2024 年 10 月 30 日(水)
第2013 回例会 VOL.44-No. 13
2024 年 10 月 30 日(水)
第2013 回例会 VOL.44-No. 13
◆会長の時間◆ 会長/金山 茂雄君
こんにちは、本日はロータリーの父と言われる米山梅吉の話を少ししたいと思います。米山梅吉は慶應4年(1868/9月8日より明治)2月4日、大和国高取藩士、和田竹造の三男として東京芝田村町(現在の新橋付近)の同藩中屋敷に誕生したそうです。江戸住まいを考えると、父親は士族としてなかなかの身分であったようです。しかし梅吉が4歳のときに父親が他界し、梅吉は母の故郷である三島に移ったそうです。
梅吉の母は伊豆三島神社の宮司の娘さんでした。神官は当時の知識階級でもあり、梅吉は教養レベルの高い家庭環境で育ち、年少ながらも漢学の素養を得ていたといわれています。 その和田梅吉は11歳で三島の旧家、米山家の養子になることが決められていたそうです。
明治14年(1881)、梅吉少年は沼津中学に進学しました。同校は幕府時代の沼津兵学校の後身で旧幕臣の学者らが教師を務め、地方とはいえレベルの高い教育機関であったそうです。梅吉には文筆の才能があり、後にジャーナリストを志したほどですが、そうした基礎はこの頃に身につけたものであろうといわれております。 しかし、梅吉には当時悩みがありこのまま三島にいては米山の旧家を継がねばならず、地主として一生を過ごすことになってしまう、しかし梅吉は東京に行って、さらに高いレベルの勉強をしたいという願望があったようです。そこでついに覚悟を決めて、ほとんど家出同然に米山家を飛び出してしまったそうです。 東京では江南学校というところに入ったものの、ここでの勉学は沼津中学ほどの満足が得られず、梅吉はすぐに退学してしまったそうです。そして食べていくためには働かなくてはならず、東京府の吏員採用試験を受けて一時的に就職したそうです。
そしてこの頃に藤田四郎(後に農商務長官、貴族院議員)という人物との出会いがあり、それがやがて梅吉の運命を大きく変えることになりました。東京府の吏員をしているときに、米国では働いて学資を稼ぎながら大学に通えることを知り、渡米しようという気持ちが膨らんでいきました。吏員をいつまで続けていたかは不明ですが、この時に、一旦飛び出してしまった米山家との間で修復を図り、明治20年(1887)には正式に米山家への入籍を果たしました。以後、和田梅吉は米山梅吉を名乗ることになりました。
米山家に対する憂いのなくなった梅吉は、明治21年(1888)に渡米。スクールボーイと呼ばれる働きながら大学に通えるシステムを利用し、オハイオ州のウェスレアン大学やニューヨーク州のシラキュース大学などで学びました。そうして滞米生活は8年に及び、明治28年(1895)、日本が日清戦争に勝利した年に帰国しました。 時間となりましたのでこの続きは次週にお話しいたします。以上会長の時間でした。
◆幹事報告◆ 幹事/管野 孝司君
1.情報集会を12月末までに行って頂きたくグループメンバーをお知らせします。
第1グループ:リーダー 土門
秋森 藤井 廣石 平井 本間 井口 井上 伊藤(卓巳) 伊藤(淳)
第2グループ:リーダー 石井
唐津 加藤 草薙 是次 栗山 松下 中島 中原 荻原
第3グループ:リーダー 大河原
岡田 長田 折笠 栄枝 斉藤 佐藤 鈴木(豊)鈴木(美香)
第4グループ:リーダー:関口
田島 谷口 内田 山本(昌吾) 山本(晴章) 義澤 渡辺 とします。
各リーダーの皆様宜しくお願い致します。
2. 地区の方からのお知らせです。米山学友会主催「クリーンキャンペーン」の案内が来ておりますが、 日にちは11月17日(日)10:00片瀬江ノ島駅集合です。 参加希望の方は幹事までご連絡下さい。
◆卓話◆
「米山奨学について」-米内山奨学委員長/本間 健士君
自由投稿欄(テキスト・写真・動画等)
■会長 金山 茂雄 ■副会長 中原 貴志 ■会長エレクト 𡈽門 明哉
■幹事 管野 孝司 ■会計 廣石 隆太 ■会場監督 岡田 亘弘
□例会場 チャイニーズガーデンレストラン 新福記
□事務局 相模原市南区相模台3-11-8(株)秋森商鋼内Tel.042-748-7624 Fax.042-705-6624
□国際姉妹クラブ 台湾:台北敦化ロータリークラブ
□友好クラブ 伊豆中央ロータリークラブ