2018年10月28日に埼玉県の川越周辺の史跡を巡ってきました。集合場所は川越駅とそこそこ遠いところであったため、全員揃うのか不安でしたが無事に集合時刻に集まりました。では当日の行程を書いていこうと思います。
まず、川越駅から光西寺に向かいました。この寺は最後の川越藩主の菩提寺であった寺です。この寺を5分ほど見学した後、近くにある中院を見学しました。中院はもともと無量寿寺という寺の一部でしたが、同じく無量寿寺の一部であった喜多院が家康の帰依を受けると独立し、中院も独立したものの喜多院と比べ少しさびしい感じがしました。
そして、川越歴史博物館に向かう途中で、喜多院、中院と同じく無量寿寺の一部であった南院の跡地がありました。南院は無量寿寺が分解した後、衰退していき明治期の廃仏毀釈によって廃寺となりました。跡地は墓地のようなものがありましたが荒廃した様子でした。
その後、仙波東照宮に行きました。仙波東照宮は1617年(元和3年)に遺言通り家康の遺骸は久能山から日光に移されるときに、法要が営まれたことの縁により1633年(寛永10年)に、喜多院境内にたてられた東照宮です。現地のガイドの方に解説していただきました。
次に見学した川越歴史博物館は川越の歴史的なものを展示しており、火縄銃などを見させてもらいました。
次に、有名な喜多院を見学しました。喜多院は前述の通り、無量寿寺の一部であった寺で、かの有名な南光坊天海が住職を務めたことで発展しました。行った印象としてはかなり大きく、また七五三の客を多くかなり賑わっていて、中院、南院との違いを感じずにはいられませんでした。
その後、川越氷川神社はさいたま市の氷川神社から分祀されたもので、城下の守護神として歴代藩主から加護を受けました。このときは七五三の季節ということもありかなり混んでいたのであまり見学できませんでした。
その次に川越市立博物館は川越の歴史を紹介するとともに、江戸時代の川越の城下町の巨大模型が展示されていてとても迫力がありました。
次に川越城の史跡を本丸御殿→富士見櫓跡→中ノ門堀跡の順に回りました。本丸御殿は川越城の江戸当時の様子が伺い知れ、様々な展示や庭園を見ることもできました。また富士見櫓跡には神社があり、そこからは川越の街並みをよく見渡すことができ、中ノ門堀跡はよく再現されていました。
そのあと、蔵造りの町並みの史跡を見ました。例えば、かの有名な時の鐘や川越商工会議所 (国登録有形文化財)、旧第八十五国立銀行本店本館(国登録有形文化財)などを見ました。特に、時の鐘は下に神社があり多くの人でにぎわっていました。
次に連馨寺に行きました。この寺は1549年(天文18年)川越城主大道寺政繁の母が建立した寺です。それなりに整備されており、きれいなお寺でした。
川越市駅に到着しました。全員、無事に巡検を終えることができてよかったと思います。
神奈川県立歴史博物館で特別展としてやっていた「鎌倉ゆかりの芸能と儀礼」の展示や常設展で神奈川県を中心とした歴史を学びました。
韮山は中世から近代にいたるまで、歴史の中心地であり続けた場所です。
平安時代末期には、のちに執権として権勢をふるう北条氏がこの地で勢力を伸ばしました。源頼朝は韮山に配流され、北条政子と結婚。北条氏とともに挙兵し、鎌倉幕府を創設します。今もこの地域には、北条氏の居館跡と伝わる北条氏邸跡、頼朝が配流された地と伝わる蛭ヶ小島、頼朝が奥州征伐の成功を祈願して創建した願成就院など、頼朝や北条氏ゆかりの史跡が残ります。
時代は下って戦国時代。関東地方では鎌倉(古河)公方と関東管領上杉氏の対立が激化します。上杉氏を支持する幕府は、上杉氏の正当性を担保するために新たな公方として足利政知(将軍足利義政の弟)を送り込みます。しかし関東に入る直前で上杉氏と古河公方が和解してしまったため、政知は行き場を失い伊豆一国を与えられて韮山の堀越というところに居を構えます。これが堀越公方です。
政知の死後、潤童子が後を継ぐことになっていましたが、異母兄足利茶々丸がこれを殺して継承。しかし伊勢宗瑞(北条早雲)によって攻め滅ぼされてしまいます。韮山を制圧した宗瑞は韮山城を居城と定め、跡を継いだ北条氏綱が居城を小田原城に移すまで居城として機能しました。氏綱が小田原城に移った後も北条氏の重要拠点として機能し、豊臣秀吉の小田原攻めの際には攻め手の10分の1以下の兵力で4か月以上を凌ぎました。
江戸時代には武蔵・相模・伊豆・駿河などの天領を管轄する韮山代官所が設置され、代官職は江川氏が代々世襲しました。幕末の代官江川英龍は大砲の製造工場である韮山反射炉を建造したことで知られています。韮山反射炉は全国にある反射炉の中でも特に保存状態が良く、「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産にも登録されています。
このように韮山には様々な時代の史跡が残っており、どの時代が好きな人も満足できる場所になっています。皆さんもぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。
2月10日、伊勢原巡検に行ってきました。
伊勢原駅に集合してまず目指したのは扇谷上杉氏の拠点であった岡崎城です。城好きな部長が「この城は規模が大きいから長めに見よう!」と言っていたことを信じ、長めに見学時間を取ったものの、一部の遺構がやぶの中にあったため、見学を途中で断念しなくてはならない事態に⋯(見ることができた遺構はきれいに残っていましたが)
太田道灌の首塚や高部屋神社を見学後、我々は扇谷上杉氏の居館であるという説が浮上している丸山城へ行きました。現在は公園として整備されていますが、遺構は見えやすくなるような工夫がされていました。
その後、バスとロープウェイを使って大山阿夫利神社と大山寺へ行きました。ここは、源頼朝が太刀を奉納するなど、鎌倉時代から信仰されてきた由緒ある寺社です。ちょうど御開帳の時だったので、国宝の本尊を見ることができました。
全体的にバス移動が多い巡検でしたが、無事に終えることができてよかったと思います。
3月、歴史研究部では家康臨終の地であり晩年の居城であった駿府で二日間の合宿をしてきました。
まず宝台院に向かいました。宝台院の本尊である阿弥陀如来立像(右画像)は増上寺の「黒本尊」と並び、家康が常に守り仏として持っていたものと伝わります。
続いて向かったのは徳川慶喜が明治期に住んだ屋敷跡で、今は料亭となっています。かつては静岡代官所がおかれた場所です。
さて、いよいよ本日のハイライト、駿府城です!駿府城は今川氏の屋敷跡に、徳川家康が築きました。家康は北条攻めにより江戸にうつりましたが、やがて将軍を退いて大御所となったのちに、再び駿府に城を築いて隠居城と定めました。これにより一時、駿府は日本の首都のごとき様相を呈しました。
近年の駿府城は発掘や整備、復元などが進行しています。左写真の巽櫓(左前)・東御門(右奥)や、坤櫓などが木造で復元されました。
次に静岡浅間神社(左写真)に向かいました。静岡浅間神社は歴史の古い神社で、鎌倉幕府や今川氏、徳川幕府など、多くの権力者の庇護を受けました。多くの社殿が国の重文や国宝に指定され、また多くの貴重な宝物が残されています。
次に向かった瑞龍寺は、家康妻で秀吉妹の旭姫を弔うために建てられました。
二日目は、駿府から東に行った方面を探索しました。
まずは寺からでして、蓮永寺、龍雲寺、菩提樹院といった寺をまわってきました。これらの寺は全て徳川家に関係するものです。
寺の次は、久能山東照宮がメインです。久能山東照宮は日光東照宮のつぎに重要な東照宮でして、駿河湾に面した高い久能山の山頂に位置しています。右上図は久能山から撮った海の景色であり、右下図は東照宮の権現造りであります。
そして最後に登呂遺跡を訪れました。二日間無事に終わることができました!
5月、歴史研究部では、徳川ゆかりの寺社を中心に、東京に残るいくつかの寺社・史跡などを巡る巡検を実施しました。