〔論文自著紹介〕

デカルトの『自然の教え』とは何か

ストア派の自然本性概念との対比で


佐藤真人

※掲載論文本体は、こちら


本稿の目的は、第一に、デカルト哲学であまり注目されてこなかった「自然の教え」というものを明らかにすることである。自然に対するデカルトの考えとしては、「自然の主人にして所有者」(『方法序説』第六部)という語句が有名だが、実はデカルトは、自然によって教えられ、そこから学ぶという謙虚な姿勢を終生保っていた。自然に対するこういった姿勢については、デカルトよりも、「自然に従う」という明確な主張をしているストア派が有名であろう。そこで本稿ではまず、ストア派とデカルトのいくつかの共通点を見たうえで、両者の自然学研究の目的が、自然を創った神の観想にあった点を指摘した。

しかし、ストア派が自然に対してあくまで受動的な姿勢だったのに対し、デカルトは自然に働きかけ、これを修正することを厭わなかった。デカルトが常にめざしていたのは、ストア派やスコラのような思弁哲学ではなく、われわれに実利をもたらす実践哲学の樹立であり、自然に対しても同様に、その教えから得た知識を実践に活用することだった。具体的には、技術を用いて自然に手を加えることであるが、これはまたデカルトにとって、自然に対する作用因として、人間精神が自らの自由意志を行使することを意味していた。しかしその目的は、けっして自然に対する人間の支配というわけではない。

これに関連し、本稿の第二の目的は、上述の「自然の主人にして所有者」というあまりに有名な表現と、そこから独り歩きした感のある解釈に対し、デカルトの弁護をすることである。

たとえば、著名な科学史・文明史研究者の伊東俊太郎氏はたびたび、現代の環境破壊の淵源となる思想の一端をデカルトに帰している。氏によれば、デカルトの機械論的自然観は、「自然の人為的再構成、操作、支配を通じて人間中心の近代文明を作り上げることに貢献してきた」ものであり、そこにこそ「自然に対する態度の脱倫理性のひとつの根源がある 」といった具合である[1]。同様の指摘は西洋でも見受けられる[2] 。

こういった批判は、もはや現代のデカルト研究者には受け入れられないものではないかと思うが、専門家以外にとっては、あるいはまだ一般的な捉え方なのかもしれない。

しかし、このような人間中心主義や自然に対する「支配」や「脱倫理性」といった考えは、デカルトの思想からは最もかけ離れたものである。それは、次のような記述からも読み取れよう。


「すべては神によってわれわれのために創られたというのは、それによって一層われわれが神に感謝するよう促されるためであるなら…倫理においては敬虔なことであるが…自然学の考察においては馬鹿げた愚かなことである。

というのも、誰にも見られたり知解されたりせず、誰の役にも立ったことのないものが多く存在していること、あるいは…かつて存在したことを疑わないからである」


「人は宇宙の一部であり、地球の一部であり、この国の、この社会の、この家族の一部です。

…人は個人の利益よりも、自分がその一部である全体の利益を常に優先させるべきです 」[3]


地球は宇宙の中心ではないし、太陽ですら、宇宙に無数にある恒星の一つに過ぎないと考えたデカルトにとって、地球や太陽が宇宙の中で特別な地位を占めているわけではないこと、したがって、万物が地球や人間を中心として創られたわけではないことは明白だった。

自然に対する支配といった考えや、人間中心的・自己中心的な視点は、たとえばベーコンには見出されたとしても [4]、デカルトには無縁のものである。


他にも伊東氏が指摘する、「自然の人為的再構成、操作」という考えについてはどうだろうか。

デカルトは『屈折光学』に次のように書いている。「自然が眼を作るにあたって守ったとみられるすべてのことについて、できるだけ自然を模倣するよう注意し、また、何か他のより重要なものを得るのでなければ、自然が我々に与えた利点を失わないよう、常に注意しなければならない」「(視覚を増強する手段として、瞳を拡大縮小する能力がわれわれにはあるが、しかし)自然は、何がしかを付け加える余地を技術に残したのである 」[5]。これはレンズの性質についての考察が展開される箇所の記述だが、デカルトはその模範を、自然物である眼球においているのである。

デカルトはしばしば、自然の精細と、それとは対照的な人工物の粗さについて述べている。デカルトにとって自然は研究し、解明し、そこから学んで模倣する存在でこそあれ、「再構成」したり「操作」したり、ましてや「支配」するものではなかった。われわれが「操作」または修正するcorrigerことができる自然があるとすれば、それはただ、われわれ自身の「自然本性son naturel」しかなく、支配することができるs’en rendre…maîtreものがあるとすれば、われわれの情念しかないのである [6]。

しかし、この第二の目的については、本稿ではまだ充分に議論できてはおらず、志半ばであるので、今後の課題として取り組みたい。


[1] 「現代文明と環境問題」(『伊東俊太郎著作集』第9巻、麗澤大学出版会、2009年、p. 351); 東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究, vol. 2, 2008, p.72。また、『思想史のなかの科学』(平凡社ライブラリー、2002年、pp. 14-15; pp. 119-121; pp. 275-276)。なお、伊東氏には、「環境破壊をもたらしたデカルトの呪縛」(『諸君!』、22(2) 、文藝春秋、1990、pp. 263-271)と題した論考もある。

[2] たとえば、「(デカルトが自然学研究において確立した還元主義と機械論に基づく)近代の支配的なパラダイムが、環境の大惨事の秘訣である。文明はデカルトの旗印のもとで進み、その結果として残された破壊を視界には入れなかった」(Robert Kirkman, Skeptical Environmentalism: The Limits of Philosophy and Science, Indiana University Press, Bloomington, 2002, p. 20)。

[3] 『哲学原理』第三部三項(AT VIII-1, 81, 5-18);『1645年9月15日エリザベート宛書簡』(AT IV, 293, 7-14)。

[4] 『ノヴム・オルガヌム』第一巻一二九項。

[5] 『屈折光学』第七講(AT VI, 152, 21-28; 159,31-160, 1)。

[6] 『情念論』第三部第二一一項(AT XI, 486, 6);第二一二項(AT XI, 488, 19)。