコット・ジュニアが支えられていることが、おかしいと見た。しかし、それをそうさせているのは、投資家たちであり、一般投資家になりたい消費者であり、すなわちまわりまわっていえばウォルマートの買い物客なのである。 

≪032≫  ウォールマートが暴利を掌中にでき、従業員を低賃金いさせられているのは、ぼくなら「内」の問題だとしか思えないが、著者はこれは「外」の異常であると見るわけだ。そしてこれこそは、著者がスーパーキャピタリズムをどうにかしないかぎり、アメリカはネクストステージに脱出できるはずはないと判断した現状だった。 

≪037≫  では、この事態にどのように対処すべきなのか。著者はしきりに民主主義の再生を説いてはいるが、ぼくはあまり説得力を感じない。そもそも1975年以降のアメリカは「民主主義と資本主義」を「自由市場」と「戦争」によってセットにしたから化物化したわけである。この二つから一つを取り除くことができるはずがない。どちらかが死ぬか、どちらも死ぬだろう。だから、そんなことはするはずがない。 

≪038≫  それなら、どうするか。CSR(企業の社会的責任)を求めるというのは、どうなのか。コーポーレート・ガバナンス(企業統治力)によってバランスをとるというのは、どうなのか。これはこれまで、スーパーキャピタリズムに対するひとつの有力な回答のひとつになってきたものだった。 

≪039≫  スターバックスは世界のコーヒー生産量の70パーセントを購入し、マクドナルドは牛肉と鳥肉の市場の半分を動かしているのだから、その責任たるやたしかに重大である。そうではあるのだが、これについては著者のほうが疑問を呈する。あまりに失敗が目立つからである。 

≪040≫  企業として社会的貢献をはたしていたと思われてきたデイトンハドソンやリーバイストラウスは、この20年間で敵対的買収を受けたり、工場閉鎖を余儀なくされている。メセナ企業として知られていたポラロイド社は倒産し、労働基準においてはトップクラスのマーク・アンド・スペンサーは買収され、やはりCSRの先駆者と見られていたボディショップのアニタ・ロディックは顧問に追いやられ、ベン・ジェリーズ(アイスクリーム・メーカー)はユニリーバに買収された。 

≪041≫  原因は二つある、と言う。ひとつには、もはや社会が社会発現装置として機能していないのだから、そこにお金以外の何かを還元したってレスポンスはおこらなくなっているということだ。もうひとつには、もはやステークホルダー(利害関係者)の調整など、スーパーキャピタリズムの中では不可能なのである。 

≪042≫  いったい企業はどうすればいいのか。著者は、企業はCSRやコンプライアンスの自縄自縛をいったん解くべきだと考えている。そして、問題を政治や社会のプロセスに戻し、そこに市民たちが加わるべきだと説いている。また、企業の社会的責任をやたらに追及するマスコミやメディアの判定に、待ったをかける。 

≪043≫  で、それでどうなっていくのか。ロバート・ライシュはそれ以上の回答は用意していない。ただ、資本主義と民主主義があまりにもあべこべになってしまったことだけが残るのだ。 しかし、ちょっと待ちなさい。その、もともとの資本主義と民主主義の原理には、問題はなかったのか。 

≪01≫ 最初に断っておく。①ぼくはソロスの投資ビジネスの詳細をほとんど把握していない。②ソロスがカール・ポパーの科学観やピースミール・ソーシャル・エンジニアリング(漸次的社会工学)の多大な影響をうけたことは、まあまあ理解している。③日本の識者やエコノミストたちが、ソロスの活動にどんな反応をしているのかはまったく知らない(寺島実郎や榊原英資が絶賛していることくらいは承知している)。④ソロスの本およびソロスについての本は5、6冊は読んできた。⑤どの本も似たような内容だった。 

≪02≫  以上を断ったうえで言うのだが、ソロスの思想にはいくつかのめざましい「先見の明」がある。そこには、今日では誰もが口にするようになったグローバル資本主義の限界と問題点が鮮やかに指摘されているだけでなくて、「資本」の意図と「市場」の意味について、その生きざまがまるで素手で掴むように直截に捉えられていた。 

≪03≫  ソロスが考えていることや実現したかったことは、ありていにいえば、①大いに儲ける、②しかも社会に貢献する、というこの二つだ。 

≪04≫  二つとも成功した。それで、やたらにスケールの大きい国際的スキームや慈善事業を組み立て、かつ、自分の考え方をつねに披瀝しようとしてきた。ソロスは、新たな世界観とプログラムというものを提出したかったのだ。その世界観は、ソロスが投資理論と投資活動に費やした手間からするとかなりシンプルなものである。  

≪05≫  シンプルであるのは素手と直観に頼りすぎているからだが、これからの21世紀の世の中で、ソロスのレベルに届いていない世界観など、そもそも失格なのではないかという気もする。そのことを金満家たちも、そこいらの社会思想家たちも、訳知りのビジネスマンたちも、財政政策や景気対策をする政治家たちも、まずは認めたほうがいい。 

≪06≫  それにしても多くの者がやっかむのは、投資だけで大儲けをしたソロスが、なぜ同時に「開かれた社会」(グローバル・オープン・ソサエティ)の改革者になろうとしたのか、なれたのかということだろう。 

≪07≫  しかし、答えは明白だ。 ソロスは資本主義が自慢する“合理性”には、必ずや「ゆらぎ」「欠陥」「誤謬」「たまたま」が巣くっていることを、「負はフィードバックする」という、この一点の意義をもってまるごと掴まえたのだ。この思考方法を持ちえたことが、ソロスのソロスたるゆえんなのである。今夜はその感想をごくごくかんたんに書いてみようと思う。 

≪08≫  その前に、もうちょっと断り書きをしておく。 ひとつには、ぼくが今夜の「千夜千冊」に、どうしてリーマン・ショックより10年も前に刊行された本書を選んだのかということだが、これは本書『グローバル資本主義の危機』が予告に富んでいたのを示したかったのと、ソロス本のなかでは最も過不足ないものだと感じたからで、それ以外ではない。  

≪09≫  実際には本書のあと、邦題でいうと『ソロスの資本主義改革論』(日本経済新聞社)や『グローバル・オープン・ソサエティ』(ダイヤモンド社)が刊行され、さらに『ソロスは警告する』第1弾・第2弾(講談社)、『ブッシュへの宣戦布告』(ダイヤモンド社)、9・11以降に発刊された『世界秩序の崩壊』(ランダムハウス講談社)なども追い打ちをかけた。 

≪010≫  それらでは、ソロスの未来プログラム(「開かれた社会」のためのプログラム)がしだいに具体案を示しはじめていて、その具体案をたとえばノーベル経済学賞のジョセフ・スティグリッツが「とても力強い」と褒めたりもしたのだが、SDR贈与をめぐる提案(SDR贈与についてはあとで説明する)を除いては、とくに新しい文脈になっていなかった。 

≪011≫  もうひとつには、ぼくはソロスの「先見の明」がどのようにもたらされ、それがどのようにビジネスに生かされて、その二つをどのように著述のなかで“合体”あるいは“編集”させてきたのかということに方法論的な関心をもってきたわけだが、当初は、次のように想像していたにすぎないことを告白しておかなければならない。 

≪012≫  ①きっと思想は思想、ビジネスはビジネスというふうに切り分けていたのだろう、②ビジネスの成功には思想は必要だったろうが、その交じり具合はせいぜい20~30パーセントくらいだろう、③金融資本と市場の変化と世界情勢の転換のたびに、ソロス・ビジネスの展開にそった思想をつくってきたのだろう。 

≪013≫  が、この3つの勘ぐりはいずれもペケだった。ソロスはあくまで「思想=ビジネス」だったのだ。たとえばピエール・ブルデュー(1115夜)が「出版思想=資本主義」と言ったように、たとえば三宅一生が「理論=ファッションビジネス」と言ったように。 

≪014≫  加えてもうひとつ、勘ぐっていたことがあった。ソロスはきっと、①ゴーストライターを使っている、②ブレーンスタッフがいつも研究とそのコンテキスト化を怠っていない、③資本主義の最前線を走った者にしか見えない直観と洞察が面目躍如した。このいずれかをやったのだろうと勘ぐっていたのだが、③は当たっていなくもなかったが、よくよく見るとこれまた、そのいずれでもなかった。 

≪015≫  ソロスはかなり最初のころから(1956年にアメリカに移住したころから)、一方ではヘッジファンドの担い手として、他方では社会哲学の構想者としてスタートしていて、70年代の初期までには早くもその両者の統合を組み立てていたようなのである。 

≪016≫  いまでは、ソロスが早くから「市場原理主義」(market fundamentalism)や「新自由主義」(neoliberalism)に反旗をひるがえしていたことは、よく知られている。 

≪017≫  ただしソロスは、たとえば新自由主義の思想権化ともくされるミルトン・フリードマンらのシカゴ派の理論を正面から検討して、これを批判していくというようなことを、一度もしていない。本人が自慢して「確率論を駆使したランダムウォーク理論よりもずっと有効な投資方法を掌中にした」と言っているわりには、そのランダムウォーク理論(たまたま理論)の批判も、していない。ソロスは他人の理論とはまったく無縁に(カール・ポパーの理論だけはべつとして)、自分の確信にもとづいて市場原理主義や新自由主義を打倒してきたのだ。 

≪018≫  そういう意味では、ソロスは周囲を見回してあれこれ理論的配慮をするような理論家ではなく、(本人はそう願うかもしれないが)学問的なリーダーになりうるような条件をほとんど満足させてこなかった。それなのに、一人よがりかもしれないような独自の確信が、その思想とビジネスをみごとに同時に押し上げていったのである。 

≪019≫  その確信は、何段階かの組み立てによっている。いくつかに分けて、ぼくなりに説明してみたい。キーワードは①「開かれた社会」、②「リフレクシビティ」、③「誤謬性」、の3つ。これらが「負はフィードバックする」という一点で、ぶすりと串刺しされていると見てもらうといいだろう。 

≪020≫  おそらくはまず第1段階に、①市場メカニズムには根本的な欠陥がある、②ノンマーケット・セクター(非市場部門)にも大きな欠陥がある、という強靭な前提的確信が用意されていた。 もう少し詳しくいえば、こうなる。 

≪021≫  ①市場は骨の髄まで不安定なもので、需要と供給のバランスを求めて均衡点に向かっていることなどめったにない。 ②だからそこにはアダム・スミスの言う「見えざる手」がうまくはたらいて最適性をもたらす、などということもない(だからこそ暴落も恐慌もおこる)。 ③市場はたしかに歴史上最も効率的なメカニズムをつくった社会システムではあるけれど、そのことと政治やノンマーケット・セクターがもたらすコントロールとは、度しがたくズレあっている。 ④それゆえ市場も社会も、自身で自身の欠陥を癒せない。 

≪022≫  こういう前提的認識による確信だ。ソロスは、「市場原理主義がどんな全体主義的イデオロギーよりも脅威になるだろう」とも、「市場原理主義イデオロギーはビジネスや経済学の領域をはるかにこえる分野まで侵食し、社会的に破壊的かつ堕落的な影響を及ぼすだろう」とも“予言”していたのである。 

≪023≫  なんとなくわかったろうが、ここにはすでに「誤謬性」という考え方が反映している。誤謬性というのはファリビリティ(fallibility)のことで、社会のシステムにも人間の判断にも必ずやファリビリティがまじっていて、それなのに社会も人間もその欠陥や欠点や弱点を含んだまま進行しているということを言っている。 

≪024≫  第2段階は、この第1段階の認識を社会経済に向けて発展させたもので、既存の経済理論に文句をつけるところになる。とくに経済学やエコノミストが、市場の本質をとりちがえて、民主主義と資本主義が手を携えて発展すると考えすぎていることに警告を発する。 

≪025≫  市場で表現される個人の意思決定と政治面で表現される集団的意思決定とのあいだには、おそろしいほどの不均衡がある。  

≪026≫  そのため、サッチャリズムやレーガノミクスや小泉改革がまさにそうだったのだが、市場原理主義が政治に絡まると、当座はどうであれ、その後の世の中にいちじるしい禍根をのこすことになる。先進諸国と金融界がリーマン・ショックをピークに雪崩を打つように倒壊した政治的金融主義の傷痕から、いまなおなかなか脱せないままにあるのは、そのせいだ。 

≪027≫  ただこれについては、ぼくには多少の文句があって、世の中には民主主義と資本主義が手を携えているという幻想があるだけでなく、民主主義と自由主義と資本主義とが重なって見えてしまうという幻想も癒しがたく原因していて、この“三重幻想”こそが問題だということを、何度も書いてきた(たとえば1275夜『暴走する資本主義』、1277夜『変貌する民主主義』、『世界と日本のまちがい』春秋社など)。 

≪028≫  ソロスは自分がネオリベラリズム(新自由主義)とは異なる新たな自由主義の旗手たらんとしているせいか、「自由」の議論についてはかなり甘いのだ。 

≪029≫  それはともかくとして、ソロスが第2段階で主張したことは、それなりに説得力がある。こういうものだ。 ①経済価値と社会価値はなかなか合致するものではない、②資本、とりわけ金融資本は特権的なもので、他のどんな生産要素より儲かるところへ移動する、③市場は資本の動向と商品の動向を分離する。 

≪030≫  多くの経済理論は、市場参加者の価値観と選好を所与のものとする。そのため価格メカニズムが需要と供給の曲線の交差によってほどよく決まっていくというふうについつい見がちになる。だが、ソロスからすると、そんなことはない。 

≪031≫  仮にそのようなことがときどきおこるからといって、それが社会の価値観の何かをあらわしているなどということは、あまりない。まして、実際には価格メカニズムがほどよく決まっていくということのほうが稀れなのである。そんなことはタンザニアとウズベキスタンとサンチャゴの生活用品の価格をくらべてみれば、すぐわかる。 

≪032≫  一方、資本はどんな生産要素よりも移動性が高い。とりわけ金融資本は直接投資よりもずっと移動性が激しい。すぐに儲かるところに移っていくものだ。そこで各国は、その移動先をそれぞれの事情に応じた経済繁栄の先駆けやベンチマークとして引き寄せようとする。そのため、各国に出向く金融機関やコングロマリット(多国籍企業グループ)に次から次へと資本が蓄積され、その蓄積のプロセスを金融市場が恣意的にコントロールするという“独占”がおこる。 

≪033≫  このような状況下では、グローバル経済はグローバル社会と同一歩調をとってはいない。いや、とれないままにある。なぜなら政治・経済・文化の基盤は、かつてもいまも、それぞれ個々の国民国家(ネーション・ステート)の上にあるからだ。 

≪034≫  だから各国の社会と経済のあいだで歩みと歪みの著しいズレがおこっていく。その各国間のズレや歪みを調整するのは、当該国の経済政策とIMFや国連などの国際機関であるはずなのだが、とうてい調整しきれるものではない。麻生政権と鳩山政権にはさまざまな方針において違いはあっても、こと財政政策・景気対策では大同小異にならざるをえないのは、そのせいだ。 

≪035≫  他方、金融市場はそんな事情におかまいなく、いつでも、こうした国家の混乱や国際機関の歩みと歪みをこえて、行きたいところへさっさと移動する。つまりは経済の本質は各国の政治や社会の動向とはほぼ無縁に動くのだ。有名な話だが、ソロスがタイ・バーツやロシア・ルーブルの混乱を予測したかのように“暗躍”したと思われているのも、このすばやい移動性を先駆したからだった。 

≪036≫  そもそも資本と市場は勝手なふるまいをする。 勝手だからこそ、市場において経営と商品の自由競争が許容されているわけで、それが市場のおもしろさになっている。企業の基本的活力源にもなっている。 

≪038≫  では、自由市場を否定したらどうなるかといえば、それをソ連をはじめとした社会主義諸国が「計画経済」や「統制経済」の名のもとにやってきたことだったわけだが、ご覧のとおり失敗した。いまやロシアも中国も自由資本主義市場の大幅な導入で、大胆な旋回をしつつある。先ごろは北朝鮮も、そうなった。 

≪039≫  このままいけば、おそらく資本主義に代わる経済システムは当分生まれそうもない。カール・ポランニー(151夜)は「経済は社会に埋め込まれるべきだ」と言うのだが、そして、それはまったくそのとおりなのだが、残念ながら資本主義市場だけは社会から極端に突出してしまったのだ。 

≪040≫  そこで、このように突出した経済システムをどうにか管理・監督・規制するために、ケインズこのかた経済システムの研究と予測と誘導とが試みられるようになったわけである。その行き着く先のひとつがフリードマンらの新自由主義であり、金融工学だった。 

≪041≫  しかし、だからといってとソロスは警告するのだが、そこに資本と商品の流れを連携的にあらわすインディケータなどはいつまでたっても見当たらないと思うべきなのである。とりわけそんなことを科学的に予測することは不可能だと思うべきなのだ。資本は資本の一元性を好み、商品は商品の多様性を好むのだ。 

≪042≫  それなら、経済と社会はこの不幸な関係をいつまでも続けていていいものかといえば、むろんそんなことはない。 

≪043≫  ということで、第3段階でソロスがいよいよ強調するのが、カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』(未来社)の考え方と、そこからソロスが導き出して中心に据えた「リフレクシビティ」(reflexivity)というコンセプトになっていく。 

≪044≫  ポパーが提案した「開かれた社会」(opensociety)は、もともとはファシズムが「閉じられた社会」をめざしたことに対する反撃の狼煙として提唱したもので、のちにはもっと柔らかい「社会の改良に向かって開かれている社会」という意味に広がった。  

≪045≫  ソロスはこれを理念にまで高め、やがて「グローバル・オープン・ソサエティ」を唱えて、その財団までつくった。 

≪046≫  リフレクシビティのほうは、これまで「再帰性」とか「相互作用性」とか、ときに「相互干渉」と訳されてきたので、ややわかりにくいかもしれないが、一言でいえば、再帰的相互性ということだ。システムにはそこに関与した者の認知バイアスがかかる、また関与した者の思考にはシステムからの影響が免れないということだと思えばいい。 

≪047≫  システムとその帰属者は両者ともに織りこまれた関係にあるものなのだから、そこをシステム(たとえば市場や政府や企業)とユーザー(たとえば投資者や経営者や消費者)を分けすぎたままに、システムの自立性を強調するのはおかしいということだ。 

≪048≫  システムとユーザーはつながっている。ただつながっているだけではなく、「ゆらぎ」「誤謬」「負」をかかえたまま、全体と部分が、領域と参加者が、制度と実態が、互いで互いをハウリングしあっている。しかもそこにはフィードバック・ループがある。それがリフレクシビティという言葉があらわしたがっている意味なのである。 

≪049≫  いったんシステムの内から外に出た情報が、どこかでシステムの中に再帰し、その再帰した情報が外の観測者に影響を与えているわけなのだ。それが複雑にくりかえされているわけなのだ。 

≪050≫  ソロスはそこに何かの“真実”と“正体”を見たようだ。たんに「インタラクティビティ」(相互作用)と言わずに、あえてリフレクシビティと言ったのは、この再帰的で相互干渉的な意味合いを含ませたためだったろう。 

≪051≫  ソロスはそこに何かの“真実”と“正体”を見たようだ。たんに「インタラクティビティ」(相互作用)と言わずに、あえてリフレクシビティと言ったのは、この再帰的で相互干渉的な意味合いを含ませたためだったろう。 

≪052≫  それでもバイアスをバイアスとして見定めたいのなら、バイアスに汚染されていない何かの他の変数が必要になる。そのため一般の投資理論やエコノミストたちは、この変数を長らくファンダメンタルズ(財務的基本要素)に求めるようにしてきた。 

≪053≫  話をややこしくしないために株式市場に限ると、企業にはバランスシート(貸借対照表)と損益がある。企業はそれにもとづいて借入れをしたり、配当を払ったりする。それゆえ市場価格は、これらのファンダメンタルズに関しての支配的な期待値をあらわすはずである。 

≪054≫  ソロスはこの見方にすでに限界があると見ているが、少なくともここまでは、参加者のバイアスを推量するにはまあまあの出発点になる。もし、均衡というものがあるとすれば、この時点での参加者の見方とファンダメンタルズが一致したときだけなのだ。 

≪055≫  しかし、投資者にとって重大なのは“将来のファンダメンタルズ”なのである。株価が反映しているはずのファンダメンタルズは前年度のバランスシートや収益や配当ではなく、将来の収益・配当・資産価値の動向などだ。これは所与のものではない。したがって、それは「知識の対象」ではなく「推測の対象」なのである。 

≪056≫  ここにおいて、将来のことがらがそれがおきる時点で、その前におこなわれた推測によって影響(再帰的ハウリング)をうけてしまうということになる。「将来を織りこむ」ということには、いくつものフィードバック・バイアスがかかるのだ。そのためその推測が株価にあらわれ、その株価がファンダメンタルズに影響をあたえるというふうになっていく。 

≪051≫  ソロスはそこに何かの“真実”と“正体”を見たようだ。たんに「インタラクティビティ」(相互作用)と言わずに、あえてリフレクシビティと言ったのは、この再帰的で相互干渉的な意味合いを含ませたためだったろう。 

≪052≫  それでもバイアスをバイアスとして見定めたいのなら、バイアスに汚染されていない何かの他の変数が必要になる。そのため一般の投資理論やエコノミストたちは、この変数を長らくファンダメンタルズ(財務的基本要素)に求めるようにしてきた。 

≪053≫  話をややこしくしないために株式市場に限ると、企業にはバランスシート(貸借対照表)と損益がある。企業はそれにもとづいて借入れをしたり、配当を払ったりする。それゆえ市場価格は、これらのファンダメンタルズに関しての支配的な期待値をあらわすはずである。 

≪054≫  ソロスはこの見方にすでに限界があると見ているが、少なくともここまでは、参加者のバイアスを推量するにはまあまあの出発点になる。もし、均衡というものがあるとすれば、この時点での参加者の見方とファンダメンタルズが一致したときだけなのだ。 

≪055≫  しかし、投資者にとって重大なのは“将来のファンダメンタルズ”なのである。株価が反映しているはずのファンダメンタルズは前年度のバランスシートや収益や配当ではなく、将来の収益・配当・資産価値の動向などだ。これは所与のものではない。したがって、それは「知識の対象」ではなく「推測の対象」なのである。 

≪056≫  ここにおいて、将来のことがらがそれがおきる時点で、その前におこなわれた推測によって影響(再帰的ハウリング)をうけてしまうということになる。「将来を織りこむ」ということには、いくつものフィードバック・バイアスがかかるのだ。そのためその推測が株価にあらわれ、その株価がファンダメンタルズに影響をあたえるというふうになっていく。 

≪057≫  ソロスはこのような事態の例として、『ソロスの錬金術』のなかでは1960年代末のコングロマリット・ブームがクラッシュしたときの抵当信託の例をあげている。 

≪058≫  ①初期に抵当信託に対する過剰評価がおこる。②次にそれによる価格高騰に引きずられて新株発行をする。③それが過剰評価を正当化したと思ってしまう。④しかしこれに追随した投資家たちにはすでに儲ける機会が縮減してしまっている。⑤以上がだんだん重なっていく。⑥それでどうなるかというと、広範な連鎖的倒産がおこっていく。 

≪059≫  これはリフレクシビティがはたらかなくなった不幸な連鎖の例なのだ。ここには実は「資産効果」というさらに厄介な計測しがたいファクターが加わって、不幸をもっと悲劇的なものにすることもおこりえた。 

≪060≫  その後、このリフレクシビティの機能不全は、周知のごとくサブプライム・ローンに端を発したアメリカ金融界の大失態にまで受け継がれていった。いまさら説明するまでもないだろうが、ソロスは『世界秩序の崩壊』では、住宅産業に対する投機のしくみのすべてが短期回路に集約されすぎた「資産効果」の計りまちがいとして露呈したと分析した。 

≪061≫  アメリカの不幸な中産階層は、トレーダーたちの「資産効果」についてのマジカルな説明に騙されたのである。むろん日本にもこんなことはしょっちゅうおこっているけれど、幸か不幸か、それが大量きわまりないデリバティブ(金融派生商品)として売り出されたことはなかった。 

≪062≫  ここで経済史に詳しい者なら、ちょっと疑問がわくかもしれない。 産業革命の拡張と産業資本の集中がおこった19世紀の時代から資本主義もグローバルであったはずだろうに、それが最近になってからなぜ急激に「暴走する市場原理主義」や「マッドマネー資本主義」のほうに向かっていったのか。もともと19世紀後半から20世紀前半に広がった資本主義にも、そういう傾向があったのではないのかという疑問だ。 

≪063≫  もっともな疑問だが、これについてソロスは、かつては次のようなストッパーが利いていたからだったと考えた。①帝国主義列強が鎬をけずりあっていて、資本の国際移動が制限されていた。②金(きん)という単一の国際通貨が君臨していた。③金融界にも企業間にも、ある種の信条と倫理観が共有されていた。 

≪064≫  では、この“幸福”な時代はなぜ続かなかったのか。ストッパーが壊れたのだ。 

≪065≫  壊れたのは第一次世界大戦のときだった。ヨーロッパ列強が戦争にあけくれて、軍事が資本を完全に制圧したからだ。そこに③の信条の腐敗も加わり、壊れたストッパーは修繕できなかった。それがそのまま1929年の世界恐慌に及び、さらに第二次大戦の終戦直後まで続いた。ここまでは詳しい説明はいらないだろう。 

≪066≫  説明はいらないだろうが、ソロスにとってはこのことが生涯にとっての大きな出来事になる。そのことを言っておく。 

≪067≫  実はソロスは、そのような状況下の1930年のハンガリーのブダペストに生まれていた。 すでにヨーロッパは歪みきっていた。ドイツは戦争賠償金とマルクの暴落に喘ぎ、それらを救済できる政治メシアとしてヒトラーが登場していた。そしてソロス14歳のときが、そのナチスによるハンガリー侵攻がおこったのである。この年ハンガリーで6万人のユダヤ人が死んだ(欧州全体で40万人)。ぼくが生まれた直後の1944年の3月のことである。 

≪068≫  少年ソロスは呆然としたまま逃げまわっていたようだ。ちょうどこのとき、壊れきったストッパーをなんとか繕うために、大西洋の海の向こうでひそかに組み上げられたスキームが出現した。1944年7月にニューハンプシャー州ブレトンウッズ会議で、新たなな設立の組み立てが決議されたIMF(国際通貨基金)と世界銀行による「ブレトンウッズ体制」だ。 

≪069≫  この符牒はまことに象徴的だ。おそらくソロスの思想はこのときに宿命的に始まっていたのだと思われる。 

≪070≫  ブレトンウッズ体制は、①大恐慌後のブロック経済によって世界の貿易経済が縮小したことをたてなおすとともに、②国際通貨システムの秩序の回復をはかるべく為替レートを安定させ、③貿易障害となっていた経常取引による為替規制を取り払う役目を担うものだった。 

≪071≫  ここに一応は、戦前までの「保護・差別・双務主義」は「自由・無差別・多角主義」に移行した。なかでもIMFは、加盟国の国際収支上の不均衡(つまり外貨準備不足)を補填する融資をおこなうことによって、当初はめざましいバランス装置として機能した。しかし、問題はこのあとにおこっていく。 

≪072≫  この体制は、いまだ固定相場制のもとでのドルと金の価値を強固に結びつけるものだったのだ。金1オンス=35米ドルの、つまりは“金=ドル本位制”なのである。 

≪073≫  だからこのアメリカ中心の“金=ドル本位制”が機能しているあいだは、また、国際経済はアメリカの独走とソ連の抑制を是とするかぎりはそれでもよかったのだが(つまり二極体制の一方に加担しているかぎりはいいのだが)、しだいにドルの実質価値が低下していくと、おかしくなった。とりわけ、ベトナム戦争の戦費拡大によってアメリカの財政収支がいちじるしく悪化すると、ドルの信認はどんどん下がりはじめたのである。 

≪074≫  これが限界だった。なんとかこれに歯止めをかけようとしたのが、いわゆる「ニクソン・ショック」(ドル・ショック)である。 

≪075≫  1971年8月、ニクソンはドルと金との交換を停止してしまった。かくて世界の主要国はいっせいに「変動相場制」に移動した。ブレトンウッズ体制はあっけなく崩れたのだ。  

≪076≫  それならIMFが世界の通貨安定を支えるという役割も終わってもよかったわけである。ところが直後に2度にわたっての「オイル・ショック」(石油危機)がおきたため、非産油諸国の経済状況が急激に悪化した。IMFはそのまま融資機関としての役割をずるずると拡大させてしまい、80年代にはラテンアメリカ諸国の債務危機に出動、90年代には1232夜の『反米大陸』でもふれたように、構造調整融資の名目のもと、アメリカの南米コントロールのための介入などが巧妙にも執行されていったのだった。 

≪077≫  それでどうなったのか。さまざまな国の資本収支危機が露呈することになり、その一方で、各国の「経済の自由化」「市場の自由化」がIMFプログラムの執行によって拍車をかけられたのである。 

≪078≫  これはあきらかに過剰な勇み足か、失敗である。そして、この時期にこそソロスの錬金術が大いに発揮されたわけだった。 

≪079≫  かくてIMFは国際調整をいつまでも謳い文句としながらも、リフレクシビティを発揮することなく、まして、そこにファリビリティ(誤謬性)を認める視点をもつ者も少ないままに、金融工学的乗り越えに軌道転換していったのである。 

≪080≫  しかし、ソロスはそうしなかった。ソロスはファリビリティを含ませた投資計画によって、事態を乗り越えた。その計画にはIMFや世銀の失敗は織りこみずみだったのだ。 

≪081≫  IMFはソロスの最大の友であって、最大の敵だったろう。目を覆うIMFの失敗に、ソロスは新スキームを提案してセイフティネットづくりに資金を供する用意があることを申し出たことがあった。1992年のことだ。けれどもIMFは見向きもしなかった。  

≪082≫  そこでソロスは独自の財団を設けたり、トービン税に代わる課税制度を提案したりした。トービン税はノーベル経済学賞のジェームズ・トービンが案出した国際通貨取引への課税だが、ソロス税は金融取引への課税案である。たちまち金融界が反対し、ソロスは孤立した。 

≪083≫  堪忍袋の緒が切れたソロスが最後に袋の中から持ち出したのは、IMFがSDR(特別引き出し権)を配分して、富める国が自国に配分されたSDRを国際協力のために“贈与”するというスキームだった。ソロスは革新的なアイディアを加えた。SDRが利付き資産であることに着目し、そこから国際援助資金を金融市場とはべつに創出できないかというものだ。 

≪084≫  詳細は省くけれど、このSDR贈与スキームには、①贈与メニューの設定委員会とドナーの贈り先とを切り離す、②贈与適確プログラムは保健・教育・デジタルデバイド・司法改革などに絞る、③貧困対策は除外する、④こうした社会投資のための取引所を創設する、⑤以上の組み合わせのためのマッチングにはマイクロクレジットを使う、といったかなり斬新な提案が含まれていた。 

≪085≫  ぼくはこの提案を聞いたとき、やはりソロスは只者ではないと感じたものだ。なるほど、贈与こそはモースやポランニーが未来に積み残した唯一の「経済を社会に埋めこむための可能性」であったからである。 

≪086≫  では最後に、ソロスがその思想の骨格の大半を依拠したカール・ポパー(1902~1994)の考え方について、手短かに説明しておく。 

≪087≫  ポパーはウィーン大学で数学や理論物理学を修め、いったんはマルクス主義に関心をもったのだが、革命の大義のために人命を犠牲にするという思想に嫌悪を感じて、そこから脱するうちに、経験科学の本質を研究するようになった。 

≪088≫  そこでポパーが考えたのは、①経験にもとづいた言述とそうではないものを区別する、②そのためには「境界設定」(分界化demarcation)を必要とする、③それにはいったん反証可能性を確立することが重要になるだろう、ということだった。  

≪089≫  ふつう、経験科学では時空の一般的な領域を設定してさまざまな現象を点検しているのだから、そこに厳密な検証(verify)をもちこむのは限界があるという見方をとる。これに対して、ただ1個の反例によっても反証がありうるという議論が、数理哲学者のイムレ・ラカトシュらによってされていた。これを反証主義(falsificationism)というのだが、これは理論と観察のディマーケーションが任意になりすぎていた。 

≪090≫  そこでポパーは、たんなる反証主義を超えて、そこに「理論と観察を分離させない見方」をもちこんだ。このポパーの見方をソロスは(ソロスだけではなくてポパーの理解者の大半は)、「検証と反証には非対称性がある」というふうに理解した。 

≪091≫  検証と反証は一緒くたにすべきではなかったのである。そのかわり、そこにリフレクシビティやファリビリティの要素を組みこめば、ひょっとするとその非対称性こそが動きだして、新たな価値を生むかもしれなかった。 

≪092≫  ソロスは、この考え方に狂喜し、その実践に邁進した。ソロスが狂喜したのは、こういう理由だ。「私は自分の投資の基礎となる仮説を築きあげたかった。その仮説は、一般にうけいれられるものとできるだけ違っていたほうがよかったからである」。 

≪093≫  ソロスは仮説の大きさがもつ特色に惹かれたのだ。 そして、世の中に流布する仮説との違いが大きければ大きいほど、利益の潜在的可能性が大きいはずだと確信したのだった。もしそういう違いがないのなら、たとえ投資家であろうとも、売買持ち高のポジションをとってもしょうがないと判断したのだ。 

≪094≫  これは、ポパーが「検証が厳しければ厳しいほど、それに耐える仮説の価値は大きくなっていく」と言っていることをソロスふうに拡大解釈して、その原理をぴったり対応させたものだった。 

≪095≫  やがてソロスはこのようなポパーの哲学を、①特定の初期状況、②特定の最終状況、③仮説的な特性の普遍化、という3つのプロセスに置き換えた。③が重要だ。 

≪096≫  初期状況と最終状況の確認は市場を観察していれば、誰にもできるかもしれない。しかし、そこにリフレクシビティやファリビリティが介在しているだろうことを予測するには、③の仮説特性の拡張がなければ組み立てにはならない。ソロスはそこを徹しさえすれば、いつもディマーケーションにもとづいた検証と反証のシナリオの組み合わせが読めると考えたのである。 さあ、これで何がおこったのか。投資プロセスに「アブダクション」(仮説形成)が関与することになったわけだ。 

≪097≫  だいたいこんなところでいいだろうか。 何も説明できなかったようにも、大事なところだけは説明したようにも、思う。いくつかの印象を補っておく。 

≪098≫  かつて、ぼくが初めてソロスを読んだとき、あれっ、これは何かに似ているぞと感じたことがあった。ひとつは、こんな一人よがりは、マッドサイエンティストやオカルト思考にしょっちゅう出入りするものに似ているということだった。しかし、もうひとつ思い浮かんだ者たちや事例たちがあった。それは、たとえばザメンホフ(958夜)がエスペラントを創出したことだ。またたとえば、エドワード・ローレンツがカオス理論の端緒を開いたことだった。  

≪099≫  あるいはマンデルブロがフラクタル幾何学を、ルネ・トムがカタストロフィ理論を組み上げたことにも似ていると言ってもいいのかもしれない。これらは何に役立つのか、当初はまったく見当がつかなかったものばかりで、実際にもこの手のもので(エスペラントのように)たいして広がらなかったものも少なくない。 

≪0100≫  ところがジョージ・ソロスは、このようなものに似たもの(とぼくが感じたもの)を、なんだか圧倒的な勢いで社会改良型ビジネス・スキームにもしてしまったのだ。な、なんなんだ? かなり変なものか、それとも注目するべきものなのか。これはどこかでぼくなりの判定をするべきだと思ったのである。 

≪101≫  ところがジョージ・ソロスは、このようなものに似たもの(とぼくが感じたもの)を、なんだか圧倒的な勢いで社会改良型ビジネス・スキームにもしてしまったのだ。な、なんなんだ? かなり変なものか、それとも注目するべきものなのか。これはどこかでぼくなりの判定をするべきだと思ったのである。 

≪102≫  ただぼく自身はどんなビジネススキルにもまったく疎いので、このように感じた印象がいったい何を示しているのか、どの程度妥当なものなのか、長らく見当がつかなかった。そのうち、社会がやたらに変なことを気にするようになってきた。 

≪103≫  それは「リスク」とは何かということだ。みんながリスクを持ち出したのである。そして、どんなものにも、どんなことにも、やたらに賞味期限を付けるようになったのだ。 

≪104≫  リスクにはさまざまなものがある。内乱やテロによるリスク、為替移動や金利変動によるリスク、不買運動や消費者運動によるリスク、原発事故やウィルス流行によるリスク、大気汚染や水質悪化によるリスク、結婚した相手から受けるリスク(タイガー・ウッズは大変だったろう)。何であれ、当事者にとってはかなりのものがリスクになっている。  

≪105≫  ところがこれらを、世の中がこぞって“計算”を始めた。そんなにすべてのリスクを計算して、それをリスクヘッジする社会をつくろうとしたら、いったいどうなるのか。 

≪106≫  ここにおいて、ぼくはソロスの発想のほうにちょっとした軍配を上げる気になったのだ。 

≪107≫  ソロスがいったい何を掴んだのかといえば、かつてグレゴリー・ベイトソン(446夜)が、アメリカ人がエリー湖にゴミを捨てているうちはいいけれど、そのエリー湖に感謝もせず、またそのエリー湖が汚染されたきに新たなエリー湖をつくろうとしたとき、アメリカはしっぺ返しを食うだろうと“予告”したことを、掴んだのだ。  

≪108≫  複数のリスクヘッジを組み合わせていけば、どこかで“新エリー湖”が必要になるはずなのである。それよりも、もとのエリー湖が新陳代謝できる程度にゴミを捨てたほうがいいはずなのだ。それが人間の誤謬性の許認というものなのである。 

≪109≫  それをソロスの認識でいいかえれば、①社会と経済にはズレがおこる、②どんな人間も誤解をしていることがある、③システムとユーザーとのあいだにはハウリングとそこから生じるバイアスがかかる、④閉じた社会に対してはつねに開かれた視座を導入するしかない、⑤以上のことを「人間の想像力のための仮説」として確信しつづける、こういうことになるだろう。  

≪110≫  ソロス自身はこのことをどう言っているかということを、最後に紹介しておこう。こう言っている。 

≪111≫  「科学においては仮説の価値は掴みどころがないかもしれない。ところが金融市場においては、それがもたらす利益によって即座に計算することができるのである。それが一般にうけいれられるようになるだけで、仮説が利益をもたらすのだ。そこには当然に欠陥がある。しかし、その欠陥がどこにあるかが見えさえすれば、その可能性のある仮説にこそ、私は大きな投資をすることを好んできたのである。カール・ポパーから学んだことはそのことだった」。 

≪112≫【参考情報】 (1)ソロスが14歳だった1944年、ブダペストでは6万人のユダヤ人が虐殺された。ナチス当局はブダペストのユダヤ人協会に強制連行の命令書を配布する役目を押し付けた。協会はそれを子供たちに押し付けた。その役目をやった子供の一人がソロスだった。ソロス自身はいまなお誕生日さえあかさないのだが、ユダヤ人だったようだ。György Schwartzデュードウ・ショロッシュが本名である。ともかくも、ソロスは自分の正体を隠さなければ、生きていけなかったようだ。1947年の秋、スイスのベルンに逃れ、ついでイギリスに入ってロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに入学した。この大学にハロルド・ラスキとフリードリヒ・ハイエクと、そしてカール・ポパーが教えていたのである。 

≪113≫【参考情報】 (2)1956年、ソロスは資金5000ドルを手にしてニューヨークに向かい、メイヤー証券に就職、やがてアナリストとしてヨーロッパ証券についてアメリカの金融機関に助言するようになった。その後、ワーサム証券に移り、60年代に入ると自身の投資活動を始めた。ドイツの保険会社の証券に目をつけたのだが、折からのケネディがとった利子平衡税によって、海外証券を自由に購入することを阻まれた。このとき、ソロスは『認識の重荷』と題する論文にとりくみ、これをポパーに送るのである。この論文には、その後のソロスの思想のほとんどの骨格があらわれている。当時のソロスについて、のちに共同経営者になったエドガー・アステアは「頭がよく、自信家で、そして極端な秘密主義者だった」と言っている。 

≪114≫【参考情報】 (3)ソロスは1969年に独自のヘッジファンドを開発し、1973年に投資会社をおこした。これがのちの「クォンタム・ファンド社」である。世界中を席巻した。1992年9月16日のブラック・ウェンズデーで100億ドルのポンドを空売りして、11億ドルを儲けて“大英銀行を破産させた男”と呼ばれた話、1997年のアジア・メルトダウンでは「経済的戦犯」呼ばわりされた話など、そうしたソロスの“業績”についてはいろいろな本に当たられたい。 

≪115≫【参考情報】 (4)ソロスはどんな人物だったのだろうか。ここではソロスの信条を示す友人の言葉を紹介しておく。「ソロスは自分の努力を抽象化すること、それを定義することに集中した男だった」。なるほど、なるほど。ソロス自身はこう書いている。「私は自己の存在というものを意識したときから、自己を理解することに激しい情熱を燃やし続けてきた。そして、自分自身を理解することこそ最大の課題で、最大の利益目標であると確信するようになった」。 

≪116≫【参考情報】 (5)ソロスの著作はあらかた上記に紹介した。ソロスについての本とともに版元を記しておく。『ソロスの錬金術』(総合法令)、ソロス『ジョージ・ソロス』(七賢出版)、ソロス『グローバル・オープン・ソサエティ』(ダイヤモンド社)、『ソロスの資本主義改革論』(日本経済新聞社)、『ソロスは警告する』第1弾・第2弾(講談社)、『ブッシュへの宣戦布告』(ダイヤモンド社)、『世界秩序の崩壊』(ランダムハウス講談社)、ロバート・スレイター『ソロス』(早川書房)、青柳孝直『ソロスとギャン』(総合法令)など。 

≪117≫【参考情報】 (6)ポパーのものは、『開かれた社会とその敵』第1部・第2部(未来社)、『科学的発見の論理』『推測と反駁』(法政大学出版局)など、いずれもかなり難解な思索が展開されている。マルクス主義とも論理実証主義とも対決をしているので、容易にはその全貌を短評できない。フランクフルト学派やトマス・クーンとの論争も熾烈だった。ぼくは早くに「ディマケーション」(境界設定、分界)に影響されたので、そのあたりのことをいずれ書きたいとは思っている。しかし、かなりの偏屈だと思う。 

≪118≫【参考情報】 (7)本書の訳者の大原進は、日本経済新聞のワシントン特派員などを務めたジャーナリストで、「英文日経」の編集長、日経アメリカの社長でもあった。その後、北陸大学客員教授、東北文化学園大学教授になり、本書のほかにウォルフレンの『なぜ日本人は日本を愛せないのか』(毎日新聞社)などの翻訳、『クリントンの米国経済』などの著書をものした。翻訳はうまい。 

≪01≫  社会は市場ではない。意識も市場ではない。けれども社会にも個人の意識にも必ずや「効用」と「厚生」がつきまとう。 こういう考え方は価値社会には欠かせないと考えられてきた。そのため多くの者が合理的な成果を求めてきた。しかし、社会と意識と市場がそんなに合理的にできてきたのかといえば、はなはだあやしい。それどころか、そこには「合理的な愚か者」が溢れかえっていた。「合理的な愚か者」とは誰なのか。何なのか。今夜は、アマルティア・センの社会学の刃が社会の常識に向けて切り返してみせたケイパビリティによる概念工事を、少々ながら紹介したい。 

≪02≫ 誰が「合理的な愚か者」なのか。気をもたせるのもなんだから、最初に結論を言ってしまうけれど、これはずばり「ホモ・エコノミクス」(経済人)のことである。そこらじゅうにゴマンといるビジネスマンや経営者たちのことだ。 

≪03≫ ホモ・エコノミクスは合理的ではあるがつるつるで、努力家ではあるが平均的で、勤勉かもしれないが適当なリターンを得たい愚か者なのだ。社会よ、国家よ、企業人たちよ、そんな合理的な愚か者に市場や社会の意思決定を託していいのか。そこを私はとことん問いたい。これがセンが言いたい主旨だった。 

≪04≫ センは、合理的な経済活動だけをするルールや価値観に追従する社会人というものを疑った。また、そういう理論を組み立ててきたそれまでの経済学や社会学に文句をつけたかった。そこで本書で「価値をめぐる社会学」に新たな展望をもたらそうとした。なぜ、そんなことを考えたのかといえば、次のようないきさつがあった。 

≪05≫ センはインド人である。その故郷がイギリス領だったころの、インド・ベンガルに生まれた。9歳のときの1943年、悲惨なことで当時のマスコミを震撼させたベンガル大飢饉を体験した。この故郷の窮状にショックをうけて、既存の社会や経済のありかたに疑問をもった。

≪06≫ カルカッタのプレジデンシー・カレッジで経済学を学び、ケンブリッジ大学に進んで既存の経済学や社会学の波及に不満と限界を感じた。そのころのアカデミズムでは、アダム・スミス以来の「利己心」とジェレミー・ベンサム以来の「功利主義」と、そして新古典派経済学が提唱した「ホモ・エコノミクス」とがつるつるに固定されたままになっていた。それなのに、それによって動いている資本主義経済社会は麗々しくも「自由市場」とか「リベラリズム」だと思われていた。 

≪07≫ いったい個人の自由選択と社会が示す多数の価値観がぴったり合致することなんて、あるのだろうか。それを軽々しく「自由」とか「自由選択」などと呼んでいいのだろうか。どうも疑問だ。デリー大学、オックスフォード大学、ハーバード大学などに教職をもちながら、センはしだいに経済学と倫理学を近づけていって、そのうえで新たな展望による「共感」と「コミットメント」の社会学を考えるようになっていった。 

≪08≫ 残念なことに日本人はあまりセンを読んでこなかった。「共感」や「コミットメント」の社会学があると言ったって、うまく伝わらない。 

≪09≫ むろん日本にもセンについての紹介も導入もあった。主には本書の訳者の大庭健(専修大学教授)と川本隆史(東京大学教授)が精力的にその研究を引っぱってきたのだが、日本人が経済学と倫理学の統合のための試みに関心がないせいなのか、社会福祉学や厚生経済学という学問の潮流そのものに人気がないせいなのか、センの議論の仕方がわかりにくいせいなのか、専門家以外にはあまり読まれていない。 

≪010≫ センが書く論文は難しい。文章もうまくない。もってまわったところがあるし、サマライズ(要約)がしにくい。だからなかなか読まれてこなかったのかもしれないが、それでも、センがどのように「合理的な愚か者」を問題視するにいたったかというプロセスは、市場主義者にも反市場主義者にも、つまりはリスクとリターンを新たな局面で考えたい者にも、今日の民主党政権のように「新しい公共」を考えたい者にとっても、見逃せないプロセスだった。 

≪011≫ 今日の社会は「個人の集合」からなっている。その個人と社会のあいだに、家族や地域共同体や商店街や学校や会社や役所がはさまっている。だから個人の価値判断をなんらかの手法で集めると(たとえば選挙や世論調査)、それらは「社会的な価値観」の構図になるだろうという予測が成り立つ。場合によっては、それが「社会的な意思決定」だというふうにもなる。内閣支持率などはその典型だ。 

≪012≫ しかし世間というもの、いまやすっかり大衆に支えられ、その大衆はたいていポピュリズムに傾く性癖をもち、おまけにそこにはマスメディアの解説や扇動もある。どのように個人の価値観が社会の価値観とつながっているのかは、なかなか見えにくい。ましてどこに意思決定プロセスがあるのかは、たとえば最近の普天間基地移転問題がそうであるように、さらに見えにくい。 

≪013≫ こういう問題を理論的に考え、そこに数学的な手法を加えながら組み立てようとする「社会的選択理論」(theory of social choice)という専門的な学問がある。最終的には社会的な意思決定がどのように組み立てられるべきかを議論する。ケネス・アローが組み立てた。 

≪014≫ 社会的選択理論で問題にするのは、個人の利己心である。社会は個人の利己的なふるまいをどう扱えばいいのか。周知のように、アダム・スミスは個人の利己心が、市場においては「見えざる手」によってうまく動くと考えた。  

≪015≫ この考え方は一挙に広まった。スミスより20歳ほど若いジェレミー・ベンサムは、個人が快いほうに向かって自己利益を求めることは、市場のみならず、社会全体においても最大幸福につながるとみなして、この動向をベンサム自身の造語によって「功利主義」(utilitarianism)と名付けた。功利主義の見方によれば、利己心は「最大多数の最大幸福」をつくる発端なのである。それまでイギリスではコモン・ローが慣例と判例の基準となってきたのだが、ベンサムは行政と法律の外側にも尺度がありうることを示したわけだった。ここに“計算可能な個人主義”が発露した。 

≪016≫ ベンサムの功利主義は、ついでスチュアート・ミルによって自由論や代議政治論に発展し、どんな個人にも、他人に危害を加えないなら何をしてもいい個人的自由があると想定された。やがて自由主義的な個人主義が確立していった。 

≪017≫ そのほか、さまざまな考え方がスミスとベンサムの功利的利己主義を出発点にして連打されていったのだが、そのあたりの流れについては1336夜に案内した間宮陽介の『市場社会の思想史』(中公新書)などを参照してほしい。 

≪018≫ なぜ功利的利己主義というような個人のちっぽけな行動が集まると、まわりまわって社会という大きなしくみに寄与できるだなんてことになったのか。  

≪019≫ こうした考え方の底辺に何があるのかというと、それはかんたんだ。社会が「グッド」や「ハッピー」になるはずだという理念が根強くあったからである。いかに戦争や犯罪や不信がはびこっていようと、社会はそれを理念とするわけにはいかない。やはり善心や幸福を理念としたい。 

≪020≫ 社会が「グッド」や「ハッピー」になるにはどうすればいいか。仏教なら自分で修行をしなさい、イスラム教ならアラーを信じなさいということになる。老荘思想なら社会のことなどにあまりかかずりあうな、無為自然でよろしいということになる。ところがヨーロッパでは、理念は現実であり、現実の社会は理念を反映するべきものなのだ。「グッド」も「ハッピー」も現実的なアプローチが可能になって、その結果が互いに示しあえるものでなくてはならなかった。できれば、その結果を明示的な数値をもってあらわしたい。 

≪021≫ こうしてヨーロッパでは、「グッド」や「ハッピー」を考えて信仰するのが宗教者で、それを社会的な場面にあてはめて推理をするのが知識人で、それを効果的に制度にするのが政治家で、それにもとづいて生産するのがメーカーで、それを商取引するのが商業者たちで、これらを享受するのが民衆だという相場になっていった。つまりはヨーロッパにおいては(いまでは資本主義社会にとってはということだが)、学問とはこれらのための推理の手段を提供し、その可能性があるのかどうかを見極めるものなのである 

≪022≫ というわけで、スミス、ベンサム、ミルたちは、人々の望む善心や幸福というものも、そこに多少の制限を加えさえすれば、おおかたの個人の行為や意思の集積によって実現できるだろうと推理したわけだった。自由の範囲がどこにあるのかも考えるようにしたわけだ。 

≪023≫ しかし、ほんとうに個人の利己心の集積が社会の自由になっているのかどうかは、テストしてみなければわからない。信仰だけでも理屈だけでもわからない。まして商取引だけではわからない。とくに世界大戦や金融恐慌や貧困をかかえるようになると、新たな社会的なブレイクスルーの方法が模索されるようになった。 

≪024≫ かくして社会的選択理論は、そのテストのための数理的な手段を考えるようになったのである。「グッド」や「ハッピー」を求める行為が数値に向かって明確になっていくアプローチに踏みこんだのだ。 

≪025≫ 個人の意思や行為を社会に示せる数値的なしくみがあるかといえば、最も典型的には2つある。 

≪026≫ ひとつは、投票などによる多数決である。ぼくにとって多数決が気持ちの悪いものであることは、一昨年の暮に千夜千冊した森政稔『変貌する民主主義』(ちくま新書)のところや『国家と「私」の行方』(春秋社)で詳しく書いておいたけれど、しかし一般社会では、「多数決の原理」はめったにゆるがない。いや、民主主義社会では多数決はゼッタイ的なものにもなっていて、個人が社会的に選好や決断を示す強力な意思決定装置として君臨しつづけている。ここでは数がちゃんとものを言う。 

≪027≫ もうひとつは、「市場の原理」である。ここでも市場参加者としての個人の意思や行為は(企業参加を含めて)、市場の動向に如実に反映される。こちらはもっと劇的に数の変化が日々あらわれていく。 

≪028≫ この2つは、複数の個人の価値判断を単一の社会的な価値判断に仕向けるしくみなのである。両方とも数値によって意思の進んだ道筋がわかるようになっている。だからこそ投票制度や多数決や投資市場は、これまでの社会のなかで大手を振って成り立ってきた。 

≪029≫ 言い忘れたが、経済学では、このような個人に始まる価値判断の向きとその算定結果のことを「効用」(utility)といい、社会学では、このように複数の価値観が集計された総体のことを「厚生」(welfare)という。社会的選択理論というのは、この「効用」と「厚生」のあいだの関係に分け入っていくものだった。その大成者がケネス・アローだったのである。 

≪030≫ アローは『社会的選択と個人的評価』(1951)を書いて、社会的な決定ではたいていは次のようなことが前提になっていると考えて、これらを関数にした。「個人の選好には制約がない(個人の好みは強制されない)。全員一致の選好は社会的決定になる(これをパレート最適という)。多数決もありうる。どこにも独裁が関与すべきではない、どんな意見も尊重されるべきである……」。 

≪031≫ アローが挙げた前提要素は、ざっと見ればわかるように、民主的な社会価値をかたちづくっている要素と思われているものばかりだ。ところがこれらを関数(社会的厚生関数)として数式にしてみると、結論は意外なものになった。以上のような民主的な条件が同時に成立することは“ありえない”というものだったのだ。これを社会経済学では「アローのパラドックス」とか「不可能性定理」と呼んでいる。  

≪032≫ 当然ながら、アローの結論は反響を呼んだ。民主主義の不可能性を数理的に立証したようなものだったからだ。 

≪033≫ そこでアローを引き継いだ社会的選択理論は、まずはこの民主主義の完全成立の不可能性を免れる道はないのかという議論をし、それがかなり困難だとわかると、ついではこの結論を別の領域にあてはめたり、比較したりした。この過程で、いわゆる社会福祉学や厚生経済学がさまざまに提案された。 

≪034≫ また、アローのパラドックスの限界を調べるほうに向かう研究者たちもいた。その限界を指摘するほうの一群に、アマルティア・センが屹立したのである。 

≪035≫ ここまでが、センが社会的選択理論の舞台に登場するまでのあらかたの背景だ。あまり学問のほうに入りこまないように説明したのでわかりにくかったかもしれないが、それでも、すでにセンの前に、「効用」と「厚生」を媒介にしながらも、最大多数の最大幸福をめざすべき民主主義の方程式が喘いでいたことが見てとれる。 

≪036≫ センはどうしたのか。先を急いでいうと、センはアローの成果と限界を克服し、そこから新たな展望が見いだせないかというふうに考えた。また、そういう課題を「リベラル・パラドックス」というふうに措いてみた。全員一致の原理(パレート最適)と個人の自由を承認する原理のあいだにまたがるパラドックスである。リベラル・パラドックスが横たわる原因は、はっきりしていた。  

≪037≫ パラドックスを生み出している起源が合理的な利己心にあるということだ。この利己心はアダム・スミスが想定した自由に市場に参加するという利己心ではない。市場参入による勝利を想定した利己心だ。だったら、これを疑ったほうがいい。 

≪038≫ ここからセンによる「合理的な愚か者」という群像モデルができあがっていった。長らく「ホモ・エコノミクス」として大事にされてきた平均的経済社会人像は、またナポレオン以降のネーション・ステートで集計の対象になりつづけてきた統計的市民像は、ここにべっとりと泥を塗りたくられたのだ。 

≪039≫ つづいてセンは、そこには合理ではなく不合理や非合理があるだろうと予想したのだが、こちらはなかなかブレイクスルーが難しかったようだ。センは時間をかけて考えた。その軌跡は本書が1970年の論文から1980年の論文までの幅をもっていることにもあらわれている。しかし最終的にセンは脱出した。このときセンが持ち出したのが「共感」と「コミットメント」だったのである。 

≪040≫ センのいう共感とは、自身の利益にまったく関係がなさそうな事態や行動に共感することをいう。たとえば他者の貧しさへの共感、悲哀への共感、不成功への共感……だ。もう一方のコミットメントとは、そのような共感がおこってしまったことを放ってはおけず、そこについついかかわろうとする意思の発動のことをいう。 

≪041≫ はっきりした利他性というものではない。「思いやり」ともかぎらない。ふと、やむにやまれぬものが発動しているのだ。それが共感であり、コミットメントなのである。これは、センの乾坤一擲だった。 

≪042≫ それにしても、こんな柔らかい概念が社会的選択理論のような数理的な社会学や経済学に持ち出されたのは希有のことだった。これらは、それまでの社会的選択理論からすると、自身の選好や効用がもたらす理論には反することで、スミス、ベンサム以来の功利的個人主義にも半ば対立する。 

≪043≫ はたしてこのような共感やコミットメントをもつ社会単位としての個人を、民主主義社会のルールの延長にあるものと見ていいのか、自由論の新しい提起であるとみなしていいのか、そこの議論がはなはだこみいっている。センの論文がわかりにくくなっているのは、このあたりのせいもある。 

≪044≫ けれどもセンはあきらめなかった。新たな概念の提出によって切り抜ける。それは「ケイパビリティ」(capability)というものだった。潜在能力というふうに訳されることが多いのだが、そのままケイパビリティと掴んだほうがいいだろう。センは、共感やコミットメントが個人の活動のケイパビリティとして、インターパーソナルに必ずや観察できるはずだとみなしたのだ。ぼくなら、このケイパビリティにコンティンジェントな別様の可能性が待っている、と言ってみたい。 

≪045≫ 【参考情報】(1)
アマルティア・センは1998年にノーベル賞を受賞した。そのときの推薦理由をケネス・アローがまとめた。①社会的選択のフォーマルセオリーの提案した、②個人の選択と合理性についての矛盾の摘発と橋渡しをした、③社会的政策の明示化した、④不平等と貧困を測定可能にした、⑤分配とその既決についての研究を進めた、⑥社会的厚生の展望を開いた、というふうになっている。 

≪046≫ 【参考情報】(2)
センの著者の翻訳は少ない。本書のほかには、『不平等の経済理論』(日本経済新聞社)、『福祉の経済学』(岩波書店)、『集合的選択と社会的厚生』(岩波書店)、『不平等の再検討』(岩波書店)くらいがあるだけだ。 研究書もまだ少なくて、若松良樹『センの正義論』(岩波書店)、鈴村興太郎・後藤玲子『アマルティア・セン』(実務出版)、田中廣滋『公共選択の経済理論』(中央経済社)、塩野野裕一『価値理念の構造』(東洋経済新報社)、斎藤純一『自由』(岩波書店)、有賀誠ほか『ポスト・リベラリズム』(ナカニシヤ出版)、合意形成研究会『カオスの時代の合意学』(創文社)、大澤真幸『自由の条件』(講談社)などが目立つくらいで、あとは学術誌の論文が多い。本書の訳者の大庭・川本も論文で強力な援軍を繰り出し中なのだ。 なお、文中でいささか気の毒なかっこうで紹介してしまった平山朝治の『ホモ・エコノミクスの解体』(中央経済社)は、他の平山の著作とともに必読だ。中央経済社から全5巻の『平山朝治著作集』が刊行されている。いつかはとりあげたい。 

≪047≫ 【参考情報】(3)
実はセンの「ケイパビリティ」は、このあとのぼくの千夜千冊の隠し玉になっていく。それがどういうものなのかはわざとらしくここでは書かないし、それにはさまざまな「自由論」や「正義論」や「リベラリズム論」を経由する必要があるので、よほど注意深く千夜千冊を辿っていってもらわないと、隠し玉の起爆の場面を見逃してしまうかもしれない。ぜひとも、ご注意を。 ただしひとつだけ、ここでヒントを書いておく。ISISというのは、Inter System of Inter Scoresということなのだが、このインタースコアがインターシステムとなっていくところに、実はインターパーソナルなケイパビリティが関与しているわけなのである。あれっ、言いすぎたかな。  参照 VSFSF 

≪01≫ この人には参っている。そうとう切れる。この数年間の読書のなかで、ずいぶん痺れさせてもらった。切れるだけではなく、用意も周到、背骨も頑丈だ。歴史でも現在でもない「歴史的現在」というものがかなりディープに見えていて、しかも鳥の目と虫の目と人の目がある。その目は地政的であり原マルクス的であるが、その使い方をまちがわない。 

≪02≫  日本のインテリ然とした連中には鳥の目と虫の目の、また人の目と鳥の目の両義的交換がなく、それぞれの「あいだ」がなんだかんだと抜け落ちる。「鍵と鍵穴」の関係にはそれなりに気がつく知識人はいるのだが、その鍵と鍵穴のあいだにも世界現象がすばやく乱れこんでいることが、捨てられる。それがハーヴェイにはない。 

≪03≫ それでいてハーヴェイにはバネもある。専門は経済地理学で、ケンブリッジ大学で博士号を取得して、ジョン・ホプキンス大学教授、オックスフォード大学教授をへて、ニューヨーク市立大学教授などを歴任した。 

≪04≫ そういうハーヴェイの経済地理学とはどんなものかと思って、かつて『地理学基礎論』(古今書院)と『空間編成の経済理論』(大明堂)を取り寄せてみたら、『地理学基礎論』(1969)はもとは“Explanations in Geography”という大著で、古今書院のものはその部分訳だったのだが、それでも理論地理学と計量地理学を批判的な足場にして、ここへ論理実証主義の哲学や行動主義の視線をぶちこんでいる。 

≪05≫ そう書くとずいぶん荒っぽいようだが、それがそうとうバネが効いていて、巷間、ハーヴェイをマルクス経済地理学の大成者とよんでいる印象から想像するような、理屈っぽいものではなかった。ただし『空間編成の経済理論』(1982)のほうは上下2巻の大著のまま翻訳されていたが、これはラディカル・ジオグラフィの名をほしいままにするような理屈に満ちたものの、建築環境と資本の第二次循環の関係がひどくなっていることを多様に検証していて、ぼくには読むのがしんどかった。 

≪06≫  そういうなかで一昨年、『新自由主義』(作品社)を読んだ。いっさいの偏向に迷わされることなく、すばらしくまとまっていた。  

≪07≫ うーん、たいしたもんだ。これまで何冊ものグローバル資本主義批判や新自由主義批判を読んできたが、その多くが経済主義に陥っているか、旧来の自由論に先祖帰りしているか、さもなくばいささかヒステリックなアメリカ帝国主義批判になっているのに対して、これほどネオリベ・グローバリズムの発生・変遷・主張・誤解・限界をたくみにまとめたものはなかった。類書に『ニュー・インペリアリズム』(青木書店)や『ネオリベラリズムとは何か』(青土社)もあるので、それも読んでみた。  

≪08≫ うん、うん、この3冊、いずれも冴えている。実は松丸本舗の昨年10月25日のオープン時に、セイゴオ式の“本の相場”を貼り紙する「本相」ボードで、ぼくはデヴィッド・ハーヴェイを赤い極太マーカーで“めちゃ褒め”しておいたのだが、それを見た小城武彦(丸善社長)と太田香保(イシス編集学校総匠)は『ネオリベラリズムとは何か』をまずもって入手したらしく、たちまちぞっこんになったようだ。 

≪09≫ この本『ネオリベラリズムとは何か』は初めてハーヴェイを読む者には、たしかにかなり気分がいいだろう。 どんなことが書いてあるかというと、アメリカが20世紀後半、とりわけ米ソ対立解消以降において、「植民地をもたない帝国主義」をどのような反民主主義的戦略によって非共産主義国を“解放”させていったのか、そのことがどのように「ネオリベラル国家の資本主義政策」となっていったのか、それが有利なビジネス環境づくり、アカウンタビリティ(資金管理責任)の確立、コスト効率などの強権的波及などを通して、結局は「あらゆるリスクを公共部門に担わせ、利益のいっさいは私企業が吸い上げるという新自由主義システム」の完成に向かうことになったのか、そういうことの一部始終がまことにみごとに浮き彫りにしている。 

≪010≫ とくに、ネオリベラルな政策がどんな民主主義をも愚民政策にしてしまったこと、そのためにはIMFやWTOの動きをもまんまとネオリベラル国家の得策に寄与させたこと、さらにはNGOでさえネオリベ政策の“トロイの馬”にしてしまったこと、そのくせ個人の「自由と責任」だけは巧みに目立つようにしたことなどを問題視して、企業国家主義というものがいかにアメリカを構造矛盾に追いこんでいくか、それが金融市場主義の姿をとるのはまだまだ病巣の一部であろうことを喝破してみせた。 

≪011≫ これは胸がすくだろう。丸善社長や総匠が、それならさあ、日本はどうするかと潔い覚悟をしたにちがいないことも想像できる。実は鳩山首相が松丸本舗に来たときも勧めておいたけれど、さあ、読んだかどうだか。 

≪012≫ しかし、胸がすいただけではあるまい。ハーヴェイはこの本の後半では、ハーヴェイ独自の経済地理学的洞察も見せているので、そこからは新しい21世紀思想の母型を垣間見ることができたはずなのである。 

≪013≫  ハーヴェイは「地理的不均衡発展」の理論をもっている。これが「歴史的現在」としての現在社会を見通すのに、なかなか有効だ。 

≪014≫ いま、世界の経済社会はきわめて高速で、度しがたい変動性(ボラティリティ)に富んでいるために、世界を空間的に一様化するような研究や理論は役に立たない。空間と時間がさまざまな地域を襲う不均等に着目し、そのうえでの見通しが必要になる。 

≪015≫ 実際、最近の世界論はあまりに視点が別々になっている。重層化が成功していない。環境主義者は地球を測定して温暖化や二酸化炭素や環境ホルモンを測定するが、それらの数値は一緒の図には並べられることがない。構成主義者は「低開発の解消」を標榜するけれど、人口・資源・労働力・開発技術力の認知についての算定がばらばらだ。政治学者は民主だ共和だ、自民だ労働だ社民だのの政体ばかりに気をとられ、経済学者はGNPや通貨レートや産業主義に傾いている。 

≪016≫ そこでハーヴェイはこれらを重層化するべく一種の「場の理論」のようなものを構築しようとしてきた。この「場」は、下から突き上げる理論のための場で、それとともに多様で不均等で不揃いの「力」や「値」を思想として呑みこむための「場」なのである。そこに統計学も地理学も経済学も生態学も受け入れる。まさにハーヴェイ経済地理学の真骨頂である。 

≪017≫ 『ネオリベラリズムとは何か』の後半は、そのプレゼンテーションだった。とくに「資本」をあたかも自律的に動きまわる力だと思いこんでしまった連中に対して、「あんたがたが奪っていったものは、私たちが奪還するだろう」というメッセージ・プレゼンテーションをした。 

≪018≫ いまや資本はさまざまに形を変えて、ありとあらゆる生活のネットワークの中に入りこんでいる。商品として、金融として、医療として、土地として。ほんとうはそこにはアンリ・ルフェーブルが言うような「余剰」があるはずなのだが、その余剰もさまざまに分割され組み合わされて「財貨の領土」とされていった。このような既存の資本領土に対抗するには、あるいはその一部を奪還するには、ハーヴェイは資本市場とはべつのもうひとつの「場」を用意して、そこから新たな価値の射出をなしとげ、それによって既存資本市場の一角を切り崩す必要を感じた創出をなしとげていく作業にとりくむ必要があったのである。 

≪019≫  だいたいはこういうことをハーヴェイは『ネオリベラリズムとは何か』の後半にプレゼンタティブに書いたわけだったが、実はこのような新たな価値観創出の「場」のための視野と視点は、すでに『新自由主義』や、その前の『空間編成の経済論』(原題は『資本の限界』)のほうに原理的に用意されていたことでもあった。 

≪020≫ 何を用意したかといえば、ハーヴェイが組み立てた理論的な枠組みは要約すれば、次の二つの表にあらわれている。図1は多くの問題概念と重要思想をできるだけジェネレートして絶対的空間・時間的空間・関係的空間の3つに再構成したもの、図2は同じ概念と思想を対グローバリズムを意図してややマルクス主義的に再構成したものである。ハーヴェイはこの二つの表を行ったり来たりして、新たな「場」の生成を構想したのだった。 

≪021≫ この二つの表を見くらべていれば、ハーヴェイの構想はなんとなく見えてくるだろう。  

≪022≫  さて、話を今夜の狙いにすすめると、ぼくとしては『新自由主義』とともに『パリ―モダニティの首都』(青土社)や『ポストモダニティの条件』(青木書店)を紹介したいのだ。けれどもまずは、ともかくも『新自由主義』をかいつまんでおこう。 ごくごく論点を絞って、以下、箇条書きにしておくが、ハーヴェイがいったいどのように新自由主義を捉えたかというと、ざっとは次のような視点と論証なのである。 

≪023≫  第1に、ハーヴェイは新自由主義(ネオリベラリズム・新保守主義)をアメリカの「不正」と断じているものの、グローバリゼーションを推進した先進資本主義諸国がこぞって採用した国家体制とか政治体制とかとは、必ずしも捉えていない。 

≪024≫ 途上国・旧社会主義諸国との相互関連性のなかで滲み出してきた一種の世界システムとしての、現代資本主義の一時代様相だと捉えた。ということは、新自由主義はアメリカあるいはワシントン・コンセンサスの押し付けとはかぎらないということで、そういう押し付けがましい圧力と不正がしばしばあったにせよ(チリとCIAとシカゴ学派の関係のように)、実際にはそこに各国の内的要因が絡んでいたということになる。  

≪025≫ それゆえ、イギリスや日本などの先進諸国が新自由主義を採択したのは、かれらが福祉国家主義、社会主義的オルタナティブ、コーポラティズムなどに対抗するために選択したことは事実だが、途上国では開発主義国家体制下の矛盾を突破するための新たな資本蓄積の方策として採用されたと見たほうがいいということなのだ。そこにはネオリベ受容における経済地理学的な「地域的不均等」があったわけだった。 

≪026≫ しかし第2に、やはり新自由主義はそうした地域的不均等を“利用”して、階級権力の復興あるいは創設に大きな拍車をかけた。これが日本などでさかんに議論されている「格差社会」というものだ。 

≪027≫ かくて新自由主義は、資本主義の発展を「マッドマネー型・カジノ資本主義型」(1352夜)の度しがたい金融依存に追いやって、まさに癒しがたいほど致命的なミスリードしてしまった一方で、新たな階級権力の創出についてはまんまと成功したわけである。たとえばロシア、たとえば中国、たとえばインドだ。ハーヴェイはそういうふうに見た。この見方はたいそう「抉られたバランス」に富んでいる。 

≪028≫  第3に、ハーヴェイはこうした特色をもつ新自由主義が、国民の“同意”を生んだのはなぜかという議論に分け入った。 

≪029≫ その理由としてハーヴェイがあげたのは、1968年前後の反体制運動が提示した「自由」と「社会的公正」の表裏一体性を、その後の新自由主義が無残に分断してしまったことだった。そのために、アメリカでは新自由主義によって白人労働者の文化ナショナリズムが助長され、イギリスではコーポラティズムの失敗が促されて、サッチャリズムによる中産階級の動員が容易になったのである。この歴史的見方もバランスがいい。 

≪030≫ 第4に、ここが重要だが、ハーヴェイにとっては新自由主義は「市場原理主義」そのものではないということだ。ということは、この問題の議論の仕方は「大きな政府か、小さな政府か」にあるのでもなく、「市場か、国家か」にあるのでもなくて、新たなエリート層の確立が実力行使されていったことを検討しなければならないということだ。 

≪031≫ わかりやすくいうのなら、新自由主義はその主張や理論や商品は、新エリート層の確立のためにはいくらでもねじ曲げられて実行されていったということなのである。 

≪032≫ そのほか第5に、ハーヴェイは新自由主義国家がこれからもどこかに誕生してしまう可能性と危険性に警告を与え、第6に、地理的不均衡が南米などにもたらす歪みを警戒した。 

≪033≫ また第7に、新自由主義が新保守主義と混血し、これからも混血するだろう異常を縷々叙述し、第8には、これが最終的な結論と仮説であるようなのだが、新自由主義は資本主義の有益な発展を阻害するということを、明確に指摘した。 

≪034≫  これがごくおおざっぱなハーヴェイの論点だが、では、そうした動向のなかの日本の新自由主義はどうだったのかというと、本書には監訳者渡辺治の「日本の新自由主義」が40ページほど巻末収録されていて、それがいくぶん参考になるので、その見方を含めて要約しておきたい。 

≪035≫ 日本では1982年に中曽根政権が誕生し、いわゆる第二臨調の行政改革が始まったときに新自由主義の模倣もしくは導入がスタートしたという見方がしばしばなされるのだが、ハーヴェイ≒渡辺らによると、これは早計な見方だということになる。 

≪036≫ たしかに佐藤公三郎・公文俊平・香山健一らのブレーンを擁した中曽根政権は、一見、新自由主義もしくは新保守主義の波頭を日本に展開したかに見えたけれど、それは早熟だったか、あるいは深刻な資本蓄積の必要性とはあまり関係がなかった。むしろ当時の日本は不況も第二次石油危機もすり抜けていて、べつだん金融主導の資本主義改革などに着手はしていなかったのだ。資本問題に懸念が出てきたのは細川政権時代のことである。ところが、このとき日本は舵をうまく切れなかった。 

≪037≫ それをまとめて着手する気になったのは小泉政権になってからだった。つまり、日本の新自由主義政策は、もしも着手が必要だとするなら、その判断されるべき時期から10年以上も遅れたのだ。そのためはっきりいえば、小泉竹中改革はまことに跛行的でジグザク的なものとなる。 

≪038≫ それにもかかわらず、小泉改革が諸手をもって大向こうに受け入れられたのは、ひとつには80年代の世界経済の主導性をジャパン・マネーや東アジアのタイガー・エコノミーがもっていたということ、もうひとつには、戦後日本が日米同盟などによって福祉国家体制がもつ矛盾から免れていたということ、すなわち日本が「階級妥協」を促進していなかったことによる。 

≪039≫ かくて日本資本のグローバリゼーションは輸出主導型成長ゆえに大幅に遅れ、そのせいで開発主義的統合がうろうろすることになり、結果的には、アメリカではリーマン・ショックに集約された最悪の危機が剥き出しになったようには、そこまではひどくはならなかった。 

≪040≫ ちなみに小泉政権が「自民党をぶっこわす」と言ったのは、新自由主義を日本に広げるには自民党の官民一体の政治システムがきわめて不都合であったからにすぎず、とくに自民党の刷新を望んだのでも、まして21世紀日本建設に邁進したものでも、なかった。 

≪041≫  まあ、こういうことである。 が、この話はこのくらいにしておく。次に、ぼくがおおいに“感じた本”となった『ポストモダニティの条件』(吉原直樹監訳)のほうを知ってほしい。さきほど書いたように、この本こそは、きわめて刺激的な記述に富んでいる。 

≪042≫ 本書は青木書店の重厚なシリーズ「社会学の思想」の第3冊目にあたっていて、アンソニー・ギデンズの『社会理論と現代社会学』、マニュエル・カステルの『都市・情報・グローバル経済』、ジェームズ・コールマンの『社会理論の基礎』、アラン・リビエッツの『レギュラシオンの社会理論』などとともに並んでいるのだが(そこにルフェーブルの『空間の生産』、ギアーツの『現代社会を照らす光』といった古典もまざっているのだが)、これらのなかでも俄然、異彩を放っている。 

≪043≫  記述はジョナサン・ラバンの『ソフト・シティ』(1974)から始まる。邦訳は『住むための都市』(晶文社)だ。 

≪044≫ 70年代のロンドンの状況を擬人化したもので、都市が「官僚やプランナーや企業の犠牲になっている」と知識人たちによって批判されるところを逆手にとって、都市はそんなにやわくない。その迷宮性・百科事典性・劇場性はめったに失われないとラバンが述べた。ここにはル・コルビュジエ(1030夜)は、もういない。  

≪045≫  ハーヴェイはいったん、このようなラバンの見方にポストモダンの萌芽を汲みとり、そこにトマス・クーン以降のシステムのゆらぎやシンディ・シャーマンの変装写真の多様性をくっつけ、テリー・イーグルトンが「典型的なポストモダニズムは冗談が好きで、自虐的で精神分裂的である」と指摘したことに、人々がしだいに巻きこまれていることを、暗示する。 

≪046≫ が、はたしてそれはポストモダニティのみの特徴なのか。この本はそこを問うていったのだ。 そこでハーヴェイが持ち出すのはボードレール(773夜)の『近代生活の画家』(1863)である。『ソフト・シティ』の100年前の文章だ。このあたりが、うまい。ボードレールがそこで述べているのは、パリの状況が「うつろい」「はかなさ」「偶発性」「断片性」「流転」「束の間」に見舞われているということだったのだ。イエーツ(518夜)だって同じことを言っていた、「中心が力を失い、すべてはばらばらだ。全くの無秩序が世界に放たれる」。 

≪047≫  そうなのだ。実はモダニティこそが歴史の連続性に対する過信を打ち破ったのである。ピカソとシュンペーターの「創造的破壊」はモダンの象徴作用なのである。だからこそベンヤミン(908夜)はパリのアーケードにパッサージュ(通過者)としての「アウラ」を感じとったのだ。何がいまさらポストモダンであるものか。 

≪048≫ こうしてハーヴェイは、ニーチェ(1023夜)の破壊と持続の意志、ウィリアム・モリスのレッサー・アーツ、ジェイムス・ジョイス(999夜参照)の多義性、ロシア・フォルマリズムと構成主義、ガートルド・スタインの解読不能詩、イタリア未来派(1106夜)の運動力学的表現実験、マックス・エルンスト(1246夜)やマン・レイ(74夜)やモホリ=ナギ(1217夜)のモンタージュとコラージュの手法、非ユークリッド幾何学の確立(1019夜)、ヒルベルトの超数学、ジョルジュ・ソレルの『暴力論』、量子力学と相対性理論などを次々にあげて、モダンがすでにラバンが指摘したポストモダンの大半をさまざまに告知していたことを列挙する。 

≪049≫  ハーヴェイが言いたかったことは鮮明だ。 すでにモダニズムこそが、希望とニヒルを、革新と保守を、自然主義と象徴主義を、ロマン主義と古典主義を綯い交ぜにもっていたのである。そんなものはいまさらではなかったのだ。集合的記憶を巧みに持ち出す磯崎新(898夜)やアルド・ロッシの建築作法は、本人の意図に反して決してポストモダンではなかったのだ。 

≪050≫ さてさて、そうなると、ポストモダニティとはいったい何なのかということになる。ポストモダンが“出し殻”ではないとしたら、いったい何をモダンから奪い、何を付け加えたのかということになる。  

≪051≫ あきらかなことは、第1には、ポストモダンにおいてはボードレールやベンヤミンが指摘したことが異質なものではなく、ことごとく需要されるものとして吸収されてしまったということだ。これはフォーディズム(マスプロダクト・マスセール)の波状攻撃が資本主義社会のどの場面においても、いまだに減速していないということをあらわしている。ポストモダンとは「モダンの大食い」ということなのだ。ポール・ヴィリリオ(1064夜)が「それなら事故を持ち出すしかない」と言っているのがよくわかる。 

≪052≫ 第2には、すべては何が何でも商品として統合されているということだろう。これはポストモダンは後期資本主義の代名詞にすぎないということで、さらに加えれば商品化したところで、そこで勝ち残るのは一部の商品と市場性だけだということになる。 

≪053≫ この万事商品主義に抵抗できたのはベルイマンから唐十郎におよぶ1960年代の「負の過剰」であっただけだろう。さもなくば、リオタールの「ローカルな決定論」、アルチュセールの「重層的決定」、スタンリー・フィッシュの「解釈共同体」、ケネス・フランプトンの「地域的抵抗」、フーコー(545夜)の「ヘテロトピア」、ブルデュー(1115夜)の「ハビトゥス」のようなものを持ち出すしかない。

≪054≫ 第3に、ポストモダンは「グーローバル・マネタリズム」と「現在の喪失」によって成り立っているという特徴をもつ。これは先物市場やデリバティブのことを思えばすぐわかることで、実はグローバル市場は「現在」にではなく、証書化(証券化)された「明日以降の時間」のためにだけ動いていたわけなのだ。それがブレトン・ウッズ体制の解体以降、ずっと変わっていない性質だったわけである。そこに新自由主義や新保守主義がやすやすと台頭することになったこと、あえて説明するまでもない。 

≪055≫  ずいぶん勝手なところだけを摘まんだが、こうした見方を随所にちりばめたうえで、ハーヴェイが『ポストモダニティの条件』の終わり近くの第22章で突き放すのは、結局のところ、次のことだった。 

≪056≫ ポストモダンには「規模の経済/範囲の経済」「均質性/多様性」「目的/偶然」「公共住宅/ホームレス」「メタ理論/言語ゲーム」というような、つまりは「市場原理的なもの」と「そのフレキシブル化したもの」のデュアルな対比しかないのではないかということだ。 

≪057≫ ハーヴェイには、いつもこういう突き放しがあるのだが、ぼくはそこを買っている。やったじゃないか、そう、そう、こういう手しかないんだよ。あとはミメロギアするしかないんだよ。そういう快哉だ。 


≪058≫ ちなみに、この突き放しは、またしても対比対照表になっている。そのことを図3で一覧しておいた。よくよく眺めて、これらのどちらにもあてはまらない「例外」を想像してほしい。おそらく感情的なものと身体的なものばかりが浮かぶにちがいない。なぜなら、メンタルでソマティックなものこそ、ポストモダンからはみ出した「あいだ」に潜んでいるものであるからだ。 では諸君、よろしかったでしょうか。これがデヴィッド・ハーヴェイの略図原型です。おあとがよろしいようで‥‥。 

≪59≫【参考情報】 (1)デヴィッド・ハーヴェイは1935年生まれのイギリス人。ケント州ギリンガムに育ったようだ。そのころ風土や地理や景観に惹かれ、世界の切手を集めていた。なるほど、なるほど。ケンブリッジ大学で地理学を修めたが、早くに地理哲学やメタジオグラフィの必要を感じていたらしく、やがて経済地理学あるいは社会経済地理学の探求に乗り出して、そこから論理学、実証主義、マルクス理論、社会学、分析哲学、身体論、さらには文学、アート、グラフィズム、映像、写真などの成果をとりこみながら、独自の社会時空論のような領域を打ち立てていった。オックスフォード大学教授、ジョン・ホプキンス大学教授、、ニューヨーク市立大学教授を歴任。 

≪60≫【参考情報】 (2)ぼくは今夜の千夜千冊では、ハーヴェイの思想形成史にまったくふれなかったけれど、初期の地理学研究がすでに計量地理学から初めて脱却した画期的なものであったことは、『地理学基礎論』(古金書院・原著1969)を覗いてみても、すぐわかる。そこにはカルナップらのウィーン学団から学んだ論理実証主義がはやくも生かされていて、きわめて意図的な方法意識を横溢させていた。 しかし、その社会理論性という点からすると、当時のハーヴェイはいまだマルクス理論の咀嚼にはとりくんでいなかったようで、そのころの理論的組み立ては、本人の弁によると「フェビアン社会主義に近いようなもの」だったという。マルクスに本格的にとりくんだのは、ベトナム反戦下のジョン・ホプキンス大学に移って、学生たちと『資本論』や『経済学批判大綱』にとりくんでからのことだった。その成果の上で書かれたのが『都市と社会的不平等』(TBSブリタニカ・原著1973)や『都市の資本論』(青木書店・原著1975)である。自由主義と社会主義の批判的な比較検討はこのへんから始まった。アンリ・ルフェーブルの影響も強かったようだ。 こうしてハーヴェイは資本主義を空間時間的に再構成するという試みに挑んでいく。それがぼくにはいささか退屈だった『空間編成の経済理論』上下(大明堂・原著1982)だったのである。ハーヴェイ自身は「この本が自分の一番のお気に入りだ」と言っているので、たぶんぼくの読み方が雑だったのだろう。 

≪61≫【参考情報】 (3)本文でもふれたように、ハーヴェイの真骨頂は、ぼくには『ポストモダニティの条件』(青木書店・原著1989)、『パリ—モダニティの首都』(青土社・原著2003)にある。都市の経済地理学に肉薄しながら、時代社会の多様な断面を掬い上げていく手法は、実に鮮やかなのだ。この二つの著書のあいだに、『公正・自然・差異の地理学』(1996)を書いているようだが、ぼくは未見だ。いずれにしても、これらの著作を通しているうちに、ハーヴェイはグローバル資本主義の仮面に気が付き、それがポストモダン幻想と表裏一体になっていることに、がまんがならなくなったのだ。 こうして、『ニュー・インペリアリズム』(青木書店・原著2003)、『新自由主義』(作品社・原著2005)、『ネオリベラリズムとは何か』(青土社・原著2005)がたて続けに書かれたのだった。それにしても、デヴィッド・ハーヴェイが本気で読まれるようになるのは、もう少しあとのことになるだろう。というのも、われわれはいま、地学と地理学とマルクス学のいずれをも半分以上喪失したままであるからだ。 実は3日前の4月8日、「中央公論」の対談で佐藤優さんと初めて出会ったのだけれど、佐藤さんこそはマルクスを本気で読みなおしていた。そう、そう、これがなくてはハーヴェイも浮かばれないのである。  

≪62≫【参考情報】 (4)ちなみに、本書『新自由主義』はとても編集がゆきとどいている。渡辺治による「日本の新自由主義」についての論文が付加されているだけでなく、基本用語解説、事項索引、人名索引もよくできている。監訳者の渡辺治は一橋大学社会学研究科の教授で、『高度成長と企業社会』(吉川弘文館)、『憲法改正は何をめざすか』(岩波ブックレット)、『企業支配と国家』『戦後政治史の中の天皇制』(青木書店)、『構造改革で日本は幸せになれるのか?』(萌文社)などがある。本書の翻訳には、森田成也、木下ちがや、大屋定晴・中村好孝が分担したようだ。

≪01≫ この本は、北海道大学の山口二郎がゼミを通して呼びかけて集まった「デモスノルテ」という学生ボランティアたちが催している「フォーラムin時計台」の記録である。本書がシリーズ2冊目にあたるらしい。 

≪02≫  したがって、いずれもゲストスピーカーによる講演のあとに山口との質疑のようなものが挟まれている。こういう本は発言者が別々の立場で勝手な話をするのでまとまりを欠くことが少なくないが、本書の場合は、その骨格が冒頭に加えた金子勝(1353夜)との対話でだいたいが出来ているのでホッとした。時計台フォーラムで欠けたところを、本書上梓にあたって補ったようだ。 

≪03≫  金子については1353夜で紹介したばかりで、ぼくは日本のエコノミストとしてのその先駆性を評価したけれど、本書ではむろんグローバル資本主義の幻想を暴くという得意な弁舌を発揮しているとともに、その後の世界経済のありかたをめぐっての発言もしている。最初にそのことをかいつまんでおくと、だいたいは次のようなことだ。 

≪04≫  第1には、世界金融危機の本質は資源インフレと資産デフレによるものだったということ。すなわち石油と食糧のインフレと、バブル崩壊による資産デフレ、この二つが同時に進行したスタグフレーションだったということである。金子によれば、この対策にもはやマクロ経済政策もミクロ経済政策も効き目はない。

≪05≫  第2に、この現状に対してオバマがやろうとしているのは環境投資政策で、それがグリーン・ニューディールなのだが、これはいわば「隠れたシュンペーター・ヴィジョン」ともいうべきもので、半分はクリントン時代の産業政策の継承、半分はケインズ政策の復活だろうということだ。つまりお題目はシュンペーター流の「創造的破壊」にあって、そのためにジョン・ポデスタやロバート・ゲイツなどの英才を起用したのだろうけれど、金子からすれば、そこには他方で大胆な損失処理が伴うはずだから、それを失敗すれば元も子もなくだろうというふうになる。 

≪06≫  第3に、日本はどうかといえば、金融立国に代わる産業政策を早めに確立しなければいけない。すでに小泉時代に財政の3つの経費、国債費と社会保障費と地方財政対策費の3つともを組み立てそこなった。さらには雇用が崩壊して、貿易赤字国になっているのだから、まったく新しい産業構造を提案しなければならない。どんなことを提案すべきかといえば、たとえば今村奈良臣が提唱した「第六次産業化」だ。加工(第一次産業化)、流通(第二次産業化)、販売・サービス(第三次産業化)のそれぞれに付加価値をつけて統合化するといった方策だ。 

≪07≫  ざっとは、こんなところだ。そのほか、いろいろのことを金子は語っているが、このくらいにしておく。1353夜に紹介した著書群にあたられたい。では、以下にゲスト発言者たちのアウトラインと言いっぷりを紹介しておく。それぞれタフであり、それぞれ一家言がある。 

≪08≫  自治省(現在の総務省)出身で、鳥取県知事を8年間務めた片山善博は、その後は慶応で地方自治を教え、テレビのコメンテーターなどで顔を売ったのちは、いまは菅民主党政権の総務大臣になっている。その片山が夕張市の経営破綻について語った。人口たった1万数千人の自治体がなんと600億円の債務(経理上は400億円弱)で倒産したわけである。 

≪09≫  なぜ借金が膨らんだかというと、「正規の借金」と「闇の借金」の両方がかさんだ。それを市長も議会もチェックしなかった。正規の借金は地方債で、これは当然ながらいちいち議会の承認がいる。それが300億円になっていた。地方債は10年で返すから、1年で元金だけで30億円を返す必要がある。夕張市の財政は43億円程度(地方税と地方交付付税交付金)だったから、そんな体力で30億円ずつ返すのは不可能である。 

≪010≫  加えて、闇の借金も300億円近かった。金融機関からこっそり借りた金で、これは一時借入金の「転がし」にあたる。たとえば4月1日に銀行から300億円借りて、年度内の3月31日にそれを返して、また4月1日に借りる。そういうふうにした。つまりは粉飾経理である。そんなことをさせた銀行もひどい。 

≪011≫  片山は鳥取県知事時代に、「日本の地方議会は八百長ばかりが多い」と言って物議をかもしたことがある。八百長というのは、結論を決めてから議会を開くことをいう。片山は「議会の根回しをしない」と言って知事になったのだが、そのため修正や否決はしょっちゅうだった。しかし、そういう議会でないかぎり、地方政治はヘタるだけなのだ。では、この体験を民主政権にいて国政に生かせるか。お手並み拝見だ。 

≪012≫  3番手の高橋伸彰は早稲田の政経出身で、日本開発銀行(現在は日本政策投資銀行)をへて、いまは立命館の国際関係学部にいる。『優しい経済学』(ちくま新書)や『グローバル化と日本の課題』(岩波書店)をぼくも読んだ。 

≪013≫  高橋はお父さんが北海道の北炭に勤めていたので、三笠という炭鉱町に生まれ、夕張にもいた。北炭(北海道炭礦汽船)は政商として有名な萩原吉太郎によって牛耳られていた企業だが、高橋の青春期にはすでに“黒いダイヤ”と呼ばれてきた石炭産業は石油化学産業に押されて崩壊し、ポスト石炭時代をどうするかという課題が全面化していた。 

≪014≫  そういうときに、夕張市は「石炭の歴史村」「夕張メロン」「マウントレースイ・スキー場」「夕張国際映画祭」といったポスト石炭の市政に打って出たわけである。そんなことをしようとして借金をしたから破綻したのかというと、ここから片山の話と微妙にくいちがってくる。高橋は、夕張市は借金はしたものの、いずれも斬新な施策だったと言う。それをやったのは中田鉄治市長だったのだが、それが結局は財政破綻に陥った。 

≪015≫  その中田が助役のころ、高橋は日本開発銀行時代に融資を頼まれて付き合っていた。25億円の融資を頼まれ、高橋はそれで地方の町が活性化するならと承諾したのだが、本店が蹴った。中田はそのとき、銀行はもっと貸さなきゃダメだ。借り手によってその投資がいくらでも大きくなって返ってくるんだという哲学をぶちまけた。 

≪016≫  炭鉱町に住み、中田のことも知っていたせいか、高橋が夕張破綻を見る目は片山とは違っている。 

≪017≫  まず、かつて北炭は町そのもののインフラをさまざまに提供していた。多くの炭鉱社員の社宅をクラス別に作り、水道代も電気代もタダ同然で提供し(北炭は発電所ももっていた)、病院を設立し、映画館などの娯楽施設も建てた。しかし次に、その北炭が閉山に追いこまれたとき、萩原吉太郎はなんとかこれを打開しようとして新鉱開発に資金を投じたのだが、その夕張新鉱がわずか8年で93人の犠牲者を出して、さらなる閉山に追いこまれた。萩原は「資本の論理」に敗退していったのだ。 

≪018≫  夕張市が財政破綻になったのは、夕張からすべての炭鉱が消えた1990年からだと高橋には見える。このとき中田市長は夕張市が北炭からインフラを買い取り、それを維持管理するために借金をしてでもがんばれば、その借金をいずれ国や道がある程度は肩代わりしてくれると予想していたはずである。けれども、それがダメになったのは、小泉竹中の改革が自己責任論を持ち出して、一挙に自己破産宣告を誘導したからではなかったか。高橋はそう見るのだ。 

≪019≫  このことを本書では、「文明は合理的だが、文化は非合理ながらもみんながそのルールをいかしているのだから、何かが失敗したとしても、それをすべて文明の合理で切り裂いていくのはどういうものか」というふうに、語っている。  

≪020≫  むろんその通りだ。だが、そこをどうするかである。『二つの自由主義』のジョン・グレイ(1357夜)はそこに「暫定協定」という方法を入れたわけだった。 

≪021≫  たとえば福祉である。これまで福祉を支えてきたのは、①人間が互いにもっているだろう慈愛心、②さまざまな社会保険システム、③企業福祉力、この3つだった。 

≪022≫  ①の慈愛心はよほど子供時代に教育されないと、なかなか発揮できない。②の社会保険システムは国家の福祉政策の根幹になっているのだが、実は何をリスクとみなすかが難しい。みんなが同じようにリスクに直面しているということなど、ありえないからだ。③の企業福祉力は、それこそ昭和40年代までの北炭のような企業にはあったものだったが、いまは薄れてしまった。その理由は、資本がグローバルに動きまわり、生産拠点もまた好きなところへ移動できるようになって、企業と従業員の関係が地域から離れていったからだった。もうひとつは社会主義国家がさかんに打ち出していた「人の一生の面倒を見る計画経済」が破綻した。さらにここにコンプライアンスが加わった。 

≪023≫  こうして福祉に代わって「セーフティーネット」と「再分配システム」のしくみを用意するという考え方が浮上してきた。高橋もいっときはここに最大の突破口があると見ていた。しかしあるときから、この突破口はグローバル資本主義が大手をふっているあいだはムリがあるというふうに思うようになった。いくら再分配をしようとしても、その前にグローバル資本主義がもっと大きな所得と格差をつくりだしてしまうからだ。 

≪024≫  ここはやっぱり、資本主義そのものがもたらすトータルな総資本に戻って、そこからの配分方式を変更しないかぎりは、新たな突破口はつくれない。ウォーレン・バフェットやビル・ゲイツばかりにお金が集中していくのでは、つまりは株主が儲かるか儲からないかというビジネス社会ばかりでは、たまに大儲けした連中がいくらそのあとに慈善行為をしてみせようと、社会はなんら変わらないわけなのだ。 

≪025≫  信用の供与によって仮想的な取引が拡大していくような社会では、もう無理がある。そうではない信用によって組み直された社会が必要なのである。新たな信用や価値の産出にとりくまないとダメなのだ(グレイはそこで「暫定協定」を持ち出したのだった)。 

≪026≫  4番目の上野千鶴子(875夜)のセッションは、高橋の福祉論や再分配論を多少は受けるかっこうで、「わたしのことはわたしが決める」というふうになっている。上野さんらしいタイトルだ。 

≪027≫  中身は、上野・中西正司の共著『当事者主権』(岩波新書)にも述べられていたラディカルな提案に近いもので、そうとうに説得力がある。ちなみに中西さんは20歳のときに交通事故で四肢麻痺になり、1986年に八王子で障害者が自立するためのヒューマンケア協会を立ち上げ、いまは全国自立生活センター協議会の代表として活躍している。 

≪028≫  「当事者主権」という言葉は、いい。世の中では「社会的弱者」などと呼ばれることが多いのだが、上野や中西はその弱者が何かをしてもらおうとするだけでなく、自分から「したいこと」も「してもらいたいこと」も決めていくようにするべきだと言う。社会が弱者だと規定するその当事者が、自分のほうから主権を主張して動く。 

≪029≫  これはたんなる自己決定や自己責任なのではない。それはネオリベ(新自由主義)が言いたがることだ。そうではなくて、英語でいえば“self governance”(自己統治)とか“individual autonomy”(個人の自律)というふうになる。たんなる自立ではなく、自律。その当事者の自律的な運動が「わたしのことはわたしが決める」なのである。 

≪030≫  このような主張や運動が重要になってくるのは、2000年に高齢者に対する介護保険の概念が大きく変わったからだった。福祉は「措置」から「契約」へ、「恩恵」から「権利」へと変わった。それなら高齢者こそが当事者にならなければならない。  

≪031≫  高齢者だけが当事者になるだけでは足りない。官も民も変わらなければならない。新自由主義の構造改革は社会保障を総量規制のもとに押しこみ、官から民を標榜した。それではダメだ。上野は、官・民・共・協・私の「福祉ミックス」にならなければいけないと言う。「共」や「協」というのはコモンズのことをいう。 

≪032≫  こういう発想や展望は、新自由主義者には逆立ちしても思いつけない。それをポスト新自由主義というのかどうかは知らないが。 上野の言いっぷりはあいかわらずラディカルで冴えまくっているが、詳しくは中西との共著の『当事者主権』と、評判の『おひとりさまの老後』(法研)を、また『老いる準備』(朝日文庫)や『ニーズ中心の福祉社会へ:当事者主権の次世代福祉戦略』(医学書院)を読まれるといい。 

≪033≫  最後のゲストスピーカーの柄谷行人(955夜)は、講演タイトルは「地域自治から世界共和国へ」だが、話のほうはもっとざっくりしたもので、タイトル通りのことを知りたいなら、『世界共和国へ』(岩波新書)を読んだほうがずっと早い。 

≪034≫  そのかわり、この講演では社会学から「部分社会」というキーワードを引っ張り出して、これを本来の意味での「アソシエーション」と捉え直すということをしている。 

≪035≫  部分社会は「掟」のようなものをもっている。家族や部族がそうだったし、宗派や企業やサークルもそうなっている。一方、「全体社会」のほうは「法」をもっている。二つは似ているところもあるが、たいていは部分社会の掟は全体社会の法の前では通用しない。日本社会は明治の近代化以降、この部分社会を心情的に残しながらも、全体としては法の社会に突き進んでいった。当然、そこには亀裂も矛盾も生まれた。  

≪036≫  そういう話をしながら、柄谷はこの二つの社会を融合させたり統合したりしていくには、商品交換だけで成り立っている市場主義を大きく変更して、新たな「互酬的社会」をつくっていかなければならないのではないかと提案する。それが柄谷の言う「アソシエーション」なのである。 

≪037≫  ここから先は『世界共和国へ』が詳しい。何が書いてあるかというと、交換経済と世界経済の歴史をざっと振り返ったうえで、本来の交換社会が資本やネーション(国民)の頚(くびき)を脱して自由にふるまうようになるには、どうしたらいいかという議論に導いていく。 

≪038≫  そこで提案されるのが国家と共同体の拘束を脱して、共同体(部分社会)の中にあった互酬性を高次元で取り返そうとするためのアソシエーショニズムなのである。 

≪039≫  かつてアソシエーショニズムは宗教の中で体現されてきた。しかし柄谷はアソシエーションを宗教のかたちをとるかぎりは教会や宗派や国家のシステムに回収されてしまうので、宗教に頼っていては先に進めないと言う。ただし宗教的なるものを否定するのではなく、その良質性を継承する必要もある。 

≪040≫  そういうことに気が付いたのはカントだった。カントは「世界市民的な道徳的共同体」を夢想した。それを「世界共和国」ともみなした。そしてそのうえで、そのためには政治的経済的な基盤が必要だと考えた。 

≪041≫  この基盤は「全体社会」が認容した資本と商品によって動くのではない。カントは小生産者たちのアソシエーションによってそれがつくられる可能性があるのではないかと考えた。 

≪042≫  むろんカントの時代の発想だけではいろいろ限界がある。金融と情報の両システムがゆきわたった現在では、そんなことをしても「再分配」がなかなかうまくいかないから、ついつい「セフティーネット」を用意せざるをえなくなっていく。しかもネットをどこに張るかによっては、そこにどうしても線引きが出る。現状の経済対策はここで暗礁に乗り上げたままになっていく。では、どうするか。 

≪043≫  柄谷は富の格差を埋めるのではなく、そもそも「富の格差が生じない交換システム」が、カントの考え方の延長にあるのではないかと予想する。そしてプルードンの思想をヒントに、「貨幣」の正体から自由になりうる社会がありうるだろうと想定した。  

≪044≫  それは経済力が社会力の屋根を突き破らない社会である。そういう社会は、まずは各地の個別的なアソシエーションから始まって、それらをネットワーク的につなげていくことで、きっとそのモデルの姿をあらわすことができる。柄谷はそう考えて、「ぼくは世界共和国の原理は、贈与の原理や互酬性の原理にもとづくものだろうと思っています」と締めくくる。 

≪045≫  以上の話を聞いていた山口は、柄谷の話がなんだか封建制社会の復活のようにも見えて、いささか疑問を呈するのだが、柄谷は言下にこう言ってのける。「ぼくが言いたいのは、新しい形態というのはむしろ古いと見えるものに根差しているということです」。 

≪046≫ 参考情報 (1)山口二郎は1958年の岡山生まれで、東大法学部を出たのち当初は5年ほどのつもりで北大に赴任したのが、もう25年に及んだ。途中、コーネル大学留学、オックスフォード大学のカレッジ研究員などを経て、現在は北海道大学大学院の法学研究科教授、公共政策学連携研究部教授。著書・共著・編著はあれこれ多いが、主な著書には『大蔵官僚支配の終焉』『一党支配体制の崩壊』『危機の日本政治』『ポスト戦後政治への対抗軸』『強者の政治に対抗する』『日本政治の課題』(いずれも岩波書店)、『日本政治の同時代的読み方』(朝日新聞社)、『政治改革』『ブレア時代のイギリス』『戦後政治の崩壊』『政権交代論』(いずれも岩波新書)、『イギリスの政治・日本の政治』(ちくま新書)、『市民社会民主主義への挑戦』(日本経済評論社)、『若者のための政治マニュアル』(講談社現代新書)、『内閣制度』(東京大学出版会)などがある。 山口の政治研究は大蔵省の意思決定についての研究に始まった。細川内閣の誕生前後からは選挙制度改革や政界再編などの政治改革の旗振り役とも、村山政権の政策提言のブレーンともなった。のちに小沢一郎の政策を応援し、民主党の「生活第一」のスローガン発案者だとも言われる。本人の弁によると、いっときイギリス労働党やドイツ社会民主党のような政党の日本化に関心をもったが、実を結ばず、しばしば溜息をついているという。 

≪046≫ 参考情報 (1)山口二郎は1958年の岡山生まれで、東大法学部を出たのち当初は5年ほどのつもりで北大に赴任したのが、もう25年に及んだ。途中、コーネル大学留学、オックスフォード大学のカレッジ研究員などを経て、現在は北海道大学大学院の法学研究科教授、公共政策学連携研究部教授。著書・共著・編著はあれこれ多いが、主な著書には『大蔵官僚支配の終焉』『一党支配体制の崩壊』『危機の日本政治』『ポスト戦後政治への対抗軸』『強者の政治に対抗する』『日本政治の課題』(いずれも岩波書店)、『日本政治の同時代的読み方』(朝日新聞社)、『政治改革』『ブレア時代のイギリス』『戦後政治の崩壊』『政権交代論』(いずれも岩波新書)、『イギリスの政治・日本の政治』(ちくま新書)、『市民社会民主主義への挑戦』(日本経済評論社)、『若者のための政治マニュアル』(講談社現代新書)、『内閣制度』(東京大学出版会)などがある。 山口の政治研究は大蔵省の意思決定についての研究に始まった。細川内閣の誕生前後からは選挙制度改革や政界再編などの政治改革の旗振り役とも、村山政権の政策提言のブレーンともなった。のちに小沢一郎の政策を応援し、民主党の「生活第一」のスローガン発案者だとも言われる。本人の弁によると、いっときイギリス労働党やドイツ社会民主党のような政党の日本化に関心をもったが、実を結ばず、しばしば溜息をついているという。 

≪048≫ 参考情報 (3)本書を千夜千冊したのは、ここからゆっくりとポスト新自由主義やポストグローバリズムを展望した本をあれこれ案内したいからである。それには本書がわかりやすく、また多様な出発点になるだろうからだった。 ちなみに誰もそんなことをしていないだろうから、こんなことはお節介なことになるが、もしも多少の“予習”をしたいなら、たとえば次のような前提的な本を見ておいてほしい。 ジークムンド・バウマン『リキッド・モダニティ』(大月書店)、ノルベルト・ボルツ『世界コミュニケーション』(東京大学出版会)、ヴィレム・フルッサー『サブジェクトからプロジェクトへ』(東京大学出版会)、ジャック・アダ『経済のグローバル化とは何か』(ナカニシヤ出版)、ウェイン・エルウッド『グローバリゼーションとはなにか』(こぶし書房)、スーザン・ジョージ『オルター・グローバリゼーション宣言』(作品社)、ジョン・カバナ&ジェリー・マンダー『ポストグローバル社会の可能性』(緑風出版)、渡辺治・二宮厚美・岡田知弘・後藤道夫『新自由主義か新福祉国家か』(旬報社)、有賀誠・伊藤恭彦・松井暁『ポスト・リベラリズム』(ナカニシヤ出版)、ジャック・アタリ『反グローバリズム』(彩流社)、浜矩子『グローバル恐慌』(岩波新書)、ジャン・ボードリヤール『暴力とグローバリゼーション』(NTT出版)、トマス・アトゥツェルト&ヨスト・ミュラー『新世界秩序批判』(以文社)、ヘルド&マッグルー『グローバル化と反グローバル化』(日本経済評論社)、鈴木謙介『反転するグローバリゼーション』(NTT出版)などなど。 

≪01≫ 先だっての「連塾ブックパーティ・スパイラル」(11月6日青山スパイラルホール)に佐藤優さんをゲストに招くにあたって、事前の打ち合わせを長い電話でしていたとき、佐藤さんが黒田寛一の『実践と場所』全3巻をとりあげたいと言った。クロカン(黒田寛一)を現代の思想界や言論界がとりあげていないのは完全に片手落ちで、革命についての考察をクロカンを除いて現代日本人は議論できないはずなのに、それを誰もしていないから松岡さんとそのへんを話そうというのだ。 

≪02≫ どんな本でも読み耽ることができる佐藤さんのことだから、北畠親房が出てきても大川周明が出てきても宇野弘蔵が出てきても驚かないが、さすがにクロカンまで読破しているとは思わなかったので、この人の奥の深さに感嘆しているうちに、電話ではクロカンの短歌まで持ち出し、クロカンの革命観は短歌にもあらわれているというのだ。その通り。ぼくも思わずあの遺作となった歌集の感想などを語ってしまった。 

≪03≫  結局、佐藤さんはクロカンの『実践と場所』を、マルクスの『経哲草稿』、廣松渉の『存在と意味』と並べて論理的同時に議論したいというので、内心、ブックパーティでそこまで話をするのはディープすぎるなとは思ったものの、じゃ、それでいきましょう。ついては佐藤さんの獄中の読書ノートのようなものがあったら、ぜひ持ってきていただきたい。そう、ぼくが言ったため、案の定、当日は舞台上でそのノートのほうの話が中心になって、クロカンの話はまったくできなかった。ごめんなさい、佐藤さん。けれども青山スパイラル1階ガーデンにマルクスと廣松とクロカンが並んだのは威風にも異風にも満ちて、たいそう頼もしかったと独りごちたものだ。 

≪04≫  ところで、その黒田寛一が起こした革命的出版社、それが本書の発行元のこぶし書房なのである。今夜はクロカンのことをあれこれ書く目的はないので、それは別の機会にしておくが、こぶし書房が最近になってなかなか粒よりの出版をしていることについては、一言触れておきたい。 

≪05≫  革マル派の領袖クロカンの本がすべてこぶし書房から刊行されているのは言を俟たないのだが、それとはべつに九鬼周造(689夜)・中井正一(1068夜)・三木清・三枝博音(1211夜)・梅本克己・宇野弘蔵などをずらりと並べた「こぶし文庫」がよく、また、務台理作著作集、福本和夫著作集が出色で、かつ最近はアドルノ(1257夜)やチョムスキー(738夜)の翻訳やロバート・ブレナーの『ブームとバブル』にも手をつけていて、その一環で本書のアレックス・カリニコスを次々に出し始めたのが嬉しいのだ。 

≪01≫ 先だっての「連塾ブックパーティ・スパイラル」(11月6日青山スパイラルホール)に佐藤優さんをゲストに招くにあたって、事前の打ち合わせを長い電話でしていたとき、佐藤さんが黒田寛一の『実践と場所』全3巻をとりあげたいと言った。クロカン(黒田寛一)を現代の思想界や言論界がとりあげていないのは完全に片手落ちで、革命についての考察をクロカンを除いて現代日本人は議論できないはずなのに、それを誰もしていないから松岡さんとそのへんを話そうというのだ。 

≪02≫ どんな本でも読み耽ることができる佐藤さんのことだから、北畠親房が出てきても大川周明が出てきても宇野弘蔵が出てきても驚かないが、さすがにクロカンまで読破しているとは思わなかったので、この人の奥の深さに感嘆しているうちに、電話ではクロカンの短歌まで持ち出し、クロカンの革命観は短歌にもあらわれているというのだ。その通り。ぼくも思わずあの遺作となった歌集の感想などを語ってしまった。 

≪03≫  結局、佐藤さんはクロカンの『実践と場所』を、マルクスの『経哲草稿』、廣松渉の『存在と意味』と並べて論理的同時に議論したいというので、内心、ブックパーティでそこまで話をするのはディープすぎるなとは思ったものの、じゃ、それでいきましょう。ついては佐藤さんの獄中の読書ノートのようなものがあったら、ぜひ持ってきていただきたい。そう、ぼくが言ったため、案の定、当日は舞台上でそのノートのほうの話が中心になって、クロカンの話はまったくできなかった。ごめんなさい、佐藤さん。けれども青山スパイラル1階ガーデンにマルクスと廣松とクロカンが並んだのは威風にも異風にも満ちて、たいそう頼もしかったと独りごちたものだ。 

≪04≫  ところで、その黒田寛一が起こした革命的出版社、それが本書の発行元のこぶし書房なのである。今夜はクロカンのことをあれこれ書く目的はないので、それは別の機会にしておくが、こぶし書房が最近になってなかなか粒よりの出版をしていることについては、一言触れておきたい。 

≪05≫  革マル派の領袖クロカンの本がすべてこぶし書房から刊行されているのは言を俟たないのだが、それとはべつに九鬼周造(689夜)・中井正一(1068夜)・三木清・三枝博音(1211夜)・梅本克己・宇野弘蔵などをずらりと並べた「こぶし文庫」がよく、また、務台理作著作集、福本和夫著作集が出色で、かつ最近はアドルノ(1257夜)やチョムスキー(738夜)の翻訳やロバート・ブレナーの『ブームとバブル』にも手をつけていて、その一環で本書のアレックス・カリニコスを次々に出し始めたのが嬉しいのだ。 

≪06≫  と、まあ、以上は前置きで、では本書のことを採り上げることにするが、またまた前置きのような話が続くかもしれない。というのも、ぼくにはアレックス・カリニコスについてはデヴィッド・ハーヴェイ(1356夜)に対する親近感と同様の、ちょっとした名状しがたい贔屓目のようなものがあるからだ。 

≪07≫  こういう贔屓目がなぜ生じるかを説明するのは、少年時代に模型飛行機が好きで、ラグビーボールも好きだったけれど模型飛行機ほどではなかったというのに似て、あまり説得力のある説明にはならない。 

≪08≫  1950年生まれのカリニコスはジンバブエの出身である。ジンバブエは以前はローデシアと言われて、怪物セシル・ローズが一人でつくった狂暴な人為国家だった。100人の白人イギリス人がその他大勢のアフリカ黒人のすべてを支配したのだ。少年カリニコスが育ったころ、このジンバブエで黒人たちが暴動をおこして白人政府を転覆させた。これはむろん暴力を伴うものだったが、カリニコスはそこに言い知れぬ快挙を感じた。 

≪09≫  長じてオックスフォード大学に進んだカリニコスはマルクス主義に投じ、この快感がトロツキー(130夜)に発していたものであることを知る。青年はぞくぞくしたが、ところが周囲の現実社会や思想雑誌群を眺めてみると、マルクス主義は革命のための理論ではなくなっていて、スターリンの独裁や各国共産党の旗印程度のものになっていた。 

≪010≫  そのうち資本の自由化やら変動相場制やら社民主義が跋扈して、時代思想はあっというまに「ポストモダン」というわけのわからぬもので改革や革命のお茶を濁しはじめた。リオタール(159夜)が「大きな物語は終わった」などと言ったことを真に受けて、すっかり思想の武器も武器の思想もかなぐり捨てたふうになってきた。それなら自分が「大きな物語をこそ大事にした時代遅れのマルクス主義者」に徹して、ポストモダン思想ともカジノ資本主義とも対決してみせようというのが、カリニコスの思想戦線方針なのである。 

≪011≫  そのカリニコスが『アゲインスト・ポストモダニズム』(こぶし書房)を書いたのだから、これは贔屓目にならざるをえない。胸のすく本だった。 

≪012≫  カリニコスのポストモダン思想の批判はかなり全般に及んでいるのでうまくは紹介できないが、その批判の一番の核心は、ポストモダンの思想家やアーティストたちは寄って集(たか)って「ポストモダンという架空の時代思想をでっちあげた」という点に尽きている。 

≪013≫  それでも、その罪には軽度と重度があるらしく、最初にポストモダン概念を口にしたロバート・ヴェンチューリやジェイムズ・スターリングは告発免除、フレデリック・ジェイムソン、スコット・ラッシュ、ジョン・アーリらの準マルスキトは注意勧告程度、ドゥルーズ(1082夜)、デリダ、フーコー(545夜)、リチャード・ローティ(1350夜)は軽度、リオタール、ボードリヤール(639夜)は重罪、レイモンド・ウィリアムズとルイ・アルチュセールとスラヴォイ・ジジェク(654夜)は無罪ということらしい。 

≪014≫  しかし、そんな罪状の診断よりもカリニコスが言いたいことは、あんたたちは、ニーチェ(1023夜)やカンディンスキーやT・S・エリオットやベンヤミン(908夜)やハイゼンベルク(220夜)などの、つまりはニヒリズムやダダや表現主義や量子力学などの圧倒的な才能によってモダニズムが複雑に用意した「非連続性とアウラとフェティシズム」を盗用して、何をいまさらあんたたちは適当に現代社会はポストモダン特有のものだと偽ったり、差異の時代だ間主観性だと言い直したり、欲望機械だ戦争機械だなどと焼き直したりしたのかということなのだ。 

≪015≫  いいかえれば、ポストモダンが発見したのはせいぜい「ダブル・コード」というものだけで、それもたいていはフロイト(895夜)心理学かソシュール言語学の二重化ばかり、それをやるならもっと本格的な思想のダブルバインド理論を構築しなさい、そう言うのだ。 

≪016≫  つまり、ポストモダン主義は、次のボードレール(773夜)の一節の換骨奪胎にすらなっていないということなのだ。「モダニティ、それははかなく、束の間に色褪せ、そのときどきの偶然性に支配される不確かなものである」。  

≪017≫  つまり、ポストモダン主義は、次のボードレール(773夜)の一節の換骨奪胎にすらなっていないということなのだ。「モダニティ、それははかなく、束の間に色褪せ、そのときどきの偶然性に支配される不確かなものである」。 

≪018≫  こうしてカリニコスは『第三の道を越えて』(日本経済評論社)と本書『アンチ資本主義宣言』を書いたのだった。マッド・マネー資本主義をなんとか是正しようという連中の悪戦苦闘にメスを入れていくことにした。 

≪019≫  これらの著作は、カリニコスにとってはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』に対する反撃でもあったようだ。フクヤマは自由資本主義が勝ち残ったことをもって歴史の終焉と揶揄したのだが、カリニコスからしてみれば、新ヘーゲル主義とレーガノミクスをブレンドしたようなフクヤマに、自由資本主義陣営が勝利したなどとは言わせないということなのだ。 

≪020≫  そんなものはワシントン・コンセンサスとNAFTAとデリバティブを混ぜ合わせて、それをIMF、世銀、G8、G20、APEC(アジア太平洋経済協力会議)、FTAA(米州自由貿易地域)などで、互いが互いをなんとかかんとか糊塗して相互事態の悪化を防ごうとしている代物にすぎないからだ。 

≪021≫  (→それにしても先日の横浜APECはひどかったね。菅直人では胡錦濤やメドヴェージェフの相手はとうてい務まらない。いや、日本の現状はそれ以下の水準に堕ちている。あのね、尖閣諸島の海上保安庁のビデオは、見せるのがいいのか見せないのがいいのかではなくて、政治家はその「情報の意味」を外交カード上の言語にできなければいけないのです。どうしてもそれができないというなら、佐藤優にお伺いをたてたほうがいい)。 

≪017≫  つまり、ポストモダン主義は、次のボードレール(773夜)の一節の換骨奪胎にすらなっていないということなのだ。「モダニティ、それははかなく、束の間に色褪せ、そのときどきの偶然性に支配される不確かなものである」。 

≪018≫  こうしてカリニコスは『第三の道を越えて』(日本経済評論社)と本書『アンチ資本主義宣言』を書いたのだった。マッド・マネー資本主義をなんとか是正しようという連中の悪戦苦闘にメスを入れていくことにした。 

≪019≫  これらの著作は、カリニコスにとってはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』に対する反撃でもあったようだ。フクヤマは自由資本主義が勝ち残ったことをもって歴史の終焉と揶揄したのだが、カリニコスからしてみれば、新ヘーゲル主義とレーガノミクスをブレンドしたようなフクヤマに、自由資本主義陣営が勝利したなどとは言わせないということなのだ。 

≪020≫  そんなものはワシントン・コンセンサスとNAFTAとデリバティブを混ぜ合わせて、それをIMF、世銀、G8、G20、APEC(アジア太平洋経済協力会議)、FTAA(米州自由貿易地域)などで、互いが互いをなんとかかんとか糊塗して相互事態の悪化を防ごうとしている代物にすぎないからだ。 

≪021≫  (→それにしても先日の横浜APECはひどかったね。菅直人では胡錦濤やメドヴェージェフの相手はとうてい務まらない。いや、日本の現状はそれ以下の水準に堕ちている。あのね、尖閣諸島の海上保安庁のビデオは、見せるのがいいのか見せないのがいいのかではなくて、政治家はその「情報の意味」を外交カード上の言語にできなければいけないのです。どうしてもそれができないというなら、佐藤優にお伺いをたてたほうがいい)。 

≪022≫  話が逸れそうになってきたが、つまりはカリニコスの主張は、今日の世にはびこるワシントン・コンセンサス以降の資本主義というものは企業資本主義とポストフォーディズムとグローバルクローニー・キャピタリズム(国際談合資本主義)のキマイラ的混成物の以外の何物でもありえない。それを社会民主主義に訂正しようと、第三の道に転換しようと、とうてい事態は展開しっこない。むろん歴史の終焉などであるはずがない。そう、言いたいのだ。 

≪023≫  カリニコスは市場を否定しているのではない。たとえば株価が、日々刻々の天気予報とまったく同様に毎日のテレビやネットで表示されているほどに「ただの情報」になったことを、ほら、市場社会こそが「資本主義の自由」なんですとか、ほら、市場取引の正しい制度化をすればいいんだとか、ほら、私たちの資本主義は格差をつくらないためにあるのですなどと大袈裟に正当化して、自分たちの悪辣を隠す材料にするなよ、そういうことはやめなさいと言っているだけなのだ。 

≪024≫  いや、もうちょっと理論的にいえば、カリニコスはマルクスがとっくに指摘したことをちゃんと把握しなさい、それには次の10項目程度の理解でも、悪質なポストモダン思想や社会民主主義よりもずっとラディカルになるだろうと言っているわけなのだ。10項目程度というのは、次のようなことを言う。 

≪025≫ ①資本主義の特徴はダイナミズムであり、不安定性である。この特徴は資本相互の競争から生まれる 

≪026≫ ②資本主義はすでにシステムの限界を示している。

≪027≫ ③資本主義が生み出す利潤は、どう見ても不公正がつくりだすのだから、その不公正を隠す制度ばかりが資本主義社会を覆っていく。 

≪028≫ ④財とサービスの交換に富の出入りがあるのではなく、それにまつわる労働に富の出入りがある。  

≪029≫ ⑤資本主義がどれほど自由然としようとも、階級の分化がなくなることはないし、格差がなくなることもない。 

≪030≫ ⑥自由な仕事(労働)などというものはない。どんな仕事(労働)にも監督と監視がつきまとう。  

≪031≫ ⑦資本主義社会の創造性は労働力からしか生まれない。資本家の創造性はせいぜい技術革新に乗ることにしかない。 

≪032≫ ⑧資本主義の最も重要な対抗効果は経済危機によってしか出現しない。 

≪032≫ ⑧資本主義の最も重要な対抗効果は経済危機によってしか出現しない。 

≪034≫ ⑩資本主義を乗り越えるには、経済の改革ではなく、社会の革命的な転換に着手するしかない。 

≪035≫  ところで、カリニコスが来たるべき新たな社会が遭遇すべきものを「反資本主義」(アンチ・キャピタリズム)と名付けているのは、ややカリニコスらしくないネーミングだ。というのも、いま世の中の思想や運動として提出されているものには、あまりに多様な反資本主義がありすぎる。本書の要約を兼ねて、そのあたりのことをまとめておく。 

≪036≫  まず、何としてでもグローバル資本主義に逆行したいという動向、すなわち(A)「反動的な反資本主義」がある。かつてジェルジ・ルカーチが資本主義以前に戻ろうとする志向を「ロマン主義的反資本主義」という名で呼ぼうとしたことがあるが、このグループの多くの連中はそれに近い発想にこりかたまっている。その動機には“前近代の有機的秩序”に憧れてのこともあるけれど、ここにはときにファシズムっぽいものも萌芽する。むろんウィリアム・モリスがラファエル前派から革命的マルクス主義に逆進化したという例もないではないけれど、たいていは極右化するか、反時代的になるのがオチなのだ。 

≪037≫  次にけっこう多いのは、(B)「ブルジョア的な反資本主義」である。良識をふりまきながら資本主義の限界を批判する連中で、トム・ウルフやノリーナ・ハーツなどがそうなのだが、ここからはしばしば「ビジネスの選択肢の拡張」が叫ばれて、企業家にバカにされる。アナン国連事務総長が提唱した「グローバル・コンパクト」なんてのも、大企業と市民社会を結びつけるというお題目だったが、これは「フィナンシャル・タイムズ」にすら冷やかされた。それでもここからはつねにCSRのような提唱が必ず噴き出てくるから注意したほうがいい。 

≪038≫  市場経済の改良や分権化を唱えるのもいる。カリニコスはあまりうまい名称ではないがと断りつつ、これを(C)「ローカリスト反資本主義」と名付けた。この連中は大半がフェアトレード主義者で、公正な賃金、昇進の機会、環境に配慮した企業活動、公的な説明責任、健康的な労働条件などを必ず声高に列挙する。しかしカリニコスは、資本家というものはそういう要求には「なるほど、わかりました。できるだけ努力しましょう」と言いながら、これらをすべて実現するわけがないのだから、これらの提案はつねに中途半端になるに決まっている。だからもっと過激になったほうがいいと忠告する。 

≪039≫  資本主義の悪いところはなんとか国民国家が救ってくれるだろう、いやそうなるべきだというのが、(D)「改良主義的反資本主義」である。市場原理主義と新自由主義が行き過ぎたと判断されたときは、必ずこういう国家に擦り寄った改良案が目白押しになる。 

≪040≫  これが改良主義であるのは、議会的手段でこの救済を確定しようとするからで、社会民主主義者にはお得意な発想と作戦だ。むろんここには有名な提案もある。そのひとつがトービン税や世界金融庁の設立案である。ただし、これらが成立するには参加国が国連並みになるか、為替取引の本当の意味を解剖しなければならない。 

≪041≫  ここまでの反資本主義の諸潮流が大なり小なり市場を前提にしているのに対して、次の(E)「オートノミズムによる反資本主義」は集権化された権力を放棄して、運動独自の組織と活動性によって資本主義をゆさぶるという方法を提起している。アントニオ・ネグリ(1029夜)やマイケル・ハートの提案によっているものであることは言うまでもない。 

≪042≫  このオートノミズムの担い手として定義付けられたマルチチュードは、「共同行動をとる複数の単独者」という意味をもつ。だが、ナオミ・クラインなどはそのようにマルチチュードを捉えるのは、増えすぎたNGOやNPOの落とし子が前提になっているからだろうとも判定をした。 

≪043≫  こうして、カリニコスはさまざまな反資本主義の動向があることを認めつつ、かつまたそれらを批判しつつ、(F)「社会主義的な反資本主義」をゆっくりと開陳していった。 

≪044≫  なぜゆっくりと開陳したかというと、これまで社会主義と反資本主義とがあまりに重なったものとして議論されてきたからで、カリニコスにとってはそんな茫洋とした「社会主義≒反資本主義」では困るからなのだ。スターリン主義が混じっても困るし、最近の中国共産党のような資本主義的社会主義では、なおさら困る。 

≪045≫  とくにカリニコスは本書では、第四インターナショナル(FI)や国際社会主義傾向(IST)が、この議論で黙殺されないように注意を払っている。つまりはブンド(革命的共産主義者同盟)の運動思想を看過しないように、開陳を進めているのだ。これは、またまた黒田寛一の話が舞い戻ってくるのだが、日本においては実はクロカンが最も重視したことだった。イタリアなら共産主義再建党(PRC)、ブラジルなら土地なし農民運動(MST)である。 

≪046≫  ざっと本書にはこんなことが書いてあったと思うのだが、カリニコスが最後のほうで挙げている提案の素案は、以上のゆっくりした開陳に慎重になりすぎたせいなのか、ひどくつまらない。 

≪047≫  ざっと本書にはこんなことが書いてあったと思うのだが、カリニコスが最後のほうで挙げている提案の素案は、以上のゆっくりした開陳に慎重になりすぎたせいなのか、ひどくつまらない。 

≪048≫  現行資本主義に代わるどんなシステムも、そこには「正義」「公立」「民主主義」「持続可能性」があるべきだというのだが、こんな程度ではいったいカリニコスはどうしたのかと言いたくなるほど一般的すぎる下敷きだし、最後の最後になってカール・ポランニー(151夜)の「社会に埋めこまれた自己調整市場」に尻尾を振るのもカリニコスらしくなかった。それならむしろ「土地・労働・貨幣はすべて擬制商品である」という、ポランニーの最も過激なところを受け継いでほしかった。 

≪049≫  過渡期の措置として挙げた次の11項目ほどの措置についても、かなり不満が残る。残念ながら、こういうものだ。①第三世界の債務の即時帳消し、②国際通貨取引に対するトービン税の導入、③資本コントロールの回復、④ベーシックインカム制度の導入、⑤週労働時間の短縮、⑥民営化された産業の再国有化、⑦富と所得の再配分のための累進課税の導入、⑧移民規制の撤廃、⑨環境破壊未然防止プログラムの発動、⑩軍産複合体の解体、⑪市民的自由の確立。 

≪050≫  あーあ、こんなことをカリニコスから聞きたかったのではなかった。まことに残念だ。もう一度ポストモダニズム批判で見せたあの刃の切れ味を、アレックス・カリニコス、貴兄自身が自らに振るうべきなのではないか。そう言いたくなってしまうのだ。 

≪051≫  しかし、それでも本書や『アゲインスト・ポストモダニズム』は、デヴィッド・ハーヴェイの諸著作とともに読まれるべきである。でないと、日本ばかりか世界がもっとおもしろくないままになる。 

読書・独歩 宇宙の間隙に移居するParⅠガイド 情
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