専門間対話座談会:第回「分析哲学・メタ倫理学

報告:勢力尚雅

第4回の座談会は2022年2月21日(月)の18時半からZoom上で行われました。今回のテーマは「分析哲学・メタ倫理学」です。分析哲学やメタ倫理学を先導している方や、その手法とは一定の距離をとりつつ研究を進めている方など、中堅・若手の気鋭の研究者6名にお集まりいただき、約1時間45分間、WGコアメンバー4名も含めて、語りあいました。

以下の報告者レビューは、座談会の発言を発言順に正確に再現するための記事でなく、座談会で出た意見を報告者がどう受け止めたかについての報告記事です。当日話題となった事項を、感想をまじえながら、できるだけ多くご紹介したいと思います。

まずは自己紹介を兼ねて、ご自身の関心のある研究テーマについてお話しいただきましたところ、次のようなテーマをご披露いただきました。

①「倫理」ってそもそも何だろう?

:①の問いは次のように紹介されました。「よい」や「正しい」はいろいろな使い方がある。例えば、「数学的正しさ」や「法的正しさ」という使用法もあるが、「倫理的な正しさ」や「倫理的によい」になると何が増えたり減ったりするのだろうか?アイリス・マードックは何でも倫理の問題だというが、倫理ってそもそも何だろうか?倫理学研究は「倫理」が何かわからないまま研究してよいのだろうか?

このような問いに対し、参加者からは、「倫理学とは何かを考えていると、倫理について考えることになるのでは」という応答や、「そもそもは道徳が嫌いだったから倫理学をやってきた」という話、あるいは、「社会的に善い悪いが勝手に決められているにもかかわらず、何かしらの善悪が社会的に機能しているのはなぜだろう?」といった応答も出ました。

「倫理って何?」という問題は、学術的問題としても謎めいていますが、実存的問題としても否応なく襲ってくるということは、前回の「日本思想」の座談会でも出ていたと思います。この問題に上手く応答できない躓きや、この問題に答えていると称する言説への疑念や引っかかりが、倫理学研究の動機となっている人は少なくないのかもしれません。

②「理由」だけでは説明し尽くせない倫理のある側面を「健康」概念で考えられないか?

:②の問いは次のように紹介されました。「ある」ということと「よい」ということは切り離せない。何かがあることを理解するために「よい」ということを使わなければならない気がする。その点と私たちが「倫理」と呼んでいるものとのあいだのつながりをなんとか説明したい。

②の問いに対して、「なぜ「健康」概念なのか?」などと考えの中身を具体的に伺うことなく座談会は進行してしまいましたが、この問いを提示してくださった参加者からは、「何かをよいものと思ってそれを追求することに伴うしんどさを説明できるかなと思っている」という発言もありました。「しんどさ」と「健康」と「倫理」という言葉がどのようにつながるのか、個人的にはとても気になっております。

③行為や発話にまつわる責任とはどのようなものか?

④コミュニケーションのなかで、人が人を支配してしまう仕組みはどういうものなのか?

:④の問いは次のように紹介されました。コミュニケーションという共同行為の中で引きずられたり、支配されたりする現象の研究を通して、分析フェミニズムで語られている「認識的不正義」やさまざまな抑圧の相互作用を研究し、抑圧や差別の問題を考える事例などを提供できないかと考えている、と。

個人的には、③の問いは④の問いと密接につながっているように感じました。私たちは誰かの行為や発話を想起したり、今後生じるであろう誰かの行為や発話を予期したりしながら、何かしらの行為や発話をし、それがまた誰かに影響を与えるという流れの中に巻き込まれながら、何かしらの行為や発話のリアクションをするよう次から次へと迫られています。しかし、だからといって私たちは「自分の行為は、共同行為の渦中で翻弄された結果にすぎず、そこに私の責任は一切ない」と強弁する態度を貫くこともしていません。④の問いは、コミュニケーションを共同行為として捉え、そこで生起する多様な「しんどさ」をもたらす仕組みを解明することを通して、「抑圧」や「差別」(そしておそらくは「責任」)といった倫理的概念を考え直すための事例を取り出そうとする問題意識なのではないかと思い、とても興味を誘われました。

⑤倫理に注目することによって真理や存在について一般的な洞察が得られないか?

:⑤の問いを提示してくださった参加者は、授業でメタ倫理学を扱う際、思考実験をされているそうです。それは、地球人が「道徳」としてやっていることを、「道徳」になじんでいない異星人が理解しようとしたらどういうものになるだろうかという思考実験です。メタ倫理学はこの思考実験のように、外側から見て何を事実としてやっているのか、経験的な仮説を探求することから始まるというのです。しかし、⑤の問いは、このように外側から倫理を見るというスタンスをとは一線を画します。私たちは、内側から倫理を携えて、倫理とともに生きている者の一部として真理をめざす。そのような実践を成り立たせる本質的契機として倫理を考えることで、真理について何かしら考えなおすことができるのではないかというわけです。

⑤の問いを提示してくださったこの方は、「もともと世界や実在は全体としてどういうものなのかに関心があった」と発言されていました。世界や実在の「全体」がわからないまま倫理を携え真理をめざすというドン・キホーテのごとき心許ない探究者としての私たちのありように迫ろうとしているように感じ、個人的に感銘を受けました。

⑥倫理学と経験科学の関係、特に経験科学が倫理の理論構築に役立つのか?

:⑥の問いは次のように紹介されました。一人の人間として、どう生きるべきか、社会はどうあるべきかといった倫理的問いに直接的に答えるのが規範倫理学や応用倫理かもしれないが、そのような問いへの答に客観性があるのかないのか?そして、そのような問いに答えるために経験科学の知見が関係あるのか?

この問いを提示してくださった参加者は、座談会の後半で、上記の⑤の発言をふまえて、次のような興味深い見解も示してくださいました。

「メタ倫理学は、私たちは倫理的実践において何をしているのかを問う。その際、どういう道徳的経験や道徳的現象を経験しているのかが出発点となるが、メタ倫理学者の多くは、その実践はこういうふうに見えるという仮説を出し、そこからどのような哲学的含意(道徳の客観性など)が出て来るかを問う傾向がある」と。

「現象学」をテーマとした座談会の折、「経験を分析しながら現象がどう見えてくるかということを共同作業できる」ことが現象学の特徴だという話が出ていましたが、メタ倫理学者の場合、「その実践はこういうふうに見えるという仮説」の精緻化に留まるのでなく、その仮説がもつ哲学的含意について検討する点に特徴があるというわけです。この発言は、「メタ倫理学」の作業工程の特徴を説明してくれたものとして、印象深く心に残りました。

さて、以上のような興味深い問いの数々を伺った後、コアメンバーのひとりから次のような質問が出ました。

「日本語で考え生活している私たちの日常のなかで以上のような問いを考えていくうえで、英語圏で練り上げられてきた手法や理論はどの程度有効なのでしょうか?」

分析哲学やメタ倫理学の研究手法は言語に依存しないので一切問題ないと一蹴されるかと思いきや、次のような応答がありました。

  • 例えばmeanという動詞の使い方を分析する理論を紹介する際に、meanを「意味する」と翻訳して学会発表しても、日本語でふだん「意味する」という語を日常的に使わないので、なかなか伝わらない。そこで、事例を挙げながら、こういうときどういう現象が起きているのか、言葉の後ろにあるものに迫っていくということを心がけている。そのための手法として、英語圏の分析や理論を参照している。

  • 英語圏だけでなく、ドイツ語圏なども参照しながら、少しでも多角的に考えたいと思っている。海外の議論を参照することの一つの意義は、概念のズレを学べることでもある。

  • 日本語で考えることと外国語で考えることのズレを意識せずにすむ問題を考えてきた。例えば、日本語で「それは真だ」とは数学の問題でもないかぎりめったに言わないが、日本語での機能的等価物を探すことで、trueとのズレを気にせずにすむ。少なくとも形而上学については、ズレを考えずに研究できると思う。

  • メタ倫理学は、「倫理的実践や倫理学とは何か」ということを問うが、その際、考察の対象として異なる言語間で生じ得る概念のズレが問題とならないようなクリアなケースを使う。例えば、「何も悪いことをしていない赤ん坊を理由なく虐待することは悪い」というときの「悪い」とはどういうことなのか。「悪い」とmorally wrongの間のズレが起きないような事例を使って考えている。

  • もともと「reason」(以下、「理由」)という概念がわからないままやってきた。「どうしてそんなことをするの?」と日本語でしゃべった瞬間、責めるような詰問するようなものが入って来る。しかし、ようやく最近になって「理由」概念の自分の中での使いこなしができるようになってきた。自分でもわからず、他人にも伝えられないわからないままきたからこそ、他のことを勉強したり、自分の使っている言葉で考えたり、それとのズレを、いろいろなネットワークを使いながら考えてきた。日本語で考えることに伴い生じるそのようなトレーニングが大切ではないかと思う。他の人の使う、全く見たことのない術語でも、「理由」概念を軸に、その軸と行ったり来たりしながら自分なりに読んでいる。

この最後の意見については、馴染みのない術語で書かれた他者のテキストや思考に対しても、概念の習得を通じて何かしらわかるようになってくる経験として、他の多くの参加者の共感を呼びました。概念を用いることができるようになることで、他のものが見えるようになるということは、文献研究の効用と通じるのではないかとの意見も出されました。

また、日本語という話題と関連して、次のような問いも出されました。

「日本にいるからこそできる分析哲学やメタ倫理学というものがありうるのか?」

「日本語でしか語りえない概念があるのか?」

これに対しては、「あはれ」や「きよし」など、やまとことばのなかにある特有の経験やあり方を研究する日本倫理思想研究との連携の可能性も話題となりました。

そして、言葉にこだわりながら道徳の問題を考える際に心がけているスタンスが話題となった際には、次のような意見が出ました。

  • 道徳や倫理の現象は、道徳語の使用に極まっているわけではない。生活の中には多様な言葉が織り込まれているので、言葉も現象の一部として扱い、生活を見ていくというスタンスで研究している。

さらに、分析哲学、メタ倫理学における研究者コミュニティのありようについて話題となり、これについては、次のような意見が出ました。

    • 分析哲学やメタ倫理学の研究者は、問いを共有している。実質的な意見が異なっていても、問うに値する問いかどうかについての価値判断や、答え方が適切かどうかの基準も大まかには共有している。意見の異なりを解消するためのもって行き方のルールも大まかに共有しているので、よく話せば決着がつくという楽観的な感じでやっている。

    • メタ倫理学は、分析系の最前線でつくられた道具を使って研究しているところがあるので、最前線でピュアに研究している人へのリスペクトもある。

以上のようにスクラムや共闘関係をコミュニティ内で感じながら研究しているという意見もあれば、次のような意見もありました。

    • ファミリーというよりは、いろいろなグループの代表者たちが集まって経営者会議をしているような感覚で(自分自身は自分の属するマイノリティ・コミュニティのほうがあくまで本来の居場所だと思いながら)研究している。

スクラムや共闘についての感覚はこのように多様でしたが、「新しい人が誰でも入ってきやすい場にしたい」と考えながら研究を進めていきたいという意見が出され、これについては参加者の多くが賛同し、今回の座談会を閉じました。

以上のように、今回の座談会もまた、ご自身の研究スタンスを自省しつつ、それを言語化するようにお願いし、そこから出てきた発言に耳を傾け合う時間となりました。参加者のみなさまは、そのような面倒な作業にお付き合いいただき、互いの言葉の選び方、紡ぎ方に耳を傾け、頷いたり微笑んだりしながら、以上のような問いやご見解をご提示くださいました。ご自身の研究テーマと研究スタンスをふりかえり、他人に対して平明かつ率直に説明するという面倒な作業に取り組んでいただいた参加者のみなさまに、心より御礼申し上げます。

この専門間対話座談会では、これまで倫理学のコミュニティを「西洋古典」、「現象学」、「日本思想」、「分析哲学・メタ倫理学」などとおおざっぱに括って各回のテーマとして掲げてきました。しかし、今回の座談会は、研究コミュニティを別様に分類する可能性や、異なるコミュニティ間のさらなる対話の必要性を確認する機会にもなったと思います。

次回以後、どのような専門間対話の場を設定できるか、ひきつづき試行錯誤してまいりたいと思います。

第4回座談会参加者(アイウエオ順)

秋葉剛史(あきばたけし)【現代形而上学、真理論、メタ倫理学】

『真理から存在へ』(春秋社、2014年)

「性質間の実現関係と特殊科学の自律性」(『科学基礎論研究』、2022年)など。

安倍 里美(あべさとみ)【メタ倫理学、特に理由概念について】

「義務の規範性と理由の規範性―J.ラズの排除的理由と義務についての議論の検討―」(『イギリス哲学研究』、2019年)

佐藤岳詩(さとうたけし)【メタ倫理学】

『メタ倫理学入門~道徳のそもそもを考える』(勁草書房、2017年)、

『「倫理の問題」とは何か~メタ倫理学から考える』(光文社新書、2021年)など。

蝶名林亮(ちょうなばやしりょう)【メタ倫理学】

『倫理学は科学になれるのか-自然主義的メタ倫理説の擁護』(勁草書房、2016年)

『メタ倫理学の最前線』【編者】(勁草書房、2019年)

古田徹也(ふるたてつや)【ウィトゲンシュタイン研究、西洋現代哲学、現代倫理学】

『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)

『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス)

『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)

『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)

三木那由他(みきなゆた)【分析哲学】

『話し手の意味の心理性と公共性』(2019年、勁草書房)

『グライス 理性の哲学』(2022年出版予定、勁草書房)

『群像』にて「言葉の展望台」連載中

ロバート・ブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(2020年、勁草書房、共訳)