〔論文自著紹介〕

デカルトにおける二つの無差別について

—1645年2月9日付メラン宛書簡の検討—


井原健一郎

※掲載論文本体は、こちら


『省察』(1641年)以降、デカルトは自由についての考え方を変えたという見方がかなり一般的に流通している。そして、この見方の有力な根拠のひとつとして、しばしば1645年2月9日付メラン宛と推定されている書簡(以下「メラン宛書簡」)が挙げられる(この推定には異論もある)。では、メラン宛書簡においては『省察』とは異なる自由についての考え方が示されているというのは本当だろうか。拙稿ではこのことを検討した。


では、どの点でデカルトは自由についての考え方を変えたとされているのだろうか。まず、メラン宛書簡では、『省察』において認められているのとは異なる、もうひとつの無差別が導入されているという点が挙げられる。『省察』においては、無差別とは明証的な理由などによって(少なくとも十分には)どちらの側にも傾かされていないときに意志が置かれている状態のことだとされていた。ところが、メラン宛書簡においては、自己を決定する意志の積極的な能力としての無差別という、もうひとつの無差別が導入されているのである。さらに、このもうひとつの無差別にもとづいて、新しい自由の概念が提唱されていると思われる。たとえば、『省察』においては、われわれは明証的な理由などによって全面的にどちらか一方の側に傾かされているときにはそれをしないことはできない(たとえば、何かを明晰判明に認識しているときにはそれに同意しないことはできない)とされていた。ところが、メラン宛書簡においては、傾かされていることをしなかったり、それとは反対のことをしたりすること(何かを明晰判明に認識しているときにそれに同意することを差し控えたり、それとは反対の判断を下したりすること)は「道徳的にはほとんどできないが、絶対的にはできる」とされている。これらは大きな違いだと思われる。


では、デカルトがこのように考え方を変えたというのは正しいだろうか。疑わしいと思われる。まず、意志の積極的な能力としての無差別というもうひとつの無差別がメラン宛書簡においてはじめて導入されたというのは正しくないと思われる。というのは、『省察』においても、(必ずしも「無差別」という名称で呼ばれてはいないものの)それに相当する能力は認められていると考えられるからである。さもなければ、どちらの側にもまったく傾かされていないときや二つの側にまったく同じ度合いで傾かされているときに何らかの判断を下したり、どちらかに不十分に傾かされているときにそれとは反対の判断を下したりそれについて判断を差し控えたりする(これがわれわれが間違いを回避するために採用すべき方法であるとされる)ことなどできたはずがないからである(実際、ガッサンディが「第五反論」においてわれわれにはそのような能力はないと批判したのに対して、デカルトは「第五答弁」において、われわれにこの能力があることは経験からして明らかであると答弁し、その能力のことを「無差別」と呼んでいる)。


さらに、『省察』においてはわれわれは明証的な理由などによって全面的にどちらか一方の側に傾かされているときにはそれをしないことはできない(何かが明晰判明に認識されているときにはそれに同意しないことはできない)とされていたが、メラン宛書簡においてはそのようにすることができるとされているというのも疑わしいと思われる。『省察』において、何かを明晰判明に認識しているときにはそれを疑うことはできない、と繰り返し述べられているのはその通りである。しかし、これは一般に明晰判明に認識されるものは疑えないということではない。疑うことができないのはあくまでもそれに注意しているまさにそのときであって、それから注意を逸らしたときには疑うことはできると考えられていると思われる。さもなければ、デカルトは「第一省察」において(明晰判明に認識されるものの典型である)数学的真理などを疑うことなどできなかったはずだからである(「第一省察」において数学的真理が明晰判明に認識されると考えられていたかどうかについては異論もある)。

他方、メラン宛書簡においても、明晰判明に認識されるものも疑えると無条件で言われているわけではない。この書簡を詳しく検討すれば、ここでもやはり、何かを明晰判明に認識しているまさにそのときにはそれを疑うことはできず、その何かを疑うことができるのはそれを明晰判明に認識する「以前」(そして、これは何かを明晰判明に認識しているまさにそのとき以外ということであって、「以後」であってもかまわないと思われる)であるとされていることが分かる。これはまさに、『省察』において主張されているとわれわれが解釈したことである。


以上から、少なくともメラン宛書簡だけを根拠として、デカルトは自由についての考え方を変えたというのは疑わしいと思われる(なお、別の根拠からデカルトは自由についての考え方を変えたと主張する論者もいるが、この点については別の機会に論じたい)。


専門間対話WGからの質問:

ここで論じられたデカルトの自由についての考え方は、さらに広い倫理学一般の議論の中でどんな面白い論点を生み出す可能性があるでしょうか。


井原さんからのお答え:

今回拙論で取り上げたのは、デカルトは自由についての考え方を変えたかどうか、というごく局所的な主題だったので、正直に申し上げて、これが「さらに広い倫理学一般の議論の中で(……)面白い論点を生み出」せるかどうかははなはだ疑問です。しかし、(拙稿でそれについての変化があったかがどうかが問われた)『省察』において示されたデカルトの自由についての考え方そのものには、ひじょうに重要な論点が含まれていると思います。

デカルトは「第四省察」において、次のように述べています。

意志は、われわれが同じことをすることもしないこともできる(つまり、肯定することも否定することも、追求することも忌避することもできる)というところに、あるいはむしろ、知性によってわれわれに提示されるものを肯定ないし否定するのに、すなわち、追求ないし忌避するのに、われわれが何ら外的な力によってそれへと決定されていないと感じているというところにだけ存する。すなわち、私が自由であるためには、私がどちらの側にも運ばれうることは必要ではなく、むしろ反対に、真と善の理由をそちらの側のうちに明証的に知解するからであろうと、神が私の思惟の内部をそのように配置するからであろうと、私が一方の側に傾けば傾くほど、私はますます自由にそれ〔その側〕を選択するのである。おそらく、神の恩寵も、自然的な認識も、決して自由を減少させるのではなく、むしろ増大し、強化するのである。他方、どんな理由も私を他方の側よりも一方の側へと強いていないときに私が経験するあの無差別は、自由の最低の度であって、これは決してそれ〔意志〕における完全性を証するのではなく、ただ認識における欠陥を、すなわち、ある否定を証するにすぎない。というのは、もし私が、何が真であり何が善であるかをつねに明晰に見てとっていれば、判断されたり選ばれたりすべきものについて、決して考量したりしなかっただろうし、こうして私は、すっかり自由であっても、決して無差別ではありえなかっただろうからである。

これはデカルトが自由について与えたもっとも一般的な説明だと考えられます。そして、この説明からはさまざまな論点が読み取れます。

たとえば、ここでは、自由であるためには「外的な力によってそれへと決定されていないと感じてい」れば十分であり、「私がどちらの側にも運ばれうる」必要はないと言われています。これは自由であるためには「選択可能性」(実際に選択したのとは異なる選択をすることが可能であったこと)は必要ではないということだとも解せます。さらに、ここで、明証的な理由とか神の恩寵などによって「私が一方の側に傾けば傾くほど、私はますます自由にそれ〔その側〕を選択する」のであり、それらによってどちらの側にもまったく傾かされていない状態(「無差別」と呼ばれます)は「自由の最低の度」であるとされていることから、自由には度があると考えられていることが分かります。ひとは自由であるか自由でないかのどちらかではなく、より自由であったりより自由でなかったりしうるのです(もちろん、これらの解釈にも異論もあります)。

自由であるためには選択可能性が必要であるか、自由には度があるか、といった論点(もちろん、これ以外にも論点はあります)は、自由とは何であるかを一般的に解明するうえで、ひじょうに重要な手がかりになると思われます。今後は、こうした観点から自由とは何かを解明するという作業に取り組んでいきたいと考えています。