自然を科学する

表示用スプレッドシートVer5.0

マーティン・ガードナー 『自然界における左と右』

≪01≫  1957年は物理学の事情が一変した年にあたる。リーとヤンとがベータ崩壊の研究のあげく、「パリティが保存しない」ということを発表したからである。

≪02≫  このことを知ったときから、ぼくは一種のパリティ・ハイともいうべき意識状態になってしまい、まだ物理学の常識さえ知らぬころから、パリティに関する記事だけは追うようになっていた。

≪03≫  もともとパリティは数学者が偶数と奇数を扱うときにつかっていた言葉であった。考え方だった。次のような事情がおこっているときに、パリティという言葉がつかわれていた。二つの整数が両方とも偶数か、両方とも奇数であれば、その二つの整数は同じパリティをもつといい、一方が偶数で、他方が奇数ならばこのあいだのパリティは反対になる。

≪04≫  もともとパリティは数学者が偶数と奇数を扱うときにつかっていた言葉であった。考え方だった。次のような事情がおこっているときに、パリティという言葉がつかわれていた。二つの整数が両方とも偶数か、両方とも奇数であれば、その二つの整数は同じパリティをもつといい、一方が偶数で、他方が奇数ならばこのあいだのパリティは反対になる。

≪05≫  たとえば10円銅貨をオモテにして3枚並べ、これをどんな順序でもよいから1つずつ裏返しにしていくとすると、これを偶数回くりかえしているかぎりは、その結果のパターンは最初のパターンを必ず含むものとなる。このとき「パリティは保存された」と考える。逆に、奇数回ばかり裏返していると、最初のパリティと最後のパリティはさかさまになる。このとき「パリティは壊れた」という。

≪06≫  ぼくはこのことに異常に興奮してしまったのである。ここには、ある現象を左右反対に映し出す“現象上の鏡像関係”とでもいうべきものがひそんでいて、その“関係”こそが自然界の秘密と、われわれがそれを観察しているときの“見方の関係”というものの秘密とが、同時に隠されているとおもえたのである。

≪07≫  リーとヤンによるベータ崩壊に関する実験は、「パリティは壊れた」というものである。

≪08≫  このことが何を意味しているかは、にわかに認識することは難しい。そこで、このメッセージを「宇宙には鏡像関係が成立しない現象がある」というふうに読みかえてみると、とたんに不思議な気がしてくる。鏡に写しても左右が入れ替わらない現象が、どこかにあるということになる。

≪09≫  もっと簡単にいえば、宇宙のどこかに文明人がいたとして、そこにむけて地球から一枚の絵を送っても、その絵のどこが上下で、どこが左右かがわからない可能性があるということになる。10円銅貨の話が伝わらないことになりかねない。

≪010≫  なぜ、こんなことが重要かというと、物質はどこかでつながってつくられているからである。 酸素と窒素のちがいは、物質にひそむ“手”のつながりかたによって決まっていく。鉄と銀とのちがいは“手”のつなぎかたのちがいである。例の亀の子の形からいろいろな“手”が出ている分子構造や化学式は、そのことを示している。

≪011≫  この“手”の奥にあるものをずっと追求していくと、そこには“手”の究極をつくっている何かがあるにちがいない。それは電子や陽子のレベルの、つまりは素粒子やそれ以下の現象のレベルでおこっているもともとの“ルール”のところで、何かが決まっているということになる。そうでなければ、何によって手を結ぶか、結ばないかが、わからない。

≪012≫  そのように考えていくと、物質の動向の究極には手を結ぶか結ばないかという問題に関するもともとのそのまたもとの“ルール”があるはずだということになる。それはいいかえれば、左右の手を結ぶ問題とは、何かということになる。そして、それがはっきりしないかぎり、宇宙の文明人は、地球から送られてきたメッセージの左右について、最終的な結論が出せないはずだということになる。

≪013≫  これがパリティ問題である。 ひらたくいえば、勝手の問題である。左勝手とか右勝手とかという、あの勝手だ。つまりパリティ問題とは、「物質における最終的な勝手の問題」ということになるだろう。

≪014≫  ところがリーとヤンの実験は、その物質の究極の勝手の動向のところで、パリティ(すなわち勝手)は壊れているかもしれないと言い出したのだった。いったい、これは何を意味しているのか。では、物質はいったいどこのレベルで左右を決めているのか。ぼくは気になって気になってしょうがなかったのだ。

≪015≫  しかし、こうしたパリティの問題を納得のいく方法で描いている本はなかった。詳細は数式をつかって説明される以外はなかった。

≪016≫  そこで当時は、ヘルマン・ワイルのようなすぐれた数学者によるシンメトリー論≪018≫  科学者や数学者で、このような表現ができるのは、たいそう珍しい。専門分野をつかいながらも、その本質的な問題を拡張しつづけて、しかも本質的な問題の根本をはずさない。ジョージ・ガモフ以来の手際なのである。のようなものばかりが、ぼくの読書の対象になっていた。ワイルにはそうとうにお世話になったものだ。けれども、それで合同や相似のしくみはわかっても、パリティの問題は解けなかった。

≪017≫  そのときに登場してきたのが、この『自然界における左と右』なのだ。著者は「サイエンティフィック・アメリカン」の数学部門の編集長である。のちにぼくはこの人に会いに行くのだが、当時は、なんとすばらしい思考と表現ができるものなのか、まったくうっとりするような気分になれた。

≪018≫  科学者や数学者で、このような表現ができるのは、たいそう珍しい。専門分野をつかいながらも、その本質的な問題を拡張しつづけて、しかも本質的な問題の根本をはずさない。ジョージ・ガモフ以来の手際なのである。

≪019≫  しかもガードナーは、この問題を、「鏡で左右が入れ替わるのはなぜか」という、誰もが知っていながらちゃんと答えられない問題から始めている。そして、その疑問をたくみに解きながら、自然界におけるあらゆる対称性の出現と保存のありかたについて、次々に問題を投げかけ、これに明瞭な説明を加えていった。 信じられない手際なのだ。

≪020≫  こうして、ぼくはすっかりパリティの謎の内奥にひたることになる。

≪021≫  そして、自然というものを科学的にとらえる思考方法の新しい訓練をうけたのである。その訓練は、ポアンカレやガモフやディラックやワイルからうけた訓練とは、またちがっていた。何というのか、そこには思考の自由に関する翼の広げ方のようなものがあった。

≪022≫  そして、自然というものを科学的にとらえる思考方法の新しい訓練をうけたのである。その訓練は、ポアンカレやガモフやディラックやワイルからうけた訓練とは、またちがっていた。何というのか、そこには思考の自由に関する翼の広げ方のようなものがあった。

≪01≫  精子の数が激減している。デンマークの調査では過去50年間で半分になった。エジンバラでは25年間で25パーセントも男性の精子が減少していた。パリの調査もこれに近かった。王立エジンバラ診療所のスチュアート・アービンは減少が1970年代から顕著になっていることをつきとめた。 野生動物ではオスのペニスが小さくなりつつある現象が目立っていた。ある地域のワニは小指ほどのペニスになっていた。セーヌ川のオスのウナギは半ばメスになりつつあったし、オスがメスのように産卵する例も少なくない。オスの性ホルモンであるテストステロンの値が落ちているのだ。いったい野生動物が性転換をしてどうなるか。

≪02≫  人間のほうでは、乳癌や前立腺癌や精巣癌がいちじるしくふえている。精巣癌は若い世代に多くなっていた。オックスフォードでは50年間に精巣癌が44パーセントもふえていた。男の子の生殖器にも異変がおきていた。尿道下裂という奇形現象である。そんなとき、コペンハーゲン大学病院のニルス・スキャケベクは不妊男性の精巣を調べているうちに、見たこともない異常細胞があることを発見した。 いったい何がおこっているのか。各地での調査と研究の結果、これらの異常な現象のすべてに共通することが、ひとつだけ浮かび上がってきた。いずれもなんらかの理由で、エストロゲンがもつ作用と似た作用をうけていたということだ。エストロゲンとは動物ならばメスのホルモンのことを、人間ならば女性ホルモンのことをいう。

≪03≫  アメリカでは1950年代から80年代にかけて600万人もの赤ん坊がDESという"薬物"にさらされた。DESは快適な妊娠期間をおくるために妊婦が飲みまくったもので、しかも流産予防にも効くとも、事後に飲む経口避妊薬とも喧伝された。広告にも「大きくて丈夫な赤ちゃんをお望みなら、ぜひDESをお試しください」と謳われた。 それだけではなかった。DESは育毛トニックにも精力増強のためのセックスピルにも使用され、農家では家畜の体内に入れたり飼料にまぜたりして、家畜を早く太らせるようにしていた。 ところがDESを浴びた赤ちゃんは丈夫でも元気でもないばかりか、障害をもったり、また死産してしまったということが、のちになってわかってくる。

≪04≫  DESは「ジ・エチル・スチルベストロール」という合成エストロゲンだったのである。女性ホルモンの天然エストロゲンになりすました合成化学物質だったのだ。つまりはニセのエストロゲンなのだ。子宮内でDESにさらされた胎児には悲惨な結末が待っていた。

≪05≫  しかし、DESが女性ホルモンの仮面をかぶった悪魔だということは、すぐに突き止められたのではない。長らく、たんに女性ホルモンの過剰な投与が母体や胎児に悪影響をおよぼしているというふうに解釈された。天然エストロゲンと合成エストロゲンのちがいは理解されていなかった。それがしだいにあかるみに出ることになったのは、ひとつにはサリドマイド事件がおこったこと、もうひとつは殺虫剤で有名なDDTにニセのエストロゲン効果があったことが判明し、あまつさえ母乳からDDTが検出されるという報告が相次いだせいだった。

≪06≫  事態はやっと深刻な様相を呈していった。けれども、合成エストロゲンの何が問題なのか、ほとんど見当がついてはいない。深刻な事態の原因が見えてきたのは、ノースカロライナの国立環境健康科学研究所のジョン・マクラクランがPCB(ポリ塩化ビフェニル)の連鎖作用をつきとめてからだった。

≪07≫  PCBはきわめて安定した化学物質であるので、ほとんどどんな表土や空気や植物や水からもppm単位で検出できる。そこで研究チームはPCBが食物連鎖のなかでどのように蓄積されていくかを調査した。水を飲み植物を食べた動物をまた別の動物が食べていくうちに、なんとPCBは驚くべき数値で高濃度化していることが判明した。人間はその高濃度化したPCB入りの魚や肉や乳製品をぱくぱく食べている。とくに毒性の強いPCBが食物連鎖の最後に立つ側の動物に蓄積されやすいことも判明した。

≪08≫  こうして決定的な糸口にたどりつくことになる。PCBにはエストロゲン・レセプターがくっつきやすいことがはっきりし、そのようなPCBは合成エストロゲン化をしていたのである。生物間で擬似エストロゲンが作用していたのだ。事態は妊婦や赤ちゃんにおこっていただけではなかったのだ。ふつうに食事をとっているすべての生活者にPCBはゆきわたっていたのである。 やがてPCBだけではなく、DES、サリドマイド、DDTなどのいずれの合成化学物質も、エストロゲンの仮面をかぶったまま「有毒の遺産」を生態系にもたらしている張本人だということが見えてきた。ニルス・スキャケベクが不妊男性の精巣に発見したのは、擬似エストロゲンによって生じた異常細胞だったのである。

≪09≫  1993年、BBCは「ホライズン」の特集番組として『男性への攻撃』(Assault on the Male)というドキュメタリーを放映した。ある化学物質とそれを真似する作用の恐ろしさを一挙に世界に広めた番組だ。センセーションを巻きおこした。その化学物質の総称は「内分泌撹乱物質」、またの名を「環境ホルモン」という。 本書は、この『男性への攻撃』をプロデュースした女性プロデューサーによる丹念な報告書だ。ドキュメンタリー・タッチでとてもわかりやすく書いている。環境ホルモンにとりくんだ研究者たちのインタヴューもふんだんに入っている。とくに生体内に入りこんだ合成エストロゲンの作用に注目したため『メス化する自然』という特異な標題になった。

≪010≫  番組のほうはエミー賞を受賞した。NHKがBSで邦題を『精子が減ってゆく』にして放映したので、ぼくも見た。本書と同様、環境ホルモンの恐怖をみごとに描いていて、かつ、研究者たちが正体不明の"敵"に一歩ずつ近づいていくスリル、真実を発見したよろこび、政府や産業界から発表を抑圧された事実、苦しむ患者たちとの医師の交流、新たな研究分野が騒然と立ち上がっていく様子などが、ほぼ完璧に編集された番組になっていた。 

≪011≫  こういう番組を見るとBBCの深みと厚さを思い知らされる。ぼくもかつてライアル・ワトスンに頼まれてBBCの大相撲を素材にしたドキュメンタリー番組を手伝ったことがあるが、その徹底した制作方針と準備力に驚かされた。日本のテレビ番組ではいわゆる"箱書き"と称するシノプシスは1時間ものでもせいぜい5、6枚なのだが、BBCのものはなんと100ページ近いのだ。

≪012≫  それはそれ、前もってべつの感想を書いておくけれど、本書は読みやすく伝わりやすいものになっているぶん、科学としての環境ホルモン問題や政治としての環境ホルモン問題には深くない。この点についてはたとえば、環境ホルモン問題を科学的にも政治的にも濃厚に掬い上げているシェルドン・クリムスキーの『ホルモン・カオス』などのほうがいい。

≪013≫  また、本書にもBBCの番組にもすばらしい先行する母型があったことも言っておく。本書にも登場しているWWF(世界自然保護基金)のシーア・コルボーンの果敢な研究と勇気ある生き方、および彼女がダイアン・ダマノスキらと書いた『奪われし未来』がその母型だ。とくに『奪われし未来』はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』の再来とよばれた話題の書で、人体に及ぼす合成化学物質の恐るべき影響、つまりは環境ホルモン問題の全貌を、初めて研究者自身と科学ジャーナリストとが組み上げた記念碑だった。コルボーンは“第二のレイチェル・カーソン”とよばれた。序文を当時のゴア副大統領が書いていることもあって、たちまちベストセラーになった。 デボラ・キャドバリーはこれをお手本にした。むろんキャドバリーはそのことに敬意を払っているが――。

≪014≫  内分泌撹乱物質(Environmental Endocrine Disruptors)とは、 ある作用を生体内でおこして内分泌系を撹乱させる化学物質のことをいう。だからホルモン作用物質ともいう。 ある作用というのはいろいろあるのだが、その最も代表的な作用が女性ホルモンのエストロゲンに似たはたらきをする作用、男性ホルモンを妨害する抗アンドロゲン作用、甲状腺ホルモンを撹乱する作用などである。そういう作用を体内に潜入させて、内分泌(ホルモン)の正常な作用を乱すのが内分泌撹乱物質のやっていること、すなわち環境ホルモン(Environmetal Hormones)の正体である。

≪015≫  これまでPCBなどは、たんに悪質な汚染物質だというふうにみなされていた。むろん環境を汚染している物質であることは事実だが、しかし内分泌撹乱物質の悪魔的な特徴はそこにあるだけではなく、生体の体内に入りこんで、ホルモンに似た作用をもたらしながら生体のホルモンのバランスに異常をおこしていくところにある。ワニがメス化したのは、いまではDDEが体内にとりこまれたせいだったことがわかっているのだが、ワニがそんなことになったのは、DDEにひそんでいる合成ホルモンが本物のホルモンを騙すからだったのだ。

≪016≫  もっと困ったことに、内分泌撹乱物質が一番はたらきやすいのは胎児や乳幼児なのである。これは母乳に内分泌撹乱物質がなじみやすいことにもとづいている。たとえば合成されたエストロゲン類似化学物質は乳房のような脂肪の多い組織を標的にする。天然エストロゲンのエストラジオールは胎内ではほんの数分で効力のよわい物質に分解されて排出してしまうのに、合成エストロゲンは母乳をへて胎児にいたってそこに沈殿してしまうのだ。内分泌撹乱物質はまさに体内環境の汚染物質なのである。

≪017≫  ニクソンとキッシンジャーのベトナム戦争では「エージェント・オレンジ」とよばれる生物兵器がひそかに活躍した。枯葉剤である。上空から900万ガロンの「エージェント・オレンジ」を撒き散らした。それでもアメリカはベトコン・ゲリラに敗退した。 

≪018≫  エージェント・オレンジには245TというTCDDが含まれていた。ダイオキシンである。正確にはテトラクロロ・ジベンゾ・パラダイオキシンという。ダイオキシンには殺傷能力はなかったが、別の悪魔がひそんでいた。ベトナム戦争から帰ってきた兵士たちにしばらくすると異常がおこったのだ。癌にかかった者、生まれた子に奇形が出てしまった者、精神異常をきたす者、体力がおそろしく減退する者、いろいろだ。そのため、やっと世界中がダイオキシンの毒性を調査研究するようになった。検出技術が発達したせいもあって、恐ろしいことがわかってきた。

≪019≫  ありとあらゆるところにダイオキシンが散っていたのだ。空気にも土壌にも食品にもダイオキシンが溜まっていた。紙おむつからも母乳からも検出された。除草剤、PCB類、塩化ベンゼン類、フェニル類などの製造工場はおびただしいダイオキシンに覆われていることがわかった。パルプ・製紙・漂白工場の工業廃水や工業廃棄物にも多量に混じっていた。しかし世の中が最も愕然としたのは、ゴミ処理場がもたらすダイオキシンの量だった。 

≪020≫  ダイオキシンは分解しにくい。脂肪親和性が高い。そのため体脂肪に蓄積しやすい。したがってPCB同様に、食物連鎖をたどるにつれて高濃度のダイオキシンがしだいに蓄積されていく。 

≪021≫  そのダイオキシンの正体が内分泌撹乱物質だったのである。強力な環境ホルモンだったのだ。甲状腺に異常をもたらし、口蓋裂を発生させ、そして始末の悪いことに複数の体内ホルモンの値を変えてしまう力をもっていた。とくに性の異常をおこすことにかけては容赦をしない作用をもっていた。エストロゲンの値を大きく変えてしまうのだ。

≪022≫  こうして内分泌撹乱物質は環境にまじり、社会にまじり、食品にまじってわれわれに戻ってくることになったのである。その最も異様な変化がすでに強靭な野生動物たちのジェンダーを狂わせていた。男の子の精子の量をこっそりへらしていた。 おそらくは「メス化」をおこしているのは動物や人間の男児ばかりではないはずである。われわれにはいまだその実態があきらかではないホルモン・ネットワークというものがあって、それはインターネットのウェブよりも広汎に、また強力に、それぞれのケミカルメッセージを交わしあっているはずである。そこにニセのホルモンや本物より強いホルモンがすでに混じっている。

≪023≫  おそらくは「メス化」をおこしているのは動物や人間の男児ばかりではないはずである。われわれにはいまだその実態があきらかではないホルモン・ネットワークというものがあって、それはインターネットのウェブよりも広汎に、また強力に、それぞれのケミカルメッセージを交わしあっているはずである。そこにニセのホルモンや本物より強いホルモンがすでに混じっている。

≪024≫  われわれの体はこうしたケミカルメッセージを判別できないようになっている。それは本物の脳内物質と外部から注入されたドーパミンやアドレナリンとを、脳が識別できないのと同じことである。メス化がおこるのは、生殖細胞が生命を生むために純粋すぎるからなのだ。うぶすぎるのだ。それなら、やがては内分泌撹乱物質がウィルスやコンピュータ・ウィルスさながらに、本体の壁を食い破ってくることは目に見えている。時代は、かれらがハッカーになるか、われわれがハッカーになるか、その選択を迫ってきているのである。

≪025≫ 附記¶2点、補足しておく。デボラ・キャドバリーのテレビ番組は定評がある。出生のための外科手術を扱った『二度の出産』、老化問題を題材にした『時間を騙す』など、その視点も鋭い。環境ホルモンを扱った文献はいまはたくさん出回っている。まずはシーア・コルボーンの『奪われし未来』(翔泳社)を、ついでシェルドン・クリムスキーの『ホルモン・カオス』(藤原書店)を読むのがいいだろう。藤原書店では「環境ホルモン」という雑誌も刊行している。創刊号が「性のカオス」を特集した。

朝永振一郎 『物理学とは何だろうか』

≪01≫  少年トモナガを夢心地にさせたのは、中学校の理科の授業で見た2つの実験だった。ひとつは針金が酸素の中で燃えるところを見たときだ。「線香花火のように綺麗だった」と回想している。なんとなく物質にはそういう秘めたものがあるのだと思った。もうひとつは、風船に水素をつめて空に飛ばしたときだ。物質は何かに包まれていると思ったという。

≪02≫  買ってもらった顕微鏡は20倍しか見えない。少年トモナガは学校でガラス管の切れっ端をもらってくると、せっせとレンズに仕立てて組み合わせていった。ついに200倍くらいの顕微鏡ができた。「工夫をしていくと思い通りのことに出会える」と思ったようだ。

≪03≫  しかし、大学で本格的に研究することにした量子力学だけはなかなか「思い通り」にならない。だいたい朝永さんが京都帝大に入ったころは、量子力学を教えられるセンセーが一人もいなかった。同級の湯川秀樹くんとあれこれ英文テキストを取り寄せてベンキョーしたけれど、これではまにあわない。そこへドイツ帰りの仁科芳雄が1ヵ月だけ特別講義にやってきた。昭和6年のことだ。

≪04≫  目が開かれた。そこへ仁科芳雄から東京の理研(理化学研究所)で研究してみないかと誘われた。「思い通り」のための準備が始まった。

≪05≫  若き朝永振一郎がとりくんだのは量子電気力学である。この分野では当時、とても面妖な問題が待ち受けていた。

≪06≫  電子が放出した光子は(波の性質があるので)回折して戻ってきて、もとの電子に吸収されることがある。これを電子の自己相互作用というのだが、困ったことに、従来の「場の量子論」にもとづいてこの自己相互作用を計算すると無限大の発散がおきてしまうのだ。朝永さんは工夫した。

≪07≫  素粒子はそれぞれ異なった時間の中にいる。そうだとすれば、この事情を逆にいかしてこれらを「多時間」の組み合わせと捉え、電子の質量と電荷の関係に計算式の中での工夫を加えれば、発散がおきないようにできるのではないか。レンズを加工したり組み合わせたりするように、電子の自己相互作用が着ている“衣”を、別の“衣”に着換えさせるようにはできないものか。

≪08≫  こうして、のちにノーベル賞受賞となった「超多時間理論」と「くりこみ理論」ができたのである。計算はみごとに「思い通り」の結果を示してくれた。ぼくがこの工夫を知ったとき、これは物質界に「席を譲る」と「衣替えをする」というアイディアをもちこんだような気がした。そんなことができる朝永さんは、きっと熟練のテーブル・マジシャンのような科学者なのだろうと思った。が、これが大ちがいだったのである。

≪09≫  朝永さんには1度だけ会ったことがある。工作舎で十川治江とともに「日本の科学精神」というシリーズを刊行しようとしていたときで、そのうちの一冊『自然に論理をよむ』の巻末座談会に出席してもらったときのことだ。場所は工作舎の「土星の間」をつかった。統計物理学の伏見康治さん、地球物理学の坪井忠二さんらとともに、朝永さんにも参加してもらった。

≪010≫  まことに柔和で、ダンディなおじいさんだった。とくにニコニコしているわけではないのに、自分で話をするときも、他人の話を聞いているときも、周囲を溶けさせる親和力のようなものを発散していた。あまりに不思議な感じなので、朝永さんがその場の議論に賛成なのか疑問をもっているのか、まったく読めなかった。

≪011≫  ぼくも仕事柄いろいろの人と座談会や対談やシンポジウムをしてきたが、めったにこういう人には出会えない。仙人というのではないが、それに近い科学方士のような、あるいは波動関数そのもののような、そんな物理神仙の雰囲気がある。方士とは仙人の手前のタオイストをいう。

≪012≫  その座談会では、ぼくは“暴言”を吐いた。「物理学以上であったっていいわけです」というものだ。寺田寅彦の物理学についての話題のときで、「隙間を残す」という科学者の態度があってもいいのではないかという話になって、それを朝永さんは「それだと物理学じゃなくなっちゃうんだな」と笑った。で、ぼくがえらそうなことを言ったわけである。そのとき朝永さんは初めてニッコリと笑ったのだ。たったこれだけで、ぼくは包まれてしまっていた。まったく若気の至りであった。

≪013≫  量子力学に入門するときに、理学部物理学科の学生は大きな選択を迫られる。ディラックの教科書でいくか、トモナガの教科書でいくかという選択だ。

≪014≫  ディラックでいくのは才能を鍛えたい技術派である。トモナガを選ぶのは部分の組み立てに酔える美学派といってよい。ぼくはもともとが編集的世界観派なので、どちらもちらちら覗いて遊ばせてもらった。

≪015≫  しかし、右に紹介した朝永振一郎感覚を実感したうえで、あらためてトモナガ量子力学の感想をいうと、やはりあの本には科学方士がいたようにおもわれる。実際、朝永振一郎の本は、何度かにわたってぼくを心地よい振動に導いてくれたのだった。

≪016≫  『量子力学Ⅰ』(東西出版社→みすず書房)はしがみつくような対象だったから、心地よいといえる実力に欠けていたぼくにはけっこう難解なものだったけれど、『物理学読本』(学芸社)は全身でシャワーを浴びるような快感に富んでいたし、有名な量子の二重性をあつかった「光子の裁判」をふくむ『鏡のなかの世界』(みすず書房)、『鏡の中の物理学』(講談社学術文庫)では、それこそ物理学独特の思惟の進み方の醍醐味を味わわせてもらった。「光子の裁判」は光子を光子さんに見立てて、量子の動向をサスペンスっぽく綴ったものである。

≪017≫  ただ、このような本に夢中になったのは、ぼくの“原子物理学時代”ともいうべき1960年代後半からの7、8年間ほどだった。その後は、物理学よりも生物学に興味が移っていたため、トモナガ本ともだんだん縁が薄くなっていた。それが1979年に岩波新書から『物理学とは何だろうか』が出て、久々に読んでみたくなった。

≪018≫  ぼくは岩波新書の科学書では、ドゥ・ブロイの『物質と光』(いまは岩波文庫)と湯川秀樹の『素粒子』(共著)を、数回にわたって貪り読んだほうなので、トモナガ新書にもおおいに期待した。けれども、どんな事情だったかはおぼえていないのだが、この本は買ったのちにしばらくは放っておいたようにおもう。あらためてこの本に向かったのは、ぼくが工作舎をやめてしばらくたってからのことだった。

≪019≫  本書はトモナガ節を静かに浴びるための本である。読んでもらえばすぐわかるように、朝永振一郎という最高級の科学者は、けっして叙述を飛ばさない。

≪020≫  ゆっくりと、しっかりと、淡々と、そしてなんともエレガントに科学の推理と実証の歩みを解説してくれる。けっして物理学以上にはしない。ちゃんと物理学のサイズをつくってくれる。それがしかも、ふわりと大きな翼を広げていくのである。いわば、われわれのアタマの中に少しずつ生起しているはずのフィジカル・イメージをまるで計ったかのようにピンセットでつかまえて、それを少しずつ拡張してくれるのだが、その運びがまことにエレガントなのである。

≪021≫  カルノーの「空気エンジン」というものがある。これは本書がニュートンの法則の意味の解説をおえ、次にワットの蒸気機関の問題から熱力学の黎明にさしかかるくだりで出てくる話題で、そこで朝永さんはカルノーの『火の動力についての省察』を引きながら、カルノーがいったいどのように「最大効率をあげる理想的火力機関」を構想したのか、その構想の手順を案内する。

≪022≫  このときカルノーは蒸気エンジンのかわりにピストンのついた空気エンジンを構想するのだが、そこで「熱だめ」や「ピストンをじわじわと動かす」という段階が必要になる。朝永さんは、その「熱だめ」「じわじわ」をまことにすばらしい調子で本書の叙述のレベルにもちこんでくるのである。

≪023≫  ようするに「じわじわ」が科学だよ、物理学だよということを、そのような言葉で説明する。実際には、「じわじわ」とは、ピストンの動きによってガスの状態が状態方程式をできるかぎり満たすようになっていくことをいう。このときピストンは高温の「熱だめ」を意識する。けれどもガス自身はそのことを知ってはいない。ガス自体はその状態を知るわけではない。

≪024≫  では、どうすれば、このような状態をつくれるか、そこがのちにカルノー機関とよばれて熱力学の偉大な第一歩を示すことになる空気エンジン構想の要点となるのだが、朝永さんはどんな熱力学の教科書よりもエレガントな説得力に富んだ説明で、まるでヒナ鳥にくちばしでエサをやるように、叙述してくれるのである。

≪025≫  いまのべた例を、べつの言葉でいっておく。どこが朝永振一郎の“芸”なのかということがわかるとおもう。こういうふうにいえるのではないか。「朝永さんの科学には、物質の気分というか、分子や原子がうけもっている情報の分量というものに対する感知があるようだ」というふうに。

≪026≫  本書の圧巻は、なんといっても下巻の後半「熱の分子運動論完成の苦しみ」という100ページほどの一節にある。ボルツマンの「エルゴード的なるものの工夫」の跡を追った箇所である。

≪027≫  ここは、朝永さんが人生最後の半年間ほどを病院に通ったり、入院したりしている渦中に仕上げた箇所らしく、最後の叙述は病気悪化のために、残念ながら口述になっている。つまり未完におわっている。しかし、その口述のところがすごいのである。1978年11月22日の記録というふうになっている。この口述で、朝永さんはこんなことを言う。「ボルツマンが狙ったことは、確率論と力学の関係をはっきりさせたいという、その一点に尽きる、そういうふうに私は見ています」。

≪028≫  つまり、ボルツマンの熱力学的なアプローチによって、ニュートン力学的な対象とそれを見る人間の側のあいだに確率論をおくことができるようになった、ということだ。これはエルゴード定理の中心にすでに確率論的構造があるという話である。

≪029≫  ここから朝永さんは、さらにボルツマンと、その後のアインシュタインやマッハの登場との関係を口述する。マッハはボルツマンを論難するが、もしボルツマンが長生きしていたら(ボルツマンは自殺した)、逆にボルツマンが時代をまとめる科学を構築したかもしれないというのである。

≪030≫  これはボルツマンのことならともかく気になってきたぼくを震撼させた。じーんときたと言ったほうがいいだろう。そのことについては、いつかまた書いてみたい。いまは話がこみいりすぎる。ともかくも、いずれにしても朝永振一郎をいっときも早く読むことだ。日本人の科学者として、日本人が誇りにしたい格別の科学方士なのだから。

≪01≫  何の分野であれ、その核心に接するにあたってどの一冊によってそこへ入っていったかということがその後の事情を左右する。その一冊でその分野に対するスタンスが長期にわたって自分の心のなかに予告されつづけるということがあるからだ。

≪02≫  服の印象のようなもの、店の印象のようなものに似ていなくもない。最初に気にいって買った洋服はそれがスーツやドレスでなくたって、いつまでたっても基準服なのだ。店というものも、「ちょっといい店があるんでね」と誰かに誘われ連れて行かれた最初の印象によって決定づけられることが多い。最初に食べたオムレツの味もそれがおいしさの定点になる。書物にだってそういうことがある。ぼくを誘いぼくをそこに連れていくのは、ときに著者自身や翻訳者が贈ってくれた本である。

≪03≫  この本で、ぼくは「脳の冒険」と「心の探索」に入っていった。翻訳者の山河宏さんが贈ってくれた。その前に時実利彦をはじめとする脳科学をめぐる案内をいくつか読んでいたものの、この本がなかったらぼくの脳感はもっとちがった道を歩んでいただろうと想う。

≪04≫  いうまでもないけれど、本書は脳科学の出発点を準備したことで時代を画期した一書だった。順にいうのなら現代脳科学の第一弾を放ったのはチャールズ・シェリントンだったろう。ニューロンやシナプスといった用語をつくったが、いささか生理学が勝ちすぎていた。第二弾がペンフィールドだ。脳科学をもって心の本体に迫るという意味からすれば、本書にこそ最初の「脳から心へ」というロケット発射の軌道が示された。これを受けた第三弾はおそらく二十世紀で最も大きな脳科学の構想を展開したジョン・エクルズだろう。

≪05≫  脳科学のように日進月歩の分野では、ペンフィールドの実験や仮説はさすがに古くなっている。しかしながら、ぼくにとってはなんといっても本書こそが燦然たる「脳と心の一書」なのである。基準服なのだ。脳感に忘れられないものが、ずっと残っている。

≪06≫  そのためこれ以降、ぼくは脳と心をほぼ一緒くたに考えるようになった。そして、脳の中で「脳部と心部が葛藤をくりかえしている」という印象の目印をもった。だからペンフィールドはぼくにとってはいまなおペンフィールド先生なのだ。

≪07≫  ペンフィールド先生がモントリオールに神経学研究所を創設したのは一九三四年である。二年後、ハーヴェイ記念講演を次のような言葉で結んだ。「私は“理解の場”がどこにあるかという問題について論じてきました。ここでいう“場”とは、随意運動の開始と、その前提条件である感覚情報の総合に最も密接に関係している神経回路の位置を意味します」。そうか、脳は場であったのか。

≪08≫  一九五二年、先生は側頭葉に電気刺激を加えたときに患者が示す自動症の反応を初めて観察した。そして「癲癇の自動症と大脳中心統合系」という論文を発表した。自動症というのは夢遊病患者のように行動が無意識的におこり、のちにその記憶がない状態になることをいう。そこでは「間脳が統合作用の中心なのかもしれない」という考えがのべられていた。そうか、脳にはどこかにコンダクターがいたのか。

≪09≫  つづいて一九五八年、先生はシェリントン記念講演で次のような意見を披露した。「電極から大脳皮質へ電流が流されると、その部分の灰白質の正常なはたらきが完全に妨げられてしまいます」。二年後、先生は脳神経外科医の現役を引退した。そして、それまで「記憶領」とみなしてきたものを「解釈領」というふうにとらえはじめた。そして、こう考えた。「解釈領は、言語領が言語機能についておこなうことを、言語によらない観念の知覚についておこなっているのではないか」。そうか、言語をつかう前に脳は何かを解釈する領域をもっているのか。

≪010≫  先生は海馬にも関心を寄せていた。動物実験では海馬が匂いをトリガーとした記憶のしくみに重要な役目をはたしているらしいことがわかりつつあったのだが、おそらく人間では異なる役目をもっているのではないかと推測したのである。そしてここにぼくは影響を受けたのだが、海馬には意識の流れを記録するための「鍵」があるのではないかと仮説した。この仮説はいまなお有効で、まだその秘密は解明しきれてはいないけれど、ペンフィールド先生の軌道に沿って実験をし、組み立てに挑み、新たな展望をもとうとしている脳科学者は少なくない。

≪011≫  こうした先生の考えの中心にあるアイディアを象徴しているのは、次の文章だ。「意識の流れの内容は脳の中に記録される。しかしその記録を見守りながら、かつ同時に命令を出すのは心であって、脳ではない。では、心は独自の記憶をもっているだろうか。その証拠はないという理由で、答えはノーである。そうした記憶があるとすれば、まったく思いもよらない別種の記憶が存在することになる。そんな別種の記憶がないのだとしたら、心は最高位の脳機構を通じて一瞬のうちに記憶の中の記録ファイルを開くことができると考えたほうがよいだろう」。

≪012≫  脳を動かしているのは脳の機構でなく、心なのである。先生はそう確信していた。えっ、これはすごい確信だ。先生は脳が受け手で心が送り手だと言っているのだろうか。ぼくはドキドキしたものだ。

≪013≫  しかし心っていったい何なのか。ここで心というのは、特定の意味をもつパターンに整えられた神経インパルスをちょっとだけ押してみるトリガーの動きのようなものをいう。先生がつかった比喩でいえば、「脳はコンピュータ」で、「心はプログラマー」なのだ。だが、これは誤解をうけやすい比喩だった。

≪014≫  そこをぼくの粗雑な言葉でいえば、心は脳をモニタリングしている「注意のカーソル」の束だ、ということになる。脳の中のどこに注意のカーソルを動かそうとするかという意図の集計結果が、心なのだ。このほうが先生の考えに近いはずである。ここで重要なのは、心は独自の記憶も記録ももっていないということである。

≪015≫  ともかくも先生は「心は脳のどこにも局在しない」と言い放った。そして、にもかかわらず「心を脳のしくみだけで説明することはできない」とも言った。ぼくが本書を「脳と心の一書」と感じつづけてきた理由は、この二つの言明を同時に提起しているところにある。

≪016≫  かつてデカルトは「心の正体は松果体にある」と考えたものだったが、そのように心が体のどこかに局在することは、おそらくないだろう。また脳のどこかにも局在していないだろう。心は脳の中の何かの器官が管轄しているものではないはずなのだ。こういう見方はずっとのちにカール・プリブラムが提起したホログラフィック・モデルに似ているようだが、先生はそう考えたのではなかった。プリブラムは脳の中に広がっているホログラフィックな状態を心の動きの現場とみなしたわけだが、ペンフィールドは心はそのような脳のしくみだけでは、それがどのようなモデルであれ説明ができないと見たわけだ。

≪017≫  先生が本書でのべたことは、だいたいここまでだ。「心の正体がここにあると言うべきではない」という決断までがのべられた。しかし先生は最後の最後になって、こんな危うい問題にも言及した。それは、もし「心は独立した存在だ」という考えが人々に受け入れられるのなら、「その心は死後にはどうなるのか」という疑問にも答えるべきなのだろうというものだ。

≪018≫  これは、心が脳と別々なものであるとすると、肉体の活動に所属している脳の活動が生命の灯が消えることで停止したとしても、心の活動が継続されることがあるだろうという“霊魂不滅説”のような問題だ。そこをどう考えればいいかということだ。偉大な脳科学者がそこまで踏みこんでいくというのはあまりにも無謀であるのだが、ペンフィールド先生は平気でその道を通過していった。

≪019≫  第一の結論は、心は脳のしくみを通してのみ交信状態をつくれるのだから、脳の活動がないところでは心は作動しないというものである。なるほど、これなら科学的仮説性を壊していない。脳死は心の消滅なのである。

≪020≫  第二の結論は、心が脳の活動停止後も動くとすれば、そこには心の動きのためにどこからかエネルギーが補給されていなければならないのだから、肉体が死んだのちの補給は外部からしかないだろうというものだ。もしもそういう外部からのエネルギー補給があるとすると、心は外ともつながっていることになる。

≪021≫  こちらのほうはかなり大胆な推理だが、これまた科学的な仮説を大きくははずしていない。なぜなら、そもそも生命系における脳神経系の出現は非平衡熱力学系という外部のシステムが創り出したものだったからである。一個の個体が死んだからといって、その熱力学システムが途絶えることはない。

≪022≫  かくして先生は平然と、こう綴ってみせたのだ。「私たちが生きていて脳と心がめざめているあいだに、ときどき他の人の心あるいは神の心とのあいだに直接の交信がなされたとしていたら、どうだろう。この場合には私たちの外部に由来するエネルギーがじかに心に達しうることも不可能とはいえない。心が死後に脳以外のエネルギー源にめざめることを期待するのも、あながち不合理とはいえないのである」!

ピーター・W・アトキンス 『エントロピーと秩序

≪01≫  数ある科学成果のなかでも「熱力学第2法則ほど人間精神の解放に貢献したものはない」と、よく言われてきた。蒸気機関を通して第2法則が見えてきて以来、この法則がもたらした見通しはべらぼうに広範囲にわたった。極大の宇宙にも極小の粒子にも深くかかわり、時間の流れにかかわり、すべての生物の生と死の根本にもかかわってきた。当然、人間の精神にかかわっていると見えてもおかしくない。

≪02≫  エントロピーは増大する。自然界はほうっておけば必ずエントロピーが増大する方向に進む。一言でいえばそれだけのことを示している法則なのだが、これはとんでもなくおっかない事実を突きつけている。

≪03≫  もしもエントロピーの増大を食いとめられれば、そこには秩序が生まれるとも告げている。部屋が散らかっているのはエントロピーが増大したということで、片付けはじめるとエントロピーが減って、部屋にちょっとした秩序が生まれる。そういうことなのだが、とはいえこれが大宇宙の話になると、おそろしい。大宇宙は片付ける奴なんていないから、ほったらかしだ。ということは宇宙のエントロピーはどんどん増して、どんどんでたらめになっていき、あげくは全きランダムな熱死状態になる。そう、言っているのである。水に落とすと広がって元に戻らないように、だ。第2法則はそう告げている。

≪04≫  こんなに重大な法則はめったにない。世界一、ビビる法則なのである。それにもかかわらず、これほどまでにその解釈をめぐって奥が深くもなり、また多様な誤解をもたらす法則も少ない。

≪05≫  本書の著者はオックスフォード大学の物理化学者で、いまは量子論による物質像の研究にとりくんでいる。今年(2001)、61歳になった。難解な議論を説得力に富んだ言葉づかいで、カオスや散逸構造などを巧みにナビゲートする。数式をつかわないで熱とエントロピーのふるまいのすべてを、鮮やかに解読した書物としては、いまのところ右に出るものはないように思う。米沢さんと森さんの翻訳もかなりうまい。

≪06≫  ぼくが最初に読んだアトキンスの本は『分子と人間』(東京化学同人)だったと憶う。次が本書と『元素の王国』(草思社)で、3冊とも化学屋らしく自然界と人間界を分子的につないでいた。しばらくして『ガリレオの指』と『万物を駆動する四つの法則』(ともに早川書房)を愉しく読んだ。前著は対称性、進化、遺伝子、数学、量子などをめぐる10大理論をかみくだき、後者はエントロピーをめぐる4法則を解説していた。いずれも、正しくおシャレな本だった。

≪07≫  熱力学(thermodynamics)という学問は、18世紀末の「気体の熱」と「蒸気機関の熱」という2つの熱変化の研究から始まった。本格的な研究になったのは、サディ・カルノーが蒸気機関をヒントに想定したカルノー・サイクルを前提とした“知的理想機関”の構想が出てからだ。

≪08≫  つづいてジュールとケルヴィン卿とクラウジウスの3人がそれぞれに力学的な手立てのための基礎を準備し、その総体を異能者ルートヴィッヒ・ボルツマンがひきうけて第2法則を発見し、全体の思想レベルを一挙に飛躍させた。ボルツマンの人生についてはいずれ別途の文脈で書いてみたいとっておきの科学者なので(自殺した)、ここではふれないけれど、ぼくがずっと圧倒されている科学者の1人である。

≪09≫  その熱力学にはこれまで4つの法則が発見されている。ごく絞っていうと、次のようになる。

≪010≫  第0法則は「物質の温度が定義できる」というもので、これは前提にすぎない。熱の流れには目盛りがつけられるということだ。前提にはすぎないが、これで物体間の平衡関係が何の気がねなく記述できるようになった。

≪011≫  第1法則が、ケルヴィンやクラウジウスがあきらかにした「エネルギーは保存される」というもので、とても普遍性が高い法則だ。エネルギー保存の法則と呼ばれてきた。ここには宇宙のエネルギーは一定であるという思想が含まれる。エネルギーの量は一定なのだから、途中に何がおころうとエネルギーの全体は変わらない。保存されるというのである。熱力学的にいえば、熱は仕事に変換できるということだ。

≪012≫  第2法則はボルツマンの天才が如何なく発揮されたもので、アトキンスは「自然には根本的な非対称性がある」というふうに表現した。熱と仕事のあいだには非対称性があるということで、この見方こそがエントロピーという見方を生み、第2法則が「エントロピー増大の法則」という異名をとることにもなった。熱は仕事に変換できるが、完全にそのことがおこるのは絶対零度のときだけだという意味にもなる。

≪013≫  第3法則は他の3つにくらべると法則とはいいにくいのだが、「極低温の物質の性質が記述できる」というもので、何度にもわたってステップを尽くしても物質の絶対温度はけっして絶対零度にはならないことを証している。

≪014≫  なかで、なんといっても第2法則についての説明がずば抜けている。エントロピーの概念と動向が多様きわまりない相貌を見せる。

≪015≫  アトキンスのシャレた言いまわしをいくぶん踏襲して要約してみたのだが、はたしてどうか。第2法則は世界一ビビる法則なので、かえってビビらせてしまったかもしれない。大事なことは、エントロピーが「でたらめさ加減」をあらわす統計量の概念で、つねに「秩序の度合い」を示しているということ、したがって秩序や乱雑さは不可逆であることを示しているということである。

≪016≫  いいかえれば、熱と仕事は入れ替わりにくく、その仕事にエントロピーを活用しにくく、そのうえで宇宙のシステムの多くはエントロピーを増大させるように安定に向かおうとしているということなのである。

≪017≫  ところが、それに反抗していることもおこったわけである。そしてその反抗からエントロピーの減少を企てる生命のような「秩序をつくる構造」が生まれてきたということである。

≪018≫  本書はそのことをいくつものモデル、とくにサイクルモデルやエンジンモデルやケミカルモデルを駆使して、痛快にナビゲートした。熱力学やエントロピーを解説した本はいくらでもあるが、本書のように理知的で、模式性に富んだものは少ない。科学思想的にも示唆に富む。ときどき著者が放つ言いまわしも味がある。たとえばぼくは、「鉄を燃やす化学反応」のところで、次のような記述に出会ってギョッとした。

≪019≫  そこにはこんなふうに書いてあった。「呼吸は血液中の鉄原子が錆びることからはじまる」というふうに! すでにおわかりのことだとは思うけれど、鉄が錆び、血液中のヘモグロビンに変化があるということは、宇宙のエントロピーとおおいに関係することなのである。

≪020≫  ところで、最後に言っておかなければならないことがある。それは「情報」の正体はすでに熱力学が定義していたということだ。すなわち「情報とはエントロピーの逆数であらわせる」ということだ。では情報は自分のエントロピーをどのように減少させて「意味」をつくってきたのか。いつか、このことだけをめぐる一夜を綴ってみたい。

≪01≫  「われわれの経験のなかで最も美しいものは神秘的なものである」と言ったのはアルバート・アインシュタインだった。 

≪02≫  ライアル・ワトソンはその言葉を信じるかのようにして、この本を書き、そしてこの手の本としては希有な世界的なベストセラーとなった。かなり勇気のいる仕事だったろう。なぜならワトソンはデズモンド・モリスの弟子でもあった正真正銘の動物学者であり、生物学の博士でもあったからである。それが科学と神秘の間に挑戦したわけなのだ。 

≪03≫  ぼくがこの本に出会ったのは、1974年のことである。それから5年後にワトソン本人に会う。そしてもうひとつの彼のベストセラーとなった『生命潮流』を工作舎で翻訳する相談をした。 

≪04≫  それからはワトソンとはいろいろなコラボレーションをした。いつも静かだが、頑固でひたむきな情熱家でもあって、ひとつのことに熱中すると、それを手放さない子供じみたものをもっている男だった。大相撲が好きで、日本に来ると、たいていは序の口から国技館にも大阪府立体育館にも出掛けていく。実は大本教の大ファンでもある。実際にも亀岡でデビッド・キッドらと1シーズンを暮らしている。 

≪05≫ 本書のタイトルになっている「スーパーネイチュア」という言葉は、ワトソンの造語であって、こんな言葉は英語にはなかった。どちらかといえば思想的には危険な言葉である。 

≪06≫  しかし、本書がもたらしたものは、その後の科学にも大きな影響を与えることになった。なぜなのか。アインシュタインが言うように、科学で説明のつかなさそうなところから、人間は自然現象に関心をもち、おまけにその現象の近くに居合わせた者はとくに、その神秘の理由を知りたがるからである。  

≪07≫  ワトソンはこの“知りたがり”の読者を満足させようとしたわけではない。そうではなくて、そのようなスーパーネイチュアな現象の背後には、何かメタシステムが動いていたり、あるいは相互につながりあっているネットワークがあるのではないかということを示唆したかったのである。 

≪08≫  本書に書いてあることを、ぼくは今回読みなおさなかった。理由ははっきりしている。ここに書いてあることの大半が、その後いろいろな科学領域の深化や前進によって少しずつあきらかになり、その叙述がかなり過去のものになってしまっているからだ。そのことはワトソン自身もよく知っていて、本書の内容の一部はその後、彼の著書のいろいろな場面で補充され、訂正された。 

≪09≫  この本を読んだことは、その後のぼくの工作舎における仕事に影響を与えた。ワトソンの本を訳して刊行したこともさることながら、工作舎のその他の活動にスーパーネイチュア的な伴奏をつけることになった。 

≪010≫  いまおもうと、その伴奏はいささか強すぎたような気がする。それは、かつて若いころに長髪にしていた青年やミニスカートをはいていた青女が、その後10年、20年をへてそのころの自分の写真を見て、なぜそこまでやったのか、いささか羞かしくなることに似ている。 

≪011≫  きっとワトソンも本書を“長い髪の時代”の産物だと見ていることだろう。しかしながら思想の青春とは、表明の早熟とは、つねにそういうものなのだ。 

参考文献

≪01≫ 昭和がはじまるころ、日本に最初の科学哲学ブームがおこった。とくに田辺元は西田哲学を継承しながらも必死に量子力学に挑戦し、ハイゼンベルクの「不確定性」などの難解な概念にとりくもうとしていた。その模索にはどこか科学を理想的に解釈しすぎるところがあった。この印象は、のちのニューエイジ・サイエンスに見られたものとやや近い。 

≪02≫  なぜそうなったかというと、かれらにはハイゼンベルクはいたが、ガウスがいなかったし、アインシュタインはいたが、ミンコフスキーがいなかった。そしてなにより、ポアンカレがいなかったのである。田辺元はポアンカレを読めたはずである。『科學と方法』が山本修や吉田洋一に訳されたのは昭和のはじめだったのだ。 

≪03≫  ポアンカレはぼくの科学全般のクライテリア(評価基準)を示す出発点だった。最初に『科學と方法』を読み、ついで『科學と仮説』を読んだ。  

≪04≫  当時の読後感では後者のほうが刺激的だったのだが、その後、読みかえす機会があって、やはり『科學と方法』はヨーロッパの科学と哲学のデカルト的正統性を踏まえていながら、たんにその延長にとどまらない科学的思考をのばすにはどうすればよいのかという根本問題にふれていて、ずっとベーシックな気がしてきた。とくに第2篇「數學的推理」はぼくを何度もそこへ立ち戻って考えさせてくれた。 

≪05≫  そのころ(25歳くらいのころのことだが)、ぼくは19世紀末から20世紀初頭の科学にどっぷり浸かりたくて、その周辺を遊弋していた。 

≪06≫  最初はフリードリッヒ・ガウスだ。曲率論に酔い、非ユークリッド幾何学に溺れた。その勢いでフェリックス・クラインの「エルランゲン・プログラム」で多様体の幾何学に分け入り、そこからトポロジーをちょこちょこ齧るようになった。それがドゥ・ブロイの『物質と光』をボロボロの古本(岩波新書の赤本)で読んでから急にその前史が知りたくなって、物理学のほうへ転戦していった。 

≪07≫  まずはエルンスト・マッハの力学を、ついでローレンツ収縮とミンコフスキー時空連続体を、それから前期量子論のたぐいを、そしてアインシュタイン著作集(改造社や共立出版)に入っていった。途中、アルフレッド・ホワイトヘッドの『科学と近代世界』や『自然という概念』(松籟社やみすず書房)を読んだのがよかったらしく、この探検ではつねにどきどきするような収穫があった。そして、いよいよポアンカレだったのである。 

≪08≫  これでやっと数学の快感が見えた。なんだ、ポアンカレにはほとんどのことが予見されていたのかという快感だ。数学するということが予見することである、と感じられたのだ。この快感に酔ったぼくは、すぐに「数学的自由」という造語をつくったほどだ(ガウスからの影響もあった)。そのあとは勇んでヒルベルトとコーン=フォッセンの『直観幾何学』(みすず書房)に突入していったのかとおもう。 

≪09≫  第一次大戦の渦中、イギリスの将軍がバートランド・ラッセルにこんなことを聞いたらしい。「いま、フランスで一番偉大な人物は誰なのか」。ラッセルは言下に「ポアンカレです」と答えた。将軍がフランス共和国大統領のレイモン・ポアンカレのことかと思って、「ほう、あの男がね」という反応をしたところ、ラッセルは「いや、数学者のアンリ・ポアンカレが偉大なんです」とまたまた言い放った。 

≪010≫  アンリはレイモンの従兄だった。数学者が一国を代表する最も偉大な人物であるとされるというのは、きわめてめずらしい。アルキメデスかガウス以来のことではないかと思う。それを皮肉屋をもって鳴るラッセルが持ち出したというのも、めずらしい。 

≪011≫  では、ポアンカレはどこが偉大だったのか。いまならラッセルに代わって、いろいろ説明できる。ポアンカレは純粋数学であれ応用数学であれ、ほとんどの数学領域を独自にカバーできた最後の数学者だった(数学の新局面を告げた論文が500を超えている)。今日では、いわゆる数学4部門(数論・代数学・幾何学・解析学)のうちの2つですら、カバーできる数学者がほぼいない。まして数学4部門に高度な研究を質的に残せるということなど、夢のまた夢だ。それをポアンカレはやってのけた。なぜ、そんなことができたのか。 

≪012≫  ポアンカレが鉱山学校で結晶学を修めていたことに注目したい。1854年にナンシーで生まれ、高校生のときには“数学好きの怪物”だと噂され、文学と科学でバカロレア(フランス教育省が認定する中等教育修了資格)をとると、グランゼコール(高等職業教育機関)でも数学に熱中した。 

≪013≫  エコール・ポリテクニクを卒業すると、鉱山学校に入って結晶学に打ち込んだ。結晶学こそ数学思考を鍛錬するにもってこいだったからだろう。群論的感覚と解析的視野はここで養ったのではないかと思う。1879年には採鉱技師として働いてもいる。 

≪014≫  鍛え抜いた才能によって、ポアンカレを最初に有名にしたのは楕円関数の一般化だった。このことには数学史ではたいてい「絢爛たる成果」というようなおおげさな形容詞がつく。1880年、26歳のときである。微分方程式論からの“変化”だった。 

≪015≫  鮮やかな方法的発見はそのあともずっとつづく。ポアンカレは位置幾何学や位相幾何学の創始者であって、複素変数関数論の立役者であった。もっと有名なのは三体問題やフェルマーの定理などの難問を提出したことだ。複雑系の科学やカオス理論の先駆的予見者でもあった。 

≪016≫  あるときポアンカレは、次のような課題をノートに書いた。「すべての惑星は現在の軌道とほとんど同じ軌道上を、今後も運動しつづけるのだろうか。それとも太陽系外に飛び去ってしまったり、太陽に衝突したりする惑星もあるのだろうか」。 

≪017≫  これはとんでもない問いだった。ニュートン力学では宇宙における2つの天体は、2つの間の運動方程式(微分方程式)を積分すれば安定した周期解をもつことができた。けれども三体あるいはそれ以上の多体があると、どうなるか。ニュートンの後継者たちは三体あるいは多体の系についても運動方程式を積分して解くことを試みたのだが、すべて積分不能となって行きづまってしまったのだ。方程式は書けるものの、それを解くのがきわめて難しかった。ポアンカレはこのことについて、三体問題を積分法で解くことは不可能であることをあっさり証明してみせた。 

≪018≫  ポアンカレは、微分方程式の解の大域的性質を幾何学的に研究することが必要だろうと予想したのである。解があるかないか、周期的かどうか、どんな周期なのか、構造安定なのかどうか、こういうことを調べる方法があるはずだと見定めたのだ。今日、これは一方では位相幾何学として確立し、他方ではここから「力学的カオスの軌道」が予想されるようになった。驚くべきかな、ポアンカレだ。 

≪019≫ こんなことがいくつも先行していたため、科学史が口癖のように惜しむのは、もしポアンカレがもう30年おそく生まれるか、もう20年長生きしていたらアインシュタインの相対性理論の大半を手掛けていただろうことである。さもあろうけれど、そんなことを言っても詮ないことである。ポアンカレを洒落て解説したいなら、大学で数学に抜きん出る前に鉱山学校にいて鉱山技師をめざしていたということや、土星の輪に惹かれてその安定性を夜な夜な考えたということではあるまいか。 

≪020≫  きっとポアンカレには、そう言っていいならぜひそう言いたいのだが、比類ないアブダクティブ(仮説的)な思考力があったのだろうと思う。 

≪021≫  『科學と仮説』に書いてあることに、仮説は科学者の世界観を反映しているという一節がある。この仮説はどこから出てくるかというと、ひとつには物質の性質を考えているうちに生まれる。これは「分析的判断」のためのプロセスが生んだ仮説になる。もうひとつは物質の運動を考えているときに生まれる仮説で、これは「総合的判断」をしようとしていると生まれる。 

≪022≫  これが科学者に浮かぶ一般的な仮説だが、この両者ともすぐに「経験」や「実証」に照らし合わせることになる。もちろん科学にとってこのことは重要なのだが、ポアンカレは第三の仮説がありうると見た。それは「先行的判断」や「先行的総合」がつくりだす仮説なのである。 

≪023≫  これをもってポアンカレのアブダクション(仮説的推論)と言っていいかどうかは自信がないが、それに近いものがあるだろう。ともかくもこうして、『科學と仮説』についで『科學と方法』に向かったポアンカレは、「科学者がその好奇心の前にあらわれる可能性の中から何を選ぶべきか」という方法に着目するのである。そして、この決定には先行力や直観力が重大な役割をもつと踏んだのだった。 

≪024≫  こういうふうに踏み切るポアンカレを、天才的直観力の持ち主だと称えるだけではなくて、ほかにどう解説していけばいいのか、言葉がない。だから当時、ぼくは数学的直観主義の学習のほうへ逃げこんでいったのだった。 

≪025≫  というところで、ぼくが『科學と方法』で感服した有名なエピソードを紹介して今夜のポアンカレ讃歌を区切ることにする。 

≪026≫  ポアンカレは自分でフックス関数と名付けたものをいじくっていた。この関数に類似のものはないことを証明しようとしていた。ところがいくらやっても証明の糸口がない。だいたいの予見はあるのに証明に進めない。ミルクを入れないコーヒーばかり飲む2週間ほどがたって、ある夜、超幾何級数から誘導されるフックス関数の一部類の存在を証明すればいいのだと気がついた。そこでテータフックス級数というものを創造してみた。 

≪027≫  けれどもそれをどう動かすかというところで、多忙に紛れはじめた。アタマの中からも数学的課題が消えていた。それなのに旅先で乗合馬車に乗ろうとしてステップに足をかけた瞬間に、フックス関数を定義するために用いた変換は非ユークリッド幾何学の変換とまったく同じであるという、推理のプロセスになんら保証のない考えが浮かんだのだ。馬車の中に入ると乗り合わせた客と会話がはずんで、そのことを考えてみる余裕はなかった。 

≪028≫  しばらくたってこれらのことをふりかえる機会がやってきた。ポアンカレは猛然とすべての難関を攻略するための作業にとりかかる。あやしい問題を次々に片付け、あと1つの難関を攻め落としさえすればすべてが解決というところにさしかかったとき、今度はまったく予期せぬ暗礁にのりあげた。ポアンカレは兵役に従事せざるをえなくなり、ここでふたたびアタマの中からこの問題は去ってしまった。それがある日、ある大通りを横断しているときにすべてが蘇り、最後の困難を突破する解法がひらめいたのだ。 

≪029≫  ポアンカレは書いている、「突如として啓示を受けることはある。しかしそれは無意識下で思索的研究がずっと継続していたことを示しているのだ」。 

≪030≫  ポアンカレはこのことを「数学的発見における精神活動の関与」とよんだ。これはのちにマイケル・ポランニーが「暗黙知」と名づけたものが動いていたということを暗示する。ポアンカレは暗黙知の数学の発見者でもあったのである。ぼくがポアンカレに参りはじめたのは、ここからだったのだ。 

≪01≫  ネクサス(nexus)というのは結合体や系列体のことをいう。ヘンリー・ミラーが英語で同名の小説を書いた。パッセージ(passage)とは推移や通過のことである。ウォルター・ベンヤミンはフランス語で同名(=パッサージュ)の記録を書いた。ぼくもそのことを第649夜と第908夜に書いておいた。

≪02≫  現代哲学の思潮に不案内な向きには、また、お堅い現代哲学を講義している連中には、さぞかし意外なことだろうが、ホワイトヘッドの有機体哲学には、このネクサスとパッセージが交差しながら脈動している。

≪03≫  ネクサスとパッセージは見えたり見えなかったりしながら多様にくみあわさって、ホワイトヘッドの宇宙論と世界観の縫い目になったのだ。

≪04≫  よくあることだし、べつだん責められることでもないけれど、ホワイトヘッドはやたらに難解に読まれるか、まったく知られないままか、そのどちらかばかりの不当な扱いをうけてきた。これは両方ともおかしいし、もったいない。

≪05≫  道元の宇宙とかカントの宇宙とかホーキングの宇宙という言い方があるように、ホワイトヘッドの宇宙があると見たほうが、いい。その宇宙はコスモロジカル・コスモスで、すぐれて連結的(connected)で、多元的である。

≪06≫  コスモロジーだから、そこには宇宙や世界の要素になる要素の候補が出てくる。ホワイトヘッドのばあいは、これを「アクチュアル・エンティティ」(actual entities=現実的実質・現実的存在)と名付けている。

≪07≫  どういうものかはのちにも説明するが、たとえば、一羽の鳥、神経細胞、子供がいだく母親という観念、東京神田小宮山書店、エネルギー量子、自我、ギリシアの歴史、地球の表面、衝突する銀河系、夕方の虹、タルコフスキーの映像、森進一の演歌、松岡正剛の恋人などがふくまれる。 これらは、このコスモロジーが通過するカメラの目には、一種の「経験のパルス」として映る。またコスモスからすれば、それは「侵入」(ingression)として映る。

≪08≫  これらは、このコスモロジーが通過するカメラの目には、一種の「経験のパルス」として映る。またコスモスからすれば、それは「侵入」(ingression)として映る。

≪09≫  いまあげたアクチュアル・エンティティを、お好みならば数値や記号に絞ることもできるし、メンデレーフが果敢にそうしたように、元素周期律表にすることもできる。第311夜にあげた『理科年表』もアクチュアル・エンティティの可愛らしい表示例なのである。

≪010≫  哲学というものは、一言でいえば計画である。アリストテレス哲学(291夜)もレーニン哲学(104夜)も、計画を練り、計画を実行に移そうとした。

≪011≫  そのうちの数理科学を背景にした哲学の計画には、ラッセルやカルナップのような論理的な計画もあれば、ライヘンバッハやトマス・クーンのような、思索の歴史を再構成するような計画もある。多くの哲学書とは、その計画を手帳のスケジュールに書きこむかわりに、使い古された哲学用語で繰り返しの多い言明を、少しずつずらしながら連ねていくことをいう。

≪012≫  しかし、なかには目が飛び出すほど斬新で、目が眩むほど大胆な計画もある。

≪013≫  ライプニッツには普遍計画があって、それにもとづいた普遍記号学の構想がその後の数理哲学の体系や特色を次々に産んでいった。ライプニッツは自分で計画を実行に移すより、歴史がその計画を実行することがわかっていたようだ。

≪014≫  ホワイトヘッドの計画は、最初は記号論理の用語とインクで書かれた計画だったが(それがラッセルとの共著の『プリンキピア・マテマティカ』にあたる)、その後はホワイトヘッドが想定したすぐれて有機的(organic)なコスモスに包まれた計画にした。

≪015≫  人間がそのコスモスに包まれてプロセス経験するだろうことを、ホワイトヘッド独自の用語とオーガニックなインクをつかって書いた計画書である。 その計画書はいくつもあったけれど、それらをマスタープランに仕立てたのが『過程と実在』なのである。

≪016≫  その計画書はいくつもあったけれど、それらをマスタープランに仕立てたのが『過程と実在』なのである。

≪017≫  ホワイトヘッドは「ある」(being)と「なる」(becoming)のあいだを歩きつづけた哲人だった。「ある」(有)と「ない」(無)ではなくて、「ある」と「なる」。つねに「ある」から「なる」のほうに歩みつづけた。 そして、ときどき、その「なる」がいつのまにかに「ある」になってしまったヨーロッパ近代社会の理論的な不幸を鋭く問うた。ときに科学哲学の眼で、ときに歴史哲学の眼で、ときに生命哲学の眼で。ホワイトヘッドはヨーロッパの近代社会と近代科学が「なる」の思想を喪失していったことを嘆くのである。

≪018≫  そして、ときどき、その「なる」がいつのまにかに「ある」になってしまったヨーロッパ近代社会の理論的な不幸を鋭く問うた。ときに科学哲学の眼で、ときに歴史哲学の眼で、ときに生命哲学の眼で。ホワイトヘッドはヨーロッパの近代社会と近代科学が「なる」の思想を喪失していったことを嘆くのである。

≪019≫  そのようなホワイトヘッドの哲学は、もっぱら「有機体の哲学」とか、「プロセスの哲学」とよばれてきた。 有機体(organism)という言い方は、哲学の歴史のなかでほとんど言挙げされことがなかった言葉だが、『過程と実在』以降、ホワイトヘッドが想定したコスモスの特色を一言でいいあらわすときにつかう最重要概念に、格上げされた。

≪018≫  そして、ときどき、その「なる」がいつのまにかに「ある」になってしまったヨーロッパ近代社会の理論的な不幸を鋭く問うた。ときに科学哲学の眼で、ときに歴史哲学の眼で、ときに生命哲学の眼で。ホワイトヘッドはヨーロッパの近代社会と近代科学が「なる」の思想を喪失していったことを嘆くのである。

≪019≫  そのようなホワイトヘッドの哲学は、もっぱら「有機体の哲学」とか、「プロセスの哲学」とよばれてきた。 有機体(organism)という言い方は、哲学の歴史のなかでほとんど言挙げされことがなかった言葉だが、『過程と実在』以降、ホワイトヘッドが想定したコスモスの特色を一言でいいあらわすときにつかう最重要概念に、格上げされた。

≪020≫  有機体哲学は、宇宙や世界の出来事(event)がオーガニック・プロセスの糸で織られているということ、あるいはそのようにオーガニック・プロセスによって世界を見たほうがいいだろうということを、告げている。オーガニック・プロセスそのものが宇宙や世界の構造のふるまいにあたっているということである。 このことは、『過程と実在』の原題である “Process and Reality” にもよく表象されている。

≪021≫  ホワイトヘッドのオーガニック・プロセスは、構造であって、かつ方法でもあった。「世界が方法を必要としているのではなく、方法が世界を必要としたのだ」。 おこがましくもぼくの言い方でいうのなら、「世界が編集されているのではなくて、編集することが世界と呼ばれるようになった」というふうになる。ここには、やはり、「ある」から「なる」への歩みが特色されている。

≪022≫  しかし、このようなオーガニックな方法をもった哲学や思想が、近代以降の欧米社会に登場したことはない。 なぜなら、それまでの思想では、世界の形や現象の姿をオーガニックに見るというばあいは、ほとんど生命や生物のメタファーで眺めていたのだし、世界の形や現象の姿をプロセスで見るというばあいは、原因と結果のプロセスに実証の目を介入させることばかりが意図されてきたからだ。 しかも最近は、オーガニックといえば有機栽培やオーガニック食品をさすようになって、それが宇宙のアクチュアル・エンティティとかかわっていることも、ホワイトヘッド社製であることも、すっかり忘れられている。

≪023≫  ホワイトヘッドはオーガニック・プロセスの素材と特徴によって世界と現象があらかた記述できると考えた。 その素材は、さっきも言ったように、アクチュアル・エンティティである。アクチュアル・エンティティは「ある」と「なる」のすべてのプロセスを通過している「経験のパルス」の一つずつをさしている。これをホワイトヘッドは好んで“point-flash” ともよんだ。「点-尖光」というふうに訳される。

≪024≫  一方、世界と現象をあらわしている特徴は、ホワイトヘッドの考え方によれば、「個体性」と「相互依存性」と「成長」、およびその組み合わせによって記述ができるとみなされていた。個体的な特徴を見ること、それらがどのように相互依存しているかを見ること、そして、結局は何が成長しつつあるのかを見ること、これで大事な特徴がすべてわかるということだ。

≪025≫  このような計画をもち、その計画を構造として記述できた哲人はいなかった。ライプニッツから飛んで、途中にガウスやヴィーコ(874夜)や、ときにはエミール・ゾラ(707夜)を挟んでもいいのだが、やはりその大きさからいうと、次がホワイトヘッドだった。

≪026≫  そうなったにはむろん才能も、作業における緻密の発揮も、環境もあるのだが、ホワイトヘッドを稀有の哲人にしている理由がもうひとつあることを、ぼくは以前からおもいついていた。それはホワイトヘッドに“zest” (熱意)があったということだ。

≪027≫  ホワイトヘッドの宇宙は “zest” でできていて、ホワイトヘッドの教育は “zest”のカリキュラムだったのである。

≪028≫  さて、今夜はめずらしく英語(英単語)を多用しながら綴っている。そうしたいのではなく、ホワイトヘッドの文章には独特の概念がちりばめられていて、これをある程度のスピードで渉(わた)っていくには、ぼくには翻訳語だけではカバーしきれないからだ。

≪029≫  たとえば、『過程と実在』を貫く概念のひとつに “concrescence” という言葉があるのだが、これには「合生」という翻訳があてられている。いい翻訳だとはおもうけれど、ホワイトヘッドが合生を語るにあたっては、しばしば「具体化」(concretion)をともなわせて、つかう。合生と具体化は日本語の綴りでは似ていないが、英語では“concrescence” と “concretion” は共鳴しあっている。

≪030≫  こういうことがピンとくるには、少しは英語の綴りが見えていたほうがいいだろう。

≪031≫  残念ながら日本では、ホワイトヘッドの有機体哲学はそんなに知られていない。ぼくはたまたま二つのコースで同時にホワイトヘッドをめざしたことがあったため、20代の後半をホワイトヘッド・ブギウギで送れた。

≪032≫  ひとつは、アインシュタイン宇宙論と量子力学の解読者としてホワイトヘッドを読むことになったもので、ここでは“Concept of Nature” という原題をもつ『科学的認識の基礎』(理論社)から入った。とくに『科学と近代世界』と『観念の冒険』と『象徴作用』には没入した。

≪033≫  そのころのぼくは、初期のホワイトヘッドがさかんに強調していた「延長的抽象化」(extensive abstruction)という方法に首ったけで、誰彼なしにそのカッコよさを吹聴していたものだ。それに感応したのが、いまは編集工学研究所の代表をしている澁谷恭子だった。彼女はある年のぼくの誕生日にホワイトヘッド・メッセージを贈ってくれた。

≪034≫  もうひとつは、コンラッド・ウォディントンの発生学から入ってホワイトヘッドに抜けていったコースだった。そのときはウォディントンがホワイトヘッドの弟子筋だとは知らなくて、気がついたらホワイトヘッド・ループに入っていた。ぼくが思うには、このウォディトンこそがホワイトヘッド有機体哲学の最もラディカルな継承者なのである。

≪035≫  ちなみに、ホワイトヘッドの弟子筋には多くのミニ哲人がいるけれど、フォン・ベルタランフィ(521夜)とバックミンスター・フラー(354夜)とグレゴリー・ベイトン(446夜)は、そのうちのとびきり巨きな継承者たちだった。

≪028≫  さて、今夜はめずらしく英語(英単語)を多用しながら綴っている。そうしたいのではなく、ホワイトヘッドの文章には独特の概念がちりばめられていて、これをある程度のスピードで渉(わた)っていくには、ぼくには翻訳語だけではカバーしきれないからだ。

≪029≫  たとえば、『過程と実在』を貫く概念のひとつに “concrescence” という言葉があるのだが、これには「合生」という翻訳があてられている。いい翻訳だとはおもうけれど、ホワイトヘッドが合生を語るにあたっては、しばしば「具体化」(concretion)をともなわせて、つかう。合生と具体化は日本語の綴りでは似ていないが、英語では“concrescence” と “concretion” は共鳴しあっている。

≪030≫  こういうことがピンとくるには、少しは英語の綴りが見えていたほうがいいだろう。

≪031≫  残念ながら日本では、ホワイトヘッドの有機体哲学はそんなに知られていない。ぼくはたまたま二つのコースで同時にホワイトヘッドをめざしたことがあったため、20代の後半をホワイトヘッド・ブギウギで送れた。

≪032≫  ひとつは、アインシュタイン宇宙論と量子力学の解読者としてホワイトヘッドを読むことになったもので、ここでは“Concept of Nature” という原題をもつ『科学的認識の基礎』(理論社)から入った。とくに『科学と近代世界』と『観念の冒険』と『象徴作用』には没入した。

≪033≫  そのころのぼくは、初期のホワイトヘッドがさかんに強調していた「延長的抽象化」(extensive abstruction)という方法に首ったけで、誰彼なしにそのカッコよさを吹聴していたものだ。それに感応したのが、いまは編集工学研究所の代表をしている澁谷恭子だった。彼女はある年のぼくの誕生日にホワイトヘッド・メッセージを贈ってくれた。

≪046≫  さて、ぼくのこれまでの理解では、ホワイトヘッドの思想の記述には、つねに独特の「包む概念」と「分ける概念」と「繋ぐ概念」とが使われている。それをホワイトヘッド・シソーラスのようにして、案内したい。

≪047≫  世界や出来事や現象を大きく「包む概念」には、すでに紹介してきた「有機体」や「プロセス」や「ネクサス」がある。ホワイトヘッドの時代には「ネットワーク」という用語がほとんど使われていなかったけれど、これらの概念が示すところはすこぶる網目状であり、互いがどちらの原因とも結果ともなるようになっている。

≪048≫  このような「包み」をあらわすイメージは、このほか、統一性(unity)、延長的連続体(extensive continuum)、客体的不滅性(objective immortality)、さらには存在論的原理(ontlogical principle)、自己超越体(superject)などもあって、記述にあたってはこれらが組み合わされる。

≪049≫  とくに重要だとおもわれるのは、「抱握」(prehension)である。抱握はすこぶるホワイトヘッドらしい用語で、哲学史上ではデカルトの「思惟」やロックの「観念」を普遍化し中立化するために提案された。ホワイトヘッドとしてはライプニッツのモナド(単子)による世界把握のイメージを、当初はこめたかったようだ。

≪050≫  しかしやがて抱握は、自然理解を二元分裂(bifurcation)させてしまう哲学や科学の見方に対する異議申し立てに使われるようになり、そのうち、何かの対象や出来事や現象を抱握するとは、そこに主語と述語を分断しないでそれらを包みこんで把握することだというふうに、ダイナミックに発展していった。

≪051≫  『過程と実在』の第4部では、公共性と私立性のような問題も抱握によって分ける必要がなくなるだろうという“予告” もしていた。 これでおよその見当がつくように、これらの「包む概念」は、世界を包むとともに、それを感知している自分の意識や経験を包んでいる概念なのである。だから、これは宇宙の風呂敷なのであるが、その風呂敷はわれわれの知覚や経験の模様でつくられるのだ。

≪052≫  「分ける概念」は、そんなに難しくはない。基本はやはり分割(division)である。 けれどもホワイトヘッドは二元分裂を本気で嫌ったのだから、何かを分けて見ようとするときは、それを幾つかに分けつつも、その分岐したものたちにくっついているゴム紐を切らないようにするという考え方を、執拗にさぐった。 ぼくが感心したのは、われわれが分割を怠惰にしてしまうのは、そもそも想像力に分断がおこっていることに気がつかないからで、その想像力の分岐発生の場面をよく観察すれば、その次に発揮され駆動される想像力には、不用な分断はおこらないというところだった。

≪053≫  『過程と実在』第3部では、想像力には、次のような分断予兆がはたらいているのではないかという仮説がたてられている。 ①物的想起(physical recollectin) ②観念的想像(conceptual imagination) ③命題的想像(propositional imagination) ④保留された判断(suspended judgment)

≪054≫  結局、「分ける」ことが自縄自縛にならないためには、それらが元の関係を保存していたり、新たなアームを出して関係を複合化しているようにすることなのである。これは三浦梅園(993夜)の「一、一即一」の条理学にこそ懸案されていたことだった。『過程と実在』第2章第2節には、意訳すれば「多は一になり、一によって支えられる」というメッセージがあったものである。

≪055≫  分けるだけではないとすれば、そこで、「繋ぐ概念」が必要になる。ここには、すでに紹介した「合生」があるが、その根底にはあくまで “becoming” というイメージがある。

≪056≫  コスモスというものは、本来は自律的に生成消滅をくりかえす自己超越体なのだから、そのどこかで人為的に橋をかけるとか、釣糸をたれるというようなことはしていない。 それにもかかわらず生命や生物体に自己修復性や自己加害性があることは、ホワイトヘッドにとっては注目すべきことだった。そこにはきっと、自動ミシンのようなものが動いているにちがいない。

≪057≫  こうして何かと何かを「繋ぐ」と見えたことは、そこに何らかの遷移や通過があったということなのだ。これが、有機体哲学がたえずトランジションやパッセージを重視する理由になっていく。つまりはオーガニック・プロセスの重視なのである。

≪058≫  こうしてホワイトヘッドは、まずは「延長的抽象化」という方法をもちだし、ついでは述語的形態(predicative pattern)によって分かれ目を繋ぐという見方を提出したのちに、それならいっそ、「関係性」(relatedness)という見方を全面開花したほうが、それまでさんざん使われてきた「性質」「属性」「機能」といった見方よりずっと有効で、しかもそれらをも取りこぼさないということを主張するにいたったのだ。 ひるがえっていえば、そのような関係性を失わない現実的な出来事こそが、アクチュアル・エンティティであって、その内部には“point-frash” が秘められていたのだった。

≪059≫  ホワイトヘッド自身が言っていることなのだが、哲学とは自己矯正であるという。 しかしながら、哲学の自己矯正が社会や学問の自己矯正になるようには、社会も学問もそこまで成長していないというのが、ホワイトヘッドの慚愧に耐えないことだった。そこで、有機体哲学を展開しつつあったちょうど中間期くらいのところにあたるのだが、ホワイトヘッドは当時の社会や学問にはびこっている思考法について、告発をした。

≪060≫  この告発は『過程と実在』の序文に示されている。なかなか激越なものである。少し言葉を補って紹介する ①思弁することが重要だということが確信できないでいる。 ②言葉は命題を十全に表現できると思いすぎている。 ③能力をのばす心理学というものがあって、そのことを開発することには何 の哲学めいたものがひそむと考えすぎている。 ④主語-述語がしっかりしていれば、何かが表現できていると思いすぎている。 ⑤知覚の問題は知覚論的な言説によってしかアプローチできないと思いこんでいる。 ⑥空虚な現実態(vacuous actuality)というものがあると思いこんでいる。 ⑦カントがそうだったのだが、純粋に主観的な経験があれば、そこから客観的世界についての理論的な構成ができると思いこんでいる。 ⑧不条理や背理法をもちだせば、それで何かの本質的動向を暗示できると考えすぎている。 ⑨論理が不整合になっているにもかかわらず、それはその論理に先行する何の規定がまちがっていると反省できないようになっている。

≪061≫  今日にもそのまま通用できるような、そこまで言っていいのかと心配したくなるような「不信」も指摘されているが、そのことを除けば、これは胸がすく告発だ。 ホワイトヘッドは過剰な哲学が大嫌いだった。「ちょうどそのぶんだけの思索」をすることをもって、それを組み合わせていく哲学がありうることを、生涯をかけて表示しつづけた。自分自身の初期の過剰な思索の傾向を自己矯正していくような哲学を創造すること(ぼくとしては自己編集といいたいが)、それもまたホワイトヘッド自身のための有機体哲学だったのである。

≪062≫  とはいえ、こんなにも厳格な自己矯正ができる者がいるのだろうか。これはホワイトヘッドが哲学界と科学界に突き付けた談判状か離縁状のようなものだったのだ。なかなかマネはできそうもない。

≪063≫  そこで、余計なことだとはおもうけれど、ぼくが上記の9項目をいいかえておくことにした。こういうものだ。 ① 考えるべきだ。「そりゃ、考えすぎだよ」という友人や知人の非難を撥ねのけること。 ② 言葉を使い尽くしたほうがいい。そうしたら囚われていた主題から解放される。 ③ 能力はスキルアップの鍛練からしか生まれない。心の問題はカンケーない。 ④ 「私は」という主語をはずして、述語に入ってしまうほうがいい。 ⑤ 感覚や知覚は、モノに託してみるべきだ。買い物で得たモノ以外で、大切にできるモノをつくりなさい。 ⑥ 想像しているだけのことが多すぎるので、そんなにも困惑しているのである。 ⑦ 何かについて純粋であると思うことは、そのことを純粋から遠のかせるばかりになる。 ⑧ 「逆説的に言うとねえ」という言い方をやめなさい。そういうときは何も主張がないだけなのだから。 ⑨ 理屈っぽくなったときは、その理屈を途中からではなく、最初から捨てること。

≪064≫  最後に、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの履歴を手短にガイドする。 ホワイトヘッドが生まれ育った環境は、ホワイトヘッドの思想と地続きだった。イングランドはケント州ラムズゲイトだが、すぐ近くにカンタベリーのアウグスティヌスがイングランド上陸の第一歩をしるした記念碑や、エドワード黒太子の墓碑があった。 祖父も父親も聖職者で、教育者である。父親もアルフレッド名なので、ホワイトヘッドにはいつもA.N(ノース)がつくのだが、その父親は校長であって、イギリス国教会の祭司を兼ねていた。幼いころのバートランド・ラッセルが地球は球体だということを拒否しているというので(よくまあ、そんな子がいたものだが)、困ったラッセル家がこの子の説得を頼んだのが、ホワイトヘッドの父親だったのである。

≪065≫  ともかくも古色蒼然の風土と家柄をもって、ホワイトヘッドはイングランドの歴史の中から出身してきたのである。14歳から通った学校もなんと675年の創立で、アルフレッド大王も通っていたというのだから、これは吉備真備や空海や石上宅嗣が通っていた学校そのままのところに、漱石や鴎外が通っていたようなものだった。言い忘れたが、1861年の生まれだ。

≪066≫  大学はケンブリッジのトリニティ・カレッジである。ここが曰くつきのゲイ・カルチャーの巣窟であったことは知る人ぞ知るであろうが、ホワイトヘッドはそこをなんとか凌ぎながら、純粋数学にも応用数学にも傾倒していった。 24歳でフェローになると、数理物理学と力学の講義を担当して、ハミルトン方程式とブール代数に夢中になった。それから8年をかけて結実したのが『普遍代数論』である。ライプニッツを意識した。

≪067≫  ホワイトヘッドは最初はカントには甘かったが、そのころ流行のヘーゲルには辛かった。弁証法が科学だとも哲学だとも思えなかったのだ。 しかし、乗り越えるのならこの二人ともどもだと見たホワイトヘッドは、カントもヘーゲルも批判できるようにするためにも、しだいに数学的思考の統合の枠を広げていった。 そこへ直弟子のバートランド・ラッセルが共同研究をしたいと言ってきた。いくぶん面倒だったが、話をしてみるとほぼ問題意識が近い。そこで二人は共同で研究執筆をすることにした。これがものすごいものだった。7年間を不眠不休に近くコンをつめ、1910年の『プリンキピア・マテマティカ』の第1巻とした。

≪068≫  この仕事は20世紀の数理哲学の原点となったものである。が、そのあとは、二人は別々の方向に目を転じていった。ラッセルは言語哲学に向かい、ホワイトヘッドは数理物理学の論理的な基礎づけとしての科学哲学に向かった。大学もケンブリッジからロンドン大学に移った。こうして綴られたのが、『自然認識の諸原理』『科学的認識の基礎』『相対性の原理』の、いわゆる科学哲学3部作である。ぼくはこの3冊を、自分でも驚くほど熟読したものだ。 これらに書いてあることを一言でいえば、空間や時間や物質やエネルギーを派生させる新しい基本概念として、出来事(事象)を提案して、そこにアクチュアル・エンティティの動向を記述できる拠点をおいたことである。

≪069≫  1924年、ホワイトヘッドはハーバード大学に招かれる。アメリカにはこんな数理哲学者はいなかったから、寄ってたかってホワイトヘッドの説明を“頂戴” する取り巻きがあっというまに、ふえていった。「ホワイトヘッド家の夕べ」とよばれた有名なサロンには、師に“お返し” をしない者も、しょっちゅう駆けつけた。 師のほうはそんなことはいっこうに平気で、むしろ雑談で放出した言葉の、奥にひそむ「未発の言葉」(概念)をさがしはじめていた。それが『過程と実在』と『観念の冒険』になる。

≪070≫  なぜホワイトヘッドがこの時期に “難解な深化” をはたしたかというと、もともとホワイトヘッドには“significance” (意味付け)に熱中することころがあって、この時期は宇宙や自然の内部での相互作用の結節点と縫い目に意味付けをしようとしていたからだとおもわれる。 とくにその縫い目に意味を与えようとしたことが、ホワイトヘッドをめっぽう深くした。縫い目は役目をはたしたあとは、その上にアイロンをかけられて消えてもかまわなかったのに、事態に裂け目があるときはその接近をとりもつために捨て身のミシン活動をする。そのことに意味付けをしようとしたことが、ホワイトヘッドをニュータイプの哲人にしていったのである。

≪071≫  その後のホワイトヘッドは、たとえばアメリカの参戦に断固反対したり、子供の教育に大きな関心をもち、教育の基本方針を計画したりするようになる。 この教育論がまたすばらしい。ここではその計画を伝えることを省いておくが、その中心に何が据えられているかというと、「本当に教育をしたいのなら、難しいことから先に教えるべきなのです」という卓見だった。 その理由をホワイトヘッドは知り抜いていた。人間というものは、たいてい「空想化」「精緻化」「普遍化」の3段階で何かを知ろうとし、何かを学ぼうとするのだから、その最初の「空想化」の段階こそ最も難解でいいということなのだ。すなわち、子供が一番の“prehension” (抱握)の持ち主だということなのだ。

≪072≫  最後に、おまけをひとつ加えたい。 ホワイトヘッドが渾身をこめて提起した「抱握」という方法は、いったい何に近いものかというと、われわれがふだんからおなじみの、あの“feeling” だというのだ。フィーリングとは抱握のことだったのだ。 つねにネクサスとパッセージを走るオーガニックなフィーリングであろうとすること――。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの哲学とは、このことだったのである。

≪01≫  ぼくには自分で了解しているいくつもの片寄りがある。いまだ訂正が効いていない欠陥といっていい。 

≪02≫  そういう片寄りには、中学時代に憧れた八千草薫やマリア・シェルの面影から逃れられないとか、森繁久弥が野口雨情などの哀れな役をやるとすぐ涙ぐむとか、石原慎太郎以来の太陽族(サーフィン族まで)にはすぐ背を向けるとか、まあ、どうでもいいような偏見も含まれるのだが、たとえばオズワルト・シュペングラーの『西欧の没落』やティヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』が早い時期に入ってなかなかその論旨を抜け出せない、稲垣足穂が案内してくれたハイデガー哲学が入りすぎていっこうに新たなハイデガー解釈ができないでいる、 

≪03≫ ある嫌いな人物がラファエロのことを褒めすぎたので、どうしてもラファエロを正直に受け入れていないといったような、そういう入力異常状態によるというのか、初期条件の狂いというのか、そんな偏見もいっぱいある。 

≪04≫  そのひとつが、ダーウィンよりもラマルクの影響が強く入ってしまったということだった。 

≪05≫  ラマルクの考え方は「トランスフォーミズム」(いわば転成思想とでもいうか)というものにある。その進化思想の根幹にあるのは「グラデーション」(漸進)と「プラスチック・フォース」(形成力)という概念である。 

≪06≫  それを説明する前に、ラマルクの研究のステップを簡単に述べておく。 

≪07≫  最初は気象学だった。軍務のかたわら雲の形態観察にとりくみ、天気予報の可能性を確信していた。次に水理地質学である。これを研究しているときに、ラマルクは包括的自然学とでもいうものを構想して、「気象学・水理地質学・生物学」の3つの部門によってすべての自然現象が説明つくのではないかと考えた。 

≪08≫  それから植物学である。パリの植物学校と植物園に通いビュフォン園長に出会った。リンネ型の分類学を越える思想がないかどうかというのがラマルクの関心事であった。どうも生物分類の軸には時間が入っていない。なにもかもを俯瞰しすぎている。ラマルクは時間の函数を入れた分類をしたかった。  

≪09≫  こうして総力を動員するかのように動物学に向かっていった。このへんからすべての自然現象にできるかぎり対応関係を発見したいという見方が強くなってくる。  

≪010≫  植物界の6綱と動物界を区切る区分に対応を見出そうとしたのはその一例だった。ただし、植物と動物をつなぐ”橋”はないというのがラマルク思想の強靭なところで、生物と無機物のあいだにも明確な非連続をもちこんでいた。  

≪011≫  けれども動物については、驚くべき連続観をもちこんだ。 その極端な例は、「鉱物はすべて生物の遺骸が時とともに継起的な変質をこうむって生み出されたものである」とか、「文学や美術に見られる想像力の起源を動物哲学として説明できなければならない」という見方にあらわれた。 

≪012≫  ざっとこうした研究遍歴をへて、ラマルクは1800年に「種は変化しているにちがいない」という、まったく新しい進化思想に到達することになる。 

≪013≫  たしかにラマルクの「用不用説」には早計のものがある。陳腐なものがある。しかしラマルクの限界はそこにあったわけではなかった。むしろラマルクの理神論的な傾向が嫌われたのだった。なにしろ『動物哲学』第1部第3章では、神が事物の秩序を創造したであろうことがはっきり認められていた。 

≪014≫  ただし、このような理神論の立場を弁解するとすれば、ラマルクは「神が万物を司ったとしても、そのプロセスはすべて物理的・化学的・生物学的な法則性によって説明されなければならない」と考えていたということである。 

≪015≫  もっとも、その”法則性”がいささかユニークすぎた。その点が”神の覗き穴”を『プリンキピア』第3部にこっそりもちこんだアイザック・ニュートンとは違っていた。 

≪016≫  ラマルクは滴虫類のモナスを動物の体制の最も基本になるものとみなした。モナスは収縮する動物である。そこでラマルクはこの収縮性を拡張して、動物には「機能亢進」(orgasme)という法則性があるのではないかと考えた。 

≪017≫  しかし、なぜモナスは収縮できるのか。ラマルクはそこには有機体をとりまいている「媒質」のようなものがあるのではないかと推理する。いわば生物界のエーテルである。『動物哲学』には「微細で、眼に見えず、含まれえない、たえず運動している流動体」という説明がある。そこにはさらに”熱素”も混じっているとみなされた。 

≪018≫  ラマルクはまた、動物が進化するにあたっては「化学親和力」のようなものがはたらいているにちがいないとも考えた。そしてこの化学親和力は、多様きわまりない動物たちをさまざまな複合形態にするための「形」をつくる力になっているのであろうと推理した。これがのちに「プラスチック・フォース」(可形力)という概念になる。 

≪019≫  ラマルクはまた、動物が進化するにあたっては「化学親和力」のようなものがはたらいているにちがいないとも考えた。そしてこの化学親和力は、多様きわまりない動物たちをさまざまな複合形態にするための「形」をつくる力になっているのであろうと推理した。これがのちに「プラスチック・フォース」(可形力)という概念になる。 

≪019≫  このようなラマルクの大胆な推理は先生のビュフォンにも認められた。ビュフォンはすでに地球の第3期においてなんらかの”内部鋳型”のようなものが形成されていて、それにもとづいて生命の基本型が次々にあらわれていったのではないかという仮説を提起していた博物学者である。 

≪020≫  ラマルクはこの”内部鋳型”の仮説にかなりの影響をうけたとおもわれるが、しかしここは一番ビュフォン先生に押し切られないようにした。ビュフォンの仮説はあまりにスタテッィクであったからだ。ラマルクはもっとダイナミックな進化を説明したかったのである。その思いは、機能亢進、媒質、流動体、化学親和力、可形力といった言葉に如実にあらわれている。 

≪021≫  こうしてラマルクはビュフォンを頂点とする大博物学時代から脱皮する。  

≪022≫  ラマルクのダイナミズムには、もうひとつの特徴があった。それが「グラデーション」というもので、生物進化における漸進性が強調される。 

≪023≫  ラマルキズムはその後の科学思想史では、しばしばとんでもない飛躍に富んだ突飛な思想とおもわれがちなのであるが、実のところはラマルクは「飛躍」よりも「漸進」を好んでいた。自然界や生物界における大小の時計の進みを勘定に入れていた。 

≪024≫  こうしたラマルク思想の総体は「トランスフォーミズム」と名付けるにふさわしい。進化は構造と機能と時間をともなう転成であるという思想だ。とくに”フォーム”に注目しつづけたことにラマルクの真骨頂がある。 

≪025≫  しかしながら”フォーム”にこだわったぶん、「キリンの首」の長さに眼がいきすぎた。そこは残念なことではあるけれど、ラマルク思想の総体がそういう一事をもってダーウィンの蔭に隠れてしまうのは、あまりにもったいない。 

≪026≫  ぼくがラマルクについて最初のエッセイを書いたのは、1976年のことである。すでに四半世紀前のことになる。『遊』の特別号「存在と精神の系譜」の一項目として書いた。 

≪027≫  このときぼくは、ラマルクをサドとゲーテのあいだに置いた。むろん生年順で、サド1740年、ラマルク1744年、ゲーテ1749年というふうになる。このあいだに別の科学者や文学者が入ってもいいのだが、それを排した。ラマルクはサドとゲーテの媒介者にもなりうることを示したかったからだ。 

≪028≫  ちなみにその前後も入れると、ウィリアム・ハーシェル、サド、ラマルク、ゲーテ、シモン・ラプラスという順になる。強力な天体力学者のあいだに3人を挟んでみたわけである。  

≪029≫  ついでタイトルには「鉱物への逆進化を映す枠のない窓」というフレーズをもってきた。そのエッセイが森永純の写真の話から入っていたからで、多くの芸術が枠をもっている”有枠の思想”に縛られているなか、ラマルクは進化を”無枠の科学”にしたかったのではないかという暗示を含ませたつもりだった。 

≪030≫  しかし冒頭に書いたように、これはぼくの片寄った偏見かもしれず、同じ偏見にしてももうすこし立派にしてあげたくなって、「存在と精神の系譜」を大和書房の『遊学』としてまとめなおすにあたっては、「進化に隠された退行序列」というふうにタイトルを変えた。むろんこれも偏見である。 

≪031≫  しかし、当時も、今も、ダーウィン以前の生物学者にアプローチするには、やはり進化と退行とを同時に語れた生物学者としてラマルクをフィーチャーしたいという気持ちは変わらない。 

≪032≫  ラマルクは晩年に目が見えなくなっていく。失明したラマルクの講義はいっそう聴衆の胸に染みこんだようである。バルザックやサント・ブーブがその講義を聞いて生命と形態の関係に宇宙的な神秘を感じたらしい。『遊学』にもふれておいたことである。 

≪033≫  ついでに、『遊学』では、次のようなことにもふれておいたことを付言しておく。「ミシェル・フーコーはラマルクに勇気をもって接近しためずらしい思想家だった」というふうに。 

≪01≫  ちょうど筑波で科学万国博が開かれようとしたときで、ぼくは京セラやローランドらのベンチャー・パビリオン「テクノコスモス」の総合演出を担当していて、監修の西堀栄三郎さんと「今西さんの自然学の提唱こそ、次の時代の科学の旗印ですねえ」といった会話を交わすかたわら、日本の科学技術にさんざん文句をつけていた。文句をつけるのはもっぱら西堀さんで、西堀さんが言うには「科学技術者が精神を失った」というのである。 そして、こうも言った、「今西さんのえらいとこはな、変わるとこや。ニセモンの科学者は変われへん」。 

≪02≫  今西錦司がなぜ自然学を提唱したかというと、自然科学と人文科学と社会科学が分かれていることと、しばしば巷間に「今西学」といわれているものとが、どうにも折り合わなかったからである。今西自身、「ぼくの自然学というのは、今の学問のシステムにおさまらんところから生じてくる」と書いている。 この見方はかなり根底的なもので、もともと自然科学の最も基礎になっている物理学ですら、もとをただせば自然現象をいかに解釈したらいいかという自然学から出ているわけである。しかし、その物理学が基礎や応用に分かれ、力学や光学や電磁気学に分断されていくうちにこれが薨じて、ついにはあらゆる学問が細分化されてしまった。そんなものでいいはずがないというのが今西錦司の言い分なのだ。 

≪03≫  そこで今西錦司は変化する。変わっていった。自然を理解するには自分はどう変わってもいいというのが、西堀さんが言うように、今西錦司の真骨頂なのだ。あとでのべるように、今西は専門の生態学を捨てたのだ。 その今西錦司がなんと80歳をこえて、またまた新たな「自然学」を提唱したのであった。こんなことはもっとたくさんの科学者がやらなければならなかったのであるが、それが日本ではおこらなかったのだ。むろん科学素人で、かつ宗教素人のぼくが書いた『自然学曼陀羅』なんて、根っから無視された。 

≪04≫  もともと今西さんは過激なことを決断した人である。なかでも最もラディカルだったのが「生態学から社会学へ」という決断だ。これは正確には1972年のころからの決断だから、70歳の決断ということになる。 今西錦司が京都大学の学生のころ、ようやく生態学という領域が登場していた。最初はオダムらのもので、自然が人間のインフルエンスを受けているという視点から自然を見直そうというもので、自然を改造してきたヨーロッパではなく、まだその途上にあるアメリカから発信してきた。 今西はこれに魅力をおぼえて生態学の研究に乗り出し、例のカゲロウ研究の金字塔を打ち立てるのであるが、しだいに不満が募ってきた。「生態学では動植物から人間までも含めた全体の統合原理は不十分である。ぼくは生態学に見切りをつけて社会学に向かっていくべきだと考えた」というふうになった。 当時、京都大学の霊長類研究所には世界的にも画期的な「社会部門」というものがあった。霊長類の研究はいまでこそ誰もがテレビの動物番組やサル学の普及などで知っているように、ありとあらゆる霊長類の“社会”を観察するものになっているが、それまでは科学としての“しきたり”に縛られていた。それを“社会”の研究に向けて大きな窓を開けたのが今西錦司だった。 

≪05≫  今西はサルに社会科をもちこんだだけではなかった。生理や心理や言語学さえもちこんだ。それが今日のサル学の隆盛をもたらしたことはいうまでもない。 しかし、そうやってみると、若い研究者たちはしだいに部屋にとじこもってデータだけを扱うようになってきた。あるいは実験装置や機械の設定ばかりに夢中になってきた。つまりは実証科学の力に引っ張られ、しだいに本来から遠ざかりはじめたのだ。これではサルという人間に近いはずの相手と取り組んでいる意味が、しだいに分断された成果の競い合いになるだけだ。そこには「生きている全貌」を掴むということがなくなってくる。 今西錦司は、悩んだ。なぜ近頃の研究者たちは“大技”ができなくなったのか。みんなケチくさい。これではいかん、なんとかせねばあかんというのが、ついには82歳になっての「自然学の提唱」にまで至ったのである。 そこには、「自分は植物や動物が好きだからといって、それで自然派だとか、自然を考えているなどと言うな」という、強烈な主張があった。今西によると、自然というのは全部がつながって自然なのであって、ひとつずつの自然などというものはなく、それを言うなら「自然はひとつしかない」と考えるべきだという。 この「自然はひとつしかない」という考え方をひっくるめたものが、今西自然学である。 

≪06≫  今西錦司は生涯を賭けて進化の謎に挑戦しつづけた人だった。一言でいえば、ダーウィンの進化論に断固として立ち向かった人である。戦争中に遺書のつもりで書いたという『生物の世界』にその骨格は綴られている。 その思想は広大で、どこかとりとめのないところもあるのだが、その主張は明確で、アンチセレクショニズムとしての一本の太い幹が通っている。自然淘汰や自然選択(natural selection theory)では進化は絶対に説明できっこないという太い幹である。そこには自然淘汰説を支える適者生存(survival of the fittest)に対する批判が深く突き刺さっている。しかしながら、これは反ダーウィニズムとはちょっとちがっている。なにもかもダーウィンに反対しようというのではなくて、セレクショニズムという見方が進化論を毒してしまったという考え方なのだ。 

≪07≫  今西錦司が言いたかったことは、生物が多産で、生存競争があって、環境適応があるのは当然だが、そうだからといって最適者が自然界で選ばれて残るなどというのはおかしいと言ったのだ。むしろ運のよいものが生き残ったと考えたほうがいい。極端にいえば、そう考えた。 「運がいい」とはまことに非科学的な言葉だが、今西錦司はそれを全力をかけて解明したかった。その「運」をこそ自然界が襞の奥にひそませているのではないかと考えたのである。 すなわち、自然は最適者だけしか生き残らせようなどとはしていないというのが、今西錦司の自然研究から生まれてきた結論だったのだ。激しくも厳しい自然のなかにひそむ「抱擁の構造」に、むしろ進化の原理の萌芽を見たのである。 

≪08≫  このような見方は、今西自然学に親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」さえ招じ入れた。 こんな大胆な発想におよんだのは、今西錦司にとっての生物の種が、ダーウィンのいう種の個体ではなく、「種社会」そのものを種とみなすという見方から出ているためだった。ここから派生した今西進化論の有名な理論が「棲み分け理論」である。 これは加茂川で4種類のヒラタカゲロウの棲み分けを発見したことから始まるもので、今西錦司がのちに「鬼の首をとった気分だった」と言っているように、心躍るものだったらしい。しかし今西はそれを当時従事していた生態学の範疇で処理しなければならないと思いこんでいたため(これがいまでも大半の学者が陥っている陥穽なのだが)、この「鬼の首」が動かなくなった。 そこでシヌシアという単層共同体のアイディアを借りて研究を進めようとしたのだが、どうもシヌシアだけでは説明ができない。シヌシアは、それよりもっと大きい地域共同体の部分にすぎなかったからである。 今西は社会学を漁った。けれども「こんなに陳腐なものばかりを集めてどうするのか思った」ほど、当時の社会学はガラクタばかりを集めている学問だった。 しかし、そこには少なくとも「社会」というたいへん魅力的な見方が生きている。そこを取り出さなければならないと、今西は覚悟する。ここらあたりが今西が生態学から決別しなければならないと思いはじめた背景になる。 こうして「種社会」という、生態学にも社会学にもない、全く新しい自然の見方が生まれてきたのだった。 

≪09≫  今西が掛けた生態学と社会学の橋は、すぐに京大人文科学研究所に人類学部門ができることによって広く開花する。中尾佐助の「農耕起源論」や梅棹忠夫の「文明の生態史観」が練られていったのは、ここである。 京大引退後、今西はついにダーウィン批判というとんでもない岸壁に攀じ登る。最初は『私の進化論』(1970)だったろうか。そのなかで、今西はついに本音を吐いて、「進化というものは、変わるべくして変わるのだ」というような、科学者にあるまじき“達観”を示したのだった。変わる時がきたら種社会の全体が変わるのだという意味だったが、このような禅問答にも似た発言に、大半の科学者たちはついていけなくなっていた。 むろん、こうした今西自然学が批判にさらされていないわけではない。柴谷篤弘の『今西進化論批判試論』(朝日出版社)はその代表的なものだったろうが、どうも今西さんには隔靴掻痒のおもむきらしく、まったく応えなかったようだ。ぼくはいっとき柴谷さんの本もつくったので、柴谷ロジックの意図もよくわかっているつもりだが、たしかにこの批判では今西さんの動揺を引き出すのは不可能だった。 

≪010≫  しかし、今西自然学について、強力な賛同者も少ないかわりに、強力な批判者もほとんどいないということは、ちょっと不幸なことでもあろう。そのことについてふれないままに、今西さんが逝ってしまったのが残念である。 もっともふりかえってみると、1941年の『生物の世界』の序文にして、今西は「これは科学書のつもりで書いたのではなくて、私の自画像である」と書いていたのである。いわば自画像の中に自然界を入れたのだ。これではどう見ても、最初から勝負を挑むほうが辛すぎた。 

≪011≫  今西はいっとき「登山学」というものも構想していた。それは自分の体が知った登山が、世の中で喧伝されている登山とはちがっていると感じたからだった。 このことは今西錦司についで登山が大好きだった西堀さんからもよく聞かされた。今西は、ともかく体感自画像からすべてを発した人なのだ。 もっとも西堀さんは初代南極越冬隊長もつとめた人なので、「登山というてもな、ぼくは南極に行って登山すらない超登山的なるものを感じたな」ということになる。これもまことに今西っぽい発想だった。ちなみに今西・西堀は義兄弟の関係になる。 けれども、その西堀さんも脱帽しつづけていることがある。それは今西錦司の登山数だった。1552山という数である。 

≪012≫  ところで、今年は今西錦司が京都に生まれて100年目にあたっている。1月生まれなので、そのうちいつか今西議論が沸いてくるかなと思っていたのだが、この10月を迎えてもあまり騒がない。ここにぼくの長年にわたった「内なる巨人」のことを、少しだけでも書いておこうと思った次第だ。 もっとも、ぼくのところには今西生誕100年目の今年、かわいい今西くんがやってきた。3月、ぼくの仕事場に一人の若い女性が飛びこんできたのである。彼女は登山が大好きで、学生時代にサルのフィールドワークをしてきた。たいへんに発想的行動がいい。どんな部分も全体とつなげるし、どんな全体感も部分にあてはめたいと思ってくれている。 しかも今西さんよりずっと若いぶん、新たな「人間の種社会」にたいそうな関心をもっている。松岡正剛事務所や編集工学研究所やISIS編集学校や未詳倶楽部や上方伝法塾や六翔塾の「種社会」の周辺を、ぜひとも彼女が観察して、そこから何かを発見してもらいたい。和泉佳奈子という今西くんである。 

≪01≫  欧米ではというか、キリスト教文化圏ではというか、いつもその”陣営”をどうよぶかをそのことを言おうとおもう瞬間に迷うのだが、まあそれはともかく、西側の合理が好きな科学的な知識人のあいだでは(と言っておくことにするが)、「20世紀は啓蒙主義とロマン主義という二つの対立する文化のあいだで科学が継承されてきた」というふうに捉えるのが”常識”になっている。 

≪02≫  インディアナ大学の物理学の教授をしてきた本書の著者も、あきらかにこの立場にたっている。 

≪03≫  この立場というのは「科学は啓蒙主義やロマン主義の犠牲になってはならない」というものだ。著者はそこで、このような啓蒙主義とロマン主義のあいだに挟まれて必要以上に苦悩する科学を「正しい姿」に戻したいと心底から思っているらしく、本書をそのような目的で書いた。 

≪04≫  著者は「科学が正しい」とみなせるには、科学者自身がもっと鮮明な立場に徹する必要があると主張し、いくつかの立脚点をあげている。 

≪05≫  第1には、コンヴェンショナリズム(規約主義)に立つというものだ。 これは、科学が提案した約束事(コンヴェンション)は科学を進めるための約束事であって、それ以外でもそれ以上でもないという立場である。なぜ物理学者のロジャー・ニュートンがそんなことを主張するかというと、オッペンハイマーらの原爆研究このかた脳死問題や遺伝子操作にいたるまで、科学は社会的政治的な影響によって発展しているのではないか、とくに20世紀は、という疑念の議論が絶えないからだった。 

≪06≫  第2に、科学が使う道具の意味をもっと正確に知ることである。著者はまず「モデル」という道具をあげ、次に一部の科学者や大半の文化派の連中にとっては意外におもえるだろうが、アナロジーとメタファーも科学の重要な道具であることを説明する。  

≪07≫  第3には、これはちょっと面倒な議論になるが、たとえば「複雑性の科学」などで話題になっている発現特性が旧来の科学ですぐに説明できないからといって、それをもってこれまでの科学の「正しい姿」を訂正する必要がないという立場である。 

≪08≫  ぼくとしてはこの議論には与せないものがあるのだが、著者はこの立場を頑固に守ることが「科学の正しさ」を維持するには不可欠だと考えている。むろん、このような著者の立場を徹底することは最近は人気のない「科学は還元主義である」ということを自白することにつながる。 が、著者にとって科学はなんといっても安定していなければならないのである。 

≪09≫  そこで第4には、科学が扱っているのは一般的事実であって、どんな個別的事実でもないということをあきらかにしておきたいと考える。 

≪010≫  こんなふうに言うと、科学がいかにもつまらないもので、都合のよい現象のみを扱っているように見えるだろうから、著者はすぐに第5に、一般的事実から出発しつづけるからこそ、たとえば数学が「不定」という要素を導入できたり、量子力学が「確率波」という科学にまで達することができたのだという説明をする。これはカール・ポパーが「反証可能性」を持ち出したのに対して、あくまでも「検証可能性」だけで科学を進めてもなんら問題がないという立場を説明している。 

≪011≫  第6に、著者は「理解」にはいくつかのレベルがあるということをあきらかにする。ここはゴードン・ケインの『素粒子圏』を援用して、理解には「記述的理解」「入力と機構の理解」「理由の理解」という3つの科学的な理解があるという説明をする。この3つを、文化系の連中、とくに啓蒙主義者とロマン主義者はごっちゃにしているのではないかという非難でもある。 

≪012≫  ぼくのように科学を編集的手続きとして見ている者にとっては、 あらためて強調するほどのことでもないとおもうものの、実は科学における理解の意味をいちばん理解していないのが科学に従事する”先生”たちなのだ。 

≪013≫  このようにひとつずつ科学の”正しい”立脚点をあげていく著者にとって怖いのは、マイケル・ポランニーが「誰もが科学のごくわずかな部分しか知らないので、その妥当性や価値を科学が判断することはできないはずだ」というものである。 

≪014≫  これはいわゆる「暗黙知」の領域の議論とともに科学の横暴な権威の前にたちふさがるには有効な意見であるのだが、著者はこのポランニーの疑問にはぶつからない。科学というもの、べつだんわからない部分があるからといって、それで「正しさ」がなんらの損傷をうけるものではないという立場なのだ。 

≪015≫  すなわち、科学は科学というシステムの中において徹底したコヒレンシーを保てばよろしいのであって、科学の中には見えない領域が広がっているというのは、蒸気機関車が通信能力をもっていないとか、ミキサーでDNAが調べられないと言っているようなものであって、とうてい議論の対象にすらならないという立場なのだ。 

≪016≫  というわけで、本書は科学を少しでも立派にしたい人にとってはまことにうってつけの一冊であり、しかもこれは推薦してあげておいていいことだろうとおもうのだが、さまざまな科学の成果を実にうまく引例して話をすすめているので、一種の最新の科学理論入門書としても一級品になっている。 

≪017≫  だからこの本は科学を知りたい読者にも向いている。ほんとうのところをいうと世の中で「科学を教えている先生」にこそ読ませたい。いろいろな場面で実感してきたことなのだが、「科学がいいものだ」と偉そうに、あるいは慎ましく教えている連中ほど、世の科学書を読まない連中なのである。それだけならまだしも、自分が専門としている科学領域以外のほとんど何も知ってはいないのが、ほとんどの科学者の平均像なのだ。 

≪018≫  つまりは、大半の科学者は自分が携わっている僅かな領域を”科学している”だけであって、科学一般を考えたことがあるわけではないということである。 

≪019≫  それゆえ、ポパーやファイヤーアーベントや村上陽一郎を読むべきは多くの科学者自身なのであるが、めったにそういうことはおこらない。本書がどこかイライラしているのもそのへんだ。きっと科学が正しいワケの説明が、大半の科学者によってなされていないという苛立ちがあるためなのだろう。 

≪020≫  そういう意味では、本書は科学者が科学者自身に向けたとっておきの”虎の巻”である。しかし、読んでいてどこか「言いくるめられている」という気分がするのも拭えない。また、啓蒙主義とロマン主義を避けなければ科学でいられないというのも、実は警戒しすぎである。そんなものを恐れる必要はない。 

≪021≫  湯川秀樹さんはぼくにこう言ったものだ、「ぼくが本当にやりたかった科学は谷崎のようなもんです」と。呆気にとられたぼくを尻目に湯川さんは続けた。「そうや、女の足の指を舐めるような科学やね」。 

≪022≫  それにしても日本の科学教育の現場はどんどんつまらなくなっている。なんとかしてほしい。こんなことをおもうのは、ぼくが科学のギョーカイにいないためだろうか、それとも”科学していない”せいだろうか。 

≪01≫  シーザー(カエサル)は「ブルータス、おまえもか」と言う前に、「ブルータスよ、誤りはわれわれの星にはない。われわれ自身にある」と言った、とシェイクスピアは書いた。この本の主人公のアルヴァレス父子は「誤りは恐竜にはなく、星にあったのだ」と言っている。 

≪02≫  そうなのである。本書は父子二代にわたる話を扱っている。父のルイス・アルヴァレスはとんでもない経歴をもったノーベル賞受賞の物理学者だ。エノラ・ゲイ号が広島に原子爆弾を落とすときに、その横の観測機から原子爆弾の破壊効果を一都市の熔融消滅とともに測定していた。ケネディが暗殺されたときは記録フィルムを詳細に検証して、弾丸がケネディの後方から入った衝撃によってケネディの頭がガクッと後ろに傾くことはありうると証言して、それまでの弾丸前方発射説を覆した。 

≪03≫  ノーベル賞をとったのは大型液体水素泡箱の開発によるもので、アルヴァレスの技術の才能を示していた。そのほかずいぶんいろいろの発明をしていて、たとえば地上誘導着陸方式の発明では、旅客機が視界のきかない豪雨のなかでも安全に着陸できるシステムを世界にばらまいた。 

≪04≫  一方、息子のウォルター・アルヴァレスは地質学者で、この業界では有名な北イタリアのグビオでイリジウムの含有調査とイリジウム時計の異常値仮説で名をあげている。この名うての父子二人が、なんと恐竜絶滅仮説に挑んだのである。本書はその挑戦のドキュメントになっている。 

≪05≫  本書の著者は何者なのかというと、やはり地質学者である。ロスアンジェルスの自然史博物館の館長をしている。これではテーマもテーマだし著者も著者だから、そうとうに堅いか、きっと変に偏った本になりそうだし、実際にも恐竜の話はほとんどなくて、かの偉大なスター、ティラノサウルスすらちょっとしか顔を見せないのだから、退屈な本になりそうなのだが、とんでもない。たいへんに稠密で、しかもスリルに富み、かつ科学者のありかたを考えさせて深い読後感をつくっている。 

≪06≫  ひとつにはぼくが地質や鉱物のドラマが好きだということもあったろう。また、恐竜絶滅を隕石の衝突で片付ける仮説には、いまどきは誰だって関心をもつということもあるだろう。加えて、アルヴァレス父子の話は身近かでは松井孝典からも丸山茂徳からも聞いていたし、ぼくも監修者として参加した高校理科基礎の教科書づくりの親分だった上田誠也先生からも、アルヴァレスとアタマの堅い地質学者や古生物学者との闘いを聞いていたということもある。上田先生は日本におけるプレートテクトニクス理論の最高の権威者だ。 

≪07≫  そういうこともあって、たしかに本書には面倒な物理学と地質学の細部がくまなくはりめぐらされているわりには、ぼくはあっというまに読めたのだが、実際にはこの著者に説得力があり、表層と中層と低層を上下しつつ展開する話の回しかたがまことにうまかったせいで楽しめたのだとおもう。 

≪08≫  翻訳もよかった。練れていた。一字一句をまるで化石に棲む有孔虫類のように生きた日本語にしていた。小説やエッセイはもちろんのことだが、科学書の翻訳は出来のよしあしにかなりの落差がある。困ったことだが、日本語としてどうも変だと感じたら、読まないほうがいいだろう。本書はその点でも一級品である。 

≪09≫  地球の歴史には中生代とよばれる時間がある。古いのが三畳紀、次にジュラ紀で、ここが恐竜が栄えたジュラシック・ステージにあたる。おっちょこちょいのマイクル・クライトンの原作『ジュラシック・パーク』とスティーヴン・スピルバーグの映画以来、いま、この時期のDNAをさがすのが新たなブームになっている。  

≪010≫  ところがその次の白亜紀で、恐竜はすっかり絶滅してしまったのだ。恐竜だけが絶滅したのではなく、地球上のすべての生物種の約70パーセントが絶滅してしまった。このことはあらゆる古生物学者が認めてきたことである。白亜紀に何かがおこったのか。何が原因だったのか。 

≪011≫  白亜紀の次は第三紀で、ここから新生代が始まる。そして第四紀になって、やっと人類の祖先たちが出現する。そういうことになったのは、もともとは恐竜が絶滅したからだ。それなら今日の人類の原罪を語るうえでも、恐竜絶滅がどんな原因によっていたかを知る必要がある。注目すべきは白亜紀か、その終末にある。 

≪012≫  白亜紀(K)と第三紀(T)の境界を地質学ではKT境界という。アルヴァレス父子はこのKT境界で劇的で大規模な地磁気の逆転がおきたのではないかと仮説した。本書のタイトル『白亜紀に夜がくる』は、白亜紀に地球にとっても生物にとっても長くて暗い夜がやってきたことを示している。 

≪013≫  ある日、ルイス・アルヴァレスは息子がイタリア・ペルージャのグビオから持ち帰った岩石とその調査資料を見て、どうも何かがひらめいたようだ。「ここで地球に異変がおきたにちがいない」と。   

≪014≫  こうしてアルヴァレス仮説がスタートを切るのだが、これを科学者たちに認めさせるのが大変だった。本書はほとんどがその摩擦と乖離と毀誉褒貶を描いていて、そこが読ませるのだが、ここでは結論だけをいうと、仮説はおおむねこういう順で、こういうことを証明しようとしたものだった。 

≪015≫  第一に、6500万年前にけっこう大きな隕石が地球のどこかに衝突した。第二に、この衝突によってKT境界に異常がおきた。第三に、その異常は必ずや岩石中のイリジウム異常値に示されるはずである。それならきっと第四に、このイリジウム異常値は隕石によってもたらされたものなのではないか。第五に、もしそうだとしたら、このイリジウム異常値はかつての地球に衝突した隕石クレーターの跡からこそ検出されるのではあるまいか。それゆえ第六に、隕石衝突クレーターの跡からはイリジウム・スパイク(釘のようにとびぬけて高い数値)だけではなく、コーサイト、スティショバイト、テクタイトに似たスフェルールなどの“衝突マーカー”が境界粘土層に見いだせるはずである。第七に、このような衝突の後遺症は案外数百年ないしは数千年にわたってつづくのではないか。 

≪016≫  かくして第八に、恐竜たちはこの時期、すなわちKT境界の影響が地球上に吹きすさんでいるあいだに、死に絶えていったのであろう。 

≪017≫  この見解が発表されたとたん、何人もの大立者から新人の研究者にいたるまで、アルヴァレス仮説に反論が巻きおこる。その一方で、そこを本書は克明に書いているのだが、地質学にまったく新たな研究課題が一挙に噴き出てきて、それに従事する研究者や研究センターが次々に生まれていった。つまりは大騒動になったのだ。   

≪018≫  ただし、最大の難点があった。いったいそうした隕石が衝突したのだとしたら、それは巨大隕石のはずで、それなら地球のどこかにそうした巨大な衝突跡があるはずなのに見つからないではないか。もし小さくても大量の隕石がいっせいに襲ってきたのだというのなら、その跡がなさすぎるではないかというものである。 

≪019≫  このような難点があったにもかかわらず、1980年に突然に発表されたアルヴァレス仮説は、地質学を変えてしまったのだ。仮説が衝撃的だったというよりも、そこに提示された研究調査の多様性が地質学の本質にことごとくぴったりしていたからだった。トマス・クーンの言葉でいえば、まさにパラダイム・シフトがおこるようにアルヴァレス仮説はできていたのだった。 

≪020≫  こうして、各地で各大学で各研究所で、一斉に新たな地質学パラダイムのための調査や研究が連打されることになる。 

≪021≫  たとえば衝撃力をどのようなインディケーターで見るかとか、強大な衝撃によって石英などが変成をうけたとすると、その変成作用を何で認知するかとか、KT境界時代にはほかに何がおこったと仮説できるかとか、たとえばインドでおこった巨大な火山連続活動から何を報告すべきなのかとか、ジルコンという物質が注目を浴びてきたのだが、そのジルコンと地球の歴史にはどんな因縁があったのかとか、ともかく信じがたいほどの数と質のおつりが生まれていった。 

≪022≫  そのうち、ついに決定的な符牒があがってきたのである。それは、最初こそ巨大隕石が落ちたのは北米アメリカだろうという程度のものだったのだが、それが多くの研究者の報告が多重交差することによって、たちまちにしてその巨大隕石の衝突現場がユカタン半島に絞られ、さらにはチチュルブであろうということになってきたのだった。 

≪023≫  いま、巨大クレーターがチチュルブにはないと見る研究者はほとんどいない。アルヴァレス仮説はついに最後の“現場”にまでその仮説を運んできたのだった。ぼくがアルヴァレス仮説の話を聞いたのは、天文学者や地質学者や古生物学者がやっとチチュルブに注目しはじめたころだった。 

≪024≫  隕石衝突説は科学の檜舞台に躍り出た。では、それまではどういう仮説がこの独自の見解を押しのけていたのかというと、それを恐竜絶滅原因説で分類すると、次のようになる。すこぶる興味深い。みんながみんな、勝手な推理力を駆使して恐竜絶滅の謎に挑んでいたのだ。 

≪025≫ 

(1)恐竜は椎間板のすべりなどの身体上の大きな障害、あるいは流行性の疾患によって絶滅したのだろう。 
(2) 恐竜は老化性の過剰特殊化によって進化的浮動に突入したにちがいない。
(3) 恐竜は他の動物、とりわけ哺乳類との競争に敗れた。 
(4) きっと恐竜にとって不適切な植物相が繁茂したのであろう。 
(5) いや、恐竜はあまりに急激な気候変動についていけなかったのだ。 
(6) 恐竜は気候変動には驚かなかったけれど、酸素の濃度の急上昇か二酸化炭素の濃度の急低下に対応できなかったのである。 
(7) 白亜紀に海洋が後退したことはわかっているのだから、北極海から大量の冷淡水が大西洋に流れこみ、旱魃を引きおこしたために恐竜は耐えきれなかった。 
(8) 火山活動が激しくて、噴出した煤や火山灰が恐竜を致死に追いこんだ。 
(9) もし、以上の原因のいずれもが妥当ではないとしたら、もはや原因は地球外の超新星爆発や彗星接近に求められることになる。 

≪026≫  みんながキリング・ストレス(殺戮圧)をいろいろ想定し、みんなが隕石衝突説ほどには多様な研究課題を突きつけられなかったのである。

≪027≫  最近では、アルヴァレス仮説で説くところが「白亜紀に夜がやってきた理由」のすべてではないこともわかりつつある。その後、またまた1ダース以上の仮説が出され、ぼくはなんとも判定しがたいが、そのいずれもがなかなか魅力に富んでいる。炭酸ガス飽和水説、台地玄武岩噴出説、地球深層メタン説、フルテキサイト細菌説、どれもがぞくぞくするような殺し文句をもっている。 

≪028≫  また、いまでは白亜紀と第三紀のあいだのKT境界期だけではなく、少なくとも5回にわたる大絶滅事件が地球上の生命を襲ったことがわかっていて、そのいずれに対しても仮説が提出されるにおよんでいる。仮説は目白押しなのだ。 

≪029≫  太陽系が銀河面を通過する周期と恐竜絶滅が関係しているという仮説も知られるようになった。しかしながら、と本書はトマス・クーンの有名な言葉を引きながら結ぶ。学問や科学が新しいパラダイムを迎えるのは、若い世代が仮説を提出しつづけるか、旧知の領域から新たな分野に参入した者による仮説が凱歌をあげるかの、2つに1つなのである、というふうに。 

≪030≫  広島に落ちつつある原子爆弾を観測していた父と、岩石狂いの息子の二人によって地質学がすっかり変わったと思いたくはないのだが、本書はそのようにしてしか科学は革新されないのではないかということを告げていた。