日本人とは何か 山本七平著
日本人と「日本病」について 岸田秀×山本七平著
日本という方法 松岡正剛著
まず「おもかげ」についての歌をあげます。
『万葉集』巻三に、「陸奥の真野のかやはらとう けども面影にして見ゆといふものを」という笠女郎の歌がある。大伴家持に送った歌です。実 際の陸奥の真野の草原はここから遠いから見えないけれどそれが面影として見えてくるという 歌です。 もう少し、深読みすると、いや、遠ければ遠いほど、その面影が見えるのだとも解釈でき る。「面影にして見ゆ」という言い方にそうした強い意味あいがこもっています。
家持が女性に贈った歌にも面影が出てきます。「かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかも せん人目しげくて」。家持が坂上青梅郎女に贈っている。人目が色々あってなかなか会えない けれど、面影ではいつも会っていますよという恋歌です。
また紀貫之には「こし時と腰つつ居 れば夕暮れの面影にのみにわたるかな」という歌がある。今来るぞ、もう来るぞと思っていれ ば、恋しい人が夕暮れの中に浮かんでくると言う歌意でしょう。これもまるで、面影で見た方 が恋しい人がよく見えると言わんばかりです。
今引いた三つの歌は、目の前にはない風景や人物が、あたかもそこにあるかのように浮かん で見えるということを表しています。これは突然に何かが幻想として出現したとか、イリュー ジョンとして空中に現出したということではありません。そのことやその人のことを、「思え ば見える」という、そういう面影です。 プロフィールといっても人とは限らない。景色もあれば言葉もある。思い出や心境もある。 それゆえこの面影は美しいこともあれば、苦しいこともあります。『更級日記』の作者は、 「面影に覚えて悲しければ、月の興も覚えずくんじ臥しぬ」と、面影が見えることが恋しくて 眠れない様子を綴っています。面影が辛いのです。
26 08 次にうつろいの歌を見てみます。「うつろい」は古くは、「うつろひ」と表記し ます。再び『万葉集』を引きますが、「木の間よりうつろふ月のかげを惜しみ徘徊に小夜更け にけり」という作者未詳の歌があります。早くも「月のかげ」という「かげ」が出てきまし た。歌の意味は、木々の間から漏れる月影を見ているうちに、小夜が更けたということです。
ここで「うつろふ」と言っているのは、月の居所が移っているということで、その移ろいに応 じて自分の気分も移ろっているわけです。ではもう一つ、また家持の歌。「紅はうつろうもの ぞつるばみのなれにし衣になほしかめやも」
27 02 このように「うつろい」はつきかげや花の色の変化の様子を示しています。とい うことは、元々の「うつろい」の意味は日本人が「かげ」や「いろ」の本質とみなしたものと 関係があるようなのです。すなわち、一定しないもの、ちょっと見落としているうちに変化し てしまうもの、そういうものに対して「うつろい」の意味は日本人が「かげ」や「いろ」の本 質とみなしたものと関係があるようなのです。すなわち、一定しないもの、ちょっと見落とし ているうちに変化してしまうもの、そういうものに対して「うつろい」という言葉が使われて いる。容易に編んでアイデンティティが見定めがたい現象や出来事、それが「うつろい」の対 象なのです。
21 18 これらの言葉の使われ方をよく見ていると、対象がその現場から離れている時、 また対象がそこにじっとしていないで動き出している時に、わざわざ使われていることに気が つきます。すなわち面影が「ない」という状態と面影が「ある」という状態とつなげているよ うなのです。つまりは「なる」というプロセスを重視しているようなのです。 私はそこに注目します。
この「面影になる」ということは、そこに「面影がうつろう」とい うこと、「ない」と「ある」を「 なる」がつないでいることに注目するのです。そこに「日本 という方法」が脈々と立ち現れていると見るのです。