「地域通貨」を巡って

表示用スプレッドシート(コラバ免疫サポート)

▲▲ 原丈人氏に問う ▼▼

読書・独歩 宇宙の間隙に移居するParⅠガイド 情

▲▲ 斎藤幸平氏に問う ▼▼

ミカエル・エンデコーナー  ーーモモと一緒にお金を問うーー

≪01≫  昨日、ライブドアの上場廃止が決定した。たいして注意深く観察していたわけではないが、ライブドア事件の発端から終局にまつわるコメントにはろくなものがない。 

≪02≫  事件が犯罪であったかどうかは、どこに境界線があったのか、あるいはどこに新たな境界線を引くのかということだけである。それなのに、あの事件の底辺にある株主主権をめぐる議論やマネーゲーム狂騒曲を前にして、日本の社会も市場も、企業も銀行もマスメディアも知識人も、機関投資家もデイトレーダーも、黙っていただけだった。すべてはうやむやなのである。すなわち高度に熟しつつある後期資本主義の一環にくみこまれた日本では、その熟した社会の正体がまったくわからない。 

≪03≫  そこで今夜はこうした事態の現実に代わって、ネット経済主義派の本が主張しているところをどう見るのか、そこをナビしてみる。はたして以下に紹介することは誰もがライブドアになれるということなのか、それとも危険がいっぱいな話なのか。 

≪04≫  すなわち高度に熟しつつある後期資本主義の一環にくみこまれた日本では、その熟した社会の正体がまったくわからない。 

≪05≫  本書はいっとき話題になった『ブラーの時代』(ピアソン)の続編にあたる。ブラー(blur)というのは「曖昧で焦点がさだまらない状態」のことをいう。社会における変化があまりに速く、従来の概念が実態をあらわすのに不適切になり、かつては概念上にも区分があったのに、その区分さえ曖昧になってきたことをあらわす。ようするに境界侵犯や境界溶融の状態のことをいう。  

≪06≫  最初に本書の主張を簡潔に書いておく。ブラー社会の拡張は、「スピードの向上」と「コネクションの拡大」と「資産の無形化」を招く。それによって「コネクトされた経済」(connected economy)が資本主義市場の大半を覆って、実体経済による貧富とはまったく異なる経済社会をつくりだす。これが本書が確信しきっている結論だ。 

≪07≫  本書によるとすでにこの十六年間でCPUのスピードは三七倍に、モデムのスピードは一八七倍になった(二〇〇〇年現在)。ITの急激な拡張は通信回線の設置と利用を安価にし、ブロードバンドを普及させ、高品質の音声や画像によるコミュニケーションを可能にした。これで何がおこるかというと、多くの製品にソフトとサービスが組みこまれて、製品とサービスの区別がなくなっていく。また、買い手が情報や知識を売り手に提供することになり、買い手と売り手の区別もブラーになっていく。そこには価値のやりとりだけが浮上する。 

≪08≫  さらに競合会社と顧客の区別もブラーになってく。一方で競合している相手は、他方では客なのである。こうして組織と市場の区別さえ曖昧になっていくと、すべてが境界をもたないリアル=ヴァーチャルのウェブになる。 本書はそう予想した。これって、実体経済は金融経済に移行する、個人も企業も社会も、金を儲けることが物を作ることに匹敵する、そのほうが富がふえると言っているわけなのだ。 

≪09≫  いったい後期資本主義や情報資本主義がこんなありていなコネクテッド・エコノミーを現実の日々にすることを期待していたのかと思いたくなるが、「インターネットはすべてを変える」と言い切る本書は、そういう日々がやってくると訴えている。 本書の著者というのは、キャップジェミニ・アーンスト&ヤングというIT戦略を専門とするフランスの上場企業の研究所長と特別研究員で、それでわかるように、この企業がもっている戦略の徹底的正当化が本書の内容になっている。著者の一人のマイヤーはイノベーションセンター長であって、複雑系理論をビジネスに適用するためのベンチャー企業バイオスGP社の代表でもある。 

≪010≫  コネクテッド・エコノミーの前提は富をふやすこと、その一点にかかっている。ただし実体経済では富は財とサービスをつくりだすことで獲得されるのだが、本書が提案する無形資産のための金融経済では、富は投資によってのみふえる。企業においては、実体経済で財とサービスをつくりだし、金融経済でキャッシュ・フローをつくりだすということになる。ようするに金融資産をふやしなさい、マネーゲームをやりなさいと言っている。本書はそのことを企業だけでなく、個人においても社会においても促進することを強力に訴える。 

≪011≫  なぜそんなことを強力に訴えるかというと、まったく困ったことに、本書が確信しきっている信条は次の三つの予測原則なのである。 ①「スピードの向上」→変化は安定よりも健全である。 ②「コネクションの拡大」→オープンシステムが繁栄し、クローズドシステムは衰退する。 ③「資産の無形化」→ヴァーチャルであるほうが実体に勝る。 

≪012≫  今日、自由資本主義市場で販売されている物品はなんであれ競売可能になっている。航空券、コレクション、通信回線、工業用部品、スカッドミサイル、専門家の医療サービス。何でも買える。  

≪013≫  この競売を阻むのは、おそらく倫理問題だけである。たとえば健康な腎臓がeBayで競売にかけられたときは、最高五七〇万ドルまでの値がついたのだが、中止された。倫理といったって、売り手がネット市場に出すことは問題視されていない。値がついてからやっと問題が表面化する 

≪014≫  インターネットでは、明日以降に売買できるものを、今日のうちに取引することもできる。いわゆる「先物契約」だ。先物市場は、将来の受け渡しがリスクをへらすための重要な要因になるため、実体経済のなかから登場したしくみだった。たとえばレッドロブスター社や吉野家が今後十二ヵ月にわたってロブスターや牛肉を一定量一定価格で購入できるとなれば、料理価格の定額を維持できる。 

≪015≫  こうした事前契約市場は、ついでゴム・石油・キャビアというような、標準化したオプション契約で取引を定義できるものなら何であれ、その価格の変動に賭ければ儲かるかもしれないというチャンスを投資家に提供していった。こうしてたいていの物品の将来の価格が、株式や債券と同様に“証券化”されていった。すなわち、いったんそのリスクが証券化されれば、そのリスクを取引する新たな手法が金融市場に広まっていくはずなのである。 

≪016≫  かつてのように先物市場がないときは、リスクヘッジをするには実際にその物品を入手しておかなければならなかった。それが大きく変わってきた。特定目的の金融商品を通じて、どのようなリスクヘッジもできるようになった。誰だって金融投資ができるようになったのだ。 

≪017≫  というような見方が、本書の主張を裏付けている状況変化のひとつなのだ。それでどうなるかといえば、富の創造は金融資産に移行していくだろうということ、勤労所得より不労所得の時代になっていくだろうということ、富の主役は機関から個人になりつつあるだろうということである。 

≪018≫  コネクテッド・エコノミーが大躍進するだろうという予測には、社会資本が老朽化しつつあって、それに代わって人的資本が急速にその価値を拡張しつつあることにもとづいている。 いまインターネット上に約五〇〇店のオンライン履歴書交換所ができて、一〇万件の企業求人情報が交換され、二五〇万以上の個人の履歴書が登録されている(一九九九年現在)。そこに人的資本の証券化が進んでいる。 

≪019≫  デヴィッド・ボウイの債券をつくったのはプルマン・グループとニューヨークの投資銀行である。期間十五年で五五〇〇万ドルのボウイ債だ。ムーディーズがただちに「シングルA」の格付けをし、その直後、ボウイ債のすべてをプルデンシャル保険会社が一括して買い取った。ボウイ債を支えているのは、ボウイが作曲しレコーディングした三〇〇曲から入る将来の印税と将来のコンサートツアー収入である。逆にボウイはその十五年間のなかでの二五枚のアルバム権を取引化した。ボウイはリスクを取引したのだ。あっというまにボウイ債は完売した。  

≪020≫  似たようなことが続々おこった。エドワード&ブライアン・ホランド兄弟とレイモン・ドジェが仕切っている頭脳集団は、シュープリームスをはじめとするミュージシャンの曲を債券にしていった。ジェームズ・ブラウンも自作曲七五〇曲を担保にした債券を売って一億ドルを手にした。イタリアのセリエAのサッカークラブSSラツィオは将来の入場券を担保に二五〇〇万ドルの資金を調達したし、スペインのレアル・マドリードも似たような債券を出した。  

≪021≫  人的資本の債券や株式の取引はまだ頻繁にはおこっていない。しかし本書は、才能を複数集めて債券化したり株式化したりすることを、しきりに勧める。 ボウイやタイガー・ウッズなら一人でも人的資本の取引を発生させることは容易だろうが、いくらハイリスク・ハイリターンだからといって、安定しないビッグスターの債券は取引しにくい。実際にもNBAのバスケット・プレイヤーのデニス・ロッドマンの株価(RODM)はロッドマンがチームを移りすぎて低落した。  

≪022≫  では、たとえば、二〇〇六年のハーバード・ビジネススクールを卒業するMBA全員の将来、あるいはそのトップ一〇人をまとめて市場に出したらどうか。複数の才能をパッケージしたらどうか。可能性はありそうだ。すでにグラフィックデザイナーやソフトウェア技術者は自分たちの才能を競売にかけはじめている。外科医や弁護士のグループも、いずれ自分たちの技術や時間を市場に出すようになるだろう。 

≪023≫  いままではあまり活動していなかった大学院のクラス会、マッキンゼーのOB会、X線技術者の壮年組、少年野球のコーチができそうな元選手たちなども、一斉に供給グループのエージェンシーに群がることになるだろう。 本書はこうした人的資本や知的資本を前提にした「才能を担保にした金融商品」を扱うナスダックのような市場が数年のちには登場するだろうと予告する。きっとそのためのミューチュアル・ファンドもできるだろうと書く。ブランドやデザインを個人の金持ちに譲るということもおこるはずだと予測する。 

≪024≫  こういうとんでもない将来をおもしろがるのは、ベビーブーム以前の世代ではない。団塊の世代も証券化のしくみに関心をもつだろうが、それをマネーゲームにする勇気など持ち合わせていない。これらの出来事に取り組むのは一九六〇年から一九八〇年までに生まれたX世代だろう。一九八〇年以降のY世代はどうか。かれらは前世代の失敗を捨て成功のケースだけを選択することだろう。 

≪025≫  今日の日本の企業と投資家は、リスク管理をどうするかということを最大の課題にしている。ふつう、人生や実体経済やゲームなどでのリスク管理は、次の三つで決められている。 ①リスクにまつわる基本的な確率があることをどう見るか。ルーレットには三八のスロットがあるが、当たったときの報酬は最大三六倍である。胴元が勝つに決まっている。②情勢の変化に関する情報をどう読むか。どこかのビーチハウスを買う前に台風の直撃を計算しておくかどうかということだ。③リスクに関する選好度をどう見るか。その投資家は株式市場の値下がりに耐えられずに資金を貯金にまわすか、ある冒険家はリスクに魅了されてエベレストで死んでもいいと思うか。 

≪026≫  けれども、金融資産の減衰にまつわるリスクは、以上の組み合わせだけでは決まらない。そこで投資によってリスクを回避する。またミューチュアル・ファンドよりはるかに早く値上がりするとおぼしい株式や不動産を購入する。つまり無形の資産のためのリスクヘッジは、購買力を増すためにリスクを受け入れる。 

≪027≫  本書は、保険(確実なものに料金を払うこと)によって下方の金融リスク(値下がり)を限定し、安全な投資(ほぼ確実な少額の報酬を得ること)によって上方のリスク(値上がり)を限定していることを強調する。そして、上方リスクを制限すればするほど、あなたはチャンスをそのつど逃していますと脅かす。金融資本主義まるだしである。 

≪028≫  本書の後半は企業向けのアドバイスになっているが、そろそろもういいだろう。ようするにSBU(戦略的事業部門)に対して、すみやかにSRU(戦略的リスク部門)を確立しなさいと言うばかりなのだ。金融工学のシナリオだ。 そのシナリオは、とても魅惑的にできている。たとえば「雨が降ればディズニー映画の入場者がふえるが、ディズニーランドの客足は落ちる」という現象を例にしてみる。ディズニーは天気をリスクヘッジして、雨が降れば保険金が払われる保険を検討すればいいのである。このときSRUはさまざまな調査をしたうえで、このリスク全体を商品化して特定グループに売ったってかまわない。自社で負担したってかまわない。どちらにせよ、雨が降るかどうかをリスク戦略にしない手はないはずなのである。つまりはSRUを「リスクのためのプレイヤー」にすることを、本書は勧めるのだ。 

≪029≫  リスク分離については、ほかにもいろいろシナリオがある。たとえばトラッキング・ストックがある。業績連動株を金融市場に出してしまう方法だ。ちなみに本書はストック・オプションについては功罪両面があることを強調して、いずれさまざまな障害を企業と従業員にもたらすだろうと警告をしている。 まあ、こんなところだ。もっと詳しいことも書いてあるが、臆面もないことばかりで、要旨は変わらない。しかもこれらの無形資産時代のコネクテッド・エコノミーの事故をふせぐには、セーフティ・ネットの強化以外に策はないというのが結論なのだ。 

≪030≫  本書はべつだんLBO(レバレッジド・バイアウト)をして企業乗っ取りをしなさいとは一言も書いてはいない。もっと健全にもっと合理的に富をふやしなさいと書いてある。しかしこれはどう見ても、新自由主義の、マッド・マネー型の富国論の支援なのである。日本、どうする? 

≪01≫ この本は、美術活動と市場と地域通貨の可能性を初めて思想的につなげようとした本である。 フーリエ、プルードンからブルデュー、柄谷行人へ。 ベンヤミン、ヨーゼフ・ボイスから漱石へ。このような美術論は日本には珍しい。 このようなアーティストも、日本にはめったにいない。 読んでみますか。千夜千冊で済ましますか。 アートにかかわる諸君は読んだほうがいい。 

≪01≫  われわれはつねに「仮定」をしているものである。朝起きたときも、何かを喋っているときも、電話をかけようとするときも、何かを仮定している。 

≪02≫  それは予定ではない。あくまでアタマのなかで適当に考えている仮定である。その仮定は、いわば観念が独自に計画したものであって、まったく現実と関係しないこともあれば、ときに現実とつながることもある。 それからしばらくして、今西さんが『自然学の提唱』という一文を「季刊人類学」に発表した。1983年である。それを見た工作舎の十川治江が「いよいよ自然学時代ですね。松岡さんの予告がやっと稔りますね」と言った。 

≪03≫  そうだとすれば、そのような仮定をつくりだしてきた観念にも、「観念の歴史」(history of ideas)というものがあってよい。すなわち世界や人間や習慣に関して、それぞれに仮定された観念の継続と断絶をめぐる歴史があってよいということになる。アーサー・ラヴジョイはおおむねそう考えて、「観念の歴史クラブ」というものを創設した。所はジョンズ・ホプキンス大学、時は20世紀で最も充実した1923年。協力者にジョージ・ボアスとギルバート・チナードがいた。 

≪04≫  本書はその宣言書にもあたるもので、ラヴジョイの1933年のハーバード大学における連続講義をもとに執筆された。 

≪05≫  本書はいちがいに要約することが困難なほど多岐の内容にわたっていて、ぼくがこれを最初に読んだときは(二度目以降は拾い読みばかり)、ほとんど恍惚気分になったほどだった。 なぜ恍惚となったのか。いま思い出すと、次のようなことだったとおもわれる。 

≪06≫  まことに重要なことであるにもかかわらず、多くの人々がずっと勘違いしていることがある。それは、漠然としたものは影響力をもたないし、思考力を加速しないし、したがって思想にもならないと思っていることだ。つまり漠然としたものは明確な概念を形成していないし、その特徴が誰にもすぐにわかるものではない。したがって、漠然からは思想が生まれないと思いこんでいる。 

≪07≫  しかし、これはたいへんな誤解なのである。実は漠然としたものこそが思想力を加速し、影響力をもって文化を形成していくものなのだ。 

≪08≫  本書は、この「漠然としたもの」を、しかも確実な言葉をつないで豊饒な説得力をもって展示したものだった。それで恍惚読書を体験できた。そういうことではなかったかとおもう。 

≪05≫  本書はいちがいに要約することが困難なほど多岐の内容にわたっていて、ぼくがこれを最初に読んだときは(二度目以降は拾い読みばかり)、ほとんど恍惚気分になったほどだった。 なぜ恍惚となったのか。いま思い出すと、次のようなことだったとおもわれる。 

≪06≫  まことに重要なことであるにもかかわらず、多くの人々がずっと勘違いしていることがある。それは、漠然としたものは影響力をもたないし、思考力を加速しないし、したがって思想にもならないと思っていることだ。つまり漠然としたものは明確な概念を形成していないし、その特徴が誰にもすぐにわかるものではない。したがって、漠然からは思想が生まれないと思いこんでいる。 

≪07≫  しかし、これはたいへんな誤解なのである。実は漠然としたものこそが思想力を加速し、影響力をもって文化を形成していくものなのだ。 

≪08≫  本書は、この「漠然としたもの」を、しかも確実な言葉をつないで豊饒な説得力をもって展示したものだった。それで恍惚読書を体験できた。そういうことではなかったかとおもう。 

≪09≫  では「漠然としたもの」とは何かというと、むろん「なんとか主義」とか「なんとか思想」というものではない。またキリスト教とかカバラとかビザンティン様式というものでもない。 

≪010≫  それは第1には、「無意識の精神の習慣」のようなものである。これはフリードリッヒ・シュレーゲルがおもわず「もつれ」とよんだものに近いときさえある。 

≪011≫  第2に、それは風土的なものや生活習慣を含んでいるので、たぶんに関係動因的である。すなわち「類は類をよぶ」というたぐいのものなのだ。ふつうはこんなものは学問の対象とならないが、ラヴジョイはそこに目をつけた。 

≪012≫ 第3に、観念の歴史を継続させた「漠然としたもの」は、さまざまな形而上学的な情念に対する感受性ともいうべきもので、しかもそこには「知られざるものは称賛さるべし」という作用がはたらくような、未知なるゆえに流行する観念を含んでいるということである。たとえば「あの世的な性質」といったことは、誰もが説明できないにもかかわらず、誰にもわかることなのだ。 

≪013≫  第4に、それはなにがしかの「意味」を人々に感じさせるものであって、だからといってその「意味」が何かに限定できないようなものである。 

≪014≫ 「あの世的な性質」に比較していえば、たとえば「この世の侮蔑」というようなものにあたる。このことは、それを受けた者にとってはすぐにピンとくるものだし、他人にそれが及んでもすぐに人々にピンとくる。しかし、それがどういうものであるかは、誰にもはっきりしない。つまり、それは「意味の輪郭」だけで伝わっていく漠然とした観念なのだ。アルフレッド・ホワイトヘッドがとっくに指摘したように、大半の文学作品はこの第4の「意味」の継承にあずかってきた。 

≪015≫  第5に、これは解説無用であろうけれど、「美」とか「美しい感じ」というものがある。すべての芸術とはいわないが、多くの芸術やファッションや景観がもたらす漠然とした感興が、ここに属している。しかし、それ(美)が何であるかとか、何から構成されているかというふうには記号化されるべきではない。美はどういうものであれ、観念の歴史がつくったものなのだ。 

≪016≫   ラヴジョイがこのようなことを考えついたのは、プラトンとホワイトヘッドを正確に読んだからではないかとおもう。つまり、「神の創造力の行使には動機が希薄である」ということを本気で考えたからだろう。 

≪017≫  またラヴジョイは、多くの歴史上の観念がかなりの頻度で「反対の一致」(coincidentia oppositorum)によって生じてきたことをつぶさに観察することで、観念にも習慣や癖があることを確信したのであったろう。 

≪018≫  しかしいまおもえば、こうしたラヴジョイの指摘はもはや新たな常識になったというべきで、ワルター・ベンヤミンにもピエール・ブルデューにも存分に知れたことになっている。しかも本書のようにプラトン、ブルーノ、ケプラー、ライプニッツ、デカルト、パスカル、カントを並べ立てて、この貴重な観念史を説明する必要もないのではないかともおもわせる。それは、ベルグソンの『創造的進化』やミシェル・フーコーの『言葉と物』のような労作を、あれ以上は繰り返さなくともいいということに似ていよう。 

≪019≫  しかし、まったく逆のことも言っておかなくてはならない。 すなわち、まだ歴史における観念というものが見えないという者や、またあるいは「漠然としたもの」こそが時代の思想や感覚をつくってきたことがわからない者には、アーサー・ラヴジョイの『存在の大いなる連鎖』こそがやはり最初のバイブルになるべきだということである。 

≪020≫ そういう諸君のために、ここでは次のラヴジョイの言葉を贈っておきたい。 

≪021≫  「因果関係において先行するものは、その結果よりも少ないものを含むことはできない」。
「人間はみずからとは調和しえない存在なのである」。
そうか、やっぱりラヴジョイは、ポストモダン思想しか知らない連中がみんなして読むべきものだった。 

≪01≫ この本は、美術活動と市場と地域通貨の可能性を初めて思想的につなげようとした本である。 フーリエ、プルードンからブルデュー、柄谷行人へ。 ベンヤミン、ヨーゼフ・ボイスから漱石へ。このような美術論は日本には珍しい。 このようなアーティストも、日本にはめったにいない。 読んでみますか。千夜千冊で済ましますか。 アートにかかわる諸君は読んだほうがいい。 

≪02≫  この人はジョン・グレイの『グローバリズムという妄想』(1357夜)に、おそらく当時唯一だったのではないかと思うのだが、最も早く反応した日本のアーティストだった。すでに『日本現代美術序説』(ギャラリー・メールド)という本を書いていた。 

≪03≫  本書も9年前の本である。斬新な視点が横溢していた。ウォルター・ベンヤミン(908夜)やピエール・プルデュー(1115夜)やノルベルト・ボルツ(1351夜)の視点がそこここに散りばめられ、そのあいまに現代アートを揺るがせてきたヨーゼフ・ボイスやイリア・カバコフ(1261夜)の表現視線が加わり、さらにウェーバー、漱石(583夜)からシルビオ・ゲゼル(1379夜)までの社会論が絡んでいる。いま再読しても、美術評論としてこういう本はあまりない。それは美術と市場を“本来同視”しようとしているからだ。  

≪04≫  美術は市場を抜きにしては語れなくなっている。そんなことはレンブラントが自分の地位の向上を知らしめるためにオークションで自作の絵の値段を競り上げたときから、あるいはウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動が企業や組合のサポート・マネジメントを重視したときから、ずっとそうだった。 

≪05≫  ブルデューは『芸術の規則』(藤原書店)で、市場が金銭や商品の交換だけでなく象徴交換を含む場だと見抜いたが、まさにその通りで、美術は価格と市場こそがつくっているものなのである。これらはあきらかに相互侵入・相互共立の関係にある。ウォーホル(1122夜)や村上隆を待つまでもなく、そんなことは当然なのだ。 

≪06≫  しかし奇妙なことに、このような見方はなぜか日本ではひどく遅れたままになっている。嫌われている。 

≪07≫  ふつう、欧米ではギャラリーといえば次の3つのどれかに当たる。作品を他のギャラリーやコレクターに仲買いするだけのディーラー・ギャラリー、売れ筋や売り絵を専用に売るコマーシャル・ギャラリー、それらとともに新人作家に投資をしていくジェネラル・ギャラリー。この三つが相互に作用して、作家とコレクターとともに美術市場を形成していく。 

≪08≫  こういう美術市場活動が欧米社会では大前提になってきたからこそ、60年代の半ばからのアメリカに、ジョルジュ・マチュウナス提唱の「フルクサス」のようなアーティストによるノンプロフィットな発表活動が勃興したりもした。先鋭にも前衛にもなりえた。つまりオルタナティブ・アートが成立しえた。 

≪09≫  ところが、日本はなかなかそうなってこなかった。日本の大半のギャラリーは、アーティストからお金をとって“場所貸し”をするというやりかた一辺倒だったのだ。これは美術と市場を照応させてきた欧米ではそうとうに考えにくい。そのへんの原因を、かつて若林直樹は、これもちょっとおもしろい本だったけれど、『退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史』(河出書房新社)のなかで、日本の近代美術が作品の格付けを市場ではなく国家の展覧会にあるとしたことこそ、その後の流れを決定づけたというふうに説明した。 

≪010≫  日本では市場性は当初から欠落してきたままなのだ。だからアーティストがノンプロフィットな活動やオルタナティブな作家活動をしたとしても、それは市場に対抗するものとすらなりえなかった。体制がないから反体制の効き目も薄かった。 

≪011≫  白川はこうした日本の美術界の滞留もしくは不活性に、ずっと文句をつけてきた。文句をつけただけでなく、実践してもみた。 

≪012≫  そのひとつに、1999年冬にモリス・ギャラリーで「オープン・サークル・プロジェクト」と題して行った新たな試みがある。白川の作品展ではあるのだが、相場より安い値段を付け(小品に1~3万円)、それが売れた場合には作家・ギャラリー・コレクターの三者が一種の証明書のようなものに揃って署名をし、それを作品とともにギャラリーの中に展示することにしたのである。三者の関係が市場をつくりだすというきっかけを用意したのだ。 

≪013≫  白川が本書で述べていることは、従来の見方からするとかなり意外なものだろうが、ときおり示唆に富む。それはさまざまな美術活動と、「補完貨幣・自主通貨・自由貨幣・会員制通貨・時間通貨・地域通貨・エコマネー・グリーンドル・オリジナルマネー」などの、いわゆるコミュニティ・マネーとをくっつけて考えているからだ。 

≪014≫  このような考え方が、プルードンの「消費交換券」やゲゼルの「スタンプ貨幣」やシュタイナー(33夜)の「劣化する通貨」を下敷きにしていることは言うまでもない。しかし白川はそれとともに、ジョルジュ・バタイユ(145夜)の交換論に食い下がった。 

≪015≫  なぜ食い下がったかといえば、白川は「オープン・サークル・プロジェクト」をしたときに、美術家や美術評論家たちからいくつかの批判を受けた。ひとつは「価格破壊をおこした」というもの、もうひとつはギャラリー展示のあとで「作品をプレゼントしてしまえばいいじゃないか」というものだった。この批判に白川は反撃し、贈与の本質を巡回しながらバタイユに到ったのだ。 

≪016≫  作品をプレゼントするということは「贈与」するということである。ただであげることである。しかしながら古代社会や未開部族社会のポトラッチなどの贈与経済の研究をしたマルセル・モースが明言したように、贈与は実はただではない。贈与にはそもそも提供・受容・返礼のプロセスが伴ってくる。 

≪017≫  「ただより高いものはない」と言われているように、贈与は返礼とセットになっていることが多い。また「こんなものを贈りやがって」というような反発を招くことさえもある。  

≪018≫  その一方で、レヴィ=ストロース(317夜)があきらかにしたように、そこには「気前よさ」というものが躍如する。人に何かをあげるというのは気前がいいわけだ。しかし気前のいい贈与は、どこにでもあるものを贈ってもほとんど効果がないという特性をもっている。贈与には稀少性や奢侈性がなければならない。ということは、贈与品とはその社会での価値交換の基準をつくるものであったり、あるいは引き上げるものだったのである。 

≪019≫  しかしながら他方、古代社会や未開社会での「気前よさ」はそれなりの社会の経済構造や身分構造をあらわしてもいた。首長や豪族のリーダーこそが「気前よさ」によってその社会の交換価値を決定付けていたのである。モースもレヴィ=ストロースも、そこには「交換婚」が見返りになっていたことを指摘している。 

≪020≫  バタイユの『エロティシズム』はそこに一歩も二歩も踏みこんだ。贈与や交換にはそもそも「性の社会」がその起源において孕んできた祝祭の性質があり、それゆえ贈与(プレゼント)には「性」のもつ意味に匹敵する交換価値が必ずやはたらいて社会を裏側から支えていただろうというのである。 

≪021≫  白川は、そうだとしたら、美術活動における贈与もたんなるプレゼントでいいわけはなく、バタイユが言うほどの意義がこめられていくべきではないかと考えた。ぼくも、そう思う。今日における贈与とは、歳暮や中元でもクリスマス・プレゼントやバレンタイン・チョコでもなく、またむろんのこと賄賂やインサイダー取引でなく、もっともっとラディカルな意図がこめられるべきなのだ。まして美術の贈答となるのなら‥‥だ。 

≪022≫  こんなふうに白川が考えるようになったきっかけのひとつに、1979年3月にヨーゼフ・ボイスから聞かされた話と図示があったようだ。当時のボイスといえば“神様”である。そのときボイスは、シュタイナーの社会三層化理論をもとにマルクスを再解釈し、あまつさえ来たるべき社会における貨幣のありかたを語ったという。 

≪023≫  ボイスは白川に独自の「デモクラティック・バンク」の考え方を図示しながら、これからは「創造力こそが資本になるべきだ」と言ったのである。ゲゼルの貨幣論などまったく知らなかった白川はこの話にかなり驚いた。それから20年以上たって地域通貨の可能性にふれることになり、突如としてボイスのヴィジョンを思い出したのだ。しかし、ボイスの「創造力=美術=資本力」は容易なことでは説明がつかない。いったいどう考えたらいいものか。 

≪024≫  その後の白川が地域通貨やエコマネーの各国各地の事例によって触発されたさまざまなことについては、ここでは省く。すでに『エンデの遺言』(1378夜)以降にあれこれ紹介してきたことと大差ない。 

≪025≫  白川はコミュニティ・マネーをめぐりながら、ブルデューから柄谷行人(955夜)へ、ドゥルーズ(1082夜)からジョン・グレイへと読書走破を試みて、独特の美術市場論への道を進んでいった。 

≪026≫  ボイスの謎掛けに答えるのは容易ではないだろうが、このコースはなかなかの読書走破ぶりである。本書はそのような白川の思想の読み方を辿るにもうってつけの一冊になっている。たとえばそのひとつは、1930年代のシャルル・デュノワイエの「社会的経済」の発想がその後はどうなっているかということだ。 

≪027≫  社会的経済は、もともとはフーリエ(838夜)、サン・シモン、オーウェン、プルードン、ビュシエらのユートピックな社会主義思想に淵源するが、それが社会キリスト教、リベラリズム、「連帯」運動、メセナ、第三セクター、NGO、NPOなどを通過するうちに、今日では次のような定義に落ち着いてしまっていた。「社会的経済は主として協同組合の形態をとる会社、共済、アソシエーションによって遂行される」(1988年のベルギーでのCWESの決議)というふうに。 

≪028≫  ここでは、①利潤よりもメンバーシップの充実、②管理の自律性、③意思決定プロセスの開明性、④メンバー重視の収入配分、などが重視されている。これだけを見ればとくに問題はないようだけれど、これではありきたりだし、いささかおとなしすぎる。あまりにも民主主義的すぎる。ありていにいえば市場からは逃げ腰になっている。 

≪029≫  美術をこのような社会経済システムに取り込むのでは、遅すぎる。白川は、そう感じた。すでにウォーホルは自分は機械や市場そのものになりたいとして、美術を均質な反復のなかに解体しようとしたのだが、市場はこの反復すらもやすやすとコモディティとして流通の中に組み込んでしまったのだし、それがいまやウェブを高速に流れる“美術作品もどき”にあっては、クリス・アンダーソンの“フリー”をこそ体現してしまったのである。 

≪030≫  それにこんなことは、ベンヤミンがとっくに『複製技術時代の芸術』で予言していたことだった。 

≪031≫  こうして白川はプルードンやフーリエに戻りながら、ついに漱石(583夜)に至るのだ。白川の本書における到達点は、意外なことに漱石の『道楽と職業』における次の一文なのだ。 

≪032≫  「直接世間を相手にする芸術家に至っては、もしその述作なり制作なりがどこか社会の一部に反響を起こして、その反響が物質的報酬となって現れて来ない以上は、餓死するより外は仕方がない」。 

≪033≫  漱石は『道楽と職業』で、どんなことも「道楽」だと見抜いたのである。自分もその道楽者の一員にすぎないと自覚する。そのうえで同じ道楽でも、そこには市場の反響との関係があるとも見抜いている。なぜ、こんなことを漱石が書いたのか、もし意図がはっきり掴めないというなら、次の一節を読めばわかるであろう。白川はその解説のためにウェーバーやハバーマスも持ち出しているが、「千夜千冊」の諸君にはもはや注釈は不要かもしれない。しかしもし、諸君がアートにこだわっている職業についているのなら、次の一文を読んだうえで、本書をこっそり読み、さらには村上隆の『芸術起業論』(幻冬舎)を読まれることを、薦めたい。 

≪034≫  「世の中は徳義的に観察すると随分怪しからぬと思うような職業がありましょう。しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりよっぽどえらい生活をしているのがあります。しかし一面からいえば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、事実の上からいえば最も人のためになることをしているから、それが最も己のためにもなって、最も贅沢を極めていると言わなければならぬのです。この関係を最も簡単にかつ明瞭に現しているのが、金です」。 

≪01≫ 70年代後半から新自由主義が吹き荒れて、フリードマンらのシカゴ学派が経済学の主流を占めた。 
 ケインズ経済学は「大きな政府」論だと批判され、ほとんど死に体になったかに見えた。
 しかし、事態がグローバリズムと金融資本主義に向かうなか、その結末がリーマンショックだとわかると、ケインズの復活が叫ばれはじめたのである。
 いったい、これは何なのか。
 本当にケインズの理論が再解釈されたのか、それとも経済学がただただ混乱しているだけなのか。 

≪02≫  前夜に続いてケインズ(1372夜)をめぐりたい。ただし、今夜は新ケインズ派やポスト・ケインジアンの窓際からケインズ思想の真骨頂と意外性の両方を眺める。 

≪03≫  とりあげる本は原著が昨年出たばかりのもの、日本語訳は今年のものだ。著者のスキデルスキーは切れ者だ。経済学者ではなく歴史学者であるところも、いい。 

≪04≫  話をナシーム・タレブの『ブラック・スワン』(1331夜)から始めると、2008年に向かって起爆していった金融危機と、それにともなうマネタリズムの極度の歪曲と失墜は、数羽のブラック・スワンの構造を解剖すれば見えることだった。 

≪05≫  ブラック・スワンは投資組織と商業銀行のあいだに遊弋していて、その時期は、アラン・グリーンスパンの言葉でいえば「リスクが割安に振れすぎていた」。そこへアメリカのサブプライム・モーゲージ市場が有毒資産をくっつけた。 

≪06≫  この思いもよらぬ“信用収縮”という情勢の悪化に、凡百の理論家や評論家が原因分析に乗り出して、主には「流動性過剰論」と「貯蓄過剰論」の二つの症例をカルテに書いた。 

≪07≫  住宅ブームを支えたのは証券化(セキュリタイゼーション)で、サブプライム・モーゲージが世界中の銀行に浸水したのは金融商品と派生群のせいだった。これにCDS(信用デフォルトスワップ)で味付け保険をつければ、毒入りソーセージはとてもおいしそうだったので、投資家は気楽にサンドイッチを食むようなつもりでこれを買った。 

≪08≫  流動性過剰と貯蓄過剰の背後で動いていたのは、悪名高い「規制緩和」である。3段階に進んだ。1999年にグラス・スティーガル法が廃止され、商業銀行が証券の引き受けと販売などの投資業務をできるようになり、ついでクリントン政権がCDSを規制しないことを決め、2004年にSEC(アメリカ証券取引委員会)が大手投資銀行のレバレッジ比率の上限を10倍から30倍以上に引き上げた。 

≪08≫  流動性過剰と貯蓄過剰の背後で動いていたのは、悪名高い「規制緩和」である。3段階に進んだ。1999年にグラス・スティーガル法が廃止され、商業銀行が証券の引き受けと販売などの投資業務をできるようになり、ついでクリントン政権がCDSを規制しないことを決め、2004年にSEC(アメリカ証券取引委員会)が大手投資銀行のレバレッジ比率の上限を10倍から30倍以上に引き上げた。 

≪010≫  ちょっとおおげさに言うなら、歴史上、世界金融同時危機ほど“奇妙な考え方”に世界の金融関係者が麻痺させられた例はない。スキデルスキーは、その原因は「経済学の理論的な失敗」にもとづいていたとはっきり指摘する。経済学の考え方がまちがっていたから、金融自由化が正当化され、金融自由化をすすめたから信用が爆発的に拡張し、それが崩壊したから信用が収縮して事態が逼迫したのである。 

≪011≫  ケインズは「世界を支配しているのは考え方以外のものではない」と何度も書いていたけれど、まさかここまでエコノミストたちの“考え方”が挙(こぞ)って最悪になるとまでは予想していなかったろう。とくに市場の参加者がここまで同じ価値観にふりまわされたのは、めずらしい。 

≪012≫  それでもこれで、新ケインズ派の経済学者たちが本腰を入れて「不確実性」と「リスク」と「政府の役割」についての考え方を根本からたてなおすようになればいいのだが、おっとっとっと、まだまだなかなかそこまではいっていない。ということは、ケインズの真骨頂もいまだに十分には掴まれていないのだ。 

≪013≫  このところの経済学がどんなところにさしかかっているかというと、たとえばアメリカでは淡水派と海水派に分かれたままにある。淡水派がシカゴあたりにいて、海水派が東海岸と西海岸にいる。 

≪014≫  淡水派は完全市場と対称的情報を想定した一般均衡モデルを使い、市場効果をパレート効率的に見る。海水派は不完全市場・非対称的情報・不完全競争によるモデルをつくる。もっともこれはロバート・ワルドマン(ローマ大学)のあまりに単純すぎる分類で、実際にはもっと交錯もし、錯乱もしつつあるというのが現状だ。 

≪015≫  おそらくは新古典派も新ケインズ派も、いわゆる“完全市場パラダイム”なるものに引っ張られ、いまなお合理的予想仮説(REH)、実物的景気循環(RBC)理論、効率的金融市場理論(EFMT)という大きな3つの前提を降ろせず、それが胸のつかえになっているのであろう。 

≪016≫  3つの前提についてちょっとだけ説明しておくが、新古典派経済学が「合理的予想仮説」(REH)を提唱したのは、政府が市場に介入するのは無益であるばかりか、むしろ有害だということを証明するためだった。 

≪017≫  その出発点は、自分たちには将来の動きについての広範で正確な知識があるという、思い上がった想定にある。そのうえで、市場参加者の無知や無能をカバーする確率誤差をモデルに加えさえすれば、各人が市場予測に使うモデルはかぎりなく正しくなるはずだと考えた。だからこの連中は、不況の到来も景気循環も、そのうち市場が自動調整すると推定する。 これはいかにも、「群衆の英知」を信頼しようとするアメリカ資本民主主義らしい仮説だった。 

≪018≫  次の「実物的景気循環理論」には、市場がつねに均衡して、需要はつねに供給に等しくなるはずだという妄信があるのだが、適度に合理的予想仮説はとりいれて、修正をしてきた。そのうえで最近は、景気循環がおこる理由の説明を変えつつあるようだ。景気循環は生産が最適水準から一時的に乖離するせいでおこるのではなく、生産の潜在的な水準自体が変動するからだと見るようになったのだ。変動するのは、たとえば原油価格・規制・気象条件などのことをいう。 

≪019≫  3つ目の「効率的金融市場理論」(EFMT)は、市場における知識のありかたに手を加え、何が確実におこるかなのではなく、何かがおこるリスクを計算するモデルのほうに走った。そのため金融市場のさまざまなリスク特性を、取引リスクに関する“頑丈”な数量的指標として算出するようにした。それがブラック・ショールズ公式に始まるオプション評価モデルだが、あまりにこの策に溺れて正規分布ばかりを過大視することになっていったこと、いまさら言うまでもない。何羽目かの大きなブラック・スワンがここにいた。 

≪020≫  こんなぐあいなのだから、いったん国が不況に陥ったとたん、いくつもの学派が稔りのない論争をつづけていたばかりだったということになる。その争点はあいかわらずの「政府の失敗」か「市場の失敗」で、こんな二者択一では結論など出てこない。 そこで、ちょっと待てよ。ここはいったんケインズに戻ってみたらどうなのかという気運がまきおこってきたわけだ。 

≪021≫  スキデルスキーはケインズの詳細な伝記に、30年をかけた歴史家である。『ジョン・メイナード・ケインズ――裏切られた期待』全2巻(東洋経済新報社)と『ケインズ』(岩波書店)があり、さらに『共産主義後の世界――ケインズの予言と我らの時代』(柏書房)などを書いてきた。ケインズを語らせたらロイ・ハロッドに並ぶ。しかし、本書が最も切れ味がある。 

≪022≫  そのスキデルスキーのケインズ評は、一言でいえば「経済学に収まらない学知と人生」というものだ。ラッセルやヴィトゲンシュタイン(833夜)と交わり、E・M・フォースター(1268夜)を読み耽り、ムーアの影響のもとでは妖しいブルームズベリー・グループに所属してリットン・ストレイチーやヴァージニア・ウルフと日夜遊び、教会や宗教権力には見向きもしなかったのだからさもありなんだが、他方ケインズには「公僕として公共に資する」と任じていたところもあった。それゆえその経済的資質は「どちらかといえばジョージ・ソロス(1332夜)やバフェットに似ているのではないか」とスキデルスキーは評した。 

≪023≫  ケインズ自身も、「経済学の才能はめったにない組み合わせをもっていなければならない」「数学者であって歴史家で、政治家であって哲学者でなければならない」「芸術家のように超然としていて、政治家のように現実的でなければならない」と言っている。 

≪024≫  美術史家のケネス・クラークは「ヘッドライトを消したことがない男」と喩え、友人のオズワルド・フォークは「間違った手掛りがあっても、誰よりも早く物事の動きに追いつく」と評した。スキデルスキーは『ケインズ』で何度も「異例の経済学者」という形容を用いた。 

≪025≫  きっと直観力と観察力と連想力が図抜けていて、どんな出来事のカケラをも未知の総合のための鍵か鍵穴にする編集力に富んでいたのだと思われる。ケインズと同時代人のクルト・ジンガーは「鳥のようだった」と言っている。天空を飛んでいるくせに、突然、地上の獲物を見つけて襲いかかっているというのだ。 

≪026≫  そういう風変わりで天才的だったケインズの、経済学なのである。当然、読み方や理解の仕方にはそれなりの天空アンテナが必要になる。地デジでは無理だ。 

≪027≫  ケインズの経済学は、まとめれば「不確実性のもとでの選択」によって構成されていると考えていい。これは「稀少性のもとでの選択」を重視した古典派経済学とはまったくちがっていた。 

≪028≫  アダム・スミスに始まる古典派から新古典派までは、①稀少性、②通貨の中立性、③均衡の重視、④想定の非現実性、という4つを金科玉条にしてきた。いまでもこの4つは一般的な経済学のジョーシキにされている。 

≪029≫  ①の「稀少性の経済学」は、資源は必要を満たすにはつねに不足しているのだから、勤労によってつくられた生産物に対する需要が不足するはずがない、というリクツをつくった。リカードが言ったように「需要を制約する要因は生産だけ」なのである。ジャン・バティスト・セイ(1767~1832)ならば「供給はそれ自体の需要を生み出す」ということになる。  

≪030≫  この「セイの法則」ではモノを十分に生産するかどうかこそが最大の課題で、需要不足にどう対処するかは問題にはなっていない。となれば、当初の経済学は、大筋、生産を各種の用途にどう配分するかという法則の研究になったわけである。
ライオネル・ロビンズは「経済学は、目的と用途をもつ稀少な手段の関係に鑑みて、人間の行動を研究する学問」だと規定した(1932)。 

≪031≫  もともと古典派の経済学は「実物交換経済」のモデルにもとづいていた。価格は財と財とが交換されるときの数量の比率なのだ。だからこの連中は、そうした価格が需要と供給のあいだでどのように決まるか、その全体系はどのようになっているかを研究する。 

≪032≫  しかし、こういう経済学では通貨は交換を容易にする手段にすぎないということになる。そこに、②の「通貨の中立性」というリクツが出てくる。これに対してケインズは、通貨はあくまで価値を保蔵することによって「現在と将来を結びつけている」と考えた。これまた言うまでもないことだろうが、古典派経済学には、ニュートン力学を勝手に換骨奪胎したようなところが、用語使いだけではなくて、かなりある。経済的活動をそれぞれが独立した原子としての人間で構成されるものとみなし、そこに作用と反作用がおこると見たからだ。 

≪033≫  19世紀のレオン・ワルラスは大半の経済現象が連立方程式で解けると考えたし、20世紀半ばのブノワ・マンデルブロ(1339夜)も、経済理論の大半は物理学で説明できると断言した。だからマンデルブロは市場予測の研究からフラクタル理論を見いだしたのだ。ふーん、そうかと思って、千夜千冊するかどうか決めてはいないが、ぼくも半年ほど前はしきりに「経済物理学」に関する本をあれこれ読んだものだった。 

≪034≫  この運動力学的に経済を見るという観点から、③の「均衡の重視」というリクツが出てくる。経済学はしだいに「均衡」を求める学問になっていったのだ。これって、あきらかに機械論的なのである。ケインズはこのことにも反対して、「経済学は社会科学(モラル・サイエンス)です。内省と価値を扱います」と手紙に書いた。 

≪035≫  結局、古典派は「効用」にとらわれた経済学なのである。どんな経済行為も理想的な効用を求めて動き、そこには平均的な「ホモ・エコノミクス」像が仮想されうると考えた。けれども、そこにこそ④の「想定の非現実性」というリクツが出すぎていると、ケインズは見抜いたのだ。 

≪036≫  ケインズの経済学には、アダム・スミスの「市場の見えざる手」ではなく、「慣行の見えざる糸」が観察されているとスキデルスキーは言う。「慣行の見えざる糸」というのは、不確実性な社会や経済のなかを動く「たまたま」のことをいう。 

≪037≫  それゆえケインズは「経済の進歩は意外にも遅いものだ」という見方を、一貫して採っていた。マルセル・デュシャン(57夜)が「芸術は遅延する」と言ったけれど、それに近い。またそのため、均衡の概念を放棄はしなかったものの、経済社会には“複数の均衡”があるとみて、それぞれがちょっとずつ「自前の均衡」をもとうとしていると見た。これもデュシャンっぽい。 

≪038≫  ケインズが確率論や蓋然性について興味をもったのは学生時代からのことであるが、そのなかで注目していいのは、確率や蓋然性を統計的に捉えることよりも、論理的もしくは言語的に捉えようとしていることである。「おそらく」「たぶん」「たまには」「ひょっとすると」といった言葉が人間の口をついて出ているかぎり、そんなことを統計的平均像にしてもしようがないだろうと喝破していたのだ。『たまたま』(1330夜)も『ブラック・スワン』(1331夜)も、ケインズが生きていたら真っ先に書いた本だったろう。 

≪039≫  ただしケインズは、なにもかもを不確実だと見たわけではなかった。経済学で不確実性が重要になるのは、収入や繁栄に対する観念や予測が「将来についての見方に依存しようとする」からだと解釈していた。 

≪040≫  しかしこのことは、いまや資本主義のすべてが将来の予測に向かって動くようになってしまったのだから、実は経済システムの全貌があまりにも頑固な不確実性に覆われすぎることになってしまった、というふうにもなるわけである。ここに、ケインズがその生涯を通して、資本主義に好感をもてなかった本当の理由が見えてくる。 

≪041≫  前夜にも書いておいたことだが、実はケインズは投資家でもあった。それも製造関係ではなく金融投資一点ばりだった。  

≪042≫  第一次世界大戦勃発直後のイギリスの“信用収縮”を実際に体験したことが大きい。大戦後の一時的な変動為替相場制のときは、アルフレッド・ジョーンズが考案したヘッジファンドを、数十年も早く試みてもいた。最晩年にはイングランド銀行の理事にもなった。 

≪043≫  むろん儲かりもしたが、失敗もした。通貨か、商品か。投資対象としてはどちらがいいか。ケインズはその比較にたえず迫っていて、そのいずれでもない「信用」という本質を見いだしたのだ。1923年の『貨幣改革論』にはそうした経験も生きている。友人で金融業者でもあったニコラス・ダヴェンポートは「ケインズが偉大な経済学者になったのは、投機の本能がわかっていたからだ」と語った。 

≪044≫  むろん儲かりもしたが、失敗もした。通貨か、商品か。投資対象としてはどちらがいいか。ケインズはその比較にたえず迫っていて、そのいずれでもない「信用」という本質を見いだしたのだ。1923年の『貨幣改革論』にはそうした経験も生きている。友人で金融業者でもあったニコラス・ダヴェンポートは「ケインズが偉大な経済学者になったのは、投機の本能がわかっていたからだ」と語った。 

≪045≫  世間ではしばしば、「ケインズは大恐慌を予想できなかった」と言われてきた。それは事実ではないとスキデルスキーは言う。ケインズも、そしてフリードリヒ・ハイエク(1337夜)も、1928年か29年には大規模な暴落がおこると見ていたのだ。  

≪046≫  ただ、その理由が二人は正反対だった。ケインズは金利が高すぎるから恐慌がおこるとみなし、ハイエクは金利が低すぎるから極度の不況になると見た。  

≪047≫  1927年にインフレの危険などなかったはずなのである。それがまたたくまに大規模な恐慌になった。なぜなのか。ケインズは1928年7月にウォール街の投機を抑えるために3・5パーセントから5パーセントへの金利引上げをしたことが問題だと判断した。物価指数が安定していたため、「利益インフレ」が隠れていたのだという見方だ。 

≪048≫  ハイエクはそうではなく、FRBが政策金利を低くしすぎたせいだと判断した。そして、そういう時期には銀行システムは“信用注入”をすべきではないという結論を導いた。これこそはその後、ミルトン・フリードマン(1338夜)らのマネタリストによって拡張されるにいたった見方だ。 

≪049≫  いまからふりかえれば、この大恐慌をめぐるケインズとハイエクの見方の相違が、1970年代以降の経済学がどういうイニシアティブになったのかを予告していた。フリードマンらのマネタリストの経済学が一方的に凱歌を挙げ、そのぶんケインズ主義は排斥されたのである。 

≪050≫  それでも、第二次大戦後の経済世界に君臨していたのはケインズ主義だった。戦後の世界では、誰も1930年代に戻りたいとは思わなかった。前夜に紹介したケインズの国際清算同盟案や超国民銀行(SNB)案や国際通貨SBM案は、反対もしくは歪められて、結局はIMFや世界銀行になったけれど、それでも戦後経済は「ブレトンウッズ体制」と総称されて、ケインズ経済学の大流行となったのである。 

≪051≫  しかしながら、栄光は長くは続かない。60年代後半になってケインズ主義の政策に綻びが見えはじめ、70年代後半にサッチャーが、80年代初頭にレーガンが登場すると、経済理論と経済政策の多くがあっけないほどに“ケインズ以前”に戻っていた。ブレトンウッズ体制に代わって「ワシントン・コンセンサス体制」になったのだ。 

≪052≫  こうして固定為替相場制が葬られ、完全雇用の目標は放棄され、資本取引をめぐる規制が次々に取り除かれていった。 周知の通りの新自由主義の大流行だ。変動為替相場制、自由貿易、民営化、規制緩和、財政均衡、インフレ・ターゲット政策、それに個人主義が組み合わされ、金融派生商品が世界中にあふれていった。しかし、ここでブラック・スワンが笑いだしたのだ。 

≪053≫  この経済的世界観は、どうみても市場効率と自動調整機能を信じる古典派経済学そのものでもあった。これではケインズが打倒されたというより、ケインズの藁人形が燃やされたようなものだった。 

≪054≫  藁人形に火をつけたのはフリードマンである。フリードマンは通貨的不均衡理論の伝統にもとづいて、マネーストックが変化したときは、長期的にみれば生産の水準ではなく物価の水準に影響があるものの、短期的には「マネーストックの伸び率の変化は生産の伸び率にもかなりの影響を与えうるはずだ」と主張した。 

≪055≫  藁人形に火をつけたのはフリードマンである。フリードマンは通貨的不均衡理論の伝統にもとづいて、マネーストックが変化したときは、長期的にみれば生産の水準ではなく物価の水準に影響があるものの、短期的には「マネーストックの伸び率の変化は生産の伸び率にもかなりの影響を与えうるはずだ」と主張した。 

≪056≫  これでフリードマンは60年代後半から70年代におこることになった「スタグフレーション」をみごとに予想した。インフレが加速すると失業率が上昇するという“謎”を言いあてたのだ。資本主義先進国がいっせいにフリードマンの提言に耳を傾けるようになった。フリードマンが「どんなときでも可能であるときは、減税をすべきだ」と言えば減税政策が流行し、政府は市場を規制緩和と民営化に託すべきだと言えば、そうした。 

≪057≫  小泉劇場のシナリオは竹中平蔵でも木村剛でもなく、早くにフリードマンが書いていたのだ。そこにはケインズ主義がすっかり一掃されていた。 

≪058≫ こうして経済学は「乱世」に向かっていったのである。なんとか対策を練りはじめたのは、またまた新古典派経済学の連中である。 

≪059≫  フリードマン理論は、経済主体が市場のシグナルの変化を学んで行動を適合していくというモデルによってできていて、それを「適合予想理論」ともいうのだが、そこには市場の動きに結果が出るまではタイムラグがあった。そこで弟子のロバート・ルーカスはもっと合理的な経済主体ならダイレクトに市場を対応させられるとみて、「合理的予想仮設」を提案した。 

≪060≫  またたとえば、新自由主義が「小さな政府」を提唱していても、政府の介入にはいくらでもそれを正当化するリクツが残っているだろうから、その抜け穴をすべてふさいでしまう「実物的景気循環(RBC)理論」などという化け物も出てきた。これは「ワシントンの介入をやめさせろ」とすぐに言いたがる業界大物たちにとっては、まことに便利な代物になった。 

≪061≫  ケインズ主義者も黙っていたわけではない。新ケインズ派はルーカスらのシカゴ派の精緻化に挑んで、「市場は不完全である」という論点をいまさらながら強調し、グローバリズム批判を展開するようになった。ジェームズ・トービン、フランコ・モディリアーニ、ジョセフ・スティグリッツらが代表した。ケインズ流にポートフォリオを読み替え、消費関数や投資関数の最適化の原則を求める研究に向かったのだ。 

≪062≫  別のケインズ主義者は、そのくらいでは手ぬるいと批判した。ポール・デービッドソンらはケインズが重視した「不確実性の議論」にこそ戻るべきだと言い出し、ポスト・ケインジアンを自称した。しかしこれでは“ケインズの復活”は複雑になるばかりで、その後は「新・新古典派総合」などと揶揄されているように、いささかおたおたと不完全競争をめぐる議論に右往左往するようになっていった。 

≪063≫  新たな火の手も上がった。「公共選択理論」である。これまで政策当局としての政府や自治体は「社会の計画者」だとみなされてきた。それをこの理論では、政府や自治体もまた経済活動をおこなう主体のひとつだとみなした。これは従来の公共政策や公共投資のやりすぎを批判するもので、いわゆる「政府の失敗」議論に火をつけた。このリクツには、合理的予想仮設と共通する「個人の効用化最大化」が唯一の解になっているだけという憾みがあった。 

≪064≫  いったいケインズ経済学とその後の経済学とのドタバタ議論のあいだで、何がおこったのだろうか。スキデルスキーは次のようにまとめる。ぼくなりに少々言い換えておく。  

≪065≫  (1)総じては、ケインズによる「不確実性」と「リスク」の区別が放棄されたのだ。将来に関する不確実性がすべて確率計算に換言できると思いすぎたのだ。つまりは、過去と現在の確率分布が将来でも有効だとしすぎたのだ。 

≪066≫ (2)ということは、新古典派経済学のすべてに特徴的なことは、つまるところは「時間」という要因を考えなくなったということなのだ。ということは、出来事はそれなりの順序でおこっているのではなく、同時におこると考えたのだ。経済学は瞬間湯沸かし器になり、“物語”が消されたのである。これは新ケインズ派でも同断だ。 

≪067≫  (3)結局、ケインズのマクロ経済という見方はもはや見失われたわけである。今日のマクロ経済学は、企業と消費者の最適化行動にもとづくモデルに収斂してしまったのである。しかしケインズ自身はそうは考えていなかった。将来に関する不確実性があるからこそ、そこに「性向」「状態」「流動性」があると見た。 

≪068≫  (4)いいかえれば、今日の経済学では「供給が需要をつくりだす」という「セイの法則」が復元されてしまったのだ。サプライサイドの経済学になったのだ。これでは失業給付と福祉給付を厳格化する以外には対策がなくなっていく。ケインズはまったく逆だった。むしろ、「有効需要がその産出量を決めるかもしれない」という、デマンドサイドの経済学がもっと検討されていいはずなのである。 

≪069≫  (5)今日の経済学は総じて通貨数量説である。マネーサプライの伸び率がインフレ率を決めるというふうになった。まさにフリードマン理論の勝利だが、ケインズはそうなるには完全雇用状態が必要になると考えていた。しかし、そんなことはおこりえないから、マネーサプライだけでは経済社会は先に行けない。そこをどうするか。ここで経済学は座礁したままなのだ。 

≪070≫  (6)みんな、経済モデルの中に「想定の非現実性」を入れすぎたのである。イデアリズムになったのだ。これがケインズのリアリズムを駆逐した。これに対するケインズ理論の逆襲は、残念ながらまだ用意されていない。 

≪071≫  (7)新自由主義が、政府は景気の微調整すらしないほうがいいというふうに言いすぎたことは責められていい。政府は景気の安定策においても、せいぜい物価を安定させる程度の手を打って、あとは市場に任せればいいというふうになったのだ。 

≪072≫  ではケインズは「大きな政府」ばかりを期待しつづけたのかといえば、むろんそうではないのだが、とはいえこれを凌駕する経済政策論を国内的には提案しなかった。ケインズはむしろニューグローバルな国際経済政策のほうを考えていた。 

≪073≫  (8)今日の経済社会では、政府から企業までがいくつかの戦略ゲームにはまってしまった。となると、ガバナンスの責任とルールの明確化とコンプライアンスばかりを問う政治と経済がまかり通ることになる。ケインズはこれらのことを予想もしなかったし、批判もできていないけれど、ポスト・ケインジアンならここから問題をおこすべきだったのである。 

≪074≫  ケインズは資本主義を賛美しなかった。キリスト教に参ったわけでもなく、また社会主義に注目したわけでもなかった。ケインズは骨の髄まで自分の心と意味の動向だけに殉じた「変な男」なのである。

≪075≫  そういうケインズが考えた経済学に、これほど世界の経済がまるごと乗っかったということは、考えてみればそれ自体がかなり異様なことだった。ケインズに賛成するのであれ、批判するのであれ、そこまでケインズ経済学が絶対視されたことのほうが、かなりおかしなことだったのだ。 

≪076≫  そもそもケインズはジョン・ロールズやマイケル・サンデルが重視しているような「正義」などということより、「心の状態」の不確かな「ゆらぎ」のほうに関心をもっていたのではないか。ぼくはケインズを読んでも、本書を読んでも、つくづくそういうことを実感した。だから、ケインズはしょせんは契約社会の改善などを構想していないと言うべきなのである。 

≪077≫  ふたたびナシーム・タレブの『ブラック・スワン』に話を戻していえば、タレブは経済社会に従事する連中の問題として、大意、次のようなことを言ったのだった。 

≪078≫  今日、ITウェブ時代が地球を覆っているなか、仕事は二つのものに割れてしまったのではないか。その二つというのは、ひとつは「重力の影響に携わっていたい」ということ、もうひとつは「貸借対照表のゼロの数をいじりたい」ということ。その二つだけだろうと言うのだ。 

≪079≫  前者の仕事には、農業や身体的なものや医療的なものがすべて入る。後者の仕事は、経営戦略や金融や電子ゲームやソフト制作のすべてにまたがっている。タレブは、ねえ、これでホントにいいんですかと問うたのだ。なかなか穿った問いだった。 

≪080≫  しかし、話をここで終えるわけにはいかないだろう。ケインズに戻っていえば、この二つに社会の仕事の事態が割れてしまったのは、その「あいだ」にひそむ「貨幣というお化け」の正体を、世界中の諸君が見ないようにしているからだということになる。そうも言っておかなければならない。 

≪081≫  もっと端的にいうのなら、ファウストに仕掛けられたメフィストフェレスの魂胆が忘れられているということなのである。これはケインズも、答えを出さなかったことだった。 

≪082≫  というところで、ケインズの次の言葉で今夜を結んでおくことにしよう。「資本主義は現在の視界に存在するいかなる代替的システムよりも、経済目的を達成するのには、おそらくより効率的なものにすることができるであろう。しかし私は、それが本質的に多くの点できわめて不快なものであるとも考えている」(自由放任の終焉)。 

≪083≫ 【参考情報】(1) ロバート・スキデルスキーのことはよく知らない。けれどもわずかなプロフィール資料を見たかぎり、もっと知りたくなるようなコンティンジェントな人物だ。 スキデルスキーは1939年に満州のハルビンに生まれている。父親はロシア系ユダヤ人で、母親は白系ロシア人。曾祖父がシベリア鉄道の工事の一部を請け負って極東ロシアに移住して、林業や鉱業などを幅広く手掛ける実業家になったようだ。 その後、ロシア革命でいっさいのロシア国内の事業を失ったらしいのだが、その後にハルビンで事業を復活させた。だからスキデルスキーが生まれたころはそれなりに裕福だった。ただ、この一族は全員が“無国籍”だったようで、父親は1930年になってやっとイギリス国籍を“取得”した。 そのため、スキデルスキーは数奇な少年時代を送った。1941年に日本が日中戦争および太平洋戦争をおこしたとき、スキデルスキー一家は最初には満州帝国によって拘束され、次には日本によって拘留されたのだ。J・G・バラード(80夜)の少年時代を想わせる(バラードの少年時代はのちにスピルバーグが映画化した『太陽の帝国』に詳しい)。だからスキデルスキーがイギリスに渡ったのは、やっと在英日本人との”捕虜交換”が成立したときだったのである。 戦後は、父親がまたまた中国に戻って事業を再開しようとしたため、スキデルスキーも1947年から中国で暮らしている。天津に1年ほどいて、インターナショナル・スクールに通った。けれども、ここでも波乱が待っていた。共産党軍が天津占領をめざしたのだ。一家はこれで香港に逃れ、スキデルスキーがオックスフォード大学のジーザス・カレッジに入ったのは1950年代末のことだったのである。 上にも書いたように、専攻は歴史学である。1967年には『政治家と不況』を書いている。その後はジョンズ・ホプキンス大学などをへて、1978年にウォーリック大学教授になった。なぜか1991年に一代貴族に選ばれ、イギリス上院議員になっている。うーん、おもしろい。 

≪084≫ (2)邦訳されたスキデルスキーの著書は次の通り。『ジョン・メイナード・ケインズ――裏切られた期待』(東洋経済新報社)、『ケインズ』(岩波書店)、『共産主義後の世界――ケインズの予言と我らの時代』(柏書房)。なんだか、もっといろいろのものを書いているような気がする。 

≪085≫ (3)経済学というものは、ほとほとわかりにくいものだ。ぼくは学生時代にマルクス(789夜)や宇野弘蔵から入ったので、まったく正統な学習をしてこなかった。読書もいつだってランダムで、いまさらそんなぼくに何が言えるのかと思うのだが、ハイエクやフリードマンの流行を見て、ちょっと待ったという気になった。 いまでは少々落ち着いて考えられるようになった。ぼくが思うに、経済学を一つの体系のなかに収めてはいけないということだ。学生やMBAや企業人は、まずもって広い視野をもつべきだ。せめては、「生産の経済学」「消費の経済学」「景気の経済学」「政策の経済学」「金融の経済学」「家政の経済学」、そして「情報の経済学」を、それぞれ別々に話せるようになったほうがいい。そのうえで、貨幣・通貨・日本経済、国際経済、グローバリゼーションを云々するべきだ。 しかし、そうなるには、経済と社会と文化と情報を切り離さないで語れないといけない。けれども、まったくそうはなっていない。だから菅直人の「消費税10パーセント」発言程度で、一国の選挙の趨勢があっけなく決まってしまうのだ。 

ファウスト伝説とは何か。 その魔術に隠されていた錬金術や換金術。 なぜファウストはそんな悪魔と契約をしたのか。 ゲーテはファウスト伝説から、何を取り出したのか。 ゲーテが仕込んだ謎はきわめて深く、問題は近代社会が選択した根本にかかわってくる。 そしてそこに、貨幣の隠された意味が浮かび上がる。 いよいよ証かされる貨幣の魔術的本質を、今夜はゲーテの問いに戻って、しばし逍遥する。 

≪02≫  ドイツの小都市シュタウフェンの市役所の広場のそばに「獅子亭」がある。1539年、この宿泊レストランで特筆すべき死亡例があったことが建物の外壁に告知されている。こういうものだ。 

≪03≫  「西暦1539年、この獅子亭においてファウスト博士なる奇妙な黒い魔術師ありて、悲惨なる死を遂げたり。ファウスト博士なる男が存命中、ひたすら義兄弟と呼びし悪魔の長の一人メフィストフェレスなる者が24年間にわたる契約の切れし後、ファウスト博士の首の骨をばへし折り、その哀れなる魂を永劫に地獄に引き渡せりと言い伝えらる」。 

≪04≫  16世紀ヨーロッパに出入りしていたファウスト伝説がどういうものであるかは諸説があるが、ファウストが「黒い魔術」すなわち「錬金術」に長けていただろうことは、どの伝説にも共通する。「人造の金」の精錬に夢中になって各地を渡り歩き、その魔術的技能を吹聴してさまざまな貴族にその腕を信じこませていたらしいことも、各種ヴァージョンが伝わっている。シュタウフェン男爵が手元不如意になったときも、ファウストは自分の錬金術が役立つと信じこませていたらしい。 

≪05≫  シュタウフェンはファウストが死んだ(殺された)とされる土地である。そのためその後、ファウストをめぐる噂はさまざまに尾鰭をつけ、人々はこの男を悪魔メフィストフェレスと契約を結んだファウスト博士として結像させていった。 

≪011≫  ファウスト伝説には、そのほかいろいろのエピソードが交じっていく。曰くニュルンベルクで錬金術師として活躍した、曰くフランクフルトの見本市で貨幣の両替を繰り返していた、曰くバンベルクで魔法でこしらえた豚を売った、そのほか云々。 

≪012≫  さて、いまさらいうまでもなく、このような話の展開をもつファウスト伝説が、その後、ゲーテ(970夜)のレーゼドラマ『ファウスト』の下敷きになったわけである。 

≪013≫  しかし、ゲーテは伝説を下敷きにはしたものの、『ファウスト』をかなり独特の物語にしていった。ゲーテが生涯にわたって抱えたテーマのすべてを注ぎこもうとしたからだ。そのため1773年に着手していながら、死ぬ直前の1831年までの60年を費やしたほどだった 

≪014≫  今夜は『ファウスト』を案内するところではないので、詳しいことは何も書かないが、ゲーテがファウストという主人公に何を託したかという仕込みは肝腎な点なので、かんたんに言っておく。 

≪020≫  ついでにそのあとの展開を書いておくと、ファウストとメフィストの契約が成立すると、手始めにメフィストはファウストを見ちがえるように若返らせ、少女グレートヒェンに惚れさせる。グレートヒェンは本名をマルガレーテといった。 

≪021≫  970夜にも少々説明しておいたように、グレートヒェンはどんな器用なこともできないが、愛することだけを知っている。そういう可憐な少女だった。ファウストは恋に落ち、胸を焦がし、その本来の活力を失っていく。辛うじてメフィストのはからいで結ばれるのだが、それならその愛でこそメフィストの契約を破棄できたはずなのに、ファウストにはもはやアニメーション(アニマ・モーション)がエマネーション(流出)につながらない。 

≪022≫  そうこうしているうちに、この関係を責めるグレートヒェンの兄がファウストの手にかかって死んだ。一方、グレートヒェンは眠り薬の量を誤って母親を殺してしまう。それどころか、ファウストとのあいだに生まれた子を水没させて殺し、牢屋に入れられたまま死んでしまう。 

≪023≫  茫然とするファウストをメフィストはハルツ山地のブロッケン山の「ワルプルギスの夜の宴」に連れ出し、なにもかもを忘却させようとするのだが、ファウストにはグレートヒェンの面影がどうしても消えない。事態はしだいに行き詰まってくる。 

≪024≫  その後、ファウストはしばらく落ち着きを取り戻すのだが、そこへメフィストがまたまた罠をかけ、ファウストは美女ヘレナと恋に陥り、二人のあいだに男児オイフォリオンが生まれる。詩の化身となったオイフォリオンが地下世界に行くと、ヘレナもこれを追う。この先の話はおもしろいのだが、また、省略しておこう。 

≪025≫  ファウストはいつしか100歳になっていた。それでも最後の命の火を燃え上がらせて、新たな社会の建設に立ち向かう。もはや魔術の力を借りるまでもない。メフィストを振り切るかのように、「止まってくれ、おまえは実に美しい!」と叫ぶと、ついに最期を迎える。 

≪026≫  ニヤリと笑ったメフィストは契約に従ってファウストの霊を手に入れようとするが、天使たちがこれを阻み、墓の中のファウストの魂はグレートヒェンの霊に導かれて天高くのぼっていく‥‥。 

≪027≫  ざっとはこういう筋書きなのだが、さて、このファウストとメフィストフェレスのあいだで交わされた「契約」こそが問題なのである。いったい何がおこったのか。その契約とは何なのか。 

≪028≫  ユング(830夜)は『心理学と錬金術』のなかで、「ゲーテの『ファウスト』は始めから終わりまで錬金術のドラマである」と述べた。「錬金」や「換金」がゲーテが問うた根本の意味にかかわっているというのだ。ぼくはこの意味がしばらくわからなかったのだが、あるときビンスヴァンガーの本書に出会って、うーん、そうなのかと唸った。 

≪029≫  本書は、ゲーテの『ファウスト』は近代的な経済の起源をあらわす完璧な寓話になっていることを証してみせている。ゲーテは、近代の貨幣経済の本質に「中世以来の錬金術がとりこまれている」と見たのではないかというのだ。 

≪030≫  なるほど、そうかもしれない。そうでないかぎり、ファウストを熱中させたような社会建設の行為が貨幣経済として確立しなかったろうという見方は、それなりに説得力があった。それに、ゲーテはたんなる作家ではなくて、そもそもがワイマール宮廷の政治家であり、世界の解釈者でもあったわけだ。 

≪031≫  加えて、それよりなにより「ファウスト・ヒストリア」では、ファウスト博士はワイマール近郊のロート村に生まれたことになっていた。26歳でワイマールの宮廷に入り、32歳で内閣主席となり、それにもかかわらずワイマールを理想社会にはなしえなかったゲーテが、この地に因縁をもつファウスト博士の錬金術や換金術に大きなヒントを得たのは想像がつくことだったのである。 

≪032≫  というわけで、本書はなかなかに虚をつくものだったわけだが、本書に耳を傾けるには 少しだけ錬金術がどういうものであったかを知っておく必要がある。 

≪033≫  錬金術(Alchemie:アルケミー)は「賢者の石」を用いて「金」(きん)を創り出す技術のことをいう。“chemie:ケミ”はもともとエジプト伝来の「黒い土」を意味した。そこからアルケミーは「黒い魔術」で、それが錬金術ともくされた。プルタルコスは「黒いものは太陽の光を見る瞳が黒いように、秘密に満ちたものをあらわす」と説明した。のちのち、このケミから本格的な「ケミストリー」(化学)が派生した。 

≪034≫  「賢者の石」は金の原料ではない。金を生み出すための触媒のことで、それによって卑金属が貴金属になる。たとえば鉛という卑金属に、特別の石の粉末あるいは硫黄や水銀を加えて蒸留すると、ときに微小な貴金属に変化するはずだと考えられた。中世、このプロセスは「鉛を意味するサトゥルヌス神の内発的な可能性が引き出された」というふうに解釈され、そういうことを説明できるのが魔術師や錬金術師の扱いをされたのだ。鉛の本体であるサトゥルヌス神は「賢者の石」によって眠っていた時間クロノスをめざめさせたのだ、というふうに。 

≪035≫  もっとも、サトゥルヌスのギリシア名はクロノスなのだから、ちょっと古典語学に詳しければ、こんな説明はファウストやメフィストでなくとも、いくらでもできたのである。しかし、当時はこれは驚くべき説明だった。錬金術は「時間をも創り出す」と思われたからだ。 

≪036≫  というわけで、錬金術はいつだって「新たな価値を創り出す」という意義だったのである。ゲーテはそこを袂り出すことにした。そして、「新たな価値」とは、次の3つに時代を超えてあらわれるだろうと見抜いたのだ。 

≪037≫  第1には、金を生み出そうとすることは精神の黄金性に達することだった。第2に、肉体の永遠に近づくことを象徴した。そして第3に、金は貨幣としての使用力をもちうるのだから、社会における至高の富を意味するにちがいない。 

≪038≫  ゲーテは「経済」を錬金術のプロセスとその本質的な意義によって解釈したわけである。そのため、折からの古典的な国民経済学と真っ向から対立することになったのだ。 

≪039≫  折からのというのは、1776年に発表されたアダム・スミスの『国富論』以降ということだ。『国富論』の発表は、ちょうどゲーテが『ファウスト』の構想に取り組み、第1部を書き始めたころに当たっている。 

≪040≫  そのとき、ゲーテにとって経済社会はどのように見えていたかといえば、欺瞞たらたらに見えていた。なぜなら古典的な経済学にとっては、富を創り出すのは労働と市場なのである。分業的労働が市場を活性化させ、そこから富が生まれていくと考えられていた。だからスミスは「貨幣または財貨で買えるものは、その貨幣または財貨のぶんの労働によって買える」というふうに説明した。 

≪041≫  けれどもゲーテからすると、このアダム・スミスの経済学には根本的な問題が言及されていない。いや、わざわざ根本的なことが隠されている。そのことをゲーテは『ファウスト』第2部にいたって、あからさまに暴露する。物語の場面でいえば、次の箇所になる。 

≪042≫  グレートヒェンが獄死したのち、メフィストはしばらく落胆したファウストから離れて、次の作戦の準備にかかっている。  

≪043≫  神聖ローマ皇帝の宮廷にとりいったメフィストは、ここでファウストを活躍させようと考える。玉座の間に集まった廷臣たちのおしゃべりによると、いま帝室は著しい難境に立っている。財政窮乏の危機なのだ。そこでメフィストは窮乏を救う方法は、地下に埋蔵している金銀を掘り出すことだと唆(そそのか)す。 

≪044≫  なかなか肯んじない皇帝に対して、メフィストは一計を案じて壮大な仮装舞踏会を演じさせ、その機に乗じて皇帝に一通の証書の署名をさせようと考えたのだ。 

≪045≫  この場面、まことに豪華なページェントの場面になっているのだが、おそらくはゲーテがワイマール時代に興じた遊楽や演目が取り入れられているだろう。それはともかくここでは、皇帝はパンの大神の仮装をし、ファウストは富貴神プルートゥスに扮し、メフィストが強欲を演じるというふうになっている。案の定、ファウストはこのとき皇帝の信任を得た。 

≪046≫  すかさずメフィストは皇帝に証書一通の批准の署名をさせた。ページェントの最中のこととて、皇帝はこの自分の署名行為などおぼえていない。しかし、この証書は一夜のうちに数千枚も刷られて、たちまち帝国内の貨幣として流通していったのである。 

≪047≫  皇帝の帝国はしだいに立ち直っていった。財政は復活し、富はゆきとどき、国中が繁栄することになったのだ。かくてファウストは「公共の資力」に貢献した第一人者になった。 

≪048≫  メフィストとファウストが何をしたかといえば、地下に埋蔵されている金銀を“担保”にして、新たに紙幣を発行するための許可書に署名をさせたのである。兌換紙幣を発行する権利をもぎとったのだ。そのことによって「見えない金」をもたらしたのである。ファウストは言う、「わたしは支配権を獲得し、所有権を獲得する」と。 

≪049≫  ここにゲーテは、ファウスト伝説の錬金術を、近代国家の「金本位制のもとでの紙幣発行というシステム」に読み替えたのだ。そこに貨幣の支配力と財産の所有という幻想が成立しうることを読み取ったのだ。 

≪050≫  それだけではなかった。ゲーテはこのあとファウストに皇帝の戦争を勝利に導かせる場面をつくる。ファウストは将軍となり、メフィストの力を借りると「霊たちの軍勢」を作り出し、「見えない力」を使うことによって戦争を指導する。 

≪051≫  このとき3人の戦士が活躍した。「喧嘩男」「取り込み男」「握り男」の3人だ。それぞれ、財貨の略奪、入手したものを所有する力、その所有したものを手放さない吝嗇を、あらわしている。 

≪052≫  戦争は圧倒的な勝利となった。皇帝はその功績を讃えて海岸地帯を世襲封土として与え、ファウストは地下の埋蔵性をもつ所有者になっていく。「紙幣の発行」と「霊による戦争」は、「見えない金」の所有と「見えない力」の支配という行為の象徴だったのである。かくてゲーテは一国の経済が、自由市場ではなくて、紙幣と戦争と海賊行為によって成り立っていることを見抜いたのである。 

≪052≫  戦争は圧倒的な勝利となった。皇帝はその功績を讃えて海岸地帯を世襲封土として与え、ファウストは地下の埋蔵性をもつ所有者になっていく。「紙幣の発行」と「霊による戦争」は、「見えない金」の所有と「見えない力」の支配という行為の象徴だったのである。かくてゲーテは一国の経済が、自由市場ではなくて、紙幣と戦争と海賊行為によって成り立っていることを見抜いたのである。 

≪054≫ (1)埋蔵している地中の財宝は貨幣を発行する力に見合う。そういう魔法は通用する。 

≪055≫ (2)貨幣・紙幣の発行は時の権力さえ承認すれば合法化される。そういう魔法も説得力をもつ。 

≪056≫ (3)所有の欲望と結びついているのは、貨幣と戦争と暴力と吝嗇である。そうい魔法は民衆も求めている。 

≪057≫ (4)やはり技術や発明が社会を豊かに変えるのだ。それは近代以降の魔法なのである。 

≪058≫ (5)土地にひそむ物質は、結局は「富」あるいは「資本」の原基であるにちがいない。そのことを知らしめたのも近代の魔法だったのだ。 

≪059≫  魔法や魔術と言われてはいるものの、実は経済とはもともと魔術的なしくみからしか生まれないのではないか。そのうえで古典的な経済学や国民経済学は「自由」「平等」を「市場」に結びつけただけではないのか。ゲーテは、そう言いたそうである。 

≪060≫  本書はそうしたゲーテの見通しを、かなり赤裸々に綴っている。もっともそれは、ゲーテ以前にすでにヨーロッパ経済が「世界システム」として見せ始めていたことでもあって、たとえば1694年のイングランド銀行の設立と、そこにおけるウィリアム・ペティの紙幣発行論とか、1715年にオルレアン公から紙幣発行権をもぎとったジョン・ローの営為とか、それがもたらしたミシシッピ会社などの株の力とか、そういうものはゲーテがファウストやメフィストを借りて独創したものではなかった。 

≪061≫  けれどもそのうえで、やはりゲーテは『ファウスト』において、その後の市場主義者のイデオロギーが何をどのように抗弁しようとも欺瞞に満ちていくだろうことを、鋭く見抜いていたわけでもあった。なんといっても、ファウストがメフィストフェレスと「契約」をしたことに、ゲーテのいっさいの想像力が起爆したのである。 

≪062≫ 【参考情報】 (1)ファウスト伝説は「ファウスト・ヒストリア」以降、ゲーテ以前にも、ゲーテ以降にもさまざまな物語になっている。たとえばクリストファー・マーロウの『フォースタス博士の悲話』(1588〜92)では、ファウストは悪魔と結んで科学の権化に向かっていくという物語になり、レッシングの『ファウスト博士』では理知を昇りつめたファウストは魂の救済力をもったともされた。 しかし最も特異なのはトーマス・マン(316夜)の『ファウスト博士』で、ぼくはこれには脱帽した。参った。次(2)にかんたんな案内をしておく。驚かないように。 

≪063≫ (2)トーマス・マンの傑作『ファウスト博士』(1947)には副題がある。「一友人の物語るドイツ作曲家アドリアン・レーヴァーキューンの生涯」だ。これでわかるように、この物語は音楽家の壮絶な宿命を友人が語っているという体裁をとる。 音楽家アドリアンは知能抜群で、ギムナジウム時代から個人教授を受けて作曲家としての才能を開花させるのだが、ハレ大学に進むと神学に打ち込み、ライプチヒ大学に移ると今度は神秘学に夢中になる。あるとき「隠れ家」に案内されてピアノをかき鳴らしていると、褐色の女があらわれ頬を撫でられ、あわてて表へ逃げ出す。しかし翌年、その女を追ってグラーツ近郊に行き、女から梅毒をうつされる。5週間後に発病、二人の医師の治療をうけて第一次症状は消えたものの、根治はできない。 その後のアドリアンはさまざまな芸術的交流を通して、『万有の奇跡』『デューラーの木 版画による黙示録』などの悪魔的な傑作を発表し、ついに自分はベートーベンの『第九交響曲』を破棄すると宣言する。かくてその宣言の交響カンタータとして『ファウスト博士の嘆き』を完成し、1930年5月に友人知己を呼んで、自分の罪過を告白、ではこれから悪魔の作品を聞かせようと言ってピアノに突っ伏し、意識を失う。 そういう粗筋なのだが、この音楽家の物語を書いた友人は、実は音楽家の分身であったことがあきらかになる。それだけでなく、うすうす見当がついたかもしれないが、この主人公はニーチェ(1023夜)がモデルなのである。トーマス・マンはファウストとニーチェを重ね、しかも将来のファウストは音楽家でなければならず、音楽家は本物を求めればファウストにならざるをえないことを突き付けたのだ。また、物語のありとあらゆる場面ドイツ的悲劇のシンボルとアレゴリーを埋めこんだ。こんなファウスト伝説は、今後もとうてい出てこない。そういう傑作、いや怪作なのである。 

≪064≫ (3)著者のハンス・クリストフ・ビンスヴァンガーについては、よく知らない。1929年のチューリヒ生まれで、スイスのザンクト・ガレン大学の経済学教授だということくらい。スイスにおける自然保護運動の旗手でもあるらしい。なおファウスト伝説の当時のルーツについては、溝井裕一の『ファウスト伝説』(文理閣)を見るといい。数々のファウストにまつわる写真も入っている。 

いま、マネーと情報はぴったりくっついている。

電子決済や電子ネットワーク社会が、その準備をなしとげた。

では、かつて情報と富は結ばれていなかったのか。

そんなことはない。

グレートマザーの時代は結びついていた。

デマレージの経済社会というものもあった。

本書はECUを設計した異才リエターによるかなり変わったマネー論仮説だ。 

松花体話録

松花体話録

松花体話録

≪03≫ 【参考情報】 (1)ベルナルド・リエターは1942年生まれ。文中にも紹介したように、ECU(エキュ)の設計者として知られ、のちには通貨トレーダーとして名を馳せた。しかしその後は地域通貨の研究に転じて『マネー崩壊』(日本経済評論社)を書いて、国家通貨とは別の通貨の可能性に視点を移していった。 本書もその延長にあるもので、世界通貨「テラ」なども提唱しているのだが、全体に理想性や幻想性が漂っていて、厳密な議論がされているとは思えない。しかし、そこに何かの可能性が胚胎しているだろうことが、多くの読者を魅了したようだ。たとえば『マネー崩壊』の巻末に長い解説を書いた加藤敏春はその一人だ。 加藤は『エコマネー』(日本経済評論社)でその思いのたけを存分に披露した。ケインズの「バンコール」に倣った「ミレニアム」という世界通貨も提唱し、ハイパーテキスト型社会構造の可能性と地域通貨の関連についても言及している。通産省の出身で、その後はエコマネー・ネットワークの代表をしているようだ。 

≪04≫ 【参考情報】(2)本書には、経済書としてはきわめて特異なことだが、ユングの「アーキタイプ」(元型)の思考法が組み入れられている。それがグレートマザー社会にひそむ「陰のマネー論」に及び、今夜の花ちゃんとの会話には入っていないが、実はイシスの話題、黒聖母の話についてもいろいろ言及して、近代資本主義社会によって失われたこれらの「陰」や「影」がいかに重要になりつつあるかを強調した。 とくにイシスについては何度も触れていて、古代エジプト社会における「穀物貨幣」の役割や、イシスに象徴される再生力の重要性などを強調している。イシスに込められた「社会の再生」の秘密とは何かというあたりだ。イシス編集学校の諸君にとっては必読かもしれない。 が、リエターはその「もてなし」をうまく発揮していない。経済学や経済社会論ともうまく連携されていない。きっとカリフォルニア大学バークレー校のタオ・フラワーな気分に呑みこまれたままになっているにちがいない。ここをどう突破するかが、今後の課題だろう。 

ゲゼルの大著は、いまほとんど読まれていない。

そのラディカルきわまりない思想の系譜も、

ほとんど辿られていない。

実はそこにはプルードンが先行し、

マルクスとケインズがあいだに入り、

シュタイナーが後行していた。

しかし誰も、こんな奇妙な系譜を

本気で議論してはこなかった。

いったい何をどのように捉えたらいいのだろうか。

今夜は大著『自然的経済秩序』をめぐりながらも、

まずはその周辺のアプローチの方法をさぐる。 

≪02≫ 資料①  

≪03≫  シルビオ・ゲゼルの波乱に満ちた生涯については、あらかた前夜に書いた。20世紀初頭の経済理論家があれだけの“経済乱世”をくぐり抜けてきたというのは、めずらしい。 

≪04≫  いくつか理由が考えられる。ドイツ帝国の勃興期と多難期のドイツの辺境に生まれ育ったこと、若いころにシュティルナー、マルクス(789夜)、ショーペンハウアー(1164夜)、ニーチェ(1023夜)を読んだこと、南米アルゼンチンで投機とその崩壊のプロセスに立ち会ったこと、すぐれたビジネスセンスとロジカルな理論構築能力に恵まれていたこと、第一次世界大戦前のドイツマルクの狂乱を身近で体験したこと、ロシア革命が勃興して社会主義の成長理論が登場していたこと‥‥。 

≪05≫  そうしたことがゲゼルのなかで比類のないかっこうで融合したから、かなり独創的な経済理論や自由貨幣の構想が思い浮かんだのだったろう。そこから協同組合的な理想や農業重視的な理念とともに、ありうべき資本主義の未来像についての構想が浮かんでいった。 

≪06≫  そのゲゼルのことを、どこかでシュタイナーは知った。シュタイナーのアントロポゾフィ(人智学)はつねに精神生活と社会生活の深い関係を問うものであるが、そこにはゲーテ譲りの政治経済感覚も去来していた。そこへゲゼルが加わって、生産と生活の直結ないしは循環が理想になっていく。シュタイナーが「貨幣は他人の生産した財貨の“小切手”にすぎない」というふうにみなしていたこと、また、その“小切手”が経済領域においてどのような財貨とも交換しうるのは、社会生活者たちが労働をして生産物を社会に供給する責任をはたしているかぎりにおいてのことだ考えていたのは、多分にゲゼルっぽい。 

≪07≫  シュタイナーが「老化する貨幣」を考えて、貨幣に25年ほどの期限つけたいと思っていたのも、きわめてゲゼル的である。シュタイナー的なオーガニック・エコノミーにはそういう貨幣の未来像が必要だったのだ。それが「エインジング・マネー」だった。 

≪08≫ 資料②  

≪09≫  ゲゼルは生前もその後も、一貫して異端扱いされてきた。シュタイナーやエンデやビンスヴァンガーが重視したのはめずらしい。 

≪010≫  それでもケインズ(1372夜)が貨幣論のなかでわざわざ「将来はマルクスよりもゲゼルが重要になっていく」と予言的に評価した。それにもかかわらず、その通りには評価されてこなかった。やはり特異すぎたのであろう。またケインズの「バンコール」などの提案がアメリカ主導のIMF=世界銀行構想に押し切られたせいだろう。そのあとは、あまりにシカゴ学派と新自由主義がはびこってケインズ主義が退嬰してしまったせいもある。  

≪011≫  それでも、それがリーマンショック以降はいささか反転して、少しはケインズ復活の機運も出てきただろうから(1373夜)、これからは多少はゲゼルにも光が当たるかもしれないが、そうなるにはゲゼルがもっと読まれなくてはならず、それがなかなか叶わないままにある。いま日本で読めるのは残念ながら本書一冊きりで、しかも大冊。一般読者には難解でもある。 

≪012≫  そもそもゲゼルの思想の立場も実は説明しづらいところがある。たとえば、本書の訳者の相田慎一が「あとがき解説」で最初に断っているように、ゲゼルは「反マルクス主義的社会主義」というレッテルを当初から貼られてしまっていた。ケインズが「マルクスよりもゲゼル」と言ったのも、その見方を踏襲していた。 

≪013≫  そうした見方はゲゼルの今日的な意味を取り出すに当たってはかなり狭すぎる。それでもマルクスとゲゼルを比較するのは、ゲゼルを理解するためのとりあえずの入門的な見方としてはわかりやすい窓になるはずだった。とくに資本主義についての考え方はきわめて対比的なのである。 

≪014≫  たとえば、マルクスは資本主義の本質が「産業資本主義」にあるとして、そこに資本と生産関係の矛盾が噴き出て、資本家と労働者のあいだに搾取が生じるとみなしたが、ゲゼルは資本主義の本質は「利子経済」にあると見た。そして、矛盾がおこるのは生産過程ではなく、むしろ流通過程であって、搾取がおこるとしたら貨幣所有者と商品生産者のあいだだろうとみなした。 

≪015≫  マルクスは市場経済そのものを根底から覆し、プロレタリアートの手による経済社会にするという構想を出し、それがレーニン以降のプロレタリア独裁国家によるソ連の計画経済になったわけだけれど、ゲゼルはまったくそういうことは考えなかったのである。市場経済は個人の自由が守られるかぎりは有効なもので、資本主義も利子経済から脱却できれば何とか軌道修正できるだろうと見ていた。ただし、それには貨幣による経済秩序の統御が障害になっているので、そこにこそ「エイジング・マネー」としての自由貨幣が登場すべきだと提案しつづけたわけだった。 

≪016≫  一応はこういうふうに、ゲゼルの経済思想のおおまかな特色がマルクスとの比較によって見えてはくるのだが、ただしそういうふうに見ると、そのぶん、ゲゼルの思想が反マルクス的な自由論をめざしているとも見えるだけに、それが個人的自由主義に与するものともみなされる。そういうふうに見るのがふつうの近代思想史の見方なのである。 

≪017≫  しかしながら、実際にはゲゼルの思想は、今日にいういわゆる個人的自由主義とはほとんど交差していない。 

≪018≫  というのも、ゲゼルの個人的自由主義はアダム・スミスやスチュアート・ミルの自由経済論から出てきたのではなく、まして今日のリバタリアニズムと直結しているわけでもなく、実はピエール・プルードンやマックス・シュティルナーから出ていたからである。そうだとすると、ゲゼルの思想はマルクス以前のアナキズムこそが思想的背景だというふうになってきて、ふつうの経済学者はむろん、多くの思想家たちも、いささかお手上げになる。そのへんをどう見るかが、ゲゼルの自由地論や自由貨幣論を考えるときの、ちょっとした難関になるわけなのである。 

≪019≫ 資料③  

≪020≫  プルードンを有名にしたのは1830年の七月革命と1848年の二月革命である。七月革命で仕事を失い、二月革命ではチュイルリー宮の無血占領に参加した。 

≪021≫  フランスのブザンソンに生まれ育って、そのブザンソンのゴーチエ印刷所の植字工や校正工になった。1829年、ゴーチエ印刷所にたまたまシャルル・フーリエの『産業的協同社会的新世界』の原稿がもちこまれた。プルードンは校正担当者としてフーリエと接触して、その思想のとりこになった。  

≪022≫  そのうちそこへ七月革命の余波が届いた。ナポレオン以降のフランス社会の最悪の混乱と経済的打撃がやってきたわけである。プルードンは“渡り職人”の資格をとってなんとか食いつなごうとするのだが、とうてい仕事はなかった。パリにも出てみたが、何の仕事も得られない。こうしてプルードンは国家というもの、社会というもの、経済というものの成り立ちそのものに疑問をもちはじめる。フランス革命、ジャコバン党の支配、ナポレオン帝国、そしてルイ・ボナパルトの共和政というふうに連打されてきた祖国フランスの右往左往に根底的な疑問をもったせいである。 

≪023≫  それは言ってみれば「真の革命とは何か」ということであった。こうして書かれたのが『所有とは何か』(1840)だったのである。所有の起源を辿っていくと、そこには他人のものを収奪するか、徴収することでしか成立していない財産というものがある。そういう所有の制度をこのまま放置しておいてもいいものか。その問題に切り結んでいったプルードンは、かくて「所有」と「私的財産」の根源を歴史上初めて俎上に乗せた思想者となった。 

≪024≫  しかしプルードンはそこにとどまらない。1843年には『人類における秩序の創造について』を、1846年には『経済的諸矛盾の体系』を発表し、リヨンの織工たちが蜂起したときはその支援にもまわった。また当時は“ヘーゲル左派”と呼ばれていたルーゲ、グリュン、ハイネ(268夜)、まだ25歳だったマルクス、さらにはバクーニン、ゲルツツェンらと積極的に接触して、その考え方を広めていった。 

≪025≫  『経済的諸矛盾の体系』は通称『貧困の哲学』と呼ばれた。いっさいの経済行為を「分業・機械・競争・独占・租税・貿易・信用・所有・共有」に十分類し、それらがことごとく矛盾とアンチノミーの上に成り立っていることを証そうとした社会的快著だった。プルードンは社会の前進の駆動力は、この矛盾とアンチノミーから発進していると見たわけである。 

≪026≫  しかし翌年、マルクスはこれを『哲学の貧困』として批判した。プルードンの思想を抉ったというよりも、プルードンが立ったアナーキーな人脈と立場に批判を加えたのだった。これ以降、マルクスはプルードンやバクーニンらを無政府主義者として難詰する。 

≪027≫  こうして時代は1848年のフランスは二月革命に雪崩こむ。これが世界史的にどんな意味をもっていたかは説明するとキリがないが、第1には、当時のフランスには50万人を突破する勢いで失業者があふれていた。そのため国立の失業対策のための工場が必要になっていた。第2には、偏向した選挙権をめぐる運動が激化していた。人口170人に有権者が1人という制限に知識人や労働者が不満をぶつけ、各地でいわゆる「バンケ」(改革宴会)が開催されていった。第3に、バンケの中止を求める政府と民衆が激突し、市街戦が激化した。第4に、その運動の渦中に国王ルイ・フィリップが退位亡命して、蜂起した側の労働者の代表やルイ・ブランなどの社会主義者が登場して臨時政府が成立した(これを狭義の二月革命という)。 

≪028≫  第5に、臨時政府は21歳以上の男子による普通選挙を敢行するのだが、穏健派が議会の多数を占める結果となり、国立作業場が閉鎖されることになって、ふたたび30万人の労働者が決起(六月蜂起)、多くの犠牲者を出して鎮圧されることになった。第6に、これらの結果、ルイ・ボナパルトが大統領に就任した。第7に、こうして19世紀初頭から続いたナポレオン体制のあとに各国が築こうとしたウィーン体制が音をたてて崩れていき、その余波がベルリンとウィーンの三月革命などに波及していったのである。 

≪029≫  プルードンはこうした事態をすべからく「理念なき革命」と断罪し、「人民の代表」と題する新聞を発行したり、選挙に立候補したり、六月蜂起で弾圧された労働者を擁護したりしつつ、議会には所得税に対する改変を迫る提議を案出したりもしていたのだが、ついに業を煮やしてまったく新たな「銀行」の提案に向かっていった。 

≪030≫ 資料④ 

≪031≫  前夜で、ゲゼルがスイスに農場を購入して「土地」のことを考えるようになり、雑誌「貨幣と土地改革」を創刊したということを述べておいた。また、その後にスイスの国営銀行法に介入して『スイス銀行の独占』を書き、1906年には『労働全収権の実現』や『積極通貨政策』を刊行したことも述べた。 

≪032≫  ゲゼルは土地にひそむ自由地に目をつけ、しかるのちに自由通貨を構想したのだった。『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』をまとめていくには、この思索のプロセスが前提になっていた。加えて、ゲゼルはこれを書くときにプルードンを批判したマルクスを批判して、マルクスの選択肢がプロレタリア独裁による国家経済に向かったことを非難した。 

≪033≫  ゲゼルが考えた「自由地」とは、土地監理局に報告されて労働が許された土地、外国人が侵攻あるいは認定されて居住している土地に対して、誰もが努力しさえすれば開墾できる土地のことをいう。ゲゼルはそれを「第三級の自由地」と呼んだ。 

≪034≫  この自由地を、生産と労働の本来的な活動のなかで経済的に有効にするにはどうするか。地主の申し渡した地代を払い、労働賃金を払っているだけでは、そこには経済の自立的自由は生まれない。そこでゲゼルは、ありうべき「自由地」にふさわしい「自由貨幣」がありうるのではないかと考えたのである。 

≪035≫  ということで、本書の主だったところだけを抜き書きするが、ざっと次のような部立てと章立てと節立てになった。よくよくこの目次を見れば、ゲゼルが何を構想したか、あらかたが見えてくるにちがいない。 

≪036≫ 資料⑤  

≪037≫ 目次① 

ミヒャエル・エンデが最後に望んでいたのは、

利子が利子を生まない貨幣だった。

そういう貨幣が使える新たな社会だった。

エイジング・マネー。

時間の経過とともに変化する貨幣。

自由貨幣、補充貨幣、スタンプ貨幣、代用貨幣。

この卓抜な発想には、何人かの先覚者がいた。

ゲゼル、ケインズ、シュタイナーである。

エンデはかれらの著作から

新たな社会経済の青写真を汲み取っていく。

かつてのNHKの番組がその余波をあきらかにする。 

≪01≫ ミヒャエル・エンデが最後に望んでいたのは、利子が利子を生まない貨幣だった。 そういう貨幣が使える新たな社会だった。 エイジング・マネー。 時間の経過とともに変化する貨幣。 自由貨幣、補充貨幣、スタンプ貨幣、代用貨幣。 この卓抜な発想には、何人かの先覚者がいた。 ゲゼル、ケインズ、シュタイナーである。 エンデはかれらの著作から、新たな社会経済の青写真を汲み取っていく。 かつてのNHKの番組がその余波をあきらかにする。 

≪02≫  この本のもとになった番組をぼくは見ていない。1999年5月4日の放送だったようだが、見逃したのではなく、知らなかった。この本によってそういう番組があったことを初めて知った。これを読むかぎり、けっこう充実した番組になっていただろうと予想する。 

≪03≫  河邑厚徳といえばNHKの教養番組ドキュメンタリー派の鬼才で、「がん宣告」「シルクロード」「アインシュタイン・ロマン」「チベットの死者の書」などで鳴らした人物だ。その河邑がエンデが残したたった1本のテープから番組を組み立てていったというのだから、それだけでも構想力や構成力がどんなものであるかが想像できる。もっとも書物になるにあたっては、共著者の「グループ現代」が選んだ森野栄一、村山純子、鎌仲ひとみの3人の準備力と執筆力が大きかったはずである。森野栄一についてはあとで紹介する。 

≪04≫  エンデが残した1本のテープというのは、1994年2月にミュンヘンの自宅で語った2時間のものらしく、それもカメラの回っていない音声録音だったようだ。その翌年にエンデは亡くなった(1995・8・28)。 

≪05≫  このときエンデは冒頭で次のように言っていた。 「よろしいですか、どう考えてもおかしいのは資本主義体制下の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことのすべて、つまり個人の価値観から世界像まで、経済活動と結びつかないものはないのですが、問題の根源はお金にあるのです」。 

≪06≫  これを聞いた河邑はカメラが回っていなかったことを悔しがり、それならその声のテープに新たな映像を加えて、独自のドキュメンタリーに再浮上させようと決断したようだ。  

≪07≫  それからのことは知らないが、ついには本書に見るように取材先をいろいろ加え、多様な編集戦線をつくりあげていったのだろう。「あとがき」によると小泉修吉プロデューサー、村山純子ディレクターの寄与も相当なものだった。 

≪08≫  本書はそういう成り立ちの本であるが、実はエンデ本人をクローズアップしつづけているのではない。『モモ』や『はてしない物語』の作家としてのエンデをほとんど掘り下げてはいない。むしろエンデの周辺、エンデが影響を受けた経済思想家、エンデの衣鉢を継いだ者たち、さらには今日におけるエンデの貨幣感覚の実践者たち、そういう方面を追っている。テーマはサブタイトルにあるように「根源からお金を問うこと」、それこそが『エンデの遺言』だったのではないかということにある。 

≪09≫  では、ぼくの本書を読んでの感想を綴っておく。番組を見ての感想ではない。大きくかいつまんでいくが、ところどころに本書でとりあげていないエンデの作品や時代についてのことや、これまで千夜千冊してきた貨幣論や経済社会論との関係についての感想などを挟む。 

≪010≫  まずは、ここから話していくのがいいと思う。シュタイナー(33夜)のことだ。エンデにはどこかシュタイナーに振幅しているところがある。 

≪011≫  エンデが青少年期をルドルフ・シュタイナーの影響のもとに過ごしたことは、前夜に紹介した。そこでは書かなかったのだが、シュタイナーのアントロポゾフィ(人智学)には父親エドガー・エンデが傾倒していた。エドガーは「見えない世界」を油絵などにしようとしていたので、シュタイナーのみならずあれこれの神秘思想の本を読んでいた(どんな本だったか、知りたいものだ)。 

≪012≫  エンデはその父親より、もっとシュタイナーに近づいた。6歳でシュタイナー学校に入ったということは、シュタイナーのことをある程度知る者ならおおむね見当がつくだろうが、ほとんど生涯の価値観を決定づけるに足るものだったはずである。 

≪013≫  シュタイナー学校は正式には「自由ヴァルドルフ学校」という。1919年にシュトットガルトの煙草工場に付属する社営学校として開校された。工場に働く師弟が“学衆”だったので、職業学校としてスタートしたものだった。 

≪014≫  いまや世界各地に800校以上を数えるシュタイナー学校は、日本にも1975年に刊行された子安美知子の『ミュンヘンの小学生』(中公新書)を通して、本格的に紹介された。この本には「娘が学んだシュタイナー学校」というサブタイトルがついている。言語芸術、演劇的活動、オイリュトミー(舞踊体操=Eurhythmie)、農業活動、肥料製造、設計、デザイン、ドローイング、絵画、医療、カウンセリングなどを組み合わせた独特の学習教育をしている。ぼくもオイリュトミーの天才と言われたエリゼ・クリンクが来日したときは、なぜか記念講演をさせられた。踊りは風が翻るようですばらしく自在だった。 

≪015≫  ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)はオーストリア・ハンガリー帝国の辺境の町クラリエヴェク(現在のクロアチア)に生まれ、小さな頃から神秘的なことや幾何学的なことに異常な関心を示していた。 

≪016≫  10代は実業学校に通い、物理にも機械にも興味をもつとともに、レッシングやカントを読むようになった。やがてウィーン工科大学で自然科学を、ウィーン大学で哲学・文学・心理学を学んだ。その活動の出発点は22歳から携わったワイマール版『ゲーテ全集』の編集にある。ゲーテ(970夜)はシュタイナーのすべてなのである。だからドルナッハに最初のゲーテアヌムを設計開館すると(1913)、各地にシュタイナー学校が広まるとともにゲーテアヌムを併設していった。 

≪017≫  エンデはそういうシュタイナーに少年時代から馴染んできた。影響が少なかろうはずがない。 

≪018≫  そのシュタイナーに経済社会論をめぐる著作がある。おもな主張は『社会問題の核心』(人智学出版社)や『シュタイナー経済学講座』(筑摩書房)にまとめられている。おそらくエンデが熱心に読んだ本だろう。そこに「老化する貨幣」が提唱されている。 大意、次のようなことが書かれている。 

≪019≫   健全な社会においては、貨幣は他人の生産した財貨の“小切手”にすぎない。その“小切手”が経済領域においてどのような財貨とも交換しうるのは、その小切手所有者が社会の生産部門の労働をして、生産物を社会に供給する責任をはたしているかぎりにおいてのことである。 しかしいま、貨幣は生産活動の表象としての機能を失っている。こうしたときは、貨幣はその貨幣価値をその所有者に足して効能を減じていく処置をされるべきである。たとえば、貨幣所有権が一定の期日を過ぎれば、なんらかの手段で社会に還付されるようにする。本来は生産活動に投下されるべき貨幣が死蔵されないためにも、こうした方法が考案されるべきである。 

≪020≫  シュタイナーは貨幣に「25年ほどの期限」をもうけることを提案したそれによって貨幣価値に高低のカーブをつけ、さまざまな決済・融資・贈与のあいだで自動的な調整がおこなわれていけば、きっとオーガニックな経済社会のバランスがとれるだろうと考えた。 

≪021≫  これが「老化する貨幣」だ。当初の価値がしだいに減衰していくという貨幣という意味をもつ。経済学では「エイジング・マネー」と呼ばれている。「加齢する貨幣」である。時を経過するとともにその価値を変化させ、ときには衰えていく。 そういうエイジング・マネーをミヒャエル・エンデも夢想した。 

≪022≫  そもそもエンデは戦火の渦中のドイツにいて、祖国のマルクが未曾有の混乱を見せつづけていたことをいやというほどに体験している。このような国家は当時はドイツのほかにはなかった。  

≪023≫  ナチス体制のもとで流通していたのはライヒスマルクである。しかし激しいインフレの進行でほぼ信用を失っていた。そのため敗戦直後のドイツは事実上、いまでは想像もつかないだろうけれど、“物々交換”がまかりとおっていた。なんとタバコが価値尺度と交換手段の役割をはたしたのだ(タバコはこういうときに大事なのです。むやみに禁煙運動など広げないように‥‥笑)。 

≪024≫  タバコのことはともかく、ドイツを占領した連合国はさすがにこの原始的現状を見て、焦った。高度な合理を求める資本主義社会では「原始的な交換」こそ最もヤバイことなのである。カール・ポランニー(151夜)の言う「社会に埋めこまれた経済」が発生してしまうからだ。 

≪025≫  そこで一刻も早く通貨改革を施行しようとしたのだが、紙幣の印刷をどの政府のもとでおこなうかについて、ソ連との合意が得られない。そのため全ドイツの通貨統一はあっさり見送られ、ソ連占領地区を除いた暫定通貨の導入に踏切り、紙幣の印刷をアメリカ本土が担当し、それをこっそりフランクフルトのライヒス銀行に空輸で送りこむという非常手段を決行した。 

≪026≫  ドイツは国民の意志とはまったく関係のない暫定通貨、いや擬似通貨とさえいいうる通貨によって、真っ二つに分断されたのだ。 

≪027≫  こうした事情を目の前で見ていたエンデは、貨幣や通貨というものが勝者に強く、敗者には酷(ひど)くなっていくことを実感した。また国際通貨や基軸通貨というものが資本主義と社会主義の苛烈な競争のためにのみ大手をふっていることに気がついた。 

≪028≫  かくてエンデは、「パン屋でパンを買うためのお金」と「株式取引所で扱われる資本としのてのお金」を厳しく峻別すべきことを、しだいに考えるようになっていく。 

≪029≫  このような体験をしたエンデが、貨幣や通貨のありかたに疑問をもったとしても不思議はない。エンデはNHKの番組では、こんなふうに言っている。 

≪030≫  私が見るところ、現代のお金がもつ本来の問題は、お金自体が商品として扱われていることです。本来、等価代償であるべきお金がそれ自体で商品となったこと、これが決定的な問題だと私は思います。お金自体が売買されるのが現代です。これは許されることなのか。そのことにおいて貨幣というもののなかに、貨幣の本質を歪めるものが入るのではないか。これが核心の問題だと思います。 

≪031≫  エンデは貨幣を否定しているのではない。そういうことではない。おそらくどんな思想家も革命家もエコノミストも、貨幣を否定する者なんて、めったにいるはずがない。貨幣は言語や大工道具や運送機関のように必然なのである。そのことは『貨幣と象徴』(1371夜)にも書いておいた。 

≪032≫  しかし、言葉づかいによっては人が傷つくように、英語教育で世界中を統一することが愚挙であるように、大工道具で手が頻繁に切断されてはならないように、尺貫法で大工が仕事をしたっていいように、小さな町を機関車が横断するべきではないように(それでは『ねじ式』の悪夢がくりかえされる)、自動車は森首相の悪ったれ息子だからといって酔ってコンビニに突っ込んではならないように、貨幣にもそれなりの使い勝手があっていいはずなのである。 

≪033≫  エンデはこのことを説明するのに、シュタイナーが説いた「社会有機体三層論」を援用した。 

≪034≫  人間の社会というものは、さまざまなレベルやレイヤーやゾーンで成立している。これをシュタイナーは大きく3つに分けた。
第1には国家や法や政治のもとに生きている(法生活)。
第2に生産や消費のもとに生きている(経済生活)。
第3に文化や教育のもとに生きている(文化生活)。 

≪035≫  これらはそれぞれが相互に自律しあっている「生の領域」なのである。これを一緒くたにしないほうがいい。たとえばフランス革命は「自由・平等・友愛」を掲げたが、「平等」は政治や法が律しても、「自由」は精神や文化が担うべきであろう。
もしも「友愛」を問題にしたいなら、それこそ経済における友愛が追求されるべきなのだ 

≪036≫  そもそも「所得と職業」が、「報酬と労働」が一つになってしまったことが問題なのである。
われわれは「働く」ということを「同胞のために働く」という場合にもいかすのだし、逆に、決まった収入を得ることと好きな仕事をもっとしたいということが一致しないことだって、しょっちゅうあることなのである。まして表現活動や冒険の旅に出ることは。。 

≪037≫  そう、シュタイナーは主張したわけだ。社会は有機体として「法制・経済・文化」の三層になっているというのだ。ヴァルター・クグラーの『シュタイナー 危機の時代を生きる』(晩成書房)などを読まれるといい。『社会問題の核心』では次のようにも書いている。 

≪038≫   純粋な生産活動によって得られる収入と、すぐれた経営手腕によって得られる収益と、貯蓄によって得られる収入とは、それぞれ区別して考えるべきである。
社会における資本のはたすべき役割は、個人がその能力によって発現する役割にも寄与するべきである。
資本主義の問題は、資本がそのすべてを経済領域に向けすぎたことにある。
むしろ本来の創造的な機能にこそ資本が機能できるようにしなければならない 

≪039≫  エンデもこのようなシュタイナーの主張を継承して、経済が「自由」と「平等」を謳っていることに疑問を呈し(まさに新自由主義がその合唱のようになったのだが)、社会が分業によって成り立っているのだとしても、その分業によってすべての市場経済が許容されるべきではないし、株式経済のルールが人々を法令遵守させるべきではないと考えた 

≪040≫  シュタイナーもエンデも、資本はもっと社会的なものであるということを考えていたのだ。銀行だってそうである。
 社会のためのソーシャルバンクがあっていい。
 しかし、そんなことがありうるのだろうか。それは夢物語にすぎないのではないか。番組では、ここでドイツにあるGLS銀行を取材する。 

≪041≫  「贈ることと貸すことの共同体の銀行」という奇妙な名をもつこの銀行は、預金者が自分で投資するプロジェクトを選び、同時に自分で預金の利率を決められるようになっている。たとえば有機農業のプロジェクトを促進したいと思えば、銀行が選定した有機農業ファンドに投資する。そのとき、自分で自由に利率を選ぶ。銀行側も利子の最高額の設定を通常の利率にしておいて、それ以下でもかまわない投資者を募る。その投資者が多く、その有機農業プロジェクトが成功すれば、投資者は存分なリターンが得られるわけである。 

≪042≫  ここまでくると、前夜にも少しふれたように、エンデがハンス・ビンスヴァンガーの『金と魔術』(1374夜)にひとかたならぬ関心をもったことは、容易に予想がつく。 

≪043≫  あらためて言うまでもなく、ゲーテが『ファウスト』で描いた錬金術は紙幣を勝手に印刷する近代の錬金術だったわけだが、それは連合国アメリカがドイツマルクにしてみせたことであり、ソ連がこれを無視したことに通じていた。戦勝国はたえず貨幣を牛耳ったのだ。それとともに、そのことは現代の貨幣資本主義や株式資本主義のすべての常識にもなっていったのである。ファウストとメフィストフェレスの会話は、資本主義社会にはまったく届いていなかったのだ。 

≪044≫  前夜にも述べておいたように、ビンスヴァンガーはのちにはエンデの『鏡のなかの鏡』にも注目した。映画化をすればきっとアンドレイ・タルコフスキー(527夜)の『ストーカー』のような作品になるような趣向だが、内容は一つのシティの祭壇から金銭価値が増殖していっているという恐怖を描いている。エンデがいつごろ『金と魔術』を読んだのかは知らないが、エンデはビンスヴァンガーに、そのビンスヴァンガーはエンデに影響されてきたのであろう。 

≪045≫  ビンスヴァンガーは、本書のインタヴューでは次のような発言をしている。成長と失墜をもたらす貨幣経済の根底に株式市場があることを問題視した発言だ。 

≪046≫  株式経済は重要な企業形態ではあるけれど、成長を基盤にせざるをえない。しかもこの経済では分配された利益配当が主題であって、株価が主人公なのである。かつ、株式経済の利潤は手元に戻ってくることを当てにした投資で成り立っている。そこに問題がある。エンデはそうした株式市場の外で動く貨幣経済の可能性を模索していたのではないか。 

≪047≫  いささかシュタイナーの思想に加担しすぎたかもしれないが、エンデがこのような経済思想の持ち主だったことは、これまであまり知られてこなかった。本書はエンデに対する取材を通じて、この面を取り出した。 

≪048≫  それでは話を次に進めよう。 エンデがシュタイナーに続いて、いや、シュタイナーその人がその経済思想に影響されたであろうからエンデも注目しつづけた、もう一人の経済思想家がいた。それが知る人ぞ知るシルヴィオ・ゲゼルなのである(以下、シルビオ・ゲゼルと表記する)。 

≪049≫  ゲゼルは、ケインズ(1372夜)が『雇用、利子および貨幣の一般理論』でとりあげた「スタンプ付き貨幣」を発想したドイツの商人である(以下、スタンプ貨幣と言う)。ケインズはかなりゲゼルの影響を受けている。 

≪050≫  しかしゲゼルは、ケインズが言うようなたんなる商人ではなかった。革命的な経済思想家であり、画期的な貨幣論の提案者であった。むろんケインズもそれはわかっていた。ケインズは「シルビオ・ゲゼルは不当にも誤解されている。しかし、将来の人間はマルクスの思想よりもゲゼネの思想からいっそう多くのものを学ぶはずだろう」と書いた。 

≪051≫  ついでにいまのうちに言っておくが、実はアインシュタイン(570夜)もゲゼルにぞっこんだった。「私はシルビオ・ゲゼルの光り輝く文体に熱中した。貯め込むことができない貨幣の創出は、別の基本形態をもった所有制度に私たちを導くであろう」と褒めている。 

≪052≫  けれどもゲゼルは一貫して無視されてきた。何か危険な思想の持ち主だったのか。それともユートピア主義者だったのか。あるいは極左主義なのか。そのいずれにもあてはまらない。では、いったいゲゼルとは何者なのか。何がケインズやシュタイナーやエンデにもたらされたのか。スタンプ貨幣というアイディアなのか。いや、それだけではなかった。 

≪053≫  ともかくも、この異質な人物のアウトラインを知っておくべきだろう。本書『エンデの遺言』にもそれなりのページ数がさかれている。日本で「ゲゼル研究会」を主宰している森野栄一の執筆担当だった。 

≪054≫  シルビオ・ゲゼルは1862年にドイツ帝国のライン地方に生まれた。マルメディ近郊というところで、ドイツ文化とフランス文化が混じっていた。父親は会計局の役人、母親は教師。9人兄弟の7番目で、家の中ではフランス語、外に出るとドイツ語を喋った。 

≪055≫  16歳でギムナジウムを卒業すると、父親が公務員に就かせたいというので郵政局の職員になるが、すぐに退職してしまう。年長の兄の2人がベルリンに出ていたので、兄弟で歯科用の医療器械を扱う店を開いた。その後、語学力をいかしてスペインのマラガに赴き、ほどなく軍務に服役、その後に退役すると機械メーカーの通信員となる。アンナ・ベッカーとも婚約する。 

≪056≫  1886年、24歳のゲゼルはアルゼンチンに行く。兄のパウルが製造した歯科治療器具をブエノスアイレスで販売することが仕事だが、アルゼンチンはインフレとデフレを繰り返す金融混乱時代になっていた。ゲゼルはこの地でアンナと結婚し、輸入業者としての荒波をくぐりはじめた。とくに国内の不換通貨に金の価格の変動が重なって、国際為替相場が暴力的なほどに擾乱していくのを体験する。 

≪057≫  好調に見えた投機ブームが2年ほどたつと、アルゼンチンの経済は最悪になってきた。政府はデフレ政策をとり、金の流出と引き換えに追加的な対外債務を求めるのだが、いっこうにうまくいかない。銀行も不振に喘ぎはじめ、投資家たちは政府の債務返済猶予を認めない。すぐさま紙幣の価値が低落し、破産企業が続出すると、闇の投機が躍り、貨幣の売り買いが始まった。 

≪058≫  それなりの仕事をしていたゲゼルは、ここで一念発起する。ことごとく事業を整理して(段ボールプラントも仕事にしていた)、工場の売却益でラプラタ川に浮かぶ島をひとつ買うと、そこで農地を耕しつつ、理論活動に耽ったのである。こうして第1弾の『社会的国家への架け橋としての通貨改革』という画期的な論文が生まれる。インフレ期に貨幣の売買が安定するには、「指数通貨」と「自由貨幣」の両方が必要だというものだった。 

≪059≫  反応はなかった。しかしゲゼルは続いて『事態の本質』『貨幣の国有化』を著し、1897年には『現代商業の要請に応える貨幣の適用とその管理』を刊行して、アルゼンチン政府と経済界に問うた。反応はあいかわらず、ない。それでもゲゼルは『アルゼンチンの通貨問題』というパンフレットを作り、政界・実業界・新聞社をまわった。しかしあまりの無反応に、ゲゼルは段ボールのプラントビジネスを再開し、自分の事業の展開によって政策と通貨の問題を実験してみせた(このやりかたは、ぼくが親しい原丈人のやりかたに似ている)。 

≪060≫  しかし、それでもまだ反応はなかった。けれども、ゲゼルの予想はずばり当たっていたのである。物価水準を切り下げようとする経済政策はことごとく失敗だったのだ。アルゼンチン経済は1年後に破綻、4万人の失業者が街に溢れた。ゲゼルのほうはかえって財を得た。34歳になっていたゲゼルは、1900年にヨーロッパに帰ってくる。 

≪061≫  ヨーロッパに戻ったゲゼルはスイスを選んだ。ヌシャーテル県のレゾート・ジュネヴィに農場を購入すると、そこでみずから農民となって6年間をおくった。スイスの長い冬がゲゼルに新たな思索と表現をもたらした。 

≪062≫  ヨーロッパに戻ったゲゼルはスイスを選んだ。ヌシャーテル県のレゾート・ジュネヴィに農場を購入すると、そこでみずから農民となって6年間をおくった。スイスの長い冬がゲゼルに新たな思索と表現をもたらした。 

≪063≫  ついでスイスの国営銀行法の議論に介入して、『スイス銀行の独占』を書き、1906年には『労働全収権の実現』を、続いて『アルゼンチンの通貨過剰』を、さらにフランクフルトと共著の『積極通貨政策』を刊行した。 

≪064≫  ここでスイスからベルリンに拠点を変えたゲゼルは、ゲオルグ・ブルーメンタールと雑誌「重農主義者」を発刊するかたわら、これまでの著作を編集再構成し、いよいよ『自然的経済秩序』をまとめていった。この主著は、日本では『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』(ばる出版)という大著になっている。カウツキー研究者の相田慎一の訳である。2007年に翻訳刊行されたものだが、ぼくはこれを読んでぶっ飛んだ。 

≪065≫  どういうふうにぶっ飛んだかは、以下のゲゼルのこのあとの事歴の紹介のところにも少しはふれるが、詳しくは次夜の千夜千冊にまわしたい。ここにはピエール・ジョセフ・プルードンが蘇っているからだ。プルードンがどういう思想家だったかということも、今夜はふれない。 

≪066≫  第一次世界大戦のさなかに『自然的経済秩序』は出た。ゲゼルは勇躍、1916年にはベルリンで「金と平和」を、翌年にはチューリヒで「自由土地、平和の根本条件」を、1919年にはふたたびベルリンで「デモクラシー実現後の国家機関の簡素化」を、それぞれ講演した。 

≪067≫  3番目の講演は「小さな政府」を提唱したものだった。しかしゲゼルはそうした驚くべき先駆性とはべつに、1917年に始まったロシア革命によるマルクス主義的な反資本主義の思想と行動に警戒を強めた。いったい社会主義や共産主義によって世界は変革されるのか。ゲゼルは以降、ボルシェヴィズムを批判し、マルクスの経済思想の限界を見極めようとする。 

≪068≫  思想的にマルクスを批判しただけではなかった。1919年にバイエルン共和国のホフマン政府から社会化委員会への参加が要請されると、ミュンヘンで友人のテオフィール・クリスティン、ポレンスケ弁護士らとともに「自由経済顧問団」を結成し、ギュスターブ・ランダウアーの新政府(クルト・アイスナー政府)の樹立に協力をする。ゲゼルは『自然的経済秩序』第4版の序文にこんなふうに書いている。 

≪069≫   自然的経済秩序は新たな秩序の人為的な組み合わせではない。分業から生まれた発展は、われわれの貨幣制度と土地制度かがその発展に対立するという障害に直面する。この障害は取り除かれなければならない。それがすべてだ。  自然的経済秩序は、ユートピアとも一時的熱狂とも無縁である。自然的経済秩序はそれ自身に立脚し、役人がいなくとも生活する力をもっており、あらゆる種類の監督と同様に国家それ自体を無用なものとする。それは、われらが存在を司る自然淘汰の法則を尊重し、万人に自我の完全な発展の可能性を与えるのだ。  この理念は自分自身で責任を負い、他者の支配から解放された人格の理念であり、これはシラー、スティルナー、ニーチェ、ランダウアーの理念である。 

≪070≫  だいぶん過激になっている。しかし、ゲゼルが新政府の財務担当人民委員に就任して1週間で、クルト・アイスナー新政府はモスクワの指示に従う共産主義者によって転覆されてしまった。これがバイエルン第二共和国である。ランダウアーは逮捕され、殺害された。 

≪071≫  ゲゼルは憤然として「全貨幣所有者への呼びかけ」というパンフレットを撒いた。また、国内物価水準の安定のために国際為替レートの協調会議の招待状を認(したた)めた。が、ゲゼルらは共産主義者の嫌疑をかけられ、大逆罪で告発される。 

≪072≫  その後、ゲゼルは高等裁判所での法廷闘争を展開、結局は釈放されるのだが、さすがに暗澹たる気分になっていた。国家というものが大逆罪によって何を仕掛けているのか、あまりにもよく見えすぎたからだ。もはや国家には脱出口はないのではないか。さすがのゲゼルも絶望したようだ。 

≪073≫  第一次世界大戦は終わった。しかしヴェルサイユ条約の経済政策はなんともひどいものだった。黙っていられないゲゼルは、1920年に『ドイツ通貨局、その創設のための経済・政治・金融上の前提』というパンフレットを発表する。時のドイツ銀行の総裁ハーフェンシュタインに宛てた。むろん何の対応もなかった。 

≪074≫  それならいよいよもって“ゲゼルの奇跡”が近くなってきつつあるはずだったが、もうゲゼルの余命のほうがなくなりつつあった。1927年、渾身をふりしぼって『解体する国家』を書くと、世界が大恐慌に見舞われていったさなかの1930年3月11日、69歳の誕生日を前に、ゲゼルはベルリン郊外のエデンに没した。いま、ぼくが少しずつ近づきつつある 

≪075≫  ミヒャエル・エンデがどのようにシルビオ・ゲゼルを知ったかははっきりしない。
 NHKの番組では、金融システムの問題を話していたエンデが、その話が華僑に入ったあたりで突然にゲゼルのことを持ち出し、取材班を驚かせたという。NHKチームはゲゼルのことをまったく知らなかったからだ。
 のみならず、エンデはゲゼルの経済思想が実践された例を持ち出した。オーストリアのヴェルグルという町のことだった。 

≪076≫  シルビオ・ゲゼルという物がいて、「お金は老化しなければならない」と説きました。お金で買ったものはジャガイモにしろ靴にしろ、消費されていく。しかしその購入に使ったお金はなくならない。モノは消費され、お金はなくならない。モノとしてのお金と消費物価とのあいだで不当競争がおこなわれているのです。ゲゼルはそれはおかしいと考えたのです。ゲゼルはお金も経済プロセスの進行とともに消費されるべきだと考えたのです。  このゲゼルの理論を実践し、成功した例があります。1929年の世界大恐慌の後のオーストリアのヴェルグルという町のことで、その町長のウンターグッゲンベルガーが町の負債と失業対策のため、現行貨幣とともに「老化するお金」を導入したのです。 

≪077≫  ヴェルグルはザルツブルグ近郊にある。その町で、1932年に画期的な実験がおこなわれた。世界大恐慌のあおりをくった人口5000人ほどのヴェルグルは、400人の失業者と1億3000万シリングの負債をかかえていた。そこで町は、通常貨幣とは異なった「労働証明書」という形の新しい通貨を発行し、公共事業の支払いに充てた。 

≪078≫  世界史上初の「エイジング・マネー」の導入だった。しかしオーストリア政府とオーストリア中央銀行は紙幣の発行は国家の独占的な権利であるので、この行為は認められないとして、ウンターグッゲンベルガー町長を国家反逆罪で起訴、すべての新紙幣を回収してしまったため、この実験はあえなく潰えた。 ヴェルグルで発行された「労働証明書」は、ゲゼルが構想し提案した「自由貨幣」のうちのひとつの、「スタンプ貨幣」である。特定の地域で短期間にわたって使うためのものなので「地域通貨」とも「代用紙幣」ともいえる。 

≪079≫  ヴェルグルのスタンプ貨幣(厳密には紙券)は12カ月分の枡目が印刷されていて、そこに使用者たちがスタンプを貼るようになっている。スタンプ紙券の額面はいろいろだが、どの紙券も毎月1パーセントずつ減額していく。そのため町民は月末までに減価分に相当するスタンプを当局から購入して貼らなければ、額面を維持できない。町はこうしたスタンプ収入をさまざまな救済資金に充てたのだ。 

≪080≫  スタンプ貨幣は“期限のついた紙幣”であって、“減価する紙幣”なのである。使用者の“痕跡が残る紙幣”でもある。とくに「勝手に増殖しないようになっている」という最大の特色がある。 

≪081≫  ゲゼルは1週間で0・1パーセントずつ減価するスタンプ貨幣を提唱した。年間に換算すると5パーセントになる。これは一般の通貨レートの変動に接近した変動幅だと想定できるので、ゲゼルの構想がすぐれていたことを暗示した。 

≪082≫  いったいゲゼルからエンデに伝わった自由貨幣の構想は、資本主義の世の中で現実化可能なものなのだろうか。 

≪083≫  むろんゲゼルは可能だと考えた。ゲゼルは資本主義をよくするにはそれしか方法はないと考えていた。ゲゼルもエンデも、またシュタイナーも、お金や資本主義を廃止する必要はまったくないと考えている。むしろ現状の通貨・紙幣・資本主義がこのまま進んでいけばしだいに悪化するだろう、取り返しがつかなくなっていくだろうとみなしていた。 

≪084≫  どのようにゲゼルに発した自由貨幣を議論していけばいいのか、またゲゼルが「土地」を“自由地”として再解釈していったかということをどう議論すればいいのか、それを正確に語ろうとするとけっこう難しい。だから、そのことについては次夜に視点を変えて案内するとして、ここでは、こうした自由貨幣構想が各地で現実化した小さな例を、NHKの取材に従って紹介しておくことにする。 

≪085≫  ★1932年の早い時期、ドイツのバイエルンの石炭鉱山の町シュヴァーネンキルヘンで、鉱山所有車のヘベッカーが「ヴェーラ」という自由貨幣を発行した。ヴェルグル同様にすぐに政府が禁止したため、わずか10カ月ほどの実験だったというが、このあとドイツは経済悪化が深刻になり、ナチスが台頭してきた。 

≪086≫  ★1932年10月、アメリカのアイオワ州ハワーデンで30万ドルの自由貨幣が発行された。ハワーデンは人口3000人。自由貨幣は失業手当の調達に使われた。3セントの印紙を貼る方式だった。 

≪087≫  ★1933年、ロングアイランドのフリーポートで、失業対策委員会が5万ドルの自由貨幣を3種類の紙券として発行した。スタンプ紙幣方式だった。同じ年、アラバマ出身のバンクヘッド上院議員とインディアナ州のピーテンヒル下院議員がそれぞれゲゼル理論を咀嚼して、連邦政府に代用貨幣の発行を認めるという法案を提出、緊急時の通貨対策として承認をされたが、これは実施されることはなかった。 

≪095≫ 地図画像2 

≪088≫  ★1934年10月、スイスのバーゼルに本店をおくヴィア銀行は、協同組合銀行として経済リング「ヴィア」を開始した。そのころのスイスには5万人ほどのゲゼル派がいたらしい。その出資にもとづいて4万2000フランが資本金になった。翌年には会員3000人、年間売上は100万フランになった。1938年に“時間とともに目減りする通貨”を発行するために、「ヴィア」という経済単位での取引ができるようにした。有効期間1年で、毎月、印紙を裏に貼るようにした。理念は利用者間の相互扶助におかれたため、利子率は最低限のものだった。こうしてその取引額は1960年には1億8330万フランに達した。いまでは、スイス企業の17パーセントにあたる7万6000社がヴィア・システムに参加し、1995年以降はヴィアカードによる決済が可能になっている。 

≪089≫  ★1983年、カナダのバンクーバーで、コモックスのマイケル・リントンが「グリーンドル」という物やサービスを交換できるシステムLETSを始めた。地域交換取引システム(Local Exchange Trading System)の頭文字をとってLETSという。物やサービスの提供を受けたい住民が、そのつどグリーンドルという計算単位で代価を発行するしくみになっていて、口座ゼロから出発してグリーンドルを使うと口座からその分がマイナスになることでスタートできた。リントンはこのマイナス口座からのスタートをLETSへのかかわりを示す“積極的な負”とみなした。 

≪094≫ 地図画像1  

≪090≫  ★1991年、ニューヨーク州イサカで「イサカアワー」という地域通貨が誕生した。「グリーンスター」という生協型のスーパーマーケットのポール・グローバーが始めたもので、非営利の委員会でこれを管理した。1イサカアワーは10ドル。現在も使われていて、8分の1アワー、4分の1アワー、2分の1アワー、1アワー、2アワーの5種がある。表面には「ここイサカでは私たちはお互いに信頼しあっている」というフレーズが刷られ、裏面には「この紙幣は時間の労働もしくは交渉のうえでの物やサービスの対価として保証されています。イサカアワーは私たちの地元の資源をリサイクルことで地元の経済を刺激し、新たな仕事を創出する助けとなります。イサカアワーは私たちの技能・体力→道具・森林・野原・川などの本来の資本によって支えられています」と刷られている。 

≪091≫  ★1992年、ドイツのザクセンアンハルト州のハレ市に、「交換リンク」という仕組みが始まった。現金をまったく使わずに通帳上の中だけで物や仕事やサービスを交換するシステムで、通帳の中で交換されるのは「デーマーク」という経済単位である(1デーマーク=1ドイツマルク)。これは会員全員が見る交換可能リスト誌を媒介にして、日本にもよく見られる「売ります」「買います」の“交易”が成立すれば、あとは年会費や通帳発行料金などを収めれば、そのほか自由だった。その後、「交換リンク」はデーマーク型のものがドイツで200あまりの地域で、フランスでは「SEL」という単位の300あまりの地域が実施されている。 

≪092≫  ざっとではあるが、こんなふうにゲゼルの自由貨幣運動は各地に広まっていったのである。ここではふれなかったが、ドイツの「緑の党」などのムーブメントにも、つねに自由貨幣論は出入りしてきた。 

≪093≫  しかしながらこれらは、いまでは地域通貨論や電子マネー論の範疇で片付けられているだろう事例になっている。そうなる理由もあるのだが、ゲゼル→ケインズ→シュタイナー→エンデという系譜を考えると、その程度の議論でいいのかどうか、そろそろ問われるべきときがきているはずである。 

≪096≫ 地図画像3