〔論文自著紹介〕

なにが行為を行為たらしめるのか

―シュッツの行為論


橋爪大輝

※掲載論文本体は、こちら


人間の生は無数の行為から成ります。たとえば、行為についてこそ善か悪かを問えるのだとすれば、善悪を問う倫理学にとっても行為は基本的な地位を占めているといえるでしょう。では、行為をたんなる物理的な運動や、行為とは呼べないような振る舞いから区別するものとは何でしょうか。なにが行為を、そのような行為たらしめているのでしょうか。この論文は、オーストリア生まれの社会哲学者・社会学者アルフレート・シュッツの思想を手掛かりに、この問題に答えようとしたものです。

1 論文の内容

なにが行為を行為たらしめているのか。この問いにシュッツは、それは〈所為が投企されていることだ〉と答えます。このままでは、わけがわかりません。そこでまず押さえるべきなのは、この「所為」ということばの意味です。ドイツ語には、日本語でふつう「行為」と呼ばれるものに当たる単語が二つあります。「ハンデルン」と「ハントルング」です。この二つが使い分けられることはあまりありませんが、シュッツはこの二つに違った意味を与えようとします。そこでこの論文では、「ハンデルン」を「行為」と訳し、「ハントルング」を「所為(しょい)」と訳すことで、シュッツの使い分けを再現しようとしています。

しかし、この使い分けはどういう使い分けなのでしょうか。じっさいの行為、たとえば〈手紙を出す〉といった行為を例に挙げて、このことを考えてみます。私たちは一方でこの行為を、〈手紙をカバンにしまう〉ところから始まり、〈家を出て〉〈道を歩いて〉〈ポストに着き〉、そして〈投函する〉ことで終わる、一連の場面として思い描くことができます。しかし、今まさに現在進行形で手紙を出している最中には、〈手紙を出す〉ことをこんな風に思い描くことはできません。なぜなら、行為が現在進行形のときは、私は一瞬ごとに変化する光景がつぎつぎ目に飛び込んでくるのを感じながら、一歩一歩あるくのを体験していたりするはずだからです。つまり、最初の捉え方は、実際には〈手紙を出す〉ことが完了したあとに、回顧することではじめて可能になる捉え方だといえます。シュッツは、現在進行形の行為をそのまま「行為」と呼ぶ一方で、完了形の行為のほうを「所為」と呼んでいるのです。

こうして、現在進行形で切れ目のない体験としての行為と、完了形で場面ごとに切り分けられたものとして回顧される所為、という使い分けが見えてきました。とはいえ、その〈所為〉を〈投企〉するとは、どういうことなのでしょうか。

〈投企〉と訳したことばは「エントヴルッフ」というドイツ語です。この単語は、〈前に投げ(かけ)る〉〈投影する〉というような意味合いから転じて、〈計画〉とか〈草案〉といった意味をもちます。シュッツは、このことばのもとの意味を活かしつつ、〈所為〉を未来に投影することで、行為を〈計画〉する、という意味で使っているのです。

たとえば、〈大学にでかける〉という計画を立てるところをイメージしてみてください。私たちはまず、〈大学にいる〉という最後の状態をイメージしてから、そのためには大学の近くの駅から大学まで歩かなきゃいけない、大学の近くの駅までは最寄り駅から電車に乗らなきゃいけない、最寄り駅までは自宅から歩かなきゃいけない、という風に、その最後の状態に達するためにどんな手段が必要かを、場面ごとにイメージするのではないでしょうか。大学にでかける計画を立てるときに、電車からみえる景色の細部の体験をありありと思い描いたりするひとはいません。つまり、私たちが行為の計画を立てるとき、シュッツのことば使いに従えば、私たちは現在進行形の〈行為〉をイメージするのではなく、〈所為〉(完了形の行為)をイメージするのです。

シュッツは、このようにすでに完了した行為(所為)を、行為するまえにあらかじめイメージして投げかけるところに、行為の特別さを見ました。この〈所為の投企〉こそ、シュッツが見出した〈行為を行為たらしめるもの〉だったのです。

2 論文には書かれていない、舞台裏と展望

この論文は、じつははじめてシュッツについて論じた論文でした。私はもともと、ドイツ出身でアメリカに亡命したユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントの哲学を研究していました。シュッツもナチスを逃れてオーストリアからアメリカに亡命した哲学者であり、そういう意味では経歴上似たところもありますが、この二者にはほとんど接点がありません。

にもかかわらず私が、アーレントに加えてシュッツに関心をもったのは、接点や類似点があるからというよりむしろアーレントとかなり異なるところに魅かれたからです。両者とも人間を他者との関係や社会性においてとらえながらも、アーレントが「政治」や「公共性」といった巨視的な視点からそれを語るのに対し、シュッツはあくまでそのなかの〈私〉や〈きみ〉といった微視的な視点から語りだそうとしています。アーレントがひとの行為について語るときには、その行為の影響が際限なく広がって、取り返しのつかない意味をもってしまうというところに着目しますが、シュッツはあくまでその行為者がその行為にどんな意味をもたせようとしたのかにこだわります。私は、シュッツを学ぶことで、いままで自分のなかにはなかった観点が得られるのではないか、と思ったのです。

シュッツは社会学者としても知られ、その業績は人類学等にも影響を与えるなど、社会科学において強い影響力をもつ存在です。しかし、その仕事の基礎には、難解で繊細な哲学的思考があります。私が他者を理解し、影響を与えようとするという、社会科学にとっても、そして倫理学にとっても原基的な場面にシュッツは定位していますが、彼の仕事に哲学的に取り組んだ研究はけっして数多いとはいえません。彼の理論を理解できれば、関係的な存在としての人間の理解を深められ、ひいては倫理(学)を考えるうえでも基本的ななにがしかの洞察が得られるのではないかと、期待しています。