専門間対話座談会:第回「日本思想

報告:板東洋介

3回の座談会は2021124日(土)の18時半からZoom上で行われました。今回のテーマは日本思想です。日本の思想あるいは哲学を専門とする中堅・若手の気鋭の研究者5名にお集まりいただき、約2時間の間、WGコアメンバー4名も含めて、日本思想研究のこれまでとこれからについて語り合いました。

初代会長の和辻哲郎が西洋と日本の倫理思想の双方に多大な研究業績を有して以来、日本倫理学会では他の哲学・思想系の学会よりも日本思想研究のプレゼンスが大きく、学会としての一つの特色をなしてきたともいえそうです。しかし学会創立時とは社会も学知のありようも激変し、日本思想をとりあげる必然性は和辻の時代ほどに自明ではありません。そこでまずは自己紹介を兼ねて、今なぜ日本思想を研究するのかを各々にお話しいただきました。


次のようにさまざまな見解が出ました。


  • 自分とは全く異なる知的背景のもとにあった古人の思考は自分にとって全く異質なもので、そうした他者の思想に触れることが面白い

  • 日本思想と西洋思想がミックスされている日本近代哲学をときほぐしてゆくことが面白く、かつどのように哲学するかを改めて反省すべき現在、西田幾多郎のように日本の伝統と西洋の学知とを踏まえてオリジナルな思考をおこなった日本近代の哲学者の態度は大変参考になる

  • 日本という特殊な文化のもとに生まれた、あるいは自分の思考・行動様式に日本文化が浸透しているという自覚があり、それを反省的に考察するため

  • 日本思想とはいかなるものか、まだ十分に捉えきられてはいないため

  • 「私とはなにか」という自己探求を行うに際して、日本思想がもっとも手近な素材となるため


近現代とは異質な思考を、あるいは近現代とは異質ながらもそこに底流し続けている思考を捉えたいという問題意識は第一回にお集まりいただいた西洋古典研究の皆さんが口々に述べられていたことでもあり、共通点がみられるのは興味深いものでした。

ただ、自分自身を捉え直したいという問題意識は日本思想特有のものかもしれません。そして「日本的」といいうる自分とはなにかという問いはおのずと、諸々の伝統的な生活文化を通じて前反省的にわれわれに浸透し、時に知的判断以上に意志決定を左右するような、身体性の問題に導かれざるをえません。座談会の場ではやはり有名なカール・レーヴィットの「二階建ての日本人」の比喩が引き合いに出され、その「一階部分」としてこの身体性の問題が議論されました。多くの方が坐禅、茶道、能、古典文学への幼時からの親炙などを通じて身につけている生活感覚を対自化する方途として日本思想研究を位置付けておられるのが印象的でした。また現代的な場面として、生命倫理の問題となるような臨床の現場で、自己決定よりもその場の情感や家族の意向が優先される傾向が見られ、そこにもこうした前反省的な感覚としての日本的なものが看取されるのではないかとの声も出ました。ただし同時に、こうした議論はどこにでもある理性と情感、あるいは理論と実践の隔たりと見るべきで、その分析に際してことさらに「日本的なもの」を導入する必要はないのでは、という慎重な意見も見られました。

また現代的な日本思想への需要として、海外からの日本思想や日本文化への関心に応えてゆかねばならないとの意見も出されました。ただし、そうした外からの日本イメージがややもすれば「和を重んじる」「礼儀正しい」などのステレオタイプと化しているきらいがあり、その再強化に資してしまわないよう留意する必要があることも同時に確認されました。また学問としての日本思想研究が、主に日本国内で流通している根拠希薄な自国優越的な言説と合流してしまうことへのおそれも提起されました。

またそもそも「日本」や「日本思想」を大上段から問うという志向をあまり強く有してはおらず、むしろ古代・中世の仏教者、近世の国学者、近代日本の哲学者といった各時代の思想家の個別の思考のほうが主要な関心の対象だという方が過半を占めていたことも、興味深いものでした。

なお、テクストの読み方も話題となりました。どこまでも古典テクストに内在する、あるいはテクストを読むことを通じて自己発見を遂げるというテクストとの向き合い方が、前近代・近代を問わず多くの研究者に共有されていました。こうした態度はもちろん西洋でもたとえば聖書解釈学の伝統として共有されている態度であって、日本固有のものとするにあたらないのはもちろんですが、同時に和辻哲郎の解釈学、あるいはさらに伊藤仁斎の古義学に遡るルーツをもつものでもあることも確認されました。またここから派生して、特に前近代の仏教者や儒者はテクストを読み・書く営為の他に修行・修為といった実践の世界を有しており、両者は不離のものであったはずなのに、テクストの解釈に終始する近代以降の研究者は本当にそうした思想家たちの思考の実態に迫れるのか、という問いも示されました。この問いに対しては、むしろテクスト読解に自己限定することでかえって実践の現場に接近することも可能ではないか、さらにはテクストを読み抜くことがそのまま一種の「修行」となるのではないかとの意見も出されました。

以上のように論点は尽きず、当初の90分の予定が30分ほどの延長となりましたが、最後にそれぞれに今後どのように日本思想/日本哲学研究者として学会内で役割を果たしてゆくか、あるいはより広く、日本思想/哲学が倫理学全体の中でどのような意義をもつかを自由に語っていただいて結びとしました。その中では、すでに生命倫理の中で「定番」となってしまっている議論の型に対して日本思想の立場から全く別の議論が構成できるのではないかという見通し、人間の「弱さ」に注目する近世国学の思想的なポテンシャル、西田幾多郎の議論が狭い哲学研究界を超えて同時代の社会に広く「受けた」理由を探ることを通じて、哲学・倫理学の最先端の議論がいかに現代社会の広い層に届きうるかを探る試みなど、野心的なプランがさまざまに語られました。近年では日本思想研究自体の中で時代ごと・関心ごとに研究グループが細分化してゆく傾向もありますので、このようにさまざまな関心と専門小分野をお持ちの皆さんにお集まりいただき、フランクに研究の面白さや展望をお話いただけたのはとても意義深いものでした。今回得られた議論ももとにして、今後倫理学会全体へと対話を開いてゆきたいと思います。


第3回座談会参加者(アイウエオ順)


斎藤 真希(さいとう まき) 【日本倫理思想史、日本仏教、浄土教】

「法然における悪の問題について」 (『文化と哲学』32号、2015年)

「親鸞における還相廻向」(『倫理学年報』第60集、2011年)

中嶋 優太(なかじま ゆうた)【日本哲学、西田哲学、京都学派の思想】

「西田哲学とヴント心理学の「直接経験―その無基体的性格について―」(『比較思想研究』第46号、2020年)

西田幾多郎「倫理学講義ノート・宗教学講義ノート」石川県西田幾多郎記念哲学館編『西田幾多郎全集 別巻』(岩波書店、2020年)(資料の翻刻を担当)

樋口 達郎(ひぐち てつろう)【近世国学思想、言霊思想】

『言霊と日本—言霊論再考』(北樹出版、2017年)

『国学の「日本」—その自国意識と自国語意識』(北樹出版、2015年)

吉田 真樹(よしだ まさき)【倫理学・日本倫理思想史(近世に偏っていますが、ほんとにやりたいのは古代です)】

『和辻哲郎の人文学』(共編、ナカニシヤ出版、2021年)

『定本葉隠全訳注』(上中下、監訳注、ちくま学芸文庫、2017年)

『平田篤胤ー霊魂のゆくえ』(講談社学術文庫版、2017年)

脇 崇晴(わき たかはる)【近代日本思想史(特に、清沢満之の思想)、生命倫理】

『清沢満之の浄土教思想―「他力門哲学」を基軸として―』(木星舎、2017年)

「悲しみをどう乗り越える?」、新名隆志・林大悟編『エシックス・センス―倫理学の目を開け―』(ナカニシヤ出版、2013年)所収