おいたち
戦前・戦中
私たちが住んでいる小仲台一帯の土地は、昭和の初めまでは園生町や小中台町の農家の人たちが耕していた畑でしたが、昭和13年、県道北側の部分に千葉陸軍防空学校(昭和19年に「千葉陸軍高射学校」と改称)が四街道から移転してきました。その後、防空学校の敷地は拡張を重ね、県道南側の私たちの住んでいる区域は演習場として利用されるようになりました。しかし、昭和20年8月15日、ポツダム宣言の受諾により、太平洋戦争は終結し、防空学校は開校よりわずか7年で幕を閉じ、演習場跡地は、ところどころにコンクリートでできた円形の高射砲銃座や、頑丈な防空壕、空襲によってできた深さ数メートルに及ぶ大きな穴などが残されていました。
戦後
公営住宅の建設
政府は、戦災等による深刻な住宅不足を解消するため、和 20年 9 月に罹災都市応急簡易住宅建設要綱を閣議決定し、様々な住宅対策を講じました。その要綱に基づき、千葉県では千葉県や住宅営団などにより千葉市と銚子市などで公営住宅の建設が始まり、千葉市では椿森(鉄道聯隊跡地)と小中台町(県道南側の防空学校演習場跡地)に建設が始まりました。昭和21年春頃、現在の小仲台2丁目11番と12番に27戸(建築面積:6.25坪)、昭和22年には281戸(建築面積:8.25坪)の公営住宅が建設され、私たち町の第一歩が踏み出されました。(公営住宅の精密な復元模型が小中台公民館の1階ホールに展示してあります)
街区構成と道路
街区は、概ね8区画から14区画(1区画の敷地面積は70坪から80坪)で構成され、広い敷地では鶏を飼ったり今でいう家庭菜園として利用されていました。道路は、県道は幹線道路として幅員20m、南北の補助幹線道路は8m、東西の区画道路は6m、交差点の隅切りの長さは4mとして決定・整備され、街並みの原型が完成しました(当時の県道の整備幅員は7m(道路用地は20m)でしたが、昭和38年に幅員20mの整備が始まり、舗装工事が完了したのは昭和41年でした。区画道路の舗装は、昭和36年から昭和52年にかけて実施されました)。まだまだ車の少ない時代で広く感じられた砂利道の道路では子供たちが”ベーゴマ”や”メンコ””ビー玉”、”かくれんぼ”などに興じていました。
自治会の誕生
昭和22年7月19日、当時は治安が悪いため交番をつくろうと”住民大会”を開いたところ、交番をつくるのもよいが、近所隣が仲良くするためにも隣組のようなものを造ってはとの意見が続出し、自治会をつくることに決定しました。名称は1週間話し合い、当地区東部の新々山と西部の向ケ原の字名の頭文字を取り”新向会”と名付けました。同年7月23日、留守業務の兵舎跡で創立総会を開き、新向会という自治会が産声を上げ、初代会長に林三蔵氏(故人)が推され就任しました。
小中台町から小仲台へ
町名は昭和40年1月1日の住居表示により「小中台町」から「小仲台」に改められましたが、新町名「小仲台」は、住民が仲よく暮らせるようとの願いをこめて、「中」の字を「仲」に変えました。小仲台新向会自治会は、住居表示以前から「小仲台」という名称を使用しており、先人たちの”町内の絆づくり”に対する強い思い入れが伺われます。
参考文献:千葉市小中台町850番地の歴史(市原徹氏(17班)著)
参考文献:新向会30年の歩み(輝かしい満30年の歩み(会長林三蔵))
石 碑
開拓の町小仲台。昭和20年8月15日、日本国は戦争に敗れ350万人以上の戦死病者を出して無条件降伏した。ここ防空学校の跡地に戦災者・引揚者の公営住宅が昭和21年450戸建設された。
それは、六畳と四畳の板張りで、屋根は杉皮とコッパ葦、電燈は20W2ケ、水道は共同で、家賃は80円のこの家に入居できた喜びは今もわすれることは出来ない。
商店も住宅もなかった焼け野原の町、ここ小仲台町に新向会自治会が生まれて今年は30周年を迎えた。新向会は戦後の苦難の道を歩み、風雪にたえ、地域社会の発展に努力して来た。
当時50歳の人は80歳、新向会創立以来400有余名の会員が死去、3000人以上の子供が誕生し、新向会は親子4代の歴史と故郷が造られて来た。その間「美しい町づくり日本一」「蚊とはえのいない町日本一」で環境庁、読売新聞社や厚生大臣から表彰を受けた。
いま新向会会員は1200有余名を数え、日本で一番古い歴史と伝統を持つ名誉ある自治会となった。
私は会長として31年間会員の皆様と共に苦難の道を歩みつづけて来た。この道を反省し今昔の感に堪えない。
ここに新向会30周年を迎えるに当たり千葉市と日本国の繁栄を祈りて記念碑を建立した。
願わくば我れ我れの子孫が大樹として大空にそびえ立つと共に新向会自治会がいつまでも仲よく続くことを念願するものである。
昭和52年10月1日
新向会自治会創立30周年記念
新向会自治会々長 林三蔵
進みゆく新向会に日が照りて 我れ歩みゆく人の道辺に
昭和20年8月15日終戦の日ここ小仲台町850番地周辺8万坪は陸軍防空学校、高射砲学校の跡地、千葉県知事川口為之助氏及び日本政府は千葉県に本籍又は縁故のある引揚者戦災者を入居させる公営住宅450戸を、昭和21年5月建設した。当時占領軍は、町内会、自治会を禁止していたが住宅も商店もない焼け野原のこの地区は治安が悪く住民は明日の米代にも困っていた。
我々は自治会を造るべくCIC米軍ワイコフ中尉(女性)に陳情した。幸い許可を得、新々山、向ヶ原の地名の頭字をとって新向会自治会を昭和22年7月結成。以来今日まで(1200世帯)37年間、新向会は、新しい町造りに精魂を打ち込んで来た。
(中略)
37年間に千数百名の会員が死亡 役員も千名以上変わり、二世、三世の時代となった。
ここに記念碑を建設し後世に伝えたい。
うつり行く 時のまにまに おくれしと 学び進まん 新向会の朝
昭和59年1月18日
千葉市小仲台新向会自治会