常に忙しくて疲れていました。とにかく伝道伝道でめったに家にいることはありませんでした。楽園に入ってしたいことは、一日中ぐっすり眠ることでした。
私は28年間エホバの証人でした。当時世の中で悪が行われているのを見て「神がおられるなら、なぜ悪を許しておられるのか」と考えていました。そこへエホバの証人が伝道でやってきて、「聖書の真理がわかりますよ」と言ってテキストを配布していましたので、私はすぐに求めて一気に読んでしまい、そこに書かれていることが真理だと簡単に思い込んでしまいました。
すぐに集会に出て、集まっている人たちがみな整然と聖書を開き、講演者の話を聞いている様子を見て、「世の中に、こんなに純粋に真剣に聖書を読んで生活している人たちがいるんだ、これこそ清い組織だ」と思ってしまいました。
夫と幼い子供たちの4人暮らしでした。週に2回の聖書研究を行い、5ヶ月後にはバプテスマを受けたいと思って司会者に話しましたが、「週中開かれている、別の集会にも定期的に出席する必要があるので、まだダメです」と言われ、夜の集会に出られるように努力しなければなりませんでした。週3回の集会に出るようになると、次に「伝道しなければバプテスマは受けられません」と言うので、伝道者になりました。さらに今度は、「子供が幼くて、よく訓練できていないのでまだです」と言われたのですが、当時の長老が認めてくれたのでバプテスマを受けました。
しかし、子供が集会中にじっとしていないので、仲間の証人たちから白い目で見られました。「自分は子供の訓練が下手なので、何とかしなければ」と、思い悩んでとても苦痛でした。それで、子供を鞭で訓練するようにと強く教えられました。私としては、子供はのびのびと育てていきたいと思っていましたが、聖書を使って納得させるような教えを受けて、「神がそう望んでおられるのなら、また、聖書が箴言13章24節でそう教えているのだからそうなのだろう」と思い、いいなりに子供を鞭によって訓練してしまいました。実際、仲間の証人たちの中で、よく訓練されている親子が褒められるのを見て、それをお手本にするように教えられていました。
鞭が一番厳しかったのは、1970年代後半〜1980年代前半にかけてでした。集会場のトイレに鞭が置いてあり、集会中子供が騒ぐと案内係が注意してくるので、嫌おうなしに子供の口を手で塞いで、トイレまで連れて行き鞭をしなければなりませんでした。なかなか言うことを聞かない子供は、一度に数十回もたたかれることもざらにありました。体に鞭の跡が残り可哀想だと思い、心の中では「神は子供を懲らしめるのに、本当にこんな厳しいことを要求してるのだろうか」と懐疑心が湧きましたが、「でも、聖書は鞭を使うように言ってるしどうなんだろう」という葛藤が消えず、とても苦しみました。
伝道に出始めた頃、司会者の一言が印象的でした。大勢の人々を目の前にして、「これだけの人がハルマゲドンで滅びてしまうのね」と。それを聞いた時、聖書の音信を知らないでいるこれらの人に、何とか伝えなければと伝道を鼓舞されていました。
しかし、素晴らしい完全な組織だと思っていたのも1年くらいで、そのうちに仲間の信者の言動につまずくようになり、その解決のために長老に相談しても、納得のいく答えは聞けませんでした。私は長い年月、そのつまずかせられた人に対して許せない感情を抱いていましたので、心にはいつも引っかかるものがあり、人を許せない私は神から愛されていないに違いないと思っていました。その人のことでいつも負い目を感じていました。
年に一度の地域大会と年に二度の巡回大会では、いつも熱心な奉仕者になるように教えられ、長年開拓奉仕を続けてたくさんの人を弟子として導いた人々が、経験談を話すのがハイライトでした。開拓者は尊敬の眼差しで見られていました。そのようにして、伝道時間が少ない伝道者はいつも励まされていました。
しかし実際は、開拓奉仕をしていない伝道者は開拓者から蔑まれていて、そういった経験を聞かされるたびに、心の中は劣等感でいっぱいになりました。「私はエホバ神のために十分働いていない。もっと働かなければ。楽園が来る前に一人でも弟子を作りたい」と思うようになって行きました。そうした劣等感を埋めるためには、奉仕活動に熱心にならなければなりませんでした。
ものみの塔協会は、半年に一度巡回監督を遣わして、伝道に力を入れるように会衆を教えて行きました。伝道のために、神権宣教学校と奉仕会の集会が設けられていて、徹底した訓練が施されていました。協会によって用意された新世界訳聖書の付録には、話し合いのための聖書の話題があり、それを用いて家の人と話さなければなりませんでした。ですから、少々無理があってもこの思考枠で考えなければならず、自分で考えることはできませんでした。
その中の一つの「イエス」という見出しの元に三つの項目があり、その一つは、イエスを信じる以上のことが必要というのがあります。信仰には業が伴わなければならないとあって、根拠となる聖句が挙げられていて、それをエホバの証人向きに解釈して、「伝道が必要、全てのエホバの証人は王国の良いたよりの伝道者でなければならない」と、伝道を義務づけているのです。
開拓奉仕は素晴らしいといつも聞かされていましたが、実際苦痛となっていきました。家事と子育てと開拓奉仕を、平衡をもって行うために苦闘しました。でも結果はいつも月末に時間が入らず、年度末には要求時間が満たせなくて、ついに長老から開拓を降りるように告げられました。開拓奉仕が支えだった私には痛手でした。神経も体もヘトヘトに疲れているのに、労をねぎらう言葉もありませんでした。
その頃出されたものみの塔誌の中に、「神聖な奉仕を神に捧げる」という記事があり、「家事や家族の世話も神聖な奉仕の中に入るけれど、最も大切な奉仕は宣べ伝えること」と書かれていました。私は「どうして伝道時間だけが時間で計られ、その人の価値として測られるのだろう。人それぞれ家庭の事情とかあって多く奉仕できなくても、すべての事は神に捧げられる神聖な奉仕なのだから、時間で奉仕を測るのはおかしい。その要求を時間で課して人の価値観を測るなんて、エホバってずいぶん過酷な神なんじゃないかな」と感じました。そして開拓を降りると、なんだか人生の落伍者のような心境になり、仲間から蔑まれているのを感じました
家事は十分に行えないし、子供達と一緒に過ごす時間もほとんどなく、ただいつも子供達とは、集会のための予習をしたり、集会に遅れずに出席させたり、伝道に一緒に伴ったりさせるために、時間に追い立てられていました。「もう限界だから開拓を降りたい」と司会者に話した時には、「開拓奉仕をしてる方が子供は立派に育つ」といい切られ、私の心は複雑な思いで、思わず涙が流れていました。それでも「神のご意志を行えば神は喜ばれるのだから」と思って、一生懸命自分にムチ打って奉仕しました。
しかしそうした開拓者の子供達は、中学高校を卒業する頃はほとんどが会衆と交わらなくなり、組織から離れてしまっていました。1990年代に入ると別の深刻な問題が起こってきました。伝道者が増加した反面、留守の家が多くなり、エホバの証人に関心を示す人がほとんどいなくなると、関心を示した家の人に複数のエホバの証人が再訪問をして、研究がダブったり研究生の奪い合いになったりしました。そうしたストレスのため、体調を崩してしまい、その状態は10年近く続きました。しかし引き続き集会だけは出席していました。協会は「エホバの地上の組織は神の母のようなもので、私たちが困難な時代を生き抜くために優しく世話してくれるので、ここを離れないように。離れたら滅ぼされる」と教えられていたからです。
数字ばかり重要視するのは組織の体質で、良い人格を身に着け霊的な人になりましょうとは言葉だけで、開拓者に限って、威張ったり弱い人を見下げたり、中には長老を自分の思い通りに操って動かす人もいましたから、そういうことは問題ではないかと、長老、巡回監督に直訴したのですが、なしのつぶてでした。支部に手紙を書こうとすると仲間の信者に止められました。しかし、支部委員に直接会う機会があったのですが、開拓者の肩を持ち礼賛するばかりでした。そのような支部の指導者にもとてもがっかりしました。
また、主人を救うためにはやはり主人も聖書研究をして、エホバの証人になる必要がありましたから、家庭で良い行状を示し、霊の実を表し、良い妻にならなければなりませんでした。しかし本当に関心がないと分かってくると、私は「夫はヤギだから、つまりハルマゲドンで死ぬ側になるのだから」というふうに諦めて裁いていました。
一般の書店やキリスト教の書店で売られている聖書や、聖書に関係した本などは、背教者の文書なので一切読まないように、もしそういう文書が送られてきても、捨てるように組織は教えていました。「私たちは、神の組織であるものみの塔協会が発行する出版物によって、霊的に養われているので安心です」という文面が載せられていました。そのように情報統制がしっかり敷かれていました。
「ハルマゲドンは近い、だから目覚めていなさい」といつも組織は言っていました。でもいつまでたっても来ませんでした。1975年2月から研究を始めたのですが、そのとき確かに研究司会者は、「まもなくハルマゲドンが来て地上は素晴らしい楽園になるから、急いで行動する必要がある」と言っていましたから、私の感覚としては、黙示録21章4節の成就が間もなくあるものと思っていました。しかし76年になると、その雰囲気も失われていました。76年の秋のものみの塔誌では「時に関する調整の取れた見方」という記事が載って、「見解が変わった」という風に書かれていたのが印象に残ります。その後、「組織の見解が変わるのは、組織がより一層神の光を受けて精錬されてきている証拠だ」と言っていたので納得してしまいました。
子供も良い伝道者にするため、幼稚園にも入れず、部活にも入れず、塾にも通わせず、大学進学も勧められませんでした。誕生会、クリスマス会、七夕、運動会の騎馬戦などもしてはいけないことになっていました。そのため学校に馴染めない子として、クラスの子ばかりでなく先生にもいじめられ、子供自身にとっても本当に苦しい思いをさせてしまって申し訳なく思っています。
1990年代後半になると、鬱病にかかる人がとても増えていきました。真理を知って喜びにあふれていていいはずのエホバの証人に、なぜこれほど鬱病の人が多いのだろうと、とても不可解に思えました。エホバの組織の中には問題がいっぱいで、霊的パラダイスなどなかったというのが本当でしょう。
1985年6月6日、川崎で男の子がトラックに轢かれて救急車で病院に運ばれるも、両親がエホバの証人だったために、輸血を拒否して死亡するという事件が起きました。その年の秋、巡回大会でそのお父さんが経験を語った時、会場では拍手がありましたが、私の息子は「緊急の時、輸血を拒否してまで信仰を貫くのは殺人行為だ」と言って、拍手はしなかったそうです。私にも「このような宗教は間違いだ、ものみの塔は間違いだからすぐ出るように」と息子は強く言ったそうですが、その時の私には全然聞こえていなかったようです。
息子は1988年の秋に反抗して、組織と一切交わらなくなりました。その頃から息子と私は敵対関係にありましたが、1998年頃、日本のエホバの証人の増加が止まり減少し始めました。組織は「世界中でエホバの証人の数が増加しているのは、エホバが祝福している証拠だ」ということをしょっちゅう記事に載せていたので、おやと思いました。その頃から集会や大会の内容が偏って、同じ内容の事が繰り返し出てきていました。そしてエホバの証人の顔から輝きが消え、大会中も体の具合が悪くなる人が続出しました。集会が退屈でしたが、まさかそんなことは口に出して言えず、悶々とした日々を送っていました。地元の会衆にいることさえストレスになり、評判の良かった隣の会衆に移って心機一転を図りました。
ある時、息子が再び大ちゃん事件のことを取り上げて、「ものみの塔は、聖書に書かれていない輸血拒否という教理によって、神の名を冒涜している」と強く言い張って引きませんでした。「ヨハネ6章56-66節の聖句を、ものみの塔が間違って解釈している。聖霊に対する冒涜は赦されない」と言ってきました。私はその時はものみの塔の言ってることの方が正しいと思っていたので、息子をなんとか説得しようとして、ものみの塔協会の出版物を用いて説明しました。それでも息子には勝てず、出版物を調べ直したりしてみました。しかし幾ら血の項目を調べても、答えは輸血を拒否するのが正しいかのように書かれていました。息子は何かに誤導されているのではないかと思い、息子の部屋を調べてみたところ、ある教会の牧師が書いた本がありました。それはものみの塔が、背教者の文書として読まずに捨てるように指示している類の文書です。ふと手にとって私も、それを恐る恐る読んでみました。ものみの塔の文書とは全く観点が違っていました。
その後私自身も、病院で検査を受け手術の必要に備えるために、ものみの塔の最新号の雑誌を注意深く読んでみると、「読者からの質問」で、輸血を拒否するかしないかは本人の決定することだという文章が書いてあるのが見つかりました。そして20年前とは違って、血液の分画成分も OK になっているのです。これらの成分も元はというと、血液から取られているのだから血の一部ではないでしょうか。それなのに分画成分なら良いと言うのです。これに疑問を持ち始めたのがきっかけでした。私が関係した治療法はブラッドパッチと呼ばれるもので、自分の血液を一旦注射針で抜き取り、それを髄液の中に注入するというものでした。それは自己血輸血するのと同じだと考えられましたが、長老はそれも個人の決定だと言ったのです。とするとこの治療法を受け入れるとすれば、私は自分の体の中で一応取り入れることになり、神に裁かれて楽園に入れないのではないかと不安になりました。随分悩みましたが、分画成分も個人の決定で使用して良いのだし、自己血輸血も OK になるのなら、何のための免責証書だろうと思いました。この事を息子に話すと、「聖書は、輸血をしてはいけないなんて書いていないと言っただろう。やっと気が付いてくれたんだね」と言って、「免責証書を急いで捨てるように」と言いました。2003年の夏のことです。
また2003年の春、ものみの塔誌で、「肉のユダヤ人をクリスチャンから切り離す」という言い回しの記事が載り、不審に思い、ユダヤ人という項目でものみの塔の出版物を徹底的に調べてみました。すると以前に読んだ、教会の牧師が書いた本の内容のことは全然出ていないので、ものみの塔の解釈は偏っているなと思いました。更に出版物を調べてみたものの、解釈の出ている聖句に偏りがあり、解釈されていない聖句の意味が知りたくなりました。そこで以前息子の部屋で読んだ牧師の本に急に興味が湧き、注意深く読んでいくうちに、ものみの塔の聖書解釈は私達に都合のよいようにしてあり、ひどく歪んだものであるということが分かってきました。それで本屋に足を伸ばし、いろんな本を探してその中から、エホバの証人に関係した本を買ってきました。それを読んでからものみの塔の文章を読むと、エホバの証人の批判本と思えて恐ろしくなり捨ててしまいましたが、「組織の内容は全て筒抜けになっているんだ」と、とても恐ろしくなりました。時を経ずして息子はさらに数冊本を買ってきて、私に読むようにと勧めてくれました。その中の一冊、「エホバの証人の悲劇」という本を思い切って読んでみました。組織の闇に隠れた部分が書かれていて、ものみの塔は秘密主義の教団だったと分かりました。それから本の後ろの方に書いてある「エホバの証人救済対策本部」とか「被害者全国集会」とか「マインドコントロール」とかいう文字を見て、これは大変なことになっているなと思いました。そして思わず、「エホバの証人が間違いなら、主よ、私は一体どこへ行けば良いのでしょうか」と祈っていました。
そしてついに、2003年11月に長老を呼んで、断絶する旨を申し渡しました。私がどこに行けば良いか迷っていると息子は、「悲劇の本を読んで、エホバの証人問題と取り組んでいる教会に行けばいいんだよ」と言ってくれました。その中で一番近かった教会に、恐る恐る出かけて行きました。夢中でした。それが2004年6月のことでした。その教会では、今まで話すこともできなかった、エホバの証人内部での色々な出来事を吐き出すことができました。皆さんが真剣に聞いてくれました。そして紹介されたのが、元エホバの証人の人達だったのでびっくりし、私と同じように感じていた人たちがいたのかと思いました。
その教会で手渡された本を徹底的に読み、教会の伝道師の方から、エホバの証人の教理と教会の教理の違いについてポイントを教えて頂き、一旦は落ち着いたのですが、すぐにものみの塔の思考パターンに引き戻され、教会の礼拝に出ても何か落ち着かない感じでした。家族関係もギクシャクしてすぐには良くなりませんでした。
しかし時が経つにつれ、さらにいろいろな本を読みながら、 教会の人たちと交わったりしていくうちに、少しずつ落ち着いてきました。8ヶ月ぐらいたった頃、「そろそろバプテスマどうですか?」と元エホバの証人の人に声をかけられ、何かエホバの証人時代と重なる部分があって妙に変な気がしました。ものみの塔の体制がキリスト教会とダブルせいだと思います。それほど教会と見分けがつかないものに、ものみの塔が真似ているんだなと感じました。今でも時々混乱します。
ちょうどその頃私も、バプテスマを受けたいとは思っていましたが、教会でバプテスマ準備会の討議を受けていると、またしてもエホバの証人の組織のやり方とだぶってきて嫌な気分になりました。それで息子に相談すると、自分が行っている教会に相談してみるように勧めてくれましたので、そちらの教会に行ってみました。そこの牧師さんは、「イエスを救い主と認め信じますか?」という質問をされただけでしたので、とても心が軽くなりました。
それと、使徒4章12節の「天の下で、この御名の他に、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです」という聖句が心に思い浮かび、これはキリストのことだと確信することができ、「キリストを信じますか?」という牧師の質問に、「はい、信じます」と答えて、その教会でバプテスマを受け、心の中にキリストを迎え入れました。
過去は取り返せないと言いますが、あえてエホバの証人として過ごした28年間の時間とエネルギーを返して欲しいと思っています。またものみの塔は反キリストだとはっきり言えます。キリストの神聖を否定して、信者をキリストから引き離しているからです。また「信仰だけでは救われない、業が伴っていなければ神から喜ばれない」と言って、救いに至らせていません。常に業へと駆り立てて、余計な重荷を課しています。また巧妙な言い回しの文章を用いて多くの誠実な人を騙し、地上の楽園で生きられると、偽りの希望を抱かせている偽預言者だと思います。ことにキリストの血についてゆがんだ解釈をして、多くの信者を救いの真理から遠ざけています。キリストにではなく組織に信頼を置くよう誤導し、自分たちが神になっています。神の御名を汚している大いなるバビロンだと思います。自分たちこそが光の使いに変容させている、サタンが用いている組織だと思います。聖書と真理を求めている多くの誠実なエホバの証人の、精神的霊的な解放を求めます。特に、エホバの証人の二世の解放を求めます。