≪01≫  この一冊は説明するものではない。なぜなら、これは絵を読むための一冊であるからだ。ルドルフ・シュタイナーが黒板にさまざまなドローイングをしながら講義をしていたことは伝え聞いていた。が、それがどういうものかは、ワタリウムの和多利恵津子さんが展覧会をするまでは知らなかった。一見して、すべてが了解できた。見ればわかった。シュタイナーの黒板絵はパウル・クレーに匹敵するものだった。

≪02≫  なぜ1920年代のシュタイナーの黒板絵が残っていたかということは、事情を知らない者にとってはちょっとした謎である。が、すぐれたスタッフにはときどきそういう人たちがいて、歴史をつくってくれるものだが、シュタイナーにもそういうスタッフがいたわけである。あるスタッフがシュタイナーがいつも描く黒板のドローイングがこのうえなく貴重なものにおもえ、そのドローイングの模写をトゥゲニエフという女性画家に依頼したのがはじまりだった。けれども模写ではシュタイナーその人の味は出きらない。そこで生徒の一人が黒板に黒い紙を貼ってしまうことをおもいついた。シュタイナーはそれでも同じように黒板的黒紙に図示をし、絵を描きつづけた。これで奇跡的にも、その黒紙が保存されたのである。1919年からシュタイナーがドルナッハで死ぬまでの6年間のドローイング、約1000点がこうして残された。

≪03≫  一枚、このドローイングのなかから好きな絵を選べといわれれば、ぼくなら1923年10月6日のドローイングを選ぶ。これは「地球が月になるとき」(When Earth Becomes Moon)というもので、不束な地球が月の動きをうけてその精神を受胎しているような構図がふわふわと描かれていて、フラジャイルなのである。

≪04≫  この絵についてはシュタイナーは次のように考えていた。もともと人間は地球につながっている。その地球に新たな人間たちが生まれてくるときは、月の作用が女性たちになんらかのものをもたらして、その新たな人間がよく育つようにするはずだ。そして新たな人間を迎えることになる女性たちはきっと月になっていく。それが証拠に、地球は毎年クリスマスが近づくたびに、地球のすぐの内側にとても月に似た部分をつくっているものなのだ、というふうに。いかにもシュタイナーらしい。

≪05≫  ルドルフ・シュタイナーに接するには、「神智学」と「人智学」という二つの用語がもつ領域と社会性をちょっとばかり知っておかなければならない。

≪06≫  神智学はやたらに広い。古代の原始キリスト教神秘主義とともに始まっていて、神学・新プラトン主義・グノーシス・カバラ・ヨアキム主義そのほかがまるごと含まれることもある。しかし狭義の神智学はヘレーネ・ブラヴァツキー(しばしばマダム・ブラヴァツキーとよばれる)によって唱導されたスピリチュアリズムのことをさしていて、なかでも1875年にアメリカの農場でブラヴァツキーとオルコットによって設立された神智学協会をさすことが多い。

≪07≫  ブラヴァツキーは1831年のロシアの生まれだが、やがてロシアを出奔して世界各地を放浪し、それぞれの地の神話や伝承や秘教を吸収していった。そこまでは過去の神秘主義者とたいして変わらないオカルト派だったのだが、しだいに英米中心のオカルティストとは異なるヴィジョンをもつようになっていった。「再生」を確信し、精神の根拠を物質的な実証性にもたないようになったのである。

≪08≫  そのころ、多くのオカルティストは霊媒を信用していて、しきりに降霊術をおこなって、死者の言葉や霊魂がたてる音やエクトプラズム現象に関心を示していた。ブラヴァツキーはこれらに疑問をもち、いっさいの物的証拠とは無縁の霊魂の存在を確信するようになり、さらにユダヤ・キリスト教では否定されていた「再生」に関心を示した。この再生感覚はむしろ仏教思想に近いものだった。実際にもブラヴァツキーはインドに行ったか、もしくはその近くでのインド仏教体験をしたと推測されている。

≪09≫  こうして神智学協会が設立されたのだが、その種火は小さなアマチュアリズムに発していたにもかかわらず、ブラヴァツキーが人種・宗教・身分をこえた神秘主義研究を訴えたためか、その影響は大きかった。この神智学協会の後継者ともくされたのがシュタイナーなのである。ついでに言っておくのだが、神智学協会の活動は1930年代には衰退したにもかかわらず、その波及は収まらず、その影響はたとえばカンディンスキー・モンドリアン・スクリャービンらの芸術活動へ、また日本にも飛び火して鈴木大拙・今東光・川端康成らになにがしかの灯火をともした。日本の神智学協会運動は三浦関造の竜王会が継承しているというふれこみになっている。

≪010≫  人智学という用語はもともと16世紀のころからつかわれていて、19世紀には人類学のトロクスラーやヘルバルト派の哲学者ツィマーマンによって学術用語とされた。しかし、いまではシュタイナーが設立した人智学協会やその主唱する学術的神秘思想全般をさすようになっている。

≪011≫  人智学を提唱する前のシュタイナーはきわめて本格的なゲーテ研究者であった。1861年にクラリュベック(のちにユーゴスラヴィアに編入)に生まれたシュタイナーは、ウィーン工科大学を出たあと、1883年から14年間にわたってキュルシュナーの国民文学叢書で「ゲーテ自然科学著作集」全5巻の編集にかかわった。これがその後のシュタイナーの思想の根底を用意した。ゲーテの有機体論と形態学こそはその後もずっとシュタイナーの総合エンジンとなったのである。のちに「ゲーテアヌム」をつくるのも、このゲーテ主義にもとづいている。

≪012≫  ついで1900年ころにブラヴァツキーの神智学運動にふれて大きな共感をもつと、1902年には神智学協会のドイツ支部事務総長になっていた。その後、協会のアニー・ベサントがクリシュナムルティをキリストの生まれ替わりだと言い出すにおよんでシュタイナーを呆れさせ、結局は人智学協会の設立に向かわせた。1913年のことである。協会は1923年に「一般人智学協会」、および「霊学のための自由大学」に発展する。いずれもスイス・ドルナハのゲーテアヌムに本部がおかれた。

≪013≫  シュタイナーは何をしようとしたのだろうか。それを手短かに語ることは勘弁してほしい。シュタイナーを語るにはシュタイナー主義者になる必要がある。それはいまのぼくにはできそうもない。そのかわり、シュタイナーが仕掛けた発信装置がいまや世界各地のゲーテアヌムとして、オイリュトミーとして、シュタイナーハウスとして根を下ろしていることを伝えたほうがいい。黒板絵の前に立ってみることもそのひとつだ。

≪014≫  しかし、ひとつだけぼくも強調しておきたいことがある。シュタイナーが神智学から別れて人智学を興そうとしたことには、あきらかにゲーテ思想の普遍化という計画が生きていたということだ。ゲーテ思想とは一言でいえばウル思想ということである。原植物や原形態学を構想した、そのウルだ。植物に原形があるのなら、人類や人知にウルがあっておかしくはない。シュタイナーはそれをいったん超感覚的知覚というものにおきつつ、それを記述し、それを舞踊し、それを感知することを試みたのである。

≪015≫  超感覚的知覚とでもいうべきものがありうるだろうことは、堅物の科学者以外はだれも否定していない。リチャード・ファインマンさえ、そんなことを否定したら科学の未知の領域がなくなるとさえ考えていた。ハイゼンベルグだってウルマテリア(原物質)を想定した。しかし、そういうウル世界をどのように記述したりどのように表現するかとなると、それこそノヴァーリスからシャガールまで違ってくる。ヴォスコヴィッチからベイトソンまで異なってくる。シュタイナーはすでに1920年代に、それをひたすら統合し、分与したかったのだ。このことは強調してあまりある。

≪01≫  1957年4月、ハーバート・ノーマンが自殺したという報道が新聞に載った。丸山真男は一週間にわたってそのことが頭を離れなかったという。

≪02≫  ノーマンはおおかたの日本人には『忘れられた思想家』の著者として、すなわち安藤昌益に関する最も初期のすぐれた研究者としてのみ知られていたが、その歴史学者としての広さ、『日本における近代国家の成立』『日本の兵士と農民』『日本政治の封建的背景』などの著書、ましてや占領日本でのカナダ代表部主席としての役割、エジプト大使としての活動、アメリカ上院治安委員会での扱いなどは、あまり知られてこなかった。いまだにノーマンの活動の全貌を知る者は少ない。

≪03≫  本書はそのような"謎のノーマン"の知性を知るには格好の歴史随想になっている。クリオとは「最も内気な歴史の女神」のことをいう。いくつかのエッセイがおさめられているが、1948年の福沢諭吉研究会30周年記念の講演「説得か暴力か」、原題が「クリオの謙遜について」となっている「クリオの顔」、それに「ええじゃないか考」が歴史家の滋味に富む。加えて丸山真男が「毎日新聞」に二日にわたって綴った追悼文「ハーバート・ノイマンを悼む」が、今日のボケきった日本人に深々とした鉄槌を打ち下ろしているようで、心にのこる。

≪04≫  履歴についてわかっているかぎりの概略を書いておくが、ノーマンはカナダの外交官であって、また歴史学者だった。父親がメソジスト派の牧師で布教中の来日していたおりにノーマンが生まれた。1909年である。だからノーマンは日本で産声をあげ、15歳までを日本で暮らした。これは決定的である。

≪05≫  その後、トロント大学、ケンブリッジ大学、ハーバード大学、コロンビア大学で日本史と中国史を修め、研究にも入った。いくつもの論文がのこっている。が、ここからはやや詳細が見えないのだが、1939年にカナダ外務省に入ってふたたび来日、東京のカナダ公使館に勤めた。まさに軍靴の音が鳴り響きはじめたときだった。ところが真珠湾攻撃前後には交換船でカナダに戻っている。どういう理由かは深いことはわからない。

≪06≫  戦後になると、ノーマンはまた駐日カナダ部の一員として来日し、太平洋問題調査会(IPR)を中心に極東委員会や対日理事会で活動した。このころが丸山真男や都留重人らの日本の知識人との交流期間になる。日本の歴史学者とも親しく意見をかわし、学界に寄与もした。その後、1950年に帰国すると、外交官の地位を昇りつめ、外務省極東局長、情報局長を歴任し、対日講和条約のときは首席随員にもなった。さらに1954年にはエジプト大使に就任するのだが、おりから吹き荒れたマッカーシズムに抗議したあたりから立場が苦しくなったようで、突如として1957年4月にカイロで自殺した。

≪07≫  自殺の真相はあきらかにされていないようだが、ノーマンが日本の歴史学研究にもたらした功績はほぼ顕賞されている。たとえば明治社会については、下級武士こそが明治の中央権力を握っていく過程の分析が重要であって、そのことをとらえることが日本の現代社会における官僚指導主義の特質をとくものだとしたのだし、それがなぜ日本独特の産業資本にむすびつくことになったのかを解明することが、やはり日本の国家形成の鍵となるものだと分析したのだった。

≪08≫  と、ここまでは、ぼくはノーマンの自殺の真相が不明であるとだけ書いてきたのだが、実はあとでのべるように、この謎にとりくんだノンフィクションライターであって作家である人物が、二人もいたのである。二人とも日本人である。が、その前に、ノーマンのもうひとつの業績についてちょっとだけふれておく。

≪09≫  昌益は大著『自然真営道』や『統道真伝』の著者として、また日本屈指の独創的農本思想者としていまでこそ有名であるが、ノーマンが1950年に『忘れられた思想家』を書いたころはほとんど知られていなかった。なにしろ秋田の寒村に生まれ育って(これもはっきりしないのだが)、ときどきは八戸あたりにいたものの、ひたすら農事の思想にのみ単独でとりくんだのだから、なかなか理解されなかった。ほとんどの既存の学問のなかに虚偽を見いだして、自身の造語だけで思索を発展させ、それをすべからく「直耕」にむすびつけたというのは、あまりにも大胆か卓抜すぎるか、それとも一人よがりかもしれず、さすがに江戸明治大正昭和を通じてわかりにくく、まったく評価されてこなかった。それも赤穂浪士が討ち入りしたころの生まれだから、のちの二宮尊徳などの農村改善運動などよりずっと前に構想をかためていたことになる。

≪010≫  ノーマンはそうした昌益をまるごと凝視したのである。しかも日本人にさえ理解しがたい思想を丹念に解読してみせた。さらに昌益にひそむ「沈鬱と平静」という思考の特色を抜き出してみせた。これは驚異である。ここは昌益を説明するところではないので遠慮しておくが、ぼくはノーマンを読み耽った翌日、当時は連日連夜にわたって企画と執筆に集中しつづけていた手を休め、次の「遊」では農業思想を特集して、せめて安藤昌益のノートだけでも自分で書いてみようと決意したほどだった。

≪011≫  そうしたノーマンを、丸山は「無名の者への愛着」に溢れる研究者というふうに読んだ。

≪012≫  さて、ではハーバート・ノーマンの死の謎であるが、これに果敢にとりくんだのは中薗英助と工藤美代子だった。やはりこういう慧眼の持ち主はいるものなのだ。中薗は『オリンポスの柱の蔭に』を、工藤は『悲劇の外交官』を書いた。

≪013≫  ここではサスペンスに富んでいた中薗の著書のほうを紹介しておくが、この『オリンポスの柱の蔭に』という表題が何をあらわしているかというと、GHQの本部なのである。第一生命ビルに構えたマッカーサー司令部の玄関にはギリシア神殿さながらの列柱が聳え立っている。そのオリンポスの柱の蔭でレッドパージ(赤狩り)が虎視眈々とノーマンを狙っていた、そういう意味なのだ。

≪014≫  この小説仕立ての大作には、ノーマンが冷戦が始まった米ソ間のスパイ戦争のなかで被疑者としてしだいに追いつめられていった経緯が刻々描かれている。ノーマンがマルクス主義っぽいということは学界でも通り相場だったのだが、外交官として"赤"としての動きをしていたかどうかということは、赤狩りをした張本人たちの断定であって、いまなお判断できる者はない。しかしGHQの背後を操ったCIAの記録にはノーマンを犠牲者にするためのシナリオが残響しているはずである。中薗はそこに焦点をあてて、この緻密な推理を書きあげた。

≪015≫  事実だとすれば、ノーマンの身に迫る恐怖はただごとではなかったろう。カイロにいてノーマンは絶体絶命を感じていたのである。かくてノーマンは日本から届いた映画『修禅寺物語』をシネマ・オデオンで見ると、カイロの街路を歩き、ナイル川通りを突き抜けてしかるべきビルの突端部まで進むと、投身自殺した。

≪016≫ 附記¶ノーマンの著作は『ハーバート・ノーマン全集』全4巻(岩波書店)で、『忘れられた思想家』は上下2冊(岩波新書)で読める。ほかに『日本における近代国家の成立』(時事通信社)、『日本占領の記録』(人文書院)が入手可能。死の謎を追跡した中薗英助の『オリンポスの柱の蔭に』は最初は毎日新聞社で刊行され、のちに社会思想社のベスト・ノンフィクション・シリーズとして現代教養文庫に入った。中薗の本はたいてい充実しているが、読売文学賞の『北京飯店旧館にて』(筑摩書房)や『櫻の橋』(河出書房新社)のような濃厚な作品以外に、今夜の話題にふさわしい『スパイの世界』(岩波新書)などもある。工藤美代子の『悲劇の外交官』(岩波書店)はノーマンの生涯全般を綴ったもので、全体像を知るのにいい。ほかに中野利子『H・ノーマン』(リブロポート)、島恭彦『洛北雑記』(かもがわ出版)もある。

≪01≫  河井寛次郎記念館は京都五条坂にある。いつも人が少ない若宮八幡宮を少し南に入る。かつての寛次郎の住居である。

≪02≫  記念館は昭和48年に公開されたから、ぼくはその翌年に行っている。和風の空間なのに、どすんと吹き抜けがあいていて、そこに滑車が吊ってある。作品や資材を運ぶためのものだったのだろうが、なんだか大きいもの、「胸」のようなものに包まれた。その理由がしばらくぼくにはわからなかった。なぜなら、そのころのぼくは、河井寛次郎の陶芸のすべてにまいっているわけではなかったからだ。書も好きではなかった。ぼくは寛次郎については先が見えない晩生だったのである。

≪03≫  やがて、じわじわとその「胸」の意味が洩れはじめてきた。それでもそれを受け止める日々をもてなかったので放っておいたのだが、ついに『火の誓い』を読むにいたって兜を脱ぐことにした。そうか、やっぱり河井寛次郎という人物は「飛ぶ鳥とめる・絵にしてとめる」という人物だったのだ。

≪04≫  ここに一枚の写真を刷ったグラビアの切り抜きがある。

寛次郎に関心をもったころ、どこかの雑誌から破ってとっておいたものだ。高校生たちの写真で、面構えがいい。右端に河井寛次郎が立ち、左端に浜田庄司が立っている。みんな白い実験衣をはおっている。

≪05≫  河井寛次郎は明治23年に島根安来の大工の棟梁の家に生まれている。安来は松平不昧の影響でお茶がさかんだった町である。大工と茶の湯は、寛次郎の幼な心になにものかを植え付けたのだろう。松江中学の二年のときすでに”やきもの屋”になる決心をしている。叔父の勧めもあったようだ。母親は寛次郎が四歳のときに死んだ。

≪06≫  異色なことに、寛次郎は東京に出て蔵前の東京高等工業学校に入った。ここはいまは東工大にあたるところで、生徒の大半が技術者志望である。基礎科学や応用化学を教えている。その窯業科に入って寛次郎はめざめていく。その二年生になった明治44年、赤坂三会堂で開催されたバーナード・リーチの新作展を見た。これにはしこたま肝を冷やしたようだ。そのあとに、窯業科に後輩として入ってきたのが浜田庄司なのである。白い実験衣の写真はそのときのものだった。二人は卒業後、京都の陶磁器試験場に入っている。

≪07≫  このあとの寛次郎はとんとん拍子である。五代清水六兵衛から譲りうけた登窯と高島屋の川勝堅一との出会いが大きい。名声も上がった。

≪08≫  それが30歳をすぎてから迷う。大正12年ころ、「世界は二つあるんだ」と思い始める。ひとつは「美を追っかける世界」、もうひとつは「美が追っかける世界」である、と寛次郎自身が書いている。これは第一次世界大戦で景気がよくなった日本に見かけは美しい工業製品がどんどん出回ったことに関係がある。寛次郎は「有名は無名に勝てない」と知る。しかし、真の無名は中国の無名陶の古陶磁のほうにある。

≪09≫  ちょうどそのころ、渡英していた浜田が帰国して、その紹介で柳宗悦と出会い、さらに浜田とともに紀州へ旅行をした折りに木食上人の木彫に会う。いよいよ寛次郎が転換するときが来つつあった。その直後だったろう、柳と浜田と寛次郎は「日本民藝美術館設立趣意書」を書いて、これをばらまくのだ。そこから昭和六年にかれらに富本憲吉も加わって『工藝』を創刊するまでは、寛次郎は”喪中”だったと見たい。それなのに、そのあいだに、黒坂勝美や内藤湖南らによって後援会ができたり、ロンドンで200点におよぶ個展が開けたのは、きっと寛次郎の人徳というものなのだろう。

≪010≫  本書は、そういう河井寛次郎が戦争前後に執筆した随筆を集めたもので、それぞれ短い文章ではあるが、「町の神々」「浜鳴り」「模様の国」「部落の総体」など、いずれも心に染みる。

≪011≫  それだけではない。言葉の掴みがすごい。少しだけ、紹介する。

≪012≫   焼けてかたまれ、火の願い  焚いてる人が、燃えている火  あの火の玉 火の手なでる  手のひらに ほんとに火の玉 ひとにぎり 電球撫でる冬田おこす人 土見て 吾を見ず  土の中から世の中へ 突刺している たけのこ  二つならべて 足のうらにも 月見させる  入ろうとすると閉められる 出ようとすると掴まる  はだかはたらく 仕事すっぱだか   誰が動いているのだ これこの手

≪013≫  最後に寛次郎は自戒にこう書いた、「月のせ山寝る山熟睡」「この世このまま大調和」。うーん。  

≪014≫ 参考¶河井寛次郎の随筆には、あえて綴ったというより何かに任せて書いたような勢いと静けさがある。『いのちの窓』(東峰書房)、『手で考え足で思う』(文化出版局)、『六十年前の今』(東峰書房)など。

≪01≫  辞書編集者のことをレキシコグラファー(lexicographer)という。レキシコン(lexicon)というのはギリシア語、ヘブライ語、ラテン語などの古典語の語彙のための辞書をさすのだが、その後は「言葉のルーツと構成を示す知の辞書」というふうにみなされるようになった。

≪02≫  レキシコグラファーという言葉が最初につかわれたのは1658年だ。なぜこんな時期にこんな新語が登場したかというと、最初の英英辞書であるロバート・コードリーの『アルファベット一覧』が出た1604年を嚆矢に、17世紀のイギリスで辞書編集がラッシュした。この勢いは大きかった。哲学と政治をゆさぶった。一六五一年のホッブズの国家論『リヴァイアサン』では、ついに第1部第4章で「言葉の定義こそが政治哲学である」という告白をせざるをえなくなった。

≪03≫  これは政治哲学者の屈辱であり、当時の神学者にとっても困ったことだった。なにしろ言葉の定義をしないかぎりはどこにも進めない。政治にも神学にもならない。こんな「言葉の仕事をする連中」を懲らしめる必要がありそうだ。そこでこういうことをする輩はだれなのかという噂が広まった。どうやら犯人はレキシコグラファーという連中らしい。以来、サミュエル・ジョンソンの二折本二巻からなる『英語辞典』が1755年に出るまでのあいだ、レキシコグラファーは「はた迷惑」で「最も退屈な仕事を最も熱心にする者」とみなされた。

≪04≫  しかし実は、レキシコグラファーの歴史ははるか昔のシュメール時代にさかのぼる。その仕事は「最も退屈な仕事」なのではなく、世界を編集するうえでの「最も勇気のある仕事」だった。たとえば盲目の詩人ホメーロスは『イーリアス』と『オデュッセイアー』を記録したが、その言葉は400年にわたってまったく解読不可能なものになっていた。そこで、その解読のためにギリシア語辞典が出現した。いいかえればその出現がギリシア語という「国語」をつくったのである。

≪05≫  ジョナサン・グリーンのこの大著は、ことほどさようなレキシコグラファーが国と言葉と文化をつくったのだということを高らかに、かつ執拗に追求した快作である。こんな書物こそが真行草でいうなら「真の書物」というものだろう。

≪06≫  本書には、いくつかの歴史を画期した達人たちのレキシコン(辞書)が登場する。眼が眩む。知が泳ぐ。読むことはおろか、見たこともない辞書がずらりと並んでいるのだから、読みすすむうちに何度も打ちのめされた。

≪07≫  だいたい筋書きがあるというより、1冊ずつの「味」が示されているのだから、流れを適当にダイジェストすらできない。これはジョン・アルジオが名付けた病名でいえば「レキシコグラフィコラトリー」(辞書物神症)というものなのだ。だから今夜は、ぼくが気になったレキシコンのうちの、ごく一部だけを紹介しておくことにする。

≪08≫  レキシコンは単語や意味の編集物の総称である。分類すればグロッサリー(単語集)、ボキャブラリー(語彙集)、レキシコン(辞書辞典)に分かれる。母国語で著される辞書、一言語の説明が別の言語で説明されるもの、言葉単位と事項単位に分かれるもの、新語や俗語の重視などにも分かれる。あれこれまことに多様なのだが、ここではまとめてレキシコンにしておく。

≪09≫  古代の先駆的な試みでは、まずもってトラキアのディオニュシオスの『テクネ・グランマティカエ(言葉の技法)』(前100)が注目される。彼はアレキサンドリアの図書館をつくってきたアリストファネス、アリスタルコスを継ぐ図書館長で、もっぱら文法から言葉を分類してみせた。ついでユリウス・ポルクスが固有名詞を集めた『名前の書』(220)、キケロとウァロの言語術研究、セビリアのイシドールスによる『事物の起源あるいは語源の書』(600)などが特筆される。イシドールスのものはキリスト教に改宗したスペイン人のためのものだった。

≪010≫  中世では、カエサリアの大主教アレタスの『スーダ(砦)』(910)がなんといっても圧巻で、20世紀になって復刊されたときでも2700ページをこえた。ビザンチン最大の業績である。ピサのフーゴーまたの名をウグチオという者の『語源辞典』(1190)、それを拡張したというジョバンニ・バルビの『カトリコン』(1286)も気になる。『カトリコン』はローマ帝国が滅亡したのちの最初のラテン語辞書である。

≪011≫  ルネサンスに入ると、近代の先駆となったレキシコンが登場してくる。隠遁修道士ガルフリドゥスの『プロンプトリウム(言葉の宝庫)』(1440)は、英語に関する最初の本格辞書だった。見出し語だけで12000語におよんでいた。配列はアルファベティカルだ。ぼくは本書を読むまで知らなかったのだが、アルファベット順に単語や事項を並べるという方法はライプニッツ以前にもいくつも試みられていたようだ。ライプニッツは図書館に書籍を並べるにあたってABC順を選んだだけだった。

≪012≫  ルネサンスにはジャンル別や職人別のレキシコンも登場した。グラパルドゥスの建築細部集『建築史レキシコン』(1494)、アンブロシウス・カレピヌスのもので、のちに『カレピン』と通称されて流布した『最良の作品から文例を勤勉に集めた辞書』(1502)などだ。この時代は、実用とは学問のことであり、学問とは神秘のことであり、神秘とは細部の複合性のことだった。

≪013≫  後期ルネサンスからバロックにかけてのレキシコンのレベルは、ほとんど今日と変わらない。質も量も格段に増し、編集エンジンとしての工夫もかなり凝ってくる。なかでぼくの好みでちょっと風変わりなものだけをあげると、シノニマ(同義語)とエクィウォカ(多義語)に関心を寄せたフランスのガーランド一族の『学者の辞典』(1508)がすばらしい。いまでこそこの着想はめずらしくないが、これこそ「コノテーション」(内示)という機能への大胆な介入だった。ガーランド一族は日本でいえば菅原道真の一族にあたるような“言葉の家学”の一族で、ロジャー・ベーコンも一目おいている。

≪014≫  一語一語にいちいち見出しをつけたトマス・ブラントの『グロッソグラフィア』(1656)も見逃せない。グロッソはグロッサリーのグロッソだが、これはもともとギリシア語の「難解な」という意味とともに「舌」という意味をもっていた。このグロッサリーに一種の意味のレベル(レイヤー)を与えて独得の分類編集をしたのがエドワード・フィリップスの『言葉の新世界』(1706)である。

≪015≫  このほか、『ウォーカブラ』『ウルガリア』などという、中世に流布していた語彙を近世につなぐためのレキシコンもいくつもあって、著者の強靭な食欲を満たしている。おそらくはこれらこそが、ニーベルンゲン伝説やファウスト伝説やアーサー王伝説を地方語をこえて今日にはこんできた「言葉の歯車」になったのかとおもわれる。

≪016≫  イギリスは近世から近代に橋渡しをするレキシコン王国としての役割を担った。なんといってもサミュエル・ジョンソンの国であり、OED(オックスフォード辞典)の国だ。英語を国際語にするためにも徹底した研鑽を世に送り出す必要があった。

≪017≫  最初の偉大なレキシコグラファーの素養の持ち主はトマス・エリオット卿である。ヘンリー八世時代だから、イギリスが宗教的にも国語的にも初めて「イギリス」を自覚しようとしていた時期だ。エリオットはまず英語で書かれた最初の道徳論ともいうべき『家庭教師』を出版した。トマス・モアの『ユートピア』より売れた。なぜそんなに売れたのか。新語をちりばめたからだった。このときエリオットがイギリスの道徳(ということはコモンセンスということだが)のためにつくった新語には、のちに世界が受容することになる言葉がわんさとつまっている。たとえばデモクラシー、ロイヤルティ、ソサエティなどは、このとき初めてつくられた造語だった。

≪018≫  これらの新語は、当時の知識人や世評のあいだでは「インクホーン・ターム」(インク壺の中から出てきた言葉)と揶揄されて、当初は評判が悪かった。が、結局はイギリス人はそれらをあえて社会化していった。エリオットのこうした活動は1528年に『騎士サー・トマス・エリオットの辞書』として結実する。

≪019≫  かくして17世紀のイギリスのレキシコグラファーが一斉にとりくんだのは「ハードワード」(難語)を解明する一方で、「インクホーン・ターム」(新語)を考案することだった。エリオットを継いだコヴェントリーの先生のロバート・コードリーあたりが最初の継走者で、ついでジョン・ブローカーの有名な『イングリッシュ・エクスポジター』(国語衍義)、ヘンリー・コッカラムの『英語辞典あるいは難語解説』をへて、さきほど紹介したトマス・ブラントの野心的なレキシコン『グロッソグラフィア』に、さらにはエドワード・フィリップスの『言葉の新世界』に集大成されていった。フィリップスはジョン・ミルトンの甥で、のちにウィリアム・ゴドウィンが伝記を書いた。

≪020≫  こういうわけで、イギリスは英語の確立とともに言語世界の普及にとりくむのだが、むろん、そこには異論もあった。そうしたレキシコンが教育に与える影響から議論するばあいに、とくに異論が目立った。たとえばウィリアム・ベイズの『言葉の門』(1611)はジョン・コメニウスによってこっぴどく叩かれて、コメニウス自身による『開かれた言葉の門』(1631)に再編集されたのだ。

≪021≫  ぼくにとって18世紀はサミュエル・ジョンソンの『英語辞典』がどのように編集されたかということを見るための世紀である。いわば“国学の世紀”だ。

≪022≫  本書もその事情の解明にたくさんのページを費やしている。まあ、日本なら盲目の塙保己一がどのように『群書類従』をつくっていったのか、本居宣長が記紀における古言をどのように現在的に解釈して解読分類をしようとしたか、あるいは大槻文彦がどのように『言海』や『広日本文典』をつくっていったかといった事情にあたる。

≪023≫  ジョンソンのばあい、露払いの役を引きうけたのは『一般英語語源辞典』と『英国辞典』のナサニエル・ベイリーで、これらはジョンソンの辞典より売れ行きでは上回っていた。ベイリーは単語をできるだけ「ファミリー」として捉えようとしたことである。つまり派生語の関連に注目をおいたのだ。これはのちのOEDそのほかに援用された方針だった。

≪024≫  一方、太刀持ちの役を引きうけたのがイーフレイム・チェンバーズの『サイクロペディア』(1728)だった。「芸術科学一般辞典」というサブタイトルがついているニュータイプのレキシコンで、ことわざを除外すること、神話伝説のたぐいを組みこんだこと、歴史の事項と地名の事項を分けたことなどの特色をもっていた。日本では『万有百科』と俗称されてきた。こうしてジョンソンの網羅ができあがり、OEDが英語世界のワールドモデルとしての翼を広げることになる。

≪025≫  本書はこのあと、ノア・ウェブスターの事績に転じて、アメリカ英語の世界がどのようにつくられていったのか、インド・ヨーロッパ語の研究成果が語彙の編集にどのように影響をあたえたのかを詳述し、さらには文献学の台頭がレキシコグラファーにもたらしたものをあげていく。国語が確立するとその脇から次々に芽生えるスラングの辞書化がおこっていくのだが、そうした事情の案内も欠かしていない。

≪026≫  今後、レキシコンがどのようになっていくか、著者は将来のことにはふれていない。たとえばインターネットによるレキシコンの自動再編集など、考えられてもいいことだろうが、そういうことにもふれてはいない。ジョナサン・グリーンはあくまでも「国語の苦闘」に照準をあてて、この大著を綴ったからだ。ぼくも、その方針を称揚したい。

≪027≫ 参考¶著者のジョナサン・グリーン自身がオックスフォード大学出身のレキシコグラファーで、俗語辞典をはじめいろいろの辞書を手がけている。翻訳されたものは本書が初めてだが、こういうレキシコンをレキシコンするレキシコグラファーが日本にはまだいないのが残念。大槻文彦『言海』の誕生の苦闘を生き生きと描いた高田宏の『言葉の海へ』(岩波同時代ライブラリー)あたりで、日本の辞書誕生の黎明を偲んでもらうしかないようだ。

≪028≫ 日本語のレキシコグラファーについての最近では紀田順一郎が一挙に『日本語発掘図鑑』『日本語大博物館』『図鑑日本語の近代史』(いずれもジャストシステム)を刊行して目を賑わせてくれている。ちなみに、ぼくはこのようなことを一番よく知っているのは、日本語を考え抜いている井上ひさしさんではないかと思っている。

≪01≫  バラードは多感な少年時代を上海のイギリス租界ですごした。一家が日本軍の捕虜収容所(龍華)に入っていたこともある。『太陽の帝国』(国書刊行会)という自伝小説になっている。のちにスピルバーグが映画化した。いい映画だった。

≪02≫  大戦後、それまで話と本でしか知らなかった母国のイギリスに単身で戻ってみて、うんざりするほどの衝撃を受けた。技術と商品とコンクリートの国なのだ。どんな危険も回避することばかりがめざされていて、想像力が磨滅しそうだった。一応、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジで医学を学ぶのだが、しっくりこない。途中でロンドン大学クイーン・メアリー・カレッジに移って文学を専攻したものの、大学で学ぶ文学は既存の作品の二次面に低迷しているようで、中退した。

≪03≫  とりあえず広告代理店のコピーライターやブリタニカなどの百科事典販売の仕事をしてみたが、あまりにも刺戟が乏しい。イギリス空軍に入隊して、ナイアガラに近い王立カナダ空軍基地で飛行訓練を受けているうち、そこでアシモフやハインラインやブラッドベリのSFに出会った。訓練後はハイ・ワイコム基地に配属されたが、除隊して適当な仕事をしながらSFの創作に向かった。1956年の『プリマ・ベラドンナ』がデビュー作だ。『ヴァーミリオン・サンズ』(ハヤカワ文庫)に収録されている。

≪04≫  バラードの才能をいちはやく発見したのは「ニューワールズ」誌のマイクル・ムアコックとテッド・カーネルである。3人で従来のSFを破るSF、「スペキュラティブ・フィクション」(Speculative Fiction)の旗揚げを話しこみ、ブライアン・オールディス、ハーラン・エリスン、サミュエル・ディレイニー、トマス・M・ディッシュらを輩出したが、なんといってもバラード自身の作品がダントツで、『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』の三部作で話題をひっさらった。これは“破滅三部作”と呼ばれ、その後もバラードが60年代ニューウェーブSFの旗手となった。

≪05≫  ぼくはJ・G・バラードにインタヴューした最初の日本人であるらしい。そう、バラード自身がロンドン郊外シェパートンの家で言っていた。

≪06≫  インタヴューは稔りの多いひとときだった。愉快でもあった。日本から何冊ものバラード翻訳本を持参してサインをもらったのだが、その表紙のことごとくに「J・G・バラード」と文字印刷されていて、自分には「J・G」しか読めないのを笑っていた。なぜ日本でJ・G・バラード表記になったのか、ぼくには理由はわからないが、本名はジェームズ・グレアム・バラード(James Graham Ballard)である。1930年の生まれだ。)である。1930年の生まれだ。

≪07≫  話のほうは、鏡の話、ルイス・キャロルのこと、これからの文学は数学を採り入れるといいということ、想像力の共有について、中枢神経は時間のタイムカプセルになっているだろうこと、プラナリアと記憶物質の話、観相学のこと、鉱物と反世界についてなど、どきどきするような話題がとびかった。2人で定期的に手紙を交わそうかという約束をして別れた。

≪08≫  まだバラードについての議論は深まってはいない。破滅三部作をはじめ、続いての『クラッシュ』(ペヨトル工房・創元SF文庫)、『コンクリート・アイランド』(太田出版)、『ハイ︲ライズ』(ハヤカワ文庫・創元SF文庫)の“テクノロジー三部作”においても、つねにディストピアを描こうとしていることは、当初からバラード論の大きな底辺になっていた。みんな、そう思っていた。しかし、そういう見方はバラード自身の意図からすると、かなり食い違っている。

≪09≫  バラードは「スペキュラティブ・フィクション」あるいは「ニューウェーブSF」をめざしたとき、こんな独語的宣言をしていた。「もし誰も書かなければ、私が書くつもりでいるのだけれど、最初の真のSF小説とは、アムネージア(記憶喪失症)の男が浜辺に寝ころび、錆びた自転車の車輪を眺めながら、自分とそれとの関係が暗示する絶対的な本質をつかもうとするような、そんな話になるはずだ」というふうに。

≪010≫  まさに、これなのである。バラードはディストピアにいるのではなく、宇宙の片隅の浜辺にいる男なのである。その男は生物体としては半ば異常化しているらしく、そうなってしまっていることを知るよすがをさがしている。よすがはこの宇宙の情報生命がつながりあうネットワークのどこかの切れ目か結び目にあるようなのだが、漠然と周囲を見ているかぎり、男のまわりの多くの現象や人間たちには何の変化もおこってはいないように見える。それでもそこに、僅かな前兆や予兆が走るのだ。

≪011≫  そのとたん、事態は一気に様相を変え、とても小さな異変ととても大きな異変がなんだか呼応しているように、感じられてくる。バラードはその照応の異同を綴っていく。ディストピアなんぞではなかったのだ。

≪012≫  ロンドン郊外の家で大きな犬を抱きながら、こんな話をしてくれた。望んで夫人の出産に立ち会った時のことだ。

≪013≫  バラードは胎児がこの世に出現してくるところを見たかったようなのだが、その一瞬の光景に瞠目してしまったというのだ。その子が夫人の胎内から姿をあらわしたときは、「この世で最も古いもの」に見えたのが、その数十秒後、みるみるうちに「この世で最も新しい者」になっていったのだ。この一瞬の転位と展開は、バラードがぜひとも凝視しておきたかったことだったらしい。

≪014≫  きっとバラードはこのような時空の小さな「でんぐりがえり」を描きたくて、SFを選んだのだろうと思った。その子に何が届いたのか、同じようなことはどこにでも生起しているのではないか、自分が描く作品の中の男は、これに似た一瞬をどのように気付くのか、描きたかったのはこのことだったのである。

≪015≫  ディストピアなのではない。どこで時空の入れ替りがおこっているのか、それをおこすのはどんな信号の到来によっているのか、そもそもそういうことを感知するにはわれわれは自分たちをどんな情報生命体だと認識していればいいのか、このようなことをSF仕立てにするには何を書けばいいのか、バラードは上海での異様な光景と夫人の出産の再生の光景を見て以来、そこをずっと徹底して考えてきたのである。

≪016≫  そして、以上のことをほぼ完璧に充当した作品を書いたのだ。それが今夜とりあげることにした『時の声』だ。中篇だが、とてもすばらしい。1977年に本人が『ザ・ベスト・オブ・J・G・バラード』(サンリオSF文庫)を組んだ折りに、自分の代表作だろうと言っていた。

≪017≫  というわけで、やっと『時の声』を紹介したいのだが、これはもともとぼくがバラードに会いたくなった決定的な動機をつくった作品である。

≪018≫  バラードに会いに行ったときには、すでに他の作品も読みおわっていたが、そしてそのなかには『結晶世界』(創元SF文庫)のように、ますます惚れなおしたくなるような作品もたくさんあったのだが、そうではあったけれど、やはり『時の声』の強烈な印象がいつまでもぼくの気分を高揚させつづけていて、彼の家に近づくにつれ「時の声の家」に行くんだという動悸が高まっていたほどだった。

≪019≫  おそらく目のさめるほど誰にも似ていない女の子に一目惚れをするように、『時の声』に恋をしたのである。その後、バラードの作品がいかにすばらしく見えようとも、それはその女の子が衣裳を変えるたび、春を迎えるたびにますますすばらしく見えるということを意味しているにすぎなかった。つまり同じ女の子だったのだ。だからわがバラードは、あくまで最初に一目惚れをした『時の声』のバラードだったのである。それゆえぼくはながいあいだ、この作品を映画にしたいとさえ思いつめたものだった。

≪020≫  それでは、ぼくがつくった映画を遠くに観るつもりで、以下のシノプシスを読んでいただきたい。こんな物語なのだ。適宜、脚色してある。

≪021≫  熱い午後である。何もかもが乾いている。 カメラは乾いたプールを映している。プールの底には判読不能な表意文字によるマンダラのようなものがびっしりと描かれている。

≪022≫  神経科病棟の一室の窓から、一人の男がプールを見ている。パワーズだ。その顔にはひどい疲労があらわれている。パワーズは毎日診察をうけていた。友人のアンダースンによる瞳孔反応検査、顔面筋肉検査、血球数検査はいずれも奇怪な数字を見せている。パワーズが言う、「やっぱりおかしいか」。アンダースンが言う、「みんなおかしいさ。太陽がゆっくり冷えているんだからね」。

≪023≫  この研究所を兼ねた病棟には、たくさんの異常な患者たちが押しかけていた。それを見ていると、パワーズはおかしくなる。腕時計の針を見て、その針をむちゃくちゃに狂わせたくもなる。何かが急速に狂いはじめているのなら、もはや一定の時を刻むしかない時計には用がない。

≪024≫  カメラが表へ出る回廊を進むと、埃だらけの窓ガラスに指で書いた数字が光をうけて浮き出ている。

≪025≫  「96, 688, 365, 498, 721」 親友だったホイットビーが書いたにちがいない。ホイットビーは先週、自殺した。

≪026≫  武装した警備員のあいだを抜けて、パワーズが玄関から外に出ると、車の中に青年と若い女がいる。女は「いま野口英世の自伝を読みおえたんです。先生に似ていますわ」などと言う。女のスカートがまくれている。その瞬間に、青年コールドレンの顔面筋肉が痙攣をした。青年は必死でその痙攣をこらえて、言った。「ナーコーマは厄介ですよ」。ナーコーマとは麻酔性昏睡症状のことだった。いつ何がおこるか、もうわからない。それでもパワーズは謎を解明したかった。

≪027≫  画面は眩しいような昼間になっている。パワーズがいつものようにプールに行って、放心したままマンダラ模様を眺めていると、突如、黒い甲殻をもったアルマジロのような動物がプールを横切った。みんな、新たな情報生命化をおこしているらしい。パワーズはその甲殻動物を捕まえる。カメラがゆっくりプールの外景を映し出すと、むこうには巨大な電波望遠鏡の円筒が不気味に回転しつづけていた。

≪028≫  そこに宇宙の夕闇が迫っていた。

≪029≫  翌朝、パワーズは捕獲実験室をもう一度チェックする気になっていた。すでにかなりの動植物が捕獲されている。カメラが寄る。いずれも体の一部が鉛化しつつあった。黒いチンパンジーなどもいる。その毛は異様な感触がある。助手が「みんな殻をつくっていますね」と言う。パワーズは「放射能に対する免疫が生じて甲殻化を呼んでいるんだろうな」と応えるのが精いっぱいである。そこへあの女コーマが「先生の動物園を見学に来ました」と入ってくる。ブロンドでコケットリーである。体はまだ柔らかい。眠りも始まっていないようだ。

≪030≫  実験室がゆっくりパンされる。パワーズがコーマに奇怪な動物たちを次々に見せているうちに、動植物の脇に貼ってあるラベルの「デボン系砂岩290000000年」といった奇妙な数字がアップされる。パワーズが何かを感じはじめる。そこにはイソギンチャクからクモまで、カエルからサルまでが収集されているのに、それらはイソギンチャクではなく、カエルではなくなっている。どうも遺伝子異常がおこっているようだ。おそらくは遺伝上の「沈黙の一対」が創発されてきたにちがいない。

≪031≫  疲労しきっているパワーズの顔。なぜ、そんなふうになったのか。最近の放射能異常が何かのトリガーを引いたとしかおもえない。コーマが聞く、「これらは未来の生物なんですか」。パワーズはその問いに答えられない。そして、やっと一言だけ呻くように言った、「どうもこいつらは時が読める生物になりつつあるらしい」。

≪032≫  パワーズは、数カ月前の出来事の再生をしはじめる。テープレコーダーがまわり、パワーズが同僚のホイットビーと会話している内容をあらためて聞いてみた。雑音が大きい。そのなかで、さかんに「内破」という言葉が交わされている。内破とは何か。カメラは傍らの黒い毛のチンパンジーがテープに聞き耳をたてているのを映し出す。

≪033≫  沈黙の遺伝子は何を始めようとしているのか。 パワーズには動植物と、そして自分の末期記録を読む以外の方法は残されていそうになかった。そのときコーマがホイットビーの雑然としたファイルから何かを見つけた。カメラが寄っていく。フロイトのメモのリスト、ベートーヴェンの最後の四重奏曲、ニュールンベルク裁判の公判記録、人類が初めて月に行ったときの飛行士のメモなどがクリップされていた。

≪034≫  そこには、またもや「96, 688, 365, 498, 721」の数字が並んでいた。コーマがさきほどコールドレンから渡された紙をポケットから出してみると、同じ数字が並んでいた。ただし、末尾が「720」となっている。その数字のクローズ・アップ。

≪035≫  パワーズはいつしか親友ホイットビーとまったく同じ作業に夢中になっていた。自分でも理由がわからない。コンクリートミキサーを操り、タイヤレバーでセメントをこね、プールをつくりはじめていたのだ。

≪036≫  我に返ったパワーズはコーマに促されて、コールドレンの家に行く。そこはかつて数学者が別荘用に建てたもので、虚数の幾何学模型になっていた。一角に電波望遠鏡と連動した電算機が打つパンチカードがずうっと吐き出されているコーナーがあり、2人はときおりその数字に目を走らせていた。そのときコールドレンが声をあげた。「終わりに近づいている!」。電算テープは「発信源未確認。猟犬座、間隔九七週」と打っていた。

≪037≫  NGC9743のどこかで、渦状星雲が崩壊しかけているのである。パワーズはふらふらと別荘を出て、気がつくとセメントプールに、自分でもわからない模様を夢遊病者のように描き出していた。

≪038≫  捕獲実験室では、わずかながら蛍光が発散していた。動植物がかさこそと動きはじめた。かれらの閾値が完全に狂いはじめたのである。イソギンチャクはニセの太陽をさがしはじめ、カメは甲羅を発光させていた。どうやらなにもかもが終わりに向かっているらしい。

≪039≫  パワーズは車を走らせて、その地域の全体が見渡せるところに着いていた。夕闇が落ちてきそうだった。ついに星の声が聞こえはじめた。「時の声」だった。パワーズは自分が死んでいくのを知っていた。

≪040≫  ざっとはこういう物語だ。自分でシノプシスを書いていてもぞくぞくした。きっと映画にしたらもっとぞくぞくするだろう。

≪041≫  バラードには少年期から「神」と「戦争」があったのである。戦争は日中戦争とイギリス兵士たちとの日々、神はジェームズ少年が見上げた空を飛ぶ日本軍の戦闘機だ。またバラードには「地球」と「生命」と「情報」と「機械」が切れぎれにつながっていたのである。地球は結晶化し、生命は予想外の変態をおこし、機械は何かを受信したり発信したりしているうちに、それらを情報がくまなく連動させるのだ。バラードはずうっとそういうような、神と情報と生命と文明とがおこす根本偶然を書きたかったのだ。

≪042≫  ロンドンでのインタヴューが終わりに近づいたころ、バラードはふいにこんなことを言った。この言葉が忘れられない。「ねえ、松岡さん、地球上に残されている最後の資源は何になるんでしょうね。私は、それは想像力なんだと思います。もう地球には、想像力しか残っていませんよ」。

≪01≫   どんな民族の神話もそうなのだが、ギリシア神話にもとんでもない英雄がひしめている。豪傑もいれば父殺しもいるし、子供を食べる怪物もいれば、怪獣と闘う戦士もいる。しかし、これらの異様な英雄たちには、驚くべき共通点がある。どこかに欠陥があるということだ。どこか弱みがあることだ。

≪02≫  このことを研究している成果はいちじるしく少ない。この共通点に何か重要な秘密が隠されていると気がつく研究者がほとんどいなかったのである。しかし、ついにカルロ・ギンズブルグが気がついた。気がついただけでなく、その意味を把握し、問題を提起した。こうして本書は、ぼくに『フラジャイル』を書かせるトリガーのひとつとなった一冊となったのである。

≪03≫  カルロ・ギンズブルグという希有の才能については、最初は『神話・寓意・徴候』で、ついでは『ペナンダンティ』で一目(いちもく)おいていた。3冊目に読んだのが本書で、そのあと、それまでなんとなく放置しておいた『チーズとうじ虫』を、これは読まねばなるまいと読んだ。

≪04≫  本書におけるギンズブルグの問題意識は、ヨーロッパの根っこにある悪魔信仰にひそむ疑問を解くことにあるのだが、ぼくが関心をよせたのはむしろ第3部のほうで、そこには足に傷のある英雄たちの話、跛行の人物の宿命、片足にしかサンダルを穿いていない者の物語といった、主にギリシア神話に登場する者たちの特異な共通性についての推理がはたらいていた。詳しいことは『フラジャイル』に書いておいたので、それを読んでほしいのだが、一言でいえば、これは「欠けた王の伝説」をあきらかにする有効なアプローチのひとつなのである。

≪05≫  われわれはつねに欠陥をもっている。あるいは人に言えない弱点をもっている。その欠陥や弱点は近現代ではすべてネガティブな問題として扱われるようになった。身体に傷があること、心理に片寄りがあること、あきらかにしたくない出生の秘密があること、経歴に世間が汚点だとみなすようなものがあること、内臓や呼吸器官や視野に疾患があること、血縁に異常者がいること、貴賎を問われる職業にひそかについていること‥‥そのほかいろいろである。これらは近代社会では隠さざるをえない特徴になった。資格や水準や平均を設定したからである。

≪06≫  しかし古代中世ではこうした問題は隠しきれるものではなく、往々にしてあからさまであった。そのため烙印をおされ身なりを限定されて、「化外の者」や「埒外の者」として扱われるばかりか、ときに特定の地域に住まわされることも少なくなかった。ところがその一方で、こうした者たちにひそむ「力」や「能」がいちじるしく注目されることもあったのである。欠陥や弱点がかえって逆に「聖なる力」や「観音力」になったりしていることも少なくなかったのだ。

≪07≫  さらに歴史をさかのぼると、そもそも神話的世界で語られてきた者には、出自の秘密そのものが呪能の象徴であったり、物語の進行にしたがって貴賎が逆転することも多かった。もっと決定的なのは英雄とおぼしい人物たちにこそ、意外な欠陥や弱点が目立っていたことである。わかりやすい例でいえば、たとえばアキレウスにはアキレス腱があり、弁慶には弁慶の泣き所があったのだ。そして、その欠陥や弱点ゆえに、アキレウスはアキレウスであり、弁慶は弁慶たりえたのである。同じようにオデュッセウスは猪の牙にる傷を脚に負っているし、オーディーンは単眼であって槍で突かれた脇腹の傷がある。スサノオだって見たところ五体満足のようではあるが、生爪をはがされ、流され、足ナヅチ・手ナヅチに救われるまでは不具者としての日々を余儀なくされていた。それにスサノオはひどい泣き虫、つまり「哭きいさちる神」だった。神話の主人公たちばかりではない。だいたい桃太郎も一寸法師も鉢かつぎ姫も、多くの昔話の主人公はハンディキャップを背負っているものなのだ。

≪08≫  ぼくは、ヒーローやヒロインにこのような意外な弱点があることをまとめて「欠けた王の伝説」と総称したいと思っていた。それを新たな研究課題としてもっと深めてもみたかった。そんなときに出会えたのが本書だったのである。

≪09≫  とくにシンデレラが片足の靴をなくした話と、もともと世界中に散らばっている一本足伝説とのつながりに言及しかかっているところに、ぼくはギンズブルグのひらめきを見た。

≪010≫  とくにシンデレラが片足の靴をなくした話と、もともと世界中に散らばっている一本足伝説とのつながりに言及しかかっているところに、ぼくはギンズブルグのひらめきを見た。

≪011≫  ここには何か大事な暗合や符牒が劇的に秘められているはずなのである。そうでなければ、その後の文学作品のなかにあれほどに欠陥や弱点が強調されてはこなかったはずである。たとえばロスタンのシラノ・ド・ベルジュラックやユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』のカジモドの容姿、ゲーテの『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』の片手のない騎士ゲッツ、メルヴィルの『白鯨』の片足をもがれたエイハブ船長である。また、『春の嵐』のクーンが青春を象徴しえたのはまさしく彼が片足の不自由な音楽家だったからであることをヘッセは描きたかったのであり、『金閣寺』の溝口が生まれついての吃音で、その溝口を悪意の園に誘う柏木も両足が強度の内翻足であって、二人が接近するうちに結局は金閣寺を炎上させることによってしかいっさいを昇華しえないという結論になったことこそ、三島由紀夫が描こうとしたテーマだったわけである。

≪012≫  これらの物語には、何かが足りないか、どこかに弱点があるか、誰かに欠如を持ち去られたというプロットがひそんでいる。これらの物語はなぜわざわざ、こんなふうな「弱み」を見せているのだろうか。ここに「弱点の相転移」があるのではあるまいか。ぼくはそう想定していたのだが、まさにギンズブルグもまた、そのことに留意したのだった。

≪013≫  ギンズブルグが「片足で立つ者」や「片方のサンダルにこだわる者」の伝承に関心を集中させたことには、研究者としての凄みを感じさせた。

≪014≫  ギリシア神話には、テーセウスが大岩を持ち上げたときに発見したものの話が出てくる。テーセウスはそこに剣と黄金のサンダルを発見したのだ。大岩を持ち上げることができたのはテーセウスが成熟した年齢に達したことをあらわしている。そうだとしたら、そこに黄金のサンダルを発見できたのは、その成熟した力が他人に譲渡可能になったことを意味していたのである。まったく同じ経緯がペルセウスの物語にもあらわれている。ペルセウスはゴルゴンとの闘いの前にヘルメスから魔法のサンダルを片方だけもらうことによって、闘いに挑めたのだった。

≪015≫  テッサリアの英雄イアソンの物語では「片方のサンダルをはいた男」のことがイアソンが王位を得るための最も重要な隠れモチーフになっているのだし、イアソンは、頼まれるままに老婆を背負って川を渡ったときに片方のサンダルを流してしまうのだが、その老婆こそは身がもヘラの化身だったせいで、イアソンの栄達が完成するのである。

≪016≫  これでおよその見当がつくように、実は誰もがよく知るシンデレラの物語とは、この片方のサンダルをめぐる物語の子供向けの集大成だったのだ。シンデレラはガラスの靴を片方だけなくさないかぎりは、幸せにはなれなかったのである。それは古代神話以来、そのような宿命を背負った物語のセオリーだったのである。

≪017≫  ここで「欠けた王の伝説」の話をしたかったのではない。このことが神話や伝説の意味を説くためのきわめて大きな鍵となっているのはその通りなのだが、ギンズブルグとともにぼくがここで言いたかったことは、ことほどさように、われわれは神話伝説の世界を読むにあたっては、近代や現代ではまったく逆の定礎をうけてしまった事情がそこには必ずひそんでいるのだということを、忘れるべきではないということなのだ。

≪018≫  もっと言っておきたかったことは、では、古代の語り部たちは、なぜこのような物語の作りかたを思いついたのかということだ。このことを推理するにあたってぼくが慄然とするのは、ここにはおそらく二つの”回答”が用意されていて、その二つが二つともに今日のわれわれにはすっかり回復できないことを告げている”回答”であろうと思えるからである。

≪019≫  すなわち、ひとつにはこうである。かつては欠陥や弱点を指摘することが物語を語る者の特権になっていたのかもしれないということだ。これは今日の社会ではまったく考えられないことだろう。なぜならわれわれは、社会的に欠陥や弱点を指摘しないようにすることによって、あたかも平等と均等の社会をつくっていると錯覚してしまっているからだ。

≪020≫  もうひとつにはこうである。実はかつては、神話や物語というものは、そこに何かが失われたことが発見できたときだけ生成することができるような情報構造だったろうということだ。そうであるのなら、われわれは明日の神話や物語をつくりだすには、何か決定的なことを失うしかないということなのである。いったい何を失えば新たな神話を取り戻すことができるのだろうか。

≪021≫  この二つのこと、いずれも慄然とせざるをえない。そんな推理を成立させるために何事かをなしえるのは、いまのところは詩人か物語作家か風変わりな宗教家か、あるいはどこかの国の独裁者であるのだが‥‥。

≪022≫ 参考¶カルロ・ギンズブルグの『神話・寓意・徴候』『ペナンダンティ』はいずれも、せりか書房。ぼくの『フラジャイル』は筑摩書房。そこでは片目片足伝説から説経節「弱法師」をへてシンデレラ伝説までとりあげた。ついでながら加えておくと、「片方のサンダル」の問題は、さらに拡張すれば「異例」とは何かということなのである。とくに物語や伝承のなかで「異例」が扱われているときは、その「異例」こそが物語の根本のメッセージの裏返しになっていることが多いと見るべきなのである。

異議を唱える

異義とは。

≪01≫  ぼくの仲良しに杉浦日向子ちゃんがいる。彼女はめっぽうすぐれた漫画家で、田中優子とともに江戸ブームをつくった張本人でもあるが、ある日、漫画を描くことをやめてしまった。

≪02≫  誰もがその才能がぷっつりと解消されるのを惜しんだが、彼女はへいちゃらだった。その誰もが訝った漫画中断の理由は、「私が江戸のものをちゃんと読むには、一冊の文献だって一カ月もかかることがあるんです。もっとかかるものもある。これからはそういうことをしたいんです」というものだった。

≪03≫  これで誰も日向子ちゃんの進む道に立ち向かえる者がいなくなった。バンザイ、だ。

≪04≫  その日向子ちゃんの先生が稲垣史生である。江戸時代の考証をすれば天下一品の人物だ。

≪05≫  この30年ほどの時代劇映画、この20年ほどのNHKの時代もの大河ドラマの時代考証は、ほとんど稲垣史生の力を借りていた。

≪06≫  時代考証とは、幕藩体制のしくみを細かく調べるなんてものではない。そんなことはふつうの大学の学者でもできる。そんなことではなくて(むろんそんなことはもとより)、たとえば「江戸町奉行」というものについてなら、町奉行の仕事の中身はむろん、その町奉行が仕事が終わってどこに寄り、どんな家に帰るのか、そこでどんな着替えをするのか、そこまで考証する。

≪07≫  大奥だって、部屋の数からその調度まで、廊下や厠の位置からその扉のぐあいまで、全部が全部、考証の対象になる。

≪08≫  実は、ここまでわからないと映画やテレビの時代ものはつくれない。中村吉右衛門扮する鬼平(長谷川平蔵)がさんざん立ち回りをしたりしたのち、自宅でくつろぐところを撮らなければならないからだ。そこで迎える女房の言葉づかいから着ているものまで、あきらかにしなければならないからだ。カメラを引けば、たちまち大奥の家屋構造のすべてが見えるからである。

≪09≫  しかし、ぼくがこのような時代考証に惹かれるのは、それが時代劇に活用されるにあたって雄弁になっているからではない。一人の歴史好きが徹底して細部に入っていくと、そこまで見えてくるのかというインベスティゲイトな執念に感動をするからだ。

≪010≫  本書は事典だが、読むにもおもしろい。味がある。いろいろ批評もまじっている。おそらく誰もがついつい読みこんでしまうであろう。それがしかもたった一人の研究成果であることに、しだいに心底、驚くはずである。案の定、この本の帯には、司馬遼太郎の「唯一の先達の仕事」という格別の推薦の辞が掲げられている。

≪011≫ 参考¶本書は『歴史考証事典』(すでに第6集まで刊行されている・新人物往来社)の姉妹板。『続・時代考証事典』も出ている。

≪01≫  バラードは多感な少年時代を上海のイギリス租界ですごした。一家が日本軍の捕虜収容所(龍華)に入っていたこともある。『太陽の帝国』(国書刊行会)という自伝小説になっている。のちにスピルバーグが映画化した。いい映画だった。

≪02≫  大戦後、それまで話と本でしか知らなかった母国のイギリスに単身で戻ってみて、うんざりするほどの衝撃を受けた。技術と商品とコンクリートの国なのだ。どんな危険も回避することばかりがめざされていて、想像力が磨滅しそうだった。一応、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジで医学を学ぶのだが、しっくりこない。途中でロンドン大学クイーン・メアリー・カレッジに移って文学を専攻したものの、大学で学ぶ文学は既存の作品の二次面に低迷しているようで、中退した。

≪03≫  とりあえず広告代理店のコピーライターやブリタニカなどの百科事典販売の仕事をしてみたが、あまりにも刺戟が乏しい。イギリス空軍に入隊して、ナイアガラに近い王立カナダ空軍基地で飛行訓練を受けているうち、そこでアシモフやハインラインやブラッドベリのSFに出会った。訓練後はハイ・ワイコム基地に配属されたが、除隊して適当な仕事をしながらSFの創作に向かった。1956年の『プリマ・ベラドンナ』がデビュー作だ。『ヴァーミリオン・サンズ』(ハヤカワ文庫)に収録されている。

≪04≫  バラードの才能をいちはやく発見したのは「ニューワールズ」誌のマイクル・ムアコックとテッド・カーネルである。3人で従来のSFを破るSF、「スペキュラティブ・フィクション」(Speculative Fiction)の旗揚げを話しこみ、ブライアン・オールディス、ハーラン・エリスン、サミュエル・ディレイニー、トマス・M・ディッシュらを輩出したが、なんといってもバラード自身の作品がダントツで、『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』の三部作で話題をひっさらった。これは“破滅三部作”と呼ばれ、その後もバラードが60年代ニューウェーブSFの旗手となった。

≪05≫  ぼくはJ・G・バラードにインタヴューした最初の日本人であるらしい。そう、バラード自身がロンドン郊外シェパートンの家で言っていた。

≪06≫  インタヴューは稔りの多いひとときだった。愉快でもあった。日本から何冊ものバラード翻訳本を持参してサインをもらったのだが、その表紙のことごとくに「J・G・バラード」と文字印刷されていて、自分には「J・G」しか読めないのを笑っていた。なぜ日本でJ・G・バラード表記になったのか、ぼくには理由はわからないが、本名はジェームズ・グレアム・バラード(James Graham Ballard)である。1930年の生まれだ。

≪07≫  話のほうは、鏡の話、ルイス・キャロルのこと、これからの文学は数学を採り入れるといいということ、想像力の共有について、中枢神経は時間のタイムカプセルになっているだろうこと、プラナリアと記憶物質の話、観相学のこと、鉱物と反世界についてなど、どきどきするような話題がとびかった。2人で定期的に手紙を交わそうかという約束をして別れた。

≪08≫  まだバラードについての議論は深まってはいない。破滅三部作をはじめ、続いての『クラッシュ』(ペヨトル工房・創元SF文庫)、『コンクリート・アイランド』(太田出版)、『ハイ︲ライズ』(ハヤカワ文庫・創元SF文庫)の“テクノロジー三部作”においても、つねにディストピアを描こうとしていることは、当初からバラード論の大きな底辺になっていた。みんな、そう思っていた。しかし、そういう見方はバラード自身の意図からすると、かなり食い違っている。

≪09≫  バラードは「スペキュラティブ・フィクション」あるいは「ニューウェーブSF」をめざしたとき、こんな独語的宣言をしていた。「もし誰も書かなければ、私が書くつもりでいるのだけれど、最初の真のSF小説とは、アムネージア(記憶喪失症)の男が浜辺に寝ころび、錆びた自転車の車輪を眺めながら、自分とそれとの関係が暗示する絶対的な本質をつかもうとするような、そんな話になるはずだ」というふうに。

≪010≫  まさに、これなのである。バラードはディストピアにいるのではなく、宇宙の片隅の浜辺にいる男なのである。その男は生物体としては半ば異常化しているらしく、そうなってしまっていることを知るよすがをさがしている。よすがはこの宇宙の情報生命がつながりあうネットワークのどこかの切れ目か結び目にあるようなのだが、漠然と周囲を見ているかぎり、男のまわりの多くの現象や人間たちには何の変化もおこってはいないように見える。それでもそこに、僅かな前兆や予兆が走るのだ。

≪011≫  そのとたん、事態は一気に様相を変え、とても小さな異変ととても大きな異変がなんだか呼応しているように、感じられてくる。バラードはその照応の異同を綴っていく。ディストピアなんぞではなかったのだ。

≪012≫  ロンドン郊外の家で大きな犬を抱きながら、こんな話をしてくれた。望んで夫人の出産に立ち会った時のことだ。

≪013≫  バラードは胎児がこの世に出現してくるところを見たかったようなのだが、その一瞬の光景に瞠目してしまったというのだ。その子が夫人の胎内から姿をあらわしたときは、「この世で最も古いもの」に見えたのが、その数十秒後、みるみるうちに「この世で最も新しい者」になっていったのだ。この一瞬の転位と展開は、バラードがぜひとも凝視しておきたかったことだったらしい。

≪014≫  きっとバラードはこのような時空の小さな「でんぐりがえり」を描きたくて、SFを選んだのだろうと思った。その子に何が届いたのか、同じようなことはどこにでも生起しているのではないか、自分が描く作品の中の男は、これに似た一瞬をどのように気付くのか、描きたかったのはこのことだったのである。

≪015≫  ディストピアなのではない。どこで時空の入れ替りがおこっているのか、それをおこすのはどんな信号の到来によっているのか、そもそもそういうことを感知するにはわれわれは自分たちをどんな情報生命体だと認識していればいいのか、このようなことをSF仕立てにするには何を書けばいいのか、バラードは上海での異様な光景と夫人の出産の再生の光景を見て以来、そこをずっと徹底して考えてきたのである。

≪016≫  そして、以上のことをほぼ完璧に充当した作品を書いたのだ。それが今夜とりあげることにした『時の声』だ。中篇だが、とてもすばらしい。1977年に本人が『ザ・ベスト・オブ・J・G・バラード』(サンリオSF文庫)を組んだ折りに、自分の代表作だろうと言っていた。

≪017≫  というわけで、やっと『時の声』を紹介したいのだが、これはもともとぼくがバラードに会いたくなった決定的な動機をつくった作品である。

≪018≫  バラードに会いに行ったときには、すでに他の作品も読みおわっていたが、そしてそのなかには『結晶世界』(創元SF文庫)のように、ますます惚れなおしたくなるような作品もたくさんあったのだが、そうではあったけれど、やはり『時の声』の強烈な印象がいつまでもぼくの気分を高揚させつづけていて、彼の家に近づくにつれ「時の声の家」に行くんだという動悸が高まっていたほどだった。

≪019≫  おそらく目のさめるほど誰にも似ていない女の子に一目惚れをするように、『時の声』に恋をしたのである。その後、バラードの作品がいかにすばらしく見えようとも、それはその女の子が衣裳を変えるたび、春を迎えるたびにますますすばらしく見えるということを意味しているにすぎなかった。つまり同じ女の子だったのだ。だからわがバラードは、あくまで最初に一目惚れをした『時の声』のバラードだったのである。それゆえぼくはながいあいだ、この作品を映画にしたいとさえ思いつめたものだった。

≪020≫  それでは、ぼくがつくった映画を遠くに観るつもりで、以下のシノプシスを読んでいただきたい。こんな物語なのだ。適宜、脚色してある。

≪021≫  熱い午後である。何もかもが乾いている。 カメラは乾いたプールを映している。プールの底には判読不能な表意文字によるマンダラのようなものがびっしりと描かれている。

≪022≫  神経科病棟の一室の窓から、一人の男がプールを見ている。パワーズだ。その顔にはひどい疲労があらわれている。パワーズは毎日診察をうけていた。友人のアンダースンによる瞳孔反応検査、顔面筋肉検査、血球数検査はいずれも奇怪な数字を見せている。パワーズが言う、「やっぱりおかしいか」。アンダースンが言う、「みんなおかしいさ。太陽がゆっくり冷えているんだからね」。

≪023≫  この研究所を兼ねた病棟には、たくさんの異常な患者たちが押しかけていた。それを見ていると、パワーズはおかしくなる。腕時計の針を見て、その針をむちゃくちゃに狂わせたくもなる。何かが急速に狂いはじめているのなら、もはや一定の時を刻むしかない時計には用がない。

≪024≫  カメラが表へ出る回廊を進むと、埃だらけの窓ガラスに指で書いた数字が光をうけて浮き出ている。 「96, 688, 365, 498, 721」 親友だったホイットビーが書いたにちがいない。ホイットビーは先週、自殺した。

≪025≫  武装した警備員のあいだを抜けて、パワーズが玄関から外に出ると、車の中に青年と若い女がいる。女は「いま野口英世の自伝を読みおえたんです。先生に似ていますわ」などと言う。女のスカートがまくれている。その瞬間に、青年コールドレンの顔面筋肉が痙攣をした。青年は必死でその痙攣をこらえて、言った。「ナーコーマは厄介ですよ」。ナーコーマとは麻酔性昏睡症状のことだった。いつ何がおこるか、もうわからない。それでもパワーズは謎を解明したかった。

≪026≫  画面は眩しいような昼間になっている。パワーズがいつものようにプールに行って、放心したままマンダラ模様を眺めていると、突如、黒い甲殻をもったアルマジロのような動物がプールを横切った。みんな、新たな情報生命化をおこしているらしい。パワーズはその甲殻動物を捕まえる。カメラがゆっくりプールの外景を映し出すと、むこうには巨大な電波望遠鏡の円筒が不気味に回転しつづけていた。 そこに宇宙の夕闇が迫っていた。

≪027≫  実験室がゆっくりパンされる。パワーズがコーマに奇怪な動物たちを次々に見せているうちに、動植物の脇に貼ってあるラベルの「デボン系砂岩290000000年」といった奇妙な数字がアップされる。パワーズが何かを感じはじめる。そこにはイソギンチャクからクモまで、カエルからサルまでが収集されているのに、それらはイソギンチャクではなく、カエルではなくなっている。どうも遺伝子異常がおこっているようだ。おそらくは遺伝上の「沈黙の一対」が創発されてきたにちがいない。

≪028≫  疲労しきっているパワーズの顔。なぜ、そんなふうになったのか。最近の放射能異常が何かのトリガーを引いたとしかおもえない。コーマが聞く、「これらは未来の生物なんですか」。パワーズはその問いに答えられない。そして、やっと一言だけ呻くように言った、「どうもこいつらは時が読める生物になりつつあるらしい」。

≪029≫  パワーズは、数カ月前の出来事の再生をしはじめる。テープレコーダーがまわり、パワーズが同僚のホイットビーと会話している内容をあらためて聞いてみた。雑音が大きい。そのなかで、さかんに「内破」という言葉が交わされている。内破とは何か。カメラは傍らの黒い毛のチンパンジーがテープに聞き耳をたてているのを映し出す。

≪030≫  沈黙の遺伝子は何を始めようとしているのか。 パワーズには動植物と、そして自分の末期記録を読む以外の方法は残されていそうになかった。そのときコーマがホイットビーの雑然としたファイルから何かを見つけた。カメラが寄っていく。フロイトのメモのリスト、ベートーヴェンの最後の四重奏曲、ニュールンベルク裁判の公判記録、人類が初めて月に行ったときの飛行士のメモなどがクリップされていた。

≪031≫  そこには、またもや「96, 688, 365, 498, 721」の数字が並んでいた。コーマがさきほどコールドレンから渡された紙をポケットから出してみると、同じ数字が並んでいた。ただし、末尾が「720」となっている。その数字のクローズ・アップ。

≪032≫  パワーズはいつしか親友ホイットビーとまったく同じ作業に夢中になっていた。自分でも理由がわからない。コンクリートミキサーを操り、タイヤレバーでセメントをこね、プールをつくりはじめていたのだ。

≪033≫  我に返ったパワーズはコーマに促されて、コールドレンの家に行く。そこはかつて数学者が別荘用に建てたもので、虚数の幾何学模型になっていた。一角に電波望遠鏡と連動した電算機が打つパンチカードがずうっと吐き出されているコーナーがあり、2人はときおりその数字に目を走らせていた。そのときコールドレンが声をあげた。「終わりに近づいている!」。電算テープは「発信源未確認。猟犬座、間隔九七週」と打っていた。

≪034≫  NGC9743のどこかで、渦状星雲が崩壊しかけているのである。パワーズはふらふらと別荘を出て、気がつくとセメントプールに、自分でもわからない模様を夢遊病者のように描き出していた。

≪035≫  捕獲実験室では、わずかながら蛍光が発散していた。動植物がかさこそと動きはじめた。かれらの閾値が完全に狂いはじめたのである。イソギンチャクはニセの太陽をさがしはじめ、カメは甲羅を発光させていた。どうやらなにもかもが終わりに向かっているらしい。

≪036≫  パワーズは車を走らせて、その地域の全体が見渡せるところに着いていた。夕闇が落ちてきそうだった。ついに星の声が聞こえはじめた。「時の声」だった。パワーズは自分が死んでいくのを知っていた。

≪037≫  ざっとはこういう物語だ。自分でシノプシスを書いていてもぞくぞくした。きっと映画にしたらもっとぞくぞくするだろう。

≪038≫  バラードには少年期から「神」と「戦争」があったのである。戦争は日中戦争とイギリス兵士たちとの日々、神はジェームズ少年が見上げた空を飛ぶ日本軍の戦闘機だ。またバラードには「地球」と「生命」と「情報」と「機械」が切れぎれにつながっていたのである。地球は結晶化し、生命は予想外の変態をおこし、機械は何かを受信したり発信したりしているうちに、それらを情報がくまなく連動させるのだ。バラードはずうっとそういうような、神と情報と生命と文明とがおこす根本偶然を書きたかったのだ。

≪039≫  ロンドンでのインタヴューが終わりに近づいたころ、バラードはふいにこんなことを言った。この言葉が忘れられない。「ねえ、松岡さん、地球上に残されている最後の資源は何になるんでしょうね。私は、それは想像力なんだと思います。もう地球には、想像力しか残っていませんよ」。

≪01≫  カール・ポパーは「歴史主義の貧困」と言った。このとき歴史主義という思想用語が〝historism〟から〝historicism〟に変わった。

≪02≫  ポパーはいろいろ歴史主義の限界を指摘するために、わざわざ〝敵〟の特性を呼び替えてみせたのだが、これはマルクス主義者が相手のマルクス主義者と自分たちを区別するために、修正社会主義とか社民主義といった言葉を用意するのに似て、ぼくには余計なお節介のような気がする。

≪03≫  文句があるなら無視してよいはずなのである。無視できないのは、結局はその〝敵〟の努力や発見に多大な影響をうけてしまったからだ。学問の世界にはしょっちゅうこういうことがおこっているので、読者を困らせる。ときに著しく興ざめになる。学者以外の読者のほうが世の中には多いに決まっているのに、そういう読者のことなど、めったに配慮されてはいない。自然科学は厳密な検証を争う必要もあるから〝敵〟の限界を論うのはいいとしても、社会思想や歴史思想がそれをやるのは必ずしもおもしろいものじゃない。

≪04≫  もっとも、ぼくがマイネッケの著名な本書を読んだのは、以上のような学問の正統性をめぐる議論など、まったく知らないころのことだった。ただひたすらに次々に登場する「歴史の中の思想家」たちの思索の跡の叢林に立ち入って、そうかそうか、これはこれはと堪能した。そういうふうに(いわば少年のバッタ取りのように)、この本を読めた季節がなつかしい。

≪05≫  フリードリッヒ・マイネッケは一八八〇年代のベルリン大学やボン大学のプロイセン学派の歴史学の渦中にいた。プロイセン学派はランケを頭目として実証主義的な歴史観をつくっていた。ランケはプロイセン(プロシア)王ウィルヘルム四世と昵懇だったこともあって、保守本流の「世界史」の確立をめざした。これは学界の取り決めにすぎないが、ランケ以前を「歴史家」と、ランケ以降を「歴史学者」と言う。

≪06≫  マイネッケはランケ一辺倒ではなかったが、二十世紀前半の激動の現代史に付き合うことになった。国家文書館の仕事ののちシュトラスブルク大学、次にフライブルク大学、ベルリン大学の教授をしているうちに、第一次世界大戦、ドイツの敗退、ナチスの擡頭を眼のあたりにした。歴史家としても歴史学者としても、この強烈な激動の中で確固たる歴史観や世界観をもつのは至難のことだった。

≪07≫  実際にもワイマール体制を支持し、一九三二年の大統領選ではヒンデンブルクを支援し、ナチスを警戒した。だからナチス支持を表明したカール・シュミットの炯眼とは対立した。シュミットはマイネッケを御用学者呼ばわりした。逆にマイネッケは戦後に『ドイツの悲劇』(中公文庫)を著して、ナチスの擡頭と専横はドイツ大衆のポピュリズムによっていたことを分析してみせた。

≪08≫  マイネッケの歴史観の骨格は『世界市民主義と国民国家』(岩波書店)、『近代史における国家理性の理念』(みすず書房・中公クラシックス)にあらわれている。歴史を通して「国家理性」がどのように胚胎し、拡張され、また貫かれていたかを見ようとした。

≪09≫  政治がどんな形であれ、権力をめざさないということはありえない。教会も市民団体も権力をめざす。政治家が権力を奪取するために、どんな形であれ画策や努力をしないということも、ありえない。そこにはつねに「クラートス」(力)と「エートス」(情念)があらわれる。すでにマキアヴェリが見抜いていた。

≪010≫  近代においては、それが「国家理性」の活動として読みとれる。その軌跡は「善の施行」と「罪の隠蔽」として記録をのこす。マキアヴェリはそれを「徳性」(virtù)と「野蛮」(feròcia)とも呼んだ。そして、その両方が「必須」(necessità)であると見た。マイネッケはこうした国民理性のダイナミクスは、その後のルイ十三世治世のリシュリューや十七世紀のユグノーのアンリ・ド・ロアンに認められると分析した。

≪011≫  ついでマイネッケが明らかにしようとしたのは、啓蒙主義が国民理性にもとづいていたということだった。本書『歴史主義の成立』はこの見解を明示した。この見方は、今日の歴史観からするとやや意外に見えるだろうが、ヴォルテールやルソーやドルバックらの啓蒙思想家たちがフリードリッヒ、エカテリーナ二世、マリア・テレジアに招かれ、これに積極的に応じたところは、啓蒙主義と国家理性の関係に注目したマイネッケの見方にも説得力があると思わせる。こんなふうに書いている。

≪012≫  「国家理性は、それが要求した独特な精神的訓練とあらゆる独断的価値の内部的弛緩作用によって、啓蒙主義を開拓する最も重要なもののひとつとなった。そのように相互に豊饒化しあう諸理念というものは、またふたたび最も深刻な対立に陥りがちであり、それゆえ啓蒙主義と国家理性はその本質において、たえず融合と対抗をくりかえすのである」。

≪013≫ 資料①

≪014≫  十八世紀のヨーロッパ思想の流れが俯瞰されているわけである。マイネッケは、シャフツベリからヒュームに至りヴィーコからバークに及んだ思想家たちがその思潮を、当時の「冷笑的な理性」に対抗して、どのように次代へ継承させようとしてきたかという視点で描出してみせたのである。

≪015≫  ただし、当時のぼくにとってはこれらのめくるめく思想群像に一挙に出会えたことそれ自体が最大の収穫だった。なにしろヴィーコもヘルダーもバークも、この本で初めて出会ったようなものだった。

≪016≫  それも、ヴィーコをラフィトーとの内在的な比較において知り、バークをルソーと社会的に比較することで理解できたことは、いまふりかえってもこれは青春期の読書としてありがたい。とくに「先駆者たち」としてライプニッツとヴィーコが並んでいるのが嬉しかった。かのカルチェ・ラタンが火を吹き、キューブリックが『二〇〇一年宇宙の旅』を問うた一九六八年のことだったとおもう。

≪017≫  歴史主義というのは、超歴史的あるいは超現実的な視点によって真理観や人間観をのべるのをやめてみようという立場のことである。「抱いて普遍」ではなくて「離して普遍」を見てみようという立場だ。この視点をほぼ大筋で確立したのがヴィーコとヘルダーだった。かれらは、歴史というものが数々の人間や民族が去来する「場」の上でくりかえしていく様相を初めて見抜いた。そのような反復しつづける「場」を当時の言葉で〝corso ricorso〟という。

≪018≫  このような歴史主義の目が研ぎ澄まされるまでの、前哨戦はかなり長かった。マイネッケはその長いプロローグを描こうとした。それが本書の舞台となった十八世紀の哲学史にあたる。 その後、歴史主義はサヴィニー、ランケ、ドロイゼンらに継承され、十九世紀末になってヴィルヘルム・ディルタイによって哲学性を与えられた。そこに「体験→表現→了解」という歴史的な生の連環性があらわれた。この連環はナマである。ナマの認識、ナマの人間を歴史から抜き出してそのまま世界観にする。一八八三年のディルタイの『精神科学序説』(法政大学出版局)に結実した。

≪019≫  しかし、このナマのサイクルはすべてが相対化されがちにもなっていく。そこでエルンスト・トレルチが「現在的文化総合」という観点を導入して、一九二二年に『歴史主義とその諸問題』(ヨルダン社「著作集」4・5・6)を著した。トレルチは神学者であって宗教史学者でもあったから、その構想は歴史主義神学の様相を呈した。ついでカール・マンハイムが「知の遠近法」を導入して、相対主義からの脱却を試みた。マンハイムはルカーチの弟子筋にあたる。当然にトレルチとはぶつかった。そして、そのような試みが進んでいたころにマイネッケが登場して、本書によって「歴史主義の背景」をおさらいしてみせたのである。

≪020≫  こういう本はヨーロッパの町を散策するように、そのときの好みによって読むものである。自分の思想の窓のなかで読むのなら、やめたほうがいい。旅行先で食べたいものが変わるように読む。それがいい。

≪021≫  ちなみに、この本では意外なことも教えられた。当時の哲学論文、たとえばヴィーコの論文などは、他の学者たちによってつねに黙って盗用されつづけていたらしいということだ。早すぎる提案者たちや予言者たちの成果というもの、どうもこういう宿命を負うようだ。

≪022≫  ちなみに一九六〇年代になると、新歴史主義という一団があらわれてきた。主に「表象」誌を拠点に登場してくるのだが、これは歴史をいたずらに客観的な変遷にするのではなく、語り手によって何が再構築されていったかに注目する。ここに颯爽とあらわれたのがミシェル・フーコーだった。いずれそのあたりの話もしてみたい。

≪023≫ 参考¶トレルチ全集『歴史主義とその諸問題』(ヨルダン社)、マンハイム『歴史主義』(未来社)。

≪01≫  日本神話には多くの謎がゴルディアスの結び目のように絡まっている。その多様な謎を一貫して解くのは難しい。とくに海洋系の神々の動向に謎が多く、そのことを考えていると混乱がやってきそうなほどに、そこには複雑な事情が関与する。

≪02≫  これらを整理するのは容易ではないが、それでもいくつかの読み筋がある。本書はその読み筋の二、三を主軸にして組み立てようとしたもので、もとより仮説集ではあるものの、はなはだ説得力に富んでいるところがある.

≪03≫  一番の焦点になるのは、海人系の伝承である。たとえば国生み神話には最初にイザナギ・イザナミがオノコロ島や「淡道の穂の狭別島」を生んで、そのあとに次々に大八州(おおやしま)がつくられたとあって、この最初の島は以前から淡路島ではないかと言われてきた。実際にも日本書紀の一書には「オノコロ島を以て胞(え)として淡路洲を生む」とある。

≪04≫  これだけでも日本神話が海洋型の“物語OS”の上に成り立ってきただろうことが予想されてくる。

≪05≫  しかし、この文言にある「胞」を胞衣(えな)というふうに解釈すれば、西郷信綱がそういう推理をしたのだが、国生みは海人の物語というよりもむしろ胎生学的な比喩の話だったということになるし、また折口信夫のようにこの「胞」は「兄」(え)のことだと解釈すれば、異なる腹で神々の一族の婚姻が進んだ出来事の比喩だったとも受けとれる。そこで岡田精司がかつてまとめたように、大筋は、淡路島にはもともと海人の伝承があったのだろうが、それが換骨奪胎されて宮廷神話にとりこまれたのだろうという見方になってきた。

≪06≫  しかし、これではあまりにも大ざっぱすぎる。もっと焦点をはっきりさせた解釈はできないものか。たとえば誰もが知る海幸彦・山幸彦の伝承は、天皇一族につながるのが山幸彦(ホオリ=ヒコホホデミ)で、隼人の一族につながるのが海幸彦(ホスセリ=ホノスソリ)と言われてきたが、なぜこの両者が兄弟とされたのか。 こういうことを解くには、こんな大ざっぱな読み筋では足りないものが多すぎる。

≪07≫  神話では同じ伝承でも、それをどう見るかによって何通りもの解釈が可能になってくる。しかし神話には必ず焦点がある。その焦点は物語のモジュールごとに見えてくる“結び目”ともいうべきもので、その結び目をほどいてしまうと何もかもがばらけるが、といって堅い結び目のままでは読み取りがたい内容を孕んでいる。

≪09≫  本書はそれをアメノヒボコ伝承を下敷きに組み立てた。それなりの説得力がある。

≪08≫  とくに海人系の伝承はその後はたちまち内陸化していったのだから、海の物語としてのみ解読していると、その前後の背後関係や後日談が見えなくなってくる。そこをどう関連させていくかが研究者の腕の見せどころで、たとえば神話伝承の多くは「天語り歌」という初期の様式をもつというふうに見られているのだが、これは同時に「海人語り歌」でもあって、そうだとすると、その「天型」の語りは、どこで「海型」の語りを受容したり編集したのか(その逆もあるのだが)、そこが問題になってくる。そうすると、そもそも海型伝承をしてきた、たとえばアズミ(阿曇)の一族やワタツミ(海津見)の一族の動向とともに議論が展開していかなくてはならないということになる。

≪014≫  すでに研究者たちが一致して仮説していることに、出雲を収めたオオクニヌシ系と、新たに渡来したアメノヒボコ系とのあいだには対立か抗争か、もしくは祭祀力あるいは技能力における交代があったのではないかという見方がある。

≪015≫  これを認めると、この場合は、おそらくオオクニヌシ系は銅鐸を祭祀とし、アメノヒボコは鉄産の技能をもって鏡の祭祀力をもっていたと仮説できる。記紀神話によれば、アメノヒボコの一群は播磨のあたりでいったん駐屯している。それ以前に出雲から意宇地帯あたりをオオクニヌシ系が占めていたとすると、出雲の「国譲り」に関する出来事に、どうやらアメノヒボコたちが絡んでいたと推測できる。

≪016≫  それで、どういうことがおこったのか。著者はおそらくはアメノヒボコ系の鉄と鏡による祭祀力と技能力が上回って、これに注目した大和朝廷一族(ここでは後期天皇一族ということにする)が、それまで実権を握っていた前期天皇一族(すなわちホノニニギからホオリ、ウガヤフハアヘズをへてイワレヒコに及んだ、いわゆる天孫一族)に代わって、これを登用したのではないかと推理した。

≪017≫  これはどういうことかというと、ホノニニギからイワレヒコ(カムヤマトイワレヒコ=神武天皇)まではオオクニヌシ系(オオクニヌシからコトシロヌシに及ぶ系譜)の国作りにかかわっていた物語の主人公たちで、その後の崇神天皇(ミマキイリ)以降が新たな大和朝廷の次代支配者として、アメノヒボコ集団の祭祀と技能を吸収したのだろうということになる。

≪018≫  この仮説は、記紀にハツクニシラススメラミコトの名が神武と崇神の両方につかわれている謎の結び目をとくひとつの解決策になる。むろん当たっているかどうかはわからない。

≪019≫  が、もしそうだとすると、4世紀あたりに三輪山の麓に勢力を有した集団がいて、そこへアメノヒボコ集団か、その力を借りた一団が河内から大和になだれこんできて、5世紀にはそこに崇神王朝ともいうべき後期天皇一族の原点が確立されたのだろうということになる。これを実証できる多少の根拠もある。

≪020≫  それは、河内の須邑(すえむら)で焼かれた須恵器が三輪山の麓で出土したことだ。須邑にはもともとオオタタネコの伝承がある。そのオオタタネコは三輪のオオモノヌシ(大物主)の子だということになっている。これはオオモノヌシにまつわる技能(須恵器技術など)が、三輪のオオモノヌシの地に移行したことを暗示する。しかもオオモノヌシはもともとオオクニヌシの代名詞でもあった。ということは、このオオタタネコの移動の時期に、出雲の国譲りが大和に対しておこなわれ、そこに「海型」のアメノヒボコ集団がかかわっていたという、そういう読み筋になる。

≪021≫  ずいぶんはしょって本書の意図を短絡してしまったが、だいたいはこういうことである。

≪022≫  それにしても、日本の誕生にまつわる伝承は、海に始まって大和をめざすいくつものベクトルが、捩れながら結び合わさり、そこに別々の結び目をつくったまま語られ、記されてきたものだった。

≪023≫  神話とは本来がそういうものであるが、しかし、記紀神話はこれらを天孫一族の物語として整合させるところと、ほとんど整合できないままに物語を吸収したところをもったまま、われわれの前に投げ出されてしまったのである。

≪024≫  したがって、記紀神話の伝承だけで大和朝廷の起源を語ることもできないし、逆にこれらのルーツを次々に地域や海の向こうに差し戻すこともできない。どこかの中間部分で多様な結び目をつなぎあわせて、一種の物語の文様を織り出す必要がある。

≪025≫  本書では、ここには紹介しなかったが、これらの文様の一部として、二人のハツクニシラススメラミコト(神武と崇神)の両方にまたがる神功皇后(オキナガタラシヒメ=息長足姫)が想定されているのだが、そこに卑弥呼がつながりうることや、またアマテラス信仰の自立が天香具山付近にあるだろうこと、さらにはアメノヒボコ集団と物部一族とのかかわりなども述べられている。

≪026≫  しかし、そこまで推理が進むと、これは“中間結び目文様”ではなくなってくる。ミドルウェアが失われかねないことになる。そこからどこかへ引き戻って眺める目も必要なのである。そこが神話議論は難しい。

≪027≫  実は先だって、太田香保たちと大和三山から葛城の一言主神社のあたりを散策して、ぼくはぼくなりの仮説がまた生まれた。それはここには登場していない葛城王朝幻想にちょっと翼がはえたものである。

≪028≫  けれども、そういうことを感じたからといって、いまのぼくには読み筋を一筋に絞る気はおこらない。日本は一途で多様、多様で一途の、その融通無碍において淡走すべきなのである。しかもその淡走シナリオの開陳がどのようにあるかといえば、きっと一言主のモドキというミドルウェアのなかで、なのである。

≪01≫  このところ、ぼくは日本を語ることが多くなっている。明治を問題にすることも徳川時代の儒学的日本像に切りこむこともあれば、歌枕や世阿弥の工夫や茶の湯を通して「日本という方法」にアプローチするときもある。3週間ほど前は石川啄木と権藤成卿と石原莞爾とパル判事を通して日本を語ってみた。

≪02≫  それはいろいろなのだが、さて、「日本」をいつの時代から語っていくかということになると、そのイメージとマネージの関係があまりに変遷してきたことを一貫して語りきることがむつかしく、ときに縄文を、ときに稲作を、ときに天孫降臨神話を、ときに「まつろわぬ神々」を、ときに倭の五王をというふうに、日本自立の契機となったスキーマを分けながら問題を取り出して、これを突起した正の情報と穿たれた負の情報に腑分けしつつもなんとか串刺しにするという、そんな語りかたを何度も試みるというふうになってきた。

≪03≫  それらをそろそろ風変わりな書物にまとめてみたいと思うけれど、いまはその時間をもてないでいる。

≪04≫  むろん日本の誕生をめぐっては、すでに多くの研究と仮説がもたらされてきた。そのうちのどの見解のどの仮説を採るかは識者の数だけ分かれるといってよい。あいかわらず百家争鳴なのだ。それに日本誕生といっても、どの時点の出来事を基軸にするかによって、論旨も論法も史料も変わる。考古学の対象も人類学の対象も変わる。

≪05≫  たとえば、最新の講談社版「日本の歴史」第00巻の網野善彦『「日本」とは何か』は、網野史学のラディカルな良心を結集して敗戦直後に問われるべきだった「日本とは何か」という課題を、苦汁をもって良薬に変じようとした乾坤一擲の慟哭を感じさせる一冊となっているのだが、そして、その凄まじい歴史家としての気概には脱帽せざるをえなかったのだが、日本誕生の時期については国号としての「日本」の使用のみを徹底して問題したわけだったから、この議論からは聖徳太子時代から天武朝までがフューチャーされるだけなのである。

≪06≫  また、吉田孝の『日本の誕生』(岩波新書)は、倭人と交易と大王の複雑な絡みを一筋の糸で縫い合わせた近ごろにない好著であったけれど、やはりそこで「日本」というレジストレーションをもっているのは7世紀以降の時代なのである。(この時期設定はいまのところの正式見解に近い。)では、それ以前に日本がなかったのかといえば、むろんそんなことはないはずなのに、このことさえ意見がいろいろ分かれる。

≪07≫  大別すれば二つの意見だ。ひとつは「倭」はあったが、「日本」はなかったと言明する。このばあいの日本はカッコ付きである。最近の学者に多い。そうでないばあいは日本列島史とか日本社会史というふうにする。もうひとつは、そうはいっても縄文も稲作導入期も卑弥呼も同じ日本列島での出来事だったのだから、ここはやはりすべてを日本の歴史として通観する。だいだいカッコ付きなんて、会話にすらならない。この二つの立場になる。

≪08≫  いまは、この二つの立場をどうインテグレートするかの季節であろう。ただし、厄介なのが記紀神話のなかの何をもって歴史記述とみなすかということだ。

≪09≫  日本神話のなかに日本誕生の"種子"や"胞子"を見いだす試みは、数からいけばいちばん多かった。そうではあるのだが、これとてイワレヒコ(神武)を見るか、もう一人のハツクニシラススメラミコトと尊称されたミマキイリヒコ(崇神)を見るか、それともオオササギ(仁徳)かオオハツセワカタケル(雄略)かオオド(継体)を見るかで、まったくその背景の意味が変わっていく。

≪010≫  また、大王(天皇)ではなく、葛城襲津彦や大伴や物部や蘇我や藤原などの実権者たちの動向で「日本の形成」を語るのもありうることで、ぼくなどもこの手の成果にずいぶん目を通したけれど、これまた一貫した語り口にお目にかかれたことがない。それを朝鮮半島との軍事・経済・人材・文物の交流と去来に注目して議論しようというのは、なかで最もダイナミックな見方になるが、それにはそもそも渡来系部族の大王家に対する歴史的関与のしかたが問われなければ、たとえばアメノヒボコ渡来集団の一挙的活動といっても、それを記紀の記述要素だけで仮説に組み立てるには、その他の出来事の関連に説得力がない。

≪011≫  そもそも今日にのこる正史というべき『日本書紀』の成立が近江・大宝・養老令などの律令制定にふみきった700年前後に特定できることだから、それ以前のすべての物語は、『書紀』がどのように編集されたのかということを軸にしないかぎり、なんら実証力をもちえないのだ。まして『古事記』はその後の編集だろうから、そこから歴史的な「日本」の遷移を確定する素材を集めようというのは、度が過ぎてくる。神話的記述から見いだせるのは、宣長が最初にそれを試み、折口がまたそれを胸中に照らして語ったわけだが、日本人の言葉にひそむ魂のありかたばかりなのである。これは世界史的日本像のためではなく、日本的世界像の彫琢である。

≪012≫  それならでは、アマテラスやヤマトタケルは日本建国と関係がないのか。また、1世紀の「漢委奴国王」という王や2世紀の「倭国王師升」という王や3世紀の「卑弥呼」は日本誕生のシンボルやリーダーではないのか。

≪013≫  残念ながらこれらを日本史の起点にするだけの論証は、多くの仮説はあるものの、まだなされていないというのが現状である。けれども、だからといって放ってはおけまい。

≪014≫  呼称を「日本」にするか、「倭」や「倭国」や「大和」にするかという峻別は歴史学上では重要で、それを曖昧にしたため近現代の日本が「孤立する日本」に向かっていったのだけれど、そこをちゃんと見極めたうえでいうのなら、問題はもはや呼称ではなく、そこに流れる「母型」の追求であるべきなのである。母型でわかりにくいなら、母国でもよろしい。祖国でもよろしい。その母国や祖国をふくむ歴史的な母型の醸成にあたって、いったいどのくらい他国や他民族の関与や影響があったのかということ、そこを新たな問題にするしかないはずなのだ。

≪015≫  仮にその母型を福士孝次郎のごとく「原日本」というとすると、その原日本はそれに先立ついくつもの勢力や人材や生産力や交易力が複合したものにちがいなく、そうだとすると、どの時点で原日本が準備され、どの時点でそれが東アジア社会の承認をうけ、それがいつごろから列島の倭人や日本人の共通認識になったかということなのだ。また、そうなるにあたってどんな失敗をし、どんな「負」を引き受けたかということなのだ。

≪016≫  ぼくはそう思って、去年はNHKの人間講座で『おもかげの国・うつろいの国』という話をしてみた。この試みは母型をダイレクトには追わないで、それが「面影」として母国漂泊するほうから見ていこうとしたものだった。いわば「方法としての母型」にとびとびの光をあててみた。それなりの語りはできたつもりだった。

≪017≫  けれどもそういう試みをすると、一方では、もっと直截な歴史的母型の追求に徹底したくもなってくるものなのである。とくに日本において母型がなかなか成り立ちにくくなった事情をはっきりと知りたくなってくる。

≪018≫  今夜とりあげた一冊は、かつてぼくがそうした喉の渇きをもっていたころ、同じ著者の『倭国』(中公新書・1977)を読んだときの納得感にもとづいている。それを今夜は『倭国』ではなく、あえて『日本史の誕生』にしたのは、このほうが多くの読者には読みやすいからだろうという、その一点だけの理由によっている。

≪019≫  最初に印象をいっておくが、本書はいささか粗雑な記述ではあるものの、そのぶん快速である。表題がセンセーショナルだったことも手伝っていろいろ影響力を発揮した話題の一冊だった。

≪020≫  著者は満州史・モンゴル史が専門の東洋史学者である。中国、とりわけ天孫一族のルーツといわれてきたツングース系の歴史や地誌や社会経済に詳しい。その後、『倭国』で古代日本史に新たな視野をもちこみ、西アジアから全世界史の展開を大きなスケールで説いた『世界史の誕生』(筑摩書房)では胸のすく仮説史観を披露した。

≪021≫  『倭国』や『世界史の誕生』や本書『日本史の誕生』が発表されたあとのさまざまな日本社会論や日本文化論を読んでいると、その影響が少なからぬものだったことが伝わってくる。湯浅赳男の力作『日本を開く歴史学的想像力』(新評論)や鷲田小彌太の挑発的な『日本はどういう国か』(五月書房)などはそのひとつだったろう。 では、以上をまえおきとして、本書が描写したところの骨太のストリームを紹介しておきたい。

≪022≫  著者が貫徹した視点は、中国の歴史の一部として日本を見るということである。 この見方は、日本という母型の成立に注目しようとする者にとっては最も反対の極にある見方にあたるようでいて、実は母型を見定めるにはかなり有効な座標を提供してくれる。対抗軸や対称軸が鮮明になる。ジャック・ラカンではないが、東アジアの鏡像過程としての日本が見えてくる。

≪023≫  東洋史というのはもともとそういう視野をもつ学問だから、このような視点をもった試みは内藤湖南や白鳥庫吉このかた、なかったわけではない。中国神話や朝鮮神話、さらには東アジア神話と日本神話を比較して古代日本の王権確立構造に光をあてようとした試みも、古くは三品彰英から70年代の大林太良まで、少なくはなかった。なかでも鳥越憲三郎や吉田光男による東アジアを睨んだ倭人研究、あるいは福永光司の道教研究による天皇像のルーツの追跡、萩原秀三郎の稲と鳥に視点をしぼった比較などは興味深かった。数々の話題をさらった古田武彦の大胆な古代史仮説もずいぶん読ませてもらった。

≪024≫  しかし、歴史学として中国史やアジア史のなかに古代日本史がちゃんと確立されたことはなかったのである。宮崎市定さんもそこは確立しないままに研究を終えられた。いっときは江上波夫の騎馬民族説も話題になったが、さきごろ亡くなった佐原真さんの決定的な批判をはじめ、これはいまでは認められていない。

≪025≫  ところが、著者はこうした試みにもまったく満足していないのだ。そこに考古学や民族学や宗教学がいたずらに交じってきて、混乱してきたと見る。言語学を借りたり出土品だけで議論をするのも気にくわない。文献に頼るべきだという。ぼくは考古学資料に頼ってもいっこうにかまわないとおもうが、先だっての藤村新一石器捏造事件のこともある。出土品のすべては歴史の証拠品だと見過ぎるのも、たしかに危険なのである。

≪026≫  一方、文献だってどのように読むかで立場はいくらでも変わる。著者によると、アジア文献の解釈が日本学者のなかでとんでもなく混乱しているという。著者は中国史料の批判に厳密で、歴史記述というものの本来の意図を汲まないかぎりは、解釈がいくらでもまちがっていくと警告する。

≪027≫  たとえば『魏志』倭人伝をめぐる邪馬台国論争がその大きな愚の骨頂だったと断罪する。中国は文字の国である。その文字による歴史記録をどう解釈するかが徹底されなければならない。ざっとこうした理由で、著者は、秦の始皇帝が中国を文字統一したところからあらためて日本を見ようというのだった。

≪028≫  紀元前221年が秦の統一である。まさに弥生後期の日本(倭)が新たな動きをはじめようとしていた時期にあたる。日本列島はこのあと急激に稲作技術が入ってきて、鉄器が普及し、さらには文字を知らない弥生人にとっては呪力ともおぼしい漢字やハイテクノロジーが届くようになって、大きく変貌した。このときいったい何がどのようにおこったのかということだ。いや、中国や朝鮮に何がおこり、そのことが日本に何をもたらしたのか。

≪029≫  だいたいは次のような位置づけ、意味づけになる。本書より稠密で濃厚な『倭国』の記述をまじえて、以下、やや話が長くなるが、ざっと整理してみる。なお著者は「韓半島」という用語をつかっているのだが、ここでは朝鮮半島にしておく。必要なところはぼくの補充もまじえておいた。

≪030≫  中国と朝鮮と日本の関係において、いちばん重要な地域は遼東である。そこから中国は皇帝の意思を東方社会に波及させようとし、朝鮮はそこから自分たちの国を築こうとし、日本はそこへ至ることが最終的な拡張だと考えた。日清・日露の喧噪の発端、満州事変の企図などをおもえばいい。

≪031≫  歴史上、遼東や朝鮮が中国の史書に最初に姿をあらわすのは紀元前334年になる。『史記』蘇秦列伝には、東周の弁士であった蘇秦が燕の文侯を説いたときのこの年の言葉に「燕は東に朝鮮・遼東があり、北に林胡・楼煩があり‥」とあって、このときすでに朝鮮半島の北部が燕国の支配下に入っていたことをあきらかにしている。その後、燕は昭王の時代に勢力をのばし、北部朝鮮から南部の真番へも睨みをきかすようになった。

≪032≫  燕は遼東から朝鮮半島の深部に入りこんだのだ。ただし紀元前226年に、秦の軍事力が燕の都の薊城(北京)をおさえてからは、燕は遼東に後退し、いったん滅亡する。一方、秦はその翌年には斉も滅ぼして勢力を拡張した。ここに立ったのが始皇帝である。始皇帝は天下を分けて36郡とすると、そのひとつに遼東郡をあてた。『史記』朝鮮列伝には「遼東の外徼(がいきょう)に属した」とある。 ここからドラマが始まる

≪033≫  始皇帝の中国統一とは、陜西省の咸陽を中心とした群県制による商業都市ネットワークが整ったという意味をもっている。咸陽には総合商社にあたるような本部としてのガバナンスがおかれ、そこから支店網が各地にのびた。

≪034≫  支店というのは城郭都市で、四角四面に城壁をつくり、東西南北に四門をひらいた。これが「県」である。「県」は「懸・系・係・繋」と同様、首都に直結するという文字である。したがって県の中核部は自然発生した集落や都市ではなく、人工的に建設された軍事都市であって、交通の要衝ゆえに殷賑をきわめる市場ともなった。直結とはいえ遠方の県となると監督不行き届きになるので、途中に「郡」をおいて行政管理と軍事発動力をもたせた(重要な県を郡に仕立てた)。「郡」は「軍」でもあったのである。その群県の司令官が郡守(のちに太守)で、その下に県令が配された。

≪035≫  城壁のなかには戸籍をもった軍人・官吏・商人・手工業者・使役人などが住んだ。この戸籍保有者が中国でいう「民」というものにあたる。つまりは中国の皇帝にとっては戸籍保有者だけが帝国臣民としての「中国人」なのである。他方、中国人でない者は城壁の外にいるノン・チャイニーズとされて、その居住地域の方面によって「蛮・夷・戎・狄」などと蔑称でよばれた。これは人種の差ではなく城郭都市内に戸籍をもったかどうかで決まる。

≪036≫  こうして秦は群県制を拡張していったのだが、12年後には各地の反乱で統一が破れると、それまで衰微していた諸国がいくつか再興されてくる。燕もそのひとつである。

≪037≫  ドラマを続ける。 諸国台頭のなか、その一つの漢が諸国を平定すると、紀元前141年に武帝が即位し、ふたたび群県制(=郡国制)を強固に確立するようになった。西のローマ帝国に比肩して東アジア最大の版図をもつにいたった漢帝国の誕生である。

≪038≫  中国の皇帝というのは定期市の商人団の頭目を原型とする古代の王が巨大化したものだから、それ自身がヒエラルキーの頂点にいる商人の親分のようなものであり、同時に金貸しの親分だった。政府は農産物を徴収して「租」とし、役人や軍人の費用にあて、商品には「税」を課してこれは皇帝の収入にした。したがって中国の税関は政府ではなく皇帝が直営していたとみたほうがいい。

≪039≫  漢の武帝はそれこそ典型的な事業型皇帝であって(ようするに親分中の親分)、帝国の外で営まれた商取引も手中に収めることを狙い、みるみるうちに南越王国から西域諸国まで征服した。そのうち、残る事業相手は朝鮮半島方面のみということになってきた。

≪040≫  これに先立つ高祖の時代、漢は燕を圧迫して遼東を直轄地にしてしまっていた。このとき燕人の満(衛満)は亡命して一千余人とともに東方に走って清川江を渡り、しだいに真番の民や朝鮮の原住民を役属させつつ、王険に都した。のちの平城(ピョンヤン)である。このときは漢がまだ四方に目を配らせる余裕のなかったころで、やむなく漢の遼東太守は満と契約をむすんで同盟国とした。おかげで満のほうは漢の軍事援助と経済援助をうけて発展する。これがいわゆる「衛氏朝鮮」、すなわち最初の朝鮮王国の確立にあたっている。

≪041≫  朝鮮史ではこの衛氏朝鮮(衛満朝鮮)の確立以前を「古朝鮮」という。古朝鮮には檀君神話(檀君の王険によって国がおこったという建国神話)による君長社会があった。

≪042≫  衛氏朝鮮の成立は、漢と朝鮮の関係を初めて安定させた。周辺部も活況を呈する。満州地域には扶余がおこって、松花江流域の平野地帯に成長していった。少しのちのことになるが、高句麗も芽生えた。扶余から南下した部族が鴨緑江近辺で成長していったのである。

≪043≫  が、漢帝国の勢力が大々的に四方におよぶようになると、事態は変わっていく。紀元前110年、武帝は山東省の泰山に封禅の儀式を挙行して、いよいよ東方海上経営に乗り出し、ついに衛氏朝鮮を制圧してしまうのである。こうして紀元前108年のこと、武帝はここに楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡をおく。楽浪郡は西北地方、臨屯郡は半島に沿って南北に細長い地方、玄菟郡は鴎緑江から大同江までの遼東にあたる。

≪044≫  問題は半島南部の真番で、ここの動向が日本列島にいったん突き刺さったのである。その話はあとでするが、ともかくもこの時点で、朝鮮半島を縦断する政治ルートと貿易ルートは完全に漢が掌握することになったのだった。ここまでは一本道である.

≪045≫  武帝は長生きをしすぎたと著者は書いている。実権が長きにおよびすぎたのだ。紀元前87年に71歳で武帝が死んだとき、さしもの漢帝国も古代ローマ帝国同様にヒビだらけになっていた。重税と苛酷な労役、農業生産力の低下、食糧不足などが続き、人口も半減してしまう。

≪046≫  8歳の昭帝を輔佐した大将軍の霍光(かくこう)は、経費ばかりがかさむ辺郡からの撤退を決め、臨屯郡と真番郡を廃止する。あげく、その管轄下の15県は整理統合されて、すべて楽浪郡のもとに移管された。こうして、楽浪郡は中国人が流れこんでいくセンターとなり(燕人が多かったが、山東半島から斉人や越人も入ってきた)、一方で朝鮮半島と日本列島の"主権"を左右するセンターになっていく。

≪047≫  さて、ここからが今夜のテーマをゆさぶる問題になっていく。時代は紀元前から紀元後のはざまにさしかかっている。『漢書』地理志に「楽浪の海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見す」と書かれたのは紀元前20年のころの状況だが、ついにここに「倭人」の名が登場するからだ。 いったい「分かれて百余国」は日本誕生なのか。それとも、何かの産声だけなのか。

≪048≫  問題を整理しておくと、第1に、この時点で朝鮮半島にいたのは二種類の原住民と中国人だった。二種類とは大きく区分して、平地農耕民と山地狩猟民をいう。中国人は先行したのが燕人、あとから斉人・越人が交じった。

≪049≫  第2に、この中国人たちは主に燕の系統の言葉をつかっていた。紀元前後の漢の揚雄の『方言』という書物には、「燕の外鄙、朝鮮冽水の間」とあって、遼東・遼西・楽浪が同じ言葉を話していたとしるされている。第3に、ここでは朝鮮系であれ中国系であれ、都邑がことごとく中国化していった。古代シノワズリーの流行だ。とくに商品流通において、いわば「都ぶり」が流行した。

≪050≫ 第4に、これらのことが南方部のかつての真番郡の地域にまでおよびはじめた。とりわけ洛東江の渓谷地域には次々に中国的な感覚の集落やキャンプ都市ができて、そこへおそらくは燕人や越人が先頭をきって流れこんでいった。

≪051≫  そして第5に、この南方部に交じっていったのが倭人だった。 こうした半島状況のなか、本場中国では前漢が低落して、漢の帝室の外戚にあたる王莽(おうもう)が儒教の古文学派の革新思想をかかげて知識階級をまきこみ皇帝となり、国号を「新」と改める。もっとも在位はわずか15年、そのあと十数年をへて中国の再統一をはかったのは後漢の光武帝だった。

≪052≫  光武帝が帝国の版図を再統一した当初は、後漢は人口が減ったままの状態にあって、経済力も復旧していない。そこで光武帝は経費を節減するためにも、遠方各地の首長に名誉総領事のような役名を与えて、その地域の安定をまかせ、中国商人の交易の保護の責任を負わせるかわりに、その首長の機関を通さないとほかの者が交易できないようにした。

≪053≫  光武帝は半島南方部に恰好の名誉総領事候補を発見する。このとき光武帝がその首長候補に与えたのが、西暦57年の「漢委奴国王」の金印印綬だった。これが東アジア史上、初めての「倭王」の登場である。

≪054≫  もっもとこのことはたしかに倭王の起源を示しているのであるが、倭国という統一国があってその首長が倭王を名のったのかといえば、そうではない。中国側が「倭王」というポストをつくって、その地域の貿易の独占権を認めたということなのである。著者はそこを強調する。

≪055≫  その意味は、このあとの107年に「倭国王師升」が後漢の朝廷に朝貢して、生口160人を献じたという『後漢書』東夷伝が記述した出来事にも如実に浮き彫りされている。教科書では、このことが後漢と倭国の関係深化の始まりと説明しているが、そういうものではなかった。これは光武帝後の4代のちの和帝の皇太后が治世の苦境に立っていたとき、なんとかその権勢を誇るために見せた最後のポリティカル・ショーだった。それに「漢委奴国王」が誰であるか、「倭国王師升」がどの倭王であるか、それを確定する決め手もない。

≪056≫  しかし後漢の隆盛もここまでで、やがて184年に黄巾の乱がおこると(道教的な太平道や五斗米道の運動から挙兵にまでおよんだ)、中国は分裂しはじめ、そのなかの魏・蜀・呉が鼎立して『三国志』の時代になっていく。この中国の混乱が、次に倭王の特定をもたらしていったのである。

≪057≫  黄巾の乱は朝鮮半島にも少なからぬ影響をおよぼした。ひとつは、混乱に乗じて遼東郡の太守だった公孫度が後漢王朝から勝手に自立すると公孫氏政権をつくり、楽浪郡を支配下においたことである。息子の公孫康は楽浪郡の南方に新たな帯方郡を設置した。

≪058≫  もうひとつは、楽浪郡とその周辺にいた中国人が危険を恐れてさらに半島の南に避難するようになり、その一部は華僑となっていったことである。そのなかには、当然、海をこえて日本列島に渡ってくる者たちもいた。

≪059≫  一方、朝鮮民族のなかでも変化がおこっていた、北部ではすでに高句麗の勢力が強くなっていたのだが、西海岸から南部にかけては韓族が力を増して、いくもの小国を形成しつつあった。それが大別しては「三韓」とよばれる馬韓・辰韓・弁韓になる。馬韓だけで50余国、辰韓・弁韓でもそれぞれ12国が分立していた。

≪060≫  それだけではなかった。まさに同じころ、日本列島の南部でも混乱がおこっていた。いわゆる倭国大乱である。

≪061≫  『魏志』倭人伝に、「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王となす。名は卑弥呼という」としるされた、あの大乱だ。「分かれて百余国」だった倭国がそれなりにリーダーを立ててきたのだが(このリーダーを大王=オオキミとするにはまだ早いのだが)、それがここにきて乱れ、内乱がおこり、やむなくそれまで慣例であった男王に継がせることができないので、諸国が共立して少女の卑弥呼を女王に仕立てたというのだ。2世紀後半のことである。

≪062≫  卑弥呼は鬼道に仕えていたというのだから、あきらかにシャーマンっぽい。男王の条件ともちがっている。しかし逼迫した事情のもとでこういうことがおきたということなのだろう。

≪063≫  これらの中国・朝鮮・倭で別々におこったかのような動向は、どうも連動している動向である。すべては黄巾の乱から三国鼎立の未曾有の混乱影響圏でおこったことだった。ということは、卑弥呼の共立はとうてい倭国の自立を意味してはいないということになる。だからこれをもって日本誕生とはいいがたい。北九州にあったか畿内にあったかはべつにして、卑弥呼の「邪馬台国」は分国にすぎなかったのだ。しかしそれでも、倭王に代わるシャーマニック・エージェントともいうべき卑弥呼という名は特定されてきた。

≪064≫  三韓の鼎立もむろん朝鮮の統一的動向ではありえない。公孫氏政権もいつまでももたなかった。魏がこれを討った。3世紀の東アジアはこのように、すべてがすべからく小国分立状態なのである。このあたりのことを理解していないと、日本誕生のドラマが早送りされすぎることになる。

≪065≫  では、ここからは三国志と帯方郡と倭国のネステッドな話になっていく。その前に、著者が本書でくりかえしのべていることをかいつまんでおく。それはなぜ『魏志』倭人伝の読解がさまざまな曲解を生んで、いまなお議論がかまびすしい邪馬台国論争や卑弥呼論争をつくってしまったかということだ。

≪066≫  『魏志』倭人伝は、正史『三国志』のなかの『魏志』烏丸・鮮卑・東夷伝の一部である。本紀に対する列伝の、そのまた一部にあたる。列伝は中国皇帝の立場から見た関係意識をもってのみ綴られる。それ以外の関心はない。武田泰淳の『史記の世界』がとっくに喝破していたことだ。『魏志』の著者というか、編集統轄者の陳寿もそのような目で紀伝体をもって綴った。

≪067≫  むろん陳寿の前には原資料があったろう。原資料は発見されていないが、おそらく魏の官吏が中央政府の命令で倭国の女王と交渉したことが記録されていたとおもわれる。240年に梯雋(ていしゅん)を、247年に張政を送った。梯雋は帯方郡の大守弓遵の子分で、張政は帯方大守・王沂の子分である。この二人は命令系統が異なるため記述や描写に差異がある。著者は、こういうエクリチュール上の原因があったので、陳寿の記述による『魏志』倭人伝にはもともと統一感がないのだという。それが邪馬台国論争や卑弥呼をめぐる読解曲解議論を沸騰させたのだと見る。

≪068≫  ついでにいえば、倭国の記述が『魏志』に多いのは、魏がこのころに三国のなかで優位をもっていたからだった。魏は202年に曹操が死んだあとを曹丕が継ぎ、自身が皇帝となって文帝を称し、その後を明帝が司馬懿を中心に勢力を拡張していった。司馬懿というのは、『三国志』に有名な、例の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の仲達のことである。司馬懿は魏軍の総大将であって、今夜の文脈では、その別動隊が山東半島から黄海を渡って朝鮮半島に上陸し、楽浪郡・帯方郡を征服してたということが特筆される。

≪069≫  公孫氏政権を壊滅させたのは魏の明帝と司馬懿だったのである。その直後、明帝が死ぬ。

≪070≫  さて、話を戻して、倭国のほうはどのようになっていったのか。 卑弥呼はちょうど明帝が死んだ239年に難升米(なめし)と牛利らを帯方郡に派遣して、魏の天子に謁見して朝貢することを求めた。帯方郡の太守の劉夏はこれに応じて役人をつけ、難升米らを魏の都の洛陽に送りとどけた。

≪071≫  その直後、魏の皇帝が卑弥呼に詔書を与えた。『魏志』倭人伝には「卑弥呼を親魏倭王に制詔する」とある。金印紫綬もした。難升米や牛利には銀印青綬をして、それぞれを率善中郎将・率善校尉に任命した。一見、倭国が国として認められたというふうに思いたくなるが、この「親魏倭王」の称号は大月氏の首長がもらった「親魏大月氏」の称号に並ぶもので、魏が敵対する蜀・呉を牽制するため、その背後の大月氏と倭国とを厚遇したという意味をもつ。「遠交近攻」は中国古来の戦法なのである。その作戦司令官が司馬懿なのである。

≪072≫  そうだとすると「親魏倭王」をつくっておくことは、司馬懿の魏軍が扶余・沃沮・韓に進軍して帯方郡を解体しながら朝鮮半島を掌中に収めようとしていた作戦の一環だったと読めてくる。卑弥呼は外部承認された首長だったのだ。名誉総領事だったのだ

≪073≫  司馬懿はこのあとの249年にクーデターをおこして魏の実権を握った。さらに長男の司馬師、次男の司馬昭、その長男の司馬炎がこれを系統して継いで、256年に魏の元帝を退位させると、自身が皇帝となった。これが晋(西晋)の武帝である。

≪074≫  ここで、著者はふれていないのだが、卑弥呼をめぐって一言はさんでおく。 卑弥呼についてはそれこそ数々の仮説がでているが、最近は卑弥呼をヤマトトトビモモソヒメ(百襲姫)に擬定する説が流行していて、その奥で実務政治をおこなっていたのが崇神天皇ことミマキイリヒコではなかったかとも言われる。奈良の箸墓(はしはか)も卑弥呼の墓ではないかというのだ。

≪075≫  これはあきらかに卑弥呼畿内説になるのだが、なぜこういう説がでてくるかというと、崇神紀にこういう記述がある。当時、疫病や飢餓や犯罪が横行していたので、崇神はこれは何かが原因になっているとおもう。きっとアマテラスやオオクニタマを宮中に祭っているのが畏れおおいことだったのだろうと気づき、まずアマテラスを笠縫邑(伊勢)で祭らせた。けれどもなかなか事態は収まらない。そのうちモモソヒメに神意があって、オオモノヌシ(大物主)を祭ればいいと告げられたのでそうしたところ、今度はオオモノヌシが神意にあらわれて、オオタタネコ(大田田根子)を探しだせ言われた。それで三輪山にオオモノヌシを鎮座させてみると万事が収まった、そういうことが書かれているのである。

≪076≫  すぐ察しがつくように、ここには伊勢・三輪に神祇を確定した事情が描かれている。つまり、後世の正当化かもしれないものの、崇神の時代に神祇制度の原型ができあがったと読めるのである。しかもモモソヒメがシャーマンの役割をはたしていることも描かれている。途中の説明は省くが、それならモモソヒメが崇神を扶けて伊勢と三輪の均衡をはかったのではないか、それが卑弥呼だったのではないか、そこにオオタタネコも関与して箸墓も造成したのではないか、そういう仮説なのである。

≪077≫  ついでにいえば、台与は崇神の皇女とされるトヨスキイリヒメ(豊鋤入姫)ではないかというまことしやかな説もある。ぼくは興味津々だが、本書の著者にはあずかり知らぬことだろう。

≪078≫  ともかくも以上を巨視的に見ると、3世紀の東アジアは大筋では中国人の力が分散しきっていた時期で、そのぶん逆に中国社会の小モデルが各地に波及していったことが大きな特色だということになる。

≪079≫  著者は、これは古代ローマ帝国の末期とそっくりで、ゲルマニアやブリタニアが東アジア各地に分立してきたようなものだと見ればいいという。そうなると、焦点はただひとつ、半島最南部と分立倭国との関係である。

≪080≫  朝鮮半島最南部はまだ馬韓・辰韓・弁韓の三韓が並立している。馬韓はシノワズリー度が低い区域で、大きい集落の首長は臣智、小さい集落は邑借と自称するリーダーがおさえていた。ただし、ぼくはこのことには関心をもっているのだが、馬韓の諸国には別邑があってこれを「蘇塗」(そと)とよび、そこでは大木を立て鈴や太鼓を掛けて鬼神を祀っていたことである。どうもここにはその後の日本の祭事や民俗にもたらした影響がうかがえる。

≪081≫  辰韓・弁韓はそれぞれが12国に分かれていた。『魏志』東夷伝では「大国四、五千家、小国は七百、凡て五万戸」と書いている。また馬韓には城郭がないのだが、辰韓・弁韓には城柵や城郭があったともしるした。言葉も馬韓と辰韓・弁韓は異なっていて、著者によるとむしろ辰韓・弁韓の言葉は古い中国語に近かったのではないかという。

≪082≫  これについては、秦の始皇帝のところで説明した城郭ネットワークのことを思い出し、そこに中国の地誌や朝鮮の地理を重ねあわせて考えるとわかりやすい。ちょっと時計の針を戻したい。

≪083≫  もともと郡県制ネットワークは内陸の水路沿いに広がっていて、その起点あるいは中核交差点は、陜西省の渭河の渓谷の咸陽や、のちの前漢・唐の長安(西安)にあった。農業生産力に富み、人口が集中しても受けいれられる余地があったからである。

≪084≫  しかし実際の中国文明の歴代センターは河南省の洛陽にある。その意味は中国大陸の地誌を見ればわかる。

≪085≫  洛陽から東には黄河流域の広大なデルタ地帯が広がっている。けれども黄河はつねに大洪水をおこす暴れものでもあって、洛陽の東には容易に人は住みつけない。塩分が多いし、土砂の沈殿が動く。仮に堤防をつくっても決壊すれば、北は北京から南は徐州にかけて一面の泥水が浸透する。そんな低地に居住はむりなので、古代の集落は太行山脈の麓からはじまった。

≪086≫  その黄河流域のところで、中国は南北で断絶する。それでも、その流域のなかでいちばん南北に渡りやすかったのが洛陽近辺だった。ここをなんとか渡れば、南に向かうと漢江をくだって湖北省の武漢に出られ、長江(揚子江)の水利を使える。そうすれば武漢から湖南省の浙江に向かうことができるし、さらに漓江から西江を利用して広東省の広州にまで行ける。ここから先は南シナ海である。船を駆ってインドシナ半島の海岸線を南下してマレー半島へ、さらにはマラッカ海峡をまわってインド洋に航海できる。これがいわゆる中国古来のことわざ「南船北馬」にいう「南船」ルートになる。

≪087≫  洛陽をコンパスの中心にして、中国が北と南に分かれるということ、これが重要なのだ。 それゆえ、洛陽から黄河を渡って北に向かえば、太行山脈の山麓から黄河デルタを回遊して北京のほうに行く。北京が一応の終点で、そこからは西北に向かっていけばモンゴル高原になる。古代シルクロードの起点だった。これが「北馬」のルートである。

≪088≫  では他方、北京から東北に進むとどうなるかというと、山をひとつこえて大凌河があって、ここを東にくだると凌河デルタの西側に出る。ここを北に迂回して瀋陽(のちの満州国奉天)で凌河を東に渡って南へ行くと、遼陽から大同江の河畔の平壌(ピョンヤン)に入る。いまは金正日(キム・ジョンイル)の北朝鮮の牙城になっている。

≪089≫  その平壌には、山東半島から黄海を渡って大同江に入ることもできたし、船でも行けた。だからこそ中国政府は平壌から陸路と水路をつかって朝鮮半島に進出できたのである。実際にも歴代中国皇帝がとった戦略は、平壌に前線基地をおいて朝鮮半島や日本列島の市場を狙うということだった。

≪090≫  平壌から半島内部に進出するには水路がいい。大同江を下って載寧江という支流に入り南に向かい、ここが難所だが、瑞興で滅悪山脈を越える。そうすると礼成江から江華島に出られる。ここで西に進路をとると黄海になってしまうので、東へ曲がって漢江に出る。そうすると漢江の北岸がソウル(京城)、南岸あたりがのちに百済の最初の王都となった広州である。

≪091≫  さらに漢江を南にさかのぼり、忠州から小白山脈を鳥嶺峠で越えて洛東江をつかって南に向かっていくと、のちに「任那」あるいは「六伽耶」「駕洛」などとよばれた国がある。河口が金海という町である。いまの釜山にあたる。金海は『魏志』東夷伝では狗邪韓国ないしは弁辰狗邪国・金官駕洛国ともよばれた。金海からは晴れていれば対馬が望めた。

≪092≫  いささか地誌に繁雑になったけれど、辰韓・弁韓とは、この古代郡県ネットワーク体制の東南の終点の名残りなのである。それゆえここには意外にも初期の古代中国語が残っていたのだ。それだけではなく、この遺風をのこす弁辰狗邪国や金官駕洛国と倭人は重なるように活動することになったのだ。

≪093≫  ふたたび話を大筋に戻し、スピードをあげてこのあとの話をまとめていくと、魏の司馬懿にお役目をもらった卑弥呼は247年ころに死んだ。長命だったリーダーの死は動揺をもたらす。

≪094≫  そこで男王を擁立してみるのだが、「国中が服さず、誅殺しあって一千余人が殺されてしまった」。やむなく卑弥呼の宗女の台与が13歳で女王に立ったところ、なんとか平穏になった。よく知られているだろう『魏志』倭人伝の記述だ。

≪095≫  この時期は『三国志』でいえば、ちょうど魏が蜀を滅ぼしている時期にあたる。また、著者は書いていないが、纏向(まきむく)型の前方後円墳があらわれる時期になる。ついで台与が死んで、かつての慣習に倣ってやっと男王(名称不明)が立つのだが、これは魏が名前を変えて西晋がおこった時期になる。分立倭国はこのときも西晋の武帝に献上品をもっていっている。

≪096≫  このあと西晋が呉も滅ぼして、久々に中国の統一がはかられた。それが280年のこと、分立倭国ではこの時期に巨大前方後円墳の定型が確立したことがわかっている。たとえば箸墓がそれである。またこの時期に、三角縁神獣鏡の製作が本格的になっていた。

≪097≫  いよいよ日本誕生かと思わせるのだが、なぜこの時期にそのような機運が定着しつつあったかというと、真相はやはりのこと、中国にまたまた大波乱がおこっていて、とうてい東アジア社会の安定には手が続かなくなったからである。倭国の自立力のせいではなかった。

≪098≫  それが西晋に八王の乱がおこり、さらに匈奴が動いて撹乱が広まって、中国全土がいわゆる五胡十六国の時代に突入するというアンステーブルな事態である。 朝鮮半島もこの機をのがさない。高句麗が長期にわたって中国経営拠点であった楽浪郡を併合し、帯方郡をなくしてしまい、同時期、新羅と百済が次々に建国をはたしていった。辰韓のなかから新羅が、馬韓のなかから百済がその姿をあらわしたのだ。

≪099≫  こうして約400年にわたった中国郡県ネットワーク体制による手を替え品を代えた朝鮮半島経営は終焉した。 これで分立倭国はいよいよ高句麗・新羅・百済との運命を共有することになるのだが、その一方で倭のなかでも有力豪族になりつつあった大王家は、のちの初期大和朝廷のコア・コンピタンスを支えることになる三輪山祭祀をとりこみつつあったということを付け加えておきたい。さきほど卑弥呼のところで話しておいたことである。日本列島は謎の4世紀に突入している。

≪083≫  もともと郡県制ネットワークは内陸の水路沿いに広がっていて、その起点あるいは中核交差点は、陜西省の渭河の渓谷の咸陽や、のちの前漢・唐の長安(西安)にあった。農業生産力に富み、人口が集中しても受けいれられる余地があったからである。

≪084≫  しかし実際の中国文明の歴代センターは河南省の洛陽にある。その意味は中国大陸の地誌を見ればわかる。

≪085≫  洛陽から東には黄河流域の広大なデルタ地帯が広がっている。けれども黄河はつねに大洪水をおこす暴れものでもあって、洛陽の東には容易に人は住みつけない。塩分が多いし、土砂の沈殿が動く。仮に堤防をつくっても決壊すれば、北は北京から南は徐州にかけて一面の泥水が浸透する。そんな低地に居住はむりなので、古代の集落は太行山脈の麓からはじまった。

≪086≫  その黄河流域のところで、中国は南北で断絶する。それでも、その流域のなかでいちばん南北に渡りやすかったのが洛陽近辺だった。ここをなんとか渡れば、南に向かうと漢江をくだって湖北省の武漢に出られ、長江(揚子江)の水利を使える。そうすれば武漢から湖南省の浙江に向かうことができるし、さらに漓江から西江を利用して広東省の広州にまで行ける。ここから先は南シナ海である。船を駆ってインドシナ半島の海岸線を南下してマレー半島へ、さらにはマラッカ海峡をまわってインド洋に航海できる。これがいわゆる中国古来のことわざ「南船北馬」にいう「南船」ルートになる。

≪087≫  洛陽をコンパスの中心にして、中国が北と南に分かれるということ、これが重要なのだ。 それゆえ、洛陽から黄河を渡って北に向かえば、太行山脈の山麓から黄河デルタを回遊して北京のほうに行く。北京が一応の終点で、そこからは西北に向かっていけばモンゴル高原になる。古代シルクロードの起点だった。これが「北馬」のルートである。

≪088≫  では他方、北京から東北に進むとどうなるかというと、山をひとつこえて大凌河があって、ここを東にくだると凌河デルタの西側に出る。ここを北に迂回して瀋陽(のちの満州国奉天)で凌河を東に渡って南へ行くと、遼陽から大同江の河畔の平壌(ピョンヤン)に入る。いまは金正日(キム・ジョンイル)の北朝鮮の牙城になっている。

≪089≫  その平壌には、山東半島から黄海を渡って大同江に入ることもできたし、船でも行けた。だからこそ中国政府は平壌から陸路と水路をつかって朝鮮半島に進出できたのである。実際にも歴代中国皇帝がとった戦略は、平壌に前線基地をおいて朝鮮半島や日本列島の市場を狙うということだった。

≪090≫  平壌から半島内部に進出するには水路がいい。大同江を下って載寧江という支流に入り南に向かい、ここが難所だが、瑞興で滅悪山脈を越える。そうすると礼成江から江華島に出られる。ここで西に進路をとると黄海になってしまうので、東へ曲がって漢江に出る。そうすると漢江の北岸がソウル(京城)、南岸あたりがのちに百済の最初の王都となった広州である。

≪091≫  さらに漢江を南にさかのぼり、忠州から小白山脈を鳥嶺峠で越えて洛東江をつかって南に向かっていくと、のちに「任那」あるいは「六伽耶」「駕洛」などとよばれた国がある。河口が金海という町である。いまの釜山にあたる。金海は『魏志』東夷伝では狗邪韓国ないしは弁辰狗邪国・金官駕洛国ともよばれた。金海からは晴れていれば対馬が望めた。

≪092≫  いささか地誌に繁雑になったけれど、辰韓・弁韓とは、この古代郡県ネットワーク体制の東南の終点の名残りなのである。それゆえここには意外にも初期の古代中国語が残っていたのだ。それだけではなく、この遺風をのこす弁辰狗邪国や金官駕洛国と倭人は重なるように活動することになったのだ。

≪093≫  ふたたび話を大筋に戻し、スピードをあげてこのあとの話をまとめていくと、魏の司馬懿にお役目をもらった卑弥呼は247年ころに死んだ。長命だったリーダーの死は動揺をもたらす。

≪094≫  そこで男王を擁立してみるのだが、「国中が服さず、誅殺しあって一千余人が殺されてしまった」。やむなく卑弥呼の宗女の台与が13歳で女王に立ったところ、なんとか平穏になった。よく知られているだろう『魏志』倭人伝の記述だ。

≪095≫  この時期は『三国志』でいえば、ちょうど魏が蜀を滅ぼしている時期にあたる。また、著者は書いていないが、纏向(まきむく)型の前方後円墳があらわれる時期になる。ついで台与が死んで、かつての慣習に倣ってやっと男王(名称不明)が立つのだが、これは魏が名前を変えて西晋がおこった時期になる。分立倭国はこのときも西晋の武帝に献上品をもっていっている。

≪096≫  このあと西晋が呉も滅ぼして、久々に中国の統一がはかられた。それが280年のこと、分立倭国ではこの時期に巨大前方後円墳の定型が確立したことがわかっている。たとえば箸墓がそれである。またこの時期に、三角縁神獣鏡の製作が本格的になっていた。

≪097≫  いよいよ日本誕生かと思わせるのだが、なぜこの時期にそのような機運が定着しつつあったかというと、真相はやはりのこと、中国にまたまた大波乱がおこっていて、とうてい東アジア社会の安定には手が続かなくなったからである。倭国の自立力のせいではなかった。

≪098≫  それが西晋に八王の乱がおこり、さらに匈奴が動いて撹乱が広まって、中国全土がいわゆる五胡十六国の時代に突入するというアンステーブルな事態である。 朝鮮半島もこの機をのがさない。高句麗が長期にわたって中国経営拠点であった楽浪郡を併合し、帯方郡をなくしてしまい、同時期、新羅と百済が次々に建国をはたしていった。辰韓のなかから新羅が、馬韓のなかから百済がその姿をあらわしたのだ。

≪099≫  こうして約400年にわたった中国郡県ネットワーク体制による手を替え品を代えた朝鮮半島経営は終焉した。 これで分立倭国はいよいよ高句麗・新羅・百済との運命を共有することになるのだが、その一方で倭のなかでも有力豪族になりつつあった大王家は、のちの初期大和朝廷のコア・コンピタンスを支えることになる三輪山祭祀をとりこみつつあったということを付け加えておきたい。さきほど卑弥呼のところで話しておいたことである。日本列島は謎の4世紀に突入している。

≪099≫  こうして約400年にわたった中国郡県ネットワーク体制による手を替え品を代えた朝鮮半島経営は終焉した。 これで分立倭国はいよいよ高句麗・新羅・百済との運命を共有することになるのだが、その一方で倭のなかでも有力豪族になりつつあった大王家は、のちの初期大和朝廷のコア・コンピタンスを支えることになる三輪山祭祀をとりこみつつあったということを付け加えておきたい。さきほど卑弥呼のところで話しておいたことである。日本列島は謎の4世紀に突入している。

≪0100≫  新羅と百済が分立倭国にどのようにかかわったかの経緯は複雑である。高句麗がからんで四つ巴になっていく。 新羅は辰韓12国のひとつの斯盧(しら)国が発展したもので、拠点は現在の慶州にあった。王家は金姓を名のる。おそらくは金官国の王家の名称をとりこんだのだろうとおもわれる。五胡十六国のひとつの前秦に朝貢していた。百済は馬韓のひとつの伯済(はくさい)国が発展したもの、やはり五胡十六国を切り抜けた東晋に対して朝貢して、冊封関係をもっていた。

≪01≫ ラスキンの1862〜3年の著作に『ムネラ・プルウェリス』がある。新たな経済学思想を提示したものとして注目される43歳のころの著作だが、そこにラスキンが32歳のころに体験した話がのべられている。

≪02≫  そのころラスキンはヴェニス様式の建築についての観察を続けていたのだが、聖ロッコ講堂で世にも悲惨なものを見た。ティントレットの天井画のうち3枚がぼろほろに割れて木舞(こまい)や漆喰といっしょくたになって、オーストリア軍の砲弾3発が命中してできた裂孔のまわりにぶらさがっていたのである。雨が降るとそこいらじゅうに雨水がたまり、絵にも浸みこみつつあった。

≪03≫  ラスキンにとってティントレットは「ヨーロッパにおける最も貴重な価値」だった。本書『近代画家論』にもティントレットの『幼児虐殺』が暗澹たる主題を描いているにもかかわらず、眩しいほどの崇高な精神が貫かれていることを、縷々説明している。そのティントレットがいまにも死にそうになっていた。

≪04≫  ラスキンは意気消沈して、芸術の価値と時間について思いをめぐらし、ヴェニスに来る前にパリで見た光景を思い出す。リヴォリ街の諸商店に流行の歓楽歌舞を描いた石版画がところせましと並んでいて、それらがよく売れていたことだ。ラスキンは思う。もし労働価値説によるのなら、もしまた市場価値説によるのなら、パリの石版画の総数はヴェニスの一枚の絵をはるかに上回る価値をもっていると言えるだろう。しかも石版画は今後も複製可能な商品だ。そうした安価な複製画によって名画が普及することもありうることだろう。しかし、自分はいまこそヴェニスの色あせた天井の一枚の絵のために、いっさいの経済の知識と社会の価値をめぐる思想に全力を傾注しなければならないのではあるまいか‥‥。

≪05≫  そういうくだりだ。ラスキンの芸術に賭ける気概を示してあまりある一節だった。

≪06≫  いまはもうないのだが、東銀座を歌舞伎座をこえてしばらくすると左側に昔ながらのモルタル2階建のレトロな建物があって、そこに小さく「東京ラスキン協会」の看板が掛かっていた。御木本隆三がおこした協会で、ぼくはここでラスキンの金文字の原書にずらりと出会った。ときどき研究会が開かれ「ラスキン思考」という通信も出ていたのだが、いつのまにか消えた。

≪07≫  その東京ラスキン協会の、名前を失念したある初老の紳士がぼくの最初のラスキン案内人だったのである。その紳士は、こう言った。

≪08≫  ワーズワースもプルーストも、トルストイもガンジーも、みんなラスキンに学んで「透徹した精神をもつ」ということを学んだんです。「社会をよくする」という思想を教わったのです。いま、いったい誰が社会のために価値を作り出しているのでしょう? 経済と倫理を同じ作用のものとして見るには、ラスキンの思想がどうしても必要ですよ。それも日本にこそ必要です‥‥。

≪09≫  昭和45年くらいのことだったろうか。まだ東銀座から築地にかけて、往時の東京が残っていたころだ。しかしラスキンは復活しなかった。

≪010≫  もっともラスキンを忘れたのは日本だけのことではないらしい。ケネス・クラークが『ラスキン・トゥディ』(1964)で書いていたのだが、イギリスにとってのラスキンは、1843年の『近代画家論』から約20年後の『胡麻と百合』まではリアルタイムな時代の寵児として、その後の50年間はテニスンの歌集とともに洗練されたイギリス紳士が座右に備える著作を書いた知識人として、いっときも忘れられることはなかったという。それがその後、急に忘却されていったというのだ。

≪011≫  クラークは、そういうふうになったのは、皮肉にも編集も装丁も完璧だったライブラリー版ラスキン全集が整ってからではないかと書いていた。ぼくが東京ラスキン協会で見た全集だ。むろん、これは皮肉な言いっぷりであって、実際にラスキンが流行しなくなった理由ではないだろう。第一、ラスキンの思想を流行させようというのがおかしいし、ラスキンは大受けをせがむような、そんな男ではなかったはずである。それにラスキンには、その思想が忘れられてよいようなものは、何もない。

≪012≫  では、いったい何がラスキンを凋落させたのか。ラスキンの倫理が古くなったのか。そうではない。ラスキンの趣味が使いものにならなくなったのか。ラスキンの教育論が時代に合わなくなったのか。そうではない。イギリス人も日本人も資本主義市場の過熱に屈しただけなのである。われわれのまわりに三人のプルーストも一人のガンジーもいなくなっただけなのだ。

≪013≫  ジョン・ラスキンがロンドンに生まれたのは文政2年(1819)である。早くから聖書と詩にめざめていたが、少年ラスキンをとりこにしたのは鉱物だった。天保2年の12歳のころ、鉱物に熱中して一人で鉱物事典を自作している。この趣味はその後もずっと持続されて、地質学会の会員としての活動となり、あのラスキン独得のストイックな岩石絵画になっていく。

≪014≫  聖書と詩と鉱物とともに、青年ラスキンを夢中にしたものがあった。ひとつはヴェニス、ひとつはウィリアム・ターナーだ。天保6年(1835)、ラスキンは肋膜炎にかかって家族とヴェニスに静養旅行に行き、この石造りの街が秘める歴史と造作と価値とに出会う。以来、ラスキンはヴェニスを称賛しつづけた。のちに『ヴェニスの石』(1851〜53)という傑作を書く。そのケルムスコット版には年下の友人だったウィリアム・モリスが熱い序文を寄せた。「私の心にとって最も重要なひとつである云々」というふうに。

≪015≫  ターナーの絵はもともと好きだったようだが、次の出来事がラスキンのターナー熱にいっそうの火をつけた。ヴェニスに行った翌年、ラスキンはオックスフォード大学に入る準備のためクライスト・チャーチに入寮するのだが、そこで「ブラックウッズ・マガジン」がターナーの絵を攻撃していることに驚いたのである。ラスキンはこういう無理解者が絶対に許せない。すぐさま反論を書く。それが17歳のときである。それからというもの、ラスキンはターナーにひそむ意志と技法と美意識を、すべての芸術領域にまで拡張していった。

≪016≫  ラスキンが『近代画家論』第1巻を書くのは、ターナー批判に対する反論を書いてから7年後のこと、天保14年のわずか24歳のときである。それから41歳の万延元年(1860)まで、この著作は第5巻まで書き続けられた。

≪017≫  天保8年にヴィクトリア女王が即位した。日本では大塩平八郎が決起した年にあたる。その直後の天保10年(1840)、イギリスは世界史上で最初の資本主義戦争をアジアに仕掛けた。アヘン戦争である。

≪018≫  ラスキンはこういうイギリスに名状しがたいほどの腹を立てていた。ヴィクトリア朝の社会文化がつまらなかったわけではない。むしろ「ヴィクトリアン・インベンション」の名が残るように、ありとあらゆる開発・発明・工夫が試みられ、賑やかなほどに商品が街に出始めた時期なのである。ナンセンス・マシーンのたぐいもひっきりなしだったことが、さまざまな図版に残って見えてくる。しかし、ラスキンから見ればその大半は市場の欲望のために作られたものであり、産業高揚のためのものばかりだった。それでは何も時代を超えるものは出てこない。ヴィクトリア朝特有のアッパーミドルの出現も気にいらない。そんな社会や産業はつまらない。ラスキンはそう感じたのである。

≪019≫  なぜラスキンは同時代を嫌ったのか。このことにピンとくるには、マルクスとラスキンが1歳ちがいだったことに気がつくといい。二人はまったく同時期に、同じ産業社会の矛盾を見ていたのだ。大英図書館で新しい経済思想づくりにとりくんだマルクスが、産業社会の爛熟を予測してその大否定に臨んだように、ラスキンもまた産業社会の未来を憂慮するに、徹底した覚悟で臨んだのだ。

≪020≫  けれどもそのことが、まずは美術論と結びつき、次に教育論と結びつき、そのあとから経済論に向かっていったというふうになったところが、ラスキンがとったコースの独得なところだった。

≪021≫  結局、問題は「価値」とは何かということだったのである。そこはマルクスも同じだったように、ラスキンもまた「価値」の源泉の発見に努めたかったのだ。それがマルクスでは「労働」と「資本」であったのが、ラスキンにおいては断乎として「芸術」や「創作」だったのである。

≪022≫  ただし、勝手がちがうところもある。マルクスが「現在の社会」に労働と労働力と労働者の価値の源泉を見いだせたのに対して、ラスキンの「現在の芸術」には価値が少なすぎた。見当たりにくかった。なかでターナーこそは「現在の社会」に数少ない価値を創り出していたにもかかわらず、世評はこれに気づいていない。気づいていないどころか、酷評するばかりだった。このあとラスキンはダンテ・ガブリエル・ロセッティらのラファエロ前派との交流を深めるのだが、そのロセッティもミレーもバーンジョーンズも、まったく評価はされていなかった。

≪023≫  こうしてラスキンが価値の源泉を発見するには、ルネサンスやゴシックにまで戻らなければならなかったのである。ぼくはそう、推理する。

≪031≫  というようなことを書いてきて、さて、ぼく自身はラスキンを今日に伝える方途をもっているのだろうかという気がしてきた。鉱物のラスキンや岩石画のラスキンなら自信があるし、ターナー論のラスキンやゴシック論のラスキンなら、いくらでも喧伝できる。

≪032≫  しかし、トルストイやプルーストやガンジーが学んだラスキンを、いったいどのように今日の社会にふりまけばいいのだろうか。ラスキンが正しすぎるほど正しかったということを、どういうふうに石造建築やティントレットを使わないで説明できるだろうか。そんな気にもなってきた。

≪033≫  今夜、そろそろラスキンを書かなくてはと思って手を染めてみたのだが、どうやらぼくもケネス・クラーク以上の用意をもてなかったのだろうか。それともラスキンが同時代に背を向けてしまったように、ラスキンを現在の社会に向けるということが、非ラスキン的なことだと、お節介なことだと、そういうことだったのだろうか。

≪034≫  『塵の倫理』にはこうあったものだ、みなさん、塵には地球と生命と社会のすべての結末が飛沫となってひそんでいるのです、その塵からこそ、新たな倫理を取り出さないで、何が政治なのですか、何が経済なのですか、何が教育なんですか――。

≪01≫  日本で最初に文明のことを持ち出したのは福澤諭吉(412夜)である。『文明論之概略』のなかで、文明は「シヴィリゼーション 」(civilization)の訳だと断ったうえ、「文明とは人の身の安楽にして心を高尚にするを云ふなり。衣食を饒(ゆたか)にして人品を貴くするを云ふなり」と書いた。 

≪02≫  衣食足って礼節を守ることが文明だというのではない。福澤は続いて「この、人の安楽と品位を得せしめるものは人の智徳なるが故に、文明とは結局、人の智徳の進歩と云ふて可なり」と付け加えた。 

≪03≫  もうひとつ付け加えたことがある。「智徳の進歩」というと個人の成長のことを意味してしまうように解釈するかもしれないが、そうではない、「其国を制する気風」が智徳であって、それを文明と言うのだと説明してみせた。 

≪04≫  一方、シヴィリゼーション を「文明」と訳さずに「開化」と訳したのは西周だった。あのキラキラとした知的編集構成力で鳴る『百学連環』の中で、そう訳した。この異様な快著については、山本貴光君が『百学連環を読む』(三省堂)で徹底して紹介しているので参考にしてほしい。野心的な試みだった。それはともかく、明治初期、福澤と西という近代日本を代表する二人の知識人によって、「文明」と「開化」がシヴィリゼーションの日本語として登場していたのである。明治維新は「文明開化」を謳ったが、それは当時の知識人からすると「一国の気風」の革新をめざすものだったわけである。 

≪05≫  トインビー (705夜)やハンチントン(1083夜)が、世界の文明を26に分けて、そのひとつに「日本文明」をあげていたことは、よく知られている。 

≪06≫  伊東俊太郎はそれらをまとめて17の文明に整理した。メソポタミア文明、エジプト文明、エーゲ文明、インド文明、中国文明、ギリシア・ローマ文明、ペルシア文明、アフリカ文明、中米文明、アンデス文明、ビザンツ文明、アラビア文明、スラブ文明、日本文明、ヨーロッパ文明、アメリカ文明、である。 

≪07≫  今日の文化人類学や比較文明学において、このことはとっくに承認されていることなのだが、おそらく今日の日本人には日本が独特の「日本文化」をもっているとは思っていても、日本が「日本文明」を歴史の中で屹立させ、それをいまも演じているとは思えていないにちがいない。だが、これはよろしくない。 

≪08≫  文明と文化の違いは必ずしもわかりやすくはない。語彙的にはラテン語のcolereという動詞から派生したcultureが「文化」の語源になっているのだが、colereは「何かを育てる」とか「何かの世話をする」という意味だ。 

≪09≫  ということは、カルチャーは土地に向かえば栽培や耕作となり、子供に向かえば養育となり、心に向かえば教養になるものなのである。日本語の感覚ではおそらく「世話をする」が一番近いと、ぼくは見ている。 

≪010≫  ただ文化人類学上は、エドワード・タイラーの『原始文化』(1871)が、文化の規定の近代的な拠点とされ、それをフランツ・ボアズが大きくまとめて「生活に関するすべての所産」 というふうにしたとなっているので、今日の文化の定義は妙に一般的になりすぎた。むしろ「生死を世話する」のが文化の本質だと見ておいたほうがいいだろう。 

≪011≫  こんな具合だから、日本人が日本文明と日本文化の相違をあまり意識できなくともしょうがないところもあるのだが、しかし、日本文明が千年以上にわたって継続されてきたという自覚が稀薄であるとしたら、これはあきらかにピンボケか片手落ちだろう。世界の文明史や他者の文明力を認識していなかったからか、日本のシヴィリゼーションは中国文明の派生物とみなしてきたからか、そのどちらかが原因だったろう。 

≪012≫  これはとんでもない誤解だ。縄文や鎌倉仏教や徳川社会をあげるまでもなく、日本は「中国離れ」によって日本文明をシヴィリゼーションしてきたのである。わかりやすくは漢詩と和歌のちがい、中国的官僚制と藤原氏のちがい、中国料理と日本料理のちがいなどを見ればいい。 

≪013≫  いや、日本文明はどういうものかを説明したくて、こういう話をしているのではない。そのことはいずれ然るべき1冊を千夜千冊するとして、ここで紹介したいと思っているのは、ほかでもない、梅棹忠夫のことなのである。 

≪014≫  梅棹に日本文明論にふさわしい著作があるというのではない。そうではなくて、梅棹の先導的な指摘や活動や人脈形成には、今日の日本が感光すべき「文明の気風」があったということ、21世紀の日本が東京オリンピックまでになんとか日本文明と日本文化の掛け算を結実させたいというなら、早々に「梅棹的なるもの」を「この国の気風」のための起爆装置のひとつにしたほうがいいということ、このことを言いたいのだ。新たな福澤諭吉や西周はここから出てくるだろうからだ。 

≪015≫  しかし、実は「梅棹的なるもの」はとても変なものなのだ。ぼくは必ずしも梅棹の活動や業績や人柄に詳しい者ではないけれど、梅棹がかなり変であること、それゆえにこそ多くの文明文化についての臨界点を抉れたであろうことは、自信をもって指摘できるのだ。 

≪016≫  今夜はそのことについて、3つほどの理由を書いてみたい。明示的な理由ではない。すこぶる暗示的なことについて、書いておきたい。本来なら梅棹の上の世代のオーガナイザーであった桑原武夫(272夜)や湯川秀樹(828夜)の周辺や、当時の京大や関西文化の注目すべき異能ぶりについても触れるべきなのだが、そこは省かせてもらう。 

≪017≫  一つ。千夜千冊に『文明の生態史観』(中公文庫)をとりあげたいと思ったのはずっと前からのことだった。この本は名著だ。妙な魅力のある直観的な名著なのである。読んだことがない者は、何がなんでも一読したほうがいい。 

≪018≫  大胆な東西文明についての基軸変更を悠揚迫らぬ勢いでじょじょに追い込み、そこに誰もが言い忘れてきた「日本を文明論的に見る」という視点を既存の文明論(歴史学や文化人類学)のエクリチュールをいっさい使わないで自在に織り込んだのである。  

≪019≫  文体もよかった。最初に読んだときより時間がたってから読むと、この本がいかに大胆かつ慎重に提言しようとしている様子かがよくわかる。文体とはこの「様子」をどうするかなのである。それがこの本ではたいへんうまくはたらいた。 

≪020≫  梅棹自身はのちに「幼稚な文体やった」と言っているが、そうではない。ぼくが観相するに、あれはネオテニーな感想文体なのだ。幼形成熟なのだ。 

≪021≫  この文章は37歳前後に書かれた。カラコルム、ヒンズークシ、モゴール族などを探検し、アフガニスタンやインドを体で感じた直後のものものである。 

≪022≫  朝鮮半島や樺太には20歳のときに、ミクロネシアのボナペ島には21歳で、モンゴルにはは25歳のころに行っている。こうした梅棹の探検歴は今西錦司(636夜)ゆずりのもので、若いときから今西流にとことん鍛えられたので、アタックの「方面」の選定も豊富だ。生態学的山登りなのである。 

≪023≫  そうした異文明体験を通してヨーロッパでも東洋でもない文明を見た梅棹は、ユーラシアを折り紙のように畳んだり伸ばしたり折ったり摘まんだりして、ヨーロッパと日本が並行進化してきた第一地域であって、東南アジア・インド・中東などは東洋でも西洋でもない中洋という第二地域だと見て、その違いを生態観察のような目でわかりやすく書いた。 

≪024≫  第一地域と第二地域という区分けによる折り紙モデル自体は、たいしたものではない。ヨーロッパと日本が並行進化してきたという指摘はとてもおもしろいが、モデル論としてはたいへん粗雑だ。生態観察も今西流には届いていない。きっと今西は不肖の弟子と思ったことだろう。 

≪025≫  しかし『文明の生態史観』は、そういう学術的な考査の目盛りを振り切ってあまりある文体内容になったのだ。ゴマンとある文化人類学者たちの異文化体験記にはならなかった。梅棹しか語れない「文明の童子」のような目で感想が埋め尽された。 

≪026≫  梅棹がネオテニー的な文体をつくれたのは、謎である。なぜならこれは一時的なもので、ハシカや猩紅熱のようなものだったからだ。その後の梅棹はネオテニーな感想文体の持ち主でありつづけなかったのだ。「文明の童子」は、その後は「文明の獅子」になってしまったからだ。 

≪027≫  たとえば、43歳のときの『情報産業論』やその後の多くの文章はすべて先取り文化論になっていて、文体もごくふつうになっている。なぜか『文明の生態史観』だけが突然変異のように、子供だけが罹る熱射病のように愉快で独得なのである。 

≪028≫  そうだとすると、梅棹は一回きりのネオテニーで成熟した感想生物だったということになる。これはとても希有な例だった。しかもその後の梅棹は文化行政のリーダーとして国立民族学博物館の館長としてだけでなく、実に打点の高い仕事をなしとげた。これらの仕事は一時的先祖返りを戦略としたネオテニーどころか、それとは逆の未来工学に近い。 

≪029≫  だとすると『文明の生態史観』はいったい何だったのか。日本は昭和35年で梅棹忠夫を形象できたのは、どうしてだったのか。おそらくは桑原・湯川・今西・西堀らが用意した関西弁文化圏のちからによるものだったろう。だとすると、今後はそういう問題を議論したほうがいいということになる。 

≪030≫  二つ。梅棹は「情報」や「編集」の重要性を果敢に指摘した先駆者だった。とんでもなく早い時期に、これからの社会は必ずや情報産業や情報文明に向かうと指摘した。「放送朝日」に『情報産業論』を書いたのが昭和38年、1963年なのである。 

≪031≫  昭和38年というのは東京オリンピックの前の年で、東京タワーも新幹線もまだ工事中だった。それどころかやっと黒四ダムが完成したばかりで、日本は池田勇人の所得倍増計画や日本列島の重工業化や石油工業化の波にようやく乗ってきた時期だ。いわゆる高度成長の始まりなのである。こんな時期に梅棹は情報産業や編集技術に目をつけた。 

≪032≫  ところが、この指摘の内容はかなり片寄っていた。プロポーザルとしては堂々としているのだが、そうとうへんてこだった。梅棹はやっぱり変なのである。お寒い内容ではない。勝手気儘な論旨なのだ。 

≪033≫  そもそも情報産業の突端を放送人やジャーナリストの動向においたのが片寄っていた。業界誌ともいうべき「放送朝日」に書いたからそうなったというより、メディアの先端的変容が情報産業のパイオニアになることを確信したからだったろう。そこまではいいとして、その確信の理由がへんてこだった。 

≪034≫  梅棹はメディアに携わることは「虚業じみていること」だとした。しかもそのようなメディアを通して「情報を売る」だなんてことは、さまざまな製品やコモディティを生産したり販売してきた真性の商品社会からすると、擬似商品を売っているようなものであると言い切った。それゆえ、もしこの行為(虚業意識と擬似商品性)に自信がもてなかったら、たちまち潰えるようなものだとも指摘する。 

≪035≫  それなら情報産業なんてインチキだということになるのだが、ここからが異様なのだ。このような虚業力ゆえに擬似商品力ゆえに、これらは次世代においては農業力や工業力に代わる情報力を先頭に押し出していく産業として、いっさいの実業社会に対抗しうるものになるはずだと説いたのだ。 

≪036≫  これだけの論旨で情報産業の可能性を称揚するというのは、居直りか暴論か、巧みな逆説か、あるいはとんでもないカリスマ的な予測感覚であったとしか思えない。けれども梅棹はそこを押し切った。 

≪037≫  いささか風変わりな産業モデルも提案されていた。産業史を3段階に分けたもので、歴史は農業の時代、工業の時代、情報産業の時代というふうに発展するとした。 

≪038≫  この区分けはおとなしい。常識的である。そこで梅棹は、農業の時代を消化器官系を中心とする内胚葉の時代に、工業の時代を筋肉や動力を中心とした中胚葉の時代に、情報産業の時代を脳神経系や感覚器官を中心とした外胚葉の時代とみなしたのである。変わった肉付けだ。 

≪039≫  梅棹は得々とこう書いている。「こうして系列化してみるとき、人類の産業史はいわば有機体としての人間の諸機能の段階的拡充の歴史であり、生命の自己実現の過程であるということがわかる。この、いわば人類の産業進化史の流れのうえにたつとき、わたくしたちは現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜明け現象として評価することができるのである」。 

≪040≫  発生学あるいは発生生態学を借りたのだが、このあてはめは当たっているだろうか。受精卵としての人類史を胚葉の活性過程にするのは、ちょっとはそういう側面もあるという程度だ。生命を持ち出すのなら、光合成のこと、オスメスの分離、水棲から陸棲への転換、地球環境との相互作用、ホメオスタシスの獲得、外部者ミトコンドリアの援用、そのほか外骨格と内骨格の選択から自然選択原理の機能まで、なんでも持ち出せそうなものなのに、梅棹はごくごく手近の胚葉発生のあてはめに徹して自足してしまったのである。 

≪041≫  梅棹の情報産業論はその後も書き足しが続いて、1988年には『情報の文明学』(中公叢書)になった。それを読んでみても、その内容が居直りや暴論の延長にあることは変わらなかった。そもそもコンピュータや機械的推論の可能性については、なんら言及していないのだ。 

≪042≫  梅棹の情報産業論はその後も書き足しが続いて、1988年には『情報の文明学』(中公叢書)になった。それを読んでみても、その内容が居直りや暴論の延長にあることは変わらなかった。そもそもコンピュータや機械的推論の可能性については、なんら言及していないのだ。 

≪043≫  それなのに梅棹はだいたい30年先の情報社会の動向を次から次へとぴたりと当ててみせたのだ。それも予言ふうなのではない。私に従いなさいというのでもない。にもかかわらず梅棹の観察は次々に組み合わさって30年先をみごとに照らしてしまったのである。 

≪044≫  それにしてもいささか気味悪いのは、梅棹が他人の思想をほとんど引用していないということである。 

≪045≫  ひょっとするとちゃんと参照読書をしていないのではないのか、学術論文のルールをまったく無視しているのではないかと思えるほど、梅棹という人物は最初の『文明の生態史観』から『情報の文明学』にいたるまで、学術界や思想界のそれなりの成果の引用をまったくしない知識人なのだ。 

≪046≫  これは何だろうか。まことに奇っ怪なことである。知識人ではなく、昭和の知的生物だとでも言うしかない。あるいは稀にみる政治的知的生物だったのか。 

≪047≫  ここではいちいち書かないが、梅棹ほど学術界や産業界の人脈が広くて太い人はいなかった。梅棹が国立民族学博物館の館長になってから、その仕事は誰もが手掛けられなかった「文化行政」というものになっていくのだが、その仕事の大半は学者や政治家や経営者たちと頻繁に出会って話をすることだったのである。 

≪048≫  こんなわけなので、梅棹が学界のことや思想界のことに疎いはずはない。29歳で大阪市立大学の理工学部で教え、49歳で京都大学の教授もしている人なのだ。梅棹を慕った若い層の者たちは、親分とは違ってちゃんと学術界を参照して論文を書いているのに、それなのに、親分の梅棹はひたすら梅棹流の「あいだのつなぎ」に徹したのである。 

≪049≫  梅棹が早々に「編集」(エディティング)を重要視していたことも驚くべき予告力だ。それも雑誌やメディアや映画やテレビの個々の編集者のことではなく、情報技術全般にかかわるエディターシップのことを重視した。  

≪050≫  1989年の『情報論ノート:編集・展示・デザイン‥‥』(中公叢書)では、「これからの技術者にはエンジニアというルビではなく、エディターというルビがつくべきである」と喝破した。こういうところはそうとうに鋭い。 

≪051≫  おそらくダントツの編集感覚が横溢していたのだと思う。すでにおわかりのように、梅棹は自分で知識を構築していくタイプではない。そのかわり知ったかぶりもしない。だから未知の知識や技術に対しては好奇心のままに入っていく(謙虚なのではなく勇躍して入っていく)。入っていくときに相手に質問をする(巻きこんでいく)。その質問と巻きこみがすこぶる編集的なのだ。ペネトレイトなのだ。質疑応答をしているあいだに、それなりの組み立てをしてしまうのだ。 

≪052≫  これは本来のリバースエンジニアリングではないが、その場の力(場ヂカラ)によるリアルタイム・リバースエンジニアリングだったろう。 

≪053≫  ちなみに梅棹には有名な『知的生産の技術』(岩波新書)がある。これも1969年の刊行で、「知的生産の技術」という用語自体がなかったころに、まるで「学問ノススメ」のようにこの知的技法に関心を集中させたものだった。大いに話題になった。ベストセラーにもなった。しかし、内容はほとんどカード利用法の案内で、どちらかというと知的管理の技術にばかり寄与するものだった。しかしそれでも、ここには早くもインタースコアが推奨されていたのである。  

≪054≫  梅棹のインタースコアは「個体発生と系統発生を重ねてみる」というところにあった。こうしてみると知の異種格闘技を誰よりも早く推進してみせたのも、梅棹だったのである。 

≪055≫  三つ。日経の「わたしの履歴書」が梅棹の番になっているのは知っていたが、ぼくは読んでいなかった。「わたしの履歴書」は雑誌連載やテレビのシリーズものと同じで、うまく嵌まる鍵と鍵穴のような帳合が目に入ってきて読む気になるのだが、漫然と紙面を繰っているときは入っていけない。   

≪056≫  そういうわけで梅棹連載は1996年だったが、読んではいなかった。のちに『行為と妄想』(日本経済新聞社)として発売されて、かなりたってから手にした。たちまち冒頭に釘付けになった。なんだ、そうなのかと思った。 

≪057≫  梅棹のルーツは湖北の菅浦だったのである。梅棹家の初代当主の儀助は文政4年に近江国伊香郡の菅浦村の重任として生まれた。天保年間に京都に出て大工になったようだ。西陣の家々の普請をしてそこそこ評判がよかったらしい。梅棹はその儀助から数えて第4代の当主にあたっている。 

≪058≫  知る人ぞ知る、菅浦は琵琶湖の最北端の漁村である。100戸くらいの集落で(現在は81世帯217人)、全戸が1艘以上の船をもっていた。漁業で生計をたてていたのだが、これはまごうかたなき水軍でもあった。琵琶湖の南半分は堅田水軍の勢力が占め、北琵琶湖を菅浦水軍が管轄していたのである。   

≪059≫  そんななか菅浦は近江国を領有していた京極氏や浅井氏の支配を嫌い、自検断を行使して独自の惣村共同体をつくっていた。その活動は11世紀にさかのぼる。村民たちは自分らが淳仁天皇に仕えた一族だという誇りさえもっていた。 

≪060≫  これらのことは村に鎮座する菅之浦大明神を称える葛籠(つづら)の中から発見された有名な「菅浦文書」で、ほぼ証明されている。網野善彦(87夜)グループの詳細な研究もある。ぼくは白洲正子(893夜)の『かくれ里』で、この秘境ともいうべき村の面影を知った。そんなこともあって、あるときぼくも下河辺淳、田中優子(721夜)、金子郁容(1125夜)らを誘って、ゆっくり菅浦を訪れた。長浜から竹生島へ、そこから船で行くしかない村なのである。 

≪061≫  梅棹はこの菅浦をルーツとしていたのだった。なるほど、なるほど、何かが急に腑に落ちた。梅棹という奇妙な苗字も水軍に関係する「棹」だったのであろう。  

≪062≫  実はぼくのルーツも長浜である。梅棹家もそうだったようだが、長浜などの湖北の者たちはそれなりの仕事をするためにはたいてい京都に出る。ぼくの祖父の太平もそうして呉服業についた。父の太十郎はもっと痛快な仕事をしたくて悉皆屋に転じ、丹那文化のかぎりを遊んで、そして倒産していった。 

≪063≫  梅棹の父親は菊次郎といって、大工を継がずに千本通りに履物屋と小間物屋の店を出したようだ。「ウメサオ ハキモノ」「ウメサオ コマモノ」というカタカナの看板が上がっていて、梅棹は子供ながらにハイカラを感じていたらしい。子供のころにオカザキ・ツネタローの『コンチュー七〇〇シュ』に夢中になったことと相俟って、のちにローマ字運動を唱導する梅棹が子供のころすでにカタカナ文化に染まっていたのは、なかなか象徴的なことだった。 

≪064≫  梅棹は一中、三高に進む。それは「山に進んだ」とも「今西錦司に浸かった」ともいえる。  

≪065≫  一中では博物同好会に入るのだが、すぐに山岳部に行っている。このとき梅棹の心を決する出来事がおこった。1934年から翌年にかけて京都帝国大学白頭山遠征隊が結成されたのだ。隊長は今西錦司、副隊長は西堀栄三郎で、一中の山岳部の先輩が4人も隊員になっていた。 

≪066≫  白頭山の登頂は成功し、4人の先輩たちが母校に講演にきた。このとき記録映画が上映され、白頭山の凄まじい迫力に挑む男たちの姿が映し出されたのである。梅棹は感動しきった。「これだ」と決めた。このあと三高に行くのだが、やはり山岳部と異郷探検の日々である。京大では今西錦司を囲む会の中心メンバーになった。これはいわゆる今西グループの誕生だった。

≪067≫  梅棹の好奇心が山とともに育まれて、今西とともに筋金入りになったことがよくわかる。 

≪068≫  しかし素直にそうなっていったのかというと、『行為と妄想』を読むかぎり、そうではない。今西がストイックきわまりなかったのに対して、梅棹はいつもむらむらとしていた。つまりは「妄想」をよくした男だったのである。自分でも「妄想人」だったと書いている。その妄想は、しかし想像力のホリゾントとなってそこから「行為」が決断されていったのだ。  

≪069≫  梅棹の妄想はどういうものだったのか。きっとすこぶる自立的で、それでいて横断的で、一途にニューモデル提起型だったのだと思う。 

≪070≫  しかしさまざまな自著や談話記録や活動歴を見ていくと、この「妄想」と「行為」のあいだに「思索と検証」がなかったように思われる。なぜそんな手抜きのような仕事ぶりで、あれほどの活動ができたのか。「思索と検証」のプロセスを夥しい人材が埋めていたからだ。『行為と妄想』には政治家、経営者、学術者、企画者、技術者、表現者の名が綺羅星のごとくに(いささか自慢げに)列挙されている。 

≪071≫  ざっと梅棹忠夫のことを書いておきたくなった理由をあげてみた。結論を言っておきたい、こういう男が21世紀の日本文明の牽引のために1ダースほど必要なのである。 

≪072≫  梅棹はどう見てもフライングが好きだった。つまりはノーマッドだった。どう見てもすべてをプロジェクトにしたがった。それにつけては公私混同を恐れないし、門下の者には自由な裁量を与える器量があった。 

≪073≫  とくにぼくが自戒しつつ梅棹を褒めたいと思うのは、国の仕事を平然とやってのけるところ、その仕事をたいてい自家薬籠に出入りさせるようにしてきたということだ。この数年、ぼくにも国の仕事のリーダーシップを頼まれるということが多くなってきたのだが、しかし、そういう仕事は当初はかなり漠然としていて、担当者もおぼつかないことが多い。またバジェットを含めて支え棒がはっきりしていないことが多い。 

≪074≫  そこで、そういう事情に不満をぶつけると、ぼくに対する期待がすうっとどこかへ引っ込んでいく。仕事はこの不分明な初動をどのように誘導していくかにあるのだろうが、そこに入り込むのが厄介なのである。 

≪075≫  梅棹はこんなところに逡巡しない。出会った接点と人物とを、ほぼすべてつなげて、仕事をつくっていく。これで厄介が消えていく。梅棹は初動においてすでにしてリアルタイム・リバースエンジニアリングをおこしつづけたのである。 

≪076≫  最後にもうひとつ加えておく。梅棹の梅棹らしいところは、自身がネオテニーな感想文体しか持ち合わせていなくとも、それで自分の見解が存分に表明できていると思えたことである。 

≪077≫  昭和30年代、日本はこのような男を丹下健三・小松左京・岡本太郎・鶴見俊輔・河合隼雄・山崎正和・高階秀爾・梅原猛らとともに前線の頼みの綱にできたのである。みんな妄想を駆動力にしていったへんてこきわまりないノーマッドな猛者だった。 

北方四島、尖閣、竹島が問題になっている。

いずれも海域の問題だ。海の縫い目の問題だ。

そこで今夜は「海と港」に因んだ話をしたい。

いったい日本にとって海港とは何なのか。

それは世界の港湾とどこが違うのか。

なぜ、黒船の来航が日本を変え、

なぜまた五港開港が日本開国となったのか。

日本はシーレーンに弱すぎる歴史をもってきた。

では「海に強い歴史」とはどういうものだったのか。

今夜はそんなことを、青春期の雑談まじえて

ゆらゆら、くらくら、スケッチしてみた。 

≪01≫ 北方四島、尖閣、竹島が問題になっている。いずれも海域の問題だ。海の縫い目の問題だ。そこで今夜は「海と港」に因んだ話をしたい。いったい日本にとって海港とは何なのか。それは世界の港湾とどこが違うのか。なぜ、黒船の来航が日本を変え、なぜまた五港開港が日本開国となったのか。日本はシーレーンに弱すぎる歴史をもってきた。では「海に強い歴史」とはどういうものだったのか。今夜はそんなことを、青春期の雑談まじえて ゆらゆら、くらくら、スケッチしてみた。

≪02≫ 01 質問ゆらゆら。

≪03≫  港の話をする前に、ちょっとだけ鳥の目で俯瞰した日本の話をしておく。次の質問に答えてほしい。かんたんな問いだ。「日本の国境は東西どこまでか」「どの都道府県がその国境に接しているのか」。

≪04≫  北東は北海道、南西は沖縄県、なのではない。その答えはまちがっている。最南端は沖ノ鳥島で、最東端は南鳥島だ。どちらも東京都に属する。手元の地図を見るか、山田吉彦の『日本の国境』(新潮新書)などを読まれるといい。

≪05≫  1カ月前のこと、小笠原で海底火山が噴火して、ちっぽけな新島が誕生した。これも東京都だ。マシュー・ペリーの黒船4隻は、浦賀に来る前にこの小笠原に立ち寄っていた。菅官房長官はその“新島発生”のときの会見で「少し日本がふえましたね」とニヤッと笑った。おっちょこちょい都知事だった石原慎太郎が尖閣諸島を地主から買収しようとしたのは、こうした東京の海域にも関係がある。

≪06≫  野田首相は石原都知事と周囲の雑音に気圧されて、言わずもがなの尖閣諸島国有化を発表した。それからというもの、日本の西南シーレーンが物騒にもヤバくもなってきた。けれども林子平の『海国兵談』時代ではないのだから、やってきた船を片っ端からネズミ叩きするなんてこと、今の日本にはできはしない。

≪07≫ 02 ゆめゆめ海里。

≪08≫  日本は海に囲まれている。だから、すべての国境は海里(カイリ)の単位であらわされる。

≪09≫  国境は12海里のところにある。国有の島々の海岸から12海里までをそれぞれつなぎあわせた閉曲線の内側が「日本」なのだ。国連海洋法条約で決められている。1海里は1852メートルだから、12海里は約22キロ。これが領海含みの日本になる。

≪010≫  海岸から200海里までは「排他的経済水域」という。排他的とはいかめしいが、そこはどの国の船も自由に航行できるけれど、魚貝類や天然資源を採るとなると、当事国の許可がいる。

≪011≫  多島列島で、海岸線がやたらに長い日本は、この領海と排他的経済水域をあわせて、国土面積の12倍にあたる約447万キロ平方の広がりをもつ。これは世界第6位の面積になる。

≪012≫  海の面積はやたらに広いのだが、陸地のように目印がないため、そのぶん海域は確定しづらく、たえず紛争のタネになる。そのためのべつ海上保安庁の船を巡らせ、自衛隊の哨戒機を飛ばして監視していなければならない。日本には長年にわたって、紛争の対象となりやすい区域がいろいろあるからだ。

≪013≫  日ロ交渉がえんえん長引いている北方四島、最近とみに領有をめぐって議論が囂(かまびす)しい尖閣諸島、韓国大統領がよじのぼってみせた竹島などは、そのひとつにすぎない。間宮林蔵の探検はいま遠く、対馬や隠岐や佐渡の海域も、沖縄諸島のすべての海域が、漁場競争とともにすこぶるナイーブなのである。

≪014≫ 03 ほらほら公海。

≪015≫  領海にも排他的経済水域にも含まれない海は「公海」である。いつごろ公海という見方が成立したかというと、16世紀にまでさかのぼる。

≪016≫  大航海時代のなか、ポルトガルやスペインは船団を組んで地球上の未知の海域を制覇していった。当然、互いにぶつかる領域も少なくない。そこで両国は1493年にトルデシリャス条約を結んで、大西洋とインド洋に関する両国の領有権を主張した。

≪017≫  しかしイギリスとオランダがこれに反発して、この条約の破棄を求めた。交渉はまったく進捗せず、結局はエリザベス女王を擁するイギリスが、1588年にイギリス・オランダ連合軍としてスペインの無敵艦隊アルマダを破り、トルデシリャス条約を事実上空洞化させた。

≪018≫  さっそくオランダとイギリスはそれぞれ東インド会社をおこして(このあたりのことはあとで説明する)、海外交易の主権を握ろうとした。もうひとつ、プロテスタントに対抗したイエズス会の動向が複雑に絡んでここに加わるのだが、そしてこのことは近世日本にとってはとても重要な動向となるのだが、こちらの話は今夜は措いておく。

≪019≫  ともかくもこういう時代背景のもと、機を見るに敏なフーゴー・グロティウスが『自由海論』(1609)を著して、母国オランダを擁護しつつも海洋自由論を展開した。世界には公海というものがあるじゃないかという主張だ。むろん反論もあった。代表的にはセルデンの『閉鎖海論』(1635)などだが、どちらの主張も当時の慣習法や国際法にはなりえなかった。

≪020≫  18世紀になるとヨーロッパ諸国の国家的中央集権性が増してきて、近海の支配管理が急務になってきた。そこで19世紀にかけては沿岸国の秩序維持に必要な「狭い公海」と、先進列強が自由に競争しあう「広い公海」とを、そのまま二重に認める趨勢になっていった。ダブルスタンダードの容認だ。

≪021≫  けれども列強たちは、当然ながら勝手にわがもの顔に取り合う「広い公海」で、互いに自由に争いあおうじゃないかというほうに傾いていく。

≪022≫ 04 越境海賊国家そらそら。

≪023≫  こうして列強中心に妥当な公海法が検討され、20世紀に入るとさまざまな議論が噴出し、なかなか共通ルールが決めがたくなった。3海里にする、6海里がいい、いや12海里だろうという論争、キャノン砲の着弾距離によって規定するべきだという戦時想定論争など、いっこうに収まらない。

≪024≫  第二次大戦後はアメリカ大統領トルーマンが、それまでの公海にあたる海域を「保存水域」としてアメリカがこれを保存するという、いかにもアメリカっぽい身勝手を発表した。トルーマン宣言という。

≪025≫  これらがやっと平均的に集約されて、ついには国連の海洋法が各国間で締結されていった。公海の細目規定もできた。現在はこの状態にある。それならこれで、「公海自由の原則」が確立したのだと思われたのだが、しかし、そんなことはなかった。

≪026≫  こんなものは海賊にとってはどうにもなることだったのだ。事実、いまは海賊国家ソマリアの海域周辺をはじめ、多くの海域で「公海の自由」が妨げられている。いや、海賊行為はソマリアだけではない。かつてのヴァイキングや倭寇から大航海時代の植民地まで、20世紀のナチス・ドイツからブッシュのアメリカまで、ビンラディンのタリバンから最近の習近平中国まで、実はどんな国家も“裏の海賊国家”たらんとしているのだ。

≪027≫  いや、いや、アントニオ・ネグリ(1029夜)のマルチチュードだって自由海賊主義なのだ。

≪028≫  このあたりのこと、吉田一郎の『国マニア』(ちくま文庫)、松本仁一の『カラシニコフ』(朝日文庫)、NHK「アフリカ」プロジェクト編著の『アフリカ21世紀』(NHK出版)、そして高野秀行の一連の本、『ミャンマーの柳生一族』『アヘン王国潜入記』(集英社文庫)、『世界のシワに夢を見ろ!』(小学館文庫)、傑作『謎の独立国家ソマリランド』(本の雑誌社)などを、読まれるといい。

≪029≫  もっとはっきりいえば、国連公海法だけでは、いまや何も「侵犯」をとめられなくなっているとも言わなくてはならない。そもそも「空」がある。また「ウェブ」がある。イラン上空にもインターネットにも、見えないステルスとウィルスが侵攻しっぱなしなのである。海賊行為は国家と個人の根幹に巣くう本質的な問題なのだ。

≪030≫ 05 知られていない「日本のもと」。 ところで、ほとんど知られていないだろうと思うのだけれど、ぼくは『日本のもと 海』(講談社)という本を監修したことがある。

≪031≫  これは子供向けの全10巻のシリーズで、本屋で買うというより学校図書館が購入するらしい。田原総一朗が『日本のもと 政治』、宮崎哲弥が『日本のもと 憲法』、中沢新一が『日本のもと 神さま』、金田一秀穂が『日本のもと 日本語』、齋藤孝が『日本のもと 学校』、山根一眞が『日本のもと 技術』などを監修した。総ルビ付きだ。

≪032≫  『日本のもと 海』は、漁業の話から遣唐使の話まで、国境の話から黒船による開港の話まで、海洋資源の話から汚れた海の話まで、いろいろ深い話もとりあげている。ぼくは企画から仕上げまで3度ほど話をしたけれど、またもちろんゲラにも目を通したけれど、執筆と編集には三橋俊明君が当たった。

≪033≫  それにしても松岡正剛が「神さま」や「日本語」ではなく「海」を担当するとは、きっと意外に思われるだろう。松岡正剛といえば“京都の呉服屋の伜”ということで通っている。ところが、そうでもないのだ。編集執筆した三橋君とは、35年ほど前からの知り合いで、ぼくの「海好き」あるいは「海寄り」を知っていて、この企画を持ち込んだのである。

≪034≫  ぼくは高校時代が始まる直前に横浜に越していた。だから青春期には港の香りをそれなりに浴びていたという経験があった。三橋君はそのこと、先刻承知だったのだ。それで「日本の海」を仕向けたのだ。 以下、その話を雑談ふうにしておくことにする。

≪035≫ 06 ぼくのヨコハマよこよこ。 父が何を血迷ったのか、突如として京都中京の町屋を捨てて、元町に呉服屋を出店するのだと言いだした。出店はみごとに失敗。当時の元町には京呉服などを買う日本人客もガイジンさんもいなかった。

≪036≫  そんな事情で、わが家は横浜山手町の谷戸坂(やとざか)に越したのである。すでに朱雀高校に入ってドキドキしていたのに、突然、横浜から東京の知り合いの住所に寄留して、都立九段高校の編入試験を受けて千代田区に通うことになった。

≪037≫  これで青春の生活のほうは、白いペンキで仕上げた安普請のへなちょこ洋館に住むことになった。京都の有職故実が出入りするクラシックな日々とは、およそ異なる簡易モダンへの突入だ。家主はゲラシモフという老ロシア人、ひとつ隣りにギリシア人とフィリピン人の混血一家が住んでいた。そこに姉妹がいて、姉のエンジェリカ・レリオはぼくの高校時代の唯一の外人ガールフレンドになるはずだったが、何もモーションをかけなかったので相手にされなかった。

≪038≫  家の前はフランス山。その下はファンキーな演奏をいつもやっているバンドホテルだった。ペンキ家から2分のところに「港の見える丘」があって、そのころは草ぼうぼうのその空き地からは、きっとウィリアム・ターナー(1221夜)が描きたくなるような横浜港がまるごと一望できた。

≪039≫  ぼくはその丘でいつも竹刀(しない)をもって素振りをし(九段高校では剣道は正課になっていた)、帰りは外人墓地をまわって、ときにはジャム臭いアメリカンスクール(セントジョセフ)の子供たちとカタコト英語で遊び、ときにはフェリス女学院の女生徒たちに見とれていた。 これって、京都とはまるで異なる日々だった。

≪040≫ 07 もう少しだけ港ヨコハマ話。 谷戸坂から下りると元町を左に見て、谷戸橋(やとばし)から市バスでよれよれ駅舎の桜木町へ。そこから汚れたワイン色の京浜東北線に乗って秋葉原で乗り換え、飯田橋で降りてフルーツパーラー田原屋と富士見町教会を右に見ながら九段高校に通うのが、ぼくの高校の日々だった。

≪041≫  休日にはたいてい山手から下りて町に出掛けた。主には伊勢佐木町入口(馬車道)の有隣堂で本を眺めていたが、2カ月にいっぺんは山下公園から大桟橋に行って、黒ずんだ汽船や艀や貨物船やクレーンが立ち並ぶドックを眺めた。

≪042≫  とくに海に憧れたのではないものの、南極探索船「宗谷」が繋留されたりして、見知らぬ動力体が気ぜわしく動いているのが、おもしろかった。ときどき3~5万トン級の豪華客船や偏平きわまりない漆黒の潜水艦が入港すると、見に行った。ヘボ俳句「薫風や宗谷は少し我に寄り」を詠んだりもした。

≪043≫  本牧(ほんもく)にもしばしば足をのばした。元町から撤退した父がナイトクラブ「クリフサイド」の夜の蝶たちに着物を売っていたこともあって、ときにはその手伝いで外人文化とホステス文化が混合している現場を、何度も垣間見た。そんな甘酸っぱいヨコハマ体験の一端については『メルメ・カション』(894夜)にも少し触れておいたので、読まれたい。

≪044≫  かつては京都から想像する横浜といえば、赤い靴をはいていた女の子が異人さんに連れられて船に乗って行った港のことだった。けれども実際に来てみると、それほど寂しくもなく、ロマンチックなものでもない。その逆にぼくの目には、ニコヨン、カンカン虫、船上生活者たちの生態が赤裸々に躍っていた。港につながる川にはボートハウスがびっしり並んでいて、そこから学校に通う子供たちが元気な笑い声を上げていた。

≪045≫  中華街には華僑があふれ、日之出町では麻薬らしきものが行き交っていた。野毛の町には見世物も並んでいた。ヨコハマは、無知な松岡正剛が社会を知るにはもってこいだったのだ。

≪046≫ 08 わらわらわらわの編集感覚。 いったいぼくの中における京都と横浜がどのように交じっているのか、あまり考えたことはないのだが、のちに極端に入り組んだなハイブリッド・エディティングが好きになったのは、この青春期の「京都から横浜へ」という劇的な対比に急激に襲われたことが大きく関与していたのだろう。ぼくのヨコハマは「17歳のための世界と日本」だったのだ。

≪047≫  二つの光景はやっぱり異様な対比をもっていた。古都とハイカラ、王朝文化と港湾文化、着物と工業製品などという程度じゃない。高瀬川と大桟橋、部落差別と船上生活者、柊屋とバンドホテル、錦小路とユニオンスーパーマーケット、東山連峰とクリフサイド、霧笛と除夜の鐘、先斗町と中華街、祇園祭と横浜カーニバル、高倉押小路と桜木町。そういう対比だ。

≪048≫  けれども「横浜に居て京都を想う」という青春はけっこう悪くなかったし、港がもたらす“かもめノスタルジー”が育まれたことも悪くなかった。ぼくには潜在的に「港」がひそんでいたのだろう。

≪049≫  そう思ってふりかえってみれば、ミシシッピのハックルベリイ・フィン(611夜)からサンフランシスコの霧の中を襟を立ててうろつくフィリップ・マーロウ(26夜)まで、「佐渡おけさ」「波浮の港」から美空ひばりの「哀愁波止場」まで、若山牧水(589夜)がこの国の山河と海をわたっていく短歌からロレンス・ダレル(745夜)が地中海の4つの物語を紡いでみせた『アレキサンドリア・カルテット』まで、少年時代からぼくの好みの一端はけっこう「港まがい」を愉しんできたようなのでもあった。

≪050≫ 09 真夏むらむら日本海しんしん。 もうちょっと告白しよう。 実は早稲田の2年の夏、ぼくはほぼ1カ月をかけて山陰から北九州、佐世保・雲仙・有明海・熊本をへて指宿・鹿児島・日南に入り、豊後水道を渡って四国を新居浜から松山をへて徳島まで、ずうっと貧乏旅行をしたことがあった。

≪051≫  ほとんど港町で安宿に泊まり(ときに野宿して)、タダ同然の海の幸と白飯にありついていた。気がのれば簡易シュノーケルと足ヒレをつけて、近くの海にもぐった。素もぐりだ。バミューダ・ショーツ姿で、耳にはイヤリング、足にはペディキュアで。

≪052≫  この旅は半分は見知らぬ町で本を読むためだった。行く先々で本屋に寄って数冊ずつ読んでは家に送り返していた。もう半分は日本列島の海と港を見ておきたかった。掟は3つだけ。海を感じる、その町の銭湯に入る、その町の本屋に出入りする。

≪053≫  翌年は今度は日本海を北に行きたくて、信州諏訪からとろとろと福井に入り、そこから越前→越中→越後→出羽というふうに向かった。

≪054≫  福井には古い親戚がいた。そこを起点に金沢をへて親不知に向かい、そこから懸案の良寛(1000夜)の出雲崎へ。国上・弥彦をたずね、柏崎・寺泊に続いて佐渡を堪能した。世阿弥(118夜)や北一輝(942夜)の佐渡にはずっと前から憧れていたので、ドンデン山の国民宿舎から何度も日本海をぐるりと一望していた。ちょうど北島三郎の『函館の女』がやたらに流れていた時期だ。

≪055≫ 10 背伸びして見る海峡を。 その当時、日本の港町はどこへ行っても歌謡曲ぽくって、船と酒場と映画館とパチンコで活気もあったけれども、なんともいえない哀愁も漂っていた。

≪056≫  1960年代の半ばから後半にかけての日本は、昭和35年代の後半で、まだ高度成長が津々浦々に向かって滲み出しきっていない時期なのである。テレビは昼の「アフタヌーンショー」や夜の「11PM」が始まったばかり、大学生たちが少年マガジンの「巨人の星」や「あしたのジョー」のジャパン・ニヒルな連載劇画に胸躍らせ、深夜放送の「オールナイトニッポン」に耳がかじりついていた頃だ。

≪057≫  トヨタがカローラを発売し、ボーイング747が就航したのが、やっと1966年なのである。資生堂の前田美波里のポスターが盗まれたのもこの年だった。アメリカではローリングストーンズの「サティスファクション」とジミ・ヘンドリックスのギターが唸り、早くもベルベット・アンダーグラウンドのサウンドがグルーブしていたけれど、ぼくはそんなことを体に入れる準備ができていなかった。

≪058≫  いったいこういう時期の日本の海と港を見て、ぼくが何をしたかったのかもわかってはいなかった。ただただこんな演歌に気が引かれていた。

≪059≫  「背伸びして見る海峡を今日も汽笛が遠ざかる あなたにあげた夜を返して 港 港 函館 通り雨」「流す涙で割る酒はだました男の味がする あなたの影を引きずりながら 港 宮古 釜石 気仙沼」。

≪060≫  1969年4月リリースの森進一『港町ブルース』だ。一般公募の歌詞になかにし礼が補作して、猪俣公章が曲を付けた。やたらに口ずさんだ。20年前くらいまではカラオケでもよく唄った。最近ではボーカロイド初音ミクの『港町ブルース』が変に一本調子を唄っていて、ちょっと笑ってしまったが。

≪061≫  いま、全国の港町に「流す涙で割る酒はだました男の味がする」というような、倉本聡の映画の一場面のように懐かしむ風情は、ずいぶんなくなっているように思う。新幹線が走って瀬戸大橋ができ、クルマ社会になって高速がのび、ファミレスとコンビニがいっぱいふえて、ロードサイドで洋服も日曜大工用品も買えるようになったから、なのではない。ウェブやケータイが波及しているからでもない。

≪062≫  ひとつには、3・11の大津波で痛ましい傷痕にさらされたことが日本の海浜部を“対策の浜辺”に変えた。ひとつには、マグロをはじめとした漁獲がグローバリズムの締付けにあっている。ひとつには、海の浪漫をうたう演歌そのものがめっきり衰弱した。ひとつには、日本の港湾のロジスティックスが著しく落ちている。いまや「港町ブルース」は大変なのである。

≪063≫ 11 そろそろ港とは何かということ。 というわけで、最初から本題とはずれる話ばかりになったけれど、今夜はめずらしくも港の話をしようと思うのだ。

≪064≫  そういう気になった背景については、いささかきっかけがあった。先日(2013.11.24)のこと、新潟市内の白山神社と地続きの「りゅーとぴあ」能楽堂で、「世界は港で変わってきた」という話をし、続いて旧知の新潟市長の篠田昭さんとの対談で、新潟港の今後のありかたなどを交わしたのだが、この前後であらためて世界の「港都の変遷」というものを遠望できたからだった。

≪065≫  日本の港は、いまかなりキツイ状態にある。造船力と運搬力は落ち、物流拠点の力も失ってきた。アジアにおける「ハブ」の力は、ほとんど中国・韓国・東南アジアに奪われている。上海・香港・釜山・高雄(カオシュン)・基隆(キールン)・シンガポールが、アジアのハブ(主要港湾)なのだ。

≪066≫  このことは数字にズバリあらわれている。1990年の世界の港湾のコンテナ取扱い量は、①ニューヨーク、②ロッテルダム、③香港、④神戸、⑤高雄、⑥シンガポール、⑦サンファン(プエルトリコ)、⑧ロングビーチ、⑨ハンブルグ、⑩オークランド、⑪シアトル、⑫アントワープ、⑬横浜、⑭ブレーメン、⑮基隆、⑯釜山、⑰ロサンゼルス、⑱東京、という順だった。それからわずか20年後の2012年で、①上海、②シンガポール、③香港、④深セン、⑤釜山、⑥寧波、⑦広州、⑧青島、⑨ドバイ、⑩天津、となり、様相が一変した。

≪067≫  東京は30位以下に、横浜・神戸は50位近くになった。まさに「失われた10年、20年」なのだ。

≪068≫  そこへもってきて、尖閣・竹島などの領海ならびに排他的経済水域問題である。ロシアの南下もまたぞろ目立ってきた。これは「海」の問題であるとともに、「港」の問題でもあるのだけれど、そんなふうには決して思われてはいない。

≪069≫  そんななか、日本海最大の運輸量を誇る新潟港がこのままではもたなくなっているのは目に見えている。横浜のように「みなとみらい」を歌ってコンベンションシティに転換すればいいのか、阪神大震災から立ち直った神戸のようにポートアイランド構想を拡張していけばいいのか。それとも「ゆるキャラ」でごまかすのか。篠田市長も悩んでいた。

≪070≫  というあたりで、ひとまず青春話と現在実情から離れてみることにする。いったい「港」は日本の内と外で、どんなふうに歴史を動かしてきたのかという話にしてみたい。

≪071≫ 12 ミナトとヤマト。 日本語のミナトという言葉は、古代の「水門」あるいは「水の戸」に発している。西宮付近の「務古水門」(むこのみなと)、石巻の旧称である「伊寺水門」(いしのみなと)にその用例がのこる。

≪072≫  この「水門」に対してヤマトがあった。ヤマトは「山の門」だ。これらは二つでひとつなのだから、ヤマトを知るにはミナトを知るべきなのだ。

≪073≫  そもそもニニギノミコトの一行が高天原から日向の地に降りたのは、天鳥船という水運力によってのことで、そのニニギがコノハナサクヤヒメと結ばれて生んだ子は、兄が海幸彦で弟が山幸彦なのである。先行していたのは水門型の海幸だった。それが山幸も塩椎神(しおつちのかみ)の助力を得て力をもつようになってからは山門型が勢力を広げた。

≪074≫  同様に、イワレヒコの神武東征も、九州から瀬戸内海コースを東上して、紀の国のミナト「男の水門」や難波のミナトに「津」をおいて(難波津)、そのあとタカクラジ(高倉下)の協力をえて、時間をかけてヤマトに入った。日本の建国はミナトが先で、ヤマトが後なのである。タカクラジはその後は越後の野積のミナトに入って天香山命(アメノカグヤマノミコト)となり、弥彦神社の祭神となった。

≪075≫  その後、ミナトに類する言葉は機能と規模に応じて「津」「泊」「湊」「渡」「浦」「潟」などの併称となり、規模や用途によって呼び替えられてきた。万葉集には「御津」(みつ)という表現もある。では、今日では誰もがこの字をつかう「港」という漢字表記はいつごろなのかというと、こちらは江戸時代でもあまり使われず、幕末安政の5港の開港要求をきっかけに、やっと一挙に一般化した。

≪076≫  開港5港はどこか、まさか日本人なら知らないとは言わせない。函館・新潟・横浜・神戸・長崎、だ。「港町ブルース」はこの5港を含んだ歌詞がほしかった。

≪077≫ 13 黒船どんどん。 日本には昔からクニ境いやムラ替わりのゲートスペースを「関渡津泊」(かんとしんぱく)と言いならわしてきた。「渡」「津」「泊」はいずれも港まわり水まわりのリミナル・トポスのことで、難波も「浪速(なみはや)の渡」が発展したものだった。これに街道のゲートにあたる「関」が加わって「関渡津泊」という慣用語になったのだが、ということは「渡・津・泊」も実は関所だったということなのである。

≪078≫  こうした日本の歴史をほったらかしにして、東インド艦隊司令長官のペリーの開国開港通告を、日本は唯々諾々と受け入れた。孝明天皇は反対したが、老中阿部正弘は諸公にお伺いをたてたうえ、許諾した。

≪079≫  ペリーのアジアの海に対する戦略を実行に移すにあたっての事前調査は、そうとう万全だった。嘉永5年(1852)にアメリカ東海岸のノーフォーク港を出ると、ケープタウン、セイロン島、シンガポール、香港、上海をへて、まず悠然と琉球王国に寄って首里城に出向き、ここで通商開国を要求した。東洋人の反応、琉球人の反応はすべてチェック済みだったのだ。続いて小笠原諸島を周航して、ここからは「サスケハナ」「ミシシッピ」「サラトガ」「プリマス」の4隻で浦賀にやってきた。

≪080≫  幕府はあわてふためき、とりあえずは国書を受け取って翌年の再見を約束すると、安政1年(1864)、ペリーは今度は7隻の軍艦を引き連れていきなり江戸湾まで入り込んで錨を降ろしてみせた。それまでのあいだ、阿部正弘が何をしたかといえば、江川太郎左衛門に品川に海上砲台を何台か設けさせただけだった。いわゆる「お台場」だ。

≪081≫  かくて日米和親条約が結ばれて、下田と函館が開港され、片務的最恵国待遇を突き付けた。

≪082≫  続いて中国寧波の領事だったタウンゼント・ハリスがピアース大統領から駐日領事に任命されて下田に常駐し、日米通商修好条約を結ばせた。このとき5港の開港が決まり、関税権を奪われた。

≪083≫  以上のことは、はっきりいえば「港」というものが日本にはまったく理解できていなかったということだ。むろん海外の歴史にもとづいたカテゴリーを知らなくたってかまわないが、それなら日本流を押し通し、屈服する必要もなかったのである。けれども井伊直弼をはじめ、開明派たちはここで知ったかぶりをする。

≪084≫ 14 ポート/ハーバー/ドック。 ペリーとハリスが突き付けた開港とは、「世界は港によって同等につながっていく」という意味だ。同等などということなど、ありえないが、しかしそういう意味なのだ。港とはグローバル・ゲートということなのである。

≪085≫  港は、英語では周知のようにポート(port)やハーバー(harbour)などと言う。ただ歴史的にみると、その由来と性格は必ずしも一様ではない。由来を見ると、ラテン系の「ポート」、ゲルマン系の「ハーバー」、アングロサクソン系の「ドック」(dock)に分かれる。

≪086≫  そもそも西洋の港は、ホメロスが『イーリアス』『オデュッセイア』に語った出来事に示されているように、紀元前10世紀、エーゲ海の沿岸に「主権をもった港湾都市」が生まれていたあたりから、すでに本気のスタートを切っていた。そこでは船の所有とその労働力が共同的な経営で運用されていた。つまり港とは交易や通商のゲートであって、労働拠点であって、また最初の最初からマネジメントの対象だったのである。

≪087≫  これを受け継いだのが古代ギリシアのポリスで、海外の植民都市建設にはこの港湾部隊が先頭を切った。ポリスは陸地から発想されたものではなく、“海港共同体の陸地化”による産物なのだ。

≪088≫  ここから世界の港の歴史が、エーゲ海や地中海の東西南北に向かって海港都市群として散らばっていき、都市国家の時代、フェニキアの時代、さらには古代ローマ帝国の母市母港システムの時代をへて、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のコンスタンチノープルに代表される東西交易型の国際的港湾都市の脈動史へとつながっていった。

≪089≫  これらの変遷についてはあとで少々解説するけれど、この流れのどこかでポート、ハーバー、ドックが先進的海洋各国の歴史戦略的な意図にもとづいて分かれていったわけなのである。

≪090≫  そこで、ここではポート(port)について述べておくけれど、これがなかなかのものなのだ。以下のこと、知れば知るほどペリーの意図が深くも広くもあったろうことが見えてくる。

≪091≫ 15 ポートごんごん語源群。 ポートはラテン語の“portus”を当初の語源として、そうとう多くの重要語を派生した。ポルタスはもともとは「はこぶ」という意味なのだが、英語の語彙の例をあげるだけでも、そこからかなり重要な用語と意味がつくられてきた。

≪092≫  わかりやすくは export(輸出する)、import(輸入する)、transport(輸送する)、deport(追放する)、 passport(パスポート)がある。いずれも“port”が入っている。

≪093≫  それだけではない。report(報告する)、rapport(親密にする)、support(支える) もポートなのである。ペリーが幕府に渡した国書はナショナルメッセージ・レポートであって、アメリカが支援(サポート)を与えるということでもあって、和親(ラポート)することだった。それはまさしくポート開港にふさわしかったのだ。

≪094≫  ここまではまだ序の口だ。ポートからはさらに disport(遊ぶ)から sport(スポーツ)も派生した。サッカーも野球も、ピッチもダイヤモンドもゴールも、ポートをめぐる相互ゲームなのである。これら、どれもが港に擬したカテゴリーなのだ。むろんポーター(運搬人)もポータブル(携帯する)も港に由来する。

≪095≫  最も興味深いのは、ひとつには import(輸入する)が important(重要な)にまでなったことだろう。輸入あるいは輸入品こそが、その港、その民族、その都市、その国家にとってインポータントなのだ。また、そのことを成立させる港が重要なのだ。開港とは港を開くだけではなく、その時代の最も重要な問題を開くことだったのだ。

≪096≫  もうひとつには、opportune(時機が好都合)が opportunity(機会・好機)になったことだろう。オポチュニティはチャンスやオケージョンと似た言葉だが、opportunity とは“leading to the port”ということなのだ。いかに重大きわまりない事態と時機が「港」に由来していたことか。

≪097≫ 16 日本には港湾世界史がとぼとぼ乏しい。 さて、港についての話を書こうとすると、ぼくの不勉強のせいもあるだろうが、実はびったりした本が見つからない。

≪098≫  やむなく、古代中世なら『エリュトゥーラ航海記』やヴァイキングの歴史やフェルナン・ブローデル(1363夜)らの『地中界』シリーズを、そうでなければ鄭和(ていわ)の記録や漁労や船の歴史についての本しか読んでこなかった。一番多いのは大航海時代にまつわる歴史だ。

≪099≫  なかでも倭寇やバッカニーアなどの海賊の歴史はおもしろかったけれど、これらは港というより海上が舞台だ。あまり港のことはわからない。続く近世以降はダニエル・デフォー(1173夜)のような空想的航海記を追ってみたけれど、これらはあまりにファンタジックすぎる。

≪100≫  近代史でもなかなか詳細が見えてはこなかった。へこたれてジョセフ・コンラッド(1070夜)の『闇の奥』『ナーシサス号の黒人』やポオ(972夜)の『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』、さらには海洋開発ものや造船事業の歴史、ときには海軍の歴史やブライアン・キャスリンの『無頼船長トラップ』などを読んで、つまりはいつしかジョニー・デップの『パイレーツ・オブ・カリビアン』や『ワンピース』のドタバタ興奮をいろいろごちゃまぜにし、お茶を濁してきた。

≪0101≫  どうも港の話に集約できないのだ。最近は日本にも海洋国家論がやっと浮上して、川勝平太(225夜)の本や東南アジアの海洋ネットワーク論なども出るようになったけれど、いっときは港湾文化論など、ないにひとしかった。

≪0102≫  ということで、今夜とりあげた高見玄一郎の『港の世界史』は、けっこうめずらしい本だったのである。

≪103≫ 17 どこどこが分岐点だったのか。  話を戻して、いったい「ポート」「ハーバー」「ドック」がどのように分かれていったかというと、鍵はヴェネチアにある。ヴェネチアの勃興とそれに続いた大航海時代による各国勢力のめまぐるしい変遷に、ヨーロッパにおける「港の歴史」の基点と分点があった。ペリーの船もそこからやってきた。

≪104≫  そのヴェネチアの港湾的通商力は、もとを辿ればビザンチウムからの継承だ。ビザンチウムは先行していた古代ローマ帝国がどのように港湾をつくったかということを継承した。その前は古代ギリシアの都市国家やエーゲ海や地中海やエジプトの古代文明期の“海の民”の活動ということになる。

≪105≫  歴史順にいえば、古代地中海沿岸の諸動向→古代ギリシア→ヘレニズムの拡張→古代ローマ帝国→ヴェネチアの登場→大航海時代の変遷(ポルトガルとスペイン)→オランダの時代→7つの海を制したイギリス→新興アメリカ→ペリー来航というふうになる。この流れのどこかで「ポート」「ハーバー」「ドック」が分かれていったのだ。

≪106≫  このことは言うまでもないけれど、東洋にはあてはまらない。アジアはそういうものではなかった。

≪107≫  まずもって中国人と中国言語圏の範囲がでかすぎて、大陸内を河川で運行するほうが急務だったので、河川港のほうが海港よりもずっと早く発達したからだ。

≪108≫  春秋時代の紀元前700年ころに、すでに黄河を渡るための芽津(マオチン)、盟津(モンチン)、棘津(チイチン)があった。今日、仰韶(ヤンシャオ)文化の遺跡が集中するところだ。しかも時代が進むにつれて、そこに大運河の開削が加わって、河川港としての城市が豊かに発達した。春秋戦国時代にして19座の城市があった。周の洛邑(洛陽)、斉の臨溜、晋の曲沃、楚の江陵、衛の瀑陽、呉の呉邑(蘇州)、越の会稽(紹興)などなど。

≪109≫  つまり中国では「津」は中原(内陸)でできあがったのだ。それでも海に面していた呉・越・斉・燕などは、当然、航海技術や造船技術に長けていて、それぞれ「舟師」をもっていたのだが、その技術と交易力は海外に向けられるよりずっと長く、内陸交通に向けられた。

≪110≫  アジアにおける海上ルートと港湾の発達は、一部は漢の、大半は隋と唐の時代になってからなのだ。ということで、今夜の話はヨーロッパが中心になる。

≪111≫ 18 戻って古代ローマの港ロマン。 イタリア半島の海岸線は想像するほど複雑ではない。南のナポリやソレントやサンタルチアを除いて、天然の良港もあまりない。そこで古代ローマ時代には港湾建設が重要になった。

≪112≫  ローマ皇帝はまず母港をつくり、その付近に艀(はしけ)で行き来できる子港をつくった。外港だ。母市・子市の関係になる。子のひとつのプテオリは古代に築港された港で、早くから北アフリカ、シチリア、アレクサンドリアを往復していた。オスチアはカエサル(シーザー)とアウグストゥス帝が命じて築港された人工大港湾である(いまはフィミッチノ空港の下に埋もれたままになっている)。

≪113≫  こうした母港(母市)と外港(連市)の二重多重のオペレーションによって、古代ローマ帝国は機能した。街道がローマの都市中心から四方八達したように、海と港のほうもセンター思想がはたらいたのだ。

≪114≫  しかし、ここへ4世紀後半からゲルマン民族がドン河・ライン河・ドナウ河を越えて何度となく侵攻した。周知の通り、これは陸地からの侵入だ。そのためローマ帝国は衰退分裂して、内側から破れていった。残された外側の海洋性がどうなったかというと、東ローマ帝国のほうへ移っていった。ビザンチウムのほうへ展出していった。

≪115≫  ここに浮上してきたのが、いまはイスタンブールとなった東西貿易港コンスタンティノープルだ。

≪116≫ 19 東西をつなぐビザンチン。 ビザンチウムの交易力は世界史上初めてのことだったが、なんといっても黒海と地中海とを結ぶコンスタンティノープルの“世界の臍”としてのグローバルな立港条件が図抜けていて、みごとなまでに東と西の経済文化を結んだ。

≪117≫  おまけに9世紀になると中央アジアの争乱が続いたので、陸のシルクロードが分断されて、それに代わって本格的な海の時代がやってきた。ビザンチン皇帝たちはすかさず貨幣経済を著しく発達させた。商船は120トンから200トンくらいの一本マストで、ここに商人が乗り込んで地中海とシルクロードを水陸両用につないでいった。

≪118≫  それでもビザンチンの栄華は長くはなかった。11世紀後半にセルジューク朝のトルコ民族の攻撃を受けて弱体化し、いったんはコムネノス王朝によって復活するのだが、その後、第4回十字軍の獰猛な軍隊がコンスタンティノープルの海港城壁が低いという弱点をついて海から攻めて、暴行・虐殺・略奪のかぎりを尽くしたため、あっけなく陥落してしまった。攻め込んだほうの十字軍はコンスタンティノープルを中心にラテン帝国を建てた。

≪119≫  もっともそのラテン帝国も俄か仕立てで存立基盤が脆弱だったので、このあと述べるヴェネチアの海商たちがたくみにその力を梳(くしけず)り、これを牛耳っていくことになる。

≪120≫  そうしたコンスタンティノープル昔日の栄華は、橘外男の『コンスタンチノープル』(中公文庫)や、最近の本ならウンベルト・エーコ(241夜)の『バウドリーノ』上下(岩波書店)に詳しい。

≪121≫ 20 アダム・スミスのすみすみ観察。 以上の流れをまとめると、大ローマ帝国が崩壊した、ヨーロッパは数百年にわたって民族移動の波状事態にさらされた、いわゆる暗黒時代になった、それに代わって海をまたぐ交易権力が次代の覇者になっていった、ということになる。

≪122≫  そのくらい内陸ヨーロッパはへなちょこだったのだ。実際にも当時、繁栄していた大都市は平均人口20万人のコンスタンティノープルと(最盛期は30万から40万人)、やはり20万の人口を擁したイベリア半島のイスラミックなコルドバくらいのものだった(パリ8万人、ロンドン2万人)。ただし、この巨大2都市は“西洋”ではなかった。

≪123≫  それでもフランク王国が三分され、フランス・カペー王朝やオットー1世の神聖ローマ帝国が分立しはじめた10世紀になると、ぼちぼちヨーロッパ各地に自由都市が誕生し、それが内陸的には「琥珀の道」や「小麦の道」などでつながっていく。それでも、それらはまだ民族移動で侵入したゲルマン系の力が強く、たとえば北イタリアのロンバルディアは金融力を発揮して、のちの銀行業務にあたる才知に長けた程度であった。いまロンドン・シティの金融を支えるロンバート街は、そのロンバルディアという名の名残りだ。

≪124≫  アダム・スミスは『国富論』(岩波文庫)に、中世ヨーロッパの諸都市がどのように富を確保していったかを述べ、とりわけイタリア諸都市が貿易による富を蓄積した最初の例だったことを強調した。

≪125≫ 21 ハンザはんはん自由都市。 ヨーロッパ各地の自由都市は、ハンザ商人の活動によってアクチベイトされていた。活動の中心になったのはハンザ同盟だ。

≪126≫  同盟を結んでいたのはハンブルク、リューベック、ドルトムント、ビスビー、リガなどの港湾型自由都市である。その外延地帯にブルージュ、ブレーメン、マルセイユ、ロンドン、ベルゲン、ノブゴロドが控えた。

≪127≫  本書はハンブルクを例に、こうした自由都市の消長を綴っている。十字軍の遠征資金を拠出して、その見返りとして1189年に神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世から多くの特権と自由を獲得できたこと、自己裁判力や河川漁業権を早くに入手できたこと、1241年にリューベックと防衛同盟を結べたこと、都市づくりにおいて要塞性を加味したことなどが、ハンブルクを強くさせたのだ。水辺に大規模な商品取引所を開設したのもハンブルクが最初だった。

≪128≫  実は港を「ハーバー」と呼ぶようになったのは、このハンブルク的なるものの強みが影響している。ドイツ語ハーフェン(船着き場)がいつしか英語化してハーバーになった。アルスター・ハーフェンやビンネン・ハーフェンなどの船着き場が、しだいにゲルマン特有にハーバー化していったのである。 しかし、さしものハンザ同盟都市のネットワークもヴェネチアの台頭には敵わなかった。

≪129≫ 22 ヴェネチアべんべんの制覇。  ヴェネチアはアドリア海の北端ヴェネチア・ラグーンの小さな島嶼都市だった。なぜそんな小さな海港都市ヴェネチアが台頭できたかというと、二つのエンジンがほぼ同時に動いた。 一つには、東ローマ帝国がゴート族からイタリアを取り戻そうとして、535年にベリサリウス海将による遠征軍を送った。このときラベンナとヴェネチア・ラグーンを配属させ、そうちのヴェネチアがビザンチン帝国の領土になったのだが、そのあと独立して自治都市として承認された。

≪130≫  二つには、フランク王国のカール大帝(573夜)がビザンチウムとバグダッドとの直接交易をほしがっていたとき、ヴェネチアが首尾よくヨーロッパ諸国とビザンチウムとを結ぶ交易権を独占する約束をとりつけたのである。このちょっとした結び目によってビザンチン時代からヴェネチア時代に世界史が移動する。

≪131≫  こうしてヴェネチアは幾つかの特権をもって交易経済舞台の中心に登場した。さっそくヴェネチアの商人たち、つまりは「ベニスの商人」たちは造船にとりくみ、交易による収入を巨大にするため、さまざまな商業機構の仕組みを考案した。

≪132≫  なかでも「コレガンツァ」は投資に対する利益の配分を定めたもので、利益をほしがる投資家たちを巧みに海上ローンに誘導することになった。自治能力も高まってきた。まずは一人のドージェ(執政官)のもとに君主政治を確立させ、ついではドージェを廃してオリガルキーと呼ばれる大ギルド商人の複数ガバナンスの体制をとった。ここから「コンメンダ」や「コンパニア」が、つまりは会社の原型ができていく。

≪133≫  商船は100トンから250トンの丸船と速力の出るガレー船の長船で、最盛期では330隻が行き交い、年間3000トンから5000トンの高価な商品を東西に動かした。レバント各地には通商デポとして幾つものヴェネチアン・クォーター(ヴェネチア人居住区)が設けられた。

≪134≫  北東のダルマチアから攻撃を受けたのをきっかけに、したたかな海軍力も保持するようになった。十字軍に安全な航路を提供したのは、ヴェネチアの海軍力による。ラテン帝国が骨抜きになったのは、貸しをつくっていたヴェネチアのせいなのだ。

≪135≫ 23 ここから交易資本主義? このようなヴェネチアによるアドリア海制覇と東西貿易掌握は、その後の港湾世界史にとっても、このあとの資本主義システムの誕生にとっても決定的な出来事になっていく。

≪136≫  ヴェネチアの港湾的通商力は、大航海時代をへたのちにやがてアントワープやアムステルダムに移され、さらに海を渡ってロンドンに移植され、ここにおいて世界システムとしての資本主義モデルができあがったのだ。

≪137≫  もっともこれはあくまでウォーラスティン(1364夜)らの西側の見方であって、この見方以外の歴史観がほかにもあることは言うまでもない。

≪138≫  ひとつの見方は、13世紀のモンゴルの勃興と拡張にそのアジア的原型があっただろうこと、それはイスラム経済に連携していただろうことだ。もうひとつの見方は、ジャネット・アブー=ルゴド(1402夜)の『ヨーロッパ覇権以前』やアンドレ・フランク(1394夜)の『リオリエント』などで主張されていたので、ぼくも千夜千冊しておいたのだが、中国経済のそこかしこに流れてきた非アングロサクソン的なアジア型の国富論の系譜があっただろうということだ。

≪139≫  だから西側主権的にいえば、ヴェネチア、アムステルダム、ロンドンが資本主義モデルをつくったということになるのだが、それはとりもなおさず「西型港湾資本主義」がその原理にあったということなのである。

≪140≫ 24 大航海時代が港の地図を変えた。 大航海時代はポルトガルのエンリケ(ヘンリー)航海王が先頭を切った。アダム・スミスは「ヴェネチア人の大利潤がポルトガル人の貪欲心を誘ったのだろう」と書いている。

≪141≫  エンリケ王子は1415年にジブラルタル海峡の向かい側のセウタを占領したあと、ザグレス岬に籠もって大計画を決意した。ここは、ポルトガル詩人カモンイスが「大陸の終わるところ、大海の始まるところ」とうたった場所だ。王子は大航海のための地理学・数学・航海術を学び、多くの船乗りや船大工を集め、まずはアフリカ西岸を探検することにした。

≪142≫  ポルトガルは15世紀の100年をかけて、ムーア人がサハラを横断して象牙や砂金をもたらしてくるその航路をつきとめたくてしょうがなかった。そこでマディエラ諸島、カナリア諸島、アゾレス諸島、ヴァード岬諸島を次々に発見すると、ついではギニア、ロアンゴ、コンゴ、アンゴラを見いだして、ついには喜望峰まわりの海路をつくりあげたのである。カナリア諸島あたりまでの発見がエンリケ王子在世期の凱旋になる。

≪143≫  1460年のエンリケの死後、ポルトガル王アルフォンソ5世は地理学者トスカネリに「どうしたらインドに行けるのかね」と訊いた。世界地図をつくりつつあったトスカネリは「閣下、大西洋を西に行かれるとよろしい」と答えた。

≪144≫  しばらくアフリカ西海岸ばかりを探検していたポルトガルが「インドへの道」を発見したのは、トスカネリのヒントから35年後の、1497年にリスボンを出発したヴァスコ・ダ・ガマが4隻の船団でインドスタンの海岸に到着したときだった。

≪145≫ 25 ポートぽとぽとポルトガル。 なぜポルトガルが新しい時代の寵児となりえたのだろうか。

≪146≫  イベリア半島にはイスラム勢力が進出しつつあった。その最大の拠点が20万都市コルドバだ。カール・マルテル将軍によるトゥール・ポアチエの戦いこのかた、ヨーロッパはイスラム勢力の進出を食い止めることが至上命令だったのだ。

≪147≫  そのため、各地でレコンキスタ(失地回復運動)がおこった。この運動が海洋国ポルトガルでは早期に稼働した。内陸部のカスティリア王国・アラゴン王国(のちのスペイン)の着手よりもざっと250年くらい早かったのだ。

≪148≫  対抗すべきイギリスとフランスが百年戦争に象徴されるように、大陸間内部抗争に身を焦がしていたことも、ポルトガルには有利だった。カラベラ船という船体が長くて波の衝撃に耐えられる造船が発達したことも大きい。イベリア半島で群を抜く海洋性をもっていたことが、ポルトガルをして世界へ船出させたのだ。

≪149≫  そもそもポルトガルという国名あるいは地名が、古代ローマ帝国の「テリトリウム・ポルッス・カレンセ」(ローマが軍隊を上陸させた港)に由来する。このラテン語の“Portus Calanse”は、英語でいえば“Port of Cale”だから、ポルトガルとはもともとが「ポートの国」だったのだ。これが先に述べたラテン系「ポート」語類につらなっていく。

≪150≫ 26 ここからはスペインの急追。 ポルトガルに出遅れたスペインは、太古においてはクロマニヨン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に定住した者たちをルーツとするらしい。

≪151≫  それが地中海側のイベリア人、大西洋側のケルト人、ピレネー西部のバスク人などとして分住するようになった。その後はアンダルシアにもいくつもの部族が住み着いた。

≪152≫  スペインの土地は古代ローマ時代は属洲ヒスパニアだった。ヒスパニアは各地がローマ街道で結ばれて、ローマ帝国の穀倉地帯になっていた。

≪153≫  この状態がざっと500年くらい続いて、そこへ西ゴート族が進出して西ゴート王国をつくり、国王レカレド1世がそれまでのアリウス派の宗旨を衣替えして、カトリックに改宗した。以降、スペインは宗教的にはずっとカトリックが続く。

≪154≫  こうして11世紀くらいからはナバラ王国、カスティリア王国、アラゴン王国などのカトリック系諸国が分立したのだが、とはいえ13世紀の段階でもカスティリアはまだ騎馬民族の末裔だった。

≪155≫  わずかに北海岸のビルバオやビスケーなどの小港を通じて、ロバの背に乗せたブルゴス地方の羊毛を積み出し、フランドル地方に輸出している程度。やがて東海岸のムルシアおよびバレンシアを征服できると、やっとイタリアからの穀物を供給できるようになった。

≪156≫  一方、北方のアラゴン王国がバルセロナを中心的な港湾にするようになると、そこからジェノヴァとの交易が始まった。そのころカスティリア王国もセルビアの港を取得した。騎馬系のカスティリア人は海は苦手だったが、ここでガリシアやバスクの諸港から職人や船乗りを集め、造船や航海の準備に当たらせた。

≪157≫ 27 コロンブスのころころ卵。 1469年、カスティリアのイザベル女王とアラゴンのフェルディナンドが結婚すると、ここにスペイン(エスパーニャ)王国が誕生する。ここから先はよく知られているように、イザベルの資金提供により、1492年にいよいよクリストファー・コロンブスがリオチントの港からサンタマリア号で船出した。3本マストの240トンのカラベラ船である。

≪158≫  その後のスペインの快進撃は驚くべき野望に満ちていた。アメリゴ・ベスプッチ、デ・ソリス、マゼランらの探検的な遠洋航海が続き、バルボアがパナマを越えて太平洋に出たのが1513年のことだ。

≪159≫  野望だけではない、殺戮も辞さなかった。バルボアがパナマを越えた時からわずか7年後には、かのヘルマン・コルテスがメキシコ征服を、1530年にはかのフランシスコ・ピサロがペルー征服を果たしている。

≪160≫  今夜はスペインのインカ殺しの話はしないけれど、またそこにけっこう複雑な事情があったこともさておくけれど、ともかくもこれらによって、新大陸の銀は一挙にスペインに流れ込み、コロンブスの卵が割れ、その中身がスペイン語圏に散っていったのだ。

≪161≫ 28 おらおらオランダ時代。 16世紀がポルトガルとスペインの海洋主権時代なら、次の17世紀はオランダの港湾都市の席巻が世界をゆるがす番である。

≪162≫  すでにネーデルランドはヨーロッパで最も産業の発達した地域になっていた。フランドルの毛織物がいちはやくマニファクチュア化されたからだ。ネーデルランドと北イタリアを除き、当時のヨーロッパ諸国はほとんどすべてが農業国だったのだ。

≪163≫  1570年、オランダはフレボート(vleoboot)という新型商船を、1595年には重心が低く速力のあるフレーテを開発した。このイノベーションは運賃コストを半分近く引き下げたので、オランダはたちまち北海やバルチック海の主導権を握ることになった。アントワープやアムステルダムはスウェーデンの鉄や銅、北ドイツの穀物、ノルウェーの木材、ポルトガルの塩、北海のニシンなどを動かした。

≪164≫  1594年、アムステルダムの9人の港湾商人が「遠い土地のための会社」を立ち上げた。2年後、この会社は3隻の船隊をジャワのバンタム港に送りこむ。249人の船員のうち帰国できたのはわずか89人だけだったが、かれらは失望もしなかったし、休みもしなかった。持ち帰った香料と香辛料にヨーロッパ中がとびついたのだ。

≪165≫  これが1602年3月に連合東インド会社となったものの前身だ。 連合東インド会社には、アムステルダム、ロッテルダム、ゼーラント、デルフトなど6都市の市議会が出資した。初期投資額が650万ギルダー。オランダ共和国政府はこの会社に対して、向こう21年間にわたる喜望峰・マゼラン海峡から西の太平洋・インド洋の交易独占権と戦闘権を与えた。

≪166≫  これこそ最も初期の「株式会社」の誕生だ(1293夜)。株式会社は最初からグローバルだったのだ。海のグローバリズムである。

≪167≫  オランダは新大陸の可能性にも賭けて、続いて西インド会社を設立した。1609年にヘンリー・ハドソンが発見したハドソン河の流域にニューネーデルランドを建設すると、2年後には港湾をまるごとかかえこんだニューアムステルダム建設に着手した。のちのニューヨークだ。今日なおニューヨーク金融の中心になっているウォール街は、オランダ人たちがこのときニューアムステルダムを防衛するために築いた防塞ウォールの跡である。

≪168≫  ヨハン・ホイジンガは『レンブラントの世紀』に、こう書いている。「アムステルダムは正当にも自由貿易の推進者となって、しかもそれを中世的で保守的な慣習と一致させた。こうして世界貿易によって獲得された富はフランス・ルイ王朝型の重商主義をとびこえて、共和国を力強いものにしていった」。

≪169≫ 29 いよいよイギリスに東インド会社。 オランダはポルトガルの権益権を駆逐していった。造船力でも軍事力でも勝っていた。1605年にモルッカ諸島アンボイナのポルトガルの砦(フォート=ポート)を占領したのを皮切りに、次々に東南アジアの港湾を、とりわけマレー多島海をオランダ化していった。

≪170≫  香料の島々をことごとく占拠した冒険的オランダ船は、1609年7月にはわが平戸にまで船足をのばした。オランダが平戸まで辿り着けたのは、その前に漂着していたリーフデ号の航路情報をいかしたからだった。ぼくは大学時代にここを訪ね、近松が綴った国姓爺の夢の跡にしばらく浸ったものだ(974夜)。

≪171≫  このオランダの勢力に追いつけ追いこせを図ったのは、もはやポルトガルでもスペインでもない。オランダ船舶力に対抗できて、凌駕できるのはイギリスだけだった。その先頭と戦闘を切ったのは1600年に設立されたイギリス東インド会社だ。

≪172≫  しかし当初のうちはイギリス東インド会社の猛者たちも、ジャワでもスマトラでもオランダ勢に跳ね返された。インドのムガール帝国のスラート港に入ったイギリス船は、オランダ勢とフランス勢と戦わざるをえなかった。それでも、喜望峰からマダガスカル島の西側からアフリカ東海岸のモザンビークやモンバサの港を北上して、まっすぐにインドのボンベイに入った商船隊は先取権をとった。イギリスはただちにマドラス港、カルカッタ港を利用した。

≪173≫  イギリスの交易力はオランダよりもビジネスっぽい特色をもっていた。一方では各地の港を拠点に綿花や胡椒を輸入して、そこへイギリス製の綿製品を送りこむとともに、他方ではインド各地の物産を相互トレードさせる「カントリー・トレード」とよばれたビジネスに長けていた。巧妙なのである。

≪174≫  オランダはアジアの珍品を持ち帰ることで強大になったのだが、イギリスは本国の技術を加えた加工製品をアジアに売ることに長けたのだ。「三角貿易」主義だ。このイギリス主義、すなわちアングロサクソン型ビジネスモデルこそ、資本主義をロンドンで確立させる特色になったものだった。

≪175≫ 30 どんどんロンドン資本主義。 すでに述べてきたように、ヴェネチアによって新たな時代を迎えた港湾交易力は、その後は大航海時代のポルトガルとスペインによって世界に広まり、それがオランダのアムステルダムに生まれた株式会社に向かって吸収されてきたのだが、これらをまとめて集大成したのは結局はロンドンだったのである。

≪176≫  きっかけはエリザベス女王時代の1576年に、スペインがアントワープを封鎖したことで、その商業的センター機能を一挙にロンドンに移したことにある。

≪177≫  この強引をやってのけたのは、アントワープ駐在の財務官だったトーマス・グレシャムだ。グレシャムはロンドンにロイヤル・エクスチェンジ(王立取引所)を設立すると、後世に名高い「グレシャムの法則」を唱導していった。

≪178≫  グレシャムの財務論は金本位制の経済学の基礎といわれている。貨幣の額面価値と実質価値に乖離がおこっているとき、より実質価値の高い貨幣が流通から駆逐され、かえって実質価値の低い貨幣が流通するという、いわゆる「悪貨は良貨を駆逐する」というものだ。

≪179≫  しかしこれはありていにいえば通貨主義の経済学で、つまりは金儲け主義の法則だった。のちにこの法則は商品市場にもあてはめられて、「逆選択の資本主義」あるいは「レモンの原理」などと呼ばれた。イギリスはこの方向に進んだのである。千夜千冊(1366夜)でも書いておいたけれど、資本主義のアングロサクソン・モデルの出発点とはそういうものなのだ。

≪180≫  もっとも、ロンドンが近代資本主義の“親の総取り”になったのは、それだけが“勝因”であるわけではない。オランダやフランスの輸入型の東インド会社の交易を、本国加工の商品の輸出型にしていったこと、そのための技術力と労働力を安価にしていったこと、さらにはそこへ産業革命をかぶせられたこと、これらの複合力にもよっていた。

≪181≫  そして、ここに特筆されるべきがロンドンの近代港湾システムの登場なのである。「ドック」システムの確立だった。

≪182≫ 31 どくどくドックが世界大に。 本書の著者の高見玄一郎には『近代港湾の成立と発展』(東洋経済新報社)という著書がある。本書とともにロンドンがいかに近代港湾の原型をつくったかが強調されている。

≪183≫  ロンドンはテムズ川とその河口とともにある。その北岸には古くから原住民の集落があり、そこをローマ人が占拠してからは城壁をめぐらせたミニ都市が形成された。タキトゥスの『歴史』には紀元61年に、ローマ商人たちがしばしばロンドンを訪れたという記録が紹介されている。

≪184≫  410年、そのローマ人が引き上げたあと、ロンドンはしだいに対岸のノルマンディ、フランドル、スカンディナビアと交流し、多くの商人を呼び寄せるようになっていた。その後、サクソン人の侵入、ノルマン人の占拠、デーン人の侵入などがめまぐるしく続くのだが、ロンドンは「リセプタクル」(器)としてはそれらを平気でごちゃまぜに受け入れてきた。

≪185≫  10世紀、「イースタン・リングス」(東方の国の者たち)と呼ばれたドイツのハンザ商人団がテムズ河口のダウゲートにやってきて、「スチールヤード・マーチャント」となって、ロンドン交易の中核部隊になった。

≪186≫  他方、フランスのルーアンからは葡萄酒の商人たちがやってきて、ビリングスゲートを船着き場にした。他の国の連中は上流のクイーンハイズに落ち着いた。また別のノルマン人たちはノルマンタワーをつくって目印にした(これがのちのロンドン塔になる)。かれらはそれぞれ好きに船着き場をつくっていったのだ。

≪187≫  やがて大航海時代になってアフリカ航路、東インド航路、アメリカ航路などが賑やかになると、ロンドンの3つのゲートやハイズは手狭まになってくる。ここにロンドン港をとびとびにつなぐか、統合するかの必要が出てきた。

≪188≫  一方、ヘンリー7世に始まるチューダー朝はテムズ河畔の色とりどりの商人たちの定住を認め、これらの商業力を時の王権強化の一助に仕立てる政策をとった。いわゆるロンドンの「マーチャント・アドベンチュアラーズ」だ。

≪189≫  かれらは正式なフェローシップを得て、自分たちの故郷と取引先をシンボライズした会社をつくった。フランス会社、ロシア会社、レバント会社、ヴァージニア会社、スペイン会社、マサチューセッツ湾会社、バーミューダ会社などなど。これらはのちにすべてが株式会社となっていく。

≪190≫  こうしてエリザベス女王時代の東インド会社の設立とともに、ロンドンに新たな港湾システムが誕生していったのである。船着き場を整備して、その水準と作業量を飛躍させるべき「ドック」を連ねていったのだ。そうなったのは、ロンドン橋を低い石橋にしたため、上流の船着き場が使えなくなってしまったことも関係していた。

≪191≫  ドック・システムは、関税を徴収する貨物の積み降ろしのためのリーガル・キイ、一般船舶を接岸して貨物の積み降ろしをするワーフ、これらを運営するドック・カンパニーから成り立っていた。

≪192≫  もともとドックとは岸壁を切り込んで陸地に海水を引き込んだ掘り込み埠頭のことで、イギリス人がつくった言葉だ。だからそのドックでビジネスをする会社がドック・カンパニーになるのだが、そのうち港や港湾全体をドックと言うようにもなった。

≪193≫  のちの話になるけれど、その後のドックは1855年のロイヤル・ビクトリア・ドック、1880年のロイヤル・アルバート・ドック、1921年のキングジョージ5世ドックというふうに、世に“ロイヤル・ドックス”と並び称された勢揃いも見せていく。

≪194≫  こうしたロンドンの近代港湾システムが世界に冠たるものになっていくのは、1855年にビクトリア・ドックで蒸気船とグレートイースタン鉄道とが結び付いたときだった。

≪195≫ 32 かもめ、かもめ、笑っておくれ。 そろそろ今夜の話を締めくくろうと思う。ずいぶんゆらゆらしすぎた港湾談義だったけれど、どこかで一度はしておきたかった話なのだ。

≪196≫  港というもの、それ自体が世界史の入口と出口であって、世界史のなかのでの長きにわたるグローバリズムの代名詞だった。港は港自体が民族と都市と国家の最も過敏なコミュニケーションで、イン・ポータントな世界史なのである。今夜はそのことを猛スピードでかいつまんでおいた。

≪197≫  近現代の港湾は、その後は豪華客船時代、軍事的戦艦時代、自動車社会と合体したフェリーボート時代、大型コンテナ時代などをへて、その機能を空輸力や陸送力に奪われていく。

≪198≫  けれども、だからといってどんな国のどんな港も、このままグローバリズムの渦中にとりこまれなければならないなんてことは、ない。背伸びして見る海峡に、今日も汽笛が遠ざかるだけだって、かまわない。浅川マキが歌ったように、おいらが恋した女は港町のあばずれで、ドアを開けたままで着替えしているので、「かもめ、かもめ、笑っておくれ」だって、いい。

≪199≫  われわれはいつまでたっても「内なる港」「外なる港」の“あいだ”にいる者なのである。今夜はいろいろゆらゆらスキップしたけれど、「関渡津泊」や「ポート、ハーバー、ドック」は、その形を変えてウェブ・ネットワークの“情報の港”に転移していると、そう、見たっていいわけだ。

≪200≫  ところで、ぼくはいま「港区」に住んでいる。ときどき港区小中学生俳句大会をやっている。先日、その会場を覗いてみたら、こんな句が掛かっていた。「どこまでが空か海かと泳ぎだす」。 

≪01≫  このところ大澤真幸の発言や著述の調子がいいようだ。上り調子は、書名でいえば『資本主義のパラドックス』のときはまだしもだったのが、『性愛と資本主義』あたりから感じていたことで、論旨が切り立っているのは以前のことからだが、そのハコビがよくなってきた。 

≪02≫  能はカマエとハコビでできている。そのハコビに緩急が出てきた。そうすると読者も「移り舞」に酔える。また、能の面の動きはテル・クモル・シオル・キルに絞られているのだが、十分にゆっくりとした照りと曇りが見せられれば、突如の切り(面を左右に動かす)が格段の速度に見える。そうすると観客の心は激しく揺すられる。 

≪03≫  学問といえども、その70パーセントくらいは読者や観客に何を感じさせたかなのである。カマエもハコビも大事だし、テル・クモル・シオル・キルも習熟したほうがいい。ついでながら学問の残りの20パーセントは学派をどのようにつくって、それがどのように社会に応用されたかどうかということ、残りの10パーセントが独創性や前人未踏性や孤独感にかかわっている。学問はそんなものなのだから、どこで才能を発揮してもいい。 

≪04≫  もともと大澤真幸はかなり早口で喋っていても、その語りをもう一人の自分でトレースできる才能をもっている。 

≪05≫  いま自分がどんな言葉をどの文脈で使おうとしているか、その言葉によって話がどういう文脈になりつつあるのか、それを聞いている者にはひょっとするとこんな印象をもったかもしれないが、それをいま訂正しながら進めるけれど、それにはいまから導入するこの用語や概念を説明なしに使うが、それはもうすこし話が進んだら説明するから待ってほしい、それで話を戻すけど‥‥というふうに、自分で言説していることをほぼ完璧にカバーできる能力に富んでいた。アタマのなかの"注意のカーソル"の動きが見えている。  

≪06≫  ぼくはどうもうっとりできないんですよ、「考える自分」と「感じる自分」とが同時に動いていて、その両方を観察してしまうんですよ、と大澤自身がどこかで言っていた。まさにそうなのだろう。それがいいところなのだ。 

≪07≫  ただし、これが文章になり論考になると、ひとつは途中挿入の知識と情報がふえて、ふたつにはその文章を読むであろうギョーカイの学者たちの顔がちらついて、さらには「てにをは」にとらわれて、せっかくの着想(感じる自分)と構想(考える自分)がわかりにくくなっていくことがあった。それが本書や『現実の向こう』では目立ってふっ切れている。 

≪08≫  大澤はすぐれて現在感覚に富んでいる社会学者である。湾岸戦争やオウム真理教事件をつねに正面きって取り上げてきた。自分の専門でしか発言しない社会学者が多いなか、自分たちにふりかかってきた問題に対して見て見ないふりをほとんどしない。しかも、そうした難解な状況を把握して問題をたてるときの手続きが冴えている。 

≪09≫  最近の大澤の状況把握と問題の立件の仕方は、たとえば次のようになっている。2004年の春から秋にかけて大澤がおこなった連続講演を例にする(この講演をもとに『現実の向こう』の一冊がまとめられた)。 

≪010≫  2004年5月に、イラクで日本人ジャーナリスト二人が殺害された。6月にイラク暫定政府に主権が移譲された。しかしテロはあいかわらず過激にふえているし、なんらの対策も打たれているとは見えない。日本の自衛隊もただ継続駐留をしつづけている。 

≪011≫  大澤はこのような現実の事態を考えるにあたって、まず100年後にとぶ。100年後にとんでイラク戦争における日本の態度をどう見るだろうかということを考える。各国の世論調査ではイラク戦争の支持率が一番高かったのはアメリカがトップだが、次には日本が高かった。なぜイラクに鬼気迫る不安や危機感を抱いていそうもない日本人がイラク戦争を支持したのか。そもそも国連安保理すら戦争支持の決議を出せなかったのである。それなのに日本は出兵させた。後世、この日本の判断に疑問が噴出するにちがいない。きっと、あのシベリア出兵のときのように。そう、大澤は感じる。 

≪012≫ そこで考える。いったい日本の判断にはどんなロジックがあったのか。大澤はロバート・ケーガンの『ネオコンの論理』(光文社)を例に出す。アメリカのネオ・コンサーバティブが採用しているロジックである。ケーガンはそのなかで、もはやアメリカとヨーロッパは異なると言い、それは軍事力の格段の差にあらわれていて、いまや軍事力と世界観はセットになっていて切り離せないのだから、アメリカの世界観に海外は従うしかないと結論づけている。日本はケーガンのこの程度の結論にふりまわされてイラク戦争に自衛隊を出動させたのか。 

≪013≫  ケーガンは同じ本のなかでヨーロッパはカントにすぎないとも言っている。カントが『永遠の平和のために』でヨーロッパを楽園に見立てようとしたことをさしたのだが、それに対してアメリカは、どの時代のどの地域にも野蛮な戦争がおこることを前提にしているのだという。カントに比していえばアメリカはホッブスの立場に立つ。これがケーガンのアメリカ的ネオコンのロジックである。 

≪014≫  ホッブスの『リヴァイアサン』は人間の集団は「狼と狼の対立」であって、「万人が万人に対立する世界」だという認識に立つわけだが、アメリカはそれだというのだ。またケーガンは、もしヨーロッパの世界観がポストモダンであるというのなら、アメリカはモダンにとどまって世界を見ているとも主張した。  

≪015≫  大澤は、このようなケーガンの見方がヨーロッパの本質をまったく理解していないことを指摘する。ヨーロッパにはEUに象徴されるように、共通の歴史認識というものがある。すでに血で血を洗い、資本主義を発進させ、技術革新にとりくみ、通貨乱高下を招き、ナチスを生み出し、ドイツを分断させてきた。ホッブスに立つのではなく、そこから出発してやっとEUに辿りついたのだ。 

≪016≫  つまりヨーロッパは「話せばわかる」はずで、どこかで合意を形成できるというふうになっている。いわば「必然がありうる世界」なのである。それにくらべてアメリカは「偶然がうごかす世界」だと見ている。これではアメリカとヨーロッパは手をつなげない。のみならずケーガンの言うようにただ軍事力だけがモノを言うだけになる。 

≪017≫  ここで大澤は、このような二進も三進もならない状況には、「第三者の審級」という考え方がありうるということを導入する。「第三者の審級」は大澤の本を読んできた者にはおなじみのもので、大澤のおハコの論理である。それを説明する。 

≪018≫  社会的な善悪の判断や賛成や反対の議論が錯綜したり対立したりしているとき、その社会がつくっている世界観が参照できる第三の超越者のようなものを想定すること、それが第三者の審級である。かつては、この第三者はたいてい神だった。『ヨブ記』においてヨブと友人たちが議論の均衡に達しているとき神の声が聞こえてくるのは、まさに劇的な審級をあらわしていた。 

≪019≫ しかし、神でなくとも第三者の審級はいろいろありうる。ときに浄土が、ときにエルサレム進軍が、ときにジャンヌ・ダルクが、ときにナポレオンが、ときにヒトラーが、ときに国連が、ときにキング牧師が、ときに天皇が、ときにオリンピック精神が、ときにジョン・レノンがその審級を引き受けた。SFではあるが、アーサー・クラークの『地球幼年期の終わり』では、UFOに乗ってきたオーバー・マインドが世界の審級者になっていた。ぼくなどは西田幾多郎の「無の場所」やドゥルーズ=ガタリが持ち出した「アントナン・アルトーの加速する思索」なども、第三の審級のひとつに見える。 

≪020≫  それはともかく、この視点をとって世界を眺めなおすと、アメリカとヨーロッパは互いに通約も通分もできない審級圏に分解されたままになっているということになる。第三者が見えない。アメリカが勝手に絶対第三者のフリをしているだけである。そこに問題がある。 

≪021≫  しかし大澤はこの考え方をまだ押し付けない。いったん現実の社会に引き戻して考える。そして、9・11同時多発テロの1年後に発表されたブッシュ・ドクトリンに「先制攻撃的防衛」が言明されていたことに注目する。 

≪022≫  冷戦時代、アメリカの戦略家たちは「相互確証破壊」ということを問題にした。MAD(Mutually Assured Destruction)と略される。互いの「確証」(アシュアード)を前提にして、核戦争時代に勝つための戦略を組み立てるというものだ。 

≪023≫  MADは互いに互いの判断を確証できない「不確実性」をはらんでいるという矛盾の上に成り立った戦略で、しばしばゲーム理論的に組み立てられた。そこにさまざまな問題があったことは、ぼくも第1077夜の『ゲーム理論を読みとく』であげておいた。大澤はバーナード・ブロディを参考に、はたして先制攻撃が不確実性を除去できるのかどうかを検討し、ブッシュ・ドクトリンが先制攻撃が最大の防衛になるという、対テロ対策を含んだ攻撃理論型の戦争の正当性を発表したことの問題点を指摘する。しかし、日本はこれに乗ったのである。しかもその乗った理由がはっきりしていない。アメリカに「金だけではなくて、旗を見せなさい」と言われただけだった。 

≪024≫  しかし乗る以上はアメリカの戦略の意味を理解しなければならないし、乗らないなら新たな方針をたてて説明しなくてはいけない。どうも、どっちつかずなのである。 

≪025≫  アメリカの戦略を理解するには、不確実性があるからといって先制すればいいというロジックのどこがおかしいかを指摘できなければならない。そのうえでアメリカの言うことを聞くか、断るかを決めなければならない。  

≪026≫ 大澤はここで、アメリカが問題にする不確実性というものが「他者」に被せられていることを発見するといいと勧める。アメリカは、不確実性を他者の本性だというふうに見ている。これはおかしいのではないかというふうに読者に促す。 

≪027≫  本来、不確実性とは他者にのみあるのではなく、事態や社会の圏内全体にあるはずのものである。そこに偶発性や偶有性が含まれているから、明日や明後日が不確実になる。 

≪028≫  それはその事態を観察しているアメリカだけが観察したものではなくて、社会が抱えた本質なのである。そうだとすると‥‥というわけで、ここでふたたび大澤はさきほどの第三者の審級の可能性をさぐるという話にもっていく。 

≪029≫  このあと大澤はいくつかの話を挟んだうえで、日本の憲法と安全保障条約の関係に話をすすめ、二つのことを提案する。詳細は省略するが、提案のひとつは憲法を変えないで、安保条約のほうを変えること、もうひとつは日本は安保理になどに入ろうとしないで、安保理のしくみを新たに提案する側にまわるということだ。こうすることによって、アメリカの言うことを聞かざるをえない状況から脱却できるのではないか。 

≪030≫ 両方ともきわめて現実に即した提案である。とくに安保理のしくみに第三者の審級をとりいれることを勧める。当事者ではなく、当事者を代行する複数が議論する期間が当事者の案件が属する社会の第三者として審級していくというものだ。 

≪031≫  この提案は、大澤が「他者の社会学」というものを長らく考察してきたことに裏打ちされている。『意味と他者性』はその成果のひとつであった。そのことを、今度は本書に即して紹介して、大澤真幸への応援に代えてみたい。 

≪032≫  本書の第4章は、現代における「帝国」と「ナショナリズム」という二つの大きな問題を一緒に考えようとした試みである。 

≪032≫  本書の第4章は、現代における「帝国」と「ナショナリズム」という二つの大きな問題を一緒に考えようとした試みである。 

≪034≫  ネグリとハートはこうした「帝国」の特色を、かのポリュビオスによる古代ローマ帝国の政体3分類を援用して分析した。君主政・貴族政・民主政の3つである。それを今日の例でわかりやすくいえば、君主政(皇帝)を国際的な金融の動きを管理しようとするG7やパリ・クラブやIMFなどに、貴族政(元老院)を多国籍企業や有力な国民国家(ヨーロッパ諸国や日本)などに、民主政(民衆的民会)を従属的な国民国家やマスメディアや宗教組織やNGOなどにあてはめてもいいだろう。 

≪035≫  では、アメリカはこのような「帝国」そのものかというと、かぎりなく帝国に近い存在になりつつあるといってよい。すでに軍事面や警察面では帝国の将軍になっている。これに対して各地に勃興している新たなナショナリズムは、このような帝国という「地」を前提にして、それを否定する「図」として登場しつつある。ここまでがネグリたちの分析だ。 

≪036≫  問題は、アメリカにおいてはこの「帝国」性と「ナショナリズム」性が一体になってきつつあるように見えるということなのである。これは化物じみている。大澤はそこを問題にする。アメリカが軍事面はむろん、情報ネットワークを含めて「帝国」の原理を世界化しようとしていることははっきりしている。その一方、アメリカは巨きすぎるほどのナショナリズムにも徹しているようにも見える。これはロジックのうえでは矛盾しているし、破綻もしている。それなのにアメリカはそのことに気づかないまま、この「帝国的ナショナリズム」を推進しているようなのだ。 

≪037≫  大澤はこうして、「他者の欠如」あるいは「他者に対する見方の誤謬」がこのような矛盾や破綻の裏に動いているのではないかという見方をとっていく。アメリカはその「他者の欠如」や「他者に対する見方の誤謬」を、不幸なほどに大きすぎる規模で体現しつつあると見た。 

≪038≫  他者については、この問題を現代的に考察した二人の対照的な思想家がいた。ユルゲン・ハバーマスとジャック・デリダだ。 

≪039≫  ハバーマスはヨーロッパが伝統にしてきた「話せば分かる」型の合理的な討論を前提にして他者の尊重を主張する。ただし、討論するには互いが同じ土俵で議論をするルールが必要なので、ハバーマスはそのルール(あるいはメタルール)をコミュニケーションの本質に降りて考えた。大著『コミュニケーション的行為の理論』に詳しい。 

≪040≫  一方のデリダは、ハバーマスが辿りついたそういうルールはそもそもがヨーロッパに出自したにすぎないもので、本来の他者はそういうルールを超えて登場してくるものだと批判した。デリダはレヴィ=ストロースでさえ「野生の文化」という他者をヨーロッパ的自己同一性のの破綻を罪滅ぼしのためにつかっていると批判した。 

≪041≫  実際にも、昨今の国際舞台におけるイスラム社会の登場は、欧米社会にとってはまったくルールが共有できない他者であるとみなすことができる。もしかれらを同じルールの他者にしたいのなら、イスラム社会のコスモスともカオスとも切り離した"民主主義的な代表者"を選んできて、その代表者とコミュニケーションを交わすしかない。まさにアメリカはそのようなルールの押し売りのためにイラク戦争を仕掛け、その後の駐留を継続したわけだ。 

≪042≫  しかしアメリカはともかく、このようなヨーロッパ的でハバーマス的なルールを接ぎ木したようなコミュニケーションが、いま地球がかかえつつある「他者」を組みこめるかどうかというと、おそらく無理である。EUのなかならまだしも、それを世界大に拡張することはほとんど不可能である。 

≪043≫  かくて、今日の世界では帝国的ナショナリズムによる拡張という前代未聞が罷り通りつつあるということになったのである。それは「文明の衝突」よりもっと由々しい問題ではないかと、そのようには大澤は言ってみせたのだ。久々に大澤真幸のあの"注意のカーソル"の動きをナマで見てみたくなってきた。 

≪037≫  大澤はこうして、「他者の欠如」あるいは「他者に対する見方の誤謬」がこのような矛盾や破綻の裏に動いているのではないかという見方をとっていく。アメリカはその「他者の欠如」や「他者に対する見方の誤謬」を、不幸なほどに大きすぎる規模で体現しつつあると見た。 

≪038≫  他者については、この問題を現代的に考察した二人の対照的な思想家がいた。ユルゲン・ハバーマスとジャック・デリダだ。 

≪039≫  ハバーマスはヨーロッパが伝統にしてきた「話せば分かる」型の合理的な討論を前提にして他者の尊重を主張する。ただし、討論するには互いが同じ土俵で議論をするルールが必要なので、ハバーマスはそのルール(あるいはメタルール)をコミュニケーションの本質に降りて考えた。大著『コミュニケーション的行為の理論』に詳しい。 

≪040≫  一方のデリダは、ハバーマスが辿りついたそういうルールはそもそもがヨーロッパに出自したにすぎないもので、本来の他者はそういうルールを超えて登場してくるものだと批判した。デリダはレヴィ=ストロースでさえ「野生の文化」という他者をヨーロッパ的自己同一性のの破綻を罪滅ぼしのためにつかっていると批判した。 

≪041≫  実際にも、昨今の国際舞台におけるイスラム社会の登場は、欧米社会にとってはまったくルールが共有できない他者であるとみなすことができる。もしかれらを同じルールの他者にしたいのなら、イスラム社会のコスモスともカオスとも切り離した"民主主義的な代表者"を選んできて、その代表者とコミュニケーションを交わすしかない。まさにアメリカはそのようなルールの押し売りのためにイラク戦争を仕掛け、その後の駐留を継続したわけだ。 

≪042≫  しかしアメリカはともかく、このようなヨーロッパ的でハバーマス的なルールを接ぎ木したようなコミュニケーションが、いま地球がかかえつつある「他者」を組みこめるかどうかというと、おそらく無理である。EUのなかならまだしも、それを世界大に拡張することはほとんど不可能である。 

≪043≫  かくて、今日の世界では帝国的ナショナリズムによる拡張という前代未聞が罷り通りつつあるということになったのである。それは「文明の衝突」よりもっと由々しい問題ではないかと、そのようには大澤は言ってみせたのだ。久々に大澤真幸のあの"注意のカーソル"の動きをナマで見てみたくなってきた。 

≪044≫ 附記¶大澤真幸君とはしょっちゅう会っていた時期がある。フォーラムやシンポジウムに来てもらうと、大澤君がいるときといないときではまったく盛り上がりがちがうので、よく招きもした。最近は本を贈ってもらってばかりで、その感想が言えないままになっているが、先だっては『美はなぜ乱調にあるのか』(青土社)で、「サッカーと資本主義」や「イチローの三振する技術」を読んで、その守備範囲の広さにあらためて驚いた。折口信夫のマレビト議論を含んだ『思想のケミストリー』(紀伊国屋書店)なども宮沢賢治や埴谷雄高論をケープに纏って、なかなか華麗であった。デビュー作はスペンサー・ブラウンに依拠した『行為の代数学』(青土社)と2冊組の『身体の比較社会学』(勁草書房)である。この書名でも見当がつくように、大澤君は「感じる自分」を絶対に外さない。ほかに『性愛と資本主義』(青土社)、『資本主義のパラドックス』『電子メディア論』(新曜社)、『恋愛の不可能性について』『現実の向こう』(春秋社)、『虚構の時代の果て』『戦後の思想空間』(ちくま新書)など。さらにカマエとハコビに磨きがかかっていくにちがいない。 

≪01≫  フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(三笠書房)はつまらなかった。ソ連解体後の一九九二年に書籍になったものだが、これ以降、つまり二一世紀は民主主義と自由経済の体制がずっと続くだろうから、歴史は終わったというのだ。ヘーゲルの「認知を求める闘争」にこだわりすぎた判定だった。 そういうイデオロギーで政治体制を見る歴史家の考察とくらべるのも何だが、本書は戦略家がどういう粗雑な見方をするのかという意味では、読ませた。大袈裟なパラダイム幻想だという者もいれば、9・11事件はまさにハンチントンの予告したとおりの兆候の始まりなのではないかという者もいた。ハンチントンの予告とは、「西洋文明」と「イスラム・儒教コネクション」がやがて必ず衝突するだろうというものだ。

≪02≫  ハンチントンは冷戦時代の戦略理論家で、ハーバード大学ジョン・オリン戦略研究所の所長である。フクヤマもいっとき門下にいた。そのハンチントンの「文明の衝突?」という論文が「フォーリン・アフェアーズ」に掲載されたのは、一九九三年の夏だった。すぐに論争が噴き出て、日本でもさっそく「中央公論」が特集を組んでいた。蓮實重彦と山内昌之は東大でいちはやく『文明の衝突か、共存か』というシンポジウムを開いた。これはUP選書として本にもなった。 賛否両論のなか、ハンチントンが論文を膨らませた。それが本書である。膨らませてはあるが、とくに深まってはいない。その後、9・11同時多発テロがおこったので、ハンチントンの予想が的中したという見方も広まった。一方、はたして二一世紀において文明が衝突するのか、国家ではなく二つ以上の文明が衝突するのか、まして儒教とイスラムが連合する文明体を装うのかという議論もいろいろ続いている。

≪03≫  ハンチントンが“衝突”という用語をつかうから言うのだが、それをいうなら文明が衝突しなかったためしはない。そもそもホメーロスの『オデュッセイアー』が文明の衝突を扱っていたのだし、ヘロドトスの『歴史』もペルシア戦争を通した東方イラン文明とギリシア文明の衝突を主題にしていた。大航海時代がおわったあとの、東インド会社以降の歴史はつねに文明の衝突の連打だった。

≪04≫  もっとも多くのばあいは文明は衝突したのではなく、一方の文明が他方の文明を支配下におきたかったというだけだったとも見られる。アヘン戦争やコソボ紛争は衝突ではなく侵略であり、勝手な介入だった。戦争の多くがそういうものである。 侵略や介入を国家の横暴とか失敗とかとは呼ばないで、あえて「文明の衝突」と見ようというのは、よほどの二一世紀戦争、すなわち第三次世界大戦のようなものか文明戦争を想定するからであろうけれど、その予想にばかり焦点をもっていくと、文明観そのものが歪む。さまざまなエスニック・ステートとナショナル・ステートの摩擦や重合が看過されるし、軍事力や破壊力に目が奪われて、経済力や言語力や宗教力が看過される。なんといっても文化を軽視することになる。

≪05≫  文明(civilization)という言葉は、ラテン語の“civitas”や“civilzatio”に由来する。もともとは都市や国家を意味していた。都市化や国家化がおこることがシヴィリゼーションなのである。 何が都市化や国家化を促すかというと、平均的には人口の集中、食糧の充当、階級と職能の分化、交易力の拡大、公共建造物の定着、言語的記録力の発達、支配的な表現様式の出現などが並ぶのだが、これらは定番の文明セットになるわけではない。ミケーネ文明やマヤ文明や日本文明は国際的交易力が低かったし、中央アジア文明やアステカ文明では文字が未発達で言語記録力は乏しい。

≪06≫  文明を文明として議論するようになったのも、おそらくカント以降のことではないかとおもう。カントは「教養を育くむ」(caltiver)や「文明化する」(civiliser)や「道徳化する」(moraliser)といった動詞をあまり区別しないでつかった。やがてフランソワ・ギゾーやヘンリー・バックルが「ヨーロッパ文明」とか「イギリス文明」というカテゴリーで歴史記述をするようになり、世界史の最も太い流れを「文明の盛衰」の束として描くようになった。 ただそうした文明観はヨーロッパ中心のものだった。しかし、その誇り高きヨーロッパ文明が第一次世界大戦で世界中を戦争に巻き込んだことを、シュペングラーが『西洋の没落』(五月書房)として書き上げると、トインビーは『歴史の研究』(刊行会)を通して諸文明の自律性や並進性に注目し、これをOSにして文明の多様性や生態性を論じていった。ヨーロッパ以外の諸文明が同時比較されるようになったのだ。そのころの梅棹忠夫やレイモン・アロンの見方にも、けっこう斬新な文明観が逬っていた。

≪07≫  ハンチントンはシュペングラーにもトインビーにも影響をうけていたはずなのだが、いつしか「勝ちのこり文明間の衝突」にばかり関心を移したようだ。そのとき文明観はさることながら、文化観が欠けてしまったらしい。

≪08≫  もう一度いうと、文明とはその文明圏で技術による物的な所産や生産手段が発達して都市化が平均的に進むことをいう。いまではそこに情報ネットワークがゆきわたることを加えておいたほうがいいだろう。 一方、文化はこのような文明の特性を一部にしかもっていない。そのかわり、どんな文化もすこぶる多様であり、その共同体は複雑な心情をともない、習慣と生活を営む顔や体をもっている。文化には嬉しい文化もあるし、気にいらない文化もある。そういう文化の半径をすぼめていけば、川の流域や鎮守の森の周辺や一家族の家系にまで文化を認めることができる。そこにはジョゼフ・ニーダムが言うような「文明の液滴」もしぶく。だからこそ文化は一様には語れない。一国の文化のなかでも文化は多様になっている。たとえば連歌と茶の湯の文化距離は近いが、雅楽と歌舞伎の文化は距離があいているというふうに。

≪09≫  文明というカテゴリーは、そういう文化を一様に覆いつくす不細工な傘なのである。バスクやカタロニアがどんな文化で濃淡をつけようとも、それが政治経済的な損得勘定にのらないかぎり、文明はバスクとカタロニアの差異など無視してかかる。それゆえ、文明は一個の中心をもった半径と質量が強大になっていくと、他の文明とたいてい“衝突”せざるをえないのだが、文化は最初から小さな多様性をもって芽生えていったのだから、そもそもが小さな蕾を前提にしてできあがっていく。文化は発生を歓び、文明は結果を恐れるものなのだ。

≪010≫  ハンチントンは文明と文化の関係を見なかった。文化を軽視した。しかし二つは切り離せない。ブローデルは「文明は文化の領域性である」とみなしたし、ウォーラーステインは「文明は世界観・生活習慣・組織・文化の特定の連鎖である」とみなした。 文明と文化を分けたがらないフクヤマはそういう歴史の見方はおかしいと言って、人間には理性と欲望のほかに「他者に認められたい願望」があって、それが次々に高じて「認知をもとめる闘争や戦争」になると見た。これは文明や文化を心理的に見すぎていた。そこでノルベルト・エリアスなどは『文明化の過程』(法政大学出版局)で、そうした生得的な衝動を克服するのが文明なんだと、まったく逆のことを書いた。

≪011≫  もし文明と文化の説明をしろというふうに各民族各国各地域のその手の才能の持ち主に問うてみれば、かなり各種各様の答えがかえってくるはずである。あるドイツ人なら「文明は量だが、文化は質である」と答えるかもしれないし、あるアフリカ人なら「元からあるものが文化、外からやってきたものが文明」と答えるかもしれない。文明も文化も言葉の文明であって言葉の文化でもあるからだ。イヌイットの長老はいくつものトナカイ語に詳しいので、「トナカイしか知らない問題だ」と笑うだろう。

≪012≫  どちらにせよ、しょせん文明の将来を議論したがるのは、古代文明に比する文明をその後に累々とつくって、近現代までそれを強大に発展させてきたと自負する者たちなのである。これは負け組の遠吠えではなく、勝ち組の遠吠えだ。次のような例でそういう学者たちをわからせるのは無理だろうが、仮に柳田國男や折口信夫に同じ質問をしてみれば、二人ともが「関心があるのは文化だけです」と答え、「なぜ文明が気になるんですか」と逆に問うたろう。エドワード・サイードやノーム・チョムスキーも同じような反応をしたにちがいない。

≪013≫  いまや、多くの日本人も文化よりも文明が気になるようになってしまっている。一週間ほど前、ある会合で若手のKという将来を嘱望されている自民党の政治家が、日本に必要なのは天皇制と日本語で、それを守るための施策をしなければいけないという発言をしていたのだが、これなどは文明にあらかじめ境界線を作っておいて、そこで日本という文化アイデンティティが守れるようにしたいという、ぼくなどにはとうてい考えられない発想だった。多様な文化は流れのままに放っておいても、廃れるものは廃れ、残るものは残るのだから大丈夫という楽観なのである。 いつのまに日本人は文明論者になったのか。福澤諭吉の時代をべつにして、文明論は苦手だったはずである。山内昌之はハンチントンの『文明の衝突』を読んだ日本人が不愉快になるのは、日本が孤立を強いられていくような展望が書かれているからだと言っていた。他の文明の優位を説かれても気にしないくせに、日本文明の小ささや影響力の少なさを指摘されると気分を害するのだという。そうだろうか。そんな日本人すらいまは少なくなっているのではないかとぼくにはおもえる。

≪014≫  実際にも、ハンチントンが書きたかったことは日本の孤立のことなどではなかった。日本については、日本が米中対立のなかでどっちつかずの迷いを見せて孤立するだろうとは書いてはいるが、そういうことはハンチントンが新たなシナリオを提案しようというときの新たなプロットには入ってこない。ハンチントンはどのように分析しても、このさき西洋(ヨーロッパとアメリカ)の相対的なパワーは非西洋圏のパワーに対してしだいに低下していくだろうから、西洋文明の保存対策に着手すべきだと言ったのだ。 日本が同じパラダイムに乗っかって、このような見方に腹を立てたところで、うまい対策など打てるわけがない。このパラダイムそのものがすでに対策含みなのである。

≪015≫  ハンチントンの対策がどういうものかというと、近々の文明の衝突にそなえて欧米諸国は政治・経済・軍事面での統合を拡大しなさい、他の文明の国家からつけこまれないようにしなさい、EUに中央の諸国を早く巻きこみなさい、ラテンアメリカの西洋化をすみやかに促していくつかの同盟関係を結んでおきなさいというものだ。 その一方で、イスラム諸国と儒教文明圏の通常戦力と有事戦力の両方ともを抑制し、日本が中国と接近するのを極力遅らせなさいというのだ。とくにアメリカは他の文明の問題に絶対に介入してはいけない。

≪016≫  これがハンチントンのパラダイムにあらかじめ含まれたアジェンダである。これはこれで、ハンチントンなりの良心的な老婆心なのだ。もっともこの進言は、一九九三年以降のブッシュ父子やクリントンにはまったく聞こえなかった。ハンチントンから見ても、アメリカこそが「文明の衝突」の危険にむかってまっしぐらになりかねない国のはずなのだ。しかしハンチントンの提案は、いずれ新たな大統領が採択すればいいわけで、それなら本書は根っからの“アメリカ憂国の書”だったということである。

≪017≫  ハンチントンがこのような進言をするのは、そのうち西洋と非西洋とが大分断をおこし、西洋文明とイスラム・儒教コネクション文明とが衝突するだろうと予想したからだった。 この構図の前提には、近未来の世界は次のような八つの文明の時代を迎えるだろうという予想がある。西洋文明(欧米)、儒教文明(中華文明)、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥ文明、スラブ文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の八つである。

≪018≫  この構図の前提には、近未来の世界は次のような八つの文明の時代を迎えるだろうという予想がある。西洋文明(欧米)、儒教文明(中華文明)、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥ文明、スラブ文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の8つである。

≪019≫  この予想に関しては、これまで東アジアの片隅で扱われていた経済国日本が一個の独立した日本文明に“昇格”したことで、一部が沸いた。従来は日本は韓国などと一緒くたか、大きくは漢字文化圏としての中国文明の一隅におかれてきたからだ。しかし、予想分類が当たっているかどうかを議論してもあまり益はない。こういう分類は欧米社会が自身の未来に極端な不安をもつときにたいていあらわれるものなのだ。

≪020≫  ちなみに、この手の分類がやたらに話題になるようになったのは、ヨーロッパを敵味方に分けた第一次世界大戦で衝撃をうけたシュペングラーが、歴史をさかのぼって世界史上の文明圏を、エジプト、バビロニア、インド、中国、ギリシア・ローマ、アラビア、西洋、メキシコの八つに分類し、トインビーがこれを二六にふやしてそのうち一六がすでに滅亡したと整理したうえで、最後にのこったのが西欧キリスト教文明、東欧・ビザンチン文明、イスラム文明、ヒンドゥ文明、日本文明の五つだろうと予測したことに始まっていた。ハンチントンはこれを踏襲しただけだともいえる。

≪021≫  こういう分類はあまり有効とはおもえない。文明の構図の予想が役に立たないというのではなく、ハンチントンはまったくふれていないけれど、資本主義と自由市場を世界大にしてしまったことが、すでに文明の構図をまたいでしまったのである。あえてトインビーに懐かしい敬意を払っていうのなら、世界は「神」と「資本」と「散在体」だけが問題なのだ。それゆえそういう問題を除いて議論するのなら(あとは実践的なプレゼンスの割り振りしかのこらないのだが)、本書はきわめて現実的な提案をした一書になっていた。

≪017≫  ハンチントンがこのような進言をするのは、そのうち西洋と非西洋とが大分断をおこし、西洋文明とイスラム・儒教コネクション文明とが衝突するだろうと予想したからだった。 この構図の前提には、近未来の世界は次のような八つの文明の時代を迎えるだろうという予想がある。西洋文明(欧米)、儒教文明(中華文明)、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥ文明、スラブ文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の八つである。

≪018≫  この構図の前提には、近未来の世界は次のような八つの文明の時代を迎えるだろうという予想がある。西洋文明(欧米)、儒教文明(中華文明)、日本文明、イスラム文明、ヒンドゥ文明、スラブ文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明の8つである。

≪019≫  この予想に関しては、これまで東アジアの片隅で扱われていた経済国日本が一個の独立した日本文明に“昇格”したことで、一部が沸いた。従来は日本は韓国などと一緒くたか、大きくは漢字文化圏としての中国文明の一隅におかれてきたからだ。しかし、予想分類が当たっているかどうかを議論してもあまり益はない。こういう分類は欧米社会が自身の未来に極端な不安をもつときにたいていあらわれるものなのだ。

≪020≫  ちなみに、この手の分類がやたらに話題になるようになったのは、ヨーロッパを敵味方に分けた第一次世界大戦で衝撃をうけたシュペングラーが、歴史をさかのぼって世界史上の文明圏を、エジプト、バビロニア、インド、中国、ギリシア・ローマ、アラビア、西洋、メキシコの八つに分類し、トインビーがこれを二六にふやしてそのうち一六がすでに滅亡したと整理したうえで、最後にのこったのが西欧キリスト教文明、東欧・ビザンチン文明、イスラム文明、ヒンドゥ文明、日本文明の五つだろうと予測したことに始まっていた。ハンチントンはこれを踏襲しただけだともいえる。

≪021≫  こういう分類はあまり有効とはおもえない。文明の構図の予想が役に立たないというのではなく、ハンチントンはまったくふれていないけれど、資本主義と自由市場を世界大にしてしまったことが、すでに文明の構図をまたいでしまったのである。あえてトインビーに懐かしい敬意を払っていうのなら、世界は「神」と「資本」と「散在体」だけが問題なのだ。それゆえそういう問題を除いて議論するのなら(あとは実践的なプレゼンスの割り振りしかのこらないのだが)、本書はきわめて現実的な提案をした一書になっていた。

≪022≫   ところで、文明が衝突するのかどうかをべつとして、これを戦争と政治とは何かという問題におきかえれば、まだまだ議論しなければいけないことはヤマほどにある。 そもそも戦争論と政治論がまったく成立しがたくなっているということが、なさけない体たらくなのである。クラウゼヴィッツやハンチントンのような戦略家は、最初から戦争にどのように勝つかを前提にしたから戦争を政治の継続というふうに見るだろうが、たとえばドイツのカール・シュミットは『政治的なものの概念』(未来社)で、政治は誰が敵かを決定し、戦争はその決定のもとに独自の規則を創案するだけだと考えた。またたとえばウォーラーステインは「余剰が集中する中核地域」が国家機構と政治機構をつくりあげるのだから、戦争も資本主義もそこに生ずると見た。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは『千のプラトー』(河出文庫)で、むしろ暴力装置は国家の形成を妨げることがありうるのだから、国家と戦争と資本はもともと異質なものであるはずだという見方をとった。

≪023≫  これらの議論の奥では、ジョルジュ・ソレルの『暴力論』(岩波文庫)やヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』(岩波文庫)が目を光らせている。暴力の正体を問わない文明論や戦争論は二一世紀には通用しないはずなのだ。加うるに、最近の戦争と政治の関係をさらに複雑で難解にさせているのは「抑止力」が戦争の裏の代名詞になったことと、「テロ」が戦争の対抗詞になったことである。 抑止力の問題が浮上したのは米ソの冷戦以来のこと、それからは世界中が「戦争を抑止するための戦力」のための戦争ばかりするようになったのだが、このときの議論とキューバ危機やベトナム戦争のときのアメリカのトラウマが、結局のところはまだ世界を覆っているわけなのだ。

≪024≫  テロの問題は、ハンチントンが本書を書いたときには思いもよらなかったであろう。自爆テロがこれほど横行するとは、イスラム過激派以外のだれにも予想のつかないことだった。それまでは、ハンチントンのみならず多くの歴史家や戦略家はなんであれ国家力や経済力を問題にしていればよかったのだが、それが自爆テロでは文明と文明が衝突したのではなく、文明と個人が刺し違えることになったのだ。

≪025≫  しかしテロリズムなんて歴史の最初から始まっていたし、フランスの歴史ジャーナリストが書いて話題をまいたローラン・ディスポの『テロル機械』(現代思潮新社)は、フランス革命こそが近代テロの起源だというふうに見たものだ。だからテロの歴史を言い出すと話は広がりすぎるのだが、少なくとも9・11以降のイスラム過激派テロをどう見るかということにかぎっても、テロと戦争と政治の関係は欧米側ではいまのところまったく思想にも戦略にもできないでいる。 テロは政治でも戦争でもない、わけではない。テロもゲリラも政治であって戦争なのである。それを封印するために戦争をしようというのは通らない。

≪026≫  戦争にはまがりなりにもグローバル・ルールというものがある。テロにはいっさいの法がない。そこでとりあえずイスラム過激派のテロを「信仰」とみなし、そこにイスラムと欧米の対立を別途に代入して読もうというのが、いまのところハンチントン以降の苦しまぎれの読み方になっている。 この見方が、欧米がつくったパラダイムのあいかわらずの押し売りであることは見え透いている。宮田律が『イスラム世界と欧米の衝突』(NHKブックス)で証拠を詳しくあげて書いていたけれど、中東に戦争を輸出したのはどう見てもアメリカだ。それを自爆テロが頻発してきたので、また戦争の正当性を個人の自爆のサイズにしたくないので、文明というサイズで言いくるめていると見なされても仕方がない。本当は戦争とテロのあいだのサイズ、すなわち「文化の衝突」こそが問題になるべきなのである。

≪027≫  さて、このようなことを綴ってきて、ちょっと心が傷むままに思い呼びさまされることが出てきた。さきごろ亡くなったスーザン・ソンタグが生前に「ニューヨーカー」に寄せた9・11についてのコメントがひどい晒しものになったという一件だ。 ソンタグのコメントは一〇〇〇語たらずのものであるのだが、それが深夜テレビのコメンテーターによって強調され歪曲され、「アメリカ人は臆病だ、テロリストは体ごとビルにぶつかっていったのに、アメリカ軍は遠くからミサイルを撃つだけだ」というふうに伝わっていったのである。これで一斉攻撃された。売国奴呼ばわりされた。ソンタグは大いに呆れた。


≪028≫  これは、ブッシュがテロリストを「臆病者」呼ばわりしたことをソンタグが皮肉った文章を、メディアがアメリカ人の勇敢とは何かという問題にすりかえていったという例である。経緯はともかく、いまやアメリカの戦争は「勇気」の問題になってしまったのだ。これは話にならない。これでは、フクヤマのいう「気概」も、さらには「正義」や「同盟」も、文明が営々と築き上げてきたコンセプトの大半も、いまやその意味すら崩れつつあると言われてもしょうがない。 こうした問題が何であったかということについては、いちはやくソンタグの一件を引いた大澤真幸が『文明の内なる衝突』(NHKブックス)という象徴的なタイトルの本のなかで言及しているので読まれるといいが、ことほどさように、いまだ文明論者というもの、「冷戦」にも「テロ」にも、また国内世論についても、有効な議論ができないままにいるわけなのである。それなのに事態はますます深刻になっている。ソンタグの皮肉がわからないというのなら、われわれはまだ「文明」に見放されているというべきだ。マルク・クレポンの『文明の衝突という欺瞞』(新評論)が、この視点で恐怖と敵意による政治学からの離陸を書いている。

≪029≫  こうした問題が何であったかということについては、いちはやくソンタグの一件を引いた大澤真幸が『文明の内なる衝突』(NHKブックス)という象徴的なタイトルの本のなかで言及しているので読まれるといいが、ことほどさように、いまだ文明論者というもの、「冷戦」にも「テロ」にも、また国内世論についても、有効な議論ができないままにいるわけなのである。それなのに事態はますます深刻になっている。ソンタグの皮肉がわからないというのなら、われわれはまだ「文明」に見放されているというべきだ。マルク・クレポンの『文明の衝突という欺瞞』(新評論)が、この視点で恐怖と敵意による政治学からの離陸を書いている。

≪027≫  さて、このようなことを綴ってきて、ちょっと心が傷むままに思い呼びさまされることが出てきた。さきごろ亡くなったスーザン・ソンタグが生前に「ニューヨーカー」に寄せた9・11についてのコメントがひどい晒しものになったという一件だ。 ソンタグのコメントは一〇〇〇語たらずのものであるのだが、それが深夜テレビのコメンテーターによって強調され歪曲され、「アメリカ人は臆病だ、テロリストは体ごとビルにぶつかっていったのに、アメリカ軍は遠くからミサイルを撃つだけだ」というふうに伝わっていったのである。これで一斉攻撃された。売国奴呼ばわりされた。ソンタグは大いに呆れた。

≪028≫  これは、ブッシュがテロリストを「臆病者」呼ばわりしたことをソンタグが皮肉った文章を、メディアがアメリカ人の勇敢とは何かという問題にすりかえていったという例である。経緯はともかく、いまやアメリカの戦争は「勇気」の問題になってしまったのだ。これは話にならない。これでは、フクヤマのいう「気概」も、さらには「正義」や「同盟」も、文明が営々と築き上げてきたコンセプトの大半も、いまやその意味すら崩れつつあると言われてもしょうがない。 こうした問題が何であったかということについては、いちはやくソンタグの一件を引いた大澤真幸が『文明の内なる衝突』(NHKブックス)という象徴的なタイトルの本のなかで言及しているので読まれるといいが、ことほどさように、いまだ文明論者というもの、「冷戦」にも「テロ」にも、また国内世論についても、有効な議論ができないままにいるわけなのである。それなのに事態はますます深刻になっている。ソンタグの皮肉がわからないというのなら、われわれはまだ「文明」に見放されているというべきだ。マルク・クレポンの『文明の衝突という欺瞞』(新評論)が、この視点で恐怖と敵意による政治学からの離陸を書いている。

≪029≫  こうした問題が何であったかということについては、いちはやくソンタグの一件を引いた大澤真幸が『文明の内なる衝突』(NHKブックス)という象徴的なタイトルの本のなかで言及しているので読まれるといいが、ことほどさように、いまだ文明論者というもの、「冷戦」にも「テロ」にも、また国内世論についても、有効な議論ができないままにいるわけなのである。それなのに事態はますます深刻になっている。ソンタグの皮肉がわからないというのなら、われわれはまだ「文明」に見放されているというべきだ。マルク・クレポンの『文明の衝突という欺瞞』(新評論)が、この視点で恐怖と敵意による政治学からの離陸を書いている。

≪030≫ 附記¶ハンチントンの『文明の衝突』をめぐって嵐のように巻きおこった論争については、ぼくはほとんどフォローしなかった。それこそ大澤真幸が『文明の内なる衝突』(NHKブックス)で書いていたように、ハンチントンの構図は「誰も本気になって主張していないのに、反論だけされている」という奇妙なところに立たされているともいえる。そういうなかでは、蓮實重彦と山内昌之がいちはやく世に問うた『文明の衝突か、共存か』(東京大学出版会)は時宜も論点も心得ていた。そのほか上にとりあげたものでは、ローラン・ディスポ『テロル機械』(現代思潮新社)や宮田律『イスラム世界と欧米の衝突』(NHKブックス)を勧めておく。アメリカの9・11反応についてはナンシー・フレイザーとエリ・ザレツキーの『9・11とアメリカの知識人』(御茶の水書房)などが参考になる。その後、「文明の衝突」は流行語のようになって、たとえばぼくの知人の町田宗鳳の『文明の衝突を生きる』(法蔵館)のような勇ましい本にもなったものだった。

≪01≫  一人の哲人が国民のすべてに何かを訴えることは、歴史上においてもそうそうないことだ。フィヒテがそれをやってのけた。レーニンや孫文や浜口雄幸やヒトラーやカストロのような政治家や革命家ではない。フィヒテは哲人であり、一介の大学教授だ。 

≪02≫  著述ではない。声を嗄らしての肉声の演説だった。マイクロフォンもなかった。それも一回や二回ではない。一〇回をこえた。なぜフィヒテはドイツの国民に向かって熱烈な演説を連打しつづけようとしたのか。その肉声で何を訴えたかったのか。 

≪03≫  ぼくがこの本の標題を知ったときの名状しがたい戦慄感のようなものは、何といったらいいか、ニーチェが「ツァラトストラかく語りき」とか「この人を見よ」と言ったということを知ったときと、よく似ていた。ドイツ国民に告ぐ? そのころのドイツとはどういう国だったのか。大群衆を前にして語ったのだろうか。いやいや、大学の先生がそんなことをするはずがない。そもそもいったい、このフィヒテという男は何者だったのだ? 

≪04≫  ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、一七六二年にザクセン地方ドレスデン近郊の寒村の職人の家に生まれた。八人きょうだいの長男である。幼くして聡明だったようだが貧しすぎて修学できず、近くの教会で聞くゲルマン神話に耽っていた。  

≪05≫  そういう少年フィヒテに興味を寄せた男爵ミルティツ侯がいて、そこに引き取られ、名門プフォルタ学院に入った。ここは青少年期のニーチェやランケが学んだところだ。一七八〇年にはイエーナ大学に進み、神学を修めた。ワイマール公国領の大学で、カール・アウグスト公のもとでゲーテが活動を始めると、たちまち文化センターとなり、シェリング、シュレーゲル兄弟、ヘーゲルらが学んだ。 

≪06≫  ところがその間にミルティツ侯が死去したため、学資がストップした。二六歳で研究を断念したフィヒテは、自殺を考えるほどの貧窮になったらしいが、友人の紹介でなんとかスイスで家庭教師の職を得た。このときカントのテキストを教材にした。 

≪07≫  カント哲学に関心をもったフィヒテは一七九一年にケーニヒスベルク(現在はカリーニングラード)のカント翁を訪ねた。七十歳に近かった。そのときのカントの示唆は体の血を清新にした。その気分のまま処女作『あらゆる啓示批判の試み』(哲書房・全集1)を書き、カントの紹介で出版にこぎつけた。評判がいい。 

≪08≫  一七九四年、イエーナ大学の教授職に就いた。「根本哲学」を主唱していたラインホルトの後任だ。すぐに『全知識学の基礎』(岩波文庫)を問い、知識人を唸らせた。これは惟うにイアン・ハッキングばりの編集的世界観の近代的な芽生えのひとつであって、またヘーゲルが組み上げることになる現象学の萌芽でもあった。 

≪09≫  一七九八年、三十代後半になっていたフィヒテはしばらく哲学雑誌を編集していたのだが、そこに載せた文章が無神論だとの非難をうけ、論争に発展した。「無神論論争」だ。翌年、イエーナ大学を追われるようにして辞めたフィヒテは、若きシュレーゲル兄弟、シュライエルマッハー、ティークらのロマン派の文人たちと交流するようになって、新たなドイツ人としての深い自覚に入っていった。フィヒテが「ドイツ」や「ドイツの魂」を強く感じはじめたのはここからだったろう。 

≪010≫  そこに立ち塞がったのがナポレオンである。ドイツ人にとってナポレオンの侵略がどういうものだったかは、日本人のぼくには想像を絶する。いろいろ書いてみたいことはあるけれど、その時代背景については略する。ともかくもフランス軍がプロイセンを支配するなか、ベルリン大学の哲学科の初代教授になった。 

≪011≫  フィヒテは何度も軍靴の音が高まるベルリンで講演に立ち、祖国の再生を訴えたのである。ウンター・デン・リンデン通りにある真冬のベルリン科学アカデミーの講堂だ。講演は一四回。「我々」(das Wir)を語った。それが『ドイツ国民に告ぐ』である。 

≪012≫  次のように演説を始めた。「独立を失った国民は、同時に、時代の動きにはたらきかけ、その内容を自由に決定する能力をも失ってしまっています。もしも、ドイツ国民がこのような状態から抜け出ようとしないなら、この時代と、この時代の国民みずからが、この国の運命を支配する外国の権力によって牛耳られることになるでしょう」。 

≪013≫  そして、次のような趣旨を激烈に語っていく。  

≪014≫  私がこれから始める講演は、三年前の冬に行った『現代の特質』の続きだ。私は先の講演においてわれわれの時代は全世界史の第三期にあたり、たんなる官能的利己心がそのすべての生命的な活動、運動の原動力になっているということを申しのべた。しかし同時にこれがために、利己心は行くところまで進みすぎて、かえって自己を失うに至ったのだとも申しのべた。 

≪015≫  これでは行方を失いつつあるドイツは救えない。私はこの講演をドイツ人のために、もっぱらドイツ人についての出来事に絞って語りたい。なぜドイツ人のためなのか。それ以外のどんな統一的名称も真理や意義をもたないからなのだ。 

≪016≫  われわれは、未来の生を現在の生に結びつけなければならない。そのためにはわれわれは「拡大された自己」を獲得しなければならない。それにはドイツはドイツの教育を抜本的に変革する必要がある。その教育とは国民の教育であり、ドイツ人のための教育であり、ドイツのための教育である。 

≪017≫  私のこの講演の目的は、打ちひしがれた人々に勇気と希望を与え、深い悲しみのなかに喜びを予告し、最大の窮迫の時を乗り越えるようにすることである。ここにいる聴衆は少ないかもしれないが、私はこれを全ドイツの国民に告げている……。  

≪018≫  フィヒテの講演は、このあと新たな教育の提案に移っていく。それこそはドイツ人の、ドイツ人による、ドイツ人のための教育計画とその哲学の披瀝だった。ここでその内容をあっさり要約してしまうのは、フィヒテの演説の熱情と口調を失わせるのでしのびないけれど、やむをえずかいつまむと、提案はおおむね六項目にわたっていた。 

≪019≫

 (1) 学校を、生徒が生み出す最初の社会秩序にするための「共同社会」にするべきだということ。
 (2) 教育は男女ともに同じ方法でおこなわれなければならないということ。
 (3) 学習と労働と身体が統一されるような教育こそが、とくに幼年期から必要であること。
 (4) 学校は「経済教育」をおこなう小さな「経済国家」のモデルであろうとするべきであること。
 (5) 真剣な宗教教育こそが「感性界」を可能世界にしていくはずだということ。
 (6) すべての教育は国民教育でなければならず、したがってすべての教育はドイツ人に共通のドイツ語でなければならないということ。 

≪020≫  この六項目だ。いまではそれほど画期的なことを主張しているわけではないように見えるかもしれないが、当時の教育論がスイスのハインリッヒ・ペスタロッチの民衆救済型の農場的教育論に代表されている時期に、教育をドイツ人の民族観念や言語感覚と根本的に結びつけ、それを熱情あふるる口調で主張しつづけたということは、やはり尋常ではなかった。 

≪021≫  フィヒテの思想は有機的で生命観に充ちていた一方、きわどいところも差別的なところもある。とくにユダヤ人については警戒を解かなかったし、しばしば排撃的な言辞を用いた。のちに反シオニストらがフィヒテに心酔したのはそのためだ。 

≪022≫  しかし、カント哲学を最初に継承したのもフィヒテだったのである。ヨーロッパの知的世界観は、フィヒテを外しては先につながらない。久保陽一の『ドイツ観念論とは何か―カント、フィヒテ、ヘルダーリンを中心にして』(ちくま学芸文庫)や大橋良介編『ドイツ観念論を学ぶ人のために』(世界思想社)などを覗かれるといい。 

≪023≫  フィヒテは「知識学」(Wissenschaftslehre)の人であった。「知識学を生きる哲人」であった。知識で生きるのでなく、知識学を生きるのである。こんな一節がある。「知識学をもつ者は、(略)知識学を生き、知識学を行い、自分のそのほかの知の内でそれを駆使する。(略)人は知識学をもつのではなく、知識学であるのであり、誰であれ、自身が知識学になってしまうまでは、知識学をもつことはない」。 

≪024≫  何かを覚悟しているような表明だ。知識ではなく知識学が血をもって生きる。これは知識学者になるということではない。机になるのではなく机学になるように、星を見るだけではなく星学になるように、存在を担うのではなく存在学になるように、知識に向かったり知識を取ったりするのではなく知識学になる。 

≪025≫  そんなこと、ありうるのだろうか。フィヒテはありうると見た。フィヒテのあとのヘーゲルも、ありうると見た。それが「ドイツ観念哲学」という、空理空論を怖れず、そこに全存在を投与してしまおうという、とんでもない哲学である。その全貌はともかくとして、こんなことが成立するために、フィヒテが前提にしたことがある。それは理性を理論的な理性と実践的な理性に分けないと決めたことだ。理論理性と実践理性は一つの理性の二つのあらわれであるとみなしたのだ。 

≪026≫  フィヒテの言う「一つの理性」とは「自我」(das Ich)である。たんなる自我ではないので、フィヒテは「絶対自我」とか「同一自我」とか「自我の原則」というふうにも言った。もし「一つの理性」が絶対的な原則をもちうる自我だとしたら、どうなるか。理論に傾く自我と実践に向かう自我は、その根元において統合(synthese)されているのである。絶対的自我の両面性のようなものが、われわれを考えこませたり、行動させたりしているということになる。 

≪027≫  このように自我があらわれることを、フィヒテは「事行」(Tathandlung)と名付けた。わかりにくい訳だけれど、平たくは「なりゆき」とか「なりふり」というところだろう。その「なりゆき」や「なりふり」を含む「事行」に理論理性も実践理性もひそんでいるとみなしたのだ。ただし、少し気になることがある。それは自我はずっと持続しているのかどうかということだ。また定常的なのだろうかということだ。定常的であってほしいので絶対的自我という想定をしていたのだが、そうでもないこともある。つまり「非我」(das Nicht-Ich)になっていることもありうる。 

≪028≫  こうしてフィヒテは、自我と非我を孕んだままに世界の全知識に向かえるような「原則」(Grundsatz)をもつ人間のありかたを、まとめて「知識学としての全部自己」というふうに捉えたのである。全部自己というのはぼくの翻訳だ。そのことを証明してみせたのが『全知識学の基礎』という、岩波文庫二冊分だった。  

≪029≫  フィヒテはベルリン大学の総長になったあと、チフスに感染して一八一四年、五一歳で急死した。後年、ヘーゲルは生前の強い希望で自分の遺体をフィヒテの隣に埋葬させた。フィヒテ亡きあと、ドイツ観念哲学はシェリングとヘーゲルに渡っていくのだが、そこにはドイツ・ロマン派の動向がつねに絡んでいった。 

≪030≫  そのドイツ・ロマン派の領袖であったシュレーゲル兄弟の弟フリードリヒ・シュレーゲルは、ドイツをつくったのはフランス革命とフィヒテの知識学とゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』だったと言った。きっとそうだったのだろうと思う。 

≪031≫  フィヒテはさらに次の次の時代の思想も予告していた。哲学は必ずやどこかで「絶対悪」を求め、いわゆるニヒリズムに達するだろうというものだ。この予告は当たっていた。時代思想はシェリングの「無底」やバクーニンの「無政府」をへて、ニーチェの「超人」にも向かったのである。  

≪032≫  こんな説明でフィヒテの知識学という怪物の輪郭が伝わったかどうかやや心もとないけれど、もう一言、加えておく。フィヒテは、こういうふうに「知識学としての全部自己」が動くのは、知識は必ず定立(These)と反定立(Antithese)の両方で動き出し、そのどこかで統合(Synthese)をおこしているからだとみなして、このような考え方の有効性を強調していったのだ。アリストテレス以来の弁証術(ディアレクティケー)は、こうしてフィヒテ、ヘーゲル、マルクスの弁証法になったのである。  

≪01≫  バロックの名は歪んだ真珠を意味するポルトガ語の「バロッコ」(barroco)から来ていると、ベネデット・クローチェは説いた。中世哲学者たちによる難解な論法のことをさす「バロコ」(baroco)に派生したとも言われる。 

≪02≫  美術史のバロックは十六世紀の後期ミケランジェロが試みた建築様式、ルーベンスやカラヴァッジョやベラスケスが二つの焦点をもって挑んだ絵画様式に始まる。音楽史では十七世紀半ばにモンテヴェルディ、クープラン、バッハによるバロック音楽の盛期が出現したとみなされてきた。フラスカーティの別荘群やコルネイユやモリエールの演劇にもバロックは及んでいる。ジョン・ダンやミルトンの詩もバロックだ。ぼくはベルニーニにこそバロックが極まっていると見てきた。 

≪03≫  マラヴィリア(maraviglia=不思議さ)とヴィルトゥオーソ(virtuoso=達人的博識)がバロックのめざましい特色なのである。ルネサンス様式が調和を重んじて円的な象徴力を達成しようとしたのに対し、バロックは楕円的な二焦点や多焦点による動向を好んだので、見るも劇的なマラヴィリアや極芸的な職人芸が見せるヴィルトゥオーソが卓抜な技能を発揮したのだった。 

≪04≫  しかし、こういう特色は多分に表現様式上のことであって、バロック社会のほうではカトリックとプロテスタントの両軸が同時に動き、中心のない社会の周辺ではさまざまな過剰と差別をともなう逸落がおこっていた。 

≪05≫  それというのもバロック様式は、一五四五年からほぼ十年にわたったトリエント宗教会議で議論も検討もされたように、キリスト教社会ではあくまでカトリシズムがつくりあげた芸術全般のこととみなされていたので、その周辺での出来事はバロック現象としては抜き出しにくかったのである。 

≪06≫  ヨーロッパの思想や哲学が神と人をつなぐ理性にもとづいて、プラトンとオリゲネスに注を付けるように発展してきたのは、その通りであった。けれどもその歴史には、グノーシスや神秘主義が隠秘されながらも脈動し、異端や魔女がみせしめの犠牲になってもいたのだった。いわば「アウトサイダーの歴史」があったのだが、それらの多くが隠されてきた。それがバロック社会では露わにならざるをえなくなったのである。本書はそこを注視した。 

≪07≫  バロック社会を覆っていたヨーロッパがどういう歴史に属していたかといえば、十六世紀から十七世紀にかけてのヨーロッパが三つの領邦圏によってつくられ、守護されていたと見るとわかりやすい。最もキリスト教的な「国王の国家」(フランス)、最も獰猛で意欲的な「カトリック王の帝国」(スペイン)、ローマ教皇から最も神聖だと認定されている「ペテロの諸都市群」(ドイツ)だ。 

≪08≫  本書は、この三つの領邦にまたがる時代背景のもとに出現した(あるいは出現させられていた)代表的な周辺集団をひとつずつとりあげ、その特質を独自に叙述し、歴史がつくりだした差別問題とマイノリティの問題とジェンダーの問題を扱った。バロック社会の芸術や思想だけでも複雑なのに、そのなかのマイノリティとジェンダーに分け入り、それを三つの領邦で検討しようというのだから、これはひたすら読みこむしかない。 

≪09≫  たいへん刺激的だった。すでに阿部謹也その他の功績によって、われわれは中世社会におけるマイノリティの問題をどのように受けとめればいいかの薫陶をうけているわけではあったけれど、その後の近世的なマイノリティの変更をうまく掴みそこねていたような気がする。それが本書では十七世紀前後の社会に食らいついて、高速で概括的ながらも、俯瞰できるようにしてくれた。素材にも富んでいるし、ハンス・マイヤーの名著『アウトサイダー』(講談社学術文庫)とともに考えさせられるところが多かった。

≪010≫  まずユダヤ人である。 ユダヤ人の系譜にアシュケナージ(離散したユダヤ人のうちドイツや東欧に移住した民)とスファラディ(スペインに移住した民)があることを説明抜きに前提にしていうと、すでにユダヤ人は十三世紀には儀式殺人と聖体冒涜をする連中だとみなされていて、はやくも五〇〇〇人がポグロム(大量迫害あるいは集団殺戮)にあっていた。 

≪011≫  そうでなくともユダヤ人は、ツンフト(手工業者のギルド)の利益のために都市社会から締め出され、保護税と特別税を納めるという差別を強いられていた。そこへもってきて、ユダヤ人には「イエスを真のメシアとして認めずに見殺しにした」という非難が被せられていた。そのためアシュケナージはポーランドに移住せざるをえなくなり、それができないユダヤ人はヴェネチアがそうなのだが、ゲットーに入れられた(一五一六)。ゲットーは一説によるとイタリア語で鋳造工場という意味で、そんなふうな呼び名がついたのは、最初の軟禁地区に鋳造工場があったからだったと言われる。 

≪012≫  こうして拭いがたいスティグマを捺されたユダヤ人たちは、黒死病(ペスト)の犯人扱いや魔女狩りによるユダヤ人差別が終わっても、なお迫害を受けつづけた。ヨーロッパの帝国の領邦制の確立のためには、ユダヤ人を迫害することこそが領邦を均質化する最も効果的な政策だったからである。だからたいていはユダヤ人条例というものをつくり、書籍没収、追放、経済活動の制限を明記した。 

≪013≫  中世近世型のこのようなユダヤ人迫害に新たな変化が見られるのは、重商主義政策の必要とともに「宮廷ユダヤ人」が登場してきたことによる。それは一方で、下層ユダヤ人、いわゆる「放浪ユダヤ人」や「乞食ユダヤ人」をヨーロッパ全域にふやしていくことにもなった。 

≪014≫  次に再洗礼派や心霊主義者たちがいる。 かれらはさまざまな意味からのルターの宗教改革に対する反発者ではあるが(だからプロテスタントもカトリックもまじる)、そこには、ツヴィカウの予言者として知られるダーフィット・ツヴィリング、ルターと対立してザクセン選帝侯領を去ったアンドレーアス・ボーデンシュタイン・フォン・カールシュタット、再洗礼派の急先鋒となったトマス・ミュンツァーなど、いちがいに一括りにはできない流派が並び立った。 

≪015≫  ここにはどこかアンチキリストに対する最終戦争をしなければならないのだというような終末論が共通して渦巻いていた。アンチキリストについては第三三三夜を参照してもらいたい(→千夜千冊エディション『文明の奥と底』)。その過激なあらわれが「新しきエルサレム」としてのミュンスター再洗礼派王国の実験や、メノー・シモンズのメノー派の結成となり、あるいはヤーコプ・フッターのフッター派兄弟団による共同生活などになっていった。 

≪016≫  これらの動向(そこに心霊主義や魔術師の動向も加わるのだが)を、総じてオカルティズムとして片付けるのは容易ではあろうが、著者はそうではなくて、ここに帝国確立のシャドー部分として、マイノリティの過補償がおこったとみなしている。再洗礼派たちは、包囲され緊張を強いられていたために、過激化をうながされたのである。  

≪017≫  差別は蔑視からというよりも、規則の例外から生まれた。これは「国王の国家」(フランス)や「カトリック王の帝国」(スペイン)や「ペテロ世襲領」(ローマ教皇領)において、しかるべき「規則」が普及すればするほどに必要となる「変則」の規定だった。 

≪018≫  規則が確立するのに最も必要なこと、それは、変則を明示することである。すなわち例外を目に見えるかたちで規定することだった。マイノリティとはその「規則」と「変則」の境界線の告示のためにつくられたといってよい。 

≪019≫  身体的な特徴ばかりが差別されたのではなかった。精神的な障害も同様の差別の対象だった。差別されたのは「狂気」と、そして「メランコリー」である。メランコリーはヒポクラテスが四体液説を唱えて黒胆汁が憂鬱の正体だとみなして以来、ひどく誤解された解釈のもとにあった。中世以降は憂鬱質(メランコリア)という体質だとみなされ、その影響が言葉づかいや想像力や行動に出るとみなされた。体質にも規格外があり、差別されたのである。 

≪020≫  しかしそうした体質がしばしば貴族や民衆から「奇蹟」を期待されていたことも奇妙な〝反対の一致〟ともいうべき事実で、メランコリーの持ち主も、その才能が天才的な表現力を示すならば、それはそれで喝采をうけたのでもあった。ルネサンスがメランコリーと天才の両方を輩出していることが刻印された背景には、こういう事情もあった。クリバンスキーとパノフスキーとザクスルによる『土星とメランコリー』(晶文社)などに詳しい。 

≪021≫  いささかわかりにくいのはユグノーの迫害である。なぜなら、ここには「マイノリティの勝利」があるかのように見えるからだ。 

≪022≫  プロテスタント宗教革命がフランスに波及して生じたユグノーは、多様な宗教避難民集団ともいうべきもので、ナントの勅令廃止が確定した一六八五年に逃亡したフランスのカルヴァン主義者だけをさすのではない。ワルド派、スペイン領ネーデルラントからのワロン人、フラマン系ネーデルラント人、ロマンス系スイス人、ブルゴーニュ低地のカルヴァン主義者たちのいずれもがユグノーだった。 

≪023≫  かれらには共通点があった。自分たちを「亡命者」とよんでいたこと、各領邦ではユグノー政策はことごとく移民政策の代名詞となっていたということだ。この移民政策の対象者としてのユグノーは、実は今日にいたる資本主義の〝隠れた歯車〟になっていたというふうに見られているところがある。かれらが高級な嗜好品の生産や流通に従事したことがその主な理由なのであるが、著者はユグノーを「資本主義の先兵」や「ブルジョアの先駆者」とみなすことには慎重になっている。 

≪024≫  それよりもむしろ三十年戦争によるヨーロッパ人口の急速な減少がユグノーを「マイノリティからの変容」に発展させたのではないかという視点をとった。 

≪025≫  このほか本書では、刑吏や皮剥ぎ職人や糞尿処理人などの「名誉なき人々」、正統と異端を告示するための「非嫡出の人々」、さらには男色者、公娼・私娼、カストラートなどのマイノリティあるいはアウトサイダーをとりあげて、かれらがいかに近代を準備する「神の帝国からのはなはだしい逸脱」という特徴をもたらされていたかを、ざっとスケッチする。 

≪026≫  著者はまじめな学者らしく、売春によるジェンダー差別については遠慮がちな慎ましいスケッチしかしていないけれど、マリア・テレジアのウィーンでは女帝自身が貞潔協会を設置したにもかかわらず、一万人以上の並の娼婦と四〇〇〇人の高級娼婦が活動していたことがわかっているように、売春とマイノリティの問題はこのような研究の中央に位置すべき問題だと書いた。これは江戸文化を華々しく論じようとすればするほどつねに付きまとう問題に似て、いまだにごった煮がおこりにくいものになっている。フェミニズムに片寄るか、歴史学としてあまりにもお粗末になるか、そのどちらかなのだ。本書もその点では旧範を脱してはいなかった。 

≪027≫  ヨーロッパがつくりあげた世界観はもともと歪んでいたのだろうか。それともヨーロッパは中心の世界観と周辺の世界観をたえずコントロールしていたのだが、そのコントロールがバロック社会とともに効かなくなったと見るべきなのだろうか。 

≪028≫  世界観の出来ぐあいはともかく、そこから派生した制度観や価値観はかなり歪んでいたと言うしかないだろう。コントロールしていなかったかといえば、コントロールは試みていた。しかし、それも宗教革命以降にアンダーコントロールになった、本書はそう見たのである。 

≪029≫  本書が最後に提示した視点には見るべきものがひそんでいた。それは、総じて差別とマイノリティの問題は、次の啓蒙主義の時代の活動や結社や思想のなかでどう扱われたのかということから、すべてもういちど検討されざるをえないのではないかというものだ。まさにそうなのだ。もしわれわれが今日なおマイノリティの問題の大半に展望を見いだせないでいるのだとすると、それは、啓蒙主義や民主主義というものが実はそうとうに「あやしいもの」だったということになるからなのである。 

≪01≫  伝統の蘇生を訴えているのに、どこかあさってに哀しい。文章にそういう風情が滲み出ているのではなく、あまり感情をこめずにエセ伝統と本来の伝統とを区分けしようとし、どちらかといえば図式的な伝統議論をしているのだが、それなのにおとといに物哀しい。 

≪02≫  それはおそらく本書の底流に、折口信夫が「歌の円寂する時」という言葉をつかって日本の詩歌の限界を嘆いたときの響きが、最初から最後まで低く唸っているからである。 

≪03≫  折口が「歌の円寂する時」というような言い方をしたのは、島木赤彦を悼んだときの文章だった。 そこで折口は、日本の歌には「歌を望みえない方へ誘ふ力」として3つの問題があるように思うと書いた。「歌の享けた命数に限りがあること」「歌人が人間として大きくも立派でもないこと」「批評がないこと」である。 

≪04≫  そこで折口は、日本の歌には「歌を望みえない方へ誘ふ力」として3つの問題があるように思うと書いた。「歌の享けた命数に限りがあること」「歌人が人間として大きくも立派でもないこと」「批評がないこと」である。 

≪05≫  そもそも折口にとっては、日本の歌は「呪言、片歌、叙事詩の三系統の神言」から発したもので、こうした発生の事情をつぶさに見ていると、「歌は性欲恋愛の気分を離れることはできないのではないか」と哀しい予想をしたのだった。 

≪06≫  第344夜の高橋睦郎『読み直し日本文学史』や第627夜の上田三四二『短歌一生』でも紹介したように、日本の詩歌にはこのように「発生の本質がその行方の宿命を決定してしまうようなところ」があったのである。 

≪07≫  本書にはこの宿命的予言のようなものが脈打っている。著者としては必ずしも折口の指摘に依拠して書いたわけではないだろうが、今日の日本に「伝統の創造力」がすっかり失われてしまっていることを縷々嘆きつつも、それが急速に恢復されたり、意外なところで蘇ったり、新たな起爆力をもつだろう可能性については、どこか諦めているようなところが見える。 

≪08≫  その気分、まことによくわかる。われわれはすでに昭和前史において伝統の恢復を居丈高に語って失敗し、昭和後史の産業社会ではとってつけたような伝統を接ぎ木して、またもや大失敗してきてしまったのだ。日本的経営などという言葉ももてはやされた。いずれもエセ伝統にかまけすぎていたか、さもなくば伝統の意味をとりちがえていた。  

≪09≫  こうなれば、よほどの方法か、よほどの構想か、よほどの才能かが出現しないかぎりは、著者が期待する伝統の再生はありそうもない。が、いまのところはそういう期待がもちにくい、と、著者は考えこんでしまっている。 

≪010≫  もうひとつ、本書からマイナーな調子を感じてしまう読者側の理由がある。 著者の辻井喬はよく知られるように、『わたつみ』『呼び声の彼方』の詩人であって、また『西行桜』『虹の岬』『風の生涯』の作家でもあって、かつ西武百貨店の総帥として長らく日本の産業社会をリードしてきた堤清二でもある。 

≪011≫  西武鉄道・駿河鉄道・近江鉄道を創設し、昭和に入っては衆議院議員を13期にわたってつとめた堤康次郎を父にもち、その父が築いた巨大な西武グループを、いまは西武ライオンズのオーナーとしても有名な堤義明と兄弟で二分して、長期にわたって西武・パルコ・西洋開発による経済文化時代を謳歌しながら、バブル期前後からはついに西武百貨店の系列の絶頂を失い、その経営からもその現場からも顔を隠しつつある産業人である。 

≪012≫  本書でも、第1章で伝統の後退と低迷が戦後の現代詩や現代文学にみられる「文学の衰弱」に顕著であることを述べたうえで、第2章でその「衰弱の原因」として、高度成長による社会的高揚感が文化の力を次々に“消費”して呑みこんでしまったのではないかということを論じているのだが、「やりたいだけやっておいて、よくそんなことを言うよ」と反感をもたれるのは覚悟していると、著者自身がわざわざ書いている。 

≪013≫  ぼくの周囲にも、堤=辻井のこうした“変節”にちょっと眉を顰めてみせる者がいる。しかし、何をもって眉が顰められるのか。 

≪014≫  そういう口性(くちさが)ない連中は、傲慢にも自分だけは変節がないなどと思っているのだろうか。自分一人だけは太平洋戦争に反対し、保守合同にクレームをつけ、安保を闘い、フェアな経済行為に徹し、芸術の停滞を身をもって挺してきたとでも言うのだろうか。こういう人物はバルザックが印刷業に手を出し、川喜多半泥子や渋沢敬三が銀行の頭取であったことなど、まったく知らないにちがいない。ぼくは“変節”をこそ支援する。 

≪015≫  それはともかく、本書は日本を代表してきた企業者が書き、その内容が「日本の恢復」を訴えるものであるだけに、どこか哀歓をともなわざるをえない輻輳感が醸し出されたのであったろう。しかしきっと、この人は最初からそういう哀歓を身近にいだいてきた人でもあったにちがいない。 

≪016≫  ずっと昔のことだが、こんなことがあった。唐十郎の状況劇場で夜遅くからのパーティがあったときだ。ぼくも招かれていて駅から歩いていたところ、唐の家に近づいたときに一台の黒塗りの車が道に止まった。そこから降りてきたのは堤さんだった。ずいぶん前で降りるものだなと思ったら、堤さんはそこでネクタイを外しちょっと髪を手でぼしゃっとさせて、それから歩いて唐家に向かっていった。この人、変節したのではなくて、ずっと以前から辻井喬であって堤清二であったのである。 

≪017≫  さて本書では、伝統文化は「その地域に住む人々がもっている感性に基礎をおいた思考様式や表現様式や美意識のこと」と定義されている。あたりさわりのない定義である。 

≪018≫  しかし、この伝統文化がうまくはたらかない。仮にそれの再生が叫ばれ実施されても、何かがうまくいかない。いったいどうしてなのか。そこで著者は、整理してまとめれば、次のように自問自答した。ここが本書の収穫だ。 

≪019≫  第1に、日本の伝統の内部にはもともと悪用されやすい性質が含まれているのだろうかという疑問。第2には、従来の伝統がそのままでは通用しないような経済社会が戦後民主主義と高度成長のあいだに(それともそのあとに)生まれてしまったのだろうかという疑問。第3には、伝統が正しく評価継承されないのは、批評の基盤が失われたためなのだろうかという疑問。第4に、何かの勘違いで伝統文化の意味をとりちがえた人たちが多数派となって、伝統文化の上に胡座をかいているのではないかという疑問。第5に、たとえば桑原武夫の「第二芸術論」による俳句批判のように、戦後社会のなかでは伝統文化を理解しない知識人によって日本の知性が占められたのだろうかという疑問。 

≪020≫  重要な問いである。かつ、この疑問はいずれも当っている。とくに第4の伝統文化に胡座をかいているということ、その胡座を支える座布団があまりに狭くなっていることは、ぼくもずっと気になっていた。ただし、伝統文化が悪用されやすい性質をもっているということは、どこの国にもあてはまる。 

≪021≫  われわれは日本の伝統文化というと、すぐに「もののあはれ」や「ワビ・サビ」だけを思いすぎる傾向がある。そのくせ「もののあはれ」と「ワビ・サビ」をちゃんと説明できる人なんて数えるほどしか見たことがない。第728夜に書いたこと、いったい誰が理解していただろう。 

≪022≫  もうひとつ、「もののあはれ」と「ワビ・サビ」以外にも日本文化のミーム(意伝子)は数限りなくあるのであって、むしろそれらの「多様で一途」を、たちどころに、いくらでも、時に応じて、大胆果敢に、「伝統の表象」として引き出せなくなっているのも問題なのである。 

≪023≫  たとえば縄文の感覚、天台本覚の感覚、「尽くし」の感覚、悪党の感覚、和儒の感覚、密教的神道感覚、水戸学的感覚、「カギリ」の感覚、飄窃の感覚、色悪の感覚、包装の感覚などは、いずれも日本の伝統文化や伝統思想のどこかに深く結びついている。ところが、これらが引っ張り出せない。ついつい日本の美学は「秋草」だと思いすぎている。 

≪024≫  これが勘違いであり、知識人や経済人の問題であり、つまりは悪用しか思いつかない原因なのである。 

≪025≫  そのうえ、その「秋草」程度の狭い伝統の座布団の上に坐っているままに、隣の座布団との交歓がちっとも進まないために、ラディカルな革新もおこらない。そこでプロデューサーがアラカルトのようにときどき“伝統名人”や“インチキ伝統”たちを集め、フェスティバルのようにこれらの交流を一日か二日だけ図るのだが、これでは焼け石に水なのだ。 

≪026≫  こうしたことを考えていくにも、この自問自答には有効な視点が隠されていた。本書を採りあげた理由は、ここにある。 

≪027≫  ところで本書には二度にわたって、教育改革国民会議が2000年の暮に提出した「教育を変える十七の提案」にしきりに文句がつけられている。 

≪028≫  提案には3カ所に「伝統」という言葉が出てくるらしいのだが、そのいずれもが弁解がましくて、とても読んではいられないという文句である。とりわけ「伝統や文化の認識や家庭教育の必要性の強調は決して、偏狭な国家主義の復活を意図するものではない」というくだりなど、語るに落ちたというか、まったくもって噴飯ものだと批判する。 

≪029≫  たしかに、このような噴飯ものの記述がまかり通っている以上、また、このようなことを議論できる俎上が論壇やメディアや組織の中に準備されていない以上、先に上げた5つの疑問を解消できる素地など、なにもできてはいないと思いたくなろう。だからまずもっては、あの疑問にそれぞれが答えてみるべきなのである。 

≪030≫  ぼくとしてはもっとラディカルに伝統を議論したほうがいいとは思うけれど、おそらくはこのあたりこそが今日の日本のレベルに妥当した「打撃点」なのだろう。 

≪031≫  それにしても、なぜ日本の伝統文化は、折口の「短歌の本質が短歌を滅亡させねば止まないだらうといふ哀しみを抱いてゐる」という方向を抱えたのだろうか。 

≪032≫  それが歌詠みが抱えた宿命だけではないだろうことは、はっきりしていよう。邦楽だってこれを抱えて、すでに説経節や隆達節や豊後節を見失い、近代になっては浪花節や女義太夫を壊滅させてきたわけである。しかし一方で、こういうことも同時に自問自答してもよかったのである。 

≪033≫  たとえば、川瀬敏郎の花は伝統の再生ではなかったのか、高倉健の映画的生き方は「日本」ではなかったのか、桂米朝の上方落語は何だったのか、米山正夫と美空ひばりの『車屋さん』は文化ではなかったのか、ラモス瑠偉が日本に帰化したのはサッカーの日本化ではなかったのか、琉球沖縄のエイサーの若者たちによる歌と踊りはどうなのか、島田正吾が米寿をこえて独演しているのは「翁」とはちがうのか、鈴木清順の映像は日本思考ではなかったのか、というふうに。 

≪034≫  このあたりのこと、一度、ネクタイをはずした堤清二さんと話してみたい。 

≪01≫  抗しがたい進歩の願いをこそ、抗しがたい退行の呪いと見なければならないことがある。時代を大胆に前に進めるのは賢しらな正の理念ではなく、一見しては寂寞を装う負のCPUであるときがある。 

≪02≫  このところ、ぼくが「負」から見る歴史観や文化論を断片的に披露しはじめたことについて、各方面からちょっとした共感と応援の声が上がっていて、それはそれで嬉しいのだが、その一方で、なぜ「負の領域」をわざわざ強調するのか、そのことが文化の歴史や将来にとって重要である意味がもうひとつよくわからないという声も上がっていた。そこで今宵はいつもとは異なる角度から、歴史文化において「負の領域」や「負の見方」というものがどのようにありうるかということを、少々ながら説明しておきたい。そのために対抗文化的に選んだのが本書である。 

≪03≫  著者はぼくより少し上のハーバード大学出身の文学研究者で、インディアナ大学で英文学を教えたあと、「ヴィクトリアン・スタディーズ」という研究誌を編集していた。本書『パンとサーカス』は「負の古典主義」というキーワードによって欧米の知の系譜を浮き彫りにしようとしたもので、かなり話題になった。 

≪04≫  狙いはマスカルチャーの衰退した本質に迫ろうというもので、厖大な「歴史追随からの離反者の感覚と思想」を適確に案内した。かつては歴史に「待った」をかける装置がはたらいていたという見方にもとづいて、その装置を「負の古典主義」と名付けたのだった。 

≪05≫  標題の『パンとサーカス』はユウェナリスが古代ローマを表現するときの詩篇に使った言葉で、アーノルド・トインビーが「いまやアメリカは古代ローマ帝国が代表しているパンとサーカスを代表している」と言ったことをうけて、いたずらに騒ぎたてるマスカルチャーの象徴に見立てたものである。 

≪06≫  古代ローマ帝国で熱狂されたパンとサーカスが帝国の文化をつくれなかったように、ブラントリンガーはアメリカのマスカルチャーは終末的なパンとサーカスを性懲りもなくコピーしつづけているだけと見た。そこまでは、いい。 

≪07≫  本書で「負」を説いたり広めたり象徴化したとみなされたのは、古代では『サテュリコン』のペトロニウスや『スペクタクル(見世物)について』のテルトゥリアヌスなどのことである。近代では『モーパン嬢』のテオフィル・ゴーティエ、あいかわらずこういう場面では人気のある『チャイルド・ハロルドの巡礼』のロード・バイロン、『ジェルミナール』のエミール・ゾラ、世紀末からは多くの例が提出されているが、『さかしま』のユイスマンス、『ウォルフィング族の家の物語』のウィリアム・モリス、『サロメ』のオスカー・ワイルド、『荒地』のT・S・エリオットなどが負に列せられている。 

≪08≫  現代では『反抗的人間』のアルベール・カミュ(これは半分だけ)、『そこにあるもの』のイエールジ・コジンスキーたちである。 

≪09≫  歴史に「負の装置」があることを見抜いた者は、けっこういた。なかでそのことを本格的に論じた識者を、ブラントリンガーも何人かとりあげた。 

≪010≫  たとえば、『近代画家論』のジョン・ラスキン、『あれか、これか』のキルケゴール、『悲劇の誕生』のニーチェ、『幻想の未来』のフロイト、『西洋の没落』のオスワルト・シュペングラー、『大衆の反逆』のオルテガ・イ・ガセット、『理性の腐蝕』のマックス・ホルクハイマー、『否定弁証法』のテオドール・アドルノ、そして『パサージュ論』のヴァルター・ベンヤミン、『エントロピーの法則』のジェレミー・リフキン、『メディアの理解』のマクルーハン、『神話作用』のロラン・バルト、『批評の解剖』のノースロップ・フライなどだ。 

≪011≫  この顔ぶれの選び方には恣意的な著者の独創が生きているわけではないが、そこに共通する特徴は、いずれも増長しすぎた歴史の進化幻想に鉄槌を下したということにある。ここに列せられたのは、コリン・ウィルソンふうにいえば社会歴史の本流に抗したアウトサイダーなのである。 

≪012≫  かれらはどこにいたのかというと、その立っているところが、そもそも「負の領域」だった。著者はかれらのことを「負の古典主義者」というふうに名付けた。この指摘はまあまあ当たっている。だからここまでも、いい。 

≪013≫  しかし本書を読んでいると、この視点がいまひとつ深まっていかない。一人一人の感覚と思想にかかわりすぎていて、ただの評論になった。文学研究者がよくはまりこむ陥穽で、これではせっかくの設定が躍動しない。そこでぼくが著者の視点の裏側から主題をかいつまむことにする。 

≪014≫  これらの顔ぶれがもたらす意味は「最良の稀少性」ということである。たとえばジョン・ラスキンは産業社会がまさに華麗に登場している只中で、芸術のもつ稀少価値を説いた。オスカー・ワイルドは当時はまったく肯定的な見方をされなかったホモセクシャルな感覚を作品にも自分の生活表明にもあらわした。アドルノやホルクハイマーは時代が信じて疑わなかった「理性」に疑問を呈し、理性の形骸だけを偽装するメディアの文法を警戒すべきだと説いた。 

≪015≫  いまふりかえれば、ラスキンの芸術価値もワイルドのゲイ感覚もアドルノの理性批判も、すでに“常識”になっているが、けれども当時は、そのような見解を表明することそのものが「負の価値」のきわどい提案だったのだ。 

≪016≫  われわれがおおかたの歴史で体験してきた「力」は、象徴的には3つの力としてはたらいていた。ひとつは「神話の力」、ひとつは「家の力」、ひとつは「権力者の力」である。ところが近代が爛熟し、20世紀になってみると、予想もつかない力が社会を支配しはじめていた。第一にはテクノロジーと生産力の圧倒的な力が大手を振った。第二に、急速に魔王のような姿でマスメディアとマスカルチャーの力があらわれた。そして第三に、その正体すら見当のつかない「大衆心理」という力が加わった。 

≪017≫  この20世紀を支配する新たな3つの力には強力な共通性があった。それは「稀少性の否定」ということだ。多数が向かったところを正解にするということだ。仮に世の中に稀少な魅力をもつ者があったとしても、マスメディアやマスカルチャーがこれを放っておかない。すぐさま陽の当たるところに引き出し、これをタカをくくった評価額だけで誉めそやし、多数の目にさらす。そしてそれが損なわれたとたん、タバコの吸い殻のようにポイ捨てをする。 

≪018≫  それでも「いったんは脚光を浴びる」ということが人々の願望になったので、誰もが稀少価値のままでいることなどいっこうに大事にしなくなったのだ。「それは売れているの?」「そいつは有名な人なの?」、これで終わりだ。 

≪019≫  今日では、3つの力は、国力と産業界と流行という魔法によって守られている。第一のテクノロジーや生産力は国力にとっても産業界にとっても金科玉条になった。第二のマスメディアとマスカルチャーは国力と産業界と流行をおこすための情報コミュニケーションの前提を担っているとみなされる。第三の大衆心理は、これが応援につかないかぎりは選挙もサッカーもCDもない。不幸なことではあるけれど、この3つの力に対抗できるものはない。 

≪020≫  こうして、国家とマスメディアと大衆の仕事には「ステレオタイプとポピュラーアイドルをつくること」という路線が勝ち誇ったように確立してしまった。つまりはローマ帝国やナチスやスターリンと同じことを、現代の「国家とマスメディアと大衆」はそれぞれ自分の仕事としてしまったのである。 

≪021≫  こうなると、稀少性は廃絶の対象になるか哀れみの対象になる。売れないタレントはテレビからただちに排除され(あるいは「お久しぶり番組」の餌食になり)、売れない商品や書物は商店から黙って追放される。それで自由資本主義が守られるのだから、それでいいじゃないかという企業や商人や消費者の立場もある。しかしこれでは価値観など、何も生まれない。新しい価値観が生まれないだけではなく、古い価値観が蘇らない。 

≪0≪022≫  すべては「正」に向かってのみ陣容をととのえるだけなのである。仮に「負」がとりあげられることがあったとしても、それはたいていは「正」から「負」に転落したものとして世の中に晒される。 

≪023≫  ここで注意するべきことは、マスメディアがポピュラーアイドルをつくっていることはみんなが知っているが、同時にこの社会が価値に関するステレオタイプ(典型)だけを次々に量産していることは気がつきにくいということである。 

≪024≫  ステレオタイプばかりがつくられると、いったい何がまずいのかといえば、その奥にあるはずのプロトタイプ(類型)が見えなくなり、さらにその奥にあるアーキタイプ(原型)に目が届かない。 

≪025≫  たとえばの話、いまブティックや携帯電話は社会のステレオタイプになっている。どこにも同じものがある。それはそれでかまわないのだが、ステレオタイプとしてのブティックや携帯電話の記号力だけが社会を覆ってばかりいると、その奥にある「店とは何か」「電話とは何か」というプロトタイプを問う者はまったくいなくなる。その歴史も忘れ去られていく。 

≪026≫  たとえばの話、いまブティックや携帯電話は社会のステレオタイプになっている。どこにも同じものがある。それはそれでかまわないのだが、ステレオタイプとしてのブティックや携帯電話の記号力だけが社会を覆ってばかりいると、その奥にある「店とは何か」「電話とは何か」というプロトタイプを問う者はまったくいなくなる。その歴史も忘れ去られていく。 

≪027≫  そこへもってきて大衆心理が世の中のすべての決定権をもつということになると、われわれの歴史文化にひそんできたアーキタイプが何かということは、ほぼ看過されていく。これこそが古代ローマ帝国以来の「パンとサーカス」現象なのである。 

≪028≫  古代ローマだけではない。どんな時代でも、大衆はパンとサーカスに群がる。だからそれを巧みに用意する連中もどんな時代にもいる。たいていそれが危険であるとは最初は思わない。 

≪029≫  つい最前のこと、小泉純一郎や田中眞紀子を日本の大衆心理が圧倒的に支持したことは、日本人があのときにどんな政治的プロトタイプを希求していたかという議論にはけっしてならず、またその二人の蜜月人気がすぐに衰えたことについても、日本人のどんな社会文化上のアーキタイプが動いたかという話にはまったくならなかった。ただひたすら「そういうこと」が興り、「そういうこと」が廃れただけなのだ。つまりはステレオタイプがつくられただけなのだ。 

≪030≫  かつてヘルベルト・マルクーゼはこうした現象を危惧して、今後の社会や会社が「一次元的人間」によって埋まっていくと、同名の本(河出書房新社)のなかで予測した。 

≪031≫  「一次元的人間」とはマスカルチャーや大衆心理に迎合する人間のことである。オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)において、こうした危惧を1930年代の大衆の登場のなかに見抜いていた。大衆は罪の意識なく、社会の善意と悪徳のシンボルをその時代社会のイコンの何人かに押しつけ、その判定者になっていく。 

≪032≫  オルテガは、こうなってはすべての信念が「思いこみ」となり、すべての観念がたんなる「思いつき」となっていくだろうことを予告した。一方また、ロラン・バルトが『神話作用』(現代思潮新社)に書いたことは、こうした危惧をおおいかくす現代の記号商品を新たな神話作用とみなせるかどうかという検討だった。 

≪033≫  検討してみてどうだったかというと、コカ・コーラとココ・シャネルと毛沢東を一部の表現者と大多数の大衆がステレオタイプにすることを望んだということなのだ。稀少性をなくすこと、それが大衆の望みだったのだ。そして、すべてがすっかりそうなってしまったのである。マルクーゼやオルテガやバルトの危惧は当たったのだ。 

≪034≫  理由ははっきりしている。「稀少性を稀少性として表示できる装置」が社会から姿を消してしまったからだ。わかりやすくいえば、変な文学もシスターボーイもヤクザも不良もなくなったのだ。どんなこともめずらしいことではなくなったのだ。 

≪037≫  問題はこのような「負の装置」はもはや発動しないのかということである。むろん、そんなことはない。むしろいまこそ「負の装置」が敢然と現代史の最前線に登場すべきときなのである。 

≪038≫  それには先にあげた3つの力にときには背いて、新たな「技」と「メディア」と「少数者」を信用しなければならない。多数ではないもの、強くはないもの、やや目立たないものに注目しなければならない。それはマスカルチャーの「正」からすれば「負」に見える。しかし、話はそこからなのである。 

≪039≫  ぼくが『ルナティックス』(中公文庫)、『外は、良寛。』(芸術新聞社)、『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)で始めたことは、そういう負に見えるものが、しかしながら今日においても「負の価値観」として燦然と光りうるはずだという根拠をいくつか示すことだった。ついで『日本流』『日本数寄』(ちくま学芸文庫)では、そのような価値観は「負の美意識」として日本の歴史文化のなかにいくらでも脈動していたことを示した。 

≪040≫  鴨長明、ティコ・ブラーエ、本阿弥光悦、カラヴァッジョ、三浦梅園、坂本龍馬、ガリバルディ、宮沢賢治、マレーヴィチ、ドゥ・ブロイ、本田宗一郎、中川幸夫らは、「正」と「勝」の砲列に「負」をもって突っ込んでいった。なぜ、そんなことができたのか。「正」と「勝」のほうに慢心や量産がはびこり、革新力と先鋭力が鈍っていたからだ。 

≪041≫  市場やマスカルチャーが「負」に鈍感になっているのは、不幸なことである。美輪明宏が『ああ正負の法則』(パルコ出版)でとっくに言っている。「負の先取りこそが社会と人生をつくる」と。 

≪01≫  半年前、イスラム過激派による9・11同時多発テロがおこり、その後もパレスチナで自爆テロが連打されていった。世間は騒然としたし、溜飲を下げた輩も少なくなかったが、論壇は静まりかえっていた。知識人たちはアメリカ叩きが用意周到な大規模テロに依っていたことに啞然とし、過激なムスリムが引っきりなしの自爆テロに徹していることに、何の解釈もできなくなってしまったようなのだ。そんなとき、何度かルネ・ジラールの言葉が耳もとで囁いていた。
「殺さないために命を投げ出すこと、そうすることによって殺しと死との悪循環から抜け出すために、自分の命を投げ出すことをためらってはいけない」 

≪02≫  半ばは自爆テロを勧めているのかと感じられるような言葉づかいだが、そうではない。
「世の初めから隠されていること」は暴力の正体だということを言いたくて、こんなふうに書いていた。
論壇の体たらくをよそに、ぼくはあらためてジラールを読んでみる気になっていた。  

≪03≫  ジラールは1972年に記念碑的な『暴力と聖なるもの』(法政大学出版局)を発表して、暴力が民族学あるいは民族心理学の課題に所属すべき問題であること、共同体の維持と成長に不可避なものであること、暴力は暴力を防止するために対向的に発生しつづけるものであることなどをつきとめていた。  

≪04≫  その奥でジラールが考察したことは、「供犠」と「復讐」には必然的な、もっとはっきりいえばどうしようもないような相互関係があるというものだった。 

≪05≫  ということは、供犠には必ず犠牲者がともなっているのだから、その社会ではなんらかのかたちで殺害や殺害に匹敵する行為が正当化されているということになる。殺害に匹敵する行為には、たとえば排除・放逐・左遷・弾劾・捕縛・禁錮・拷問などがある。いずれもパワーハラスメントという意味で「暴力」である。きっかけや理由はなんであれ、その暴力は大は国家や民族による戦争から、小は仲間うちの「いじめ」やリンチまで、多種さまざまだ。 

≪03≫  ジラールは1972年に記念碑的な『暴力と聖なるもの』(法政大学出版局)を発表して、暴力が民族学あるいは民族心理学の課題に所属すべき問題であること、共同体の維持と成長に不可避なものであること、暴力は暴力を防止するために対向的に発生しつづけるものであることなどをつきとめていた。  

≪04≫  その奥でジラールが考察したことは、「供犠」と「復讐」には必然的な、もっとはっきりいえばどうしようもないような相互関係があるというものだった。 

≪05≫  ということは、供犠には必ず犠牲者がともなっているのだから、その社会ではなんらかのかたちで殺害や殺害に匹敵する行為が正当化されているということになる。殺害に匹敵する行為には、たとえば排除・放逐・左遷・弾劾・捕縛・禁錮・拷問などがある。いずれもパワーハラスメントという意味で「暴力」である。きっかけや理由はなんであれ、その暴力は大は国家や民族による戦争から、小は仲間うちの「いじめ」やリンチまで、多種さまざまだ。 

≪06≫  制裁する側はパワハラによって相手を排除したことを、その社会や仲間のために必要な供儀であったと正当化する。ジラールは、共同体がそういうことをするのは「危機を解消し、共同体を自己破壊から救う手段」だとみなすからだと説明した。湾岸戦争やアフガニスタン空爆は、そのようにしておこった。  

≪07≫  それなら、やられたほうはどうなるか。攻撃された側も同様のルールにもとづいた復讐や反撃をおもいつく。当然の報復だ。自分たちの仲間が殺されて、相手方がそれを供儀の正当性だと強弁するなら、本当の供儀のルールを教えてみせてやるという反撃だ。これまた暴力を伴うことになる。 

≪08≫  攻撃した側もパワハラの理屈をふやす。たとえば、相手にはちゃんと事前に警告や経済制裁などをしたではないか、その警告を聞かなかったからあなたがたに犠牲が出たなどという理屈を持ち出すのだが、問題は理屈などではなく、どんな犠牲が出たかなのである。だから必ず互いが互いを制裁するための暴力の行使に向かう。こうして、暴力は暴力を生み、暴力の連鎖はとまらない。ときに暴力の手段も選ばれなくなっていく。テロもそのひとつである。 

≪09≫  そしてそのたびに「犠牲」と「復讐」の道徳と意思が、つまりは正義と憎悪が、その社会や共同体のなかで強化されていく。暴力がなければ正義もつくれなくなっていく。 

≪010≫  ルネ・ジラールはこのようなことを『暴力と聖なるもの』で説いた。しかし、それはまだ半分の主張だった。もう半分の考察のほうが大事だ。このような暴力を必然化する起源がそもそもは「文明の初動」や「神との関係」から生じていたのではないかという議論だ。本書『世の初めから隠されていること』は、この、もう半分の議論を徹底してみようという企図だった。 

≪01≫  ときどき涎がたれそうになる。ヨーロッパの古い図書館が軽いモノクローム写真とあっさりした解説入りで紹介されているだけなのだが、そこからはいつ見ていても「書物の殿堂」に賭けた人々の歓声と溜息のようなものがうんうん洩れてくる。 

≪02≫  図書館はカリマコスが活躍したアレクサンドリア図書館をはじめ、古代地中海世界においてすでに栄えていたけれど、ヨーロッパが各地に図書室(ヴィヴァリウム)や写本室(スクリプトリウム)を常備するようになったのは、修道院が発達してからのことである。そのころは「本をもたない修道院は武器をもたない要塞のようだ」と言われた。 

≪03≫  ついで13世紀のおわりころからコレギウム(学寮)とコレッジオ(大学)が次々に誕生し、そこにスコラ哲学が流行浸透すると、写字生と写本商人が急速にふえていって、図書館に人が集まりはじめた。1298年のソルボンヌ大学には28基の書見台があった。ただし、ここにはまだ書棚(書架)の本格的なものがない。多くの書物は祭壇の近くや壁の空間や奥の間にしまわれていたり、書見台に鎖でつながれていた。  

≪04≫  ヨーロッパの図書館が自立し、装飾され、みずからの威容を誇るのはルネサンスに入ってからである。 最初は、多くの文化遺産と同様にフィレンツェにコジモ・デ・メディチがマルチアーナ図書館をつくった。三廊式の均斉のとれた図書空間は、その後のイタリア図書館のプロトタイプとなった。本書にも収録されているチェゼーナのマラテスタ図書館は、このマルチアーナをモデルにつくられたものだが、天井のヴォールトと列柱と書見台の比率が息を吞む美しさになっている。それだけでなく、ここは、この図書館の主のノヴェッロ・マラテスタが1447年からたった1人の写字生ヤコポ・ダ・ベルゴーラに託してつくりはじめたコレクションの小さな宇宙ともなったところだった。 

≪05≫  活版印刷の本がふえるにしたがって、各地に市立図書館ができていく。いわゆる「リブリエ」だ。ニュールンベルク、ウルム、フランクフルト、ハノーヴァー、リューネブルク、ダンツィヒ、リューベック。これらが16世紀の流行だ。ドイツが牽引した。リューネブルクのリブリエのゴシック式の交差ヴォールトに包まれた天上界のような図書空間を見ていると、そこで天使たちと隠れん坊がしたくなる。  

≪06≫  ここまでは建造物そのものが図書の配列を象徴していた。その代表は、ぼくの好みでいえばダブリンのトリニティ・カレッジの図書館である。こういう図書館では存在がすべての書列に吸いこまれたくなっていく。それでも、これらはまだしも建物の設計力が書籍を支配していた。ここから先は「書棚の意匠」が書籍空間そのものとなって、ぼくの興奮が急激に増していく。 

≪07≫  書棚が書列であって、書列が書籍であるような「知の構え」と「棚の構え」の連携調和は、ぼくの知るかぎりはプラハとウィーンに起爆した。 

≪08≫  プラハのシュトラホフ図書館には「神学の間」「哲学の間」などがそれぞれ威容を誇っているが、そこには壁と棚と書とを隔てない美神が、いいかえれば知の驚きと美の喜びを隔てない美神が、びっしり棲みこんでいる。天井のフレスコ画はシアルド・ノセツキーとアントン・マウルベルチが描いた。ウィーンはハプスブルク家の居城ホーフブルクにあるプルンクザール図書館だ。入口はヨーゼフ広場のほうにある。360度が20万冊の本だらけの威容からは、カール6世やマリア・テレジアが吸い込んだ覇気が吐き出されているようなのである。 

≪09≫  かつてパリの一隅でそんなような体験を身近かにしたことがあった。ピエール・ド・マンディアルグの書斎に案内されたときである。その書棚は広間の一方の壁で波打っていた。それはこの官能的な作家の呼吸のようだったのだ。マンディアルグは天界のような図書館や洞窟のような図書館の感覚を部屋の一隅にしたかったのだと言っていた。 

≪010≫  図書館とは、眠りに入っていたいっさいの知の魂を呼び醒ますための時空間起動装置のことである。それらはいったんは眠りこんでいた書籍をその胸に深く抱きこむだけに、どんな空間より死のごとく静謐であり、そのくせ、その1冊にちょっとでも目をいたせばたちまちに知のポリフォニーが次々に立ち上がってくるのだから、どんな空間よりも群衆のごとく饒舌なのである。 

≪012≫  このあと、ぼくがするべきことがあるとしたら、アルセーヌ・ルパンとなって世界中の図書館の書籍を盗視しまくるか、クリスト・ヤヴァシェフとなって世界中の気にいった図書館を巨大な布で包みこんでいくか、あるいは、まことに独断に満ちた図書館を密かに構想して地上につくりあげるか、それとも、それらすべての願望をこめて、ネットワーク上の一角に巨大な空中楼閣のような電子書物都市、いわば「仮想する図書街」を出現させるかだけなのである。 

≪011≫  静謐であって饒舌であり、一声一冊ずつがポリフォニックに連鎖する図書館。死の淵であるようでいて過激な生命の記号群であるような図書館。こんなものは、人類がつくりあげた時空間起動装置のなかで類例がない。  

≪013≫  老い先短い先行きをおもえば、こんなことばかりを妄想しているだなんて、ほんとうに困ったことだ。 

≪01≫  一七六二年、ユグノーの商人ジャン・カラスが自分の息子を殺したという科で、トゥールーズの高等法院で死刑を宣告された。悪名高いカラス事件だ。 この事件に関心をもったヴォルテールは、翌年に『寛容論』(中公文庫)を書いた。その二年後にはカラスの冤罪を問うて、再審による無罪を導いた。ヴォルテール七一歳の最晩年のことである。 

≪02≫  たいそうな美談のように思えるが、『寛容論』を読んでみると、文体はいささか嘲笑的で、議論も挑発的なもの、必ずしもそういうふうに受けとれない。しかしそれがヴォルテールの意図だとも見えてくる。ヴォルテールを読むというのは、このへんの按配が微妙なのである。 

≪03≫  宗教革命このかたフランス社会を乱してきたのは宗教的熱狂者であり、その代表がカトリックに迫害されたユグノーだった。その後、状況は変化して、統治は強く、社会はそこそこ穏健に、習俗はけっこう温和になったはずである、とヴォルテールは書く。たしかに一六九四年生まれのヴォルテールが育った環境は、ブルジョワが安定した統治のもとに穏健に活動できた時期で、哲学は迷妄を振りきって「理性と知性」を啓蒙できるようになっていた。時代社会は寛容になってきたはずなのである。 

≪04≫  だとすると、カラス事件で高等法院が下した判決は時代錯誤の不寛容だったということにすぎない。時代を逆行させたにすぎない。そう、ヴォルテールは言うのだ。いったい何を言いたいのか。にわかには掴みにくい。 

≪05≫  ヴォルテールが『寛容論』を書いた約一〇〇年前、ジョン・ロックが寛容についての何本かの論文を書き、一六八九年に『寛容についての手紙』(岩波文庫)をまとめた。  

≪06≫  イギリス(イングランド)は英国国教会(アングリカン・チャーチ)を国教にしていたが、そのころジェイムズ二世はプロテスタントも認めるという寛容政策を打ち出していた。ロックはロックで、ホッブズの『リヴァイアサン』(岩波文庫)に惹かれ、宗派の立場には寛容であるべきだという見解に達していたのだが、一代前のチャールズ二世の反対者と交流したことを咎められてオランダ亡命を強いられていた。そこで『寛容についての手紙』で、①聖俗を分離させること、②為政者は個人の信仰問題に干渉しないこと、③宗教的認識についての正否を問える知識には確実なものがないこと、などを強調した。  

≪07≫  ヴォルテールは、この考え方をカラス事件に援用したようだ。なぜ、寛容にこだわったかというところに、啓蒙思想の特色を解くヒントがある。  

≪08≫  「寛容」(tolerance)の語源は〝endurance〟とか〝fortitude〟と同じで、もともとは「耐える」「がまんする」という意味だった。それが「相手を受け入れる」というふうに使われるようになったのは十五世紀に入ってからで、とくに十六世紀の宗教改革と宗教戦争をへて、自分たちの心の持ち方に「寛容力」があるかどうかという踏絵のような使用法が出まわった。 

≪09≫  それがロックの寛容論を持ちだし、トマス・モアが『ユートピア』(中公文庫・岩波文庫)で架空の国での宗教的寛容を描いたりしたため、国家や良心の問題のほうへと変化した。ヴォルテールはこれを継承した。 

≪010≫  継承したのだが、少し違ってもいた。それは、寛容は国家や個人の受け入れ方で形成されるものではなく、むしろ「習俗」にあらわれていくべきものだとみなしたのだ。社会文化に寛容が滲み出ていくこと、そこを強調したわけだ。そして、この考え方に、ヴォルテールの風変わりな啓蒙思想性があらわれていたのである。 

≪011≫  どこが風変わりだったのか。いろいろあるが、ヴォルテールに関しては、まずは名前が変だ。ヴォルテールという名前は筆名なのだ。フルネームではなく、ただヴォルテール。いわば「タモリ」とか「つんく」といった名前だ。諸説があってはっきりしないのだが、「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さいころからの綽名をもじったということになっている。また一説では、本名の綴りのアナグラムだともいう。どちらにせよ妖しくて、怪しい。 

≪012≫  本名はフランソワ・マリー・アルーエという。なかなか優雅な名前だ。一六九四年のパリのブルジョアの家に生まれ、豊かな少年時代をおくった。イエズス会が創立したルイ゠ル゠グラン学院に入ってエリート教育を受け、そこそこ優秀な成績で出たのだが、それなのに詩人になりたいと思った。これも、やや変だ。   

≪014≫  このあと戯曲家に転向して『エディップ(オイディプス)』がコメディ・フランセーズで上演されて当たると、有頂天になったのか、しきりに出先でいちゃもんをつける。詩人としても名声を得て、投機に成功して大儲けもした。ところが名門貴族のロアンとその家族を向こうにまわしてトラブルをおこし、一七二六年にはまたバスチーユに投獄された。やはり、どこかがおかしい。そんなこんなで気分を一新するためにも、イギリスに渡った。 

≪013≫  司法官にでもさせようと思った父親とは、これで対立した。やむなくオランダ大使の秘書をやらせたところ、オランダですぐに恋愛沙汰をおこしてパリに戻され、法律事務所の書記に送りこんでも長続きはしない。やがて詩篇を発表しはじめ、摂政のオルレアン公を風刺しているという科で、一七一七年にバスチーユの牢獄に放り込まれてしまった。十一ヵ月の収監で、このとき「ヴォルテール」の筆名を思いついた。 

≪015≫  ロック、ヒューム、ニュートンの業績と思想が新鮮だった。英語で綴った『哲学書簡』(岩波文庫・中公クラシックス)には、溢れんばかりの英国讃歌が目白押しになっている。けれどもその内容がフランス語に翻訳されて母国に出まわると、イギリスばかりにうつつを抜かす魂胆に愛国者たちが怒りだし、焚書になってしまい、一七三四年にまたまた逮捕状が出た。さすがのヴォルテールもオランダに逃げ出した。 

≪016≫  こんなぐあいだから、ヴォルテールという人物はどこか変わっていて、ふつうに評価しにくいところがある。いったい教科書にあるような「フランス革命を準備した啓蒙思想家」なのだろうか。そう、これが啓蒙思想家の特徴なのである。 

≪017≫  ぼくはヴォルテールが「本を書く」という行為そのものに自分の風変わりさを活かしたのではないかと思っている。たとえば『哲学書簡』という書名だ。 

≪019≫  ヴォルテールは書名や文章や文脈によって読者を実感させることに長けていたのである。ヴォルテールが啓蒙的であるとすれば、まずもってはそこである。情報を集めて新たな衣裳を着せて、乗り物に乗せる。そこから新たな文脈を浮き彫りにする。そこに「哲学」という看板をつける。それがヴォルテールの啓蒙的な能力なのである。  

≪021≫  シャトレ夫人の次はポンバドゥール夫人だ。彼女におだてられてフランスとプロイセンの仲をとりもつ気になった。それで一七五〇年、プロイセンのフリードリヒ二世に招かれてベルリンに入り、ポツダム宮殿で帝王と話をする日々をおくるのだが、専制君主と傍若無人なヴォルテールとでは関係が長続きするはずもない。そそくさとベルリンを去っている。 

≪023≫  ヴォルテール自身は「哲学」の意匠を纏うことには自信があった。そこで次は「哲学小説」を連打した。ドーミエに挿絵を描かせた『ザディーグ』、主人公のカンディードが社会の悪に次々に翻弄されるという筋書きをもつ『カンディード』(岩波文庫)、感覚を描写する『自然児』等々。 

≪018≫  この書名はなんともおおげさで、中身を読んでみると「哲学」とは言いがたい。中身は英国通信ともいうべきものだ。ロンドンの株式取引所、クェーカー教徒の動向、フランシス・ベーコンのこと、ニュートンの光学をめぐる噂、哲人ジョン・ロックの受け取られ方、アレグザンダー・ポープの社会感覚。こういうことがいきいきと綴られている。噂話なのである。しかし、それを「哲学」と名付けた。 

≪020≫  啓蒙主義者は生活も変だ。ヴォルテールもそうだった。一七三四年にはシャンパーニュのシレーにあったシャトレ夫人の館にしけこんだ。それが十年に及んだ。シャトレ夫人はニュートンやライプニッツが理解できたらしく、ヴォルテールには愛人としても知的なパートナーとしてもありがたい。 

≪022≫  つまりは、このころのヴォルテールは作書術のフレームと夫人たちの庇護だけで生きていたようなのだ。専門なんて何もなかった。実名者フランソワを研究し、筆名者ヴォルテールを偏愛する串田孫一は、そんな二重者ヴォルテールのことを愛情をこめて〝卓越するデマゴーグ〟と呼んでいる。 

≪024≫  これらはプレヴォーの『マノン・レスコー』(岩波文庫・新潮文庫)に触発されて対抗したというが、やはり小説とはいえない。哲学でもない。万事がニュージャンルなのだ。けれども読んでみると妙な味がある。ぼくは『カンディード』の狙いには、今日の日本の現代小説よりはずっと冒険的な実験性があると思っている。 

≪025≫  こうしてヴォルテールが次にあげた看板が本書の書名になった「歴史哲学」だったのである。この本も、いわゆる歴史哲学書なのではない。それなのに、この用語はヴォルテールが初めて使った言葉であって、それゆえその後の学者たちはヴォルテールのこの用語をつかって歴史哲学という領域を継承していった。ヴォルテールの看板から新しい知の蝶が飛び出したのだ。 

≪027≫  ところが、ヴォルテールの本書における記述のしかたは、そのどこが学問的なのかというほどに情緒的なのだ。デカルトのような省察の切れはなく、パスカルのような推理の飛びもない。志はライプニッツの予定調和を崩すところにもあるのだが、ライプニッツの論理の綾もない。 

≪029≫  ところで、ヴォルテール的作書術に関しては、ヴォルテールが参考にしただろう年表の先行性に注目しておきたい。たとえばサン・ピエールの『政治年表』やエノーの『簡約フランス編年表』などである。こういったクロニクル編集が先行していて、これらが示した活字の表組が示す時空間のスコープに、ヴォルテールの〝看板見立て〟の能力がおおいに触発されていっただろうからである。 

≪026≫  本書は旧約聖書的なるものを攻撃し、ユダヤ思想の表現に疑問をもつところから始まる。そう書くと、ヴォルテールがいかにも宗教批判をしているようだが、ほとんどそうではない。ユダヤ教が示した内容は異教徒たちが書く内容とそれほどの大差がないということを指摘するのが狙いなのだ。それを多くの民族文献と細かく突き合わせて比較した。いまでいうならテキスト分析というもので、もっとわかりやすくいえば文化人類学的な比較文化研究である。 

≪028≫  それでも本書はおもしろい。古代エジプト人や古代ギリシア人のことがまるで見てきたように活写され、遠いインド人や中国人ですら通りを横切っている。つまりは本書は、作書家ヴォルテールが勝手につくった「世界」であって、それにもとづいた「世界観」ガイドなのだ。インチキであるとも、インチキでないともいえない。そのように読むしかないものなのである。そして、そのようなヴォルテールの方法は、実はヴォルテールだけではなく、当時の大半の啓蒙思想家がやっていたことだったのだ。 

≪030≫  こういうことは、年表と見出しだけでできている『情報の歴史』(NTT出版)などをつくってきたぼくとしては、どうしてもヴォルテールに先立つ先行者たちの功績として、指摘しておきたいところなのだ。 

≪031≫  いくつか、追想的に加えておく。 ひとつは、一七五五年のリスボン大地震のときにいちはやく反応した知識人だった。『リスボンの災厄についての詩』はオプティミスティックな楽観思想や最善説に対する警告となった。ライプニッツの予定調和論は地震や津波の前では役に立たないと批判した。もっともこの見方には、ルソーがすぐに反駁した。リスボンの都市の構築に問題があり、あれは天災ではなく人災であると、ヴォルテールを批判した。 

≪033≫  そこにはあえて強調して言うのだが、空間的世界史として歴史を捉えるという見方が萌芽していた。『習俗論』では、ボシュエの『世界史論』が天地創造からシャルルマーニュ(カール大帝)まで直線的に記述されているのに対して、ヴォルテールはアジア・アメリカ・アフリカを視野に入れつつ、インドや中国のような非ヨーロッパ圏の文明がキリスト教文明圏よりもずっと古く、早くに成立していることを示唆した。学問史ではこのような視点は、ジャーナリスティックなものだと批判する向きもあるが、ぼくはそうは思わない。歴史ジャーナリズムこそ歴史の傘を広げてきたのだ。 

≪035≫  まるでサン・シモンやフーリエらの共同体のようだが、そういうアソシアシオンではない。ヴォルテールは主人なのである。だからヨーロッパ各地から文人や政治家もやってきた。カラス事件に関心をもって『寛容論』を書いたのも、この時期だ。  

≪032≫  ひとつは、ヴォルテールの歴史観によってキリスト教中心の歴史記述が大いに揺さぶられたということだ。『ルイ十四世の世紀』『習俗論』『ピョートル大帝治下のロシア帝国史』、そして本書『歴史哲学』によって叙述的に提唱されたことだった。 

≪034≫  ひとつは、一七五九年にジュネーヴの市内を離れたヴォルテールが、郊外のフランス領フェルネーに土地を購入して、ここを永住の地と見定めたかのように住み込んだことである。農地をつくり、時計職人に小さな工場をあてがい、養蚕をして絹糸を織らせた。ジュネーヴの宗教混乱によってはみ出た難民も受け入れた。  

≪036≫  こんなふうに追想してみると、いくぶんヴォルテールが愛しくなってくるが、
ゲーテは「ヴォルテールとともに古い世界が終わり、ルソーとともに新たな世界が始まった」と言い、フローベールは『ボヴァリー夫人』のなかでヴォルテールをブルジョアの俗物としてキャラクタライズした。おそらくはあいだをとって、ロラン・バルトが「善悪の二項対立に従った最後の幸福な作家だ」と言ったあたりが、妥当なのだろう。  

 網野善彦の本はだいたい読んだほうがいい、というのがぼくのスタンスである。
 最近では岩波新書の『日本社会の歴史』全3冊がベストセラーになって、
これまで中世の社会経済の構造や王権や宗教の構造に関心がなかった人々がしきりに読むようになった。
 ぼくもこの岩波新書については日本経済新聞で書評をして、その波及に一役買った。網野さんも、
あの書評の直後から売れ出したようですね、とまんざらでもなさそうだ。 

≪01≫  網野善彦の本はだいたい読んだほうがいい、というのがぼくのスタンスである。 最近では岩波新書の『日本社会の歴史』全3冊がベストセラーになって、これまで中世の社会経済の構造や王権や宗教の構造に関心がなかった人々がしきりに読むようになった。ぼくもこの岩波新書については日本経済新聞で書評をして、その波及に一役買った。網野さんも、あの書評の直後から売れ出したようですね、とまんざらでもなさそうだ。 

≪02≫  が、ほんとうのところをいうと、あの本は流れをつかむのには、前半部は充実していてなかなかいいのだが、日本史全貌の充実をすべて期待するには、ちょっと濃密すぎて、網野本の通史としてはやや重たい。 また多くの中世論もかたっぱしから読んでほしいのだが、それらはどの一冊がいいともいえない複合連鎖に満ちている。 

≪03≫  そういうわけで、網野善彦の何を勧めるかというと、いつもけっこう迷うのだが、この『日本の歴史をよみなおす』は、筑摩書房の編集部を相手に話したものをまとめたせいか、まことにわかりやすく、かつ示唆に富み、それでいて大きなツボが躍動するように話されている。出色のデキなのである。 最初は文字の話である。 

≪04≫  14世紀後半、日本の各地に惣村というものがあらわれてくる。その惣村を統括する名主・庄屋・組頭といった人々が高い識字率をもっていたという話だ。そこでは片仮名と平仮名のつかいかたで、截然とした社会の様相が区分けされていた。ここまででも、そうとうにおもしろい。 舞台は南北朝の動乱期、14世紀にさしかかった日本が大きな変化をおこすところに設定されている。 

≪05≫  ところが、そのような文字社会の進行の表面を一枚はがすと、そこにはまったく別な多様日本の伏流があらわれるということから、いまや他の追随を許さない網野史観の本番が始まる。 

≪06≫  その多様な伏流の姿は多彩な職業に従事した人間の生き方に見えてくる。だが、そのことを案内する前に、中世社会における貨幣と流通がどのようになっていたかという話がはさまれる。これは日本人が「富」というものをどのように考えたかという問題である。 

≪07≫  もともと日本人は貨幣を、今日つかっているような意味では認識していなかった。 たとえば「銭の病」という言葉が流行したように、むしろ貨幣をもつと病気にかかるとか、逆に、貨幣を流通経済に応用するよりも、貨幣をひそかに拝んだりするようなところがあった。その貨幣が、しかしやがては流通していく。  

≪08≫  では、日本人はどのようにモノの経済を貨幣の経済に変えていったのか。 本書は、そこのところの複雑な経過と変移をまことに明快に説明して、かつ適確な例を紹介しつつ、つきすすんでいく。そして贈与と互酬による社会のコンベンションが、貨幣によって駆逐されるのではなく、別のかたちに移行しながら、新たな職人世界というものを形成していったという経緯を解剖していく。 

≪09≫  注目するべきことは、中世の市場がモノとモノとの贈与互酬の関係を断ち切るための場所だったということである。 

≪010≫  それまでは、モノとモノの交換には必ず人間関係がつきまとっていた。それではいわゆる商品経済にはなりえない。そこで特別な機能をもつ市場があらわれる(市場は市庭ともいわれた)。そこはモノに付随する属人的な人間関係を断つところだったのである。 

≪011≫  網野善彦が有名にした「無縁」「楽」というしくみも、この経緯のなかから生まれてきたものだった。縁を断つところ、すなわち無縁である。その無縁をおこせるところ、あるいは別の関係に入れるところ、それが市場(市庭)の隠れた機能であった。 

≪012≫  こうして、14世紀後半から市場機能の活性にともなう新たな動向がたちあらわれてくる。そこにクローズアップされてくるのが、天皇や神仏の直属の民の一群としての「神人」「寄人」「供御人」である。網野さんの中世史観を堪能するには、この職能民の独得な性格を十分に知る必要がある。 

≪013≫  日本には古代から、公民と平民、良民と賤民を分け、葬送などの仕事に従事するものをケガレの人々とみなす傾向があった。 

≪014≫  これは一種の賤視思想であるが、その賤視にもとづいた古代の賤民が事実上の奴隷に近い位置にあったのに対して、中世で非人とよばれた人々はむしろ職能民として独自のネットワークを形成するほどの一群だった。この職能ネットワークの民こそが網野さんの中世史観の主人公たちなのである。 

≪015≫  これらの職能民はときに非人とか清目とかとよばれ、特別な衣を着ながらも、ときに神社仏閣と結びつき、ときに天皇・皇族からの許可をもって、関渡津泊(かんとしんぱく)〔街道や港〕を自由に往来した。そうした社会の最上層の一部とまるでワープをするかのように連動している職能者たちを、その所属に応じて「神人」「寄人」「供御人」などという。 

≪016≫  そのような職能者たちはほかにもいた。鋳物師・木地師・河原者・牛飼・馬借・各種の物売りたちである。かれらは各地を動きまわるネットワーカーで、しかもそこには女性もたくさんまじっていた。 

≪017≫  ここから話は、中世の女性の役割をめぐる広範な事情に入っていく。遊女・白拍子・桂女・傀儡・大原女・辻子君などである。彼女らはリーダーに率いられてグループをくみ、春をひさぐことも少なくなかったが、それとともに各地の伝承を物語化していった中世の語り部的な集団でもあった。 

≪018≫  では、どうしてこれらの職能民は天皇皇族・神社仏閣と結びつけたのか。それには日本の天皇の機能を考える必要がある。 

≪019≫  話はここからぐっと深まり、もともと天皇には二つの顔があったという説明に入っていく。太政官という貴族合議体の頂点に立つ天皇の顔と、各地の贄の貢進をうけとる天皇の顔である。後者の顔は律令には規定されていない顔であり、かつ各地の生産者や職能者とモノを通して結びついている。 

≪020≫  このへんをじっくり分け入り、日本における「職の体系」の特異な性質が解説されると、ふたたび天皇の直属民としての神人や供御人の問題の意味が深まってくるのである。 

≪021≫  ここまでが1冊目にあたる。 これでだいたいの網野史観の大筋は見えるようになっているのだが、2冊目の「続」では、従来の日本社会史で見過ごされてきた特色が新たな視点でダイナミックに浮彫りになっていく。 

≪022≫  日本は農業社会なのか、百姓という言葉は農民しか意味しないのかという問題が能登の時国家の実情を例に議論され、ついで「海から見た日本」がひろがっていくとおもわれたい。ここは縄文から中世までのミニ日本史ともなっていて、躍動的にわかりやすい。 

≪023≫  こうして再度、話は中世に戻ってくるのだが、今度は荘園や公領などの土地に関与した人々の生きざまから見た歴史が語られる。海の海賊、陸の悪党が登場し、そこに金融や商業がからんでいくという、最近の網野史観が得意とする独壇場である。 

≪024≫  本書は、日本を正確に知ることが「日本人の新たな義務だ」という信念をもつ著者が、これまでくりかえし述べてきたことを、語り部の達人となって子供にも理解できるように伝えようとした2冊。 ぜひ、父と子で、また姉と弟で読みあわされることを勧めたい。独りで読むのはもったいない。 

≪01≫  ながいあいだ日本近代の経済社会の確立をめぐって、内外の経済学や歴史学はひとつの疑問をつきつけてきた。 日本は鎖国や封建制の影を引きずったまま明治維新をおこし、富国強兵・殖産興業に走ったが、それによって確立したと見える近代国家と経済社会は矛盾だらけのもので、そこには欧米システムの猿真似はあったとしても、なんら独自性はないのではないか。 

≪02≫  また、そのような矛盾と猿真似はその後も実はずっとつづいていて、結局は戦後の高度成長社会や1980年代のバブル社会にも投影されているのではないか。結局、日本は島国根性を一度も脱出したことがないのだろう。ぶっちゃけていえば、だいたいそういうものである。 

≪03≫  こんな見方が出てくる背景には、なぜ日本は300年近い鎖国をしたにもかかわらず、急速な転換によって近代社会を迎えたのか、その説明がうまくできたためしがない、あるいはその説明をしようとすると日本主義やナショナリズムになりすぎる、どうすればいいか、という積年の問題がある。 

≪05≫  この問題をとくには、ヨーロッパと日本には似て非なる経済社会改革がおこっていただろうこと、当時の鎖国が必ずしもネガティブな政策ではなかったこと、そこには欧米の理論だけでは説明できないなんらかの“しくみ”があったことなどが、次々に解読される必要がある。 

≪04≫  ヨーロッパがウォーラーステインのいう「近代世界システム」を確立して近代社会を築いていったことは、今日の歴史学の“常識”になっている。その“常識”からみると日本の「近世鎖国システム」ともいうべきはその逆をいったわけで、とうてい近代社会の基礎、たとえば産業革命などをおこしえなかったはずである。それなのに日本の近代はヨーロッパに匹敵する産業国家になった。どうもこのあたりの説明がうまくない。 

≪06≫  この問題にオックスフォード大学にいた若き川勝平太が挑んだわけである。ある意味ではウォーラーステインへの挑戦だった。本書はそのオックスフォードに提出された論文をもとにしている 

≪07≫  ウォーラーステインのいう「近代世界システム」は1450年から1640年のころに、航海技術を背景に大西洋をかこむ西ヨーロッパを中心に成立した経済中心のシステムのことをいう。そこでは毛織物・木綿・砂糖・茶・生糸などによる世界貿易体制が進んだ。西欧経済はこの「世界システム」の上に築かれた。 

≪09≫  この時期、最も経済力をもっていたのはポルトガルやスペインである。両国はキリスト教の布教と商業利益の追求を不可分なものとした“宗経一致”の方針を貫いていた。これに対してオランダやイギリスは経済繁栄のためには宗教に拘泥しない方針を採る。ポルトガルはオランダとイギリスとの競争に敗れ、イギリスは1623年のアンボイナ虐殺のあとはオランダに東方貿易の覇権を握られた。日本は長崎の出島を窓口にそのオランダとのみ通商することによって、こうした西ヨーロッパの変遷に対応した。きわめて異例な方法だった。  

≪08≫  この見方からすると、そのころの日本の経済システムはせいぜい中国を中心とした巨大なアジア経済の一環か片隅にあるもので、そこから西ヨーロッパ型の資本主義など出てくるはずがない。そういうことになる。しかし、事実は必ずしもそうではなかった。鎖国が西ヨーロッパとはまったく異なる“しくみ”をつくっていったのである。  

010≫  これがまずは対外的な日本の独自性となった。ついで日本は国内においては「繊維革命」に乗り出した。柳田国男も重視した「麻から木綿へ」の転換である。また「軍縮革命」に乗り出した。わざわざ世界一の鉄砲保有国になったにもかかわらず、あえてその鉄砲を放棄した。さらには「物産改革」に乗り出した。目立ったのは吉宗の時代がそうであるが、諸国の産物を総点検し、これに中国本草の知識を和製化して諸藩に食糧開発を促進させた。醤油やお茶の普及も急速だった。 これらが何をもたらしたかといえば、日本社会の自給自足体制を確立させたのだった。 

≪011≫  実際にはもう少し複雑な事情が絡んでいる。たとえば、金銀の産出量をめぐっては西ヨーロッパ諸国がラテンアメリカの金銀に頼ったのに対して、日本ではこれを国内の発掘によって凌駕した。いっとき、日本は世界最大の銀保有国になった。  

≪013≫  こうした事情を、川勝は「物産複合」という用語でとらえる。われわれはモノなしでは生活できないが、そのモノをどう見るか、どう使うかによって、そこに社会の価値観があらわれる。その価値観は物産複合のかたちとなってあらわれる。したがって、歴史上のさまざまな時点において、各国各民族各地域がどのような物産複合をはかったのかということが大きい  

≪012≫  木綿についても、イギリスはインドに木綿生産の土地と労働力を求めてこれを植民地化していったが、日本は風土的にも国内生産を可能にしていった。また、そもそも西ヨーロッパの肉食と医療にとって香辛料が東南アジアと西インド諸島に求められ、このルートから日本がはずれていたことも大小の影響をもたらした。 

≪014≫  欧米の近代国家は、この物産複合の確立を18世紀になって「産業革命」(industrial revolution)によってなしとげた。日本はどうか。川勝は、日本ではこれをはやくも自給自足型の江戸社会に芽生えていた「勤勉革命」(industrios revolution)によって確立したと見た。「勤勉革命」という用語は速水融の命名による。 

≪015≫  ざっとこうした視点で、ウォーラーステインの座標では見えてこない日本の近代の前提になった座標を描いたのであるが、本書において川勝平太の名は一挙に天下にとどろいた。   

≪017≫  学問的な評価をさておいて、カワカツ・リロンに対する当時の無言の喝采がどんなものだったかというと、「やっと日本人による日本独自の近代歴史観をつくってくれた」というものだったろう。溜飲をさげた日本のビジネスマンや一部の研究者も多かったにちがいない。   

≪019≫  しかし、川勝はその後も持論を精細にし、さらに新たな視点を加えて海洋史観ともいうべき構想を膨らませていった。 早稲田大学史学編集所の菊地紘一の見聞によると、そのきっかけは1982年のブダペストでひらかれた国際経済史会議でのウォーラーステインとの論戦、1993年の名古屋大学での「アジアと近代世界システム」会議における再度のウォーラーステインとの議論によるものだという。 

≪016≫  そのころのことはぼくもよくおぼえている。いろいろなところで川勝平太の名が囁かれるのを聞いた。それだけでなく「松岡さんはカワカツ・リロンをどう思いますか」と何度も聞かれた。 そこで、「ああいう場所と交換をめぐる普遍性と特異性にもとずいた考え方こそは、これから必要なんじゃないですか」とか「戦後もっと早くに登場してもいい考え方ですよね」とか「いよいよ京都学派の再生ですねえ」などと言うと、そういう質問をしたがる連中にかぎって、たいていは「そうですか、狙いはおもしろいんですけどねえ」と口を濁らせたものだった。 

≪018≫  当然ながら、いやいや、カワカツ・リロンの提起した座標では近代社会の議論はできないという反論も出た。日本の近代を安易な独自性で包んではならないという以前からの見解によるものだ。そういう“日本=独自性”論こそいつも日本が誤ってきた道なのだという、おなじみの退屈な批判である。

≪020≫  オックスフォード仕込みの明快な言説と、京都生まれらしいロマンティシズムと、これはどこに由来するというものではないだろうが、持ち前の断固とした柔らかさを兼ね備えた川勝さんらしいことである。 

≪021≫  また、こうした構想に着手したとたん、自分の思想を自分の行動と近づけるために、東京を捨てて軽井沢に1反の土地を求めて越してしまった。日本の家族は庭(ガーデン)をもつべきであるという構想を地でいったわけだ。 

≪022≫  ぼくは川勝平太の名が世の中のそこかしこで上るようになってから川勝さんと何度も出会うことになったのであるが、まずもって体の底から涌き上がってくる笑顔と声と、どんな議論にも全力でぶつかる姿勢とにすぐ共感してしまった。    

≪023≫  こんなこともあった。一緒にコンファレンスに出ているとき、ぼくが高熱で倒れてしまったことがある。ベッドでうんうん唸っていて、ふと気がつくと川勝さんがベッドのそばにいる。ぼくが「ああ、川勝さん」と言うと、それまでの真剣な表情を和らげて満面に笑顔をたたえ、「あとはまかせてください」と言った。ぼくはそのあと救急車で運ばれた。このときの笑顔が忘れられない。 

≪024≫  ところで、これはぼくの勝手な憶測であるのだが、川勝さんには、かつての日本人がどこかに秘めていた「敵に塩をおくる仁義」のような心意気があるようにおもえる。本書や『文明の海洋史観』にたびたびマルクスが登場するのも、そんなところがあってのことかとも見えた。いつか共闘したいとおもっている。 

≪01≫  日本の支配者は彗星が接近しただけで変わることがある。執権北条貞時もそうして引退した。天人相関説による。地上の悪政があると、それが天上の彗星や流星や客星(新星)の出現をもたらすというものだ。 

≪02≫  このような日本に元(モンゴル)が攻めてきた。蒙古襲来(元と高麗の連合軍)は文永弘安の2度だけではない。サハリン・琉球・江華島などの日本近域をふくめると、1264年から1360年までの約100年のあいだ、蒙古襲来は繰り返しおこっている。こうした襲来は、為政者や神社仏閣のあいだでは「地上と天上の相関」によって解釈された。 

≪03≫  そうだとすれば、蒙古襲来という地上の出来事に対しては、天上の出来事が対応すべきであるということになる。それゆえ台風(暴風雨)によって異国人の襲来を撃退できたのは、まことに天人相関説の“実証”に役立った。が、実際には神風ばかりに頼ったのではなかった。地上で天上を扱っているともいうべき神社に祀られている神々も、実はわざとらしく闘った。巫女たちもさかんに神託をもたらした。 

≪04≫  本書には、蒙古襲来の状況下、そうした神々が異様な闘いを展開していたという各神社の記録がいろいろ紹介されている。その記述には、これまでの中世史ではみえなかったいくつもの視点が提示されている。 

≪05≫  異国人襲来の戦々恐々のもと、台風と神々だけが闘ったのではなかった。 永仁元年(1293)に鶴岡八幡宮に一人ずつが銭指一連を出しあって700人もの民衆がかけつけたときは、鎌倉を大震動が襲ったためだった。マグニチュード7を上回る関東大震災級の地震だったらしい。旱魃・地震・津波などで動いたのは、民衆たちでもあったのである。そしてかれらもまた、やはり「神々の加護」を旗印に闘おうとした。 13世紀と14世紀の日本には、こうした神を味方につけて天変地異に乗じようとする動きが際立っている。 

≪06≫  とくに1310年の紅梅殿事件で見せた北野社による理不尽な暴挙や、祇園社の居住者追放事件などに始まった一連の騒動は、いささか異常であった。何が異常かというと、国内のちょっとした敵対者たちを異国人同様の「悪党」とみなし、これを寺社権力が徹底して差別するようになったのである。これを一言でいえば「在地人の既得権侵害と悪党弾圧のムーブメント」ということになるのだが、そこに、数百年にわたって沈静していた神話的な力がにわかに復活し、そうしたムーブメントが“神の戦争”と解釈されたこと、そのことが異常だった。 

≪07≫  結局、蒙古襲来をきっかけに、“神の戦争”を名目とし、殺生禁断を建前とする寺社領域の拡張と寺社造営とが全国的に広まったため、山野河海をネットワークしながら生活の場としてきた民衆やそのリーダーたちが苦境に立たされたのである。悪党とはそうした苦境に立たされたリーダーのことでもあった。本書は、そうした風潮が「神国日本」のイデオロギーをつくりあげたのではないかと主張する。 

≪08≫  著者は40歳をこえたばかりの俊英で、神領興行法の研究を専門としている。前著の『中世の変革と徳政』(吉川弘文館)は学術論文の積み上げで、かなり堅かった。 本書はその積み上げをいかして、中世南北朝の時代の構造を神国幻想の拡張という視点でまとめた。新書ながらそうとうに構成に工夫を凝らし、それなりに書きこんでいて、歴史の「地と図」がみごとなコントラストを描いている。 

≪09≫  神領興行法というのは、武士や民衆が神領の内部にもっていた諸権利を剥奪して社家に戻すという徳政令である。一円神領興行法ともいった。この命令は西の宇佐八幡宮と東の伊勢神宮を先頭に、全国に適用されている。とりわけ伊勢神宮の神領は関東を中心に次々に拡張していった。 

≪010≫  下宮を拠点とする伊勢神道(度会神道)が確立していったのは、この勢力拡張を背景にしていた。ただし、伊勢神道とはいえ、この時期の“神道”とは神仏両方の勢力のことをいう。もう少し正確にいえば、この時期に日本の神仏の組み替え(神本仏迹)が遂行されたのである。それによって神祇観を批判するいっさいの反体制宗教勢力が消えていくことになる。著者は、それこそが「中世神国思想の成立」の意味だったろうという。 

≪011≫  この神国思想に拍車をかけたのは、従来なら後醍醐天皇だということになっている。もちろんそういう色彩は濃いのだが、後醍醐の建武親政は蒙古襲来以来の公武の秩序を壊し、時計をふたたび百年前に戻して、諸国一宮国分寺の本家を廃止して、新たなしくみで荘園制を復活することにもあった。 

≪012≫  しかし、後醍醐の親政は挫折する。そして南北朝の争乱をへて、時局はふたたび幕府の手に戻る。それは蒙古襲来によって一大勢力と化した神本仏迹のシステムが幕府の管理に移っていったことと、「神国日本」の管理が武家の手に移ったことを意味していた。その流れはこれ以降、信長から家康にいたるまで変わらぬところとなっていく。 

≪01≫  エンゲルスは「本書はモーセ五書以来の不動の書となるだろう」と絶賛した。ニーチェは「ここに永遠回帰がある」と唸った。ベンヤミンは「これは学問的予言だ」と書いた。たんに手放しで称賛しただけではない。エンゲルスはバハオーフェンを下敷きにして『家族・私有財産及び国家の起源』に着手し、ニーチェは永遠回帰論に手を染め、ベンヤミンは「忘却」とは何だったのかを考察して、現在においてはどこをパサージュすべきかを決断した。 

≪02≫  臼井隆一郎によると、1987年にバーゼルで開かれた没後100年を記念した「バハオーフェン展」では、会場となった歴史博物館の壁面にバハオーフェンの多彩な呼び名をあらわす言葉が垂れ幕としてずらりと掛かっていたという。曰く、母権研究者、法学者、民族学者、神話学者、収集家、旅行家、刑事裁判所判事、州議会議員、文化ペシミスト、進化論者、独立独歩の人、新プラトン主義者、詩人、控訴審裁判所所長、古代研究家、バーゼル人‥‥。さすがバーゼルである。 

≪03≫  が、そこまでするのなら、ローマ法の専門研究家、お墓好き、恐妻家、ベルリン大学の古典文献学者、ゲッティンゲン学派から逸脱した人、マザコン‥‥といった言葉もぶらさげておいてほしかった。ともかく広かったし、その風が届いた領域も各種各論、多彩多岐にわたった。ベーベルがバハオーフェンの影響のもとに『婦人論』を書いたのもよく知られているし、モルガンの『古代社会』がバハオーフェンを下敷きにした記述によって、その後のレヴィ=ストロースの文化人類学の支点をつくったことも有名である。 

≪04≫  1842年、バハオーフェンは南エトルリアを旅行して、そこで墳墓芸術と出会う。すでにバーゼル歴史博物館の垂れ幕でわかるように、このときのバハオーフェンの肩書は法律学者である。ただ専門がローマ法だったから、すでに象徴解釈についてはずいぶん深い洞察をしていた。しかし、南エトルリアの墳墓に見たものはバハオーフェンがかつて観察したり想像をめぐらしていたものとはまったく異なるものだったのである。その装飾絵画群は秘教オルペウス教を暗示しているようだった。 

≪05≫  バハオーフェンはロマン主義の申し子である。ドイツ・ロマン主義に共感をもっていたし、すでにロマン主義者たちがギリシア神話のなかのオリュンポスの神々のもつ激しい明るさに疑問をもっていることも知っていた。しかしながら当時は「母権制」も「母権社会」という言葉もなく、つまり古代ギリシア以前の神話は誰もろくすっぽ知ってはいなかったのだ。 しかし、装飾絵画に描かれていたオクノスという縄ない人の像からは、あきらかに何かの理由によって冥府的なるものを天界的なるものに編み変えているような、女性的世界を男性的世界に転換しているような象徴作用が読みとれた。さらに各地のオクノス像を比較してみると、そこには暗黒の地下から生と光への生誕をおこす何かの転換がおこなわれていることが見えてきた。 

≪06≫  ということはオルペウス教の秘儀があるとしても、それは「何かの世界」とオリュンポス型の明るい神話世界とのあいだを示す、いまだ過渡期的なものにすぎない秘儀なのである。 バハオーフェンは興奮してしまった。文献を読みなおし、ギリシア神話の隙間を読み抜き、各地の古代遺跡をまわり、図像を精密に比較する。 こうして最初の直観に達したのだ。この「何かの世界」こそ、まだ誰も想定することのなかった母権社会というものではないか。それは明示の以前の暗示の世界であり、昼の前の夜の世界であり、太陽信仰的ではなく月神信仰的であり、天界的ではなく冥府的であり、男性的なものを排して女性的なるもので埋めつくされていた世界ではあるまいか。とくに女神デメーテルの由来と特徴が鍵を握っているようだった。 

≪07≫  推理の翼は次々に広がっていったようだ。バハオーフェンはしだいに確信をもちはじめた。 これは先ヘレネー社会文化ともいうべきものの先行を裏付けるのではないだろうか。グレートマザー(太母神)とその一族の時代があったことを告げるものではあるまいか。それがしだいに縄なわれ、変化していったにちがいない。それなら、その時代にはもっと社会的な意味で、共同体のなかでの母系的家族といった形態があったろう。それならば、ひょっとすると女人統治(ギュナイコクラティ)もあったかもしれない‥‥。 ここから先のバハオーフェンは一瀉千里である。オシリスとイシスの神話の解読を手がかりに、デメーテルの物語を膨らまし、先ヘレネー社会の全貌の解明に立ち向かう。要約すれば、だいたい次のような古代社会の変遷と転移を読みとった。 

≪08≫  最初に自在で無規律な乱婚的な社会があったにちがいない。これは「ヘテリズム」と名付けられた。ヘテイラ(遊女)の社会という意味である。古代ギリシアではヘテイラは職業的遊女のことではなく、婚姻することなく多数の男性と交わる女性のことをいう。 なぜヘテリズムがあったかといえば、原初的な母性の原理がその社会におおらかに通用していたからである。なぜ原初的な母性が社会に通用したかといえば、母胎こそが最大の生産の大地であったからである。女性が産むものは男児であれ女児であれ、すべてを優先する大地の産物だったのだ。だから太母グレートマザーのもと、ヘテイラは自由気儘にふるまっていた。 

≪09≫  そこには夫も父もいなかったのである。兄弟も息子もいなかったのだ。ただ"ジェンダーとしての男"がいただけだった。かつてぼくがこの話をあるハイソサエティな女性にしたところ、「あら、ほんとに羨ましいことね」とおっしゃった。男が羨ましいのか、女が羨ましいのか、聞き忘れた。 この時代はまた、いっさいの人為的なルールもほとんどなかったろうとバハオーフェンは法学者らしく書いている。あるとすれば、女性が産むリズムや産屋や子の育ち方に何かの準ルールが付与されていただけだろうと推理した。この産むリズムに即して、うっすらとした月神信仰が芽生えたのである。 

≪010≫  このグレートマザーとヘテイラの社会に、しばらくするといくつかの片寄りが生じた。とりわけ男性による女性の共有に片寄りが出てくるとみなされたときは、そこに怒りや嫉妬や歪みが生じた。 ここにおいてヘテイラは「女」となって特定の男たちを排撃するようになる。これがバハオーフェンの考える「アマゾンの時代」という社会である。 アマゾン(アマゾネス)はしばしば特定の武装した女族のことだと思われがちであるが、そういう時期はあったとしても後期のことで、初期においては女性が「女」を自覚して「男」をつくっていく社会なのである。しかし、そこで「男」が対抗してくれば、女たちも武器をとる。これは最初の戦争の発生といってよい。 

≪011≫  アマゾンの社会は不安定である。おそらく何度もグレートマザーの社会に戻りつつ、しかし社会はしだいに変化する。とくに戦争をおこした部族はしだいに疲れ、安定した社会を望むようになる。おそらくはこうして、征服した土地で最初の集落都市の建設がおこなわれ、家をもって定住をしたのであろう。 それとともに男たちの女性濫用も終息してくると、そこに初期の一夫一婦制が生じてきたにちがいない。ここにおいて婚姻をともなう女性支配が確立してきた。すなわちグレートマザーを中心とした母権社会の確立である。もはや乱婚は許されず、しかし女性原理が社会を貫いていた。バハオーフェンのいう「デメーテルの社会」にあたる。 

≪012≫  ふつう古代母権制とか母権社会とか母系制とよんでいるのは、この時期のことである。それにともなって農耕技術が発達し、祭祀が複雑になり、月神信仰が深まっていく。 きっとデメーテル的母権社会は長かった。今日、各民族各部族の神話や伝承に偉大な太母神や儀礼を管理する女神が登場していることが見てとれるのだが、それはほとんどこの「デメーテルの社会」の名残りを暗示する。 

≪013≫  さて、問題はこうした母権社会がどのようにして父権社会にとってかえられたのかということだ。事情はかなり複雑多岐にわたっていたと思われる。 ひとつには家族社会の中に強弱が出てきて、その格差が定着し、さらに他の部族を併呑するようになっていたのだろう。これはやがて都市国家や国家の原形態になっていく。ひとつには、家畜や農産物などがふえて、女性が産み出す生産力とともにこうした別種の「力」に託す社会性が出てきたのであろう。そうなれば男性の管理力や労働力に「力」が移行する。またひとつには、男性間に構想や闘争や、さらには戦争に類する争いがおこり、そこに新たな勝者と敗者を分けるルールが発生したのであろう。しかもひとつには、生産物との関係で太陽信仰が強まったのだ。 バハオーフェンはこういう時代を「アポロンの社会」と名付けた。アポロンはすでに家父長制が芽生え、それが部族社会や民族社会に浸透しつつあることを物語る。 

≪014≫  しかし、「デメーテルの社会」から「アポロンの社会」にはすんなりとは運ばない。バハオーフェンは、ここがなかなか独自の想定だったのだが、途中に「ディオニソスの社会」を入れた。女性によるディオニソス信仰が広まった時代という意味である。ディオニソス(バッカス)は酒神であって享楽の神であり、さらに重要なのはファロス(男根)の象徴であることだ。この時期、まだグレートマザーのもとにいた女性たちもついつい男性愛の獲得をめざすようになったのである。  

≪015≫  この変化はたいへんに興味深い。女性がアプロディティ的な美しさや官能をめざす転換がおこったからである。この転換がディオニソス信仰の拡張とともにおこったのではないかというのが、バハオーフェンの自慢の推測なのである。しかも、このことと併進してアポロン信仰が広まり、それが男性支配型の社会を準備したというのである。 

≪016≫  いやいや、『母権制』に書かれていることはこんなことばかりでなく、実に豊富な神話社会の読み替えに満ちているのだが、ただそのようなことは、いまではバハオーフェンを踏み台にさまざまな神話学も文化人類学も樹立されているので、いわば他の充実した本を読めば、たいていはどこかにバハオーフェンの成果が組こまれているわけなのだ。 最後にふれておきたいことは、こうした仮説を成就したバハオーフェンは母権制社会に理想を見たわけではなかったということである。むしろ父権制社会の確立こそ、人類の進歩だったとみなした。 

≪017≫  もうすこし柔らかくいえば、バハオーフェンは母権社会も父権社会も認めるトレードオフの感覚が妙に発達した知的巨人だったのである。それゆえ、ニーチェのごとくバハオーフェンから強い社会論を引き出すことも可能だったのだし、ユング派のように、またエリッヒ・ノイマンの『グレート・マザー』がそうであるのだが、母権というより「母性の社会」をそこに想定してその「力」の蘇生を今日に期待することも可能だったのである。 

≪018≫  ぼくとしては、母権であれ母系であれ、もっと世界中の神話がフェミニンな視点で徹底して読み替えられることを期待したい。バーバラ・ウォーカーなどそのさいたるものではあるのだが、それがギリシア・ローマ神話だけで、キリスト教の切り崩しだけに終わっているのが惜しいのだ。さらにヒンドゥ・ブッディズムやイスラム神のあいだを、そして日本神話を駆けめぐってほしいのである。 

≪01≫  一九一九年から一九三三年までのあいだに、ヨーロッパは一変する。第一次世界大戦の終了直後からの約十五年間である。まさにトーマス・マンやオスヴァルト・シュペングラーが予告したとおりだった。日本も同じことである。一九三一年の満州事変と一九三三年の国際連盟脱退で世界と歩みを異にした。異胎の国になった。 

≪02≫  ドイツでは「世界」とはドイツのことだった。ドイツが拡張しつづけることが世界だった。満州帝国をつくった日本も、世界から離脱したとはこれっぽっちも実感していない。大日本帝国は五族協和を通してアジア大になると信じていた。しかし、これらの妄想はことごとく潰えた。いったいいつからこんなことが兆したのか。 

≪03≫  第一次世界大戦終了直後の一九一九年におこった二つの出来事が、多くのことを暗示していた。ひとつは義勇団将校たちがローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを殺害したことである。レーニンが希望を託したドイツ革命の狼煙をあげるはずだったスパルタクス団がこうして消滅した。もうひとつはこの年に、ロベルト・ヴィーネによる《カリガリ博士》がつくられた。表現主義を代表する映画だ。 

≪04≫  二つの出来事はともに、重要な現代史の開幕を告げているのだが、本書は映画のほうから二十世紀ドイツの病巣を観察した。 

≪05≫  カリガリ博士を主人公とするこの映画はハンス・ヤノヴィッツとカール・マイヤーが共同執筆したシナリオの段階では、すこぶる革命的な物語になっていた。 

≪06≫  オランダ国境に近いホルステンヴァルという架空の町に、回転木馬や見世物と定期市がやってきて、そのひとつにカリガリ博士の演出によって夢遊病者ツェザーレが未来についての質問に答える小屋があったという設定である。そこに殺人事件がおこり、複数の犯人候補があがり、事態は混乱するなかで精神病院の院長とカリガリ博士が同一人物だったことが発覚するというふうに進む。 

≪07≫  革命的だったというのは、公開された映画ではそれが逆転してしまったことをいう。オリジナル・シナリオではまさにニーチェさながら、あらゆる権威を狂気として暴くというテーマが貫かれていたのだが、ヴィーネがこれを変更して権威を擁護する映画にしてしまったのである。しかし、これがその後のドイツを暗示していた。 

≪08≫  映画としての《カリガリ博士》は世界中の映画館で大当たりした。その要因の最大のものはアルフレート・クビーンによる表現主義の怪奇幻想的な美術によっているとぼくは思うのだが、ドイツ人たちは製作会社デクラがつくった「あなたはカリガリにならなければならない」というコピーのついた宣伝ポスターに惹かれ、一斉にカリガリ化していったのである。 

≪09≫  ローザ・ルクセンブルクとリープクネヒトの死によるドイツ革命の挫折とヴィーネの《カリガリ博士》のシナリオ変更は、まさに一九一九年のあとのドイツに何がおこるかということを予兆していた。 

≪010≫  勘違いされる向きもあろうかとはおもうが、本書はヒトラーやナチズムについての本ではない。一九二〇年代に世界を席巻したドイツ映画についての名著である。 

≪011≫  だから、《カリガリ博士》のあとのドイツの歴史についてはもっぱら、F・ムルナウのドラキュラ映画《ノスフェラトゥ》や、A・ゲルラッハのスタンダール原作映画《ヴァニーナ》や、大当たりしたフリッツ・ラングの《ドクトル・マブゼ》や《死滅の谷》や《ニーベルンゲン》などの怪奇映画や幻想映画をめぐって、そのまま一九三〇年のジョセフ・スタンバーグのマレーネ・ディートリッヒ主演《嘆きの天使》のサディスティックな暗澹に突入していくように本書を仕立てている。 

≪012≫  仕立てはまことによい。着心地のよい背広のようだ。映画フリークならこの洋服にはまって、どこへ行くにもこれを着ていきたくなること請け合いだ。この時期のドイツ映画については、本書のほかに有名なグレゴリー・ベイトソンの『大衆プロパガンダ映画の誕生』(御茶の水書房)をはじめ、クルト・リースの『ドイツ映画の偉大な時代』(フィルムアート社)、クルト・トゥホルスキーの『ドイツ 世界に冠たるドイツ―「黄金」の二〇年代・ワイマール文化の鏡像』(ありな書房)といった重要な著作がずらりと控えているのだが、本書の価値はそれらと比較していささかもゆるがない。 

≪013≫  その理由ははっきりしている。本書はなぜドイツ人が「プロパガンダ」の手法を発見し、それをワイマール文化の象徴とし、さらには数々の傑作映画になしえたのかということを、映画の手法のみを使って暗示したからだ。いまならともかく、本書が戦後すぐに著されたことを勘定に入れると、こういう分析はすこぶるめずらしい。 

≪014≫  ドイツ人が長きにわたってドイツ人の魂を問題にしていたことはあきらかである。ヴィーネだけについて言ってみても、《カリガリ博士》以外のいくつもの作品、たとえば《ユダヤ人の王ナザレのイエス》も、ドイツ人の魂の行方とその落着を告げようとしていた。 

≪015≫  けれども、このことがすぐさまヒトラーのナチズムの利用に向かったと早合点しないほうがいい。そもそもヒトラーが政権に近づくには、本書の守備範囲の一九三三年の直前までは脈がなかったのである。 

≪016≫  一九二九年のニューヨークに始まった世界大恐慌はドイツに手ひどいマルク暴落をもたらしたけれど、そして一九三〇年九月の総選挙はナチ党の最初の圧倒的凱歌ではあったけれど、それでも一九三〇年の国会では、ナチは政権には遠かった。ヒトラーは究極の勝利を収める直前に、重大な挫折を強いられたのだ。もしも社会民主党が国民からそっぽをむかれる打撃をうけなかったら、ヒトラーがあれほどたやすく政権を手に入れたかどうかは疑問である。 

≪017≫  それにもかかわらずドイツ映画とヒトラーのプロパガンダとは、もっと見えない事態の底流の進捗のころから、何かの軌を一にして、同じ行進曲を奏でていたとおぼしい。仮にその様相が怪奇劇や幻想劇や恋愛劇の衣裳を着ていたにしても、当時のドイツでは二つのあいだで同じことが進行していたのだ。なぜ、そうだったのか。 

≪018≫  クラカウアーによると、ドイツ人の魂は、それがユダヤ人であろうともゲルマン人(アーリア人)であろうとも、たいてい叙事詩を好むものだという。とりわけ偉大で巨大で劇的な叙事詩を好む。途中に挫折があっても病気があってもかまわない。ひたすら主人公を中心とする登場人物たちが目的に向かって拡張しながら進行していくことが好きなのだ。象徴的には『ニーベルングの歌』やゲーテが提示したファウスト的魂の叙事詩である。こういった魂の遍歴を物語る叙事詩には、メルヘンを体質とするボヘミア人でさえ目を細めて聞き入るという。  

≪019≫  ということは、結論からいえば、ナチの戦意高揚のためのプロパガンダはすべてドイツ的叙事詩になっているということなのだ。それ以外のどんなシナリオもドラマトゥルギーもない。その最たるものはナチス幹部となったアルフレート・ローゼンベルクの「第三帝国の神話」の作成であるけれど、それだけでなく、どんなヒトラーの演説原稿にも、どんな宣伝映画にも、どんな戦闘記録のフィルムにも、徹底して叙事詩の手法が貫かれたのだ。 

≪020≫  しかし大衆にとっては、それだけで満足があるのではない。叙事詩は叙事詩らしい舞台の大きさが必要であり、それにふさわしい衣裳がなくてはならず、それにふさわしいスペクタクルがなければならない。それらが伴って初めて、みすぼらしい者たちが際立ち、貧しい者たちが物語の主人公に添うように見えてくる。それには、そのようなことを見せる演出が必要なのである。 

≪021≫  世界に冠たるドイツ映画とは、まさにその舞台が、その衣裳が、その制服が、貧しい者が、輝く者が渾然一体となって動いていくことを見せたのだった。そこに音楽が鳴り、光が闇になり、闇から一条の光が出現することを見せたのである。 

≪022≫  いいかえれば、万事万端はすでにヒトラーの登場以前に準備されていたのだった。それをむろんウーファ映画社が使っても、小説家が使っても、政治家が使ってもかまわなかったのだが、それをすべて使いきって、それを帽子に、それを制服に、それを演説に、それを舞台に、それを建築に、それを軍隊に、そしてそれを戦争にしてみせていったのが、ヒトラーだったのである。 三島由紀夫が「楯の会」をつくり、『わが友ヒットラー』(新潮社)を書きたかったというのはここだった。 

≪023≫  ビスマルクは「熱狂は鰊のように塩漬けにして保存できない」という名言を吐いた。そして、その名言どおりに熱狂を塩漬けにできずに、舞台から去った。 

≪024≫  逆にヒトラーは熱狂をつねに連写することができた。ヒトラーは国民の感情と戦争の美学と少年少女の夢とドイツ青年団の熱を、現実の映画にしてしまったのである。しかしそのかわり、それによってすべての現実が消滅し、雲散霧消していった。 

≪025≫  ヒトラーが政権をとった一九三三年一月はそれを祝う提灯行列がベルリンを埋めつくしたのだが、その瞬間、現実のベルリンそのものが消滅してしまったのだ。戦場のピアニストであったアルトゥール・シュナーベルはベートーヴェンのピアノ・ソナタの連続演奏中に突然、放送を打ち切られたのである。こうしてベルトルト・ブレヒトはデンマークに逃げ、クルト・ヴァイルとフリッツ・ラングはパリへ去ったのだ。アインシュタインはアメリカに、グロピウスはロンドンに姿を消したのだ。 

≪026≫  ベルリンに残っているのは、ヒトラーを信奉する映画作家と芸術家と、そしてどこにも行けないユダヤ人だけになった。それがカリガリ博士の幻影というものだ。 

≪027≫  二十世紀の最初の三十年間のドイツ映画を見ることは、なによりも歴史にネジとドライバーを差しこむことである。ヒトラー登場の背景を目で見たいと思うなら、そうすることを勧める。そうでなければ、ヴィスコンティの《地獄に堕ちた勇者ども》を、少なくとも三べん見ることだ。 

≪01≫  ジュリア・クリステヴァはこの本を書くあいだずっと、二つの書物を念頭においていたらしい。ひとつはジグムント・フロイトの遺作となる『モーセと一神教』であり、もうひとつはフェルディナン・セリーヌの小説『夜の果てへの旅』だ。二つとも20世紀の超問題作であるが、共通しているのは「負性」と「負性の反作用」を描いていることである。 

≪02≫  クリステヴァはこの超問題作を「浄め」と「穢れ」が両義的にあらわれているテクスト、あるいは「魅力」と「嫌悪」が両義的にあらわれているテクストと捉え、そこから人間にひそむ裏腹な関係を問いただしていくという関心をもった。 

≪03≫  何を問いただしたかというと、その問いは本書の副題の「アブジェクシオン詩論」に集約されている。本書は第1行目から最終行まで、アブジェクシオンを徹底的に問題にすることを貫いている。それ以外の問題は扱わない。アブジェクシオンが何を意味するかはこのあとすぐ説明するが、そこで検証されるのは、たとえば穢れの儀式、よそよそしい言葉、内部と外部の境い目、脆うさ、汚物に対する嫌悪感、セリーヌの文学、男根の意味、エディプス・コンプレックスのこと、男女の性的関係、ドストエフスキー『悪霊』の登場人物の心理、ナルシシズムの本質といったあたりのことで、クリステヴァはこれらがいずれもアブジェクシオンだと言っているのである。そして、このアブジェクシオンを問いただすことが「恐怖の権力」の正体をあきらかにする有効な方法になると考えたのだった。 では、一気に説明していくことにする。 

≪04≫  ひとまずアブジェクシオンとは「おぞましさ」という意味だと思われたい。「おぞましさ」にはむろん多くの意味があるし、いろいろなおぞましい候補がある。  

≪05≫  ごく素朴な意味は、嫌いな食物、汚物、はきだめ、死体などに対する嫌悪感としてあらわれる、さまざまな生理的な経験にもとづいている「おぞましさ」である。しかし、なぜそれらがおぞましいかはわからないときも多い。大嫌いな人物はおぞましいが、その嫌悪の理由がつきとめにくいときもある。写真や映像として見せられたものがおぞましいことも少なくないが、なぜそのように思ったのか、いつもすぐに目をそむけたためによく見ていなかったということもある。その目のそむけ方はまことに速い。それとともに、誰もが経験があるように、父親がおぞましいと思うこともあるし、自分がおぞましいと思うときもある。 

≪06≫  おぞましさとはまことに広い心情あるいは心性なのである。けれども、その理由を明確にすることは、案外むずかしい。 

≪07≫  クリステヴァはこのような「おぞましさ」の根底にある作用をアブジェクシオン(abjection)と名付けた。たんなる嫌悪感ではなく、嫌悪しているにもかかわらず、その嫌悪が当人の感情や心に入ってくるぎりぎりのところで弾きとばされたり、隠されてしまうような、そういう「おぞましさ」がアブジェクシオンである。ただし、この命名にはちょっと仕掛けがあった。 

≪08≫  アブジェクシオンという言葉はもともとはフランス語の"abject"から派生した言葉で、「分離するためにそこに投げ出した」という原義をもっている。そこから一般的には「放擲」とか「棄却」という意味となった。 

≪09≫  クリステヴァはここに、あえて"abjet"という1字ちがいの造語を孕ませたのである。これは"abject"からクリステヴァが勝手に派生させた概念で、察する通り、"objet"とは微妙に裏腹の関係をもつ。すなわち"objet"(オブジェ)が「対象」をあらわすのに対して、"abjet"(アブジェ)は「いまだ対象になっていない」というニュアンスをもった。 

≪011≫  クリステヴァは、禁忌していたのに魅かれる作用が秘められている問題に注目したのである。避けているのに惹きつけられるもの、「浄め-穢れ」や「魅力-嫌悪」といった対比的で裏腹な関係がアンビバレントに襲ってくるようなもの、それをアブジェクシオンとよんだのである。さて、そのように見てみると、アブジェクシオンは必ずしも個人の生理的な基準によって対象化されたものだけでなく、そこには社会や歴史や民族や家庭が"abject"していたものもありうることになる。話は俄然、類的な様相をおびてくる。 

≪011≫  第895夜にやや詳しく書いておいたように、フロイトが『モーセと一神教』で悪戦苦闘したのは、ユダヤ人がモーセを"捏造"したかもしれないことと、フロイト自身にひそむ父親像とのあいだに、なんらかの"つながり"があるかどうかということだった。 

≪012≫  そこには、ユダヤ人という民族の起源にまつわるアブジェクシオンが、フロイトという個人の父親とのあいだに生じたかもしれないアブジェクシオンと強くつながりうる可能性(あるいは危険性)が暗示されていた。 

≪013≫  すでにフロイトは『トーテムとタブー』で、原初の社会では女性を独占し、生まれた子供を次々に追い払ってしまう暴力的で嫉妬深い父親をとりあげていた。バハオーフェンふうにいうなら、母権制が解体して父権制が確立する移行期にあたる。このとき、追放された兄弟たちは力をあわせて父親を殺害し、次の共同体をつくろうとする。けれどもそのままでは兄弟たちはふたたび権力を争うことになり、また女性を取りあうことになるので、兄弟同盟のルールと近親性交を戒めるタブーをつくり、そこに父親に代わる動物などトーテムをつくって、これによって新たな社会組織に向かっていくとした。原初の父殺しがその後の社会の道徳や宗教をつくったという説である。フロイトはこの一連の動きに、はからずも父をめぐるアブジェクシォンを組みこんでいたのである。 

≪014≫  セリーヌの『夜の果てへの旅』(1932)は「千夜千冊」にはまだとりあげていないが、セリーヌ自身をモデルとした青年バルダミュの遍歴をあつかった衝撃的な作品である。 

≪015≫  デビュー作でありながら、既存の文学価値を「負」の領域からゆるがしたとともに、俗語を露悪的に、かつ縦横無尽に駆使した文体によって、都会的な現代人の意識にひそむ多様なアンビバレントな感情を引き出して、多くの読者を震撼とさせた。きわめてペシミスティック、またかなりアナーキーな作風で、ぼくは第342夜で紹介した間章(あいだ・あきら)に薦められて読んだ。 

≪016≫  その次の、さらに自伝的な『なしくずしの死』(1936)では、主人公フェルディナンの少年期がやりきれないほどに暴露され、それをあらわす破格の文体と隠語卑語の乱打によって、自己暴露されたセリーヌがテクストそれ自体のテクスチャーとさえなった。 

≪017≫  セリーヌは、パリの商業地区の貧しい家に育ち、見習い店員をはじめ、軍隊での負傷、アフリカのカメルーンへの赴任、そこでの風土病、大衆科学雑誌の編集体験などをへて、30歳で医学博士となって、終生、開業医として暮らしたのである。医者でありながら(いや、医者であるがゆえ)、他方、自身と社会のあいだに蟠る「おぞましさ」を、文体が生体そのものとなって「おぞましさ」を生むように綴ってみせたのだった。医者セリーヌは医者フロイトと一脈通じる立場にいて、自身の内なる嫌悪を社会と人間のあいだを波打つ「おぞましさ」に混濁させていったのである。 

≪018≫  クリステヴァはこうしたフロイトやセリーヌの問題意識や文体感覚を例にしつつ、実はアブジェクシオンには「恐怖の権力」の正体があるのではないかと喝破していったのだ。 

≪019≫  いったい、なぜ「恐怖の権力」としてのアブジェクシォンの特色なんてことをクリステヴァが追求することになったのか。当然、クリステヴァの女性性や原郷体験のようなものが気になる。 

≪020≫  それを掴むには、多少ともクリステヴァの生い立ちの履歴と彼女が提起しつづけた問題の遍歴を知っておいたほうがいい。いや、クリステヴァの思想遍歴そのものにアブジェクシオンの秘密が痛打されている。ちょっとだけフランス現代思想の流れをまぜておく。彼女が颯爽とパリの思想の舞台に登場してきたときは、フランス現代思想が最後の爛熟を迎えていた時期だったのである。 

≪021≫  
ジュリア・クリステヴァは1941年にブルガリアに生まれた。ユダヤ人である。幼少時からフランス人の修道女のもとでフランス語とフランス文化にふれた。 

≪022≫  1965年に給費留学生としてパリに留学して、ルシアン・ゴルドマンやロラン・バルトのセミネールに学んだ。ミシェル・フーコーの『言葉と物』、ジャック・ラカンの『エクリ』が出版された年だった。翌年、バルトのセミネールで知り合ったジェラール・ジュネット(のちのナラトロジスト)の紹介でフィリップ・ソレルスを紹介されると、ソレルス主宰の「テル・ケル」の活動に加わり、ソレルスと結婚もする。ソレルスはポスト・ヌーヴォーロマンの旗手であり、ダンテやサドやアルトーやバタイユの文学のまったく新しい解読者でもあった。バルトが『モードの体系』を、ジャック・デリダが『エクリチュールと差異』を発表した年にあたる。 

≪023≫  クリステヴァがこうしたスリリングな知的環境をえて始めたのがテクスト理論の研究である。最初からミハイル・バフチンの対話原理やポリフォニー理論にとりくんだ。これが注目を浴びた。バフチンを流行させたのはクリステヴァだったのだ。 

≪024≫  テクスト理論(テクスト批評)というのは、もともとは本文校訂の作業に始まったもので、手稿・印刷指定原稿・校正・書き込み・訂正などをへて「理想のテクスト」がめざされているとき、どの立場にもとづいてテクストを理想化するかということが問われるのだが、そのテクストの前に立ったときの一種の立場のような問題を研究することをいう 

≪025≫  たとえば、作者や執筆者の制作意図にそってテクストを理想化しようとすれば作者や執筆者の制作意図の定義が必要となり、現存するいくつかのテクストのうちのどれを正当化するかという立場に立とうとすると、それらのテクスト間の関係を説明しなくてはならなくなる。現代思想のテクスト理論は、こうした書誌学的な問題からスタートしたのだが、そこに構造主義以前と以降における決定的な相違が生まれた。一言でいえば、構造主義以前ではテクストは作者が完結させた自立的なものであるという見方がゆるがなかった。そこでは作者と読者は画然と仕切られていた。混同されることはない。 

≪026≫  それが構造主義以降には、こうした前提が崩されたのだ。ロラン・バルトの説明を聞くのがわかりやすいだろう。「テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが結びつき、異議を唱えあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である」 

≪027≫  ようするに学問とか思想とか小説といっても、結局はそこにはテクストという言語群があるわけで、そうだとしたら、われわれはつねに「テクストの前に立たされた意識」にすぎないか、「そのテクストと意識のあいだに立たされている存在意識」ということになるわけなのだ。 

≪028≫ 若きクリステヴァはこの見方を強調し、また拡張して、われわれ自身の存在にまつわる「間テクスト性」(intertextualit)という概念を提案した。インターテクスチュアリティである。 

≪029≫  これは自立したテクスト相互間の関係のみならず、一連のテクストの内部で生み出される副次的なテクストの動向にも留意したもので、たとえば、あるテクストが歴史を記述しているとき、そのテクストには「歴史をそのように読んだ」という潜在的なテクスト性も浮上しているとも考えられるのだが、クリステヴァはこのような可能性があることをバフチンの研究から取り出して、この主テクストと副テクストともいうべきテクスト間に一種の構造が生成されてくるのではないかとも考えた。 

≪030≫  このとき、一方のテクストを「ジェノテクスト」(生成するテクスト)、他方のテクストをフェノテクスト(現象するテクスト)と名付けることにした。また、この二つのテクストは相互に対話をしているのではないかと見た。クリステヴァ自身はこう書いている、「いかなるテクストもさまざまな引用のモザイクとして形成され、テクストはすべてもうひとつのテクストの吸収と変形になっていく」。 

≪031≫  これはかなり冒険的な見方だとうけとられたのだが、いまでは「テクストにおける相互編集性の発見」だったということになる。とりたてて格別のものではない。クリステヴァが「引用のモザイク」と言っているのはまさしく編集作用のことなのである。ここまではお膳立てにあたる。 

≪032≫  クリステヴァはこうしたテキスト理論を深めるとともに、記号学と心理学に深入りし、「サンボリック」と「セミオティック」ということを考えつづけ、そこから「母なるもの」とは何かということを突きとめようとした。「サンボリック」は生産物としての秩序のことを、「セミオティック」は生産物を生みだす生産そのものの秩序のことをいう。 

≪033≫  クリステヴァ以前の記号学や言語学や心理学では、記号や意味を生みだす秩序については、サンボリックなプロセスばかりが重視されていた。しかし、これはどうも片手落ちのようである。生まれていくものばかりが強調されすぎている。いっさいの象徴がそこに集中しすぎている。生んだものへの注目がない。さきほどのフロイト理論でいえば、暴虐な父を殺して子が成長していくプロセスばかりに光が当たっている。これでは、そこでの「負の父」と「大いなる母」とが描かれない。 

≪034≫  クリステヴァはプラトンの『ティマイオス』を読みこんでいるうちに、そこに生成に関する3つの仕組みがあることに気がついた。3つの仕組みとは、次のことをいう。 (1)生成するもの(=生産物)  (2)生成するものを受けいれているもの(=コーラ)  (3)生成するものに似せて生じてきたもの(=モデル) 

≪035≫  これがヒントになった。この見方こそ、何かを保存しているのではないか。このうちサンボリックなのは(3)であり、セミオティックなのは、おそらく(2)であろう。プラトンおよびティマイオスは、(2)の作用を「コーラ」(場)とよんでいた。これはきっと「母」ではないか。コーラは生成する場を用意する母なるものではないか。そうだとすると、これは次のように配当できるではないかというのが、次なるクリステヴァのアイディアだった。
 (1)生成するもの(=生産物)=子 
 (2)生成するものを受けいれているもの(=コーラ)=母 
 (3)生成するものに似せて生じたもの(=モデル)=父 

≪036≫  これはフロイトの理論の読み替えである。のちに流行した用語でいえば、脱構築だ。フロイトがサンボリックな父プロセス(生産物としての秩序)に加担しすぎたことに対する、母セミオティック(生産物を生みだす生産そのものの秩序)のほうからの逆襲である。 かくして、クリステヴァはまったく独自の思想に入っていくことになったのである。 

≪037≫  それまでクリステヴァは1969年に『ことば、この未知なるもの』や『セメイオチケ』を書き、1970年には『テクストとしての小説』をまとめて、もっぱら記号学あるいはテキスト理論研究者としての姿をとっていた。しかし1975年に出産を体験すると、自身の思想を新たな胚胎に向けて大きく組み直していったのである。それが『ポリローグ』(1977)であって、本書『恐怖の権力』(1980)だった。 

≪038≫  この組み直しの中核となったのはあきらかに「母」である。それとともに「負の父」の役割をアブジェクシォンとして描出しきることだった。これでだいたいのことが見当ついたとおもうのだが、クリステヴァは「いまだ主体ならざる父」が「いまだ対象ならざる母」を棄却していたプロセスを明示化することによって、母なるものの奪還を画したのだった。 

≪039≫  これ以降、クリステヴァは「想像的な父」というアブジェクシォンを伴わない父親像を想定しつつ(ソレルスのことかもしれない)、さらに深層意識の底辺を邁進して「母なる起源」の解明に向かっていく。 クリステヴァはジェノテクストそのものの発露に生きることを決意したようなのである。 

≪01≫  ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は1970年代のイタリアの政治状況を中世の教会世界に移していた‥‥という説がある。ほんとうかどうかは知らないが、もしそうだとすると、エーコが関心をもった政治状況の中心にはアントニオ・ネグリの動向が大きく印象づけられていたということになる。実際にもエーコはしばしばネグリについて発言した。 

≪02≫  ネグリはエーコに惚れられるにふさわしい武勇伝の持ち主だった。いや、武勇はいまなお続いているし、これからも何がおこるかわからない。ネグリといえば「赤い旅団」や「逃走」や「亡命」が有名なので、その武勇伝にばかり話題が走るか、あるいは「アウトノミア」やマイケル・ハートとの共著『帝国』の話題に走りがちなのだが、それだけではネグリは語れない。ネグリにはつねに「生政治性」(ビオポリティーク)というものがある。 

≪03≫  しかし、なるほど武勇伝も痛快である。そこで以下は、これらを適宜交ぜながら、これまでの活動を総じてふりかえりたい。 

≪04≫  アントニオ・ネグリは1933年にパドヴァに生まれた。父親がイタリア共産党の創立メンバーで、ネグリが2歳のときにファシストに惨殺された。ムッソリーニのファシスト党が絶頂期のときに、これに真っ向から対決する革命地下組織をつくろうとしたのだから、少年ネグリにとっては父親の惨殺は政治社会というものの惨(むご)たらしい本質を告げたのは当然だ。  

≪05≫  ネグリは青年期には筋金入りの組織労働運動の活動家になっていた。とくに1956年のハンガリー動乱(マルクス主義陣営ではしばしばハンガリー革命とよぶ)のさなかに創刊された「クァデルニ・ロッシ」(赤い手帖)に参画したのが大きく、そのときからは公然と政治活動と表現活動にとりくんだ。その第一弾がマッシモ・カッチャリらと携わった「クラッセ・オペライア」(労働者階級)の創刊と「オペライア主義」(労働者主義)や「オペライスム・イタリアン」(イタリア労働者主義)の計画である。このときネグリはすでに「労働の拒否」というラディカルなスローガンを出している。 

≪06≫  この「労働の拒否」を行動メッセージとした活動は、のちにネグリが「ビオス」という言葉でまとめたスタイルになっていく。ビオスは「生のスタイルをともなった活動あれこれのアクチュアリティ」といった意味だと思うのだが、そこにネグリは「知識と行動はともにビオスでなければならない」という付加価値をこめていた。これが「生政治性」(ビオポリティーク)の発芽になった。 

≪07≫  フランスでも日本でもアメリカでもそうだったのだが、イタリアの学生運動が頂点で火を噴いたのは1968年である。翌年、トリノのフィアットの自動車工場で大争議がおこって労働者も大きく動き、これが連鎖してヴェネチアのそばのマルゲラ化学工場のペトロシミコ運動などとなって、大衆的な反乱状況を現出させた。 

≪08≫  このなかでイタリア共産党も四分五裂して、多様な運動主体を演じる。平等賃金運動や代議制の批判などの異質な動きも出てきた。この活動は日本でいえばさしずめ"反代々木"にあたる。ではそのころのイタリアの"代々木"はどういう状態にあったかというと、おぞましいことに共産党とキリスト教民主党が手を組んだのである。ネグリはそれを深層心理に戻してアブジェクシオンと言わないかわりに、「スターリニズムとカトリシズムの異常な同盟」とよんだ。 

≪09≫  "反代々木"の一角にいたネグリはただちに次のステップに踏み出した。1969年創設の「ポテーレ・オペラティオ」(労働者の権力)に参加し、その指導的役割をはたしていったのだ。これは当初はレーニン主義的な立場から労働者の組織化と武装蜂起を主張していたグループなのだが、大衆反乱の状況が出てきたことをたちまち反映して、スターリニズムとカトリシズムを野合させた代々木的な党中央を批判する急先鋒に変化していった。 

≪010≫  けれども、ここがユニークなのだが、"反スタ・反カト"ではセクトに堕していくと判断し、「ポテーレ・オペラティオ」は1975年には自発的に組織(セクト)を解体し、労働者の自発性を重視する大衆的運動体をめざすようになったのである。ネグリはつねに新左翼セクトの党派性を求めるタイプではなかったのだ。これが「アウトノミア」(労働者自治)の運動の出発である。  

≪011≫  アウトノミア運動のコンセプトはただひとつ、自治である。運動は一挙に高揚し、拡張していった。硬直体制化してしまった共産党の外部に多彩な活動を展開した。フランスでもそうだったのだが、イタリアでも自由ラジオを駆使し、工場や住宅を占拠し、まさにカルチャー路線から武断派までが入り乱れた。ネグリはすぐさまアウトノミアの理論的指導者ともくされて、『支配とサボタージュ』などの一連の政治文書を書きまくる。 

≪012≫  そこへ1978年、「赤い旅団」による元イタリア首相モロの誘拐暗殺事件が勃発した。ネグリは「赤い旅団」の"最高幹部"として暗殺事件にかかわったとみなされ、4月に逮捕される。さらにモロ殺害容疑、国家に対する武装蜂起容疑、国家転覆罪容疑で起訴された。けれどもネグリは悠然としていた。1979年の再逮捕まで、パドヴァ大学の政治学研究所所長として「国家論」を講義し、のみならずフランスのパリ第七大学やエコール・ノルマルなどでの講義も続けてみせた。このときの講義が『マルクスを超えるマルクス』になる。超難解だといわれた大著だ。 

≪013≫  逮捕されてからは、4年半にわたって裁判が開かれぬまま最重要警備獄舎に"幽閉"された。予防拘禁である。そのあいだ、ネグリはスピノザ論として『野生のアノマリー』を著作したかとおもえば、1985年には突如として獄中から国会議員に立候補して、当選をはたしてしまった。これで議員特権による釈放を勝ちえたので、世間はその法を抜ける手法に喝采をおくったのだが、敵もさるもの、3カ月後にはすかさず議員特権を剥奪した。しかしその逮捕のために官憲が来る直前に(数時間前らしい)、ネグリはスクーターでまんまと逃走、さらに船に乗り換えて行方をくらました。まるでティモシー・リアリーだ。 

≪014≫  あとでコルシカ島に潜伏してパリに亡命していたことが判明したのだが、本国イタリアでは欠席裁判のまま結局、国家転覆罪で30年の実刑になった。 

≪015≫  この間、亡命中のパリではとくにドゥルーズやガタリとの親交を深め、パリ第八大学で講義をするほか、ガタリとともに「緑の党」の設立にかかわった。比喩的にいうのなら、ここで「赤」と「緑」が統合されたわけである。「ブールの大行進」もおこなった。ブールとはアラブ系移民第二世代のことをいう。 

≪016≫  こうした多忙のパリ再亡命中に書いたのが、『転覆の政治学』や本書『構成的権力』である。一方、裁判のほうは控訴審によって12年に減刑された。 

≪017≫  ところが、またところが、1997年7月のこと、ネグリは自発的にイタリアに"帰還"することをあえて発表したため、これを待っていた官憲に7月1日に空港に降り立ったところをあっさり逮捕され、ローマ郊外レビビアの監獄に再収監されてしまったのである。この"帰還(ルトワール)"という言葉は、のちに、ネグリ自伝のタイトル『帰還』に使われる。サブタイトルは「生政治的自伝」である。いよいよ生政治が市民権をもちはじめた。 

≪018≫  その後、これはどういうものかは知らないのだが、昼間だけは外出許可が出る"労働釈放"という身になって、これもそういう執行があるのかと思ったが、2002年4月からは獄中を離れて指定住居に居住する"選択的拘留"の身になった。このときネグリは69歳だ。それから1年後、どうやらやっと自由の身になったらしい。モロ暗殺容疑は晴れたということなのだろうか。意外なことも判明した。そもそも「赤い旅団」はむしろネグリ暗殺を謀った連中だったのである‥‥。 

≪019≫  だいたいこんなところが革命闘士としての"戦歴"だが、なんとなくネグリの思想と行動のアウトラインは見えるだろうが、これだけではネグリが何をしたいのか、何を言いたいのか、まだ何もわかるまい。とくに「構成的権力」と「マルチチュード」というキワードを知らないと、ネグリはほとんど見えてはこない。 

≪020≫  本書の表題となった「構成的権力」とは、一言でいうのはネグリには失礼だろうが、とどのつまりは憲法制定の力ということである。さらにわかりやすくいえば「主権の移行」が構成的権力なのである。 

≪021≫  かつてなら革命期ロシアのソビエトや社会主義革命政府が構成的権力をもった。いや、イタリアの出現のときも、アメリカの出現のときも、むろん明治維新のときも、つねに国家が新たに誕生するときは構成的権力が急激に浮上した。しかしいまこの力をもつには、大半の国では権威民主的な手続きをへて議会を制し、マスメディアをコントロールし、国家の中枢の変更を迫るいっさいのプログラムを駆動させてからでないと、何もおこらないようになっている。もしそれを破るようなら、既存の国家権力と世界を覆う帝国的権力がグローバリズムの名のもとに、ありとあらゆる邪魔をする。 

≪022≫  実は、本書『構成的権力』やマイケル・ハートと共著した『帝国』が書いていることは、国民国家の主権はどのように次のステージに進んでいけばいいのかということなのである。この現象はこれまではたいてい「国内類推」によって説明されてきた。国内的な努力の成果が新たな主権を誕生させるという見方ばかりだったのだ。 

≪023≫  これは、国内現象と国際現象には類似性があるという見方がまかり通ったからである。しかしこの類推では、帝国というものはたんに世界大の国民国家だということにとどまってしまい、こういう帝国の通俗化では、アメリカが世界帝国になるという予想ばかりになって、結局は国民国家ができることはかなり縮小したプログラムの実行だけに絞られてしまう。 

≪024≫  ネグリはそうではなくて、軍事的・金融的・文化的・政治的・言語的な主権の移行は、いかなる国内類推にも還元できないと考えた。帝国の構造は国民国家の構造とはまったく異なるものだと言ったのである。それゆえ、新たな構成的権力をつくるには、世界大の装いにいままさに酔いしれる「帝国」を解体するしかないと考えたのだ。ネグリは国民国家にも見切りをつけたのだ。 

≪025≫  マルチチュードとはもともとはスピノザに由来する言葉である。スピノザのことを片時も忘れないネグリは、この異貌の思想者からマルチチュードを盗む。  

≪026≫  マルチチュードとは自主的多数派のことである。「群衆」「多数性」「多性」などといった訳語があてがわれてきたのだが、どれもぴったりしない。マルチチュードと原語でいうのが、いちばんいい。それより重要なのはマルチチュードが何をするかということである。一言でいえば憲法制定の力を担う者のことをいう。すなわち、マルチチュードが「帝国」を解体し、憲法制定権力をもつこと、それがマルチチュードのミッションなのだ。 

≪027≫  それにはどうするか。第1に、移動の自由を獲得することである。自分がいるところ、自分が生きているところで選挙権をもてるようにする。これが生政治(ビオトープ)という意味の本来だ。しかし現在は、この生政治の自由は資本と国境が管理している。ここから脱出しなければならない。そしてどこへ行っても選挙権を得ることである。 

≪028≫  第2に、どこで生きようとも最低賃金が確保できることである。これはいいかえれば「富の分配システム」を変更することにあたる。この変更の権利をビオスという。端的にいうのなら、生きようとすることが報酬の対象になるような、そういうビオスのシステムを執拗に提案することだ。 

≪029≫  そして第3には、あらゆる権利を再領有する可能性をひらいていくことである。これがマルチチュードが闘うための展開シナリオのひとつの橋頭堡である。再領有とは、いったん離れたものも離れさせられたものも、ともに本来の領有を宣言するということをいう。 

≪030≫  以上が構成的権力を担うマルチチュードに課せられたミッションである。 しかし、これだけでは何もおこらない。ネグリは、マルチチュードが「帝国」に対抗するには、すなわちこれらのことをひとつでも実行プログラムに移そうとするには、マルチチュードはまずもって「特異性」(シンギュラリティ)としての多数性でなければならないと考えた。特異性を増殖させなければならないのである。マルチチュードがもし孤立してしまったら、マルチチュードはあのおぞましいファッショに墜落していくしかない。 

≪031≫  そうならずに、マルチチュードがつねに特異性を食らいこんで、どんなタイポロジーにも還元されえない活動そのものになること、これが新たな構成的権力の萌芽形態なのである。 

≪032≫  こんなことを初めて聞くとギョッとするかもしれないが、このマルチチュードの特異的共同性という特色こそ、アントニオ・ネグリの大胆で緻密で異常なプログラムの骨格にある行動思想だった。 

≪033≫  いったいネグリが何を言おうとしているのか、わかっただろうか。グローバリズムの傘下に入った国民国家は、たとえどんな内部改革に着手しようとも、もはや新たな構成的権力を獲得することはないだろうと言っているのだ。そのかわりに、マルチチュードがさまざまな意味での「再領有の権利」を手中におさめていきなさいと言っているのである。 

≪034≫  そのための戦線は、驚くほどに多様で、広い。たとえば誰もが「概念の創造」に一刻も速く着手すべきなのである。どの領分とも激突せざるをえないような言葉をつくること、それは何よりも既存のタイポロジーを破ることであり、特異性を発揮する第一歩になる可能性がある。 

≪035≫  この概念工事をもって、たとえばNGOは、NPOは、コミュニティは、コモンズは、内側から外の解体へ向かって動き出すはずなのである。いいかえれば、概念を創造しないままの変革には、その組織や非組織にはおそらくまったく何もおこらないか、やすやすと国民国家に呑みこまれるか、ないしはグローバリズムのふりをするだけになる。ネグリはそう指摘した。 

≪036≫  資本の自由に抵抗するマルチチュードがあってもいい。それには通貨や資本に時間の手錠をかけることである。それが資本を超えるビオスの再領有になっていく。それをもし手錠に時間をかけるようになっていくとき、マルチチュードはただの資本の手先になっていく。 

≪037≫  ネグリを読んでいて恐ろしいのは、そういう警告が随所に地雷のように潜伏しているということである。 

三峡ダムが警戒水位を超えた

長江大洪水