〔論文自著紹介〕

ヘーゲル『精神現象学』における教団内の対立

――カント、シュライアマハーとの比較を通じて――


岡崎龍

※掲載論文本体は、こちら


 本稿の課題は、ヘーゲルの『精神現象学』宗教章C「啓示宗教」末尾で展開される「最内奥の単純な自己知」という意識の形態と、それを取り巻く教団のドグマである終末論に着目し、その叙述の意義をヘーゲルに先行する二人の思想家、カントとシュライアマハーとの比較を通じて思想史的に考察することであった。

 こうした課題の背景には、近年のヘーゲル研究の進展があった。ヘーゲルの宗教哲学についての研究は、『新全集版』とよばれる、ヘーゲルの出版されたテクストおよび講義録を文献学的に信頼に足る形で出版するというプロジェクトにおいて、ヴァルター・イェシュケを中心に既に1970年代後半以来大きく進展し、従来の解釈の刷新が進められていた。しかしヘーゲルに対して社会哲学的なアプローチをとる研究においてヘーゲルの宗教論が本格的に着目されるようになったのは2010年代になってはじめてであるといってよい。とりわけシュテーケラーやベアトラムといった、文献学的なヘーゲル研究とは異なる出自の研究者は、ヘーゲルが『精神現象学』で描く宗教を、〈社会全体を反省的に捉えなおす共同的なプロセス〉として理解することで、従来戯画化された形で批判されてきたヘーゲルの神秘的な側面とは異なる、重要な側面に光を当てている。本論文が焦点を当てたシュティッカーもまた、こうした宗教論読解に竿さすものである。

 こうしたなかで本論文が着目したのは、こうした読解において見落とされている契機である。それはヘーゲルがあらゆる共同性を、コンフリクトを免れないものとして理解しているということである。先述の三者とも、ヘーゲルの宗教論の最終形態である「啓示宗教」章で描かれる「教団」という宗教的共同体を、社会的・共同的な反省の場として理解しているが、その際にそうした共同体内部で対立が起こりうることについての危機感はみられない。むしろ本論文で取り上げたように、シュティッカーはそうした共同体内部での相互承認を前提している。しかし、もし教団という共同体が一切の内部対立から解放されているとすれば、ヘーゲルが『精神現象学』で行ったその他の共同体の形態についての議論と比べてそれは不自然である。というのは同書の精神章で描かれるように、アンチゴネとクレオン、行為する良心と批評する良心など、あらゆる共同体は常になんらかのコンフリクトを内包するものとして描かれているからである。にもかかわらず、もし仮に宗教的共同体だけはあらゆる対立から解放されたものとして描かれ、しかもそうしたなかで社会についての共同的反省が行われるのだとすれば、少なくとも啓示宗教(キリスト教)信仰を共有しない読者からすれば、それは怪しいと考えざるをえない。むしろ、そのように宗教の名のもとに内部の対立や反対意見が抑圧されていると考えるほうが自然なのではないか。そしてこうした怪しさは、結局2010年代以前にほぼ常識として受け取られていた、現存する矛盾を神秘的に覆い隠す宗教というイメージを再生産することにしかならないのではないか。

 こうした背景から本論文では、カントやシュライアマハーの教団論と比較すると同時に、「教団」についてのヘーゲルの叙述を再構成することを通じて、教団内の対立についてのヘーゲルの独自の洞察を示すことを目指した。ヘーゲルは「啓示宗教」の本来の課題に即してコンフリクトの内容を吟味し、教団の中の一人の構成員(「最内奥の単純な自己知」と呼ばれるそれ)においては彼岸と此岸の二元論を克服する洞察が得られているにもかかわらず、教団全体のオフィシャルな教義である「終末論」はこの洞察を裏切り、再び二元論へと転落してしまうことを批判している。ヘーゲルは、先述の解釈のように宗教を共同的なものとみなすだけでなく、そうした共同性が必然的に伴うコンフリクトを自覚しているし、しかも共同体によって脅かされかねない個人の洞察そのものの意義を認めている。

 このことは、註19で触れたように、宗教と哲学の関係をめぐるハーバーマスの考察を再考するにあたっても重要である。ハーバーマスは『自然主義と宗教の間』において、哲学による宗教の(外的な)止揚を主張するヘーゲルとは異なり、宗教と哲学の併存を強調するシュライアマハーを評価しているが、このことは修正が必要であると考えられる(ただし、近年の批判理論においてシュライアマハーをはじめとしたロマン主義やその宗教哲学がほとんど主題化されていないことを考えれば、ハーバーマスによるシュライアマハー評価がそれ自体重要な視点を提供するものであることは強調されなければならない)。なぜなら、シュライアマハーは宗教内部での対立をそもそもほとんど念頭に置いていないのに対して[1]、(少なくとも『精神現象学』の)ヘーゲルは、哲学の側から外在的に宗教に介入するのでなく、宗教の課題そのものに即して内在的に宗教内部の対立に介入し、そこで共同体的なものによって抑圧されかき消されようとしている洞察を救い出そうとしているからである。



[1] 宗教哲学に限らず、シュライアマハーの思想全体における「コンフリクト」に対する洞察の有無という問題は、近年のシュライアマハー研究が取り組んでいる課題の一つである。Vgl. Miriam Rose, Schleiermachers Staatslehre, Tübingen 2011, 288ff.